伝統板・第二

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白鳩箴言~女性のための智慧(昭和47年5月) - 伝統

2023/07/01 (Sat) 06:23:22

”道産子 さま” ありがとうございます。
先日、道産子さまによる投稿が終わりました
「昭和四十七年「白鳩」誌五月號~女性のための智慧」を、
このスレッドに独立させて、残させていただきます。

”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8322386 からの転載です)

5月の法語ではありますが、今月の日々に合わせ、順次、進めてまいります。




【一日の箴言  日本國家が生命體であるいふ意味】 

日本國家が生命體であるいふ事は何を意味するのであらうか。

それは部分部分が何らかの偶然の集まりで結合して
全體が出來たといふのではないといふ事である。

生命が先にあつて部分を集めて全體ができたといふことである。

        <感謝合掌 令和5年7月1日 頓首再拝>

【二日の箴言  人間は生命體である】 - 伝統

2023/07/02 (Sun) 05:03:37


人間は生物である。
生物とは生命體だといふ事である。

われわれは蛋白質を食べる。
魚肉を食(くら)ひ、鳥肉を食ひ、或る人は獸の肉をも食べる。

何が食べるのだらうか。

口が食べるのだらうか。
舌が食べるのだらうか。

咽喉が食べるのだらうか。
食道が食べるのだらうか。
それとも胃腸が食べるのだらうか。

口も舌も咽喉も食道も胃腸も食物を食べるのではない。
それは食物の通る路に過ぎないのである。

生命が食物を食べるのである。

そして生命がその食物の中から、自分を表現するのに必要な蛋白質とか、
澱粉とか、脂肪とか、ミネラルとか、色々の成分を抽出して吸収し、
その吸収した成分の分子を自分の個性を持つたものに作り替へて、

自分の欲するところにその成分を配置して、
個性ある人體を作り上げるのである。

        <感謝合掌 令和5年7月2日 頓首再拝>

【三日の箴言  人間は鳥を食つても鳥にならない】 - 伝統

2023/07/03 (Mon) 04:33:54


人間は魚を食ひ、鳥を食ひ、獸の肉を食ひ、
それらの食物から蛋白質を抽出して、
自分の身體(からだ)の蛋白質とする。

けれどもわたし達の身體には、
あちらに魚の蛋白質が附着してをり、
こちらに鳥の蛋白質が附着してをり、といふ風に、

魚や鳥や獸の蛋白質が
そのまま人體の構造要素として附着して
配置されてゐるのではないのである。

そこには必ず、個性ある成分に作り替へが行はれるのである。

        <感謝合掌 令和5年7月3日 頓首再拝>

【四日の箴言  人體の拒絶反應】 - 伝統

2023/07/04 (Tue) 05:00:37


魚を食べ、鳥獸の肉を食べてその蛋白質を人間が吸収しても、
人體の蛋白質は、もう既に魚の蛋白質ではないのである。

人體の蛋白質は魚の蛋白質でも、鳥の蛋白質でも、獸の蛋白質でもない、
人體の蛋白質は、人體の蛋白質である。

しかも大ざつぱに「人體の蛋白質」といつてもよいといふやうには、
すべての人の蛋白質が同質なのではないのである。

それゆゑに、同じ「人間」といふ種族の肉であつても、
各人はそれぞれ自己の個性ある特異の蛋白質をもつてゐる。

他の個性を持つた蛋白質が自分の生命の中に入つて來ると、
それを碎いて自分の個性の中に取り入れることを拒絶し、
分離し、剥落させ、排泄してしまふのである。

移植された心臓が暫くは、自己の人體につながつてゐて
生理作用を営んでゐるけれども、究極的には無効であり、
拒絶されてしまふのはそのためである。

        <感謝合掌 令和5年7月4日 頓首再拝>

【五日の箴言  人體の排泄作用は拒絶作用である】 - 伝統

2023/07/05 (Wed) 01:24:16


生命體は、自己の内に入り來つたものを同化して、
それに自己の個性を賦與するか、

或は、自己の個性的創造に役立たないものは
排泄してしまふかのどちらかをするのである。

食物も全部を吸収しないで排泄物を出すのはそのためである
といふことが出來るのである。

排泄物とは謂はば同化し得ないものを拒絶する
一種の”拒絶反應”であるのである。

        <感謝合掌 令和5年7月5日 頓首再拝>

【六日の箴言  宮崎信夫君の心臓移植手術】 - 伝統

2023/07/06 (Thu) 05:00:13


拒絶反應とは個性の純粋を保持するための洗浄作用である。

札幌医大の和田教授による宮崎信夫君に施した心臓移植は、
死後の解剖所見によると心臓移植手術は成功して、
その縫合部は分離してをらず、拒絶反應はみとめられなかつたといふ。

