伝統板・第二
先祖供養 ⑥~祖先供養の手引き」 - 伝統
2023/12/01 (Fri) 12:08:17
”道産子 さま” ありがとうございます。
昨日、道産子さまによる投稿が終わりました
「昭和四十八年「生長乃家」誌十一月號~
祖先の佛性を開顕するためにー祖先供養の手引きー」を、
このスレッドに独立させて、残させていただきます。
(道産子 さま へのお願い
この法語は、明示されていなかったので、不明ですが、
昭和四十八年「生長乃家」誌十一月號~でよいかどうかを
教えていただければと願っております。)
”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
(https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8347553 からの転載です)
【一日の法語 祖母と孫娘との間の断絶】
近頃は、親子の關係が断絶時代だといはれてゐる。
子供は親から離れて自分の自由な生活をしたく思つてゐる。
生活樣式が全然異なるのである。
私は最近NHKテレビの『北の家族』といふテレビ劇を見てゐるが、
しずといふ娘が北海道から、父親の失敗が原因で零落して
母と共に金澤に住んでゐる祖母の家へ身を寄せることになつた。
祖母の家はその地方でも素封家であつたと見えて、
祖母は歸つて來た孫娘しずに、生け花や茶道を教へて舊家の娘らしく
オットリと育てたいと思ふ。
自分の家のやうな舊家の娘が、働きに出るなど言ふ事は、
家の格式からいつても耻(はぢ)になるといふので、働くことに反對して、
茶や花を習はせることにするが、
しずは祖母の考へとは反對に、働くことは立派な事で、
何も祖母の厄介になつて縛られる必要はないと、
或る大工の二階を借りて、自分の母の女學校時代の友達だつた
醫者の家に看護の見習のやうな仕事を、折角、祖母が習はせてくれてゐる
お茶もお花も勝手に斷つて、タイプライタ-と速記を習ひ始めたというのである。
そして事毎に祖母にとつて卑しい仕事であると思へることをするのである。
祖母にとつては自分の孫娘を、かうもしてやりたい、ああもしてやりたい
と思ふけれども、誠に自由にならぬのが、現代の若い人たちである。
時代の相異を喞(かこ)つ祖母の寂しさと、悲しさがよく出てゐる作品である。
・・・
<関連Web>
(1)本流宣言掲示板「先祖供養」
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=733 (消滅)
(2)「光明掲示板・第一」スレッド「先祖供養 (125)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=63
(3)「光明掲示板・第二」スレッド「先祖供養 (96)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=45 (消滅)
(4)「光明掲示板・第三」スレッド「先祖供養 (511)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=128
(5)伝統板・第二「先祖供養」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6539638
(6)伝統板・第二「先祖供養 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7704087
(7)伝統板・第二「先祖供養 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7838046
(8)伝統板・第二「先祖供養 ④」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8230640
(9)伝統板・第二「先祖供養 ⑤」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8346660
<感謝合掌 令和5年12月1日 頓首再拝>
【二日の法語 祖父母として又、父として母として】 - 伝統
2023/12/02 (Sat) 10:44:16
こんな孫娘を持つた祖父母や、又そんな自分の子供を持つた父母にとつて、
子供のそのやうな考へ方の相異は、やりきれない淋しさであると思ふ。
けれども父母や祖父母はその寂しさや悲しみに耐へなければならないのである。
現代のやうに戰後の思想の移り変はりの激しい時代でなくても、たとひ、
それは過去の封建時代であつても、若い人は、自分で獨自の生活を歩まうとした。
それが出來ない時には、若い男女が情死までした。
或は勘當されて親子の縁を切られて
その家から放逐される若い人たちもあつたのである。
封建時代でさへ年齢の相異から來る親と子の考へ方の相異から來る
悲劇といふものは起りがちであつたのであるから、況んや、
家族制度が占領憲法によつて破壊された戰後の時代に於て、
祖父母と孫との精神的斷絶や、親子の考へ方の相反といふ事が
激化して來るのは當然である。
祖母として孫娘が生きて行かうととする道が脱線車輌に見えて
心配になつたり、自分の息子や娘の生活が、親の考へとは違ふ方向に
向いて行かうとするのが間違ひのやうに見えるのも無理はないのである。
さて、そのやうなときに、子ど親たちの先輩としての老人が、
またその息子や娘の保護者である父なり母なりが、その若い人たちに、
どのやうな氣持ちになつて彼らが間違ひの道を歩かないやうに、
