伝統板・第二

3847565
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

ひかりの一日一言136~ひかりの語録(7月) - 伝統

2026/07/01 (Wed) 05:06:39

『栄える生活365章』第7篇 完全なる実相の実現を目指して

ひかりの一日一言《1日》

(7月1日)(P153~154)
既に幸福はあなたのもの


わたしたちは病気や不幸や一切の災禍(わざわい)を予防したり、
それらを除(のぞ)くために”祈り”や”思念”を用いるけれども
”祈り”や”思念”がそれらの災厄を除くのではないのである。

”祈り”や”思念”によって神が動かされて、
其の救いが発動するなどと考えては間違いである。

祈りや思念というものは、唯(ただ)、自分自身の心がなお一層
神の方に振り向き、なお一層神の救いの霊波と波長を合わせる
ための下準備なるところの「心の調律」にほかならないのである。

恰(あたか)も、ラジオの放送局は、こちらにラジオ・セットを
持とうが持つまいが波長を合わそうが合わすまいが、
常にその番組の放送の波は今此処に来ているが如く、

神から先延(さきは)えられた幸福は、
吾々が祈っても祈らなくても、常に今此処に来ているのである。

今此処に「幸福」が来ているのに、それが現実化しないのは、
それに波長を合わせないからにすぎない。

波長を合わせれば現実化する。

その波長を合わす方法が祈りであり神想観である。

       <感謝合掌 令和8年7月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2026/07/02 (Thu) 05:02:14


(7月2日)(P154)
現象は仮の相(すがた)


人間は自己が神の子であり、神の生命(せいめい)わが内に生き給い、
わが内に神生き給うと自覚することが、あらゆる幸福を生み出す
根元の源を把(つか)むことになるのである。

真実に於いて、わたしたちの生活の《実相》は、肉体人間としての
生活ではないのである。肉体人間としての生活は、唯の《現象》に
すぎないのである。

現象は実相すなわち実の相(すがた)ではない。
それはただ現れとしての象(かたち)に過ぎない。

わが”神の子”としての「実相」を自覚しないで、妄想によって
色々の悪しき状態や不幸を心に描く、そのために心に描かれた悪や
不幸が現象としてあらわれるのである。

若(も)し私たちが真に自己が”神の子”なることを自覚し、
神が本来完全であり、無限であり、調和であり、健康であり、
一切の不調和が存在しないものであることを知るならば、

自己の現象の生活も完全となり、一切の不調和は消え、
生活は裕(ゆら)かとなり、肉体は健康となるのである。

       <感謝合掌 令和8年7月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2026/07/03 (Fri) 05:02:54


(7月3日)(P155)
無量寿は釈迦・基督の独占ではない


人間の実相は肉体でなくて、法身である。
法身こそ真実の自己である。

「われは生まれる前よりあるなり」とイエスは宣言し、また

「父(神)よ、此の世にあらぬ前にわが汝(なんじ)と偕(とも)に
 もちたりし永光もて、今(いま)御前(みまえ)にて
 永光あらしめたまへ」

と十字架にかかる直前にイエスは祈っているのである。

イエスは単にアブラハムの生まれぬ前(さき)に
存在せられたばかりではなく、
「此の世のあらぬ前(さき)」即ち宇宙創造以前から
「神と偕(とも)にありし存在」なのである。

これは釈尊が『法華経』の如来壽量品に於いて、
「自分は五百塵点劫よりもまだまだそれに過ぎたること
 無量無辺那由陀阿僧祇劫の以前より既に成仏せる仏である」
と宣言せられたのと好一対の自覚なのである。

併し、その無量の寿命は、ただイエスと釈尊とのみの独占ではない
のであって、すべての人間の生命(せいめい)の実相が、
そうなのである。

・・・

<参照>

山人のブログ(2021年03月07日)
『生命の実相』第二十七巻 久遠佛性篇上 第7章
https://ameblo.jp/bapposanjin/entry-12660829112.html

       <感謝合掌 令和8年7月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2026/07/04 (Sat) 04:38:29


