伝統板・第二

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神癒 ⑧ - 伝統

2023/11/30 (Thu) 09:39:04


人間の生活する4つの面

    *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より

人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
さらに実相の世界に住んでいるのである。

物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。

この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。

だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。

昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。

われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。

科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。

この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない生命に必要な
ある要素が存在するのであって、科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素において異なるのであって、
これは臨床効果においても見られるところである。

さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、
心のうちに恐怖や心配や悲しみや、ある人に対する憤(いきどお)りや憎しみを
捨てないでいるかぎりにおいては、薬効があらわれないことがしばしばあるのである。

それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して不用意に
その病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、かかる不用意なる医者の
診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと思われる患者を
急速に死に導いてゆく実例も多いのである。

これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は、人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度にしたがって、
「罪あり」と認めらるべきものである。

さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。

生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先霊を含む)の悟りの向上による
ところが多いのである。

医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、
癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう実例の多いのも、
これらの病気が霊的障礙であるからである。

顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するにやぶさかでない
現代の医学が、なぜ肉眼で見えないという理由だけで霊の障害による病源を
研究することを迷信視しようとするのであろうか。

さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。

(初出は、『生長の家』(昭和26年10月号 巻頭言)
 https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/064faba728bb4e2b6bb7c06e42aa9a6b
 VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-01))


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065 (消滅)

   伝統第二「光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7823515 

(2)光明掲示板・第三「神癒」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243

(3)光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42

(4)伝統板・第二「神癒①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458999

(5)伝統板・第二「神癒②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6910051

(6)伝統板・第二「神癒③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7640600

(7)伝統板・第二「神癒 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7820270

(8)伝統板・第二「神癒 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7989682

(9)伝統板・第二「神癒 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8153560

(10)伝統板・第二「神癒 ⑦」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8265674

     <感謝合掌 令和5年11月30日 頓首再拝>

《人を赦して眠ること》 - 伝統

2023/12/15 (Fri) 09:52:41


        *「光明法語」(12月15日)より

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

       <感謝合掌 令和5年12月15日 頓首再拝>

周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬ - 伝統

2023/12/20 (Wed) 11:45:18


       *「光明道中記」(12月20日《大調和の日》)より

【躓いたがために落ちる人もあれば、
 躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。(『生命の實相』第十一巻)】

人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。

人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。

斯う云うことを考えめぐらせて見れば、
その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。

人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、
山野の獣(けもの)が病気にならないのに、

家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を
受けながらも病気になる事実で明かである。

この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。

誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。

「何でもクヨクヨするな」 

この言葉を病人の多い家庭に捧げる。 

          <感謝合掌 令和5年12月20日 頓首再拝>

愛と赦しと感謝によって、病は消える - 伝統

2023/12/22 (Fri) 11:46:37


     *「光明道中記」(12月22日《完全解放の日》)より

【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。
                   (『生命の實相』第八巻)】

本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。

神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。

「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、
すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。

          <感謝合掌 令和5年12月22日 頓首再拝>

《眠りに入らんとしてかく念ぜよ》 - 伝統

2024/01/09 (Tue) 10:38:14


        *「光明法語」(1月9日)より

汝ら眠りに入る時、汝の掌(たなごころ)を汝の眼の上に置きてかく念ぜよ。

「この眼は神の眼である。善以外のもの、美以外のもの、
 完全以外のものは何物も見ないのである。

 この眼は神の眼である。
 毎日毎日一層その実相の完全なる視力があらわれつつあるのである。

 自分の眼は神の眼である。
 人々の善さのほか美しさのほか、完全さのほかは何物をも視ないのである」。


かく念ずること毎就寝時にして、数ヵ月たちし時、
或る朝目覚むれば眼鏡(めがね)をかけていた眼が見えない。

眼鏡を外(はず)せば完全に見えた。

その人の乱視性近視は治ったのであった。

           <感謝合掌 令和6年1月9日 頓首再拝>

生命の神秘を拝む日 - 伝統

2024/01/12 (Fri) 09:55:22


           *「光明道中記」(1月12日)より

【自療力さえ誘導されたならばあとは治るのであります。
                (『生命の實相』第ニ巻)】

肉体はそれ自身の力で生理作用を営むのではない。
血液は肉体の機械的構造によってのみ循環するのではない。

それは毛細現象と云う毛細管が液体を吸着する力によってのみ
循環するのではない。

毛細血管は心臓の如く脈動し、
心臓の如く弁を備えて血液を循環せしめる輔(たすけ)をする。
それ故に血液循環の原動力は心臓にあらずして
毛細血管の物理的構造にあると説を立てる人もある。