正しく導いてやるのにはどうすればよいだらうか。
それを讀者と共に考へて見たいのである。
<感謝合掌 令和5年12月2日 頓首再拝>
【三日の法語 佛性・内在のキリスト・人の内にある聖靈】 - 伝統
2023/12/03 (Sun) 12:36:56
わたしの机の上に舊約聖書が置かれてをり、
「ヨブ記」といふところが開かれてある。
「ヨブ記」の第三十二章六節に靑年エリフが次のやうに言つてゐるのである。
「我は年少なく、汝らは年老いたり。是をもて我はばかりて、
我が意見(おもひ)を汝らに陳(の)ぶることを敢てせざりき。
われ意(おも)へらく。
日を重ねたる者、よろしく言を出だすべし。
年を積みたる者宜しく智慧を教ふべしと。
但し人の裏には靈あり。全
能者の氣息(いき)人に總明を與ふ・・・・・」
エリフの此の言葉の意味を現代語で簡單に言ふならば、
「私は年若いものであるから、遠慮して自分の意見を陳べなかつた
のであるけれども、人の内には”靈”が宿つてゐる。
その霊といふのは全能者の聖靈であつて
人に總明なる智慧を與へ給ふのである」
といふやうな意味である。
この考へは、佛教の「一切衆生悉く佛性有り」といふ教へに通ずるものであり、
キリスト教の「内に宿るキリスト」(内在のキリスト)の思想の萌芽が
既に舊約聖書にあるとも言ひ得るのである。
<感謝合掌 令和5年12月3日 頓首再拝>
【四日の法語 生きて歩む宗教】 - 伝統
2023/12/04 (Mon) 10:42:20
佛教も、舊約も、新約も、人の内に宿る聖靈又は如來が存することに於て
一致するのであるが、それが單に學説として、一種の宗教哲學として、
單に人間の知的理解の對象となつてゐるだけでは
人間を具體的に救濟することは出來ないのである。
生長の家が一宗一派を唱へず、あらゆる宗教に共通する眞理を説きながら、
「一切衆生悉く佛性有り」の”佛性”を實生活に活用するやうに
教へるところに獨特の發展があるのである。
つまり生長の家の特色を通俗語をもつて表現するならば、それは、
實生活に生きて歩む宗教であり、實用的佛教であり、生活應用キリスト教
であるといふ事である。
<感謝合掌 令和5年12月4日 頓首再拝>
【五日の法語 時代の相異で子供が脱線したやうに見える場合】 - 伝統
2023/12/05 (Tue) 11:47:12
さて、自分の孫や、自分の息子又は娘が、時代の相異と共に、
祖父母や父母から見ればいかにも脱線したやうに見える生き方をし、
危険な方向に歩んで行きつつあるやうに見える時、
そして年の功を經た先輩として年少者にに助言をしてやっても、
年少者は頑として自分の考え及び生き方を變へやうとしない時、
この”一切衆生悉く佛性有り”の佛教哲學を應用して、
その年少者の脱線を復舊させるためにはどうすればよいのであらうか。
それは”佛性”は如來なのであるから、その子供に宿るところの
如來の全智に信頼して、その如來を聖經讀誦と神想觀とによつて
拝み顯(だ)すのがよいのである。
祖靈に感謝の聖經讀誦をつづけてゐると、
祖靈の守護の霊力が殖えて子供が良化することがある。
<感謝合掌 令和5年12月5日 頓首再拝>
【六日の法語 靈祭の儀禮には必ずしも一定の形式はない】 - 伝統
2023/12/06 (Wed) 09:49:29
本部で催される白鳩會の月例會に出席すると、度々
祖先の霊魂をどのやうにして祀ればよいか、
墓を移轉したいがどうすればよいかなどと、
靈魂祭祀の問題についてきかれるのである。
靈魂も生きてゐるのであり
ひとりひとり個性があり嗜好も趣味も違ふのであり、
どのやうな形式でお祀りしてあげることが、
その霊魂に取つて滿足であるかは、いちいちの場合について
それぞれ異なることであるから本當は概括的に書くことは出來ないのである。
白鳩會の質問に対して同じやうな質問に対して
私は全然異なる解答をすることもある。
迷つてゐる靈魂に對する處置と悟りを開いてゐる靈に對する處置とは
自然に異なつて來るからである。
そんな處置の問題よりも大切なのは
『死』といふことは如何なることかと先ず知ることが大切なのである。
”死”といふことが如何なることかを知らないで、
死者の靈を祀るといつても、
それは祭祀の基礎を失つたことになるのである。
<感謝合掌 令和5年12月6日 頓首再拝>
【七日の法語 大往生と斷末魔の苦痛について】 - 伝統
2023/12/07 (Thu) 11:32:16
靈界には修行の足りた靈と、修行の未熟な靈とがあり、それに從つて、
肉體を脱して彼が靈界に往つた時の狀態が違ふのである。
修行の足りた靈は、ハッキリとした意識を持つて肉體を脱し、
自分が今しがた脱した肉體といふ抜け殻を客觀的に見ることが
出來るのである。
肉體を脱するのに何らの苦痛をも感じない。
いはゆる大往生である。
そして靈界に移行してからも意識を持ちつづけて、
周圍の狀態を見たり聞いたりできるのである。
さうでない未熟な靈魂は、肉體の生前の三業(意業・口業・身業)の
不淨なるもの淨化せんがために、病氣の苦痛を經験する。
苦痛は淨化の過程である。
しかしある程度以上の苦痛は神の恵み深き攝理によつて、
”意識を失ふ”といふ方法によつて回避されることになつてゐる。
そして意識を失つた狀態で、
この靈魂は、靈界の待合室みたいな所に移行するのである。
<感謝合掌 令和5年12月7日 頓首再拝>
【八日の法語 滿中陰と五十日祭について】 - 伝統
2023/12/08 (Fri) 12:14:03
靈界の待合室は薄暗い世界である。
