伝統板・第二

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ひかりの一日一言116~ひかりの語録(11月) - 伝統

2024/11/01 (Fri) 05:04:46

ひかりの一日一言《1日》

虚空を眺めて~その1

現象若(も)し《あり》とすれば、
吾等は罪業(ざいごう)よりのがれることは出来ない。

吾等は一歩一歩煩悩(ぼんのう)の足跡(そくせき)を
印(いん)するのである。その足跡を業(ごう)と云う。


ところが現象《なし》とすれば、
吾等の生活にはもう足跡(そくせき)を印(いん)せられない。

もう吾等にとって業(ごう)は存在しないのである。

      *「美しき生活」(P200)

       <感謝合掌 令和6年11月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2024/11/02 (Sat) 05:04:57


虚空を眺めて~その2

あの虚空を見よ、
鳥の飛ぶにまかせ、雲の行き交(か)うにまかせて、
ひとつも跡(あと)がつかぬのである。

鳥を飛ばせないのではない。
雲を通(かよ)わせないのではない。

鳥も飛び、雲も通(かよ)う。
それでいて跡(あと)がつかないのである。


吾等の生活もかくの如く、
煩悩が飛び交(か)わないのでもない。
欲望があらわれないのでもない。

煩悩が飛び交(か)いながら、
欲望があらわれながら、
その儘(まま)にそんなものは《ない》のである。

      *「美しき生活」(P200)

       <感謝合掌 令和6年11月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2024/11/03 (Sun) 05:06:22


虚空を眺めて~その3

吾々が物質面の心を出しているのでは、
物質以上の深い存在は解らぬ。

唯物論者は存在の物質面《のみ》を見ているのである。
犬や豚には 美術品の本当の味は判らぬ。
彼らは存在の物質的一面のみを見ているからである。

一切の存在を見て神の生命(いのち)と観(み)、
仏の生命(いのち)と観(かん)じられる者は
存在のもっと高次的な面を ―― 神的な面を、仏的一面を
観ているのである。

人(ひと)は自分の内に開発した面だけしか、
触れても感じられないものである。

      *「美しき生活」(P200)

       <感謝合掌 令和6年11月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2024/11/04 (Mon) 05:01:57


吾々が神様から救って頂くと云うのは、
何か物質的好条件を恵まれると云うことではありません、

『我(が)』を無くして頂くことが救って頂く
と云うことなのです。

(中略)

『我(が)』を無くなれば総(すべ)てに於いて自由自在、
総(すべ)てに於いて自由自在ならば
救われたと云うことになるのであります。

      *「美しき生活」(P245)

       <感謝合掌 令和6年11月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2024/11/05 (Tue) 05:01:32


吾々は真理を悟ればいいのです。

真理を悟れば吾々は自由になる。

真理を悟れば、侵される罪もなく、
報いらるる罪もなくなるのであります。

そのまま自由自在、そのまま有難くなるのであります。

      *「美しき生活」(P245)

       <感謝合掌 令和6年11月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2024/11/06 (Wed) 05:02:47


顛倒妄想

顛倒というのは逆(さか)さま、妄は虚(うそ)、
無いものをあるとアベコベに想(おも)うことであります。

そして『想(そう)』は思うであって、
結局、有(あ)るものをないと思い、無いものを有ると
思うのが、これが逆(さか)さま、心の『迷(まよい)』
であります。

罪と云うものはあるように見えておりますけれども、
それは《ない》を《ある》と思い違いする事です。

それから、《有る》ものを無いと思うのは、人間の本当に
完全な自性、神性、仏性と云うものは肉眼で見たとて
《有る》ように見えないからであります。

併(しか)し有るように見えないけれども自性円満な
神性、仏性は本当に《ある》のであります。

ところが五官はその本当に《ある》ものを《ある》として
見る事が出来ないで無しとしてみている。

之(これ)を顛倒妄想と云うのであります。

この顛倒妄想を破って捨ててしまったならば、
十方の諸仏や天界の諸神悉(ことごと)く歓喜し、
讃嘆し給うのであります。

      *「美しき生活」(P246~247)

       <感謝合掌 令和6年11月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2024/11/07 (Thu) 05:05:30


現象には真象と偽象とがあるのであります。

罪悪、病気、不幸、災禍などの現象は偽象でありまして、
本来無いのでありますが、

神の《いのち》の完全なる相(すがた)が展開して現れたものは
真象で、同じく現象であっても、実在にバックされた
確乎とした存在であります。

      *「美しき生活」(P250)

