伝統板・第二

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谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑫ - 夕刻版

2023/01/04 (Wed) 04:43:24


聞・思・修  ―  実相の水を汲み出すために

       *『こころの姿勢』田中忠雄(著) より

井戸の水を汲みだす手押しポンプ。 あれは実におもしろいものである。

使わないで、ながくほうっておくと、いくら押しても水は一滴も出なくなる。 
接続がうまくいかなくなるらしいのである。 

一家をあげて避暑などに行って帰宅すると、ポンプはまるで手ごたえがなく、
すかし屁のように、音も立てなくなっている。 
私も、ずっと以前にそんな経験をしたことがある。

ポンプをいくら押しても手ごたえがなく、一滴の水も出てこないと、
愚者は小首をかしげる。 
はてな、井戸の底に水は全くなくなったのではないかと。 

しかし、水がなくては一日も暮してはゆけない。 
愚者は深刻な顔をして迷いだすのである。

 
賢者は、井戸の底に水が豊かにあることを信ずる。 
それは、むろん、さわって確かめるわけにはいかないし、
目でのぞいて見ることもできない。 

けれども、水は必ず井戸の底にあると信ずるのだ。 
その豊かにある水が出なくなったのは、接続がわるくなったからである。 

では、どうしたら接続を具合をよくすることができるか。 

賢者は、こんなふうに考える。


“よび水” をする必要がある。 
バケツを持って隣りの家へ行く。 
「ごめんください、ながらく家をあけて何かと御迷惑をかけました。 
 うちのポンプがながらく使わないうちに、だめになっていますので、
 すみませんが、バケツに一ぱい水をいただけないでしょうか」 

「それは、それは、さぞおこまりでしょう。 おやすい御用です。 
 さ、いくらでも持って行ってください」

このようにして、“よび水” をバケツに一ぱい貰ってくるのである。 
隣りの家というものは、実にありがたいものだ。 

こういう場合に、‘自力’だの‘他力’だのという詮議はいらぬことである。 
バケツを持って出かけて行き、それに水を入れて自分の家に運ぶのは
‘自力’であるともいえるが、その水は隣りの人にもらったのであるから
‘他力’でもある。

しかし、隣りの家の人が、こころよく水をくれるのは、
かねてこちらがそれだけの交際をしていたからでもある。 

平生仇敵のように睨みあっている仲であったら、
とても水を貰いには行けないのだ。 

そうすると、どこまでが‘自力’で、どこまでが‘他力’ということはない。

どうでも‘自力’でいくのだ、人のおかげにはならぬと、
かたくなに頑張ったら、水は一滴も飲まずにいなければならない。 

そうかたくなにならずに、困ったら隣りに行って、
“もらい水” をするがよい。


『聞・思・修』 (もん・し・しゅう) ということがある。

その第1番目の 『聞』 というのは、
行きつまったときに助けを求めて、
然るべき人に真実の法を聴聞することである。 

人の話を聞くのが 『聞』 であるが、
書物を読むのもやはり、広い意味で 『聞』 である。 

ポンプがだめになっているときに、“よび水” を貰うのは、
この 『聞』 にあたるわけだ。

 
その “よび水” は清純でなければならない。 
赤痢やコレラなどのバイキンがいたら、大へんである。  
そんなひどい水でなくて、単に泥でよごれた水でも、
あとで非常に苦労しなければならなくなる。 

道元禅師は 「正師を得ざれば学ばざるに如かず」 と断言された。 
これは思い切った表現で、正しい師にめぐりあわないなら、
むしろ学問などはしない方がましだといわれたのである。 

正しい師の法を聞き、清純な水を貰うべきである。


この頃学問する人は、正師を得ざれば学ばざるに如かず
ということを知らないで、ただやたらに先生の講義を聞けばよい
と思っている。 

そこで赤いバイキンのうようよしている水を何ばいも貰ってきて、
それを自分のみならず、社会にもばらまくのである。
学問したばかりに、みずから大へんな破壊的有毒物になってしまうのだ。 

そこで、同じ隣りでも、近いだけが能ではない。 
少々遠くても、清純な水の持主のところへ行って水を貰うのがよいのである。


バケツに一ぱいもらった清純な水を、「これはすばらしい」 といって、
すぐに飲んでしまうのは、これまた愚者のすることである。 

飯を炊くために、またもや水を貰いに行かねばならなくなるのだ。

賢者は、バケツの水をポンプの中に流し入れて、
じゅっとしみ込ませるのである。 

それが 聞・思・修 の 『思』 にあたる。

法を聞いただけではいけない。 
それは、貰った水を直ぐに飲んでしまうようなものだ。 
その場では、やれ助かったと思うけれども、また直ぐ行きつまってしまう。 

聞いた法を自分の内奥に、じゅっと浸みこませる。 
それが 『思』 である。 
よくよく思って反省し、心の内奥に深く受持するのである。

まず清純な水をもらってくる。 
そうして、それを、じゅっとしみ込ませる。 
このしみ込ませる作用がないと、自分のものにはならない。 

貰い水は、あくまで貰い水で、いううなれば借りものである。 
その借りものを自分のものにするには、つまびらかに思惟し反省して、
自己の毛細血管のなかまで滲透させねばならない。