そのやうな結果を得るために和田教授は”拒絶反應”を
麻酔せしめるための強力な注射薬を投与してゐたといふことである。

結局、宮崎信夫君の死因は”拒絶反應”を失つたことだつたのである。

        <感謝合掌 令和5年7月6日 頓首再拝>

【七日の箴言  個性ある生命體は拒絶反應を失へば死ぬ】 - 伝統

2023/07/07 (Fri) 04:44:03

  
拒絶反應といふものは健全な生命體には
是非なければならないものなのである。

何故なら、自己の個性に同化しないものが、
雑然同居してゐるといふのでは、
人體は多種多様の別々の個性ある細胞が同棲してゐて、
バイキンの巢みたいになつてしまつて、

一個の生命體としての意識統一が出來ないし、
彼の意識が元來統一制御してゐた生理作用が
バラバラの不統一狀態になつてしまふからである。

宮崎信夫君の死體解剖所見によると、宮崎信夫君は、
痰が詰まつて呼吸が出來なくなつて死ななくとも、
”拒絶反應”を麻酔させてゐたために、

普通、健全なる人體には寄生し得ない弱體の綠膿菌が
内臓の諸方に聚落をつくつて繁殖してゐたので、
結局、綠膿菌繁殖によつて殺される運命にあつたので、

あの心臓移植手術は本來無効だつたといつて攻撃してゐる
死体解剖に立會つた醫者もあつた。

        <感謝合掌 令和5年7月7日 頓首再拝>

【八日の箴言  生命體の中樞となるべき要素は理念である】 - 伝統

2023/07/08 (Sat) 05:00:15


生命體の本質は、個性ある「理念」の存在が中核となつて、
その「理念」が選擇した要素を生命體の部分として集め、
以て生成し構築して一個の生命體を形成するのである。

人間の場合にはそれが「人體」といふものである。

部分がテンデン・バラバラに集つて
人體のやうな複雑微妙な組織體が出來上がる筈はないのである。

こんな微妙複雑な組織が、どこにも不調和なしに運轉するためには、
全體が統一する意識の存在がどうしても必要なのである。

部分が必要な形に生成され、それが組織體として組み合はされるまでに、
その靑寫眞とか模型とかを心に描く主體なる”理念”の存在が
どうしても必要なのである。

        <感謝合掌 令和5年7月8日 頓首再拝>

【九日の箴言  卵が先か、鶏が先か?】 - 伝統

2023/07/09 (Sun) 04:59:40

    
”部分が先か、全體が先か”といふ事が、いつも問題になるのである。

それは”卵”が先か鶏が先かといふ問題によく似てゐるのである。
鶏は卵から生まれ、卵から鶏は生まれるのである。

しかしその現象にあらはれる以前の父母未生の鶏の所在は如何?

本當は、現象にあらはれた”部分”も”全體”も、
それは現象以前の”靈的構圖”に先立たれて、
その姿を現象界に投影したのが、現象界の”部分”及び”全體”であるのである。

この現象以前の”靈的構圖”を指して”理念”と言ふのである。
この”理念”が先ず存在して、靈的次元の世界の理念の姿が
現象界の時間空間次元の世界にあらはれるとき、
部分が生長して全體が構築されるやうにあらはれるのである。

        <感謝合掌 令和5年7月9日 頓首再拝>

【十日の箴言  拒絶反應を失つた”生命體”は死を招く】 - 伝統

2023/07/10 (Mon) 05:07:11


拒絶反應を失ひ、又は麻痺せしめられた生命體は、
全體の生理作用が統一意識によつて一元的に統治せられないで、
複数の異なる微生物その他が自由に侵入して、
その肉體を支配しやうとするから生理作用がみだれて、
その生命體は死に至るのである。