(7月4日)(P155~156)
肉体は”霊”の表現体


人間は”神の子”であり、神は”霊”であるから、
”神の子”たる人間もまた”霊”であるのである。

”霊”は、その自己表現のために
「心の糸を組み合わせて肉体の繭を作り」
それを表現の媒介としたのである。

表現の道具たる肉体も、”霊”から放射された”心の糸”によって
織られたものであるから、”霊的実在”たる完全なる実相から
全然離れたものではないのである。

だから肉体も当然、完全であり健全であるのが当然でなければならない。

肉体は父母の物質を媒介としてつくられたが、それに個性を与え、
完全なる生理的構造を賦(あた)えたのは、”霊的実在”なる自己自身に
ほかならない。

”神の子”なる自己の意識が自己の肉体をつくり、
一定の形態にそれを維持しつつあるのである。

だから、自己の意識の状態が変化すれば、肉体の状態も変化する。

肉体構成の材料として同じ食物(しょくもつ)をたべている家族でも
肉体の健康さや若さが異なるのは意識の相違に因(もとづ)くのである

       <感謝合掌 令和8年7月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2026/07/05 (Sun) 04:53:02


(7月5日)(P156~157)
環境、運命も心によって一変する


一切は心で造られた唯心所現の現象界であるから、単に肉体の健康さや
若さの程度が、自己の意識(心)の状態によって別の様相を呈するだけで
なく、自己の環境、境遇、地位、名誉、貧富、学殖・・・等々、
悉く自分の心の持ち方によって色々変って来る。

貧しき家庭に育ちながら一代にして巨億の富を成す者も、
裕かな家庭に生まれながら、失敗に失敗を重ねて貧苦のドン底に陥る者
もあるが、それらは悉く其の人自身の心の状態如何によるのである。

戦後はほとんど凡(すべ)ての日本人は一様に無産状態ぎりぎりの
経済状態におかれたのであるけれども、二十数年たった今日(こんにち)、
依然として無産状態にある人もあれば、巨億の富をきずいた人もある。

戦後になって突如として文名を馳(は)せた文学者もあれば、
歌手として最高の栄誉をかち得た人もある。

人の浮沈(うきしずみ)は必ずしも外界に原因せず、
外界は”人生の波”であって波を如何に乗り切るかは自分自身にある。

       <感謝合掌 令和8年7月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2026/07/06 (Mon) 05:05:30


(7月6日)(P157)
問題も困難も自己開発の機会


問題を恐れてはならない。
問題は解決のためにあるのであり、問題が解決したのちには、
今までより一層明るい世界が出て来るのである。

困難にぶつかっている最中には多くの人々は、その困難をまるで敵であるか
の如く恐怖しがちであるけれども、困難は自己に内在する能力を引き出して
くれるための導線であり、内在の美質を研き出すための砥石である。

あとになって考えて見れば、あの問題が起らなかったら、私の現在の地位は
なかったであろうというようなことが度々(たびたび)あるものである。

困難こそ、自己の内深く内蔵されている能力の油田を掘鑿してくれる
ところの鋭(するど)き鑿岩機(さくがんき)であるのである。

何故(なぜ)なら困難は、眠っている心に刺激を与え、心の鋭敏に
はたらかすための拍車(はくしゃ)となってくれるからである。

その結果、唯心所現の世界に於いて、心の完全なる働きによって
最後の勝利を占(し)め得ることになるのである。

       <感謝合掌 令和8年7月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2026/07/07 (Tue) 05:08:35


(7月7日)(P158)
秩序と法則は神の属性


あなたは、自己が”神の子”であることを知るならば、
神は全能であり、すべてのものを持ち給うがゆえに、

”神の子”なるあなたは、その後嗣者(あとつぎ)として全能であり、
すべてのものの世嗣(よつぎ)たることを知らなければならない。

併し全能であるということは「無茶苦茶」なことでも自由に出来ると
いう意味ではない。

神は全能であるということは、神はその全能力をもって地球の自転公軸
の速度を無暗に変化して、常に無秩序の状態にあらしめて置くという
ような乱暴な意味ではなく、秩序と法則とによって一切のものを生み出す
全能さを謂うのである、

人間が”神の子”として全能であるというのも、それは無秩序に乱暴を
はたらく無限の能力があるというような愚かしき意味ではなく、
秩序と法則とによって一切のものを生み出す力を有するということである。

秩序と法則とは神の属性であるのであって、
人間がそれを捨てたら”神の子”でなくなるのである。

       <感謝合掌 令和8年7月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2026/07/08 (Wed) 04:47:31