借りものを借りもののままに、ほっておく人が多い。 

師の言葉の口まねばかりしている人がある。 

聞・思・修 の 『聞』 だけはどうやらできても、
やれ助かったというだけでは、『思』 が不十分だ。 

既成宗教というものは、
おおむね 『聞』 だけがあって、『思』 が不足している。  
法を聞いて、それを暗誦するほどよく努めるが、
その意味を噛みしめてみようとはしない。

口まねをするだけでは、せっかく聞いた法が素通りしてしまう。 
聞いたら、それを思うて、自己の身心にしみ込ませねばならない。 

貰ってきた水は、ポンプの中にそそぎ入れて、しみ込ませねばならない。
 
さて、一たんそそぎ入れて、十分しみ込ませたら、
時を移さず、ポンプの柄をせっせと押さなくてはならない。 
骨身を惜しまず、何度も何度も押さなくてはならない。 

それが 『修』 である。

法を聞いて、深くこれを思う。 
もらい水をして、これをポンプに浸みこませる。 

そこまでは立派にやっていながら、ポンプを柄を動かさない人がある。 
いますぐ動かさなくても、いずれそのうち動かしたらよいだろうと
考える人もある。 それは実に惜しいことである。 

せっかく、『聞思』 したのに、最後の仕上げの 『修』 を怠って、
ついに水を汲みだすことができないのだ。 
あわれむべきことである。

『修』 とは、この父母所生の身をめぐらして、行ずることである。 
法を聞いて、これを心の底に浸みこませたら時を移さず
直ちに行じなくてはならない。 

その機を逸すると、あとでいくら苦労しても、その甲斐はないのである。 
ポンプは依然として、すかし屁のように空しく、
いくら努力しても水は出てこない。

 
道元禅師の口調でいうと、次のようなことになる。 

すなわち、法を聞き心に菩提心を発したならば、
万事を放下して法を行ずべきである。 

生活を安定させて然るのちに ・・・ などという思いが少しでもあれば、
それはもう絶対にものにはならない。 

第一、わが身は無常にしていつ消えるかわからないものである。 
幸いに受け難い人身を得てこの世に生まれたのに、空しく時を過して、
一切の条件が整うのを待って、然る後などと思うのは、
根本的にまちがっている。 

そんなことでは、百年待っても条件が整うものではない。

 
道元禅師は、「然る後」 というのが一番いけないと言われた。 
即今、只今、時を移さずでなければならない。 
今直ちにポンプの柄を押すのである。

一たん押したら、それをつづけて押さねばならない。 
一度や二度押して、しばらく休止し、それから思いだしたように
また始めるというふうでは、残念ながら水は出てこない。 

何度も何度もポンプの柄を押しつづけるのだ。 
これを “行持” という。 
行を持続するので行持というのである。 

みずから行持しないでいることを棚にあげて、
水が少しも出ませんと言って嘆く人がいる。 

そんな人は、やがて井戸の底に水のあることまで疑うようになる。 
そうすると、今まで聞いた法も、深く思うた法も、
みんなうそであったかもしれぬということになる。 

つまり 『修』 がないと 『聞』 も 『思』 も
共にくずれ去ってしまうのである。
 


そこで、もう一度、おさらいをしておくと、
まず正師の話や書物を通じて清純な水をもらってくる。 

そうしてその “もらい水” を自分の身心に浸みこませる。 
浸みこませたら、すぐに自己の身心を揚げて行じ、その行を行持する。 
これで 『聞・思・修』 の三つが完全に揃ったことになる。 

そうすると、必ず手ごたえがある。 
手ごたえがあるなと感じた瞬間に、水がじゃあと出てくる。

このじゃあと出てくる水は、もう貰い水ではない。 
借りものでもない。 
まぎれもなく自家の井戸の底から湧き出たものだ。 

自己の内奥から湧き出たものだ。 
これを 「真如法性の水」 という。 
「実相の水」 というてもよい。 

もし、そんな水はほしくないと思う人があるなら、
「幸福の水」 といいなおしてもよい。

実相の水は、深い井戸の底に豊かにあるが、手
でさわられるような 「物の水」 ではないし、
目で見られるような 「形の水」 でもない。 

だから、罪業深い愚者はこれを疑ってさまよい、右往左往するのである。 
その愚者の疑いをふり切るには、清水の舞台からとびおりるほどの
決心が必要である。 

この決心を 『信』 という。 

『聞・思・修』 の三つの働きをつないで一つにするところのものは、
じつにこの 『信』 である。

よく “教・行・信・証” というが、
それは‘教’えを聞き、深く思うて、
これを‘行’ずるについては‘信’をもって貫く、
そうすれば‘証’すなわち悟りが得られるという意味である。 

