伝統板・第二

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谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑭ - 夕刻版

2023/02/23 (Thu) 04:57:52


「往相精進の境を超えて」

   *「常樂への道」吉田国太郎・著(P113)より

魂が目を覚ますこと。

現象が死に切って、其処へ実相が生れ出づること。

完全のみがある、そして不完全はない。
善のみがある、そして善でないものは無い。

清めあげなければならない自分は無く、
励みに依つて完全にしなければならない自分も無く、
実相の完全さをみて未だ到り得ないことを歎かなければならない自分もなく、
今あるようにみえている不完全なものは幾らあるように見えても全てなく、

そして今既に始めから完全なる神と通ずる自分のみが此処にあり、
それ以外は何も無く、吾らは始めから成仏して居ると諭されて居たのであり、
神一元、仏一元で、それ以外は無いのであると知らされて居たのであつた。

これを悟ることによってのみ吾等は神であり、仏であり、完全であり、
清くあり高くあり得るのであつて、それ以外には道は無いのである。

悟ること。新たに生れること。
誠にも、人新たに生れずば神の国を見ること能わず、である。


『煩悩本来無し、唯菩提あるのみ、現象本来無し、唯実相あるのみ』

これ以外無いのが真理であり、これ以外無いのが生長の家である。
天地崩るるとも此処以外に心走らない人間であること。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59 


(2)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105


(3)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」②
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458658


(4)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」③
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6582228


(5)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」④
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6691070

(6)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑤
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6819394

(7)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑥
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7167361

(8)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7788859

(9)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑧」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7989007

(10)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑨」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8298091

(11)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑩」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8301267

(12)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑪」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8304221

(13)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑫」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8307975

(14)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑬」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8310829


(15)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6620484

(16)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7220053

(17)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7912130

          <感謝合掌 令和5年2月22日 頓首再拝>

幸福への道 10 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/02/23 (Thu) 15:56:04

幸福への道 10 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/08)
https://www.youtube.com/watch?v=vVrkCUNtg10

          <感謝合掌 令和5年2月23日 頓首再拝>

谷口先生が信じられなくなった、生長の家をやめます~楠本 加美野 - 伝統

2023/02/24 (Fri) 04:56:12


         *楠本加美野著『父母の愛を求めて』(44~48頁)

昭和20年8月15日の正午だった。

天皇陛下の御言葉は、一語一語、私達の肺腑をついた。 

日本は敗けた。 
神国日本は敗けた。 
天皇のいらっしゃる日本が敗けた。

放送が終っても、一同呆然としていた。 
と誰かが「わー」と号泣した。 
と同時に、全員が堰を切ったように泣き出した。 

私は泣きながら、谷口先生の御言葉「必勝」を思い出していた。

谷口先生も信じられなくなった。 
神国日本も信じられなくなった。 
私はすべてが信じられなくなった。

私達は直ちに、鎌倉を出発。 
徒歩で川越へ行き、そこで部隊を解除、復員することになった。

8月末、父母の疎開している木更津へ帰った。 
元気な姿で早く帰った私を見て、父母は非常によろこんでくれた。

とにかく私は、谷口先生の御言葉が聞きたかった。 
信ずることのできる何かが欲しかった。 

戦前、日曜毎に通った大誌友会を想像しながら私は上京した。 
地下鉄青山1丁目で降り、地上に出た時は、びっくりしてしまった。 
一面の焼野原であった。 
まばらにバラックの家が建っていた。 

なつかしい道場への道を歩きながら、
私はしきりに谷口先生の御言葉を思い出していた。

「東京中が焼野原になっても、この道場は焼けませんよ」

なつかしい道場は、果たして健在であろうか。 
だんだん近づいて行ったが、道場は見えなかった。

とうとう私は道場の焼跡にたっていた。 

雑草の中に、‘かぼちゃ’がたくましくのびていた。

 ‘道場は焼けた!’

またも私の信仰は動揺した。  
〈後で聞いてわかったのだ、私の出征後、
 道場は軍に接収され、軍隊が使用していたとのこと、
 そのために、日本教文社を残して、焼けてしまったのである〉

‘かぼちゃ’畑の中に立札が立っていた。 
それによって、日本教文社の2階で、日曜大誌友会があることがわかった。

私は、日本教文社の2階へ上って行った。 
戦前とくらべ、何と寂しい集まりなのだろうか。 

小さい講堂、少ない人数 ・・・ 。 
演壇もなく、畳の上にたたれている谷口先生 ・・・ 。 
輝子先生も、同じ畳の上に坐っていられた。

御講話もはじまっていた。 
私の入るのを、まっていたかのように、

 「日本は敗けて、よかったのですよ!」

という谷口先生の御言葉が、私の耳に飛込んできた。 
私は耳を疑った。 
しかし御講話は、その事について、そのまま続けられていた。 

私はいたたまれなくなって外へ出た。 

なんで敗戦がよかったんだろう!?  
勝つために真剣に祈ったではないか!?  
勝つために命を捧げて戦ったのではないか!?

谷口先生も時代に迎合しているのだ。 
生長の家をやめよう。 
私ははっきりと心に決めた。

私は帰ることにした。 
参考程度に 『生長の家』 を読もうと、神誌2年分を申しこんで、
再び訪れることのないであろう生長の家本部を後にしたのである。

乃木神社も全焼して、鳥居だけが寂しくたっていた。 
バラックに住んでいる人々は、ただ生きることだけにおわれているようであった。 

私は再び一人きりになってしまった。


私はここで、なぜ谷口先生をも信じられなくなったかを考えてみたい。 
入信して間もなく不治の病がいやされ、死から救われながら、
なぜ生長の家から離れたかを考えてみたい。

私は、さきにのべたように、『生命の實相』 によって不治の病がいやされ、
死から救われたのである。 

そして 『生命の實相』 こそ、私の今後の生きる指標と
10回通読の決意をかため、それを日々精進してきた。 
その結果ことごとくの希望が実現した。 いわゆる百事如意の生活をしたわけである。

それほど 『生命の實相』 のお蔭をいただきながら、
私は入信以来、誰にも生長の家を伝道しなかった。 
自分の幸福のみを追い求めてきたのである。 
利己的信仰者であった。 

入信しても、私の人生観は変らなかったのである。
つまり、愛を否定した、利己的な人生観をもっていたのである。 

だから私は、長い間、生長の家を信じ、神を信じ、仏を信じている
と思いこんでいたが、真の神も、真の仏も信じていなかったわけである。 
真の生長の家も信じていなかったわけである。

たとい、「神」という言葉を否定し、
「宗教」という言葉を否定している人であろうとも、
その人の人生観が、人間の本性を愛であると信じ、
愛行こそ生きる道であると信じている人があるとすれば、
その人は、真の神を、真の宗教を、信じていることになるのである。

自分の幸福のみを願う利己的信仰者であった私は、
ついに生長の家から去ったのである。

釈迦が法華経をお説きになると、僧俗5千人が席を立ち、退場した。 
“その人達は利己的信仰者である。 こういう人でも、
いずれは人生行路の難関に遭って、その難関がどこに起因するかに気づいて
利他行に帰って来ることになるのであります” と釈迦は言っているが 
〈『信仰の活人剣』 参照〉、私もその例にもれなかった。



https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ffd4ece864a272534a4dbab4dbe43a54
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-07-16)

          <感謝合掌 令和5年2月23日 頓首再拝>

幸福への道 11 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/02/24 (Fri) 15:02:36

幸福への道 11 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/09)
https://www.youtube.com/watch?v=fy-LlSK2AMs

          <感謝合掌 令和5年2月24日 頓首再拝>

朝の時間を生かす者は、生涯を生かす~谷口雅春先生 - 伝統

2023/02/25 (Sat) 04:53:11


        *『 生命の實相 』 頭注版第7巻より

朝の頭脳の明快な時間を生かすと捨てるとで、
諸君自身の偉大と矮小と、成功と失敗と、博識と無学とが
分かれることを知れ。

せっかくもって生まれたもって生まれた能力を生長さすのも、
これを発揮するのも、「時間」があってこその問題である。

諸君よ、まず、朝の最も効果多き時間をもって
自己の能力の生長をはかれ。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/806040d6446ef980fbe0b5aca2a71c92
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-08-02)

          <感謝合掌 令和5年2月24日 頓首再拝>

幸福への道 12 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/02/25 (Sat) 14:16:18

幸福への道 12 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/10)
https://www.youtube.com/watch?v=-PGhTEn7BhU

          <感謝合掌 令和5年2月25日 頓首再拝>

360度廻転の人生観~徳久克己 - 伝統

2023/02/26 (Sun) 04:44:31

        *徳久克己・著『歓喜への道』より

『生命の實相』 に書いてある360度回転ということが、
私にはどうしても分らなかったのである。

180度回転なら話はわかるが、
360度回転してしまえばクルッと元の方向に戻ってしまう。 

それでは回転してもしなくとも同じことではないか。 

どうも元へ戻るくらいならば、始めから回転しない方がよいではないか、
というような考え方を私は持っていたのである。 

自分の人生観が今までと逆の方向へ変ってしまうのなら
回転する必要もあろうが、元のところへかえってくるのなら
始めから元のところにいればよいので、
回転なんか始めからしない方がよいではないか、と心から思っていたのである。