宮崎信夫君の内臓の各所に、普通の健全體だつたら寄生繁殖しない
綠膿菌が聚落をつくつて繁殖してゐて、それが死因のうちの一つである
といはれるのもそのためである。

國家も生命體であるから拒絶反應を失つて、
外來の生命が 聚落繁殖すれば死ぬ。

        <感謝合掌 令和5年7月10日 頓首再拝>

【十一日の箴言  生物は互に心が感じ合ふ】 - 伝統

2023/07/11 (Tue) 06:20:52


生長の家の初期時代に活躍した講師で杉浦慶一君といふ人があった。

賀川豐彦氏に師事してゐて濱松市に、協同組合などを作つて
民衆の日常必需品の配給を安價にする試みをやりつつ、
自宅を日曜學校として子供にキリストの愛の精神を植ゑ付けてゐた
まことに敬虔なクリスチャンであつた。

彼は『生命の實相』を讀んで非常に共鳴して、
生長の家の第一回講習會に受講すべくやつて來て、
次のやうな體験談を述べたのであつた。

『日曜學校を經營してゐる自分の自宅に家ダニが發生して、
 それが日曜學校に集つて來る子どもたちについて螫(さ)すものであるから、
 子供が痒い痒いといふので、消毒藥で殺虫するのは殺生で可哀相であるから、

 『生命の實相』の本に書いてある原理にしたがつて、家ダニに和解し、
 家ダニを拜んでやらうと思つて、私は家ダニを拜んで次のやうに念じたのです。

 ”家ダニさん、家ダニさん、あなたも何らかの使命があつて
 地上に生れて來たのですから、別に私はあなたを殺そうとは思ひません。

 處構はず、吾々人間の住む世界を侵されるのでは、
 子供が痒がつて仕方ありませんから、出て往つていただきたい。

 しかしあなたも住むところがなかつたらお困りでせうから、
 この四畳半の部屋だけは、あなたの住む世界として貸してあげますから、
 この四畳半だけに住んで下さい。
 そして、この部屋の外へ出ないやうにしてください”

 このやうに念じましたら、何萬といふ家ダニがぞろぞろと集團移動し始めて
 指定された四畳半の部屋だけに集つて、他の部屋にはゐなくなり、
 子供も家ダニに螫されなくなりました。

 生命體といふものは、皆、神の命が宿つてゐるから、
 心が互に通ひ合ふものであります』
 
この話は、まことに『生命の實相』の眞理の具體化として、
眞理を實證するものとして、私は非常に共鳴感動した。

それで私は杉浦君に、

「君、生長の家に來て本部の講師にならないか」
 といつた。

「先生が本部講師になれと被仰るのなら何時でも上京いたします」と
杉浦君は即座にこたへて、私の住む”お山”の下の環狀道路を隔てたところに
貸家があつたので、そこへ引越して來たのであつた。

        <感謝合掌 令和5年7月11日 頓首再拝>

【十二日の箴言  ”天地一切のものと和解せよ”と言ふ意味】 - 伝統

2023/07/12 (Wed) 04:48:51

   
當時、杉浦慶一君と吉田國太郎君とは、
眞理の理解に深い靑年講師として各地で悦ばれ迎へられてゐた。

ある年のこと、横濱市の記念館で私の講習會がひらかれて、
杉浦慶一君が前座に立つて講演してくれた。

私はそれを演壇の横の席から聴いてゐたのであるが、
杉浦君は”病氣の非存在”を説いて結核菌など決して恐るるに足りない
ことを聴衆に分らせやうとして次のやうな事をいつたのである。

「すべての生物は、内に神の生命が宿り、神によつて生かされてゐるから、
 互に兄弟姉妹であつてバイキンと言へども、吾々を、
 本來害するものではないのである。

 それなのに、彼らを害するものであると恐怖して、敵として立ち向ふから、
 彼らは敵としてあらはれ、つひに吾々を害する病菌となつてしまふ。

 私などは結核菌と和解して、兄弟姉妹と思ふから少しも恐ろしくない。

 吾々の肺臓は左が二室、右が三室、合計五室あるアパートみたいなものだ。
 だから私は結核菌よ、もう三室ぐらゐは空間があるから、
 君たち、來たかつたらいつでも來て住みなさいと結核菌に呼びかけてゐる」