実相の水が出てくるという意味である。 
実相の水とポンプとの接触がよくなりすれば、その水はいくらでも出てくる。 
必要に応じて、コップ一ぱいでも、四斗樽に十ぱいでも出てくる。 

まことに自由自在である。 
誰にたいしても遠慮や気がねをするには及ばない。

困った人が貰いにきたら、この原理をよく説明してやる。 
人に乞われるままに、バケツに水を満たしてやるだけでは
慈悲心において不十分である。 

この水の処方を深切に教えてあげるのだ。 

この水は、“よび水” だから“よび水”として
お使いにならないといけません。 

まずポンプに浸みこませるのですよ。 
浸みこませたままで、ぼんやりしていてはいけません。 
あなた自身の手でポンプを動かさなくてはなりません。 

一度や二度動かしても水は出ません。 
そのとき疑いの念がおこってもやめてはいけません。 
水は井戸の底にあるのですから、何度も続けて動かすのですよ。 ―― 




https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/41bee3022cfa6c09ccb0c4ac71bea52f
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-13)

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59 


(2)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105


(3)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」②
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458658


(4)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」③
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6582228


(5)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」④
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6691070

(6)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑤
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6819394

(7)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑥
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7167361

(8)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7788859

(9)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑧」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7989007

(10)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑨」
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(11)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑩」
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(12)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑪」
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(13)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6620484

(14)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎②」
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(15)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎③」
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       <感謝合掌 令和5年1月3日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」07-a 生長の家 - 伝統

2023/01/04 (Wed) 14:11:03

徳久克己「ヨハネ伝講義」07-a 生長の家
妙楽天国( 2018/04/18)
https://www.youtube.com/watch?v=VGt9F4KY-Aw

         <感謝合掌 令和5年1月4日 頓首再拝>

“祈り” は実践と努力とによって完成する - 伝統

2023/01/05 (Thu) 04:55:08

     *生長の家』(昭和33年12月号 谷口雅春先生)より

「神」 なる “永遠の完全理想” に近づこうと云う努力が 
“真実なる祈り” である。

“真実なる祈り” とは、「病気を治して貰いたい」 とか 
「金を儲けさせて貰いたい」 と云うような
利己的満足を懇願することではないのである。 

「神」 なる 「永遠の完全理想」 に近づくことによって、 
「永遠の完全理想」 の中には、病気も貧乏もないから、
自然、病気も貧乏も消滅してしまうのである。 

過去の心と行いとに対する懺悔の念が、
その人から “ニセモノ” の殻を脱がしめ、
神の波長に近づける心境にその人をするのである。

神に近づくには真剣でなければならない。 
「明るく笑え」 と言っても、
冗談や不真面目な笑いであってはならないのである。 

真剣に神に近づくことを求むる者のみが、
自己の人格を聖化することが出来るのである。 

誘惑に負けてはならない。 

吾々は自己の “心の波長” だけのものを受取ることが出来るのは、
ラジオ・セットと同じことである。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p34.html
晴れときどき(2014 年 4 月 22 日)

         <感謝合掌 令和5年1月4日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」07-b 生長の家 - 伝統

2023/01/05 (Thu) 14:42:54

徳久克己「ヨハネ伝講義」07-b 生長の家
妙楽天国( 2018/04/19)
https://www.youtube.com/watch?v=fgrI1j2fimQ

         <感謝合掌 令和5年1月5日 頓首再拝>

「末井 勉先生の体験談」覚え書き - 伝統

2023/01/06 (Fri) 04:57:32


       *Web:気の向くままに(2013年12月22日)より

さて、今日は40年前に飛田給練成を受けた時、
当時「全国巡回本部講師」であられた
末井 勉先生の体験談を書かせてもらいます。

愛知県教化部にも来られたことがあるのですが、
この話を聞いたことがあると云う人は、もうそう多くはないと思うし、
わたしにとって忘れられないとても印象的な話でもあるので、
ここへ書き留めておきたいと思った次第です。


末井さんがまだ若い時のこと、道を歩いていると、
トラックがバックして来て危うく惹かれそうになり、
慌てて逃げるのですが、

そのトラックはまるで追いかけるようにして、
とうとう末井さんの脚にタイヤがのっかってしまったそうです。

骨が折れたかどうか、細かいところは記憶がありませんが、
ともかく足の怪我は治ったものの、タイヤの下敷きになった
片方の足は曲がらなくなってしまいました。

それ以来、そのトラックの運転手を恨むようになったそうです。

その一方、末井先生は以前から、世界中の誰にも負けないぐらい
熱心に幸せを求めてきたとのことでした。

そしてトラックにひかれて何年か過ぎたときのこと、
ある人から、その曲がらない足も「生長の家」に行ったら
治るかもしれないときいて、どんな治療院かと思いながら、
教えられた先生の家を訪ねて行きました。


