伝統板・第二

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十一月の法語 - 伝統

2024/11/01 (Fri) 05:02:46


このスレッドでは、他の掲示板等から、次の6つの法語を紹介してまいります。



(1)『 生長の家 』 昭和十六年十一月号法語

   *次のWeb「光明掲示板・第三」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295 ~ 消滅


(2)『 生長の家 』 昭和二十四年十一月号法語

   *次のWeb「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102
  

(3)『 生長の家 』 昭和二十五年十一月号法語

   *次のWeb「愛国本流掲示板」からの転載です。
    http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=606 ~ 消滅


(4)『 理想世界 』昭和四十ニ年十一月青年法語

   * 伝統板・第二「青年法語『吾等青年何を為すべきか』」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739


(5)『 理想世界 』昭和四十三年十一月青年法語

   * 伝統板・第二「青年法語“神の子人間”の高貴さを失わず」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7818431


(6)『 生長の家 』 昭和四十八年年十一月号法語

   * 伝統板・第二「先祖供養 ⑥~祖先供養の手引き」
   → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8354370

・・・

「秋雨(あきさめ)を聴く」

        *「光明道中記」(十一月 もみじ輝く~はじめの言葉)より

   しみじみと味えばふかし雨の音轟々(ごうごう)とも聞え淙々(そうそう)とも聴ゆ

夜明に豪雨が物凄いばかり降った。
その音を聴いていると何だか懐かしい気がするのであった。

瀑(たき)のようにも聴えるし、谿川(たにがわ)の流れのようにも聴える。
呟くようにも聴えれば、千万(ちよろず)の唇でさんざめいているようにも聴える。
尚一層激しく降り灑(そそ)ぐときには豪宕(ごうとう)な感じがする。

秋だとひとしお思うのだ。学生時代に国木田独歩の小品集『武蔵野』を抱きながら、
秋の戸山ヶ原を逍遥(しょうよう)して楢の梢(こずえ)に囁いている秋の音に耳を傾けた
ことや、秋風に特有な地を這(は)う息吹(いぶき)に、冬が近づくかと戦(そよ)いでいる
小草に見入っていた頃などを想い出した。

自然に対する眼(まなこ)をもう一度開こう。
其処には無限の宝庫がある。

自然は生きている。素直に生きている。
争ったり、凋落(ちょうらく)しているように見るのは僻目(ひがめ)である。
生かし合い、讃美し合い、献げ合い、譲り合って、悦びの涙と共に生きているのだ。

落葉樹の生命はかすかに眼立たなくなったときに最も深く生きている。

争っているように見えても皆生かし合っているのだ。

・・・

【一日の法語(11月1日)】

(1)《帰一大御心の日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)


   天皇陛下は現人大神であらせられる。

   吾等は  天皇陛下の赤子である。
   随って現人大神の赤子である。
   これを神の子と云う。


   神の子とは  天皇に忠なるもののことである。
   自由主義的に、我侭に、何でも出来ると云うことではない。
   大御心に一つになり、大御心の通りに何でも出来ると云うことである。


   自分が空しくなることである。
   『自分』と云うものがあったら最早神の子ではない。

   『自分』と云うものがあったら、それは『我』の子である。
   我は滅びる。
   我は滅びの子だ。


   (参考~抜粋として)

   天皇陛下は現人大神であらせられる。

   吾等は  天皇陛下の赤子である。
   随って現人大神の赤子である。
   これを神の子と云う。

   神の子とは  天皇に忠なるもののことである。
   自由主義的に、我侭に、何でも出来ると云うことではない。

   大御心に一つになり、大御心の通りに
   何でも出来ると云うことである。

・・・

(2)《わが内に生き給う神》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   吾は神の子である。
   神は吾が親さまであり給う。

   神は吾らの目に見えないけれども
   吾らを常に護り給うているのである。

   外見がどうあろうとも吾は吾が親さまである神に、
   完全に信頼し全託して、神の守りを信ずるのである。

   吾が言葉、吾が力は神の絶対力の表現であるから、
   始めてそれが無限の実現力をもっているのである。

・・・

(3)《「 今 」 の一点に久遠を生きよ》

   年齢のことを思い煩ってはならない。
   年齢は 吾々の生命(いのち)を切り刻む
   歯輪(はぐるま)ではないのである。

   年齢は 自分の心のうちにある。
   吾々が地球上に出現してから何年たったかは、
   外界の問題に過ぎないのである。

   吾々は その外界を毎日新たに自己に摂取し、
   毎日 自己を外界に投影して、新しき生活をいとなむのである。

   常に回転する心棒は 錆びることはないが、
   回転しない心棒は 錆びるのである。

   吾々の生命は常に 「 今 」 の一点に
   「 神の子 」 の無限生命を自覚しつつ 新生するのである。

   かかる人間は 老いることを知らないのである。
   「 今 」 の一点に久遠を生きよ。

・・・

(4)《組織づくりの大切なること》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   何事でも完全な成績を円滑に挙げるためには
   組織づくりということが大切なのである。

   叡智に導かれた精緻な組織がつくられなければならないのである。

・・・

(5)《細心の注意・精密な観察》

   大ざっぱな観察は時々大なる過ちを犯すのである。
   小さな傷でもできたならばその宝石は殆ど無価値になってしまうのである。

   古いバケツの底に出来た小さな孔に気が付かないで、
   そのバケツに水を豊富に貯めたつもりでいると、
   イザという時に全然水が一滴もなくて、大火災を引き起こす事もある。

   底抜けの樽に水を入れる者はないけれども、水漏れが小さいために
   気が付かないで、却って大へんな結果を引き起こすことがある。

   細心の注意、精密な観察、それを失なうために
   ヴェテランのバス運転手が衝突を惹き起こして多くの人命を損することもある。

・・・

(6)《祖母と孫娘との間の断絶》

   近頃は、親子の關係が断絶時代だといはれてゐる。

   子供は親から離れて自分の自由な生活をしたく思つてゐる。
   生活樣式が全然異なるのである。

   私は最近NHKテレビの『北の家族』といふテレビ劇を見てゐるが、
   しずといふ娘が北海道から、父親の失敗が原因で零落して
   母と共に金澤に住んでゐる祖母の家へ身を寄せることになつた。

   祖母の家はその地方でも素封家であつたと見えて、
   祖母は歸つて來た孫娘しずに、生け花や茶道を教へて舊家の娘らしく
   オットリと育てたいと思ふ。

   自分の家のやうな舊家の娘が、働きに出るなど言ふ事は、
   家の格式からいつても耻(はぢ)になるといふので、働くことに反對して、
   茶や花を習はせることにするが、

   しずは祖母の考へとは反對に、働くことは立派な事で、
   何も祖母の厄介になつて縛られる必要はないと、

   或る大工の二階を借りて、自分の母の女學校時代の友達だつた
   醫者の家に看護の見習のやうな仕事を、折角、祖母が習はせてくれてゐる
   お茶もお花も勝手に斷つて、タイプライタ-と速記を習ひ始めたというのである。

   そして事毎に祖母にとつて卑しい仕事であると思へることをするのである。

   祖母にとつては自分の孫娘を、かうもしてやりたい、ああもしてやりたい
   と思ふけれども、誠に自由にならぬのが、現代の若い人たちである。

   時代の相異を喞(かこ)つ祖母の寂しさと、悲しさがよく出てゐる作品である。


・・・

<参考>

(1)『 光明法語<道の巻> 』(十一月の法語「愛と赦しと平和の想念」)
   →  谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=42
      

(2)『 生命の實相 』第三十八巻幸福篇(十一月「さらに新芽を含む」)
   → 谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=102


(3)『 光明道中記 』(十一月「もみじ輝く」)
   → 光明掲示板・第二
     http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=530 (消滅)

   → 伝統板・第二 
     http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7920667
  
            <感謝合掌 令和6年11月1日 頓首再拝>

【ニ日の法語(11月2日)】 - 伝統

2024/11/02 (Sat) 05:02:44


(1)《一に帰る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   反者道之動、弱者道之用。 天下之物、生於有、有生於無  (老子)


   反は道の動、弱は道の用。 天下の物、有より生じ、有は無より生ず。
   反は復るのである。 
   道は宇宙にミチる本元者である。

   それは『一』である。
   すべてのものは『一』に復って、真に生き、真に動くのである。

   復古即ち新生である。
   新生するためには『一』に常に復らねばならぬ。

   『一』のみが常立であり、金剛不壊である。

   『一』に復らざる動は根無し草である。
   それは遷り変る果敢なきものに過ぎない。

   日本の戦は『一』より出で『一』に復り、万物を『一』ならしむる戦である。


   (参照~抜粋として)

   反者道之動、弱者道之用。 天下之物、生於有、有生於無  (老子)

   反は道の動、弱は道の用。 天下の物、有より生じ、有は無より生ず。


   反は復るのである。 

   道は宇宙にミチる本元者である。

   それは『一』である。

   すべてのものは『一』に復って、真に生き、真に動くのである。

   復古即ち新生である。
   新生するためには『一』に常に復らねばならぬ。

   『一』のみが常立であり、金剛不壊である。

   『一』に復らざる動は根無し草である。

   それは遷り変る果敢なきものに過ぎない。

・・・

(2)《 実相に不調和は存在しない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102


   (抜粋として)

   神はすべてである。だから すべては一体である。
   一体であるから すべては調和するほかはないのである。

   神は調和であるから、
   吾々もすべての人々と調和しなければならないのである。

・・・

(3)《最初にして最大の誡めを実践せよ》

   病人で 「 生命の實相 」 を読んで、人間は薬剤に頼らずとも、
   自己の内に 「 神の子 」 の無限生命力がある ー 
   と云う点だけを読んで、
   薬剤を廃したり 医療をやめたりする、

   経済的に都合が好いことであるからと、早速に医薬と医療を廃し、

   それでいて、 「 生命の實相 」 の巻頭にある

   「 汝ら天地一切のものと和解せよ・・・
   和解するとは怺え合っていることではない。
   感謝し合ったとき本当の和解は成立する 」

   と云う 最初にして最大の誡めを実践しないで、

   病気が増悪したから 「 生命の實相 」 の悟りも駄目だ、
   と云う人があるが、病気は、心が変らないで
   医療を止めるだけでは決して治らぬのである。

・・・

(4)《組織づくりと、魂の救いの問題》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   魂の救いは、個々の“悟り”又は”信心”の問題ではあるけれども、
   その個々の人間も教えに触れなければ魂の救いの門に入るわけにはいかない
   のであるから、伝道の組織づくりを完全にして誰でも教えに触れ易い
   ようにしてあげることが、人を救う道である。

・・・

(5)《偉大なる人間は“微細”の中に“巨大“を見出す》

   宇宙最大のエネルギーである原子力の開発は、
   極微の小さいものを精細周到に観察した結果から可能となったのである。

   偉大なる人間は、
   微細なものの中に偉大なるもの、巨大なるものを見出すのである。

   原子力の利用や、半導体の中を動く小さな電子の観察が、
   今や全世界に産業革命をひきおこしつつあるのである。

   物事を大雑把に考える癖を改めなければならない。

・・・

(6)《祖父母として又、父として母として》

   こんな孫娘を持つた祖父母や、
   又そんな自分の子供を持つた父母にとつて、
   子供のそのやうな考へ方の相異は、やりきれない淋しさであると思ふ。

   けれども父母や祖父母はその寂しさや悲しみに
   耐へなければならないのである。

   現代のやうに戰後の思想の移り変はりの激しい時代でなくても、
   たとひ、それは過去の封建時代であつても、
   若い人は、自分で獨自の生活を歩まうとした。

   それが出來ない時には、若い男女が情死までした。

   或は勘當されて親子の縁を切られて
   その家から放逐される若い人たちもあつたのである。

   封建時代でさへ年齢の相異から來る親と子の考へ方の相異から來る
   悲劇といふものは起りがちであつたのであるから、況んや、
   家族制度が占領憲法によつて破壊された戰後の時代に於て、

   祖父母と孫との精神的斷絶や、親子の考へ方の相反といふ事が
   激化して來るのは當然である。

   祖母として孫娘が生きて行かうととする道が脱線車輌に見えて
   心配になつたり、自分の息子や娘の生活が、親の考へとは違ふ方向に
   向いて行かうとするのが間違ひのやうに見えるのも無理はないのである。


   さて、そのやうなときに、子ど親たちの先輩としての老人が、
   またその息子や娘の保護者である父なり母なりが、その若い人たちに、
   どのやうな氣持ちになつて彼らが間違ひの道を歩かないやうに、
   正しく導いてやるのにはどうすればよいだらうか。

   それを讀者と共に考へて見たいのである。

            <感謝合掌 令和6年11月2日 頓首再拝>

【三日の法語(11月3日)】 - 伝統

2024/11/03 (Sun) 05:03:00


(1)《承詔必謹の日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   『一』に復ると云っても、一二三四 ・・・・ の数の序列の一ではない。
   一切の数を超え、一切の対立を超え、
   一切を自己の内に包んでいる『一』である。

   この『一』はまた『○(ゼロ)』と云っても『無』と云っても好い。
   一切を内に含んでいるから天下無敵である。
   一切を内に含んでいるから逆らうことはない。

   詔を承けては必ず謹み行ずるのである。

   其処に大調和があらわれ、天下無敵となるのである。

   『弱は道の用なり』と老子が云ったのは、
   道の用、すなわち用(はたらき)は、
   弱すなわち自分が零になったとき、零を斬ることも壊くことも出来ぬ。



   (参照~抜粋として)

   『一』に復ると云っても、
   一二三四 ・・・・ の数の序列の一ではない。

   一切の数を超え、一切の対立を超え、
   一切を自己の内に包んでいる『一』である。

   この『一』はまた『○(ゼロ)』と云っても『無』と云っても好い。

   一切を内に含んでいるから天下無敵である。
   一切を内に含んでいるから逆らうことはない。

   詔を承けては必ず謹み行ずるのである。

   其処に大調和があらわれ、天下無敵となるのである。

・・・

(2)《神の愛に満たされていると云うこと》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   神の愛は 宇宙にみちてい給う。
   神の愛は 吾が内に宿ってもい給うのである。

   吾は神の愛から逃れることはできないのである。
   されば 吾はどんな場合にも困るということはないのである。

   神は 我を包んで常に守り給う。
   吾は又すべての人を愛し すべての人は吾を愛するのである。

・・・

(3)《心が先で現象はそれにつづく》

   長らく医療にかかり、薬剤にかかっていたのに治らなかった者が、
   医療を廃し、服薬を止めて、忽然として快方に赴く実例があるのは、
   決して医薬や医療を止めたから治ったのではなく、

   其人の心に心機一転したしたところの
    「 新たなる心境 」 が実現したからである。

   心が一変しないで、ただ薬剤を廃し、医療を止めたとて
   治るものではない。

   治癒と否とは、心に原因があるのである。

   事件が継続しているからとて、前に起った出来事は
   必ずしも、後に起った出来事の原因ではないのである。

   医者にかかって人間が死んだとて
   医者にかかったのが原因で人間が死んだのではない。

・・・

(4)《自分の勉強科目を純粋培養せよ》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   あなたが勉強して、あなたの心の中に立派な{成果}をつくり出すためには、
   その勉学の途中で、自分の注意を外らすような何物も傍らに置かぬがよいのである。

   書斎の整頓そのものが勉強の能率をあげ、時間を節約し、
   すべてをプログラム通りに進行させることになるのである。

・・・

(5)《悪習慣の小さき種子を早期に除去せよ》

   鋸の小さな歯の往復が巨樹を伐り倒すのである。

   小さな悪習慣を毎日、鋸の歯の往復の如く繰り返しているうちに、
   あなたの本来偉大なる「神の子」たる人格が伐り倒されて
   つまらない凡人となり、フーテンとなり、ヒッピーとなる。

   精細なる観察は、外界にある原子や電子や素粒子に振り向けることも
   必要であるけれども、尚一層大切なのは自分自身に精細な観察眼を
   振り向け、どんなささいな悪習慣の小さな種子でも見出して、
   それを早期に除去するようにすることが大切である。

   悪習慣の小さな種子は早期に発見して棄ててしまえば、
   容易に根絶やしすることが出来るが、それが芽を吹き、人格の中に
   深く根を下ろすようになると、なかなか根絶しがたきものとなる。

・・・

(6)《佛性・内在のキリスト・人の内にある聖靈》

   わたしの机の上に舊約聖書が置かれてをり、
   「ヨブ記」といふところが開かれてある。

   「ヨブ記」の第三十二章六節に靑年エリフが次のやうに言つてゐるのである。

   「我は年少なく、汝らは年老いたり。是をもて我はばかりて、
    我が意見(おもひ)を汝らに陳(の)ぶることを敢てせざりき。
    われ意(おも)へらく。

    日を重ねたる者、よろしく言を出だすべし。
    年を積みたる者宜しく智慧を教ふべしと。

    但し人の裏には靈あり。
    全能者の氣息(いき)人に總明を與ふ・・・・・」

   エリフの此の言葉の意味を現代語で簡單に言ふならば、

   「私は年若いものであるから、遠慮して自分の意見を陳べなかつた
    のであるけれども、人の内には”靈”が宿つてゐる。

    その霊といふのは全能者の聖靈であつて
    人に總明なる智慧を與へ給ふのである」

   といふやうな意味である。

   この考へは、佛教の「一切衆生悉く佛性有り」といふ教へに通ずるものであり、
   キリスト教の「内に宿るキリスト」(内在のキリスト)の思想の萌芽が
   既に舊約聖書にあるとも言ひ得るのである。

           <感謝合掌 令和6年11月3日 頓首再拝>

【四日の法語(11月4日)】 - 伝統

2024/11/04 (Mon) 04:59:38


(1)《心柔くなる日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)


   硬き者は強いようで却って壊け、柔き者は弱いようで却って強い。
   硬きものは他から攻撃され易く、また攻撃されたとき脆く刃毀れする。

   大調和するには我がなくなり、無に復り、零に復らねばならぬ。

   柳に雪折れなく、喬木風に中り、堅木は折れ易い。
   一番強くて折れにくいものは、一番柔かい水である。

   水よりも空気は一層折れにくく、エーテルは空気よりも折れ難い。
   エーテルは無であるからである。

   病気になっている人みずからを顧みよ。

   自分の心は硬くないか。
    
   折れ易くなっていないか。

   氷のようになっていないか。



   (参照~抜粋として)

   硬き者は強いようで却って壊け、柔き者は弱いようで却って強い。
   硬きものは他から攻撃され易く、また攻撃されたとき脆く刃毀れする。

   大調和するには我がなくなり、無に復り、零に復らねばならぬ。

   柳に雪折れなく、喬木風に中り、堅木は折れ易い。

   病気になっている人みずからを顧みよ。
   
   自分の心は硬くないか。
   折れ易くなっていないか。
   氷のようになっていないか。

・・・

(2)《神の智慧 吾を導き給う》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   吾は神の智慧に導かれて 常に安全の道を歩むのである。

   神の智慧は 人々を導いて吾に幸福をもち来らしめ給い、
   吾は又 神の智慧に導かれて 人々に幸福をもち来すのである。

   幸福を人に与えるもののみ又 自分も亦幸福を与えられるのである。
   吾は その真理を知るが故に、
   常に人々に幸福を与えてやまないのである。

・・・

(3)《先ず神に和解せよ》

   「天地一切のものに和解する」 には、
   第一、神に和解しなければならないのである。

   神に和解するには、神の創造した世界には、
   一切の悪は決して存在しないと云うことを
   先ず信ずることである。

   「 お前のこしらえたものに碌(ろく)なものはない 」
   などと考えているのでは
   相手に和解していることにはならないのである。

   神に対してそんな考えをもっていながら
   神に和解していると考えてはならない。

   肉眼に如何に不完全な相(すがた)が見えようとも、
   神の創造(つく)ったこの世界には不完全な存在はない。

   それは 自分のあやまれる心の反映だと
   自分の心を反省しなければならない。

・・・

(4)《組織を通して活動すれば、効果が百倍する》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   組織づくりが完全に行なわれると、
   各方面へ自分が出張して直接交渉することをしなくても、
   組織がそれを行ってくれることになるのである。

