伝統板・第二

2585718
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

真理の生活 ⑰ - 伝統

2023/03/14 (Tue) 07:48:30

時節に乗ることが大切

       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月14日)」より

現象界においては時節が事を成就する。

時節に乗ると乗らぬとは、
成敗(せいはい)の基(もとい)である。

時節に乗る秘訣は神に一致すること。
神に一致するには、《今ある》状態を
まずありがたいと享受して、そこで百%を行ずること。

急ぐはことを破壊し、急ぐ息はセク息である。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815

(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957

(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8209345

(12)伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8238335

(13)伝統板・第二「真理の生活 ⑬」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8250384

(14)伝統板・第二「真理の生活 ⑭」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8263502

(15)伝統板・第二「真理の生活 ⑮」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8290983

(16)伝統板・第二「真理の生活 ⑯」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8305125

            <感謝合掌 令和5年3月14日 頓首再拝>

【情味を味わって生きる】 - 伝統

2023/03/17 (Fri) 07:28:35


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.5)より

   (中村天風師の心に響く言葉より…)

   人間の幸いとか、不幸とかいうものは、結果からいえば、
   生活の情味(じょうみ)を味わって生きるか否かによるといえる。

   貴賎貧富などというものは第二義的のものである。

   実際いかに唸るほど金があっても、高い地位名誉があっても、
   生活の情味を味わおうとしない人は、
   いわゆる本当の幸福を味わうことは絶対にできない。


   もっともこういうと中には、現代のようなせちがらい世の中、
   いささかも面白味を感じることの少ない時代に、
   生活の中から情味を見出せよなどということは、
   ずいぶん無理な注文だと思う人があるかもしれない。

   その生活に負わされている負担とか犠牲とかいう方面のみを考えると、
   およそ人間の生活くらい苦しく、つらく、悩ましいものはないと思われよう。


   しかし、もっともっと立体的に人生というものは観察すべきである。

   すると、期せずして生活の範囲の広いことと同時にその内容が、
   ちょうど精巧な織物のように、極めて複雑な色模様でちりばめられていることを
   直感する。

   その直感なるものが、生活の中から、相当楽しく、面白く、愉快で、
   スウィートだと思えるものを、かなり量多く見出してくれるのである。

   だから、われわれは、常に注意深く、
   日々の自己生活の中から、できるだけ多分(たぶん)に、
   情味を味わうように心がけねばならぬ。

              <『ほんとうの心の力』PHP>

      ・・・

坂村真民さんの「二度とない人生だから」という詩がある。


『二度とない人生だから
 一輪の花にも 無限の愛をそそいでゆこう
 一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう』


まさにしみじみとした「情味(じょうみ)」の世界だ。

「情味」とは、しみじみとした味わい、
面白味、やさしさや、思いやり、心遣いを言う。

また、人間らしいあたたかみや、人情味のことでもある。


「情のある人」とは、相手を思いやる心が強くて優しい人をいう。

情(なさ)け深い人でもある。


「惻隠(そくいん)の情」という言葉もある。

武道などの試合で、
「負けた相手の気持ちを思いやれ」ということで、
勝ってニコニコしたり、ガッツポーズなどはしてはいけないという戒め。

弱者に対するいたわりの心であり、慈(いつく)しみの心でもある。


つまり、日常生活のいたるところで、「情味」を見出すことが大事で、
それを感じることができる人が「幸せな人」だということ。

逆に、いくらお金があろうと、豪邸や高級車があろうと、
日常、幸せを感じることのできない人は不幸せだ。

なぜなら、物質的な欲求は必ず、もっともっととエスカレートしていくから、
常に満足ということがない。

だから、不幸せ。


情味を感じることができる人は、
「足るを知る」人であり、一輪の花にも、無限の愛をそそぐことができる人。

そして、何もないあたりまえの日常に感謝できる人。


日常生活のいたるところで…

情味を味わって生きることができる人でありたい。

          <感謝合掌 令和5年3月17日 頓首再拝>

人生を値切るなかれ! - 伝統

2023/03/18 (Sat) 05:06:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 令和5年3月18日 頓首再拝>

人生を花をもって飾り、讃えましょう - 伝統

2023/03/19 (Sun) 05:02:23


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月19日)」より

人生を花をもって飾りましょう。
縮かんでしまってはなりません。

死人があるからとて、
バラの花は咲くように神様から美を与えられているのです。

地上に悲惨があればこそ、
われわれはいっそう地上を美しく飾らねばなりません。

委縮するものはついに国を滅ぼすのです。

元気にその日その日を生き、元気に人生を讃(たた)えましょう。

            <感謝合掌 令和5年3月19日 頓首再拝>

【楽しい話の収集家になろう!】 - 伝統

2023/03/20 (Mon) 07:26:31


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.4)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   世の中にはたくさんの問題があるようです。

   政治の問題・経済の問題・教育の問題。

   もう数え上げればきりがないほどに、
   これが問題だ、あれが問題だ、ということが出てくるに違いありません。


   ですが、私は宇宙の法則なり方程式なりを研究していて、
   こういうことに気がつき ました。

   問題だ、問題だと言うのと同じくらいに、
   実は、宇宙には楽しい法則や楽しい方程式が存在しているみたいだ。

   陰と陽があり、光と影があります。

   問題だ問題だという部分が100あれば、
   たぶん楽しい話、楽しい宇宙法則が100あるのです。

   問題だ、問題だというものが1000あれば、
   楽しい話、楽しい宇宙の法則・方程式がたぶん1000個あるのです。

   問題が1万個あれば、
   楽しい話や楽しい宇宙法則・楽しい方程式が1万個あるのです。

   たぶん同じ数だけ存在するに違いないということが、私の中でありました。


   で、私はこういうふうに決意をしたのです。

   問題点を指摘する人間ではなくて、楽しい話の側の収集家になろう。

   こういうふうに数十年前に決めました。

   こうすると、こうなるらしいという
   楽しい宇宙の法則、楽しい方程式の収集家になろうと決意したのです。

   ですから、私の話の中にあれが問題だ、
   これが問題だという話は、ほとんど出てきません。


   たとえば、天才たちが育った家には共通項がありました。

   それは同じタイプ の母親が存在したということです。

   同じタイプの母親とは、子どもを称賛し、いいところを探し、褒めたたえた。

   悪いところを上げ連ねて、欠点を指摘して、修正して修正して、
   それを言い続けるのではなくて、
 
   いいところをピックアップして、それを探し、褒めたたえ、
   さらにまたよいところを探しては、それを褒めたたえたということです。


   吉田松陰も同じことを門下の塾生にやりました。

   よいところを探し出して、それを一人ひとりに教える。

   そこを指摘してあげるということをやったのです。


   世の中には、問題点の数と同じ数だけ 楽しい法則、楽しい方程式があります。

   そちら側だけの収集家になると決意をするのはどうでしょうか。

   同じ教育の問題を論ずるにしても、
   「これがいけない」「あれがいけない」「今の教育が問題だ」と論ずるよりは、
   天才たちにはこういう共通項があった。

   同じタイプの親がいた。

   同じタイプの母親がいた。

   そういうことを探し出して、
   そういうことを話題にするというのはどうでしょうか。

   そういうことだけの研究家であり、
   そういうことだけを話す人間というのはどうでしょうか。

       <『啼(な)かなくていいホトトギス』中経出版>

     ・・・

いつも、楽しい話、明るい話をしている
「楽しい話の収集家のグループ」には、楽しくて、明るくて、笑顔の人が集まる。

いつも、問題点や、心配なことなどばかりを話す「暗くて批判的な話の収集家のグループ」
には、議論好きで、批判好きの、暗くて不機嫌な人ばかりが集まる。

自分のまわりに集まる人たちがどちらのタイプの人なのか?

もし、暗い人たちばかりが集まるというなら、
自分が日頃関心あるニュースや好んでする話が暗い、ということだ。


身近にいる人たち、家族や友人や会社の仲間などが、
楽しくて明るくて、笑顔の人たちで囲まれているなら、今が天国ということ。

この世を去ってから、あの世では「天国に行く」、というのを目指したとしても、
それは誰も分からない世界だし、天国があるかどうかの証明もできない。

だからこそ、
「この世の天国を目指す」という方が、現実的だし、理に適(かな)っている。

誰にも見える世界だからだ。


楽しい話の収集家を目指したい。

          <感謝合掌 令和5年3月20日 頓首再拝>

【情味を味わって生きる】 - 伝統

2023/03/21 (Tue) 07:40:30


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.5)より

   (中村天風師の心に響く言葉より…)

   人間の幸いとか、不幸とかいうものは、結果からいえば、
   生活の情味(じょうみ)を味わって生きるか否かによるといえる。

   貴賎貧富などというものは第二義的のものである。

   実際いかに唸るほど金があっても、高い地位名誉があっても、
   生活の情味を 味わおうとしない人は、
   いわゆる本当の幸福を味わうことは絶対にできない。


   もっともこういうと中には、
   現代のようなせちがらい世の中、いささかも面白味を感じることの少ない時代に、
   生活の中から情味を見出せよなどということは、
   ずいぶん無理な注文だと思う人があるかもしれない。

   その生活に負わされている負担とか犠牲とかいう方面のみを考えると、
   およそ人間の生活くらい、苦しく、つらく、悩ましいものはないと思われよう。


   しかし、もっともっと立体的に人生というものは観察すべきである。

   すると、期せずして生活の範囲の広いことと同時にその内容が、
   ちょうど精巧な織物のように、極めて複雑な色模様でちりばめられていることを
   直感する。

   その直感なるものが、生活の中から、相当楽しく、面白く、愉快で、
   スウィートだと思えるものを、かなり量多く見出してくれるのである。

   だから、われわれは、常に注意深く、日々の自己生活の中から、
   できるだけ多分(たぶん)に、情味を味わうように心がけねばならぬ。

            <『ほんとうの心の力』PHP>

      ・・・

坂村真民さんの「二度とない人生だから」という詩がある。


『二度とない人生だから
 一輪の花にも 無限の愛をそそいでゆこう
 一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう』


まさにしみじみとした「情味(じょうみ)」の世界だ。

「情味」とは、しみじみとした味わい、
面白味、やさしさや、思いやり、心遣いを言う。

また、人間らしいあたたかみや、人情味のことでもある。


「情のある人」とは、相手を思いやる心が強くて優しい人をいう。

情(なさ)け深い人でもある。


「惻隠(そくいん)の情」という言葉もある。

武道などの試合で、
「負けた相手の気持ちを思いやれ」
ということで、勝ってニコニコしたり、
ガッツポーズなどはしてはいけないという戒め。

弱者に対するいたわりの心であり、慈(いつく)しみの心でもある。


つまり、日常生活のいたるところで、「情味」を見出すことが大事で、
それを感じることができる人が「幸せな人」だということ。

逆に、いくらお金があろうと、豪邸や高級車があろうと、
日常、幸せを感じることのできない人は不幸せだ。

なぜなら、物質的な欲求は必ず、
もっともっととエスカレートしていくから、常に満足ということがない。

だから、不幸せ。


情味を感じることができる人は、
「足るを知る」人であり、
一輪の花にも、無限の愛をそそぐことができる人。

そして、何もないあたりまえの日常に感謝できる人。


日常生活のいたるところで…

情味を味わって生きることができる人でありたい。

          <感謝合掌 令和5年3月21日 頓首再拝>

憎み、悪口は、殺人に等しい - 伝統

2023/03/22 (Wed) 05:01:06

         *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 令和5年3月22日 頓首再拝>

真理とともに立つ - 伝統

2023/03/27 (Mon) 05:07:02


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、
おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 令和5年3月27日 頓首再拝>