先生というからさぞ立派な邸宅だろうと思っていたが、
着いて見ると、ただの普通の小さな家だったそうです。

はじめ婆さん出て来て、しばらく待つように言われて
曲がらない片足を伸ばしたまま縁側に座って待ちました。

するとやがてお爺さんが出てきたそうですが、
そのお爺さんはメクラで口髭のところにご飯粒が一つ
着いていたとそうです。

そして、そのお爺さんはメクラですから、
そこに末井さんの脚があることに気が付かず、
なんとその脚の上に尻をおろしました。

末井さんは痛いとも言えず、呆気にとられていると、
その爺さんはドモリながらいきなりこう言ったそうです。

「お、お、おまえは、し、し、し、幸せになりたいかっ?」

末井さんは誰にも負けないぐらいに幸せを求めて来たから、
「幸せになりたいか」ときかれて、思わず「幸せになりたい!」と、
大きく返事をしました。

すると爺さんはすかさずドモリながら、最後は怒鳴るように言いました。  

「に、に、人間はなあ、た、た、たとえ、ひ、ひ、ひとりでも、
 は、は、はんぶんでも、う、う、うらんでいては、幸せになれんぞ~」
                                         
それは聞いた末井さん、その瞬間、脳天に電撃ショックを受けたそうです。

地球が真っ二つに割れ、真っ二つに割れたその間を
末井さんはまっさかさまに落ちて行きました。

落ちて行きながら、
「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」という
お釈迦様の声が三回聞こえてきたそうです。

しばらくしてその衝撃から我にかえった末井さんが目を開くと、
先ほど爺さんの髭についていた米粒が、黄金色に燦然と輝いていたとのこと。

それからどうなったか、細かいことは覚えていないので、先へ飛ばします。


末井さんは、ともかく爺さんに礼を言って、その先生宅の外へ出て、
乗ってきた自転車にまたがりました。  

すると、どこからともなく、
「末井さん、末井さん、良かったね、良かったね」という
声が聞こえてくるそうです。

はて、誰が言っているのか、まわりを見ても人は誰もいません。

おかしいなあと思ってなおも注意して辺りを見ていると、
なんと、それはそばにあった電信柱がそう言っているのでした。

末井さんはビックリして自転車を降り、思わず電信柱に抱きつき、
「お前までわしのことをそんなに喜んでくれるのか」と、
感激し電信柱に抱きついてしばらく泣きじゃくっていたそうです。 

 (実際に電信柱に抱きつく格好をしながら話をされて、
 その格好がまた本当に面白くて、みんな感動したり、笑ったりしながら、
 次はどうなるかと耳を傾けて聞いていました。)

しばらくしてわれに返って、
「こんなところを人に見られたらキチガイに思われる」と電信柱を離れ、
再び自転車にまたがりました。

そして、前に進もうとしたら、今度は道端の石ころ一つ一つが、
仏画の観世音菩薩そのままに極彩色に輝いていて、
またまたびっくりしました。

それを踏みつけて進むこともできず、
「ああ、もったいない」と躊躇していると、今度はさらに、
民家の瓦屋根の一つ一つが、すべて観世音菩薩となって輝いているのでした。



もったいなくて前に進めない末井さんでしたが、
いつまでも、立ち往生しているわけにもいかず、
「すみません、通らしてもらいます」と言いながら、帰路につきました。

堤防にさしかかると、また、どころからともなく、
「末井さん、末井さん、良かったね、よかったね」という声が聞こえてきます。

なんと、今度は堤防の草むらが風に揺れながらそう言っているのでした。

末井さんはまた、自転車を降りて草に抱きつくようにして、
うれしさで嗚咽しました。


家に帰って、「よし、今度こそ、あの運転手に謝ろう」そう思いました。
そして、怨んでいた運転手の家を訪ねました。

絶対謝ろうと決心して出かけて来たのですが、
その運転手の顔を見るとどうしても謝れません。

「いや、謝るんだ」「だめだ、どうしても謝れん」

どうしても謝れない自分に、う、う、うと呻きながら、
末井さんは思わず合掌してくず折れました。

そして、ついに言いました。

「すま~ん!赦してくれ~、わたしが悪かった~」

気がつけば、あの何年も曲がらず、
あきらめていた膝が曲っていたという、

そういう話でありました。



以上で末井先生の話はおしまいですが、                                                            
末井先生は、こんな話を時折ジョークを飛ばし、
またみずからも、「あ、あ、あ」という妙な笑いをしては
聴取を笑わせ、そしてまた、唾を飛ばすような
熱弁でお話しして下さいました。

