伝統板・第二

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(七月)の法語 - 伝統

2025/07/01 (Tue) 04:07:58

このスレッドでは、次の6つの法語を紹介してまいります。

(1)『 生長の家 』  昭和二十四年七月号
            ブログ「 住 吉 大 神 浄 め 給 う」 
            http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/m/201404/1
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

(2)『 生長の家 』  昭和二十五年七月号
            谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐より紹介
            http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

(3)『 生長の家 』  昭和二十六年七月号( 一日の法語 ~ 十八日の法語)
            ブログ「 住 吉 大 神 浄 め 給 う」 
            http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/549262d625380b2d3657ed29ac99f2c9
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)
            
(4)『 理想世界 』 昭和四十二年七月号
            伝統板・第二
            「青年よ悪習慣の鏈(くさり)を断ち切れ
             =最も大切な性格形成の問題について=」
            http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412

(5)『 生長の家 』  昭和四十三年七月号の法語」
            http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7754652

(6)『 理想世界 』 昭和四十三年七月号
            伝統板・第二「愛国青年よ、われら何を為すべきか」
            http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7756090


・・・


【一日の法語(7月1日)】

(1)《与えただけの値打のものが来る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7dd174f3c05e24216f87966583a937e9
      (2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   吾々の得る所の喜びは、その値打を払っただけのものであって、
   それ以上のことはあり得ないのである。

   奮闘の後に得られたる獲得こそ、
   しみじみと自分の魂にその価値が感じられるのである。

   小人(しょうじん)は困難に遭って屈服してしまうのであるが、
   偉大なる人は困難あるごとに一そう自己が偉大となるのである。


   (全文として)

   すべて安価なるものはそれだけ価値が少ないのである。
   吾々の得る所の喜びは、その値打を払っただけのものであって、
   それ以上のことはあり得ないのである。

   奮闘の後に得られたる獲得こそ、
   しみじみと自分の魂にその価値が感じられるのである。

   たんにその獲得の価値が感じられるばかりではなく、
   凡(およ)そ困難と戦ってそれを克服することによって
   吾々は新たなる力を獲得することが出来るのである。

   いつまでも浅瀬で足を砂の上につけて泳いでいたのでは、
   本当の泳ぐ力は出て来ないのである。
   さればこそ吾らは 「 困難にたわむれよ 」 と云うのである。

   困難を困難とせず、困難をのりこえることに喜びを見出(みいだ)す者は、
   困難きたるごとにその能力を増すのである。

   小人(しょうじん)は困難に遭って屈服してしまうのであるが、
   偉大なる人は困難あるごとに一そう自己が偉大となるのである。


・・・

(2)《狭き門より入れ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   実相智に到達すれば 喜ぶ世界のみであるけれども
   それに到達するには 己に打ち克つことが必要である。

   「 己 」 とは 「 ニセモノの自分 」 である。
   「 狭き門より入れ 」 とイエスが教えたのは そのためである。

・・・

(3)《天地万物に感謝せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/549262d625380b2d3657ed29ac99f2c9
      (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   一筋の藁、一本の大根、それに神の愛を感じ、
   感謝出来るのが宗教的境地であって、
   金が儲(もう)かるから集ると云うのは 相場師の境地である。

   百丈和尚(ひゃくじょうおしょう)は 一枚の大根の葉が流れ行くのを
   追っかけて往(い)って拾って頂いたと云う。


   (全文として)

   ブラザー・ローレンスは

   「 自分は神の愛を感じながら フライパンの上でケーキを焼く。
   神の愛を感ずるには 自分にとっては 地に落ち 散っている
   藁(わら)ひと筋を拾うだけで充分である 」

   と云(い)ったそうである。

   「 木の切株に腰をおろすときには その切株を拝んでから腰をおろせ。
   大根を抜くときには、大根にお礼を云ってから抜け 」
   と云うのが金光教祖の教えであった。