       <感謝合掌 令和6年11月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2024/11/08 (Fri) 05:03:46


吾々が真象をじっと見つめるようにしますと、
偽象はおのずから姿を消して了(しま)うのであります。

要するに真象と云う意味での現象は神の言葉が現れたもの
であります。如来の転法輪の展開であります。

それは、その本体の表現(コトバ)が即ち直(ただち)に
現象であると云う事になるのであります。

この場合は本体の表現(コトバ)が現象でありまして、
本体と表現とは一つであって不可分のものであります。


      *「美しき生活」(P250)

       <感謝合掌 令和6年11月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2024/11/09 (Sat) 05:06:52


表現(コトバ)と神とは一体なのであります。

吾々でも自由に表現しようと言葉(ことば)を使いますが、
言葉と申しましても口から出す言葉に限りません。

総(すべ)て波は言葉なのです。

本体が波動(響<ひびき>)を出したとき即ち表現(コトバ)
となるのであります。

斯(こ)うして本体がそのまま表現(ひょうげん)されたとき
どうなるかと申しますと、実相(じっそう)その儘(まま)が
諸法(コトバ)となるのであります。

      *「美しき生活」(P250~251)

       <感謝合掌 令和6年11月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2024/11/10 (Sun) 05:03:44


現象が神そのまま、真理そのままの表現である場合に、
これを諸法は実相(じっそう)也(なり)と云うのであります。

ところが不幸にして妄念のレンズが邪魔いたしますと、
実相(じっそう)そのままの姿が現象としてあらわれない。
そして、真象を隠覆(いんぷく)して、
本当の姿を映し出さないと云う事になるのであります。

(中略)

そこでこのレンズの歪みを真直ぐにして実相そのままを
映し出す正しいレンズに変えてしまいましたら、
この実相そのままが表現されて

本体(実相)即ち表現(諸法)となるのであります。

すると、実相の浄土的状態、天国的状態がこの現実世界へ
その儘(まま)映(うつ)し出されて美しき生活になる
のであります。

      *「美しき生活」(P251)

       <感謝合掌 令和6年11月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2024/11/11 (Mon) 05:04:08


生命(せいめい)は死なない、波の相(すがた)は変わって
了(しま)いますが、波を起している原理は消えない。

また変わった波をあらわして続いて行(ゆ)きます。

五官にふれる波から五官にふれない波の世界に入(はい)り、
そして又『生まれ更(かわ)る』ときには
五官にふれる波(肉体)をもってあらわれてまいります。

そして『人間』そのものはいつまでも決して
死ぬものではないのであります。

      *「美しき生活」(P253)

       <感謝合掌 令和6年11月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2024/11/12 (Tue) 05:05:51


決して『人間』そのものは死ぬのではない、
その顕われが視界の届かないところへ行くだけであります。

ではその死なない不滅の『人間』の実質はなんであるかと
申しますと、神の理念(コトバ)でありまして、
それが正しく表現されたときに、

それは神の顕現であり、真象(しんしょう)であり、
健全なる姿、美しき生活となって吾々に顕われるので
ありますが、

この肉体を、物質を、そのまま『有る』と見てはなりません。

      *「美しき生活」(P253)

       <感謝合掌 令和6年11月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2024/11/13 (Wed) 05:02:25


この肉体を、物質を、そのまま『有る』と見てはなりません。

それは五官から見たら物質に見えるだけであって、
本当にあるのは神から発した理念なる人間のみであります。

理念人間の荘厳きわまり無き生活を生活することこそ
美しき人間の生活であります。

      *「美しき生活」(P253~254)

       <感謝合掌 令和6年11月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2024/11/14 (Thu) 05:05:51

【美的価値と行】

人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

   (ここまでのご文書は、
    「光明道中記」(P72)にも収録されています)

      *「美しき生活」(P1~P2)

       <感謝合掌 令和6年11月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2024/11/15 (Fri) 05:05:14


【美的価値と行】その2(「美しき生活」序文)

人が若し物質の世界にのみ住んでいるものであるならば、
彼は物質的に幸福な時には幸福であるし、物質的に不幸な
時には不幸であるし、その他(た)のことは全くあり得ない。

それは偶然であるし、機械的であるし、
人間の自由は全くないのである。


ところが茲(ここ)に自由人と云う人間がある。
彼は不幸に見える時にもそれを展開することを知っているし、
如何なる困難でも切り開くことができる力を有(も)って
いる。