あの当時、わたしにとっては話術の面白さと
内容の不思議さで感銘しながらも、面白くきいていたのですが、

いま思い出しながらこれを書いていると、
めがしらが熱くなり、涙がこぼれそうになりました。

末井先生、心より感謝申し上げます。

本当にありがとうございます。

https://blog.goo.ne.jp/suzuhide1123/e/ea476563f0214c9ca8abc6de0892e176

         <感謝合掌 令和5年1月5日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」08-a 生長の家 - 伝統

2023/01/06 (Fri) 15:19:23

徳久克己「ヨハネ伝講義」08-a 生長の家
妙楽天国( 2018/04/20)
https://www.youtube.com/watch?v=dOi-FcPUj3c

         <感謝合掌 令和5年1月6日 頓首再拝>

不足を満たすだけでは幸福になれない - 伝統

2023/01/07 (Sat) 04:53:20


      *藤原敏之「すべてを癒やす道」より
       Web「神は愛なり」(2021年10月25日)
        https://ameblo.jp/sbmaitnanixy/entry-12706136731.html?frm=theme

(以下は抜粋です)

(1)すべての人が幸福を切に求め、願っているにもかかわらず、
   大部分の人が不幸であるのは何故なのか。

(2)それは、幸福を求め、願いながらも゛幸福゛なるものの実体、
   本当の幸福とはどういうものかを知らないからであります。

   それは゛幸福なるもの゛の影、
   いいかえると幸福になるための条件を追い求めているだけ
   だからなのです。

(3)たいていの人は゛幸福とは条件である゛と
   思いちがいしているのであります。

   病弱の人は゛健康゛を願い、
   経済的に貧しい人は゛物質的な豊かさ゛を追い求め、
   地位のない人は゛地位を…゛という具合に、

   何か不足しているものをさがしては゛これではまだ不幸だ゛
   と不足した条件を満たすことのみに、きゅうきゅうとして、
   足ることを知らず、゛不幸だ゛不幸だ゛と嘆くのであります。

   これでは幸福になりようがないのであります。

(4)本当に救いが実現し、証明せられ、裏づけがあってこそ、
   本当の値打ちがあります。

   生長の家のすばらしさは、このようなところにもあります。

         <感謝合掌 令和5年1月6日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」08-b 生長の家 - 伝統

2023/01/07 (Sat) 13:07:01

徳久克己「ヨハネ伝講義」08-b 生長の家
妙楽天国( 2018/04/21)
https://www.youtube.com/watch?v=fC4_ZqxCf1U

         <感謝合掌 令和5年1月7日 頓首再拝>

生命奉還  ―  真個無我に徹する ~ 谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/08 (Sun) 04:53:46


       *『生長の家』(昭和15年9月号 14頁)より

生命とは 「肉体」 ではございませぬ。 
生命とは 「物質」 ではございませぬ。 

さもなければ 「身を殺して仁を為す」 とか、
「生命を捐つるものは生命を得ん」 とか、
「義のために一身を空しくする」 とか、
四十七義士のハラキリとかは理解する事が出来ませぬ。

 
生命の凱歌は 「肉体」 を捨て 
「物質」 を捨てたときあがるのであります。 

『生命奉還』 であります。 
天皇陛下に生命奉還であります。

教育勅語に 明治天皇が 
「皇祖皇宗國を肇むること宏遠に」 と仰せ給いし際の 「國」 とは
 「宇宙 (くに)」 であります。 

「宇宙 (くに)」 の生命は皇祖皇宗が
國を肇め給いしときに発生したのであります。

天地の初発の時に、天皇先いまして、その勅によって 
「漂へる國」 は初めて 「自凝島 (おのころじま)」 と
なったのであります。 

「漂へる國」 とは姿定かならざる宇宙であります。 
姿定かならざる宇宙とは 「無い宇宙」 であります。 
「自凝島」 とは姿をはじめて顕した宇宙であります。

 
「無い宇宙」 をして 「有る宇宙」 ならしめたのは、
其処に 「宇宙大生命」 が働いたのであります。 

宇宙大生命  ―  これを称して天之御中主神と申上げるのであります。

天之御中主神は宇宙の幽の幽なる本元の大神であらせられ、
皇祖であらせられ、歴史以前に遡れば
大日本初一代の天皇 (すめらみこと) であらせられます。

凡て生命 天皇より流れ出ずるのであります。 
宇宙は 天皇の‘もの’であり給う。 

何一つ 「私」 は無いのであります。 
真個無我であります。

この真理を知るとき、おのずから 『生命奉還』 の心起るのであります。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/886d724ea5739893f78ac5b67e0d95fa
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-16)