それは” 冥界”といふ語がふさはしいかも知れない。
其處に肉體を脱した靈魂は、肉體の病氣や屍臭の”移り香”の
不快臭を淨化するために、或る期間滞在せしめられるのである。
それを佛教では「中陰」と稱して、
また靈界のどの位置に行くべきか定まらない期間である。
それは大体七週間であり、
佛教では四十九日間とせられ
神道では死の直後より數へて五十日目とせられてゐるのは、
佛教も神道も根本的に一致してゐることを示してゐるのである。
四十九日間の中陰の期間を滿了すると滿中陰の法事があつて
生前の懇親者に御供養( 満中陰の志)を配る習慣になつてゐる。
神道では”五十日祭”といふ祭典が行なはれて、靈界の薄暗い
前室から解放されて、受持ちの高級靈の案内によつて
その霊魂が割り當てられた幽界の位置に伴はれて行き、
其處で修行することになつてゐるのである。
現實世界も、幽界及び靈界も、いづれも霊魂がその本來の”神の子”の
實相を研き出すための修行の場であることに變りはない。
<感謝合掌 令和5年12月8日 頓首再拝>
【九日の法語 冥界の照魔鏡について】 - 伝統
2023/12/09 (Sat) 10:41:06
四十九日間の淨化の期間が終つた霊魂は高級靈が靈波によつて作つた
スクリーンの前まで伴はれて行くのである。
彼はその淨化された心で、そのスクリーンに向ふと、そのスクリーンに、
彼自身が生前の一生涯に關して來たすべての生活が、
天然色映畫の如くカラーテレビの如く映し出される。
幽界の此の前室は、もう現實世界とは時間のサイクルが異なるのであるから、
極めて短時間とも言ふべき間に、彼自身の生涯の生活の實情を、
第三者的立場に於て、それを眼のあたり見るのである。
現實世界に於ては、彼は第三者ではなく、第一者として
自分自身が主人公として生活して來たので、
「これくらいな事は別に惡でも不淨でもない」と巌重には批判する
ことなしに我儘勝手次第に生活して來たのであるが、
今、かうして靈的スクリーンの前に立つて自分の一生涯の生活を
第三者として客觀的に見せられると、善惡判断の基準が公正になつて、
「この位の事は惡くない」と思つて生前に行爲したことがらでも、
「ああ、これも惡かつた。あれも惡かつた。
あんな汚い行爲をするのでなかつた」と懺悔の心が起るのである。
懺悔というのは心を洗ひ淨めるといふ意味である。
その懺悔の程度は、それぞれの霊魂によつて反應が異なつて、
必ずしも完全に悔改めが完了する譯ではない。
過去に色々犯し來つた惡業でも「惡かつた」と否定し、
「再び罪を犯すまい」と反省決意すれば、その蓄積された”業”が
着物を脱ぐやうに一枚一枚剥落して空中に消えて行くのである。
此の過去の行爲の一切を照らし出す靈的スクリーンを、
擬人的に閻魔大王と稱し又は神話的に”閻魔の廰”の照魔鏡と稱するのである。
そして「惡かつた、二度と再び犯すまい」といふ決意と共に、
惡業の蓄積が一枚一枚、剥落してゆく過程を、三塗の川の手前に
”脱衣婆“がゐて、亡者の着てゐる着衣を脱がせるといふやうな寓話が
佛教ではつくられてゐるのである。
何れも死者の靈がそこで過去の業が自己審判され、
消える業は消え、消えない業は其の儘に、その業の種類の善惡軽重に
したがつて三塗のうちの、どれかに行くことが定められて、
その霊魂は靈界での落着く修行場が決定せられるのである。
それを三塗の川を渡るといふのである。
<感謝合掌 令和5年12月9日 頓首再拝>
【十日の法語 三塗の川を渡つて我らは何處に行くか】 - 伝統
2023/12/10 (Sun) 09:39:19
三塗といふのは ”三途”とも書く、
肉體死後の行くべき”三つの途(みち)”であるからである。
それは普通、地獄道、餓鬼道、畜生道の三つの道のこと、
すなわち”三悪道”の事だと解せられてゐるが、
私はそのやうには解しないのである。
欲界色界無色界の三界だと解したい。
何故なら人間は皆三途の川を渡つて、地獄道、餓鬼道、畜生道に
落ちて行くより仕方がないのだつたら救はれやうがないからである。
もつと立派な天國的な淨土に落ちつく靈魂もあつて良い筈である
<感謝合掌 令和5年12月10日 頓首再拝>
【十一日の法語 幽界現實界の境】 - 伝統
2023/12/11 (Mon) 09:21:24
ここで私は、こんな素晴しい靈魂もあるのだといふ事を
『生命の實相』愛藏版第五巻”靈界篇”にある高級靈から
その子に寄越した”靈界通信”の一節を諸君に紹介したいと思ふのである。
この高級靈はその子に向つて、
「お前は私の語らうとするところの眞義を捉へ得るであらうか。
この眞義をすべての人類が捉へ得たならば、全世界は相(すがた)を
變へてしまふといふことがお前には解るだらうか・・・・・」
といつてゐるのである。
そんなに重大な眞理がこの靈界通信には盛り込まれてゐるのである。
彼の靈魂はその子の手を借りて、自動書記現象によつて
次の如く自分自身の臨終を書くのである。――
「私は街路で突然病氣に襲はれて病床に運ばれて、
そして其處で死んだのだつた。
家族の内でお前だけが、父の意識の最後の殘りがかすかに漂うてゐる
臨終に間に會つてくれたのだつた。
愛するわが児よ、私はお前を感じたよ。
お前といふものが、私の最期に浮かんだ”念”だつたのだ。
お前は私の手が力なくお前の方へ動いて行つて垂れ下がつたのを
思ひ出すであらう。それは私の現實界における最後の運動であり、
最後の力であつた。
そして私は現實界から没し去つて死んだのだ」
(これで、彼の肉體を通しての意識は消滅し、その次は肉體を脱した靈魂が、