【死ぬまでに、自分の使命に気づく】 - 伝統

2023/03/28 (Tue) 08:18:15


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.7)より

   (元東京大学医学部救急分野教授、矢作直樹氏の心に響く言葉より…)

   使命というのは、正確には誰もわからないと思います。

   もちろん自分で天命を受けたと理解して
   芸術家のように、良い意味でなすがままに生きられる人もいるでしょうけれど、
   大方の人はそうではないと思います。

   死ぬまで、何が自分の天命だったのかがわからないのが実際かと思います。


   でも、自分が取り組んだ仕事、事業、プロジェクト、
   あるいは家庭における夫婦や親子関係、友人関係などに至るまで、
   何か一生懸命になったものは天命と言えば天命なのでしょう。

   なぜなら、自分が一生懸命になれるだけの時間とエネルギーを
   そこに「与えてくださった」のは天(のおかげ)だからです。

   一生懸命になれるもの、きっとどなたもお持ちだと思います。

   私はそれこそが、私たちひとりひとりに与えられた天命だと思います。

   自分でしっかりと感じてみてください。


   もし天命という言葉に抵抗があるのなら、
   それを「夢中になれること」と単に言い換えて構わないと思います。

   それこそが自分のお役目ではないでしょうか。

   何かに夢中になっている時間は、ほかのことをいっさい考えません。

   だから「夢中」と呼ばれるわけですが、
   そのことを自分と一体になって感じてください。


   そしてそれは 「中今(なかいま)」という言葉と密接な関係があります。

   中今は神道の歴史観を体現している言葉ですが、時間の中心点に相当します。

   中今は 「今ここにいるのだ」という感覚であり、
   それは過去でも未来でもない、

   現在の自分が大事、
   現在の振る舞いが大事、
   現在の気持ちが大事という、

   あくまでも現在の重要性を表わす言葉です。


   今現在を生き切ること、つまり中今を感じながら楽しむことこそ、
   私たちに与えられた天命であり、

   ひとりひとりがどういう価値観でそれを具現化するかというのが
   個人の使命だと私は感じます。

   仏教、中でも禅宗では、「刹那」という言葉がよく使われます。

   ネガティブな意味で解釈されている向きもありますが、

   刹那は今この瞬間を体現する中今と同義。


   中今や刹那は、いわば「一期一会」ということです。

   どんな宗教や宗派の教えであれ、私たちが
   この世界で生きる上で必要なことは同じなのです。

          <『ご縁とお役目』ワニブックスPLUS新書>

        ・・・

小林正観さんは、
「頼まれたことがあったら、それをできるだけ全部引き受ける」
ことが大事だという。

そして…

『頼まれごととは、PTAや町内会、
 あるいは公的なボランティアのようなものから、
 会社や家庭の仕事も含まれる。

 今、目の前に与えられた頼まれごとのこと。

 ときには、自分の苦手なことも頼まれたりする。

 しかし意外に、自分の苦手なことや、
 不得意なことの中に、人生の転機のキッカケや
 チャンスになることがあったりする。

 だからこそ、「頼まれごと」は、
 文句を言わず、面白がって、淡々と引き受けることが必要だ。

 頼まれごとを何年にもわたって、
 淡々とやっていくと、自分の使命が見えてくる。

 どんな方向に自分が動かされているのか、
 という神の意志のようなものをそこに感じるからだ。

 自分に与えられた目の前の仕事を、
 淡々と一所懸命にやっている人のところにしか、
 次のステップはやってこない。

 今の生き方がチャランポランな人に、
 次の飛躍につながる大きなチャンスなどはこないからだ。』



中今とは、「今この一瞬」のこと。

昨日でもなければ、明日でもない。

今日ただ今を一所懸命に生きるということ。

すると、その姿をまわりが見ていて、「頼まれごと」がやってくる。


森信三先生は、

「人はこの世に生まれ落ちた瞬間、
 全員が天から封書をもらって生まれてくる」

と言っている。

「その封書を開いたら、あなたは
 こういう生き方をしなさい、と書いてある。
 しかし、せっかく天からもらった封書を
 一回も開かないままで死んでいく人が多い」と。



天からの封書を開き…

死ぬまでに、
自分の使命に気づくことができる人でありたい。

・・・

<参照>

「心の岩戸を開くこと」がこれから重要です
伊勢ー白山 道(2022-12-27)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/a0fbfca5a60cd87117167fb985a25260

  ドッペルゲンガー現象

            <感謝合掌 令和5年3月28日 頓首再拝>

平和なる眠りを得るには - 伝統

2023/03/29 (Wed) 04:58:48


           *「光明法語」(3月29日)より

吾々は原因結果の法則の世界に生きているのである。
その原因は他から来るのではなく、自分から来るのである。

吾々が人々を愛すれば人々から吾々は愛されるのである。
人々に与えれば人々から与えられるのである。
吾々が人々を賞賛すれば人々から賞賛されるのである。

愛は愛を呼び、憎みは憎みを呼ぶ。
奪うものは奪われ、殺す者は殺される。

眠るときに愛念を起して眠れ、感謝の念を起して眠れ、
明日の事を神にまかせて眠れ。

決して争いや、心配の心で眠るな。

            <感謝合掌 令和5年3月29日 頓首再拝>

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ! - 伝統

2023/03/30 (Thu) 04:53:36


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。

         <感謝合掌 平成5年3月30日 頓首再拝>

人生と云う食膳に上り来る出来事をありがたく食する - 伝統

2023/03/31 (Fri) 05:06:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月31日)」より

必需物(なくてならのもの)はすべて与えられている。

必需物(なくてならのもの)は一つの事物ではない。
一つの事物にのみ執着する者は、自分の人生に流れ入って来る
「神の与えた必需物(なくてならのもの)」を拒むものである。

世に肥(こ)えることのできない児童に偏食者というのがある。
食膳に上がったものをそのままありがたく受け入れない。
アレかコレかの選択が多すぎる者である。

食膳の食物(しょくもつ)をすべてありがたく拝んで食べる者の
胃腸病は治って肉体が肥えてくるように、

自分の人生に流れ入(い)ってくるいっさいの事件を喜んで受け、
そのすべてから滋味を吸収し、去り行くコースには執着せず、

新たに人生の食膳に上(のぼ)り来るものをまた新たに合掌して受け、
食する者はついには人生の豊かなる肥満者となるのである。

            <感謝合掌 令和5年3月31日 頓首再拝>

【学ぶことを中心に人生を作り上げる】 - 伝統

2023/04/03 (Mon) 08:16:52


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.11)より

   (齋藤孝氏の心に響く言葉より…)

   昔の人は、当たり前のように、
   学ぶことを中心に人生を作り上げていました。

   とくに江戸時代はそうで、
   それは、政治や教育の理念として儒教があったためです。

   そもそも『論語』が日本に導入されたのは、
   古くて聖徳太子の「十七条憲法」の第一条にある
   「和を以って貴しと爲し...............」は
   『論語』の言葉が元になっています。


   江戸時代に儒教が普及して、寺子屋では
   「実語教」や「童子教」といった本を教科書として使用し、
   これらの本には儒教を柱とする人間の生き方が説かれていました。

   『論語』は、「学びて時に之を習ふ、
   亦説(またよろこ)ばしからず乎(や)」
 
   という言葉で始まるように、学ぶことを基本にした道徳です。

   孔子が、学び続けることの大切さを説き続けたものですから、
   江戸時代の日本人はそれを素直に受け取り、
   それが常識になって、日本人の学び好きの素地ができたわけです。


   もちろん、江戸時代より前から
   学ぶことが好きな国民性ではあったかも知れませんが、

   江戸時代は寺子屋や藩校があり、
   人々は幼い頃から、そうした場所で『論語』を素読し、暗唱していたので、
   なおさら学び好きになりました。

   誰かが
   「吾(われ)十有五にして...............」と口にすれば、
   誰もが「学に志す」と続きがいえたほど、
   儒教の教えが浸透していたのです。

   「学に志す」が人生のスタートであり、生涯の軸になる。
   江戸時代の子どもたちは、そう学んだのでした。

    《孔子は「学びを主軸にした 人生を送れ」と説く》

      <『齋藤孝式 “学ぶ”ための教科書』辰巳出版>

        ・・・

本書に「孔子の考え方」という文章が紹介されている。


『子曰(しいわ)く、
 「学びて時に之を習う、
 亦説(またよろこ)ばしからず乎」

 《現代語訳》 先生がいわれた。
 「学び続けて、常に復習する。
  そうすれば知識が身につき、いつでも活用できる。
  実にうれしいことではないか」


 「学んで、復習して、活用することは、すごく楽しいことじゃないか」
 というわけですから、

 もしも「人生の楽しみとは何か」と問われたなら、
 孔子なら「学ぶことだ」と答えるでしょう。

 何のために学ぶのかという以前に、学ぶこと自体が楽しい。

 そんな孔子の考え方が、
 とくに江戸時代は日本人の常識になっていたということです。』
       《学而(がくじ)第一 1》


大人になってからの学びは楽しい、と感じる人は多い。

子供の頃や学生の頃の学びは、
楽しい思い出などあまりなかったのに…。

若い頃の学びの多くは、記憶が中心で、半ば強制されてやるものだった。


しかし、大人になってからの学びは内発的なものだ。

いわば、探求的なもの、と言ってもいい。


誰かから強制されてやるものではない学びこそ楽しいものはない。

自らの興味や好奇心のおもむくままに学ぶからだ。

だからこそ、昨今の子供たちの学校での
学習法が「探求的」なものに劇的にシフトした。


人生100年の時代、といわれる今。

60歳や65歳という定年を過ぎてからの人生は、昔と比べて圧倒的に長い。

定年後、20年も30年も何もせずに生きていくほど、つまらない人生はない。

だからこそ、学びが必要なのだが、
しかし、学ぶ習慣は一朝一夕にはできない。

40代、50代の頃から学びの習慣を身につけないと、
それは60代になってからあわててもすぐには難しい。


江戸時代のように…

今こそ、学ぶことを中心に人生を作り上げたい。

         <感謝合掌 令和5年4月3日 頓首再拝>

与えられた以上に発展工夫する者は常に新しく、常に老いない - 伝統

2023/04/04 (Tue) 04:43:59


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月4日)」より

環境が彼の表現欲望を強いて抑えつけるならば、
人間は狂乱状態に陥るか、ヒステリーになるか、
生命(せいめい)が委縮して病気になるかする。

ロシアのある囚人の刑務の一つとして
終日2つのバケツに同じ水を交互に空(あ)けかえる仕事を課したときには、
その囚人は気が狂ったという。(ドストエフスキー『死人の家の記録』)

これは仕事が強制として課せられて
「自己自身の生命」を表現するなんらの道を与えられなかったからである。

またある精神病者は、
自己の好む仕事に熱心に従事せしむることによって治ったという。
彼はその「仕事」の中に「自己」を表現する道を見出したからである。

自己創造のない「仕事」は人類を窒息または狂死せしめ、
自己創造のある「仕事」は人類の生命を伸び伸びせしめ、
たえず自分に生気を吹き込み、たえず自分を若返らしめる。