   即ち、自分の力で、組織の末端まで延長して、
   末端組織の数だけ倍乗して働くことになるのである。

・・・

(5)《時間を失う者は生命を失なう》

   一瞬一秒が積もって一年となり、十年となり、あなたの一生涯となる。
   時間の小さな断片でも大切にしなければならないのである。
   一瞬一秒を失う者は一生涯を失うのである。

   中途半端な短い時間で、こんな時間には何も出来ないと思って、
   時間を空費するならば、その空しく失った時間を、
   一生涯(例えば八十年間)に計算して見よ。

   あなたは驚くべき時間を空しく棄てていたことに気着くであろう。

   時間を失う者は生命を失なう。
   時間を棄てる者は自己の生命を棄てつつあるのである。

   何故なら地上の人間の”現象生命”は
   その人の営む”生命時間”で成り立っているからである。

・・・

(6)《生きて歩む宗教》

   佛教も、舊約も、新約も、人の内に宿る聖靈又は如來が存することに於て
   一致するのであるが、それが單に學説として、一種の宗教哲學として、
   單に人間の知的理解の對象となつてゐるだけでは
   人間を具體的に救濟することは出來ないのである。

   生長の家が一宗一派を唱へず、あらゆる宗教に共通する眞理を説きながら、
   「一切衆生悉く佛性有り」の”佛性”を實生活に活用するやうに
   教へるところに獨特の發展があるのである。

   つまり生長の家の特色を通俗語をもつて表現するならば、それは、
   實生活に生きて歩む宗教であり、實用的佛教であり、生活應用キリスト教
   であるといふ事である。

            <感謝合掌 令和6年11月4日 頓首再拝>

【五日の法語(11月5日)】 - 伝統

2024/11/05 (Tue) 04:59:16


(1)《無限供給の日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   すべての物は、有るから出来て来るのであるが、
   その 『有る』 ことは、『無』 の世界に根元を有つ。

   『無』 の中に本当の 『有』 がある。

   この 『無』 の中の 『有』 をは、理念と云うのである。


   理念は形なき形であり、声なき声である。

   すべての現象  ―  即ち形あるものは  ―  形なき形、声なき声の影である。


   先ず 『無』 の世界に沈潜して行くことが必要である。

   『無』 の世界には一切の物の本源があるのである。

   『無』 を称して目無堅間の小船と云う。

   目無堅間の小船に垂れば龍宮城は其処にある。


   (参照~抜粋として)

   理念は形なき形であり、声なき声である。
   すべての現象  ―  即ち形あるものは  ―  
   形なき形、声なき声の影である。

   先ず 『無』 の世界に沈潜して行くことが必要である。
   『無』 の世界には一切の物の本源があるのである。

   『無』 を称して目無堅間の小船と云う。
   目無堅間の小船に垂れば龍宮城は其処にある。

・・・

(2)《神を生活に実現する時が喜(よろこび)である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   吾が中(うち)に宿る完全なる 「 神の生命 」 の実相を表現する時、
   わが生命は 平和にみたされ、調和にみたされ、喜にみたされ、
   生き甲斐を感ずるのである。

   生き甲斐とは、神が神であるその実相を現わした時が
   喜の感じであるのである。
   吾は 神を表現することに喜を感じ 生き甲斐を感ずるのである。

   神は 愛であり智慧であるから、
   吾は 愛を実現し 智慧を実現することに生き甲斐を感ずるのである。

・・・

(3)《父母に感謝の思念を送れ》

   病気が治り、運命が好転するには、
   神の創造の完全なることを信じ、
   それに感謝しなければならぬと共に、

   更にその次には 「 神に感謝して汝の父母に感謝せぬ者は
   神の心にかなわぬ 」 と示されている。

   あなたは父母に実際感謝しているであろうか、
   省みて父母に感謝を実践することである。

   それには先ず神想観のときの如く瞑目合掌して、
   心のうちに、又は自分にのみ聞えるほどの低い声で
   「 お父さま有難う御座います。お母さま有難う御座います 」 と
   念ずることである。

   これを実践している中(うち)に、
   言葉の力で真に父母に感謝する心境が生れて来るのである。

   父母と云うのは肉身の父母もあるが、
   生みの親でなくとも、両親の理念の現れている人を指すのである。

・・・

(4)《協力者を組織化する必要》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   「天は人の上に人を創造(つく)らず人の下に人を創造(つく)らず」
   とは民主主義の標語であるけれども、

   運動を進め仕事を協力してやる場合には中心的な位置から、
   更に分割された色々の部門の長(チーフ)が必要であり、
   チーフの下に素直に運動してくれるメンバーが必要であり、

   命令系統がハッキリしていなければ効率的に仕事の能率をあげ
   運動を前進さすことはできないのである。

・・・

(5)《毎日使う日常語があなたを性格を変える》

   小さなるもののうちに巨大なる結果がひそんでいることを
   見出し得ないものは、小さなる魂である。

   自分の使う毎日の言葉が野卑な語であるならば、
   その人の性格は、毎日野卑につくられつつあるのである。

   自分の使う毎日の言葉が粗暴な語であるならば、
   その人の性格は、粗暴につくられつつあるのである。

   戦後の青少年の性格や行動が粗暴になって行きつつあるのは、
   洗練した美しい言葉を使わなくなり、わざと規格に合わぬような
   崩れたゾンザイな言語を使う事に生命の解放感を味わう様な、
   間違った方向に青少年の教育がみちびかれているからである。

   時代が民主主義だからとて自己の魂の高貴さを棄ててはならない。

・・・

(6)《時代の相異で子供が脱線したやうに見える場合》

   さて、自分の孫や、自分の息子又は娘が、時代の相異と共に、
   祖父母や父母から見ればいかにも脱線したやうに見える生き方をし、
   危険な方向に歩んで行きつつあるやうに見える時、

   そして年の功を經た先輩として年少者にに助言をしてやっても、
   年少者は頑として自分の考え及び生き方を變へやうとしない時、
   この”一切衆生悉く佛性有り”の佛教哲學を應用して、
   その年少者の脱線を復舊させるためにはどうすればよいのであらうか。

   それは”佛性”は如來なのであるから、その子供に宿るところの
   如來の全智に信頼して、その如來を聖經讀誦と神想觀とによつて
   拝み顯(だ)すのがよいのである。

   祖靈に感謝の聖經讀誦をつづけてゐると、
   祖靈の守護の霊力が殖えて子供が良化することがある。

            <感謝合掌 令和6年11月5日 頓首再拝>

【六日の法語(11月6日)】 - 伝統

2024/11/06 (Wed) 05:00:40


(1)《克く謙る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)


   『無』 を超えて、無尽蔵をつかむ。

   このことを目無堅間の小船にのりて龍宮城に遊ぶ 〈古事記〉 と謂う。

   『無』 は最も乏しくて多く、『無』 は最も弱くして強い。

   強く頑なるものは敵を招いてみずから敗れ、柔くして 『無』 なるものは、
   無心の小児が敵なきが如くよく自分を全うする。

   克く謙り、克く虚しくなり、高ぶらず、驕らず、欲張らず、
   詔を承けては必ず謹み、上には逆らわず、素直に 『ハイ』 の心を行ずる
     ―  これ虚無の人であり、道の人である。

   道は国を興し、道を行ずる者は家を興し、みずからを栄えしめる。


   (参照~抜粋として)

   強く頑なるものは敵を招いてみずから敗れ、
   柔くして 『無』 なるものは、
   無心の小児が敵なきが如くよく自分を全うする。

   克く謙り、克く虚しくなり、高ぶらず、驕らず、欲張らず、
   詔を承けては必ず謹み、上には逆らわず、素直に 『ハイ』 
   の心を行ずる  ―  これ虚無の人であり、道の人である。

   道は国を興し、道を行ずる者は家を興し、みずからを栄えしめる。

・・・

(2)《神はわれに善き考えを吹き込み給う》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)


   吾は神の子である。
   神はその無限の智慧より、常にその善き考えを
   吾々に注ぎ給うのである。

   神の世界には智慧と愛と喜と無限の生命とがみちみちているが故に
   神をこの世に実現した時 それらの善きものが現実に現われずには
   いないのである。

   神より与えられたる賜物は 常に雨降る如く、豊に流れ入るのである。

   吾はそれを自覚するが故に幸福であるほかはないのである。

・・・

(3)《夫婦の調和を完全にせよ》

   神に和解し感謝した次には、
   夫又は妻に和解し感謝しなければならぬ。

   どんなに多くの夫婦が互に憎み合っていることであろう。

   夫婦は互に相愛しているがゆえに、その愛の執着性のゆえに
   最も多く憎み合っているものである。

   愛は自他一体の自覚であるが故に、
   自己の好むところの其(その)通りに、
   夫又は妻をあらしめようとする。

   此処(ここ)に自己の好む通りにしてくれない
   夫又は妻に対して憎み又は憤りを感ずる。

   不平とか単なる不満足は、
   その憎み又は憤りの軽度のものに過ぎないのである。

   此の隠れたる不平不満が
   重大なる病気の原因になっていることがあるから
   省みて赦し合い、和解し合い感謝し合え。

・・・

(4)《身辺の雑物を整理して組織化せよ》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   何でもキチンと組織的に片付ける習慣を若いときからつけておくことは、
   将来、事物を組織化する能力を増進することになるのである。

   阪急電鉄の社長であり、東宝劇場の創立者であり、東宝歌劇の発案者であった
   故小林一三氏は、実業界の今太閤といわれる程の明敏な頭脳の持主であって
   東宝系、阪急系の諸事業の基礎をきづいた人であったが、

   秩序の感覚の非常にすぐれた人であって、自分の仕事に必要な諸道具、参考書類は、
   自分の寝台からすぐ手を延ばせば届く位置においており、それらを取りに
   往復する時間を節約するように計画されていたという。

   万事がその通りで仕事が綿密に組織化されていたのである。

・・・

(5)《「言論の自由」という糖衣錠》

   現行の占領憲法には、
   日本弱体化のあらゆる要素が秘められているのである。

   それは糖衣錠のように表面は舌触りがよく甘い感じがする

   けれども、その奥には驚くべき毒薬が調合されているのである。

   「言論の自由」、「表現の自由」、などという甘い糖衣に誤魔化されて、
   表現するコトバに何の統制もほどこしてはいけないというのは、
   小さな事の中に、どんな重大な結果を惹き起こす原因が秘められているかを
   洞察する力のないバカ者の言う事である。

   道路の交通でさえも、赤青の信号によって統制を施す事によって、
   交通事故を未然に極小に防ぐ手段が講ぜられているのである。

   言葉の交通に何らの制限を設けなければ、
   それは国を潰す力ともなるのである。

   何故ならコトバは神であり、
   それが表現する通りの姿を作り上げる力を持つからである。

   日本国を侮辱する様な言葉が繰り返し繰り返し使われると、
   小さな鋸の歯の往復が巨樹を伐り倒してしまうように、
   日本国を滅ぼしてしまうことも出来るのである。

   実際、日本を革命するための言葉の鋸の歯が街に氾濫していて、
   一九七〇年には二千六百二十八年続いて来た「ひのもと」という巨樹を
   伐り倒そうとたくらんでいるそうだが、伐り倒されてたまるものか。

   吾々は真理のコトバの力にて、
   暗黒のコトバの力を撥ね返さなければならない。

    諸君、われわれと共に起ち上がれ。

・・・

(6)《靈祭の儀禮には必ずしも一定の形式はない》

   本部で催される白鳩會の月例會に出席すると、度々
   祖先の霊魂をどのやうにして祀ればよいか、
   墓を移轉したいがどうすればよいかなどと、
   靈魂祭祀の問題についてきかれるのである。

   靈魂も生きてゐるのであり
   ひとりひとり個性があり嗜好も趣味も違ふのであり、

   どのやうな形式でお祀りしてあげることが、
   その霊魂に取つて滿足であるかは、いちいちの場合について
   それぞれ異なることであるから本當は概括的に書くことは出來ないのである。

   白鳩會の質問に対して同じやうな質問に対して
   私は全然異なる解答をすることもある。

   迷つてゐる靈魂に對する處置と悟りを開いてゐる靈に對する處置とは
   自然に異なつて來るからである。

   そんな處置の問題よりも大切なのは
   『死』といふことは如何なることかと先ず知ることが大切なのである。

   ”死”といふことが如何なることかを知らないで、
   死者の靈を祀るといつても、
   それは祭祀の基礎を失つたことになるのである。

            <感謝合掌 令和6年11月6日 頓首再拝>

【七日の法語(11月7日)】 - 伝統

2024/11/07 (Thu) 05:02:29


(1)《真理に随う日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   上士聞道、勤而行之。 中士聞道、若存者亡。 下士聞道、大笑之。 〈老子〉


   上士は道を聞きて、勤めて之れを行う。 
  中士は道を聞きて、存するが如く、亡うが如し。 
   下士は道を聞いて大いに之を笑う。


   人間は色いろある。

   『士』 とは道を学ぶ者のことである。

   学人である。

   上士は上々の学人であるが、上々の学人は道を聴けばつとめて之を行ずるのである。

   忠を聴けば忠を行じ、孝を聴けば孝を行ずる。

   ところが中士即ち中等の学人は行じない。

   聴いた道が頭にのこっているのか亡(わす)れているのか、
   とんと見当がつかない有様である。

・・・

(2)《想念は運命の別名である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   人は自分自身を信ずる通りの所のものに
   自分自身の運命を決定するのである。

   不安動揺限りなき心の状態では、
   不安動揺限りなき有様が現われて来るほかはないのである。

   吾々は不安を去り、取越苦労を避け、恐怖心を去り、
   如何なる場合にも 唯(ただ)幸福のみが来たるを
   信じて待たなければならないのである。

   信じてまてば 必ず道は開かれるのである。

・・・

(3)《家族全部が調和し合え》

   一人の家族のイライラした感情、激しい言葉、叱咤(しった)が
   家族全体の精神的雰囲気をくもらせ、それが恰(あたか)も
   稲妻が風雨を呼び出すように 精神の空中放電を起して、
   家族中の誰かに致命的な落雷を生じて病気たらしめることがある。

   家族のうちの一人でも面白からぬ感情をもっている者があるときは、
   すみやかに打ち溶け合って和解し、感謝し合うようにしなければならない。

   一人の嫁が姑(しゅうとめ)の行為を不満足に思っていただけで、
   その嫁の子供がトラホームに罹っていて
   医療をつくしても治らなかった実例がある。

   かかる場合、医療を止(や)めるか止めないかが問題ではない。
  
   嫁が姑に和解してしまった時 忽然(こつねん)治ったのである。

・・・

(4)《幸運と不幸とは自分がつくる》

   誰にでも一生涯のうちには、大きな濤のうねりのように運命のうねりが
   その人を下から押し上げてくれる時期が一度や二度は必ずあるものである。

   その運命の波濤にうまく波乗りできるものは、
   急速にそして快適に、波の上昇を楽しむことができるのである。

   しかし、そのような”運に乗る”ことのできる人は
   平常から“波乗り”の訓練のできている人だけである。

   平素の訓練のない人は運命の波のうねりに自分の足をすくわれて倒れてしまい、
   波に呑まれてついに溺れ死ぬかも知れないのである。

   運が好いとか、運が悪いとかいうけれども、それは結局、平素の自己訓練が
   してあるか否かにかかってあるのであって、“運”と称する外来の
   ”何物”かに、自分の生涯が左右されているのではないのである。

・・・

(5)《勇気ある者のみが高貴を語る》

   勇気ある者のみが俗流に媚びないのである。

   「時代が民主主義なんだから、斯うするのが正しいのだ」などという語を、
   時々当然の事であるかの如く聞くことがあるけれども、そのような
   語をなす者は、時代という枠の中に嵌められて自由を失っている者である。

   そのような人間は、もし軍国主義時代が来るならば、
   「時代が軍国主義なんだから反戦主義や平和主義は間違いだ」
   と言い出すだろう。

   真理は「時代」という枠の中には在らず、流行という流れの中には在らず、
   勇気ある者のみが時代を越え、流行を越え、衆俗の喝采や悪罵を越えて、
   真理を語り、高貴なるものを語るのである。

・・・

(6)《大往生と斷末魔の苦痛について》

   靈界には修行の足りた靈と、修行の未熟な靈とがあり、それに從つて、
   肉體を脱して彼が靈界に往つた時の状態が違ふのである。

   修行の足りた靈は、ハッキリとした意識を持つて肉體を脱し、
   自分が今しがた脱した肉體といふ抜け殻を客觀的に見ることが
   出來るのである。

   肉體を脱するのに何らの苦痛をも感じない。
   いはゆる大往生である。

   そして靈界に移行してからも意識を持ちつづけて、
   周圍の状態を見たり聞いたりできるのである。


   さうでない未熟な靈魂は、肉體の生前の三業(意業・口業・身業)の
   不淨なるもの淨化せんがために、病氣の苦痛を經験する。

   苦痛は淨化の過程である。
   しかしある程度以上の苦痛は神の恵み深き攝理によつて、
   ”意識を失ふ”といふ方法によつて回避されることになつてゐる。

   そして意識を失つた状態で、
   この靈魂は、靈界の待合室みたいな所に移行するのである。

            <感謝合掌 令和6年11月7日 頓首再拝>

【八日の法語(11月8日)】 - 伝統

2024/11/08 (Fri) 05:00:10


(1)《善事来る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)


   老子はこれに続いて 『下士は道を聞いて大いに笑う』 と云った。

   屹度老子は道を説いても
   当時の人はあんな馬鹿な迷信を説くと云って笑ったのであろう。
 
   そこで老子は 

     笑わざれば、以て道を為すに足らず、故に建言に之れ有り、

     明道は昧(くら)きが若(ごと)し、夷道は類(おな)じきが若し。

     進道は退くが若し。

     上徳は谷の如し。

   と云ったのである。

   本当の道は下級の学人には判らない。

   わからないから大いに其の表面を見て嘲笑する。

   そんな馬鹿なことがあるものか。

   道はそのままだと云っても、そのままでは進まないではないかなどと批評する。


   (参照~抜粋として)

   老子はこれに続いて 『下士は道を聞いて大いに笑う』 と云った。

   笑わざれば、以て道を為すに足らず、故に建言に之れ有り、
   明道は昧(くら)きが若(ごと)し、夷道は類(おな)じきが若し。
   進道は退くが若し。
   上徳は谷の如し。

   と云ったのである。

   本当の道は下級の学人には判らない。
   わからないから大いに其の表面を見て嘲笑する。
   そんな馬鹿なことがあるものか。


   道はそのままだと云っても、
   そのままでは進まないではないかなどと批評する。

・・・

(2)《人生問題を解決するのが宗教である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   釈迦は 生老病死の四つの苦しみを
   人生から除去せんがために出家をしたのである。

   これを解決するのは釈迦キリストの第一の原因であった。

   仏教が現世利益を排斥して
   この苦しみの解決を後回しにしている問題は
   釈迦の本道を行くものとはいえないのである。

・・・

(3)《医薬を止めて治る場合》

   医療の道なく医薬無効の病気に悩む患者が、
   翻然(ほんぜん)心を一転して医薬を捨てた場合に、
   急に快方に赴く実例があるのは、

   多くの医薬は、それが効くと云う薬である限り
   多少とも肉体に対して毒性をもっているからである。


   ズルフォン剤の毒性は無論のこと、
   人体に無害と云われるペニシリンと雖(いえど)も、
   その注射後、頭痛や発熱を起すことがある。

   それが病原体を死滅せしむる様に適剤として用いられた場合には、
   人体に対する多少の毒性があっても有効であるが、

   その病原体を駆使する力なき薬剤が連用されている場合には、
   ただ薬剤の毒性によって人体の生活力が抑圧されていただけであるから、

   薬をやめるだけでも生活力を妨害する物が除かれて
   治癒力が促進するのである。

・・・

(4)《あなたは幸運の雲を巻き起こせる》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   外部にあらわれるものは既に内にあったものだけがあらわれるのである。

   既に内にないものはあらわれようがないのである。

   ふだんに、よく勉学し、教養を積み、自分の能力の進歩を、
   マラソン選手が毎日必ず走って脚を鍛えるように、
   自分の研学の目標を定めて、その方面の能力を毎日一層鍛えておくのものは、

