伝統板・第二
ひかりの一日一言137~ひかりの語録(8月) - 伝統
2026/08/01 (Sat) 05:00:25
『栄える生活365章』第8篇 ”絶対者”を生きる
ひかりの一日一言《1日》
(8月1日)(P177~178)
元始(はじめ)にコトバあり
元始(はじめ)にコトバありとは、
元始(はじめ)に想念ありということである。
想念というものは
唯(ただ)の抽象的な”観念”ではないのである。
それは”生きている”のである。
想念は生きた人間(又は神)の生命(せいめい)の動きである。
大自然界にあらわれている一切の形象は、神という”生けるいのち”
より発せられた想念の表現であり、展開であるのである。
元始(はじめ)に”無”がある。
この”無”は有無相対の”無”ではないのである。
絶対実在としての”無”である。
それは”無相”であるけれども、
内(うち)に無限の相(すがた)を孕(はら)む。
それは仏教に謂う”真空妙有”である。
それは宇宙に満ちる”道(みち)”であり、
内(うち)に万象を孕むのである。
絶対実在なる神が一切のものの根源であり、第一原因である。
これのみが実在であり、そのほかに何もない。
それは大生命であり、動けばそれがコトバとしてあらわれる。
声帯の振動によるコトバではない。
生命(せいめい)の知情意的振動であるところの想念である。
<感謝合掌 令和8年8月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2026/08/02 (Sun) 05:06:47
(8月2日)(P178)
”車”は部分品の中にはない
禅宗に”奚仲造車”の公案というのがある。
昔、支那の黄帝(こうてい)という聖王の時代に奚仲という人が
車を発明して組み立てたが、その車を解体してバラバラの部分品
として何かを探しているのである。
”何をあなたは探しているのか”と問うと、
”車は何処(どこ)へ往(い)ったのかと探しているのだ”
というのである。
果たして車は何処へ往ったのであろうか?”
―― というのが此の公案の主旨である。
”車”は決して、組み立てられた部分品のなかにはないのである。
部分品の中を探し廻って車を発見しようとしても、それは無駄の
ことである。
車は、その車を発明した製造元たる
”奚仲”自身の心の中にあるのである。
<感謝合掌 令和8年8月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2026/08/03 (Mon) 04:44:43
(8月3日)(P178~179)
物質に”人間”の源(みなもと)はない
人間とは如何なるものか?
それを発見するために、人間を解剖し、部分品に解体し、化学的に分析し、
蛋白質を分解しある種のアミノ酸を検出し、そのアミノ酸と同じものを
化学的操作によって合成しようとし、そのアミノ酸に類似したものを
製出し得たことによって、
人間は自然科学的にアミノ酸が合成されて生まれて来たものであるなどと
結論づけている唯物論者があるが、これは奚仲と同じく、部分品の中に
”車”をさがしているようなものであって、
いつまでたっても”車”の発生源を知ることができない如く、
”人間”の発生源を知ることはできないのである。
”人間”は何処にあるかともとむれば、それは、人間を発明し創造した
製造元である神の”心”のなかにあるのである。
神の”心”の中に描かれた”想念”(理念と謂う)に人間はあるのである。
人間の本質は理念である。
<感謝合掌 令和8年8月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2026/08/04 (Tue) 05:08:45
(8月4日)(P179~180)
”ノアの方舟”に乗る
”理念人間”こそ本当の人間であり、『実相の人間』であり、
それが『創世記』に録(しる)されたる「神の象(かたち)の如く
人をつくり」とあるところの完全人間であるのである。
その”完全人間”は神の心の中にあるのに、外界を見る五官による
感覚によって、人間をその存在をみとめようとするために
「真の完全人間」を発見することができないで、
バラバラの不完全な肉体を見て、それを”人間”であると観るから、
人間像が歪められて不完全な状態にあらわれて、病気不幸等ありと
するようになるのである。
吾々は時々(ときどき)、五官の眼を瞑(と)じて、神の心の中に
ある「理念人間」(実相の人間)を見るようにしなければならない。
これが神想観であり、「No(無相) A(実相)の方舟(はこぶね)」
に乗ることであり、目無堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に
乗って龍宮海に渡ることであり、釈尊の「実相無相の微妙(みよう)