所が、私自身気がついてみると、きれいに360度回転している。 
いや何時の間にか回転させられていたのである。 

医者であった私が医者を止めると云い出した時は、
一度反対の立場に立った時であるから、180度回転していたのであって、
その時は 『無』 の世界へ飛び込んでしまっていたのである。 

つまり 『現象なし』 『肉体なし』 『病なし』 という、
今までの私の常識では全然考えられない 『無』 の世界観へ立った私は、
今まで 『ある』 と思っていたものが 『ない』 と変ってしまったのである。 

つまり 『無』 の世界へ入っていたのである。 
その時私は 『無』 の世界へ入っていたので 
『現象はない、肉体はない、というならば、御飯も食べず大便もせずに、
生きていられる筈ではないか?』 というような屁理屈を
まだ持っていた当時であったのである。

つまり、今まで自分の持っていた総ての知識を捨てて
捨て切った積りでいた時なのであるが、捨てると云うと又その捨てることに、
つまり無と云えばその 『無』 に捉われていた時なのである。 

結局、今までの 『自我』 を捨ててしまった時なのであるが、 
『神の子』 吾の自覚にまで到っていない時であったのである。 

自我を捨てて、 『無』 の中に入ってしまって、
本当に 『無』 になってしまえばよいのであるが、
まだその 『無』 に捉われていた時なのである。


その 『無』 の中をさまよっていた時、私は谷口雅春先生が 
『無門關』 を解釈された本を読んだのである。 

その時、その本の中に

       無は關門である。 
       無は門であってその奥に家のあることを示す道標となるべきもので、
       その無の門の中に住んではいけない

というような意味のことを読んだのである。 
そして私ははっとしたのである。

私は 『無』 の中に止っていた。 
『無』 に捉われていた、 『無』 の中に止るべきではなく、 
『無』 の次の段階へ行くための一つの関門であったのだ、
ということを私は始めて知ったのである。

つまり 『肉体なし』 と云うことは、 
『今まで自分を肉体だと思っているのは、
神の顕現であったので、自分の肉体などはなかったのだ』 ということであり、 

『現象なし』 とは、 『実相のみである』 という意味であったことが分ったのである。 

つまり、実相一元、神一元の世界観にようやく突入できたのである。 

今まで 『現象なし』 というと、その 『なし』 に捉われて 
『無』 の世界観になってしまっていたのであって、
それは人生観の転換の上の一過程にすぎなかったのだということがわかったのであった。

つまり 『無』 とは 『自我なし』 と断ち切る 『無』 であって、
自我の一切を無と断ち切った時、おのずからそこに生まれてくるのは 
『神一元』 『神の子としての自分』 であったのである。 

つまり、今まで肉体という 『もの』 によって出来上がっている
と思っていた自分が、 『神の子』 としての自分に入れ替った姿が、
360度回転であったのである。 

『物質肉体の私』 は 『神の子の私』 に生れ更ったのである。



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晴れときどき(2013 年 9 月 3 日)

          <感謝合掌 令和5年2月25日 頓首再拝>

幸福への道 13 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/02/26 (Sun) 14:54:01

幸福への道 13 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/11)
https://www.youtube.com/watch?v=NWOmYIGYGJ8

          <感謝合掌 令和5年2月26日 頓首再拝>

『生命の實相』 を何回読んだか!?  もう一度読みなおせ!~楠本 加美野 - 伝統

2023/02/27 (Mon) 04:49:53


          * 『父母の愛を求めて』(48~51頁)より

昭和20年9月、私は希望に燃えて、川越工業学校に赴任した。 
川越市は戦災にもあわないで、街もそのまま残されていたが、
疎開者が多く住宅難であった。 

そこで学校の宿直室に住むことになった。

学校は進駐軍を最も恐れていたようであった。 
天皇陛下の御真影を納めた奉安殿も破壊されてあった。 
教育勅語も各教室から外され焼かれてあった。 

10月21日には、教育に関する最初の指令が、マッカーサー司令部から出され、
ついで12月31日は修身、歴史、地理の授業が停止された。 

今までの教育の中心になっていた忠と孝は、学校から一掃され、
そして自由と平等の教育方針が与えられた。

その後、その基本方針による具体的な指令が次々と出された。 
日の丸をかかげること、君が代を唱うこと、号令をかけること、
全校生徒の朝礼をすること、神社参拝すること等、すべて厳禁された。 

生徒は自由と称して、勝手な行動をすることが目だってきた。 
平等と称して、多数決で決定することが、最善の道と思われるようになった。


私は生長の家を離れて、坐禅、キリスト教、淘宮術と門を叩いたが、
どうしても生長の家にかつてもっていたような情熱的信仰は得られなかった。 

私は人間としても、教師としても、自信を失ってしまった。

長い間私を支えてきた生長の家から離れて、
それに代わるものは得られなかったのである。 

そして教育の中心思想であった教育勅語は廃止され、
それに代わる自由も平等も、実際教育の場で、
どのように生かすか、私にはわからなかった。 

あらゆる面で自信喪失した私は、生徒の前にたつのがおそろしくなってしまった。 
住んでいる学校は地獄、母のまっている家には嫌いな父がいるし、
私は広い世界に身のおき所がなくなってしまった。

昭和23年10月30日、とうとう私は放蕩息子のように、
飛田給の生長の家本部練成道場を訪れた。 

やはり御教えによって救われた体験をもっているので、
練成をうけることにより、救われるかもしれないという期待があったのである。

当時の道場 〈その建物は現在、富士河口湖で移築〉 は、
広々とした畑の中にポツンと建っていた。 

玄関へ入ったとたんに、合掌して 「ありがとうございます」 と出迎えてくれた。 
受付をすませ、2階1号室に案内された。

翌日から第1回神性開発練成会が始った。 
第1日の朝、私は起床時間に起きたが、起床放送の方が遅れていた。 
昨晩、玄関で出迎えてくれた人が起床の遅れたことを、練成員にあやまっていた。 

私は隣の人に 「あの人は誰ですか」 と聞いたところ、
徳久部長 〈当時は青年部長で、部長とよんでいた〉 とわかり、
びっくりしてしまった。 

責任者が朝寝する練成は始めてである。 
部長は産婦人科の医学博士であった。 
毎晩話をして下さるが、性問題の話が多く、落語を聞いているようで、
一同笑いが止まらなかった。 

昼は本部の服部先生、吉田国太郎先生、西岡先生等の話があった。 
素晴しい話を聞いても、私の気持は解決しなかった。 
日がたつにつれ、私は失望しだした。

ある晩、部長が、「ここ飛田給こそ、昭和の松下村塾」 
と愛国の情をかたむけて、熱弁をふるった。 

練成員一同魅せられて、話が終っても、起ち上る者もいなかった。 
私は思わず部長の後を追った。 私は長い廊下の途中でよびかけた。

 「質問があります」
 
すると、部長はふりむいて言った。

 「何だ、結論を言いなさい」 と。

部屋にでも入ってゆっくりと話してくれるものと思ったら、
廊下での指導である。

 「谷口先生が信じられないのです!?」

と私は結論だけ言った。

 「なぜだ!」

 「戦前の谷口先生のお話と戦後のお話が違うのです」

 「谷口先生のお話は戦前も戦後も一貫している。 
  表面だけを見ているからだ。 『生命の實相』 を何回読んだか」

 「全巻、4回読みました」

 「何回読んでもだめだ。 もう一回読みなおせ」

部長の有無を言わさぬ言葉の力に、
私は思わず「ハイ」と大きな返事をしていた。 

そして全巻通読の決意をしたのである。 こ

れは練成後の話であるが、4年ぶりに終始感激の心で読み進むうちに、
谷口先生は戦前も戦後も、同じく一貫してお説き下さっていらっしゃるのである、
とわかってきた。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/1ba3becaa08c4ae40c929f6f00988672
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-07-17)

          <感謝合掌 令和5年2月26日 頓首再拝>

幸福への道 14 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/02/27 (Mon) 18:59:20

幸福への道 14 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/12)
https://www.youtube.com/watch?v=ns-f5cixMiU

          <感謝合掌 令和5年2月27日 頓首再拝>

明るい心をもつことが最高の美徳である~谷口雅春先生 - 伝統

2023/02/28 (Tue) 04:57:50


         *『 幸福をひらく鍵 』 より

明るい心をもつということが最高の美徳である。

神は光の神である。

無礙光(むげこう)の如来(にょらい)である。


神に波長を合わす心が幸福の源泉となるのである。


悲しみよされ、よろこびよ来れ。

心に悦びを念ずれば、悦びは来るのである。

心は磁石的な力である。

呼ぶもの、念ずるものが集(あつま)り来(きた)るのである。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d011e322038bb401479f2f528ac270de
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-08-03)

          <感謝合掌 令和5年2月27日 頓首再拝>

幸福への道 15 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/02/28 (Tue) 14:21:41

幸福への道 15 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/13)
https://www.youtube.com/watch?v=igkQWW5fcfQ

          <感謝合掌 令和5年2月28日 頓首再拝>

何故、現代の師は尊敬されない~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/01 (Wed) 04:48:44


