伝統板・第二

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真理の生活 ⑱ - 伝統

2023/07/03 (Mon) 07:23:59


「ハイ」と「否」

        *「光明法語」(7月3日、7月4日)より

七月三日の法語 「ハイ」の「無限力

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
   然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

・・・

七月四日の法語 「否定」の威力

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの
   百貨店だと言える。
   それを求める貨幣は「決意」である。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815

(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957

(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
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(12)伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
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(13)伝統板・第二「真理の生活 ⑬」
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(14)伝統板・第二「真理の生活 ⑭」
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(15)伝統板・第二「真理の生活 ⑮」
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(16)伝統板・第二「真理の生活 ⑯」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8305125

(17)伝統板・第二「真理の生活 ⑰」
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         <感謝合掌 令和5年7月3日 頓首再拝>

至誠身を献ぐる日 - 伝統

2023/07/06 (Thu) 05:04:30


          *「光明道中記」(7月6日)より

【遊女マグダレーナは一切を
 真理(キリスト)の足下に漑(そそ)いだのであります。
                     (『完成の聖書』】


達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり
永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。

諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、
あまり宇宙の真理を瞑想し過ぎたので、

「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて
 五峰(ごほう)の秀出(しゅうしゅつ)せるに似たるものあるに
 到れり」

と言うから、瞑想のために骨相が変り、五峰が突々(とつとつ)
として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。

真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る
 ―― この意気が欲しいと思う。

慧可四十歳の時、達磨大師が嵩山(すうざん)に
巡錫(じゅんしゃく)せられたのを機会に、
嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて入室を乞(こ)えども許されない。

終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。

そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、
入室を許されずんば死すとも此処を去らずの
赤誠(せきせい)を披瀝(ひれき)したので、
とうとう入室を許されたのである。

今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。

それだけに真剣味ありや。

真剣味ある者は幸いなり。

道は自己の「真剣」の中にあり。

漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。

         <感謝合掌 令和5年7月6日 頓首再拝>

【人から好かれるために必要なことは】 - 伝統

2023/07/10 (Mon) 10:03:28


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.19)より

   (田中真澄氏の心に響く言葉より…)

   人様が好感を持ってもらえる具体的な方法と同時に、

   「この人とは今後も付きあっていきたい人だ」
   と感じさせる雰囲気を醸し出すことが必要です。

   そのための要件とは、
   普段から考え方が陽転思考 (プラス思考)であることです。

   自分にとって都合の良くない物事に対しても、
   それを明るく考え直して受け止める考え方のことです。


   英語ではポジティブシンキング (positive thinking)と言いますが、
   要は、何事に対しても楽観的に受け止め、前向きに考えることです。

   この陽転思考は、相手に好感を与え、
   あわせて場の雰囲気を明るくします。


   世の中には、何と悲観論者が多いことでしょう。

   物事には元々良いも悪いもなく、
   受け止め方次第で良し悪しが決まるのですが、
   その点、悪く考える人が実に多いのです。

   したがって、目の前に現れた
   せっかくのチャンスをつかむことをしないで、
   無為に過ごす人が世の中に満ち満ちています。

   そしてそういう人ほど、相手の批判ばかり口にしています。

   こういう人は、自分に不利になると
   思われることには決して手を出しません。


   人から何か新しいことを頼まれて、それを快く引き受ける人は少なく、
   それが未知なことであるとなれば、断る側に回る人が大半です。

   新しいことに挑戦する人は
   全体の約20%しかいないのが世の傾向なのです。

   ですからその20%の人が、成功のチャンスをつかんでいくのです。


   私は、世間で言う馬鹿正直なところがあり、
   人から頼まれると断ることが苦手なたちです。

   そのために当面は自分にとって
   不利なこともたびたび引き受けてきました。

   しかし今 考えてみると、
   そのことが後の人生で有利に働いていることが多いものです。

   「無駄な経験など一つもない」は本当のことです。


   ですから、目の前のことで
   人様の役に立つことなら、頼まれたらやってみることです。

   それを重ねていると、
   そこから思わぬ「引(ひき)」に出会うものです。

    <『幸せな人生を歩むための8つの法則』ぱるす出版>

       ・・・

本書の中に「引(ひき)」について、こう書いてある。


『たとえば、日本の結婚披露宴の出席者は平均70人と言われています。

 これは新郎新婦の背後には、
 それぞれ35人の親戚縁者・友人知人の人脈があると解釈できます。

 私は、独立当初、少ない会合に招かれた時、
 聴衆がたとえ3人の時も、それを35倍して105人と受け止めて
 精一杯、心を込めて熱誠講演に努めました。

 その努力を重ねていると、確かに背後の法則が働いて、
 知らない方々からの「引」で、
 私を招待してくださるケースが増えていきました。』


講演会だけでなく、勉強会やセミナー
あるいは選挙の辻立ちの聴衆など、
集まった人たちが極端に少ないときがある。

しかし、「引」がある人は、
参加者がどんなに少ない人数であろうと、
決して手を抜かない人だ。

「引」とは自分を引き上げてくれたり、
引き立ててくれる「ご縁」のことをいう。

人の運や一生は、そのほとんどが「引」から始まる。

この「引」があるかどうかで人生は変わってくる。


引き立ててくれる人がいない人は、孤軍奮闘しても、運には恵まれない。

応援者がいないということだからだ。

好かれていないということでもある。


好かれるために必要なのが、陽転思考であること。

そして、「引」があること。

人から好かれる人でありたい。

         <感謝合掌 令和5年7月10日 頓首再拝>

日常生活に道を現す日 - 伝統

2023/07/13 (Thu) 05:06:34


          *「光明道中記」(7月13日)より

【本当の美しさと云うものは
 深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
                 (『生命の實相』第十五巻)】

五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は
慧能を学ぶが好いのである。

禅とは変な、日常生活に適用せぬような奇警(きけい)な警句を
吐いて問答し、奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの
妙(みょう)を得ることだと思っていれば、
それは大変な間違である。

米を搗(つ)くのが禅であり、
掃除をするのが禅であり、
飯を炊(た)くのが禅であり、
茶を淹(い)れるのが禅である。

禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。

茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、
足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって
「茶道」には達せぬのである。

「茶の淹れ方」は
茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、御飯を焚(た)いても
硬軟その所を得なかったりするのでは何にもならぬ。

御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。

一芸に名人と謳(うた)われるような人は
何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。

「道」は万(すべ)てに通ずるが、
「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。

心得べきことである。

            <感謝合掌 令和5年7月13日 頓首再拝>

知的に理解できないからといって、必ずしも否定はできない - 伝統

2023/07/17 (Mon) 05:07:43


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月17日)より

今の段階において、われらが知的に理解しえないものといえども、
必ずしも存在を否定することはできない。

野蛮人には電子も、電波も、ラジオも知的に理解しうるものはない。
しかし、われらはそれを知的に理解しうるのである。

人類がもっと知的に進歩してきた時には、現在「奇蹟」と認められている物事も、
ただ尋常茶飯事としてわれらは驚かぬようになるであろう。

それはあたかも、われらが、野蛮人の驚くラジオ・セットを尋常茶飯事として
少しも驚かないのと同じことである。

         <感謝合掌 令和5年7月17日 頓首再拝>

【本物の「すごい人」とは】 - 伝統

2023/07/18 (Tue) 10:37:46

      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.14)より

   (斎藤茂太氏の心に響く言葉より…)

   「人を元気にする人」というのは、聞き上手な人である。

   相手の話をよく聞いているからこそ、
   相手の考えていること、悩んでいることに適切に助言できる。


   一方で、すぐに反応して、「それはこうだ、ああだ」と助言する元気な人は、
   思い込みが強く、自己中心的な性格傾向の人だ。

   あるうつ症状の女性が、
   「元気のある人のそばにいると、私も元気が出るようで......」 と、
   いつも、そんな人に近寄ってしまうらしい。

   「先生にも紹介したい。素敵な人と知り合いになったの」と、
   うれしそうに、その人がどんなに「すごい人」かを話す。

   しかし、しばらくつきあうと、元気のいい人はただ威勢のいい人だったり、
   やたら話が大きいだけだったり、ウソや見栄、自己主張の強さ......などが
   見えてきて、すべてが嫌になって彼女は「素敵ですごい人」から離れてしまう。

   その繰り返しである。


   すごい人ではなく、普通に淡々と生きている人を友達にして ほしいものだが、
   そんな人には興味がないようだ。

   話がうまくカリスマ性のある人の話に酔って、
   「なんてすごい人なんだ。こういう人といたら元気になる」
   と思うのは危険である。

   その「すごい人」が本物か偽物か 確かめなければならない。


   そのときの、キーワードは「聞く」ということだ。

   その「すごい人」は、
   どれだけ人の言葉に耳を傾けているだろうか......と注視してほしい。


   迷いが出る、むなしくなる......
   そんなとき、カリスマ性のある元気な言葉に助けられるときもあるだろう。

   元気な人に頼りたくなる気持ちもわかるが、
   その「元気な人」は、自分をすごいといってくれる人が
   周りにいないと不安なのである。

   そんな不安を払拭するために、
   ますます自分をすごく見せたがり、
   自分に意見する人を嫌い、人の言葉にあまり耳を貸さない。

   そんなすごい人を、「元気にさせてくれる人」と勘違いしてはいけない。

   本物は、人の意見に耳を傾け、
   地に足をつけてきちんと生きている、普通の人だ。


    《本物の「すごい人」は、身近にいる普通の人》

   <『「あなたに会うと元気になる」といわれる人』 新講社ワイド新書>

          ・・・

声が大きくて、元気で、明るくてパワーのある人がいる。

タレントのようにいつもニコニコしていて、にぎやかに振る舞っている人だ。

しかし、そういう人に限って、
一人になったときに暗かったり、ネガティブで元気がなかったりする。

内面の弱さやストレスを隠すため、
鎧のように表面的な明るさで防御しているからだ。


自分を偽り強がっている人は、他者の気持ちを汲(く)むことができない。

自分のことだけで精一杯だからだ。

だから、人の話をじっと聞くことができない。


表面的に、明るくて元気な人、カリスマ性のある躁(そう)状態の
無理して自分を飾っている人を「すごい人」と思ってはいけない。


人の話を親身になってじっくり聞いてくれる人、地に足がついている人…

《本物の「すごい人」は、身近にいる普通の人》

という言葉を胸に刻みたい。

・・・

<参照>

この世の価値観の真相
伊勢ー白山 道2023-05-20 12:03:16
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/fb791eda506e39497ffca087c7b35656

