伝統板・第二

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生命の教育 ⑩ - 伝統

2023/01/07 (Sat) 08:06:23


谷口雅春先生のお言葉(令和5年1月号「生命の教育」誌)

【わが子は神秘ないのちに生かされている】

この世界は神秘に満ちている

       *新編『生命の實相』第22巻(115~116頁)

神秘を知らない人間ほど始末におえないものはない。

そんな人間にとってはどこにも不思議と称すべきものはないのであって、
到(いた)る処(ところ)に満ちているのは、ただ「当り前」の
興味のないガラクタ現象ばかりである。

彼は何を見ても不思議がらない。何もかも神秘ではない。
だから何を見ても何のインスピレーションもないのである。

林檎(りんご)の落ちるのは当り前だし、湯気が鉄瓶(てつびん)の
蓋(ふた)をもち上げるのも当り前だし、植物が生長(せいちょう)
するのも当り前だし、人間が生きているのも当り前である。

何故(なぜ)生物は生長するのか、何故それは生きているのか、
何故血液は循環するのか、何故心臓は動くのか

――あなたがたは、かくして世界の到るところに満ちているところのこ
れらの事柄(ことがら)に驚異(きょうい)を感じたことはないであろうか。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年1月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「生命の教育 ①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6833626

(2)伝統板・第二「生命の教育 ②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7673404

(3)伝統板・第二「生命の教育 ③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7745476

(4)伝統板・第二「生命の教育 ④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812318

(5)伝統板・第二「生命の教育 ⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7865326

(6)伝統板・第二「生命の教育 ⑥」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7966921

(7)伝統板・第二「生命の教育 ⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8019877

(8)伝統板・第二「生命の教育 ⑧」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8203325

(9)伝統板・第二「生命の教育 ⑨」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8262390

            <感謝合掌 令和5年1月7日 頓首再拝>

神秘におどろく心 - 伝統

2023/01/08 (Sun) 07:19:06

谷口雅春先生のお言葉(令和5年1月号「生命の教育」誌)

【わが子は神秘ないのちに生かされている】

神秘におどろく心

       *新編『生命の實相』第22巻(117~118頁)

「あなたが生きているのは心臓が動いているからです。
心臓がとまれば死にます」などという医学の教(おしえ)で
この不可思議な生命を当り前の現象だとは思うな。

医学には心臓が動く事は判(わか)っていても心臓が何故(なぜ)
動くかは判らないのだ。生命がどこから来るかは判らないのだ。

まだまだ当り前だというには早いのだ。

好(よ)い加減(かげん)なところでビックリすることを止(や)めるな。

林檎(りんご)が落ちたのを見て、その不思議さに驚異したニュートンや、
湯気が鉄瓶(てつびん)の蓋(ふた)をうごかす力に驚異したジェームズ・ワットは、
科学界の大天才となったのである。

生老病死(しょうろうびょうし)の四苦(しく)を見てビックリした釈迦は
一大宗教的天才となったのである。

自分に肉親の父親がないことを知ってビックリしたイエスは、
天に父を発見してこれも宗教的天才となったのである。

自然や人間の美を見てビックリした多くの人々は、ラファエルとなり、
ミケランジェロとなり、ミレーとなり、ロダンとなり、シェイクスピアとなった。

            <感謝合掌 令和5年1月8日 頓首再拝>

子供に「神秘がる心」を教えよう - 伝統

2023/01/09 (Mon) 07:56:52

谷口雅春先生のお言葉(令和5年1月号「生命の教育」誌)

【わが子は神秘ないのちに生かされている】

子供に「神秘がる心」を教えよう

       *新編『生命の實相』第22巻(121~122頁)

幼時(ようじ)より子供の「神秘がる心」を押し消さないようにすることだ。
神秘なことを神秘として教えよ。

深く考えれば実に神秘であるところの現象を、当り前の茶飯事だとして、
見のがしてしまうような習慣をつけてはならぬ。

人間を心臓というモーターで動く機械だと教えてはならぬ。

草木(そうもく)を唯(ただ)の毛細管(もうさいかん)現象で
生長(せいちょう)する機械だと教えてはならぬ。神仏を偶像であると
教えてはならぬ。

あらゆる物にやどる生命の神秘を教えよ。
神秘に驚異(きょうい)し、生命を崇敬(すうけい)し、
その生命の神秘に一歩でも近づくことを名誉と思い、
生命を合掌(がっしょう)礼拝(らいはい)するように子供を教えよ。

嗚呼(ああ)!
生命の神秘を驚異し尊ぶ心 ―― 隣人愛も、生物愛護も、
敬虔(けいけん)なる宗教心も、画期的な科学的発明も、
偉大なる哲学も、妙(たえ)なる芸術も、
それから実業界の素晴しき成功さえも、
皆(みな)この生命の神秘を礼拝する心によって得られるのだ。

            <感謝合掌 令和5年1月9日 頓首再拝>

人間には「神の子」という本当のすがたがある - 伝統

2023/01/10 (Tue) 12:45:26

谷口雅春先生のお言葉(令和5年1月号「生命の教育」誌)

【わが子は神秘ないのちに生かされている】

人間には「神の子」という本当のすがたがある

       *新編『生命の實相』第47巻(56頁)

人間には仮(かり)の相(すがた)と本当の相(すがた)とがあるのです。
仮の相(すがた)というのは(中略)、

親が心で縛(しば)っているとそれに反抗するために、
或は操行(そうこう)がわるくなったり、成績が悪くなったりして、
周囲の心の反影として出て来る、これが仮の相(すがた)でありまして、

本来その子の操行がわるいのでも学業の成績が悪いのでもないのであります。

人間の本来の相(すがた)、本当の相(すがた)は神の子でありますから、
「本来この子は善い」と、子供の実相(じっそう)、その本当の相(すがた)
を見て、それを拝み出すようにしますと

 ―― 拝むといっても、強(あなが)ち掌(て)を合わさなくても
無論(むろん)好(よ)いのですけれども

 ―― 心で子供を拝む「うちの子供は本当に神の子であって立派な子である。
放っておいても大丈夫である。決して悪くなるようなことはないのである」と
子供を信じて心で拝むのであります。

            <感謝合掌 令和5年1月10日 頓首再拝>

神の生命を自覚するとき、それが現れる - 伝統

2023/01/12 (Thu) 07:50:58

谷口雅春先生のお言葉(令和5年1月号「生命の教育」誌)

【わが子は神秘ないのちに生かされている】

神の生命を自覚するとき、それが現れる

          *(新装新版『真理』第2巻42頁)

人を見るのにその外見をもってしてはならない。

人間の実相を見ると云(い)うのは、人間の肉体や衣服は
仮(か)りの相(すがた)であって、 「人そのもの」ではない
と云うことを知り、

その奥に宿っているところの「神の生命」 (仏教的に謂えば「仏性」)
を観(み)ると云うことなのである。

何人(なんぴと)も神の自己顕現として、
自己の内に「神」を蔵しているのである。
これこそが「真の人間」であるのである。

そしてその「内部の自己」が「神」であることを自覚し、
それを尊敬し、その如(ごと)く生きようと努力するとき、
自分の性格も環境も健康も改まりはじめるのである。

そして他の人の「内部の自己」が矢張(やは)り「神」であり、
完全であることを心で一心に観て、それを尊敬し合掌(がっしょう)
礼拝(らいはい)するようにするとき、その「他の人」が礼拝されるに
相応(ふさ)わしい立派な人間となって顕(あらわ)れてくる。

            <感謝合掌 令和5年1月12日 頓首再拝>

父母に立派な本を選んでもらいなさい - 伝統

2023/02/08 (Wed) 10:10:06


谷口雅春先生のお言葉(令和5年2月号「生命の教育」誌)

【立派な本を読めば立派な人になれるのです】

父母に立派な本を選んでもらいなさい

       *新装新版『生活読本』137~138頁

どんな本が立派な本かは、
お父さんや、お母さんや、先生が知っていられます。
よい本は出来るだけたくさん買ってもらいなさい。

本というものは、「心」が外の景色を見るための窓のようなものです。

私が中学生の時分には、中学に図書室(本をならべたへや)がありまして、
昼の休憩時間に一しょうけんめい読んだものです。
それが今でもたいへん私の役に立っているのであります。

「本のない部屋は窓のないようなものだ」といった人もあります。
よい本がならんでいるのを見るだけでも、
自分の心に楽しいよろこびをあたえるものです。

よい本をしっかり読まない人で、立派になった人はありません。
ほかの玩具(おもちゃ)や、遊び道具を買ってもらうよりも、
よい本をお父さま、お母さまに買ってもらって、
それをつねに読むように心がけなさい。


・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年2月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

特集 良い本との出会いが豊かな心をつくる

 子供の時にどのような本と出会ったかによって、
 その人の心や人格が磨かれるといいます。

 近年はスマホの普及などで活字離れが進んでいるといわれますが、
 幼少期、青少年期という物事への好奇心が旺盛に触れることは
 とても大切なことです。

 子供に手にとってほしい本が身近にあり、
 すぐ読めるような家庭環境をつくることも大切な子育ての一つです。

 わが子が良い本に触れ、
 心が生き生きとして喜べるようにしたいものですね。

           <感謝合掌 令和5年2月8日 頓首再拝>

本を可愛(かわい)がって読めば力がつく - 伝統

2023/02/09 (Thu) 05:09:52


谷口雅春先生のお言葉(令和5年2月号「生命の教育」誌)

【立派な本を読めば立派な人になれるのです】

本を可愛(かわい)がって読めば力がつく

      *(新装新版『生活読本』140~141頁)

勉強室は、すきな本をたくさんならべておいて、気がむいたとき、
自然に、自分でよろこんで読むことにする方が、力がつくのであります。

いやいや人から「読め」といわれて、気がすすまぬのに読んだのでは、
心の窓がしまっていて、本に書いてあることが充分頭へはいらぬのであります。

本を可愛がって、その本をひらくことが、楽しい気持ちになって
「わたしの可愛い本よ」といって可愛がってから本を読めば、
本に書いてあることが、一層よく心の中にはいって来るのであります。

           <感謝合掌 令和5年2月9日 頓首再拝>

本を読むにもコツがあります - 伝統

2023/02/10 (Fri) 06:55:09


谷口雅春先生のお言葉(令和5年2月号「生命の教育」誌)

【立派な本を読めば立派な人になれるのです】

本を読むにもコツがあります

        *(新装新版『生活読本』143~144頁)

魚をとるには魚をとる方法があります。
小さな魚を、目のあらい網でとろうと思っても、
とれるものではありません。

それと同じように本を読むには、本を読む方法があります。
読みかたが大切なのであります。

いたずらに本をたくさん読んだからといって、
えらいわけではありません。

世の中に出て、立派な人になれるか、なれないかということも、
その大部分は、どのようにその人が本を読んで、
自分を養ったかによって、きまるのであります。

網やザルで水をすくうようにしたからとて、
何一つ自分のものになるわけではありません。

トンネルの中を走る汽車のように、
盲(めくら)めっぽう早く本の中を走り抜けたからとて、
何一つ心の中に残らないようでは、なんにもならないでしょう。

(中略)

これと同じような調子で、心が「うわの空」になって本を
読んでいるのでは、それは人間の生命(いのち)と時間との
無駄使いをやっているにすぎないのであります。

本を読んでも、その著者は誰か、中味には何が書いてあったか、
何をおしえるためにその本は書かれていたか

―――こんなことさえ気がつかないで
本を読んだ気持ちになっている人も随分ありますが、
それは実におろかな本の読みかたです。

         <感謝合掌 令和5年2月10日 頓首再拝>

立派な人の伝記をお読みなさい - 伝統

2023/02/11 (Sat) 07:40:39


谷口雅春先生のお言葉(令和5年2月号「生命の教育」誌)