   一筋の藁、一本の大根、それに神の愛を感じ、
   感謝出来るのが宗教的境地であって、
   金が儲(もう)かるから集ると云うのは 相場師の境地である。

   百丈和尚(ひゃくじょうおしょう)は 一枚の大根の葉が流れ行くのを
   追っかけて往(い)って拾って頂いたと云う。

・・・

(4)《“粗暴”の種を蒔いてはならない》

   ある有名な哲人がいった言葉には、

   「ある行為の種を蒔けば、吾らは習慣というものを穫りとるのである。
   習慣の種を蒔けば自分の性格というものを収穫する。
   自分の性格という種から自分の運命というものが実るのである」と。

   一寸した行動が粗暴であること位は何の悪い影響もないかの如く考えられ勝ちで、
   若い人たちは、一寸した日常の動作を粗暴にやってのけてそれで
   “元気溌剌”たる若人の特権の如く考えていることが多いらしいが、

   それは毎日”粗暴”の種子を蒔きつつあるのであり、
   それが習慣となって生長し、ついには世界の平和を掻き乱す
   恐るべき果実をみのらす結果ともなることを考えるならば、
   少年だからとて日常の行動を粗暴にしてはならないのである。

   元気と粗暴とは異る。

・・・

(5)《「死」は「生」につながる》

   (全文は)
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4300


   (抜粋として)

   「死」は「生」につながるのである。
   「死」と見える現象は「生」の始めであるのである。

   私たちの肉体の全細胞は、常に陳き(ふるき)ものは死につつあり、
   そして間断なく新しき細胞はつくられて陳き(ふるき)死滅細胞に
   とって代わりつゝあるのである。

   
   では、この新陳代謝を司るところのものは何であらうか。
   それは人間の「生命」である。
   生命の中に存する叡智のみが此の重大なる役割を果し得るのである。

・・・

(6)《使命遂行に邁進せよ》

   人間は人生に生まれた限りは、理想を持たなければならない。

   何らかの使命を感じて、その使命に向かって
   邁進する勇気を持たなければならない。

   自分の一身の栄達の如きものばかりに
   生命を献げているのは誠に勿体無いのである。

   人間は“神の子”であるから、“神の子”らしく、
   その理想の実現の為に、使命の遂行の為に、自己の生命を献げる時
   本当に“生き甲斐”が感じられるのである。



・・・

<参考:7月の谷口雅春先生の言葉>


(1)『 光明法語<道の巻> 』(七月の法語「生命の本源(神)を顕すには」)
   (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=93

(2)『 生命の實相 』第三十七巻幸福篇(七月「真諦成就」)
   (本流宣言掲示板)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2546

(3)『 光明道中記 』(七月「浄行ととのう」)
   (光明掲示板・第一)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1821

            <感謝合掌 令和7年7月1日 頓首再拝>

【二日の法語(7月2日)】 - 伝統

2025/07/02 (Wed) 05:06:16


(1)《障礙(しょうがい)物は進歩の踏台》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/91b3c7f27b37743f351a0e60d8176e5f
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   「 我は 如何なる困難をも克服する所の偉大なる神の子である。」

   かく信じて目の前にある障礙物を却(かえ)って
   自己の向上する為(ため)の踏台とする人こそ
   やがて偉大に成功するのである。

   魂を磨く所の鑢(やすり)は困難である。
   困難こそ人間を玉成するのである。


   (全文として)

   「 我は 如何なる困難をも克服する所の偉大なる神の子である。」

   かく信じて目の前にある障礙物を却(かえ)って
   自己の向上する為(ため)の踏台とする人こそ
   やがて偉大に成功するのである。

   困難の報いは進歩である。
   多くの人たちは盤根(ばんこん)錯節(さくせつ)に遭遇して
   その偉大なる本性を展(ひら)き出したのである。

   神は決して高価なる宝玉を地表にころがしては い給わないのである。
   それは地下に埋蔵されて困難を穿(うが)ち行く努力によってのみ
   発掘せられるのである。

   魂を磨く所の鑢(やすり)は困難である。
   困難こそ人間を玉成するのである。

・・・

(2)《五官は番犬に過ぎない》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   五官の心は 「人間自身」 ではなく
   人間の道具である。
   それは 番犬のようなものである。

