伝統板・第二
(六月)の法語 - 伝統
2025/06/01 (Sun) 05:02:44
このスレッドでは、他の掲示板等から、次の5つの法語を紹介してまいります。
(1)『 生長の家 』 昭和二十五年六月号
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐より紹介
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(2)『 生長の家 』 昭和二十六年六月号
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱より紹介
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(3)『 生長の家 』 昭和四十八年六月号
伝統板・第二「霊魂進化の一周期と肉體的欲望の離脱について」
https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8296074
(4)『 生長の家 』 昭和五十一年六月号
光明掲示板・第一より紹介
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(5)『 理想世界 』 昭和四十三年六月号
伝統板・第二
「輪読のための青年法語~人間として最も高貴なる生き方」
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
・・・
【一日の法語(6月1日)】
(1)《月の始めに新しき心となれ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
今日一日が新しき日であり、
すばらしい機会を
吾々に与えてくれる日であるのである。
神は吾々のすべてを
愛して い給うのである。
吾が夫を、吾が妻を、吾が子を、召使いを、すべての人々を
愛して 祝福し給うているのである。
我は凡(すべ)ての人々に感謝するのである。
・・・
(2)《心を空っぽにして 「 健康 」 の念を注入せよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
一度 器(うつわ)を空っぽにしてしまわなければ
新しい酒は入れることができない。
病気を心の中にしっかりと把握している限りに於いて、
健康の観念をつぎ込むことは出来ない。
病気を治すには第一 病気の観念を捨ててしまわなければならない。
病気をわすれると云うことである。
・・・
(3)【なぜ、少年は生命を輕率に扱ふか】
ちかごろ少年クラスの若い人が自殺するやうな實例が
たびたび新聞などで報道せられてゐるので私は驚くのであります。
戰後の日本少年の死亡の原因の第一が病死でなくて
事故死(自殺を含む)といふことは何をあらはしてゐるのでせうか。
それは『生命の尊重』といふことが叫ばれてゐ乍ら、
生命の尊重の根本が忘れられてゐる――
即ち、生命は何故尊重せられねばならないかの根據を教へることが
忘れられてゐるからである。
・・・
(4)《困難を克服し得た勝利感》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
それは”困難”は自己に内在する”未見の我 ”
”神の子なる未見の無限力”を、顕在の世界にあらわしたい
という潜在的願いがあるからなのである。
そしてその困難を征服したときに、わたし達は勝利の快感を味わう。
生き甲斐を感じるのである。
何の困難もない平々凡々の生活が毎日続く時には、
人間は倦怠感を生じて、人生そのものにウンザリしてしまうであろう。
・・・
(5)《人間の高貴さについて考えよう》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
人間は、人間たる“高貴さ”を失ってしまったら、
それは獣類とあまり変らない。
肉体よりも貴いものが人間にあることを知らねばならぬ。
・・・
<参考:6月の谷口雅春先生の言葉>
(1)『 光明法語<道の巻> 』(六月の法語「天国は汝の内にあり」)
(光明掲示板・第一)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1669
(2)『 生命の實相 』第三十七巻幸福篇(六月「紅白むすぶ」)
(光明掲示板・第ニ)
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1711 (消滅)
(伝統板・第二)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7870127
(3)『 光明道中記 』(六月「神にむすばる」)
(谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=89
<感謝合掌 令和7年6月1日 頓首再拝>
【二日の法語(6月2日)】 - 伝統
2025/06/02 (Mon) 05:03:18
(1)《わが業(わざ)は わが為(な)すに非(あら)ず》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
神の愛は無限であって
吾々がとても想像することができない範囲に
凡(あら)ゆる方面から吾々を導いて、
幸福ならしめる様に計画していられるのである。
「 わが業は吾がなすに非ず、
天地を貫きて生くる み親の力 」 であるのである。
・・・
(2)《物質は観念の影である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
人間の有限観をすてなければならない。
人間を「 霊的実在 」だと知らなければならないのである。
病的観念を投影すれば、病体となってあらわれ、
健康の観念を投影すれば健康体となってあらわれるのである。
・・・
(3)《戰後の日本の靑少年教育》
生命の尊重が戰後の教育に於て忘れられてゐるといふのは
戰後の日本の教育はおおむね、日教組の支配下にあつて、
唯物論教育が行なはれてゐる事であります。
ここでいふ唯物論教育といふのはマルクスの辨證法的唯物論を
根據とする教育であつて、世界革命を目標又は使命とするものでありまして、
「精神といふものは物質のはたらきの最高の産物である」
「世界の歴史は物質が運動する――その物質の法則に從つて必然的に
その運動方向が規定せられて、
結局は資本主義經濟組織の國家は崩壊して社會主義國家になる」
このやうな所謂る「唯物史觀」と稱するものを、一種の信仰とする信徒
(教育の使命は革命の為の有能なる働き手となるやうな靑少年を
育成する事にある――日教組の”教師の倫理綱領”)によつて
日本の靑少年は教育されて、もう二十數年にならうとしてゐるのである。
・・・
(4)《勝利感と生き甲斐の源泉は何か》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
一つでも、その”困難”を征服し得たということは”包み”を破って、
内在実相の”無限力 ”が一歩一歩一層多く顕現し得たことであるから、
自己の「実相隠蔽」を克服したことに勝利 感を感ずるのである。
そして自己の「実相」が 一歩でも現象の世界に一層多く
顕現し得たことに生き甲斐を感ずるのである。
・・・
(5)《素手で人間はライオンに勝てるか》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
人間が銃や、投げ縄や、其の他の捕獲武器をもって象やライオンに打ち克った
からとて、人間が象やライオンよりもすぐれていると言い得るであろうか。
それは武器がライオンや象にすぐれていたのであって、
人間そのものがライオンや象よりもすぐれているのではない。
人間と象やライオンとが力の上でどちらがすぐれているかを定めるのは、
どちらも素手をもって公平に試合すべきでないだろうか。