         <感謝合掌 令和5年7月18日 頓首再拝>

謙遜・深切丁寧 - 伝統

2023/07/24 (Mon) 11:35:10


      *『光明道中記(7月24日《万事謙遜に出来る日》)』より

 【驕慢とは「実相我」を隠蔽し「肉体我」を強調する誤れる自尊である。
                     (『生命の實相』第七巻)】

徳山和尚が円熟してそのまま素直に有難い境地になっていた頃の逸話は
『無門関解釈』に書いて置いた。

「碧巌録」の第四則に出て来る徳山和尚はその若い頃のことである。

徳山、姓は周氏、支那の蜀の人、大変な学者で、
殊(こと)に「金剛経」に精通していたので
周金剛又は金剛王と云う別称(べつのな)を以て
人から称(よ)ばれていたほどの人である。

最初からの禅僧ではなく、当時支那の南方に禅学が盛んに行われていたので、
自分の「金剛経」の知識で悉く禅の道場破りをしてやろうと云う意気込みで、
笈(おい)にうんと「金剛経」の註釈書(ちゅうしゃくしょ)を入れて旅立った。

ほう洲(ほうしゅう)と云う州まで行き、
その山の下で餅売(もちうり)の婆さんに
「おい、今その餅を食うからくれ」と言った。

その語調が如何にも高慢らしいので、餅売の婆さん、徳山和尚に言った。

「餅はあげないこともありませんが、
 私の問に対する答が出来なかったら、あげることは出来ません。

『金剛経』の中(うち)に
『過去は過ぎ去ったから無い。”今”と言って一定の時を捉えたら、
 それはもう過去になっているから無い。未来はまだ来ないから無い』

 とあります。

 あなたは『今』その餅を喫(た)べられませぬよ。
 あなたは其の餅を何時(いつ)食べるのです」

と訊いた。


・・・

        *『光明道中記(7月25日《深切丁寧の日》)』より

【大我は無数の個我を包容し生かしつつそれ自身は絶対的存在なのである。
 大我を「神」と称し、個我を「神の子」と称する。 (『生命の實相』第九巻)】


物凄い勢いで、南支那一円の禅道場をかい撫(な)でに論破して歩こう
と思っていた青年気鋭の徳山も、山の掛茶屋(かけちゃや)の餅売の婆さんに
問答をし掛けられて、眼を白黒させて、餅を食わないで逃げ出してしまった。

餅売の婆さんは彼を看送って、
「まだそんな事では修行は足らぬ。
 竜潭と云う偉い先生がいるから其処で修行せよ」と言った。

徳山は青年気鋭のその心の角がとれていない。
竜潭和尚のところへ行くと、早速例の癖が出た。

『竜潭竜潭と云うが、来て見れば何のことじゃ、竜も見えず、潭も見えず』
と大声に呼ばわった。

『汝親しく竜潭に到るや』

実にやわらかい親しみのある声が屏風(びょうぶ)の陰からした。

竜潭と徳山では段がちがう。
(心の眼を開けば此処が此の儘竜潭であり、竜宮城である。)
気鋭の徳山もまいってしまって礼拝せずにはいられなかった。

生(なま)さとりの者ほど偉そうに悟りを振り回すが、
悟ってしまった者は誰にでも慇懃丁寧(いんぎんていねい)に
挨拶することが出来るのである。

その慇懃丁寧の中に神が現れ、仏が現れているのである。
徳山も思わず竜潭を礼拝したのだ。

『夜に入って来られよ』と竜潭の優しい声がする。

            <感謝合掌 令和5年7月24日 頓首再拝>

丁寧深切 ―― 礼拝 - 伝統

2023/07/26 (Wed) 08:32:08


        *『光明道中記(7月26日《光を内に見出す日》)』より

【全体として調和した生活を営むのが「生長の家」の生活である。
                     (『生命の實相』第八巻)】


徳山は、約束した通り夜になって竜潭(りゅうたん)をたずねて教えを受けた。
教えを受けて帰ろうとすると、竜潭は親切に弟子を見送って出た。
手には手燭(てしょく)を持って足許(あしもと)を照らしながらである。

「外は暗いから気をお着けなさいよ」と云って、
竜潭は手燭を徳山に渡そうとした。

徳山はその手燭を受け取ろうとするとき、
竜潭はフッとその手燭の火を吹き消した。

そこは黒暗々であった。
一切無であった。

差別界のものは、ただ相対的に斯く見えるだけであった。
徳山は悟ったと思った。

その徳山の悟りが、どの程度のものであったかはその悟ったと称する直後、
為山(いさん)老師の法堂へ跳び込んで行って
『東より西に過ぎ、西より東に過ぎ、顧視(こし)して無無と云って出ず』
と碧巌録第四則にある記事で、略々(ほぼ)勘破(かんぱ)することが出来る。

碧巌録の編集者、雪竇(せっちょう)はこれを批評して
『勘破了也(かんぱしおわれりや)』と言っている。

悟ったほどのものがこんな乱暴な無作法なことをする筈はないのである。

徳山自身も『これは可(い)かぬわい』と気がついた。
そこで『威儀を具(そな)えて再び入(い)って相見(あいまみ)ゆ』とある。

挨拶を終わると、徳山は坐具(しきもの)を手にして、先ず『和尚』と言った。
問答の気合(きあい)である。――


・・・

        *『光明道中記(7月27日)』より
         ~心の角(かど)を除去(とりさ)る日

【観世音菩薩でも夜叉に対しては夜叉の形相を以て現れる。
                    (『生命の實相』第十五巻)】


為山老師は、問答の気合いを感じて、
払子(ほっす)を取って泰然と構えようとするとき、
徳山は、『カーッ』と一喝すると、そのまま袖(そで)を払って
法堂を出て往(い)った。

こんな事を禅の修行だとか、道場破りだとか思っている者があったりするから、
禅などと云うものは、吾々日常生活には何の関係もないことだと思いまちがえられ、
十年禅林にいて修行しても、実生活を生かす道を知らない。

禅臭い禅は何にもならない。禅が実生活に生きるのが真禅だ。

為山老師はその晩、弟子たちが集ったとき
『あの新参の若僧は何処へ行ったのかな?』と訊いた。

「風呂敷を背負ってどんどん向こうへ行きました」弟子の首座(かしら)が答えた。
これは甚だ善い回答である。

当たり前のことが当たり前に答えられるのが悟りである。為山老師は、

「徳山は頭が良いが気の毒なものだ。
 調和の中に真理があると云うことを知らないのだ。
 あれは独り偉がりであって、弧峰頂上に向かって
 草庵を盤結(はんけつ)して仏を呵(か)し、
 祖を罵(ののし)り去ることを始めるだろう』と嘆かれた。

呵(せめ)るのが禅ではない。丁寧深切 ―― 礼拝が禅である。

            <感謝合掌 令和5年7月26日 頓首再拝>

【人間の根はどうしたら養えるか】 - 伝統

2023/07/27 (Thu) 12:31:19


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.27)より

   (致知出版社、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   根は大事である。

   植物が生き生きと生育していくのに欠かせないのが根である。

   土中の目に見えない働きがあって 花は咲き、葉は生い茂る。

   人間も然りである。


   人が人生という時間軸の中で自らの花を咲かせていくには、
   根がなければならない。

   根を養っていない人は
   いささかの風にも傾き、倒れる。

   植物も人間も自然の摂理の前には等しく、平等である。


   「八風(はっぷう)吹けども動ぜず 天辺(てんぺん)の月」

   という禅の言葉がある。

   八風とは人心を動揺させる八つの障害のことである。


   ●利(り)・衰(すい) (利益を得る・失う)

   ●毀(き)・誉(よ)  (陰で誹る・ほめる)

   ●称(しょう)・譏(ぎ) (面前でほめる・悪口をいう)

   ●苦(く)・楽(らく)  (心身を悩ませる・喜ばせる)



   心の根をしっかり養っておくことの大事さを、
   強風の中でも微動だにしない天の月に譬(たと)えて、
   禅者は見事に詠じている。

   では、人間の根はどうしたら養えるのだろうか。



   釈迦は人間を悟りに導く方法として、
   六波羅蜜(ろくはらみつ)を説いた。


   ●布施(与える)。

   ●持戒(自ら戒めるものを持つ)。

   ●忍辱(にんにく/苦難やいやなことを耐え忍ぶ)。

   ●精進(仕事に一所懸命打ち込む)。

   ●禅定(心を落ち 着かせる)。

   ●智慧(以上の五つの修養に努めていると生まれる)。


   これが 六波羅蜜である。

   これはそのまま、心の根を養う実践徳目であろう。


   中で特に根を養うのに大事なものは、忍辱ではないだろうか。

   人生の艱難辛苦に耐え忍ぶ。

   植物が厳しい風雪や干天にさらされるほど強く根を張るように、
   人間の根もそこに養われるのである。

        <『小さな人生論 3』致知出版社>

         ・・・

本書の中に、相田みつを氏の「いのちの根」と題する詩があった。


なみだをこらえて

かなしみにたえるとき

ぐちをいわずに

くるしみにたえるとき

いいわけをしないで

だまって批判にたえるとき

いかりをおさえて

じっと屈辱にたえるとき

あなたの眼のいろが

ふかくなり

いのちの根が

ふかくなる


「にんげんだもの」(文化出版局刊)より




《何か新しいことをやろうとすると必ず批判される。

 大切なのはその批判が有効なものかどうかを自分で判断することだ。》
            (ジェフ・ベゾス/amazon創業者)