   肉体の快楽は 一時的に汝を喜ばすかは知れないが、
   汝の魂に深い悩みと淋しさとを残すのである。

   それは 「 本当の自分 」 が
   打ち敗(ま)かされたからである。

   本当の魂を喜ばすのは
   実相智によるほかはないのである。

・・・

(3)《仕事に悦びを感ずるには》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/491a18692ccef688f441aca102a8e891
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   人生が退屈であったり、無意義に見えたりするのは
   その人の愛が乏しいからである。

   愛して何事でも、愛のために行うならば
   自然と歓喜が湧(わ)いて来て 退屈であったり、
   無意義に感じたりする筈(はず)はないのである。

   利己主義のところに真の悦(よろこ)びは 湧いて来る筈はない。
   神の愛を実現する処(ところ)にのみ 真の悦びは湧いて来るのである。


   (全文として)

   人生が退屈であったり、無意義に見えたりするのは
   その人の愛が乏しいからである。

   愛して何事でも、愛のために行うならば
   自然と歓喜が湧(わ)いて来て 退屈であったり、
   無意義に感じたりする筈(はず)はないのである。

   仕事が退屈なのは、その仕事を経済的理由で自分の労力を
   切売(きりうり)するような気持でするからである。

   「 神様、あなたの愛をこの仕事を通して実現させて頂きます。
   有りがとうございます 」 と 感謝しながら仕事をするならば、
   決して仕事は退屈な重荷となって来ないのである。

   利己主義のところに真の悦(よろこ)びは 湧いて来る筈はない。
   神の愛を実現する処(ところ)にのみ 真の悦びは湧いて来るのである。

・・・

(4)《雑草からは良きものは実らない》

   プラトー(ギリシャの哲人)も言うのである。

   「無限の善が、良き習慣から生まれて来るのである。
   良き習慣というものは、良き行為の範例や、良き友との交わりや、
   道徳的知識や、道徳的行為の体験を通して養われるのである」と。

   戦後のあまりにも過ぎた日本社会の如き自由主義的放漫の生活からは、
   良き行為の範例や、良き友との交わりや、道徳的知識・・・・・などには
   滅多に接することができないのである。

   そして自由に伸びるものは雑草の如き無秩序性である。
   雑草の中からは決して良きものは実らないのである。

   良き果実を実らせようと思うならば、雑草を自由に伸ばしてはならないのである。
   雑草を引き抜いて、良き種子を選択して播種しなければならないのである。

   自由放漫の中からは稀にしか良きものを生じない。
   行動の自由主義の効果には限界があるのである。

・・・

(5)《肉體は“被造物”である》

   古い細胞の死も、新しい細胞の新生も、
   その背後に、一層偉大な支配者があって、
   それによって支配されているのでゐるのである。

   それ故に肉體それみずからは被支配者であって主人公ではないのである。

   人體の主人公は、肉體それみずからでなくて、
   「肉體の奥に物質の奥に霊妙きはまりなき霊的存在」として
   “神の子”が存するのである。

   “神の子”とは、神なる大生命の分流が人體に宿って、
   そこに神の叡智をもって人体を支配してゐるところのものを指すのである。

   肉體は、この“神の子”が設計し工作し、
   神の生命を宿すところの「神の宮」としてつくられたものである。

   “肉體”はこのやうにしてつくられたものであるから、
   人間を“肉體”そのものとして観る以上は、
   人間は”被造物”に過ぎないのである。

   それは “つくられたるもの”であり、
   それが、”造られたもの”である限りに於いて、
   それはやがて毀れるものであり、“死すべきもの”であるのである。

   人間が肉體である限りに於いて、“永遠の生命”は無いのである。 

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4307


・・・

(6)《愛国者躊躇逡巡する事なく立ち上がれ》

   (全文は)
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7756090


   (抜粋として)

   何のために躊躇するのか、今、日本国に危機が近づいているではないか。

   真に日本国を護る者は生長の家の諸君のほかには何処にもないのである。

            <感謝合掌 令和7年7月2日 頓首再拝>

【三日の法語(7月3日)】 - 伝統

2025/07/03 (Thu) 03:07:53


(1)《努力なしには地下の宝玉は得られぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f8a321701bff09ca11de9c55a2bbeb49
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   多くの才能は地下に埋蔵された宝石と等しく、
   努力なしに放置する時には眠っているのであるが、
   困難の刺戟(しげき)によってそれが現実となるのである。