肉体の力のすぐれていることを奨励するために、多くの体育館がつくられ、
体育競技が度々行なわれ、驚くべき多額の費用を使ってオリンピックが
開催されるが、それが現代の人間生活の注目の焦点になっているようだが、
その注目の焦点は、真の人間の重要点からちょいとずれていないであろうか。
われわれは皆さんと一緒にこの事を考えてみたいのである。
<感謝合掌 令和7年6月2日 頓首再拝>
【三日の法語(6月3日)】 - 伝統
2025/06/03 (Tue) 05:02:10
(1)《今日一日かぎりの生命(いのち)と思えよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
毎朝起きた時に、
今日一日きりの生命であると思いて生活せよ。
明日はないのである。
どんなことでも 今日一日と思えば
出来ないことはないのである。
・・・
(2)《常に自己を霊的実在なりと観ぜよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
常に自己を霊的実在だと信じている者には病気はないのである。
従って 吾らが本当に常住健康の生活を送るためには、
自己を物質と見る五官の眼(め)を瞑(と)じて、
自己の全身を霊的実在であると観ずる神想観の如(ごと)き修行を
1日1回以上修することが必要である。
・・・
(3)《現代日本の教育に生命尊重の根據はあるか》
このやうな唯物論教育がどうして少年の事故死や自殺につながるかといふと、
『生命』が、物質の所産であり、意識とか精神とか心とかいふものは
腦髄といふ物質の所産であるといふことを、その幼い子供の頭に植ゑ付ける
ものであるから、物質といふものには神聖性もなければ尊嚴性もない
一種の瓦落多に過ぎないのであります。
そのガラクタでも、その物質で出來た肉體といふものが、
感覚的刺戟によつて一種の刺戟や恍惚感を味はへてゐる間は、
無我夢中に生きてゐて、自分の生命の本源のことなど考へないのですけれども、
何か問題に面して躓く、たとへば入學試験に滑つて失望落膽したとか、
親に小つ酷く叱られたとかいふ時には、感覚的刺戟で、自分の「存在の根源」を
胡魔化している譯には行かない
――その時に彼は人間とは何であるか、何のために生きているのかと考えだす。
そして日頃、學校で教へられてゐる「兩親といふ物質體」のセックス的反應の
結果生れたる何ら生き甲斐もなく、神聖性もない物質で出來た「一個の複合體」に
過ぎないのが”自分自身”だと憶ひ出す。
そして”意識”とか”心”とかいふものは、その物質が複雑精緻に複合した
結果生じるところの一種の化學作用であり、その”心”が斯うして惱むことから
逃れるためには、腦髄を中心とするこの物質の複合體なる肉體を
破壞さへすればよいのであるといふので自己破壊が行なはれる。
それが自殺につながり、ヤケクソに疾走する速力の快感や冬山の氷壁と戰ふ
スリルを味はうことによつて感覺的に自分を胡麻化さうとする
――それが事故死につながることになるのである。
唯物論的人間を學校で生徒に教へている限りは
『生命の尊重』の根據はないのである。
・・・
(4)《「我れ世に勝てり」》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
(イエスのゲッセマネでの祈りにて)
肉体的自我を放棄し、その”世俗的願い”に打ち勝ち、
人類の罪の身代わりとなる崇高なる魂の 願いに身を捧げる決意が
できたとき、彼は”世 俗的願い”に打ち勝ったのである。
そこに真の 生き甲斐を感じ、
彼は「我れ世に勝てり」と宣言したのである。
・・・
(5)《武器が英雄であって、人間は英雄でなかった》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
素手で正面から立ち向かったら、到底あいつには敵わないというので、
日本刀で闇討ちしたり、ライフル銃で狙撃したりして相手に勝ったら
その勝った人を吾々は「素晴らしい」と言って称めるであろうか。
“金”が英雄気取りで威張っていたのは“金”そのものが英雄だった
のではなくて、ライフル銃や、ダイナマイトが英雄だった訳である。
もう一ぺん、人間の高貴さとか、人間のすぐれているところとかは、
何処にあるかを吾々は考え直して見なければならない。
<感謝合掌 令和7年6月3日 頓首再拝>
【四日の法語(6月4日)】 - 伝統
2025/06/04 (Wed) 02:04:02
(1)《祈りによって「 神の力 」をわがものとせよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
イエスの生活は
間断なき祈りの生活であったのである。
彼は祈りによって 神にふりむき、
神から無限の力を汲(く)み出して来る所の方法を
知っていたのである。
だから 彼は無数の奇跡をなし得たのであり
「 吾と父とは一体なり 」 といっているのである。
・・・
(2)《「 物質 」 の概念から脱け出すべし》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
すべての不幸を癒(いや)し、病気を癒すための祈りの根本は
「 神はすべてのすべて 」と云う真理である。
そして「 神は霊的実在であるから、すべては霊的実在であり、
物質はない 」と云う真理である。
「 物質 」と云う「 固定概念 」から抜け出すことが
不幸から脱却する根本条件である。
・・・
(3)《物質とレジャーの豊富の中の貧困》
明治神宮崇敬會で發行されてゐる雑誌に『代々木』といふのがある。
それは明治神宮の祭祀されてゐる聖地が”代々木の杜”であるからであらうが、
薄葉の雑誌であるが、良い事が書かれてゐる。
この三月號の巻頭に明治天皇の御製と昭憲皇太后の御歌とが一首づつ竝られてゐて、
その下に全日本弓道連盟の會長樋口實氏の隨想が載つてゐる。
樋口氏は次のやうに言つてゐられる。――
「終戰後やがて三十年になろうとしています。
戰前戰後の困難であった頃に比べますと、物資は豊かに表面は華やかになり、
日本人は今平和ムードに浸っています。
そしてスピードとレジャーが現代人の重要な生活条件であるかのように
考えられてはいないでしょうか。
もしそうだとすれば、それは人間の基本的生活から考えて、
誤った錯覚に陥っているのではないかと思います」
このスピードとレジャーで肉體の感覺を樂しませることによつて、
人間とは何ぞやの根本的問題から逃避させて人間を盲的衝動的に走らせよう
とするのが、唯物論的教育の結果なのである。
恰度いま机上に來た新聞を見ると、
「政府はレジャー産業を推進する」といふ記事や
「總評、中立勞連などでつくつてゐる春闘共闘委員會では三月二十九日、
四月五日に續き、十日全國一齊に第三波統一ストに入る」そして
「全電通勞組が、初めて”電波作戰”も含む春闘スト準備指令を出して
テレビ傳送部門もストに入るので、テレビ放映が流れたり、NHK番組に
民放のCMが飛び出すハプニングもある」といふやうな記事が出てゐる。
・・・
(4)《世俗的な自己評価に雷同するな》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
「われ世に勝てり」とは、
外界の物質世界を征服することではないのである。
自己の内にある 「世俗的な自己評価」に打ち勝つことなのである。
自己を”神の子”と自覚することは、
今これが「自分の肉体的力」の極限だという自己限定を打ち破って、
常に自己に出来るだけ以上の事を成すという理想目標をおいて、
毎日一歩でも より多く前進し、進歩することなのである。
・・・
(5)《武器の強さを人間の強さと混同してはならない》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
アメリカが原子爆弾を広島や長崎に投下して、日本を屈服せしめた。
アメリカは戦勝国であり、日本は戦敗国であるから、
日本人はアメリカ人より劣っていると考えたら、これは大間違いだ。