【立派な本を読めば立派な人になれるのです】

立派な人の伝記をお読みなさい

        *(新装新版『生活読本』145~146頁)

本にかいてあることは、
ただお料理の材料みたいなものであります。

その材料をどのように組みあわせて美味しい料理にし、
それを自分の心の滋養物にするかどうかは、
本を読む人自身にあるのであります。

材料のよいところは捨ててしまって、
《くず》のところばかりを集めて料理を拵(こしら)えても
おいしい事はありません。


本を読んでも、《くず》のところばかりを
「面白い、面白い」といって読んで、《ため》になるところを
捨ててしまっては読まぬほうがましな位です。

面白いばかりを目的に書いた本よりも、昔から立派な人になったり、
世の中のために尽くした人々の伝記をお読みになることは、
たいへんためになります。

文章はコトバの力で、書いてあることと同じように、
読む人をならせる力をもっているのです。

つまらぬ本を読んでいますと、詰まらぬ人になりますし、
聖人の伝記を読んでいますと、聖人になりますし、
英雄の伝記を読んでいますと英雄になるものです。

         <感謝合掌 令和5年2月11日 頓首再拝>

善い本は同じ本でもたびたび読みなさい - 伝統

2023/02/12 (Sun) 07:50:44


谷口雅春先生のお言葉(令和5年2月号「生命の教育」誌)

【立派な本を読めば立派な人になれるのです】

善い本は同じ本でもたびたび読みなさい

        *(新装新版『生活読本』146~147頁)

数をたくさん読むよりも、すこしの立派な本を
よく味わいながら読むことは、その人の精神を立派なものにします。

むやみに大食(たいしょく)するよりも、
適当な養分を適量にいただくほうが健康によいようなものであります。

よい書物は一遍(いっぺん)や二遍(にへん)へん読んだだけで
捨ててしまわないで、十回でも二十回でも、繰返し読むことです。

本の表紙は大切にして上包(うわづつ)みでもして、
一遍読み終るごとに取りかえて、新しい気持を出すのがよろしい。

本の中味は、読んで感心したところに赤い線を一度引いておき、
その次にまた感心したところには青い線を引いておくなどもたいへんよろしい。

本にすじを引くのを遠慮することはいりません。
読んだときの感想などを本の余白に書いて置くことはあとで
たいへん参考になり、大人になってからも、自分の少年少女時代
にこんなところを、こう考えながら読んだのだな

――― と思い出すのも楽しいものです。

         <感謝合掌 令和5年2月12日 頓首再拝>

《子供は無意識の中で教育される》 - 伝統

2023/02/20 (Mon) 04:50:25

           *「光明法語」(2月20日)より

無意識の心的影響は、親が子供に対して教育する場合には特に著しくあらわれる。

母親が姑に対して物言うまいと決心したりしていると、
時として物言わぬ白雉の子供が出来たりすることがある。

親が人々に対して好悪の感を著しく抱いていると、
子供が食物に対して好き嫌いをするようになったりする。

親がうちの子は間違いないと信じていると間違いない子供になる。
うちの子供は虚弱であると信じていると、実際虚弱になってしまう。

しかし信ずると云うことは捨てて置くことではない。
信じて好(よ)き機会を与えることである。

            <感謝合掌 令和5年2月20日 頓首再拝>

高声、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならない - 伝統

2023/02/25 (Sat) 05:05:43


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月25日)」より

たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。
そうでなければ極端に反抗的に乱暴である。
 
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、
その人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものである
ということを幼い時から子供に知らすことが肝要である。

子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、
腹立ち声を出すことはなんの益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。

その性質は生長後も時として一生涯つきまとい。
その人の運命の重荷となることがあるものである。
親が子を害していると知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
 
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して
本能的に恐怖の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。

もし子供をよくしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、
普通の話以上の高声を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。

もし相手に訓示を与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、
それは反抗となってせっかく話したことが反対の結果になることがある。
 
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。
高音を出して恐れさせれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。

貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、
物を教えるときに使う荒立った高声(こうせい)である。  

           <感謝合掌 令和5年2月25日 頓首再拝>

子供の〝愛〟が溢(あふ)れ出(で)ようとする「今」を生かす - 伝統

2023/03/04 (Sat) 07:31:51


谷口雅春先生のお言葉(令和5年3月号「生命の教育」誌)

【お手伝いは子供の天賦の才能を伸ばす】

子供の〝愛〟が溢(あふ)れ出(で)ようとする「今」を生かす

       *新編『生命の實相』第44巻24~28頁)

子供が、女の子供なんかだとよく台所の仕事等(など)
手伝いたくて仕方のないような時代があって、怪我(けが)でも
しそうな危(あぶな)っかしい手附(てつき)で《ままごと》
みたいなことをしたがって仕様(しよう)のない時がある。

こういう時は子供の生命が出よう出ようとしている時である。

その出ようとしている生命を出るよう出るように導いてくれる
母親があれば、そういう母親に育てられる子供はどんなにか
幸福だろうかと思います。

(中略)

「今」生命が溢(あふ)れ出して「こうしよう、 こうしよう」
「こうしたい、こうしたい」と、樹木の新芽(しんめ)のように
まさに内部から溢れ出ようとしている時に児童の生命を生かすという
ふうにしたならば、人間の内部に流れている能力が充分に発達するのです。

この何となく母親の台所仕事の手伝いなんかしたいという時には、
単に能力が発現しているだけではなしに、愛の心が動いている、
自分からして、母親を喜ばして上げたい、という
愛の心が起っているのだけれども、

親の方(ほう)では実用一点(てん)張(ば)りで、そんな
愛を受けたって時間がかかるばかりである、邪魔(じゃま)になって
却(かえ)って仕事が運ばないと、愛の心を功利的価値で計算して、
実用一点張り、経済向き一点張りで片附けてしまおうとする。

こうなると、折角(せっかく)愛の心で「親達の手助けをして上げたい」
という生命の働きが動き出そうとしている時に、その生命を
押込(おしこ)めてしまうという事になる。

そして、青年期になってからその子供に「ちょっと私の手伝いをしておくれ」
といっても、もうその子供は手伝いをする喜びを、その最初の
芽生(めばえ)に於(おい)て摘(つ)まれてしまっているのです。

折角(せっかく)「出よう、出よう」 「手伝いしたい、手伝いしたい」と
生命が芽吹(めぶ)いている時に

「邪魔になる。うるさい!あっちへ行っておれ。 」
こうやられたものだから、今度実際に手伝って欲しい時、
大分(だいぶ)子供も成長して能力が出来たとき手伝って欲しいと思っても、

「何だ、母さんったら利己主義だわ」ということになって手伝わない
不深切(ふしんせつ)な子供が出来る、子供の心は、親の心の影だった
のであります。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年3月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

特集 お手伝いは素晴らしい!

 子供が小さい時には、お母さんの手伝いをやりたがって
 仕方のない時があります。

 そうかと思うと、子供が成長するにしたがって、
 家の手伝いをしてほしい時に一向にやってくれない時も
 あります

 ――そんな経験はどのお母さんもおもちではないでしょうか。

 お手伝いは、子供の愛や才能を引き出したり、
 家族とのきずなを深めたりするなど、
 その子の成長にとても大切な意義をもっています。

 その素晴らしさを学びながら、子供の成長時期に合わせて
 どのように親が向き合ったらよいかについて取り上げます。

           <感謝合掌 令和5年3月4日 頓首再拝>

子供を褒(ほ)めながら才能を伸ばす - 伝統

2023/03/05 (Sun) 08:35:59


谷口雅春先生のお言葉(令和5年3月号「生命の教育」誌)

【お手伝いは子供の天賦の才能を伸ばす】

子供を褒(ほ)めながら才能を伸ばす

       *新編『生命の實相』第22巻86~87頁)

子供をその天賦(てんぷ)の才能の方向に伸ばす為(ため)には
彼に手に負(お)うた仕事を与えねばならない。

子供に仕事をさせてはいけないというのは謬見(びゅうけん)である。

適当な分量の仕事は
子供の生命の生長に欠(か)くべからざるものなのだ。

仕事は子供の生命の生長に欠くべからざるものなのだ。
仕事は生命を建設的に使用する方法を教える。

そして子供の生命のうちに建設的な傾向と創意的な傾向とを育てあげる。

建設的傾向 ―― これは才能の発達の土台石(どだいいし)となるものだ。
この傾向が強ければ強いほどその人間は生長する。

幼時(ようじ)に培(つちか)われた傾向は
生長してから養成した傾向よりも力強く根を張るのだ

だから、幼時より生命を何か建設的な方向に
鍛(きた)えることが必要である。

それには大(だい)なり小(しょう)なり仕事を与えなければならぬ。

特に小児自身の好む建設的な仕事を与えるのは好(よ)い。
しかし、好きな仕事でもあまり長時間又(また)はあまり多量に
与えてはならない。

分量が多すぎると、どんな仕事でも
しまいには面白(おも)しろくなくなる

―― そして仕事というものは退屈なものだという先入観念を
抱(いだ)かせるようになる。

善い言葉で暗示を与え、子供を充分信頼してやり、
仕事の種類と時間とを子供の好きにまかしてやるならば
子供は、滅多(めった)に仕事の選択に失敗するものではない。

子供を信ずること、及(およ)び善い言葉で

「あなたは善い子だからこれが上手(じょう)ずだ」

というふうに導くことを忘れてはならない。

           <感謝合掌 令和5年3月5日 頓首再拝>

「愛は感謝を受ける」という喜びの実感 - 伝統

2023/03/06 (Mon) 07:36:13


谷口雅春先生のお言葉(令和5年3月号「生命の教育」誌)

【お手伝いは子供の天賦の才能を伸ばす】

「愛は感謝を受ける」という喜びの実感

       *新編『生命の實相』第22巻88~90頁

子供の手助けを真に喜んで感謝してやるようにすれば、
子供は「愛は感謝を受ける」という事実を体験する。

喜ばれることがどんなに嬉(うれ)しいかということを体験する。

これは人間の正しい生長に必要なことである。

(中略)

親の利益を標準とする時、
子供の不完全な仕事は親をイライラさせるものである。

子供は仕事をしたために喜ばれるよりも
呶鳴(どな)り付けられるようなことがある。

それはやがて仕事に対する興味を失わすことにもなり、
子供自身は愛の心で手助けしたことが感謝で報(むく)いられない
ことにもなり、情操教育の点から甚(はなは)だ面白(おもしろ)くない
結果を来たすのである。

その上、親の手伝いを主眼とするとき、必ずしも、子供を天賦(てんぷ)
の才能の方向に生命を習練さすことにならないかも知れないのである。

だから、最初に子供の天賦の才能を、その子の器用さによって
看破(かんぱ)し、巧(たく)みに導いて子供自身の選択によるような形にして、
その器用さを発揮するような仕事を与えるのが最も好(よ)いのである。

子供は自分の選んだ仕事だから喜んでする。
しかし、それが天賦の才能ある方面の仕事であるから、
すればする程(ほど)上達する。

喜んでする仕事だからエネルギーが浪費されない。

それを親が賞(ほ)めてやる。感謝してやる。
こうすれば子供の天才を発揮する上からも、愛の人格を養成する上から
いっても実に好(よ)いのだ。

           <感謝合掌 令和5年3月6日 頓首再拝>

生命の教育七つの心得 - 伝統

2023/03/11 (Sat) 07:44:44

生命の教育七つの心得
公益財団法人新教育者連盟(2022/05/21 )
https://www.youtube.com/watch?v=YgqyNRHwwgQ

1.子供に宿る善性を信じ これを引出し伸ばし育てます。

2.どの子の個性も尊重し この世に生まれた使命を生かします。

3.よい習慣をしつづけて 正しいしつけといたします。

4.問題の子供は心の病気 実は優秀児の仮の姿と見方を一転します。

5.親が変われば子が変わる 何よりもまず明るい家庭を作ります

6.いつもニコニコ優しい言葉 認めてほめてたたえます。

7.花咲くことを疑わず信じて気長に育てます。

           <感謝合掌 令和5年3月11日 頓首再拝>

わが子には無限の潜在能力がある - 伝統

2023/04/04 (Tue) 08:33:22

谷口雅春先生のお言葉(令和5年4月号「生命の教育」誌)