 
私はそれを聴きながら、これは間違つた考へ方で、
本人を呼んで訂正しなければ危険なことになると思つた。

何故なら、天地一切のものと和解せよとは、味噌も糞も、
”そのあるべき場”を混同して一緒クタにすることではないからである。

        <感謝合掌 令和5年7月12日 頓首再拝>

【十三日の箴言  人體は拒絶反應を失つたら死ぬ】 - 伝統

2023/07/13 (Thu) 04:58:49


天地一切のものと和解するとは、
あるべきものが、あるべき位置に配置され、
互に犯し合ふことなく調和した姿で仲良く各自個性を發揮しながら、

その個性が他から侵害されることなく、
生かし合ひの關係になることなのである。

人間には人間の生きる”場”があり、
結核菌には結核菌の生きる”場”がある。

人間の生きる”場”に 結核菌の生きる”場”を與へる事は、
これは和解ではなく侵害なのである。

人間が結核菌(その他の病菌を含む)に對して抵抗を示すのは、
自己の個性的存在を守るための「拒絶反應」の一種なのである。

「拒絶反應」を生命體が失つた時、
生命體として存在するための絛件である全身の生理作用を
統制する意識の統一がなくなるのである。

つまり多數意識の共存といふ事になり、
腦髄の中樞意識の統制に從はない細胞が出て來て
生理作用が攪き亂される。

そして癌細胞や癌腫、肉腫等の發生となり、
ある部分に潰瘍を生じたり、中樞神經の統制に服しないで
勝手に手足が動き出すところの舞踏病の如き症狀が
起つて來るのである。

        <感謝合掌 令和5年7月13日 頓首再拝>

【十四日の箴言  肺臓を病菌に貸してはならぬ】 - 伝統

2023/07/14 (Fri) 06:49:27


私は杉浦慶一君に、

「結核菌に肺臓への侵入を招待するやうな事を言つてはいけない。
 それは人體の拒絶反應を自己放棄することになるから」

と注意しようと思つたが演壇をおりた杉浦君は
直ぐ次の講演場へ駆けつけるために自動車に乘つて姿を消した。

私は、直ぐ演壇に立つて講話することになつてゐたので、
私と杉浦君は、その後やや久しく逢ふ機會がなくて、
その問題も私の意識の表面から忘れ去られてしまつてゐた。

ところが、その後、杉浦君は結核菌が、彼自身が招待した通り、
彼の肺臓の三分の二位の範圍に移轉し住み着くことになり、
重症の胸部疾患に罹つて死んでしまつたのであつた。

        <感謝合掌 令和5年7月14日 頓首再拝>

【十五日の箴言  日本國家が生命體として存續するためには】 - 伝統

2023/07/15 (Sat) 05:03:15

  
日本國家が統一意識を備へた生命體として存續して行くためには、
日本國家の個性に反する「意識」の侵入を拒絶しなければならないのである。

即ち、日本國家の個性ある精神形態を破壊する如き思想の侵入及び
かくの如き思想教育を行つては、國家は國民の意識統一を失ひ、
舞踏病的狀態に陥り、生命體としての完全なる機能を果たすことが
できなくなるのである。

ところが占領憲法は、その第十九絛に於て
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定められてあり、

第二十一絛には、
「集會の結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と
あり、

又反國體思想を取締らうとしても
「検閲は、これをしてはならない」とあり、

第二十三絛には
『学問の自由は、これを保障する』とあるので、
どんな反國體思想言論出版のマスコミに載せてこれを、宣傳しても、
又それを大學等で教へても政府はこれを取締まることは出來ない。

結局、この占領憲法によつて、日本國家は、「拒絶反應」を失つた
心臓移植後の宮崎信夫君みたいになつてしまつてゐるのである。

このままでおいては、日本國家は宮崎信夫君と同じやうに
生命體の機能を失ひ、滅びて行くほかはないのである。

それを事前に防ぐためには、憲法を自主的に制定して國家としての
「拒絶反應」を囘復する道を講じなければならないのである。

        <感謝合掌 令和5年7月15日 頓首再拝>

【十六日の箴言  ”契約國家”とその憲法】 - 伝統

2023/07/16 (Sun) 05:08:16


現在世界に存在する諸々の國家の大部分は”契約國家”とも稱すべきものであり、
一地域に住む人間が自分達の生活の安全を保障し、外敵や、諸種の侵害に
對抗するためには、一つの共同自治團體を作つて扶け合ふことが必要である

