伝統板・第二
真理の生活 ⑳ - 伝統
2024/05/06 (Mon) 11:50:41
【「愛がある顔」と「愛のある言葉」】
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.7.17)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
人に好かれるには、愛がある顔をして、愛のある言葉をしゃべるしかないの。
自分が魅力的だと思う人を観察することだよね。
どんな言葉をしゃべっているか、
どんな顔をしているか、研究してごらん。
どういう愛のある言葉なのか、どういう愛のある顔なのか、
そのことに注目するんだよ。
イヤな奴を見て、
「あんなことを言われた」「こんなひどい顔をされた」
って思うのではなく、
心の優しいいい人を見ることなんだよ。
もし、イヤな奴に出会ったら、
私ならこういう愛のある言葉をしゃべる、私ならこういう顔をするって、
試してみることだよ。
この問題を追求していけばいいの。
ものの1年も修行したら、とびぬけて魅力的な人になっちゃうよ。
まずは行動してごらん。
問題を解決するためには、
その問題の神髄は何かを考えることなんです。
つまり、魅力イコール愛のある顔、愛のある言葉なんだよ。
そのことがひとつわかったら初めて、イヤなこともわかってくるんだよ。
自分にも愛のある言葉をかける。
まずは、自分に優しく、そして人に優しくだよ。
愛のある言葉は、自分が先、そして人にもかけてあげるんだよ。
それで、すべてが解決するんだ。
<『魅力的な人になるためのヒント』ぴあ>
・・・
「愛がある顔」とは「笑顔」のこと。
「笑顔」の人は、機嫌がよくて、明るい。
だから、まわりの人の気持ちも、ほっこりしてあたたかくなる。
反対に、不機嫌な人はまわりの人の気持ちを冷やす。
不機嫌な人は、不機嫌な人を引き寄せる。
同時に大事なのが「愛ある言葉」という「愛語」。
良寛和尚は、「愛語の心」についてこう語っている。
『「自分は貧しいひとりの修行僧なので、
人に与えるもの、あげるものが何もない。
だからせめて、
心をあたたかくするような、
心を安らげるような『言葉』をあげたい。
それなら
いくらでもあげることができるから」
良寛和尚は、
自分の口から出てくる言葉を
「あたたかい言葉」
「やさしい言葉」
「思いやりに満ちた言葉」
にしたいと思っていたようです。』
(ありがとうの魔法/ダイヤモンド社)より
魅力的な人になるため…
「笑顔」と「愛語」を磨き続けたい。
・・・
<参照>
【超要約】魅力的な人になるためのヒント
https://note.com/brainy_hawk856/n/n900207f18066
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129
(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747
(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100
(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617
(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421
(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282
(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886
(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563
(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815
(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957
(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8209345
(12)伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8238335
(13)伝統板・第二「真理の生活 ⑬」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8250384
(14)伝統板・第二「真理の生活 ⑭」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8263502
(15)伝統板・第二「真理の生活 ⑮」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8290983
(16)伝統板・第二「真理の生活 ⑯」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8305125
(17)伝統板・第二「真理の生活 ⑰」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8315921
(18)伝統板・第二「真理の生活 ⑱」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8331438
(19)伝統板・第二「真理の生活 ⑲」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8360609
<感謝合掌 令和6年5月6日 頓首再拝>
「真の人間」を自覚するには、真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である - 伝統
2024/05/08 (Wed) 12:02:38
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より抜粋
神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。
これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。
その完全さを神想観によって自覚する時
人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。
釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。
自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時あらゆる不完全は消え去り、
不調和はなくなり、仏すなわちいっさい苦悩から解脱したところの人間が
成就するのである。
しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。
正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。
<感謝合掌 令和4年5月8日 頓首再拝>
【場の空気が読める人に】 - 伝統
2024/05/11 (Sat) 09:19:42
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.7.25)より
(櫻井秀勲(ひでのり)氏の心に響く言葉より…)
根が単純な男ほど、迷惑なものはありません。
ある友人が亡くなったとき、彼の自宅で通夜を行なうことになりました。
私たちは翌日のこともあるので、
そろそろ帰ったほうがいいと、片づけはじめたのです。
ところが、そのうちの一人が
「これじゃ、あいつがかわいそうだ。俺は朝まで残る」と、
粘りはじめたのです。
彼はどこへ行ってもこの調子で、密かに煙たがられていましたが、
自分では情の厚い男と自負していました。
おそらくこのタイプは、どの職場や仲間にも、一人はいるはずです。
たとえば酒の席でも、そろそろお開きという時間にもかかわらず、
まだまだ終わらせないといわんばかりに、引っ張るのです。
ビジネスの世界には、さまざまなパーティーがあります。
こんなときも、その会の主催者のところに挨拶に行き、
大勢が待っているにもかかわらず、長々としゃべる人がいます。
当の本人は、自分は主催者とこんなに親しいのだ、というところを
周りに見せているのでしょうが、周りの人たちの視線は、冷ややかです。
瀬戸内寂聴さんが書いていましたが、
城夏子という小説家・エッセイストがいました。
とても明るくおしゃべりで、
瀬戸内さんとウマが合い、仲がよかったそうです。
城夏子のほうがずっと年上にもかかわらず、
瀬戸内さんからかわいがられていました。
表現がおかしいかもしれませんが、実際そうだったのです。
この城夏子が、瀬戸内さんが出家の儀式を
明日に控えた日の真夜中にやってきて、 玄関先で
「出家してもあなたは死ぬまで作家なのよ、書き続けてね。
ハイ、万年筆」 といったかと思うと、
瀬戸内さんがどんなにすすめても家にあがろうとせず、
身をひるがえすようにして帰っていったそうです。
見事にT・P・O(時間・場所・場合)を心得た挨拶で、
だからこそ瀬戸内さんも、長く親しくつき合ったのではないでしょうか。
T・P・Oをわきまえない人を、少し前に流行った言葉で
「KYな人、空気を読めない人」と呼ぶようですが、
冒頭に紹介した私の友人も、パーティー会場で主催者を独占する人も、
KYな人です。
場の空気には、常に気をつけたいものです。
<『人を味方につける男、敵にする男』三笠書房>
・・・
自分で自分のことを
「情が厚い」という人ほど、情には厚くないものだ。
情に厚いかどうかは、人が決めるもの。
自分で自分のことを「親切な人」とか「面白い人」、「優しい人間」という
ようなもので、その物言いは、恥ずかしくて滑稽だ。
KYな人は、空気が読めない人、デリカシーのない人、気配りのない人、
鈍(にぶ)い人、だ。
つまり、自分本位で、周りが見えていない人。
自尊心が強く、目立ちたがりやでもある。
場の空気が読める人は、自分のことは後回しにして、
人を立て、裏方にまわるくらいの謙虚さがある。
気配りができ、その場の空気が読める人でありたい。
<感謝合掌 令和6年5月11日 頓首再拝>
霊感多きで、慢心するなかれ - 伝統
2024/05/13 (Mon) 11:19:39
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より
『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、
鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。
南泉和尚が修行の力なくして鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。
人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしいというのではない
という意味である。
道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して
「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、
すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。
そのむねあきらむべし」
と悟しておられるのである。
今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、
真実、仏道の悟りを得たならば、
天人の霊眼にも見えないし、
鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。
その深き意義を明らかに考究せよという意味である。
いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、
天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、
まだ最高級の悟りに達していないのだから注意せよ
と道元禅師は言われたのである。
そして道元禅師は、五祖の章の結末を
「しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり」
と叱咤していられる。
本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にあるヴェッテリニの霊告によっても、
低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、現実界にあらわれる以前に
地上に渦巻く雰囲気を感知して、高級霊よりもいっそうよく予言などが
的中するのだと示されている。
高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから
地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである
―― もっともそれはそれぞれの
霊的因縁によることであり、それぞれの使命のあることであるが ――
したがって霊感などがあまり多くあることを
慢心してはならないのである。
むしろ霊感多き人は南泉和尚のように
「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる」と
修行の足らざるを反省すべきである。
道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が
「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」
と嘆いたと書いている。
・・・
*覰見(ちょけん)=うかがい見る
<感謝合掌 令和6年5月13日 頓首再拝>
「正見」(しょうけん:正しい知識) - 伝統
2024/05/14 (Tue) 09:14:15
「正見」(しょうけん:正しい知識)次第で、悪事を避けられます
伊勢ー白山 道(2024-05-13)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/a3512a65004da5a41a93b1abda94e2d2
<感謝合掌 令和6年5月14日 頓首再拝>
【ものごとを軽く考えること】 - 伝統
2024/05/16 (Thu) 10:41:24
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.7.31)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
人生は自分の「思い」次第。
そうすると、
「絶対に明るい考えをするぞ」
「ネガティブな感情は持っちゃいけない」
とかって、ものすごくリキみ始める人がいるんです。
そんなに重く考える必要はないんだよ。
21世紀は「魂の時代」で、
ものごとをどれだけ軽く考えられるかで勝負が決まるから、
深刻になっちゃいけないの。
昔は全体主義だったから、
何をするにしても国に従わなきゃいけなかった。
みんな貧しくて、個人の幸せが後回しになるのは仕方がなかったんです。
でも、時代は変わって豊かになりました。
豊かになって、個人がそれぞれの幸せを追い求められるようになったの。
そういう時代に重く考えるのは、
わざわざ波動を重くしているってことだよ。
自ら不幸を選択するようなものなんです。
明るく楽しい波動を出すには、ものごとを軽く考えること。
そもそも「明るい」という言葉自体、「あ、かるい(=あ、軽い)」でしょ?