【ほめるほど子供は無限の力を発揮する】

わが子には無限の潜在能力がある

       *新編『生命の實相』第22巻159~160頁)

人間の内には実に無限の潜在能力が埋蔵せられているのである。
深く穿(うが)つに従ってどれだけでも豊かにその潜在能力を
掘り出すことが出来るのである。

穿(うが)つとは自覚するということである。
自覚しさえすれば埋蔵せる宝は常に掌中(しょうちゅう)の
ものとなるのである。

だから表面にある能力だけを自分の全部だと子供に思わすな。
表面にある「自分」は「真(しん)の自分」の唯(ただ)の
「小出(こだ)し」にしか過ぎないことを知らせよ。

「小出し」は使うのに便利かもしれないが、
この「小出し」を自分の全部だと思ってしまったならば
大(おお)いなる発達は望めないのである。

常に子供に教えて小成(しょうせい)に安(やす)んずるなといえ。
小成は自分の「小出し」過ぎないこと、
今ある彼の能力はすべて「小出し」にに過ぎないこと、

つねに「小出し」に満足せず、本源、即ち無限の潜在能力 (神) より
汲むように努力すること ―― 常にかくの如き真理を子供に
解る言葉で教えるように心(こころ)懸(が)ければ、

現在の自分に満足する子供の傲慢心(ごうまんしん)は
打砕(うちくだ)かれ、驕傲(きょうごう)は消滅せしめられ、
永遠に能力の伸びる精神的基礎は築かれるのである。

自分の内部の生命が無限の大生命に連(つらな)っており、
そこに自分の本当の宝が在(あ)るのだということが判(わか)るとき、
いま僅(わず)かに掘り出した能力の「小出し」位(くらい)に
傲慢になっていることは出来なくならざるを得ないのである。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年4月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

特集 ほめ言葉で子供は伸びる

人間の内には無限の能力がすでに備わっているというのが、
「生命の教育」の根本です。

その無限の能力は、言葉によって引き出されます。
これを「言葉の力」といいます。

わが子がどんな姿であっても、
その奥には尊い素晴らしい神様のいのちが生きており、
無限の可能性を秘めているのです。

それを引き出すのは、子供の神性を認めてほめる「言葉の力」です。

毎日1回以上は子供の美点を見いだして、
言葉でほめるようにしましょう。

           <感謝合掌 令和5年4月4日 頓首再拝>

「本当の自分」を実現することを人生の理想に - 伝統

2023/04/06 (Thu) 08:12:11


谷口雅春先生のお言葉(令和5年4月号「生命の教育」誌)

【ほめるほど子供は無限の力を発揮する】

「本当の自分」を実現することを人生の理想に

       *新編『生命の實相』第22巻161~162頁)

幼(おさな)き子供に対しては、

「人間は神の子だ。子の顔が親の顔に似(に)ているように、
 汝(なんじ)の能力と性質とは神の姿に肖(に)せて
 つくられているのだ。

 神はこの世界の万物をつくられたのであって、
 人間は神の子として、神の無限に大きな能力の”あとつぎ”
 に造られているのだ、

 だから神の子は神の子らしく生きねばならぬ。
 神から譲(ゆず)られている無限に大きな能力を発現しようと
 思わないものは、親から折角(せっかく)頂いた宝の庫(くら)
 を開かないで棄(す)ててしまうものだ」

こういう意味の話を時々言葉を変えて子供に話して聞かせること
にして、人間の本性(ほんせい)の尊いこと、その潜在能力の
無限であることを子供の心に吹き込むようにすれば好(よ)い
のである。

すると、子供は次第に「本当の自分」が如何(いか)に
崇高(けだか)く霊妙(れいみょう)なものであるかを知りはじめる。

そして、その「本当の自分」を実現することが彼の生涯(しょうがい)
の理想となり、従来の小さな虚栄(きょえい)や、小成(しょうせい)
に安(やす)んずる慢心(まんしん)や、狡(ずる)い利己心は消滅して、

本当に彼は謙虚(けんきょ)な心持(こころもち)で
生長の本道(ほんどう)を辿(たど)り得(う)ることになるであろう。

         <感謝合掌 令和5年4月6日 頓首再拝>

言葉の種子(たね)は必ず芽を出し実を結ぶ - 伝統

2023/04/07 (Fri) 07:45:02


谷口雅春先生のお言葉(令和5年4月号「生命の教育」誌)

【ほめるほど子供は無限の力を発揮する】

言葉の種子(たね)は必ず芽を出し実を結ぶ

       *新編『生命の實相』第22巻167~168頁)

言葉は種子(たね)を蒔(ま)く。
それは必ず芽を出して実(み)を結ぶのである。

家庭から(中略)罵(ののし)りの声が絶えない限りは、
かかる家庭で育てられた子供が生長して造り上げた社会が
善くならないのは当然の事である。

種子(たね)は、遥(はる)かの幼時(ようじ)に蒔かれている。

詳しくいえば幼児以前の
胎教(たいきょう)に於(おい)ても蒔かれている。

胎教以前にその魂(たましい)の前生(ぜんしょう)の経験や、
祖先の遺伝の種子(たね)もあるのである。

因果(いんが)はめぐる、

だから吾々(われわれ)はこれらの悪い種子(たね)の力を
奪(うば)ってしまうために反対の種類の反対の種類の種子(たね)を
蒔かなければならないのである。

それは賞讃(しょうさん)の種子(たね)である。
讃嘆(さんたん)の種子(たね)である。

如何(いか)に子供の現在の状態が
賞(ほ)めるに値(あたい)しなくとも、

「今に善くなる!」

「きっと偉い人物になる!」

こういうふうな漸進(ぜんしん)的進歩の暗示(ことば)を与えるに
相応(ふさ)わしくないことはないのである。

そしてその暗示(あんじ)の力で、漸進(ぜんしん)的に
その子供を良化(りょうか)して行(ゆ)くことは吾々(われわれ)
の為(な)し得(う)る、否(いな)為さねばならない義務であるのだ。

         <感謝合掌 令和5年4月7日 頓首再拝>

「神性(しんせい」を認めれば悪は消えてなくなる - 伝統

2023/04/08 (Sat) 07:26:37


谷口雅春先生のお言葉(令和5年4月号「生命の教育」誌)

【ほめるほど子供は無限の力を発揮する】

「神性(しんせい」を認めれば悪は消えてなくなる

       *新編『生命の實相』第22巻170~171頁)

諸君の子供にそして諸君の教え子に宿っているところの
「神性(しんせい」 (神からの大遺伝) を認めることから始めよ。

そして光が暗(やみ)を逐(お)い出すように、
吾々(われわれ)が ありあり と彼に宿っている「神性」を
ば認めさえすれば、その「認める力」の輝きによって、

如何(いか)なる悪癖(あくへき)も悪遺伝も数年のうちに
根絶することは又(また)難(かた)くはないのである。

         <感謝合掌 令和5年4月8日 頓首再拝>

わが子の美点と長所をほめましょう - 伝統

2023/04/10 (Mon) 07:29:59


谷口雅春先生のお言葉(令和5年4月号「生命の教育」誌)

【ほめるほど子供は無限の力を発揮する】

わが子の美点と長所をほめましょう

       *新編『生命の實相』第22巻174~175頁)

常に子供を鞭撻(べんたつ)して、彼の善さを力説せよ。
彼の美点を強調せよ、
自分自身の有(も)つ長所を自覚せしめよ。

ここに子供を教養する極意(ごくい)があるのである。

美点を強調し、弱点を忘却(ぼうきゃく)せしめ、
失意に枉屈(おうくつ)する時間を
希望に躍進(やくしん)する時間に変化せしめよ。

彼もし希望に輝き、美点にのみ躍進を続けるならば、
弱点に執着(しゅうじゃく)し、弱点を考え、
失敗を悲しんでいる暇(ひま)はないのである。

心を弱点に置かないとき、行いに弱点を繰返(くりかえ)す
暇(ひま)がないとき、その弱点を再び繰返す傾向は
うすれて来るのである。

ここに彼の美点のみが発揮され、長所のみが生長する。

最初は彼に接する両親や教養係がそれを賞(ほ)める

―― やがては人類全体が、彼の長所を賞揚(しょうよう)し、
美点を讃嘆(さんたん)し、その貢献に拝謝(はいしゃ)する
時が来るであろう。

     <感謝合掌 令和5年4月10日 頓首再拝>

親が間違った心を起こしていると…… - 伝統

2023/05/02 (Tue) 08:10:58


谷口雅春先生のお言葉(令和5年5月号「生命の教育」誌)

【親の心で子供はどれだけでも善くなる】

親が間違った心を起こしていると……

      *(新編『生命の實相』第47巻17~18頁)
        『生命の實相』第30巻児童教育篇(P12~13)

多くの子供たちは、親がまちがった心の波を起こし、
まちがった言葉の波を起こしているために非常に損なわれているのであります。

多くの人たちは、子供を愛するあまりに悪(あ)しきことばかりを見つけて、
「お前はここがわるいのだ」ということを始終(しじゅう)言うのであります。

そう言われるとその子供は萎縮(いしゅく)してしまいます。

そういう子供は、たとい勉強は辛(かろ)うじてよくできたにしましても、
大いに伸びるということはできないのであります。

「勉強しろ、勉強しろ」と言わなければ勉強しないから、やむをえず
「お前はそんなことではできないから勉強せよ」と言うのだという人が
あるかもしれませんけれども、

「勉強せよ、勉強せよ」と口癖(くちぐせ)のように言うと、
いくら勉強してもかえって心に憶(おぼ)えないのであります。

これはまたおかしい現象でありますが、原理は簡単です。

「勉強せよ、勉強せよ」と言うような親は、
子供に対してどういう心の態度をとっているかといいますと、

「お前はできがわるいのだよ」という考えを懐(いだ)いているのであります。

できるに定(き)まっておれば、 「勉強せよ」とは申しません。

「できがわるい」と信じているから、
「勉強しろ、勉強しろ」とこう言うのであります。



「うちの子供はできが悪い」と、言葉に出さなくとも、
心に念(おも)うだけでも一つの波を起こすことであります。

親または教育者が、心の中で、
「この子供はできがわるい」という精神波動を起こしまして、
その子供をそういう心で見つめているかぎりは、
その子供は決して学習がよくできるものではありません。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年5月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

     <感謝合掌 令和5年5月2日 頓首再拝>

子供を信じるほめ言葉が子供を善くする - 伝統

2023/05/04 (Thu) 09:38:06


谷口雅春先生のお言葉(令和5年5月号「生命の教育」誌)


【親の心で子供はどれだけでも善くなる】

子供を信じるほめ言葉が子供を善くする

       *(新編『生命の實相』第22巻20~23頁)

親の心が子に映るのが実際の事実としたならば、親達はもう少し考え
直さねばならないだろうと思うのであります。

子を教育する前に先(ま)ず親が自(みずか)らを
教育しなければならないと考えざるを得ないのであります。

子の成績が悪いというのも、親、或(あるい)は学校の先生が
悪くしている場合が多いのであります。

千葉県の白里(しろさと)村(むら)に小倉久之丞さんという
小学校の先生があります。

(中略)

