伝統板・第二

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ひかりの一日一言99~ひかりの語録(6月) - 伝統

2023/06/01 (Thu) 05:03:58


ひかりの一日一言《1日》

一国を支配する者は名君である。
 
併し自己の心を支配しうる者の方がいっそうの名君である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P41)より

       <感謝合掌 令和5年6月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2023/06/02 (Fri) 04:57:21


失敗しても成功しても、損をしても儲けても、
それはただ生命(せいめい)が仮想の舞台で遊戯したにすぎない。

失敗は大(たい)したことではない。
損も大(たい)したことではない。
 
自己の心を乱すか乱さないかの方が大切だ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P41)より

       <感謝合掌 令和5年6月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2023/06/03 (Sat) 04:33:31


損をしたという。

だけども、
よくよく考えれば人生はどんなに損をしようと思っても
損のできないように造られているのである。

損をしたと見えるような時こそ、
魂が何かを掴んでいる時である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P41)より

       <感謝合掌 令和5年6月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2023/06/04 (Sun) 05:01:05


苦しみは損ではない。
貧乏も損ではない。
 
良薬は口に苦し。
何が来ても、その中から養分を吸いとって吾が生命は肥(ふと)るのだ。

金銭の損で心を穢(けが)すな。

昔から真(しん)に偉大な人は、
みずから好んで金銭を捨てた人の方(ほう)に多いのだ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P41)より

       <感謝合掌 令和5年6月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2023/06/05 (Mon) 04:54:36


他人(ひと・たにん)を我(が)で自由にしようと思うな。
自分で自由にしようとして自由に出来る物は一つもない。

しかし自分で自由にしようと力まないようになれば、
何と不思議、すべてのことが自由にらくに運ぶのである。

我(が)がなくなるからである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P41)より

       <感謝合掌 令和5年6月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2023/06/06 (Tue) 04:59:28


心が、自分で自分の心にひっかかることが迷いである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P42)より

       <感謝合掌 令和5年6月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2023/06/07 (Wed) 04:57:20


肉の人間に理解されようと思ってはならぬ。
肉は迷いであるから必ず何処かで誤解するものである。

霊の人間を見、霊の人間に相対(あいたい)せよ。

理解してもらおうと思わないでも
始めからお互いに理解しているのである。


        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P42)より

       <感謝合掌 令和5年6月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2023/06/08 (Thu) 05:03:02


我(が)とは肉(にく)の人間、肉(にく)の心である。

右するも左するも肉の心は悩みの根源である。

「我(が)」を通そうとする者は
自己を苦しめ他(た)をも苦しめる。

肉は他(た)を食わねば生きられぬものである。
それは迷いの我(が)であるからである。
他(た)を食わずに生きられるものだけが「本物の自分」である。

肉は真の人間ではない。神の子ではない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P42)より

       <感謝合掌 令和5年6月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2023/06/09 (Fri) 04:59:50


五十と五十を加うれば必ず百となる。
吾らは常に百を与えられている。

これを九十と思い六十と思うものは誤算である。

(誤算=考え違い)

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P42)より

       <感謝合掌 令和5年6月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2023/06/10 (Sat) 04:58:39


本当の自信は本当の知恵から来(く)る。

自信は無限生長の母、慢心は行(ゆ)き止(ど)まりである。
似てるから注意せよ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P42)より

       <感謝合掌 令和5年6月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2023/06/11 (Sun) 04:49:12


世話になって恩を返す人(ひと)がある。
世話になりっぱなしの人(ひと)がある。

一度世話になったら独立してからでも
引続き世話になる権利があると思っている人がある。
 
犬なら一度世話になったら、いつまでも世話になる因縁が結ばれた
と思っていてもよいが、人間なら恥(は)ずべきだ。

世話になるどころではない。
世話しようと思うほどでないと、神のみこころに適(かな)わない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P42、43)より

       <感謝合掌 令和5年6月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2023/06/12 (Mon) 04:45:37


教会とは建物(たてもの)ではない。
寺院とは堂塔(どうとう)ではない。
 
神のことばを語るところが教会で、
仏(ほとけ)のことばを語るところが寺院である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P43)より