併し物理的条件は生命のつくった利用し得べき装置にあるに過ぎないから、
1分間前に脈動していた血管も心臓も、「生命」が其処を去るならば、
その物理的構造は1分間前と同様であっても、
もう血液は循環しなくなるのである。

所詮は物理的構造はその補助であって、
生命機能の本体ではないのである。

生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って
肉体と云う装置を支配している。

そのためにこそ肉体は「生命体」として
普通の物質を試験管に入れたのとは
異なる物理化学的発展を遂げるのである。

生命がその操縦波を送らなくなったとき死と言い、
またその操縦波が恐怖、懊悩、心配、煩悶、憤怒、呪詛等によって
攪乱せられたる状態を病と言う。

       <感謝合掌 令和6年1月12日 頓首再拝>

抑圧されたる「善」への衝動が解放されたとき、病は癒される - 伝統

2024/01/28 (Sun) 09:30:30


    *「光明道中記」(1月28日《一切人間を礼拝する日》)より

【既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、
            自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。
若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に
色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって
病気が治った実例は沢山ある。

生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては
善を為すように勧められ、善を為さんと決心し、
抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき
病気が不思議に治るのである。

          <感謝合掌 令和6年1月28日 頓首再拝>

すべてを受ける心になったとき病気は治り易い - 伝統

2024/02/15 (Thu) 12:50:04


      *「光明道中記」(2月15日《卑怯を捨てる日》)より

【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、
 多くの人を病気にしている。  (『生命の實相』第四巻)】


同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。

みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。

それは既に病気の心であるが故に、
そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。

すべてを受けると云う心の中には、
すべてに対抗するだけの強い自覚がある。

すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。

「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。

そんなに罪を押しつけられたら、進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。

彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。

彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。

          <感謝合掌 令和6年2月15日 頓首再拝>

【緊急ヒーリング】太陽フレアによる影響で体調を崩した人に! - 伝統

2024/02/28 (Wed) 09:46:08

【緊急ヒーリング、超有料級】太陽フレアによる影響で体調を崩した人に!是非‼︎
【沖縄霊能者ユタからの贈り物】( 2024/02/26)
https://www.youtube.com/watch?v=FHjLMwP5ue8

(9分頃からヒーリング)

          <感謝合掌 令和6年2月28日 頓首再拝>

人の病気を治すには  - 伝統

2024/03/07 (Thu) 11:07:32


           *「光明法語」(3月7日)より

人の病いを心で治そうと思ったならば、
その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。

観たとおりに現れるのが心の法則であるから、
吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。

病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが
病気を消滅することが出来るのである。

此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。

            <感謝合掌 令和6年3月7日 頓首再拝>

【すべては導かれている】そう決めた瞬間、ミラクルが起きる! - 伝統

2024/03/16 (Sat) 09:17:50

【すべては導かれている】そう決めた瞬間、ミラクルが起きる!
(田坂広志さんの本を紹介)
コトゾラ【スピリチュアル本の紹介】( 2023/02/12)
https://www.youtube.com/watch?v=pFNvLg2eeeY

            <感謝合掌 令和6年3月16日 頓首再拝>

虫のよさを捨てることが病気の心を捨てること - 伝統

2024/05/05 (Sun) 09:22:23


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月5日)」より

『生命の實相』全卷を読めば詳しく回答のあることを、
読まずにいて幾回でも長文の質問を列記して返事を求めて来る人がある。

手紙ですめば本は買わずにすむという経済観念でやってくる人には
太刀打ちができない。

かかる人は人の時間がいくばくの価値がある物だか知らないのである。

そのこと自身が自己の心が病気であることを表わしている。
そんな虫のよさを捨てることが病気の心を捨てることである。

返信料を封入してあれば、回答を迫る権利があるかのように思って、
返事が遅れると努号してくる人もある。
返信料は郵政省が収入する。

わたしへの手紙に対するわたしの返事は、返信料の報酬として書かれるのではない。
わたしの好意によって、書かれるのである。

しかもわたしだけが返事を書いていては、
とても間に合わないので、回答係があって返事を書いているのである。

それでも肉筆では、そして便箋幾枚の短文では詳しく説明しえないので、
数百ページの書籍において回答しているのである。


地方へ派遣する講師、みんな回答係のようなものである。
道場は直接回答係の詰所である。
回答係の必要がなかったら本部の建物も講師組織もみな不要である。

われわれは回答係に奉仕せしむるために毎月少なからぬ経費を支出しているのである。
回答を求むる人はこれらの経費を分担してもよいはずだけれど請求したことはない。

生命(せいめい)の悟りに関することを、
古人は「生命(せいめい)」を抛げ出して求めたのだ。
今人(こんじん)は(そのすべてではないが)返信料だけで得ようとする。

ものは出しただけの値打ちである。

           <感謝合掌 令和6年5月5日 頓首再拝>

病者へは、思念より真理を理解せしめよ - 伝統

2024/06/19 (Wed) 12:02:06


       *「光明道中記」(6月19日)より

【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
                    (『生命の實相』第四巻)】

凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。

病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも
思念してはならないのである。

病者を癒さんとするならば、先ず今後利己のためには
その「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。

病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。

此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。

けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう
相手が一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。

重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。

思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。

思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。

           <感謝合掌 令和6年6月19日 頓首再拝>

自分の心を調べて見る日 - 伝統

2024/06/20 (Thu) 11:06:15


       *「光明道中記」(6月20日)より

【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
                     (『生命の實相』第一巻)】

自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。

利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。

憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。

どこかに頭につかえるものが残っているし、
腹につかえるものが残っているからである。

多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても
病気が治らないのであった。

治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。

治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。

『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。

           <感謝合掌 令和6年6月20日 頓首再拝>

病が癒えない6種類の人 - 伝統

2024/06/23 (Sun) 11:31:10


      *「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋

【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時速やかに崩壊し始める。
                         (『生命の實相』第四巻)】

病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。

(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
   「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。

(2)家族のうちに反対観念者があって、
   そんなことで治るものかと強く念じている場合。

(3)憎んでいる人を赦していない場合。

(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。

(5)心が焦(あせ)っている場合。

(6)死に切っていない場合
    ―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。

   利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
   恐怖心は利己心から来るのである。

           <感謝合掌 令和6年6月23日 頓首再拝>

神から悦ばれていると云う自覚が治病の根本 - 伝統

2024/07/13 (Sat) 10:18:46


          *「光明法語」(7月13日)より

吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。

先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。

されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。

          <感謝合掌 令和6年7月13日 頓首再拝>

神の癒しを受けよ - 伝統

2024/08/04 (Sun) 11:55:32


   *「光明道中記」(8月4日《常に神を憶う日》)より抜粋


【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを知らねばならぬ。
恐れることはひとつもあり得ないのである。
われは神と偕であるからである。

神はすべてのところにましますが故に
その癒しもすべてのところにましますのである。

癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、
これはただ病気をみとめている人々に対してのみ言うところの
方便的語(ことば)に過ぎないのである。

癒しと云うのは神の創造の顕現であり、
神の完徳(まったきとく)が現象世界面に
あらわれて来ることに過ぎないのである。

だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。

不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。

         <感謝合掌 令和6年8月4日 頓首再拝>

倶に泣くことによって癒される - 伝統

2024/08/08 (Thu) 11:06:38


     *「光明道中記」(8月8日《倶(とも)に泣く日》)より

【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。
                    『生命の實相』第ニ巻)】

 
「倶(とも)に泣く」と云う感じは自他一体の感じであるから、
しみじみと有難く感じられる。

「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。

「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。

「咎める」言葉が不結果を招く原因は、
こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。

「愛」の中にこそ聖泉がある。

それは智慧が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ないところの
聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。

          <感謝合掌 令和6年8月8日 頓首再拝>

全ての病気を消すスゴ過ぎる言霊 - 伝統

2024/08/17 (Sat) 09:51:19


【斎藤一人】1円もかけずに全ての病気を消すスゴ過ぎる言霊。
言った瞬間に脳の潜在意識で書き換えが起こってスゴイ事が起きる
銀座まるかん日本の夜明け(2024/03/13)
https://www.youtube.com/watch?v=Kvn3kZ-6cj4


栄養補給+潜在意識の置き換え

言霊  ~ 強気、元気  ⇒ 圧を高める

          <感謝合掌 令和6年8月17日 頓首再拝>

精神分析で止まるな! 感謝にまで誘え! - 伝統

2024/08/28 (Wed) 11:59:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月28日)より

若い娘さんがお嫁に行って、その家庭がおもしろからぬ場合に、
なんとかしてその婚家先から逃げ出そうという思いを起こすと、
病気になったりすることがある。

病気になったら実家に帰れると思うと潜在意識が
その目的を達成させるために肉体を病気にならせるのである。

嫁が、そういうふうに逃げ出そうと思っているかぎりは
本当の真心を尽すことができないから、舅、姑から見ても百パーセント
その嫁が真心を尽しているというように見えないから、
舅姑の方でも不満足である。

そこでどうしても嫁に対して冷たく当たるということになる。

そして嫁と岳父母(しゅうとたち)との間に仕切りができたようになる。
けれども逃げ出すことができない。
逃げ出すことができないのを逃げ出すために
病気にでもなるほかしかたがない。