といふので生活の安全と利益とを共同して衛るために團體を作り
その團體を「何某國」と稱し、統制力のあるものをその團體の首長として選び、
それを統治權者とし、統治權者と國民との間にその生活上に起る
各種の問題について契約をして成立した國家なのである。

その統治權者と國民との契約を文書に表現した根本規約が
これら”契約國家”の憲法なのである。

契約國家といふものは謂はば、國民を組合員とした
組合員の生活と利益を護る一種の福祉組合なのである。

        <感謝合掌 令和5年7月16日 頓首再拝>

【十七日の箴言  ”神の國”に生まれたる” 神の民”】 - 伝統

2023/07/17 (Mon) 05:03:00

  
日本國家は本來、そのやうな、國民が先に存在し、

「吾々の利益と安全を護るため一つに團結して”國”といふものをつくつて衛らう」

といふ風に、國家の單位細胞となる人間が先に立つて發案し計画して、
政府を作り政府と國民とが契約して成り立つたものではないのであつて、

神意の天降りとして實現した國家なのである。

即ち、天照大御神の御心の中に
”日本國家の在り方”の原型(國體の理念)がつくられ、

「豐蘆原の瑞穂の國は世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき國なり」

と仰せられて、その”理念”が地上に天降つたのが瓊瓊杵尊の御降臨であり、

その理念が建國といふ形で具體的に顕現して來たのが、
神武天皇の建國であるのである。

だから神武天皇はその御即位の勅語は

「上(かみ)はすなはち天津神の國を授け給ふ御徳(みうつくしみ)にこたへ」

と仰せられてゐるのであつて、日本國家は「神授の國家」であつて、
民が任意に集合し團結して建國された國ではないのである。

わたし達は、神の建てたる國に生まれたる
”神の子”であり、”神の民”なのである。

        <感謝合掌 令和5年7月17日 頓首再拝>

【十八日の箴言  神の愛の實現としてのあなたの産業】 - 伝統

2023/07/18 (Tue) 05:01:19


神は無限の愛である。

天照大御神が”太陽神”として象徴的に呼びならはされてゐるやうに、

神の愛は普遍的にして、善人にも惡人にも(本當は惡人はない。
善が未だ花咲き顯はれないに過ぎない)平等にその光と熱とを與へたまふ如く、
その無限の愛をもつて普く人間に必要な”なくてならぬもの”を
與へ給うてゐるのである。

それ故に、人間の計畫するあらゆる産業は、最初、神によつて計畫され、
人間にその”計畫”がアイディアとして孕み、それを人間が委任されて
遂行することになつてゐるのである。

もしその産業が思うやうに發展しないならば、
それは、人間が、それを遂行する途上において、
神の御心に反する心を起し、
神の叡智の導きを受信する機能が低下した結果に他ならないのである。

        <感謝合掌 令和5年7月18日 頓首再拝>

【十九日の箴言  神の事業經營の智慧を受ける思念】 - 伝統

2023/07/19 (Wed) 05:03:13


もしあなたの仕事又は事業が発展せず衰へて行く徴候を見せたならば、
その仕事又は事業の經營に神の智慧が働かず、
人間的迷ひの知恵が入つて來たからである。

心を新たにして、神の智慧が自分に流れ入るやうに神想觀をし、
自分の心を神に振り向け、次ぎのやうに念ずるが好いのである。—-

「神はこの仕事(事業)の發案者である。
 神がこの仕事を私たちに與へられたのである。

 私の”我の心”でこの仕事のやり方をゆがめてをりましたら、
 お赦し下さい。

 この仕事をあらためて神樣あなたの經營にお返し致します。
 今より後、この仕事の經營は神さま、あなたによつて行はれます。

 私はただあなたの智慧の支配下に
 あなたの導きを受けて經營させて頂きます。

 神の智慧われに流れ入つて私が今日何を如何にすべきかを教へ給ふ。
 (この最後の一句、幾度も繰り返して、神の智慧が流入して、
  それを融合する感じを深めてから)
 ありがたうございます」

