伝統板・第二

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人格の陶冶③ - 夕刻版

2023/05/30 (Tue) 04:50:49


《自己をもっと信頼しましょう》

         *『 生長の家 』(昭和29年5月19日の法語)より

自己を信頼するということは強固なる人格の特徴である。

自己を「神の子」なりと信頼する者は、一時如何なる逆境におかれようとも、
やがては必ず立ち上がる勇気と手段とを見いだすことができるのである。

一ぺんや二編の失敗で失望落胆してしまう者は、
無限の可能性がある「神の子」の自覚が足りないのである。

「神の子」の自覚を快復したならば、弱者もたちまち強者となるのである。

「神の子」に貧乏はない、病弱はない。

貧乏や病弱の想念をあなたの心の隅々から抹殺せよ。

あなたの動作、表情、寝具、服装ー等ーあなたの身辺にある一切のものから
貧乏と病弱との想念を抹殺せよ。

そこから本当の「富」が芽生え始めるのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2311

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「人格の陶冶①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6916982

(2)伝統板・第二「人格の陶冶②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7651993

          <感謝合掌 令和5年5月29日 頓首再拝>

「人格」の力を作れ - 伝統

2023/06/18 (Sun) 04:57:35


       *「光明法語」(6月18日)より

「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、
不成功に終らせたりするのである。

ある人は「人格」の力で、
人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。

ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、
その人に功を成さしめない。

では「人格」の目に見えない雰囲気を
どうしたら発達せしめることが出来るか。

それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。

《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。

           <感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>

「人格」の《ふんいき》 - 伝統

2023/06/19 (Mon) 04:52:55


       *「光明法語」(6月19日)より

日常断えず思っている「思い」の集積が、
人格の雰囲気となって現れる。

たえず善き「思い」を起こしている者は
よき人格の雰囲気をもち、

断えず卑しい「思い」を起こしている者は
何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。

威厳の雰囲気を放つ者あり、
慈悲の雰囲気を放つ者あり、
柔和の雰囲気を放つ者あり、

剣気の雰囲気を放つ者あり、
邪気を放つ者あり、

徳気を放つ者あり、

人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって、
一時人前を繕っても駄目である。

第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。

         <感謝合掌 令和5年6月18日 頓首再拝>

自分の人格を高めよ! - 伝統

2023/07/19 (Wed) 04:52:39


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月19日)より

ひとの優劣を自分の尺度で推し測ってはならない。
自分が愚劣な心を持つから、ひともまた愚劣であろうと思ってはならない。

自分が動物的な欲望の支配下にあるから、
ひともまたかくのごとくであろうと思ってはならない。
自分のうちに悩みがあるから、世界中の人はすべて悩んでいるのだと思ってはならない。

本当に他人の偉大さがわかる者は、自己がそれだけ偉大であるのである。
自分の魂の高揚しただけのものを、われわれは他において見るのである。

釈尊のすぐれた人格を知る者は、自己のうちに存在する釈尊がそれを知るのである。
釈迦やキリストといえども、時には悩み、苦しんだであろうと考える者は、
聖者を引きずり下ろして自己と同等のレベルに置こうとする卑怯者である。

彼は一種のエディプス・コンプレックスの虜囚(とりこ)なのである。
自分よりすぐれた者の存在を知ることが、
自己の驕慢心にとってたえがたい屈辱感になるのである。

われわれは、かくのごとく、ひとを引きずり下ろす醜(みにぐ)き心を去り、
自己があくまでも向上して、美しき人類の理想を成就することによって
聖者と等しきレベルにまで到達しなければならないのである。

大海に溺れつつあるある者どもが、お互いに他を引き下ろして、それによって、
自己が浮き上がろうとするのは醜悪である。

他を賤しめ軽んずることによって、ひそかに自己を偉大ならしめようと努力するくらい
みじめな動物的行為はないのである。他を軽んずることは、自己を軽んずることである。
他を醜くすることによって、まっさきに自己が醜くなるのである。

『従容録』には自分の口を血に染めて他人に吹きかけると書かれている。

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。
釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。
わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、他は俗物だとも観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまでコキ下ろす劣悪を知っている。
しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、特定の人々のみを尊敬するが、
他はことごとく”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