「仕事」が面白くない人は、その仕事に自分の生命を打ち込まないからである。
自己創造をしないからである。いかなる仕事の中にも自己創造ができる。
仕事に愛を持つとき、愛は生み出す力であるから自己創造となる。

与えられただけの仕事のみをするところに自己創造はありえない。
仕事を愛して、与えられた以上にその仕事の発展のために工夫するところに
自己創造があるのである。

与えられただけの仕事だけしかしない人はロシアの囚人に甘んずる人である。
彼はただ生命を擦(す)り減らし、老いゆくのみである。

今ある立場において、与えられた以上に発展工夫する者は
常に新しく、常に老いない者である。

         <感謝合掌 令和5年4月4日 頓首再拝>

【いつもほっとさせてくれる人】 - 伝統

2023/04/05 (Wed) 07:12:32


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.12)より

   (柳平 彬(やなぎだいら さかん)氏の心に響く言葉より… )

   既にお亡くなりになりましたが、ユニークなお医者さんがいました。

   「ちょっとあの先生に診てもらってくるとするか」

   こう思い立ったその瞬間
   ほとんどの患者の病気は既に50%分は治っている、というのです。

   実際にその医者を訪ねて顔を合わせて
   あれこれ症状を訴えているうちに90%以上治るのだ、と も言います。


   つまり、医者がアドバイスと薬で対処するのは
   残り数%分でしかないというのです。

   この人、銀座内科院長の藤井尚治医師にかかると
   「風邪をひいた? それはよかった」ということになるのです。

   銀座の商店街、オフィス街のど真ん中という地理的条件と
   その摩訶不思議な人柄から、
 
   商店主、企業の経営者、エリートビジネスマンから女優さん、
   型破りのビジネスマン、ちょっとはみ出し気味の勤め人まで、
   会いに来る人達は色々。


   彼らに共通するのはただ一つ、常に忙しい人たちだということです。

   忙しい人たちだから、たかが風邪、たかが腹痛で
   仕事を放り出すわけにはいきません。

   初期のうちに、何としてでも治してしまいたいと考えます。

   この「何としてでも治そう」と考える人たちの治りは早い、
   と藤井さんは言ったのです。

   乱暴に言えば、そう考える人の風邪なら
   放っておいても時間さえかければ治るといえます。


   そういう人たちが忙しい時間をぬって
   藤井先生の顔を見に来たのです。

   「よかったよかった」とは無論、藤井医師の信念のような言葉です。

   ストレスが体の症状となって現れることによって、
   心身のバランスが崩れないで済むからなのです。

   軽い病気になってくれたおかげで、
   またこうして話ができるという彼自身の喜びも
   ほんの少しは入っているらしいのです。

   つまり、患者は歓迎されるのです。


   私たちは、いつなんどき訪ねても
   必ず歓迎してくれる人や場所を持っているでしょうか。

   行きつけの飲み屋がひょっとすると
   その機能を果たしているのかもしれません。

   しかし、いつでも気軽に話を聞いてくれる人や医者、
   願わくば会うだけでほっとできる人を友人に持つことは、

   ビジネスマンに限らず全ての人のやる気の健康に
   大きな意味を持つと思われます。

      <『やる気を引き出す元氣の心理学』ぱるす出版>

        ・・・

小林正観さんは「元気をもらえる人」についてこう書いています。

『《人は、人によってもパワーやエネルギーを充電される。

 相手にお渡しできる、分け与えることができる
 「気のエネルギー」の源(元のもの)が、古くから「元気」と呼ばれてきた》

 私たちは、“自然”から元気やパワー、エネルギーを与えられています。

 同じように、ほかの「人」からもエネルギーを与えられています。

 「元気な人」 「明るい人」 「前向きな人」 「向上心をつねに持っている人」

 「いまやっていることに自信を持っているけれど、うぬぼれたりせず、
  謙虚さを保ち続けている人」

 「いままで積み重ねてきた体験をベースに、
  人格に深い魅力や奥行きを持っている人」

 「一つのことを何年も何十年もやってきている人」

 などからです。』



反対に、人から元気を奪う人がいる。

それが、柳平氏のいう「ぬれた毛布」の人。

「ウェットブランケット」という、相手のやる気を失わせる人だ。

「どうせ無理、難しい」

「(ほめないで)欠点ばかりを指摘する」

「いつもイライラしている」

「不機嫌」

「相手の気持ちを冷やす一言をいう」

等々の常にネガティブな人のこと。


会うといつもほっとさせてくれる人は、和顔愛語の人だ。

良寛和尚が常に心掛けてきたことが「和顔愛語」。

「和顔愛語」の「愛語」とは、
口から出る言葉が、温かい言葉、感謝の言葉、
元気づける言葉、癒しの言葉、明るくする言葉であり、

「和顔」という、
いつも柔和で、笑顔を絶やさないこと。


どんなときも…

人をほっとさせることができる人でありたい。

         <感謝合掌 令和5年4月5日 頓首再拝>

「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」 - 伝統

2023/04/09 (Sun) 04:58:33


        *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月9日)」より

なんだか利用されているような気がするときに、
腹立つ人と、つまらなく感ずる人と、喜べる人とがある。

イエスは「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」と言った。
彼は利用されることを喜びに感ずる人であったのである。

利用されること多きものほど尊ばれる。
利用する道のなくなったものを廃物という。

         <感謝合掌 令和5年4月9日 頓首再拝>

【「心の空間」の法則】 - 伝統

2023/04/11 (Tue) 07:49:53


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.16)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   この前、ある女の子から、こんな質問が来たの。

   「付き合っている彼氏と別れることになってしまいました。

   『この人は運命の人だ!』と思っているほど
   大好きだったのに、縁が切れてしまうのは、どうしてでしょうか?」


   縁が切れる原因って、いろいろあるよね。

   人によって違うんだけど、ほとんどの場合は、
   「相手の“心の空間"をおかしたこと」なんだよな。

   この世には、「“心の空間”の法則」っていうものがあるんだよ。

   人には、自分に必要な“心の空間”っていうものがあるんだよね。


   “心の空間”っていうのは、「自由に、のびのび動ける場所」っていうのかな。

    “心の空間”がたくさん必要な人と、少しでも大丈夫な人と
   差はあるかもしれないけれど、必ず「必要な“心の空間”」っていうのが
   あるの。

   その“心の空間”を、人からおかされたらイヤだよね。

   たとえ、付き合っている相手だったり、結婚相手だとしても、
   自分の“心の空間” をおかされると、ものすごくイヤなんだよな。


   たとえば、奥さんが「韓流ドラマ」が好きで、
   韓国の俳優をおっかけているとするよね。

   それで、その奥さんのダンナも「韓流ドラマ」が好きだったら、
   夫婦で一緒に楽しめて、「楽しい“心の空間”」が大きくなります。

   でも、ダンナは「韓流ドラマ」に興味がなくても、
   それはそれでいいんだよ。

   奥さんに「おまえは、韓流ドラマ好きだもんな。十分楽しみなよ」
   とか言っていればいいんだよな。

   それは、相手の“心の空間”を認めてあげたことになるんだよ。


   だけど、「韓流ドラマなんてくだらないもの、見るのやめろ!」って言うのは、
   奥さんの“心の空間”に踏み込んで、相手の“心の空間”を減らそうとしている
   ことになる。

   こういうことをされると、
   奥さんは、ダンナのことがつくづくイヤになるんだよね。

   結婚してからも、付き合っているときでも、
   相手が好きでたまらないときは、お互い相手の“心の空間”に入り込んでも、
   文句を言わない時期があるんだよ。

   だけど、 お互いがもともと他人だから、
   相手とは違う“心の空間”があってあたりまえなんだよな。


   「この人は、このくらいの空間だから」って、
   認めてくれる人とは、長く一緒にいられるんだよ。

   だって、「“心の空間”を認めてくれる人」は、
   自分の“心の空間”の中にいてもいいもんな。

   相手の“心の空間”を認めなかったり、減らそうとする人が
   そばにいることが耐えられないんだよ。


   もしかすると、この質問をくれた女の子は、
   相手の“心の空間”の中に入り込もうとするクセがあるのかもしれないね。

   愛があるから、相手の“心の空間”に
   ズカズカ入っていいんじゃないんだよ。

   愛があるから、相手の“心の空間”を大事にして、
   守ってやらなきゃいけないんだよな。

          <『おもしろすぎる成功法則』サンマーク出版>

        ・・・

この“心の空間”の話は、
なにも恋人同士の話だけではなく、夫婦や友人、
同僚や仲間などにも言えることだ。

自分の心の中に土足で入り込まれて気分がいい人はいない。

話したくないことを根掘り葉掘り聞かれることほど嫌なことはない。



大敬先生は「人間の交わり」についてこう語っている。

『私たちの交わりは、清交、淡交でありたいなあと思っています。

 清らかで、さわやかで、あまり人の仕事や家庭や、
 心の内側にまでズカズカ立ち入らない、淡い、まみずのような交わりであればと
 思っています。

 そのまみずの中に、無量の味わいを
 感じとれる人になってほしいと思っています。

 自分が正義と信じることを、
 その人が迷惑がっているのにも気づかず、べつの相手に語ったり、

 どんどん文章を送りつけたりするのではなく、
 相手のわずかの表情の変化や動作や言葉から、
 その人の内心の思いを読み取れるほどの思いやりの繊細さを持つ人に
 なってほしいと思います。

 何事も行きすぎないよう、やりすぎないよう、
 すこし物足りないほどでとどめておくのが、万事における秘訣です。』
 (お日さまの教え 大敬先生<しあわせ通信> 第四集/本心庵)



「君子の交わりは淡きこと水のごとし」とは、荘子の言葉。

その後に続く言葉が、「小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し」

あまり人のことには深入りせず
、水のようにあっさりと付き合うことが、良い人間関係を長く続かせるコツ。


「醴」とは甘酒のように甘くてベタベタしていることを言うが、

つまらない人間の交友関係は、
ベタベタしていて、一時は深い交際のように見えても、それは長続きしない。

長く続く交わりには、余韻がある。


淡交と清交を目指し…

「心の空間」の法則を大事にする人でありたい。

          <感謝合掌 令和5年4月11日 頓首再拝>

【「ありのままの自分」は怠け者の言い訳】 - 伝統

2023/04/12 (Wed) 07:45:07


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.18)より

   (ひろさちや氏の心に響く言葉より…)

   『山里で使う白木の椀のように、漆をつけなければ そもそも剥げることはない
    と言って、ただ目を閉じて頭を垂れ、 眠るような座禅をして妄念をなくそう
    とする人がいます。

    もとが愚鈍でどうしようもない人間なのだから、
    そんなことをしても死ぬまで悟りを得ることなどできません。』


   ありのままの自分を認めてほしい、愛してほしい。

   そう願う人は少なくないでしょう。

   しかし、「ありのまま」とは一体何なのでしょうか。


   飾らないこと?

   素のままを見せること?

   心の赴くままに振舞うこと?