現實界をのぞき込んでゐる意識に換はるのである――谷口註)
<感謝合掌 令和5年12月11日 頓首再拝>
【十ニ日の法語 思ひやりのある死者の霊の力】 - 伝統
2023/12/12 (Tue) 12:24:13
この父の靈は高級靈であるから、肉體を脱した直後、
直ぐ現實界を見ることが出來るのである。
それで次ぎのやうに自動書記現象で綴るのである。――
「私の愛する児よ、お前は立ちながら父親の肉體を覗き込んでゐた。
併しその時お前の心に浮かんだのはお前の不幸な母親のことであつて
私の事ではなかつた。
お前の魂は意識していなかつたが、
その考へは私の魂の中に織り込まれてゐて私と同じことを考へてゐたのだ、
”どうして此の哀れな母を助け、慰めてあげようか”と。
・・・・・彼女よりも先に私が他界するといふ事は
彼女にとつて實に殘虐な運命であつた。
それは彼女にとつて太陽が没したことになる。
絶望と悲嘆との極みが彼女を襲ふであらう。
(註。肉體を脱した父の靈は、その息子が何を考へてゐるかを
靈的知覺によつて知つてゐたのである。)
わが児よ、その時、お前の母親がやつて來たのだ。
・・・・・その時お前は母親の手を握りしめ、
彼女の腕を抱き上げた。
――さうしたのは本當はお前でなく、私だつたのだ。
お前は眼の前に横になつてゐる父親を忘れて母親に囁きかけた
――さうしたのは、本當は私だつたのだ。
私はお前に力を與へ、お前の母親に内から力を與へてゐた。
母がその夜お前が心配したやうに悶絶もせず
悲しみに耐へることが出來たのはそのためだつたのだ」
(『生命の實相』愛藏版第五巻靈界篇136頁、携帯版第十巻107頁)
<感謝合掌 令和5年12月12日 頓首再拝>
【十三日の法語 祖先靈を祀ること】 - 伝統
2023/12/13 (Wed) 09:44:19
死者の靈はこのやうに現實界の人々にも力を及ぼすことができるのである。
諸君は祖先の霊の祭祀のことを思ひ浮かべることがあつたり、
氣にかかつたりするならば、それは祖先(亡父母を含む)自身の
祭祀して貰ひたい意識があなたの意識の中に織り込まれて
ゐるからなのである。
だから、さういふ考へが起つて來た時にはお仏壇のない家庭なら
お仏壇を買つて來て祀つてあげるがよい。
<感謝合掌 令和5年12月13日 頓首再拝>
【十四日の法語 靈界への移行と死後の靈魂の狀態】 - 伝統
2023/12/14 (Thu) 10:34:55
このやうな高級靈の特殊の狀態は別として、
一般普通人の靈魂の肉體死後、間もなくの狀態は、
現實世界の臨終の狀態の續きの狀態を經驗するのである。
心境が急激に變はることはないからである。
靈魂が肉體を脱皮して新たなる境涯に入る過程は、
毛虫が蛹の狀態から脱皮して翅の生えた蝶の狀態に移行する
過程にも似てゐる。
それは”靈界への出産ともいふべき狀態で、出産の陣痛とでも言ふべき
斷末魔の苦しみを經驗する。
(もつとも悟境に入つてゐる靈魂は既に述べたやうに無痛分娩とでも
言ふべき安樂の狀態で、意識を持續しながら靈界へ移行する)
斷末魔の苦しみを味はふ靈魂は、神の慈悲によつて、
或る程度以上の苦痛を免除して、
或る期間(ひとにより長短があり、間もなく意識を恢復する者もいるが、
長きは數十年にわたり人事不省のまま継續するのもある)
それは各自の過去の業因の相異によつて業果が異なるのである。
その人事不省の無意識狀態が長きにせよ、短きにせよ、いづれにせよ
靈界に於て意識を恢復した時には、
(その人にとつて無意識中のことは心の中に存在しないからである)
生前、臨終の際の狀態が、記憶の世界に蘇生つて來て、
癌で死んだ人は心に癌の苦痛が復活して來て、靈界のその癌の症狀を
その幽體に継續する狀態を假作し苦しむやうになるのである。
<感謝合掌 令和5年12月14日 頓首再拝>
【十五日の法語 病念を持ち越して靈界で苦しむ靈を救ふために】 - 伝統
2023/12/15 (Fri) 09:57:18
病念を靈界まで持ち越して、病氣の記憶のままに病氣を靈界で
體験しつつ苦しんでゐる靈魂の救はれる道は、
病氣や肉體はないといふ事と、死後の生命を説いて聞かせて上げ、
「死」といふものはない、それは現實界から靈界への轉任である。
その轉任の時期は神の御手にあるのだといふ眞理を
悟らせてあげることが第一である。
それには祖靈を招靈して『甘露の法雨』を毎日時間を約束して
讀誦してあげるがよい。
一人の迷へる靈魂を導くだけで、原因不明の病氣や不治の病氣、
それに家庭不和などが改善される場合があるのである。
だから、先祖とか親類緣者の祭祀といふものを
決しておろそかにしてはならない。
<感謝合掌 令和5年12月15日 頓首再拝>
【十六日の法語 わが生命は祖先の生命の連續である】 - 伝統
2023/12/16 (Sat) 09:40:06
祖先又は自分に關心のある緣者の靈魂の想念は、
その子孫に影響を與へるので、
祖先が好まないところを子孫が行なへば、
祖先又は緣者の靈魂の反對觀念を受けて
その人の運命が妨げられ、順調に進まなくなる事もある。
また祖先又は自分に關心のある緣者の靈魂が迷ひに捉はれ、
信ずべからざるを信じ、妄執にとらはれてゐると、
現實界の子孫たるわれらがその念を受けて、
正しい事を行いながらも、それがおもしろくゆかなくなることになるから
祖先の靈魂にはすみやかに眞理を悟らせてあげる必要がある。
(『生命の實相』携帯版第四巻、第五巻、第十六巻参照)
<感謝合掌 令和5年12月16日 頓首再拝>
【十七日の法語 佛壇、神棚の意義】 - 伝統
