伝統板・第二

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生命の教育 ⑫ - 伝統

2024/08/23 (Fri) 11:36:14


「生命の教育」(令和6年8月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


【すべては一体という愛の心をもった日本の精神性】

日本人にあらわれた精神性

        *新装新版『真理』第3巻239~241頁
        *『眞理』第3巻初学篇P281~284

神話は世界各国にありますけれども、日本にあらわれた神話は
やっぱり日本民族の精神を通して宇宙の真理をとらえたのでありますから、
同じ真理でもとらえ方において、

又(また)その表現の仕方において、作者たる日本民族の個性なるものが
現われているので、その神話を研究すると、 日本民族の個性や世界観が
よくわかるのであります。

(中略)

日本民族は総(すべ)てバラバラに分かれているのを一つに綜合(そうごう)
するところの天分(てんぶん)を持っているのでありまして、日本の国の名前を
「大和(やまと)」 と名づけられたということも、

「や」というのは「弥々(いよいよ)」と云(い)う字が当てはまるので、
いよいよ多いという意味であります。

「《まと》」というのは「纏(まと)める」という意味であります。
弓で射る「的(まと)」を「まと」というのも、 同じことでありまして、
中心に「纏(まと)まって」いる姿を現わしています。

いろいろに分かれていてもその悉(ことごと)くが一つに纏(まと)まる
べきものであって、決してバラバラのものは存在しない、宇宙は一つである、
世界は一つであるというところのその人生観が、古代の日本民族を通して
現在の日本民族に至るまでずっと貫き通しているところの民族的信念とでも
いうべきものなのであります。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「生命の教育 ①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6833626

(2)伝統板・第二「生命の教育 ②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7673404

(3)伝統板・第二「生命の教育 ③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7745476

(4)伝統板・第二「生命の教育 ④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812318

(5)伝統板・第二「生命の教育 ⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7865326

(6)伝統板・第二「生命の教育 ⑥」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7966921

(7)伝統板・第二「生命の教育 ⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8019877

(8)伝統板・第二「生命の教育 ⑧」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8203325

(9)伝統板・第二「生命の教育 ⑨」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8262390

(10)伝統板・第二「生命の教育 ⑩」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8308316

(11)伝統板・第二「生命の教育 ⑪」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8338935


・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和6年8月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

特集 日本に生まれた喜びを伝えよう

       <感謝合掌 令和6年8月23日 頓首再拝>

「大和」の国号にあらわれた「愛」の心 - 伝統

2024/08/24 (Sat) 11:35:52


「生命の教育」(令和6年8月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


【すべては一体という愛の心をもった日本の精神性】

「大和」の国号にあらわれた「愛」の心

        *新装新版『真理』第3巻232~233頁
        *『眞理』第3巻初学篇P272~274

日本民族は、人類互に相和そうと云う理想をもって、国をはじめたのでありまして、
「大和(やまと)」の国号(こくごう)がそれを示しているのであります。
これが日本建国の精神なのであります。

「形は心をあらわす」と云う諺(ことわざ)がありますが、
日本人の発明した風呂敷を見ればわかります。

風呂敷はどんな形のものでも、その形を毀(こわ)さずに
一緒に包んでしまうことが出来るのであります。

他(た)の国を毀(こわ)して併呑(へいどん)するのは
覇道(はどう)であって、日本の皇道(こうどう)ではありません。

日本の精神は風呂敷精神であります。

総(すべ)ての物を毀(こわ)すことなく一つに包んで「人類」と兄弟となり
一家族となるのを建国の理想としているのが日本民族であります。

人類が「一つ」であると云うことは感覚で見るだけではわかりません。
その《いのち》が一つであると云うことを実相を観る心の眼で見ねばわかりません。
感覚で見ていますと、彼(かれ)と我(われ)とは別れているように見えております。

(中略)

「人類は互に一つだ」と云う大和(だいわ)の精神が日本精神でありますから、
日本の建国の理想は「愛」だと云うことが出来るのです。

「愛」と云うのは、どの人種も、元は一つと云う自他一体の自覚であります。

自分と他(ひと)とは形の上では別々であっても、生命は一体だと云う自覚です。

「私はあの人を愛する」と云うことは、あの人と私とは本来一つである。
そこで彼の悦びを私の悦びとし、彼の悲しみを私の悲しみと感ずる、

これが「愛」であります。

それは、或は男女の恋愛のようにも現われ、
或は父母親子の愛と云うような関係にも現われ、
或は家族が一体であると云う感じの家族愛と云うものになって現われ、
或は国を愛する愛国心ともあらわれ、或は人類を愛する人類愛ともなって、
あらわれます。

吾々はこれらの色々の愛を、その内の一つでなく、
みなことごとく調和した相(すがた)で愛し得(う)るように努力するとき、
偏った人間ではなく「全人(ぜんじん)」としての
完全な人間の魂がみがかれるのであります。

       <感謝合掌 令和6年8月24日 頓首再拝>

日本の国を愛するとは - 伝統

2024/08/25 (Sun) 10:19:23


「生命の教育」(令和6年8月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


【すべては一体という愛の心をもった日本の精神性】

日本の国を愛するとは

        *新装新版『真理』第7巻272~273頁
        *『眞理』第7巻悟入篇P325~326

愛し得る値打のある国というものがあれば
愛するけれども、愛し得る国としての資格があるかないかわからん現状のような
日本国では愛することができないというのは、

それは国というものを、唯、単に形にあらわれている現状の国
―― 即ち現象の国家 ―― だけを日本国だと思っているために、

こんなに強盗や、強姦や、失業者や、ストライキや、
戦争やつまらないことばかり充満している此のような国家は、
愛することはできないということになるのでありますけれども、

その現実の奥に「理念の日本の国」なるところの、
目に見えざる「国の本体」なるものをみたならば、

其処に希望が生まれ、其の国に生きていることに、生甲斐を感じ、
其の国を愛することができるのであります。

外面の現象は如何にともあれ、それを内在の理念
 ―― 理想に近づけて行くところに希望が持て、勇気が出、
生甲斐が感じられて来るのであります。

此の肉眼には見えないけれども、
既に在るところの日本をつくり出した「完全模型」
即ち「実相」というものを、智慧に依って直観して、それを見出し、

そうした完全模型 (理念) に向って、国を推(お)し進めつつある
日本国民が自分だという自覚が出て来たときにのみ、
本当に日本人としての生甲斐が感じられてくるのであります。

       <感謝合掌 令和6年8月25日 頓首再拝>

日本人が日本的であることが世界のためになる - 伝統

2024/08/26 (Mon) 11:50:00


「生命の教育」(令和6年8月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


【すべては一体という愛の心をもった日本の精神性】

日本人が日本的であることが世界のためになる

        *新編『生命の實相』第6巻(96~97頁)
        *頭注『生命の實相』第4巻生命篇上(P53)

日本に生れた日本人は日本を愛し善くすることによって世界に奉仕し、
人類に貢献すべきであります。

日本人が日本的であることが、世界のためになるのは、
桜の木が桜の花を咲かせることによって人類を喜ばすのと同様であります。

国民がその国土に生れて、その国土から恩恵を受け、
自分が現在安穏(あんのん)に生活を続けられているのも全(すべ)て
国土のお蔭です。

国土の恩(おかげ)と同時に、その国土の開発につぶさに艱苦(かんく)
を嘗(な)めつつ努力して来られた祖先の賜(たまもの)でもあります。

此(こ)の恩この賜(たまもの)の一切を否定してしまって、
祖国などはどうでも好(よ)い、祖先の意志などというものは
どうでも好(よ)いものだというように祖国に対して反逆的思想を
いだくということは、

恩の否定、賜(たまもの)の否定、感謝の否定ということになって、
これは神の道 ―― 人の道ではないのであります。

       <感謝合掌 令和6年8月26日 頓首再拝>

子供はそれぞれ個性もちがえば天分もちがう - 伝統

2024/11/26 (Tue) 10:39:06


「生命の教育」(令和6年11月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【認めてほめれば子供は伸びる】

子供はそれぞれ個性もちがえば天分もちがう

      *新編『生命の實相』第47巻129~131頁)
      *頭注『生命の實相』第30巻児童教育篇P88~89)