   いずれにせよ、「ありのまま」をやたらとありがたがる人の中では、
   ありのまま =ピュアという等式が成り立っているようです。

 
   しかし、白隠は、
 
   「白木の器も最初から漆を塗らなければ剥げて汚くなることもないなどという
    小理屈をこねて、ありのままが一番などとうそぶくのは愚か者のすることだ」と
   断言します。

   白隠は禅宗の僧侶でしたが、
   江戸時代の禅僧にもいろいろな人間がいました。

   あらゆる儀式を虚飾だとして無視する者、
   心のままに生きるのが修行だとして、得意げに破戒する者。

   そんな彼らを、白隠はこの文章で一喝したのです。


   そもそも、ありのままの自分がすばらしい、
   何もしないでも悟りを開けるほどの能力がある、
   人から認めてもらえる、

   とは随分と思い上がった考え方です。

   確かに、世の中には飾り気のなさを称えられる人もいます。

   しかし、彼らとて、生まれつきそうだったわけではありません。

   すべては訓練の賜物です。


   人間離れした美しさで知られる現代の名女形・坂東玉三郎を育てた
   養父の守田勘弥(かんや)は、よくこう言っていたそうです。

   「型破りってえのは
    型を持っている人間の言うことなんだ。

    形も何もないヤツラがやれば、
    いいかい、それは形なしって言うんだよ」


   茶室に飾る茶花も、一見ただポンッと投げ入れているだけのように見えて、
   実は花が最も美しく、かつ自然に見えるよう、
   細心の注意を払って活けられます。

   ありのままで
   すばらしく見えるようになるためには、
   大変な美意識と訓練が不可欠です。

   それを理解せず
   「ありのままの自分」を主張するのは、
   ただの怠け者の言い訳に聞こえるのですが、
   いかがでしょうか。

    《「ありのままの自分」は怠け者の言い訳》

      <『いい言葉が、心を掃除する』PHP研究所>

         ・・・

お釈迦様はこう言ったという。(本書より)

『人がもし百年生き永らえたとしても、
 怠惰であって、努力しなければ、
 懸命に努力する人が一日生きたほうが優れている』

 ただ長生きしただけでは「長老」と
 呼ばれる資格はない、と言い切っている。


 《女性の美しさは、
  外見の容姿にあるのではなく、魂の中に存在する。
  ギブの精神と情熱があるかどうかだわ》   (オードリー・ヘップバーン)

いくら若いころ飛びぬけた美人だったとしても、
日々、自らを磨く努力をしてこなかったとしたら、
年老いたときその美しさは必ず失せる。

年を重ねるごとに、外見には内面が映し出されるからだ。


自分を磨き、自分を高めてきた人だけが、
「ありのままの自分」を晒(さら)すことができる。

茶室に飾られた野花は、
無造作に置かれたようであって、
そこにしみじみとした風情を感じさせる。


《「ありのままの自分」は怠け者の言い訳》という言葉を胸に刻み…

年を重ねるごとに、自らを磨き続ける人でありたい。

          <感謝合掌 令和5年4月12日 頓首再拝>

御心のままに - 伝統

2023/04/15 (Sat) 05:07:37


     *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より

「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。

「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。

こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。

          <感謝合掌 令和5年4月15日 頓首再拝>

生命は前進するのみ - 伝統

2023/04/17 (Mon) 04:03:24


      *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月17日)」より

見えない間に生長する、
進歩が今眼に見えなくとも生命は必ず前進しているのである。

今爛漫と咲いている桜花も、実は枯木のごとく見えていた冬の日に
その「花の美」を貯えていたのである。

沈滞期に本当に沈滞してしまったと思って、
悲観してその生長を続けない桜の木は枯れてしまうのである。

人間もまたかくのごときものである。
 
沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、
その意志の力を持続せしむる感激の押し出す力とを失わない者は
ついに大成するのである。
 
事業を成すのも、道を(みち)成(じょう)ずるのも同じことである。

「海も波のごとく動揺するものは風にさらわれて打ち上げられん」

         <感謝合掌 令和5年4月17日 頓首再拝>

【アンラーンとは】 - 伝統

2023/04/18 (Tue) 07:42:07


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.20)より

   (東京大学教授、柳川範之(のりゆき)氏
     &為末大(だい)氏の心に響く言葉より…)

   アンラーンを分かりやすく言い換えるとすれば
   「これまでに身につけた思考のクセを取り除く」です。

   「思考のクセ」というのは、環境に適応してパターン化した思考のことです。


   僕たちは仕事でも日常生活でも、
   発想や選択をある程度パターン化することによって、
   よりスムーズに物事を進めることができています。

   でも、ある一つの環境に適応し過ぎてしまうと、
   ひとたび環境が変わったときにはこれまでのパターンが
   通用しなくなってしまうという事態を引き起こします。


   「やったことがない」「前例がない」という理由で何も決められない。

   すぐに対応できない。

   前向きな行動ができない。


   今回のコロナ禍における様々な場面で、
   このような事態が多く見受けられたことに、
   みなさんもお気づきではないでしょうか。

   変化に直面したときには、パターン化された「思考のクセ」が
   柔軟な発想の妨げになることがあります。

   いや、それだけではなく、
   「思考のクセ」は自分自身の成長を止めてしまう可能性もあります。

   そうならないために、「思考のクセ」をまずは捨て去ること。

   その上で、よりよい学びを実践すること。

   そのためには「アンラーン」の技術が必要なのです。


   「思考のクセ」から解放される。

   固定化されたパターン化をいったん忘れる。

   一点に集中し過ぎていると気づいたら、立ち止まる。

   これまでの「当たり前」や既存の概念を捨て去る。


   状況によって様々な表現が考えられますが、
   ここで大事なことは、これまでにつくりあげてきたものや、
   今、手にしているものの延長線上に、
   当たり前のように未来を設定しない、という姿勢です。

   未来図を考えるときに、
   「今までに積み上げたものの上に、さらに高く積んでいくことが正しい道だ」
   という発想から抜け出す必要があります。

   なぜなら、それが未来の選択を狭めてしまう致命的な原因になるからです。

   本来ならば、もっと大きな可能性があるにもかかわらず、
   それに気づけないまま一生を過ごすことになりかねません。

            <『アンラーン』日経BP>

        ・・・

為末氏は、400mハードルの日本記録保持者だが、
オリンピックにも出場したスポーツの世界で生きてきた人だ。

その為末氏が引退し社会に出てから、
競技時代と同じように努力しても、うまくいかないのに気づいたという。

スポーツのように、ルールも勝利条件も何十年も変わっていない世界と違い、
社会は状況がその都度変わる。

目標を立てたときとは条件も変わるので、計画通りいかない。

グランドでは自分しか頼れる人がいないので、
社会でも同じように、誰にも頼らず
何でも自分でやろうとしてもうまくいかない。

結局気づいたことは、
それが能力の問題ではなく、
前の世界の学習を引きずり過ぎていたことが原因だった、と。

特に、競技では成功体験があったため、
自信もあり、余計に変化できなかったという。



この為末氏の事例が、アンラーンが必要となる理由だ。

人は、成功体験があるとその事例を
いつまでも踏襲(とうしゅう)しようとする。

しかし、AIやITなどが劇的に進化した現代、
過去の成功体験がそのまま通用しないことがほとんどだ。

だからこそ、過去の成功体験は捨て去り、
新たな学びを開始することが大事になってくる。


人生100年時代…

新しい「学び」が必要だ。

・・・

<参照>
「アンラーン」で成長しつづけよう。
https://www.youtube.com/watch?v=DBRWTmuo-po

          <感謝合掌 令和5年4月18日 頓首再拝>

【人に手を振るということ】 - 伝統

2023/04/19 (Wed) 07:06:02


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.23)より

   (南蔵院住職、林覚乗(かくじょう)氏の心に響く言葉より…)

   ある病院に、頑固一徹で、ちょっと世をすねたおばあちゃんの患者がいました。

   家族から疎まれていたせいでしょうか。

   看護婦さんが、優しくしようとしても、なかなか素直に聞いてくれません。

   「どうせ、すぐにあの世にいってしまうのだから」と、
   かわいげのないことばかり口にします。


   困り果てた看護婦さんが、機嫌のよいときを見計らって、
   毎朝、病院の窓から見える、通勤の工員さんたちに、
   手を振ってごらんなさいと言いました。

   どういう風の吹き回しか、おばあちゃんは、
   朝、ベッドの上に身を起こし、言われる通りにしてみました。

   中には知らぬ顔をして通り過ぎる工員さんもいましたが、
   何人かは手を振って返してきました。

   その反応がうれしかったのか、おばあちゃんは、毎朝、病院の近くに
   出勤する工員さんたちにあいさつをするのが日課になりました。



   工員さんたちの中にも、
   病院の前に差しかかるとき、決まって窓を見上げるひとが多くなりました。

   「ばあちゃん、おはよう」、
   言葉はお互いに聞き取れなくても、心は十分に通い合いました。

   まるで嘘のように、
   おばあちゃんの表情には笑顔が戻ってくるようになりました。

   看護婦さんたちとも打ち解け、態度からケンがなくなりました。


   しかし、病気はだんだん重くなります。

   それでも、おばあちゃんは朝を迎えると、手を振ろうとします。

   まるで生きている証でもあるかのように、日課を続けようとしました。

   おばあちゃんは、亡くなりました。


   今度は、工員さんたちが淋しい思いをする立場になりました。

   訃報を聞き、その鉄工所に勤める工員さんたちは、病院の近くに集まり、
   おばあちゃんが毎朝手を振ってくれた窓辺に向かい、深々と黙祷を捧げたそうです。

   私は、この話を聞いて胸が詰まりました。

   このエピソードに、老人問題のすべてがあると思ったのです。


   老人の淋しさとは、何からくるのでしょうか。

   ひとり暮らし?

   いいえ、それ以上に、老人の存在価値の希薄さからです。

   少なくとも、私はそう思います。

   「おじいちゃんがいてくれたから、よかった」とか
   「おばあちゃんの笑顔がかわいい」 など、
   老人の存在価値がどんな形ででもあれば、
   たとえひとり暮らしをしていても、救われるのではないでしょうか。

   ところが、「老人のあんたたちは、いつ死のうが、
   いなくなろうが、世の中の動きとは関係ないんだよ」
   というのが現代の風潮です。

   これが、老人の孤独感に拍車をかけているのではないでしょうか。


   インドのカルカッタに住んで、貧しいひとびとのために命を賭けて
   奉仕しておられる尼僧に、マザー・テレサという方がいらっしゃいます。

   その立派な功績により、ノーベル平和賞を受賞されたのですが、
   そのときの言葉に


   「天然痘も癌も脳卒中も、決して怖い病気ではありません。
  
    本当に怖い病気とは、あなたのような人間が
    この世にいてもいなくてもいいのですよ、といわれたときの孤独です。

    この病気ほど怖いものはないのです。

    この病気を治す病院も薬も今はないのです。
    この病気は、外の優しい心でしか癒すことができないのです」


   とあります。

   ひとりの人間が生きていくためには、たくさんの見えない支えがあり、
   自分が生きることがまた多くのひとびとの支えでなければいけないはずなのです。

   にもかかわらず、私たちは自分だけで生きているような気になって、
   孤独を味わっているひとの存在に
   気が付かなくなっているのではないでしょうか。

   また、そういう自分自身も孤独の中にいることを忘れているのではないでしょうか。

           <『自分が好きですか』西日本新聞社>

        ・・・

《温かさ、親切、そして友情は、世界中の人がもっとも必要としているものだ。
 それらを与えることのできる人は、決して孤独にはならない。》

         (アン・ランダース/米国の女性人生相談コラムニスト)