         <感謝合掌 令和5年7月18日 頓首再拝>

【風格とは、捨てても捨てても遺るもの】 - 伝統

2023/07/27 (Thu) 13:06:23

       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.26)より

   (奈良県立大学客員教授、岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…)


   風格とはいったい何であろうか。

   『新選国語辞典』(小学館)によると、

   「1.ふうさいと品格。ひとがら。 2.おもむき。味わい」

   とある。

   しかしどうも品格と風格は異なるものではないかと思う。

   もちろん風格は品格を包含する、
   えも言われぬ有り様というか、
   醸し出される雰囲気というか、
   表現しがたい状態だ。


   東大寺の長老で書画にも名高い清水公照(こうしょう)師は、
   しばしば焼き物で仏や人物を作られて、

   これを「泥仏(でいぶつ)」と呼んでおられた。

   常識や思い込みを超越した、
   脱俗の泥仏は飄飄(ひょうひょう)としていて今も人気がある。

   師の百の流儀をまとめた「泥仏放語集」に「ぼけにも風格」と
   書かれたものを見たことがある。

   これを見た時、えも言われぬ感慨を覚えた。


   人がたどって来た人生の果てに生ずるのが風格であって、
   その有り様はどれ一つとして同じものはなく、
   個々区々(まちまち)なのである。

   つまりその人の人生の香りというか、結果の立ち姿である。


   人生の舟に、知識や経験や想いを積めるだけ積んで川を下っていく。

   しかし全てを持っては死〇ないから、
   ある年齢に達した時は、これを捨てて行かねばならない。

   昨今はやりの断捨離だ。

   しかしいくら捨てて行っても、本当の事は遺(のこ)る。真実は遺る。

   残り香(が)のように。
   その残り香が美しいのである。


   若い頃、献茶の担当をしていた。

   神前への家元の御献茶が済んで、
   何席かある茶席廻りの時に、家元の内弟子のご老人のお供をした。

   ご流派では名のある先生だから、
   その先生が席に入られるやいなや、席は静まり凛とした空気が漂った。

   ところがその先生は、
   わざと寛(くつろ)がれ、お話も楽しいし、
   作法もサラリとこなされる。

   茶杓の拝見などは、
   しっかりと要点を押さえつつも、型にとらわれる事もなく、
   自然で美しいものだった。


   捨てた姿は美しい。

   但しそれは修めて修めて、
   修め尽くした人が捨てた姿が美しいのであって、

   修めもせず、舟の荷物も少ない人が捨て去った後には、
   全く何も遣っていないのである。

   中途半端に修めた人と、修め尽くした人とでは
   全く仕上がりが違うのである。

   たどって来た先にあるもの、
   全てを呑みこんでから吐き出した後に遺るもの。

   つまり人生の残り香と余韻こそが風格というものではなかろうか。

    《風格とは、捨てても捨てても遺るもの》

     <『日本人よ、かくあれ』ウェッジ>

       ・・・

「別れたあとに、また会いたいと思うような余韻や余情を残す人は
 魅力的な人間である」(行徳哲男)


余韻とは、鐘の音などが消えたあとも、なお耳に残る響きのこと。

その一番中心にあるものが、
なんともいえない温かでしみじみとした人間関係。


また、虚飾を捨て去ったあとに残るものが、「素朴愚拙」という魅力。

「素」とは、枝葉を取り払ったあとの、何も身につけていない魅力。

「朴」とは、朴訥とした、泥臭さのこと。

「愚」とは、よく見せようとか、かっこつけようとしない、バカになれる魅力。

「拙」とは、要領よくない、へたくその魅力。


なんともいえぬ残り香と余韻のある人…

人間としての「風格」を少しでも身につけたい。

           <感謝合掌 令和5年7月27日 頓首再拝>

偉大なる人物 - 伝統

2023/07/31 (Mon) 12:21:27


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月31日)より

人が拝み合うほどわたしを喜ばす話はない。
人が愛し合う話ほどわたしを喜ばす話はない。

人が罵り合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
人が憎み合う話ほどわたしを悲しませる話はない。