或日(あるひ)、他の教室の授業時間を参観しておられましたら
その組(くみ)の受持(うけもち)の女の先生が一人の子供を
つかまえて大変怒(おこ)っておられたのです。

「お前位(くらい)出来の悪い子はない。
 実にお前はなまけものだ。先生の教えを少しも注意してきかない」

といってひどく叱(しか)られていたのでありました。

やがてその時間がすんでから、徐(おもむ)ろに小倉久之丞先生が
その子に近付いて

「あなたは好(よ)い子だねえ」

と静かにお褒(ほ)めになったそうであります。

「あなたはよく勉強するね、きっとよく出来る子になるよ!」

と柔(やさ)しい、しかし、子供の善さを固く信ずるような語調で、
簡単にほめられたのでありましたが、
それ以後その子の性質が一変して、
大変よく出来るようになったのであります。

その事実を見て、職員会議の時にその女の先生が起(た)ち
上(あが)って告白されたそうであります。

「私のこれ迄(まで)の子供の教え方は間違っていました」

といって皆の前で懺悔(ざんげ)されたということでありました。

単にそれだけの優しい、信じてくれる賞(ほ)め言葉が、
子供を善くするのであります。

「お前はほんとによい子だよ」という、それだけの言葉にすら
子供を生かす力があるのであります。

(中略)

ちょっとした言葉で子供が良くもなり、悪くもなる、
通信簿に書いてある子供の成績は、実は親の成績表であり
先生の成績表だといって好(よ)い位(くらい)であります。

     <感謝合掌 令和5年5月4日 頓首再拝>

子供をよく育てるには、まず親の心をよくすること - 伝統

2023/05/05 (Fri) 09:47:14


谷口雅春先生のお言葉(令和5年5月号「生命の教育」誌)

【親の心で子供はどれだけでも善くなる】

子供をよく育てるには、まず親の心をよくすること

     *新編『生命の實相』第47巻105~106頁

子供をよく育てるには親がよくならなければならない
ということは、千古不磨(せんこふま)の真理であります。

子供は親の延長なのですから、親がよくならないでいて、
子供にばかり口(くち)小言(こごと)をいって、
その小言(こごと)によってよくしようと思っても、
却(かえ)ってあまり口小言をいわれると反抗心が起る
ばかりであります。

言葉で小言をいわないで形で示す、《生活で示す》という事に
致しましたならば、人間は模倣性の強いものでありますから、
自然と真似(まね)するようになって良き生活を送るように
なってくるのであります。

しかし、本当に子供を善くしたいと思う親は生活の形を
よくする以上に、親自身の心をよくするように心掛けねばなりません。


     <感謝合掌 令和5年5月5日 頓首再拝>

愛撫して抱きし締めながら学校の模様を聞いてやること - 伝統

2023/05/07 (Sun) 05:06:05


      *「光明道中記」(5月7日《人の特長を拝む日》より)

【他を自分の型に嵌めようと思う者は躓く。(『生命の實相』第十一巻)】

親の精神状態にそれほどの葛藤(いらいら)も争いも憎みもないのに
子供が不従順な場合は学校に原因があることがある。
学校と連絡し、学校の先生と親しく和解しなければならない。

学校で教師にいじめられたり、仲間にいじめられたりする子供は
家に帰って親に対して不従順になり勝ちである。

子供の生活のうち、最も伸びねばならぬ学校生活の半日が
 ―― 否(いな)、その子供にとっては半日ならぬ殆ど全日に
感じられる期間、彼はいじめられたり、不快な眼に逢って来たので、

それに対する反抗を表現したいが、
それを学校では表現することが出来ないから、
その反抗を家庭で表現しているのである。

それに対して、家庭の親が暴君的に圧迫を加えるならば
子供は内心の犯行を表出する捌け場所を失って、病気になるか、
不快な事を見まいと云う精神力の反映から近視になるか、

それを聞くまいとして中耳炎を起すか、
頑固に鼻の奥にブツクサ言っていて
素直に通さないところの蓄膿症を起すか、

親が子供の成績の良くなることを希望しているのに、
逆に成績を良くしないことが親に反する切(せ)めてもの反抗である
と云うようなことになることがある。

愛撫して抱きし締めながら学校の模様を聞いてやること。

     <感謝合掌 令和5年5月7日 頓首再拝>

子供に正直の美徳を教え込もうと思うならば、親がその美徳を示す - 伝統

2023/05/08 (Mon) 07:50:49


      *「光明道中記」(5月8日《愛して放つ日》より)

【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」とも言える。
                   『生命の實相』第十一巻)】

子供を無理にあやまらせるものではない。
もう今後一切そんなことはしませんと誓わしてもならない。

大人自身あやまることの不快と、
一度禁煙を誓っても幾度でも煙草(たばこ)が
廃(や)められない大人が沢山あることを考えれば
「誓う」と云うことが何にもならないと云うことが判るであろう。

一度誓ってそれを犯したら、それは「自分は誓を破(やぶ)った罪人だ」
と云う自覚の念にいつも付きまとわれた人間になり、自信力を失うか、
毒を喰(くら)わば皿まで式に、
「どうせ汚(けが)れた身体(からだ)だからもっとやろう」と
云うようになるかする。

また、守れるかどうか判らないことを誓わせるのは
嘘つきを奨励しているのと同じことになる。

あやまるのを好まぬ子供にあやませると、
今度は嘘をついてあやまる不快を免れるようとする。

子供に正直の美徳を教え込もうと思うならば
親自身が子供の前で嘘をついてはならぬ。
子供の前で居留守を遣う親は沢山ある。
子供にだけ嘘をついてはならぬと言って自分が嘘を言う親は
二重に嘘をついているのである。

人間は本当のことを言いたいのが本性(ほんしょう)だから、
本当を言っても叱られないとなれば却って本当のことを言う。

     <感謝合掌 令和5年5月8日 頓首再拝>

真の愛と言葉にて子供を癒やす - 伝統

2023/05/09 (Tue) 07:55:59


   *「光明道中記」(5月9日《何事にもイライラせぬ日》より)

【他(ひと)を審判(さば)く者は、
 天に於いてまた自分も審判(さば)かれる。(『生命の實相』第三巻)】


子供が不従順な場合は健康を害しているか、疲労しているために
何に対しても焦々(いらいら)してヒステリックになっている場合もある。

頭から叱り付けでも、子供の精神障害を一層大きくするばかりで、
百害あって一利なしである。

それどころか子供を叱っていると、
親自身が焦々(いらいら)して来るから子供の心に
親のイライラを反映させて決して教育効果などのありようはないのである。

教育はイライラや叱責や気持の悪さで行なわれるものではない。
教育は「善」の権威を示すことによって行なわれるのである。

善の権威とは
暴風の如く狂暴に暴(あば)れ狂う殺伐(さつばつ)さではない。
善の魅力、愛の魅力である。

獄中にいて検察官を手古摺(てこず)らせた左翼の闘士でさえも、
親の愛の前には転向せざるを得なかったと云う。

教育は鞭(むち)ではない。
愛である。

その愛も、盲愛であったり熱愛であったりしてはならない。
智慧をもって急所急所を抑えて行かなければならない。

病気だとしていたわりすぎると、
病気を口実にして不従順や嬾惰(らんだ)の習慣が附くのである。
病気だと云う言葉を家庭の中で使ってはならない。

静かに抱(だ)くか愛撫するかして
「あなたは好い子なのです。屹度親の言うことを聴いてくれます」
と断定的に言いなさい。

愛は癒す。
言葉の力は癒すのである。

        <感謝合掌 令和5年5月9日 頓首再拝>

愛により、子供の心の悩みの表出に動機を与えてやることが必要である。 - 伝統

2023/05/10 (Wed) 06:48:30


   *「光明道中記」(5月10日《三界唯心を悟る日》より)

【全ては自分の心の影であるから目のとどく限り神示とも言える。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

子供は学用品を紛失して、
親からひどく叱られるのを恐れて隠していることがある。

何でも子供は《もの》を隠しているときには、
強情に陰気に塞ぎ込み勝ちのものである。

「父さん母さんは決して叱らないから、
 隠していることを心に持っていて、自分ひとりで苦しまないで、
 母さんにそれを打明けて一緒に苦しいことは二人で分けましょうね」

こう言って愛撫して、愛を表現しながら、
子供の心の悩みの表出に動機を与えてやることが必要である。

幼いときから持ちつづけた感情の悩みが大人(おとな)になってからの
神経的疾患として発病することもある。

子供の怠惰、朝寝、不勉強は権力者に対する無言の抵抗であることがある。

大人でも権力によって拘束せられる場合には、無言の怠惰 ――
飢餓罷業(ハンガー・ストライキ)や怠業(サボタージュ)を
行なうことは誰でも知っている。

ガンジーのような高潔な人格者でも、
ハンガー・ストライキやサボタージュはやるのである。

子供の怠惰も必ずしも人格の低下の標識(しるし)ではない。

それは却って子供の自尊心の強さから、
自尊心を傷つけられたことに対する反抗の顕れであることもあるし、
先生や、親や、友達が認めてくれない絶望からの自暴自棄である
こともある。

        <感謝合掌 令和5年5月10日 頓首再拝>

親の心や態度は直(ただち)に子供に反映する - 伝統

2023/05/11 (Thu) 13:53:47


   *「光明道中記」(5月11日《魂の浄(きよ)まる日》より)

【病気は悪くなる行程ではない。浄化の行程である。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

子供が病気らしく見える場合や、疲労していると見える場合に、
親自身が驚いたり、周章狼狽した態(さま)を見せては可(い)けない。

親の心や態度は直(ただち)に子供に反映するものである。
それは生みの子だけに反映するのではなく、
養子にでも養女にでも反映する。

子供が病気や疲労を現したら、親自身の心がイライラしていないか、
誰かと争いの心持を有(も)っていないか、心配事はないか ―― と、
よく親自身が自分の心を反省して自身の心を落着け争いを解くことである。

12歳以下の子供の病気や疲労は
親自身の心の葛藤(いらいら)が反映しているのが
90%以上であろうし、

16歳以下の子供の病気や疲労の50%位までは
親自身の心の葛藤(いらいら)の反映であると言っても好い。

17歳以上になると子供も大体人格の独立を得るから
親の精神状態に影響されることは段々少なくなると言い得る。

併し、どんな人でも自他一体 ―― 
一つの生命の波の中に浸って生きているのであるから
他の人の精神波動の影響を受けないと云うことはあり得ない。

夫婦は大人(おとな)であるが互いにその精神波動を感応して
互いの身に病気や事業の失敗を起させる。

況(いわん)や親子の間は大人になっても互に影響し合うものである。

        <感謝合掌 令和5年5月11日 頓首再拝>

子供は本来神の子である - 伝統

2023/05/12 (Fri) 09:33:28

谷口雅春先生のお言葉(令和5年5月号「生命の教育」誌)

【親の心で子供はどれだけでも善くなる】

子供は本来神の子である

     *新編『生命の實相』第47巻58頁

人間には仮(かり)の相(すがた)と本当の相(すがた)
とがあるのです。

(中略)、

親が心で縛(しば)っているとそれに反抗するために、
或(あるい)は操行(そうこう)がわるくなったり、
成績が悪くなったりして、周囲の心の反影(はんえい)として出て来る、

これが仮の相(すがた)でありまして、
本来その子の操行がわるいのでも学業の成績が悪いのでもないのであります。

人間の本来の相(すがた)、本当の相(すがた)は神の子でありますから、
「本来この子は善い」と、子供の実相(じっそう)、その本当の相(すがた)
を見て、それを拝み出すようにしますと