彼は人間は『心(こころ)』であることを知っているし
その『心(こころ)』によって無限の源泉であるところの
『神(かみ)』とつながることを知っている。

彼はこの世界の実質を物質であると観ないで、
心であると観るのである。

心を遡(さかのぼ)って無限の智慧、無限の愛、無限の生命、
無限の供給の源泉である神として知るのである。

そして不幸とか、災難とか、病気とか、貧乏とか云う
吾等にとって不快なものを悉く人生から駆逐するのである。

美的価値を行(ぎょう)にまで移すのである。

      *「美しき生活」(P2~3)

       <感謝合掌 令和6年11月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2024/11/16 (Sat) 05:05:43


【美的価値と行】その3(「美しき生活」序文)

汚(けが)れたる行為によって積まれ到達されたる富も地位も
やがて時(とき)来(きた)らば必ず土崩壊(どほうかい)
するのである。

真の美しき生活を通して高く積まれたる富と地位のみが
永続するのである。

      *「美しき生活」(P3)

       <感謝合掌 令和6年11月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2024/11/17 (Sun) 06:23:31


絶対の行~その1

吾々は隠し立てをするような心を捨てなければならないのです。

八方正面の心、明るい心、
それから、逃げ出す心を捨てる。
隠し立てをする心を捨てる。

其の儘受ける、決死です。

地に落ちた一粒の麦です。
其の儘受けるのです。

其の儘受ける心になったら次の境地がひらけて来るのです。
死を超えて多くの実(み)を結ぶのです。

病気を其の儘受ける心になったら
病気は《ない》境涯に入(い)るのです。

      *「美しき生活」(P2)

       <感謝合掌 令和6年11月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2024/11/18 (Mon) 04:55:46


絶対の行~その2

否応(いなおう)謂っている間は相対的立場です。

相対と云うものは必ず隙(すき)がある。
こちらを向いて居(お)れば後ろは空っぽです。
あちらを向いて居(お)ればこっちが又空っぽです。

向いた方は好(よ)いけれども、
あべこべの方は空っぽになるのです。

絶対的立場に立ったときにどちらも八方正面であって、
そこには隙がないと云うことになるのです。

      *「美しき生活」(P2)

       <感謝合掌 令和6年11月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2024/11/19 (Tue) 05:05:50


絶対の行~その3

絶対的立場ですから、相対的構えがない、裏がない。
裏がないから、どこも正面です。
どこも正面だから、どこも隙がないのです。

八方正面、絶対に任している立場ですから、
捨てき切った立場です。

ぎりぎりのところまですべてを捨て切った絶対立場。

相対を殺した時絶対が生きて来るのです。

これが絶対行です。

吾々は日常生活に於いても常に絶対行でありたいものです。

      *「美しき生活」(P2)

       <感謝合掌 令和6年11月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2024/11/20 (Wed) 05:06:03


宇宙全体は元津霊(もとつみたま)であって、
大本源の霊(みたま)なのであります。

その大本源の霊(みたま)から吾々の魂(たましひ)と
いうものが出ているのです。
その魂(たましひ)は又霊(みたま)である。

魂(たましひ)とは『霊(たま)し火(ひ)』であって、
大本源の霊(みたま)から放射し出(い)でた光(ひかり)
であると云う意味であります。

ですから宇宙の大本源の霊(みたま)というものと、
吾々の霊(みたま)というものは本来同じものであります。

      *「美しき生活」(P3)

       <感謝合掌 令和6年11月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2024/11/21 (Thu) 05:01:44


事物の成(な)るのは総て言(ことば)によって成るのであって、
『鳴(な)る』『成(な)る』ともに同一言語であります。

『な』の片仮名は『ナ』でありまして『十』字であります。
『十』字は縦横(じゅうおう)交叉(こうさ)陰陽交叉の
カミの象徴であります。

片仮名は実は象(かた)仮名であります。

『鳴(な)ル』の『ル』は循環回転の言葉であって、
宇宙に鳴(な)り亙(わた)る相(すがた)を現しております。

一切の事物が十(かみ)のコトバの循環回転であるから、
事物の成就することをナルと云うのであります。

      *「美しき生活」(P7)

       <感謝合掌 令和6年11月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2024/11/22 (Fri) 05:06:24