子供を育ててゆく上において、まず心得ておかなければならないのは
人間は皆(みな)一様(いちよう)のものでないことであります。

天分もちがえば過去の念の集積もちがう。

われわれは過去何十回、何百回と生(うま)れ更(かわ)ってこの世に出て
来ているのであって、その間(あいだ)にいろいろの体験を積み、
いろいろの過去を持っているのであります。

だから双生児(ふたご)で生れた子供でも、同じ環境で、同じ人が
同じ食物(しょくもつ)で同じ教育法で育てても
すっかり性質が異(ちが)うことがあるのであります。

ですから、子供をよくしようと思う時に、大人の、しかも《自分だけの尺度》
でもって判断しすぎて善悪を評価するといけないのであります。

人間というものは皆個性がちがう。
個性がちがうところにそこに価値がある。

桜の花とバラの花とはどちらが美しいかというと、
これは評者の好き嫌いで定(き)まるので、

桜がいっそう美しいという人もあれば、
バラがいっそう美しいという人もあります。

それを自分だけの好き嫌いでもって、 「お前桜のように、そんなに
一晩(ひとばん)で散るような淋しい姿じゃいかん。バラの花
のようにならねばいかん」と言ったところが、それはできない事を望むの
であります。

桜は桜でその良さを認め、バラばバラでその良さを
認めなければならないのであります。

人を教育するには自分が「こうありたい」という《一つの尺度》
をもって、その《尺度》にちがうものは皆(みな)悪いと考え、
お前は悪い悪いという批評を加えてゆきますと、

その批評の言葉の力によってその児童の天分は伸びず、
「僕は悪いものだ、劣等児だ」という観念を心に植えつけられて、
ついにせっかくの天才児も一個の劣等児になってしまうのであります。

ですから、子供はすべて、自己独特の個性的方法において表現する
自由を与えなければならぬのであります。


・・・

<参照>


「生命の教育」令和6年11月号
https://www.shinkyoren.jp/pages/34/

特集 「比べる心」から「認める心」へ
 
子育てをしていると、とかく兄弟姉妹で子供を比べてしまったり、
周りの同い年の子供とわが子を比べてしまったりして、
「なんでこの子は……」と思い悩むことがあります。

しかし、子供は一人ひとり個性もちがえば、
天分もちがう、かけがえのない存在です。

その子のもっている本性(善性・神性)を認め、
言葉の力で引き出すことによって、子供は本来の善さを
どんどん伸ばしていきます。

わが子が善くなることばかりを信じて、認めて、
ほめていきましょう。

       <感謝合掌 令和6年11月26日 頓首再拝>

親の言葉は子供の心に強く印象される - 伝統

2024/11/27 (Wed) 10:59:46


「生命の教育」(令和6年11月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【認めてほめれば子供は伸びる】

親の言葉は子供の心に強く印象される

      *新編『生命の實相』第47巻7~9頁)
      *頭注『生命の實相』第30巻児童教育篇P6~7)

今までの教育家のやっておられる教育法を見ますと、
大抵は人間のわるいところを見つけまして、
それを「ここが《わるい》から直せ」というふうなことを
常に言って来たのであります。

そうして「お前が出来が《わるい》からよく勉強せよ」
こういうような調子で教えて来たのであります。

そうするとその子供はどういうふうになってゆくかといいますと、
「お前が出来がわるいから」とこう言われると、言葉の力によりまして、
「自分は出来が《わるい》い」ということを強く強く心の底に
印象させられるのであります。

そうして「出来が《わるい》からやれ、やれ」と言われますと、
「私は出来がわるいのだ、やらなくちゃならない」と思いましても、

心の底に、「自分は成績が《わるい》のである、頭が《わるい》のである、
よく出来ないのである」という強い信念がその子供の潜在意識に強く印象
しておりますから、勉強しようと思っても勉強に興味が起らないのであります。

それをいやいや「できないできない」と思いながら勉強しましても、
本当にその勉強が心に這入(はい)らない、そのため、いくら勉強をしても、
その効果が挙がらないということになるのであります。

これが言葉の力であります。

       <感謝合掌 令和6年11月27日 頓首再拝>

子供を正直にほめましょう - 伝統

2024/11/28 (Thu) 11:54:04


「生命の教育」(令和6年11月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【認めてほめれば子供は伸びる】


子供を正直にほめましょう

      *新編『生命の實相』第39巻34~36頁))
      *頭注『生命の實相』第25巻教育実践篇P23~25)

この間も、或(あ)る奥さんが尋常(じんじょう)六年になるお子さんを
伴(つ)れて来られたのであります。

そしていろいろとお子さんのことを私に訴えられる、
「この子はとても乱暴で、勉強をしません。
 今度中学に入るというのに、この分ではとても進めません、
 こんななまけ者はありません」といわれる。

それで私は申しました。

「あなた、子供の前でそんな悪口(あっこう)をいうものではありません。
 この子は悪い子だ悪い子だといっていたら言葉の力で悪くなって
 来るのです。

 こいつは悪い悪いといっていると誰(たれ)でも悪くなってしまう。
 あなた、よくこのお子さんの顔を御覧(ごらん)なさい。
 西郷隆盛によく似ているではありませんか。

 立派な人相をしているではありませんか。
 このお子さんは偉い人になりますぜ。

 お母さんが悪い悪いというから悪い真似(まね)をしていたんだね。

 あなたはきっと西郷隆盛よりも偉くなるんだよ。
 明日(あす)から勉強をよくしますね」と、

私は信念を注(つ)ぎ込むような調子でそれだけいったのであります。

すると翌日母親が来られて、お蔭様(かげさま)で、すっかりうちの子が
変りましたといって大変お礼を言われるのです。

これまでは、夜、寝(ね)しなに洋服を脱いだら、上着をポイと
こっちへ抛(な)げる、ズボンはあっちへポイと抛(な)げると
いうような抛(ほう)りっぱなしだった子供が、

私に賞(ほ)められた晩からちゃんと脱いだ着物を始末して、
枕頭(まくらもと)に丁寧(ていねい)に畳んで積重(つみかさ)ねて
置くようになりましたし、勉強も落着(おちつ)いてするように
なりましたと申されるのであります。

これと同じ日に来られた別のお子さんも、私がたった三、四言(こと)
ほめただけで大変よくなられて、(谷口先生が好きだ好きだと言って、
自分で自転車に乗って神想観に来る、)勉強も大変よくするように
なられたのであります。

賞(ほ)めるということは実によいことであります。

(実に人類を光明化するのは賞め言葉であります。)

ところがたいていの人はかわいい者ほど誉めない。
人前で悪く言う。自分の子を悪くいう。

謙遜のつもりかもしれないけれど、自分の信頼している親が、
自分を悪い悪いと言うものだからまちがいはない。

自分は悪い子だと思い込んでしまって、
その子供は悪くなってしまうのであります。

誰の前でも、自分の子供を正直に賞めればよいのであります。

       <感謝合掌 令和6年11月28日 頓首再拝>

子供の生命が出ようとしている時を生かす - 伝統

2024/12/06 (Fri) 10:50:07


「生命の教育」(令和6年12月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【家庭のお手伝いは子供の愛の心をはぐくむ】

子供の生命が出ようとしている時を生かす

      *新編『生命の實相』第44巻22~27頁)
      *頭注『生命の實相』第28巻久遠仏性篇下(P92~96)


子供には大人よりも、素直に導き出せば出るところの生命が宿っている。
その生命を殺してしまったら何にもならないのです。

(中略)

子供が、女の子供なんかだとよく台所の仕事等(など)手伝いたくて
仕方のないような時代があって、怪我(けが)でもしそうな危(あぶな)
っかしい手附(てつき)で《ままごと》みたいなことをしたがって
仕様(しよう)のない時がある。

こういう時は子供の生命が出よう出ようとしている時である。
その出ようとしている生命を出るよう出るように導いてくれる母親があれば、
そういう母親に育てられる子供はどんなにか幸福だろうかと思います。

(中略)


生(うま)れ出たままの続きのように感じられる幼児期では、
本当に吾(わ)れと幼児と一体のような自覚があった為(ため)に
本当の教育が出来たのでありますが、

相当(そうとう)子供の身体(からだ)が大きくなって来ますと、
何となしに別個の存在であるような分離の感じを持って来て、
自然にこのコップの顚覆(くつがえ)るのを見せて