        *『白鳩』(昭和44年3月号)より

古へに於いては 『三尺さがって師の影を踏まず』 というほど、
学の師たるものは尊敬せられたのである。

“学” は宇宙の真理であり、 
“師” はそのきびしい修練を得て宇宙の真理を体得した人格者であり、
その “師” を媒介として “学” を伝授されるのが 
“弟子” であるから、

その真理を授受される弟子は師を真理の、
より良き霊現者として尊敬されるという慣わしになっていたのである。

この “学” という語の代りに 
“武道” とか “剣道” とか “茶道” とか “華道” とかの語を
入れ換えても同じことが言える。

それらの “道(どう)” の師匠たる者は、
その道の真理を、より良くより深く修練によって体得した人格者として、
弟子は師を尊敬し、

たとい弟子が “出藍の誉れ” をもって
師より深く真理を体得するに至ってすらも、
真理への最初の手ほどきをして下さった開道者(かいどうしゃ)として、
弟子は永遠に師を “恩師” として尊敬し、
師を上座に据えるのが慣わしであったのである。

 ところが現代では ――― 。



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晴れときどき(2013 年 9 月 6 日)

          <感謝合掌 令和5年2月28日 頓首再拝>

幸福への道 16 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/03/01 (Wed) 18:47:48

幸福への道 16 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/14)
https://www.youtube.com/watch?v=4C-CLYI7rK4

          <感謝合掌 令和5年3月1日 頓首再拝>

不動明王の自由自在の働きこそ坐禅の姿~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/02 (Thu) 04:55:46

          *『維摩経』を現代に生かす 第9回 より

維摩はすばらしいですね。

例えば“国家を救おう!”という気持は、
それはある意味から言うと煩悩である。 

しかしそれは“私”の願いではない。 
それは“自分”が動いているのではない。 
宇宙に満ちているところの真理が動き出す。 

また一人一人の内に在るところの仏性が動き出す。

仏性が動き出して、そして “人類を救わずにおれない” 
“国家を救わずにおれない” という動きがそこに現われて来て、
自らそこに 生長の家学生会全国総連合 〈生学連〉 というのが
現われ、全国学生自治体連絡協議会というのが現われ、
そして今、全学連が暴れているようなこの険しい世界の中に
おいてですね、それらの暴れる有様を自ら静かなる真理を
導いていくというようにするのが、

これが維摩の説いているところの本当の 
「煩悩を断ぜずして煩悩自ら浄まる」 ということになるわけなんです。

 
それで、維摩は次のように言っている。 
テキストの 『維摩経解釋』 の108頁の終りから4行目です。

 『寂然のみなるが座禅ではない』

寂然 ・・・ 寂というのは静寂の寂です。 
茶道の極意の 「和敬静寂」 の寂。 
それで 「寂然のみなるが坐禅ではない」 というのは、
静寂に、すなわち寂としてこう坐っているだけが坐禅ではないのである、
と言われたのであります。

 『 ・・・ 坐禅というと静かに坐して、
  林の中か山の中に籠って実相を観じている。 
  それだけが坐禅かと思ったらそれだけではないのである。
  ・・・ 「或は縄をもって相手を縛し」 ・・・ 』 

とテキストには書かれていますが、 
このような不動明王の姿、働きも出てこなければならないと
言うのであります。

本当の坐禅のところからは、 
「或は縄をもって相手を縛し」 という不動明王の姿も
出てこなければならないが、 

「或は剣を出して相手に擬し、而も尚不動寂然なるが坐禅である」 
といった姿も出て来なければならない。

 ――  素晴しいじゃないですか、
今こそこういう坐禅が日本を救うために必要である
と思うわけなんであります。

「或は剣を出して相手に擬し、而も尚不動寂然なるが坐禅である」
 ・・・ 不動明王というから、名前が不動だから
ちっとも動けないかと思ったらそうじゃないのであって、

一方の手には剣をもち、一方には三ぞう半の縄をもって自由自在である。 

縛るべきものは縛り、殺すべきものは必ず殺し、
断ち切るべきものは断じて断ち切る。 
これが不動明王の自由自在の姿である。 

是が本当の坐禅の姿である、というのであります。


これを、ときどき間違う人がある。 
丁度、舎利弗が “ただ坐っておるのが坐禅か” と思っておったら、
そうしたら維摩に遣り込められたように、生長の家の信者の中にも、

「生長の家は一切大調和であるから、大調和であるなら、
 殴られても何もしないでお辞儀をしているのがそれが生長の家ではないか」

と、とり違える人がある。


生長の家が生政連 〈生長の家政治連合〉 という政治結社を拵えたのも、
宗教はただ道場で道を説いたり坐禅をしたりしているだけが宗教ではない
と考えるからであります。 

人間を救うためには、政治が動かなければならない。 
法律が一つ変わると、三百万人の胎児が毎年殺されて 〈堕胎されて〉 いる
のが、その中の3分の2位 〈2百万人位〉 は助かる。 

それが分っていながら、
「宗教は汚ない汚ない政治界に進出すべきものではないのである」 
と言ってじっと坐禅だけをしているようなのでは、
これは本当の宗教ではないのであります。

吾々の代表を議会に送って、優生保護法で 
「いつでも堕胎してもいいのである」 などというような
現行の法律を無くしてしまって、多くの幼い生命を助けてやろう! 
と動き出すのも、坐禅であるというわけであります。


 『 ・・・ 相手を自由に不動明王の縄をもって捕縛する。 
  斬るべきものは斬り、捨つべきものは捨てて、取るべきものは取る、
  相手に従って自由自在である。 

  これが本当の大調和である。 
  大調和といったら何でもお辞儀をして、
  無抵抗でいるのが大調和かと思ったら必ずしもそうではない。 

  大調和というのは、その時その場の主人公になることである。 ・・・ 』

禅宗の言葉に 「随所作主」 という言葉がありますね。 
大調和こそ 「随所作主」 即ち所に随って、どこへ往っても
自由自在に自分が主人公となるのであります。 

自分が主人公にならなければ駄目なのです。 
奴隷となってはいかん。 
環境の奴隷になったり、制度の奴隷になたり、
あるいは、正しいようだけれども、道徳の奴隷になってもいかん。

どんなものにも縛られないで、
自分の内から出てくる仏性 〈仏の本性〉 の動きのままに
自由自在に動き出すのが、これが本当の坐禅であり、大調和である。

環境に支配されたり、相手に打ち負かされたりして
お辞儀しているのが大調和ではないのである。 

相手の隙を見てその隙が分って、相手を叩き伏せることによって、
相手を正しく導くのが坐禅であるというわけなのであります。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ff1718590d85e33ffe14851a195d921d
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-07-19)

          <感謝合掌 令和5年3月1日 頓首再拝>

幸福への道 17 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/03/02 (Thu) 13:21:35

幸福への道 17 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/15)
https://www.youtube.com/watch?v=CzjKRQMQess

          <感謝合掌 令和5年3月2日 頓首再拝>

『 龍宮住吉本宮鎮座祭齋主祝詞 』『 龍宮住吉霊宮落慶鎮座大祭齋主祝詞 』 - 伝統

2023/03/03 (Fri) 04:53:41


龍宮住吉本宮鎮座祭齋主祝詞 ( 住吉大神の御使命 )

「 住吉大神を、かく實相世界の秩序に基いて顯齋し奉る所以は、

 大神の本来の國家鎮護皇國護持の御使命を完全に發動され給はんことを希ひ、

 日本國土より、すべての妖雲暗雲を悉く祓ひ清め、

 天照大御神の御稜威六合に照り徹りて、神武天皇建國の御理想は實現せられ、

 八紘は一宇となり、萬國の民悉くその御徳を中心に仰ぎ奉りて

 中心歸一、萬物調和、永久平和の世界を實現せんことを期し奉るがためなり。


 ・・・大神より親授されし神想観といふ幽齋を嚴修し來り、

 大神の御言のまにまに修行を積みたれども、尚われら現實の力のみにては及ばず、

 慈に彌々大神の御出御を仰ぎ奉るべき機熟したることを感得し、

 誠に畏れ多き事なれども、大神の現實界に現はれ給うふべき時を、

 今迎へたりと覺えぬ。


 あゝ住吉大神(すみのえのおおかみ)、住吉大神、住吉大神、

 愈々龍宮の本宮より出御ましまして、

 大神の稜威(みいつ)をあらはし給ひ、現し此の世の迷いの雲を祓ひ給ひ、

 宇宙を浄め給ひ日本國の聖なる實相を顯現せしめ給へ。


 ・・・今此處に龍宮住吉本宮より大神の御出御を伏して仰ぎ迎へ奉る・・・」


『 神の真義とその理解 住吉大神顕斎の意義 』 260~262頁




 龍宮住吉霊宮落慶鎮座大祭齋主祝詞


「 元乱れて影完(まった)からずと謂う、心霊界紊(みだ)れて、

 現象界はその影なりせば、

 現象界に顕われている世界の奥にある穏やかならざる

 「心の世界」即ち畏き伊邪那美大神の

 「心の炎」を鎮火し奉り、宇宙創造の清浄神聖荘厳なる御神徳を復元し、

 大神の尊き實相を顕わし揚げ奉りて、黄泉の国と総称する幽界霊界の

 指導教化の道を

 明るく平らかならしめ、現(うつ)しこの世の現象世界に顕われきたる

 諸々の悪しき業、因縁の源を

 浄化し奉りて、

 物質文明の秩序を整理し謹みて「古事記」の為さんとして為し終えざりし神業を

 この世において完全の相に整えしめ奉らんとして吾等今立ちぬ・・・」


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/43745ffaffc2158eaa00a25b6f2f667d
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-08-03)