他(ひと)が悪いということに憎みを感ずる者は愚かな者である。

他(ひと)が自分より優れていることを聞いて
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である。

         <感謝合掌 令和5年7月31日 頓首再拝>

【陰陽のバランスの取れた人に】 - 伝統

2023/10/03 (Tue) 13:21:02


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.10.1)より

   (東洋思想研究家、田口佳史(よしふみ)氏の心に響く言葉より…)

   人間関係をよくするには、自分自身が人格者でないといけません。

   人格の劣ってい る人は尊敬されないし、
   人望を集めることもないでしょう。

   いい人間関係の土台には、自分自身の人格がある。

   そこはしっかりふまえてください。


   では、「人格者」とはどんな人物か。

   そのことを考えるうえで大事なのは、
   「陰陽のバランスを取る」という考え方です。

   中国古典思想では、森羅万象、あらゆる物や存在、事象を
   「陰」と「陽」に分類します。

   この「陰陽思想」は、対比的な矛盾に満ちた社会を、
   すっきり説明することのできる概念といえます。


   大ざっぱに説明すると、
   「陰」は内へ、内へと向かう働きがあって、受動的な性質。

   「陽」は正反対で、
   外へ、外へと向かう働きがあって、能動的な性質です。


   大事なのは、ここから。

   「陰」は「陽」が、「陽」は「陰」があって、
   はじめて一つの要素となりうる、ということです。

   両方の要素が溶け合って一つになった状態を完璧とする。

   このことを、 「陰陽和して元となす」といいます。

   中国古典思想を象徴する考え方ですね。


   人格に関連していえば、
   私たちが生来持っている欲望は「陽」に当たります。

   その欲望にブレーキをかける「陰」として作用するのが、
   人として守るべき道理です。

   その陰陽が備わっている完璧な人…つまり「バランス感覚の備わった人」
   こそが 「人格者」と呼ぶにふさわしい人物なのです。


   菜根譚にも「陰陽のバランスの取れた人格者」について
   説いた章句がたくさんあります。


   《清なるも能(よ)く容(い)るる有り、
    仁なるも能く断を善(よ)くす。
    明なるも察(さつ)を傷つけず、
    直(ちょく)なるも矯(きょう)に過ぎず。》(前集2)

   陰陽、対立する要素を並べて、

   「清廉潔白だが、包容力がある。思いやりがあるが、
    決断力にも優れている。頭が切れるが、人の考えも尊重する。
    正直だが、人のことを、とやかくいいすぎない」 と、

   バランスを取ることの重要性を説いています。

   たしかに、清廉潔白な人は自分にも人にも厳しく、
   少しの悪事や過ちも許さず、包容力に欠けるところがあるものです。

   でも、人格者は、
   「場合によっては寛大に受け入れる包容力を有している」としています。


   また思いやりのある人は、人の気持ちを考えるあまり、いろいろ迷いがち。

   決断力を発揮することも忘れてはいけません。


   頭の切れる人は人の意見などおかまいなしに、
   なんでも自分の思いどおりに進めていこうとする傾向があります。

   自分の才に溺れず、周囲の声に耳を傾けることを
   大事にしたほうがいいでしょう。


   正直者は正直な物言いを信条としていますが、
   正直であればいいというものではありません。

   人を傷つけるようなことをいったり、
   人のやっていることに余計な口出しをしたりするのは
   控えるべきでしょう。

   こんなふうに
   「清」「仁」「明」「直」はどれもすばらしい資質ですが、

   それが裏目に出る場合もあることに用心しなくてはいけない
   と警告しているのです。

     <『仕事で一生悩まないための 菜根譚の教え』三笠書房>

            ・・・

本書の中で、人格者を食べ物にたとえて、こう表現している。


《是れを密せん甜(あま)からず、海味からからずと謂(い)う。
 わずかに是(こ)れ、い徳なり。》

「甘いお菓子だけど甘すぎず、海産物だけどしょっぱすぎない。
 そういう人こそ美徳を備えた人格者である」

みなさんも自身の性格をふまえて、その逆の資質を意識するといいでしょう。

たとえば、「細心と大胆」「勇敢と慎重」「柔軟と剛直」
「穏やかさと激しさ」「悲観的と楽観的」「勤勉と怠惰」
「粘り強さとあきらめのよさ」など、“甘辛気質”を磨きましょう。