軽く考えなきゃ、ポジティブな波動は出ないよ。
軽く考えるクセを身につけるためには、
「あれはダメ」「これは間違い」という世間の常識を打ち破るのが一番です。
世間ではよく「勝ちグセ」っていう言葉が使われるけど、
勝ちグセをつけるには、考え方を変えなきゃいけないの。
勝ちグセって、要は「勝てる思い」を身につけることなんだよね。
日頃から明るい思いを持つこと。
それには、ものごとを軽く考えられなきゃいけません。
軽く考えられるから、明るい思いを持つことができて、
何が起きても悪いようにはならない。
成功もするんです。
《明るい波動を出したかったら軽く考えるんだよ》
<『楽しんだ人だけが成功する』PHP文庫>
・・・
ものごとを軽く考えることができる人は、何度でも挑戦できる人。
挑戦するたびに、重く考えていたら、挑戦することはできない。
たとえ、失敗したとしても、それを軽く考えることができる。
失敗するたびに、
それを重く考えていたら、気が滅入って、パワーがなくなる。
人からきつい言葉をかけられたり、
傷つけられるようなことを言われたりしたとしても、
それを軽く考えることができる。
いつまでもウジウジと気にしたりせず、軽く流すことができる。
そして、一時は、テンションが落ちてしまっても、またすぐに復活する。
つまり、レジリエンスが高い人。
軽く考えることができる人は、いつもサラッとしている。
ネチネチと重くなく、さっぱりとしている。
そして、機嫌がいい。
だから、明るくて、楽しくて、いつも笑顔がある。
どんなときも、深刻にならず…
軽く考えることができる人でありたい。
・・・
<参照>
【斎藤一人 楽しんだ人だけが成功する】あらすじ
https://book-hours.com/tanoshindahitodakegaseikosuru-review/
【斎藤一人】『楽しんだ人だけが成功する』
を超簡単にわかりやすく要約します
https://www.youtube.com/watch?v=4EBQGZ4760U
<感謝合掌 令和6年5月16日 頓首再拝>
【けんかを買わない】 - 伝統
2024/05/17 (Fri) 09:23:01
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.8.5)より
(山崎武也(たけや)氏の心に響く言葉より…)
けんかをしている場面を、まったく関係のない第三者として見たときは、
どのように感じるか。
取っ組み合いをしていれば当然であるが、
単にいい争いをしている場合でも、品のいい人たちとは到底思えない。
一般的に、けんかは低次元の行為であると考えている証拠である。
けんかはエレガントな振る舞いとはまったく相容れないものである。
見ていて見苦しいし、聞いていても聞き苦しい。
特に両者がいきりたっている場合は、その場から逃げ出したいと考える。
巻き添えを食いたくないという気持ちもはたらくからである。
争いにかかわり合うのは、自分の品位に傷がつくとも考えているのだ。
けんかは下品なのである。
自分の品格を保つためには、けんかをしないことだ。
冷静になって自分の主張をしたり相手を説得したりする姿勢が肝要だ。
また、人がしかけてきたけんかも、受けて立たないようにする。
売られたからといって買う必要はない。
売られたけんかを買おうとしなかったら、
相手は「逃げるのか」などといって追ってくる。
そのような挑発的な言葉に乗せられてはいけない。
理不尽なことをいってくる相手を立派な大人だと思うから、
自分も腹を立てる結果になる。
理不尽なことを平気でいってくるのであるから、
大人ではなく幼児にも等しいメンタリティの人であるに違いない、
と考えてみる。
幼児といい争ったとしても、論理や常識は通用しない。
同じ土俵の上で対決する相手ではないし、
それは時間とエネルギーの無駄となるだけだ。
したがって、適当にあしらって 逃げるのが得策である。
相手にするに価しないとして、「相手にしない」姿勢を貫く。
本気で争ったのでは、自分の格までも
相手の次元に下げる結果になるからである。
<『人生は負けたほうが勝っている』幻冬舎新書>
・・・
「感情的になったら負ける。冷静なヤツには敵(かな)わない」
野球のイチロー氏の言葉だ。
対人関係などで、怒りがヒートアップして制御できなくなった状態を
「キレる」という。
「プッツンする」とか「ぶちキレる」、「逆ギレ」という言葉もある。
前後の見境なく激高したり、理性的でない反応をする人は、
感情のコントロールができない。
冷静な判断ができない状態だ。
つまり、「けんか」がまさにこれだ。
どんなに挑発されようと、冷静でいること。
どんな「けんか」であろうと、買ってはいけない。
<感謝合掌 令和6年5月17日 頓首再拝>
【怠け心に打ち克つ】 - 伝統
2024/05/18 (Sat) 08:58:02
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.8.6)より
(藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)
1.あまえ
2.うぬぼれ
3.おごり
4.マンネリ
5.やっかみ
経営者はこの5つの心の病気に必ず罹(かか)る、と
ユニ・チャーム創業者の高原慶一朗氏が言っている。
徒手空拳で起業し二千億円企業にする過程で、何回か、いずれかの病気に罹り、
そのたびに会社がおかしくなった、と率直に吐露されている。
経営者だけではあるまい。
人は誰しも、その人生の途上で
この5つの病に侵されるのではないだろうか。
この心の病に勝つこと。
それこそが自らに勝つということである。
「人に勝つ者は力有り。自らに勝つ者は強し」
『老子』(第三十三章)は言う。
他人と争ってこれを打ち負かす者は力があると言えるが、
本当の強者ではない。
私欲私情を克服できる者、すなわち私心に打ち勝つことができる者こそ、
真の強者である、ということである。
王陽明もまた、同じようなことを言っている。
「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」
克己は古来、聖賢が等しく目指した道である。
思えば、天は人間にだけ、克己という心を発達させた。
その心があることによって、人間の進歩向上はある。
そのことを我々は肝に銘じたいものである。
<『小さな人生論 3』致知出版社>
・・・
どんな小さなことでも、
自分との約束を守れる人は、自分に打ち勝つことのできる人、
すなわち「克己心」のある人だ。
その積み重ねが、よき習慣となる。
「心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。」
まさに、このウィリアム・ジェームスの言葉の通りだ。
人は、誰もが、「楽をしたい」「怠けたい」「休みたい」
という気持ちを持っている。
継続が難しい理由はここにある。
自分自身の進歩向上のため…
怠け心に打ち克てる人でありたい。
<感謝合掌 令和6年5月18日 頓首再拝>
【悪口を言わない人はこんな人】 - 伝統
2024/05/20 (Mon) 10:06:48
*メルマガ「日本一元気」(2015.2.4)より
「仲間が陰口をたたいたり非常識なことを言ったりしたら、
口で注意できる場合は注意し、
それで駄目な場合には口をつぐみ、
それでも続くようだったら
その場を立ち去ることである」 (ジョン・トッド)
信じる者は損をする、ということがあります。
世のなかにはテレビや新聞を通じて、さまざまな情報が流れているので、
正しい情報を信じれば正しい判断ができますが、
誤った情報を正しいと信じると、
人生をまちがえるほどの大損をすることがあります。
メディアから流れてくる情報だけではなく、
インターネットから流れる情報もそうですし、
人から伝わる情報にしても同様ですね。
どんな情報が正しく、どんな情報が間違いなのか、
この人が言っていることは本当なのか、まちがいなのか、
これは自身で判断するしかありませんね。
判断のための一つの基準として、
悪口を言わない人のことを信じる、ということを私は考えています。
悪口はネガティブなもので、
だいたい相手の足を引っ張るために言われることが多いものです。
選挙や政治の世界ではこういうことがよくあります。
すると、こうした悪口は真実であるかどうかではなく、
足を引っ張れるか、相手にダメージを与えられるかどうかが大事であって、
真実であるかどうかは関係がない、ということになります。
では悪口を言わない人はどんな人か?