   やがて時が来て雲に乗って竜が昇騰するように、
   好運の雲を巻き起して見る見るうちに人類の救済者とも
   一国の宰相とも一党の総裁ともなるのである。

・・・

(5)《常に高貴を語り、常に高貴であれ》

   人間は神の子であるから、
   常に高貴を語り、常に高貴であらねばならないのである。

   人間の中には高貴が宿っているのである。

   教育家が、「教師は言うまでもなく労働者である」(日教組の倫理綱領)
   と宣言した時、彼らは教育者という「高貴」なる本質を棄て、
   労働者にまで墜落したのである。

   そしてマルクスという西洋人の命ずるところに従って。
   赤旗を揮って街頭を行進する奴隷となったのである。

   人間はもっと高貴にならなければならない。

   勇敢なる者のみが、高貴から墜落した群衆の中に在って、
   神の子の高貴さの奪還を語るのである。

・・・

(6)《滿中陰と五十日祭について》

   靈界の待合室は薄暗い世界である。
   それは” 冥界”といふ語がふさはしいかも知れない。

   其處に肉體を脱した靈魂は、肉體の病氣や屍臭の”移り香”の
   不快臭を淨化するために、或る期間滞在せしめられるのである。

   それを佛教では「中陰」と稱して、
   また靈界のどの位置に行くべきか定まらない期間である。

   それは大体七週間であり、
   佛教では四十九日間とせられ
   神道では死の直後より數へて五十日目とせられてゐるのは、
   佛教も神道も根本的に一致してゐることを示してゐるのである。

   四十九日間の中陰の期間を滿了すると滿中陰の法事があつて
   生前の懇親者に御供養( 満中陰の志)を配る習慣になつてゐる。

   神道では”五十日祭”といふ祭典が行なはれて、靈界の薄暗い
   前室から解放されて、受持ちの高級靈の案内によつて
   その霊魂が割り當てられた幽界の位置に伴はれて行き、
   其處で修行することになつてゐるのである。

   現實世界も、幽界及び靈界も、いづれも霊魂がその本來の”神の子”の
   實相を研き出すための修行の場であることに變りはない。

            <感謝合掌 令和5年11月8日 頓首再拝>

【九日の法語(11月9日)】 - 伝統

2024/11/09 (Sat) 05:04:59


(1)《高きを隠す日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   そこで老子は建言即ち古語を引いて 『明達は昧きが如し』 と云う。

   『大賢は愚にも似たり』 と云う語もあるが、
   真に賢なるものは、その賢なる突角を表面に現わさない。

   呆としているものである。

   出る杭は打たれる。

   喬木には風が強い。

   その風を避けるためには流線型にならねばならぬ。

   人間の流線型が大賢であり、明道である。

   光を和げて塵と同(ひと)しくするのである。

   『君子は盛徳ありて、容貌、愚なるが如し』 である。

   『夷道は類(おな)じきが若(ごと)し』 である。

   夷は平である。

   一切平等の中の徳を得たる者は普通の人と何ら変るところはない。

・・・

(2)《人間は本来老いないものである》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   生老病死の苦しみの第二は 老苦である。
   老いて見苦しくなる苦しみ
   老いて体が不自由になる苦しみなどである。

   吾々の肉体細胞は常に新たに新しき養分によって
   造られているのである。

   年齢の上では、かりに五十歳六十歳というけれども、
   吾々の肉体細胞は常に新たに造られたものなのである。

   だから老衰はあり得ないことなのであり、
   それをあるかの如く現わすのは
   自分の心が老いてくるからにすぎないのである。

・・・

(3)《心の緊張が病気を治す》

   人間はその内部に癒やす力をもっているのである。
   「 癒やす力 」 と云うのは内部に宿る
   「 完全 」 なる実相である。

   その完全さが常に内部から押し出して
   健康となろうとしているのである。

   その内部の 「 完全 」 さを押し出す力を妨害するものが、
   他の人と不調和の心、争う心、憎む心、恐怖する心、
   憤る心、怠ける心などである。

   怠ける心を持っている場合には、
   身体の活力も怠けてだらけた気分になり、
   細胞全体の活力も怠けてしまうのである。


   心の緊張が病気を忘れしめて、重大なる病気を
   快復に赴かした実例は沢山あるのである。

   勤労で病気が治るのは 労務そのものよりも
   心の緊張の結果である。

・・・

(4)《片岡秀公丈(ひできみさん)の雄弁を聴く》

   こないだ、国立大劇場に招かれて、「学生のための歌舞伎の解説」を観にいった。

   片岡秀公丈の歌舞伎の由来や舞台の説明や囃子道具の解説は、
   私の今まで知らない事を沢山教えてくれて、色々参考になったのである。

   背広を着て素顔で舞台に立った秀公丈は素晴らしい雄弁で、聴衆・観客の心を
   捉えるコツを心得ていて真面目な解説の中に歌舞伎の声調(こわいろ)を
   時々交えて吾々を倦きさせず、擒縦(きんしょう)自在の趣があった。

   これだけ自由自在に言葉の力を駆使し得るためには幼い時から
   余程の訓練を経て来た結果にちがいないのである。

   吾々宗教人も人を救うためには、
   自己訓練をきびしくして、聴衆を倦きさせないで真理を説き、
   悟りに導く言葉の力を鍛えておかなければならないと思った。

   吾々は勉強が足りないのではないか。
   吾々は自己訓練が足りないのではないか。

   レジャーが多すぎ、その時間が自分を研くためにつかわれないで、
   ただ詰らない娯楽や呆心に浪費されているのではないか。

             ・・・

   (4)の法語に関連して
   <参考Web>

   ①伝統板・第二「効果的に伝える力」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6502921

   ②伝統板・第二「雄弁家への道~「ツカむ! 話術」 」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6543064

・・・

(5)《多勢の主張必ずしも優秀ならず》

   「多勢が主張するからそれは正しい」と考える
   愚かなる思想が民主主義の中に漂っている。

   その愚かなる思想が、水銀中毒の様に人間の精神の中に浸透して、
   思想の自由を混迷させているのが現代の日本国なのである。

   多数者の主張が正しいと考えるのは事実に反する。

   学校でも、平均点数は、最優秀者の点数より低いのである。

   多数決で事を決めることは平均点数者の智慧でものを決定することである。

   そのような意味での民主主義の世界では
   最高の頭脳は窒息してしまうほかはないのである。

・・・

(5)《冥界の照魔鏡について》

   四十九日間の淨化の期間が終つた霊魂は高級靈が靈波によつて作つた
   スクリーンの前まで伴はれて行くのである。

   彼はその淨化された心で、そのスクリーンに向ふと、そのスクリーンに、
   彼自身が生前の一生涯に關して來たすべての生活が、
   天然色映畫の如くカラーテレビの如く映し出される。

   幽界の此の前室は、もう現實世界とは時間のサイクルが異なるのであるから、
   極めて短時間とも言ふべき間に、彼自身の生涯の生活の實情を、
   第三者的立場に於て、それを眼のあたり見るのである。

   現實世界に於ては、彼は第三者ではなく、第一者として
   自分自身が主人公として生活して來たので、
   「これくらいな事は別に惡でも不淨でもない」と巌重には批判する
   ことなしに我儘勝手次第に生活して來たのであるが、

   今、かうして靈的スクリーンの前に立つて自分の一生涯の生活を
   第三者として客觀的に見せられると、善惡判断の基準が公正になつて、
   「この位の事は惡くない」と思つて生前に行爲したことがらでも、

   「ああ、これも惡かつた。あれも惡かつた。
    あんな汚い行爲をするのでなかつた」と懺悔の心が起るのである。

   懺悔というのは心を洗ひ淨めるといふ意味である。
   その懺悔の程度は、それぞれの霊魂によつて反應が異なつて、
   必ずしも完全に悔改めが完了する譯ではない。

   過去に色々犯し來つた惡業でも「惡かつた」と否定し、
   「再び罪を犯すまい」と反省決意すれば、その蓄積された”業”が
   着物を脱ぐやうに一枚一枚剥落して空中に消えて行くのである。

 
   此の過去の行爲の一切を照らし出す靈的スクリーンを、
   擬人的に閻魔大王と稱し又は神話的に”閻魔の廰”の照魔鏡と稱するのである。

   そして「惡かつた、二度と再び犯すまい」といふ決意と共に、
   惡業の蓄積が一枚一枚、剥落してゆく過程を、三塗の川の手前に
   ”脱衣婆“がゐて、亡者の着てゐる着衣を脱がせるといふやうな寓話が
   佛教ではつくられてゐるのである。

   何れも死者の靈がそこで過去の業が自己審判され、
   消える業は消え、消えない業は其の儘に、その業の種類の善惡軽重に
   したがつて三塗のうちの、どれかに行くことが定められて、
   その霊魂は靈界での落着く修行場が決定せられるのである。

   それを三塗の川を渡るといふのである。

            <感謝合掌 令和6年11月9日 頓首再拝>

【十日の法語(11月10日)】 - 伝統

2024/11/10 (Sun) 05:00:24


(1)《其の徳を包む日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   『進道は退くが如し』 である。

   私が最近みずから進んで5雑誌を廃刊したのも、
   折角そだてて来たこれらの雑誌が惜しくないことはない。

   けれども退くべき時に退くのが却って、進むことなのである。

   秋が来て木の葉が凋落する。

   それは一見退くがが如しであるが、
   その時一層その木は堅緻になり、
   やがて春来るときに大いに伸びる力を内部に養われる。

   みずから卑きにつくこと水の如くにして、
   はじめて洪水の如く、
   時来れば偉大なる力を発揮し得る。

   上徳は谷の如くにして一切の流れを自己に集めて大となる。

   これ低きにつく徳である。



   (参照~抜粋として)

   秋が来て木の葉が凋落する。
   
   それは一見退くがが如しであるが、
   その時一層その木は堅緻になり、
   やがて春来るときに大いに伸びる力を内部に養われる。

   みずから卑きにつくこと水の如くにして、
   はじめて洪水の如く、
   時来れば偉大なる力を発揮し得る。

   上徳は谷の如くにして一切の流れを自己に集めて大となる。
   これ低きにつく徳である。

・・・

(2)《過去は 『 今 』 祝福に変貌する》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)


   吾は今日を祝福するのである。
   過去を祝福し 未来を祝福し、すべての日を祝福するのである。

   何故ならすべての日は神様に護られているからである。

   過去は 「 今 」 の一点に於いて生きた姿に変貌するのである。

   すべての過去は今生きていて吾をして、
   神の祝福を知らしめ給うたのであるから

   過去あっての 「 今 」 であり、
   「 今 」 過去は生きているのである。

・・・

(3)《宗教的感激の治癒力》

   関西の風水害の時に、洪水が滔々(とうとう)と
   自分の家へ流れ込んで来て病床を浸すので、
   今まで中風で動くことが出来なかった病人が起ち上って、
   荷物を二階に運んだきり中風が治って歩き出した事実や、

   関東大震災に火をのがれようとして
   関節炎の患者が治ってしまった実例は、
   心の緊張が不治の病気を治した実例である。


   「ひとのみち」と云う宗教があったとき、
   重症の肺病患者でも重労働させて治った如き実例があるのも、

   宗教的感激の極、心の緊張が極度に達して、
   病気を忘れしめ、怠ける心を退散して、
   内部の活力を奮起せしめたからである。


   心の面を忘れて、形だけ真似させて、
   重病者を重労働させて治ると考えてはならない。

・・・

(4)《自己訓練の価を払って》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   わたし達は、”神の子”として“神の生命”という原石を
   ただで譲り受けているのである。

   しかし原石のままでは”神の子”らしい輝きを発揮することはできないのである。

   その本具の光を発揮するためには磨かなければならないのである。

   しかし磨くためには、ただで人に委せておいては駄目なので、
   値を払わなければならないのである。

   それは自分の用途(使命)に従って、
   努力と勇気と忍耐とをもってする自己訓練という値をはらうのである。

・・・

(5)《勇気ある者は困難を恐れない》

   困難を恐れるな。

   ただ勇気ある者のみ困難に立ち向かう。
   そして困難を征服する。

   征服の爽快さはその困難のきびしさに正比例する。
   困難がきびしければきびしい程、征服のよろこびは増大するのである。

   それは峻峰に登頂する歓びに似たものである。

   それが高峰であればあるほど、
   その嶮難を克服し得た時の歓びは大きいのである。

・・・

(6)《三塗の川を渡つて我らは何處に行くか》

   三塗といふのは ”三途”とも書く、
   肉體死後の行くべき”三つの途(みち)”であるからである。

   それは普通、地獄道、餓鬼道、畜生道の三つの道のこと、
   すなわち”三悪道”の事だと解せられてゐるが、
   私はそのやうには解しないのである。

   欲界色界無色界の三界だと解したい。

   何故なら人間は皆三途の川を渡つて、地獄道、餓鬼道、畜生道に
   落ちて行くより仕方がないのだつたら救はれやうがないからである。

   もつと立派な天國的な淨土に落ちつく靈魂もあつて良い筈である

            <感謝合掌 令和6年11月10日 頓首再拝>

【十一日の法語(11月11日)】 - 伝統

2024/11/11 (Mon) 05:01:42


(1)《弁解せぬ日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   太白若辱、
   広徳若不足、
   建徳若倫、
   質直若渝、
   大方無隅、
   大器晩成、
   大音希声、
   大象無形


   太白は辱の若(ごと)く、広徳は足らざる若く、建徳は倫(とう)の若く、
   質直は渝(かわ)るが若く、大方には隅なく、大器は晩成し、
   大音は声希(な)く、大象は形無し。


   太白即ち太(はなはだ)しく白いものは、

   非常に潔白なる者は、

   最早自分を飾ろうとしないから、

   辱の如く、

   すなわち却って辱かしい姿のようにも現われる。


   白隠禅師が他の孕ました子供をお前の子だと
   押付けられても弁解しなかった如きである。

・・・

(2)《『 今 』 は神が生きる唯一の機会である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   「 今 」は過去と未来とを一点に現在ならしむる所の瞬間である。
   永遠が 今の一点に 流出口(ぐち)を見出(みいだ)しつつあるのである。

   今 神が生きる唯一の機会である。

   過去は現在に生き 未来は現在によって生きる。
   どんな過去も無駄なものは一つもなかったのである。

   唯(ただ)感謝と喜(よろこび)と祝福とのみがあるのである。

・・・

(3)《母に感謝して治る病気もある》

   感激して夢中になって 肉体をわすれての労働は、
   重症の肺病をも癒やすが、

   その労働が退屈になり、
   課せられた義務としてする仕事は、
   健康者をも病気にするのである。

   「 毅然(きぜん)として起って、今働け 」 と書いてある
   文章を読んで、働き出した病人の中(うち)、
   甲は治るのに 乙は却(かえ)って重くなるのは
   課せられた仕事として感激なしにするからである。

   みんな自分の心の問題である。

   働くとか働かぬとか云う形の問題ではない。

   まだそのほかに感謝の問題もある。

   八月に生長の家本部で催された教修会に参加した青年で、
   重症の肺結核であったのが、

   「 お母さん、ありがとうございます 」 と感謝の心が
   魂の底から沸々わき起って来たとき

   こんなに元気に治ったと其の体験を発表した人があった。

・・・

(4)《あなたも屹度天才である》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   人それぞれに、その天才を発揮する時期が異なるのである。
   1年中美しい花を咲かせない松柏科の植物もある。

   それは目立って美しい花を咲かせないけれども、よく風雪に耐え、
   酷暑を忍び、亭々と高く聳えて、よく千年の樹齢を保つのである。

   植物にも、それぞれ異なる使命と天分とを与えられているが如く、
   人間にもそれぞれの天分が異なり、その発達・開花の時期が異なるのであるから、
   他の人が早く出世をして幸運をつかんでいることを羨むことは要らないのである。

   あなたには、あなたの型に従って適当な時期によき運命の花を開くのである。

・・・

(5)《倒れても起ち上がって前進する》

   倒れても起ち上がる。

   躓いても起ち上がる。

   城が砲撃や爆撃によって粉砕されても、物質は粉砕されることがあっても、
   心を粉砕することは出来ないのだ。

   勇気ある者は、城が粉砕されても、その 廃墟瓦礫の中に起ち上がって、
   捲土重来の計画を心の中に描きつつ微笑するのである。

   日本は敗戦の廃墟の中から起ちあがったのである。

   そして若し倒れなかったならば、知ることの出来ない
   色々の体験を閲(けみ)して、戦争した前よりも進歩したのである。

   如何なる困難なる経験も、それが無かった時よりも人間は前進する。

   人間の文化も前進するし、人間の魂も前進するのである。
   特に勇気ある者は一層前進する。

   怯懦であってはならないのだ。

・・・

(6)《幽界現實界の境》

   ここで私は、こんな素晴しい靈魂もあるのだといふ事を
   『生命の實相』愛藏版第五巻”靈界篇”にある高級靈から
   その子に寄越した”靈界通信”の一節を諸君に紹介したいと思ふのである。

   この高級靈はその子に向つて、

   「お前は私の語らうとするところの眞義を捉へ得るであらうか。
    この眞義をすべての人類が捉へ得たならば、全世界は相(すがた)を
    變へてしまふといふことがお前には解るだらうか・・・・・」

   といつてゐるのである。

 
   そんなに重大な眞理がこの靈界通信には盛り込まれてゐるのである。

   彼の靈魂はその子の手を借りて、自動書記現象によつて
   次の如く自分自身の臨終を書くのである。――

   「私は街路で突然病氣に襲はれて病床に運ばれて、
    そして其處で死んだのだつた。

    家族の内でお前だけが、父の意識の最後の殘りがかすかに漂うてゐる
    臨終に間に會つてくれたのだつた。

    愛するわが児よ、私はお前を感じたよ。
    お前といふものが、私の最期に浮かんだ”念”だつたのだ。

    お前は私の手が力なくお前の方へ動いて行つて垂れ下がつたのを
    思ひ出すであらう。

    それは私の現實界における最後の運動であり、最後の力であつた。

    そして私は現實界から没し去つて死んだのだ」

   (これで、彼の肉體を通しての意識は消滅し、その次は肉體を脱した靈魂が、
    現實界をのぞき込んでゐる意識に換はるのである――谷口註)

            <感謝合掌 令和6年11月11日 頓首再拝>

【十ニ日の法語(11月12日)】 - 伝統

2024/11/12 (Tue) 05:02:54


(1)《広徳成就の日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   あの大海原を見よ。

   最も清らかなもので最もけがれている。

   一切の陸上から流れ入るすべての汚物を排斥しないで、
   自分のうちに呑みほしてしまうから、
   これほど穢れたものはないが、
   またこれほど浄らかなものはない。

   これが 『太白は辱の若し』 である。

   またそれが広徳即ちひろびろとした徳であって、
   一切を容れて不平を云わないから、
   一寸この人足らぬ人ではないかと云うようにも見える。

   この人は鈍物ではないかと思われるが、
   そう云うような人こそ広徳をそなえた人だと謂える。

   運鈍根の三徳こそ出世に必要だと云うのはそれである。


   (参照~抜粋として)

   一切を容れて不平を云わないから、
   一寸この人足らぬ人ではないかと云うようにも見える。

   この人は鈍物ではないかと思われるが、
   そう云うような人こそ広徳をそなえた人だと謂える。

   運鈍根の三徳こそ出世に必要だと云うのはそれである。

・・・

(2)《明日は必ず祝福されたものである》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   自分は明日を祝福する。
   もう私は未来のことについて思い患ったりしないのである。
   何故なら未来は、今と等しく神のものであるからである。

