伝統板・第二

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神はすべてのすべて ③ - 伝統

2023/03/08 (Wed) 09:16:04


「宇宙の本源」に帰る

     *「光明法語」(3月8日《行き詰った時にはこうせよ》)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「神はすべてのすべて」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1846

(2)伝統板・第二「神はすべてのすべて」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6930933

(3)伝統板・第二「神はすべてのすべて ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7872739

           <感謝合掌 令和5年3月8日 頓首再拝>

神がすべてなりと観ぜよ - 伝統

2023/03/15 (Wed) 07:27:54


           *「光明法語」(3月15日)より

毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、
神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。

その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、
反感、災難などは存在しないものであると云う確信が
自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。

その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。

           <感謝合掌 令和5年3月15日 頓首再拝>

《神はすべてのすべて》 - 伝統

2023/04/05 (Wed) 05:04:33


        *「光明法語」(4月5日)より

先ずいずこにも神が霊的存在にして一切のところに
充ち満ちてい給うことを知ることが大切である。

神はすべてのところに充ち満ちていますが故に、
何物も神の救いのそとに漏れることは出来ないのである。

神はすべてのものを取巻き、すべてのものの中に流れ入り充ちわたりて、
その智慧と愛と生命と歓喜とを実現していたまうのである。

これから実現するのではない。
既に神のいます処、それが実現しているのである。
今、此処に、而して、久遠に、神の完全なる国はあるのである。

           <感謝合掌 令和5年4月5日 頓首再拝>

心に神を持つことは「すべて」を持つこと - 伝統

2023/07/02 (Sun) 05:09:13



     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月2日)より

本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。

神さえあれば何も要らない。
心に神を持つことは「すべて」を持つことである。

神は「すべてのすべて」であるからである。

           <感謝合掌 令和5年7月2日 頓首再拝>

神を心に満たせ! - 伝統

2023/07/22 (Sat) 08:48:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月22日)より

「神はすべてのすべて・・・」

眼を瞑ってかく念ぜよ。

繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、
そして自分のうちに、あらゆるいっさいのうちに、
神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。

ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。

神はすべてであり、いっさいであるからである。

ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。

         <感謝合掌 令和5年7月22日 頓首再拝>

あらゆるところに神を見出す - 伝統

2023/07/26 (Wed) 08:40:39


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋

だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。

わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。

わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。


神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。

生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。

すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。

         <感謝合掌 令和5年7月26日 頓首再拝>

神は現象を超えた、外にあり、内にあり、中間にある - 伝統

2023/08/02 (Wed) 10:16:17


        *「光明道中記」(8月2日《完徳成就の日》」より

【汝らは初めから如来であり、成仏している。(生命の實相第一巻)】


神を外にのみ求むる時代は人類にとって過ぎ去ったのである。
神は外にあらず、内にあらず、中間にあらず、
そして外にあり、内にあり、中間にある。

それは現象を超えた外であり、内であり、中間であり、
その本源であり、それを左右し、支配し、修正する力である。

嘗て、京都の講習会に往ったときに
三高の英文学教授深瀬基寛氏から『現代英文学の課題』と
題する本を頂いた。

此の書はその前年同教授夫人が叡山の生長の家講習会に受講して山上から
帰られると神徠(しんらい)のように書きたくなって書かれた書である
と言う。その中に曰く――

「『完徳の観念』(Ider of perfection)は
アーノルドに於いても根本的な地位を占めているが、
アーノルドは『教養』(Culture)の方法によって専らこの観念を実現せんとし、

エリオットは『個性の脱却』(Depersonalisation)によって
個人以上の『他社の権威』(Outside Authority)に合致することを以て
完成の内容としている。

・・・個人の『内心の声』(Inner Voice)を
最後の拠り処とする傾向が浪漫主義の本質であって、
エリオットは此の傾向を『近代の異端』として排撃する」と。

此の「外の権威」と「内心の声」は
内外(しげ)打成(だじょう)一片の生長の家に於いては
完全に一致する。

         <感謝合掌 令和5年8月2日 頓首再拝>

神がすべての日 - 伝統

2023/08/05 (Sat) 08:59:31


        *「光明道中記」(8月5日)より

【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。
 善き生活の中にある。       (『生命の實相』第十一巻)】

神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、
そんな固い鉱石の中にでも神が充満したまうこと。

従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも
神が満ちて在ますこと、自分の中に斯く満ちて在ます神と、
宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。

このことを今日の神想観のときには
眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、神のほかに何も無い、
神のみが在(ましま)すのだと云う深い信念が湧き出るまで
念じつづけること。

このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。
神は”すべて”である。

先ずその”すべて”にましますところの神を心の中に
深く知ることは”すべて”を心の中に得ることである。

「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、
全てのものはすでに吾がものである。

欲張っては可(い)けない。
欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを
悟らない近視眼者であるからである。

”すべて”が自分のものと云うのは
全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。
必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。

       <感謝合掌 令和5年8月5日 頓首再拝>

ただ神”のみ”がまします - 伝統

2023/10/30 (Mon) 09:17:54


  *「光明道中記」(10月30日《求むるに先立ちて財宝集る日》)より抜粋 

【結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。
 よき果を結ぶのは結果を求めない愛ばかりである。
                     (『生命の實相』第一巻)】

「求めよ、さらば得られん」これは第一段階である。
「神は求むるに先立ちて必需物を知りたまう」これは第二段階である。

更に進んでは「知り給う」も「与え給う」も、
そんな「求めるもの」を私事に予想する心がなくなってしまわなければ
ならないのである。

ただ神”のみ”がましますのである。
神は大慈である。
ただ大慈”のみ”がましますのである。

今更何を求めよう。

           <感謝合掌 令和5年10月30日 頓首再拝>

神に抱擁される詩 - 伝統

2023/11/15 (Wed) 12:44:07


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月15日)より

静かに朝の太陽に向かって、合掌礼拝瞑目して、
リズミカルに自分の耳に聞こえる程度の低声(こごえ)にて繰り返せよ。

第一節二十回、終わりて第二節二十回、
それを終わりて第三節二十回を繰り返すのである。

心 恍(こう)たり惚(こつ)たり。
天地の中に抱擁されたる心境に入(い)りて止(や)む。


   神はすべての渾(すべ)て
   神はまたきいのち
   神のいのち我(わ)れ
   健(すこ)やかなるもの我(わ)れ
   病(や)まざるもの我(わ)れ
   死せざるもの我(わ)れ
   無限力なるもの我(わ)れ。


   神はすべてのすべて
   すべてのものに神ましまして 
     我(わ)れを導きたまう
   神は調和の叡智(みちえ)
   神は栄えの叡智(みちえ)
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう。


   神はすべてのすべて
   すべてのもののうちに神ましまして 
     我(わ)れを護りたまう
   神はまたき聖愛(みあい)
   神 我(わ)れを護りたまえば
     幸多き者われ、
     恐怖なき者われ。
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう

         <感謝合掌 令和5年11月15日 頓首再拝>

「宇宙の本源」に帰る - 伝統

2024/03/08 (Fri) 09:54:14


     *「光明法語」(3月8日《行き詰った時にはこうせよ》)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

           <感謝合掌 令和6年3月8日 頓首再拝>

神がすべてなりと観ぜよ - 伝統

2024/03/15 (Fri) 09:35:15


           *「光明法語」(3月15日)より

毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、
神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。

その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、
反感、災難などは存在しないものであると云う確信が
自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。

その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。

           <感謝合掌 令和6年3月15日 頓首再拝>

神はすべてのすべて - 伝統

2024/04/05 (Fri) 11:43:37


        *「光明法語」(4月5日)より

先ずいずこにも神が霊的存在にして一切のところに
充ち満ちてい給うことを知ることが大切である。

神はすべてのところに充ち満ちていますが故に、
何物も神の救いのそとに漏れることは出来ないのである。

神はすべてのものを取巻き、すべてのものの中に流れ入り充ちわたりて、
その智慧と愛と生命と歓喜とを実現していたまうのである。

これから実現するのではない。
既に神のいます処、それが実現しているのである。
今、此処に、而して、久遠に、神の完全なる国はあるのである。

            <感謝合掌 令和6年4月5日 頓首再拝>

心に神を持つことは「すべて」を持つこと - 伝統

2024/07/02 (Tue) 10:21:05


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月2日)より

本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。

神さえあれば何も要らない。
心に神を持つことは「すべて」を持つことである。

神は「すべてのすべて」であるからである。

           <感謝合掌 令和6年7月2日 頓首再拝>

神を心に満たせ! - 伝統

2024/07/22 (Mon) 10:37:56


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月22日)より

「神はすべてのすべて・・・」

眼を瞑ってかく念ぜよ。

繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、
そして自分のうちに、あらゆるいっさいのうちに、
神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。

ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。

神はすべてであり、いっさいであるからである。

ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。

         <感謝合掌 令和6年7月22日 頓首再拝>

普遍意識に没入するとき、万事が都合よくゆく - 伝統

2024/07/24 (Wed) 09:48:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月24日)より

瞑目精神を統一して、
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。

そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身の
うちにも、神の智慧充満せりと観じ
神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。