―― 拝むといっても、強(あなが)ち掌(て)を合わさなくても
無論好(よ)いのですけれども

―― 心で子供を拝む ――

「うちの子供は本当に神の子であって立派な子である。
 放っておいても大丈夫である。
 決して悪くなるようなことはないのである」

と子供を信じて心で拝むのであります。

        <感謝合掌 令和5年5月12日 頓首再拝>

エディポス錯綜(コンプレックス) - 伝統

2023/05/13 (Sat) 07:49:07


       *「光明道中記」(5月13日)より
         ~《善一元を悟る日》

【すべて行為を善き動機から来るものとして言葉で賞(ほ)めよ。
                (『生命の實相』第十一巻)】

父と云うものは厳父であると同時に慈父でなければならない。
父を憎んでいる子供は、児童教育にたずさわって見ると
かなり多数だと云うことが発見される。

父と子との争闘は精神分析の方では
ギリシャのソフォクレスの戯曲「エディポス王」の名を
藉(か)りてエディポス錯綜(コンプレックス)と命名した。

子供と云うものは本能的に母の乳房を吸った記憶から
母を「自分のもの」として見ようと云う傾向のあるものである。

母との一体感はその記憶の上にも明らかであるけれども、
「父」より自分が出たところの記憶はない。

「父」と「自分」とが一体であることが自覚されているならば、
「父」が「母」の上に権力を揮(ふる)っても、

それは「自分」と同体であるところの
「父」(自分の延長)が「母」の上に権力を揮うのだと
云うことが判るから、子供自身はそんなに憤激を感じないけれども、
そうでない場合はそんな子供は父を憎むようになり勝である。

父母が子供の前であまりに仲が悪い時には
その子供は結婚忌避症になり勝である。
子供の家庭の紊(みだ)れは此処に芽生える。

精神分析に就いての詳しい説明は拙著『人間性の解剖』及び
『精神分析の話』を読んで戴きたい。

         <感謝合掌 令和5年5月13日 頓首再拝>

子供の盗み癖は、愛を与えれば消える - 伝統

2023/05/18 (Thu) 05:06:50


       *「光明道中記」(5月16日)より
         ~《父を憶(おも)う日》

【贅沢を羨むな。今日一日生かされてある事実に感謝せよ。
               (『生命の實相』第十一巻)】

子供が親の物を盗むのは「盗み」と云うことが分からないで
自他一体の気持ちでする場合と、
親を愛している証拠でする場合がある。

後者は《親のもの》即ち
 ―― 「親」《そのもの》を自分に抱いていたいのである。

それは必要に迫られて、欲しいと言っても得られない場合に
止むを得ずする場合もあるし、親を憎んで親に対する反抗心で
親の大切なものを盗む場合もあるが、

反抗心も結局は愛の裏返しになったのある。

その子供は親を愛しているのだと知って、
その子供を憎まないことが肝要である。

「金」は大抵親が儲けてくるものであるから、
子供にとっては「金」は父親の象徴(しるし)として
存在するのである。

その「金」を隠れて浪費する子供は、父親を浪費したい
 ―― そんな父親はなくなれば好いと思っているのである。

そんな子供は大抵あまりに厳格な父親の下に育っているので、
父親と云う束縛者がなければ好いと思っているのである。

兄弟がある場合に、兄弟のものを盗むのは、
兄弟の一方が自分より愛されていると想像される場合、
その「愛」の象徴を盗みとろうとするのであって、
それは本当の盗みではない。

愛されたいと云うに過ぎない。
愛を与えれば、そんな盗みは消えて了うのである。

       <感謝合掌 令和5年5月18日 頓首再拝>

自分も他の人も、それぞれ優れた天分美質がありことを知らせる - 伝統

2023/05/19 (Fri) 05:03:20


       *「光明道中記」(5月16日《欲を捨てる日》)より

【人間の悩みのもとは皆欲から来るのである。
 欲は迷から来るのである。 (『生命の實相』第十一巻)】

あまりに幼児の美貌を賞めたり、
常にクラスの首席であると云うことを誇りにさせてはならない。

自分の顔に自信のないのも不幸であるが、容貌を鼻にかけている女性が、
次第にその容貌が衰えて来たのを見て、失望と落胆とで
狂気(きちがい)になった実例をフロイドは挙げている。

また小学、中学とずっと引続いて級中首席を占めて来た子供が
高等学校の入学試験に失敗して、突然の失望落胆から精神病になった
実例は吾々屡々(しばしば)見聞する処である。

クラスの第一番と云うことは
他を見下すための虚栄心の満足でしかないのである。

人間は容貌でも成績でも、自分だけが偉くて
他の人はみんな駄目なのだと云うような教え方を
してはならないのである。

「人間・神の子」の信条は、他の人も神の子であり、容貌での能力でも、
何等かの点に於て、他の人にも優れた天分美質があり、
人間の天分は別々であり、自分にも他に劣らぬ美質があることを知らせて、
成績の悪い者にも必ず善い処があることを知らせて置かねばならぬ。

容貌の美も年齢に応じて夫々(それぞれ)の美があること、
若さだけが美でないことを教育すべきである。

       <感謝合掌 令和5年5月19日 頓首再拝>

肉体の自己玩弄に繋がる環境を避ける - 伝統

2023/05/20 (Sat) 04:57:28


        *「光明道中記」(5月20日《自由自在の日》)より

【義務と思えば重く、愛して行えば歓びが得られる。
                    (『生命の實相』第四巻)】

幼児より爪を咬む習慣のある児童は、あまりに家庭で束縛され、
心が内面にばかり陰気に向いている証拠で、
自涜(じとく<肉体の自己玩弄>)の一種である。

心が明るく愉快に外面的に伸びて行く場合には
肉体の自己玩弄(がんろう)は起らないのである。

明るく愉快に、心が自己玩弄に向う時間がない程に
肉体運動を奨励するが好い。
疲れて眠くなるまで無理に眠らせないが好い。

肉体の自己玩弄を看付けた場合には、
余り激しく「罪悪」として叱り附けてはならない。

余り激しく叱り附けられると恐怖心の結果、
「恐いものをやって見たい」の欲望で、
隠れて肉体を自己玩弄するようになり易い。

男女とも13歳位になったら素地(きじ)の粗(あら)っぽい布の
猿又(さるまた)を着用して眠らせるが好い。

あまりに柔らかい布の下着は接触の快感を連想せしめて、
肉体の自己玩弄に導いて行くことがある。
また蒲団は軽く硬いものが好い。

男子は柔剣道、駆歩(かけあし)などを盛んにやって
妄想の余裕を与えぬこと。

少年に対しては、恋愛小説、放送番組のラブ・シーン、
レビューのダンス、卑猥なる週刊雑誌を避けねばならぬ。
これを見せれば梅干を見れば唾液が湧く程度に性欲を興奮せしめる。

高潔なる思想家、英雄豪傑の伝記などを読み、
性欲を想像せしめる読物を廃するが好い。

         <感謝合掌 令和5年5月20日 頓首再拝>

児童は大人に信頼され、大人に頼まれることを喜ぶものである - 伝統

2023/05/26 (Fri) 10:46:04


        *「光明道中記」(5月26日《真行の日》)より

【ここに生きている生命は神の生命そのものである。
 大生命の生命(いのち)そのままである。
 み仏の生命がここに生きているのである。(『生命の實相』第二十巻)】


ある村の神社の境内を村の子供が荒らし廻って困ったことがあった。

しては悪いと言ってそれを叱り続ければ見ていない頃を見計らって
益々乱暴を働くのである。

こんな場合どうしたら好いか。

答は簡単である。

「しては悪い」と言うことは相手を咎めたことであり、
相手を「悪い」と言ったことになるから
「悪い」と批判された相手は益々憤慨して
此方(こちら)の好まない事を反抗的にしたくなるのが当然である。

相手を心で観れば相手は益々反抗する。

児童が大人にとって「悪い」と見えることをするのは、
児童の本性が悪いためではない。

児童の立場からは興味があるからしているのだが、

児童は周囲への影響が
どう云う風になるかと考える程には観察力が広くないから、
それが偶々(たまたま)大人にとって都合の悪いことになるに過ぎない。

児童は悪いのではなく大人にとって都合が悪いだけである。

それならば児童の行動を別の方向へ転ぜしめたらそれだけで好いのである。

児童は大人に信頼され、大人に頼まれることを喜ぶものである。

命令せずに「これを君してくれないか」と言って
他にして欲しいことを頼むが好い。

         <感謝合掌 令和5年5月26日 頓首再拝>

生徒の美点を賞(ほ)め且つ働かせる - 伝統

2023/05/29 (Mon) 10:09:28


        *「光明道中記」(5月29日《力みを捨てる日》)より

【「私が・・・私が」と力む事は、
 本当の自他一体の深切行になっていないのであります。
                      (『生命の實相』第二十巻)】

腕力ある乱暴な生来(うまれつき)の子供が学校などで乱暴するときには、
先生がそれを頭から圧迫的に抑え附けようとすると
益々反抗的に乱暴になるばかりである。

それに対して停学とか放校処分とかに附すれば、
権威を呪い、社会を呪って
子供の一生涯を無駄にして了うこともあり勝ちである。

そう云う性質をあながち「悪」と考えてしまうのは
学校の先生が寧(むし)ろ低能なのである。

そう云う学校の先生は先生としての天分がないのであるから、
宜(よろ)しく放校処分に附して、もっと適業に転ずる機会を与うべきである。

そう云う子供は大抵腕力による人を統率する天分を持っているものである。
謂わば幡随院長兵衛とか清水次郎長などのように豪胆と腕っぷしとで
人を統率する力があり、恩義に感じやすく、憎悪に反抗し易いのである。

だからそう云う生徒の美点を賞(ほ)め且つ働かせることにして、
校庭の掃除とか、遊戯のキャプテンとかにならせて、
その豪胆と、腕力とによる統率力を利用して
その力によって学校が浄(きよ)まり整理が行き届いて行くように
取計(とりはか)らうのが一番好い。

         <感謝合掌 令和5年5月29日 頓首再拝>

反抗心があって命令を実行しない子供には、信頼して頼むような語調が功を奏する - 伝統

2023/05/30 (Tue) 13:12:34


        *「光明道中記」(5月30日《和顔愛語の日》)

【人間は学科ばかりの点取虫になって了(しま)ったのでは
 値打がないのであります。  (『生命の實相』第二十巻)】


直ぐ吩咐(いいつけ)を実行しない子供は、
その吩咐けられた言葉の内容が呑み込めないか、
吩咐けた人に対する反抗があるか、怠け癖で面倒臭いか何か
子供自身にとって手の離せない興味ある仕事があるかしているのである。

それを悉く、
不従順だとか我儘(わがまま)だとか云う名で呼ぶのは間違である。

吩咐不明瞭なために実行しないのを、
不従順だと誤解しないようにするためには、
「一寸此処へいらっしゃい」と柔(やさ)しく招(よ)んで、
ハッキリと吩咐を伝えるようにすることが必要である。

不従順ではなく吩咐を実行する気はあるが、
何時(いつ)までに実行したら好いかの意思表示がないために、
直ぐ立上ろうとしない子供がある。

そんな子供には「何分間でやんなさい」とか
「何時までに往って帰んなさい」とか明瞭に、
その完成の時刻を指定する必要がある。

反抗心があって命令を実行しない子供に、
強情だとか不従順だとか責め立てて見ても一層強情になるだけの事である。

何故なら彼は親や先生を手古摺(てこず)らすのが目的であるから、
親や先生が手古摺っていると判ると益々強情になるからである。

命令するよりも「斯(こ)うして下さい」と信頼して頼むような語調が
斯ういう子供には功を奏する。鼠小僧でも頼まれた事は進んで実行する。

            <感謝合掌 令和5年5月30日 頓首再拝>

人から常によい感じを受けるには - 伝統

2023/06/10 (Sat) 06:18:05


谷口雅春先生のお言葉(令和5年6月号「生命の教育」誌)