悪口を言わない人たちの10の共通点、というサイトがありましたので、
そこから引用したいと思います。
───────────────────
(1)人の評価を受け入れる謙虚さがあり、人の評価に振り回されない。
(2)自分に自信があるが、傲慢ではない。
(3)人の性格の明るい面と接する
(4)ポジティブなタイプ
(5)暗い話題が苦手
(6)悪口は言ってはいけないことだと思っている。
(7)悪口を言うと自分の立場が悪くなることを知っている。
(8)余裕がある
(9)客観的視点がある
(10)バランス感覚がある
───────────────────
つまり、こうした人、
あるいはこうした組織、メディアならば、
そこから出てくる情報には信頼が持てると言えるわけですね。
人間を見るときの判断基準ともなるかもしれません。
<感謝合掌 令和6年5月20日 頓首再拝>
【上へ上へを目指すより、奥へ奥へと進みなさい】 - 伝統
2024/05/27 (Mon) 10:15:46
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.8.13)より
(岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…)
広島県福山市の医師会に依頼され、講演に赴いた。
和気藹々の裡(うち)に終了し、遅い夕食を頂戴して
心地よく宿の部屋へ退散しようとした際、二次会のお誘いを受けた。
快くお受けして地下のバーへと伺った。
何でもここのバーテンダーは女性で、
全国の競(きそ)いで金賞を得た人らしい。
立ち居振る舞いといい、当を得た説明の内容といい、
申し分なかった。
謝意を述べ、二言三言と言葉を交すうちに
どういう経緯でそうなったのかはわからないが
突然彼女が嘆き出した。
金賞は頂けるが、どうしても最高位のグランプリには至らない。
二日したら京都で大会があるので、心が落ち着かないのだという。
そこで私は、コースターに、こんな歌を書いて彼女に贈呈した。
「手をうてば
鯉(こい)は餌(え)と聞き、
鳥は逃げ、女中は茶と聞く、
猿沢池(さるさわのいけ)」
(多川俊映・しゅんえい/唯識十章)
これは古代インドの深層心理学と
いうべき「唯識論」の「唯識所変(しょへん)」
(聞く立場によってものである。 解釈が異なる)
のたとえを詠んだ、
興福寺の古歌(こか)として教えてもらった歌である。
猿沢の池の畔(ほとり)でポンポンと手をうつ、これを聞いて、
いつも餌の事ばかり考えている鯉は慌てて池畔(ちはん)に集まり、
鳥は鉄砲と聞き間違えて逃げて行く。
旅籠(はたご)の女中さんは、
お客が呼べばすぐ茶を持って行かねばならないから、
ポンポンと耳にすると茶を持って走る。
しかし真実はただ畔(ほとり)で手をうっただけなのだ。
つまり賞を得られねばどうしよう、もしも落ちたら恥をかく、
福山へ帰ってどう言い訳をしようなどと考えるから、
萎縮して実力を出せないだけなのだ。
だから、この歌をしっかりと胸に刻んで臨みなさい。
そして、上へ上へを目指すより、奥へ奥へと進みなさい。
これとこれを調合したら、
このカクテルが出来るという事にとどまらず、
お客さんが寂しそうなら楽しくなるように、
悲しそうなら嬉しくなるようなバーテンダーになって下さい
と告げて別れた。
二日経って彼女から電話が入った。
見事最高賞を授かったという。
しかもシェーカーを振っている姿が
素晴らしいとの評価を受けたらしい。
心さえ変われば、人生は回転して行くものである。
<『日本人よ、かくあれ』ウェッジ>
・・・
枡野俊明氏の
『競争からちょっと離れると、人生はうまくいく /三笠書房』
という本の中にこんな文章があった。
『「勝ちたい」「負けたくない」という思いをいったんあきらめる。
少しのあいだ脇に置いてみる。
ちょっとそこから離れてみる。
すると、必ず、気づくこと、見えてくるものがあるはずです。
道元禅師の言葉に、「放てば手にみてり」というものがあります。
欲や執着を手放したとき、本当に大切なものが手に入る、ということです。』
「どうしても勝ちたい」、「優勝したい」という執着を手放す事。
心を縛るものから解放されると、肩の力がストンと抜ける。
そして、自分のことではなく、お客様に喜んでもらうことだけを考える。
上へ上へを目指すより、奥へ奥へと進むことができる人でありたい。
<感謝合掌 令和6年5月27日 頓首再拝>
本来無一物 - 伝統
2024/05/28 (Tue) 12:49:39
心の「溜め込み癖」に注意
伊勢ー白山 道(2024-05-28)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/2752ceb57a35594d73e90a07561da69c
<感謝合掌 令和6年5月28日 頓首再拝>
生活が本当になったとき、心が落ちつく - 伝統
2024/06/06 (Thu) 10:26:14
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より
生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に据わっていないからである。
機械でも据わるべきところへ据わったら、震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。
心を落ちつけるのも大切であるが、心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。
ごまかしの生活をしながら心ばかり落ちつかせようと焦ってもしかたがない。
正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。
<感謝合掌 令和6年6月6日 頓首再拝>
風のように、軽やかに生きる - 伝統
2024/06/09 (Sun) 11:11:03
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.8.18)より
(五木寛之氏の心に響く言葉より…)
中世の宗教家である蓮如(れんにょ)という人の言葉に
「人は軽々としたるがよき」
というものがあります。
この言葉を知った時、私は思わず救われたような気がしました。
私が若い頃には、「沈黙は金」そのままに、男がペラペラしゃべるなんて軽薄だ、
と言われてしまうような風潮がありました。
私は「口から生まれてきたのかい」と
友人に笑われてしまうようなおしゃべりでしたから、
重厚で無口な人にコンプレックスを抱いていました。
しかしこの言葉に出合い、
「今の時代は、価値変動の大転換期であった中世に似ているところがある。
そう考えたら『人は軽々としたるがよき』でいいんじゃないか」
――― そう思えたのです。
その時から数十年が経った今、
この「人は軽々としたるがよき」という言葉が
、 改めて胸に染み入るような気がしています。
私は「生きる」ということは
「変化の連続、その積み重なりである」と
お話ししてきましたが、そのことにもつながっていきます。
「いのち」とは、軽々と自由であるべきなのです。
軽薄だと言われようと、ブレていると言われようとも、
思うように生きたらいい。
寒い時には寒いと言い、気に入らない時には文句を言い、
納得できなければ納得できないと叫び、
悲しい時には大いに悲しみ、
笑いたい時には大いに笑えばいいのです。
そのことで周囲に波風が起こったとしても、
それは自分にとって必要な波風なのではないでしょうか。
そのことで気づけなかったことに気づき、自分を知ることができる。
また、周囲のことをより深く理解するということもあるでしょう。
そうして私たちは変化し、生きていくのではないかと思います。
限りある人生の中、できることも有限です。
この世にあるたったひとつの「自分」という存在を考えた時、
まず何をすべきかは、明白ではないかと思います。
自分のいのちが欲する声をしっかりと聴き、
自分らしく精いっぱい生きるということ。
それが、この人生でまず私たちがすべきことなのではないでしょうか。
私は、そうあるためにも、
大きな岩のように重々しくそこにあるのではなく、
風のように変化しながら、ひとり軽やかに生きていきたい。
そう思うのです。
<『あなたの人生を、誰かと比べなくてもいい』PHP研究所>
・・・
『成功者ってまず全員がものごとを軽く考えるし、いつも笑っているよ。
深刻な問題が起きたときでさえ、ゲームで敵を倒すみたく、
楽しみながら攻略するんだよね。』 (斎藤一人 常識をぶち破れ/PHP)
軽やかに生きるとは、こだわらないこと。
「こうでなければならない」
「〇〇すべきだ」
「〇〇しなければならない」
という思い込みや執着を捨てること。
「行雲流水」という言葉がある。
空を行く雲、流れる水のように、執着することなく、サラリとして生きることだ。
まさに、ものごとに、恬淡(てんたん)として生きること。
風のように、軽やかに生きる人でありたい。
<感謝合掌 令和6年6月9日 頓首再拝>
【一つひとつに心をこめること】 - 伝統
2024/06/11 (Tue) 10:35:24
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.8.20)より
(カトリック修道女、渡辺和子氏の心に響く言葉より…)
私は草野天平詩集に書かれていた 言葉を思い出していた。
「いくら立派な詩を書こうとしても、
詩的生活が安易で一般と大差なければ、
形も精神も人を打たず、特別な響きなど
到底生まれてくるものではない。
詩の本質は憧れに向かって
実際歩くことで、難しいのはこの身である。
向う世界と歩き方の純粋さにある」
「神だ」「愛だ」といくら立派に説こうとしても、
説く人の日常生活が安易に流れていて、そこにきびしさがないとすれば、
その言葉も精神も人を打たず、人の心を動かすなど到底望めたことではない。
難しいのは、いかに説くか以前の「この身」であって、
いかに毎日を生きるかにある。
「小学生の道徳」のようなことでいい、というか、むしろ、
それさえできていない自分が恥ずかしい。
小さなことでいいから、
一つずつ自分に課してゆくものをつくり、守ってゆこう。
それが「自分らしさ」というものをつくってゆく近道ではないだろうか。
わずらわしい人間関係の渦の中で
自分らしく生きてゆくには勇気が要る。
自分はこうありたいという理想への現実的な忠実さが求められる。
それは、悪意を持っているとしか考えられない相手に対して、
なおかつ善意を失わないことかも知れないし、
無礼な態度をとる人に礼儀正しさを崩さない毅然とした
人格の在り方をいうのかも知れない。
「心におさめる」ことを知っていたマリアのように、
神との対話を優先する生き方であり、
神のまなざしに映る自分の姿を絶えず正すことによって、
他人からの評価にそれほど一喜一憂しない自分をつくり上げてゆく
ことでもある。
それは決して、ひとりよがりの生活をすることではなく、
一つひとつの思い、言葉、行動に自分なりの意味を与えることによって、
自分のものとしてゆく責任ある生き方への努力である。
淋しさを味わわねばならない時が必ずあるだろう。
しかし淋しさなしに個の確立はあり得ず、
孤独をかみしめたことのない者に、
他人への真のいたわりとやさしさは生まれない。
一つひとつの物事に、一人ひとりの人に心をこめて接してゆこう。
一日一日に自分の人格をきざみつけてゆこう。
そこに自分にしかつけられない「生の軌跡」がつけられてゆく。
自分らしく生きる強さは、他人にも
「その人らしく生きる」ことを許す寛容を生み、相手をやさしく包んでゆく。