「陽」を含む言葉には、陽気、陽光、太陽、一陽来復、というように、
明るくて元気な「陽(日)の光」のイメージがある。

しかし、人生においては、
どんな人も、日のあたる場所ばかり歩いてきた人はいない。

ときには、失敗したり、失意のどん底に落ちたりと、
やることなすことうまくいかないような、日の当たらないときもある。


だからこそ、自分を磨き上げるには、陽だけでなく、
陰もあわせ飲むような度量が必要だ。

つまり「清濁併(せいだくあわ)せのむ」という姿勢。

正も負も、善も悪も、いいも悪いも、併せのむということだ。


稲盛和夫氏は、

「正気と狂気」とか「優しさと厳しさ」、「雇用と解雇(悪い人を切る)」
といった相反することを平然と、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなくできる人を
名経営者という、と言っていた。


優しい人だが、厳しさもある。

まっとうな常識人だが、事があったら狂気も発動する。

善人だが、悪の手口も知っている。

まじめだが、遊ぶときには徹底的に遊ぶ。


陰陽のバランスの取れた人でありたい。

         <感謝合掌 令和5年10月3日 頓首再拝>

人間の人格の自然な成長を害するもの - 伝統

2023/12/24 (Sun) 14:50:30


     *「光明道中記」(12月24日《人格完成の日》)より

【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。
                   (『生命の實相』第八巻)】

資本の蓄積は現在の経済組織に於いては
何か仕事を進める上には是非必要なことではある。

併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、
それは守銭奴であって、人間の人格の自然な成長を害することになる
のである。

梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。

それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。

人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨は
すべて遺しておかなければならないのである。

彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。

それだけに必要以上の蓄積することに時間をつぶして、
一体それが何の獲得であるのだろうか。

財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。

           <感謝合掌 令和5年12月24日 頓首再拝>

人格の雰囲気を良くするには - 伝統

2024/05/07 (Tue) 05:00:56


        *「生命の實相」第29巻女性教育篇(P127~130)より

常にわれわれが善き念波を起こすようにしていますと、
人格の雰囲気というものが善くなってまいります。

人格の雰囲気というものはなかなか一日や二日で
変わってくるものではないのでありまして、
それは長時間の間自分の心に持続する精神波動が人相に変化を及ぼし、
態度姿勢にまで変化を及ぼして、

それからなんとなしに懐かしい、親しみやすい、信頼しやすい
というような空気の出る人もあれば、ある人の所に行くと、
窮屈で煙たくてしかたのないという人もある。

あるいはあの人の顔を見ると、気持が悪くてムシズが走るような気がする
というような人があるというぐあいに、
人それぞれに人格の雰囲気がちがうのであります。

これはいくら紅をつけても、白粉おしろいをつけても、
そんな表面のごまかしではどうにもならないのでありまして、
やはり常に持続している自分自身の念(こころ=ねん)の波が
肉体に現われているということになるのであります。

その一例としましては、今は亡くなりましたが岡田式静坐法の先生で
小林參三郎という京都の東寺の境内にある済生病院の院長をしておった人の
著書に『生命の神秘』とか、『自然の名医』とか題する本の初めのところに
書いてある話に、

ある非常に良い人相見が知合いの役者に遇いましたら、
とてもその知人が悪人の相をしておって、今に不幸な運命の危害が
加えられるというような人相が現われている。

それを指摘して言ってあげようかと思ったけれども、
それを言ってあげたらその人が心配するといけないからと思って、
その時は言わないで別れてしまった。

それから半月ほどして、同じ役者に同じ人相見が遇ったのであります。

すると今度はあべこべに非常に良い人相になって、
いかにも天が祝福しているような人相をしているのだそうです。

それから今なら言っても心配することはなかろうと思って、
「実は、今君の顔を見るととても輝いて天が祝福しているような顔をしているが、
この間、半月ほど前に遇った時には実に悪相をしておった。

今にも君の身に危害が加わるような人相しておったが、
どうしてこんなに変わったのか」といったそうであります。

そうすると、その役者が言うには
「実はあの時は原田甲斐という悪役の芝居をしておった。
それでその芝居をやっている間中原田甲斐になりきってしまって
そういう人相をしておったのでしょう。
ところが今は大石内蔵助をやっている」と言うのです。