   (全文として)

   多くの才能は地下に埋蔵された宝石と等しく、
   努力なしに放置する時には眠っているのであるが、
   困難の刺戟(しげき)によってそれが現実となるのである。

   金鉱は高熱の溶鉱炉で溶(と)かされた時、
   その純金の成分を分離するのである。

   神が多くの貴金属を地下に蔵して地表に置いていないのは、
   努力によって人間内在の能力と叡智を磨き出させんがためである。

・・・

(2)《五官の心を神にまで統制せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   本当の喜びは 五官の心を徹底的に自己統制して、
   自分の生活の凡ゆる瞬間、如何なる小さき行動も、
   如何なる小さき心の想いも
   神にささげてしまった時にのみ得られるのである。

・・・

(3)《神を愛する者は人をも愛する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/440df0246a5efc3ba7f0b10ff42fbd22
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   神を愛するとは 自己に宿る神性(しんせい)を愛することにほかならない。
   自己に宿る仏性(ぶっしょう)を愛することにほかならない。

   自己に宿る 神性 仏性 を愛するには
   同時に他に宿る 神性 仏性 を愛しなければならない。

   汝の隣人を愛さないでいて、神を愛していると云うことは、
   虚言(そらごと)にすぎないのである。



   (全文として)

   真の信仰を得るまでは、本当の魂の平安は得られないのである。
   他を真にゆるすまでは 本当の魂の平安は得られないのである。

   吾々がどんなに熱心に祈っても 神想観で黙念しても
   欲することが得られないのは、
   誰かを憎んでいて その人をゆるさないからである。

   神を愛するとは 自己に宿る神性(しんせい)を愛することにほかならない。
   自己に宿る仏性(ぶっしょう)を愛することにほかならない。

   自己に宿る 神性 仏性 を愛するには
   同時に他に宿る 神性 仏性 を愛しなければならない。

   何故(なぜ)なら神は 霊であり、すべての渾(すべ)てであって、
   すべてのものの中に神の霊が宿っているからである。

   汝の隣人を愛さないでいて、神を愛していると云うことは、
   虚言(そらごと)にすぎないのである。

・・・

(4)《習慣の“環”は早いうちに中断せよ》

   習慣は、一つ一つの行為の“環“の連続である。その一つ一つの”環“は
   小さいけれどもそれがつながって長き鏈(くさり)となるとき、
   強力に自分をしばる鉄の鎖となるのである。

   何人も、あまりに長くつづいた“習慣の鏈”によって十重二十重に
   縛りつけられるならば、その鏈の縛りを切り放って自由になることは
   殆ど不可能となるのである。
   それは“殆ど”であって“絶対”ではない。

   その実例を、喫煙をやめたいと思って色々と工夫し努力して見ながら
   どうしても喫煙がやめられない“喫煙癖”の奴隷の如き人間を見るがよい。
   全く彼は気の毒な状態ではないか。

   まだ一つ一つの行為の“環”が二つや三つや五つぐらい連続しているだけの
   初期状態では、それは鏈という程でないから、途中でやめられるし、
   自分の全身をしばる長い鉄鎖とならないのであるから、
   「これは悪い習慣になりそうだ」と気がついたら、

   それが習慣となる前にすぐその行為をやめるがよい。

・・・

(5)《人間そのものは“叡智ある生命”である》

   しかし“人間”そのものは肉體ではないのである。

   小さな卵細胞に受精せしめて、人體をつくり出さしめた
   叡智そのものが人間であるのである。

   更に精しく言へば、卵細胞すら無きところから卵細胞をつくり出し
   “無”よりして生體をつくり出したところの“叡智ある生命”
   そのものが人間なのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4311

・・・

(6)《全学連の成立とその目的》

   (全文は)
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7756090


   (抜粋として)

   しかし彼らは、その革命によって日本国に平和が来たり、日本国民に
   幸福が来るという妄想をもっているのであって、その妄想に動かされて
   夢遊病患者のように動いている気の毒な人達に過ぎないのである。