2023/12/17 (Sun) 12:23:29
佛壇も神棚もないといふのは、一家の魂のよりどころになる
靈的中心がないことになるのでよろしくない。
人間界で佛壇も神棚ができるといふことは、
肉眼で見たら物質の祠や宮が出來ただけだが、
靈眼でみると、そこにはもつと荘巌な靈界の御宮が出來てをつて、
その姿が影を映して、人間界に物質の神棚とか佛壇とかが出來てゐる
といふことになつてゐるのである。
だから簡單な神道式のお宮でもよろしいし、
宗派に從つて適當な佛壇をこしらへて拝んであげると、
靈界にはそれ相當の幽體の神社、佛閣があり、そこへその靈が出入して、
それを據點に修行してだんだん靈格が上がつてゆく、
といふことになつてゐるのである。
(『生長の家』誌昭和三十六年九月號参照)
<感謝合掌 令和5年12月17日 頓首再拝>
【十八日の法語 位牌と鎭魂(みたましづめ)の仕方】 - 伝統
2023/12/18 (Mon) 10:06:13
肉體は死んでも”人間”そのものは”靈”であつて、
靈は死ぬのではないのである。
靈を祀つてあげるのは清淨な木材(紙)で造つた位牌又は石牌に
名前を書いてあげるがよい。
俗名の方が却つてよいのである。
戒名を付けてあげても靈界で人事不省の無意識中に付けた戒名などは
自分の戒名だとは知らないで、その戒名を讀んでも、出て來ないこともある。
男なら俗名の下に、”比古命”と書く。
女なら俗名の下に、”比女命”と書く。
最も近い親族が書く方が、
靈を呼ぶためにのアンテナとしてはよいのである。
親の靈を祀るにはその實子が位牌に親の名前を書く。
子の靈を祀るにはその實父母が位牌に子の名前を書く。
文字には書いた人の靈波が宿つてゐるのであるから
親と子とは最も近似の靈波を持つてゐるから、
その靈を招ぶ場合に波長の同調が得られるので都合がよい。
書き終はると、それを佛壇又は神棚又は清淨な場所に安置し、
「何年何月何日を現世の限りとして幽界に歸りましましし
何々比古の靈(みたま)ィィ・・・・・」と數囘、
靈を本當に呼び出す氣持で唱へる。
その後數歌を數囘唱へて招靈された靈魂が來臨する時間的餘裕を與へる
とともに精神を統一して來臨の靈を自己に受ける。
そして合掌の指先を位牌(又は石牌)の方に向けて、
下腹部に力を入れて”イューゥ”といふ發聲の氣合いをかけると、
招靈された靈魂が、招靈の儀を行ひつつある人の合掌の指先より氣合と同時に
放射されたる靈氣によつてその位牌に結び付けられる。
謂はば今迄はその靈を招ぶにしても無線交信であつたのが
靈の絲により有線通話式に緣が結ばれることになり、
その位牌に向つて經を上げたり、物を供へれば、
直接電話を掛ける如く相手に通ずることになるのである。
<感謝合掌 令和5年12月18日 頓首再拝>
【十九日の法語 位牌には何名の名を書いてもよい】 - 伝統
2023/12/19 (Tue) 13:20:25
又位牌には(一牌に)何人の名を書いても構はない。
同じ宗旨の人なら表に”何々家先祖代々親族九族一切の靈”と書いて、
裏に、殊に死んで五十年經たない人の名前を書いて、一々呼び出して、
一緒にそこへお祀りしてあげるというやうにすればいいのである。
一緒の位牌の中に入つてゐても、
血のつながりの親類緣者、家族みたいなものだから、
其処に一緒にゐるといふことに障りはないわけである。
また、人間は五官の感覺器官に頼つているので、
本當に耳に聴こえるやうに呼ばなければ聞こえぬが、
靈魂は肉體の感覺器官を通さないでも、我々が何月何日に祖先供養を
するんだと心の世界に決めると、それを感じて其処に集つて來る
といふ事になつてゐるのである。
それを特に名前を誦へてあげるのは、迷ひが多かつたり、
恨みが解けないでゐたり、或は自分が新佛で、澤山の先輩の靈魂の
參列があるために遠慮して、
自分の名前を呼ばれなかつたら、前列に出たらいかんのだと思ひ、
後ろの方で未だ遠慮してゐるやうな靈魂もあるから、
名前を呼び出してあげた方がよいのである。
<感謝合掌 令和5年12月19日 頓首再拝>
【ニ十日の法語 新たに祖先靈を祭祀する場合】 - 伝統
2023/12/20 (Wed) 11:47:56
新たに靈牌又は墓石を作つて、お詣りする時は、祓式を行ひ、
次にまず”招神歌”を唱へて正しい神樣の御降臨を願つて、
祭祀の意義をといた祭文を續み、
佛教ならば祓式の代はりに般若心經を経を續みて
盲念を淨めて本尊の御守護のもとに招靈するやうにする。
これは浮浪の靈などに災ひされないためで、
力強く権威ある態度で行ふやうにする。
<感謝合掌 令和5年12月20日 頓首再拝>
【ニ十一日の法語 生長の家は葬祭の儀式に何故神社的式典を採用するか】 - 伝統
2023/12/21 (Thu) 10:04:05
何故生長の家では祭官が神道的服装をし、神道的儀禮に則つて
祭祀を行ふかと問ふ人がゐる。
まず第一に、何故神前に榊をそなへるのであるかといふ問がある。
これは古事記の天岩戸開きの時の行事に、
「天の香具山の五百津の眞賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて
上枝に八戸勾璁(やたのまがたま)の五百津の御須痲流の玉を取り著け、
中枝に八百鏡(やたのかがみ)を取り繋け、
下枝に白丹寸手(しろにぎて)、
靑丹寸手(あおにぎて)取り垂(し)でて・・・・・」
とある故事に則つたのであつて、別に生長の家の事であるから、
獨特の祭式の行事として特に定めたものではないのであるが、