小林正観さんは、「投げかけたものが返ってくる」という。


愛すれば愛される。愛さなければ愛されない。

許す者は許される。許さない者は許されない。

裁く者は裁かれる。裁かない者はさばかれない。



つまり、与えたことが返ってくる。

何も与えなければ、何も返ってこない。


「人に手を振る」という些細な行為が孤独をいやすこともある。

誰に対しても…

あたたかさや、思いやり、優しい気持ちを
常に投げかけることのできる人でありたい。

          <感謝合掌 令和5年4月19日 頓首再拝>

谷口雅春先生「顔の表情ひとつから人に深切ができる」 - 伝統

2023/04/20 (Thu) 08:06:49

谷口雅春先生「顔の表情ひとつから人に深切ができる」
公益財団法人新教育者連盟( 2022/10/02 )
https://www.youtube.com/watch?v=CBw0_Y71ISc

          <感謝合掌 令和5年4月20日 頓首再拝>

《一面の立場から人を批評してはならぬ》 - 伝統

2023/04/21 (Fri) 05:09:10


        *「光明法語」(4月21日)より

若し彼が聖フランシスがしたように、また光明皇后がなし給うたように、
癩(らい)病患者の膿血に接吻する事が出来なかったならば、
彼の愛は乏しいのであるだろうか。

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

          <感謝合掌 令和5年4月21日 頓首再拝>

《人の心の傷を突衝(つつ)くな》 - 伝統

2023/04/22 (Sat) 07:41:31


        *「光明法語」(4月22日)より

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが演壇が恐ろしいのは
臆病のせいであろうか。
時として人には到底克服出来ない嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。
そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

          <感謝合掌 令和5年4月22日 頓首再拝>

【重きものは軽く扱え】 - 伝統

2023/04/23 (Sun) 06:26:00


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.25)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   お釈迦さまによると、
   好意や善意による申し出を100%受けられる人は、“菩薩”だそうです。

   普通の人は、
   「好きな人の好意や善意は受け入れられるけど、嫌いな人のものは嫌だ」
   と言います。

   しかし、好意や善意による申し出を、すべて受けることをやっているだけで、
   菩薩の領域に達することができるのです。


   だから、お見合いをして、「結婚して」と言われたら、
   「わかりました」と言って結婚ができる人は、「菩薩」の領域。

   「好きだ」「嫌いだ」と言っている人は、まだまだです。

   「好きだ」「嫌いだ」で、ものを選り分けている人は、
   おもしろいことが頼まれません。

            <『心がなごむ秘密の話』宝来社>

      ・・・

吉田松陰は、

「狂愚(きょうぐ)まことに愛すべし、
 才良(さいりょう)まことにおそるべし」

と言った。

頭だけで考えて理屈ばかりいうような、
ちょっと小利口な人間は恐ろしいほど行動しない。

狂ってバカになれるような人間には
情熱があり、愛すべき行動する人間だ。


まさに、頼まれごとも、才良な人間は断ってしまう。

損得勘定や打算で動くからだ。

しかし、ときにボーっとしている狂愚の人間は、
頼まれごとを二つ返事で気持ちよく引き受ける。

理屈ではなく、情や感性で引き受けるからだ。


とはいえ…

頼まれごとをすべて受け入れる、とはいっても、たとえば、
自分が病気の時や体調が悪い時は、断らざるをえない。

また、その頼まれごとや誘い(という頼まれごと)を受けてしまうと、
期日までに仕上げなければならない仕事や、
他の頼まれごとができなくなってしまう場合にも、断らざるをえない。

また、分不相応な頼まれごと、
たとえば今の自分には出せないレベルのお金の支出が伴う頼まれごとも、
断らざるをえない。



「イヤなほうから幸運の矢というのは飛んでくる」
           (萩本欽一)

まさに、頼まれごとも、一見すると、イヤほうから飛んでくることがある。

苦手なことや、ちょっと自分には難しいなと思うようなことだ。


戦国時代の茶人、細川幽斎は茶道の奥伝として

「重きものは軽く扱え」

といったという。

また、「大事の思案は軽くすべし」という「葉隠」の言葉もある。


まさに、お見合いをして、
「結婚して」と言われたら、「わかりました」と言って
結婚ができる人のことだ。

つまり、重きものを軽く扱える人が、菩薩の域に達した人。


「好きだ」「嫌いだ」でものを選り分けず…

頼まれごとを淡々と引き受けると、おもしろいことが起こる。

          <感謝合掌 令和5年4月23日 頓首再拝>

【生き方が死に方を決める】 - 伝統

2023/04/24 (Mon) 07:55:52


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.26)より

   (臨済宗妙心寺派宝泰寺住職、藤原東演(とうえん)氏の心に響く言葉より…


   《今までは 他人(ひと)が死ぬとは思いしが  俺が死ぬとは こいつあたまらん》


   江戸の狂歌師で幕府の役人でもあった蜀山人(しょくさんじん/大田南畝・なんぽ)が
   死の宣告を受けた時の辞世と伝えられる歌だ。

   これは私たち自身の本音でもある。

   私たちも、これまで身内や知人の死を見てきて、
   「いつかは自分も死ぬ」と何度も思ったはずなのだ。


   だが実は、死はあくまで他人の死であり、
   自分とは無関係だと、どこか高をくくるのが人間である。

   そして、死を宣告されたらあわてふためくのだ。

   私自身がそうである。

   禅僧の端くれとして、生死を超越して
   悠然と生きる悟道(ごどう)を求めてきたつもりだ。

   逃れられない死とどう向き合うのかが
   人間の最重要なテーマであることも知っている。

   だが、どこか死を先延ばしして、死から目をそらしている自分がいる。



   歌人で随筆家の吉田兼好は

   「思い懸(か)けぬは死期(しご)なり。
    今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり」

   「死は、前よりしも来らず、かねて後に迫れり」と言っている。

   今こうして生きているのは奇跡のようなものだ。

   その生に、死はなんの前ぶれもなく やってくる可能性が高い。

   蜀山人の歌には、

   「皆さん方よ。日頃から死を考えているかな。死の準備を怠って いるのではないかね」

   という、おどけた最後通牒が込められているのだ。



   私の寺の近くに、 痔の手術の名医といわれる老先生が住んでいる。

   ある日、寺に来て、「お寺はいいな。 心が落ち着くよ」と、
   問わず語りにこう話し始めた。



   「何人もの直腸がんの重症患者さんも長年診てきたんだが、
    およそ二種類に分かれると気づかされた。

    こんな重い病気なのに、よくまああんなに明るく、
    みんなにありがとうと言えるなあという、
    心がとても穏やかな患者さんがいる一方で、

    聞くに堪えら れない文句や愚痴を言って、
    家族の方や看護師さんを困らせる、
    とてもわがままな患者さんがいるんだよ。

    どうしてこんなに違うのかと、患者さんを観察してきた。

    看護師にも話を聞いてきた。

    その結果、わかったことがある。

    わがままな患者さんは、これまでの人生も自己本位だった人が多い
    ということだ。

    言いすぎかもしれないが、
    わがままに生きてきた人は、わがままな死に方をするんだ。

    落ち着いて静かに死を迎える患者さんは、
    人のために何か役立つようなことをしてきた人が多いようだ。

    誠実に生きてきた人は、最後まで思いやりがある。

    いい人生だったんだろうと思う」



   老先生は、長年の経験から、死に直面してオタオタする人と
   心穏やかにいられる人の違いは生き方の違いにある、と言うのだ。

   つまり、「生き方が死に方を決める」と いう結論になる。

         <『自分らしい死に方』成美堂出版>

        ・・・

金城学院大学学長の柏木哲夫氏は、
「人は生きてきたように死んでいく」という。


『(これまでに2500名もの方を看取られてきて、
 何か発見されたことはありますか?の質問に)

 人は生きてきたように死んでいくということです。

 これは私の実感ですね。

 ですから、しっかり生きてきた人は、しっかり亡くなっていかれますし、

 表現はおかしいけれども、
 ベタベタ生きてきた人は、ベタベタ亡くなっていく。

 それから、
 周りに感謝をして生きてこられた人は、
 我々にも感謝をして亡くなられるし、

 不平ばかり言って生きてきた人は
 不平ばかり言って亡くなっていくんですね。

 このことは、よき死を迎えるためには、
 よき生を生きなければいけない、
 ということを教えてくれていると思うのです。』

 (一流たちの金言2〜ひたむきな人生を送った〜/致知出版社)より


「生き方が死に方を決める」という。

人生の否定的な面ばかりを見て生きてきた人は、
否定的な面を見て死んでいく。

人生の肯定的な面ばかりを見て生きてきた人は、
肯定的な面を見て死んでいく。


すべての現象に色はついていないという。

その現象に色をつけるのは自分。

つまらないと思えば、つまらなくなるし、
楽しいと思えば楽しくなる。

まさに、中村天風師のいう

「人生は心一つの置き所」だ。



「生き方が死に方を決める」

そして、「生きてきたように死んでいく」。


感謝多き、利他の人でありたい。

          <感謝合掌 令和5年4月24日 頓首再拝>

【連想させる】 - 伝統

2023/04/26 (Wed) 07:40:38


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.1)より

   (カート・モーテンセン氏の心に響く言葉より…)

   就職試験の面接に行くとき、人々が精一杯きちんとした服装をするのは、
   いったいなぜだろうか?

   だらしのない服装をすると、
   相手に好ましくない連想をさせることを知っているからだ。


   なぜレストランは外観や照明、BGMにこだわるのだろうか?

   それもまた、お客様の連想をよいものにするためだ。


   さらに、私たちは広告の写真や絵、ロゴ、CMソングに好感を抱くと、
   その商品にも好感を抱く傾向がある。

   心をつかむ達人は相手に何らかのイメージを与え、
   そこから連想させて、自分が伝えようとするメッセージに適した
   ポジティブな感情を呼び覚ます。

   もちろん、当然のことながら
   どういう連想をするかは人によって異なる。

   しかし、やり方さえわかっていれば、
   どのような相手にもうまく連想させることができる。

       <『相手の心をつかんで離さない』ディスカヴァー>

       ・・・

カート・モーテンセン氏は「連想」について
本書の中でこう語っている。

『どの企業も有名人を起用して自社製品をアピールする。

 それは、有名人を自社製品と関連づけて
 消費者にイメージさせるのが目的だ。

 ただし、その有名人がスキャンダルに巻き込まれると、
 企業イメージを傷つけてしまうので、企業は即座に契約を解除する。』


『連想を生む3つの要素がある。

 一つは、匂い。

 パンやは周囲に焼き立てパンの香ばしい匂いを漂わせる。

 匂いを使って製品やサービスを連想させて
 人々の購買意欲をかき立てようとしているからだ。


 二つ目は、音楽。

 あるコンビニの店長は、店の前に若者がたむろすので頭を抱えていた。

 そこで店長は、フランク・シナトラの曲を店の外で流した。

 その結果、若者たちは自然にいなくなった。


 三つ目は、色。

 アメリカ海軍矯正施設で、
 ピンクが人の心を落ち着かせる作用を持っているかどうか調べるための
 興味深い実験がおこなわれた。

 まず、床を除いてすべてピンクに塗られた独房を用意して、
 敵対的で暴力的な囚人たちを入れた。

 ピンクの独房に入れられたのは
 1日にわずか10分か15分程度だったが、
 156日後に囚人たちの問題行動がなくなったという。』


我々は、自分や商品のブランディングのため、
「連想させる」ことを多く実行している。

また、自分自身を商品ととらえ、
自らをブランド化することを「セルフブランディング」という。

これは、SNSなどの発信を多く使い、
自分自身をイメージングし、好感度をアップさせる。


発信の内容次第で、
自分がどんな人として認知されたいかが決まってしまう。

連想させる」ことで、自分のブランド力を高めたい。

            <感謝合掌 令和5年4月26日 頓首再拝>

【見方を変えると味方が増える】 - 伝統

2023/04/29 (Sat) 07:25:59


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.8)より

   (おせっかい協会会長、高橋恵(めぐみ)氏の心に響く言葉より…)