の法門」に乗托(じょうたく)することである。
イエスは五官の眼で現象を観る人のことを非難し、
「汝は”観(み)ゆ”という罪は残れり」といって、
むしろ肉体が盲目の少年を賞讃していられるのである。
<感謝合掌 令和8年8月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2026/08/05 (Wed) 05:03:49
(8月5日)(P180~181)
内部の神性を呼びだす
私たちは自分の想念が五官の感覚から反射的に起こってくるところの
”外界の状態に振り回されて起こる想念”であっては、
自分が自分の主人公であることは不可能であるのである。
私達は、内部に宿る神性(又は仏性)からして展開して来る想念に
よって行動しなければならないのである。
内部に宿る神性は、”超在意識(スーパー・コンシャスネス)”
として潜在意識の奥深く埋蔵されている。
それからよき想念を汲み出して来るには、それを呼び迎えるための
”迎え水”または”呼び水”を必要とするのである。
その”呼び水”に相当するものが、「心を転回して神性を念ずる」
こと、即ち「廻心(「えしん)」であり、「祈り」であり、想念を
めぐらして、神の完全性とを念ずることであるのである。
この時、吾らの想念は浄(きよ)まり、外界に振り回される事なく、
自主的なものとなり、内在の神を表現せるものとなり、
完全なものとなるのである。
<感謝合掌 令和8年8月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2026/08/06 (Thu) 05:08:09
(8月6日)(P181)
実相の善のみを想う
神を想うこと、神の完全さを想うこと、実相世界の完全さを想うこと
―― これに、もっと吾々は時間をかけるようにするべきである。
その時、滔々(とうとう)として実相世界にあるよきアイディアが吾々に
ふりそそぎ来(きた)って、それを行動に移すとき、行くところ
可ならざるなき善き結果を生み出すのである。
神を想うこと、実相の善のみ実在であることを想うこと、
完全の実相のみを想うこと、それによって想念は浄(きよ)まり、
一切の恐怖は無くなるのである。
『般若心経』に、「顛倒夢想を遠離(おんり)すれば恐怖なし」とある。
神を想うこと、実相の善のみを想うところに恐怖がおこる筈(はず)は
ないのである。
<感謝合掌 令和8年8月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2026/08/07 (Fri) 05:08:55
(8月7日)(P181~182)
使命感に燃える
旧約聖書の『ヨブ記』に、ヨブは
「わが恐れたるところのもの全てわれに襲いかかれり」といっているが、
恐怖すると、恐怖したところの不幸を引き寄せることになるのである。
恐怖は、自分の希望する一切の善きものを自分より遠ざける。
恐怖は「実相(じっそう)」を想うことによってなくなる。
神を常に思うものには恐怖はないのである。
恐怖は一切の善きものを自分より遠ざける。
イエスは「恐るるなかれ、信仰うすき者よ」といっているのである。
恐怖は現象に捉われるところから起こるのである。
恐怖は物質的な形に、五官の感覚が捉えられて起こる。
使命感に燃えるところに恐怖はない。
人間は使命を感じなければならない。
使命を感ずるということは、
神からの御委託にこたえるということである。
神からの御委託にこたえるということは、
真に神を愛するというところから来るのである。
「全き愛のあるところに恐怖はない」と
『ヨハネ伝』第4章第18節に説かれている。
<感謝合掌 令和8年8月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2026/08/08 (Sat) 05:08:09
(8月8日)(P182~183)
柔和にして静かに
静かなるとき、柔和なるとき、敬虔なるとき、
本当の魂の生長があるのである。
幼児(おさなご)の生長率が
大人のそれにくらべて非常に大であるのは、
静かであるからであり、柔和であり、謙虚であるからである。
目覚めている時よりも、眠っているときに一層人間は生長するし、
エネルギーの恢復の速いのも、眠っているときは静かであり、
柔和であり、謙虚であるあるからである。
「凡(およ)そ天国に入(い)る者は、この幼児(おさなご)の
如きものである」
とイエスは言い、
「柔和なる者、地を嗣がん」
ともいっている。
<感謝合掌 令和8年8月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2026/08/09 (Sun) 04:58:55
(8月9日)(P183)
