伝統板・第二

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実相を観よ(Look into the reality) ⑥ - 伝統

2023/11/14 (Tue) 09:58:13


実相を観じて衆罪を自消せしめる祈り

         *「光の泉」(昭和54年12月号・日々読誦毎月真理経)より

神はすべての渾(すべ)てであり給う。
すべてのものの中(うち)に、一つの神の智慧が宿り給うて一切を計画し、
一切のものの動きを総攬してい給うのである。

そこには矛盾も衝突もあり得ないのである。
全体を調和した相(すがた)に於いて運営してい給うのである。

太陽の周囲を旋回する遊星が1分1秒の誤差もなく
毎年同一速度で旋回している神秘に私は今驚嘆しているのである。

この遊星をして太陽の周囲を旋回せしめてい給うと
同じ力がわれわれ人間の内部にも働いていて、
常に完全な生理作用を営ましめてい給うのである。

わたし達が現象の不完全さを見て起こしたところの私見の迷い心を棄て、
実相の宇宙の相(すがた)を見るならば

大宇宙の星辰の動きから、小はすべての生きとし生けるものの行動に
至るまで、われ等の日常生活の細目を含めて、今も過去も、そして未来も、
神の叡智がそれを支配し給うていることを知ることが出来るのである。

この神の叡智は単に智のみすぐれているのではなく、
常に無限の愛を伴うて、万物を祝福し給う形でわれわれの生活を
愛をもって導き、且つ護り給うているのである。

万物の動きには、
常に調和と生長と繁栄と進歩とが約束されているのである。

祝福されたる大宇宙、祝福されたるこの地球、祝福されたるわが日本、
祝福されたるわが団体、祝福されたるわが家庭、祝福されたるわが生活。

われのみならず世界のすべての人々が神の智慧と愛とによって
常に祝福されているのである。

衆生、劫尽きてこの世が破壊し去ると見える時にも、
その見える現象の姿は妄想であって本来無いのである。

わが浄土は毀(やぶ)れざるに、
衆は焼け尽きて諸々の苦悩、憂怖、充満せりと、
自己の妄想の具象化を見て途惑うのである。

併し、無量の勝れたる叡智の充満せるこの世界の実相を見よ。
一切の不調和も業障も本来存在しないのである。
それは仮相に過ぎないのである。

『甘露の法雨』には「仮相に対しては実相を以て相対せよ」と
示されているのである。

『観普賢菩薩行法経』には「一切の業障は皆妄想より生ず」とあり、
「懺悔せんと欲せば実相を観ぜよ、衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」と
示されているのである。

「懺悔する」とは過去の仮相を「私はこんなことを為したり」と
コトバで悪を言いあらわすことではないのである。
「洗い浄める」ことなのである。

悪を言いあらわせば悪は益々蔓(はびこ)ることになるのである。
悪の本来存在しない実相の「円満完全相」を観ずれば、
本来非存在なる悪が自消自滅してしまうのである。

この大真理を悟らしめ給いし神に感謝いたします。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「実相を観よ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6922622

(2)伝統板・第二「実相を観よ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7669466

(3)伝統板・第二「実相を観よ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7910498

(4)伝統板・第二「実相を観よ(Look into the reality) ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8021479

(5)伝統板・第二「実相を観よ(Look into the reality) ⑤」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264347

         <感謝合掌 令和5年11月14日 頓首再拝>

ラザロを復活させたイエス - 伝統

2023/11/25 (Sat) 12:11:02


       *「光明法語」(11月25日の法語)より

イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。

その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。

人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。

今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。

その時ラザロは復活した。

         <感謝合掌 令和5年11月25日 頓首再拝>

現象の奥に実相を見る - 伝統

2023/11/27 (Mon) 10:00:07


   *「光明道中記」(11月27日《現象の奥に実相を見る日》)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。
                     (『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、
それを顕し、礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。
少くも好い。

実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

        <感謝合掌 令和5年11月27日 頓首再拝>

省みて、実相を観る - 伝統

2023/12/03 (Sun) 12:50:28


     *「光明道中記」(12月3日《すべて自己の責任と知る日》)より

【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、
 其の人の心境は朗(ほがら)かである。(『生命の實相』第十巻)】

私は第二次世界大戦が欧州に勃発した時の日記に次のように書いている。

「すべて私の責任なのである。私はみずから顧みて恥じるほかない。
 考えて見れば欧州の天地で、
 ヒットラーが英仏を向うに廻して戦っている姿も私の心の影である。

 私が『ヒットラーよ、もう戦争を止めてくれ』と言ったら、
 ヒットラーが『ハイ』と答えて戦争を止めてくれるほどになれないのは、
 まだ私の力が足りないからなのである。

 力が足りないのは偉さの徴候ではない。
 私がまだそれほど偉くなれないのは私が悪いからである」

私はそんなにまだ偉くなれていないのである。
まだまだこれからだと思う。
光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。

光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、
「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが
私のところへ時々来るのは悲しいことである。

併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、
また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。

実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。

            <感謝合掌 令和5年12月3日 頓首再拝>

迷いの現象を去り、実相健全の姿を見る - 伝統

2023/12/04 (Mon) 10:45:30


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、自由思想家、
むしろ無宗教家と言われている人の側に真の宗教を体得した人々がある
ということができるのである。
真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、
みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実現し、
神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。

ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、ある人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって一緒に同情の涙をかき垂れて
号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、
同情の涙を流したことが聖書に書かれている。

しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ
「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。

「ああかわいそうに! 」と言って、
一緒に倒れふし泣き濡れて動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。

「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

            <感謝合掌 令和5年12月4日 頓首再拝>

善い本性を無尽蔵に有っている - 伝統

2024/01/22 (Mon) 11:51:32


       *「光明道中記」(1月22日)より
         ~《九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日》

【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】

金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。

凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。

仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると
道元は『正法眼蔵』で喝破している。

たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。

発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、
人間はその仏なる実相を露呈する。

そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、
打てばそれがあらわれる。

打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 
生長の家は

「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。
 励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」

と言って打つ。

どちらが効果があるかは既に実証済である。

         <感謝合掌 令和6年1月22日 頓首再拝>

《常に己の心を清むべし》 - 伝統

2024/01/28 (Sun) 09:35:26


       *「光明法語」(1月28日)より

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。

もしその人がよき人と現れなかったならば、
それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、
すべての人間が神の子であり、佛の子であることを
自覚する時どこにも悪しき人はいないのである。

         <感謝合掌 令和6年1月28日 頓首再拝>

現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統

2024/03/13 (Wed) 12:57:58


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

        <感謝合掌 令和6年3月13日 頓首再拝>

心の眼をひらいて実相を見よ - 伝統

2024/03/27 (Wed) 11:59:58


           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば
全身は明るくなり、健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、
豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。

        <感謝合掌 令和6年3月27日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2024/04/23 (Tue) 11:08:05


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、

なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 令和6年4月23日 頓首再拝>

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