            <感謝合掌 令和7年7月3日 頓首再拝>

【四日の法語(7月4日)】 - 伝統

2025/07/04 (Fri) 05:01:35


(1)《摩擦ある環境もお蔭(かげ)である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fa6ad9358ba8bb76fe1e4e26484fa68f
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   すべての困難と抵抗とは 自己を向上せしめ
   前進せしめるための天与の刺戟である。


   (全文として)

   飛行機は 空気の抵抗によって上昇する。
   機関車は レールの摩擦によって疾走する。

   すべての困難と抵抗とは 自己を向上せしめ
   前進せしめるための天与の刺戟である。

   もっともすぐれたる刃物は 火の中で焼かれ、
   鉄槌(てっつい)をもってくだかれ、

   はげしき砥石(といし)の摩擦によって
   その光輝(こうき)燦然(さんぜん)たる光を放つのである。

   ダイヤモンドは 硬くして純粋度の多いものほど
   はげしい摩擦によってのみ その光輝を発することができるのである。

   ダイヤモンドを磨くのはダイヤモンド自身の粉末の摩擦によるのである。

・・・

(2)《人生の目的は神を実現せんがためである》
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾(われ)は 今 吾(わ)が本性の 「 神 」 なることを知ったのである。

   吾は個人ではないのである。吾は全体である。
   吾は無限である。吾は絶対である。
   吾は永遠である。吾は不滅である。

   吾が人生の目的は これを実現せんがためである。

・・・

(3)《汝(なんじ)の肉体を讃美せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/80ce80b21afdac0966776c2b7e2d50be
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   あなたが肉体を愛し、その健康を求めるならば、
   肉体に小言(こごと)を云っては ならないのである。

   肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃(たた)え、
   肉体の健康を祝福しなければならないのである。


   (全文として)

   あなたが肉体を愛し、その健康を求めるならば、
   肉体に小言(こごと)を云っては ならないのである。

   肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃(たた)え、
   肉体の健康を祝福しなければならないのである。

   こんな不健康な肉体を讃美し祝福することが出来ようと
   思う人があるかも知れないけれども、
   あなたの肉体の何処(どこ)かは健康であるであろう。

   肺のわるい人も 眼(め)は見えるであろう 耳は聞えるであろう。
   手足は健全であるであろう。

   然(しか)らば 何故、その眼を、耳を、手足を
   讃美し、祝福し、それに感謝しないのであろうか。

   真に神の恵みに感謝したとき、その肺も治るであろうに。

・・・

(4)《自分の蒔いた行為の種が芽を吹くとき》

   イタリアのトリノにある大学のボネリ教授の実験によるならば、
   30年間葡萄酒の中に入れてアルコール漬けにされ、さらに16年間、
   空中に乾し晒らされたガラガラ蛇の牙にまだ毒性が残っているかどうかを
   試すために或る動物の皮膚をその牙で刺して実験してみたところ、驚くなかれ、
   その1時間後にはその動物は蛇毒にあてられて死んだのだった。

   行為の積み重ねによって生じた習慣というのも、
   このように吾々の生命の奥深く眠っていて、ある機会が来たら、
   それが活性化して吾々の行動を支配することがあるのである。

   だから、吾々はガラガラ蛇のような、
   人を害する毒性のある想念や行為を積みかさねて
   それを潜在意識の底に眠らしておいてはならないのである。

   一千年以上も以前に乾燥状態で埋もれていた蓮の実が,
   播植してみたら発芽した実例もある。

   人間は、現世一代の存在ではなく、幾度も生れ変って来ているのであるから、
   今、種を播いておいた善行又は悪行が、
   数代もの生まれ変わりの後に報いられて来ることもあるのであるから、

   人生をこの世一代の存在だと思って、生きてるうちに、
   どんなズルイ事でもやって出来るだけ快楽を貪って置けというような考えから
   悪行の種を播いておくと、数代後の生まれ変りに、困難な状態におかれる
   ということもあるのである。

   私たちは毎日よき種子を業の世界に播いておかなければならない。

・・・

(5)《潜在意識を“暗い暗示”から衞ること》

   人間の中心体なる「最高の叡智者」を吾々は「實相」と称ぶのである。

   しかし生命体がつくりられた後は、實相それみずからは
   「奥の宝座」にましまして、陰・陽の意識を道具として外界に対応して
   人対的な生活を營ましめることになっているのである。