          <感謝合掌 令和5年3月2日 頓首再拝>

幸福への道 18 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/03/03 (Fri) 13:35:13

幸福への道 18 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/16)
https://www.youtube.com/watch?v=ymoYW5InQh4

          <感謝合掌 令和5年3月3日 頓首再拝>

幸福への道 19 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/03/04 (Sat) 14:50:45

幸福への道 19 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/17)
https://www.youtube.com/watch?v=65kAG-iiSXU

          <感謝合掌 令和5年3月4日 頓首再拝>

「われ山頂より雲を招ぶ」~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/05 (Sun) 04:42:39


      *『生長の家』(昭和9年5月号)より  

『・・・・・ 今は実に人類の非常時であります。 
 凡ての宗教は真理の山巓を目蒐けて登る登山道であります。 
 登山道によってその展望は異る。 

 登山道の各々の展望が異るともいづれも不二の山巓に到る
 登山口であることに相違はない。 

 各宗教相争うな。 
 相争うは各登山道の風光相異を語るに過ぎないのである。

 ひとり 「生長の家」 は山頂より俯瞰して、一切の宗教を、
 そのままの真理に於て改宗を強いず 
 (改宗を強いることは登山道を改めしめることである) して、
 一望の下に包容するのであります。

 色々の宗教は形を祭るが、 「生長の家」 はただ真理を祭る。 

 色々の宗教は石材木材等にて神殿寺塔を建立するが、
 生長の家はただ真理の言葉の神殿を建立して、
 その神殿 (聖典) の中に真理の言葉を祭り込むのであります。

 形の神殿でありますと、仏教と神道と基督教とでは、
 その神殿教会堂塔伽藍の建て方がちがう。 

 その建て方を見て互に異教徒と呼び、排他的になるのでありますが、 
 「生長の家」 では形の神殿を超えて、不二の真理の山頂より
 俯瞰して一望の下に収め、あの堂塔もよい、この神社もよい、
 この教会もよいとして、それでいて今迄の宗教に活が入り
 入魂されるのであります。

 それは唯、山頂にいる者、不二の真理の山頂から俯瞰する 
 「生長の家」 にして能う処であります。 

 全世界にこの真理の聖典を満たせよ。 

 われ今不二の真理の山頂にいて雲を招ぶ。 
 雲来りて真理の言葉をのせて、全日本に、やがて全世界に、
 その真理を運ぶであろう』


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晴れときどき(2013 年 9 月 12 日)

          <感謝合掌 令和5年3月4日 頓首再拝>

幸福への道 20 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/03/05 (Sun) 18:48:12

幸福への道 20 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/18)
https://www.youtube.com/watch?v=vpKGjIYJXhw

          <感謝合掌 令和5年3月5日 頓首再拝>

弱いあなたは本当のあなたではありません~磯村 得彌 - 伝統

2023/03/06 (Mon) 04:50:55

 
人間は神の子であって、本来は完全円満無限力である、
と教えられています。 

完全円満無限力のままでありながら、
「現象は心の影」であるといわれている通り、
「私はこの程度のものだ」と信じている姿を現わしています。

すでに完全、すでに救われずみで、
そのうえ自分の心の相を現実に映しているのだと判ると、
こんなに愉快なことはありません。

「私はこのようになりたい」という意志の力よりも、
「私はこのようなものだ」という観念の力の方が、
はるかに大きいのですから、

「強い人間になりたい」と思っても、
「私は気が弱い」と信じている限り、強い人間にはなりがたいのです。

人間は神の子ですから、本質的には弱くなることができない
ものであることに、目覚めればよいのです。 

そして後は、再び勘違いしないように、
神想観をして、実相を観る習慣をつければよいのです。

 
谷口雅春先生は、御講話の中で、
しばしばガスの炎の話をして下さいました。 

即ち、ガスコンロのガスの炎が、
1分前の炎と同じ色、型状、カロリーで燃えていても、
1分前の炎は、既に炭酸ガスとなって、空中に飛散してしまっている。

今燃えている炎は、今この瞬間、ホースから出てきた新鮮なガスである、
という意味のお話でした。

あなたは、毎日新鮮な神の国から、
神の生命を頂いて生きていらっしゃるのです。 

意気地なしの弱いあなたなど、どこを探してみても、存在しないのです。 
ただ過去の記憶を後生大事に、心の中でつかんで、離さずにいるだけです。

それはちょうど、夢を見ているのと同じであります。

無いものを在ると信じているのですから、さかさまの想い、
即ち顛倒夢想であります。 

般若心経に 「遠離顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏」 というのは、
まさにこのことです。


私は毎朝、生長の家本部の祈りの塔の中で、
多数の方の神癒祈願をさせていただいています。 

神癒祈願というのは、神が言葉の力によってお造りになったままの、
完全円満な実相身を直視して、讃嘆礼拝することが中心になっています。

すべての人が、一度も病気になったことがない、
罪を犯したことがないのが実相であります。

私は祈りの塔から降りてくる時、しばしば、

 「ここにいる者は何者ぞ!」

 「神の生命の一部がここにいる」

 「磯村はどこにいるか?」

 「神のいのちの一部に父親が符号をつけただけだ。 
  従って、取り越し苦労をしたり、悩んだり、
  腹を立てたりする磯村なるものは、地上の何処を探してもいない。 
  神と一体となって、すべての人に愛念を送る主体が、
  ここにあるだけだ」

こんなことを、自問自答しながら階段を降りるのが常であります。

あなたも、気の弱い自分を修正したい、
などと考える必要は少しもないのです。 

私達は、自由が与えられています。 
過去の経験によって、「私は弱い女性、意気地なしの女性」と
暗示をかけているに過ぎないのです。


ときどき、「生長の家の教えは、よい暗示をかける教えですか?」
と問われる人がおりますが、私はその人に、 
「生長の家は、真実〈真理〉を教えて、悪夢から目覚めさせ、
神と一体となって、神の本質である愛の生活をすることを教えるのです。 

そこには一切の劣等感、罪、病、死もなくなってしまうのです。 
キリストが教えた 『汝、真理を知らざるべからず。 
真理は汝を自由ならしめん』 の言葉通り、
全く自由の境涯に導く教えです」 と、申し上げるのです。

人の性格は変わらない、という人がありますが、
真理を知ったら変わります。 
罪の子から神の子に、生まれ変わるからです。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/b17b44ffd8eefc79900ca0b0d0c5d90a
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-07-20)

          <感謝合掌 令和5年3月5日 頓首再拝>

幸福への道 21 生長の家 徳久克己 - 伝統

2023/03/06 (Mon) 14:50:05

幸福への道 21 生長の家 徳久克己
妙楽天国( 2018/06/19)
https://www.youtube.com/watch?v=W0ippemPCEw

          <感謝合掌 令和5年3月6日 頓首再拝>

自性円満完全無限力の自覚~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/07 (Tue) 04:55:51


       *『生命の實相』第 3 巻 P193 より

吾々の本来相といおうか、実在相といおうか、それは既に救われている。

既に健康である、既に幸福である

 ー 始めから救われているのですから、救われるも救われぬもない、
始めから円満完全自由自在な神の子であり、神そのものである。


だから吾々はその本来相をどうするとか、
どうせぬとかということは問題にならない。

吾々にとって問題となるのは、
その本来相が如何にして現象世界に映ってくるかということであります。

しかし、それも別に難しい問題ではない、

円満完全なる親なる神と自分が繋がっている、
無限生命なる神と自分が結ばれている、
無限知慧なる神と吾々自身が一体である、

無限力量の神と吾々自身が一体であるということを

自覚した程度に従って
現象世界の吾々に与えられる ー
即ち 顕れて来る生命と智慧と力量とが
いろいろ相違して来るのであります。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/62f43055050ce7ee49ddce62aa0f5165
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-08-03)

          <感謝合掌 令和5年3月6日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(1/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/07 (Tue) 14:43:02

生長の家「指導者のための生命の實相講義(1/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/02)
https://www.youtube.com/watch?v=NVbOJVOC28Q

          <感謝合掌 令和5年3月7日 頓首再拝>

主義や形を握ってはならない~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/08 (Wed) 04:58:43


        *『維摩経講義』 菩薩随意転身の巻 より   

『我心驕慢の者には、為めに大力士と現じ、
 諸々の貢高を消伏して、無上道に住せしむ』


菩薩は必ずしも柔和なだけではないのであります。 
「右の頬を打つ者あらば左の頬をもめぐらせて之を打たせよ」 と云う
無抵抗主義が効を奏することもありますけれども、必ずしもそうは行かない。 