   《ものの見方は一つじゃない。
     見方を変えると味方が増える》

   人生は、悩みのフルコースです。

   悩まない日がないくらい、小さなことから大きなことまで悩みます。


   特に人生を左右するくらい大きな岐路に立った時は、
   なかなか決断することができません。

   決心がつかない時は、そこで立ち止まってください。

   そして、三百六十度ぐるりと周りを見渡してください。

   一本道を前を向いて走り続けている時に、
   一瞬立ち止まり、前後左右をぐるりと見回すと、
   新しい視点が発見できることがあります。


   私は新しいプロジェクトを立ち上げる時に、この方法を使いました。

   プロジェクトの方向性に迷いが生じた時も、
   一瞬立ち止まり三百六十度見渡してました。

   すると新しい視点が持て、見落としていたものが明らかになり、
   悩みの解消につな がりました。


   悩みの解消法に「三百六十度見渡し」をお勧めします。

   なぜなら、ものの見方は一つではないからです。

   その方法により一つしかないと思い込んでいた悩みの解消法が、
   実はいくつもある。


   そして、見方を変えると生まれる副産物があります。

   見方を変えるたびに、
   悩みを解決する仲間(味方)が増えるのです。

   「見方を変えると味方が増える」
   ギャグのようですが、実際そうなのです、
   試してみてください。

     <『百年人生を笑って過ごす生き方の知恵』致知出版社 >

       ・・・

小林正観さんは、「見方道」というものを提唱している。


ものの見方は一生涯かけて会得するくらい価値あるものだからだ。

一つひとつの事件や自分に起きた出来事を、すべて見方によって変えていく訓練。


たとえば、コップに半分水が入っていた場合。

一つ目は、
「半分しか水が入っていないじゃないか、不愉快だ」という否定的な捉え方。

二つ目は、
「コップに半分も水が入っていて、嬉しい、幸せ」という肯定的な捉え方。

三つ目は、
「誰かがコップに半分も水を残してくれた、ありがたい」という感謝の捉え方。


以上(豊かな心で豊かな暮らし/廣済堂出版)より抜粋引用


事実は一つだが、捉え方はいくつもある。

捉え方一つにより、
人生が否定的なものになるのか、肯定的なものになるのか、
さらには感謝の人生となるのか決まってくる。


どんなことが起きても、それを「感謝」で捉えることができる人は、
まわりから引っ張りだことなる。

つまり、ファンが増え、味方がどんどん増えてくる。


「見方を変えると味方が増える」という言葉を胸に刻みたい。

           <感謝合掌 令和5年4月29日 頓首再拝>

旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、新しい運命と倶に共働する - 伝統

2023/04/30 (Sun) 08:35:59


           *「光明道中記」(4月30日)より
            ~神一元の自覚愈々深まる日

【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
                    (『生命の實相』第十七巻)】

汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。

すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。

今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。

吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。

一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。

古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。

新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。

その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、
新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。

           <感謝合掌 令和5年4月30日 頓首再拝>

《親切丁寧と云うこと》 - 伝統

2023/05/01 (Mon) 08:35:06


         *「光明道中記」(5月はじめの言葉)より

どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、
それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。

聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。

「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。
「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。

不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。

物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、
物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、
実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。

すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。

この意味に於て「行」が大切である。

           <感謝合掌 令和5年5月1日 頓首再拝>

【きょうは私のいちばん若い日】 - 伝統

2023/05/02 (Tue) 08:07:44


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.7)より

   (渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   ありがたい、つまり、「有る」ことが「難い」ということは、
   めったにないもの(こと)という意味で、
   だからこそ、もしあれば、それはありがたい。

   人体のさまざまな部分になることができる細胞とか、
   どんな危険な場所にも入っていける機械とかは、
   まさに有り難いものといえるかもしれません。

   そうしてつい私たちは、ありがたいものとは、
   何か特別なもののように思うわけですけれども、
   気づいてみると、つまり

   自分のまなざしを変えてみると、
   ありがたいものが、自分の周囲にもたくさんあるのです。


   たとえば、きょうという日は、すごくありがたい日だと思います。

   たとえ、その日が、カレンダーから抹殺してしまいたいほど、
   朝からいやなことのたくさんあった日だとしても、
   有り、難い、ことに変わりはないと思うのです。

   いま、そしてきょう、
   これは二度とこの世に存在しない、ありがたい一日です。


    《The youngest day of my life》

   しかも考えてみると、きょうは自分のいちばん若い日なのです。

   お母さまのおなかからお生まれになって、
   その日から数えると、きょうはみなさま方のいちばん歳をとった日です。

   そして、残念ですけれども、きょうより若くなることはないのです。

   ということは、きょうはみなさま方にとって、私にとってもそうですけれども、
   いちばん若い日だともいえるのです。


   きょうより若い日はありません。

   あしたになれば、もう一日歳をとっています。

   だから、きょうという日を自分にとって、
   いちばん若い日として、 ありがたく生きようと思います。

   ザ・ヤンゲ スト・デイ・オブ・マイ・ライフなのですから。


   生まれてから何十年も経ち、
   自分は何と歳をとってしまったのだろうとくよくよしている方は、
   お顔や態度にそれが出ています。

   「どっこいしょ」だの「やれやれ」だのと、
   身体を動かすときに、そういうかけ声をおかけになる。

   それに対して、
   きょうは自分のいちばん若い日だから、
   いちばん若く生きようと思って生きていらっしゃる方のお顔は、やはり
   そういうお顔になっていると思うのです。


   同じ生きるのならば、
   「きょうも歳をとった、あしたもまた歳をとってしまう」と
   考えるのではなく、

   「きょうは私のいちばん若い日」と思って生きるようにしたほうが、
   幸せになる率が高いのではないでしょうか。

   あたりまえのものを、ありがたいと、おしいただいて生きること。

   さらに幸せを深めていくためには、
   マイナスの価値しか持たないもの、
   自分にとってありがたくないもの、
   苦しいことやいやなことも、

   ありがたいものと見ていくまなざしを持つことが大切だと思います。


   人生には、ときたま思いがけない穴がポッカリあくことがあります。

   そんなときに、穴があいたことを嘆いてばかりいないで、
   穴があくまで見えなかったものを、
   「穴のおかげで」見ることができることがあります。

   やはり、ありがたい経験なのです。


       <『現代の忘れもの』日本看護協会出版会>

        ・・・

「人生は今日が始まり 
 昨日まではリハーサル 
 今日から本番」(田中真澄)


きょうは私のいちばん若い日だという。

だからこそ、人生は今日が始まり。


学問も、仕事も、はじめるのに遅すぎることはない。

なぜなら、気づいたときが、スタートのときだから。


だから、今、なんでもチャレンジしてみる。

明日に引きのばしたら、一日歳をとってしまうから。


若さの特権は失敗できることだという。

若さには「知らない」という勢いがある。


「きょうは私のいちばん若い日」とつぶやき…

いくつになっても、チャレンジする人でありたい。

           <感謝合掌 令和5年5月2日 頓首再拝>

《人間運命の弱小は自己欺瞞に過ぎぬ》 - 伝統

2023/05/03 (Wed) 06:47:17


       *「光明法語」(5月3日)より

神の子であるところの人間が、
そんなに弱小なる運命に定められていると思うのは
自己欺瞞に過ぎないのである。

自己欺瞞を去れ。

汝は神の子ではないか。

人間は自分自身の運命を斯くの如く限ってはならないと同時に、
他の人の運命も限ったり縛ったりしようと望んではならないのである。

誰をも害しない、誰をも束縛しない
自分の伸びる道があると云うことを信じなければならない。

自己の運命をよくするためには、
悪は存在すると云う人類の通念に縛られず、
現象の形に惑わされないようにせねばならぬ。

           <感謝合掌 令和5年5月3日 頓首再拝>

【自分が話している間は何事も学べない】 - 伝統

2023/05/06 (Sat) 08:05:03


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.16)より

   (ラリー・キング氏の心に響く言葉より…)

   会話を気持よく続けるには、自分の考えを伝える必要がある。

   しかし、あなたばかり長く話し続けるのはNGだ。

   会話はキャッチボールだ。

   自分がボールを持ったら、相手に投げ返すことで楽しく続けることができる。

   「あなたは?」と相手に質問し、
   会話のボールを返すことを忘れないようにしよう。


   話のうまい人は、好奇心が旺盛だ。

   あらゆることに興味を持つからこそ、
   人の話をよく聞いて、広い視野を手に入れるのである。

   彼らは、質問がうまい。

   そうやって常に新しいことを学ぶのだ。


   話していて一番楽しい相手、それは「共感してくれる人」だ。

   自分の言葉を受けとめてくれる、
   さらに、言葉にならない気持ちもわかってくれる、
   そう感じられる相手である。

   就職が決まったことを話したら

   「ああ、そうなの」ではなく
   「ほんと? よかったね!」と言ってもらいたいではないか。


   共感を伝えるのは、難しいことではない。

   自分が誰かに言われたら、うれしいと思える言葉を返せばいいのだ。

   テレビでおなじみの司会者を例に取れば、
   オプラ・ウィンフリー(ラリー・キングと並ぶ
   アメリカを代表するトーク番組司会者)は
   相手に共感し、それを相手に感じさせる名人だ。

   オプラは共感を示すことで、
   ゲストに腹を割って率直に話をさせている。


   私はこうした能力のある司会者を
   「共感者(commiserator)」と呼んでいる。

   例えば、「私は水ぼうそうにかかっている」と話すと、
   彼らは共感し、励ましてくれる。

   ゲストに興味があり、意見を聞きたがっていることがよくわかる。

   視聴率が取れるセンセーショナルな話を
   させようとしているのではないことが、
   ゲストにも視聴者にも伝わるのだ。

         <『伝え方の極意』ディスカヴァー>

        ・・・

ラリーキングが肝に銘じている言葉がある。

それが…

「自分が話している間は何事も学べない」


今日、たくさんのことを学びたいなら、
相手の話を聞かなくてはならない、と毎朝自分に言い聞かせている。

そして、
自分が成功できたのは話すことよりも、
人の話を聞くことに努めたからだという。


少し話し慣れた人が、
スピーチや挨拶でやりがちなのが、話が長いこと。

下手だと自認している人は、早く切り上げようとするが、
多少話ができる人が問題を起こしやすい。

特に、パーティなどで乾杯の前の挨拶など、誰も聞いていない。

「挨拶より、早く飲ませてくれ!」

と誰もが思っている。


スピーチの長話と同時に、会話でも一方的に独占して長く話さないこと。

「自分が話している間は何事も学べない」

という言葉を胸に刻みたい。

           <感謝合掌 令和5年5月6日 頓首再拝>

《進歩の法則に支配されている人生》  - 伝統

2023/05/08 (Mon) 07:47:46


      *「光明法語」(5月8日)より

人生は進歩の法則、無限生長の法則によって支配されているのであるから、
旧態依然たるものは、次の新しきものによって取って代わられる。

商売のやり方でも、旧態依然たるものは新しき経済戦術によって
新商売をやる者には必ず圧倒される。

かくて職業を失うに到るとも、職業を失う者は幸いなるかな。
神は彼に新しき職業と、新しき環境を与え給うことによって、
新しき面から、彼の魂をみがき得る機会を与えたまうのである。