「やさしくね、やさしくね
やさしいことは強いこと」
宮城まり子さんの言葉が、
そんな生き方を裏づけ、励ましてくれるようである。
<『あなただけの人生をどう生きるか』ちくまプリマ―新書>
・・・
「修身斉家治国平天下 (シュウシンセイカチコクヘイテンカ)」
という言葉が「大学」にある。
天下をおさめるには、
まず自分の身を修め、
次に家庭をととのえ、
そして天下を平らかにする、ということ。
どんな大きなことを言っても、
まず、自分の身を修めることができなければ、
それはただの絵空事にすぎない。
自分の身を修めるということは、
子供から大人になる修養をするということ。
すなわち、「自律」。
自律している人は、
「人のせいにしない」、
「与えられた環境に文句を言わずそこで最善を尽くす」、
「自分を律することができる」、
「人に与えることができる」等々。
「大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、
どれだけ心をこめたかです。」 ( マザー・テレサ )
一つひとつの「言葉」や、「行動」に、思いをこめること…
自らの身を修め、律することができる人でありたい。
<感謝合掌 令和6年6月11日 頓首再拝>
【渋柿の渋そのままの甘さかな】 - 伝統
2024/06/14 (Fri) 09:10:26
*メルマガ「人の心に灯をともす」2023.8.23)より
玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)氏の心に響く言葉より…
「人生とは希望や目標を持って、それを実現するためのものだ」
確かに子供の頃から、 我々はそのように教わってきた。
いわば自己実現こそが人生なのだ、と。
しかし例えば、いい学校に入るとか、希望の会社に入るとか、
あるいは好きな女性と結婚するとか、
そんな希望を目標にしてきた場合、それが実現するとどうしただろう?
たぶんその延長上で目標を上方修正したのではないだろうか。
まだ叶っていない希望を次々に持ち続けることしか
人生観がないようなのである。
これは実は不幸の源ではないだろうか。
一生が短かった時代には人生観も一つで足りたかもしれない。
しかし今は寿命も長いし、時代のテンポも速いのだから、
人生観そのものも脱ぎ捨てて
次のものに替えていいのではないだろうか?
つまり人生は自己実現である
という思い込みを、あるところでやめるのである。
実現すべき自己など、
どうせ多重で複雑な自己のほんの一部にすぎないのだし。
そのことは、自分にとって必要だと勝手に思い込んできた価値から、
自分を必要としている誰かの価値への転換ともいえる。
自分の周囲に一人でも自分を必要としている人がいれば、
その人が実現したいことに徹底的に「応じる」のである。
一見、それは攻めから受け身へのシフトと映るかもしれない。
しかしこうした徹底的に「応じる」態度は、
ある程度の自己実現が叶ったあとの応用編であり、
その心の底には
「我が身に起こることはすべて自分を学ばせ、深めるために起こる」という
揺るぎない「信」を必要とする。
その「信」によってどんな災難や苦渋も味わい深い旨みを滲ませはじめるのだ。
「渋柿の渋そのままの甘さかな」というのはこうした事態のことだろう。
会社から家庭に目が向いたり、あるいは
これまで顧みなかった仕事が面白くなってきたり、現象としては様々だろう。
しかしそれは、これまで無理につくり上げてきた自己を放棄して
もっと大きな流れに身を委ねる人生の始まりである。
道教ではその大きな流 れのことをタオという。
目標や希望は持つのが当然であり、その実現に向けて「頑張る」のが、
いわば我々が教わってきた儒教的人生観だろう。
しかし、この考え方だと、いつまでも完成することはないし
ピークは永遠に先延ばしにされたままなのだ。
ところが実は、あなたはすでに完全なのであり、今こそがピークなのである。
それが困難や苦渋に見えても、
今はあなたを必要とする声になにも考えず応じてみてはどうだろう。
応じつつ広がり深まる。
そこではこれまで考えられなかった幅広い自己が、
結果として実現されていくはずである。
<『釈迦に説法』新潮社066>
・・・
小林正観さんは
『日々の暮らしを楽にする/Gakken』の中でこう語っている。
『私は、頼まれごとを、好き嫌いで選ぶのではなく、三つ目の選択をしています。
それは、「ただ、淡々と生きる」という生き方です。
頼まれごとを、自分の評価、論評を入れずに淡々とこなしていく。
あれがしたい、これがしたい、という自我や目標があったら、
そこにたどり着くために、努力しなくてはいけません。
また、努力しても叶わないこともあるでしょう。
ただ、頼まれごとをして淡々と生きていくと、何を頼まれるかわかりません。
自分が想像しなかった方向へどんどん流れていくこともあり、
考えていたときよりも、はるかに楽しいことが起こっていくようなのです。
頼まれごとがあるということ自体が、人間としてとても幸せなことなのです。』
「頼まれごと」があるということは、人から必要とされていること。
特に、人生の後半生は「頼まれごと」を引き受け、
流れのままに生きていくのがいい。
自分の目標や夢の実現ではなく、人様のお役に立つことを信条とするのだ。
そして頼まれたら、その中にどっぶり浸かり、その頼まれごとを楽しむ。
今まで経験したことのないようなこと、はじめての場所、新たな人との出会い、
という風に、雲のようにフワフワと流されていく。
「渋柿の渋そのままの甘さかな」
人も、「渋」という一見すると欠点が、実は大きな魅力になることが多い。
そのためにも、人生の後半生には、目標や夢の実現ではなく、
『徹底的に「応じる」態度』、すなわち「応じる」、「身をゆだねる」
という「頼まれごと」の人生を歩むのもいい。
「渋柿の渋そのままの甘さかな」という言葉を胸に刻みたい。
<感謝合掌 令和6年6月14日 頓首再拝>
行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統
2024/06/15 (Sat) 12:00:31
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より
生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。
そのまま「仏」である。
行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。
<感謝合掌 令和6年6月15日 頓首再拝>
知ったら直(す)ぐ行う日 - 伝統
2024/06/16 (Sun) 08:49:08
*「光明道中記」(6月16日)より
【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、道を知って道を行なうことである。
(『生命の實相』第十一巻)】
思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。
併しその実現は永遠性のないものである。
痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。
初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。
人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。
吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。
併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。
吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。
<感謝合掌 令和6年6月16日 頓首再拝>
最初の魂の非難にきけ - 伝統
2024/06/20 (Thu) 11:04:09
*「光明法語」(6月20日)より
最初は自分の罪におののくが、それに慣れてくると何ともなくなる。
次には罪の行為(おこない)が楽しくなり、
しまいにはそれが度(たび)かさねぬとおれぬようになる。
習慣と云うものは、恐ろしいものである。
先ず最初に罪に近づかぬことである。
罪とは実相の円満完全さをツツミ隠した思いであり行為(おこない)である。
それが実相そのものでないと云うことは、魂の最初の戦(おのの)きでわかるのである。
最初に、第一印象で、魂が非難するところのものは行なわぬがよいのである。
第一念で良いと思うことは善いことが多い。
<感謝合掌 令和6年6月20日 頓首再拝>
常に貸し越しになる生活 - 伝統
2024/06/23 (Sun) 11:33:21
*「光明道中記」(6月23日)より抜粋
みずから栄える道は他を栄えしむるにある。
社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、顧客を栄えしめるように店を経営して行くならば、
その店は繁昌する他はないのである。
他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、
自分を栄えしむるほかはない。
与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。
ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。
<感謝合掌 令和6年6月23日 頓首再拝>
体験すれば分かることが有る - 伝統
2024/06/27 (Thu) 12:49:04
行けば分かるさ。体験すれば分かることが有る
伊勢ー白山 道(2024-06-27)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/35a01fa0b2c798477b4794b7c7a2dc98
<感謝合掌 令和6年6月27日 頓首再拝>
時間を大切にせよ - 伝統
2024/06/29 (Sat) 09:31:57
*「光明法語」(6月29日)より
「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は
誘惑に対して隙を与えることになる。
「何事をも為さず」と云うのも
又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。
忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても
回復の道がないのである。
時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。
生命(いのち)は向上するか、
然(しか)らざれば向下するかである。
<感謝合掌 令和6年6月29日 頓首再拝>
真理の前に跪(ひざまづ)く - 伝統
2024/07/01 (Mon) 11:41:38
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月1日)より抜粋
思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。
いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。
罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。