と繰り返すがよい。

        <感謝合掌 令和5年7月19日 頓首再拝>

【二十日の箴言  家庭調和の祈り】 - 伝統

2023/07/20 (Thu) 06:54:28

【二十日の箴言  家庭調和の祈り】

神は無限の叡智である。
調和の智慧であり、すべての生命は神より出でたるものであるから、
いやしくも生命の宿つてゐる人間は、神の調和の智慧に導かれたならば
調和し得ないことはあり得ないのである。

もし不調和が家族の中に存在するならば、
神の調和の智慧が感受されにくいやうな、
神と波長の異なる精神波動が家族の誰かの心に起つてゐるのであるから

次の如く念じて、神の調和の智慧が家庭全體に充ち滿ちてゐることを
深く心の深層に印象するがよいのである。

「神は愛である。愛は自他一體の自覺である。
 神から生まれた生命は、皆”一つ”の生命の源から流れ出た
 生命であるから、本來一體なのである。

 それ故に、互ひにその行動が背反し、矛盾し、衝突する
 などといふ事はないのである。

 私のすべての家族(又は”團體員”)は、すべて思ひやりが深く、
 周圍の人々をなるべく生かすやうに行動するのであるから
 調和するほかはないのである。ありがたうございます。」

        <感謝合掌 令和5年7月20日 頓首再拝>

【二十一日の箴言  彼があなたを憎んでゐるのは愛してゐるのである】 - 伝統

2023/07/21 (Fri) 07:18:07

 
愛は神の本質であり、神の子なるすべての人は”愛”を求めてゐるのである。

それ故に愛を與へるときすべての人は、その生命の奥底から悦ぶのである。
だから愛を與へるときすべての人は自分に好意を持つやうになり、
自分の味方となるのである。

あなたの周圍の人々のうちの誰かが、あなたを憎んでゐるとすれば、
彼は實はあなたから愛を求めてゐるのである。
愛を求めてゐるのに得られないから憎むのである。

彼があなたに愛を求めてゐないならば、
彼はあなたに何の關心もないから、又憎むこともないのである。

        <感謝合掌 令和5年7月21日 頓首再拝>

【二十二日の箴言  ”業因”を發動させてはならない】 - 伝統

2023/07/22 (Sat) 07:19:10


あなたの姑が意地惡をするならば、
あなたは、彼女を”姑”だと思つてはならない。

あなたが彼女を”姑”だと思ふならば、過去の人類が多く閲して來た
ところの”姑と嫁の葛藤”の歴史や物語の記錄が、
「宇宙の記錄装置」にビデオテープのやうに、
又蓄音機の音盤のやうに殘つてゐるのを、

スヰッチを入れて再生させることになり、「姑と嫁の葛藤劇」が
あなたの目の前に、あなたの現實として再現することになるのである。

「宇宙の記錄装置」と言つたのは、佛教では、”業”といふのである。
ビデオテープとか蓄音機の音盤にたとへたのは、”業”が次に業を再生する
ために保存されてゐる”業因”である。

そして、それが再生して來るのを”業果”といふのである。

        <感謝合掌 令和5年7月22日 頓首再拝>

【二十三日の箴言  ”姑”と思はずに”本當の母”と思ひなさい】 - 伝統

2023/07/23 (Sun) 05:01:46

    
”姑”と世間でいふ者を、
”姑”だとあなたが同じやうに呼び且つ思ふならば、
過去の人類の閲して來た「姑と嫁」劇のビデオテープを、
「心の波長」の同調によつて再生することになるのでる。

”姑”だと思はないで、”本當の母”だと切實に思ひなさい。

「自分を産んでもくれない彼女をどうして”本當の母”だと思へよう?」と
あなたは考へるかも知れない。

しかし”姑”はあなたの半身である夫を産んだ母でせう。
あなたが夫の妻として、互に半身であり、互に一體である
といふ實相に目覺めるならば、夫の”本當の母”は、やはりまた、
あなたの”本當の母”ではありませんか。