【深切な動作を身につければ運命もよくなる】

人から常によい感じを受けるには

      *(『人生読本』237~239頁)より

あなたが常に人々に対して深切(しんせつ)な好意ある
表情(かおのようす)をしていられましたならば、
あなたに対(むか)った人は常にあなたから
好(よ)い感じを受けましょう。

あなたから好い感じを受けましたら、その対手(あいて)の人は
あなたを好きにならずにいられないでしょう。

(中略)

では、皆さん、人に対したときには不平そうな膨(ふく)れた
表情(かおつき)をしないで、深切な、愉快な相手を歓迎するような
表情(かおのようす)をいたしましょう。

しかし顔の様子というものは、習慣になっているものですから、
今、この人によく思われたいと思って愉快に深切に見せかけようとしまして
も、一時は努めて《わざ》とそういう表情ができるでしょうけれども、
すぐ習慣のついた顔付(かおつき)に変(かわ)るものです。

(中略)

いつも怒っている人はこわい顔になりますし、いつも人に好(よ)い
感じをもっている人は、また自分がよい感じの顔になりましょう。

ですから顔の表情(ようす)をよくするには
一時の付焼刃(つけやきば)では駄目(だめ)です。

いつもいつも、深切な、やさしい、快活(かいかつ)な、好意のある、
誰(たれ)のためにでも思い遣(や)りのある心を持っていれば、
そのような顔になるのです。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年6月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

     <感謝合掌 令和5年6月10日 頓首再拝>

言葉づかいや動作が運命をよくする - 伝統

2023/06/11 (Sun) 07:27:01


谷口雅春先生のお言葉(令和5年6月号「生命の教育」誌)

【深切な動作を身につければ運命もよくなる】

言葉づかいや動作が運命をよくする

      *(『人生読本』262頁)より

運命をよくするには常に善き言葉を使い、身体(からだ)の動作
深切(しんせつ)丁寧(ていねい)にしなければなりません。

丁寧にお辞儀(じぎ)をしたら損(そん)をするとか、
自分が相手より下のものだと思われて恥(はず)かしいとか
考えるのは間違(まちがい)です。

世の中の人は、表情や身体(からだ)を深切丁寧にする人をかえって、
「あの人は偉い人だ」と賞(ほ)めるのです。

これに反して「あいつは馬鹿(ばか)だ、ろくろく言葉の使い方も知らない、
お辞儀をする術(すべ)も知らない」と言って人から軽蔑せられるのは、
言葉使いのぞんざいな人や、身体(からだ)の動作に深切が
あらわれていない人です。

こんな人の運命はよくなりません。

         <感謝合掌 令和5年6月11日 頓首再拝>

丁寧で深切な動作を身につけるには - 伝統

2023/06/12 (Mon) 10:58:42


谷口雅春先生のお言葉(令和5年6月号「生命の教育」誌)

【深切な動作を身につければ運命もよくなる】

丁寧(ていねい)で深切(しんせつ)な動作を身につけるには

      *(『人生読本』263~264頁)より

子供に限らず、大人でも頭を下げることを
屈辱(はずかしいこと)のように思っている方がありますが、
そんな方は一度自分の全身が映る鏡の前に立って、
にこやかに微笑して丁寧にお辞儀して鏡の中を御覧なさい。

どのくらい自分が上品に気高く立派に見えましょう。

こんな自分なら尊敬してよいと、
我(われ)ながら自分が好きになるでしょう。

その次に、今度は、いやいや無理にちょっと頭を下げた時のことを
想出(おもいだ)し、その時の気持ちでぞんざいにちょっと頭を下げて、
その映る姿を鏡に映して御覧なさい

―――自分の恰好がどんなに不快な気持ちの悪い様子である事が判りましょう。

我(われ)ながら、「こんなキザな格好をする奴は嫌いだなア」と
お考えになるでしょう。

あなた自身すら「嫌いだなア」とお考えになるくらいなら、
他(ひと)から見たら一層嫌われるにきまっています。

(中略)

皆さん、「ああ、あの人は上品で気高くて深切だ、尊敬したくなる」
というようなお辞儀の仕方や身体の動作を鏡の前で稽古しておいて、
その気持ちを忘れないで、人を出迎え、物言う時に、
その通りに丁寧深切になさいませ。

         <感謝合掌 令和5年6月12日 頓首再拝>

礼儀の正しさは大切な値打(ねうち)です - 伝統

2023/06/14 (Wed) 07:02:46


谷口雅春先生のお言葉(令和5年6月号「生命の教育」誌)

【深切な動作を身につければ運命もよくなる】

礼儀の正しさは大切な値打(ねうち)です

      *(『人生読本』265~266頁)より

世の中には学問も良くでき、立派な才能を有(も)ちながら、
運が悪くて、勤め先をあちらへ更(かわ)り、こちらへ更り、
しまいには落ちぶれて働く先もなくなるような人があります。

そんな人はたいてい、気が短くて、言葉使いに深切がなく、
身体(からだ)の動作に礼儀正しさのない人です。

(中略)

人間の値打ちを智慧や学問ばかりにあると思うのは間違です。
尚(なお)それよりも態度の優美ということは、
何よりも必要な人間の値打ちです。

最初はどういう態度が美しいかは、鏡を見て稽古をなさるのもよろしい。
どの程度に微笑する事が相手に気持ちのよい感じを与えるか、
十分研究して置いて相手に快(よ)い気持ちを与える稽古をなさい。

「そんな詰まらないことを研究するよりも、本を読む方が偉くなる」
とお考えになるかも知れません。

しかしあなたがいくら偉くなっても、
姿態(かおかたち)はあなた自身の玄関のショーウインドーです。

ショーウインドーが埃(ほこり)だらけでは、いくら家の中に上等の品物があっても、
中まで入って買ってくれないでしょう。

         <感謝合掌 令和5年6月14日 頓首再拝>

深切(しんせつ)な心を日々心がけましょう - 伝統

2023/06/15 (Thu) 09:45:53


谷口雅春先生のお言葉(令和5年6月号「生命の教育」誌)

【深切な動作を身につければ運命もよくなる】

深切(しんせつ)な心を日々心がけましょう

      *(『人生読本』2676頁)より

と言って、言葉態度の美しさは形ばかり真似(まね)ても、
真似ないよりはよろしいが、
それだけでは本当に言葉態度が良くなりません。

心に気品を持ち、心に優しさを持ち、心に深切を本当に持たないで、
言葉や形ばかり真似たのでは、どうしても嘘らしい空々しさが
見え透いて人が感心するものではありません。

何よりも必要なのは本当に深切な心持(こころもち)です。

「あの人に良い思いをさせてあげたい、
 あの人をよい気持ちにさせてあげたい、
 どんな人にも不快な気持ちをさせたくない。」

こういう気持ちを持つように日々心掛けておれば
自然に言葉態度が優しく深切に、
誰にとっても気持ちよくなれるのです。

           <感謝合掌 令和5年6月15日 頓首再拝>

子供の教育とは、実はまず親の教育 - 伝統

2023/07/02 (Sun) 07:02:25


谷口雅春先生のお言葉(令和5年7月号「生命の教育」誌)

【子供の内なる神の力を信じましょう】

子供の教育とは、実はまず親の教育

      *(新編『生命の實相』第22巻13頁)より

私はここに本当の人間の教育ということ、
その本当の人間を造るところの「子供の教育法」を説こう
とするのでありますが、

この子供の教育ということは本当は大人の教育なのであります。
だから、私は子供の教育を説く前に先(ま)ず大人に説く倫理を
以(もっ)てしたいのであります。

子を良くするには先ず親を教育しなければならない。

それ程(ほど)親の心は子に影響を与えるのであります。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年7月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

     <感謝合掌 令和5年7月2日 頓首再拝>

悪は見ずに、常に善い方面を見る - 伝統

2023/07/03 (Mon) 07:21:58


谷口雅春先生のお言葉(令和5年7月号「生命の教育」誌)

【子供の内なる神の力を信じましょう】

悪は見ずに、常に善い方面を見る

      *(新編『生命の實相』第22巻71~72頁)より

子供は最も多く母親のなすこと、いうことの影響を受けるのでありますから、
母親の性質とか心持(こころもち)、態度というものが
子供に最も多く現れて来るのであります。

でありますから、皆さんがお子さんにもっとよい性質がほしいと思われたら、
先ず自(みずか)らを省(かえり)みて自分がよくなって頂くことが
肝腎(かんじん)なのであります。

子供というものは、 「お前は悪い悪い」と叱(しか)っても
なかなかよくなるものではありません。

常に善い方面を見るようにして、悪は見ずに、
子供の完全円満な実相を見るようにして、

それを賞(ほ)め言葉で誘導していれば必ずよくなって来るのであります。

(中略)

命令や吩咐(いいつけ)よりも、行いで手本を示されますと、
子供は直(す)ぐその真似(まね)をするものでありますから、
常に子供によい実例を示し、常によき行為の模範になることが大切であります。

     <感謝合掌 令和5年7月3日 頓首再拝>

子供を信じる褒(ほ)め言葉が、子供を善くする - 伝統

2023/07/04 (Tue) 07:24:32


谷口雅春先生のお言葉(令和5年7月号「生命の教育」誌)

【子供の内なる神の力を信じましょう】

子供を信じる褒(ほ)め言葉が、子供を善くする

      *(新編『生命の實相』第22巻20~23頁)より
        『生命の實相』第13巻倫理篇(P15~16)

《親の心が子に映るのが実際の事実としたならば、
 親達はもう少し考え直さねばならないだろうと思うのであります。》

子を教育する前に先(ま)ず親が自(みずか)らを教育しなければ
ならないと考えざるを得ないのであります。

子の成績が悪いというのも、親、或(あるい)は学校の先生が
悪くしている場合が多いのであります。

千葉県の白里村(しろさとむら)に
小倉久之丞(おぐらきゅうのじょう)さんという小学校の先生が
あります。

(中略)

或日(あるひ)、他の教室の授業時間を参観しておられましたら、

その組の受け持ちの女の先生が
一人の子供をつかまえて大変怒っておられたのです。

「お前くらいできの悪い子はない。実にお前はなまけものだ。
 先生の教えを少しも注意してきかない」

といってひどく叱られていたのでありました。

やがてその時間がすんでから、
除(おもむ)ろに小倉久之丞先生がその子に近づいて

「あなたは好(よ)い子だねえ」と静かにお褒めになったそうであります。

「あなたはよく勉強するね、きっとよくできる子になるよ! 」と
柔(やさ)しい、しかし、子供の善(よ)さを固く信ずるような語調で、
簡単にほめられたのでありましたが、それ以後その子の性質が一変して、
大変よくできるようになったのであります。

その事実を見て、職員会議の時に
その女の先生が起(た)ち上がって告白されたそうであります。

「わたしのこれまでの子供の教え方はまちがっていました」といって
皆の前で懺悔されたということでありました。

単にそれだけの優しい、信じてくれる賞(ほ)め言葉が
子供を善くするのであります。

「お前はほんとによい子だよ」という、
それだけの言葉にすら子供を生かす力があるのであります。

それに先生がヒステリーを起こして、
「こんな悪い子はありゃしない」なんて怒(おこ)れば、

子供は正直なもので、
「先生は偉い」と信じきっているのでありますから、
その偉いと信じている先生が、

「自分を世の中で一番悪い子だというんだから本当にそうかもしれない」と、
子供がそう思ってしまったが最後、

勉強に興味がなくなり、先生に嫌われたと思って、
教室にいてもおもしろくなく成績もずんずん悪くなってゆくのであります。

ちょっとした言葉で子供が良くもなり、悪くもなる、
通信簿に書いてある子供の成績は、実は親の成績表であり先生の成績表だと
いって好(よ)いくらいであります。

     <感謝合掌 令和5年7月4日 頓首再拝>

子供を生かしているのは神の力である - 伝統

2023/07/05 (Wed) 06:46:49


谷口雅春先生のお言葉(令和5年7月号「生命の教育」誌)