戦争放棄、無抵抗主義が好いこともありますけれども、
それも時と場合、相手の人や国に応じて施策をめぐらせて行くのが 
『實相』 把握の菩薩の勝方便なのであります。

 
観普賢菩薩行法経には、 
「無量の勝方便は実相を観ずるより得らる」 
と示されているのでありまして、

実相を把握したときには、人・時・処に三相応して
自由自在の働きが出来て来るのであります。 

だから無抵抗ばかりが菩薩の勝れたる方便ではないのであります。 

時として、大力士の姿を現じて、
ガチンとその高慢の鼻をくじいてやる事も必要なのであります。 

これが  
『心きょう慢の者には、為に大力士と現じ、
 諸々の貢高を消伏して、無上道に住せしむ』  であります。 

無上道と云うのは此の上ないサトリの道であります。


嘗て、白色人種が有色人種を馬鹿にして、
東亜の諸国は殆ど悉くその植民地化か属領化していた頃、
日本が蹶起してガチンと白色人種の膨大な軍備の国に対して
一撃をくらわしたのであります。 

その為に日本は軍国主義者だと言われ、
戦場には附随し勝ちな暴虐事件などもあって、
日本は世界から色々の批難を受け、自国もまた一時占領されるなどの 

『剱をとるものは剱にて滅びる』 

の心の法則を実演するに到ったのであります。

併しながら、かくの如き 『菩薩日本』 の十字架によって、
東亜の有色人種はどうなったかと云いますと、 

「人類は皮膚の色彩によって、その天賦の本質に高下があるのではない。 
 みんな 『神の子』 又は 『仏子』 として平等の権をもっているのだ」 

という無上のサトリ(無上道)を得るに近づいて来、
東亜の民族独立の気運を醸成されたのであります。

東亜民族の殆どすべて独立して自主性を恢復しつつあるのは
日本のおかげなのであります。 

だから菩薩道は無抵抗主義では可かんし、また軍国主義ばかりでも可かん。 
なぐる時にはなぐらなければならないし、
お辞儀をする時には正直にお辞儀をしなければならない。 

そうかと言って、いつまでもお辞儀をつづけている必要もない。 

菩薩は自由自在に千変万化して衆生を救済するのであります。 

これを便乗だとかオポチュニズムだとか云って
攻撃するのは間違いなのであります。 

どんな 『善』 と見える行いにでも、
時と場所と人とをわきまえずに 

『この形が善だ』 と 『善』 の一定の 『形』 を捉えていては、
善が善ではなくなるのであります。 

それを 『善中の悪と云います』。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p11.html
晴れときどき(2013 年 9 月14 日)

          <感謝合掌 令和5年3月7日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(2/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/08 (Wed) 14:09:26

生長の家「指導者のための生命の實相講義(2/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/03)
https://www.youtube.com/watch?v=VCsTUa7_7FI

          <感謝合掌 令和5年3月8日 頓首再拝>

「帰命無量寿如来不可思議光」~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/09 (Thu) 03:59:23


         * 昭和59年2月16日 生長の家総本山 
           「第51回 龍宮住吉本宮団体参拝練成会」 御講話
           私が少年の時から称えていた言葉は? ― 『正信偈

仏典には 「一切衆生仏性あり」 と書かれています。 
これを漢字ばかりで書いたら 「一切衆生悉有仏性」 と
漢字を列べて書いてある。 

一切衆生 〈すべての衆生〉 は  ―  衆生とは多くの人間は、
悉く仏性あり 〈悉有仏性〉 と書かれている。 

仏性ありとは仏の本性があるということである。 

仏性が人間だ、人間を仏性と自覚せよ。 
自覚によってこの仏性が開いたら如来だ。 

如来とは真如という宇宙の本体から来り生れた真如の如という字と、
“来り生れる” の “来” という字を取って、それで人間は如来だ 
 ―  とこういうように名付けられているわけなんです。

皆さんは悉くみな如来なんですよ。 
何某如来なんです。 
東方阿しゅく如来、西方阿弥陀如来と肩並べて、
皆さんは阿弥陀如来と同列の同じ生命を有っていられるんだ。 

「帰命無量寿如来、南無不可思議光」 と云って 
『正信偈』 と浄土真宗のお経には書いてある。

「帰命無量寿如来」 の帰命とは、帰(き)は帰する、
命(みょう)は命(いのち)、
帰命無量寿如来の無量寿とは無限の分量の寿命だ。 

その真如から来生(らいしょう)したから、無量寿如来だ、
阿弥陀如来の生命と同じに帰一することです。 
吾々の命は、阿弥陀如来の生命と同じ生命なんだ。 

無量寿の自分の生命をその本元に帰一せしめる。 
これが帰命、帰は帰るという字です。

「帰命無量寿如来」 とは
自分の生命を無量寿の本源に帰一せしめることである。 

無量寿如来と云うのは阿弥陀如来のことを言う。 
無限の生命で死することが無いのである。 

吾々は皆、無量寿如来だ。 
堅固法身の無量寿如来だ。 

「帰命無量寿如来南無不可思議光法蔵菩薩因位時」 と云って、
私は少年の時から称えていた。


私は少年の時、大阪で育った。 
それで天満にある大きな真宗のお寺の本堂へ毎朝行って、
法要の時の裃を着て威儀を正して、あの 
「帰命無量寿如来南無不可思議光法蔵菩薩因位時」 とある、
あのお経を唱えたもんだ。 

私の義父は安藝門徒と云って、門徒というのは特に真宗の信者に限って
名づけられていた。 

そんな幼い時にはその意味も何もよく分らなかったが、
分らないでも功徳がある。 
それは “言葉の力” というものだ。

それで幼い時から 「帰命無量寿如来」 と毎日称えさせられていたので
今でも潜在意識に深く印象されている。 

帰命の命(みょう)という字は命(いのち)で、帰は帰する
  ―  元に返ることであります。 

自分の生命は仮にここに肉体として生れているけれども、
肉体から出たんじゃないんだ、神様 〈如来〉 の生命が
‘ここ’に生れて来たのである。 

その如来の生命がその生命の本性を自覚して
本来の如来さまに自分の生命を返し奉る  ―  これが帰命であります。

命(みょう)とは命(いのち)で、帰は帰する。 
帰一することで、「帰命無量寿如来不可思議光」 と云って、
僕は少年時代に大阪の天満で育って、そこの大きなお寺に行って、
いつもそのお経を唱えておった。 

意味は分らんけれども、しかし言葉の力で、
意味も分らないでも唱えておったら潜在意識で分る。 

生命の本質、潜在意識の奥底には神の生命が宿っているんだから、
現象の脳髄は生れてまだ幼いから分らんけれども、
ここに宿っているところの本性は、無量寿如来の生命であるんだから、
それを唱えたら分るんだ。

「帰命無量寿如来不可思議光」
  ―  “南無” と云うのは “帰命” と言うことの梵語です。 

つまり、不可思議な光の如来様に帰し奉る
  ―  ということであって、

私の命は如来から生れて来たから、それを自覚して、

「ここに来ている命は私の生命ではございません。 如来の命です。 
 今まで “俺の命” “儂の命” “私の命” と思っておったのは
 間違いでございます。 私の生命は無量寿如来様の命でございます」 

と唱える。 

無量寿とは無限の生命と書いてある。 
仏教では無量寿如来とも、阿弥陀如来とも言う。 

「南無阿弥陀仏」 と唱えると極楽浄土へ行くと云う、
あれは嘘ではないんですよ。 

死際に唱えるだけじゃいかん。 

「南無不可思議光」 と、この不可思議な如来の光に南無し奉る。 
南無とは帰命であって、「
ここに来ている命は如来様あなたの命でございます」 と毎日唱えるんです。 

それが所謂、「南無阿弥陀仏」 と云う梵語で唱えるんだ。

ここに生きている命は女の子宮から生れた肉体の塊りの命じゃないんだ。 
無量寿如来の命が‘ここ’に来ているんだ  ―  と自覚するんです。 

帰命の命(みょう)という字は命(いのち)であり、
帰(き)という字は帰(かえ)るという字。 
つまり 「元へ帰る」 帰一することです。 

この命を無量寿如来  ―  言い替えると阿弥陀如来  ―  に
返すと云うことです。 

返すと言っても持って行って返すんじゃない。 
自覚が新たになって、今まで肉体の命だと思っておったがそうじゃないんだ、

無量寿如来 〈無量とは量り知れない無限の生命(いのち)〉 の
如来様の生命、阿弥陀如来様の生命がここに生きているんだと、
それを自覚するんだ。 これが本当の信仰だ。

「神様、私は貧乏ですからちっと金持にして下さい」 なんて
ケチなことを言って頼むのは信仰じゃないんだ。 

ここに無量寿如来が生きていらっしゃるんだと、
自覚によってそれを拝むんだ。 

「帰命無量寿如来南無不可思議光 ・・・ 」 

肉眼ではその光は見えないから不可思議光だけれども、
あの光は霊光であって、十方世界を照らしている。 

それは如来様だけのことじゃない、吾々も皆さんも如来だ。 
如来というのは宇宙の本体を仏教では真如と云うのです。 

真は真理の真という字です。 
真理がここに姿を現わし、無量寿如来、真如 〈真如の真(まこと)、
如と言うのは、いっぱいに、普遍的に充ち満ちているものを“如”と
云うのです〉 

その真如から生れたから吾々は “如来”  ―  とこう云うわけなんです。

それだから吾々は如来である、
皆さんも如来である。 

如来が如来を拝むのである。 
こんな有難いことはない。 

皆さんは手を拍(たた)いて拝むと、私の云うことが分るんだ、
分るから有難くなって皆な一緒に手を拍くんだ。 

皆さんは如来である。 
この自覚をだ、それをねぇ、与えるのが本当の教育と云うものである。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/01d01b2d3f937500d483e0c096e95807
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-07-21)