アメリカ人が日本人に打ち勝ったのではなく、
原子爆弾が日本人の多くの命を奪う破壊力を発揮しただけであって、
原子爆弾を抜きにしたらアメリカ人は、
ライフルを奪われた朝鮮人金嬉老と同じように、
人間として優れているという証拠はない。
<感謝合掌 令和7年6月4日 頓首再拝>
【五日の法語(6月5日)】 - 伝統
2025/06/05 (Thu) 05:02:55
(1)《神との一体を自覚せよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
神は常に吾とともにあり、
吾を力づけ、吾に必要なものを与え、
弱きをはげまして、勇気を与え給い、
凡ゆるものを豊かに恵み給うているのである。
神は吾々の生命の源泉であり、
智慧の源泉であり、愛の源泉であり、
力と勇気の源泉であり給うのである。
・・・
(2)《如何(いか)なる微生物も人間を侵(おか)さない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
神はすべてである。
愛とは「 自他一体 」の自覚であるから、
「 全体渾一(ひとつ)」であると云うことは、
すべては、「 絶対体 」そのものであると云うことである。
即ち 全体は 神の絶対愛の自己表現であるから、
微生物病源体が人間を侵すような
不完全さはないと云うことである。
・・・
(3)《唯物論の横行する末法無法の世界》
以上の有様が唯物論の世界である。
唯物論の世界には肉體の快樂追及慾と物質的所有慾の他に何もない。
”思ひやり”とか”愛”とかいふものは物質の世界にはないのである。
利欲と自分の肉體快樂の欲望を滿たすためには人の迷惑など考へる余地はない。
それが到る所に公害を撒き散らす産業ともなり、
國民の交通を妨害するストライキともなるのであり、
そのやうな國民の煩惱に媚びるのが所謂る民主政治であつて、
レジャー産業をもつともつとさかんにして
國家の富の無駄遣いを奬勵してゐるのである。
樋口實氏はこれについて、
「本質的なものを忘れて、
それだけを偏重することは危険この上もない事と信じます。
若しこれに由って人間の心が上ずったり、苛だったりする習慣が生れるならば、
それはあたかも水面に漂う浮草のようなもので、たとえ根があっても
そのまま押し流されて、いつの日にか安住の場を見出す事が出来るでしょうか」
といつてゐられる。
誠にレジャーと富裕の中で人間は人間でなくなつて、
餓鬼の如く、あるが上に饑渇の感じを斷つことができず、
阿修羅のやうに常に闘爭を續けるほかなく、
畜生のやうに肉體の快樂のためには性の亂行をほしいままにし、
地獄の鬼のやうに相手を”惡い”といつて責めさいなむことばかりを
續けてゐるのである。
まことに釋尊の豫言の如き末法の世となりにけるかな。
・・・
(4)《困難は実相内在の美を磨き出す研磨機である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
困難は、自己に内在する力を、平常普段の生活以上に
発揮させてくれる”呼び水”になるも のである。
それだから”困難”の来る毎に、
その”困難”と、そして、その困難を与え給うた神とに感謝せよ。
困難という研磨機を通して、わたし達の魂に内在する貴き光が、
一層多く燦然と輝き出すことになるのである。
・・・
(5)《狼の真似をしても高貴なことはない》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
人間は武器を造って、その破壊力や殺傷力を利用して、他の生物を征服した。
象もライオンも狼も、人間のつくった武器の前にはひれ伏した。
そこで人間は人間同士の間で、武器を使って
他の人間を征服することを始めたのである。
しかし、それは狼の真似みたいなことであって、そんな行動の何処にも
人間の高貴さというようなものは発見できないのである。
われわれはもう一度人間の高貴さというものは何処にあるかを考えてみて、
人間らしい高貴な生き方をしてみたいものである。
<感謝合掌 令和7年6月5日 頓首再拝>
【六日の法語(6月6日)】 - 伝統
2025/06/06 (Fri) 04:55:18
(1)《遮二無二 頑張る心を捨てよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
遮二無二 頑張る心を捨てよ。
安らかに落ち着くべし。
力を抜き 唯(ただ)そのままに
横たわるのである。
そして 静かに 神の癒やす力 吾に流れ入りつつあると
心に念じながら静かに呼吸せよ。
鼻より静かに息を吸い
臍下丹田(せいかたんでん)にいたらしめ
胸をくつろげて 胸の全部に神の生命を流れ入らしめ、
「 神の生命 今 吾に流れ入りて 吾がすべてを癒し給う 」 と念じて
静かに迷いを吐きだす如く息を吐くのである。
・・・
(2)《利己を捨てたとき全体の生命が「自己」にあらわれる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
全体は一つであるから、全個(ぜんこ)であって他個(たこ)はない。
他個はないから自個(じこ)もないのである。
神の栄えを個身(わがみ)にあらわすためには、
自個がなくならなければならぬ。
・・・
(3)《天皇の御歌(みうた)にあらはれたる實相の澄み切り世界を觀る》
しかし『代々木』誌の第一頁を飾る明治天皇の御製の淸らかさは
私の胸を打ち魂を淨めて下さるのである。――
澄めるもの昇りてなりし大空にむかふ心も
淸くぞありける
何といふ淸らかな世界であり、淸らかな人心であらうぞ。
これは澄み切つた實相の大空をもうたはれた御製である。
心淨らかであられる人でないと、このやうな清淨な實相を詠みあげた
御製をつくることはできないのである。
作品にはその人の魂があらはれる。
維摩経には「菩薩心淨ければ佛土淨し」とある。
明治陛下の多くの御製のうちで、この歌一首を選んで、
第一頁を飾つた『代々木』の編集者も屹度、
淸淨な實相を見る心を持つ人にちがひない。
・・・
(4)《運命は課せられた労役ではない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
”運命の 原点”は”自分の心”にあるのである。
”心” が運命の原点である。
”運命の原点”である”自分の心”が明るく 輝けば、
明るい運命が自分に向ってやって来る のである。
何よりも大切なのは”自分の心”を明るくす ることである。
・・・
(5)《殺傷力の偉大さは名誉ではない》
殺傷力の強さによって、その国又はその人の偉大さだ
と思われる時代は過ぎ去ったのである。
殺傷力の偉大さを人間が恥じる時代が近付きつつあるのである。
原子兵器を使うことをソ連もアメリカも遠慮しているのは、
それを使うならば、人類に不徳であるとして批難されるし、
みずからもその行為を恥じるからなのである。
<感謝合掌 令和7年6月6日 頓首再拝>
【七日の法語(6月7日)】 - 伝統
2025/06/07 (Sat) 05:02:43
(1)《神からのがれる処(ところ)はない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
神は到る処にいますのであるから、神はここに見よ、
彼処(かしこ)に見よ、というが如くには い給わないのである。
今ここに神がい給う。
わが内に神がましまして、
神の方へ振り向くのをまって い給うのに、
他(ほか)の助けの方へ振り向く必要はない。
・・・
(2)《願い反対する錯綜(さくそう)した思いを起すな》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
すべて心に願うこと、思うことは祈りである。
吾々の願い望みの一点一画と雖(いえど)も
神に達しないものは有り得ないのである。
願いの成就しないのは、神が成就せしめ給わないのではなく、