   神は吾が内に生き、吾が周囲に生き、すべての事物の内に生き、
   ありとしあらゆるものは 善きことの外あり得ようがないからである。

   時々刻々に 神の愛にとりまかれ、
   神の智慧に導かれ 神の供給に溢(あふ)れているのが自分である。

・・・

(3)《「 ままよ 」 と云う心 「 治る 」 心》

   恐怖心から治癒力がにぶっている病人は、
   恐怖心を唯(ただ)とり去るだけでも治ることがある。

   「 治りたい 」 と云う考えに執着している場合には、
   その反対観念たる 「 治らなかったら恐ろしい 」
   と云う考えがつきまといがちであり、

   この恐怖が病人の活力を萎縮せしめて、
   治癒をおくらせていることがある。

   そこで 「 死のうとままよ 」 とか、
   「 治らないなら治らないで可(よ)いではないか、
   生きている間は人のために働こう 」 などと

   生死超越の気持になって働き出したときに、
   治癒力が昂進して治るのである。


   高野山の教修会で京都の井上喜代さんは

   重症の腎臓炎が 「 治らないなら治らないで可い 」 と働きかけた翌日、
   尿蛋白が消失したと発表された。

・・・

(4)《毎日努力して何らかの進歩をなせ》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   生命は生長が止まったら枯死又は衰頽がはじまるのである。

   それは生命体の特徴として常に新陳代謝が行なわれねばならないのであるのに、
   みずから努力して新しきものを獲得することがなければ、過去にありしものを
   使い果すか、過去にありしものが錆びついてしまうかして、
   生命体は円滑なるはたらきを失ってしまうのである。

   だからあなたは毎日、前進をなし、何らかの進歩を遂げることが必要である。

・・・

(5)《“神の子“たる実相を自覚して前進せよ》

   毎日毎日が新生なのである。

   新生は暦の日附が新しくなることではなく、
   自分の自覚が新たになることなのである。

   私たちの住む世界は“物質の世界”ではなく、“唯心所現の世界”即ち
   「心の現わす所の世界」であるから、住む人自身の”心の悟り”が
   一変すると、その人の住む世界が一変するのである。

   だからあなたはいつでも自分の人生を一変することが出来るのである。

   神があなたのうちに居るのである。

   単に神が内在すると言うだけでなく、「内在の神」そのものが、あなたの
   ”本質”であり、あなたの“実相”であり、「本当のあなた」なのである。

   あなたは何を恐れることがあろうか。

・・・

(6)《“思ひやりのある死者の霊の力》

   この父の靈は高級靈であるから、肉體を脱した直後、
   直ぐ現實界を見ることが出來るのである。

   それで次ぎのやうに自動書記現象で綴るのである。――

   「私の愛する児よ、お前は立ちながら父親の肉體を覗き込んでゐた。
    併しその時お前の心に浮かんだのはお前の不幸な母親のことであつて
    私の事ではなかつた。

    お前の魂は意識していなかつたが、
    その考へは私の魂の中に織り込まれてゐて私と同じことを考へてゐたのだ、
    ”どうして此の哀れな母を助け、慰めてあげようか”と。

    ・・・・・彼女よりも先に私が他界するといふ事は
    彼女にとつて實に殘虐な運命であつた。

    それは彼女にとつて太陽が没したことになる。

    絶望と悲嘆との極みが彼女を襲ふであらう。

    (註。肉體を脱した父の靈は、その息子が何を考へてゐるかを
       靈的知覺によつて知つてゐたのである。)

    わが児よ、その時、お前の母親がやつて來たのだ。
    ・・・・・その時お前は母親の手を握りしめ、
    彼女の腕を抱き上げた。

    ――さうしたのは本當はお前でなく、私だつたのだ。

    お前は眼の前に横になつてゐる父親を忘れて母親に囁きかけた
    ――さうしたのは、本當は私だつたのだ。

    私はお前に力を與へ、お前の母親に内から力を與へてゐた。

    母がその夜お前が心配したやうに悶絶もせず
    悲しみに耐へることが出來たのはそのためだつたのだ」

   (『生命の實相』愛藏版第五巻靈界篇136頁、携帯版第十巻107頁)

            <感謝合掌 令和6年11月12日 頓首再拝>

【十三日の法語(11月13日)】 - 伝統

2024/11/13 (Wed) 04:59:33


(1)《陰徳の日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   陰徳とは徳建ちたる者である。
   また建徳に通じ健かなる徳である。

   偸(とう)とは 『偸(ぬす)む』 ことである。

   人の目を偸み、時間を偸み、
   ポカンとして遊んでいるように見えるのである。

   またかくれて目だたぬことである。

   如何に徳高くしても目立ってこれを行う者は人からおとされる。

   夜そっと降りて来て万物をうるおす夜露のようなのが隠れたる建徳である。

   また本当に質実なものは 『私は質実でございます』 などとは云えないから、
   却って質実でないように思われる。

   併し孔子も云ったように巧言令色する者に質実はない。


   (参照~抜粋として)

   陰徳とは徳建ちたる者である。
   また建徳に通じ健かなる徳である。

   如何に徳高くしても目立ってこれを行う者は人からおとされる。
   夜そっと降りて来て万物をうるおす夜露のようなのが
   隠れたる建徳である。

・・・

(2)《吾は祝福されたるものである》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   神に於いては凡ゆる事は可能であり、
   すべてのことはすでに潜在的に与えられているのである。

   吾が祈りは、神がすでに潜在的に与え給いしものを
   よびだす力となるのである。

   吾が祈りの言葉は、無限に噴出する井戸の水を汲(く)み出す所の
   釣瓶(つるべ)のようなものであるのである。

   その釣瓶が大きければ大きい程、
   多量の恵の水を汲み出すことができるのである。

・・・

(3)《神の完全通路となれ》

   「 ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ 」
   と金光教組は喝破された。

   それが焼け糞(くそ)の 「 どうなとなれ 」 では、
   此の世に悪が存在すると云う前提の下での 「 ままよ 」 であるから、
   それは寧(むし)ろ破壊的に働くのである。

   「 神の み心に全託しましょう。悪いように見えても、
   神の み心の中には悪は無いのであるから、
   神の みこころのままよ 」 と云う全託、自己抛棄(ほうき)のカ
   ラッポの気持になったとき、

   そのカラッポを完全通路として、神の生かす力が働いて来るのである。

   無我全託(むがでそのまままかせきり)は
   神の創造には決して悪はないという
   神への「 絶対信 」 からのみ来るのである。

・・・

(4)《自他のために深切を尽くすこと》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   神から与えられた能力を使って、そのとき出来るだけの奉仕をせよ。

   深切を尽くすとは、親しく狎々しくて”甘やかす”ことではないのである。

   自分及び他の人の内部に埋没されている本当に“価値あるもの”(実相)
   を引き出すようにすることである。

・・・

(5)《自覚を改善する事によって運命を開拓せよ》

   ”神の子”であるという「本当の自分」が解ったといっても、
   それを頭脳で理解したという程度の解り方では、
   本当に自分の実力を発揮できないのである。

   自分が神の子である云う実相を完全に自覚するのは一生涯の修行である。

   「実相の完全さ」は無限の高さにあるのであるから、
   これだけ頭脳で理解したら充分だという訳ではないのである。

   だから、釈尊も、また諸宗諸教の教祖たちも、或いは一生涯坐禅を続け、
   或いは絶えず観法を怠らず、或いは不断念仏して如来と一体の
   自己たらんことを行じ、或いは日々祈りによって
   神の御心と一体となる行持を怠らなかったのである。


   あなたもまた神想観を一生涯の修行として
   常に怠らず実修すべきであるのである。

   そしてあなたが”神の子”の実相を自覚し得た程度に従って、
   あなたの人生は新たなる発展を見せるのである。

   前進は魂の悦びであり、困難を克服する努力の中に勇気ある者は
   勝利の凱歌を聞くのである。

・・・

(6)《祖先靈を祀ること》

   死者の靈はこのやうに現實界の人々にも力を及ぼすことができるのである。

   諸君は祖先の霊の祭祀のことを思ひ浮かべることがあつたり、
   氣にかかつたりするならば、それは祖先(亡父母を含む)自身の
   祭祀して貰ひたい意識があなたの意識の中に
   織り込まれてゐるからなのである。

   だから、さういふ考へが起つて來た時にはお仏壇のない家庭なら
   お仏壇を買つて來て祀つてあげるがよい。

            <感謝合掌 令和6年11月13日 頓首再拝>

【十四日の法語(11月14日)】 - 伝統

2024/11/14 (Thu) 05:01:48


(1)《心の角をとる日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   『大方(たいほう)は隅なし』 とは、
    大きく凡ゆる方向に弥広がっているものには隅がないと云うことである。

   宇宙にひろがる盧遮那仏を仏教では
   大方広仏(たいほうこうぶつ)と云っている。

   宇宙は広いから、隅もなく、角もない。
 
   角のあるようなものは心が狭いのである。


   『大器は晩成す』 と云うのは有名な言葉である。

   興亜の大業もそんなに早く運ばないのを焦ることはない。

   じっくり構えて、堅忍持久しなければならぬ。

   晩成を待ち遠しく思うようではならぬ。

   長期戦であり、長期建設であり、破壊即建設の同時成就である。



   (参照~抜粋として)

   宇宙にひろがる盧遮那仏を仏教では
   大方広仏(たいほうこうぶつ)と云っている。

   宇宙は広いから、隅もなく、角もない。
   角のあるようなものは心が狭いのである。

   『大器は晩成す』 と云うのは有名な言葉である。

・・・

(2)《吾れ祈れば天地こたう》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   神の霊は宇宙一ぱいにみちみちているのである。
   自分の上にも、下にも、右にも、左にも、前にも、後ろにも、
   あらゆる所にみちみちている。

   私は ただそれに対して呼びかければいいのである。
   その呼びかけが言葉の力であるのである。

   吾祈れば 天地応(こた)え、吾動けば 宇宙動くのである。
   自分の祈りは今 神の御意志と完全に調和しているのである。

・・・

(3)《現象の奥の実相をみよ》

   熱が出たときに熱を恐れ、
   喀血(かっけつ)したときに喀血をおそれ、
   盗汗(ねあせ)が出たときに盗汗を恐れているのでは、
   現象に振りまわされているのであって、

   その振り廻される度毎(たびごと)に自然療能力は衰え、
   病気の快復はおくれるのである。

   現象の奥にある実相を見なければならないのである。

   発熱の奥に、喀血の奥に、盗汗の奥に、
   神の摂理 ― 内より治す力 ― が働いていることを感じて
   感謝しなければならぬ。

   発熱は 病菌を死滅せしめ、毒素を焼却する働きがあり、
   喀血および盗汗は 血液の自浄作用である。
   そのたび毎に感謝する者は癒え、その度毎に恐るる者は病気が増悪する。

・・・

(4)《やりかけた勉強は徹底的にやれ》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   何か人より優れた、自分でないと出来ないような
   個性ある一芸に練達するように努力せよ。

   勉強は徹底的にやるがよい。
   何でも徹底的にやったものには価値がある。

・・・

(5)《あなたが新生すれば世界が変る》

   「また今日も同じことの繰返しか、つまらないな」などと、
   朝起きたときに思うことを止めよ。

   客観的には同じ仕事をしているように見えても、
   その仕事をする人の心が新しくなれば、その仕事が、
   あなたの心に触れる面が、新しく異なって来るのである。

   あなたはその仕事から新しい面を見出し、新しい意義を見出し、
   新しい教訓を見出し、新しい興味を見出すことが出来るのである。

   あなたは新しい光をもって仕事を見、人生を見、新しい価値を見、
   人生に生き甲斐を感ずることが出来るのである。

・・・

(6)《靈界への移行と死後の靈魂の?態》

   このやうな高級靈の特殊の状態は別として、
   一般普通人の靈魂の肉體死後、間もなくの?態は、
   現實世界の臨終の?態の續きの状態を經驗するのである。

   心境が急激に變はることはないからである。

   靈魂が肉體を脱皮して新たなる境涯に入る過程は、
   毛虫が蛹の状態から脱皮して翅の生えた蝶の状態に移行する
   過程にも似てゐる。

   それは”靈界への出産ともいふべき状態で、
   出産の陣痛とでも言ふべき斷末魔の苦しみを經驗する。

   (もつとも悟境に入つてゐる靈魂は既に述べたやうに無痛分娩とでも
    言ふべき安樂の状態で、意識を持續しながら靈界へ移行する)

   斷末魔の苦しみを味はふ靈魂は、神の慈悲によつて、
   或る程度以上の苦痛を免除して、

   或る期間(ひとにより長短があり、間もなく意識を恢復する者もいるが、
   長きは數十年にわたり人事不省のまま継續するのもある)

   それは各自の過去の業因の相異によつて業果が異なるのである。

   その人事不省の無意識状態が長きにせよ、短きにせよ、いづれにせよ
   靈界に於て意識を恢復した時には、
   (その人にとつて無意識中のことは心の中に存在しないからである)

   生前、臨終の際の状態が、記憶の世界に蘇生つて來て、
   癌で死んだ人は心に癌の苦痛が復活して來て、靈界のその癌の症状を
   その幽體に継續する状態を假作し苦しむやうになるのである。

            <感謝合掌 令和6年11月14日 頓首再拝>

【十五日の法語(11月15日)】 - 伝統

2024/11/15 (Fri) 05:03:18


(1)《落着く日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   急ぐ心は万事を途中で毀すのである。

   急いではならぬ。
   急がず懶(なま)けず、しかも目立たず、着々として進むべきである。

   急いで病気に罹る人もある。
   急ぐ人のかかりやすい病気は、呼吸器病、喘息、心臓病、
   神経衰弱、吃音、下痢などである。

   医療を受けつつ、この方面の精神を正しくすれば、
   一層医療の効果が挙がるである。

   大音を立てて飛ぶものは却ってそんなに走っていないのである。

   光は音は立てぬけれども、こんなに早く走るものはない。

   寡黙にして静かなる者が大業をなす。

   併し憂鬱に黙ってしまえと云うのではない。


   (参照~抜粋として)

   急ぐ心は万事を途中で毀すのである。
   急いではならぬ。
   急がず懶(なま)けず、しかも目立たず、着々として進むべきである。

   寡黙にして静かなる者が大業をなす。

   併し憂鬱に黙ってしまえと云うのではない。

・・・

(2)《貧乏はケチな想念の反映》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   光明思想の根本的な教の一つは、
   「 類は類を呼ぶ 」 ということなのである。

   「 豊かなる想念は豊かなる事物をひきよせる 」 のである。

   貧乏は決して人間に与えられたる宿命ではないのである。
   それは 貧しき けちな想念の反映として
   現われて来たのにすぎないのである。

   与えれば与えられるのが心の法則である。

・・・

(3)《祈りは自分の心を変化する》

   祈りに効果があるのは、祈りによって
   自分の我慾(がよく)の通りに神の心を
   変化せしめ得るからではないのである。

   かくの如(ごと)き変化常なき多情多恨の神様では
   信頼する甲斐(かい)もないのである。

   祈りに効果あるのは、祈りの精神統一的神への振り向きによって
   自分の心が変化することである。

   自分の心の平和が確立され、
   自己にやどる内在無限力の発現を妨げていたところの
   障礙(しょうがい)を取除いてしまったとき、
   その内在無限の力(即ち神)が働くのである。

   電気の流れを妨げていた絶縁体が取除かれたとき
   電気が作用するのと同じである。

   自分の心の中の恐怖や憤りを取除かないでいて
   祈りがきかれないと呟(つぶや)くのは、

   絶縁体を取除かないでいて
   「 電気は存在しない 」 と呟くようなものである。

・・・

(4)《堅忍不抜にして、よく希望の山嶺に登る》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   吾らの最大の栄誉は失敗しないということではないのである。
   失敗しても失敗しても依然として起ち上る力をもっていることなのである。

   そのたび重なる失敗を通して人間は進歩するのである。

   負けないのが偉いのではない。

   幾度負けても起ち上がる力を失わないのが偉いのである。

   天才とは努力の継続である。

・・・

(5)《天国は“汝の内“にある》

   暗黒な想念を捨てよ。

   暗い感情の虜となるな。

   自分の心に太陽の光を射しのぼらせよ。

   自分の心が太陽の如く輝き出したならば、
   あなたの見る人生が太陽に照らされた明るい輝く人生になるのである。

   心が明るくなれば、血液の循環は順調となり、肉体が生き生きとして来、
   脳髄もハッキリして来るので、観るもの聞くもの、自分のために
   讃歌をうたってくれている天使のように見えて来るのである。

   まことに

   「天国は、此処に見よ、彼処に見よと言うが如くにはいないのである。
    天国は汝の内にあるのである」

   とキリストが言った通りなのである。

・・・

(6)《病念を持ち越して靈界で苦しむ靈を救ふために》

   病念を靈界まで持ち越して、病氣の記憶のままに病氣を靈界で
   體験しつつ苦しんでゐる靈魂の救はれる道は、

   病氣や肉體はないといふ事と、死後の生命を説いて聞かせて上げ、
   「死」といふものはない、それは現實界から靈界への轉任である。

   その轉任の時期は神の御手にあるのだといふ眞理を
   悟らせてあげることが第一である。

   それには祖靈を招靈して『甘露の法雨』を毎日時間を約束して
   讀誦してあげるがよい。

   一人の迷へる靈魂を導くだけで、原因不明の病氣や不治の病氣、
   それに家庭不和などが改善される場合があるのである。

   だから、先祖とか親類縁者の祭祀といふものを
   決しておろそかにしてはならない。

            <感謝合掌 令和6年11月15日 頓首再拝>

【十六日の法語(11月16日)】 - 伝統

2024/11/16 (Sat) 05:02:41


(1)《国に捧ぐる日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   『大象は形なし』 とはよく云ったものである。
   あまりに大きいときには、それは眼に見えぬ。

   神様は宇宙にひろがってましますが故に眼に見えぬ。

   若しこの机でも、前にも、後にも、上にも下にも、
   左にも右にも、無限にひろがっていたならば眼に見えない。

   見えるものは皆小さいからであるか、小さくあらわれているからである。

   人間も大きくなったら人から見えなくなる。

   私などはまだ人から見えるから人物が小さいのである。

   もっと見えなくなることが必要である。

   見えるから人から非難される。

   併し隠れれば尚あらわれる。



   (参照~抜粋として)

   『大象は形なし』 とはよく云ったものである。
   あまりに大きいときには、それは眼に見えぬ。
   神様は宇宙にひろがってましますが故に眼に見えぬ。

   人間も大きくなったら人から見えなくなる。

・・・

(2)《今 心の中に 『 実相の富 』 を描け》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   現象界の貧しき姿に今 眼(め)をとじよ。
   然(しか)して実相の世界の霊的なる
   無限の豊さを心に描いてみつめよ。

   今 現われている貧しき姿は、
   過去の吾が 「 貧しき想念 」 の影にすぎないのである。

   影をみて驚くことはいらないのである。

   吾々が裸であろうとも、今 心中に
   「 実相の富 」 を描き 豊なる想念の衣装で
   自分を包むならば、たちまち豊かなる姿が現われて来るのである。

・・・

(3)《神の愛は変らない》

   電気は 同じ電気の法則で作用しているのであるが、
   それが時としては 光となって世を照らし、
   電熱となって吾々を温め、
   時としては 激しい衝撃をもって吾々を傷つける。

   その変化は受ける装置の変化によるのである。
   電気が変わるのではない。

   それと同じく神の恵みは常に同じであるが、
   こちらの心の状態によって 智慧の光ともなって顕(あらわ)れ、
   愛の温かさともなって顕れ、
   時として烈(はげ)しい苦難の状態ともなって顕れる。

   しかし神の愛は常に変らないのである。

   神の愛を受けるには受ける準備が必要である。

   先ず心の角を去ること、力みを除くこと、我慾を除くこと、
   そして一心に神に振向くことである。
   詳しくは『祈りの科学』を読んで頂きたい。

・・・

(4)《平和・平和・平和よ、汝は何を人類に与える》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   平和は“人類の魂”の進歩に必ずしも貢献しないのである。

   平和に甘やかされ、あまり平和で何ごともすることもないのでイタズラする
   ことだけが退屈をまぎらわす道になってしまったような平和は、
   ”人類の魂”の進歩にとって却って麻薬の働きをするのである。

   (以下略~雑誌に投書されらイタズラの例)