そこで潜在意識が病気をつくるのである。

夫婦間の仲がわるいために病気になれば、
胸の病気か、泌尿器生殖器の病気となって現われる。

岳父母(しゅうとたち)を憎んだり、自分をこんな家へ嫁がせたのは
父母が悪いと、父母を恨んだりすると脊椎カリエスになったり、
頭の病気になったりする。

こうしてその人を精神分析しただけでは病気は治らない。
本人を説得して、本人の不平や憎みを捨てさせねばならぬ。

「ここがわたしの家である。どんな苦しみであろうが
 どんな悪いところであろうがわたしの家である。
 わたしが受けてそれを改善してゆくしか道がないのである」

そう思って、受くべきものを受けてしまう心境にならせたときに、
そしてそれを感謝の念に変えしめた時に苦しみというものが
消えてしまうのである。

これが和解の真理の応用である。
和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解している
のじゃ足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。

痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、
下痢来たれば下痢に礼し、いかなる症状をも敵と思わず、
自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。
―― この心境に導くとき、病が消える。カリエスが消え、癌が消える。

精神分析は、分析の仕荒(しあ)らしだけではいかぬのである。
最後は「天地一切のものに和解し、感謝せよ」という宗教的心境にまで
誘導することが必要なのである。

神経性心悸亢進症などは心臓の動悸を恐怖していたのを、
一転して「心臓が動悸しているので血が循(めぐ)っているのである。
ありがとうございます」と感謝の言葉を唱えさせるだけで、
治ってしまった実例がある。

以前樺太の敷香(しすか)町の巡査をしていた星平治という人のごときは
札幌医大で両腎臓が結核に冒されているから治療の道なしと宣言せられたのを、

腎臓の疼痛ごとに
「自然療能博士が治してくださる信号だ。ありがとうございます」
とその疼痛に感謝し妻に和解するように指導しただけで治ってしまい、
戦争中召集されて満州へ3年も従軍していてなんら病気が再発しなかった
と報告せられた実例もある。

腎臓の病気も夫婦の心的葛藤から来るのであるから、
それを調和させたとき治った実例は多い。

      <感謝合掌 令和6年8月28日 頓首再拝>

【癒しBGM】432Hz- 川のせせらぎ、心地よい水の音と共に。 - 伝統

2024/09/21 (Sat) 07:49:24

【癒しBGM】432Hz- 川のせせらぎ、心地よい水の音と共に。
ひすいこたろうの名言セラピー(2024/09/02)
https://www.youtube.com/watch?v=dj1hcHkkvws&t=251s

      <感謝合掌 令和6年9月21日 頓首再拝>

宇宙の大自療力 - 伝統

2024/10/12 (Sat) 11:25:24


   *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月12日)より

宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。

どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)っても
しばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、

どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、
それを浄(きよ)らかな澄みきった海水に変化する力、

皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力

―― 考えれば宇宙にはいたるところに、
自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちているのである。

しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。

それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。

           <感謝合掌 令和6年10月12日 頓首再拝>

《欲しい》と《たい》を捨てれば不思議に病気が治る。 - 伝統

2024/10/20 (Sun) 11:23:16


    *「光明道中記」(10月20日《「欲しい」を捨てる日》 )より

【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
                      (『生命の實相』第二巻)】

善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」「見《たい》」
「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。

この「《たい》」が心にある間は、
その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。

天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、
八つの埃と言っている。

「たい」が心の病気であり、
心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。

時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が

「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」

と言うことがある。

すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。

「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、
 斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」と
言いますと、「それはあります」と言われる。

その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、
あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、
生命力が自由を得ないで病気に罹っている。

その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の
《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。

           <感謝合掌 令和6年10月20日 頓首再拝>  

人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統

2024/11/06 (Wed) 11:40:28


       *「光明法語」(11月6日の法語)より

人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。

医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。

かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。

先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。

          <感謝合掌 令和6年11月6日 頓首再拝>

その儘病気が治るようになっている - 伝統

2024/11/14 (Thu) 11:42:33


          *「光明道中記」(11月14日)より

【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
                    (『生命の実相』第九巻)】

下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。

「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。

実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。

人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。

そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。

凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。

されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。

けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と
切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。

          <感謝合掌 令和6年11月14日 頓首再拝>

赦しと愛と平和 - 伝統

2024/11/21 (Thu) 11:36:15


       *「光明法語」(11月21日の法語)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
 私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
 私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、
 神もわが過ちを赦し給いて
 その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 と思念せよ。

          <感謝合掌 令和6年11月21日 頓首再拝>

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