自分が自分で自分の願いを否定しているのである。
・・・
(3)《内に宿る實相を觀給ふ御歌》
『代々木』誌の編集者が選んだもう一つの御歌は
昭憲皇太后の次のやうな御歌である。
みがかれてひかりいでたる玉みれば
人のこころにひとしかりけり
これも人間の心の清淨な實相をじつと見つめてゐられる人でないと
詠むことのできない御歌である。
全ての人間は”神の子”として玲瓏玉の如き
澄み切つた清淨な魂が宿つてゐるのである。
しかしそれは宿つてゐるけれども實相を觀る心の内には見えないで、
表面のアラ探しをして憎しみ合ひ、爭ひ合い、
互に惡口雑言して苦しめ合ふのである。
しかし實相圓滿清淨の「人間・神の子」の魂は
すべての人に宿つてゐるのである。
今皇太后陛下の眼の前に光輝燦然と輝く”玉”が置かれてゐるが、
これを見るにつけても、此の寶石もそれが原石である間は、
その光が埋もれてゐて見えなかつたが、
磨くに從つてこのやうな光輝を發するのである。
それと同じく人間の魂に宿つてゐる
”神の子”の實相も磨くに從つて輝きを發するのであるから
われわれも常に反省して自己の魂を磨くやうにしなければならない
といふ深い脚下照顧の御心があらはれてゐるお歌である。
・・・
(4)《”心”を光明面に向くよう切り換えよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
自分の”心”が暗黒の方向へ向いているか、
光明の方向へ向いているか、自分の心を顧みなさい。
「諸君よ、必ず諸君の心の中に”光明”のみを 描け、
必ず諸君の心の中に成功のみを描け。
心 に描くことは、心の世界に種子を蒔いたことになるのです。」
・・・
(5)《人間の不幸の原因について》
人間の偉大さは肉体の力の分量によって量られるのではなく、
知識の偉大さにあるという人もある。
人間は肉体の力では猛獣に劣るのである。
それで、素手と素手とで公正に闘うことを止めて卑怯にも
素手の猛獣に対して武器をもって立会うことにしたのである。
それが人間があらゆる生物を支配し得た原因である。
卑怯にもといったのは多少皮肉な表現であるが、猛獣から観たら、
人間は確かに”卑怯”のように見えるに違いないのである。
「いや、それは卑怯ではない。人間は知能が発達したために他の生物に
すぐれて地上の帝王となったのであって、知識の進歩こそ人類の特徴である」
と反論することもできる。
その反論は正しいと思うが、その知識の発達によって、
武器を発明して他の生物を攻撃し支配することを覚えた。
ここに人間の不幸の原因があるともいえる。
その理由を考えてみよう。
<感謝合掌 令和7年6月7日 頓首再拝>
【八日の法語(6月8日)】 - 伝統
2025/06/08 (Sun) 04:54:24
(1)《祈っても 「 結果 」 をつかんではならぬ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
吾々はまず求めなければならない、
「 求めよ、さらば与えられん 」 である。
然(しか)し求めた後には
心を放って神に全托することが必要である。
・・・
(2)《何のために貴方(あなた)は祈るか》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
吾々は祈りの目的を反省して見ることが必要である。
神の栄えをあらわし、
多くの神の子(人類)を幸福にせんがための祈りが、
神に祝福せられないと云うことは有り得ないのである。
・・・
(3)《萬物は皆、神の生命の兄弟姉妹である》
人間のうちには”神”が宿つてゐるのである。
”神”は普遍的な大生命として一切萬物のうちに宿つてをり、
それを生かしてゐられるのである。
一切萬物の生命は、それゆゑに、個々別々に孤立してゐる
存在ではなく互ひに連關をもつてゐるのである。
人間の排泄物を植物は栄養素として呼吸を通し同化作用を營みて
吸収したり、土壌中の肥料成分として吸収したりして、
それを再び空気中の酸素や穀物や果實や食用の葉菜として人間に還元してくれ、
それらの還元物質を人間は再び、呼吸を通して攝取して
植物に適する成分として送り返すのである。
かくして完全循環が行なはれる時公害などは起らないのである。
現在、叫ばれてゐる公害といふのは、人間が植物から攝取したものを、
植物に適する自然の形に還元して返してやらず「愚かなる人智」をもつて
加工して使つた後は、唯”使ひ捨て”にしてしまふからである。
・・・
(4)《”心”を「幸福行」の電車に乗り 換えよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
さて、『愛と光との生活』の本には
「皆さんが幸福な成功をしようと思ったら、
手足を無暗に動かすまでに、心の向きを”幸福 行”にして
置かなければなりません」と書かれている。
手足は自分で行き先の方向をきめず、
”心”がその方向を定(き)めるのであるからである。
・・・
(5)《知識の果(み)を食して》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
エデンの楽園に争いもなき幸福生活を営んでいたアダムとイブとが、
その楽園から追放せられた原因は彼らが禁ぜられていた食物
「知識の樹の果」を食べたからである。
普通これは「智慧の樹の果」と訳されているけれども、英語を見ると、
智恵(wisdom)ではなく、知識(knowledge)の果である。
換言すれば、科学的知識の結果を食したのである。
そのために人類の象徴であるアダムとイブとはエデンの楽園から
追放されたのである。
今でも、科学的知識の結果が人類を不幸に陥れている事は
交通事故で毎年一万数千人の死者と数十万人の負傷者を出している
日本の現状も正にエデンの楽園からの追放である。
諸々の公害ことごとく「知識の樹の果」を食した結果である。
<感謝合掌 令和7年6月8日 頓首再拝>
【九日の法語(6月9日)】 - 伝統
2025/06/09 (Mon) 05:02:32
(1)《祈った後は 事柄を心から放って全托せよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
自分の周囲を如何に暗黒が とりまこうとも、
心を平和にし、静かに神に祈りて後 完全に全托すれば、
よき結果が得られないということはないのである。
恐怖と焦燥の観念を心よりとり去れ。
吾々は唯(ただ)神に全托すればいいのであるが
・・・
(2)《神に対する讃美(さんび)と感謝》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
神を讃美する言葉や、神に感謝する言葉は、
人間の心を動かして、神の既に与え給うていられる
恵福(めぐみ)に対して、受信しやすい「心の波」を
作ることになるのである。
恵みの波の受信に必要なる 自分の心の波を調律する方法が
讃美と感謝とである。
・・・
(3)《勞使の關係が調和しないのは》
”愛”とは”使ひ棄てにしない心”である。
勞使の間が常に滿足な愛情の關係にあらずして
互ひに闘爭の構へを持つて對峙してゐるのは、
企業側が雇傭者を” 使ひ棄て”にする心をもつてゐるからである。
本當に愛があつたら、
互ひに相手の爲になるやうに盡し合ふ事に
生き甲斐が感じられるはずである。
・・・
(4)《”心”が先か ”コトバ”が先か》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
”心”を支配するものは ”コトバ”なのである。
聖書の『ヨハネ伝』には「はじめにコトバあり、
コトバは神とともに在り、コトバは神なりき。
万のものこれによりて成り、成りたるもの一つとして之(これ)に
よりて成らざるものなし」と示されている のである。
・・・
(5)《青年は宜しく魂の純潔の価値を追え》
人間の高さは身長によって測らるべきではない。
魂の高さによって測らるべきものである。
戦後に於ける現代の弊は、魂の高さを見る眼を失って、