・・・

(5)《日本には奴隷制度はなかった》

   日本に奴隷制度があったり、
   どうにもならない階級制度があったりしたように書く
   戦後の歴史家があるけれども、

   日本には一定の階級制度というものはなかったのであって、
   どんなに微賤な家柄に生まれても、関白太政大臣にもなれたのである。

   この事を奈良女子大名誉教授の岡潔先生は次のように言っている。

   「日本に階級というものがあると言っている人は、
   秀吉を見てもらえば分かると思います。

   階級制度というものが西洋の歴史にありますが、
   日本や支那の歴史にはないという事、これが実にハッキリした特徴なのです。

   西洋ではこの奴隷制度が未だに尾を引いている。

   アメリカの資本主義にはそういう色彩が残っています。
   そのことがいけないと言う。

   それがマルクス主義の存在意義ですが、
   そういう歴史を述べようにも日本や支那には、そういうものがない。

   それを無理に曲げて述べているのです。

   いったい秀吉に階級というものがあったでしょうか。

   あるいは明治の天皇が搾取する人のように見えるでしょうか。

   今多く教えられている日本歴史は、
   西洋の歴史をそのまま、日本にあてはめ真似しているのです。

   教育者はそれに対して何もいっていない。
   これが日本の現状と思うのです・・・・・」(心情圏」八月号96頁)

・・・

(6)《わが生命は祖先の生命の連續である》

   祖先又は自分に關心のある縁者の靈魂の想念は、
   その子孫に影響を與へるので、

   祖先が好まないところを子孫が行なへば、
   祖先又は?者の靈魂の反對觀念を受けて
   その人の運命が妨げられ、順調に進まなくなる事もある。

   また祖先又は自分に關心のある縁者の靈魂が迷ひに捉はれ、
   信ずべからざるを信じ、妄執にとらはれてゐると、
   現實界の子孫たるわれらがその念を受けて、

   正しい事を行いながらも、それがおもしろくゆかなくなることになるから
   祖先の靈魂にはすみやかに眞理を悟らせてあげる必要がある。

   (『生命の實相』携帯版第四巻、第五巻、第十六巻参照)

            <感謝合掌 令和6年11月16日 頓首再拝>

【十七日の法語(11月17日)】 - 伝統

2024/11/17 (Sun) 06:21:22


(1)《神を呼ぶ日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   道は隠れて名なし。 夫れただ道は貸して且つ成す。(老子)


   道と云うものは宇宙にミチていて何処にもないところとてはない。
   何処にもミチていて大地にミチふさがっていながら隠れているのである。

   三角にもあらず、四角にもあらず、五角にもあらず、六角にもあらず、
   これと云う定まった名がない。

   一定の名のつけようがない。

   無相(すがたなく)にして無限の相(すがた)を内に有する。

   そして自分としては何ら要求するところがない超個性的存在である。

   そして呼ばれるに随って相手相応の相を貸してそれを成就する。

   (参照|抜粋として)

   道は隠れて名なし。 夫れただ道は貸して且つ成す。(老子)

   道と云うものは宇宙にミチていて何処にもないところとてはない。
   何処にもミチていて大地にミチふさがっていながら
   隠れているのである。

   無相(すがたなく)にして無限の相(すがた)を内に有する。

   そして自分としては何ら要求するところがない超個性的存在である。

   そして呼ばれるに随って相手相応の相を貸してそれを成就する

・・・

(2)《われは無限供給の世界を見る》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   静かに静かに、吾は今 神の無限供給の世界をみるのである。
   神の造り給いし無限供給の実相世界が今 ここに あるのである。

   神は吾らの父であり給い、
   神の子たる吾らの富むことを喜び給うのである。

   本当の血統を知り 吾神の子なりと名のって出さえすれば
   凡(あら)ゆるものは 既に神から与えられているのである。

・・・

(3)《祈りは心を平和にする》

   先ず心の平和である。
   祈りて神に全託するとき 最初の心の平和が回復する。

   そして 「 心の激動 」 と云う絶縁体が取除かれ、
   内在無限のよき知慧が開かれ、
   内在無限の自然癒能が湧出(ゆうしゅつ)する。

   祈りは 一心不乱でなければならないが、
   心に力みがあってはならぬ。

   濡(ぬ)れ手拭(タオル)が手拭かけに全身を
   よりかからせているように神に完全によりかかり、
   まかせ切る心境にならねばならない。

   幸福と健康と成功との最初の基礎工事は心の平和である。

   山口市で講習会があったとき、
   胃癌で毎日バケツ一杯の食事を吐き出して、
   辛うじて一碗(わん)位が胃中に収まっていた胃癌の患者が、
   
   この全託の気持になったとき吐き気がとまって
   胃癌が全治した体験談があった。

・・・

(4)《終戦時の日本人はもっと清らかな精神をもっていた》

   その筆者の斎藤権次郎氏は戦争中の思い出を書いて
   「ちょうど此の季節になると思い出すのだが、終戦の時、敗残兵として
   マニラの東方山中をさまよい歩いた私達の仲間は大部分餓死した。

   その行動はすべて清らかで、ある人は臨終の時に背嚢から一にぎりの米を取出して
   “これを食べて私の分もお国の再建につくしてください”と言ったし、

   ある曹長は増水の川でおぼれかけた部下を助けようと思い、
   疲れ果てたわが身を忘れて跳びこみ、水死した」といっているのである。

   物資のゆたかさと、レジャーの多さとは、人間を利己的な享楽に導く傾向があり、
   物資乏しくて、人間がまさに死なんとするとき、人は互いに
   助け合う心を起こし、魂は異常に高揚するのである。

   もっとも斎藤氏は「もとより平和と堕落とは異質のものである」
   という語で最後を結ぶことを忘れていない。

   平和そのものが悪いのではないが、平和とレジャーと所得倍増を
   何に使うかということが問題なのである。

・・・

(5)《艱難を通して人間は光を増す》

   日本には奴隷制度はなかった。現在でも奴隷制度はない。

   いつでも社会の下層に生まれた人が、
   社会国家の高き位置に昇る機会が与えられているのである。

   財界のトップに立っている人の大部分は大学を卒業しないで、
   その中には小学教育しか受けなかった人々が随分あると統計が先日
   ある雑誌に載っていて、「学歴無用論」が唱えられていたが、

   名もない土民の子に生れた秀吉が天下をとったと同じような機会が、
   今でも常に日本の国にはあるのである。

   寧ろ少年時代に社会の下積みになって色々の苦労を嘗めて来るのが、
   その人の人格の鍛錬になり、世俗の情に通ずることにもなり、
   だんだん社会の上層に自分が上がって来た時に、

   下にある人たちの人情を知り、苦労を知り、
   一体感をもって下々の人達が心服してくれ、
   同志として親身になって協力してくれることにもなるのである。

   「若い時の苦労は買ってでも為よ」という様な諺が日本に生まれたのも、
   日本の社会事情のしからめるところなのだと思われる。

・・・

(5)《佛壇、神棚の意義》

   佛壇も神棚もないといふのは、一家の魂のよりどころになる
   靈的中心がないことになるのでよろしくない。

   人間界で佛壇も神棚ができるといふことは、
   肉眼で見たら物質の祠や宮が出來ただけだが、

   靈眼でみると、そこにはもつと荘巌な靈界の御宮が出來てをつて、
   その姿が影を映して、人間界に物質の神棚とか佛壇とかが出來てゐる
   といふことになつてゐるのである。

   だから簡單な神道式のお宮でもよろしいし、
   宗派に從つて適當な佛壇をこしらへて拝んであげると、
   靈界にはそれ相當の幽體の神社、佛閣があり、そこへその靈が出入して、
   それを據點に修行してだんだん靈格が上がつてゆく、
   といふことになつてゐるのである。

     (『生長の家』誌昭和三十六年九月號参照)

            <感謝合掌 令和6年11月17日 頓首再拝>

【十八日の法語(11月18日)】 - 伝統

2024/11/18 (Mon) 04:53:13


(1)《始の一を知る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   道は一を生じ、一はニを生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。 (老子)

   道は形がない。
   一も無い。
   無である。

   無もない。

   ただ道である。

   これが中庸に謂わゆる 『未発の中』 である。

   『中』 は横から見た形象文字であるが、
   それを表面から鳥瞰すると、◎(ちゅう) である。

   これは一元の 『一』 を生じた象(かたち)である。

   一より、陰陽の二を生ずる。

   『ふたつ』 は 『二発つ』 であり、二立つである。

   二立つが抱合して 『三(み)』 となる。

   三は 『身』 である。

   『身』 は霊にあらず、物にあらず、霊物一致・即身即仏 
   〈このみそのまま このままほとけ〉 である。



   (参照~抜粋として)

   道は一を生じ、一はニを生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。

    (老子)


   道は形がない。
   一も無い。
   無である。

   無もない。
   ただ道である。

   これが中庸に謂わゆる 『未発の中』 である。

・・・

(2)《神はわが心の暗(やみ)を照破し給う》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   神は光りであり給う。
   神の光 普(あまね)くみちて、
   今 自分の心の暗を照破し給うたのである。

   自分の心の中の暗は すでに消えたのである。

   吾は今 凡ゆる不幸から癒されたのである。

・・・

(3)《父母を神想観中に礼拝せよ》

   父母に感謝したとき多くの病人が治っている。

   父母は「神」即ち、永遠の「父性原理」及び「母性原理」の
   具象化したものとして吾々の前に立っているのである。

   吾々は 神の生命より生れたものであるから、
   神に帰りたい本能をもっているのである。

   しかし神は 眼に(め)に見えないから
   眼に見える神の具象化を見るまで
   満足することが出来ない。

   父母を永遠の「 父性母性原理 」 として感謝するとき、
   はじめて此の本能が満足し生命が生き病気が癒えるのである。

・・・

(4)《平和は果たして人間の魂を向上せしめつつあるか》

   むろん、平和でレジャーがあり、金があるから、
   みんなの人間が利己主義になるのではない。

   しかし”平和”を熱願する人々の中には、平和は”楽”ができる、
   戦争ほどつらくない――というような利己主義といえないまでも、
   個人的な享楽主義的要求が平和愛好の理由になっていて、

   自分の国家は余所の国の軍隊が護ってくれて、他の国の平和を維持するためにでも、
   自分の国の軍隊を危険なところへ派遣するのは御免だというような
   甘い考えの人も多いのである。

   こんな平和は人間の魂の向上に役立つかどうかを
   私は時に考えることがあるのである。

・・・

(5)《現代人の苦悩について》

   (前半 略)

   これを私が書いている時(八月十八日)、観光バス二台が豪雨下の土砂崩れで、
   一瞬のうちに飛騨川に転落して百〇四名が犠牲になっているのである。

   物質文化は進歩して、経済的に繁栄して月給が上がり、レジャーは増えて、
   大自然を軽蔑し、人間は大自然に復讐されたような恰好で
   このような災害を受けているのである。

   もし月給が上がらず、レジャーを楽しむような時間も金もないならば
   この人達はこのような災害に遭わなかったにちがいない。

   どこかが間違っているのである。

   それは実相を忘れているからである。

   物質が豊富になり、レジャーが多くなったら人間は幸福になるという
   唯物論一辺倒の考え方の報いがこの結果なのである。

   本当の人間の幸福は、人間が“神の子“である実相を自覚し
   神意に基づく生活を営むことによってのみ得られるのである。


・・・

(6)《位牌と鎭魂(みたましづめ)の仕方》

   肉體は死んでも”人間”そのものは”靈”であつて、
   靈は死ぬのではないのである。

   靈を祀つてあげるのは清淨な木材(紙)で造つた位牌又は石牌に
   名前を書いてあげるがよい。

   俗名の方が却つてよいのである。

   戒名を付けてあげても靈界で人事不省の無意識中に付けた戒名などは
   自分の戒名だとは知らないで、その戒名を讀んでも、出て來ないこともある。

   男なら俗名の下に、”比古命”と書く。
   女なら俗名の下に、”比女命”と書く。

   最も近い親族が書く方が、
   靈を呼ぶためにのアンテナとしてはよいのである。

   親の靈を祀るにはその實子が位牌に親の名前を書く。
   子の靈を祀るにはその實父母が位牌に子の名前を書く。

   文字には書いた人の靈波が宿つてゐるのであるから
   親と子とは最も近似の靈波を持つてゐるから、
   その靈を招ぶ場合に波長の同調が得られるので都合がよい。

   書き終はると、それを佛壇又は神棚又は清淨な場所に安置し、
   「何年何月何日を現世の限りとして幽界に歸りましましし
    何々比古の靈(みたま)ィィ・・・・・」と數囘、
   靈を本當に呼び出す氣持で唱へる。

   その後數歌を數囘唱へて招靈された靈魂が來臨する時間的餘裕を與へる
   とともに精神を統一して來臨の靈を自己に受ける。

   そして合掌の指先を位牌(又は石牌)の方に向けて、
   下腹部に力を入れて”イューゥ”といふ發聲の氣合いをかけると、
   招靈された靈魂が、招靈の儀を行ひつつある人の合掌の指先より氣合と同時に
   放射されたる靈氣によつてその位牌に結び付けられる。

   謂はば今迄はその靈を招ぶにしても無線交信であつたのが
   靈の絲により有線通話式に?が結ばれることになり、
   その位牌に向つて經を上げたり、物を供へれば、
   直接電話を掛ける如く相手に通ずることになるのである。

            <感謝合掌 令和6年11月18日 頓首再拝>

【十九日の法語(11月19日)】 - 伝統

2024/11/19 (Tue) 05:03:46


(1)《陰極陽転の日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   《陰暦10月1日、住吉大神が三韓征伐に発ち給いし日。
    新に生長の家秋の記念日と定む》


   万物は陰を負いて陽を抱く、冲気以て和を為す。 (老子)


   霊は陽にして、みずから積極的に動く。
   それは能動的である。

   物は陰にして、みずから積極的には動かない。
   それは受動的である。

   霊は陰にして陰はカゲであるから顕れない。

   物は陽にして、陽はアラハであるから表面に顕れて動く。

   霊の外性は陰、内性は陽、物の外性は陽、内性は陰。

   霊と物との陰陽性について言い争う必要はない。

   すべて陰を負い陽を抱き、中心に和している。




   (参照~抜粋として)

   万物は陰を負いて陽を抱く、冲気以て和を為す。 (老子)


   霊は陽にして、みずから積極的に動く。
   それは能動的である。

   物は陰にして、みずから積極的には動かない。
   それは受動的である。

   霊の外性は陰、内性は陽、物の外性は陽、内性は陰。

   霊と物との陰陽性について言い争う必要はない。

   すべて陰を負い陽を抱き、中心に和している。

・・・

(2)《神と共に行為する者は常に機会がある》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   到(いた)る処(ところ)に機会がみちているのである。
   自分にとっては機会は無限である。

   時々刻々一挙手一投足、神が自分を通じて表現し給わんとする
   よき機会であるのである。

   自分は神と共に何事をもなすが故に
   決して失敗するということはないのである。

・・・

(3)《人類の幸福の源泉》

   吾々の幸福、健康、成功が如何(いか)に
   自分自身の心の状態に関係して左右されるかを
   知らない人は非常に多いのである。

   若(も)しこの事実が、もう少し多くの人類に理会されるならば、
   人々は自己の不幸の原因を他に転嫁して
   他の人を憎んだり憤ったりしなくなり、

   自分自身を反省して心を改めるから、人類相互の争いはなくなり、

   人々は各々健康に富み栄えながら
   平和なる生活を送ることが出来るであろう。


   自分の心が周囲のすべての人を愛する時、
   自分も亦(また)周囲のすべての人に愛されるのである。

   何よりも此(こ)の思想の普及が人類の幸福の源泉である。

・・・

(4)《大きな体育館ができるのが文化国家ではない》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   精神が如何に肉体の健不健に影響を与えるかを知らぬという
   精神的無知者が体育館を管理している都市が随分あるのである。

   そして精神の教養の乏しさの上に肉体のみ栄養食をすすめて
   巨大日本民族をつくるのを厚生省の役目のように思っているから、
   精神と肉体精力とのバランスが崩れて性的犯罪は増加するばかりである。

   しかも一方に於いて、体重および身長の大なるものほど長寿でないという
   統計が出て、栄養食と運動とで肉体を巨大にすることが本当の健康ではない
   ということが明らかになりつつあるのである。

   九大に普通の“内科”のほかに“心療内科”がつくられたように“体育館”の
   ほかに“心育館”を国費で建て、誰でも心育館に出入りして修養につとめる
   ことを名誉とする位にならねば、本当に文化国家だなどと
   誇らしげに言う資格はないのである。

・・・

(5)《人間の実体は“神の子“である》

   名取順一教授は続いて言う。

   「人間の三大欲求は食欲、性欲、安全だと言われている。
   人が安全であることは幸福であり、そこに、文明、文化の花が咲く。

   ところが、最近の社会は不安全で、不幸である。
   ではどうしたらこの世を安全な場所にすることが出来るか。
   第一に検討されなければならないのは人間の実体であ。・・・・・。」


   私は爰まで読んで来て、名取順一教授も生長の家と同じく

   「人間の実体」は“神の子“であり。それを自覚しなければ本当の幸福も
   安全も得ることは出来ないのであるとお説きになるのかと思うと、
   名取教授はその次にこう説かれる。

   「人間は自然と融合し、環境とバランスをとって幸福の世界をつくらねば
   ならない。国家を論ずる人も“主権在民“を知ることは、国より人に、
   民に重点があるという事をみとめて貰いたい。

   個人と国家と人類は一つであるというのが正しい原理である。
   人間は国家の道具ではない。」

   これを読んで私は失望したのである。

   だいたい「人間の本質」の中に主権在民というような
   ”細胞主権主義“のようなものはないからである。

   もし体の細胞が各々主権をもって勝手気儘なことを主張し出したら、
   その人体は癌症状に罹っているのと同じであって、
   その人間は死んでしまうほかはないからである。

・・・

(6)《位牌には何名の名を書いてもよい》

   又位牌には(一牌に)何人の名を書いても構はない。
   同じ宗旨の人なら表に”何々家先祖代々親族九族一切の靈”と書いて、
   裏に、殊に死んで五十年經たない人の名前を書いて、一々呼び出して、
   一緒にそこへお祀りしてあげるというやうにすればいいのである。

   一緒の位牌の中に入つてゐても、
   血のつながりの親類縁者、家族みたいなものだから、
   其処に一緒にゐるといふことに障りはないわけである。

   また、人間は五官の感覺器官に頼つているので、
   本當に耳に聴こえるやうに呼ばなければ聞こえぬが、

   靈魂は肉體の感覺器官を通さないでも、我々が何月何日に祖先供養を
   するんだと心の世界に決めると、それを感じて其処に集つて來る
   といふ事になつてゐるのである。

   それを特に名前を誦へてあげるのは、迷ひが多かつたり、
   恨みが解けないでゐたり、或は自分が新佛で、澤山の先輩の靈魂の
   參列があるために遠慮して、

   自分の名前を呼ばれなかつたら、前列に出たらいかんのだと思ひ、
   後ろの方で未だ遠慮してゐるやうな靈魂もあるから、
   名前を呼び出してあげた方がよいのである。

            <感謝合掌 令和6年11月19日 頓首再拝>

【ニ十日の法語(11月20日)】 - 伝統

2024/11/20 (Wed) 05:04:26


(1)《全を把む日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(実相)

   1日のうちにも昼があり、夜があり、昼は陽であり、夜は陰である。

   陰陽相いだいて 『中(ちゅう)』 を得て和ととのい、調和成り立つ。

   陰はいつまでも陰ではなく、陰の中に陽があるからである。
   陽はいつまでも陽ではなく、陽の中に陰があるからである。

   霊は陰(かげ)であり現れないが活気溌剌としている。

   物は陽(あらは)であり外面に突出するが内に生命乏しきものである。

   外面困難の陰気のときに吾等は霊をやしない、
   外面溌剌たる陽のときに吾等は物をやしなう。

   いずれも吾等を養いならざるはない。

   陰気のときにも陽気のときにも喜べるのが生長の家である。



   (参照~抜粋として)

   陰はいつまでも陰ではなく、陰の中に陽があるからである。
   陽はいつまでも陽ではなく、陽の中に陰があるからである。

   霊は陰(かげ)であり現れないが活気溌剌としている。
   物は陽(あらは)であり外面に突出するが内に生命乏しきものである。

   外面困難の陰気のときに吾等は霊をやしない、
   外面溌剌たる陽のときに吾等は物をやしなう。

   いずれも吾等を養いならざるはない。

   陰気のときにも陽気のときにも喜べるのが生長の家である。

・・・

(2)《信仰を深めるには》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   祈りの成就するための最も重大なる要素は 「 信仰 」 である。