「そら、コップ。コップが顚覆(くつがえ)ったでしょう。
 そら、水が零(こぼ)れた。零れた水を拭(ふ)きましょう。
 そら拭いた」

というような塩梅式(あんばいしき)の、一つ一つ子供が自分の内部から
知ろうとし、出そうとしているものを引出(ひきだ)すような教育が
出来なくなる。

そして今度は、 「そんなことしていたら、台所がうるさいからあっちへ
行(ゆ)きなさい」と、折角、子供が内部に有(も)
っていて引出(ひきだ)してもらいたいものを、

「うるさい、うるさい」と撥(は)ねつけるようになる。
この撥ねつけるようになるのは、親の方(ほう)が児童と
一体感を失って功利的になって来るからです。

役に立つとか、役に立たぬとか、経済的とか、実用向きとか、
そういう標準で子供を排斥(はいせき)して、

子供のまさに芽吹(めぶ)かんとしている生命を
引出(ひきだ)すことを怠(おこた)ることになるのであります。

この折角(せっかく)今引出(ひきだ)されたいと子供の生命が
内部から溢(あふ)れ出て、これを手伝いたい、菜(な)っ葉(ぱ)
を截(き)りたいというふうな、内部から溢れ出て来るものを抑(おさ)えて
脇(わき)へ除(の)けてしまうというふうなことになる、

これは教育が手段に征服されたのであります。
教育が《生活そのもの》にならないで、或(あ)ることの《手段》になる
 ―― ここに教育の堕落(だらく)があるのであります。
それで、《手段》でなしに「今」を生きさす ―― 

「今」生命が溢れ出して「こうしよう、こうしよう」
「こうしたい、こうしたい」と、樹木の新芽(しんめ)のように
まさに内部から溢れ出ようとしている時に児童の生命を生かす
というふうにしたならば、人間の内部に流れている能力が
充分に発達するのです。


・・・

<参照>


「生命の教育」令和6年12月号
https://www.shinkyoren.jp/pages/34/

▼特集 子供の成長を高める家庭のお手伝い

子供が幼いときには、親の手伝いを好んでしたがるものです。

それは、子供の心には本来、
「親の役に立ちたい」という願いがあるからです。

たとえ、時間がかかったり、やり直しが必要になることがあっても、
年齢に応じたお手伝いをさせることは、子供の愛の心や大切な経験を
はぐくむことにつながります。

そして、親が心から喜び、ほめて、感謝することによって、
子供はいっそう喜びを感じます。
お手伝いは子供の大切な学びなのです。

         <感謝合掌 令和6年12月6日 頓首再拝>

子供の愛の心を摘(つ)み取ってはいけない - 伝統

2024/12/07 (Sat) 08:41:27

「生命の教育」(令和6年12月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【家庭のお手伝いは子供の愛の心をはぐくむ】


子供の愛の心を摘(つ)み取ってはいけない

        *新編『生命の實相』第44巻(27~28頁)
        *頭注『生命の實相』第28巻久遠仏性篇下(P96)

この何となく母親の台所仕事の手伝いなんかしたいという時には、
単に能力が発現しているだけではなしに愛の心が動いている、
自分からして、母親を喜ばして上げたい、
という愛の心が起っているのだけれども、

親の方(ほう)では実用一点張(ば)りで、
そんな愛を受けたって時間がかかるばかりである、
邪魔になって却(かえ)って仕事が運ばないと、

愛の心を功利的価値で計算して、
実用一点張り、経済向き一点張りで片附けてしまおうとする。

こうなると、折角(せっかく)愛の心で「親達の手助けをして上げたい」
という生命の働きが動き出そうとしている時に、
その生命を押(おし)込(こ)めてしまうという事になる。

そして、青年期になってからその子供に
「ちょっと私の手伝いをしておくれ」といっても、
もうその子供は手伝いをする喜びを、その最初の芽生(めば)えに
於(おい)て摘(つ)まれてしまっているのです。

折角「出よう、出よう」 「手伝いしたい、手伝いしたい」と
生命が芽吹いている時に

「邪魔になる。うるさい!あっちへ行っておれ。 」
こうやられたものだから、今度実際に手伝って欲しい時、
大分子供も成長して能力が出来たとき手伝って欲しいと思っても、

「何だ、母さんったら利己主義だわ」ということになって
手伝わない不親切な子供が出来る、
子供の心は、親の心の影だったのであります。

         <感謝合掌 令和6年12月7日 頓首再拝>

子供は親に喜ばれることをこそ喜ぶ - 伝統

2024/12/08 (Sun) 11:25:00


「生命の教育」(令和6年12月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【家庭のお手伝いは子供の愛の心をはぐくむ】

子供は親に喜ばれることをこそ喜ぶ

        *新編『生命の實相』第22巻(86~88頁)
        *頭注『生命の實相』第14巻教育篇(P137~138)

子供に仕事をさせてはいけないというのは謬見(びょうけん)である。
適当な分量の仕事は子供の生命(せいめい)の生長に
欠(か)くべからざるものなのだ。

仕事は子供の生命(せいめい)の生長に欠くべからざるものなのだ。
仕事は生命(せいめい)を建設的に使用する方法を教える。

そして子供の生命のうちに建設的な傾向と創意的な傾向とを育てあげる。

建設的傾向 ―― これは才能の発達の土台石となるものだ。
この傾向が強ければ強いほどその人間は生長する。

幼時(ようじ)に培(つちか)われた傾向は生長してから
養成した傾向よりも力強く根を張るのだ。

(中略)

子供が仕事を嫌(いや)がるというのは嘘(うそ)だ。

無理に命令的にさせないで、自分の好きな仕事をやらしてやるならば
子供が仕事をしたがらないということはない。


女の子は特に仕事を好(この)む。
生(うま)れつきの愛の性状(せいじょう)が手助けを好ませる。
もう三、 四歳にもなると母親の仕事の手助けをしたがって
仕様(「しよう)がないであろう。

させるが好(よ)い。
が、仕事は徐々に慣(な)らすが好(よ)い。
急いではならぬ。

そして、子供の手助けを真(しん)に喜んで感謝してやるようにすれば、
子供は「愛は感謝を受ける」という事実を体験する。
喜ばれることがどんなに嬉(うれ)しいかということを体験する。

これは人間の正しい生長(せいちょう)に必要なことである。

         <感謝合掌 令和6年12月8日 頓首再拝>

夫婦喧嘩は子供に強く影響する - 伝統

2025/01/13 (Mon) 10:54:22


「生命の教育」(令和7年1月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【夫婦が円満になるとき家庭は幸福になる】

夫婦喧嘩は子供に強く影響する

      *新編『生命の實相』第22巻43〜44頁)

夫婦喧嘩というものは、子供の教育に非常に影響するのであります。

実験心理学の実験に於(おい)て、皆さんの前に一様(いちよう)
に水を入れたコップを入れておいて私が水を飲めば、
皆さんもその通りに水を飲まれる。

それと同じく親が心に怒(いか)れば、
その通り子供の形に現れて来るのです。

これを児童の模倣性と申しております。

親が夫婦喧嘩をしているのを子供の時に見せておくと、
子供が成人して大人になると同じように
夫婦喧嘩をするようになるのであります。

子供を叱(しか)る場合などでも、皆さん反省して御覧になれば、
きっと、自分が子供の時、親から叱られた通りの言葉をいって
子供を叱りつけている事実に、みずから愕然(がくぜん)として
驚く事があるのであります。

それは知(し)らず識(し)らずの中(うち)に心の中(うち)に
蓄積された観念が、長い年月(としつき)を経(へ)ても失われずに
現れて来るのであります。

そう考えると、何事でも悪い手本は迂濶(うかつ)には見せられない
と思わせられるのであります。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和7年1月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

       <感謝合掌 令和7年1月13日 頓首再拝>

良人(おっと)も妻も〝真(まこと)〞を備えている - 伝統

2025/01/15 (Wed) 10:51:12


「生命の教育」(令和7年1月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【夫婦が円満になるとき家庭は幸福になる】

良人(おっと)も妻も〝真(まこと)〞を備えている

      *新編『生命の實相』第24巻133〜134頁)
      *頭注『生命の實相』第14巻倫理篇(P88)