       <感謝合掌 令和5年6月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2023/06/13 (Tue) 05:05:20


天国は五十羽の丹頂の鶴が空に輪を描いて舞おるごときものである。
 
仰(あお)ぎ見て讃嘆し、渇仰(かつごう)するものもあれば、
何じゃつまらないといって振り向きもしないものもある。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P43)より

       <感謝合掌 令和5年6月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2023/06/14 (Wed) 04:53:08


淋しき時にはわれを思え。

われはなんじらのために祈るものである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P43)より

       <感謝合掌 令和5年6月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2023/06/15 (Thu) 04:36:58


役に立つものばかりをかわいがるのは利己心からだ。

役に立たぬ者でもかわいがるのが本当の愛の心である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P43)より

       <感謝合掌 令和5年6月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2023/06/16 (Fri) 04:57:25


躓(つまず)いたがために落ちる人もあれば、
躓(つまず)いたがために落ちる前に気づく人もある。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P43)より

       <感謝合掌 令和5年6月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2023/06/17 (Sat) 04:53:13


寝床(ねどこ)を作ったら寝なければならぬとは
西洋の諺(ことわざ)にある。
 
病床(びょうしょう)を作ったら病気になるのは当然だ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P43)より

       <感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2023/06/18 (Sun) 05:01:39


生命の実相を信ぜよ。

《実相の神》を信ぜよ。
 
《実相の神》に結びつくとき、一切の罪は自分から切り離される。
実相の世界には罪は存在しないからである。

自分から切り離された罪は自壊して消滅する。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P43)より

       <感謝合掌 令和5年6月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2023/06/19 (Mon) 04:58:11


生命の実相 ―― 生長の家の礼拝の対象はこれである。
生命の実相 ―― あらわれて 阿弥陀仏となり、釈迦となり、イエスとなり、
         一切善き宗教の教えとなる。
 
「彼(かれ)を信ずる者の、
 その名によりて罪の赦(ゆるし)を得べきことを証(あかし)す」と
『使徒行伝』十章四三にあるが、彼(かれ)とは生命の実相である。
 
生命の実相を信じ礼(らい)しこれに結びつく者は幸いなるかな。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P43、44)より

       <感謝合掌 令和5年6月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2023/06/20 (Tue) 05:05:36


親様の近くにいる者は常に楽しい。

なんじの心がさびしいのは親様の心から遠ざかっているからである。
赤ン坊でも親の側(そば)から引離されたら淋しがってむずかるではないか。

われわれの親様は神であり、われわれは皆神の赤ン坊である。
幸福の秘訣は親様のできるだけ側(そば)にいることである。


幼な児の親にたよるが如く神に頼り切れ。
不安があるのは頼り切らないからだ。

《頼っている幼な児を捨てる親はあるまい》。
頼り切れないのは生命の実相を知らないからだ。

生命の実相はなんじらの父であり、母である。
皆の者はことごとく生命の実相から這(は)い出して来た子供である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P44)より

       <感謝合掌 令和5年6月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2023/06/21 (Wed) 04:58:25


ある所に重荷を背負って苦しみながら歩いている男があった。
馬車屋が、その男が重荷に苦しんでいるのを見て
この馬車に乗って行けと言った。
男は喜んでその馬車に乗った。

「その荷物を下へおろしなさい。値段は同じこと無代(ただ)だから」
と馬車屋は言った。

「めっそうな、わたしだけが載(の)せてもらうだけでもありがたいのですから、
 この荷物は私が舁(か)いで行(ゆ)きます」
とその男は答えた。

これはアイルランドのお伽噺だ。

実相の神は渾てであるからわれわれが馬車の中で重荷を背負わなくとも
一緒に運んで下さるのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P44、45)より

       <感謝合掌 令和5年6月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2023/06/22 (Thu) 04:58:22


なんじの悩みは神に語れ。
人(ひと)に語らずして神に語れ。
人(ひと)に悩みを語れば
その悩みは反響して更に悩みは増加するであろう。

神に語れば悩みは消える。
 
神は実相(じっそう)の神であり、実相の光の射(さ)す所に
悩みの暗(やみ)は存在し得ないからである。
 
悩みは変じて喜びとなり、訴えは変じて感謝となるであろう。

すべてのものはすでになんじらに与えられているのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P45)より