   されば 信仰は 如何(いか)にして得られるか。
   
   信念を得た人の話をきくこと。
   信仰を得た人の書物をよむこと。
   そして神を切に求むることである。

・・・

(3)《サービスは繁昌の基礎工事である》

   あなたの仕事が繁昌しないならば喜べ悦(よろこ)べ。
   それはあなたにとっての反省の機会であり、魂の向上の機会である。

   どこかに貴方(あなた)の心に明るさが足りなかったか、
   深切さが足りなかったか、行き届かなかったか、
   サービスが足りなかったか、愛が足りなかったのである。

   出来るだけ、心を明るくし、深切にし、すべてに行き届いて、
   愈々(いよいよ)益々(ますます)人々にサービスを増加し、

   お客が来なければ、私の世界に先客万来を描いて
   「有り難う御座います」と感謝することにすれば、
   繁昌と成功とは疑いなしである。

・・・

(4)《癌も精神的ストレスが原因で起こる》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   ちょうど私がこんなことを考えている時に誌友の小林信(まこと)氏から
   八月十日号の『週刊現代』に癌の原因が精神にあるという記事が
   載っているというので同誌を寄贈して来られた。

   この『週刊現代』はそれについて、慶大医学部神経科心身症センターの
   阿部正医博士の診断した胃癌患者で、精神のストレスが発癌の原因と
   みとめられる二例を掲げ、更に肺癌だけではなく乳癌などの原因についても
   阿部教授は次のようにいっているのである。

   「婦人の乳癌についても、同じような精神身体医学的な立場からの研究報告が
   リネカー以下七人のアメリカ人研究者によって発表されていますね。

   昭和三十八年の事ですが、これも、本人の性格とか、母親などが
   原因の一つとして数え上げられているのです。

   ・・・・・イタリアの学者ジョハジュなども胸部ガンについての
   精神身体医学的研究を発表していますし、
   アメリカのエバーソンとコレという医者は逆に“ガンの自然退行”
   つまり自然治癒の症例報告をしています。

   キッセン報告を待つまでもなく、ガンと精神的要素は無関係と
   はいえないと思いますよ」(注。胸部癌とは乳癌のことである)

・・・

(5)《国家を喪失した日本国の現状》

   「主権在民」の思想は“全体”は“部分”の構成によって成り立っている
   という「物体の唯物論観察」を国家に当て嵌めて考え出されたものである。

   成るほど「全体」は「部分」の集合体ではあるけれども、
   その全体が生きた有機体又は健康なる生体として存在し得るためには、
   「部分」が主権を持つと称して勝手気儘な主張をして全体の統一を攪乱する
   ような事をしては、国家はその存在が危くなるのは当然の事である。


   この事は「無門関解釈」の本の中で私が“渓仲造車”の公案を解釈した
   ところに詳しく説明しておいたから読んで頂きたい。

   ”車”を解体して部分品としてしまった渓仲という人間が、
   ”車は何処にあるか”と探しまわったけれども、
   “車”はみつからなかったという話である。

   国家を国民という構成要素にわけて、国民主権を高唱した時、
   いくら国家を探しまわっても国家はない訳だ。

   従って国民主権の下に於いては国家がないのだから
   愛国心など起こりようがない訳だ。

   ただ国民の都合のよいための組合組織があるだけである。

   そして国民の「都合のよさ」は各人に従って差等があるから常に国内が、
   ある数の利益団体に分れて、その利益団体が、自己の利益を主張するために
   国内で相争うことになる・・・・・それが日本国の現状なのである。

・・・

(6)《新たに祖先靈を祭祀する場合》

   新たに靈牌又は墓石を作つて、お詣りする時は、祓式を行ひ、
   次にまず”招神歌”を唱へて正しい神樣の御降臨を願つて、
   祭祀の意義をといた祭文を續み、

   佛教ならば祓式の代はりに般若心經を経を續みて
   盲念を淨めて本尊の御守護のもとに招靈するやうにする。

   これは浮浪の靈などに災ひされないためで、
   力強く権威ある態度で行ふやうにする。

            <感謝合掌 令和6年11月20日 頓首再拝>

【ニ十一日の法語(11月21日)】 - 伝統

2024/11/21 (Thu) 04:59:59


(1)《愈々謙る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   人の悪(にく)む所は唯孤寡不穀のみ、而も王公以て称と為す。
   故に物或は之を損して益し之を益して損す。  (老子)


   人の悪(にく)むところは 『孤(こ)』 すなわち孤独である。

   また 『寡(か)』 
   すなわち徳の寡(すくな)いこと又は寡婦になることである。

   また 『不穀(ふこく)』 すなわち愚かなこと又は不善である。

 
   そのように人は孤独、不徳、不善をきらいながら、
   王侯でさえも 『吾れ不徳にして』 などと謙る。

   これは 『謙り』 の中に 『益』 があり、
   『益』 の中に 『損』 があるからである。

   実る程頭下ぐる稲穂かな


   (参照~抜粋として)

   人は孤独、不徳、不善をきらいながら、
   王侯でさえも 『吾れ不徳にして』 などと謙る。

   これは 『謙り』 の中に 『益』 があり、 
   『益』 の中に 『損』 があるからである。

   実る程頭下ぐる稲穂かな

・・・

(2)《今、自分は強いのである》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   神は自分の肉体及び精神のすべての力の根源である。
   神が根源であるから 決して自分は弱いということは
   あり得ないのである。

   神の無限に強力なる力が自分を常に強力ならしめ健康ならしめ、
   永遠に疲労せしめ給うことはない。

   今ここに自分は 無限の健康なのである。
   無限に調和しているのである。

・・・

(3)《不快な人に一層深切にせよ》

   誰かがあなたに対して不快なことをするならば、
   その人を愈々(いよいよ)益々深く愛せよ。

   而(しか)して貴方が其の人に対してやはり不快な感情を
   抱いていた反映であると思って反省せよ。

   そして愈々益々人々に感謝し、深切と、愛念とを増加するように
   するならば、不快な敵意をもっていた人と思われていた人が
   却(かえ)って本当に自分の味方であったと云うことが
   判(わか)って来るであろう。

   どんなに他の人が冷酷であっても、善意は人間の実相であり、
   悪意は仮面であるからその奥を見徹(みとお)さねばならぬ。

・・・

(4)《病気を製造しいつつある製薬会社》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   そして薬剤の広告いよいよ熾烈にして、その広告の言葉が、疲労、肩こり、
   夏バテ、神経痛、血管硬化等々・・・・・と病気を、老衰を心に印象して
   病気や老衰を精神的に創造しつつあることには気がつかないのである。

   いや、それは気がついてはいるかも知れないが、製造業者は、薬ばかりを
   製造していては薬が売れないから、一方では病気を恐怖さす言葉の暗示で
   病気を製造しておいて、その製造した病気の薬剤を売ろうという訳である。

   既に出来てしまった病気には、薬剤で中和したり殺菌したりする必要が
   あるから、薬剤の紹介や広告はある範囲に限って必要である。

   薬剤の広告は医師にのみ読ませる「薬事新聞」等にのみ掲載を限って、
   一般のマスコミにはのせない事が、国民を健康に導く上からは
   最良の策なのである。

   しかし現行の憲法では「表現の自由」が定められているので、薬剤会社の
   “広告や言論の自由”を制限することは違憲であるからどうすることも
   できないのである。

   現行憲法はこの点でも其の欠陥を暴露しつつあるのである。

・・・

(5)《車にたとえて生命体としての国家を解く》

   人間は“神の子”として、霊的実在であり、従って神に属するのである。

   日本国は天照大御神の創作せられたる「豊芦原の瑞穂国は
   世々わが子孫の王(きみ)たるべき地(くに)なり」という理念の
   実現として、神の設計が天降って実現した国家なのである。

   それ故に日本国は“神の国”であって、霊的実在である。

   肉眼に見える姿は、それがまだ不完全に現象化した姿である。

   “車”というものの設計が必ず、中心部に中軸があって、その中軸を
   中心として周囲の一切の部品が回転しているのと同じように、

   天皇の大御心を中心に、周囲の一切の生命が渾然調和して
   一個の生命体をなしているのが日本国本来の姿である。

   “車“の部分品が各々勝手に「自分に主権がある」と称して回転し出したら
   ”車”と言うものは成り立たないのである。

   ”車”にたとえて“国家”のあるべき本当の姿を
   よくよく考えてみるべきである。

・・・

(6)《生長の家は葬祭の儀式に何故神社的式典を採用するか》

   何故生長の家では祭官が神道的服装をし、神道的儀禮に則つて
   祭祀を行ふかと問ふ人がゐる。

   まず第一に、何故神前に榊をそなへるのであるかといふ問がある。

   これは古事記の天岩戸開きの時の行事に、

   「天の香具山の五百津の眞賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて
    上枝に八戸勾玉(やたのまがたま)の五百津の御須痲流の玉を取り著け、
    中枝に八百鏡(やたのかがみ)を取り繋け、
    下枝に白丹寸手(しろにぎて)、
    靑丹寸手(あおにぎて)取り垂(し)でて・・・・・」

   とある故事に則つたのであつて、別に生長の家の事であるから、
   獨特の祭式の行事として特に定めたものではないのであるが、

   萬教歸一の生長の家の事であるから、神道佛耶等色々の信者が集るので、
   佛式にしてもキリスト式にやつてもよいのであるが、

   佛式に葬祭の行事をやればキリスト教の人は反撥するであらうし、
   キリスト教式に葬祭の儀式をやれば佛教の人は反撥するであらうから、
   そこで日本人ならキリスト教の人でも、佛教の人でも反撥なしに
   集まり易いので、

   萬教歸一を目標とする生長の家では、その葬祭の儀式作法は、
   特別の事は除き、だいたい神社式典の儀禮作法に則つて行ふ
   ことになつてゐるのである。

   だいたい神社式典は、宗教のやうに思ふ人もあるが、
   神ながらの道――すなはち、自然の道がそのままに生活習慣に
   あらはれたものであつて、何々宗といふやうな特定の教義を宣布する
   ところのものではないのである。
     
     (『白鳩』誌昭和四十五年十月號參照)

            <感謝合掌 令和6年11月21日 頓首再拝>

【ニ十ニ日の法語(11月22日)】 - 伝統

2024/11/22 (Fri) 05:04:14


(1)《強くなる日》

 (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   人の教うるところは、我も亦た之を教う。 
   橋梁なる者は其の死を得ずと。 
   吾れ将に以て教の父と為さんとす。  (老子)


   古人の教えたところは大いに今も参考になる。

   教は一つである。

   『橋梁なる者』 とは、骨節が強いものの事である。
   骨節の強い者は強いには強いが、それ以上の敵が出て来て、
   『其の死を得ず』 ―― 即ち天寿を全うすることが出来ない。

   此の教こそ私の父の教だと老子は云う。

・・・

(2)《神と交通するに静処を求めることはいらぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   自分はどこにいても、其儘(そのまま)で神と交通しているのである。

   今ここが神の国であり、実相世界であるのである。

   自分は実相の中心座に坐して
   その中心からサーチライトで照らすが如く
   一切の現象界の暗を照らすのである。

   一切の悪は消えさり 一切の不幸は消え去り
   唯 善のみが存在するのである。

・・・

(3)《困難は却って内在の力を出させてくれる》

   どんな不快なことも困難なことも、
   自己神性発揮のための燃料であると思いて悦べ。

   不快なものも困難なものもすべてのものが協力して、
   自己の内在の力を発揮させて下さるのである。

   多くの人は困難に面しなければ内在の力を発揮しない傾向がある。
   此処(ここ)に世の中に困難が出現して来る理由がある。
   みんな自分の心の反映である。

   折角(せっかく)、神から与えられた
   内在無限の力を発揮しなければ
   内在の無限の力が存在しないのと同じことである。

   そこで自分で進んで内在無限の力を発揮しない人には、
   周囲に困難が起って、内在の力を発揮させて下さるのである。

・・・

(4)《もっと唯心論的政治を行うことだ》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   病人が減れば治療費や薬代の負担が減り、赤字はなくなる。

   病人を減らすには、製薬会社に薬ばかり製造させて、
   病気を広告宣伝の暗示でつくらせないようにすることだ。

   そして「タダで診て貰えるから、病気に罹ってもよい」というような
   「病気に対する抵抗精神」の消耗を防ぐための
   抵抗精神の育成に力を注ぐべきだ。

   それが幾百万の体育館をつくるよりも国民の健康増進に役立つのである。

   実例を見るがよい。

   生長の家の誌友の中には、もう三十年間、
   一度も医者にかかった事がないという人が随分沢山あるのである。

   国民全体がこのようになれば、健保の赤字など忽ち解決するのではないか。

   もっと唯心論的政治を行うことだ。

・・・

(5)《このように神の子らしく生活せよ》

   諸君はこれから常に美しきもの、清きもの明るきもの、
   善きもの調和せるもの、愛にかなうもの・・・等を求め生活をして、
   これに反するものから遠ざかる生活をしなければならない。

   それがあなたが神に近づく途であり、あなたの生命に内在する
   ”神”を実現する道であるわけである。

   若しあなたの前に、以上のべたような美徳に反するものがあらわれて
   来たならば、そのような悪い姿や醜い姿に心を引っ掛からせることなく、
   相手のうちに潜在する完全なる実相に心を集中して、
   それを拝み出すようにしなければならないのである。

   もしあなたの周囲にある人々が、誰かの悪い噂をして嘲笑している
   ようなことがあれば、そのような嘲笑に巻き込まれて
   一緒になって悪口を言ってはならないのである。

   すべての人々の“善”なる実相を見て、
   それがあらわれて来るように祈ってあげるべきものである。

・・・

(6)《先祖供養の意義》

1 第一義的には、

  人間は神の子である。神の子はそれ自身で完(まつ)たい。
  外から何物かを附け加へてもらふことによつてはじめ
  て完全になるやうなものではない。――これが第一義的眞理である。

  神の子たる人間の靈が外からお宮を附け加へてもらはないと
  靈界の生活に困るやうでは、それは宮といふ迷ひに捉はれてゐるのである。

  お宮を建ててもらはないと靈界の生活に困るやうでは、
  それは宮といふ迷ひに捉はれてゐるのである。

  お宮を建ててもらはないと靈界の生活に都合が惡いとか、
  お堂を建ててもらはねば靈界の生活に都合が悪いとかいふのでは、
  その靈は神性の自覺が足りないのである。

  それで、神性の自覺をした靈にとつてはどんな形式によつても
  祀つてもらふ必要はないのである。


2 第二義的には、

  未だ悟りの境地に達してゐないで、肉體的自覺を脱し切つてゐない
  靈魂は習慣的に空腹の感じを催し、餓鬼道的に苦しむものもあるので、
  應病與藥的に

  「食を欲するものには食を與へ、藥を欲するものには藥を與へ」

  といふ譯で、宮を欲するものには宮を與へ、
  佛壇を欲するものには、佛壇を與へてこれを供養して
  誠をつくすことが、これが先祖に對する道となつてくるのである。

  從つて祖先が佛教で續いて來た家系の靈を祀るのは
  佛教的儀禮に則るのがよいのである。

            <感謝合掌 令和6年11月22日 頓首再拝>

【ニ十三日の法語(11月23日)】 - 伝統

2024/11/23 (Sat) 05:02:56


(1)《素直になる日 》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   天下の至柔は天下の至堅に馳騁す。 
   有ること無ければ間無きに入る。 
   是を以て無為の益有ることを知る。  (老子)


   天下即ち世の中に至って柔かいものが天下の最も堅いものを自由に動かす。

   関西の大風水害のときも最も柔かい空気が、最も柔かい水に作用して、
   その合成力によって、三間四方もある大岩を流したし、
   百尺に近い喬木も根のまま流したりした。

   水は形がなくまかせ切りであるからどんな隙間にも入り込んで、
   どんな重いものでも動かす。

   無為即ちまかせ切りの生活の力である。


   (参照~抜粋として)

   水は形がなくまかせ切りであるから
   どんな隙間にも入り込んで、どんな重いものでも動かす。

   無為即ちまかせ切りの生活の力である。

・・・

(2)《吾は心の目をあげて神をほめたたえる》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   吾は心の目をあげて神をほめたたえるのである。

   神に感謝するのである。


   ああ、この無限大なる宇宙よ。
   蒼空(あおぞら)に輝く星よ、
   その多くは太陽よりも 尚(なお)大きいのである。

   この偉大なる宇宙大生命が
   自分の肉体を生かし給うているのである。

   どんな細胞の小さな隅々までも
   この偉大なる神の力が浸透しているのである。

   神よ、有難うございます。

・・・

(3)《愛する者に送る念波》

   愛する者が旅立つときに、その人に送らなければならない思念は、
   「 彼が常に神に護られて健康であり幸福である 」
   と云う信念である。


   それなのに多くの人は、愛する人の旅立ちに当って、
   何か途中で不幸に会わないかとか、
   病気にかからないかとか、兎角(とかく)、
   不吉な不安の念慮を送り勝ちである。


   若(も)し吾々が 「 不吉 」 な念波を余り強く送り過ぎるならば、
   その念波が具象化して不吉なことが起り勝ちであるのである。


   されば吾らは常に
    「神は汝(なんじ)を祝福したまい、常に健康に平安に護りたまう」
   の念波を送らねばならぬ。

   真に愛するとは、その人について心配することではなく、
   その人を光明の念波で祝福することである。

・・・

(4)《常に伸びる機会がある》

   住友商事の津田久社長は精神主義の人である。

   精神主義の人にとっては唯物論者の景気循環論などに煩わされて、
   政府や日銀が金融引き締めの政策をとるから不景気が来て困るだろうと、
   取越し苦労をする必要はないのである。

   津田さんはこういうのである。

   「世間が不況になればうちが伸びる絶好のチャンス。他の商社が社内の
   営業金利を上げるようなときがきても、うちは商談によっては逆に営業金利を
   下げるなどの積極策をとることもあり得る・・・・・」(八月十九日日経新聞)

   津田さんは何の信仰をもっていられる人かは知らないが、
   神の智恵に導かれる者にとっては、経済界の変動ごとに
   自分の事業の伸びるチャンスがあるのである。

・・・

(5)《因果応報昧(くら)まさず》

   私たちは自分が心に描いたものを相手に於いて見出すのである。

   それはテレビに於いて恰も自分がチャンネルを切替え、
   波長を合わした番組を自分が見るようなものである。

   すべて「自分が」の問題である。

   他に対して辛くあたる人は、自分がまた他から辛く処遇せられるのである。
   愛深く人を遇する人は自分も亦、愛深く遇せられるのである。

   他から奪う者は、また他から奪われる。

   それは一時的に利益を得たように見えても結局はもとの木阿弥である。

   此の世界は、“平衡の法則”が行なわれているのである。
   原因と結果とは平衡しているのである。

   人を不幸にする原因をつくりながら、その結果、
   自分が幸福になり得るなどということはあり得ないのである。

   結果が直ぐあらわれないからとて、原因に結果がないこともあり得る
   などとズルイ事を考えてはならないのである。

・・・

(6)《獻饌の意義》

   神道の儀式には祭祀に當つて獻饌が行なはれる。
   これは神靈が空腹を感じ給ふのでお食事を與へるのではない。

   神の恵みを受けて五穀豊穣等の功徳を受けた古代人が、
   その初穂を神に獻じて御禮を申し上げる故事から發祥したのである。

   霊魂を祭祀する時には、
   その人が生前好みたるところの食物を供へてあげるがよい。


   靈魂は物質の食物を食さないし、悟りを開いた高級靈は物質の食物を
   欲しないが、まだ霊界に移行した事すら自覺せず、
   やつと靈界で意識を恢復しかけた靈は、

   自分をまだ肉體的存在であるといふ薫習が失せないので、
   食物を食べたい氣がしてをり、食べたと思はねば空腹の感じを味はう。


   そのやうな靈魂に對して、何も食物を供へずに最初から聖經を讀誦しても
   「お經どころか、空腹で仕方がないのだ」と空腹の念が邪魔して
   聖經の文句を充分きかないことがある。

