伝統板・第二

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神人一体 ③ - 伝統

2023/06/17 (Sat) 05:03:03


宇宙力と一体なり

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神人一体」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7063440

(2)伝統板・第二「神人一体 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7912804

           <感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>

神我一如となる日 - 伝統

2023/06/24 (Sat) 05:03:42


      *「光明道中記」(6月24日)より

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあると
エマソンは言った。
宇宙の心だ。宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、
全宇宙がその人を護りたまうのである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。
利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)うていることを
私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

       <感謝合掌 令和5年6月24日 頓首再拝>

神とともなることをを感ずるために - 伝統

2023/07/11 (Tue) 09:23:01


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月11日)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は
幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、
    感ずる対象と同じ波をこちらが起さねばならぬ。
    神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。

すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、
われらが神を自分のうちに感ずるためには、すべてを生かす心を起したときに、
その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、
「個(ひとり)」と「全体」とのつながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、
神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 令和5年7月11日 頓首再拝>

普遍意識に没入するとき、万事が都合よくゆく - 伝統

2023/07/24 (Mon) 11:37:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月24日)より

瞑目精神を統一して、
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。

そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身のうちにも、
神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。

神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、
その智慧の中に没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。

現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された
普遍意識(すべてに満ちて行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる
反射光にすぎない。

反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、
自分のうちに宿り給う普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、
われらはこの普遍意識の中に没入し、普遍の智慧と一つになるとき、
知らず知らず万事が都合よくゆくのである。

「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。

普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

         <感謝合掌 令和5年7月24日 頓首再拝>

本当の「南無阿弥陀仏」 - 伝統

2023/08/29 (Tue) 08:36:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月29日)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」

とイエスは言った。

蓄音機のレコードのように
「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。

阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、
 あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
 わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。
 今本当に融け込んでいるのです! 
 だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」

という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

      <感謝合掌 令和5年8月29日 頓首再拝>

神人一体を行ぜよ - 伝統

2023/11/05 (Sun) 09:28:00


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

         <感謝合掌 令和5年11月5日 頓首再拝>

吾らは神の生命の枝 - 伝統

2023/11/17 (Fri) 09:53:48


       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

         <感謝合掌 令和5年11月17日 頓首再拝>

自他一体の自覚 - 伝統

2023/11/18 (Sat) 09:36:23


       *「光明法語」(11月18日の法語)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

         <感謝合掌 令和5年11月18日 頓首再拝>

神と共に一歩一歩撓(たゆ)まず歩く - 伝統

2023/11/25 (Sat) 12:08:39


  *「光明道中記」(11月25日《一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日》)より

【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
                       (『生命の實相』第四巻)】

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、
ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得るのだと思う。

然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、
事はなかなか成就するものではない。
神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。

功に誇る者が神智を失うのは、
山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。
功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。

若し神がいなかったら、
また若し神が私を導いて下さらなかったら今日の私はないであろう。
今日の私があるのは、「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。

神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。

          <感謝合掌 令和5年11月25日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2024/01/06 (Sat) 10:53:47


       *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら
天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。

神より悪なるものが来(く)ると考えることは
神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが
神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、
わが耳をもって聴きたまい、わが呼吸器をもって呼吸したまい、
わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

           <感謝合掌 令和6年1月6日 頓首再拝>

天地の生命と一枚になりきる - 伝統

2024/04/19 (Fri) 12:02:49


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。
実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。

どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、
いろいろと人間の理屈で考える。

打算で考える、欲で考える、そこに純潔であるべきはずの恋愛が
不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って性欲を扱うから、
性欲が汚れたものに見えてくる。

         <感謝合掌 令和6年4月19日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2024/06/13 (Thu) 11:15:27


       *『光明法語』(6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、
幸福のほか与えることを知らぬ神が
自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。

吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、
取囲まれているのである。
それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、善のみが出て来るし
無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 令和6年6月13日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2024/06/17 (Mon) 10:57:03


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

        <感謝合掌 令和6年6月17日 頓首再拝>

神我一如となる日 - 伝統

2024/06/24 (Mon) 11:51:25


       *「光明道中記」(6月24日)より

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあるとエマソンは言った。
宇宙の心だ。宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、全宇宙がその人を護りたまう
のである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)う
ていることを私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

        <感謝合掌 令和6年6月24日 頓首再拝>

神との一体感を感ずるために - 伝統

2024/07/11 (Thu) 11:09:48


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月11日)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、
神の”いのち”宿りいますを感じ、神の智慧宿りいますを感じ、
神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、
    感ずる対象と同じ波をこちらが起さねばならぬ。
    神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
 すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、
われらが神を自分のうちに感ずるためには、
すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、
その心の波長の上に、霊感的に感応するところの神を感ずることが
できるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、
「個(ひとり)」と「全体」とのつながりの意識が
蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 令和6年7月11日 頓首再拝>

本当の「南無阿弥陀仏」 - 伝統

2024/08/29 (Thu) 10:28:16


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月29日)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」

とイエスは言った。

蓄音機のレコードのように
「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。

阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、
 あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
 わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。
 今本当に融け込んでいるのです! 
 だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」