続けて、
「批判されたくないなら、何も新しいことをしなければいいだけだ」と。


そして、多くの人は、自分の理解を超えたものを批判する。

親が子供の飛躍の芽を摘むときが、こういうときだ。


勝海舟の名言がある。

『行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。
 毀誉(きよ)は人の主張、
 我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候(そうろう)。

 各人へ御示し御座候とも
 毛頭異存(もうとういぞん)これなく候。』



我が行いは自らの信念によるものである。

けなしたりほめたりするのは人の勝手である。

私は関与しない。

どなたにお示しいただいてもまったく異存はない。



八風が吹いても…

人間の根を養うことができる人でありたい。

・・・

<参照>

柔軟でありましょう
伊勢ー白山 道2023-07-27
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/6fff9dea18d0f9488f8b3bddfe0d310c

           <感謝合掌 令和5年7月27日 頓首再拝>

神のない快楽 - 伝統

2023/07/28 (Fri) 10:59:34


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月28日)より

神のない快楽は、根を切った切花のようなものである。

やがてそれは打ち萎(しお)れ、
どす黒い苦い苦しみに変わってゆくものである。

         <感謝合掌 令和5年7月28日 頓首再拝>

【エラそうな人は長生きしない】 - 伝統

2023/07/29 (Sat) 12:11:21


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.30)より

   (帯津三敬病院名誉院長、帯津良一氏の心に響く言葉より…)

   どの業界にも、大した実力があるわけでもないのに、
   エラそうにしている人はいます。

   なかには新人から2、3年もすると、大物然としてふてぶてしくなってしまい、
   自慢話ばかりしている人もいます。

   こういう薄っぺらな人を見ると、私は哀しくなってしまいます。


   医者の世界でも、
   新人のときはだれもが初々しく会合や研究発表の場で話し、
   質問されるとドギマギしているのですが、
   数年でエラそうにする人は少なくありません。

   いつまでも初々しさをもち続けるのは大切です。

   初心を忘れにくいため、いつまでもときめきながら
   仕事ができるからです。


   いくらうまくエラそうに振る舞っているつもりでも、
   本当に偉いかどうかは、ベテランから見ればすぐにわかるものです。

   本人も大物然と振る舞うことにストレスを感じるはずです。

   エラそうにすることのメリットは、何もないのです。


   本当の大物ほど、いつまでも初々しいものです。

   作家の角田光代さんも、そんな大物の一人です。

   彼女とは雑誌の対談をしたことがあるのですが、
   ベテランの売れっ子作家なのにエラそうなところは
   まったくなくて驚いたくらいです。

   当時、彼女は40代だったのですが、
   しゃべると初々しくて少女みたいな人でした。

   毎晩赤ワインを1本飲むほどのワイン好きだったため、
   「先生、休肝日はつくったほうがいいのでしょうか」
   と聞かれたのですが、

   「いや、いりません」と答えると、
   うれしそうに顔を輝かせていたのを今でもよく覚えています。

   大物作家なのに初々しいと、印象がよくなるのは言うまでもありません。

   いつも初々しくてときめいているからこそ、大物作家になれたのでしょう。


   エラそうな人同様、頑固な人にも困ったものです。

   周りの人とトラブルを起こしやすく、ストレスがたまりやすいからです。

   定年退職してから最も嫌われるタイプ、と言われていますが、
   これでは本人も周りの人も、ときめくことができません。


   また、年を取るほど健康面での問題も大きくなってきます。

   頑固では、血液の流れが悪くなりますし、血圧も高くなるからです。

   これでは自然治癒力も弱くなってしまい、早死につながりかねません。

   このことはエラそうな人にも言えます。

   ですから、エラそうな人や頑固な人は、
   健康のためにも魅力的な人になるためにも、
   初々しくなったほうがいいのです。

   そのほうが多くの人から好かれ、ときめく回数も 増えていきます。

     <『「いい人」をやめると病気にならない』SB新書 >

         ・・・

同窓会などで、卒業してから何十年と経っていても、
今でも上下関係を強調し、先輩風をふかせる人がいる。

立場も違い、生きてきた環境も違うのに、
学生の頃のままに名前を呼び捨てにしたり、
エラそうにされると嫌な気持ちになる。

逆に、先輩風をふかされても気にならない人もいる。

年を重ねても可愛げのある人だ。


エラそうな人は、威張り散らしたり、横柄だったり、上から目線だったり、
高飛車で、傲慢(ごうまん)で否定的な人だ。

自己顕示欲が強く、威圧的になることで、優越感に浸るタイプだ。

大声でミスを指摘したり、
威圧的な言動で自分を大きく見せようとする。

つまり、自己肯定感がいちじるしく低いということだ。


「エラそうな人は長生きしない」

頑固で、エラそうな人にならないよう、自らを常に戒めたい。

         <感謝合掌 令和5年7月29日 頓首再拝>

啐啄同時 - 伝統

2023/07/30 (Sun) 05:05:49


        *『光明道中記(7月30日 随所に主(ぬし)となる日)』より

【これは絶対真理、これは対気説法であると云う区別を知って
 絶対真理を摑(つか)むようにしなければなりません
                    (『生命の實相』第十五巻)】


雲門と同時代の禅僧で、法眼宗の開祖である法眼和尚と云う人がある。
なかなか対機説法の上手な人である。

対機説法と云うものは中々難しい。
小学生に大学の講義をしても分らぬ。
猫に小判、豚に真珠である。

大学生に小学の講義をしたのでは判るには違いないが、
面白くないから逃げ出してしまう。
それは啐啄同時(すいたくどうじ)でなければならぬ。

啐(すい)は雛鳥が内からつつくことである。
啄(たく)は親鳥が外から啄(つつ)くことである。

中から出ようとしている悟りのちょうどそこを説いて
引っ張り出してやるようにしなければならない。

児童の教育でも才能が出ようとしている、
その点をその時期を失せずほめて引き出すのが骨(こつ)である。

これが出来なければ教師となり導師となることは出来ない。
禅の真理と同一の真理を説いても、生長の家では病気が治ったり、
他の宗教では病気が治らなかったりするのは、真理が異なるからではない。

雛鳥が内部から啐(つつ)こうとしている其の場所を
ちょうどこちらから啄くからである。

さて或る僧が法眼和尚に問うた。

『如何なるか是れ仏』

法眼はその刹那に答えた『汝は是れ慧超(えちょう)』と。

それによって慧超は悟ったのである。

         <感謝合掌 令和5年7月30日 頓首再拝>

打てば響くが仏道なり - 伝統

2023/07/31 (Mon) 12:13:47


      *『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より

【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
                    (『生命の實相』第十五巻)】

「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。

剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。

「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。

「如何なるか是れ仏」の問いに対して
『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、

仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、
仏が仏であり、始めから成仏しているのが仏であり、
衆生本来仏であると云う意味なども、
この端的の語(ことば)の中に一切が引くるめられているのである。


楠木正成公がまだ若かった頃、
奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。

その雲水に正成公が
「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。

すると、その老僧はそれに応えないで、
「正成! 」とあらためて楠公の名を呼んだのである。

「ハイ」と楠公は覚えず応えた。

「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。

『爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、
 恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。

打てば響くが仏道である。

         <感謝合掌 令和5年7月31日 頓首再拝>

【人間の根はどうしたら養えるか】 - 伝統

2023/08/03 (Thu) 14:27:33


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.27)より

   (致知出版社、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   根は大事である。

   植物が生き生きと生育していくのに欠かせないのが根である。

   土中の目に見えない働きがあって、花は咲き、葉は生い茂る。

   人間も然りである。


   人が人生という時間軸の中で自らの花を咲かせていくには、
   根がなければならない。

   根を養っていない人は、いささかの風にも傾き、倒れる。

   植物も人間も自然の摂理の前には等しく、平等である。


   「八風(はっぷう)吹けども動ぜず 天辺(てんぺん)の月」

   という禅の言葉がある。

   八風とは人心を動揺させる八つの障害のことである。


   ●利(り)・衰(すい) (利益を得る・失う)

   ●毀(き)・誉(よ)  (陰で誹る・ほめる)

   ●称(しょう)・譏(ぎ)  (面前でほめる・悪口をいう)

   ●苦(く)・楽(らく)   (心身を悩ませる・喜ばせる)



   心の根をしっかり養っておくことの大事さを、
   強風の中でも微動だにしない天の月に譬(たと)えて、
   禅者は見事に詠じている。

   では、人間の根はどうしたら養えるのだろうか。



   釈迦は人間を悟りに導く方法として、六波羅蜜(ろくはらみつ)を説いた。


   ●布施(与える)。

   ●持戒(自ら戒めるものを持つ)。

   ●忍辱(にんにく/苦難やいやなことを耐え忍ぶ)。

   ●精進(仕事に一所懸命打ち込む)。

   ●禅定(心を落ち 着かせる)。

   ●智慧(以上の五つの修養に努めていると生まれる)。


   これが 六波羅蜜である。

   これはそのまま、心の根を養う実践徳目であろう。


   中で特に根を養うのに大事なものは、忍辱ではないだろうか。

   人生の艱難辛苦に耐え忍ぶ。

   植物が厳しい風雪や干天にさらされるほど強く根を張るように、
   人間の根もそこに養われるのである。

       <『小さな人生論 3』致知出版社>

         ・・・

本書の中に、相田みつを氏の「いのちの根」と題する詩があった。


  なみだをこらえて

  かなしみにたえるとき

  ぐちをいわずに

  くるしみにたえるとき

  いいわけをしないで

  だまって批判にたえるとき

  いかりをおさえて

  じっと屈辱にたえるとき

  あなたの眼のいろが

  ふかくなり

  いのちの根が

  ふかくなる


「にんげんだもの」(文化出版局刊)より




《何か新しいことをやろうとすると必ず批判される。

 大切なのはその批判が有効なものかどうかを自分で判断することだ。》
  (ジェフ・ベゾス/amazon創業者)