   從つて讀經の功徳は乏しいのである。

   そこで祀つて貰いたいと、食を欲する靈魂には、
   その希望を滿たしながら徐々に本當の悟りに導いてあげるために
   祭祀に一定の形式をとることになる。

   それで生長の家の信者たちは、祖先を祀るには祖先の信じた
   宗教型式を傷つけずに存續することになつてゐるのである。

   佛教ではそのやうな靈を弔ふために盂蘭盆會などに施餓鬼と稱して
   食物を供へてから經文を讀むのはそのためである。

   ただし靈が實際に食するものは現實の物質的食物ではない。
   靈界は念の世界であり念を食物として生きてゐるのであり、
   物質の供物の大小、多寡によるのでなく、

   供へる人の念が靈界に放送され、あのひとにあげたいといふ即ち愛念が
   原動力になり念送されて靈界に念で作られたお供物となつて出來上る。

   さうすると「あれは私に供へて下さつたのだから頂こう」といふ氣が起ると
   すつと自分の口に入つて來て、
   「おいしい、ああ滿服した」といふ氣持が起るのである。

 
   無論もつと向上した霊魂――肉體は無い、何も食べなくても
   吾々は神の生命によつて生かされてゐるのであるといふ自覺を得た
   霊魂たちは決して何も食べたいとは思はないのであるけれども、

   併し自分に對する愛念を以て供へて下さつたといふ愛の念は
   やはり喜びとなり、その人を生長させることになるのである。

   惡念は靈魂を低下せしめる害物となり、
   善念特に眞理の想念は、最も靈魂を向上せしめる滋養物となるのである。

   それ故に靈魂に対して眞理の經文を讀誦する行持があるのである。

            <感謝合掌 令和6年11月23日 頓首再拝>

【ニ十四日の法語(11月24日)】 - 伝統

2024/11/24 (Sun) 05:02:39


(1)《焦りを止める日》

   不言の教、無為の益、天下之に及ぶもの希(な)し。 (老子)


   現れた言葉は真実を語らない。
   却って真実を隠してしまうこともある。

   不言と云っても全然言葉がないのではない。
   声なき声、コトバなき言(ことば)である。

   愛する同士はその語る言葉そのものよりも、
   言葉と言葉との間に於て真実を語り合うのである。

   音楽は 『音』 そのものが音楽ではない。
   『音』 と 『音』 との交錯した間にあらわれた
   エクスタシーである。

   沈黙ほど雄弁なものはない。
 
   為さざるほど為すはない。
   真に無為の益これに及ぶもの希(な)しである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

・・・

(2)《吾は吾が生活を神の上に築く》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   私は宇宙の中心である。
   神がその創造の出口を造り給うた
   その創造の尖端(せんたん)である。

   私は今より後(のち)如何(いか)なるものをも恐れないのである。

   神の無限の力と、無限の智慧と、無限の健康とが
   今 私に集中しているのである。

   自分の判断は 常に正しくして
   過(あやま)つということは決してないのである。

・・・

(3)《真に 「 神の子 」 の実相を自覚したならば》

   誰かに若し自分が不快や憎みの念を抱いていたならば
   直ぐ吾らは其の不快と憎みを捨てて
   好意と愛情の念にかえなければならぬ。

   「生命の實相」を読んで
   「神の子」であると云うことを自覚したのに
   病気が治らぬから「生命の實相」もインチキだと云う人よ。

   「神の子」であると云う事を 真に自覚したならば、
   何故(なぜ)あなたは、人に対して不快な感情を抱いているのか。
   何故人を憎んでいるか。君の悟りは 野狐禅(やこぜん)ではないか。

   人間神の子の真理がわかったら、
   先ず すべての人間を礼拝する実践を徹底的にやらなければならぬ。

・・・

(4)《人類委光明化運動を生涯の仕事とせよ》

   仕事に熱情をもち、仕事を恋人とせよ。
   それでこそあなたの仕事は発展するのである。

   ミケランジェロに向かって、ある人が「君は何故結婚しないのかと」と
   尋ねたら、彼は、

   「絵を描くことが私の妻であり、私の作品が私の妻の生んだ子供である」
   と答えたということである。

   私は、青年諸君に対して、結婚せずに使命のみ邁進せよとはいわないが、
   結婚するまでは熱心に人類光明化運動に尽くしていた人が結婚すると
   全然その運動から脱落してしまう人が多いのはまことに残念なことだ
   といわなければならない。

・・・

(5)《すべての人の実相を礼拝すること》

   人を見るに、すべての人を善人として見よ。

   而して相手の実相の高貴さを礼拝せよ。

   相手を善人と見て、自分がその人に騙されても、
   相手の人を”神の子”と見ないで”悪人”と見た罪よりも軽いのである。

   彼が自分が期待した通りに善人の姿をあらわさなかったとしても、
   それは彼に宿る“神の子”なる実相を拝む自分の力が足りないのである。

   現象の悪しき顕われに目をつぶって、彼の実相なる“神の子”を祝福せよ。

   礼拝せよ、その礼拝が徹底したならば、彼に宿るあらゆる

   善き特性が現象化して現実にも立派な姿があらわれるであろう。

・・・

(6)《幽齋と顯齋について》

   祭祀には、幽齋と顯齋とがある。

   顯齋とは形の上の御宮とか佛壇とか各宗で定められた
   一定の形に顯はれた方式で祀ることである。

   幽齋といふのは心をもつて心に相對するもので、精神統一をして實相を念じ、
   人間の實相が圓滿完全であつて惱みも病もないといふ念を霊界の招靈の苦悩を
   齋(きよ)めてあげるのである。

   これには、相手たる靈を生前の名前で招び出して置いて、
   一緒に神想觀をするつもりでやつてもよい。

   念だけで頼りなければ、言葉で真理を説いて聞かすがよい。
   それには聖典の「實相篇」を讀んできかせてあげるがよい。

   (『生命の實相』頭注版十六巻、二十一巻、二十八巻參照)


   生長の家の宇治別格本山の「入龍宮幽齋殿」における幽齋は
   靈魂を祭祀するための幽齋でなく、自己が”無”の門關を越えて
   みずからを齋め盡くして實相龍宮界の幽境に、超入する修行をするための
   道場として造られた神殿であるのである。

            <感謝合掌 令和6年11月24日 頓首再拝>

【ニ十五日の法語(11月25日)】 - 伝統

2024/11/25 (Mon) 05:02:25


(1)《執着を捨つる日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   名と身と、孰れを親しき。 身と貸と、孰れか多き。 得ると亡うと孰ぞ病まん。 
   是の故に甚だ愛すれば必ず大いに費す。 (老子)


   世の中には名誉が得たいと思って折角の生命を摺り減らしている人もある。

   また金が儲けたい、財産を作りたいと思って
   焦って焦って身を云う病いにしている人もある。

   斯う云う人は実に気の毒な人である。

   甚だしく名を愛し、財を愛したら、得られることが多いと思えば、
   得られるどころか、費す所が多いのである。

   生命を費し、身を亡ぼし、無い財を減らすも慾からである。

・・・

(2)《吾は神の最高実現である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   吾は神の子として
   宇宙の一切のものを支配する権利をもっているのである。
   宇宙の一切のものは皆自分の支配下にあるのである。

   なぜなら自分は神の子であり、
   神の最高の具体的顕現であるからである。

   吾が内に宿る所の神性は、神そのものと同体なのである。

   吾が内に宿る神は吾をしていと豊かならしめ給い、
   いと健やかならしめ給い、凡(あら)ゆる問題に
   快刀乱麻をたつような知慧を与え給うのである。

・・・

(3)《病気の治る中心課題》

   真に「人間神の子」の自覚に到達したならば、
   自分自身を「神の子」と知るだけでなく、
   他の人をも悉(ことごと)く神の子だと尊敬しなければならぬ。

   それが出来なくて、「人間神の子」の真理を悟ったのに
   病気が治らないのは 何故だなどと云う勿(なか)れ。

   病気を治すよりも何よりも、
   すべての人間を神の子として尊敬し、愛し、それに好意を持ち、
   柔(やさ)しき言葉を使い、和顔を以て人に接し、
   泣き言を云わず、褒めることと、よき噂(うわさ)と、
   真理のみを語るようにせよ。

   その時こそ真に「神の子」の実相を行の上にも自覚したのであって、
   病気も必ず治り、運命も必ず好転するのである。

                    (別著『神癒への道』参照)

・・・

(4)《人間は何のために生まれたか》

   ある少年が近頃、野球の練習に熱心になって学校の勉強をしなくなった。
   父母は心配して、先輩の先生に指導して貰うようにたのんだ。

   その少年はその先生を尊敬し、その先生になついていたのである。

   或る日その先生は、

   「君は近頃非常に野球に熱心のようだが、どうだ、面白いか」とたずねた。

   「面白いです。先生、僕は長島のようにホームランを沢山打ちます。」

   「毎日練習しているのか。」

   「ハイ、毎日々々バッテイングを懸命に勉強しているんです。」

   「そうか。そして君は死んだら――誰でも肉体はいつかは死ぬんだが
   ――神様が”お前は肉体の中にいたとき、毎日何をして来たか“と
   君の魂にたずねられたらどう答えるかね。」

   「僕は毎日野球をやっていましたと答えます。」

   「そうか。神様はその時“お前は毎日擂粉木のような棒ばかり掉っていて、
   誰のためにもなることをしなかったのか。

   人間が地球世界に生まれて来るのは、
   何も棒を掉るのが上手になるためではないよ。

   しかしお前はお蔭で棒を掉るのが上手であるから、
   これから霊魂の世界で毎日棒を掉らしてやる。

   あそこに沢山の材木があるから、毎日薪割りの棒をにぎって、
   材木を叩き割ってみんな薪にしなさい。

   そうしたら、棒を掉ることも誰かのお役に立つだろう“と仰言るだろう。
   君はそれでよいかね。」

   先生がそう仰言ったその日から少年は打棒を掉ることを止めて、
   学校の勉学に熱心になったということである。

・・・

(5)《悟りの心境について》

   肉眼に見える人間は、時間・空間の枠の上に投影されたる想念の影である。

   しかも想念が実相そのままの想念ではなく、鈍重な物質的脳髄は一種の
   電子計算機みたいな組織をしていて、各方面から印象して来た
   迷いの観念も一緒にその記憶装置の中に貯えられている。

   そして、実相の観念と、各方面からの迷いの観念とを綜合して
   結論を出すから時に間違った結論を出すのである。

   ただ無我になって坐る時、実相そのままの想念が出て来る。

   それが“悟り”と称するものである。

・・・

(6)《個別靈の供養の期間について》

   概して言へば、五十年したら、自然に霊魂の淨化が行なはれて、
   迷つてゐる霊魂がほとんどなくなるといふ事になる。

   けれども、中には毒殺されたり、非業の最期を遂げたか、
   普通の死様をしてゐないで、深い惱みを持つて死んだやうな人の霊魂は
   五十年経つてもまだ淨化を完了してゐないのがあるから、

   五十年過ぎた霊魂でも名前を呼んで供養してあげ、
   又その年月日が判つてゐる場合は位牌の裏に書いて、特に名前を唱へて
   呼び出して、お祀りするといふことになるのである。

   毒殺されたり、非業の最期を遂げた人以外の靈魂でも、
   中には五十年経つてもまだ悟りを開かない霊魂があるかも知れないけれど、

   それは「〇〇家先祖代々親族縁者一切の靈」としてまとめて招靈してゐる
   のであるから、特にその靈個人の名を唱へて招靈しないでも、
   自然に感じて、供養の所へ集つて來てゐるものである。

            <感謝合掌 令和6年11月25日 頓首再拝>

【ニ十六日の法語(11月26日)】 - 伝統

2024/11/26 (Tue) 05:00:34

(1)《足るを知る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   多く蔵(おさ)むれば必ず厚く亡う。 足ること知れば辱められず。 
   止まることを知れば、殆(あや)ふからず。 以て長久なる可し。 (老子)



   何でも度を過したら亡びの因である。
   足ることを知り、止まるところを知らなければならぬ。

   何でも多くあれば、得だと思っている人があるかも知れぬが、
   物は多くなればなるほど生命の自由を縛るのである。

   丁度それは飛行機の重量が重くなればなる程、速力が出ず、
   長距離飛行に耐えないようなものである。

   多ければ厚く亡う。

・・・

(2)《世の中に行き詰りはない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   すべての事情が行き詰って来たと見える時にも、
   本当の行きづまりというものは決して存在しないのである。

   行きづまりと見えるものは新しき道の開ける始めである。
   神の与え給うた好機会が今自分に開かれつつあるのである。

・・・

(3)《何が善であるかは幼童も知っている》


   人間はその実相に於(お)いて
   一つの神の生命より生れたのであるから、
   如何に意見が異るように見えようとも、
   その根本に於いて一致するものがあるのである。

   人は何が善であるか、何が悪であるかを
   根本に於いて知っているのである。
   何故なら人間の本性は「善」そのものであるからである。

   多数の意見が分れ、互に異ることを主張するのは、
   潜在意識の底に憎みか、反感か、
   何か反発するものをもっているからである。


   その反発するものを取り去ってしまったら
   すべての人間の意見は一致し 和協の道が発見され、
   大調和の世界が実現するより仕方がないのである。

・・・

(4)《少年時から生涯の理想を定めよ》

   (前半略~人間の寿命は延びてきているが・・・)

   それにしても宇宙の悠久さに比べれば短いものである。

   この短い寿命のうちに人類のためになるような何か偉大な仕事を
   成し遂げようと思うならば、自分の天分又は最もすぐれたる才能は
   何であるかをよく顧みて、

   自分の最も得意とする才能で何をすれば、人類のために、
   或いは国家社会のために、或いは隣人のためになるかを考えて
   その方面の勉強に一心に努力するがよい。

   傍目(わきめ)をふってフラフラしている間に時間は過ぎ行く。

   そして失われた時間は再び拾いもどすことはできないのだ。

   一つの事に精神を打ち込んで努力すれば、野球のバットでなくても、
   何でも一つの技には通達できるものなのだ。

   人類・国家・社会のためになる一つの技に努力を集中するがよい。

・・・

(5)《ただひたすら心を実相に振り向けよ》

   私たちが「イライラしたり精神的に疲れたり、ノイローゼ気味に
   なったりするならば、それは外界の各方面から来る“迷いの想念”に
   自分の心も同調して、迷いの想念”に引きずり回されているからである。

   自分の心が外界のそれらの“迷いの想念”に 同調することをやめ、
   ただひたすら実相円満の想念を起こして精神統一に入るならば、精神的な
   一切の疲労もなく、ノイローゼなどは忽ち治ってしまう筈である。

   あなたが神想観を実修して、実相三昧になったのち、自然に思い
   浮かんでくる考えは、実相世界から催して来るところの智慧であるから、
   その通り実行するとき屹度良き結果が得られるのである。

・・・

(6)《無縁佛を祀ることについて》

   自分のご先祖ならよいけれども、
   無闇に無縁の、他家の靈に供養してゐると、
   恰度、金持ちがルンペンに施しをするやうなものである。

   施された人は喜ぶけれども、
   ”お前あそこへ行け、お前あそこへ行け、あそこへ行けば施しがあるぞ”
   といふ譯でルンペン等が集つて來るやうに、
   迷つてゐる靈がいくらでもずーつとたくさん集まつて來るのである。

   あなたの靈が修行足りて靈的力があれば全部救ヘるけれど・・・・・
   少數の靈なら救へても、あまり澤山集つてきたら、救ひ切れない
   ことになつて折角、緒靈に深切をしながら迷ヒの靈の禍ひを
   かぶることになる。

   だから普通の人は無縁の靈を招ぶのは弊害があるのである。

   神社とか寺院とかで靈大祭を行つたり、施餓鬼をやる時には、
   神社とか寺院を守護する神靈の加護があるから、
   無縁の靈を供養するのは可いけれど、

   個人の家で無縁の靈を祀るのは愛念であるが、
   自分に靈的力が足りないと無數に迷つてゐる靈が集つて來て
   それをさばき切れなくなると困るので、
   個人では無縁の靈を祀らない方がよい。

         (『幸福をひらく鍵』參照)

            <感謝合掌 令和6年11月26日 頓首再拝>

【ニ十七日の法語(11月27日)】 - 伝統

2024/11/27 (Wed) 05:01:26


(1)《度を過さぬ日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   足ることを知らないことを貧と云う。

   仏教では 貧・瞋・痴 を三毒と云って
   人間を罪に陥れる最大の毒物であると云われているが、
   その中でも 『貧』 すなわちムサボリを第一に置いてある。

   それほど貪りは悪徳である。

   一度貪りはじめると、
   塩水で渇を医すがように飲まずにはいられないし、
   飲めば飲むほど咽喉の渇きを覚えるのである。

   そう云うように慾の深い者は、多く持ちながら、
   『欲しい、欲しい』 と思っているから
   心はいつまでも餓鬼道で貧乏である。

   そうして慾張って求め求めしている間に、
   辱も外聞も忘れてしまって了うのである。

・・・

(2)《吾は一切の人を神の子として拝む》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   自分は 今日より後、自分の周囲に近づいて来る
   すべての人々を神の子として観(み)る。

   すべての人々を 善意を有するもの、悪意なきもの、
   神から遣わされたもの、善き友として見、
   神がかくの如きよき人々を吾々の周囲に遣わされ給うたことに
   感謝するのである。

   吾は人の過ちに対して寛大であり
   人の善に対してほめることに寛大であるのである。

・・・

(3)《赦さなければ自分がつらい》

   何人(なんぴと)の過ちをも吾等(われら)は
   是非(ぜひ)とも赦さなければならない。
   赦さなければ、罰せられる者は自分自身であるからである。

   赦さなければ自分が苦しい。
   赦さなければ他に対する「害念」は無数の「害念」の
   波動を引き寄せ、自分自身を害することになる。

   赦さなければ 怒りの念は 自分自身の血管内に毒素を生じ、
   血管及び全身の筋肉及び神経細胞を硬化せしめ、
   肉体の硬直や、関節炎や、神経痛や、胸の病気や、心臓病や、
   あらゆる病気の原因を生ずることになるのである。

   赦しは最大の美徳である。

   人が過ちを犯したとき直ちに赦して、
   更に彼を愛する者は 天国に入ることが出来るのである。

・・・

(4)《神はみずから助くる者を助く》

   世界ひろしと雖も、自分の努力以外のもので
   自分を高めあげるものは何もないのである。

   「信仰して神様に祈るがよい」と宗教家は助言するけれども、
   その“神さま”というのは、自分の内に宿ってい給うのであって、
   “本当の自分”そのものが”神の子”即ち“神の分身”―― 神なのである。

   自分の内に宿り給う神を働かさないでいて、
   「神よ、わがために働きたまえ」と祈るのは、矛盾した話ではないか。

・・・

(5)《本当に煙のない世界》

   本当の緊張緩和はラクにぶらぶら体をなまけさせている事によっては
   得られるのではないのである。

   日曜日の休暇の翌日が最も疲れていて、
   仕事の能率が上がらないという事を往々聞くのである。

   本当の緊張緩和は、実相の世界に環帰することによってのみ得られるのである。

   何故なら実相世界には疲れもなければ、不要の緊張もないからである。

   争闘や嫉妬や憎悪や色々の緊張のある世界にいて緊張緩和を得ようとするのは、
   煙の出る火のついた煙草を振り廻して、煙を払うに似ているのである。

   煙が嫌いならば、煙の出る手で煙を払うよりも、
   煙のない世界に往くことが必要である。

   そして自分が煙を出さない事である。

・・・

(6)《宗旨を變ヘる事によつて起こる障害》

   往々精神病者の家族を持つてゐるとか、あるひは變なえたいの知れない病氣
   ――小児麻痺であるとか、癲癇であるとか、舞踏病であるとか、
   醫者の方でちよつと原因不明な病氣を持つてをられる方が、
   その率にしてクリスチャンの方が多いのである。