という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

      <感謝合掌 令和6年8月29日 頓首再拝>

神と一体 - 伝統

2024/09/06 (Fri) 11:33:01


         *「光明法語」(9月6日《そのままが完全円満》)より

本来の自然になった時、生命は最も完全に発現する。

愛が若し自由意志による発現でなく、
強制的に機械的に行わしめられるものであるならば、
それは妓楼(ぎろう)の主人に強制されて愛を売る売笑婦のそれになってしまう。

愛は自発的であるのが尊いのだ。

愛は自他一体の認識だ。
個別者同士互いに「愛」の感情が起こるのは個別者は、
互いに別物ではなく本来一体であるからである。

また個別者が神に対して「愛」の感情が起こるのは、
個別者は本来、全体者(神)から発した者だからだ。

           <感謝合掌 令和6年9月6日 頓首再拝>

神とともに大活動しなければならない - 伝統

2024/10/29 (Tue) 11:06:32


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月29日)より

すでに与えられていることを自覚せよ ―― と言えば、
実際生活になんの努力もしないで「すでに与えられている」と
すこぶる甘い態度で生活している人も時には見出される。

そんなのを神に甘える信仰と言うのであって、
”神の中に生きる”生活ではないのである。

われわれは小我を神の中に没却させてしまわねばならないが、
本当の我(われ)は「”神の中”」に生きなければならないのである。

「神は今に到るも働き給う」―― われらは小我を没し去ると同時に、
神とともに大活動しなければならないのである。

活動の中にのみ、神と偕(とも)なる悦びがある。

           <感謝合掌 令和6年10月29日 頓首再拝>

神人一体を行ぜよ - 伝統

2024/11/05 (Tue) 11:56:13


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

           <感謝合掌 令和6年11月5日 頓首再拝>

自他一体の自覚 - 伝統

2024/11/18 (Mon) 11:10:14


       *「光明法語」(11月18日の法語)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

           <感謝合掌 令和6年11月18日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2025/01/06 (Mon) 11:31:05


       *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら
天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。

神より悪なるものが来(く)ると考えることは
神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが
神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、
わが耳をもって聴きたまい、わが呼吸器をもって呼吸したまい、
わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

           <感謝合掌 令和7年1月6日 頓首再拝>

天地の法輪を聴く日 - 伝統

2025/01/11 (Sat) 11:58:58


           *「光明道中記」(1月11日)より

【全世界は如来の転ずる法輪である。大法輪が実在の宇宙である。
                      (『驀進日本の心と刀』)】

生命は無空間の世界にあって、その大いさはない。

恰(あたか)も点のようなものであるが、
点と言えば「小さい」と云うことを予想せしめるし、

また小さいにせよ微粒子的小体が予想せられるが、
空間的広がりがないのであるからその
微粒子的小体も《ない》のであるから、
其の「小ささ」と云うものもない、大もなく小もない。

その一点にして無限なるものが、
「心の波」を起して空間的に展開したものが宇宙である。

「心の波」をコトバと言い、法と言う。
法の転ずる世界を法界(ほっかい)と言う。

大宇宙は「神の心」の展開なり。
肉体は「個の心」の展開である。

神の心の波さながらに生きることを
法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、
神随(かんなが)らに生きると言う。

「個」の心が「神」の心に融合するなり。
「個」が「全体」を背負って立つなり、「永遠」を背負って立つなり、
無窮を背負って立つなり。

茲に於て恐怖なし。

宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。

具体的「永遠」と「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。
具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

            <感謝合掌 令和6年1月11日 頓首再拝>

妙音囀(てん)ずる日 - 伝統

2025/01/24 (Fri) 11:51:18


           *「光明道中記」(1月24日)より

【「汝(な)と我(あ)と天(あめ)の御柱(みはしら)を行きめぐりて
  国生みなさんと思うは如何に?」と
  如何にも天地の《いのち》の交流の厳かさが見えるようではありませんか。
  これを誰も卑猥に感ずる者はない。(『生命の實相』第二十巻)】


鶯(うぐいす)が啼(な)いている。
実に澄んだ声で啼いている。玲朧(れいろう)たる声だ。
どこにも汚れの感じられない声である。

それは雌雄呼び交す声であるのに何の卑猥も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞えるのは何故であろう。
それは鶯には我(が)が無いからだ。天地の生命と一枚になっているからだ。

梅の花が香っている。清浄そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔とでも、浄厳とでも言いたいような花びら、
雌蕊雄蕊(めしべおしべ)の美しきには何らの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者はその花はやはり雌雄呼び交すための
装(よそおい)でしかないと教える。

人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずると云うのは、
人間には我(が)があって、天地の生命と一枚にならないからである。

エデンの楽園を追放せられたのは、
アダムとイヴとが智慧の樹の果を食べたからだと云う。

天地の生命と一枚になり切らないで、色々と人間の理窟で考える、
打算で考える、欲で考える。
そこに純潔であるべき筈の恋愛が不浄なものとして感じられて来る。

         <感謝合掌 令和7年1月24日 頓首再拝>

神の愛と不可分一体であること - 伝統

2025/04/02 (Wed) 13:46:04


           *「光明法語」(4月2日)より

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して
 友好関係にあるのである。
 もう赦すと云うことさえなくなったのである。
 はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
 われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
 それより逃れることは出来ないのである」

        <感謝合掌 令和7年4月2日 頓首再拝>

「神よ、共に観てください」 - 伝統

2025/05/20 (Tue) 10:19:28


奇跡が起こして無限の可能性を生きられる“神の習慣”
──信じなくてもやれば奇跡が起こります
kobayashi tomoou( 2025/05/15)
https://www.youtube.com/watch?v=NgAuIPUwO08


観測者効果~神の眼差しという観点
  → 大きな揺らぎが発生する

「神よ、共に観てください」と祈る

ステップ1
 ジャッジせず、今の状態を無条件の愛でただ見る、

ステップ2
「神よ、共に観てください」と神に伝える

ステップ3
 何も変えようとせず、見守る

        <感謝合掌 令和7年5月20日 頓首再拝>

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