元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。
そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。
真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。
<感謝合掌 令和6年7月1日 頓首再拝>
無限功徳ある日 - 伝統
2024/07/03 (Wed) 11:53:51
*「光明道中記」(7月3日)より
【娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのだ。
(「生命の實相」第十一巻)】
梁(りょう)の武帝は達磨大師から、
今まで自分の行(おこな)って来た供養が、「無功徳!! 」
だとの喝を受けて、
自分の倚(よ)って立っていた真理がくだけた気がして
寂しくて耐(た)まらなかった。
それでは何が最も功徳ある真理だろうか、それが聴きたい。
そこで、「いかなるかこれ聖諦(しょうたい)第一義? 」
とたずねたのである。
それでは何が第一義の聖(とうと)き真理でございましょうか
と云うほどの意味である。
達磨の答は意表に出(いで)た。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と彼は言ったと、
「碧巌録」に書いてある。
聖(しょう)は「悟りの真理」と云うことである。
「聖(とうと)い悟りの真理なんて、そんなものはないのだ」
と云う一喝なのだ。
《これが》真理だ、《これが》功徳だなどと言っているものには、
功徳を先ず打消し、真理さえも打消してしまうところに、
本当の真理があらわれて来るのである。
一つのものを指(ゆびさ)して、「《これが》」と言ったとき、
指(ゆびさ)すことの出来ない大地に充(み)つる宏大な真理が
くらまされてしまうのである。
達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」と言って
聖諦(さとりのしんり)を否定して了(しま)ったとき、
却って其処に天地に満つる宏大無辺な真理が肯定されているのである。
<感謝合掌 令和6年7月3日 頓首再拝>
道は自己の「真剣」の中にあり - 伝統
2024/07/06 (Sat) 11:52:24
*「光明道中記」(7月6日《至誠身を献ぐる日》)より
【遊女マグダレーナは一切を
真理(キリスト)の足下に漑(そそ)いだのであります。
(『完成の聖書』】
達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり
永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。
諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、
あまり宇宙の真理を瞑想し過ぎたので、
「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて
五峰(ごほう)の秀出(しゅうしゅつ)せるに似たるものあるに
到れり」
と言うから、瞑想のために骨相が変り、五峰が突々(とつとつ)
として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。
真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る
―― この意気が欲しいと思う。
慧可四十歳の時、達磨大師が嵩山(すうざん)に
巡錫(じゅんしゃく)せられたのを機会に、
嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて入室を乞(こ)えども許されない。
終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。
そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、
入室を許されずんば死すとも此処を去らずの
赤誠(せきせい)を披瀝(ひれき)したので、
とうとう入室を許されたのである。
今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。
それだけに真剣味ありや。
真剣味ある者は幸いなり。
道は自己の「真剣」の中にあり。
漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。
<感謝合掌 令和6年7月6日 頓首再拝>
【人に喜ばれる生き方】 - 伝統
2024/07/07 (Sun) 09:28:16
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.8.25)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
そこは、観光地にある温泉旅館ですが、立地に恵まれておらず、
そこで旅館を 営んでいる方々は、みなさん青息吐息で苦しい経営状態。
客足が落ちてきていて、売り上げが あまり伸びてないというのです。
観光地自体に活気がなくなってきているので、
ご主人は「観光客をもっと増やして、
それで自分の宿にもお客さんが来てくれればいいと思っています。
そのためにも、いろいろな活動や、
地域を活性化するキャンペーンを始めました」
と言います。
「全然、方向が違います」
そう私は言いました。
「この観光地に人を呼ぶとか、有名にしようと考えるのは、
まったく方向が違いますよ。
観光地に自分の宿があると思わないようにしてください。
山奥の1軒宿だと思ってください」
と私は言いました。
宿主が立地条件に依存している間は、
その宿の持つ本来の良さは、引き出されないのです。
私は、この立地条件の悪い宿に泊まりましたが、
非常に高く評価しています。
だって、立地条件がものすごく悪いところにあるのですから(笑)。
立地条件が悪いのに、どうして旅館を続けていられるのかというと、
この宿そのものがいいからです。
お風呂をヒノキにしているとか、トイレをきれいに造り直しているとか、
地元で採れた山菜を使っておいしい創作料理を出しているなど、
魅力的なところがたくさんありました。
でも、観光地という名前に頼って、それに寄りかかっている間は、
旅館業の本質に目覚めることはありません。
宿は本来、お客さま一人ひとりを大切にして、
心地よく過ごしていただくところです。
ですから、この観光地を有名にして人を呼ぼうと考えるよりも、
いかに喜ばれる宿になるかを考えていけばいいだけです。
たとえば、近くに湧き出る湧水を持ち帰ることができるとか、
名産品をお土産として差し上げるなど、いろいろなアイデアがあります。
ありとあらゆる仕事、すべてにおいて言えますが、
人に喜ばれるために、
誠実な生き方を、ただ淡々と積み重ねていけばいいのです。
そこで力む必要もないし、気合いを入れる必要もありません。
ただ、どうしたら喜んでもらえるかだけを考えて仕事に取り組んでいくと、
それが誠実な生き方になります。
ですから、観光客を増やして、
結果としてその宿の売り上げを伸ばそうという考え方は、
方向が違うと思います。
どんなにその観光地が有名になっても、
宿そのものがきちんとしていない限り、
お客様は「また来たいな」とは思わないでしょう。
逆に、その観光地のことをまったく知らなくてもいいから
「あの山奥にある温泉宿は、ものすごくいいよね。
あそこには、毎年行かないと損だよね」と
言われるような宿づくりをしていくと、
観光地の人気に関係なく人は来てくれます。
その人の誠実さが、人を呼ぶのです。
立地条件が悪かろうが、キャリアが少なかろうが、問題ではありません。
誠実さを考え方の中心に置いて、愚直にやり続けていくと、
必ずその仕事は長く続いていくようです。
<『宇宙法則で楽に楽しく生きる』廣済堂出版>
・・・
地域の活性化というと、多くの市町は、
その町や商店街に観光客や県外のお客さんを呼ぶことを考える。
しかし、いくら町や商店街にお客さんを
イベントや広告などでお客を呼んだとしても、それは一過性のものでしかない。
その町や商店街の中に、何軒か、ピカッと光る魅力的な商店や、
飲食店がなければリピートはされない。
リピートの本質は、その商店街や飲食店に行くというより、
むしろ、その店の「面白い人」や「魅力ある人」に会いにいく。
「面白い人」や「魅力ある人」は、
人に喜ばれるために、誠実な生き方を、ただ淡々と積み重ねている。
人に喜ばれる生き方をしている人だ。
その店が、どんなに立地が悪かろうが、小さな店であろうが、質素な店であっても、
そこの「面白い人」や「魅力ある人」にまた会いたいと思う。
逆に、どんなにいい立地で、豪華でお金のかかっている店でも、
サービスや対応がぞんざいで、主人やスタッフの愛想が悪くて、
雰囲気が暗い店には、リピートはない。
人に喜ばれない生き方をしている人だ。
どんな仕事であろうと…
人に喜ばれるために、誠実な生き方を、
ただ淡々と積み重ねていける人でありたい。
<感謝合掌 令和6年7月7日 頓首再拝>
日常生活に道を現す日 - 伝統
2024/07/13 (Sat) 10:16:41
*「光明道中記」(7月13日)より
【本当の美しさと云うものは
深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
(『生命の實相』第十五巻)】
五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は
慧能を学ぶが好いのである。
禅とは変な、日常生活に適用せぬような奇警(きけい)な警句を
吐いて問答し、奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの
妙(みょう)を得ることだと思っていれば、
それは大変な間違である。
米を搗(つ)くのが禅であり、
掃除をするのが禅であり、
飯を炊(た)くのが禅であり、
茶を淹(い)れるのが禅である。
禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。
茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、
足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって
「茶道」には達せぬのである。
「茶の淹れ方」は
茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、御飯を焚(た)いても
硬軟その所を得なかったりするのでは何にもならぬ。
御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。
一芸に名人と謳(うた)われるような人は
何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。
「道」は万(すべ)てに通ずるが、
「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。
心得べきことである。
<感謝合掌 令和6年7月13日 頓首再拝>
平凡淡々が道なのである - 伝統
2024/07/14 (Sun) 10:49:41
*「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。