          <感謝合掌 令和5年3月8日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(3/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/09 (Thu) 13:29:57

生長の家「指導者のための生命の實相講義(3/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/04)
https://www.youtube.com/watch?v=POATjNfxiOE

          <感謝合掌 令和5年3月9日 頓首再拝>

神の無限供給性を自覚する~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/10 (Fri) 04:52:59


        *『 生命の實相 』第 2 巻 P 193-194 より

マルクスは唯物史観を説きますが、「生長の家」は唯心史観であります。

近代の経済組織は節約しなければ万一の為に困ることが起る、という
人間の恐怖心が原動力となって築かれたと観るのであります。


この恐怖心がもとになって富が一部に蓄積され、
有無相通ずる流通が完全に行われないために、
貧富の懸隔が益々はげしくなり、
資本家が無資産家を脅かすようになったのであります。

だから、この不完全な経済組織を改造するには、
何も制度そのものに斧鉞(ふえつ)を加えるには及ばない。

人間の心からこの恐怖心をとり去り、財を吾々は蓄積しないでも、
吾々の生活になくてならぬものは必ず神が与え給う ー 
換言すれば無尽蔵の大生命から与えられる ー 

という大信念を人間に与えるようにすれば好いので、

こうすれば財が或る一箇所に偏寄って有るという畸形な状態はなくなって、
全体の人間に平等に富が循環するようになるというのであります。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fc7e59eb711bc118e14fb5483d23dc8e
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-08-05)

          <感謝合掌 令和5年3月9日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(4/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/10 (Fri) 13:57:52

生長の家「指導者のための生命の實相講義(4/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/05)
https://www.youtube.com/watch?v=I96p07thMw4

          <感謝合掌 令和5年3月10日 頓首再拝>

単に赦すだけでは足らぬ~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/11 (Sat) 04:56:55


        *『希望実現の鍵』より

「天地一切のものに和解する」という事は、ただ単に表面の心で、
自分は彼を赦しているというような浅い赦しようでは足りないのであります。

詳しくいえば、赦すなどという観念がすでに相手の悪を認めている
ことになっているのであって、それでは、すべての人間を
吾が子として愛し給う神の霊波に波長が合わないのである。

心の隅のどこかにでも、誰かが自分に悪意をもっているとか、
自分に害を与えるとかの考えを捨てることが出来ないでいる限りは、
神の創造に何かまだ不完全があると信じているということに
なっているのであるから、それはまだ神と完全に和解している
ということが出来ないでいるのである。

 
祈りがきかれる為には、神と和解しなければならない。 
神と和解するためには、この世の中に、
赦すべき必要があるような人間をいまだかって
神は造り給うたことがないという深い信念にまで
到達しなければならないのである。

もし「赦さねばならぬ人間」が自分の前に現れていて消えない
とするならば、それは、神がかくの如き人間を造ったのではなく、
自分がまだ神の造り給うたこの世界にそんな不完全な人間がある
という迷いを持ち続けている証拠であるから、

間違いは自分の方にあるのであって、
神の創造に間違いがあるのではないのである。

だから吾々は相手を赦すどころか、
自分を赦し給えと祈らなければならないのである。

「神よ、吾が信仰浅きを赦し給え」 と祈ったイエスの弟子のように。


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晴れときどき(2013 年 9 月15 日)

          <感謝合掌 令和5年3月10日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(5/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/11 (Sat) 14:45:31

生長の家「指導者のための生命の實相講義(5/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/06)
https://www.youtube.com/watch?v=N9686AuIVfQ

          <感謝合掌 令和5年3月11日 頓首再拝>

リューマチを治す~長谷川 三千代(祈願指導課) - 伝統

2023/03/12 (Sun) 05:01:28


先ず、貴女のご質問の 
「主人のことを考えずに自分の病気だけ治す方法を教えて下さい」 
にはお答え出来ません。 

何故ならばご主人に対する貴女のお心持が変わらない限り、
リューマチは消えないのです。

若し貴女の心が変われば、リューマチが消えるばかりでなく、
夫婦円満の姿が現われてまいります。

『生命の實相』 25巻〈※頭注版〉 34頁に
リューマチが即座に治った例として、
膝関節のリューマチでいろいろ治療しても治らず歩行困難で
、玄関から座敷まで這って来た大工さんが、

谷口雅春先生から 
「仲の悪い人と心の中で‘仲直り’をしなさい。 
 そうしたらリューマチは即座に治る」 

と教えられ神想観を実修をしたところ、
即座に治って勝手に立ち上がって歩き出したということです、 とあります。

 
又 『美と健康の創造』 17頁には
全身リューマチで全身が1枚の板のように硬くなり、
医者からもう全然治らない、
とうていこの患者は長く生きのびることはできないと言われた人が、

谷口雅春先生に手紙でこの難病はどうしたら治るかとお尋ねしたところ、 
「一切の物に、事に、人に‘感謝’して1日に1万遍 “ありがとうございます” 
と唱えなさい」 と教えられました。 

早速実行すると感謝の思いが湧き出るようになり、
しだいに指が動き、手が動き、やがて全身が動き出したのです、 
と書かれています。

 
ご主人への感謝こそ病が治る秘訣なのです。 
妻が20年もリューマチをしていても離婚もせず、
貴女を養い治病させて下さる夫は、本当は非常に愛深い方なのです。 

三世に渡ってお前と一緒になるというのは
心の奥底で貴女を愛しておられるのです。 

又仕事先から帰るといつも貴女を探す夫は、
貴女が家庭にいることを心から喜び安心をされるからなのです。

こんなに愛情の厚い夫に、貴女は心から感謝をなさるべきです。 
それを貴女は有難く受けないで不満ばかり言うので、
ご主人は言葉の上で荒々しくなってしまうのです。 

夫と‘調和’するためには、妻が “我” を捨て
夫の言われることに素直に従ってゆこうと
一大決意をなされば調和が出来るのです。


貴女は 『生命の實相』 を5巻読み、
『甘露の法雨』 も毎日誦げておられるようですが、

病気が治りたい気持で読むのは不満の心ですから、
神様と波長が合わず癒され難いのです。 

 
本当の信仰とは 

「人間の生命の実相は神の生命である」 

ということで、貴女の生命(いのち)は神の生命で、
貴女の内に神様が在すということです。 

自分の内の神様に感謝出来た時、
夫の内にいます神様にも感謝出来るようになります。 

『生命の實相』 34巻〈※頭注版〉 163頁には
自分の内に神がいられることを「ハッ」と悟って、
30年来のリューマチが消えた鮮かな体験が出ております。 

貴女は生長の家の教の焦点がわからないと言われますが、
人の、物の奥にある‘神の生命’を拝むということで、
焦点は、はっきりしております。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/1b07e8596c45701fc9ed8b79b4a0a7e9
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-07-23)

          <感謝合掌 令和5年3月11日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(6/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/12 (Sun) 13:48:41

生長の家「指導者のための生命の實相講義(6/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/07)
https://www.youtube.com/watch?v=jLH-yZZTS7k

          <感謝合掌 令和5年3月12日 頓首再拝>

神は内部からの癒(いや)す力である~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/13 (Mon) 04:32:26


       *『真理』信仰篇 より

如何(いか)なる病気の治癒(ちゆ)も、神の癒しから出てくる。

信仰によって病気が治るのは
「神われを救いたまう」と云(い)う信仰から
恐怖心が除(のぞ)かれるからである。


恐怖の念(ねん)が
内部からの「癒す」力の出口をふさいでいたのが
取り去られるからである。


「内部の癒す力」ー 即ち「生命の力」を神と呼ぶのである。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3e5335705ca08ff54e93a0c998ff3cde
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-08-10)

          <感謝合掌 令和5年3月12日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(7/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/13 (Mon) 14:43:53

生長の家「指導者のための生命の實相講義(7/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/08)
https://www.youtube.com/watch?v=Osbb-dkd37E

          <感謝合掌 令和5年3月13日 頓首再拝>

夫婦生活の不満から社会運動をする彼~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/14 (Tue) 04:59:47


        *『生長の家』(昭和45年11月号)より

 「われは汝の半身なり、われは汝と一体となることによって
  “永遠の今”において汝とともに“永遠に分ちがたき一つの生命”
  なることを知るのである。

  魂の半身がたがいに一体となるとき、
  そこに私たちは“永遠の愛”を感ずるのである。 

  “永遠の世界”における“美”を汝との結合において私は見、
  “永遠の世界”における“愛”を汝との結合において私は感ずるのである ・・・・・」 

                   (『真理の吟唱』“幸福なる結婚を招く祈り”)


 
ここには深い“夫婦一体の真理”が語られているのである。 
私たちは時間を絶した “永遠の世界”に於て本来一体であった魂が
現象世界に、男女として分化して出現し、

現象世界に於ては
諸事ことごとく無常にして永遠というものはないのであるが、
その現象的に男女として分化した両人(ふたり)が、
互に結婚によって本来の一体となるとき、