   “陽の意識”は“現在意識”とも称せられていて、
   表面にあらはれて外界の出来事や情況に応対するのである。

   “陰の意識”は“潜在意識”とも称せられていて、
   表面にあらわれていないで、専ら内部的な役割を果すのである。

   即ち記憶の保存とか、人体内部の生理作用の調節とか、直感によって
   内的に感受したことを“蟲の知らせ”などの形で現在意識に報道するとか、
   要するに内的微妙なハタラキを営むのであるが、

   “陽の意識”(現在意識)が男性的・主動的であるに反して
   “陰の意識”は女性的又は受身的であって、
   外界または現在意識から発せられた暗示をそのまま受け容れて、

   それを心内に懐妊して、やがてそれを具体化して
   産み出すやうなハタラキを分担するのである。

   内部にあって生理作用を司っている潜在意識が外界からの暗示に感応して
   その暗示に左右せられ易いために、暗い暗示を潜在意識が受けるならば、
   生理作用が陰気な影響を受けて活発に働かなくなり、
   病氣や虚弱状態をあらわすことになるのである。

   だから私たちは常に潜在意識に対して明るい健全な暗示を与えるように
   工夫しなければならないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4312

・・・

(6)《果たして共産革命は国民を幸福にするか》

   (全文は)
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7756090


   日本に共産革命が起こったら、日本に平和が来たり、日本国民に幸福が
   訪れるというのが彼らの錯覚であり、妄想であるのは、共産革命が
   成就した後のソ連や、中共の実情を見れば自ずから判明するのである。


   日本の全学連の学生たちは、このような現実を見ないで、革命さえ完遂すれば、
   国家にゆたかな天国が来るような錯覚に捉われているのである。

            <感謝合掌 令和7年7月4日 頓首再拝>

【五日の法語(7月5日)】 - 伝統

2025/07/05 (Sat) 05:03:01


(1)《抵抗は有難い、吾々を前進せしめる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d14ec46bd5e21bf633f5327ac1344cc9
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)


   人間が反対と摩擦から解放されてしまった時に
   それはレールの上に油を塗って滑らした機関車のように、
   上向することはできないで下向(げこう)するばかりである。

   抵抗と摩擦とによって人間は自己をみがき上昇し向上する。


   (全文として)

   人間が反対と摩擦から解放されてしまった時に
   それはレールの上に油を塗って滑らした機関車のように、
   上向することはできないで下向(げこう)するばかりである。

   抵抗と摩擦とによって人間は自己をみがき上昇し向上する。

   カントは鳩(はと)の例をあげている。

   鳩は空気の抵抗によってその速力を減ぜしめられ、
   その飛翔を困難ならしめられる。

   だから、もし空気の抵抗がなかったならば、
   鳩は尚(なお)一層快速に、尚一そう容易に飛翔し得るだろう
   とも思えるが、

   空気をぬいて真空のところを飛翔せしめて見るならば、
   忽(たちま)ち鳩は飛ぶことができないで
   落下することは間違いはないのであると。

・・・

(2)《今、吾が生命を直視(じきし)せり》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾は凡ゆる苦痛と悩みとの彼方(かなた)に超出したのである。
   吾は 今 絶対完全なる自由を獲得して
   神人の実相を実現したのである。

   五官の誘惑は 自分を もはや ひきつけないのである。

・・・

(3)《自己に宿る自然療能力に感謝せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e8ba579a5ccc941d9989c4bf18a4b634
              (goo blog:2025年11月18日に閉鎖するとの周知あり)

   (抜粋として)

   神の自己表現の機関である肉体は 健康であるように、
   美しくあるようにつくられたのであり、

   その美と健康とを維持するように 内部に自然療能
   (神御自身の再生能力)を与えられているのである。

   常に神の再生能力は 吾(われ)らを生かし、修復し、若返らせ、
   疲労を恢復(かいふく)せしめつつあるのである。

   その驚くべき恢復を発現せしめようと思うならば、
   先ず、その力の存在を認め、それに感謝することである。


   (全文として)