(7月8日)(P158~159)
敵は本来ない


一切が神であることを知るならば、あなたの親も夫も妻も子も従業員も、
また敵としてあらわれている者すらも、すべて神の示現であることを
知らなければならない。

何故(なぜ)神がそのような姿をもってあらわれるかと言えば、
神は”霊”であり、”霊”は広義に於ける”心の海”であって、
吾々自身の”心”が波動を起こすならば、

”心の海”を媒介として、恰(あたか)も鏡に対して自分の影を
うつすかの如く、自分自身の姿が其処に姿をあらわすことになる
のである。

敵と謂えども実が敵にあらず、その内性は”神の子”であって、
あなたが彼に対していだいたその”心持”が反映して”敵”という
仮初(かりそめ)の姿にあらわれているに過ぎないのである。

実相に於いては、敵というものは全然あり得ないのであり、その
内在の「実相(じっそう)」は吾々と同じく”神の子”たる兄弟
であるから、相手を”神の子”として拝めば、神の子たる本性が
あらわれて来るのである。

       <感謝合掌 令和8年7月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2026/07/09 (Thu) 05:04:00


(7月9日)(P159~160)
敵は誤想のあらわれ


「敵」とは実在者ではなく、
誤想されたる想像の姿又は観念の姿のあらわれなのである。

神は全てのものの創造者であり、「神」と「神の創造」のみが
実在であるから、そして「神」には悪意はなく、ただ”愛”である
から、悪意のあらわれである「敵」は真実の実在ではないことが
明かなのである。

それは唯(ただ)私たちの誤想のあらわれに過ぎないのである。

だからその誤想を取り去れば
「敵」という相手の状態は消え去るのである。

私たちの日常生活に自己の経験として入(い)り来(く)ものは、
全(すべ)て自分の心の影によって賦彩(ふさい)せられたるもの
である。

自分の心が”自己限定”によって搾(せば)められるならば、
好機会の欠乏、能力の欠乏、健康の欠乏・・・等々となって
現れて来るのである。

それらの欠乏を外界からの「押し付け」だと思ってはならない。

「人間・神の子」の自覚を喚(よ)び出して、
自己限定と誤想を取り去れば一切の欠乏は消え去るのである。

       <感謝合掌 令和8年7月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2026/07/10 (Fri) 05:00:16


(7月10日)(P160~161)
自己のうちに一切がある


現象的には時間の流れに於いて、
そして空間的ひろがりに於いて、
一切のものは現れ、行なわれるのであるけれども、

実在の時間に於いては時間空間を超越して
其処に既に「完全なるもの」があるのである。

実在の世界は、空間を超越しているから、
縦横厚みの広がりを超越して「無空間」とも謂い得るが、
「無限次元」とも言い得るのであって、

縦横厚みの3次元に見える空間は、無限の次元のうちから、
感覚器官が、ただ縦横厚みだけを捉え得ただけであって、
残る「無限の次元」は感覚器官が捉え得なかっただけとも言い得る。

その無空間又は無限次元の世界に於いては、自己の内に「無」があり、
同時に自己の内に「無限次元」があるのであるから、
自己の想うことは同時に「無限次元」が想うことであるのである。

まことに「われ祈れば宇宙動く」である。
自己が悟ることは全人類が悟ることである。

地上に戦争が絶えないのは皆自分が悪いのである。

       <感謝合掌 令和8年7月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2026/07/11 (Sat) 08:19:54

(7月11日)(P161)
先ず人類に貢献せよ


誰でも肉体の臨終にのぞんで、自分の一生涯を振り返って感ずることは、
自分は此の世に、また人類に、何の貢献もしなかったという歎きだと
思われる、

私たちは今から、そのような悔いのない充分の生き方をして置かなければ
ならない、

「自分は人類に貢献するような能力もなければ地位もない。
 ただ碌々として会社の仕事をさせられているだけだ」

と考える人もあるかも知れない。

しかし碌々とした単調な仕事を為しながらでも、その人がその仕事を
通して人類に貢献しようという愛念をもって、祈りながらその仕事を遂行
するならば其処には実に偉大なる業績が積まれつつあるのである。

誰でも祈とき、神の智慧が彼を導き、最もその人に適する仕事の場へと
導き給い、自然に自己の社会的地位も向上し、自己の経済生活も豊かに
なって来るのである。

「先ず神の国を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」である。

       <感謝合掌 令和8年7月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2026/07/12 (Sun) 05:00:19


(7月12日)(P161~162)
真理を自己の生命(せいめい)の中に生かす


神は善であり、完全であり、調和であり、無限の智慧であり、
無限の生命(せいめい)であり、無限の富であり、一切であり、
一切処に遍満したまう。

あなたの内にも、外にも、彼処(かしこ)にも、此処にも、
上にも下にも、左にも右にも、前にも後(うし)ろにも、
到る処に満ちていたまうのである。

そのような神の大海に棲みながら、あなたが完全な調和、健康、
平和、歓び、幸福、裕さなどを実現することができないならば、
それはただ浴場の推薦をひねらないのと同じことである。