         <感謝合掌 令和5年1月7日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」09-a 生長の家 - 伝統

2023/01/08 (Sun) 18:38:37

徳久克己「ヨハネ伝講義」09-a 生長の家
妙楽天国( 2018/04/22)
https://www.youtube.com/watch?v=RYEi4Lu2Emc

         <感謝合掌 令和5年1月8日 頓首再拝>

家相について - 伝統

2023/01/09 (Mon) 04:52:11


       *「白鳩」(昭和37年12月号 谷口雅春先生)より

家相を気にしてはならない。

家相は住む人の心の状態によって、どうにでも変るものである。

家相は家の輪郭や間取りだけで
固定してしまっているものではないのである。

それは人間の人相が顔の輪郭だけできまるものではなく、
顔の道具 〈眼、鼻、口等〉 の配置によって、よくも悪くもなり、
憤怒して眼をつり上げれば険しくなり、
笑って眼尻が下がればやさしくなるように、

家相はその家に住む人が家の道具を何処に配置するか、
その置き場所によって変るのである。

そして家具等を何処に置くかは、
住む人自身の心できめるのであるから、
家相も人相と同じく自分の心によって良くもなれば悪しくもなるのである。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p35.html
晴れときどき(2014 年 4 月 29 日)

         <感謝合掌 令和5年1月8日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」09-b 生長の家 - 伝統

2023/01/09 (Mon) 14:32:50

徳久克己「ヨハネ伝講義」09-b 生長の家
妙楽天国( 2018/04/23)
https://www.youtube.com/watch?v=YXVcl766qAs

         <感謝合掌 令和5年1月9日 頓首再拝>

真理と感謝とは車の両輪である~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/10 (Tue) 04:54:23


        *『女の浄土』(P31)より

真理の言葉を吟唱すると共に必要なることは、
常に感謝の念を起し、感謝の言葉を唱えることである。

真理が本当にあなたの潜在意識に落ちついたならば、
自然に感謝の念が起るのであるが、

また、逆に感謝の言葉を唱えたり感謝の念を起すことによって
真理が潜在意識に深く理解されることになるのである。

真理の言葉と、感謝の想念感情とは表裏一体の働きをなすのである。

感謝は万物の本源である神に向ってすると同時に、
神徳の顕現であるところの天地一切のもの、
特に自分の身辺にある者にするがよい。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ad6312a53dbb2a62b188617af34f5fa6
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-07-02)

         <感謝合掌 令和5年1月9日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」10-a 生長の家 - 伝統

2023/01/10 (Tue) 19:57:59

徳久克己「ヨハネ伝講義」10-a 生長の家
妙楽天国( 2018/04/24)
https://www.youtube.com/watch?v=ZL9_fcg8kRs

         <感謝合掌 令和5年1月10日 頓首再拝>

生長の家発見~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/11 (Wed) 04:58:28


       *『光の泉』(昭和39年11月号 56~61頁)より

『若人のための78章』 の49頁にこう書かれております。

「自然が神の創作したまえる直接芸術であるに対して、
 人生は人間の自由意志によって想像する芸術であるということが出来るのである。 

 色とりどりの人生は、すべての人間の各々の想念という絵の具によって彩られて、
 五彩七彩の輝きをあらわすのである。 

 そこに悲劇があらわれているにせよ、喜劇があらわれているにせよ、
 それは作者の創作であって、神が決して押しつけた運命ではないのである」


この人間の運命というものが、神が決して人間に押しつけたものではない、
すなわち決して宿命的なものでないということを
吾々は知らなければならないのであります。

私は或る宗教におりました時代に、その宗教では、
愈々近いうちに神様が此の世界を建て替える最後の時が来ると申しておりまして、
神様の気に入らないところの不良の人間を、「地震、雷、火の雨降らして」 
滅亡せしめて、神様の気に入る人間だけを地上に残すというようなことを
説いている教えであったのであります。

ところが私は或る日の事、自分の家の庭を見ておりますと、
一匹の蛇が出て来て蛙を呑んでいたのを見たのであります。

「ああ、可哀想だなあ、あの蛙は。 あの蛇を棒で撲って、蛙を助けてやろうか」

と一時は、思ったのでありますけれども、

「いやいや、蛙を助けて蛇を撲ったら一体蛇っていうものは何を食べて生きるんだろう。 
 又別の蛙を掴まえて食べるからあの蛙は救かるかも知れんけれども、
 他の蛙は救からんことになる。 

 或いは他の蛙が見つからないとしたらあの蛇は飢え死にをしてしまうかもしれない。 
 蛙を救けると蛇が死ぬ、 蛇を救けると蛙が死ぬ。 何という不調和な世界なんだろう」

と私は思ったのであります。

「どうしてこんな不調和な世界を神様が拵えたのであろう」 と私は考えました。 
互に食い合い殺し合いをしなければならないような、
不完全な世界を神様は拵えたのは誠にもって怪しからぬ。 