続けて、
「批判されたくないなら、何も新しいことをしなければいいだけだ」と。


そして、多くの人は、自分の理解を超えたものを批判する。

親が子供の飛躍の芽を摘むときが、こういうときだ。


勝海舟の名言がある。

『行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。
 毀誉(きよ)は人の主張、
 我に与(あずか)らず我に関せずと
 存じ候(そうろう)。

 各人へ御示し御座候とも
 毛頭異存(もうとういぞん)これなく候。』



我が行いは自らの信念によるものである。

けなしたりほめたりするのは人の勝手である。

私は関与しない。

どなたにお示しいただいてもまったく異存はない。



八風が吹いても…

人間の根を養うことができる人でありたい。

         <感謝合掌 令和5年8月3日 頓首再拝>

恐山の宿坊に1泊して得られた人生の気づき - 伝統

2023/08/06 (Sun) 07:54:56


    *メルマガ「川島和正」(2023.8.5)より 
 
私は昨日おとといと
本州の最北端青森県下北半島にある
恐山に行ってきました。
 
恐山は、死者がイタコを通じて降臨するということで
昔から有名な場所です。
 
また、少し知る人には
ガスが蔓延していて金属がどんどん錆びていき
スマホやパソコンも壊れていくことが知られています。
 
(中略) 
 
恐山には菩提寺という曹洞宗の寺がありまして
私はその寺の宿坊に1泊しました。
 
そして、そこでは
夜に1時間、住職代理南直哉氏の法話の時間があり
朝に1時間、朝のお勤めの時間がありました。
 
また、受付で、住職代理の著書「恐山」が売っていましたので
その本を読んで学びました。 
 
南氏は、永平寺で20年間修業し
恐山で17年間住職代理を務め

生や死や、善や悪に
毎日のように向き合ってきた人ですので
私は彼の話に興味をもったのです。
 
 
特殊環境に宿泊して、南氏の話を聞いたり、本を読んだりして
得られた一番の話は「何が善か?」という話です。
 
「何が善か?」は環境によって異なり
平和な社会では人ごろしが悪であるが

戦場では善になるもので

絶対善や絶対悪というのは無いということでした。
 
 
しかしながら、南氏が
もっと年上の人から学んできた話によると

周りの人との人間関係が広がっていく行い
深くなっていく行いこそが
善行なのではないかということでした。
 
善いことをやっていれば
人から慕われ、人が集まり人との関係が深くなっていくもので
それを見て、自分の行いが善いものかどうか
判断できるのではないかということです。
 
これも、答えではないと言っていましたが
私はなるほどなと思いました。
 
 
また、だからといって

こびること、友達を作ろうとすることは
良くないということでした。
 

あくまで、善行を最初にやって
その結果として、人に慕われるのがいいわけで
それを目的としてはいけないのです。
 
そして、金に目がくらんで
利益ばかり追求するのも
もちろん良くないということでした。
 
 
必要なお金は稼ぐべきですし
お寺だって稼いでいるわけですが

あくまでベースは
善行であることが大切なのでしょう。
 
そして、善行をやるからこそ
人にそっぽむかれず、人が集まり慕われるというわけです。
 
自己利益目的で人にこびたり、近寄ったりしていく人は
最後に人が離れていき、うまくいかなくなるのです。
 
 
というわけで、私自身も善い行いをしようと思いつつも
つい利益やテクニックを先に意識してしまいがちなので
反省しました。
 

そして、もっと善行を積んで
周りの人の気持ちを
温かくする存在になろうと思いました。
 
困っている人がいたら助けたり
暗い人がいたら明るく声をかけたり
レストランには良いレビューを投稿したり
出来ることからやっていきたいですね。

https://ameblo.jp/kk5160/

      <感謝合掌 令和5年8月6日 頓首再拝>

「証上の修」 - 伝統

2023/08/08 (Tue) 06:57:53


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月8日)より

知的に知ることと、信仰的に知ることと、それを思念することとは、
いずれも別のことである。

知的に知っても信仰的に信じていない人もあるし、
信仰的に信じていてもそれを知的に知らない人もある。

知的に知り、同時に信仰的に信じながら、
なおかつその人から不幸が消えないならば、
それは思念が足りないのである。

思念は一種の実行であり、力であるのは、
油田を掘鑿(くっさく)するようなものである。

科学的にここに豊富な油田があることを測定しえ、
そして石油の存在を信念的に信じていてさえも
掘鑿しなければ石油が噴出しないのと同じように、

『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、
神そのままの分け”いのち”にて完全なることを知り、
信仰的にそれを信ずるとも、神想観を修しなければ、
その実相の完全さが実現しないことがある。

道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。

真宗でも、どうしないでも救ってくださっている
阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。

           <感謝合掌 令和5年8月8日 頓首再拝>

「道は邇(ちか)きにあり」 - 伝統

2023/08/10 (Thu) 10:09:03


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月10日)より

世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが
自分にとって最も消化しやすい栄養であるのである。

手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。

邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものは
ついに天国に到ることができないのである。

「道」は
 ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、
太陽は毎朝東から差しのぼってなんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

      <感謝合掌 令和5年8月10日 頓首再拝>

【相手に恥をかかせない、という気持ち】 - 伝統

2023/08/11 (Fri) 10:54:27


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.5.5)より

   (正法寺住職、愛知専門尼僧堂堂長、
    青山俊董(しゅんどう)氏の心に響く言葉より…)

   《客の粗相(そそう)は亭主の粗相なり》

   ある会合で、曽(か)つて放送関係の仕事をしていたH氏が
   こんな話をしてくれた。


   「京都の放送局に赴任していたころが一番たのしく、
    学ばせていただくことも沢山ありました。

    中でも忘れられないことは、
    お茶の家元のO家を訪ねたときのことです。

    初めにお抹茶を出してくださいました。

    私は無作法にもビールかワインを飲むように
    片手で持ちあげ、グッと飲みほしたのです。

    ところが家元御自身が 間髪を入れず
    片手で抹茶碗を持って飲まれましてね。

    素人の私もさすがにハッと致しました。

    同時に私に恥をかかせまいとして、
    私と同じように召しあがった家元さんの
    お人柄にすっかりほれこんでしまいました」


   400年の伝統を背負い、日本の茶道界を代表する家元が、
   さり気なく客にあわせて、
   ワインのグラスを持つように片手で持って召しあがる。

   よく存じあげている宗匠であっただけに、
   ひとしおの思いでH氏の話に耳をかたむけながら、
   エリザベス女王の逸話を思いおこし、H氏に語った。


   「昔、エリザベス女王が、E国の国賓を招いた晩餐会の折のこと。

    初めに手を洗う水を入れた器が出されたそうです。

    国賓は喉がかわいていたのでしょうか。

    その水を飲まれたそうです。

    並みいる人々が失笑しそうになったとき、
    女王御自身がすかさずその水をお飲みになられたので
    同席の人々もしぶしぶ飲んだというんですね。

    相手に恥をかかせてはならないという
    女王のやさしいお心づかいに頭が下がりますね」と。


   「客の粗相(そそう)は亭主の粗相なり。
    亭主の粗相は客の粗相と思ふべし。
    味はふべき事なり。

    客の心になりて亭主せよ。
    亭主の心になりて客いたせ。
    習(ならい)にかかり、道理にからまれ、
    かた苦しき茶人は、田舎茶の湯と笑ふなり」

   これは江戸時代、松江の藩主であり、
   茶道の世界でも「不昧(ふまい)流」の祖といわれる、
   松平不昧公の言葉である。

   客に恥をかかせるのは亭主の心が
   ゆきとどかない証拠であり、

   又亭主に恥をかかせるのは
   客の心の運びが足りない証拠だというのである。

   家元のとられた姿は、まさにこの心を
   地でゆくものといってよいであろう。


   無量寺では年に一度野良着茶会を催す。

   “茶の作法は知らないが、たのしんでみたい”
   と思われる方を招くのを目的とし、
   野良着のままでという気楽な茶会で ある。

   担当する弟子たちに私は繰り返し云う。

   「相手に恥をかかせないように。
    飲み方を教えてくれとたのまれたときだけ
    お教えするように」と。

   相手に恥をかかせない、という気持ちを心に留めたい。

        <『さずかりの人生』自由国民社>

       ・・・

我々は、色々な場面で、
知ったかぶって口をはさんでしまったり、
教えようとしたりする。

それは、「相手より優位に立ちたい」
とか「見栄をはる」「優秀だと思われたい」
などの心理が深層にあるからだ。

わざと難しい言葉を使ってみたり、
知ってる知識を披露したり、
間違ったことを指摘したり、教えたりする。

知ったかぶりの人は、
まわりからは偉そうに見え、結局は嫌われる。


また、自分が無知だと思われたくないため、
知らないことを素直に相手に聞くことができない。

そして、知ったかぶって、
つい適当なことを言ってしまう、イタい人でもある。

目だちたがり屋で、底が浅い人だ。


「惻隠(そくいん)の情」という言葉がある。

弱者へのいたわりやあわれみの心であり、
失意に打ちひしがれている敗者への思いやりの心をいう。

日本古来の武道には、この惻隠の情があった。

だが、昨今では、
勝ってガッツポーズをしたり、
勝ち誇るような高笑いをする者さえいる。

敗者や弱者、虐(しいた)げられた者に対したとき、
人間の本当の姿がわかる。


まさに、相手に恥をかかせない、という気持ちも
この「惻隠の情」からきている。

知ったかぶりをしたり、勝ち誇ったりしないこと…


「客の粗相は亭主の粗相なり」という言葉を胸に刻みたい。

            <感謝合掌 令和5年8月11日 頓首再拝>

【「優勝劣敗」のはなし】 - 伝統

2023/08/13 (Sun) 07:15:01


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.21)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「優勝」という言葉があります。