旧生活の破壊に失望することなく
新しき位置と職業を与え給えと祈れば好いのである。

          <感謝合掌 令和5年5月8日 頓首再拝>

【今生のテーマは「喜ばれる存在になる」こと】 - 伝統

2023/05/09 (Tue) 07:47:24


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.11)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   お釈迦様のこんなお話があります。

   弟子にこう聞かれました。

   「お師匠様は神通力に優れ、
    人の前世や来世が見えるとのことですが、
    私の前世はどんなものだったのでしょうか」


   お釈迦様はこうお答えになりました。

   「そんなことは考えなくていいから、
    こんにち、ただ今、この刹那(せつな)を大事にしていきなさい」


   弟子はしばらくして、また聞きました。

   「私の前世を教えてください」

   お釈迦様はまた、静かにこう言いました。

   「そんなことは考えなくていいから、
    こんにち、ただ今、この刹那を大事にしていきなさい」


   「念」という字を考えた人も、お釈迦様も、
   多分、宇宙から同じことを教えてもらったのではないかと思います。

   時代を超えた、時空間を超えた事実があります。

   私も時々
   「私の前世はなんだったと思いますか?」と尋ねられることがあり、
   そのたびにお釈迦様の答えを引用しています。

   そして、時にこのように答えます。


   「かりに前世で強盗や詐欺をおかしていたとしましょう。

    だとすると、今生に生まれ出たテーマはなんだと思いますか?」

   「わかりません」


   「今生では、動植物すべての存在たちから喜ばれる存在になる、
    ということではないでしょうか」

   「なるほど」


   「では、前世で多くの存在から喜ばれる存在だったとしましょう。
    今生でのテーマはなんでしょうね」

   その人は答えられませんでした。

   私は言いました。

   「今生でのテーマは、もっと喜ばれる存在になりなさい
    ということではないでしょうか。

    そう考えたら、前世が何者であったかは
    どうでもいいということになりませんか?

    今生でのテーマは、いかに多くの存在から喜ばれる存在になるか、
    ということですよね」


    「念」という言葉は、
   「自分の思いどおりの未来をつくる」という意味に使われてきました。

   しかし、本当の意味はそんな未来的な意味は含まれていないと思います。

   「念」とは「今」の「心」でしかない。

   そして、かりに目の前の人を大切にし、
   目の前のこと一つひとつを大事にやっていったとします。

   その「念」 を入れた生き方は、確実に未来に繋がっていくでしょう。


   「今」が独立して存在しているわけではないのです。

   「今」の積み重ねが、「未来」をつくっているのです。


     《「念を入れて」生きると、面白い現象が起こることがある》


      <『みんなが味方になるすごい秘密』kadokawa>

        ・・・

小林正観さんは
「念を入れて生きる」についてこう語っている。


『「念」という字を分解すると、
 「今」と「心」と書く。

 今、目の前にいる人、目の前にあることを大事にする心のこと。

 つまり、目の前にいる人に喜んでもらう生き方。

 愚痴や悪口や不平不満を言わず、明るく感謝の心で接すること。』


我々は、「今」というこの時間と、「ここ」という空間以外には存在しない。

だから、どこまでいっても「今、ここ」しかない。

明日になっても、「今、ここ」だ。

そして、それがずっと続く。


中村天風師はそれを、

「一度だけの人生だ。
 だから今この時だけを考えろ。
 過去は及ばず、未来は知れず。死んでからのことは宗教にまかせろ」

と言った。


前世がどうであろうが、我々には今しかない。

そして、我々の今生でのテーマは「喜ばれる存在になる」ということ。


「喜ばれる存在になる」になるため…

ひたすら、自分を磨き続けたい。

           <感謝合掌 令和5年5月9日 頓首再拝>

霊感多きで、慢心するなかれ - 伝統

2023/05/13 (Sat) 05:06:21


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より

『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、
 鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。

南泉和尚が修行の力なくして
鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。

人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしい
というのではないという意味である。

道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して

「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、
 すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。
 そのむねあきらむべし」

と悟しておられるのである。

今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、
真実、仏道の悟りを得たならば、天人の霊眼にも見えないし、
鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。

その深き意義を明らかに考究せよという意味である。

いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、
天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、
まだ最高級の悟りに達していないのだから注意せよ
と道元禅師は言われたのである。


そして道元禅師は、五祖の章の結末を

「しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり」

と叱咤していられる。

本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にある
ヴェッテリニの霊告によっても、

低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、
現実界にあらわれる以前に地上に渦巻く雰囲気を感知して、
高級霊よりもいっそうよく予言などが的中するのだ

と示されている。

高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから
地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである
 ―― もっともそれはそれぞれの霊的因縁によることであり、
それぞれの使命のあることであるが ―― 

したがって霊感などがあまり多くあることを
慢心してはならないのである。

むしろ霊感多き人は南泉和尚のように

「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる」と

修行の足らざるを反省すべきである。

道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が

「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」

と嘆いたと書いている。

  ・・・

*覰見(ちょけん)=うかがい見る

       <感謝合掌 令和5年5月13日 頓首再拝>

【無駄のない1日にする朝の習慣】 - 伝統

2023/05/14 (Sun) 08:23:10


      *メルマガ「川島和正」(2023.3.17)より

ほとんどの人は、無駄な時間の多い毎日を過ごしています。
 
例えば、なんとなくぼけっとしたり、
なんとなくネットサーフィンしたり、
なんとなくテレビや雑誌を見たりする時間が多い
毎日を過ごしているわけです。
 
また、それで「やりたいこと」を全部出来ているのならいいのですが
「やりたいこと」を中々出来ない日々を過ごしているわけです。
 
このような生活から脱出して
「やりたいことを」を着々と出来る毎日にするには
どうすればいいのかというと

朝一番に「その日やるべきこと」を書き出すといいです。
 
書き出す時間がもったいないと言って
書き出さない人が多いのですが
書き出すようにするのです。
 
10分かかっても20分かかってもいいので
とにかく書き出すようにするのです。
 
 
「その日やるべきこと」を書き出すと
脳にスイッチが入って、出来るようになってきます。

書き出さない時は出来なかったことが出来るようになってくるのです。
 
また、例え書き出すのに10分かかったとしても
ボケっとする時間は少なくなるので
結局、トータルではより多くの活動をできるようになるのです。
 
 
というわけで、あなたも、もし
「今日もやりたいことをバリバリ出来ずに終わった」
と思ってしまう毎日を過ごしているのであれば

ぜひ書き出すようにすることをお勧めします。
 
「その日やるべきこと」を書き出して
その書きだしたものを見直しながら行動すれば
ボケっとする時間が減りますので、これは実践した方がいいですね。
 
時間というのは、ボケボケしていると
あっという間に過ぎ去ってしまうものですので
意識して効果的に使うことが大切です。

       <感謝合掌 令和5年5月14日 頓首再拝>

【日々これ好日なり】 - 伝統

2023/05/18 (Thu) 07:35:53


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.20)より

   (大徳寺大仙院閑栖(かんせい)、尾関宗園氏の心に響く言葉より…)

   ある日、雲門和尚(八六四〜九四九)が弟子たちに向かって言った。

   「今日までのことはさておくとして、
    これから15日間の生活の中で、
    いちばん大切だと感じたことを、何か一句であらわしてみなさい」

   弟子たちは、それぞれ、
   禅を修行した境地を指摘するようなことばを見つけだそうとして、
   日夜、必死になって悩んだ。

   しかし、期限の15目になっても、誰一人答えることができない。


   そこで雲門和尚は、自ら一句をつくって、弟子たちに聞かせた。

   「日々(にちにち)これ好日(こうじつ)なり」


   このことばは、よく掛軸などにも書かれて、
   床の間に飾ってある家庭もある。

   ふつう、これは、毎日が平穏無事、
   快適に過ぎていくといった意味で使われているが、

   禅の場合にはそうではない。

   すくなくとも私は違った見方をしている。

   人生は晴れた日だけではない。

   嵐の日や疲れた日、絶望する日もある。

   そうした毎日を、よい日と感じていくためには、
   瞬間瞬間を精一杯生きることに尽きる。


   美しいもの、正しいこと、よいものを
   心で受けとめることができれば、毎日はよい日になる。

   今日一日、この一瞬がすべてなのだ。

   その日一日を充実させていく。

   そうした日々を積み重ねていけば、充実した人生になるということだ。

    《自分の一生は今日一日しかない》

     <『心配するな、なんとかなる』PHP研究所>

      ・・・

「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は変らざりけり」


剣と禅で自らを鍛え上げた幕臣、山岡鉄舟の言葉だ。

のちに天皇の侍従に就任した。


どんな天気になろうと、富士山の偉大さとその価値は変わらない。

これは、人も同じで、
どんなに失敗しようと、あるいは成功していようが、
その人の価値は変わらない。

まさに、「日々これ好日なり」。


人生には、もともと良い日も、悪い日もない。

そう感じる自分がいるだけだ。

今日はひどいことばかり起きた、ツイてなかったと思う人がいれば、

この程度で済んでよかった、ツイてると思う人もいる。

同じ出来事でも、その人の受け取り方次第、感じ方次第だ。


「日々これ好日なり」の気持ちで毎日を過ごせる人でありたい。

       <感謝合掌 令和5年5月18日 頓首再拝>

【さらにポジティブになる】 - 伝統

2023/05/20 (Sat) 07:34:58


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.24)より

   (ジェリー・ミンチントン氏の心に響く言葉より…)

   あなたはさらにポジティブになることができる。

   そのためのアイデアをいくつか紹介しよう。

   ①現状に悪い面があっても、いい面を探す。

   ②自分の人生にプラスになる考え方を取り入れる。

   ③ポジティブな考え方を提唱している本を読む習慣を身につける。

   ④自分についてネガティブに考えるのをやめて、ポジティブに考える。

   ⑤ネガティブな人をできるだけ避けて、ポジティブな人とつき合う。


   以上のことを心がければ、
   あなたの思考は改善され、それに伴って人生も改善されるはずだ。

     《思考を改善すれば人生も改善できる》

      <『うまくいっている人の考え方』ディスカヴァー>

        ・・・

「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩(いっぽ)を進(すす)む」(伝灯録)

という言葉がある。


百尺(30メートル)の竿(さお)の先に達しているが、
その上さらに一歩進もうとする心構え。

様々な努力や工夫をやり尽くした上に、さらに努力をすること。


大事なのは「さらに」という考え方。

これでいい、と思ったときから退歩が始まるからだ。

「さらにもう一歩」と思ったときに、ようやく後退をまぬがれる。


中村天風師は「考え方」についてこう語る。 《運命を拓く》より


『人生は心一つの置きどころ。

 人間の心で行う思い方、考え方が、人生の一切を良くもし、悪くもする、
 というのが人生支配の根本原則である。

 思い方や考え方が
 積極的であれば、積極的なものが出来、
 消極的なら消極的なものが出来る。

 何事においても、そのときの心の状態が、
 成功を生み、また失敗に追いやる。』



「さらにポジティブになる」

人生は心一つの置きどころ…

さらに、一歩前にすすむ気持ちを忘れない人でありたい。

・・・

<参照>

(1)【究極の要約】「うまくいっている人の考え方」
   から分かる一番大事なこと
   https://naturalmindo.com/book_self_esteem/