至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。
天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。
或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、
或る生長の家誌友に、
朝起きたら自分の寝床を畳むこと、机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むことの3つを
実行するように教えてそれを実行せしめたら、その近眼が癒えてしまったのである。
まことに平々凡々が道なのである。
ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。
道は病気になるものではないから、吾々の生活が
平々凡々何の変哲もないところに無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、病気は自(おのずか)ら癒えるのである。
<感謝合掌 令和6年7月14日 頓首再拝>
【相手に花をもたせよう】 - 伝統
2024/07/15 (Mon) 11:40:03
メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.9.5)より
(リチャード・カールソン氏の心に響く言葉より…)
気のもちようでふしぎなことが起きる。
「自分が、自分が」という思いをすっぱり捨てて
人に花をもたせると穏やかな気分になれるのだ。
人に注目されたいという思いがこうじると、
つい「私を見て。私は特別。私の話はあなたのよりずっとおもしろい」と
心の中で言ってしまう。
その心の声は口にこそ出さないまでも、
「私の業績はあなたのよりすぐれている」と信じたがっている。
注目されたい、尊敬されたい、
特別な存在に思われたいといった私たちのエゴは、
しばしば他人を犠牲にしてしまう。
人の話をさえぎったり、一刻も早く自分のことを話したい
というエゴは、だれの心にも巣くっている。
程度の差こそあれ、残念ながらほとんどの人がそうだ。
話に割り込んで自分の話題に変えるのは
相手の喜びを奪うと同時に、相手とのあいだに距離をつくる。
みんな敗者になってしまう。
こんど人の話を聞く機会があったら、
自分のことを口にする癖がないかどうか確かめてみよう。
これはけっこう断ち切るのが難しい癖でもあるが、
相手に花をもたせるようにつとめると、
楽しいだけではなく心がくつろぐ。
話の途中で「ぼくもそうだったよ」とか
「今日なにがあったかわかるかい」と
言いたい気持ちをぐっと抑えて、
「それはすごいね」とか
「もっと聞きたいな」と言うだけにする。
相手は楽しいばかりかじっくり話を聞いてくれていると感じ、
あなたと競争しなくてもいいんだと気が楽になる。
するともっと自信がついて、話はさらにおもしろくなる。
あなたもまた自分の番を待っていらだつことなく、
ゆったりできるというわけだ。
もちろん、いつも相手をたてるだけではなく、
お互いに経験を分かち合って花をもたせ合うことも必要だ。
私が言いたいのは、
相手から花をもぎとりたいという衝動を抑えることが
大切だということだ。
その衝動を抑えると、人から注目されたいという願望は、
相手に花をもたせてあげられるという静かな自信にとってかわる。
<『小さいことにくよくよするな!』サンマーク出版>
・・・
人は、多かれ少なかれ、程度の差こそあれ、
「自分が、自分が」という思いを持っている。
「あなたの話より、私の話の方が面白い」
「自分はもっと知っている」
「自分は本当はすごいんだ」と、
他人から認めてもらいたい気持ちだ。
もっと、自分のことを、
評価して欲しい、
共感して欲しい、
ほめて欲しい、
肯定して欲しい、
気にかけて欲しい、
という「承認欲求」だ。
その最も分かりやすい例が、
相手が話をしている最中なのに、
話をとって、自分の話を始めてしまうこと。
そのために必要なのが
「相手に花をもたせる」こと。
◎相手が話をしているときは、
自分が言いたいのを我慢して、言い終わるまで絶対にしゃべらない
と決めること。
◎意見が食い違ったときは、
相手をやりこめたり、反論するのではなく、
「ああ、なるほど」とか
「ホントだね、あなたが正しいよ」、
とスルーしたりよけたりする。
周りの人は、その状況をよく見ている。
「ああ、あの人はさっと引き下がって、相手に花をもたせた。利口だね」と。
「相手に花をもたせよう」
という言葉を胸に刻みたい。
<感謝合掌 令和6年7月15日 頓首再拝>
道を歩む日 - 伝統
2024/07/16 (Tue) 12:02:36
*「光明道中記」(7月16日)より
【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】
趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。
ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。
「道は牆(かき)の外にあり」
(《そら》其処に道があるじゃないか)と趙州は答えた。
「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。
人間の歩む大道(たいどう)のことです」
と修行僧は言った。
「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」
と趙州は答えた。
道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。
人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。
手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、
廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。
至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う
とはよく言ったものである。
<感謝合掌 令和6年7月16日 頓首再拝>
知的に理解できないからといって、必ずしも否定はできない - 伝統
2024/07/17 (Wed) 11:25:07
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月17日)より
今の段階において、われらが知的に理解しえないものといえども、
必ずしも存在を否定することはできない。
野蛮人には電子も、電波も、ラジオも知的に理解しうるものはない。
しかし、われらはそれを知的に理解しうるのである。
人類がもっと知的に進歩してきた時には、現在「奇蹟」と認められている物事も、
ただ尋常茶飯事としてわれらは驚かぬようになるであろう。
それはあたかも、われらが、野蛮人の驚くラジオ・セットを尋常茶飯事として
少しも驚かないのと同じことである。
<感謝合掌 令和6年7月17日 頓首再拝>
行届いた生活の出来る日 - 伝統
2024/07/18 (Thu) 11:15:14
*『光明道中記(7月18日)』より抜粋
【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】
「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、
ひとり自室に招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒する
その深く切なる心遣いが禅なのである。
慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、
夜に慧能を訪れて法衣を譲ると、夜のうちに姿を隠して
落ちのびるように注意した其の深くこまやかな心遣いが禅なのである。
茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、
割烹と言えば、料理をする手先の技巧だとのみ思い、
禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。
行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、
禅の悟りこそ生長の家の悟りである。
<感謝合掌 令和6年7月18日 頓首再拝>
他を軽んじてはならない - 伝統
2024/07/19 (Fri) 11:42:57
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月19日)より抜粋
ひとの優劣を自分の尺度で推し測ってはならない。
自分が愚劣な心を持つから、ひともまた愚劣であろうと思ってはならない。
自分が動物的な欲望の支配下にあるから、
ひともまたかくのごとくであろうと思ってはならない。
自分のうちに悩みがあるから、世界中の人はすべて悩んでいるのだ
と思ってはならない。
本当に他人の偉大さがわかる者は、自己がそれだけ偉大であるのである。
自分の魂の高揚しただけのものを、われわれは他において見るのである。
釈尊のすぐれた人格を知る者は、
自己のうちに存在する釈尊がそれを知るのである。
釈迦やキリストといえども、時には悩み、苦しんだであろうと考える者は、
聖者を引きずり下ろして自己と同等のレベルに置こうとする卑怯者である。
彼は一種のエディプス・コンプレックスの虜囚(とりこ)なのである。
自分よりすぐれた者の存在を知ることが、
自己の驕慢心にとってたえがたい屈辱感になるのである。
われわれは、かくのごとく、ひとを引きずり下ろす醜(みにぐ)き心を去り、
自己があくまでも向上して、美しき人類の理想を成就することによって
聖者と等しきレベルにまで到達しなければならないのである。
大海に溺れつつあるある者どもが、お互いに他を引き下ろして、
それによって、自己が浮き上がろうとするのは醜悪である。
他を賤しめ軽んずることによって、
ひそかに自己を偉大ならしめようと努力するくらい
みじめな動物的行為はないのである。
他を軽んずることは、自己を軽んずることである。
他を醜くすることによって、まっさきに自己が醜くなるのである。
『従容録』には自分の口を血に染めて他人に吹きかけると書かれている。
<感謝合掌 令和6年7月18日 頓首再拝>
怒りの仕組みを理解して穏やかに生きる - 伝統
2024/07/20 (Sat) 09:21:05
怒りの仕組みを理解して穏やかに生きる《神人さんとの対話》
和仁チャンネル(2024.7.12)
https://www.youtube.com/watch?v=BJt7Ywe4sVA
7分頃から該当
<感謝合掌 令和6年7月20日 頓首再拝>
深切丁寧の日 - 伝統
2024/07/25 (Thu) 12:22:11
*『光明道中記(7月25日)』より
【大我は無数の個我を包容し生かしつつそれ自身は絶対的存在なのである。
大我を「神」と称し、個我を「神の子」と称する。 (『生命の實相』第九巻)】
物凄い勢いで、南支那一円の禅道場をかい撫(な)でに論破して歩こうと
思っていた青年気鋭の徳山も、山の掛茶屋(かけちゃや)の餅売の婆さんに
問答をし掛けられて、眼を白黒させて、餅を食わないで逃げ出してしまった。
餅売の婆さんは彼を看送って、
「まだそんな事では修行は足らぬ。
竜潭と云う偉い先生がいるから其処で修行せよ」と言った。
徳山は青年気鋭のその心の角がとれていない。