【子供の内なる神の力を信じましょう】

子供を生かしているのは神の力である

      *(新編『生命の實相』第22巻2頁)より
       「生命の實相」第14巻教育篇~はじめ(P129)より

多くの母親は子供のことをあまりに取り越し苦労するために、
却(かえ)って子供に悪思念〈あくしねん)を放送して
子供の健康や運命を害している。

ある母親は一瞬間でも自分の眼の前にいないと心配でたまらないのである。
彼は自分の想像の中(うち)で、躓(つまず)いて転んでいる
自分の子供の姿を思い浮かべる。

自動車にひかれて死にかかっている自分の子供の姿を思い浮かべる。
水に陥(はま)って溺れかかっている自分の子供の姿を思い浮かべる。

世の母親よ、何故(なぜ)あなたはこの反対をしてはいけないのか。
こんな取り越し苦労が起こるのは、子供を神の子だと思わないで
人間の子だと思うからである。

神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。
人間の子だと思うものは終世(しゅうせい)、
取り越し苦労をして育てねばならぬ。

子供を神の子だと思うものは、子供を尊敬して
できるだけその世話をさせてはいただくが、
神が守ってい給うと信ずるがゆえに取り越し苦労は必要はないのである。

人間力で子供を生かしうると思うなら終日終夜起きて子供の番をしておれ。
それはできなかろう。

できない間に子供を生かしているのは神の力である。

     <感謝合掌 令和5年7月5日 頓首再拝>

瞑想先生、無限力先生と呼ばれて - 伝統

2023/08/04 (Fri) 09:28:07

瞑想先生、無限力先生と呼ばれて  ―  『生命の教育』を基に

        *第9回生命の教育学会 体験報告
         (昭和62年8月8日~10日 伊勢修養神都国民道場)
         新教育者連盟(東京都小学校教諭)  阿久根 貢

私の今日までの人生は、昭和と共に生き、戦後40年を教育一筋に歩いて来た
といっても過言ではありません。

戦後のあの悲惨な廃墟の中から、
誰が今日の物の豊かな繁栄を予想したでありましょうか。 
その反面最近では、心の貧しさや教育の荒廃が言われ始めました。

「物で栄えて心で滅ぶ」 とは、ローマ滅亡の歴史の教訓ですが、
物や金銭に偏った流れが、心の大切さに気づき、心の教育が叫ばれる
ようになったことは喜ばしい限りです。


「教えとは永遠の希望を語ること」 と、
フランスの作家アラゴンはうたっています。 

果たして私はどんな永遠の希望を子供たちに
語り続けて来たのだろうかと反省させられます。

 
しかし生長の家の“生命の教育”のお蔭で 
「人間神の子、無限力、生き通しの生命である。 
 切実に心に念うものが現われる。 
 神は愛なり。 神は渾ての渾て」  

等々の素晴らしい真理を子供達に毎日語り続けてきたことは、
最高のおくり物であったと思います。

 
昨年3月定年退職しましたが、幸いまだ健康で、
やる気十分でありましたので、おかげで再雇用され、
東京都の嘱託という身分で小学校に勤務できる喜びを
かみしめつつ楽しい毎日を精進しています。

 
我々教師には、受け持つ児童を選ぶ権利はありません。 
ある程度希望を容れられる自由はあるかも知れませんが、
児童には担任の先生を選ぶ自由は全然ありません。 

先生と教え子、よくよく深いご縁だと言わざるを得ません。

 
嘱託になってからは、全責任を持って担任する学級がない
のは淋しいことですが、1週1時間づつ、どの学級にも顔を出して、
硬筆、毛筆の書き方の指導、読書指導が出来ますのは有難いことです。 

500名近い全校児童に “生命の教育” が出来る
ということはなんて素晴らしいことでしょう。 

まだまだ “生命の教育を伝えよ” との神様からのご使命があったのだ
と思い、毎日元気に張り切っています。

 
環境の違う千差万別の家からそれぞれの生活の殻を背負って、
家庭の匂いをさらけ出しながら登校する子供たちを、
授業の始まる前に温かく受けとめて心をほぐしてあげることは、
学校生活の始まりの一番大切なことではないかと思います。

子供たちは私を瞑想先生、無限力先生と呼んでくれます。

授業の始まる前に必ず瞑想をさせ心を集中して、
高学年には 『我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ』  
低学年には 『わたしは神の子、光の子、何事もニコニコ明るい良い子、
何でも出来ます強い子良い子』  と20回以上、
心が落ち着き精神が集中するまで念じさせているからでしょう。

 
ただ「念じましょう」「瞑想しましょう」と強いるのではなく 
『生命の實相』 で学んだ心の法則や、クーエの20回となえた説明、
真理の数々を、子供たちにわかり易く説明し、十分に心を耕します。 

何故瞑想することが、念ずることが大きな力を発揮することになるかを
理解させてから実践させていますので、子供たちは素直に行じてくれます。

中には私が教室に入る前に瞑想している児童もいます。 
私がうっかりしていると、児童の方から「先生、瞑想」と
声をかけられることもあります。

その間私は、一人一人の顔を覗き込むようにして、
左手を児童の頭の上に、右手を背筋に当て姿勢を正しつつ、
児童の名前を心の中で呼んで、 

「誰々さん、実相円満完全神の子」 

と念じつつ机間を一巡します。 

全児童と心を一つにして神様と一体感を深める楽しいひとときです。


「人間神の子というのは、言いかえると人間神の固ということであって、
 天地一杯、宇宙遍満、限りなく極みなく無限定なる神様のいのちが、
 今此処に固って限定され、認識される姿として現われたのが
 本当の人間なんですよ  ・・・ 。 固とは氷のコ、肩が凝るのコ」

と、深い言霊の立場からのご指導を
谷口雅春先生から頂いたこともあります。 

 
又、

「宇宙遍満の神様が個性的な表現をとるために、
 ここに生をうけたのが人間であり、私である」  

「吾々が祈るとき、神想観をする時、または真理のことばを念ずるとき、
 または聖典ならびに聖経を読誦するときは、宇宙に満ちている
 創造の根元力によびかけて、その創造力を善なる方向へ駆使しつつある
 ことになっているのである。 祈ることも念ずることも読誦することも
 いずれもコトバの力を使いつつあるからである。 

 ヨハネ伝第1章には“太初にコトバありコトバは神と偕ににあり、
 コトバは神なりき。 
 ・・・ 万のもの是によって成り ・・・” と書かれている。 

 コトバというものに創造力があることを示されているのである。 
 そのコトバの力を明るい方向に積極的な方向に、建設的な方向に
 駆使すれば、自己の内に宿る宇宙的な力が開発され、
 われわれは一層健康になるし幸福になるし一層幸運が訪れて来ます ・・・ 」


と、『真理の吟唱』 でお説き下さっています。 

こうした真理を基にして私は児童たちに 
「人間神の子」 の “生命の教育” を長年して参りました。

生長の家の教えの中に 
「自覚しさえすれば、埋蔵せる宝が常に掌中にある」 と、
自覚の大切さ、その自覚の度合いに応じて現われ方も違ってくる
ことを教えられています。

また 「深切とは深く切なる愛の実践なり」 と、
愛を実践するとき、私達の内なる愛の磁石的力が活性化して、
私達の周囲に必要なものを何でも引き寄せるのであると教えられています。

私は 
「どのような子供でも、心底から神の子として大切にしなければならない。 
 そして益々 “生命の教育” の光を高く掲げて普及しなければならない」 

と強く反省し、又自覚を深めさせてもらいました。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/44a7a6317c9365f6968e3838c083b536
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-29)

          <感謝合掌 令和5年8月4日 頓首再拝>

子供はすべて優良児! - 伝統

2023/08/05 (Sat) 08:56:20

「子供はすべて優良児!」
公益財団法人新教育者連盟チャンネル(2022/05/26 )
https://www.youtube.com/watch?v=qPTFwpc81jY

          <感謝合掌 令和5年8月5日 頓首再拝>

Q&A~内気で何事にも消極的な娘が心配 - 伝統

2023/08/06 (Sun) 12:50:46

内気で何事にも消極的な娘が心配
公益財団法人新教育者連盟チャンネル(2022/06/03 )
https://www.youtube.com/watch?v=6X9rad--z_4

          <感謝合掌 令和5年8月6日 頓首再拝>

少年院行きの番長も神の子だった - 伝統

2023/08/07 (Mon) 11:17:35


        新教育者連盟 / 生長の家白鳩会京都第1教区 
                    関 東  佐 代 子 (養護教諭)

  『第10回 生命の教育学会』
    昭和63年8月9日~12日 於:鹿児島県霧島温泉郷


◇ 保健室は問題児のたまり場

私は35年間中学校に勤めておりました。 
担当教科は保健で、養護教諭でございました。 

私は医者のなりそこないで、女学校時代に不良少女だったために、
医学部に行くのをあきらめて養護教員になったわけです。 

養護教員と申しますのは、一国一城の主で、つまり、保健室を持っております。

そして、保健室へはよく問題児が訪れて参ります。 
しょっちゅう来まして、一般の先生方の中には、
「保健室は、問題児のたまり場だ」ということをおっしゃる方もございます。

 
ところが私は、昭和24年頃からこの素晴しい生長の家のみ教えに
ふれておりましたので、谷口雅春先生の、 

『真理への道はただ一つ、人間は神の子である』  

ということが、常にお腹の中にありました。 

ですから、問題児というものはないという思いが、いつも私の心にありました。

私達が子供に接しますのは、4月の定期検診、そして毎月の体重測定、健康管理、
それから保健管理ですね。 

日常の健康観察、あるいは救急処置等、全校の生徒に接することが多いので、
まず一番にその子達の名前を覚えることが大事だと思い、
全校生徒の名前を一所懸命に覚えることにしました。

学校には、大きな学級写真がとくに大きく引き延ばしてあります。 
それは何のためかと申しますと、生徒指導のためです。 

問題児は、これはどこのクラスの何年何組の誰だということの、
いわゆる要注意のための顔写真です。

私はそれをいい方のためにお借りしまして、全部名前と顔を覚えます。 
そして入って来る子供に「だれだれ君」と呼ぶと非常に喜ぶんです。 

担任の先生に名前を呼ばれるのは当然だけれども、
保健の先生が名前を呼んでくれた、
「先生、僕の名前どうして知っているんや」というふうに、よろこびまして、
そこでぐっと一つ親しみを感じるわけなんです。


ある学校におりました時、ある日、どかどかと廊下を走る音がして、
一人の生徒が「オッス」と言って入ってきました。 

もちろん、授業中です。 
その子の格好をちらっと見ますと、“がくらん”という学生服、
ハイネックですね、襟の太くて高いの、そして丈が長い上着を着ているんです。 

ズボンは先がすぼまっている太いズボンをはいてね。 
肩をいからして、「オッス」と入ってきて、
「あんた、どこから来たんや」って、こう言うんです。

「私のこと、調べてくれてんの。 先生はね、〇〇校から来たんよ」  

「フーン。 僕知ってるか?」  
「君は知ってる。 A君でしょ」  

「えっ、なんで僕の名前知ってんの?」  
「だって君は、素晴しいやないの。 目立つしね。 顔はいいし、
なかなかみどころがあるからね、先生は一番に覚えたわ」  

「ほんまかいな」  と言いながら、顔を見ると、
髪の毛はずっとここんとこ〈ひたいの上〉、青くすりあげてあるんですね。 
まゆげも細くすってね。

 
「先生、なんで僕をこわがらへんのや?」  とこう言うんです。 
「たいていのセン公は、僕がしゃべったらビビんのに、
 なんで先生は僕をこわがらへんの?」  

「なんで先生があんたをこわがらないかんのや。 
 別にかみつくわけでもないやろし、先生かてあんた、
 不良少女で番長してたん。 
 先生の場合は、新聞に載せてもろた。 冗談ぬきで」  