萬教歸一の生長の家の事であるから、神道佛耶等色々の信者が集るので、
佛式にしてもキリスト式にやつてもよいのであるが、
佛式に葬祭の行事をやればキリスト教の人は反撥するであらうし、
キリスト教式に葬祭の儀式をやれば佛教の人は反撥するであらうから、
そこで日本人ならキリスト教の人でも、佛教の人でも反撥なしに
集まり易いので、
萬教歸一を目標とする生長の家では、その葬祭の儀式作法は、
特別の事は除き、だいたい神社式典の儀禮作法に則つて行ふ
ことになつてゐるのである。
だいたい神社式典は、宗教のやうに思ふ人もあるが、
神ながらの道――すなはち、自然の道がそのままに生活習慣に
あらはれたものであつて、何々宗といふやうな特定の教義を宣布する
ところのものではないのである。
(『白鳩』誌昭和四十五年十月號參照)
<感謝合掌 令和5年12月21日 頓首再拝>
【ニ十ニ日の法語 先祖供養の意義】 - 伝統
2023/12/22 (Fri) 11:55:45
1 第一義的には、
人間は神の子である。神の子はそれ自身で完(まつ)たい。
外から何物かを附け加へてもらふことによつてはじめ
て完全になるやうなものではない。――これが第一義的眞理である。
神の子たる人間の靈が外からお宮を附け加へてもらはないと
靈界の生活に困るやうでは、それは宮といふ迷ひに捉はれてゐるのである。
お宮を建ててもらはないと靈界の生活に困るやうでは、
それは宮といふ迷ひに捉はれてゐるのである。
お宮を建ててもらはないと靈界の生活に都合が惡いとか、
お堂を建ててもらはねば靈界の生活に都合が悪いとかいふのでは、
その靈は神性の自覺が足りないのである。
それで、神性の自覺をした靈にとつてはどんな形式によつても
祀つてもらふ必要はないのである。
2 第二義的には、
未だ悟りの境地に達してゐないで、肉體的自覺を脱し切つてゐない
靈魂は習慣的に空腹の感じを催し、餓鬼道的に苦しむものもあるので、
應病與藥的に
「食を欲するものには食を與へ、藥を欲するものには藥を與へ」
といふ譯で、宮を欲するものには宮を與へ、
佛壇を欲するものには、佛壇を與へてこれを供養して
誠をつくすことが、これが先祖に對する道となつてくるのである。
從つて祖先が佛教で續いて來た家系の靈を祀るのは
佛教的儀禮に則るのがよいのである。
<感謝合掌 令和5年12月22日 頓首再拝>
【ニ十三日の法語 獻饌の意義】 - 伝統
2023/12/23 (Sat) 09:00:15
神道の儀式には祭祀に當つて獻饌が行なはれる。
これは神靈が空腹を感じ給ふのでお食事を與へるのではない。
神の恵みを受けて五穀豊穣等の功徳を受けた古代人が、
その初穂を神に獻じて御禮を申し上げる故事から發祥したのである。
霊魂を祭祀する時には、
その人が生前好みたるところの食物を供へてあげるがよい。
靈魂は物質の食物を食さないし、悟りを開いた高級靈は物質の食物を
欲しないが、まだ霊界に移行した事すら自覺せず、
やつと靈界で意識を恢復しかけた靈は、
自分をまだ肉體的存在であるといふ薫習が失せないので、
食物を食べたい氣がしてをり、食べたと思はねば空腹の感じを味はう。
そのやうな靈魂に對して、何も食物を供へずに最初から聖經を讀誦しても
「お經どころか、空腹で仕方がないのだ」と空腹の念が邪魔して
聖經の文句を充分きかないことがある。
從つて讀經の功徳は乏しいのである。
そこで祀つて貰いたいと、食を欲する靈魂には、
その希望を滿たしながら徐々に本當の悟りに導いてあげるために
祭祀に一定の形式をとることになる。
それで生長の家の信者たちは、祖先を祀るには祖先の信じた
宗教型式を傷つけずに存續することになつてゐるのである。
佛教ではそのやうな靈を弔ふために盂蘭盆會などに施餓鬼と稱して
食物を供へてから經文を讀むのはそのためである。
ただし靈が實際に食するものは現實の物質的食物ではない。
靈界は念の世界であり念を食物として生きてゐるのであり、
物質の供物の大小、多寡によるのでなく、
供へる人の念が靈界に放送され、あのひとにあげたいといふ即ち愛念が
原動力になり念送されて靈界に念で作られたお供物となつて出來上る。
さうすると「あれは私に供へて下さつたのだから頂こう」といふ氣が起ると
すつと自分の口に入つて來て、
「おいしい、ああ滿服した」といふ氣持が起るのである。
無論もつと向上した霊魂――肉體は無い、何も食べなくても
吾々は神の生命によつて生かされてゐるのであるといふ自覺を得た
霊魂たちは決して何も食べたいとは思はないのであるけれども、
併し自分に對する愛念を以て供へて下さつたといふ愛の念は
やはり喜びとなり、その人を生長させることになるのである。
惡念は靈魂を低下せしめる害物となり、
善念特に眞理の想念は、最も靈魂を向上せしめる滋養物となるのである。
それ故に靈魂に対して眞理の經文を讀誦する行持があるのである。
<感謝合掌 令和5年12月23日 頓首再拝>
【ニ十四日の法語 幽齋と顯齋について】 - 伝統
2023/12/24 (Sun) 12:55:02
祭祀には、幽齋と顯齋とがある。
顯齋とは形の上の御宮とか佛壇とか各宗で定められた
一定の形に顯はれた方式で祀ることである。
幽齋といふのは心をもつて心に相對するもので、精神統一をして實相を念じ、
人間の實相が圓滿完全であつて惱みも病もないといふ念を霊界の招靈の苦悩を
齋(きよ)めてあげるのである。
これには、相手たる靈を生前の名前で招び出して置いて、
一緒に神想觀をするつもりでやつてもよい。
念だけで頼りなければ、言葉で真理を説いて聞かすがよい。