        <感謝合掌 令和5年7月23日 頓首再拝>

【二十四日の箴言  愛は刑よりも強し】 - 伝統

2023/07/24 (Mon) 04:59:52


あなたを憎む人があるならば、その人を愛しなさい。

スター・デーリーは、獄中でキリストの幻が現れて、
愛の眼光(まなざし)で彼を見つめてゐるのを見て、
キリストの愛に打たれた。

どんなに拷問を受けても、惡から轉向する事を拒んでゐた彼も、
キリストの愛の眼光に抗することは出來なかつた。
(谷口雅春著『愛は刑よりも強し』参照)

人間の本質は、”愛”であるから、どんな冷酷に見える人間でも、
愛の眼光で見られるとその人に宿つてゐる本質なる愛が目覺めて來て、
冷酷が一變して温かい愛情ある人間の實相をあらはすのである。

        <感謝合掌 令和5年7月24日 頓首再拝>

【二十五日の箴言  純粹の愛のみが相手を動かす】 - 伝統

2023/07/25 (Tue) 05:02:25


「あいつ憎いが、愛しなければならない」と憎しみをこらへて
愛を實踐してみようと思つても、それだけでは
相手を動かすことはできない。

『和解の神示』には「怺へ合つてゐるのでは本當の和解は成立せぬ」
と示されてゐるのである。

心で憎んでゐて、何とか愛しようと思つて、
行動の上でつとめて相手に親切にしてみても、
その行動のどこかにウソがあることが相手に感じられるから、
相手を動かして、本當に和解する”愛の力”となることはできないのである。

”愛する”とは”愛の行爲を真似する”ことではないので 
”愛する”とは”純粹に愛する”ことだ。
”純粹の愛”のみが相手を動かすのだ。

        <感謝合掌 令和5年7月25日 頓首再拝>

【二十六日の箴言  感謝し合つた時本當の愛が成立する】 - 伝統

2023/07/26 (Wed) 04:58:43


心で憎しみながら、つとめて行動で愛する如く振舞つてゐても、
それはすぐ相手から看破されて、

「お前はわたしを憎んでゐるではないか。
 憎んでゐながら、”愛してる”と見せかけようとしてゐる。
 その僞善が嫌ひなのだ」

と相手は反撥するに相違ないのである。

神示には

「怺へ合つてゐるのでは本當の和解は成立せぬ。
 感謝しあつたとき本當の和解は成立する」

と示されてゐる。

愛を行動に移す前に”感謝の念”を起すならば、
その愛が眞實のものとなるのである。

        <感謝合掌 令和5年7月26日 頓首再拝>

【二十七日の箴言  姑を觀世音菩薩と觀ぜよ】 - 伝統

2023/07/27 (Thu) 05:05:20


いろいろの人々が、”憎しみ”から”愛”に轉向した體験を談すのを
聞いてゐると、今迄自分に意地惡をしてゐた”姑”を”
觀世音菩薩の慈悲の示現”と觀て、”姑”を觀世音さまであるとして
拜み、感謝しあつた時、”姑”と仲良くなつてゐるのである。

 
だいたい觀世音菩薩とは、繹迦在世中に生きてをられた
菩薩の中の一人であるといふのは本當ではないのであつて、
觀自在の普遍原理を人格的に見奉つて觀自在菩薩または觀世音菩薩として
尊稱し奉つたのである。

 
”觀世音”すなはち世音を觀ずるとは、
”世音”すなはち”世の中の衆生の心”を觀じて、
その心をそのままにあらはれる普遍的原理なのである。

        <感謝合掌 令和5年7月27日 頓首再拝>

【二十八日の箴言   觀世音菩薩の哲學的考察】 - 伝統

2023/07/28 (Fri) 05:05:16

 
觀世音菩薩は、繹尊の道場にもあらはれてましますが
「過去七佛の師」ともいはれてゐて繹尊の弟子どころのことではない。

七は完成の數、包括の數であるから、”七佛”はすべての如来の事であり、
すべての佛如來は、” 觀世音菩薩”即ち「宇宙に普遍する觀自在原理」が
人格的に應現せられた御姿であるのである。