物質の量によってその価値を量ろうとすることにある。
動機の純粋と無我神聖の魂の高さによって、特攻隊の勇士の“死”の価値を
量ろうとしないで、敗戦という結果によってその“死”の価値をはかって
”犬死”だなどと不謹慎なる語を発する愚か者もある。
物質の富を追い求めて東西に奔走しながら死に臨んで、
魂に、何の純粋さも持たず、その追い求めた富すらも冥途へ持って
行くことが出来ない者こそ本当に犬死ではないか。
青年は宜しく魂の価値を求めて、
純粋に理想を追って行動しなければならない。
<感謝合掌 令和7年6月9日 頓首再拝>
【十日の法語(6月10日)】 - 伝統
2025/06/10 (Tue) 05:02:11
(1)《吾は愛の言葉のみを語る》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
吾は 今よりよき言葉、深切の言葉、美しき言葉のみを口にする。
今日一日は幸福の日である。
神が造った日に悪い日などはないのだ。
吾は今日、感謝と愛語と讚歎とのみに生きる。
・・・
(2)《既にある善き霊波を捉えよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
祈りの成就する根本には、既に神の「恵福(めぐみ)」の放送
(霊波が遍在する)があると云うことである。
先ず善き事を実現するには、
善き事のみを心に思うようにしなければならない。
・・・
(3)《なぜ勞働者は企業側に敵對するか》
「何のために會社の廊下を私が拭かなければならないのか」と、
ある會社の社員は歎いたといふのである。
また「何のためにわたしは會社のお客様にお茶を搬ばねばならないのか」
と女事務員は歎いたといふ。
かういふ社員や女事務員は會社に対しても、
お客様に対しても愛がないのである。
資本主義の世界は金で人の勞働を買ふ制度の世界であるから、
この制度の中に組み込まれると、全ての勞働が”愛による奉仕”ではなく、
金で自分の生命エネルギーを買はれるのであるから、一種の奴隷である
――これは、意識してゐると、ゐないとに拘はらず、
潜在意識の奥底には奴隷として『買はれたる生命』に自己侮蔑を感じ、
その反動として企業者側に反感を感ずるのである。
そこに勞動運動の本質があるのである。
・・・
(4)《医師のコトバは患者の症状を左右する》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
わたしたちは第三者の不幸や病気を暗示するコトバに
左右されてはならないのである。他より来る暗黒のコトバを
防衛する方法を知っておかなければならない。
・・・
(5)《人間の深さと、人格の高さ》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
皮膚一枚の感覚の快さや、粘膜一枚の快楽を追うような
皮層な生活を送ってはならないのである。
人間はもっと深いところに悦びを求めなければならない。
深いというのは物質的な深さではない。
精神的な深さであり、心霊的な深さである。
それは愛と叡智との世界である。
自分の物質的な損得は考えずに人を愛する知恵の生活である。
人格の高さと言うのは、その人がどれだけ三次元的低次の生活から超越して、
霊的次元の世界に生きているかという事によって量られるのである。
<感謝合掌 令和7年6月10日 頓首再拝>
【十一日の法語(6月11日)】 - 伝統
2025/06/11 (Wed) 05:02:36
(1)《吾は太陽の日を生きる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
吾は今日太陽の日を歩むのである。
それは輝く喜びの日である。
吾は輝く太陽の子である。
吾は神とともに心あかるく平和である。
常に今、吾は完全であり、
幸福に満たされているのである。
吾は光である。
吾は太陽の子である。
・・・
(2)《ただ美点のみ見る》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
今日、自分は決して悪しき事を考えないのである。
人の美点のみを見るのである。
美点を見る心は美点のみを引き寄せることを知るからである。
神の智慧は、美点を見る心に引き寄せられて、
吾が行く道を照らし給うのである。
神の愛は、美点を見る心に引き寄せられて、
すべての人々の感情に柔ぎと調和とを与えたまうのである。
・・・
(3)《奴隷としての屈辱感から來る闘爭》
賃上げ闘爭が永久的に停止する事が出來ずに年々エスカレートしていくのは、
賃金即ち「自分の生命が買ひ上げられる値段」を幾らつり上げて貰つても、
奴隷として買はれているといふ潜在意識内に埋没している屈辱感は
減るものではないから、
その屈辱意識から起こるところの抵抗から、
企業側に対して更に戰ひを挑むのが彼らの定期闘爭の本質である。
だから、いくら賃上げしても毎年その闘爭はエスカレートして停止する
ところを知らないことが當然であるのである。
・・・
(4)《"心”はコトバと顕れて生理作用 を変化させる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
(第三者たる医師のコトバに左右されず 、健康になるには)
この場合は「自分の心」が先ず決意して
「私は神の子である。病気はないのだ」という明るいコトバを
心の中で発し、常に繰返し念ずるのである。
即ち、「心 動き出でてコトバと成れば一切の現象展開して万物なる」
と示されている『甘露の法雨』の聖句の順序に従って、
”心”先ず動いてそれ以後の現象が展開することに成っているのである。
・・・
(5)《魂の高さは破壊することができない》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
肉体は破壊することはできるけれども、
魂の高さは破壊することができないのである。
日本国家の理想とは何であるか。
それは「宇宙の理想」と一つのものである。
「宇宙の理想」とは釈尊の説く金波羅華の世界であり、
キリストの祈りである「みこころの天に成れる世界」である。
日本国を”侵略国”と誣(し)いる者は何者ぞ。去れ!!
日本国は世界の救世主たる使命を帯ぶ。
<感謝合掌 令和7年6月11日 頓首再拝>
【十二日の法語(6月12日)】 - 伝統
2025/06/12 (Thu) 04:55:48
(1)《吾は愛そのものである》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
神は愛である。
吾が内に神の愛が宿っているのである。
吾は今この愛の賜物(たまもの)を神より受けて
惜しみなく他の人に愛をわたすのである。
吾は愛そのものである。
・・・
(2)《すべての不快なる人を赦(ゆる)せよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
若(も)し誰かに腹の立つこと不快な思いを抱いたことがあったならば、
今直(す)ぐに其の人に愛念をお送りなさい。
「われ生長の家の神に於いて、汝(なんじ)をゆるし、汝に念波を送る。
私は貴方(あなた)を愛しています」と
強く強く繰り返し繰り返しお念じなさい。
・・・
(3)《奴隷精神の抵抗運動としての定期闘爭》
(前半略)https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8296074
現段階のややもすれば暴動化さうとする勞働運動は、大衆が貧困で窮乏化したために
暴動を起してそこに革命が起るといふやうな經濟的原因を主とした革命理論では
説明できない病理的現象であるといふ意味だと思ふ。
そのやうな病理的現象が起るのは、「金で買はれた自分の生命」といふ
潜在的劣等感から起るところの抵抗運動であり、奴隷的劣等感がその勞働又は
勤務に對して拂拭されない限り永久につづくものと觀測せられる。