神性開発の時期
すべての人間を軽蔑してはならないのである。
今発達のおくれているものも、すべて内部に神を蔵しているのである。
ただ各人その内部の神性が開発する時期が異なるのである。
されば、汝ら互いに愛し、互いに尊敬し合うべし。
厳寒に開(ひら)く梅花(ばいか)もあり、
春咲く桜の花もあれば、少し遅れて咲く桃の花もあり、
更(さら)に夏にひらく朝顔、夕顔もあれば、
秋になりて開く、海棠(かいどう)、山茶花(さざんか)のたぐいもある、
すべて人それぞれの時期があって、その神性が開発されるのである。
春に咲く桜の花を、秋に咲きほこる山茶花から見れば、
「来年にならねば、よう咲かぬおくれたる花」と見えぬこともない。
本当は、神性の開発の前後あることはなく、ある観点に立って見るゆえに、
おくれたるようにも見え、先に進みたるようにも見えるのである。
<感謝合掌 令和8年8月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2026/08/10 (Mon) 07:22:15
(8月10日)(P183~184)
困難に遭って
落葉したときに、その木は委縮したのではなく、
年輪をきざみつつ、その木質は堅緻(けんち)となる。
而(しか)して来春の花のために準備がすすめられつつあるのである。
それと同じく、人間も失敗したように見え、行き詰ったように見え、
足ぶみしたように見えるときに、その魂は進歩しつつあるのである。
外に見えるものだけで自分の運命を判断してはならないし、
自分を不幸だなと考えてはならないのである。
一長一弛のうちに生命(せいめい)は進歩し、
内在の無限の美と力とを一層より多く展開して行きつつあるのである。
砂の上に建てられた楼閣は崩れ易いけれども、色々の困難によって
搗きかためられた地盤の上に建てられた楼閣は、地震が来ても、大風が来ても
崩れるということはないのである。
いつも伸びてばかりいる草木はウドの大木の如く、
堅緻さを失って、早く腐敗してしまうのである。
よくよくこの理を考うべきである。
<感謝合掌 令和8年8月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2026/08/11 (Tue) 05:06:08
(8月11日)(P184~185)
本当の幸福生活の基礎
毎日、一定の時間を割いて、人類全体の幸福のために祈るがよい。
祝福する者が祝福されのである。
そのように無私の祈りの中に魂は生長し進化し、
実相の神性がより多くあらわれるようになるのである。
あなたの幸福の真の基礎は、自己の利益を追求することではなく、
人類全体を祝福する愛こそ、それである。
神の無私の愛の基盤の上に建てられた幸福は
永遠にくだけることはないのである。
無私の愛の祈りは、自己の潜在意識を浄め、間違った想念、
悪しき想念、よからぬ意図などが自分に近寄ってくることを
防ぐことになり、自然に運命がひらけて来、幸福になることが
できるのである。
自己を欺いてはならない。
神を欺くことはできないのである。
自分の神性を欺いて、それを出し抜いて突飛な利益を得ようとしても、
それは自己を破壊するだけのことである。
ただ自己の神性の開発をこそねがうべきである。
<感謝合掌 令和8年8月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2026/08/12 (Wed) 05:06:21
(8月12日)(P185)
人間は霊的実在
人間は霊的実在であって、肉体と観ているのは、
五官によって翻訳された姿である。
翻訳はどんなに名文であっても原文と異なるのと同じように、
五官によって捉えた人間は、決して人間の真相を知らしめる
ものではないのである。
あなたは感覚によって見える物質的様相に誤魔化されては
ならないのである、
吾々は物質の人間を見、建物を見、自動車を見る。
そして、それがやがて老朽して壊(くだ)け去るのを見る。
それらが壊(くだ)け去るのは、
それらが唯(ただ)”影(かげ)”に過ぎないからである。
「奚仲造車」の公案の解釈に示されたるが如く、
本当の”人体”も、本当の”建物”も、本当の”自動車”も、
”心(こころ)”の世界にある霊的実在であり、アイディアであり、
アイディアのみが実在であり、
それは影であるところの物質的姿の人体や建物や自動車が腐朽し
崩壊したあとにも、普及することなく永遠に存在する実在である
のである。
<感謝合掌 令和8年8月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2026/08/13 (Thu) 05:00:49
(8月13日)(P186)
永遠の存在なる実相を見よ
画家が絵を描く。