それには聖典の「實相篇」を讀んできかせてあげるがよい。
(『生命の實相』頭注版十六巻、二十一巻、二十八巻參照)
生長の家の宇治別格本山の「入龍宮幽齋殿」における幽齋は
靈魂を祭祀するための幽齋でなく、自己が”無”の門關を越えて
みずからを齋め盡くして實相龍宮界の幽境に、超入する修行をするための
道場として造られた神殿であるのである。
<感謝合掌 令和5年12月24日 頓首再拝>
【ニ十五日の法語 個別靈の供養の期間について】 - 伝統
2023/12/25 (Mon) 09:37:17
概して言へば、五十年したら、自然に霊魂の淨化が行なはれて、
迷つてゐる霊魂がほとんどなくなるといふ事になる。
けれども、中には毒殺されたり、非業の最期を遂げたか、
普通の死様をしてゐないで、深い惱みを持つて死んだやうな人の霊魂は
五十年経つてもまだ淨化を完了してゐないのがあるから、
五十年過ぎた霊魂でも名前を呼んで供養してあげ、
又その年月日が判つてゐる場合は位牌の裏に書いて、特に名前を唱へて
呼び出して、お祀りするといふことになるのである。
毒殺されたり、非業の最期を遂げた人以外の靈魂でも、
中には五十年経つてもまだ悟りを開かない霊魂があるかも知れないけれど、
それは「〇〇家先祖代々親族緣者一切の靈」としてまとめて招靈してゐる
のであるから、特にその靈個人の名を唱へて招靈しないでも、
自然に感じて、供養の所へ集つて來てゐるものである。
<感謝合掌 令和5年12月25日 頓首再拝>
【ニ十六日の法語 無緣佛を祀ることについて】 - 伝統
2023/12/26 (Tue) 10:45:41
自分のご先祖ならよいけれども、
無闇に無緣の、他家の靈に供養してゐると、
恰度、金持ちがルンペンに施しをするやうなものである。
施された人は喜ぶけれども、
”お前あそこへ行け、お前あそこへ行け、あそこへ行けば施しがあるぞ”
といふ譯でルンペン等が集つて來るやうに、
迷つてゐる靈がいくらでもずーつとたくさん集まつて來るのである。
あなたの靈が修行足りて靈的力があれば全部救ヘるけれど・・・・・
少數の靈なら救へても、あまり澤山集つてきたら、救ひ切れない
ことになつて折角、緒靈に深切をしながら迷ヒの靈の禍ひを
かぶることになる。
だから普通の人は無緣の靈を招ぶのは弊害があるのである。
神社とか寺院とかで靈大祭を行つたり、施餓鬼をやる時には、
神社とか寺院を守護する神靈の加護があるから、
無緣の靈を供養するのは可いけれど、
個人の家で無緣の靈を祀るのは愛念であるが、
自分に靈的力が足りないと無數に迷つてゐる靈が集つて來て
それをさばき切れなくなると困るので、個人では無緣の靈を祀らない方がよい。
(『幸福をひらく鍵』參照)
<感謝合掌 令和5年12月26日 頓首再拝>
【ニ十七日の法語 宗旨を變ヘる事によつて起こる障害】 - 伝統
2023/12/27 (Wed) 12:10:33
往々精神病者の家族を持つてゐるとか、あるひは變なえたいの知れない病氣
――小児麻痺であるとか、癲癇であるとか、舞踏病であるとか、
醫者の方でちよつと原因不明な病氣を持つてをられる方が、
その率にしてクリスチャンの方が多いのである。
これは確かに率が多いのであるが、必ずしも、
これはキリスト教そのものが惡いのではない。
けれどもキリスト教が日本に移入されたのがきはめて近代であるために、
祖先の靈魂たちがキリスト教といふものを知らない。
そしてお祖父さん、お祖母さんその上の曾祖父さん辺りになると、
その靈魂が靈界に於てどういふ信仰をもつてゐるかといふと、
あるひは神道であるとか、佛教であるとかの信仰を持つてゐて、
耶蘇といふ名前を聞くだけでも嫌ひだというふうな、
異教を毛嫌ひする靈魂たちが先祖に多いのである。
その考へは偏狭なのであるけれども、ともかくも日本人の祖先の
霊魂たちの多数は、國粹的とでもいふか、
多少排他的な偏狭な靈魂があるのであつて、
耶蘇の耶の字を聞くだけでも嫌ひだといふやうな人の靈魂がある。
いまも七十歳、八十歳ぐらいの人に聞いてみると、
さういふ風潮がずゐぶんその人の時代にはある。
自分の子が耶蘇になるとでもいつたら、實に穢れた異人種にでもなり、
四足にでもなるやうな氣がする。
可愛い息子でも耶蘇教を信ずる以上はやむをえない、
家に入れないで、勘當してしまふやうな氣持をしてゐる
爺さん婆さんの靈魂もあるのである。
さういふ靈魂たちのゐる靈界へ行つて、われわれの子孫が耶蘇教信者
といふ名前を附けて入つたら、
「えらい事だ。こいつは穢れた奴になつてきた」といふ偏見をもつて
毛嫌ひして、容易に子孫を霊界の生活に馴れるまで導いてくれない
のである。
「あいつはヤソになつたから勘當する」可愛い息子の霊魂でも
先輩の霊魂から勘當同樣の取扱ひを受けて構ひつけてくれないと、
靈界で村八分的になり、どうして生活したらよいのか、
ちょつと事情が判らない、自分だけ一人ぼつち置き去りにされる。
自分だけで修行してコツコツやつて行くよりしやうがないといふやうな
狀態になつているのも往々あるのである。
さういふ靈魂は靈界の生活に戸惑つて早く悟りきれない。
その悟れない靈魂が、子孫に救はれたいとと思つて子孫に憑つて來ると、
さういふ醫学的には原因不明な病氣を現はすのである。
(『生命の實相』携帯版第二十八巻參照)
<感謝合掌 令和5年12月27日 頓首再拝>
【ニ十八日の法語 聖經『甘露の法雨』の由來について】 - 伝統
2023/12/28 (Thu) 09:44:52
聖經『甘露の法雨』は『智慧の言葉』と同じく突然靈感的に