竜潭和尚のところへ行くと、早速例の癖が出た。
『竜潭竜潭と云うが、来て見れば何のことじゃ、竜も見えず、潭も見えず』
と大声に呼ばわった。
『汝親しく竜潭に到るや』
実にやわらかい親しみのある声が屏風(びょうぶ)の陰からした。
竜潭と徳山では段がちがう。
(心の眼を開けば此処が此の儘竜潭であり、竜宮城である。)
気鋭の徳山もまいってしまって礼拝せずにはいられなかった。
生(なま)さとりの者ほど偉そうに悟りを振り回すが、
悟ってしまった者は誰にでも慇懃丁寧(いんぎんていねい)に
挨拶することが出来るのである。
その慇懃丁寧の中に神が現れ、仏が現れているのである。
徳山も思わず竜潭を礼拝したのだ。
『夜に入って来られよ』と竜潭の優しい声がする。
<感謝合掌 令和6年7月25日 頓首再拝>
何かの区切りを付けたいと思うのも執着 - 伝統
2024/07/26 (Fri) 12:41:07
何かの区切りを付けたいと思うのも執着
伊勢ー白山 道(2024-07-26)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/b93d6b42ea36886d2a673e7f450312da
<感謝合掌 令和6年7月26日 頓首再拝>
丁寧深切 ―― 礼拝 - 伝統
2024/07/27 (Sat) 10:08:20
*『光明道中記(7月26日《光を内に見出す日》)』より
【全体として調和した生活を営むのが「生長の家」の生活である。
(『生命の實相』第八巻)】
徳山は、約束した通り夜になって竜潭(りゅうたん)をたずねて教えを受けた。
教えを受けて帰ろうとすると、竜潭は親切に弟子を見送って出た。
手には手燭(てしょく)を持って足許(あしもと)を照らしながらである。
「外は暗いから気をお着けなさいよ」と云って、
竜潭は手燭を徳山に渡そうとした。
徳山はその手燭を受け取ろうとするとき、
竜潭はフッとその手燭の火を吹き消した。
そこは黒暗々であった。
一切無であった。
差別界のものは、ただ相対的に斯く見えるだけであった。
徳山は悟ったと思った。
その徳山の悟りが、どの程度のものであったかはその悟ったと称する直後、
為山(いさん)老師の法堂へ跳び込んで行って
『東より西に過ぎ、西より東に過ぎ、顧視(こし)して無無と云って出ず』
と碧巌録第四則にある記事で、略々(ほぼ)勘破(かんぱ)することが出来る。
碧巌録の編集者、雪竇(せっちょう)はこれを批評して
『勘破了也(かんぱしおわれりや)』と言っている。
悟ったほどのものがこんな乱暴な無作法なことをする筈はないのである。
徳山自身も『これは可(い)かぬわい』と気がついた。
そこで『威儀を具(そな)えて再び入(い)って相見(あいまみ)ゆ』とある。
挨拶を終わると、徳山は坐具(しきもの)を手にして、先ず『和尚』と言った。
問答の気合(きあい)である。――
・・・
*『光明道中記(7月27日)』より
~心の角(かど)を除去(とりさ)る日
【観世音菩薩でも夜叉に対しては夜叉の形相を以て現れる。
(『生命の實相』第十五巻)】
為山老師は、問答の気合いを感じて、
払子(ほっす)を取って泰然と構えようとするとき、
徳山は、『カーッ』と一喝すると、そのまま袖(そで)を払って
法堂を出て往(い)った。
こんな事を禅の修行だとか、道場破りだとか思っている者があったりするから、
禅などと云うものは、吾々日常生活には何の関係もないことだと思いまちがえられ、
十年禅林にいて修行しても、実生活を生かす道を知らない。
禅臭い禅は何にもならない。禅が実生活に生きるのが真禅だ。
為山老師はその晩、弟子たちが集ったとき
『あの新参の若僧は何処へ行ったのかな?』と訊いた。
「風呂敷を背負ってどんどん向こうへ行きました」弟子の首座(かしら)が答えた。
これは甚だ善い回答である。
当たり前のことが当たり前に答えられるのが悟りである。為山老師は、
「徳山は頭が良いが気の毒なものだ。
調和の中に真理があると云うことを知らないのだ。
あれは独り偉がりであって、弧峰頂上に向かって
草庵を盤結(はんけつ)して仏を呵(か)し、
祖を罵(ののし)り去ることを始めるだろう』と嘆かれた。
呵(せめ)るのが禅ではない。丁寧深切 ―― 礼拝が禅である。
<感謝合掌 令和6年7月26日 頓首再拝>
神のない快楽 - 伝統
2024/07/28 (Sun) 11:49:05
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月28日)より
神のない快楽は、根を切った切花のようなものである。
やがてそれは打ち萎(しお)れ、
どす黒い苦い苦しみに変わってゆくものである。
<感謝合掌 令和6年7月28日 頓首再拝>
啐啄同時 - 伝統
2024/07/30 (Tue) 08:54:32
*『光明道中記』(7月30日《随所に主(ぬし)となる日》)より
【これは絶対真理、これは対気説法であると云う区別を知って
絶対真理を摑(つか)むようにしなければなりません
(『生命の實相』第十五巻)】
雲門と同時代の禅僧で、法眼宗の開祖である法眼和尚と云う人がある。
なかなか対機説法の上手な人である。
対機説法と云うものは中々難しい。
小学生に大学の講義をしても分らぬ。
猫に小判、豚に真珠である。
大学生に小学の講義をしたのでは判るには違いないが、
面白くないから逃げ出してしまう。
それは啐啄同時(すいたくどうじ)でなければならぬ。
啐(すい)は雛鳥が内からつつくことである。
啄(たく)は親鳥が外から啄(つつ)くことである。
中から出ようとしている悟りのちょうどそこを説いて
引っ張り出してやるようにしなければならない。
児童の教育でも才能が出ようとしている、
その点をその時期を失せずほめて引き出すのが骨(こつ)である。
これが出来なければ教師となり導師となることは出来ない。
禅の真理と同一の真理を説いても、生長の家では病気が治ったり、
他の宗教では病気が治らなかったりするのは、真理が異なるからではない。
雛鳥が内部から啐(つつ)こうとしている其の場所を
ちょうどこちらから啄くからである。
さて或る僧が法眼和尚に問うた。
『如何なるか是れ仏』
法眼はその刹那に答えた『汝は是れ慧超(えちょう)』と。
それによって慧超は悟ったのである。
<感謝合掌 令和6年7月30日 頓首再拝>
打てば響くが仏道なり - 伝統
2024/07/31 (Wed) 10:34:47
*『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より
【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
(『生命の實相』第十五巻)】
「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。
剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。
「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。
「如何なるか是れ仏」の問いに対して
『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、
仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、
仏が仏であり、始めから成仏しているのが仏であり、
衆生本来仏であると云う意味なども、
この端的の語(ことば)の中に一切が引くるめられているのである。
楠木正成公がまだ若かった頃、
奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。
その雲水に正成公が
「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。
すると、その老僧はそれに応えないで、
「正成! 」とあらためて楠公の名を呼んだのである。
「ハイ」と楠公は覚えず応えた。
「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。
『爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、
恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。
打てば響くが仏道である。
<感謝合掌 令和6年7月31日 頓首再拝>
「証上の修」 - 伝統
2024/08/08 (Thu) 10:59:17
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月8日)より
知的に知ることと、信仰的に知ることと、それを思念することとは、
いずれも別のことである。
知的に知っても信仰的に信じていない人もあるし、
信仰的に信じていてもそれを知的に知らない人もある。
知的に知り、同時に信仰的に信じながら、
なおかつその人から不幸が消えないならば、
それは思念が足りないのである。
思念は一種の実行であり、力であるのは、
油田を掘鑿(くっさく)するようなものである。
科学的にここに豊富な油田があることを測定しえ、
そして石油の存在を信念的に信じていてさえも
掘鑿しなければ石油が噴出しないのと同じように、
『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、
神そのままの分け”いのち”にて完全なることを知り、
信仰的にそれを信ずるとも、神想観を修しなければ、
その実相の完全さが実現しないことがある。
道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。
真宗でも、どうしないでも救ってくださっている
阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。
<感謝合掌 令和6年8月8日 頓首再拝>
「道は邇(ちか)きにあり」 - 伝統
2024/08/10 (Sat) 11:53:27
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月10日)より
世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。
食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが自分にとって最も消化しやすい栄養であるのである。
手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。
古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。
邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものはついに天国に到ることができないのである。
「道」は ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。
何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。
真理は平凡であり、太陽は毎朝東から差しのぼってなんの変哲もないがゆえに偉大なのである。
<感謝合掌 令和6年8月10日 頓首再拝>
仕事や人間関係で「なぜか人生うまくいく人」になる方法3つ! - 伝統
2024/08/21 (Wed) 13:01:53
仕事や人間関係で「なぜか人生うまくいく人」になる方法3つ!