“永遠の世界”(実相世界)に於て本来一体であった
実相の映像が現象界に完成し、現象にいながら、
実相“永遠の生命(いのち)”を実感することができるのである。

 
これが 『真理の吟唱』 に録されているところの 
「魂の半身がたがいに一体となるとき、そこに私たちは
“永遠の生命”を感ずるのである。

“永遠の世界”における“美”を汝との結合において私は見、
“永遠の世界”における“愛”を汝との結合において私は愛を感ずるのである」 
ということである。

 
このように実相生命の現成としての夫婦が地上に出現するとき、 
「真の“美”の創造がはじまる」 のであり、

現象界にありながら“久遠實成の愛”を顕現するのであり、
「その“久遠の愛”が延長して人類に向うとき、
 そこに真に貴き人類愛がはじまるのである」

 
“人類愛”だとか、“世界平和”だとかいって噪がしく叫んだり、
運動したりしている人達が多くあるけれども、それが本当に、
“久遠実相の世界”から催して来つつある“真実の運動”であるためには、

自己の生命が 「久遠生命の祝福を受け、“永遠の生命”の地盤に立って」 
その地盤から逞しく萌え出でる運動となったものでなければならないのである。

家庭が紊れているような事では
“永遠の生命の地盤”の上に立っているのではないのである。 

家庭不調和のままで、社会運動や労働運動に熱心になっている人も
随分あるけれども、そのような人たちはその運動の動機が、
“永遠の生命”の地盤に立つというよりも、

何らかの夫婦生活の不満や、社会生活の不満の捌け口を、
その運動に求めている場合が多いのである。



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晴れときどき(2013 年 9 月18 日)

          <感謝合掌 令和5年3月13日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(8/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/14 (Tue) 17:36:39

生長の家「指導者のための生命の實相講義(8/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/09)
https://www.youtube.com/watch?v=fUV9Sm5VlnI

          <感謝合掌 令和5年3月14日 頓首再拝>

明治の日本人の愛國心が日本を護った~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/15 (Wed) 04:53:37


         *『光の泉』(放送人生読本  昭和37年5月号)より

日教組の或る学校の先生は、日本は侵略国であるなどと言って、
日本の学童に対して、日本国民自身が、日本国に対する尊敬の念、
信頼の念を失わしめて、自己劣等感を起こさしめるような教育を施している
という話を時々私は耳にするのであります。

満州国に日本が進出した事でも、あれは日本が満州を侵略したんだ、
とこういう風に説くのでありますけれども、
これは決して私は侵略したんじゃないと思う。


大体、ヴァスコ・ダ・ガマがアジア方面にやって来て、
アジアに天然資源の多い肥沃の土地を発見し、
あまり科学的文明の発達していない原住民を見出した。 

それ以来、白色人種は此処へ科学文明をもって、武器を持っておどし、
それを降伏さして、殖民し、アジアを分割して占領したら
非常に儲かると考えまして、アジアの各地を或は属領とし、
或は植民地としたのでありますが、

北方からは黒龍江を越えてロシアが南下して来て、
更にシベリアへ入って来、満州へ入って来て、
そして朝鮮へ入って来て、朝鮮を足場にして日本を窺う形勢になった。 

それを防ぐために戦ったのが 日露戦争 であります。

あの時代に、若し明治の日本人が、吾々の祖先の日本人が、
愛国心が若し無くて、誰が日本の国を治めたっていいんだ、
ロシア人が治めてくれたって、人民さえ幸福ならいいじゃないか、
と云う様な気持でロシアの南下に対して抵抗しなかったら、
今時分、日本はロシアの属国又は植民地になってしまっている。

そしてどうも今、アルジェリアがフランスから独立しようと思っても、
フランスの旧軍人たちが、いろいろと工作して圧迫しているように、
日本も今時分にソ連から独立しようと思ったって
中々独立出来ないようになっていると思うですよ。

大体植民地政策というものはその地の文化を低い程度におさえておいて
科学文明を発達させずに、原料、資源を植民地から安い値段で購入し、
それを加工して高値で植民地に売りつけて搾取するので、
いつまでも植民地の科学文明も工業も発達せず、
乏しい未開の状態におかれるのです。

ところがですね。 あの時代の日本の祖先がロシアに対して
敢然として愛国心を以て戦ってくれたお蔭で、
満州でロシアの南下を防ぎとめて、
日本がロシアの侵略していた満州を利権を得るという事になった。

併しそれは侵略したんじゃなくて、ロシアが侵略して来ておったその利権を、
日本がロシアに勝ったから、その正式な講和条約によってロシアが譲ったのです。

あれはポーツマス条約によって、当時の国際慣例に従って
敗戦国のロシアが日本に譲ったので、日本が横取りしたんじゃないのであります。

お蔭で日本はロシアの属国や植民地となることが防げた結果、
植民地政策による文化水準の抑圧を蒙ることなく、このように、
世界的水準の科学文明の発達する国となり得たので、

1回位長い歴史の中で敗れても、依然としてアジア第一の工業国として
アジア民族のホープとして彼らを指導し誘掖する位置を保つことが
出来ている訳です。

これ全く、明治時代の吾々日本人の祖先が生命(いのち)を棄てて、
愛国心をふるい起こして、ロシアの侵略を防いでくれた結果なのであります。

「愛国心は戦争につながる、愛国心はいらない」 などという
日教組の考え方は全く間違いだというほかはありません。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/8307d9ebc8aef570131f39e79a9ad722
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-07-24)

          <感謝合掌 令和5年3月14日 頓首再拝>

生長の家「指導者のための生命の實相講義(9/9)」徳久克己 - 伝統

2023/03/15 (Wed) 13:48:27

生長の家「指導者のための生命の實相講義(9/9)」徳久克己
妙楽天国( 2019/05/10)
https://www.youtube.com/watch?v=mpU8H7PXZFA&t=2s

          <感謝合掌 令和5年3月15日 頓首再拝>

真理そのものの顕現が日本国家である~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/15 (Wed) 23:36:24


        *黒布表紙版『生命の實相』神道篇

理念は物質ではないから
金剛不壊(こんごうふえ)であって打壊(うちくだ)くことは出来ない。


その如(ごと)く「豊葦原(とよあしはら)の水火(みずほ)の国は
世々(よよ)吾が子孫の君(きみ)たるべき地(くに)なり」と、


畏(かしこ)くも天照大御神(あまてらすおおみかみ)
(宇宙の中心神位にまします大神)が仰(おお)せ給(たま)うた
理念(かみのコトバ)によって成立(なりた)つのが
大日本国家であるから、

大日本国家は理念国家であって打壊くことが出来ないのである。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e28f004e583d48f2942468ff62ba9b61
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-08-11)

          <感謝合掌 令和5年3月15日 頓首再拝>

癲癇の心霊分析~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/17 (Fri) 04:52:46


         *『白鳩』( 昭和48年9月号 )より

癲癇とか、嗜眠性脳炎とか、日本脳炎とか、精神病とかいうのは、
祖先の霊魂の迷いの霊波が放送されて来て、
そこに引っかかっている状態であるから、

やはりこれは、祖先の霊魂をお祀りして聖経 『甘露の法雨』 を
霊前で読誦することによって消えるという実例が、随分沢山あるのである。

癲癇というのが概して迷っている霊が宿って来ている場合が多いので、
『甘露の法雨』 を読誦して治った実例が随分ある。

我々の肉体は霊魂の “宮” である。 

『甘露の法雨』 には蚕に対する “繭” のように書いて
説明されているのであるが、兎も角、我々の本体であるところの魂が
肉体という “宮” に入って来ているのが、何か熱病などで高熱を発すると、

その “宮” が焼けるように暑いという場合には、
霊魂がそこに居たら辛いものだから、肉体から脱出する。 

脱出すると言っても全く出ていってしまうのでは無いのであって 
“霊の糸” で繋がりながら霊界に避難する。 

だから肉体は生きて居るわけで、
霊の糸が切れて全然霊魂が脱出したら、肉体は死んでしまう。 
即ち縡切れるのである。

そういう時に、迷っている霊が、
本人の霊がお留守になった肉体に入って来ることがある。 

霊界には随分沢山の 『生まれかわりたい』 と思っている霊魂があって、
そのあたりにウヨウヨしている。 

そして、それらは肉眼には見えないが、どこかの肉体に入って
生まれかわりたいと思って浮浪していると、丁度そこに、
主人の居ない空屋の肉体がある。 

そこでそこへ入り込む。 
ところがしばらくすると本人の霊魂がまた帰って来る。 

二人同居ということになってその肉体は、
‘やどかり’の霊魂と本人の霊魂とが一緒に住まうということになるのである。

そういう場合に、二重人格みたいなのがでてくる。 
医者は精神分裂病などと名づける。

そのように精神分裂病式にハッキリ人格が二重にあらわれなくとも
‘やどかり’と一緒に生活して居ると、
‘やどかり’の方は自分の住宅でないものだから時々出て行くのである。 

彼が時々出てゆくと、その時に、
いままで本人の霊魂と“やどかり”の霊魂とが合して
両者の霊魂の合計とでもいうようなもの(電気なら電圧のようなものに当る)で
肉体が支えられていたのに、それが突然一方が出てゆくと霊圧が下がる。 