良人または妻の善さはどれだけ深く信じてもよいのです。
信じて信じすぎるということはないのであります。
信ずれば信ずるだけ光を放つのです。

信じていたのに裏切られましたというのは嘘(うそ)であります。
それは信じようが足らず、信じていても信じていることの
言葉または態度での現しようが足らず、
信じていても相手の人格の自由をこちらの型にはめ
縛ろうとした場合が多いのであります。

本当に相手の価値を信じていたならば
相手をそんなに自分の型にはめようとはしなかったに違いありません。

自分の型にはめようとするのは、
やはり、相手それ自身にまかせておいては何か善くないことが起こる
に違いないと危惧するからであります。

危惧は信頼の足りなさの表現でありましょう。

       <感謝合掌 令和7年1月15日 頓首再拝>

まず自分の心の中を光明に照らしましょう - 伝統

2025/01/16 (Thu) 11:53:40


      *新編『生命の實相』第24巻161〜163頁)
      *頭注『生命の實相』第14巻倫理篇(P109)

およそ相手を良くするには自身を良くすることが第一であります。
自身が良くならないのに相手をよくなし得(う)るということは
困難であります。

そしておよそ自身を良くするための方法は、自分の心の中に
《光明の精神波動》を照り輝かすことであります。

自分の心の中に光明の精神波動が波立っているときその人は善き人であり、
自分の心の中に光明の精神波動が波立っていないとき、
暗黒の思念が押しかぶさっているとき、その人は悪(あ)しき人なのであります。

人の欠点を見るとき、その欠点に自分の心が捉(とら)われ、
それをとやかく言(こと)挙(あ)げするとき
自分の心の中には暗黒の思念が波打たずにはいないでしょう。

「暗黒の思念」は決して相手を良化(りょうか)することは出来ないのです。

良人(おっと)をよくしてやろうと思って
小言(こごと)をいう細君(さいくん)が
良人(おっと)を益々(ますます)悪くするのは、
細君の心の中に「暗黒」の思念が波打っているからであります。

細君を良くしてやろうと思って叱(しか)りつける良人(おっと)が
細君を良化し得ないのも、細君を叱るときの良人(おっと)の心の中には
「暗黒の思念」が波立っているからであります。

相手を良化しようと思うならば、先(ま)ず自分の心の中から
「暗黒の思念」を除(とり)去(さ)らなければならない。

先ず自分自身を「光明思念」でみたさなければならない
―― 換言すれば《相手の悪を見るような心になってはならないのです》。

(中略)

妻は良人(おっと)の実相の円満完全なる姿を見るようにするとき
良人(おっと)と完全に調和してしまうのです。

良人(おっと)は妻の円満完全なる姿を見るようにするとき
妻と調和してしまうのです。

親は子の実相を、子は親の実相を見、執着(しゅうじゃく)の念を捨て、
神の完全な護りの中(うち)にあることを信じて、
相手を神にまかせ預けるとき、
親子は調和したものとなってしまうのです。

そしてその家庭は幸福の家と化(か)し、
その生活は天国浄土となってしまうのであります。

       <感謝合掌 令和7年1月16日 頓首再拝>

日本国家はまず「理念」があって形づくられた - 伝統

2025/02/03 (Mon) 11:36:12


「生命の教育」(令和7年2月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【日本国の「建国の理想」に学ぼう】

《日本国家はまず「理念」があって形づくられた》

      *新装新版『真理』第7巻269〜270頁)
      *『眞理』第7巻悟入篇(320~322)

国家というものも唯物論的に言えば、小さい個人個人という細胞が契約をして、
そしてこういう国を拵(こしら)えておけば個人に都合が良いというので拵えたのであれば、
これは人民主権だと言えるでしょう。

人民主権と云(い)うことは人体にたとえてみれば細胞主権ということに当ります。
併(しか)し国家が有機的生命体である以上、一つ一つの細胞が主権をもっておる
と云うことは不合理なのであります。

人体は人体として、ある目的をもってつくられたように、
国家も、国そのものに目的とする「理念」があって、
その理念目的の姿に住民が結びついて国家が形成されたのであります。

少くとも日本民族は、国というものを一つの生きものとして、
又(また)体と同じように、一つの理想を有(も)つ一個の「有機的生命体」である
として考えたのであります。

それが日本の民族精神であります。
だから日本人の民族精神の表現である『古事記』には、
人間の生(うま)れるまでに先(ま)ず「国」があるのであります。

「国わかく浮(う)き油(あぶら)の如(ごと)くして暗気(くらげ)なす
ただよえるときに生(あ)れましし神の御名(みな)は……」と書かれております。

先(ま)ず国家の「理念」があって、其(そ)の理念が具象化して
瓊々杵命(ににぎのみこと)なる姿になって天(あま)降(くだ)ってきて、
その理念が沢山(たくさん)人間という細胞をうみ出した。

それが日本民族であって、その民族が、それを生みだした「大和(やまと)」の
理念に従って一大団結して建国したところの国が日本国(やまとのくに)として
実現したのであります。

だから日本民族の「理念」というか「精神」というか「魂(たましい)」というか
「指導理念」というべきか、とも角(かく)、そういう「精神的なもの」が
天降ってきてそれが子孫をうみまして、
そこに一大団結するところの国家が形成されたのであります。

それを譬喩的(ひゆてき)に又(また)は、象徴的象に言うと、
「天孫降臨(てんそんこうりん)」と云うことになるのです。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和7年2月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

       <感謝合掌 令和7年2月3日 頓首再拝>

日本国は天皇を中心とした国家である - 伝統

2025/02/05 (Wed) 11:37:35

「生命の教育」(令和7年2月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【日本国の「建国の理想」に学ぼう】

《日本国は天皇を中心とした国家である》

      *新装新版『真理』第1巻64〜65頁)
      *『眞理』第1巻入門篇(74~75)

神話的に云いますならば、日本国家は、天照大御神の理念(おほみこころ)の中に
先ず造られて、それが「千五百(ちいほ)秋の瑞穂の国は世々わが子孫(うみのこ)の
王(きみ)たつべき地(くに)なり」と云う天孫降臨の神勅となってあらわれています。

神話と云うのは、作者が誰と云う一定の人間ではなくて古代の民族が、その民族全体
の精神によって作られたものであって、民族全体の一致した信念の協同作品と云う
ようなものであります。

この民族全体の協同信念によって各人が集団して、日本は天皇中心の国家を
形作ったのでありますから、日本国家が天皇中心の国家であると云うことは
最も民主的なことであります。

この民族全体の協同精神が謂わば日本国家の設計のようなものでであって、
その協同精神の通りに、形の世界の日本国は、家が色々材料が集められて
徐々に出来上がるように、出来たのです。

だから日本国家の本質及び設計は、天皇国家の姿をとるべく日本民族全体の
心の中に既にあったのであります。それが世の中の進むに従い、形の世界に
徐々に出来上がって来たのであります。

そして神武天皇が大和(やまと)に都をはじめ給うたのは、天皇中心の国と云う
日本民族全体の精神が具体化した第一期工事の完成だと云うことになります。

       <感謝合掌 令和7年2月5日 頓首再拝>

全世界の人類は互いに兄弟であるという神武天皇の「建国の理想」 - 伝統

2025/02/08 (Sat) 10:49:05


「生命の教育」(令和7年2月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【日本国の「建国の理想」に学ぼう】

《全世界の人類は互いに兄弟であるという神武天皇の「建国の理想」》

      *新装新版『真理』第1巻65〜66頁)
      *『眞理』第1巻悟入篇(75~76)


最近、日本民族の中にも海外から輸入された思想にかぶれて、
日本が天皇国家の形をとる必要はないと力説する人がありますけれども、

古代の日本の建国のときの日本民族精神の協同製作による日本国が吾々の祖国
であるとすれば、そしてその祖国のつづきが日本国であるとすれば、
吾々が先祖から引継いだ国は、やはり天皇中心の国家でなければならない
のであります。

そうでなければ、もうその国は、吾々が古代の先祖から引きついだ
日本国ではない、別の国だと云うことになります。


ところが、神武天皇の建国も神話であって、
神武天皇は実在の人物でなかったと云う人が、
戦後に日本の歴史家の中にも出て来たのであります。

併(しか)し神武天皇が実在であろうがなかろうが、
その神話を古代の日本民族がつくったと云うこと其(そ)のことが大切であって、
日本の国を建設した古代民族の心の中にある「建国の理想」が、
人格的に表現されて「神武天皇」となったのであります。