それはむろんよく鑑定のできる人相見だからこそ、
はっきり人相にその微妙な変化がわかったのでありましょうけれども、

毎日いつまでも心にそういう原田甲斐のような心を持てば
人相見ならずとも普通の人が見ても「あいつはやはり悪人であるな」
ということがわかるほどに人相が具体的に変わってくるにちがいないのであります。

ですからわれわれは人相がよくなりたい、
不幸を受けないような人相になりたいと思うと、
忠義な深切な大石内蔵助のような良き念を常に思い浮かべるようにして、
良き雰囲気を自分の全身から立ち騰のぼらせるようにしなければならないのです。

深切は人のためならず自分のためであります。
深切の念をわれわれが起こせば、宇宙に充ちている幸福の念波、
生かしてやろう、育ててやろうという念波を受ける、
そうして良き考えを自然に思い浮かべることになり、
自然と良き方に引きずられてゆくのであります。

それですから生長の家の説く心の法則によりますと、
善人のみ栄えて悪人は栄えないことになるわけであります。

世の中にはよく善人のくせに不幸に陥おちて悪人が栄えているじゃないか、
生長の家の言うことは嘘だと考える人があるかもしれませんけれども、
決してそうではないのであります。

よく善人で周囲と衝突したり、周囲に容れられないで不幸になる
ような人の中には、こせこせして善に執われたり、頑固で強情で、
自分の考えばかりをよいと思って、
自分の「善の尺度」で人を批判して悪口ばかり言ってるような人が
たくさんあるのであります。

そういうふうな善人は、どんなに善人みたいに見えても
本当の善人ではないのであります。

それはこの人の心が非常に狭くて他の人を生かさないことを
現わしているのであります。

ともかく、深切ということは深く切なるていねいな思いである
とともに広々とした思いであり、自分の尺度に執着しないで
相手を生かす思いであることを知らねばなりません。

〔編者曰く〕これは昭和十一年八月二十九日、
谷口先生が比叡山の講習よりお帰りになって二日目に
生長の家家庭光明寮で御講話になった聖典講義の速記である。

           <感謝合掌 令和6年5月6日 頓首再拝>

【いつもニコニコしていれば】 - 伝統

2024/06/01 (Sat) 04:51:16


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.8.15)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