「叩けよ、さらば開かれん」である。

叩かないから可(い)けないのである。

あなたは『生命の實相』を読んだ。
光明思想の講習会を受講した。
そして多くの人々の体験談をきいた。

しかし「人間・神の子」の真理を、誰か、他(た)の人のことの
ごとく考え、「自分が今《それ》だ」という自覚を深く持たなければ、
「真理」と「自覚」とが離れ離れになっていて功を奏しない。

       <感謝合掌 令和8年7月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2026/07/13 (Mon) 05:07:05


(7月13日)(P162~163)
神の御意(みこころ)を簡単に受けるには


神と完全に接触し、意識的に接触し、神御自身をして、
自己の内に神を完全に表現せしめなければならないのである。

何か問題が起ったとき、その問題を神にあずけよ。

招神歌(かみよびうた)を数回となえて、神の智慧が自己の内に
流入せることを実感せよ。そして受け身の心境になれ。

しかして『幸福を招く365章』の本を手にとり、
「神この書をひらき給いて、吾に為すべき道を示し給え」と数回念じて、
無我の心境になって、365章の本を二つに披(ひら)け。

其の左の頁(ページ)にあらわれている文字があなたの問題解決の
ために必要な智慧を与えたまうのである。

これは易筮(えきぜい)に於いて筮竹(ぜいちく)を
《無我の心境になって》二つに分かち、それを数えて、その数に随って
算木(さんぎ)を並べて、その卦(け)にしたがって、易経の文字を
示すところによって判断するのと同じことである。

要は《無我になって》筮竹を二つに分かったときに、
既に如何なる卦が出るかが定(きま)っているのである。

       <感謝合掌 令和8年7月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2026/07/14 (Tue) 05:01:29

(7月14日)(P163)
供給はすべて神より来(きた)る


神は全ての渾(すべ)てである。

人間は神の子として”全ての供給”を神より世嗣(よつぎ)しているのである。
だから外にその供給を求めることは要(い)らないのである。
あなたは内に一切のものを蔵するのである。

「外に供給を求むる必要はない」ということは
外に《於いて》働かなくてもよいという意味ではないのである。

外に《求めて》働かなくてもよいのであって、内なる自覚に於いて、
内部生命が「汝、よく盡した」と自己称讃してくれるように働けば、
それは内に「無限」を蔵する「打ち出の小槌」を打ち揮(ふ)るように、
自己の欲するものが自然に整うということになるのである。

外に求めて要求し、外に求めて侵略し、外に求めて争議を行なう ―― 
かくて人間は、自己の内部にある神の「無限の打ち出の小槌」から
揮(ふり)出すことを忘れて、
この世界は闘争と欠乏の世界と化するのである。

「神は求むるに先立ちて必需品(なくてならぬもの)を知り給う」
とイエスは教えているのである。

       <感謝合掌 令和8年7月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2026/07/15 (Wed) 04:53:46


(7月15日)(P164)
迷い児となってはならない


神が遍在であり、今、此処に、自己の内に、自己を取り巻いて、
どこにも彼処(かしこ)にも、神が在(いま)すことを信ぜよ。

それを端的に自覚せよ。
真理はその通りなのである。

無いものを信ずるのでもない。
疑わしきものを信ずるのでもない。

今此処に神が在(いま)す《事実》である。
肉体の人間がトツオイツ心配して
色々としなければならぬことはないのである。

神が”神の子”を導くのである。
私たちは「神の手を曳(ひ)かれて歩む童子(どうじ)」の
ようなものである。

時々、子供は群衆の中で、親の手を放して「迷い児」になることがある。
また親でない者の手を握って、親と間違って、他(た)へ誘惑されて
行く子供もある。

物資や、金銭や、世間体や、その他(た)色々の神でないものを頼りと
して生活する者は、親の手を放して他(た)の人の手を握って、
余所(よそ)へ誘惑されて行く童子(どうじ)のようなものである。

それが「親の手」でないと知ったときは、そんなものは放してしまい、
早く親を呼ぶことだ。

       <感謝合掌 令和8年7月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2026/07/16 (Thu) 05:01:22