   優秀な者が勝っていくわけですが、
   「優勝」という言葉は、実は、四文字熟語の上2つの文字です。

   その四文字熟語とは、「優勝劣敗」という言葉です。


   「優勝劣敗」とは、優れた者が勝ち、劣った者が負けるという意味でした。

   つまり、勝った人間は優れていて、負けた人間は劣っているんだという、
   あまり楽しくない考え方から生まれた言葉だったのです。

   「優勝劣敗」という言葉そのものが、人間が作った言葉です。


   もともと宇宙には優れているとか劣っているとかという事実が
   存在していません。


   たとえば、走らせると速い子どもがいます。

   楽器をやらせると上手に演奏する子がいます。

   絵を描かせるととても楽しい絵を描く子がいます。

   さあ、この子どもたちは、誰が一番優れているのか。

   誰かが一番抜きんでて優れているなどとは言えません。


   もともと宇宙には、そういう比べ方が存在しないからです。

   宇宙は、あるいは神と呼んでよいかもしれませんが、
   そういう方々は、人間をそれぞれに持ち味のある、
   それぞれに得意なジャンルがあるようにつくりました。

   総合的に誰かが誰かより優れているなどということは、
   宇宙的に存在しないのです。


   しかも、私たち一人ひとりは、生きていること、喜ばれて生きることが
   社会に対して貢献をしていることなのですが、

   それがどのようなかたちで貢献していくのか、
   どのように喜ばれているのかということを
   自分で考えるようにすればいいようです。

   みんなそれぞれに社会に対して貢献をするように、神によって、
   宇宙によって設定をされて、それでこの世に出てきました。

       <『啼かなくていいホトトギス』中経出版>

        ・・・

「優勝劣敗」とは「弱肉強食」の法則だ。

それを遺伝子の泰斗、村上和雄氏はこう語る。


『産業革命以後の社会は、
 ダーウィン進化論の世界であったかもしれません。

 強いものが勝って生き延び、弱いものは淘汰されていく。

 だが、そのような社会ができあがったのは、
 もとを正せばダーウィン進化論が「正しい」という前提があったからです。

 人類は百年以上もの間、生存競争に勝ち抜いたものが生き残るという
 ダーウィンの説を主流においてきましたが、

 科学が進歩して生命の仕組みが解明されるにつれて、
 まったく違った考え方が大きく浮上してきているのです。

 その一つに共生的進化論というのがあります。

 人間にかぎらず生物は、お互いに
 助け合いながら進化したという考え方です。

 けっして強いものが弱いものをやっつける
 というかたちで生まれたのではなく、

 それぞれ独自のはたらきをする単純な生命体が、
 互いに助け合ってつくり出されたと考えるのです。』

     (人生の暗号 /サンマーク文庫)より


この「強いものが勝って生き延び、弱いものは淘汰されていく」という
優勝劣敗の法則は、ビジネスの世界ではあたりまえだとされてきた。

その究極の現実が「GAFAM」による、さらなる寡占化だ。

しかし昨今、その「GAFAM」の業績に影が見えはじめているという。

それが、「非中央集権型」のWeb3の台頭だ。


また現在は、
「ソーシャルビジネス」という社会問題を解決するビジネスの
スタートアップも増えている。

競争原理という、優勝劣敗の理論は、今後、絶対ではないということだ。


村上和雄氏は、最後に生き残る人々は「譲る心を持った人」だという。

そして同様に、小林正観さんは、

『人の幸・不幸の感情は、すべて、
 「人と比べること」「競う心」「戦う心」「争う心」から始まる』

という。


優勝劣敗の理論を、今一度考えなおす必要がある時代がやってきた。

            <感謝合掌 令和5年8月13日 頓首再拝>

他を羨むな! 自己の内に宿る価値を掘れ! - 伝統

2023/08/26 (Sat) 05:01:32


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月26日)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。自分が貧弱なままで諦めておれということではない。
自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

      <感謝合掌 令和5年8月26日 頓首再拝>

自己の内なる敵を殺す - 伝統

2023/08/28 (Mon) 04:31:36


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月27日)より

愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。
愛憎の心は妄心である。
妄心とは本来”ない”心である。

本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。
愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、
自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。

無敵流の兵法の極意はここにある。

      <感謝合掌 令和5年8月27日 頓首再拝>

善智識に遭い、善き書物に触れる、それは如来より廻施(えせ)せられたる機縁 - 伝統

2023/09/12 (Tue) 14:05:45


     *「光明道中記」(9月12日《神に催される日》)より抜粋 

 【吾が生命は、よき水脈に穿たれた井戸のように汲めども尽きぬ。
                (『生命の實相』第十一巻)】

「信心よろこぶそのひとを如来とひとしと説き給う。
 大信心は仏性なり。仏性すなわち如来なり」
         (『弥陀和讃』・親鸞聖人)

信心は内部に宿る仏性の催しなのである。

而も仏性はどうして内部から開発され催して来るのであるのか。
善智識に遭い又は善き書物に触れることである。

善智識に遭い、善き書物に触れるのは「自己のつくれる過去の業」によるか
 ―― そうすれば、自力となるのである。

然らず、それは如来より廻施(えせ)せられたる機縁である。仏縁である。

仏縁おろそかならず、善智識はその人にとり弥陀であり、
善き書物はその人にとり弥陀の説法である。

      <感謝合掌 令和5年9月12日 頓首再拝>

一生懸命は最高の御祓に成ります - 伝統

2023/09/15 (Fri) 12:39:10

一生懸命は最高の御祓に成ります
Web:伊勢ー白山 道(2023-09-15)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/d81b0d1f69617b1afebb026be2009421

      <感謝合掌 令和5年9月15日 頓首再拝>

【楽しみながら生きていく】 - 伝統

2023/09/17 (Sun) 12:50:36

       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.5.17)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   普通の人は、苦労して、苦労して、やっと成功をつかむと思ってるんだよね。

   だけど、それは、私は、楽しみながらでもつかめるんだ、って
   いうふうに思ってるんだよね。

   苦しんで、努力してやっとつかむ、
   だから、仕事は大変なものなんだ、と思っ てる人と、

   富士山だって、もうつらくて、つらくてと 言いながら、上に登る人 もいるけど、
   楽しいねえとか、景色いいねえとか、花が一個咲いてたって感激 したり、
   そう思いながら、登ることもできるんですね。


   だから、楽しみ型の経営者が、あまりにも少ないということと、
   実戦で私が勝たないと、楽しんで仕事する経営者がふえていかないからね。

   勝つというのは、ちゃんと利益を上げて、
   ちゃんと儲かっていれば、こういうやり方もあるんだとかね、
   部下をどならなくてもいいんだとか。

   ほんとうに、人に親切にしようとか、
   なんか甘っちょろいこと言ってるようだけど、
   実際にやってみるとけっこう大変なんですよ。

   今日一日、人に親切にしようと。
    これはほんとうに気持ちいいんだよ。


   だけど、毎日やるって大変だよね。

   奉仕のつもりで働こうって、それも楽しくだよ。

   楽しくね、やってみる。


   楽しみ型と苦しみ型があるんだとしたら、楽しみ型の代表になりたい。

   楽しみっていうと、パチ〇コに行くとか、
   競馬に行くとか、遊びに行くことばっかり考えるんじゃないですよ。

   そうじゃない。

   仕事を楽しみながらやる。


   100大変なことがあったら、
   100全部は楽しくならないかもしれない。

   でも、楽しいねとか、こうやろうよ、とか言ってると、
   100の苦しみが50でも30でもへるんじゃないか。

   楽しみながらやる、どうせやらなきゃならないんだから、

   苦しみながらやるんじゃなくて、楽しみながらやる。

   楽しみ組が勝ったよって言いたいんです。


   今、そういう時代になってきたから。

   昔は野球でも怒ってばっかりいる監督とか、
   バレーボールでも女の子に球ぶつけて悦に入ってた監督とかもいて、
   あれはあれでよかったんだけど、

   今は時代が変わって、
   怒ってばかりいる人は、なぜか勝てないんだよね。

   いい時代が来たよね。


   時代、時代で悪いことはないんだけど、楽しみながらやろうよって。

   楽しみながら一番になりたいっていう。

   楽しみながらでもできるんだよっていうことが伝えられたらうれしいし、
   今もそう思ってやってます。


    《一輪の花に感激しながら、山に登ることもできる》

       <『斎藤一人 幸福力』マキノ出版>

        ・・・

小林正観さんは、
すべてこの世に起こることは、
良いも悪いも、幸も不幸もなく、「現象は全部ゼロ」だという。

それを「不幸だ」、「幸福だ」と思う自分がいるだけ。

苦労も同じで、
そのことを「苦労」と思う人がいて、「楽しい」と思う人がいるだけ。


商店街のお店の後継者問題がよく話題になる。

跡継ぎがいないという話だ。

もし、その商店主が「毎日が苦労の連続だ」「しんどい」「苦痛だ」と
不機嫌に言っていたら、跡を継ぐ人がいるわけがない。

「仕事は楽しいなぁ」
「毎日が面白い」
「エキサイティング!」

と笑って毎日を過ごしている商店主がいたら、
誰だってそのお店をやりたくなる。


斎藤一人さんのいう「楽しみ型の経営者」だ。

これは商店街のお店だけでなく、どの商売にも言えること。

そのためには、
「儲け方が上手」でなければならないし、
「人間関係も上手」でなければならない。


笑いながら、楽しみながら、生きていける人でありたい。

・・・

<参照>
奇想天外が本当の世界
伊勢ー白山 道(2023-09-17)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/5e09938c3f289d46589db9e4cbdbd292