    七十歳になる詩吟(しぎん)の先生がいます。

   お弟子さんが五、六人いました。

   この方は詩吟の全国大会ではいつも二位で、優勝することがなかった。

   何度か優勝を逃している、
   という状態のときに、私の講演会を初めて聴きに来ました。


   「頑張って力を入れようとするから、力が出ないのかもしれません。

    順位を競うのではなく、楽しみましょう。

    このような大会で、普段なら自分一人で唄っているものを、
    大勢の人に聴いてもらうことができて楽しいよね、

    と思いながら唄ってはどうでしょうか」
  
   とお話ししました。

   あるときに、平常心で唄うことができたそうです。

   そして優勝しました。


   実はそのとき、風邪をひいていたのだそうです。

   声がちゃんと出るだろうか、と思ったけれど
   「いいや、どうでも」と力が抜けた。

   そして、もう優勝しなくて当たり前、と思って唄ったら初めて優勝した。


   優勝したら、お弟子さんが増えて、
   五人くらいだったのが十人、二十人、ついには四十人になったそうです。

   その四十人のうち三十人は、
   教室で一回も詩吟をしたことがないのだとか。

   何のためにその三十人は毎回来ているかというと、
   この雰囲気が好きだというのです。

   先生の、柔らかくて周りをほんわかと温かくするような人柄が好きで
   集まっている。



   ここのところは非常に重要です。

   私たちは、能力を磨くことによって客を得られたり、
   商売が成功すると思い込まされてきました。

   が、そうではないようです。


   穏やかでにこやかな人がいて、
   そばにいると心地よいと思えるような人だと、
   自然と人が集まってくるので、何をしてもうまくいきます。

   技術が抜きん出て、優れている必要はなく、標準的で構わない。

   ただ本人がニコニコしてい れば良い。


   「客が来ないなあ」と思いながら眉間にシワを寄せていると、
   もっと来なくなります。

   そうではなく、暇なときはニコニコしながら
   「ああ、休みがたくさんとれていいなあ」、

   お客さんが来たときは「嬉しいなあ」と思って、いつもニコニコしていれば、
   そういう人のところに人は集まってきます。


   《いつもニコニコしていれば》

           <『喜ばれる』PHP文庫>

       ・・・

我々は、能力や技術を磨くことの大切さを子供のころから教わってきた。

もちろん、能力や技術を磨くことも大事だ。

しかし、同時に必要なのは、
人格や人柄を磨くことの方がもっと大事だということに気づくこと。


たとえば、飲食店で、腕の立つオーナーシェフが、
いつもスタッフを怒鳴り散らしていたり、イライラしていたら、
最初は客が入ったとしても、だんだんとお客は減っていく。

どんなに技術があろうとも、いかにおいしい料理を出そうとも、
不機嫌で、無愛想で、気難しそうだったら、人は離れていく。


とくに、お稽古事の先生はこのことが言える。

もちろん、技術も必要だし、あるときには厳しさも必要だ。

だがしかし、本当に必要なのは、
「柔らかくて周りをほんわかと温かくするような人柄」。


いつもニコニコしていて…

周りをほんわかと温かくするような人柄を目指したい。

        <感謝合掌 令和6年5月31日 頓首再拝>

《ニセモノの自分を克服する者のみ一流の人物となり得る》 - 伝統

2024/06/13 (Thu) 04:55:59


        *「眞理」第2巻基礎編第4章(P120)より

誰でも最初は、天下に名を為す大人物になりたいとか、
人類、社会、国家に貢献したいとか、一流の芸能人になりたいとか、
一流の科学者になりたいとか考えるのである。

ところが、その希望が途中で挫折し、碌々(ろくろく)として
社会の下積みになってしまう場合が多いのである。

その理由を考えて見ると、一切万事、自分に関する運命は
自分自身の想念、感情、行動、等から結果するのであるから、

若し、「自分」そのものを、よく調(ととの)えられたる自分にしない限り、
自分の運命は決して順調に進まないのである。

「自分」そのものをよく調えられたる自分にするためには、
「本当の自分」と「ニセモノの自分」(心の雑草)をよく区別し、
ニセモノの自分を取除いて「本当の自分」だけを磨き出すようにすることが必要である。

        <感謝合掌 令和6年6月12日 頓首再拝>

「人格」の力を作れ - 伝統

2024/06/18 (Tue) 14:55:59


      *「光明法語」(6月18日)より

「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、不成功に終らせたりするのである。

ある人は「人格」の力で、人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。
ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、
その人に功を成さしめない。

では「人格」の目に見えない雰囲気をどうしたら発達せしめることが出来るか。
それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。
《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。

        <感謝合掌 令和6年6月18日 頓首再拝>

「人格」の《ふんいき》 - 伝統

2024/06/19 (Wed) 12:51:59


      *「光明法語」(6月19日)より

日常断えず思っている「思い」の集積が、人格の雰囲気となって現れる。
たえず善き「思い」を起こしている者はよき人格の雰囲気をもち、
断えず卑しい「思い」を起こしている者は何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。

威厳の雰囲気を放つ者あり、
慈悲の雰囲気を放つ者あり、
柔和の雰囲気を放つ者あり、

剣気の雰囲気を放つ者あり、
邪気を放つ者あり、

徳気を放つ者あり、

人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって
、一時人前を繕っても駄目である。

第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。

        <感謝合掌 令和6年6月19日 頓首再拝>

人格完成の日 - 伝統

2024/12/24 (Tue) 12:54:52


           *「光明道中記」(12月24日)より

【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。
                   (『生命の實相』第八巻)】

資本の蓄積は現在の経済組織に於いては
何か仕事を進める上には是非必要なことではある。

併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、
それは守銭奴であって、
人間の人格の自然な成長を害することになるのである。

梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。

それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。

人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨は
すべて遺しておかなければならないのである。

彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。

それだけに必要以上の蓄積することに
時間をつぶして、一体それが何の獲得であるのだろうか。

財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。

       <感謝合掌 令和6年12月24日 頓首再拝>

【理不尽なことに対して】 - 伝統

2025/02/15 (Sat) 14:57:12


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2024.11.18)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   こちらの側に落ち度がないのに、
   一方的に酷いことを言われた、されたことを、「理不尽」と言います。

   だんだんと理不尽度が増していき、
   それでもああじゃこうじゃと言わずにいると、
   神様は「合格」と判を押してくれます。

   理不尽度10で文句を言わずにいると、理不尽度20の現象が起きます。

   だんだんと増していって、
   最後は理不尽度100パーセントの現象が起こります。


   ある人が、5000坪の敷地の中に、
   100坪の建物の一室を借りて、キャンドル体験工房をしていました。

   もともとその場所では、大家さんが
   観光協会から建物を借りて喫茶室を経営していたのですが、

   喫茶室だけでは広すぎるということで
   一角をまた貸しして、そこで体験工房をやっていました。

   キャンドル体験工房は繁盛していて、
   そのお客さんが隣の喫茶室にも流れていたので、
   それなりに喜ばれているとキャンドル工房の経営者は思っていたそうです。


   しかし、ある日突然、大家さんから呼び出され
   「明日出て行ってほしい」と言われました。

   お客さんがたくさん入っていたので、
   もっと家賃を上げたいと思ったのかもしれません。

   普通だと、
   「家賃を多く払うのでなんとかしてほしい」という話にもなりますが、
   たまたまその経営者の方は、私の「理不尽度が増す」
   という話を聞いていました。

   それまでにも、理不尽度の高いことがどんどん来ていたそうです。

   そのときに文句を言わずに受け入れていると、
   より好転していくという事実が積み重なっていたので、
   今回も一言も文句を言わずに受け入れました。


   そして明日には出て行かなければと思いながら、家に帰ったそうです。

   その翌日、観光協会から電話があり、
   大家さんがタンを喉に詰まらせて亡くなった
   という報告を受けました。

   その後、葬儀などが落ち着いてから、観光協会より
   「五千坪の敷地全部をあなたが好きに使ってください」と頼まれたそうです。


   五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を言っているあいだは、
   理不尽なことは起こりません。

   人格が向上していくと、理不尽なことが起きるようになっています。


   理不尽度が高まってきたら、神様に見込まれたということ。

   自分が成長しているという証明になります。

   最後の理不尽度100パーセントの現象のときも
   五戒を言わずに受け入れていくと、
   神様から合格の判をいただけて、人生が楽に楽しくなっていきます。


       《神様からの「合格」のメッセージ》

         <『笑顔で光って輝いて』清談社>

        ・・・

小林正観さんは、
人間の魂のレベルが上がるとき、「不幸という名の試験」がやってくるという。

一般的に「不幸」だと思われている現象を、どうとらえるかという試験だ。

それには三つの見方・考え方がある。


「不幸」に対して…

一つ目は、最悪だ、ツイていないと、愚痴・泣き言・不平不満・文句を言う。

二つ目は、この程度で済んでよかった、幸せ、ラッキー、嬉しいと言う。

三つ目は、このことがあったおかげで、今の私がある、ありがたいと感謝する。


すると、実際には、「幸」という現象も、「不幸」という現象もなく、
その人の考え方や見方でどちらにもなるということだ。

理不尽なことについても同じだ。

我々のレベルが上がるとき、「理不尽」という名の試験で試される。


理不尽なことに対して、怒ったり、文句や愚痴を言わず…

ニコッと笑って、感謝の気持ちで受け止めたい。

・・・

<参照>

笑顔で光って輝いて(実業之日本社)
https://www.youtube.com/watch?v=rwhn5kKOF_Q

      <感謝合掌 令和7年2月15日 頓首再拝>

「人格」の力を作れ - 伝統

2025/06/18 (Wed) 13:27:29


      *「光明法語」(6月18日)より

「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、不成功に終らせたりするのである。

ある人は「人格」の力で、人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。
ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、
その人に功を成さしめない。

では「人格」の目に見えない雰囲気をどうしたら発達せしめることが出来るか。
それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。
《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。

        <感謝合掌 令和7年6月18日 頓首再拝>

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