すると脳髄は意識を失ってそこへ倒れる、ということがおこってくる。 
これが癲癇の発作なのである。


そこで癲癇を治す為には、その “やどかりの霊魂” をして、
その肉体から去って再びもどって来ないように、
“本人の霊魂” がそこに完全に主権を回復するということが必要なのである。 

その為に 『甘露の法雨』 を読んで、本人の霊魂がその主権を執行する
自信力を深めさすと同時に、
‘やどかり’の方は、他人の主権を犯してはならないと自覚して
永久にそこを去ってゆくことによって、その癲癇が治るということになるのである。 

そこで 『甘露の法雨』 を癲癇患者自身がよんで自覚を深め、
或は家族がよんできかせたりしていると、
その発作がだんだん回数がふえてくることがある。 

というのは頻繁に‘やどかり’の霊魂が肉体を脱出するということで、
彼がその肉体内にじっと居るのが居づらくなってくるのだ。 

だから 『甘露の法雨』 を読んで癲癇の発作がだんだん殖えてくるようだったら、
それは癲癇が治りつつあるしるしであるから、
もっと熱心に 『甘露の法雨』 を読む。 

するとその脱出回数がいよいよ殖えて
最後には治ってしまうということがおこるのである。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p12.html
晴れときどき(2013 年 9 月21 日)

          <感謝合掌 令和5年3月16日 頓首再拝>

生命の実相講義 01a 徳久克己 SEICHO NO IE - 伝統

2023/03/17 (Fri) 13:51:28

生命の実相講義 01a 徳久克己 SEICHO NO IE
妙楽天国( 2018/01/28)
https://www.youtube.com/watch?v=H8qcj3nPjR4

          <感謝合掌 令和5年3月17日 頓首再拝>

心の焦点~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/18 (Sat) 05:00:24


         *『生活改善の鍵』 より

我々は外見に捉られると中味の立派さがわからないことが
随分あるものである。 

倉田百三が生きていた時、こんなことを話していたのをきいた事がある。 
彼がゴッホの油絵をもっていたが、最初これを、誰からか譲ってもらった時、
非常に立派な豪華な額縁の中に収められていたのであるが、
絵そのものはその豪華な額縁の金色燦然たる光にけおされて
充分そのよさが判らないのである。 

いつもその絵を眺める時、何か不調和なあるものを感ずるのである。 
もっとゴッホの絵は感じのいい筈であると思うのであるけれども
それがそのよさが充分感じられないのである。 

何故だろうと数日間不思議に思っていたが、
ある日それが絵と額縁との不調和から来るものだということに気がついたのである。 

余りにその額縁が絢爛すぎて、
目が額縁にとらわれて絵のよさがわからないのだと気がついたのである。 

そこでその額縁をやめて、今度は余り目立たない淡色の額縁に
はめ変えて書斎にかけることにしてみると、その単純な額縁の中に
中味がもり上がっていかにも生命溌剌と迫ってくるような感じに見えた
ということをいっていた。

これは何を意味するかというならば、
中味のよさは、外見にとらわれていたならば決して本当に
わかるものではないということを教える所の適例であると思うのである。

人の欠点を見るものは、額縁にのみ目をとめるものであって、
真にその人の中味である所の値打を見るものではないのである。 

我々は人間の額縁のみを見て、人そのものを見る目を失ってはならないのである。 

然も我々は自分の心に従って人の周囲に額縁をつけて見て、
自分の心の影だとしらずしてその額縁を批判してみようとするのである。 

ここにイエスが 「汝らさばく勿れ、汝らもさばかれん」 
といった真理があるのである。 

他が悪いとさばいている場合、実は自分自身をさばいているのである。

これに反して神の目は余りに純粋であるがために
決して人の悪を見給わないのである。 

「光」は「暗」を見ることができないと同じように
神は悪を見ることができないのである。 
神は罪を見ることができないのである。 

神は決して人間の額縁を見給わないのであって、
人間そのものを見給うのである。 

だから神の前には罪はないのである。 
神が罪の故に人間を罰し給うというが如きはあり得ないのである。 

神の前には罪がないのであるから、神は人を罰し給うのではなく、
光が暗を消すように罪を消し給うのである。

だから我々が神に向う時、過去の罪を恐れることはいらないのである。 
誰でも神に直々対面する権利があるのである。 
人間は神の子であるからである。 

神に対面する時、すべての過去の罪は消え、人間は新たに生れるのである。 
だから人間は毎日新生であり、毎日が新しき祝福の曙である。 

だから吾々は過去のことをくよくよ思ってはならないのである。 
太陽のさしのぼる前にはどんな昨夜来の暗黒も消え失せ再び存在しないのである。 

我々にとっては毎日が祝福であり、毎日が新生である。

一見神罰と見えるようなことは決して神から来るのではないのである。 
それは人自身の罪の観念から生じた所の自己処罰の相(すがた)に
すぎないのである。 

総ての罪と悪とは中味の絵そのものにあるのではなくして、
ただ額縁にあるのみなのである。 

我々はすべての額縁をはずしてしまって、
神の子なる人間そのものに対面しなければならないのである。

もし我々の前に不深切な人や自分のためにならない事をする人などが
現われたならば、それはその人そのものではなく、
その人の額縁であると思わなければならないのである。 

そして次の如く念ずるがいいのである。

『あなたは神の子である。 正真正銘の神の子である。 
 凡ゆる者の本源である所の神の子である。 
 善なる本源から善なる結果のみが現れるのである。 

 あなたは神の子であり、善であり深切であるのである』



https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/aee902cffd10b2c54a6f9c14e1fe3689
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-07-26)

          <感謝合掌 令和5年3月17日 頓首再拝>

生命の実相講義 01b 徳久克己 SEICHO NO IE - 伝統

2023/03/18 (Sat) 14:51:36

生命の実相講義 01b 徳久克己 SEICHO NO IE
妙楽天国( 2018/01/31)
https://www.youtube.com/watch?v=glbwGXC8hvk

          <感謝合掌 令和5年3月18日 頓首再拝>

朝は現在意識の出発、夜は潜在意識の出発~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/19 (Sun) 04:49:26


       *『真理』女性篇 より

前の晩に何か争い事や、心配事があって、明るい気持ちで眠れなかった時は、
次の朝起きても気持ちが悪いものです。

悪い心の波長は、それと類似のものを引寄(ひきよ)せるので、
周囲の人と調和しなかったり、仕事をしても失敗をするのです。


ですから眠りしなには必ず、
楽しいことを自己暗示して眠りに入(はい)ることに致しましょう。



https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4ce0766e29f7c85588943bb5a8157197
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-08-12)

          <感謝合掌 令和5年3月18日 頓首再拝>

「人生の目的」とは (生命の実相講義-12a 徳久克己) - 伝統

2023/03/19 (Sun) 13:23:41

「人生の目的」とは (生命の実相講義-12a 徳久克己)
四つの神性隠蔽、「本当の教育」の根本原理
妙楽天国( 2018/02/25)
https://www.youtube.com/watch?v=FYdWpDScZoM

          <感謝合掌 令和5年3月19日 頓首再拝>

光 《恩》 を見ない心が盲目を起す~谷口雅春先生 - 伝統

2023/03/20 (Mon) 04:53:47


       *『白鳩』(昭和48年9月号)より

目は“夫婦(めおと)”〈女男止/めおと〉をあらわす。

夫婦の位置は、互に自分と同じ高さに並んでいるのである。 
目の外側の“目尻”は観相用語では“魚尾(ぎょび)”と言って
魚のシッポみたいな皺の寄る個所があり、左は夫を、右は妻を表わす。 

或は女自身から判断すると左は自分自身、
右は妾とか他の女の人をあらわすのであるが、
ここは男女の貞操を表わす所で、
魚尾の美しい人は貞操が堅固であるということを表わしているのである。 

魚尾が汚い色沢や斑点がある人は、
貞操的にその人はあまり清らかでないことを表わす。


さて、目というものは、
夫婦を表わすこともあり、祖先を表わすこともある。

目の‘ひとみ’を“目の仏様”と言うこともある。
関西では「目の‘ほとけ’様に星がかかった」などとも言う。 

知らず識らず潜在意識がそういうことを言わせるのである。 

つまり仏様(祖先)が迷っているとき、
その霊波が憑って来て‘そこひ’などになるのである。

祖先の霊魂に対する供養が足りないという時に
‘そこひ’になることがある。

“底”はいのちの根底であり祖先である。 
その元が“干(ひ)”ておって枯れている。
それが“底干(そこひ)”である。

大体、目というものは“光を見る”器官である。 
祖先の御恩 ―― これは光です。
その光を見ない心、これが‘そこひ’になる原因です。 

そして、光を見る心をおこすと、視力が増進してくることになる。 
また家庭の内に、嫌いな人があって、あんな奴の顔を見たくないなどと思う。 
そうすると視力が衰えて来たりする。 やはり光を見ない心である。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p12.html
晴れときどき(2013 年 9 月22 日)

          <感謝合掌 令和5年3月19日 頓首再拝>

生命の実相に学ぶ #1 徳久克己 - 伝統

2023/03/21 (Tue) 04:52:47

生命の実相に学ぶ #1 徳久克己
shikkiten tokuraya(2020/11/27)
https://www.youtube.com/watch?v=WtDqAF0ryQs

          <感謝合掌 令和5年3月20日 頓首再拝>

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