(7月16日)(P164~165)
神は求むるに先立ちて与え給う


今、此処に、既に私たちの生活に必要な一切のものがあるのである。
それは、たとい肉眼に見えなくとも、「既にある」である。

それは恰(あたか)も、肉眼にみえなくとも、ラジオやテレビの放送が
「既にある」のと同じことなのです。

それが肉眼に見え、肉耳に聴こえないのは「波長を合わさない」だけ
のことである。

「心の眼(まなこ)を開かない」だけのことである。

テレビの”把(つま)み”を一寸拈(ひね)って廻すだけで
テレビ放送の番組が全部次から次へと現れてて来るように、

私たちは、単に心の眼(まなこ)をひらくだけで、
また心の波長をかえるだけで、

神が既に整えられた「あらゆる善きもの」の供給の放送を
肉眼で見えるように受け取ることができるのである。

だから神に対して「何々を与え給え」と求めるような祈りは、
心を神の方へ振り向ける”把(つま)み”をひねる働きをする
一つの手段として有効なだけであって、

実際は、神は「求め」ないでも既に「与え」ていられるのである。

       <感謝合掌 令和8年7月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2026/07/17 (Fri) 04:32:26


(7月17日)(P165~166)
斯うして実相は現象界へ


神想観して、

「此処に、今、自分の内に一切があり、全てが既に与えられている。
 ありがとうございます」

と念ぜよ。

そしてただその念(ねん)にのみ成り切り、
完全に感謝の念にみたされ、神を自己の内に自覚せよ。

而してその自覚が現象化する自然のハタラキとして、その後(ご)
自然法爾に自分に催して来る思いつきや、自然の動きをその儘に
実践することが大切である。

行動のない祈りは、単なる空念仏に終わるのである。

既に一切のものは与えられているのであるけれども、それが
現実界に顕現するには、時間の序列を通して、空間のひろがりに
於いて、自然界の動きと、人間の行動を通して展開してくるのである。

だから其の自然の動きを大切にしなければならないのである。

静かに坐して、

「此処に、今、われに、神が坐(いま)す」

ことを自覚せよ。

神が何を啓示したまうかを受動的な無我の心境に於いて
心を澄まして待て、併(しか)して其の啓示の如く為せ。

       <感謝合掌 令和8年7月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2026/07/18 (Sat) 05:03:55


(7月18日)(P166)
先ず事物の魂を把(おさ)える


蜜蜂を自分の欲するところへ持って来ようと思ったならば、
蜜蜂の女王を先ず其処へ持って来なければならない。

蜜蜂の女王は謂(い)わば蜜蜂たちの魂であるからである。
魂が移動したところへ形骸は移動するのである。

私たちが何物かを得ようと思ったならば、
その「何物か」の意識を自分が把握しなければならない。

この世界は意識と意志と表現の世界であるからである。

私たちは漠然たる感情の中何かを憧憬する。

その憧憬があらわれて段々はっきりした形態を備えて来て想念となり、
その想念が内部の押し出す力によって意欲としてあらわれ、

意欲は行動の意志に於いて、其の「何物か」が確実に”わがもの”と
して把握されていなかったならば、たとい偶然その「何物か」が
その人の掌中にころがり込むことがあっても、
それは間もなく姿を消すことになるのである。

       <感謝合掌 令和8年7月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2026/07/19 (Sun) 05:02:23


(7月19日)(P167)
魂のない家庭は分散する


富豪の息子が、親からその財産を譲られる。
幾何(いくばく)もなくその財産は失われてしますことがあるのは、
それは意識の世界に於いて、「財産」として表現されている「精神」
又は「想念」(謂わば”財産の魂”)を譲り受けていないからである。

若し、形のみならず「想念」をも一緒に譲り受けていたならば、
形としての「富」もやはり失われることなく、その息子はその「富」
を増殖し得たに相違ないのである。

財産のみならず、一切の良き事物は、それが現象として永続するため
には、その事物の「魂」を”わがもの”としなければならない。

よき家庭を実現しようと思ったならば、
単に「家」という建物があるだけでは何の効果もない。
それは「家」であって「家庭」ではあり得ないのである。

立派な建物の中に、混乱した家族の闘争があることもあり得る。

かくて「家庭」の魂のない「家」に於いては、
家族はバラバラに分散する。

「魂」だけが真実の存在である。

       <感謝合掌 令和8年7月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2026/07/20 (Mon) 05:04:19