・・・
(4)《凡夫は三業に翻転せられて止まる所を知らず》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
コトバは「心のエ ネルギー」の上に乗ったアイディアの展開である。
”心”は動き出でてコトバとなり、
その「コトバの力」によって万物は展開してあらわれる。
その万物を見て”心”が動く。
かくて再びコ トバが生じ、コトバによって万物が生じ、
その万物を見て”心”が動く、永遠に循環展伝して
繰返して止まるところを知らないのである。
・・・
(5)《愛は天上のものである、物質界を越える》
NHKテレビ番組で三月末まで好評を博していた「旅路」の中に
出て来る岡本良平と言う汽車の機関士がある。
彼は真から汽車を愛した。
そして北海道に住んでいた彼は北海道に特急列車が走るようになることを
恰も自分の子供が出世することのように楽しみにしていたのである。
やがて列車の動力資源として石炭は斜陽になりディーゼル油が使われる
前途が見えて来たので、北海道の鉄道局で古参の機関士にディーゼル機関の
構造や操縦法の講習を受けさせることになったのである。
ところが彼はその受講を断ったのである。
妻が受講をすすめても、先輩がそれを勧めても、頑として応じなかった。
先輩がその時、岡本良平に、「北海道に愈々特急が走る時期が近づいたよ。
君はその特急第一号に乗りたいと言っていたが、その特急車は
ディーゼル機関車だよ。汽車は段々時代遅れになって、
もう間もなくレールの上を走らなくなる」といった。
その時、良平は「今まで、さんざ働いた揚句、古くなって価値がなくなった
からと言って棄ててしまう。わしはそんな薄情な気持にはなれないんだ。
わしは汽車を愛しているんだ。
世間から棄てられ忘れられて行く汽車の事を思うと、最後の一台になる迄、
その蒸気機関車を看戌(みまも)ってやりたいんだ」という意味で答えている。
こんな岡本良平は”縦横厚み”の三次元世界での損得の世界を、
”愛”の故に、越えたのである。
愛は天上のものである。
それは物質界に属しない。
物質界の損得を越えるのである。
<感謝合掌 令和7年6月12日 頓首再拝>
【十三日の法語(6月13日)】 - 伝統
2025/06/13 (Fri) 05:02:50
(1)《愛は最も強力なる力である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
吾が内に宿る愛を生きる時、
吾は全世界で一番強き強者となるのである。
愛はもっとも強き力である。
愛は天下無敵である。
・・・
(2)《愛は真に征服する力である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
愛は全世界を真に征服するのである。
愛が報いを得なかったことは一度もない。
愛することの快さ ー それ自身が既に報いでもある。
愛は愛する人を呼び、繁栄を招び、健康を来すのである。
・・・
(3)《”働く”といふことが神聖だといふ理由》
しかしながら働くといふ事が果して奴隷になることだらうか。
それは”労働”を商品として、賣り、その代價を賃金又は給料として
受け取る形式をとるところの資本主義經濟組織が、
働く人の心に與へる暗示によつて醸されたる錯覺なのである。
働きの實質といふものは、
「側(はた)を樂にしてあげるところの布施行である」と語呂をもじつて
誰かが説明したやうに、
人類ぜんたいは、それぞれの人々が、それぞれの個性を發揮しながら、
それぞれの場所に於て働いて創造したところの成果が、
互ひに生かし合ひ扶け合ひながら、何らかの関連を持つて人類全體の生活に、
ひとつの全體として生き、且つ向上し、進歩しつつあるのであつて自分だけが
”奴隷”になつて、誰か狡い奴の下積みになつて、鎖につながれたやうに
抜け出す事も出來ないで苦しんでゐるのではないのである。
そしてその”一つの全體者”といふのが”神”であり、
その”神”の顕現としての”神の子”の集團がすなわち人類であり、
それは神聖なるものであり、その神聖なもののために事(つか)へる事が
”働く”といふ事であり、
それ故に”働く”といふことは神聖なる”神の子”の營みであるのである。
・・・
(4)《善業つねに循環す》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
業というものには善業もあり悪業もあるのである。
善業の展開として生じたる幸福や健康や繁栄を見て、
心が幸福や健康や繁栄を心に描く。
心に描かれたこのが、また具象化するという法則に従って、
運の好い人はいつまでも好運にめぐまれ、
その好運が常につき添って幸福な生活が自然に送られて来るように
なるのである。
・・・
(5)《真の愛国心について》
(全文は)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
(抜粋として)
本当の愛は、魂と魂との触れ合いである。
生命と生命の触れ合いである。
日本国を愛するとは、自分の魂と、国の魂の触れ合いによって、
本来”国そのものの魂”と”個人たる自己の魂”との自己同一の自覚である。
これこそが本当の愛国心である。
国家は生命体であり、国家のいのちがあり、伝統ある個性があるのである。
国家のいのち、そしてその伝統ある個性美の特徴を守り続け、
そしてそれをその個性の方向に一層伸ばして行くことこそ、
国家のいのちと一心同体である国民の使命であり、
その使命に邁進せんとする国民の意志こそ愛国心なのである。
<感謝合掌 令和7年6月13日 頓首再拝>
【十四日の法語(6月14日)】 - 伝統
2025/06/14 (Sat) 04:55:24
(1)《自分の心通りのものが引き寄せられる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
もし悪しきものが目の前に現れて来た時には、
それは自分の心の中に
それらをひきよせる心の波があるからだと知れ。
現象の悪しき姿にとらわれて、
それを払いのけようとして
心にその 「 悪しきもの 」 を描く限り
「 悪しきもの 」 は去らないのである。
神を思いおこせ。
「 み業は神がなし給う 」 と信じて
後は 神に任せきれ。
・・・
(2)《信念は万事を成就する》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
人は信ずる通りのものとなり、信ずる通りにその事業が成るのである。
信仰は勝利の第一の要素である。
「 神われと偕(とも)に在り 」と常に心の中(うち)で呟(つぶや)け。
それが重なる毎(ごと)に信仰は強くなり、
何事でも成就する智慧が湧き出て来るようになるのである。
・・・
(3)《一燈園の天香先生の徳を偲ぶ》
ちやうど私の机上に一燈園の機關紙『光』の三月號が載つてゐたので、
披ひてみると、第一頁に天香先生の”日記的隨想”であるところの
「天華香洞錄」の大正七年五月十九日のことばが「路頭の生活」と題して
載せられてゐる。――
受 一握りの米をいただかせて下さい。
洗 下の清潔をさせて下さい。
禮 一番下の坐、一畳をかしてもらひ、
そこで少時 御禮の祈りをさせて下さい。
報 何かにお用ひ下さい。
動 生産の事に働かせて下さい。
靜 大寂中に落ちつかせて下さい。
この願ひを唯讀むだけで、心が落ちついてくるのである。
天香先生の靜かなる平和の心、不諍の心が傳はつてくるからである。
・・・
(4)《あなたの生活を「幸福新幹線」 に乗りかえなさい》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
過去に悪業を積み重ねて来て、暗い現象を見、心が暗くなり、
心に暗いアイディアのみ が想い浮び、
そのアイディアの具象化として暗い運命、
不幸や災厄や病気のおとずれに見舞われ、その現象を見て、
更に心が暗くなって、暗い事のみ心に思い浮かぶような気の毒な人は、