(2)【図解で本要約】ジェリー・ミンチントン
   「うまくいっている人の考え方」
   https://hophopblog.com/youyaku-umakuitteiruhitonokanngaekata/

(3)【要約】うまくいっている人の考え方<動画>
   https://www.youtube.com/watch?v=tQnZ8YOBW8A

         <感謝合掌 令和5年5月20日 頓首再拝>

【自己肯定感の高い人】 - 伝統

2023/05/28 (Sun) 11:24:56


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.30)より

   (精神科医、禅僧、川野泰周(たいしゅう)氏の心に響く言葉より…)


   人間関係で大きな要素となるのが「相性」です。

   ウマが合う、ソリが合わない、などと いったりしますが、

   相性がいいか、よくないかで、人間関係は心地よいものになったり、
   反対にギクシャクして気詰まりなもの、
   疲れてしまうものになったりします。


   ここにも自己肯定感が関わっています。

   自己肯定感の高い人は人間関係で悩むことはとても少ない、
   といっていいでしょう。

   彼ら、彼女らは自分を慈しむ心、自慈心が高く、
   それは他人を慈しむことにつながります。

   自分に対して思いやることのできる人は、
   誰に対しても思いやることができ、おおらかに接することができるのです。

   自己肯定感が高い相手とはもちろん、そうでない相手とでも、
   その人を受け容れ、うまくやっていくことができます。


   もちろん、人間ですから相性がいまひとつよくない、
   という相手もいるでしょう。

   しかし、そういう相手に対しても こう受け止めます。

   「この人は少し、他人の心にズカズカ入ってくるところがあるけれど、
    彼はそういう人なのだということがわかったうえでつき合っていけば、
    ぜんぜん問題なしだ」


   一方、自己肯定感が不足している人は、
   相手に対して「見返り」を求めてしまいがちです。

   見返りといっても、相手に同じレベルのことをしてもらうというだけでなく、
   自分が相手のために何かしたら、とにかく「リアクション」が欲しいのです。

   たとえば、感謝です。

   相手から「ありがとう」の言葉があったり、
   感謝の表情を見せてくれたりすれば、
   「ああ、自分のしたことはよかったんだ」と胸をなで下ろすのですが、

   それがなかった場合、考え込んでしまいます。

   「自分がしたことは、かえって相手にとっては迷惑だったのかもしれない。
    余計なことをしてしまったのかな...............」

   と不安でいっぱいになるのです。


   そんな不安でいっぱいになっても、

   相手が自己肯定感の高い人であれば、慈悲の心を持って見てくれていますから、
   そのあたりを察知して、フォローも怠りなくしてくれると思いますが、

   相手がそうでない場合は、
   「見返りなし」の場面が繰り返されることにもなります。

   すると、その相手に対して、
   「自分とはウマが合わないんじゃないだろうか。
    そうだ、きっと相性が悪いのだ」
    という思いにとらわれることになるのです。

   それだけならまだいいのですが、もっと悩み込んでしまう人の場合、

   「この人に余計なことをして不快にさせてしまった。
    やっぱり自分は世のなかから必要とされていないんだ」 と、

   自分で自分を強く責めることすらあるのです。

   こうなるともはや、その相手との問題に
   とどまらない事態となってしまいます。

   自分自身の存在価値を貶めることになりかねず、
   そんな状況で人間関係がうまくいくはずもありません。

   自分の行為に対して、
   見返りがあろうとなかろうと、心が揺れたりしないのが、
   自己肯定感の高い人です。


    《「見返り」を求めなければ、すべてが好転する》

      <『人生がうまくいく人の自己肯定感』三笠書房>

        ・・・

「自己肯定感」と「自立」は密接な関係がある。

たとえば、
大人になっても自立できていない人には、

「人のせいにする」
「被害者意識が強い」
「人に依存する」

「親離れできない」
「自分の意見がない」
「責任転嫁する」

「自分で決定できない」
「自己中心的」等々の性向がある。


そして、自己肯定感が低い人は、

「自分に自信がなく卑下する」、
「他人の評価を気にする」、
「物事を素直に受け取れない」、

「他人に寛容ではない」、
「何事も否定的に捉えやすい」、
「失敗を恐れ消極的でチャレンジしない」、

「精神的に不安定」、
「過去にとらわれやすい」等々だ。


自分を認め、自分は価値のある人間である、
と思える「自己肯定感」の高い人は、

気持ちに余裕ができ、
人にも思いやりの心で接することができ、寛容になれる。

そういう人の周りには人が集まり、人に好かれる。


自立するには、自己肯定感があることが必須だ。

逆にいうなら、自己肯定感が低い人に、自立した人はいない。

また、「見返り」を求める人も、自立していない人。


自己肯定感の高い人でありたい。

        <感謝合掌 令和5年5月28日 頓首再拝>

生活が本当になったとき心が落ちつく - 伝統

2023/06/06 (Tue) 09:42:23


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より

生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に
据わっていないからである。

機械でも据わるべきところへ据わったら、
震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。

心を落ちつけるのも大切であるが、
心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。

ごまかしの生活をしながら心ばかり
落ちつかせようと焦ってもしかたがない。

正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和5年6月6日 頓首再拝>

真理を行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2023/06/16 (Fri) 05:03:04


     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

        <感謝合掌 令和5年6月16日 頓首再拝>

神の心に従うて考える - 伝統

2023/06/17 (Sat) 04:58:45


      *「光明道中記」(6月17日《正しく祈る日》)より

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、
 却(かえ)って魂の平和を失う。(『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、
神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。

人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、
使い方によっては又悪ともなるのである。

「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが
如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、
それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

        <感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>

六つの誓い - 伝統

2023/06/21 (Wed) 05:04:07


     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。

今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。

今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて
他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。

今後必ず自分の耳を傾けて
他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。

今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

        <感謝合掌 令和5年6月21日 頓首再拝>

常に貸し越しになる生活をせよ  - 伝統

2023/06/23 (Fri) 05:05:15


      *「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋

みずから栄える道は他を栄えしむるにある。
社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、
顧客を栄えしめるように店を経営して行くならば、
その店は繁昌する他はないのである。

他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、
自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。

        <感謝合掌 令和5年6月23日 頓首再拝>

【「いい加減」が楽しさを生む】 - 伝統

2023/06/24 (Sat) 08:05:33


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.16)より

   (有川真由美(ありかわ)氏の心に響く言葉より…)

   気にしない人は、「いい加減」な人でもあります。

   ずいぶん昔、
   「5時から男」というCMが流行ったことがありました。

        1989年CM 中外製薬 グロンサン強力内服液
        5時から男のグロンサン 高田純次
         https://www.youtube.com/watch?v=AQ0hC7RIASw


        【懐かCM】 中外製薬グロンサンCM総集編 1986~2004 【全15種】
         https://www.youtube.com/watch?v=x6WtBUlCJ-s


   仕事中はやる気がないのに、

   終業時間の5時になるとがぜん元気になって、
   生き生きと遊ぶサラリーマンは、

   まさにいい加減を売りにしたタレントにぴったりで、
   魅力的に見えたものです。


   こうした力の抜けた男性は、
   年齢問わず、愛嬌やユーモアがあって、憎めないのです。

   女性でも仕事や家庭だけでなく、適度に遊んでいたり、
   趣味に熱中していたりする人とつき合うのは楽しいものです。


   「いい加減」というと よくない意味に聞こえますが、

   仕事も遊びも「良い加減」に気を抜いているから、

   ユーモアがあったり、話題が豊富だったり、
   相手の話を聞く余裕があったりします。

   とくに育児や介護など、たいへんな状態にいる人こそ、
   いい加減にやらなきゃ身がもたない。

   「いい加減」の重要さをわかっていれば、笑顔で続けられるのです。


   私たちは、仕事や家庭で、
   つねに真面目でベストを尽くすことを
   求められているように感じるものですが、
   真面目すぎては自分を追いこんでしまいます。

   生真面目すぎて、こころが病んでしまった。

   ほかの大事なことが見えなくなった。

   つまらない毎日のような気がする・・・・・ そんな人はいませんか?


   私たちの人生は、私たちに真面目に生きることよりも、
   楽しく生きることを求めているのではないでしょうか。

   自分に対しては、70点ぐらいでよしとしませんか?

   「いい加減な人」というのは、
   ものごとを複雑にせず、シンプルに、
   楽観的に考えている人でもあります。

   小さなことに惑わされず、本質を知っている人でもあります。


   だから、仕事でも、「簡単、簡単」と
   人のやりたがらないことをやったり、
   「なんとかできるでしょう」と大胆な提案をしたり。

   結果的に、ほどほど
   いい加減にやっている人のほうが、
   仕事も人間関係も続いていくものです。


   仕事や家庭以外に
   自分のコミュニティをもつことも大切です。

   そんな場所ができれば、
   自分がいかに狭い世界で悩んでいたかがわかり、
   意外にあっさり割り切ることもできます。

   自分の居場所がそこだけに感じられるから、
   狭い人間関係にこだわってしまうのです。


   悩みそうになったら、

   「ほどほどに」が合い言葉。

   良い加減であることを心がけると、まわりの人もほっとします。

   息を抜きながら、生き抜いていきましょう。

       <『一緒にいると楽しい人疲れる人』PHP>

          ・・・

小林正観さんは、
「あの世に行くと、向こうで決まって聞かれることがある」という。

それは、
「人生を、どれほど楽しんできたか」
という問い。

つまり、人生という現象をどう捉えたか、という質問だ。


小林正観さんは、この世には、
「幸」という現象も、「不幸」という現象もないという。

なぜなら、幸も不幸も、勝ちも負けも、
成功も失敗も、敵や味方も、全部自分が決めているからだ。

どんなに貧乏であろうと、自分が幸せだと思えば幸せだし、

どんなにお金持ちであろうと、自分が不幸だと思えば不幸だからだ。

この人生を、楽しいと思うか、そうでないと思うかは
自分が決めているということ。


人生を楽しむために一番必要なのが、ほどほど「いい加減」であること。

真面目すぎず…

ほどほど「いい加減」に生きることができる人でありたい。

         <感謝合掌 令和5年6月24日 頓首再拝>


荘厳なる生活をせよ - 伝統

2023/06/28 (Wed) 05:02:29


          *「光明法語」(6月28日)より

吾等は吾が生活を荘厳なるものたらしめるべからず。
何となれば人間は神の子であるからです。

魂を高揚せしめる大思想家の文章は汝の魂をして荘厳ならしむべし。

低卑なる市井(しせい)の俗語に耳傾くべからず。
闇の話、脱税の話、野卑の話、猥褻なる話きくべからず。

仏典を読むべし。聖書を読むべし。
『甘露の法雨』を読むべし、
『生命の實相』を読むべし。

すべて天啓、神示に基づく荘厳なる文章を読むべし。

猥雑極まる近代のエロ文学読むべからず。

言葉の力は恐ろしき迄強き也。

        <感謝合掌 令和5年6月28日 頓首再拝>

時間を大切にせよ - 伝統

2023/06/29 (Thu) 05:01:08


       *「光明法語」(6月29日)より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は
誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも
又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても
回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、
然(しか)らざれば向下するかである。

        <感謝合掌 令和5年6月29日 頓首再拝>

真諦成就 - 伝統

2023/07/01 (Sat) 05:02:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月1日)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

         <感謝合掌 令和5年7月1日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.