そしてその神武天皇が、建国の理想として「八紘(はっこう)を蔽(おお)いて
宇(いえ)と為(な)さん」と仰(おお)せられた。

これを吾々は一口(ひとくち)に「八紘(はっこう)一宇(いちう)」の
建国の理想と申しておりますが、

これを、まるで世界侵略思想のように外国人は
巣鴨(すがも)法廷(編註・極東国際軍事裁判=東京裁判)で
裁判したのでありますが、

天地間に外国は無い、何処(どこ)も彼処(かしこ)も一家族で兄弟である
と云う理想を表現せられたのであります。

このように、日本国はその建国のはじめから、全世界の人類は互(たがい)に
兄弟であると云う民主主義理想のリーダーとして神武天皇が描かれている
ところに日本民族の理想を見るべきであります。

       <感謝合掌 令和7年2月8日 頓首再拝>

《子供は無意識の中で教育される》 - 伝統

2025/02/20 (Thu) 11:36:16


           *「光明法語」(2月20日)より

無意識の心的影響は、親が子供に対して教育する場合には特に著しくあらわれる。

母親が姑に対して物言うまいと決心したりしていると、
時として物言わぬ白雉の子供が出来たりすることがある。

親が人々に対して好悪の感を著しく抱いていると、
子供が食物に対して好き嫌いをするようになったりする。

親がうちの子は間違いないと信じていると間違いない子供になる。
うちの子供は虚弱であると信じていると、実際虚弱になってしまう。

しかし信ずると云うことは捨てて置くことではない。
信じて好(よ)き機会を与えることである。

         <感謝合掌 令和7年2月20日 頓首再拝>

高声、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならない - 伝統

2025/02/25 (Tue) 11:59:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月25日)」より


たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。
そうでなければ極端に反抗的に乱暴である。
 
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、
その人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものである
ということを幼い時から子供に知らすことが肝要である。

子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、
腹立ち声を出すことはなんの益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。

その性質は生長後も時として一生涯つきまとい。
その人の運命の重荷となることがあるものである。
親が子を害していると知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
 
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して
本能的に恐怖の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。

もし子供をよくしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、
普通の話以上の高声を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。

もし相手に訓示を与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、
それは反抗となってせっかく話したことが反対の結果になることがある。
 
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。
高音を出して恐れさせれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。

貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、
物を教えるときに使う荒立った高声(こうせい)である。  

           <感謝合掌 令和7年2月25日 頓首再拝>

《子どもに「できない」と印象させてはならない》 - 伝統

2025/03/08 (Sat) 12:00:11

「生命の教育」(令和7年3月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【親の心や言葉を変えれば子供は勉強好きになる】


《子どもに「できない」と印象させてはならない》

        *新編『生命の實相』第47巻(7~9頁)児童教育篇
        *頭注『生命の實相』第30巻児童教育篇(P6~7)

今までの教育家のやっておられる教育法を見ますと、
大抵は人間のわるいところを見つけまして、
それを「ここが《わるい》から直せ」というふうなことを
常に言って来たのであります。

そうして「お前が出来が《わるい》からよく勉強せよ」
こういうような調子で教えて来たのであります。

そうするとその子供はどういうふうになってゆくかといいますと、
「お前が出来がわるいから」とこう言われると、言葉の力によりまして、
「自分は出来が《わるい》い」ということを強く強く心の底に
印象させられるのであります。

そうして「出来が《わるい》からやれ、やれ」と言われますと、
「私は出来がわるいのだ、やらなくちゃならない」と思いましても、

心の底に、「自分は成績が《わるい》のである、頭が《わるい》のである、
よく出来ないのである」という強い信念がその子供の潜在意識に強く印象
しておりますから、勉強しようと思っても勉強に興味が起らないのであります。

それをいやいや「できないできない」と思いながら勉強しましても、
本当にその勉強が心に這入(はい)らない、そのため、いくら勉強をしても、
その効果が挙がらないということになるのであります。

これが言葉の力であります。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和7年3月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

       <感謝合掌 令和7年3月8日 頓首再拝>

育児の根本は報本反始(ほうほんはんし)にある - 伝統

2025/03/09 (Sun) 11:59:34


     *「光明道中記」(3月9日《父母の恩を知る日》)より

【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」。
                   (『生命の實相』第十一巻)】


初めて子供が生まれたときにどんなにその母親は勿論、
父親もその子供を可愛く思うであろう。
その愛は尊き愛である。

その愛がなかったならば幼い脆弱(ぜいじゃく)な肉体を有った赤ん坊は
生活し得ないで大人まで成長する者は稀(まれ)であろう。

子供を生かすのは、そして吾々を今日まで生活することを得しめたのは
兎も角も父母の愛である。
吾々は此の点に於て父母に感謝しなければならない。

子が生まれたとき父母に感謝せよ。
育児の根本は報本反始(ほうほんはんし)にある。

科学的な育児法がどんなに巧みに行なわれても、若しその若き父母が、
その老いたる自分の父母に感謝し得ない時には
育児の根本は覆われて了うのである。

最初に生まれた子供がどんなに可愛いからとて、
その愛に溺れて、無暗に抱きかかえたり、頬ずりしたりして、
折角安静に眠っている赤ん坊の神経を掻きみだしてはならない。

昔から「総領(そうりょう)の甚六(じんろく)」などと言って
長男は頭が鈍(にぶ)かったり、祖父(じい)さん祖母(ばあ)さんに
育てられた子供が「甘え手(た)」で我儘(わがまま)で
始末が可(い)けない場合が多いのは、
生まれた最初からあまり抱きかかえ過ぎるからである。

赤ん坊の言葉は「泣く」ほかないのであるから、
泣いたからとて必ずしも抱いてはならない。

           <感謝合掌 令和7年3月9日 頓首再拝>

親の心や言葉が子供に強く影響する - 伝統

2025/03/10 (Mon) 11:44:06


「生命の教育」(令和7年3月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【親の心や言葉を変えれば子供は勉強好きになる】

親の心や言葉が子供に強く影響する

        *新編『生命の實相』第47巻(17~18頁)児童教育篇
        *頭注『生命の實相』第30巻児童教育篇(P12~13)

多くの子供たちは、親がまちがった心の波を起こし、
まちがった言葉の波を起こしているために非常に損(そこな)われて
いるのであります。

多くの人たちは、子供を愛するあまりに悪(あ)しきことばかりを見つけて、
「お前はここがわるいのだ」ということを始終言うのであります。
そう言われるとその子供は萎縮してしまいます。

そういう子供は、たとい勉強は辛(かろ)うじてよくできたにしましても、
大いに伸びるということはできないのであります。

「勉強しろ、勉強しろ」と言わなければ勉強しないから、
やむをえず「お前はそんなことではできないから勉強せよ」と言うのだ
という人があるかもしれませんけれども、


「勉強せよ、勉強せよ」と口癖(くちぐせ)のように言うと、
いくら勉強してもかえって心に憶(おぼ)えないのであります。

これはまたおかしい現象でありますが、原理は簡単です。

「勉強せよ、勉強せよ」と言うような親は、
子供に対してどういう心の態度をとっているかといいますと、
「お前はできがわるいのだよ」という考えを懐(いだ)いているのであります。

できるに定(き)まっておれば、 「勉強せよ」とは申しません。
「できがわるい」と信じているから、
「勉強しろ、勉強しろ」とこう言うのであります。

「うちの子供はできが悪い」と、言葉に出さなくとも、
心に念(おも)うだけでも一つの波を起こすことであります。

親または教育者が、心の中で、
「この子供はできがわるい」という精神波動を起こしまして、
その子供をそういう心で見つめているかぎりは、
その子供は決して学習がよくできるものではありません。

勉強室にいまして、勉強しているような真似をしておっても、
心は親の心で縛られておりますから、
勉強が愉快でないのであります。

           <感謝合掌 令和7年3月10日 頓首再拝>

子供に「無限力」の自覚を与えること - 伝統

2025/03/13 (Thu) 11:00:45


「生命の教育」(令和7年3月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【親の心や言葉を変えれば子供は勉強好きになる】

子供に「無限力」の自覚を与えること

        *新編『生命の實相』第47巻(45~47頁)児童教育篇
        *頭注『生命の實相』第30巻児童教育篇(P32~33)