「ハァー、ほんまかいな」  と、向こうの方が、 
「ひょっとしたら、先生の方が上手かしれんな」  と言いました。

 
それで、 「君、一体何をしたんや」  
「そんなんどうでもいい。 そやけど、先生とは別れないかんのや」  

「なんでや」  
「僕は少年院行くんや?」  

「へえー、どうしたの?」  
「僕な、やる気はなかったんやけど、ちょっとムカっとすること
 友達がいいよったから、少しガッとやったらケガしよった。 
 それで、セン公がな、少年院に行かそうと ・・・ 、
 僕は、4月まではよその学校にいたんや。 
 そこから追い出されてここへ来たんや。 
 それであんたの顔もあんまり見たことがないんや」  

「そうか。 お近づきにいっぺん握手しよか」  
と言って手を出すと、あわてて、手拭くんです。 

汗がついていたらいかん思って、手握ったら、じっと顔見て、手を握らすんです。


 ◇ 会うのが遅かった ・・・

それから、今度はおもむろに服を脱いで、 「先生、僕の服見せたろか」。 
裏が紫で、そこに真っ赤な龍が刺繍してあるんです。  

「あんた、立派な服きてんな。 いっぺん、先生に貸してくれへんか」  
「先生、どうすんのや」  

「先生もそんな服着てみたいわ。 先生は似合うと思うな」  
と言ったら、笑っているんです。  

「それ、先生に貸してえな」  
「ちょっとあかんわ。 これは」

そして見ると、下には、真っ赤なTシャツを着ているんです。 
校則では、絶対、それを着たらいかんのですね。

今も校則、校則ってやかましく言われておりますが、
うちの学校でもそれは着たらいかんことになっているから、
いちおう、中に着ているんですが、脱いだら下は真っ赤なシャツで、
裏は真っ赤な龍になっている。 

それを見せたら、また私がビビるかと思ったら、そうはいきませんよね。 
だけども私、ふっとその子の顔を見たら、あどけない。 
一人で来る時ね、ほんとにどの子もあどけない顔をしているんです。

 
「赤信号、みんなで渡ればこわくない」って言いますけど、一人一人はそう悪くない。 
私は “この子も神の子だ。 この子の中にも、神の生命が宿っているのに、
どうしてこんな子になったんだろう”

  ―  ふっとその時、自分が不良少女だった頃の、
苦しかったこと、悲しかったことを思い出しました。 

一番苦しんでいるのは、この子自身じゃないかしら?  
その子が、全身で劣等感を表しているわけなんですね。 
じっと顔を見ていると、こっちの方の目頭がじんと熱くなって、
それを敏感に感じるんです。 そういう子は敏感なんです。

 
「先生、どうしたんや?」  
「君にはね、素晴しいものがあるだけれども、
 どうしたら君の素晴しさが出るかと思うてね、
 それを先生がわかるかなと考えているんや」  と言ったら、 

「遅かったわ。 先生と会うのが」  
「どうして?」  

「もう間もなく、少年院に行くんや」  
「そう。 でもね、一生行ってるわけでもないんやから、また会えるからね。 
 そんなん心配せんでいいよ」  と、そんな話をしたものです。

 
それからしばらく、保健室を訪れて来なくなりました。 
気になって、担任の先生に 「A君、どうしたんですか?」  と聞いたら、
「あれは、書類がきてね、手続きをして少年院に行きました」 と。 

宇治の方にあるんですけども。

私も、しばらく仕事が忙しくて、行けなかったんですけれども、
5月頃でしたか、ある日 『輝く日々のために』 という
谷口清超先生のお書きになったご本を1冊持ちまして、少年院を訪れたんです。

 
面会を求めましたら、誰が来てくれたんかとふしぎそうな顔をして出て来ました。 
私の顔を見るなり、びっくりしたように 「あっ」 と一言いいました。 
そりあげていた髪も全部丸刈りにされて、作業着を着て、
そしてつかつかと出て来まして、

「先生が?」 と言いながら、それでも、
まだちょっとその時はうそぶいておりましてね。 

「どうして来たんや」  
「どうしてって、保健室にちっとも来なくなったから、担任の先生に聞いたら、
 ここだって言うから、来たんよ。 これを読むといいよ」  と、
その本を渡して、その日は帰りました。

2回目に行ったときは、彼が 
「先生また来てくれたんか。 来んでもええのに、こんなところまで」 
と言いながらも非常に嬉しそうな顔をしたんですね。 

“ああ、こんな所におりながらも、愛を求めているんだ。 寂しいんだ” と、
自分の若い頃と思いあわせて、わかるんです。 その気持が。

 
私は思わず、 
「今日の君の顔はきれいだな。 これが本当の君の姿なんや。 大丈夫や」  
と言っていました。

 
◇ 真理の言葉をサラシに書いて

それからしばらく忙しくて行けなかったのですが、次に行く時に、
今度はサラシのきれに 『大調和の神示』 を書き、その次に 

「A君は神の子、実相円満完全」 と、三べん書いて、 
「神様ありがとうございます。 天皇陛下ありがとうございます。 
 ご先祖様ありがとうございます。 
 おじいさま、おばあさま、お父さん、お母さん、兄弟達ありがとうございます。 
 お友達ありがとうございます。 少年院の先生ありがとうございます」  

ということを書いて渡しました。

「これ、なんや?」  
「これは素晴しいことが書いてあって、人間は皆神の子なんだけど、
 あんたがこの世に生まれるためには沢山のご先祖があり、
 それはずっと神様につらなり、
 神様から尊い生命をお父さんお母さんを通して頂いている。 

 だからすべてに感謝することが書いてあるの。 
 そして君は神の子だから本当は完全で円満なのだと書いてあるの。 
 暇なときに読んでね」

「ありがとう、そやけど、こんなもたしてくれるやろか? みな調べられるんや」 
と心配そうに言います。

「大丈夫よ」  
「そしたら、ここに入れて、お守りにしてたらええな」  と、
胸ポケットに入れておさえているんです。 
ずっと私の顔を見て、一筋ぽろっと涙を流して、 
「先生、僕のためにこれを書いてくれたのか」  って言ってね。

その少年院に行ってる子どもの目から一筋の涙がすっと頬に伝わった時に、
こちらもジンときて言葉につまりました。

「そやけど先生、僕はな、なかなか帰れないんや」  
「そんなこと自分で決めなくてよろしい。 
 早う帰れるよう、先生毎日祈ってるから ・・・ 」

もうその頃は、言葉使いもずいぶんと変わっておりました。 

面会時間が終って帰る時も、 
「先生、忙しいのに僕のために何べんも来て下さって、ありがとうございました」  
と、言ってくれるようになったんです。 

その後姿に合掌しておりましたら、子どもがはっと振り返って、
それに気が付いて、手を振りながら、向こうに行く姿が印象的でした。

そして、夏休みに入り、行事なんかがあって行けなくて、
2学期がきまして半ば過ぎ、10月頃でした。 

コンコンと保健室をノックする音がするんです。 
ノックする子は、滅多にないんです。 

誰か先生かと思って 「ハイ」 と言いましたら、
その子が黒の普通の学生服を着て、 
「先生、ただいま帰ってきました」  と立っていました。 

「先生が言ってくれた通り、僕一所懸命にこれ読んでたら、
 僕はもっと長いと思っていたのに、早く帰れたんよ。 ありがとう、先生」
  って ・・・・・

「僕はなんにも勉強できへんけど、帰れただけでうれしいです」  
「できへんことないでしょ。 あんたは体育ができるやないの、素晴しい」  

「体育だけででもええか?」  
「ええよ、体育だけでも一所懸命やりなさい。 
 1ヶ所あがったらね、全部ついてあがってくるんや。 
 だからね、体育を一所懸命にやりなさい」  

「わかった、ほな、きばる。 体育一所懸命にやる」  言うてね。

ちょうど体育祭の前に帰ってきたので、それこそリーダーとして、
クラスの先頭に立って体育の競技を一所懸命にやって、
クラスが優勝するという結果をもたらしてくれたんです。

 
「ああ、よかった。 君はやっぱり素晴しい神の子だったね。 先生、うれしいよ」
 って、握手をしたんです。

「けど、僕は、高校へはいけへんし」

「いや、何も人生は、国語、社会、数学、理科、
 そんなことを勉強するだけが勉強じゃないよ。 
 あなたは人生にとって、素晴しいことを勉強してきたんや。 

 先生もいろんなことを勉強してきたから、
 今日、君の前でこうして、握手も出来るし、話もできる。 

 君の体験してきたこと、少年院に行ってきたこと、
 それは、将来の君の素晴しい土台になるんやから、しっかりやらんとね。 
 もう、全責任を果たしてきたんだから、
 これからはそういう過去は忘れて、一所懸命やろう」

その子は、家庭の事情で高校には行けませんでした。 

「僕は、親に捨てられたんや。 親が僕を勝手に捨てて、どっかへいってしもた」  
「そんなこと心配せんかてよろしい。 先生かてな、8人もの親を持っているんや。 
 生後29日目にもらわれていって、それから苦労して、
 先生の人生が始まったんやから、そんな環境に負けてどうするんや」  

ということを言ったこともあるんです。

「そうか。 そやな」  
「それでも、その親には感謝せないかんよ。 
 その親があればこそ、君が今日あるんだからね」  

ということを言いながら、立派に3月には、
定時制の高校に働きながら行くようになり、
がんばり通してとうとう卒業してくれたんです。

 
◇ 喜びの再会

それから、その子のことを忘れておりましたら、先年、ある案内状が参りました。 
学年会を京都のホテルでやるっていうことになって、そして招待されて
行ってみましたら、その子がパリッとした背広を着てね、 

 
「先生、ありがとう。 あの時に先生が僕のことを認めてくれて、
 あんなに悪かった僕を、1回も『悪い奴や、不良や』と言わなかった。 
 それが僕の大きな支えになった。 

 その上にまだ、先生は自分のことを番長とまで言うてくれた。 
 先生やとふつう、そんなこといえへんのにな」  

だいぶ大人になっていましたから、そういうことを言ってくれましてね。

「きっと僕、ご恩返しをします。 これ、あの時の ・・・ 」  って言って、
サラシのよれよれになったのを出しました。

「いつもポケットに入れてたんです」  それと、
自分で買ったんでしょう、聖経 『甘露の法雨』 を持っていまして
嬉しそうに見せてくれたんです。


私は、立派に社会人として活躍していてくれるその姿を見たときに、 

“谷口雅春先生の真理にまちがいがない。 
 私がこの生長の家の教育、生命の教育をやらしてもらったおかげで、
 問題児は問題児ではなかった、すべて、神の栄光あらわれんがためであった”  

ということを、あらためて身をもってわからせていただいたのでした。

ささやかな体験ではございますけれども、生長の家でいつも、
「問題児はない」ということを教えられていることが、私の信念となりまして、
お蔭様で今日、こうして皆様のお役に立って行けることを、
心から感謝するものです。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/0c6214ac0845692f804b9689b7a66330
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-02)

          <感謝合掌 令和5年8月7日 頓首再拝>

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