   これは確かに率が多いのであるが、必ずしも、
   これはキリスト教そのものが惡いのではない。

   けれどもキリスト教が日本に移入されたのがきはめて近代であるために、
   祖先の靈魂たちがキリスト教といふものを知らない。

   そしてお祖父さん、お祖母さんその上の曾祖父さん辺りになると、
   その靈魂が靈界に於てどういふ信仰をもつてゐるかといふと、
   あるひは神道であるとか、佛教であるとかの信仰を持つてゐて、

   耶蘇といふ名前を聞くだけでも嫌ひだというふうな、
   異教を毛嫌ひする靈魂たちが先祖に多いのである。

   その考へは偏狭なのであるけれども、ともかくも日本人の祖先の
   霊魂たちの多数は、國粹的とでもいふか、
   多少排他的な偏狭な靈魂があるのであつて、

   耶蘇の耶の字を聞くだけでも嫌ひだといふやうな人の靈魂がある。

 
   いまも七十歳、八十歳ぐらいの人に聞いてみると、
   さういふ風潮がずゐぶんその人の時代にはある。

   自分の子が耶蘇になるとでもいつたら、實に穢れた異人種にでもなり、
   四足にでもなるやうな氣がする。

   可愛い息子でも耶蘇教を信ずる以上はやむをえない、

   家に入れないで、勘當してしまふやうな氣持をしてゐる
   爺さん婆さんの靈魂もあるのである。

   さういふ靈魂たちのゐる靈界へ行つて、われわれの子孫が耶蘇教信者
   といふ名前を附けて入つたら、
   「えらい事だ。こいつは穢れた奴になつてきた」といふ偏見をもつて
   毛嫌ひして、容易に子孫を霊界の生活に馴れるまで導いてくれない
   のである。

   「あいつはヤソになつたから勘當する」可愛い息子の霊魂でも
   先輩の霊魂から勘當同樣の取扱ひを受けて構ひつけてくれないと、
   靈界で村八分的になり、どうして生活したらよいのか、
   ちょつと事情が判らない、自分だけ一人ぼつち置き去りにされる。

   自分だけで修行してコツコツやつて行くよりしやうがないといふやうな
   ?態になつているのも往々あるのである。

   さういふ靈魂は靈界の生活に戸惑つて早く悟りきれない。
   その悟れない靈魂が、子孫に救はれたいとと思つて子孫に憑つて來ると、
   さういふ醫学的には原因不明な病氣を現はすのである。

       (『生命の實相』携帯版第二十八巻參照)

            <感謝合掌 令和6年11月27日 頓首再拝>

【ニ十八日の法語(11月28日)】 - 伝統

2024/11/28 (Thu) 04:33:35


(1)《深追いせぬ日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   進むことを知って退くことを知らぬ者は、
   ついに深追いして捕捉殲滅せられる。

   止まるところで止まらねばついに淵に墜落する。

   墜落すれば、元も子もないから、
   『止まること』も 進むことの一部である。
 
   大いに進んでも墜ちないものは
   大いに止まることを知っているものである。

   勝って兜の緒を締めることが必要で、
   大いに進んで而も手綱を引締めるものは殆うからずして、
   長く久しくその栄えを持続することが出来るのである。

   太陽の光も夕方は新鮮さを失っている。

   一度退いて翌朝差昇る旭は何と素晴しく新鮮であることよ。

・・・

(2)《自分は霊体である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   自分の体は肉体のように見えても、肉体ではないのである。
   自分は霊体である。

   自分の細胞の一つ一つは
   生ける神の生命のエネルギーの実現であるのである。

   それは生命のエネルギーであって、物質ではないのである。

・・・

(3)《内在無限の力を出すには》

   人間の内には「神」が宿っている。
   否、自分の生命の本質が 神そのものなのである。

   されば、善事(よきこと)であるならば
   一切の事を成就し得る力を
   吾らは内に包蔵しているのである。

   その内蔵する力を引出す秘訣は、
   人に対して悪意を抱かず、憤(いか)らず、憎まず、

   ただ 善意のみをもってし、心を明るく、
   而(しか)して、自己に宿る力をハッキリ自覚し、
   そして目前にある事物の第一歩から人類に奉仕することである。

   自己の力を自覚しなければ 力は出て来ないが、
   たとい内在無限の力を自覚しても、他と不調和だったり、
   奉仕の実践がなかったりしては、また其の力は出て来ない。

   又、他から憐(あわれ)まれたり、
   同情せられたい心があっては自己の力を縮少する。

・・・

(4)《使命感に燃えてする仕事は疲れない》

   使命感に燃えて仕事に熱中しているときには
   真夏の酷暑に於いても暑さを感じないのである。

   何か紛失物でもしてアクセクして探し回ったりすると
   本当に暑さを感じて汗みどろになるものである。

   作家の水上勉氏は毎年、真夏には軽井沢ですごしていたが、
   今年は文学座の舞台稽古の関係で東京で暮した。

   (中略)

   「どういうものか、私は暑さが気にならない。
   芝居が、そうさせるのである。熱中すると、たとえてみれば、
   心頭を滅却する心境に近いのである」と水上勉氏は書いている。

   諸君も、自分の使命と感ずることに熱中するならば、
   疲れることも暑さも寒さも気にかからないで、
   常に健康で能率よき仕事をすることができるのである。

・・・

(5)《情熱をもって事を為せ》

   何事を為すにも強烈な情熱をもってそれを為せ。
   情熱のない運動や仕事は、石炭の燃え殻のようなものであって
   何の魅力もないのである。

   情熱のたぎる処、そこに魅力を生じ、人々を引き付けることができ、
   多くの協力者をつくることが出来るのである。

   どんな天才でも、ひとりや、少数では大なる何事もなすことは出来ない。

   多くの協力者や、同調者、共鳴者が出来てこそ
   大いなる事業や計画を推進することが出来るのである。

   情熱ある者のみ、多くの共鳴者、同調者、協力者を引き寄せる。

・・・

(6)《聖經『甘露の法雨』の由來について》

   聖經『甘露の法雨』は『智慧の言葉』と同じく突然靈感的に
   浮んで來た思想が詩的なリズムを帶びて來たのを書き留めて
   置いたものである。

   それを讀誦することによつて色々の奇蹟を演じた。

   後より見ると此の聖經は期せずして、『生命の實相』全巻の
   眞理を縮約して歌つたものになつてゐる。

   最初私はこれを”詩“として「生長の家の歌」といふ
   詩集の冒頭に収録されてゐたものであるが、

   當時、京都電燈社長の石川芳次郎の岳父、
   工學博士小木乕次郎(とらじろう)氏がこれを讀むと、

   單に現實界の人間が讀誦して悟りを開いて病苦惱苦を去るばかりでなく、
   靈界の緒靈もその讀誦の眞理を聞いて悟りを開き、迷へる障りの靈も
   守護の靈となるので、

   治病・運命好轉等の色々の奇蹟的功徳を生ずるといふので小木博士が
   これは單なる詩ではなく「聖經」と尊稱すべきものであるとて、
   京都の教化部で聖經にふさはしい紫色絹表装の折本仕立に装幀して
   發行され、

   その後、益々奇跡的な功徳を生じたので、京都教化部で
   獨占すべきでないとて本部へ版權を返上されたものである。

            <感謝合掌 令和6年11月28日 頓首再拝>

【ニ十九日の法語(11月29日)】 - 伝統

2024/11/29 (Fri) 03:10:09


(1)《大いに進む日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)


      大成は欠くるが若くして其の用敝れず。 
      大盈は沖しきが若くしてその用窮まらず。 

      大直は屈するが若く、
      大巧は、拙なるが如く、
      大弁は訥なるが若し。  (老子)


   どこにも欠点がないようなときには、
   却ってそれは敝(やぶ)れ易いことがある。 

   欠点のない容貌には却って魅力がないものである。
   笑窪も頬の欠点であるが、却って魅力がある。

   欠点を恐れて進み得ないような者は遂に大成することが出来ない。
   何処かに抜けた所があると他が油断をして、彼に事を成さしめる。 

・・・

(2)《神には凡ゆる解決法がある》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   人間の頭で考えて、もう解決の道がないと思われる時にさえも
   神に於いては解決がないということはあり得ないのである。

   神は無限の智慧であり、無限の能力であるから、
   必ず、それを善きように解決して下さるに相異ないのである。

   だから、自分は恐れるということはないのである。

   人間の頭脳智で考えたならば、
   なぜこんな不幸が起って来たのであろうと
   疑われるようなことがあっても、

   神はその事件を通して、
   更に一そう良きものへ吾らを導き給うていられるのである。

・・・

(3)《如何なる時にも、汝(なんじ)ら愛せよ》

   汝の共働者が自分に不誠意ならば、彼を愛せよ。
   そは汝の愛が 金か白金かニセ物であるかを試すところの
   好機会であるのである。

   若(も)し自己に誠実なもののみを愛する如(ごと)き
   自分の愛であったならば、
   自分の愛はニセ物であったと反省せよ。

   若し、自分の夫や妻や子がイライラしていたならば 彼を愛せよ。
   彼がイライラしているのは 愛に飢えているからである。

   周囲のすべてが四面楚歌(そか)となるならば彼らを愛せよ。
   必ず将(まさ)に汝の愛の力が
   周囲の事情を好転せしむるに相異ないのである。

   愛を実践しさえすれば あらゆる難関を切り抜けることが出来、
   あらゆる難問題に対する回答を見出すことが出来るのである。

・・・

(4)《人類光明化運動の脚本と配役》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   私は宇宙の実相は「金波羅華の世界」であり、蓮華蔵世界であり、
   中心にスメラミコトがましまして、その御いのちの具体的展開が最も
   完全にあらわれている国家が日本国である。

   それ故に、この日本国を大日本真理国と呼ぶという哲学的な悟りを、
   脚本として書いていく。

   本当はその脚本は神様の書かれたもので、私はそれを写したに過ぎない。

   すると、その脚本通りに幹部という演出家や、
   色々の役割を受持つ人たちが集まって来て、
   それを立体的に実現するために、

   「ここはこうした方が効果的だ」とか
   「あそこは、このようにする方が共同作業ができやすいではないか」
   という風に相談しながらその脚本に肉がつけられ具体化して行くのである。

   そこには役割の分担と組織づくりがどうしても必要である。

・・・

(5)《あなたの内に生命の火を燃やせ》

   情熱をかき立てようと思っても情熱が湧かぬという人があるかも知れない。

   情熱は外から塗り着けることは出来ないのである。
   情熱は何人にもあるのであって、それは内にある“生命の火”である。

   “生命の火”は“神の生命”である。

   “神の生命”にあなたが振り向き、宇宙普遍の“神の生命”と
   自己に宿る“神の生命”とがカチカチと触れ合う様になったら、
   あなたの内に“生命の火”がとぼり、情熱がたぎるように
   湧いて来るのである。

   それにはやっぱり神想観をたびたび実修して

   「神よ、われわれの使命を示し給え。
    しかしてわが心に使命遂行の意情熱の火を燃やし給え」

   と念ずるがよいのである。

   やがてあなたはインスピレーションが降って来るであろう。

   あなたの進むべき道が、あなたの為すべき仕事が、
   あなたの使命がくだされて来るであろう。

・・・

(6)《先祖に對して聖經を讀誦する時の心得》

   先祖に對して聖經を供養する時

   「祖先の霊魂よ、お前は迷つてゐて、
    迷ひの靈波を送つて來るので困つてゐる。

    この聖經を讀んであげるから、それをよく聴いて悟りを開いて、
    二度と迷ひの靈波を送つて惱ませないやうにしてくれ」

   といふやうな事を言つたり、思つたりして 
   聖經を讀誦しても効果が少ないのである。

   何故なら、そのやうな氣持で聖經を讀誦したりする事は、
   相手の惡をみとめて、軽蔑的語調で、”よく勉強せよ”などと
   言つてゐるやうなもので、現實界の人間に對してでもこのやうな事を言ふと、
   反抗心を起して反撥されたりするのである。

   これと同じことが祖先の靈たちにも起こるのであつて

   「お前は迷つてゐるから、この眞理のお經をおききなさい」

   では、いくら聖經を誦げても靈魂たちは聞きに來ないかもしれないのである。

 
   だから、祖霊に對して、聖經を讀む時には、


   1 唯、尊敬と報恩。感謝の念をもつて誦むこと。

     ただ尊敬と感謝の念をもつて、

     「今まで色々と子孫が受けて來た密(かく)れたる
      御恩、陽(あらは)なる御恩に對してただ感謝のために
      この眞理のお經を靈界に對して放送しますから、
      どうぞお受け取り下さいませ」

     と誦へて、”ただ感謝”の念をもつて讀誦するがよい。


   2.聖經の意味を説明する。

     聖經を讀む前に、先ず、

     「この聖經『甘露の法雨』はあなたが祖先から傳承して來た
      〇〇教の教への眞理を最もわかりやすく、現代語で
      書かれたものでありますから、心をよく集中して此の聖經を
      聴き給うて、その眞理を體得し、靈界に於て解脱を得て
      神通自在になり給ひて佛陀の境涯に達し給はん事を冀ふ」

     と生ける人に語るが如くに唱へてから聖經を讀むがよい。

     さうでないと折角、『甘露の法雨』を誦んであげても、
     それは他宗教の經文であると誤解して反感を起して
     傾聴しない場合があるのである。

   3 讀誦の時間を定める。

     聖經讀誦は、毎日一定の時間を決めて、
     正確に必ず讀誦するやうにするがよい。

     靈界には靈的訓練があつて、中々多忙であつて、
     毎日不定な時間に讀誦しては、殘念ながらその聖經の讀誦を
     靈(みたま)が拜聴することができないことがあるのである。

     だから、聖經を讀み終はると

     「毎日”この時間”又は幾時に聖經を讀誦しますから
      必ずその時間には來たりて拜聴して下さい」

     と約束して置くがよい。

      (『生命の實相』携帯版二十六巻參照)

            <感謝合掌 令和6年11月29日 頓首再拝>

【三十日の法語(11月30日)】 - 伝統

2024/11/30 (Sat) 05:02:16


(1)《悠々たる日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295(消滅)

   抜け目のないのも一徳である。

   秀吉は抜け目なくして一代にして栄えたが其の栄えは続かなかった。

   『鳴かざれば鳴くまで待とう時鳥』 と云った家康は
   どこか呆んやり抜けたところがあったに違いない。

   抜け目のない秀吉と、抜けたところの家康との相異であり、優劣である。

   家康の業は大成し、秀吉の業は夭折した。

   だから大いに盈つるためには沖即ち、中が抜けたようでなければならぬ。

   鵜の目鷹の目でキョロキョロ覘っている如な事では駄目だ。

   あまり真直だと折れ、婉曲に出ると正直が通る。

   下手くそが却って上手で、訥弁が却って雄弁だ。

・・・

(2)《吾がうちに宿るキリスト》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

   (抜粋として)

   キリストはもう二千年前の過去の人ではないのである。

   「 吾行きて 汝(なんじ)らに来たるなり 」 といい給いし如く、
   すべての人の内に宿っているのである。

   吾が内に宿る所のキリストを通して吾は一切の吾が願いを
   成就することができるのである。

   吾は神と一体である。
   神の子の霊、吾が内に宿り給う。
   これをキリストというのである。

・・・

(3)《愛念で相手を祝福せよ》

   実際、其処(そこ)へ行って何か 愛行を実践してやりたくとも、
   それが出来ない距離にあったり、
   それが出来ない事情があったりするならば、

   吾々は相手の人を「愛念」で愛することが出来るのである。

   「愛念」は距離を超え、事情を超える。
   「愛念」は最も強い浸透力をもっているのである。

   先ず相手を心のうちに思い浮べ、
   名前をとなえ 言葉の力によって、
   心の中で相手を祝福するのである。

   「 汝は神の子である。完全である。誠意に満たされている。
   善き人であり、深切である。
   私は汝に信頼し、汝に好意を持っているのである。

   汝と私とは神の子の兄弟として 互に愛し愛されているのである。
   幸福であれ、汝、神の子よ 」 と云う風にである。

・・・

(4)《大東亜戦争の戦死者は犬死ではない》

  (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739

   (抜粋として)

   しかし祖国を護るために自己を空しくして”無“の極限に於いて
   自己の生命を自己の理想と一体化した戦死の行為には現象を越え、
   比較を絶した無上の価値があるのである。

   しかもこの戦争の結果から観察しても、これを巨視的に見れば、
   この日本の兵隊の犠牲的行為によって、東南アジアの諸民族及びアフリカの
   諸民族が、白人優秀の迷妄から目覚めて起ち上り、民族独立の機運をつかんだ
   のであって、これがどうして、何の効果もなかった「犬死だ」などと
   いえるのであろうか。

   それを犬死などと評するのは、小さく唯物論的に凝り固まった
   視野の狭い心の眼で事実を斜めに見るからである。

   (紙面に限りがあるので、詳しくは拙書『限りなく日本を愛す』
   『我ら日本人として』『日本を築くもの』等を熟読せられたい)

・・・

(5)《宇宙の浄化力に協力すること》

   宇宙には到る処に、常に浄化の力、浄めの力、癒しの力が
   充ち満ちているのである。

   無数の煙突から立ち上る煤煙、自動車から噴き出る排気ガス、
   それらの中に含まれている亜硫酸ガスその他の毒性ガスなどが毎日毎日
   空中に排出せられるけれども、何時の間にかそれは浄化されているのである。

   その浄化の力を成るべく働きやすいように協力すれば、
   都市の空気は常に清らかであり、都市を流れる河の水は清らかであり、
   人体に於いては健康が保たれるのである。

   浄化の働きに協力するようにするには、
   東京では隅田川に矢鱈にゴミを棄てぬようにすることが必要である如く

   吾々は心の中に無暗にゴモクを溜めぬようにすることが必要なのである。

   怒ること、憎むこと、陰気にふさぎ込むこと、心配すること、
   持ち越し苦労や取越し苦労をすること、野卑な事を思うことなどは
   自分の生命の河の流れにゴモクを無暗に棄てることになるのである。

   成るべくそのようなゴモクをつくらないようにせよ。

   もし過って、そのようなゴモクを心に造ったならば、
   毎夜眠りにつく前に神想観して、神の正常なる霊気を呼吸し、
   ゴモクで汚れた心情を浄化してから眠るがよい。

・・・

(6)《葬祭等に燒香する意義》

   葬祭に当たつて香を焚くのは何故かといふ問ひがあるが、辭書によれば、
   香を焚くことは本來、佛教の發祥地であるインドでは高温のため
   身體の分泌物多く、

   不快の體臭を發するので、その體臭を打ち消すために
   塗香と共に用ゐられたのであるが、

   宗教では、燒香はその香氣によって人間的臭氣を佛つて、
   佛、菩薩その他高級靈を勧請するために行はれることになつたのである。

 
   生長の家では神想觀中に、人間界では薫香を焚いてゐないのに、
   時ならぬ薫香の匂ひがすることがある。

   これは神想觀を指導するために來臨された高級靈が、
   人間界の體臭その他の惡臭の禍を消すために、
   靈界に於てあらかじめ香を焚いて、
   その芳香を衣裳(おめしもの)に移して
   降臨せられたのが匂ふのである、

 
   特に死者の霊を弔ふため儀式の際に、線香を燃やし、香を焚くのは、
   肉體を脱して他界した靈といへども尚、
   肉體の臭氣を脱しきれないものがあり,

   それを導くために法要の際、佛、菩薩を勧請するのには、
   芳香を焚いて死者の霊魂の體臭を消して
   佛、菩薩の降臨しやすいやうにするためである。

      (『白鳩』誌昭和四十五年號參照)


   (附記)
   最近、祖先供養の方法等につき、誌友及び信徒の人々から、
   その手引きになるものを書いてほしいといふ要請が多いので、
   それにこたへて生長の家本部の教務部で私の著書や執筆せる原稿の中から、
   それに關するものを抜き書きして小冊子にまとめたいとて、
   その抜粹稿を私の手元に送つて來られた。

   併し、特定の人々にその冊子を有料で配本するよりも
   神誌の法語にまとめれば無代で誌友、信徒諸賢に達する譯であるからとて、
   その抜粹稿に丹念に筆を入れて、法語として書き直したものがこれである。

   紙數の關係で載せ切れなかつたものもあるが、
   又別の機會に追加することとする。

            <感謝合掌 令和6年11月30日 頓首再拝>

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