浮んで來た思想が詩的なリズムを帶びて來たのを書き留めて
置いたものである。
それを讀誦することによつて色々の奇蹟を演じた。
後より見ると此の聖經は期せずして、『生命の實相』全巻の
眞理を縮約して歌つたものになつてゐる。
最初私はこれを”詩“として「生長の家の歌」といふ
詩集の冒頭に収錄されてゐたものであるが、
當時、京都電燈社長の石川芳次郎の岳父、
工學博士小木乕次郎(とらじろう)氏がこれを讀むと、
單に現實界の人間が讀誦して悟りを開いて病苦惱苦を去るばかりでなく、
靈界の緒靈もその讀誦の眞理を聞いて悟りを開き、迷へる障りの靈も
守護の靈となるので、
治病・運命好轉等の色々の奇蹟的功徳を生ずるといふので小木博士が
これは單なる詩ではなく「聖經」と尊稱すべきものであるとて、
京都の教化部で聖經にふさはしい紫色絹表装の折本仕立に装幀して
發行され、
その後、益々奇跡的な功徳を生じたので、京都教化部で
獨占すべきでないとて本部へ版權を返上されたものである。
<感謝合掌 令和5年12月28日 頓首再拝>
【ニ十九日の法語 先祖に對して聖經を讀誦する時の心得】 - 伝統
2023/12/29 (Fri) 10:02:31
先祖に對して聖經を供養する時
「祖先の霊魂よ、お前は迷つてゐて、
迷ひの靈波を送つて來るので困つてゐる。
この聖經を讀んであげるから、それをよく聴いて悟りを開いて、
二度と迷ひの靈波を送つて惱ませないやうにしてくれ」
といふやうな事を言つたり、思つたりして
聖經を讀誦しても効果が少ないのである。
何故なら、そのやうな氣持で聖經を讀誦したりする事は、
相手の惡をみとめて、軽蔑的語調で、”よく勉強せよ”などと
言つてゐるやうなもので、現實界の人間に對してでもこのやうな事を言ふと、
反抗心を起して反撥されたりするのである。
これと同じことが祖先の靈たちにも起こるのであつて
「お前は迷つてゐるから、この眞理のお經をおききなさい」
では、いくら聖經を誦げても靈魂たちは聞きに來ないかもしれないのである。
だから、祖霊に對して、聖經を讀む時には、
1 唯、尊敬と報恩。感謝の念をもつて誦むこと。
ただ尊敬と感謝の念をもつて、
「今まで色々と子孫が受けて來た密(かく)れたる
御恩、陽(あらは)なる御恩に對してただ感謝のために
この眞理のお經を靈界に對して放送しますから、
どうぞお受け取り下さいませ」
と誦へて、”ただ感謝”の念をもつて讀誦するがよい。
2.聖經の意味を説明する。
聖經を讀む前に、先ず、
「この聖經『甘露の法雨』はあなたが祖先から傳承して來た
✖✖教の教への眞理を最もわかりやすく、現代語で
書かれたものでありますから、心をよく集中して此の聖經を
聴き給うて、その眞理を體得し、靈界に於て解脱を得て神通自在になり
給ひて佛陀の境涯に達し給はん事を冀ふ」
と生ける人に語るが如くに唱へてから聖經を讀むがよい。
さうでないと折角、『甘露の法雨』を誦んであげても、
それは他宗教の經文であると誤解して反感を起して
傾聴しない場合があるのである。
3 讀誦の時間を定める。
聖經讀誦は、毎日一定の時間を決めて、
正確に必ず讀誦するやうにするがよい。
靈界には靈的訓練があつて、中々多忙であつて、
毎日不定な時間に讀誦しては、殘念ながらその聖經の讀誦を
靈(みたま)が拜聴することができないことがあるのである。
だから、聖經を讀み終はると
「毎日”この時間”又は幾時に聖經を讀誦しますから
必ずその時間には來たりて拜聴して下さい」
と約束して置くがよい。
(『生命の實相』携帯版二十六巻參照)
<感謝合掌 令和5年12月29日 頓首再拝>
【三十日の法語 葬祭等に燒香する意義】 - 伝統
2023/12/30 (Sat) 10:57:55
葬祭に当たつて香を焚くのは何故かといふ問ひがあるが、辭書によれば、
香を焚くことは本來、佛教の發祥地であるインドでは高溫のため
身體の分泌物多く、
不快の體臭を發するので、その體臭を打ち消すために
塗香と共に用ゐられたのであるが、
宗教では、燒香はその香氣によって人間的臭氣を佛つて、
佛、菩薩その他高級靈を勧請するために行はれることになつたのである。
生長の家では神想觀中に、人間界では薫香を焚いてゐないのに、
時ならぬ薫香の匂ひがすることがある。
これは神想觀を指導するために來臨された高級靈が、
人間界の體臭その他の惡臭の禍を消すために、
靈界に於てあらかじめ香を焚いて、その芳香を衣裳(おめしもの)に移して
降臨せられたのが匂ふのである、
特に死者の霊を弔ふため儀式の際に、線香を燃やし、香を焚くのは、
肉體を脱して他界した靈といへども尚、肉體の臭氣を脱しきれないものがあり,
それを導くために法要の際、佛、菩薩を勧請するのには、
芳香を焚いて死者の霊魂の體臭を消して
佛、菩薩の降臨しやすいやうにするためである。
(『白鳩』誌昭和四十五年號參照)
(附記)
最近、祖先供養の方法等につき、誌友及び信徒の人々から、
その手引きになるものを書いてほしいといふ要請が多いので、
それにこたへて生長の家本部の教務部で私の著書や執筆せる原稿の中から、
それに關するものを抜き書きして小冊子にまとめたいとて、
その抜粹稿を私の手元に送つて來られた。
併し、特定の人々にその冊子を有料で配本するよりも
神誌の法語にまとめれば無代で誌友、信徒諸賢に達する譯であるからとて、
その抜粹稿に丹念に筆を入れて、法語として書き直したものがこれである。
紙數の關係で載せ切れなかつたものもあるが、
又別の機會に追加することとする。
(おわり)
<感謝合掌 令和5年12月30日 頓首再拝>