『ナ』は《十(かみ)》であり、名前であります。
名(な)というのはコトバであります。

コトバのない神(かみ)はない。
だから『神はコトバと偕(とも)に在(あ)り、
神はコトバなりき』とヨハネ伝には書いてある。

宇宙にはこの生ける火水(かみ)の原理(陰陽の原理)が
充ち満ちておりまして、そうしてそれが振動しているのであります。

宇宙が成(な)るというのは、生々溌剌活気臨々として
コトバの響(ひびき)が循環回転していることであります。

      *「美しき生活」(P7)

       <感謝合掌 令和6年11月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2024/11/23 (Sat) 05:04:45


全宇宙には火水(かみ)の力が充ち満ちていて、
その火(ひ)の原理と水(みず)の原理とが結び合って、
一切のものが出来上がっているのです。

その『火(ひ)の原理』が『高(たか)』であり、
『水(みず)の原理』が『原(はら)』であり、
その両原理が結合して真円(まんまる)く円満完全に
現れているのが『天(あま)』(顕円<あま>)であります。

      *「美しき生活」(P6~7)

       <感謝合掌 令和6年11月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2024/11/24 (Sun) 05:04:47


生ける火水(かみ)の原理でありますから、
総(すべ)ての事物は陰陽揃っているのが普通であります。

『十』は陰陽交叉であるから『完全』を表わす
『十』の記号にもなっているのであります。

キリスト教の十字も、実は自然にこの真理が
象徴的にあらわれたのであります。

      *「美しき生活」(P7~8)

       <感謝合掌 令和6年11月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2024/11/25 (Mon) 05:04:31


吾々が生きているのは、肉体が生きているのではない、
生命(せいめい)が肉体で生きるのであります。
肉体そのものは生命(せいめい)ではない。

肉体は表現であります。

それでは生命(せいめい)の本体はというと、火と水との原理、
宇宙に満ちていつところの火と水との原理の奥に陰陽未分、
時空未分の神秘境がある。

それが自分の本体である。

      *「美しき生活」(P10)

       <感謝合掌 令和6年11月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2024/11/26 (Tue) 05:07:59


陰陽未分の時空未的存在から陰陽の原理が別れ出(い)で、
火水(かみ)の原理が宇宙に満ち、その振動によって万物が発現し、
生かされているのです。

火水(かみ)の原理が人間の本体であり、肉体は生命(せいめい)が
互いに振動を交換し、互いに交通する為に、現れているのであります。

      *「美しき生活」(P11)

       <感謝合掌 令和6年11月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2024/11/27 (Wed) 05:03:14


神は宇宙普遍の原理として宇宙に遍満しているのでありますから、
此処に形(かたち)を見よ、彼処(かしこ)に形(かたち)見よと
云っても本来姿がないのです。

古事記の『身(みみ)を隠し給ひき』に当たります。

本来(ほんらい)相(すがた)のない神が
姿を顕(あらわ)されたのを称して表現身と申すのであります。

吾々は表現身を見て、その内奥の尊い本質を礼拝するのであります。

表現身を見て、『人間』は物質きりのものだとしか見えない人には
『人間』の尊さは判らないのであります。

      *「美しき生活」(P11)

       <感謝合掌 令和6年11月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2024/11/28 (Thu) 04:35:36


この世界は自分の心の鏡であります。

凡(すべ)て、外界は鏡であって自分の周囲に出てくるものは、
みんな自分の心の姿を顕しているのであります。

自分が凡(すべ)ての人間を拝めば
凡(すべ)ての人間は自分を拝んでくれるのであります。

自分が憎めば向こうが憎む。
自分が悪口を云えば向こうが悪口をう云うのであります。

      *「美しき生活」(P23)

       <感謝合掌 令和6年11月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2024/11/29 (Fri) 03:12:44


拝む者が、その人自身が神の子になるのであります。

即ち拝む人には心の中に神様と同じ波長が起こりますから、
宇宙遍満の神の霊波が自分自身に感応して自分が神の子になり、
神がそこに現れたと云う風になるのであります。

      *「美しき生活」(P24)

       <感謝合掌 令和6年11月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2024/11/30 (Sat) 05:04:40


他(ひと)を拝む人はまた他(ひと)拝まれて
神様扱いをされるのであります。

拝まない人は神の子ではない。
怒って罰を当てる人は、閻魔か地獄の鬼であります。

まことに拝み合う世界こそ実相の世界、神様の世界、
楽しい世界、天国極楽浄土の世界なのであります。

その拝むのはどうして拝む気持ちになれるかと云うと、
形の変化を見ないで実相を見るからのです。

      *「美しき生活」(P24)

       <感謝合掌 令和6年11月30日 頓首再拝>

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