勉強しないといっても、やはり学校で先生に習った時には、
本も見、先生の話も聞いているのです。
本を見、先生の話もきいているからやはり一度は頭に這入っているのです。

ですから、一遍習ったことをいつでも思い出せる状態においたならば、
家へ帰っても学習しなければならんということは必ずしもないのであって、
一遍覚えたことを試験の時や入用の時に思い出しさえすれば、
それで勉強しないでも百点がとれるということになるのであります。

それが、憶(おも)い出せない。

憶い出せないようにしているものはなんであるかというと、
「人間は(直ぐ)忘れっぽいものである」という一つの
「まちがいの信念」であります。

(中略)

「人間は忘れる動物だ」とのまちがいの信念を、
いかにして打ち破るかというと、

それには
「人間は神の子である、全智全能の神の子であって、
全智全能が自分の頭にあるのだから決して忘れるものではない」
という大自覚を人類に与えることが必要なのです。

(中略)

常に子供に対して

「あなたは神の子ですよ。
 神の子だから必ず頭がよくて記憶力はよいのですよ」

ということを教える。

「あなたは神の子だから、本を一遍読んだら決して忘れるものではありません。
 先生から一遍聞いた話はもう決して忘れはしないのですよ。
 必要な時には必ず思い出せる」

ということを常に言葉の力によって
生徒たちの頭に印象するようにするのであります。

そうして、試験場または実際問題に臨(新編では「莅」)んだ時に、
「人間は神の子である」ということを思い出して、

「自分は神の子だから、必ず憶い出せるのだ。
 必ずよい考えが浮かんでくるのだ」

と、こう心に唱えて、心を落ちつけて、さて問題に対したならば、
必ずそこに出されている問題に対する適当な回答が思い出されてくる
のであります。

人間の能力を発達せしむるには、そういうふうに子供のときから

「我は神の子、無限力」

の自覚を与えることが肝要であります。

       <感謝合掌 令和7年3月13日 頓首再拝>

”言葉”は不思議な力をもっている - 伝統

2025/04/12 (Sat) 11:22:59

「生命の教育」(令和7年4月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【家庭においてまず子供の善さをほめましょう】


《”言葉”は不思議な力をもっている》

        *光明思想社版『人生読本』315頁

言葉というものは不思議な力を持ったものです。

「あなたは温順(おとな)しい良い子ですね」と言いますと、
その子供は温順(おとな)しくなります。

「この子は悪戯(いたずら)ッ子(こ)で仕方(しかた)がない子ですよ」
と言いますと、その子供はますます悪戯(いたずら)ッ子(こ)になります。

これを言葉の力と申します。

言葉というものは、それを聴く人の心に、
その言葉のとおりの心を流し込む役目をするのです。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和7年4月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

       <感謝合掌 令和7年4月12日 頓首再拝>

《心に想うことが形にあらわれる》 - 伝統

2025/04/13 (Sun) 12:16:44


「生命の教育」(令和7年4月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【家庭においてまず子供の善さをほめましょう】

《心に想うことが形にあらわれる》

          *(新装新版『真理』第1巻141頁)より
          *『真理』第1巻入門篇(P164~165)より

あなたが 「何を想うか」 と云うことはあなたの運命や、
健康を如何にするかと云う力があるのであります。

吾々の心の中は「花園」や「花畠(はなばたけ)」みたいなものでありまして、
そこに、どんな種(たね)でも蒔(ま)くことが出来るのであります。

心の花園に蒔く種は「思い」と云う種であります。
心に何を「想う」かと云うことが心の花園に蒔く種を
定(き)めることになるのであります。

(中略)

「あの人は悪い人だから嫌いだ」と心で想いますと、
「あの人」が悪い人になってあらわれて来ます。

「あの人は神の子だから屹度(きっと)善い人だ。私は好きだ」
と思っていますと、その人は、屹度、あなたに深切(しんせつ)な
善い人になってあらわれてまいります。

       <感謝合掌 令和7年4月13日 頓首再拝>

《家庭の中から小言や怒りをなくしましょう》 - 伝統

2025/04/15 (Tue) 11:21:56


「生命の教育」(令和7年4月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【家庭においてまず子供の善さをほめましょう】

《家庭の中から小言や怒りをなくしましょう》

          *新編『生命の實相』第13巻168~171頁)より
          *『生命の實相』第7巻生活篇(P218~220)より

息子や娘を善くしてやりたい愛の心だといって、始終大きな声で
口きたなく罵(ののし)ることは失敗である。

それはたとい愛の心があっても、鬼の面を被(かぶ)った愛の心である。
鬼の面を被っている以上は、愛でも相手を恐れさすほかに能力がないのである。

汝の鬼の面をとれよ。そして本物の愛の顔を出(いだ)させよ。
相手は懐(なつ)いて、愛に感じて、喜んで善に遷(うつ)ってくれるのである。



たえず小言を言い、絶えず怒りを振り撒(ま)いて歩き、間断なく人の欠点を
さがしつつ、その人を善き人にしてやろうと思うのは、

「不調和」から「調和」が生れ出て来るだろうと予想するのと
同様な迷信である。

(中略部分として、

 たとい、この世の中に瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が生れ出ようとも、
 「不調和」から「調和」が生れて来ることは難しいのである。

 諸君がもし諸君の立ち対(むか)う人たちをば善ならしめようと欲するならば、
 自分自身が先(ま)ず調和した心持(こころもち)にならなければならない
 のである。

 自分の心が乱れ、癇癪(かんしゃく)に触って相手を鋭(するど)い言葉で
 刺し貫いているようなことで、相手を善に化(か)し得(う)るなどと
 偉そうなことを考えぬが好いのである。

 以上が中略部分)

すべてあなたの家庭にてつかわれる言葉をば
「神の子」らしい洗練されたものたらしめよ。

互(たがい)を尊べ。
なぜならなら、あなたたちは皆みな「神の子」であり、
「神の子」の生活を成就するために家庭を造っていられるのであるからである。

       <感謝合掌 令和7年4月15日 頓首再拝>

子どもの本性は尊く、どこまでも伸びると信じて - 伝統

2025/04/16 (Wed) 11:02:20


「生命の教育」(令和7年4月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【家庭においてまず子供の善さをほめましょう】

《子どもの本性は尊く、どこまでも伸びると信じて》

          *新編『生命の實相』第22巻161~163頁)より
          *『生命の實相』第14巻教育篇(P189~190)より

人間の本性(ほんせい)の尊いこと、
その潜在能力の無限であることを
子供の心に吹き込むようにすれば好(よ)いのである。

すると、子供は次第に「本当の自分」が如何に崇高(けだか)く
霊妙なものであるかを知りはじめる。

そしてその「本当の自分」を実現することが彼の生涯の理想となり、
従来の小さな虚栄や、小成(しょうせい)に安(やす)んずる慢心や、
狡(ずる)い利己心は消滅して、本当に彼は謙虚な心持(こころもち)
で生長の本道(ほんどう)を辿(たど)り得(う)ることになるであろう。

(中略部分は以下

  ここにおいて、外なる現状に対する謙虚と、
  内なる神性に対する自尊とは完全に一致する。

  子どもを「生長の家」式に教育しようと思うならば、

 中略部分は以上)

「下手だ」とか「悪い」とかいって叱りつけて、児童の心に自己の悪い
方面を印象せしめるような旧式の教育法は断然改めなければならないのである。

といって、下手のままで「これで善い」と慢心せしめるような教育法も
失敗だといわなければならないのである。

「非常に上手に出来たが、
 ここをもう少しこうしたら一層出来ばえがよくなるだろう。
 それ御覧(ごらん)、こうなるだろう。

 今度はここをもう少し注意してやって御覧なさい。
 きっとまだまだ上手になる。

 この子は少しでも善くないところはすぐ改める子だから、
 どれだけでも上手になる子だ。
 将来どれだけ天才になるか、私はお前を楽しみにしているのだ」

こういうふうな言葉を使って、
善くないところを改善することに歓びを見出(みいだ)すような
誘導法を用いるのが最も好(よ)いのである。

常に子供を批評するときには、
確定的な言葉で、彼の将来を祝福してやり、
子供の上達に親たちが望みをかけており、

彼が上達することが真(しん)に親たちの喜びであることを、
ハッキリと彼の心に感じられるようにしてやるが好(よ)いのである。

         <感謝合掌 令和7年4月16日 頓首再拝>

いつも善い言葉を雨降らしましょう - 伝統

2025/04/17 (Thu) 11:53:59


「生命の教育」(令和7年4月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【家庭においてまず子供の善さをほめましょう】