これに創造主 (つくりぬし) があるなら創造主の責任である。 
そんな不完全な創造神が、人間が争い、食い合い、殺し合い、不徳な行いを
するからといって、人間に罰を与えて神様自身の気に入らぬ人間は、
皆殺しに殺してしまうというような、そんな不合理な事があるだろうか。 

神自身が不完全じゃないか。 
そんな不完全な神は 「神」 と称するに足りないものである。 
そんな神は存在しないのである。 

ついに私はこう考えたのであります。 

そうして私は、その宗教から脱退した。 

そして此の世界はそういう神様が拵えた世界ではない、
これは人間の心が拵えた世界なのである。 

つまり人間自身の心が展開してそれが時間・空間面に現われている世界が、
この肉眼で見える現象世界である、こういう風に私はその時考えたのであります。

私はその時、神の宇宙創造説からぬけ出して、
この見える世界は 「唯心所現の世界」 であると考えるようになったのであります。 

この世界は唯心所現の世界、即ち 「心のあらわす処の世界」 であって、
神様が拵えた世界じゃないんだと考えるようになったのであります。

お釈迦さんも矢張りそう思われた時代があったという事を
私は仏典で読んだことがあります。

お釈迦さんは或る日の事、王宮の外苑を散歩しておられましたら
一匹の烏が出て来て土を掘って何か蝉の幼虫のような、芋虫のようなものを
掘り出して食べているのであります。 

その芋虫のような生物は烏の嘴につつかれて、
からだをくねらせて痛そうに苦しんでいる。 

それを釈尊が御覧になった時に、 

「ああ、この世界は悲惨な世界である、生存競争の世界である。 
 弱肉強食の世界である、殺し合いの世界である。 

 そこには “生” の苦しみが充満している、
 この “生” の苦しみを解脱するのにはどうしたらよかろうか」

と考えなやまれた。 

これが釈尊の出家せられた動機の一つになったということでありますが、
私は蛙と蛇との闘争を見て、此の世界は神の創造の世界ではない
  ―  愛深き神様が拵えた世界じゃないんだ、
人間の心の創作の世界であると考えるようになったのであります。


それからしばらくしまして、私は、宇宙の創造神が
此の世界に地震、雷、火の雨をふらして最後の審判をおこなう
というその教団から脱退いたしまして、
著述家になろうと思って東京へ飛び出して、或る本を書いたのであります。 

しかしその教団を飛び出したけれども、心の奥底に、この弱肉強食の闘争の
此の世界を調和ある世界にするには如何になすべきか。 

このままでは人間は救われない。 
その救われないことに自分自身が悩む心が起って来るのは一体どうしてであろうか、
という事を考えずにはいられなかったのであります。

その闘争の世界から目を挙げて、
“救い” を求める心というものが起って来るのは、
どうしてそれが起って来るのであるか。 

その “救いを求める心” がたまらなく自分の心をかき立てるのは、
何処かに、本当に 「救うところの本体」 があるからではないか
  ―  だからこそ、こういう “救いを求める心” が
切実に起って来るのではなかろうか ・・・。

《切実に吾々が魂の底から求めるのは、
 既にそれが‘ある’からそれを感じ求めるのではないか》

というような感じがして来たのであります。

即ちこの世界を造ったのは 「吾々の心」 であるが、
併し 「吾々を救う処の何か偉大なる者」 が何処かにあるに違いない ―― 。 

何処かにその偉大なるものがなかったら、
こうして切実に魂の底から “救いを求める心” が起って来る筈がない。 

私の心の底は、何処かにその救いを求める尚一層大なるものにつながっていて、
それを感じているのである。 

既にそれを暗黙のうちに感じ知っているからこそ、それを求めるのではなかろうか ―― 。

「救いの本尊」 が何処かにある。 それを 「神」 と言えば 「神」 と言える、
しかしその 「神」 はこの悲惨な弱肉強食の現象世界を拵えたんじゃないんだ、
という直感が這入って来たのであります。 

ここに現象世界の創造者と、実在の世界の創造者とを
ハッキリ分けて考えなければならぬことに気がついたのであります。


その直感が今、生長の家の教えの奥底にあるのでありまして、
その 「救いの本尊」 は何処にあるかと言うと、
それは 「実相の世界」 にあるという風に今では
生長の家では説かれているのであります。

この肉眼で見るところの世界は、殺し合いの世界は、奪い合いの世界は、
食い合いの世界は、それは吾々の “心” のあらわすところである。 

“心” が変ればそれは変わる。 けれども、その現象世界の、
殺し合いの世界のその彼方に、もっと 「超越した処」 に
完全な実相の世界があって、そこはイザヤ書に書いてあるように、
蝮のすむ孔に子供が指を突込んでも蝮と子供とはたわむれ遊んで蝮が子供を傷つけない。 