       <感謝合掌 令和5年6月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2023/06/23 (Fri) 04:54:09


悩みを数えるよりも、恩恵を数えあげよ。
なんじはそんなに賜(たまもの)が多いのになぜ呟(つぶや)くのだろう。

不健康にならなければ健康を感謝しない者には不健康が来(きた)り、
囀(さえず)る鳥(とり)が飛び去らねば
囀(さえず)る鳥(とり)の妙音を讃嘆し得ない者の庭からは、
囀(さえず)る鳥(とり)は飛び去るのである。

生長の家の生活は、感謝の生活である。

生長の家の生活はすべてが与えられた生活であるから、
感謝の生活のほかはない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P45)より

       <感謝合掌 令和5年6月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2023/06/24 (Sat) 04:59:56


不平が起こるのは心が一つの物に《凝り》すぎて
他(た)の恵みを見る余裕がないからである。

悩みは心にあるのであって物にあるのではない。
《凝り》を放下して、眼(め)を他(た)に一転せよ。
 
どんなに吾らは多くの恵みに取巻かれていることだろう。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P45)より

       <感謝合掌 令和5年6月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2023/06/25 (Sun) 05:01:56


病気に悩んでいる者でも、
今まで健康を頂いてきたことに感謝しなかったことをお詫びし、
さらに現(げん)に健康が与えられていることを感謝し、

神想観をしてその感謝に精神を統一して
感謝の念を深めてゆけば、その病気が癒されるのである。
 
眼(め)の悪い人は、今まで完全な眼を与えられていながら
感謝しなかったことをお詫びし、
さらに進んで現に完全な眼(め)を与えられていることを確認して、
それに対して徹底的に感謝の念(ねん)を深めてゆくときは
その眼が癒えるのである。

徹底的感謝生活には病気はない。


感謝は実(じつ)に絶大なる力である。

それは与えられた事物に対する受身(うけみ)の力だけではなく
積極的な創造力である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P45,46)より

       <感謝合掌 令和5年6月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2023/06/26 (Mon) 04:46:26


「個」を信ずる信仰は皆ニセモノである。
人の言葉を信ずる信仰も、
憑霊(ひょうれい)の言葉を信ずる信仰も皆本物ではない。

「個」を絶した所に
「本当の神」があり、「本当の我(われ)」がある。

本当の信仰というものは
父を知り自分を知ることから始まらねばならぬ。
 
父とは神、自分とは神の子だ。

われと神とがぴったり出会うこと、
父と子とが完全に相(あい会うこと。
これが本当の信仰である。

信仰とは神のみ懐(ふところ)に抱かれることである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P46)より

       <感謝合掌 令和5年6月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2023/06/27 (Tue) 05:00:47


神は生命(せいめい)だと言う。

しかしそれは「生きんと欲する意志」ではない。
完全円満に現に生きている自覚体である。

生きたい生きたいという「生きんと欲する意志」は迷いである。

生きたいとは、生き足りない自覚すなわち迷いからくるのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P46、47)より

       <感謝合掌 令和5年6月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2023/06/28 (Wed) 05:00:18


未(いま)だかつて五官はもちろん霊覚によってさえも
神を見たものはない。
 
神は第六感以上のものである。
 
神を知るのはわが神性(しんせい)と
神の神性(しんせい)とが触れ合った時のみである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P47)より

       <感謝合掌 令和5年6月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2023/06/29 (Thu) 04:55:30


迷いは父を知らぬ。
肉(にく)は神を知らぬ。

子(こ)のみが父を知るのだ。
肉は父の子ではないのだ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P47)より

       <感謝合掌 令和5年6月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2023/06/30 (Fri) 04:59:30


霊媒(れいばい)に第一義の神はかからぬ。

霊媒(れいばい)にかかるのは霊魂だけである。

霊媒(れいばい)の宣託(せんたく)に迷うな。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P47)より

       <感謝合掌 令和5年6月30日 頓首再拝>

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