《いつも善い言葉を雨降らしましょう》

        *光明思想社版『人生読本』178~180頁
        *『人生読本』第14巻(P153~155)より

皆さんは今日から、空から花びらが降るように、
いつも善き言葉を雨降らそうではありませんか。

皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、
どんな狭い裏長屋におりましても、
そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。

(中略)


褒める言葉ぐらい結構な言葉はないのであります。

ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。

というのは、それは現象(あらわれ)に執(とら)われて、
目前(めのまえ)の姿に執われて、人間の実相(ほんとうのすがた)を
見失ってしまって、人間が神の子である、
ここが現実(このよ)の浄土であるということを忘れてしまって、

ちょっと何か外に現れた失敗があると、それに執われてしまって、
1分間あった失敗を1時間ぐらい怒鳴りつける。

その上、そのことをいつまでも心に持続けるというような事を
しているような人たちの集まっている家庭は、
いつも面白くないのであります。

       <感謝合掌 令和7年4月17日 頓首再拝>

《人の特長を拝む日》 - 伝統

2025/05/07 (Wed) 08:45:55


       *「光明道中記」(5月7日)より

【他を自分の型に嵌めようと思う者は躓く。(『生命の實相』第十一巻)】

親の精神状態にそれほどの葛藤(いらいら)も争いも憎みもないのに
子供が不従順な場合は学校に原因があることがある。
学校と連絡し、学校の先生と親しく和解しなければならない。

学校で教師にいじめられたり、仲間にいじめられたりする子供は
家に帰って親に対して不従順になり勝ちである。

子供の生活のうち、最も伸びねばならぬ学校生活の半日が ―― 否(いな)、
その子供にとっては半日ならぬ殆ど全日に感じられる期間、彼はいじめられたり、
不快な眼に逢って来たので、それに対する反抗を表現したいが、
それを学校では表現することが出来ないから、その反抗を家庭で表現しているのである。

それに対して、家庭の親が暴君的に圧迫を加えるならば
子供は内心の犯行を表出する捌け場所を失って、病気になるか、
不快な事を見まいと云う精神力の反映から近視になるか、

それを聞くまいとして中耳炎を起すか、
頑固に鼻の奥にブツクサ言っていて素直に通さないところの蓄膿症を起すか、

親が子供の成績の良くなることを希望しているのに、逆に成績を良くしないことが
親に反する切(せ)めてもの反抗であると云うようなことになることがある。

愛撫して抱きし締めながら学校の模様を聞いてやること。

       <感謝合掌 令和7年5月7日 頓首再拝>

【取越し苦労をやめましょう】 - 伝統

2025/05/08 (Thu) 10:45:57


「生命の教育」(令和7年5月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


《子供の内にある無限の力を引き出そう》

【取越し苦労をやめましょう】

        *新編『生命の實相』第22巻2頁
         頭注『生命の實相』第14巻128頁

多くの母親は子供のことを餘りに取越苦勞するために、
却つて子供に惡思念を放送して子供の健康や運命を害してゐる。
或る母親は一瞬間でも自分の眼の前にゐないと心配でたまらないのである。

彼は自分の想像の中(うち)で、
躓いて轉んでゐる自分の子供の姿を思ひ浮べる。
自動車にひかれて死にかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。
水に陥(はま)つて溺れかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。

世の母親よ、何故(なぜ)あなたはこの反對をして可(い)けないのか。
こんな取越苦勞が起るのは、
子供を神の子だと思はないで人間の子だと思ふからである。

神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。

人間の子だと思ふものは終世(しゅうせい)、
取越苦勞をして育てねばならぬ。

子供を神の子だと思ふものは、子供を尊敬して
出來るだけその世話をさせては頂くが、
神が守つてゐ給ふと信ずるが故に取越苦勞は必要はないのである。

人間力で子供を生かし得ると思ふなら終日終夜起きて子供の番をしてをれ。
それは出來なかろう。

出來ない間に子供を生かしているのは神の力である。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和7年5月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

       <感謝合掌 令和7年5月8日 頓首再拝>

すべての子供には無限の能力が宿っている - 伝統

2025/05/09 (Fri) 11:20:54

「生命の教育」(令和7年5月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


《子供の内にある無限の力を引き出そう》

すべての子供には無限の能力が宿っている

        *新編『生命の實相』第22巻159~160頁
         頭注『生命の實相』第14巻教育篇188~189頁

人間の内には実に無限の潜在能力が埋蔵せられているのである。

深く穿(うが)つに従ってどれだけでも豊かに
その潜在能力を掘り出すことが出来るのである。

穿(うが)つとは自覚するということである。
自覚しさえすれば埋蔵せる宝は常に掌中のものとなるのである。

だから表面にある能力だけを自分の全部だと子供に思わすな。

表面にある「自分」は「真の自分」の唯(ただ)の
「小出(こだ)し」にしか過ぎないことを知らせよ。

「小出し」は使うのに便利かも知れないが、
この「小出し」を自分の全部だと思ってしまったならば
大いなる発達は望めないのである。

常に子供に教えて小成(しょうせい)に安(やす)んずるなといえ。

小成は自分の「小出し」に過ぎないこと、
今ある彼の能力はすべて「小出し」に過ぎないこと、
「小出し」は決して誇るに足りないこと、

つねに「小出し」に満足せず、

本源、即(すなわ)ち無限の潜在能力(神)より汲(く)むように努力すること――
常にかくの如き真理を子供に解る言葉で教えるように心懸ければ、
現在の自分に満足する子供の傲慢心(ごうまんしん)は打砕(うちくだ)かれ、
驕傲(きょうごう)は消滅せしめられ、永遠に能力の伸びる精神的基礎は
築かれるのである。

自分の内部の生命が無限の大生命に連(つらな)っており、
そこに自分の本当の宝が在(あ)るのだということが判(わか)るとき、
いま僅(わず)かに掘り出した能力の「小出し」位(くらい)に
傲慢(ごうまん)になっていることは出来なくならざるを得ないのである。

       <感謝合掌 令和7年5月9日 頓首再拝>

《三界唯心を悟る日》 - 伝統

2025/05/10 (Sat) 11:41:18


        *「光明道中記」(5月10日)より

【全ては自分の心の影であるから目のとどく限り神示とも言える。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

子供は学用品を紛失して、親からひどく叱られるのを恐れて隠していることがある。
何でも子供は《もの》を隠しているときには、強情に陰気に塞ぎ込み勝ちのものである。

「父さん母さんは決して叱らないから、隠していることを心に持っていて、自分ひとりで
苦しまないで、母さんにそれを打明けて一緒に苦しいことは二人で分けましょうね」
こう言って愛撫して、愛を表現しながら、子供の心の悩みの表出に動機を与えてやる
ことが必要である。

幼いときから持ちつづけた感情の悩みが大人(おとな)になってからの
神経的疾患として発病することもある。

子供の怠惰、朝寝、不勉強は権力者に対する無言の抵抗であることがある。
大人でも権力によって拘束せられる場合には、無言の怠惰 ――
飢餓罷業(ハンガー・ストライキ)や怠業(サボタージュ)を行なうことは
誰でも知っている。

ガンジーのような高潔な人格者でも、
ハンガー・ストライキやサボタージュはやるのである。

子供の怠惰も必ずしも人格の低下の標識(しるし)ではない。
それは却って子供の自尊心の強さから、自尊心を傷つけられたことに対する
反抗の顕れであることもあるし、先生や、親や、友達が認めてくれない
絶望からの自暴自棄であることもある。

       <感謝合掌 令和7年5月10日 頓首再拝>

子供が病気や疲労を現したら、親自身が自分の心を反省する - 伝統

2025/05/11 (Sun) 10:28:51


      *「光明道中記」(5月11日《魂の浄(きよ)まる日》)より

【病気は悪くなる行程ではない。浄化の行程である。(『生命の實相』第十一巻)】

子供が病気らしく見える場合や、疲労していると見える場合に、
親自身が驚いたり、周章狼狽した態(さま)を見せては可(い)けない。

親の心や態度は直(ただち)に子供に反映するものである。
それは生みの子だけに反映するのではなく、養子にでも養女にでも反映する。

子供が病気や疲労を現したら、親自身の心がイライラしていないか、
誰かと争いの心持を有(も)っていないか、心配事はないか ―― と、
よく親自身が自分の心を反省して自身の心を落着け争いを解くことである。