   肉体を讃美するのは 必ずしも肉体主義でも
   エロティシズムでもないのである。

   肉体は 神の自己表現の機関として、神が創造したまいし
   理念の形象化(かたちになったもの)であるのである。
   だから肉体を神の宮とも云うのである。

   神の自己表現の機関である肉体は 健康であるように、
   美しくあるようにつくられたのであり、

   その美と健康とを維持するように 内部に自然療能
   (神御自身の再生能力)を与えられているのである。

   常に神の再生能力は 吾(われ)らを生かし、修復し、若返らせ、
   疲労を恢復(かいふく)せしめつつあるのである。

   その驚くべき恢復を発現せしめようと思うならば、
   先ず、その力の存在を認め、それに感謝することである。

・・・

(4)《肉体の快楽に誘惑されてはならない》

   どんな悪業を積んでおいても、それが報いられる筈はないという甘い考えで、
   瞬間の快楽のために、誘惑の奴隷となって、ある人妻と姦通した青年がいた。

   彼がその人妻を本当に恋愛しているのであったならば、
   その行為に、ある情状酌量の点数がつけられるかも知れない。

   併し、彼はその人妻のほかに、同じ期間に、別の人妻と姦通していたのであった。
   だから彼は純粋に一人の女性を恋いしたっていたのでもなかった。

   その青年は脚が立たなくなった。あの立派な青年(男)がどうして、
   腰相部の脊髄神経麻痺にかかって脚が立たなくなったりしたのであろうと
   私たちは不思議に思っていたのであった。

   彼の病気の治療は私の毎日の祈りの中に加えられていたにもわらず、
   既に六ヵ月を超えても腰部脊椎神経の麻痺は治らないのであった。

   或る日、この青年から右の事実を告白した手紙が来た。

   それは前非を悔いた手紙であって、姦通した二人の女性のうちの一人とは、
   その女の産んだ可愛い赤ちゃんが側で二人の行為を見ている前で、
   「どうせ赤ん坊のことだから見ていても何をしているか分らないだろう」
   と思って行為したという告白であった。

   ”その幼い子供の純粋な心を汚したことを思うと耐えがたい悔恨だ”
   というような反省がその手紙にはあらわれていた。

   腰部は色情帯であって其処に健康に故障が起こるのは
   色情の過ちが具象化するのである。

・・・

(5)《暗黒思想に對して、聖語の波状攻撃を加へよ》

   この世界には無数の不健全な暗示に満たされているのである。

   特にテレビ、ラジオの發達に伴って、吾々に商業広告
    ―― 特に新薬の広告宣伝―― が薬を買わせるために、
   病氣を恐れさせ、老衰を予告する「言葉」が愈々益々
   氾濫して来ているのである。

   「言葉」は種子であることを知るならば、吾々はこのような
   “病気”や“老衰”の観念を潜在意識に投げ込む暗示から
   “自分の心”を衞る工夫をしなければならないのである。

   といってラジオやテレビに対して耳をふさぎ眼をとじている訳にも
   行かないで、私たちは積極的防衛策を、「攻撃は最良の防御である」
   という諺にしたがい、積極的に「光明思想」の言葉の砲弾を射ち込んで、
   暗黒の想念が潜在意識を占拠しつつあるのを撃滅し
   追い払わなければならないのである。

   繰り返し繰り返し聖典を読むこと、そしてあまり同じ聖典を読んでいると、
   言葉の新鮮味がなくなり、それだけ印象力が弱まって来るから、
   また別の聖典を読むこと、未だ読まざる新しき聖典を読むこと、
   これによって暗黒想念の定着せんとするのに対して波状攻撃を加える訳である。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4316


・・・

(6)《革命は革命後の粛清が恐ろしい》

   (全文は)
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7756090

   日本に革命が起こって四千七百万人も粛清されるとしたら日本国民の半数は
   殺されることになる訳で、私が何としても革命だけは阻止したいと懸命に
   なっているのは、国家を護持する為であるのは勿論だが、
   ひとつには人命の尊さを考えるからである。

            <感謝合掌 令和7年7月5日 頓首再拝>

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