(7月20日)(P167~168)
斯うして「内在の神」を自覚せよ


何よりも、神の実在を「自己の内」に自覚することが大切である。

神は一切の富であり、一切の智慧であり、一切の良きものの源泉であり、
愛も調和も歓びも悉く神のうちに備わっているのである。

先ず、朝起きたら寝床のうちで、

「自己の内に神が宿っている。神は無限の幸福の源泉である
 無限の幸福は既に今此処にあり、それが実現しようとしつつある」

と数回言葉を唱えてから起きるとよい。

そして神想観を少なくとも10分間はして、

「神の生命(せいめい)が自己の流れ入り、その神の生命(せいめい)
 のみが今此処に自己の生命(せいめい)となっている」

ことを能(あた)う限り精神統一のうちに念じて、
自己の内に神の実在を確認するがよいのである。

それから後(のち)道を歩いている時には

「今神の生命(せいめい)が歩いている」

と念ぜよ。

机に向かっている時には、

「今神の生命(せいめい)が机に向かっているのである。
 神の智慧が此の仕事を為し給うのである」

と念ぜよ。

念々(ねんねん)、「神」を自己において自覚せよ。

       <感謝合掌 令和8年7月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2026/07/21 (Tue) 04:58:31


(7月21日)(P168~169)
迷い児が親の許に帰るには


親子という”血のつながり”があって、実際に親子であるのが「実相」
であるにしても、しっかりと意識的に親の手を握っていなければ
子供は群衆の中にいては、親を見失って「迷い児」になるおそれが
あるのである。

「迷い児」であっても「親と子」との血のつながりの実相は依然として
存在しているが、迷い児になったその時には、その完全な実相が現実化
していないのである。

「迷い児」が親の許に帰るには、まず交番へ行く、そして警官に、
自分の「親の名」を言うと好いのである。

「人間・神の子」の自覚の足りない「迷い児」同様の人間は、先ず
「親の名」をとなえて、そして「私はその親の子です」と言葉で言えば
よいのである。

すると警官がその親の許へつれて行ってくれて、「神」なる親様と
「神の子」とは一体となるのである。

警官とは、「法則」の象徴である。

「神の子だ」と言葉で唱えれれば
法則が「実相」を顕してくれるのである。

       <感謝合掌 令和8年7月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2026/07/22 (Wed) 05:08:01


(7月22日)(P169~170)
一切の「悪」は自覚の欠乏


真理を充分納得する上に是非知らなければならないことは、
「悪」又は「不完全なもの」の本質である。

即ち「迷い児」とは如何なるものであるかということである。

「迷い児」は財産をもっていない。
「迷い児」は「親」から離れて、「親」を見失ったところの者である。

しかし彼は依然として親の「跡継ぎ息子」であり、親のもっている
家も財産も自分が承(う)け継ぐ権利をもっているのである。

既に一切を潜在所有権として持ちながら、現実には親を見失い、
一切の所有ない素寒貧(すかんびん)なのである。

しかし現実には、如何に彼が貧しいように見えても、
彼は実際には億万長者の息子なのである。

かれが素寒貧(すかんびん)であるのは、彼がただ億万長者の息子
であるという実相を自覚しないだけのことである。

是は「貧しさ」だけを例にとって説明したのであるが、
一切の「悪」「不完全」は実相の完全さを自覚しないこと、
即ち「自覚の欠乏」に過ぎないのである。

       <感謝合掌 令和8年7月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2026/07/23 (Thu) 05:04:55


(7月23日)(P170)
病気や貧乏は実在ではない


一切の「悪」「不完全」が自覚の欠乏であるということが判明した
ならば、「悪」「不完全」を消すためには、「人間・神の子」の
自覚を注ぎ込めばよいことが明らかになるのである。

然るに「欠乏」というものは、其処に「存在がない」という
「虚」の状態に過ぎないのである。

だから自覚の欠乏に過ぎな「悪」や「不完全」は、
其処に「存在がない」ということを意味するのである。

即ち病気とか不幸とか貧乏とか謂うものが其処に厳として存在して
いるのではなく、ただ「虚」が影を映しているだけのことなのである。

それは「闇」が感覚面に対しては存在するように見えても、
それは「虚」の状態に過ぎないから、ただ電灯を点(とも)すだけで、
「闇」は瞬時にして消えてしまう如くである。

自覚の「虚」は、自覚の「充実」によって瞬時に消えてしまう。

しかし、現実界の自覚が具体化するには、写真が現像されて来るのに
時間を要するように若干の時間を要するのである。

       <感謝合掌 令和8年7月23日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.