      <感謝合掌 令和5年9月17日 頓首再拝>

保身の術 - 伝統

2023/10/01 (Sun) 09:55:55


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月はじめの言葉)より抜粋

あらわれて出ることだけを知って
隠れることを知らない者は自己を滅ぼすのである。

緊張ばかりを知って弛緩の道を知らない者も自己を滅ぼすものである。

昼のみあって夜なきときは人はついに滅びてしまうのであろう。

みずからを護る術を知る者はよくみずから隠匿する者である。
水遁、火遁、自由自在にして、変幻出没するものでなければ、
大をなすことは出来ない。

(中略)

保身の術は自ら韜晦(とうかい)して顕れざる位置に隠れ、
人を押し上げて人をも生かし、自分も生きるのである。

自分が暫く顕れることを焦ったために、
自分自身が出る杭として壊滅するのみかは、
自己に頼っていた幾十万の人々を帰趨する処なからしめる。

その人のためを思いて顕われた位置に置かない
私の心を汲むものは稀である。

        <感謝合掌 令和5年10月1日 頓首再拝>

【しゃべりすぎはカッコわるい】 - 伝統

2023/10/03 (Tue) 11:45:31


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.5.12)より

 (曹洞宗徳雄山建功寺住職、枡野俊明氏の心に響く言葉より…)

 《言葉の多き》
   (しゃべりすぎてはいけません)


 現代社会を特徴づけているのが 「言葉の軽さ」ではないかと思います。

 そのこととコインの裏表になっているのが、言葉の多さ、しゃべりすぎです。

 軽い言葉が縦横無尽に、
 有り体にいってしまえば、野放図に交わされている。


 良寛さんには嘆かわしい時代風景でしょう。

 この戒めはいかにも禅僧らしいものといえます。


 禅には「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。

 ほんとうに大切な真理や教え は言葉や文字では伝えることはできない、
 というのがその意味。

 語る者は沈黙に思いを込め、聞く者は沈黙に思いを汲みとる。

 それが究極の禅の世界のコミュニケーションといっていいかもしれません。


 もちろん、それは至高の域ですが、
 日常の会話でもしゃべりすぎると、
 かえっていいたいことが伝わらない面があるのではないでしょうか。

 しゃべりすぎるのは、
 思いついた言葉をそのまま口にするからです。

 言葉が吟味されていないぶん、多くなるのです。

       <『一日一戒 良寛さん』自由国民社>

     ・・・

枡野俊明氏は
「沈黙」についてこう語っている。


『日本には「間」という
 すぐれた話し方の技法があります。

 いうまでもなく、
 言葉が語られない沈黙の時間ですが、
 それがきわめて重要なのです。

 間が相手の想像力を掻き立て、
 その想像力によって、
 相手は言葉にはならないこちらの思いや
 心情まで汲みとることができるのです。

 沈黙については、禅にこんな言葉があります。

 「維摩(ゆいま)の一黙(いちもく)、雷の如し」

 維摩は在家ながらとても秀でた仏弟子だった人ですが、その維摩が
 一瞬沈黙したときには、雷鳴が轟(とどろ)く
 ようなインパクトがあった、ということです。』



多くの人は、
他人がまだしゃべっているのに、それを遮(さえぎ)って、
自分の話をしてしまう。

人の話を、
最後まで聞いていることができない。

自分の話を聞いてもらいたくて仕方がないからだ。


一日一戒…

「言葉の多き」

しゃべりすぎはカッコわるい

      <感謝合掌 令和5年10月3日 頓首再拝>

相手に言う機会を「待てる能力」の有無 - 伝統

2023/10/06 (Fri) 09:28:49

(上記の話材に関連して)

相手に言う機会を「待てる能力」の有無
伊勢ー白山 道(2023-10-05 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/9b95db201213780d2aceff58d37b1b1f

      <感謝合掌 令和5年10月6日 頓首再拝>

精進堅固 - 伝統

2023/10/11 (Wed) 11:41:19


    *「光明道中記」(10月11日《精進堅固の日》)より

【悟りの中間過程にある時は、信念を以て怠らず進め。
                    (『生命の實相』第六巻)】

波羅蜜多(神格の内流による自覚)を得る方法に尚三つある。

尸(し)羅波羅蜜多(持戒波羅蜜多)、せん提波羅蜜多(忍辱波羅蜜多)、
毘利耶(びりや)羅蜜多(精進波羅蜜多)の三波羅蜜多がそれである。
これはいずれも「良心として顕れる神格の内流」に関係している。

神格の内流の愛行面が「布施」であり、
神格の内流の悟道面が般若と禅那(換言すれば智慧と静慮)とである。
そして神格の内流の道徳面又は良心面が持戒、忍辱、精進である。

神格(仏性)そのものは一つであって不可分であるけれども、
それに波長を合わせる方面から言うと、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の六つを立てて六羅蜜多としたのが
仏教である。

生長の家では忍辱の方面はあまり言わぬ。
如何なる不遇、不幸、逆境、侮辱に対しても克(よ)く耐え忍ぶことによって
仏性を開顕せんとする忍辱に代って感謝を強調したのである。

無理に「怺(こら)える」のでは和解が出来ていないと説かれている。
感謝が出来たとき「怺(こら)える」ことが要らないので
辱(はずかし)めが消えるのである。

           <感謝合掌 令和5年10月11日 頓首再拝>

どんな中でも、気楽に生きて見せましょう - 伝統

2023/10/14 (Sat) 09:07:23

どんな中でも、気楽に生きて見せましょう
伊勢ー白山 道(2023-10-11 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/c51a2bfe162c003b7b5b7becbd9f1406

           <感謝合掌 令和5年10月13日 頓首再拝>

真理を生きる - 伝統

2023/10/24 (Tue) 09:45:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月24日)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、あれほど真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。

           <感謝合掌 令和5年10月24日 頓首再拝>

永遠価値のものを愛し、考え、求めよ! - 伝統

2023/11/06 (Mon) 12:21:21


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より

万事物質的なものは遷りかわるものであり、
その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。

われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。

すべて心を労してもとめても、
やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。

神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。

忠、孝はむろんのこと、
すべて肉体を超えて永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。

           <感謝合掌 令和5年11月6日 頓首再拝>

【「誰かを応援する」という生き方】 - 伝統

2023/11/08 (Wed) 08:45:31


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022年04月27日)より

   (A・マクギニス氏の心に響く言葉より… )

   トーマス・エジソンは七歳にして、学校の教師に教育の見込みがない
   として見限られた。

   その教師はエジソンがいる前で教育委員にこう言ったのだ。

   「この少年は頭が混乱しているので、これ以上学校へ来ても無駄です」


   偉大な人々が無名時代に、これと似たような形で誤った烙印を押された
   ケースがいかに多いか......これは注目すべき点だろう。

   私は以前大学の掲示板でとても面白いものを見かけた。

   教師が担任の子供にいかに誤った評価を下しているかを示す見本一覧表である。

   それは以下のようなものだ。


   《アブラハム・リンカーン》

   四カ月しか学校へ行っていないことを思えば学業成績は大変優秀。
   しかし空想家でよくバカげた質問をする。


   《アルバート・アインシュタイン》

   彼はクラスでも特殊な存在。十歳になるのに
   ようやく簡単な読み書きができるようになったばかりである。
   上達の様子は見られるが、
   この子に対してあまり高い成果を求めるべきではない。


   《アメリア・イヤハート》(女性パイロットの先駆者)

   私はアメリアのことを大変心配している。
   この少女は利発で好奇心に満ちているが、考えることは無謀で、
   関心はもっぱら昆虫や床を這いまわっている虫に向けられている。

   何とかすればこの少女の好奇心の対象を
   女の子らしいものへ向けることができると思うのだが......


   名テノール歌手のカルーゾーは教師から悪声だと言われた。


   探検家として有名な海軍少将のバードは
   「軍務に不適切」とされ海軍を退役している。


   また『若草物語』の作者ルイザ・ メイ・オールコットは編集者に
   「大衆にうけるベストセラーは決して書けないだろう」と
   言われたことがある。


   こうした話のおもしろさは次の点にある。

   教師や上司といった権威ある人間が自分の運命の決定者ではないことを、
   偉大な人々は人生の初期で早くも理解したことがはっきりとわかるのだ。

   彼らは自らの運命の決定権を自分自身に与えたのである。

   努力をすれば逆境に打ち勝てることに気づき、
   上からの否定的な予想が間違いであることを
   はっきり証明してみせたのだ。

   この強靱な精神力こそが、彼らのその後の人生の数々の挑戦において
   強力な武器となっているのである。

       <『今できる事から始めよ!』三笠書房>

            ・・・

小林正観さんは、天才たちが育った家には共通項があった、と言います。

それは天才たちには、同じタイプの母親たちが存在したということです。

同じタイプとは、

子どものいいところを探し、称賛し、褒めたたえた母親であった、

ということ。


本書にあるように、天才たちに強靭な精神力があり、
教師や上司にではなく自分に決定権があると知っていたとしても、
誰かがその才能を認めなければ、
何人(なんびと)たりとも世に出ることはできません。

それはスポーツの世界でも同じで、
指導者や監督に見出されなかった天才プレーヤーはいません。

誰にも引き立てられることなく、
自分一人だけで有名になったプレーヤーはいないということです。


また、明治維新は20代から30代の若者が活躍しましたが、
これもそれらの人物を認め、応援した年配者や老人がいたということです。

たとえ、学校で認められなかったとしても、
その人の良い点や才能を認めてくれる人が一人でもいる限り、
その人は伸びることができます。

まさに、親や年配者の役割がここにあります。


自分が前面に出るのではなく、
才能ある若者をいかに引き立てるか、応援するかです。

人のいいところを探し、称賛し、褒めたたえる…

「誰かを応援する」という生き方も素敵です。

       <感謝合掌 令和5年11月8日 頓首再拝>

「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切 - 伝統

2023/11/21 (Tue) 10:22:12


   *「光明道中記」(11月21日《味わい深い人になる日》)より

【家族に礼を言うこころになれ。(『生命の實相』三巻)】

親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。

弟子が下手に音楽を奏するならば、
その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。

禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、竹を憎むからではなく
竹を愛して雪を払ってやるためである。

叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。

何事が起っても、淡々として空言のような顔をして
空嘯(そらうそぶ)いている人には深い味わいは感じられない。

味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。

じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、
味方のチームが優勝したといっては歓喜の乱舞をしたい思い、
病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・

現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、
その時、その時の、出て来ることに
真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。

併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。

文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。

          <感謝合掌 令和5年11月21日 頓首再拝>

人間の偉大さは、程よい温かさと柔かさにある - 伝統

2023/11/29 (Wed) 10:01:57


    *「光明道中記」(11月29日《心、水の如く柔らかくなる日》)より

【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。
                         (『百事如意』)】


生きているものは温い。

あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。

調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、程よく温かいところに生命は大きく顕れる。

天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。

自然は《ひとり》高からんとする者を崩して
低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。
だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。

水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。

水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。

水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。

          <感謝合掌 令和5年11月29日 頓首再拝>

《気尚(けだか)く生きよう!》 - 伝統

2023/12/01 (Fri) 11:48:17


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より

もっともっと気尚(けだか)く生きよう。
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。

汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

       <感謝合掌 令和5年12月1日 頓首再拝>

真理の生活 - 伝統

2023/12/05 (Tue) 11:39:08


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈(はげ)しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと誤解せられることあり。

心のうちにでも言葉に現わしても、行ないにあらわしても、
人を傷つけてはならない。
誠実であれ。虚偽であってはならない。

素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。

値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いずれにせよなんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みとは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

       <感謝合掌 令和5年12月5日 頓首再拝>

神に対して商売的な功利主義で相対することは間違い - 伝統

2023/12/12 (Tue) 12:15:57


       *「光明法語」(12月12日《商売主義を排す》)より

イエスはユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りのちかづいたとき、
イエルサレムの宮の境内に、牛、羊、鳩を売るもの、

両替する者などが坐っているのを見て縄の鞭をつくり、
羊をも牛をもみな宮より逐(お)い出し両替する者の金を散らし、
その台を倒し、鳩を売る者に

「これらの物を此処より取去れ、わが父の家を商売の家とすな」
と言った事が聖書に書かれている。

イエスは神を利用して儲けるところの商売主義に反対したのである。

神に対して商売的な功利主義で相対することは間違いである。

        <感謝合掌 令和5年12月12日 頓首再拝>

生命の動く儘に振舞う - 伝統

2023/12/13 (Wed) 09:40:16


       *「光明法語」(12月13日《形式主義を排す》)より

イエスは暴力を用いなかったか、絶対に無抵抗主義であったかどうか
と云う問題についての議論の際引用せられるのが此の『縄の鞭』である。

イエスは形式主義者ではなかった。
『つるぎを執る者は剣に滅ぶ』といったイエスも剣のほかに
『縄の鞭』は使ったのである。

イエスは『審判(さば)く勿れ』と教えたが、
彼は激して形式主義のパリサイ人を審判いている。

また『審判(さばき)は子にゆだね給えり』とも言っているイエスは
生命主義者であり、生命の動く儘に自由に振舞ったのである。

        <感謝合掌 令和5年12月13日 頓首再拝>

自分の過去の妄執を斬れ - 伝統

2023/12/19 (Tue) 11:39:46


       *「光明道中記」(12月19日《妄執を斬る日》)より抜粋

憎んでいなくとも斬らねばならぬことがある。
愛していても斬らねばならぬことがある。

歌舞伎座で、「天一坊と大岡越前守」の芝居を観たら、
此の創作での天一坊は吉宗将軍の本当の落胤なのである。

しかし吉宗の愛の故に、それが本当に落胤だとわかったら、天下みだれ、
将軍家の家庭みだれ、由々しき大事に立到ることを先覚して、
「落胤ではありませぬ」と大岡越前が苦衷をしのんで言う。

吉宗将軍は「わしに瓜(うり)二つの姿形をしていると云うが、そうであるか」と訊く。
大岡越前は一寸躊躇して「左様でございます」と言う。
「無礼者奴が! わしに生き写しとな。斬れ 」と言う。

愛しているが故に自分の実子を斬れと言ったのだ。
 
斬れ!  自分の過去を。

            <感謝合掌 令和5年12月19日 頓首再拝>

常に、後味のよいことを考える - 伝統

2023/12/25 (Mon) 09:28:56


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月25日)より

憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを
考えるようにしなければならぬ。

ピシリと相手をやっつけても、
そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。

勝つとは、後味までも歓べることである。

        <感謝合掌 令和5年12月25日 頓首再拝>

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2023/12/29 (Fri) 09:48:31


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日)より

「勝てる」という自信はよいが、
「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。

「勝てる」という自信はその人を寛大にし、
「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。

難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、
それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうとするのであるから、
その人の心中は自己葛藤に満たされる。

自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、
自己の健康を傷つける。
この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月29日)より

人々よ、今日(きょう)から
他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。
人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

            <感謝合掌 令和5年12月29日 頓首再拝>

神の心、太陽の心、親分の心 - 伝統

2023/12/30 (Sat) 10:50:02


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月30日)より

健康が心の中にあるのみではなく、財福もその人の心の中にあるのである。

親分の心になることが、自分自身の運命を親分にまで推し進める。
いつまでも子分の根性で功(こう)を同僚の間で争い、
眼を偸(ぬす)んで安らかさを希(こいねが)っているようなことでは、
その人の運命はいつまでも子分であるのであろう。

親分の心の最大なるものは、神の心である。

すべてを赦し、すべてのものを太陽のごとく照り、温(あたた)め、
みずからは光線と温熱と生命(せいめい)を投げ出すのみで、
敢(あ)えてみずからは求めぬのが神心(かみごころ)。

太陽の心。太陽の心。これが親分の心である。
かくのごとき人はよく衆(しゅう)を率(ひき)い
大いに伸びるのである。

            <感謝合掌 令和5年12月30日 頓首再拝>

天鼓と曼陀羅華とで飾られたる天国 - 伝統

2024/01/03 (Wed) 08:21:24


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月3日)より

人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。
神の国とは天人常に充満し、絶えず天鼓(てんく)の響きを妙(たえ)に、
摩訶曼陀羅華の花降る世界である。

天鼓(てんく)とは天の鼓ではない。
人間の人を賞(ほ)め讃える声である。

曼陀羅華とはインドにある華(はな)ではない。
華(はな)の笑(え)むように和やかな微笑、深切な言葉、思いやりのある行ないが
天上から降る曼陀羅華である。

これら天鼓(てんく)と曼陀羅華とで飾られたる妙(たえ)なる世界の姿が天国である。
天国とは別の世界のことではない。
われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。

・・・

<参照>

これから揺れる船に乗っていても大丈夫に成れる秘訣
伊勢ー白山 道(2023-12-11)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/58a6dabd2c87e23a9305272868e0a547

           <感謝合掌 令和6年1月3日 頓首再拝>

家族を愛せよ - 伝統

2024/01/04 (Thu) 12:34:22


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月4日)より

何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術(すべ)である。
それができなければ人間生活の土台が完成したとは言えぬ。

まず手近にある家族を愛せよ。
そこから天国が生まれてくるのである。

われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、
幸福とはどこか外のところにあるように思っていたが、
脚下(あしもと)になるのである。

まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、
朗らかな韻(ひびき)のある語調で投げかけよ。
これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。

気がついたら今日(きょう)からそれを始めよう。

           <感謝合掌 令和6年1月4日 頓首再拝>

善事をなすという習慣を続ける - 伝統

2024/01/05 (Fri) 10:51:04


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月5日)より

一日だけで、やりかけた善事を止めてしまうような者は、
何事も成功から墜落する。

つまらないことのようでも小さき善事を継続することによって、
その人の魂は進歩し、環境は天国化するのである。

一日ぐらい懶(なま)けてもいいだろうというような考えから、
善事をなす習慣をたった一日廃絶したことによって
堕落した人は世間にたくさんある。

昨日(きのう)きめた、
朝起きた時に家族一同に優しい言葉を朗らかな調子で
投げかけることを今日も続けなければならない。
そしてさらに進んでいっそうの善事をつけ加えることをしたい。

食膳で感謝することである。
食物の本源である神の生かす力に、それを造ってくれた百姓の労苦に、
それを調理してくれた妻・娘または召使にである。

食物はまずくとも決して小言を言わぬことである。
食物の小言を言ったために終日その家庭が不快になったような経験は、
人類の誰でもが持っていることである。

食物そのものよりも、心の愉快さと、空腹とが食物の味を増すのである。
遠足に行って食べる梅干と握り飯の美味しさを思えば、
このとこの真理は解る。

心が愉快でないときどんな食物もまずい、
まずいのは自分自身の心の罪であり、
料理をしてくれる他(た)の家族や召使の罪ではない。

空腹でないために、美味しくないのは、
習慣に捉えられて空腹でないのに食事をするためである。

精神的に進歩したい人は、朝食を廃して、
出勤前の2時間を善き読書に費やすがよい。
毎朝2時間の読書の習慣は、その人をかなり向上もさせれば、
博学多識にもする。

時間がないという者は、時間を造らない人のことである。
時間は、他の多くの道具などと同じく、
人間によって製造せられるものである。

           <感謝合掌 令和6年1月5日 頓首再拝>

仕事の秘訣 - 伝統

2024/01/06 (Sat) 10:48:49


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より

たえず活(はたら)いているということが喜びの源泉である。

活(はたら)かないものは、
何か自分の内部から気がとがめるあるものを感ずる。
この気がとがめる囁きをごまかすために多くの人は
外面を麻酔する誘惑に身を投ずる。

「小人(しょうじん)閑居すれば不善をなす」というのは、
働かないものが内部に感ずる良心の囁きをごまかすために
誘惑に身を委(まか)せることをいう。

酒や麻酔薬で内部の囁きをごまかしてみても本当の幸福は来ぬのである。
ごまかしの生活の中には必ず何か暗いものがある。

本当の幸福というものは暗い生活からは生まれぬ。

暗い生活をごまかしごまかしして偽りの快感らしい生活を送るのは、
湿疹(しっしん)の瘡蓋(かさぶた)の痒きを
掻(か)いてごまかすところの快楽である。
掻けば掻くほど、魂は爛(ただ)れ、みぐるしい膿血(のうけつ)が
流れるのである。