しかしどの絵も自己の内に在る素晴らしい”アイデア”又は
”霊的美”を完全に表現したものではないのである。
或る大画家のアトリエに往って、その並んでいる多くの大作を
見ながら、「どれがあなたの最も会心の作ですか」ときいたときに、
その大画家は、「最も会心の作はこれからです」と答えたという
話があるが、
どんなに上手に描いても、物質のカンバスの上に描かれた作品は、
その画家の内部にある”画想(がそう)”には及ぼないのである。
本当は”画想(がそう)”のみ実在であり、作品の絵は、
その模倣又は翻訳に過ぎないのである。
多くの場合に於いて、形にあらわれたる姿は、
内部のアイディアの模倣にもなり切れないところの歪んだ不完全な、
朦朧(もうろう)としたニセモノである。
吾々はそのような不完全な現象に、心をひっからせて、魂の進歩から
停頓(ていとん)するようなことがあってはならないのである。
永遠の存在たる実相の不完全完全さのみを見て
前進しなければんらない。
<感謝合掌 令和8年8月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2026/08/14 (Fri) 04:35:33
(8月14日)(P186~187)
想念は創造者である
想念が創造者であり、アイディアのみが真の実在であることを
知るならば、あなたが起こす想念は、如何なる物質的的武器
よりも強力な武器であることを知らなければならないのである。
あなたは決して低い想念を起こしてはならないし、
あなたは決して不健全な想念を起こしてはならないのである。
またあなたは不幸や災難や病気や戦いや不調和を想っては
ならないのである。
あなたの想念は高く浄(きよ)く健全なものではならないし、
常に幸福、健康、繁栄、調和、平和を念じなければならない
のである。
自己の運命をつくるものは、外界のどんな物質的な力でもなく、
自己自身の想念であるということを知らなければならない
のである。
厳重な審判があなたの想念に対して下される。
その審判又は判決は自分の想念相応のものが、自己の肉体
及び環境にあらわれるということである。
自己の想念をより高くより清く、より豊かにより美しくする
がよい。
<感謝合掌 令和8年8月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2026/08/15 (Sat) 05:05:39
(8月15日)(P187~188)
実相世界の完全さを念ずる
静かに眼を現象界より瞑(と)じて、
実相世界の完全なる相(すがた)を想念せよ。
「神のみ満ちている。神のみ満ちている。
善のみ満ちている。善のみ満ちている。
調和のみ満ちている。調和のみ満ちている。
美のみ満ちている。美のみ満ちている。
愛のみ満ちている。愛のみ満ちている。
健康のみ満ちている。健康のみ満ちている。
裕さのみ満ちている。裕さのみ満ちている。
善きアイディアのみ満ちている。
善きアイディアのみ満ちている。
すべての国、すべての人間ことごとく調和して
睦(むつ)みあっている。
今此処が天国である・・・」
このようにあなたが念ずれば、その通り、
今あなたは天国に住むのである。
何故(なぜ)なら、想念こそ唯一の実在する力であり、
物質の世界はその模倣に過ぎないからである。
そしてその模倣に過ぎない世界も、その想念の具象化力によって、
善き方に、美しき方に、健全なる方に、裕(ゆた)かなる方に、
調和せる方に変貌し始めるであろう。
<感謝合掌 令和8年8月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2026/08/16 (Sun) 05:03:56
(8月16日)(P188~189)
「求めよ」さらば与えられん
人間は神の自己実現として、神の御心の実現に協力しなければならない。
神の御心に反して勝手な行動をとる人間を、
「聖書」は「放蕩息子」の喩(ととえ)をもって表現しているのである。
放蕩息子は常に貧しいのである。
諸君は決して、神の家を離れて放蕩息子になってはならないのである。
神の御心を実現するためには、つねに心を神に振り向けて、
神の心を傾聴するように心懸けなければならないのである。
人間は兎角、自分の要求を神に諾(き)かすように祈るものであるが、
それではいけない。
「神の御心を知らせ給え」と祈るべきである。
もっとも、神は自己の内に無尽蔵のアイディアを有(も)ちたまう
のであるから、「如何なる方向」又は「如何なる種類の問題」について
神の御心を知らせ給えと一定の範囲を指示することが必要である。
このことが「求めよ」に当たるのである。
「さらば与えられん」は、
「神の御心を聴く」ことによって与えられるのである。
<感謝合掌 令和8年8月16日 頓首再拝>