この”相手”又は”その人自身”の心の通りに現れる
原理(唯心所現の普遍心の法則)が觀世音菩薩なのである。

わが見るすべての人間、生物、自然現象と見えるものことごとく
觀世音菩薩の示現なのである。

        <感謝合掌 令和5年7月28日 頓首再拝>

【二十九日の箴言  天地一切のものは觀世音菩薩の妙智力の展開である】 - 伝統

2023/07/29 (Sat) 05:03:43


立ち向ふ人の姿は鏡なり己が心を映してや見ん と黒住教祖は教へられたが、
この鏡の原理は宇宙到る處に充ち満ちてゐて、吾らを導いてゐて下さるのである。

自然界の森羅萬象は、唯物論者から見れば唯の物質分子の物理化學的集合體に
觀えるのであらうけれども、

物質には知性がなく計畫性もないから、單なる物質の物理化學的な偶然集合では、
生きた木の葉一枚作ることはできないのである。

どんな立派な科學界の大學者でも、實験室の試験官又は試験装置の中で
木の葉一枚でも製造し得た人はないのである。

だから自然界の森羅萬象を單に物質の集合體と見る唯物論は間違であるのである。

それは「宇宙普遍の觀自在原理」
――すなはち佛如來の生命と智慧と愛との顕現なのである。

そのことを繹尊は三十五歳の十二月八日、菩提樹下に坐して
曉の明星を見ながら忽然と悟られたのであつた。

それが『有情・非情・同時成道。山川草木國土悉皆成佛」の悟りである。

        <感謝合掌 令和5年7月29日 頓首再拝>

【三十日の箴言  情(こころ)有るもの・情なきもの悉く皆如來】 - 伝統

2023/07/30 (Sun) 05:02:42


”有情”と言ふのは”情有るもの”即ち生物である。
”非情”と言ふのは、”情あらざるもの”無生物の事である。

同時とは、過去・現在・未來を同(ひと)つに握った”絶對無”の
無時間無空間の一點から觀ずるとき、それは”成道”すなはち
”天地の道”(すなわち眞如)の現成であるといふのである。

それを、更に言い換へたのが「山川草木國土悉皆成佛」である。

山川・國土は無機物であつて「非情」の事である。
草木は生物であつて「有情」に屬する。
(最近、噓發見器的な電子感應装置によつて植物にも心があることが
 科學的に證明された)

その「有情」も、その「非情」も、悉く皆、成佛だといふのである。
成佛とは、これから何億年經つたら「佛に成る」といふ意味ではない。

今、無時間の一點から一點に立つてその實相を觀ずるならば
悉く皆”佛”のいのちの現成であるといふのだ。

        <感謝合掌 令和5年7月30日 頓首再拝>

【三十一日の箴言  觀世音を稱名唱念する功徳について】 - 伝統

2023/07/31 (Mon) 05:04:15

われわれが、すべての人の實相を見て、その實相を觀世音菩薩である
として禮拜する時、無限の功徳を生ずるのは、
宇宙の大法則(神學的に言へば”神”・佛教的に謂へば”久遠の本佛”)を
禮拜することになるのである。

爰には既に宗派の差別もない。
そこに宇宙的な功徳があらはれるのである。

生長の家の各練成道場に於て、玄関で合掌禮拜、廊下ですれ違ふ人々
ことごとくへの禮拜、練成員左右に分かれて互ひに禮拜し合ふ神想觀、
「實相完全圓滿」を繰り返しくりかへしとなへる誦行

―― これらは悉く有情、非情、天地一切のものを
觀世音菩薩として拜むのである。

自分も觀世音菩薩であり、すべての人々も觀世音菩薩である。

自個を禮拜し、他個を禮拜し、
すべてを觀世音菩薩の示現として禮拜するのだ。

觀世音禮拜は佛教各宗では殆ど共通的な信仰であり、
過去に於てもそれによつて無數に色々の功徳が生じてゐる。

その功徳は宇宙のビデオテープに印象され
宇宙の記憶装置に保存されてゐるのであるが、

觀世音菩薩の御名を稱へて、觀世音菩薩の慈悲の心とその妙智力に
波長を合はすのならば、過去にあつた”無數の功徳”のビデオ装置が
動き出して、その功徳が自分の身邊に、テレビのやうに
具體的形をもつてあらはれて來ることになるのである。

        <感謝合掌 令和5年7月31日 頓首再拝> 

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