常に人の《ため》になる仕事、常に世の《ため》になる仕事、
たゆみなくかかる仕事に従事している人には魂の喜びが伴う。
仕事が無上の喜びとなり、仕事の中に休息と慰安とがある。

金(かね)を貰って働いている人も、
金を貰って働くと思えばその時から魂の喜びは消えてしまう。

金(かね)を頂くのは、
それが多いにせよ少ないにせよ神様から恵まれたものであると感謝し、
仕事は仕事で人のため世のためへの自分の魂の献(ささ)げ物であると思って、
人のために尽くすという喜びの中に仕事をするがよいのである。

かかる仕事の中からは不断の喜びが湧く。
金と仕事とを交換的に考えてはならぬ。

仕事はいかなる「金(かね)」よりも尊いものであるがゆえに、
仕事のために「金(かね)」を貰っているという考えが起こるや否や、
仕事の歓びは半減される。

仕事を常に支配すること。
仕事に支配されてはならぬ。
仕事を追い回すことは、仕事から追い回されない秘訣である。

仕事に予定を立てておいて、そのゴールまで突進するのは
仕事を捗(はかど)らせる良き方法である。

しかし、ゴールに到着しない日があっても焦(あせ)ってはならぬ。
一日の労は、一日の労で足りるのである。

常に働いていながら、その仕事が捗らないのは、
何か神の摂理(おぼしめし)があるのであろうと、
またそのことに感謝するがよい。

そこからいらいらした心持(こころもち)が
和(なご)やかになり、平和が魂に戻ってくるであろう。

急がず、たゆまずに進むのが仕事の秘訣である。

        <感謝合掌 令和6年1月6日 頓首再拝>

緩急自在な生活 - 伝統

2024/01/07 (Sun) 11:58:25


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月7日)より

常に仕事をすると言っても、緩急がなければならぬ。
緩急のない生活は、張り切ってばかりいる弓の弦(つる)のように、
次の矢をつがえることができぬ。

一張(ちょう)一弛(し)の交代によって弓の矢は的(まと)を射抜(いぬ)く。
張り切ってばかりいる弦(げん)はついに切れる。

さればといって、仕事をする時に懶(なま)けよと言うのではない。
弓を射るときには一心(しん)でなければならぬ。
仕事をするときにも一心でなければならぬ。

本当に張り切ったとき仕事は前に命中する。

仕事が終わるか、定められた休息の時間が来るか、家に帰って家族と
うち寛(くつろ)ぐ時が来た等のときには本当に打ち寛(くつろ)がねばならぬ。

仕事は渋面(じゅうめん)をつくるためにあるのではない。
仕事は喜びを感ずるためにあるのである。
仕事を渋面をつくるためにあるように思ったり、
渋面をつくらねば真面目でないと思ったりするのはまちがいである。

団欒のときには楽しくすることが一つの仕事である。
家庭の団欒が忘れられているがために、妻が不平を言ったり、家族が病気になったり、
良人が危険の淵に近づいてゆくことも考えねばならぬ。

人間は金を積んで走る馬車馬のために造られているのではない。

            <感謝合掌 令和6年1月7日 頓首再拝>

団欒と仕事との調和を考えること - 伝統

2024/01/08 (Mon) 14:18:30


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月8日)より

あまりに四角四面な余裕のない押しつめられた生活からは幸福な生活は生まれぬ。
曲線と直線とが巧みに調和していなければ美術でも生活でも美しくないのである。

団欒と仕事との調和を考えること、
あたかも美術家が曲線と直線との調和を考えるがごとくでなければならぬ。

            <感謝合掌 令和6年1月8日 頓首再拝>

【楽しみながら生きていく】 - 伝統

2024/01/10 (Wed) 10:32:14

        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.5.17)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   普通の人は、苦労して、苦労して、
   やっと成功をつかむと思ってるんだよね。

   だけど、それは、私は、
   楽しみながらでもつかめるんだ、っていうふうに思ってるんだよね。

   苦しんで、努力してやっとつかむ、
   だから、仕事は大変なものなんだ、と思っ てる人と、

   富士山だって、もうつらくて、つらくてと
   言いながら、上に登る人 もいるけど、
 
   楽しいねえとか、景色いいねえとか、
   花が一個咲いてたって感激 したり、
   そう思いながら、登ることもできるんですね。


   だから、楽しみ型の経営者が、あまりにも少ないということと、
   実戦で私が勝たないと、楽しんで仕事する
   経営者がふえていかないからね。

   勝つというのは、ちゃんと利益を上げて、ちゃんと儲かっていれば、
   こういうやり方もあるんだとかね、
   部下をどならなくてもいいんだとか。

   ほんとうに、人に親切にしようとか、
   なんか甘っちょろいこと言ってるようだけど、
   実際にやってみるとけっこう大変なんですよ。

   今日一日、人に親切にしようと。
   これはほんとうに気持ちいいんだよ。


   だけど、毎日やるって大変だよね。

   奉仕のつもりで働こうって、それも楽しくだよ。

   楽しくね、やってみる。


   楽しみ型と苦しみ型があるんだとしたら、
   楽しみ型の代表になりたい。

   楽しみっていうと、パチ〇コに行くとか、
   競馬に行くとか、遊びに行くことばっかり考えるんじゃないですよ。

   そうじゃない。

   仕事を楽しみながらやる。


   100大変なことがあったら、100全部は楽しくならないかもしれない。

   でも、楽しいねとか、こうやろうよ、とか言ってると、
   100の苦しみが50でも30でもへるんじゃないか。

   楽しみながらやる、どうせやらなきゃならないんだから、

   苦しみながらやるんじゃなくて、楽しみながらやる。

   楽しみ組が勝ったよって言いたいんです。


   今、そういう時代になってきたから。

   昔は野球でも怒ってばっかりいる監督とか、
   バレーボールでも女の子に球ぶつけて悦に入ってた監督とかもいて、
   あれはあれでよかったんだけど、

   今は時代が変わって、
   怒ってばかりいる人は、なぜか勝てないんだよね。

   いい時代が来たよね。


   時代、時代で悪いことはないんだけど、
   楽しみながらやろうよって。

   楽しみながら一番になりたいっていう。

   楽しみながらでもできるんだよって
   いうことが伝えられたらうれしいし、今もそう思ってやってます。


    《一輪の花に感激しながら、山に登ることもできる》

          <『斎藤一人 幸福力』マキノ出版>

        ・・・

小林正観さんは、
すべてこの世に起こることは、
良いも悪いも、幸も不幸もなく、「現象は全部ゼロ」だという。

それを「不幸だ」、「幸福だ」と思う自分がいるだけ。

苦労も同じで、
そのことを「苦労」と思う人がいて、「楽しい」と思う人がいるだけ。


商店街のお店の後継者問題がよく話題になる。

跡継ぎがいないという話だ。

もし、その商店主が
「毎日が苦労の連続だ」「しんどい」「苦痛だ」と
不機嫌に言っていたら、跡を継ぐ人がいるわけがない。

「仕事は楽しいなぁ」
「毎日が面白い」
「エキサイティング!」

と笑って毎日を過ごしている商店主がいたら、
誰だってそのお店をやりたくなる。


斎藤一人さんのいう「楽しみ型の経営者」だ。

これは商店街のお店だけでなく、どの商売にも言えること。

そのためには、
「儲け方が上手」でなければならないし、
「人間関係も上手」でなければならない。


笑いながら、楽しみながら、生きていける人でありたい。

        <感謝合掌 令和6年1月10日 頓首再拝>

八方正面の心境 - 伝統

2024/01/13 (Sat) 13:34:48


      *「光明道中記」(1月13日《八面玲瓏の日》)より

【心が柳の枝に雪折れなしの様な状態になったら神経衰弱が治りました。
                      (『生命の實相』第三巻)】

すべての人の立場を認めるとき、吾々は八方正面の心境に到達するのである。
八方正面とは隙がないことである。
凡ゆる立場に於ける相手の位置が、その儘に自分の心の中に映り来るのである。

すべての立場を認めることが出来ず、一つの立場のみを正しいと思い、
その立場にのみ心を執しているとき、その他の方面は全然隙だらけになって
打ち込まれてしまうのである。

あのことに熱中していましたので、つい忘れていましたと言うのは、
弁解にはならないのである。

剣も碁も兵法も商道も、すべての方面見て行き届かねば名人ではない。

如何に鋭くとも折れ易い刃は役に立たない。
人間は剃刀(かみそり)の如く鋭い一面も必要ではあるが、
柳の枝のような強靭性も必要である。

世の中は「硬(かと)う柔(やわら)こう、柔こう硬う、
円(まる)う四角う、四角う円う」
自由自在に生きなければならないのである。

仏教に通達するには無字の門関を透過しなければならぬ。
無字を透過するは、柳の枝の如く無抵抗に、そして
「我れ地に穏かを出さんが為に来れるに非ず、剣を投ぜん為に来れるなり」
と言った基督のように鋭くならん為である。

          <感謝合掌 令和6年1月13日 頓首再拝>

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