Web:GetNavi (2017/5/28)
https://mainichi.jp/articles/20170528/gnw/00m/040/004000c
(以下は抜粋です)
(1)なぜかうまくいく「お金編」
①なぜかうまくいく人は、大切な人との「思い出」にお金を使う。
②喜びとともに、お金を使いましょう。自然とお金が戻ってきます。
③お金を使うことを恐れず、
満たされた心を手に入れるために、有意義にお金を使おう。
(2)なぜかうまくいく「仕事編」
①なぜかうまくいく人は、職や資格より、人柄を磨く。
②「人が困難にぶち当たったとき、最後にものを言うのは、
資格でも、技術力でも、知識の豊富さでも、経験の多さでもなく、
その人の”人柄”、つまり、考え方」なのだ
③将来が心配であれば、人柄を磨き、人から好かれるような
「かわいげのある考え方」を身につけることが大切なのだ。
(3)なぜかうまくいく「人間関係編」
①なぜかうまくいく人は、「正しさ」にこだわらない。
②正義感って、ときに人を傷つけるんです。
「正しいこと」ではなく、「よいこと」にこだわりなさい。
よいこととはつまり、人に嫌な思いをさせないこと。
<感謝合掌 令和6年8月21日 頓首再拝>
伸びるしかない - 伝統
2024/08/23 (Fri) 11:26:28
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月23日)より
不満足さえも、またまことにありがたいことではある。
不満足があるので、われわれは信仰に志し、
真理に到達し、救われることができたのである。
不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、
「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。
陰極陽転の理は昭々として明らかである。
資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。
不足は増大の本である。
窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。
人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。
<感謝合掌 令和6年8月23日 頓首再拝>
自分の解釈一つで、全てが決まっている世界 - 伝統
2024/08/24 (Sat) 12:20:00
自分の解釈一つで、全てが決まっている世界
伊勢ー白山 道(2024-08-24)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/f850f866b174aca6555a49e76f074061
<感謝合掌 令和6年8月24日 頓首再拝>
自己の内なる敵を殺す - 伝統
2024/08/27 (Tue) 11:19:44
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月27日)より
愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。
愛憎の心は妄心である。
妄心とは本来”ない”心である。
本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。
愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、
自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。
無敵流の兵法の極意はここにある。
<感謝合掌 令和6年8月27日 頓首再拝>
「良い人」をやめよう - 伝統
2024/08/29 (Thu) 09:23:12
「良い人」をやめよう
茶柱御殿(2024/08/27)
https://www.youtube.com/watch?v=DaZjgedFmBw
<感謝合掌 令和6年8月29日 頓首再拝>
悪を語らず、神の愛を循環させる - 伝統
2024/09/11 (Wed) 11:13:53
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より
人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。
外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。
万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。
われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。
かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。
<感謝合掌 令和6年9月11日 頓首再拝>
仏性を開発するには、善智識に遭い又は善き書物に触れることである - 伝統
2024/09/12 (Thu) 11:17:55
*「光明道中記」(9月12日《神に催される日》)より抜粋
【吾が生命は、よき水脈に穿たれた井戸のように汲めども尽きぬ。
(『生命の實相』第十一巻)】
而も仏性はどうして内部から開発され催して来るのであるのか。
善智識に遭い又は善き書物に触れることである。
善智識に遭い、善き書物に触れるのは「自己のつくれる過去の業」によるか
―― そうすれば、自力となるのである。
然らず、それは如来より廻施(えせ)せられたる機縁である。仏縁である。
仏縁おろそかならず、善智識はその人にとり弥陀であり、
善き書物はその人にとり弥陀の説法である。
<感謝合掌 令和4年9月12日 頓首再拝>
保身の術 - 伝統
2024/10/01 (Tue) 10:57:54
*「光明道中記(その身まったし)」(10月はじめの言葉)より抜粋
あらわれて出ることだけを知って
隠れることを知らない者は自己を滅ぼすのである。
緊張ばかりを知って弛緩の道を知らない者も自己を滅ぼすものである。
昼のみあって夜なきときは人はついに滅びてしまうのであろう。
みずからを護る術を知る者はよくみずから隠匿する者である。
水遁、火遁、自由自在にして、変幻出没するものでなければ、
大をなすことは出来ない。
(中略)
保身の術は自ら韜晦(とうかい)して顕れざる位置に隠れ、
人を押し上げて人をも生かし、自分も生きるのである。
自分が暫く顕れることを焦ったために、
自分自身が出る杭として壊滅するのみかは、
自己に頼っていた幾十万の人々を帰趨する処なからしめる。
その人のためを思いて顕われた位置に置かない
私の心を汲むものは稀である。
<感謝合掌 令和6年10月1日 頓首再拝>
【人間関係をうまくやるコツ】 - 伝統
2024/10/03 (Thu) 11:11:22
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.9.7)より
(内藤誼人(よしひと)氏の心に響く言葉より…)
ストレスの原因には、いろいろなものが考えられますが、
私たちにとって一番のストレスといえば、
やはり人間関係ではないでしょうか。
ということはつまり、人間関係をうまくやるように心がけて
生活していれば、現在自分が感じているストレスを、半分、
いや、8割くらい解消できるかもしれません。
では、どうすれば
人間関係を円満にできるのでしょうか。
何も特別に難しいことをやる必要はありません。
ただいつでもニコニコと微笑んで、愛想をよくしていればいいのです。
たったこれだけのことで、
どんな人との関係もたいていうまくいきます。
シカゴ大学のウェンディ・レヴィンソンは、
プライマリーケアの開業医59名と、外科医65名にお願いし、
それぞれ1人につき10人の患者との
やりとりを録画させてもらいました。
次にレヴィンソンは、
患者からクレームをつけられたことが一度もない医者と、
2回以上クレームを言われたことのある医者の2つのグループに分けて、
患者とのやりとりを分析してみました。
すると、患者さんと好ましい関係を築いていて、
一度もクレームをつけられたことがない医者は、
診察中によく笑い、親切にし、相手にたくさん話をさせる、という
特徴があることがわかりました。
とにかく微笑んでいれば、
医者と患者との関係はうまくいくのです。
患者にクレームをつけられる医者は、
無表情であるとか、不機嫌そうな顔を
していることが原因だとわかりました。
これは医者と患者の関係に限りません。
どんな業界の、どんな仕事をしている人でも、
とにかくふだんからニコニコして人と接するようにしておけば、
人間関係がおかしくなることはありません。
どんな人ともうまくいく方法が、笑顔を見せることなのです。
「面白くもないのに、そんなにヘラヘラ笑っていられるか!」と
感じる人もいると思うのですが、
面白いことなどなくとも、
笑顔はどんどん見せたほうがいいのです。
レヴィンソンの研究でも、
笑顔のない医者ほど患者からクレームをつけられることが多かったのです。
いつでもとびきりの笑顔を、出会う人すべてに見せてあげてください。
それだけで 人間関係はうまくいきますし、
人間関係でのストレスもかなりの程度まで減らせます。
<『イライラ・不安・ストレスが おどろくほど軽くなる本』明日香出版社>
・・・
小林正観さんは、「投げかけたものに囲まれる」という。
笑顔を投げかければ、笑顔に囲まれる。
不機嫌を投げかければ、不機嫌に囲まれる。
いつも、不機嫌で、しかつめらしい顔をして、暗くて、愛想がない人は、
人間関係はうまくいかない。
そして、人からの人気もない。
しかし、いつも、上機嫌で、明るくて、愛嬌(あいきょう)があって、
笑顔の人のまわりには、人が多く集まる。
魅力があって、人気もあるからだ。
人間関係をうまくやるコツ…
いつも、上機嫌で、とびっきりの笑顔が出せる人でありたい。
<感謝合掌 令和6年10月3日 頓首再拝>