「 幸福新幹線の電車」に乗り換えればよいのである。
・・・
(5)《釈尊の悟得せられた世界像》
釈尊が尼蓮禅河の畔の菩提樹下に結跏趺坐して悟りをひらかれた時、
釈尊は、すべての存在が、山も川も草も木も国土も悉く物質でない事を
感得せられたのであった。
この悟りが「山川草木国土悉皆成仏」という語で表現せられているのである。
この語の中には国家も単なる国土ではなく仏(宇宙の本体)のいのちの
現成であるという意味が含まれているのである。
<感謝合掌 令和7年6月14日 頓首再拝>
【十五日の法語(6月15日)】 - 伝統
2025/06/15 (Sun) 04:55:51
(1)《神の子に本来 経済難はない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
吾々は 今豊かにすでに与えられている恵みに
感謝することから始めればいいのである。
凡ゆるよきものを与えられている事を
数えあげて毎日感謝せよ。
「 豊かなる想念をおこせば豊かさが出現するのである 」 。
・・・
(2)《賞讚(しょうさん)の言葉を投げかけよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
人間は人から認められる時、全力を発揮して働くものである。
認めてあげることを惜しんではならない。
賞讚の言葉ほど
人間を勇気づけ、悦ばせ、元気づけるものはないのである。
・・・
(3)《團體脅喝の集團強盗を是認する現行憲法》
できるだけ多額の給料を貰ひたい、そのためには何百万人の交通の足を奪ひ、
乗客に非常な迷惑をかけ、中には乗客中に重輕傷者迄出すやうな暴行を伴ふ
脅喝をしながら、
「これでもか、これでもか、これでも、まだもつと金を出さぬか。
出さねばもつと國民を苦しめるぞ」と、
何の罪もない、責任もない國民を恰も人質にして苦しめ、
金を出させようとするのは脅喝であると同時に強盗的犯罪ではないか。
けれどもこの集團脅喝、集團強盗が、占領憲法に定められたる團體爭議権といふ
名のもとに行はれると、”順法闘爭”になるのだから、占領憲法といふものが、
どんなに日本人の精神を堕落させる本質を持つてゐるかといふことが判るのである。
この勞働運動家に比べれば、一燈園の天香先生の
「一握りの米をいただかせて下さい」
「下の清潔をさせて下さい」といふのは
何といふ謙虚な心であらうと感動させられるのである。
・・・
(4)《観の原点を「実相世界」に移すこと》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
「幸福新幹線」に乗り換えるというのは、 言葉はやさしいけれども、
一体、具体的に は、どうすればよいのであろうか。
今まで”五官の世界”(現象界)に立って、
現象界の暗い事象のみを眺めて来ていた其の「観の原点」を、
実相世界に移すのである。
其の万徳現前の世界を”観 る”のである。
”観る ”ことは、”既にある”も のを顕すことになるのである。
・・・
(5)《純粋世界は中心帰一の世界である》
”宇宙のいのち”即ち宇宙大生命が展開している
”純粋世界”が“実相世界”である。
”純粋世界”は物質でないから肉眼には見えないのである。
この“純粋世界”のことをキリストは”天”とか”天国”とか、
”神の国”とかいう語をもって語られた。
キリストが
「みくにを来らしめ給え、み心の”天”に成るが如く地にも成らせ給え」
と祈れと訓えられたのは、
この“純粋世界”の捨象として、純粋世界そのままの姿が、
”地”即ち現象世界に実現するように祈るように勧められたのである。
この純粋世界は、神の創造になる世界であり、
神の愛と叡智と生命力との展開せる世界であるから、
神が唯一の中心であり、すべての生物、すべての存在悉く、
秩序整然として一つの中心に帰一して、各々その天分に従って、
互いに扶け合い、大調和せる生かし合いの世界であるのである。
多元中心の世界の如きは、互いにその覇を争うために、
権力闘争の世界を展開して永久に平和の世界を実現することは
出来ないのである。
<感謝合掌 令和7年6月15日 頓首再拝>
【十六日の法語(6月16日)】 - 伝統
2025/06/16 (Mon) 05:02:35
(1)《与える者は与えられる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
吾々は多くのものをすでに与えられているのであるから、
賃金なしにお礼をする心で、
目の前にある所の人々のためになる仕事なら
何でも奉仕させてもらおうという気になって、
一枚の紙屑(かみくず)を片づける様なつまらないことからでも
奉仕の行事を始むべきである。
・・・
(2)《賢者は不調和な面を見ない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
この世界には、どんな混乱にも撹乱(かくらん)にも、
それに秩序と平和と健全さとを回復しようと云う
大いなる力が働いているのだと云う
宇宙的な摂理(神)が存在すると云うことを知らなければならない。
愚かなる者は、濁る方の現象を見て憂え、
賢者は一切を浄化する宇宙的な力に信頼して心は平和であるのである。
・・・
(3)《”生かされてゐる”といふこと》
天香先生の「一握りの米をいただかせて下さい」といふのは
決して卑屈に乞食の精神になることではないのである。
またそれは自分をコキ使ふ雇主に對して
あはれみを乞ひ願ふ言葉でもないのである。
それは自分の生命が何處より來つたものであるかの
深い自覺と反省とから來るものだと
私は解(さと)らせていただくのである。
つまり、それは、自分が此處に生きてゐるのは
自分の力で生きてゐるのではない、權利で生きてゐるのではない。
神の許しなくしては一羽の雀といへども生きることはできない。
況んや人間をや。
神に許されて私たちは生きてゐるのである――といふ深い自覺から出て来た
ところの「一握りの米をいただかせて下さい」といふ願ひである。
それは資本家に頼んでゐるのでもなく、
金持に頼んでゐるのでもないのである。
”神の子”が”神の樣樣”に対する對話である。
ここに生きてゐる生命は「自分が生きてゐる」のではない。
”神の生命”が今「自分」から引き去られたら
もう自分は生きてゐないのである。
自分の力で生きてゐるのではない。
生かされてゐるのである。
そのことが判ると、權利々々と傲慢な言葉は使へなくなる。
神に許されて生かされてゐるのである。
・・・
(4)《色受想行識の円環を完成すること》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
”色”は波動的存在で あり、波動を受けて感覚がそれを感ずる、
その”受けて感ずる”のが ”受”である。
受けて 感じて、それは何を意味するかを”想う”、
即ち感覚がアイディアとなり、想念となり、”行動”となる。
その全体を統合総攬す る”心”が”識”である。
この色受想行識の連環 を一円想に完結するとき、単に心の波動に
すぎなかったものが、現象界に具体をもって完成するのである。
・・・
(5)《華厳経に顕れたる日本国の実相》
釈尊が悟りを開かれて、宇宙の実相を其の儘に直感され、その宇宙の実相が、
蓮華の華の如く、中心に“実”があって、その実相が十六方向に開く
花弁の如く現象として展開していることを諄々として詳細に講説せられたのが、
所謂華厳経であって、その詳しい経題は“大方広仏華厳経”と称ぶのである。
”大方広仏”とは「無限大にあらゆる方向に広がっている如来のいのち“
という意味であって、英語でこれを表現すれば
Universal Buddahhood(普遍の仏性)である。
”仏”をキリスト教的に”神”の語をもってするならば
”大方広仏”というのは「遍在する神」である。
そこで大方広仏華厳経とは、“普遍の仏性”又は「遍在する神」の
生命の展開せる“純粋世界”は華厳即ち蓮華荘厳の世界である
という事が説かれている御経である。