神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、
その智慧の中に没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。

現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された
普遍意識(すべてに満ちて行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる
反射光にすぎない。

反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、
自分のうちに宿り給う普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、
われらはこの普遍意識の中に没入し、普遍の智慧と一つになるとき、
知らず知らず万事が都合よくゆくのである。

「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。

普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

         <感謝合掌 令和6年7月24日 頓首再拝>

あらゆるところに神を見出す - 伝統

2024/07/26 (Fri) 04:31:16


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋

だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。

わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。

わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。


神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。

生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。

すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。

         <感謝合掌 令和6年7月26日 頓首再拝>

神は”すべて”である - 伝統

2024/08/05 (Mon) 10:49:19


       *「光明道中記」(8月5日《神がすべての日》)より

【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、
そんな固い鉱石の中にでも神が充満したまうこと。

従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも
神が満ちて在ますこと、自分の中に斯く満ちて在ます神と、
宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。

このことを今日の神想観のときには眼を瞑ると直(ただち)に
繰返し念じて、神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだ
と云う深い信念が湧き出るまで念じつづけること。

このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。
神は”すべて”である。

先ずその”すべて”にましますところの神を
心の中に深く知ることは”すべて”を心の中に得ることである。

「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、全てのものはすでに吾がものである。

欲張っては可(い)けない。
欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを
悟らない近視眼者であるからである。

”すべて”が自分のものと云うのは
全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。
必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。

       <感謝合掌 令和6年8月5日 頓首再拝>

ただ神”のみ”がまします - 伝統

2024/10/30 (Wed) 10:52:23


  *「光明道中記」(10月30日《求むるに先立ちて財宝集る日》)より抜粋 

【結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。
 よき果を結ぶのは結果を求めない愛ばかりである。
                     (『生命の實相』第一巻)】

「求めよ、さらば得られん」これは第一段階である。
「神は求むるに先立ちて必需物を知りたまう」これは第二段階である。

更に進んでは「知り給う」も「与え給う」も、
そんな「求めるもの」を私事に予想する心がなくなってしまわなければ
ならないのである。

ただ神”のみ”がましますのである。
神は大慈である。
ただ大慈”のみ”がましますのである。

今更何を求めよう。

           <感謝合掌 令和6年10月30日 頓首再拝>

神に抱擁される詩 - 伝統

2024/11/15 (Fri) 11:16:35


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月15日)より

静かに朝の太陽に向かって、合掌礼拝瞑目して、
リズミカルに自分の耳に聞こえる程度の低声(こごえ)にて繰り返せよ。

第一節二十回、終わりて第二節二十回、
それを終わりて第三節二十回を繰り返すのである。

心 恍(こう)たり惚(こつ)たり。
天地の中に抱擁されたる心境に入(い)りて止(や)む。


   神はすべての渾(すべ)て
   神はまたきいのち
   神のいのち我(わ)れ
   健(すこ)やかなるもの我(わ)れ
   病(や)まざるもの我(わ)れ
   死せざるもの我(わ)れ
   無限力なるもの我(わ)れ。


   神はすべてのすべて
   すべてのものに神ましまして 
     我(わ)れを導きたまう
   神は調和の叡智(みちえ)
   神は栄えの叡智(みちえ)
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう。


   神はすべてのすべて
   すべてのもののうちに神ましまして 
     我(わ)れを護りたまう
   神はまたき聖愛(みあい)
   神 我(わ)れを護りたまえば
     幸多き者われ、
     恐怖なき者われ。
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう

         <感謝合掌 令和6年11月15日 頓首再拝>

神がすべてなりと観ぜよ - 伝統

2025/03/15 (Sat) 09:48:37


           *「光明法語」(3月15日)より

毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、
神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。

その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、
反感、災難などは存在しないものであると云う確信が
自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。

その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。

           <感謝合掌 令和7年3月15日 頓首再拝>

神はすべてのすべて - 伝統

2025/04/05 (Sat) 11:42:51


        *「光明法語」(4月5日)より

先ずいずこにも神が霊的存在にして一切のところに
充ち満ちてい給うことを知ることが大切である。

神はすべてのところに充ち満ちていますが故に、
何物も神の救いのそとに漏れることは出来ないのである。

神はすべてのものを取巻き、すべてのものの中に流れ入り充ちわたりて、
その智慧と愛と生命と歓喜とを実現していたまうのである。

これから実現するのではない。
既に神のいます処、それが実現しているのである。
今、此処に、而して、久遠に、神の完全なる国はあるのである。

            <感謝合掌 令和7年4月5日 頓首再拝>

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