12歳以下の子供の病気や疲労は親自身の心の葛藤(いらいら)が反映しているのが
90%以上であろうし、16歳以下の子供の病気や疲労の50%位までは
親自身の心の葛藤(いらいら)の反映であると言っても好い。

17歳以上になると子供も大体人格の独立を得るから
親の精神状態に影響されることは段々少なくなると言い得る。

併し、どんな人でも自他一体
 ―― 一つの生命の波の中に浸って生きているのであるから
他の人の精神波動の影響を受けないと云うことはあり得ない。

夫婦は大人(おとな)であるが互いにその精神波動を感応して
互いの身に病気や事業の失敗を起させる。

況(いわん)や親子の間は大人になっても互に影響し合うものである。

            <感謝合掌 令和7年5月11日 頓首再拝>

「無限の大きな力」があることを言い聞かせよう - 伝統

2025/05/12 (Mon) 10:40:25


「生命の教育」(令和7年5月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


《子供の内にある無限の力を引き出そう》

「無限の大きな力」があることを言い聞かせよう

        *新編『生命の實相』第22巻161~162頁
         頭注『生命の實相』第14巻教育篇189頁


「無限の自己」――これを真如(しんにょ)とも、法性(ほっしょう)とも、
自性(じしょう)とも、仏性(ぶっしょう)とも、実相とも、
「本来の面目(めんもく)」とも、 「自己に宿るキリスト」とも、
「彦(ひこ・日子<ひこ>)又(また)は姫(ひめ・日女<ひめ>) と
しての自己の本質」ともいうのである。

しかしかくの如き言(ことば)を解(かい)せぬ幼き子供に対しては、

「人間は神の子だ。子の顔が親の顔に似ているように、汝(なんじ)の
 能力と性質とは神の姿に肖(に)せてつくられているのだ。

 神はこの世界の万物をつくられたのであって、人間は神の子として、
 神の無限に大きな能力の《あとつぎ》に造られているのだ、
 だから神の子は神の子らしく生きねばならぬ。

 神から譲られている無限に大きな能力を発現しようと思わないものは、
 親から折角頂いた宝の庫(くら)を開かないで棄(す)ててしまうものだ」
 
こういう意味の話を時々言葉を変えて子供に話して聞かせることにして、
人間の本性(ほんせい)の尊いこと、その潜在能力の無限であることを
子供の心に吹き込むようにすれば好(よ)いのである。

すると、子供は次第に「本当の自分」が如何(いか)に崇高(けだか)く
霊妙(れいみょう)なものであるかを知りはじめる。

            <感謝合掌 令和7年5月12日 頓首再拝>

わが子は偉大な大きな使命をもって生まれてきた - 伝統

2025/05/13 (Tue) 09:04:34


「生命の教育」(令和7年5月号)の
谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


《子供の内にある無限の力を引き出そう》

わが子は偉大な大きな使命をもって生まれてきた

        *新編『生命の實相』第22巻174~175頁
         頭注『生命の實相』第14巻教育篇198~199頁

まず子供に教えよ。
彼自身の生命の尊さを。
―人間の生命の尊さを。
 ―― そこには無限力の神が宿っていることを。

展けば無限の力を発し、無限の天才をあらわし、
彼自身のためのみならず、人類全体の輝きとなるものが
彼自身の内に在ることを教えよ。

彼をして彼が地上に生命を受けて来たのは、
自分自身のためのみでないこと、人類全体の輝きを増し、
人類全体の幸福を増すために神が偉大な使命を
彼に与えてきたのであることを教えよ。

この自覚こそ、最初の最も根本的な自覚であって、
この自覚が幼児期に植えつけられたものは必ず横道に外れないで、
真に人類の公けな歓びのため何事かを奉仕しようと
喜び励む人になるのである。 


常に子供を鞭撻(べんたつ)して、彼の善さを力説せよ。
彼の美点を強調せよ、
自分自身の有(も)つ長所を自覚せしめよ。

ここに子供を教養する極意(ごくい)があるのである。

美点を強調し、弱点を忘却(ぼうきゃく)せしめ、
失意に枉屈(おうくつ)する時間を
希望に躍進(やくしん)する時間に変化せしめよ。

彼もし希望に輝き、美点にのみ躍進を続けるならば、
弱点に執着(しゅうじゃく)し、弱点を考え、
失敗を悲しんでいる暇(ひま)はないのである。

心を弱点に置かないとき、行いに弱点を繰返(くりかえ)す
暇(ひま)がないとき、その弱点を再び繰返す傾向は
うすれて来るのである。

ここに彼の美点のみが発揮され、長所のみが生長する。

            <感謝合掌 令和7年5月13日 頓首再拝>

子供の盗み癖は、愛を与えれば消える - 伝統

2025/05/16 (Fri) 11:06:10


       *「光明道中記」(5月16日)より
         ~《父を憶(おも)う日》

【贅沢を羨むな。今日一日生かされてある事実に感謝せよ。
               (『生命の實相』第十一巻)】

子供が親の物を盗むのは「盗み」と云うことが分からないで
自他一体の気持ちでする場合と、
親を愛している証拠でする場合がある。

後者は《親のもの》即ち
 ―― 「親」《そのもの》を自分に抱いていたいのである。

それは必要に迫られて、欲しいと言っても得られない場合に
止むを得ずする場合もあるし、親を憎んで親に対する反抗心で
親の大切なものを盗む場合もあるが、

反抗心も結局は愛の裏返しになったのある。

その子供は親を愛しているのだと知って、
その子供を憎まないことが肝要である。

「金」は大抵親が儲けてくるものであるから、
子供にとっては「金」は父親の象徴(しるし)として
存在するのである。

その「金」を隠れて浪費する子供は、父親を浪費したい
 ―― そんな父親はなくなれば好いと思っているのである。

そんな子供は大抵あまりに厳格な父親の下に育っているので、
父親と云う束縛者がなければ好いと思っているのである。

兄弟がある場合に、兄弟のものを盗むのは、
兄弟の一方が自分より愛されていると想像される場合、
その「愛」の象徴を盗みとろうとするのであって、
それは本当の盗みではない。

愛されたいと云うに過ぎない。
愛を与えれば、そんな盗みは消えて了うのである。

       <感謝合掌 令和7年5月16日 頓首再拝>

《自由自在の日》 - 伝統

2025/05/20 (Tue) 10:21:47


        *「光明道中記」(5月20日)より

【義務と思えば重く、愛して行えば歓びが得られる。(『生命の實相』第四巻)】

幼児より爪を咬む習慣のある児童は、あまりに家庭で束縛され、
心が内面にばかり陰気に向いている証拠で、自涜(じとく<肉体の自己玩弄>)の
一種である。

心が明るく愉快に外面的に伸びて行く場合には肉体の自己玩弄(がんろう)は
起らないのである。
明るく愉快に、心が自己玩弄に向う時間がない程に肉体運動を奨励するが好い。
疲れて眠くなるまで無理に眠らせないが好い。

肉体の自己玩弄を看付けた場合には、余り激しく「罪悪」として叱り附けてはならない。
余り激しく叱り附けられると恐怖心の結果、「恐いものをやって見たい」の欲望で、
隠れて肉体を自己玩弄するようになり易い。

男女とも13歳位になったら素地(きじ)の粗(あら)っぽい布の猿又(さるまた)を
着用して眠らせるが好い。あまりに柔らかい布の下着は接触の快感を連想せしめて、
肉体の自己玩弄に導いて行くことがある。また蒲団は軽く硬いものが好い。

男子は柔剣道、駆歩(かけあし)などを盛んにやって妄想の余裕を与えぬこと。

少年に対しては、恋愛小説、放送番組のラブ・シーン、レビューのダンス、
卑猥なる週刊雑誌を避けねばならぬ。
これを見せれば梅干を見れば唾液が湧く程度に性欲を興奮せしめる。

高潔なる思想家、英雄豪傑の伝記などを読み、性欲を想像せしめる読物を廃するが好い。

            <感謝合掌 令和7年5月20日 頓首再拝>

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