この蓮華荘厳の世界は、その中心に蓮華日宝王地があって、その中心の王地に
依ってその存在が支えられていることが、華厳経の廬舎那仏品に
次のように書かれているのである。
『仏子よ、当(まさ)に知るべし、此の蓮華蔵世界海の金剛囲山は
蓮華日宝王地に依りて住せり』(『聖光録』286頁参照)
金剛囲山というのは、蓮華蔵世界の中央部にある須弥山を
取り巻いて八つの金剛の山脈があるのを指すのであって、
それらが依って安住しているのは日の大神の宝の王様の国土によって
支えられているからだというのである。
天照大御神の神勅の実現たる日本国が宇宙の中央にあって、
この宇宙の鉄骨ともいうべき金剛囲山を支えているのであって、
これが吾々が日本国を世界唯一の真理国家だという所以なのである。
<感謝合掌 令和7年6月16日 頓首再拝>
【十七日の法語(6月17日)】 - 伝統
2025/06/17 (Tue) 04:56:24
(1)《 萬物(ばんぶつ)ただ感謝あるのみ 》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
(抜粋として)
神さま ありがとうございます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
私はあなたの愛を、
青空をみても、
輝く日光をみても、
空気を吸うても、
梢(こずえ)の若葉をみても
感ずることができるのです。
神さま、私は凡(あら)ゆる所に
あなたの美しき智慧を感ずることができるのです。
空の星の動き、
罌粟(けし)の花の装い、
美しき藤の花。
神さま ありがとうございます。
・・・
(2)《信仰を深め、恐怖心をなくするには》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
「 神の愛 常にわれを取り巻きて護りたまい、
神の智慧 常にわれを導きたまいて
栄えの道に進ましめ給う」と
一日のうち数回静かに目を瞑(つぶ)って十数分念ずることは
信仰を深め、神との一体感を増大して恐怖心を去り、
よき智慧を招き寄せる力となるのである。
信仰は力であり、
信仰は絶えざる言葉の力によって増大して来るのである。
・・・
(3)《”生かされてゐる”といふ人の生き方》
”生きてゐる”といふ自覺と
”生かされてゐる”といふ自覺をくらべてみるならば、
”生きてゐる”といふのは”自分の力”で肩をいからして
小さい癖に虚勢を張つて傲慢な體裁で歩いてゐるやうな恰好である。
こんな人間が主として”權利””權利”と騒ぐのである。
”生かされてゐる”といふ自覚の人たちは、
そんなに肩をいからして風を切つて
傲慢に歩いてゐるやうな恰好では生きないのである。
謙遜にへりくだつて
「私の力で生きてゐるのではありません。
こんな私であるのに生きてゐるのは、神さまのお蔭でございます。
ありがとうございます。
報恩のために何でもさせて下さいませ」
といふ風に感謝の心に滿たされて生きるのである。
・・・
(4)《あなたに宿る”生命”は”神” である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
「諸君に宿っているところの生命力もおよそかくの如きものである。
生命がかくも執拗にたくましく、埋没されても、圧下されても、
滅びることを知らずに伸びることのみを知って退嬰しないのは
生命とは『神』であるからである」(『人生を前進する』 200頁)
・・・
(5)《本当の愛国心について》
華厳経の尊さは、そして絶対価値があるのは、
それが方便のための対機説法ではなく、悟りを開かれた真理を、
そのままズバッと開講せられた真理であるからである。
そしてその講話に、日本国を象徴する蓮華日宝王地によって、
その世界の骨組みともいうべき金剛囲山が支えられている事である。
もっともこれは大方広仏即ち”宇宙普遍の本体”たる如来の生命・
愛・智慧の展開としての”純粋世界”のことである。
肉眼で見える世界ではない。
即ち「御こころの天に成れる世界」のことなのである。
その世界を蓮華蔵世界海と”海”の接尾語がついているのは、
此の世界を海に譬えたのであって、海は表面(現象)は波立ち騒いで
始終遷り易るけれども、その深い底なる実相は不動にして
変化することが無いという事になぞらえたのである。
吾々は世界の表面の姿を見、「現象日本」の遷り変る有様を見て、
日本国に愛想をつかし「愛せられる日本国なら愛し得るけれども、
こんな醜い日本国は愛せられない」などと言って、
日本の実相の尊さを、とかく見失いがちであるけれども、
吾々は現象の浮動する波の姿を貫いて、その奥にある
「理念日本」の実相を見、それに礼し敬し愛し、その実相の
完全さを現実世界にあらわすように努力しなければならないのである。
本当の愛国心とは単に「郷土であるから好きで愛する」というような
単なる”身いびき”的なものではなく、真理として現象の奥にある
「理念日本」の荘厳さを愛しなければならないのである。
<感謝合掌 令和7年6月17日 頓首再拝>
【十八日の法語(6月18日)】 - 伝統
2025/06/18 (Wed) 06:21:33
(1)《適材適所が善である》
(全文は)
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(抜粋として)
正しき所に適当なるものを正しき様に置きさえすれば
今まで悪と見えていたものも善に変わってしまうのである。
適材適所が善である。
・・・
(2)《汝の内なる神を自覚せよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
(抜粋として)
あなたの内に神 住みたまう。
それを自覚するためには毎日、神想観をして
自分の「 実相 」が神の生命であることを諦視すること。
毎日、真理の書の一章を読むことである。
・・・
(3)《「我の置き換へ」について》
「生かされてゐる」
「お蔭さまでございます」
「ありがとうございます」
といふ生き方は“我“といふものがないのである。
“我“といふものがなくなつて、そこが眞空になつてしまつてゐるから、
その眞空の中に”神”が入つて來て生きてゐたまふのである。
それを「我の置き換へ」と生長の家では言つてゐる。
「如来今ここに生き給ふ」である。
パウロの「最早やわれ生くる非ず、キリスト我にあつて生き給ふ」のである。
我がゼロになり、極小になり切つてしまつた時に、
如來である眞我が”我”が絶滅して、そこが眞空になるのを機會に、
そこに顕現したまふのである。
・・・
(4)《ころぶたびに前進している》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
(抜粋として)
まことに人生は”七転び八起き”である。
現象はころんだように見えても、その人の魂はころんでいないで、
ころぶたびに前進している。
・・・
(5)《生長の家出現の使命について》
釈尊は成道第十四日目にはじめて自己の悟れる宇宙の真理実相が、
中心帰一の蓮華蔵世界であり、その中心に日宝王地が存在して、
それに依ってその存在が安定している事、恰も太陽系の中心に太陽と言う
中心があって太陽系全体の存在が安定しているが如く、
原子にはその中心に原子核と言う中心があってその存在が安定しているが
如くであるとして、日本国の存在を暗に示されたのであるけれども、
当時の印度人に、そのような象徴的謎が解ける筈もないので、
普賢菩薩ひとりにしか華厳経の深義を悟ることが出来なかったので、
華厳の真理はその後久しく説かれないで竜宮海に秘められていたのであった。
しかし今や、時節到来、竜宮の大神・塩椎の大神(又の御名は住吉大神)
によってその深義が開顕されることになったのである。
それが生長の家の人類光明化運動であり、
日本の実相顕現運動である訳である。
この運動を理解して参加する人悉く普賢菩薩の分身である。
諸君自身が普賢菩薩なのである。
<感謝合掌 令和7年6月18日 頓首再拝>