ライオンと羊とは仲良く草を食っているようなそういう世界が既にある。 
既にあるからこそ吾々の求める気持が、自己の生命の奥底から押し出してくるのである。

実相の世界にはすべて生きとし生けるものが互に完全に調和した姿において、
‘そこに’既に在るのだ。 その世界はどうしたら出て来るか、
どうしたら現象化して出て来るかという事に、私は思い悩んだのであります。

そうして遂にそれを発見したのであります。 
それは現象世界は心のあらわす所でありますから、
心を媒介として、心をレンズとして、その心を澄み切らして、

完全に心を透明にして 「実相の世界」 の光が射し入るようにした時に、
その心を媒介として心のあらわす処の現象世界に、
実相世界の完全な相が投影して、諸法がこのまま実相となる。 

この 「実相の世界」 のことを 
「仏の世界」 と言ってもいい、「神の世界」 と言ってもいい、
天国と言ってもいい、「お浄土」 と言ってもいい、
それこそが本当に実在する世界である。 

その実在の既存の完全な世界が、
心を媒介として吾々の現象世界にそれがあらわれて来させる  ――  
これが “地上天国建設運動” であります。


しかし、この真実在の完全な実相世界は、霊的世界であって、
物質世界ではありませんから、観じなければあらわれないのであります。 

その観ずる方法として私は 『神想観』 という観法を
神から啓示されたのであります。 

その 『神想観』 によって実相の完全なる姿を心の眼をもって正観する時に、
完全な実在の姿が現象世界にまで延長して出て来るのであります。



https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ec55561a7502828b7d61537c45497254
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-16)

         <感謝合掌 令和5年1月10日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」10-b 生長の家 - 伝統

2023/01/11 (Wed) 15:43:16

徳久克己「ヨハネ伝講義」10-b 生長の家
妙楽天国( 2018/04/25)
https://www.youtube.com/watch?v=ss2Em_IrRUI

         <感謝合掌 令和5年1月11日 頓首再拝>

「すべての背後に法則がある」「善業の種をまくこと」 - 伝統

2023/01/12 (Thu) 04:44:39


        *藤原敏之「すべてを癒やす道」より
         Web「神は愛なり」(2021年10月27日)
        https://ameblo.jp/sbmaitnanixy/entry-12706496929.html?frm=theme

(以下は抜粋です)

(1)運とは何かと申しますと、運とは゛運ぶ゛という意味です、
   運賃とか運送とかいう場合の運です。

   何が運ぶのであるかといいますと、それは法則であります。

(2)この世界には法則なるものが厳然として存在するのであります。

(3)すべてのものは法則によって動いている。

   このように一切のものをあるべき姿に現わし、
   あるべき位置にあらしめている不思議な何ものかを
   宗教では神とか仏とか名づけて、
   親しみやすいように人格化しているだけなのです。

(4)この法則を真理と呼んでいるのです。
   真理というのは、普遍の理、絶対の法則であるという意味です。

   平等であり、永遠にかわることなく、
   どこでも、いつでも誰にでも変わらない法則なのです。

(5)この法則によって運命がつくられるのです。
   この法則は、万人に公平であり、平等であります。
   ちょうど乗り物のようなものであります。

   この法則に乗って信じて委せ切れば、
   誰でも思いのままに幸福になることが出来るのです。

(6)仏教では、このことを因果律と申します。
   因果律とは、因縁結果の法則という意味で、
   善因善果、悪因悪果ともいいます。

(7)また仏教では業ともいいます。
   善業は善果を現わし、悪業は悪果を招くと教えています。

   その業をわけて、身・口・意の三業ともいい、
   身体で行なう業、口で現わす言葉による業、
   さらに心に思う業と三つに分類しています。

   (その中で)
   最も重い、最も強い力をもっており、大きな働きをするのは
   意業であります。

   これは心で思うことですから、相手を呪い、憎むことは
   何万キロ離れていても通ずることが出来るとされております。

   この念力が、すべてのものを形の世界に造り出す、
   最も大きな力となり、働きをするのであります。

   ですからこの念力をまちがった方向に働かすと、
   とんでもない結果を招くことになるのです。

(8)私たちの運命や環境をつくり出す原動力となり、
   形の世界に現わす根本原因となるものは想念であり心であります。

   運命をつくり出す心、目的に向って運ぶ心を正していかなければ、
   どんな方法で努力してみても幸福になることは出来ないのであります。

         <感謝合掌 令和5年1月11日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」11-a 生長の家 - 伝統

2023/01/12 (Thu) 12:54:52

徳久克己「ヨハネ伝講義」11-a 生長の家
妙楽天国( 2018/04/26)
https://www.youtube.com/watch?v=1hG4jH0_C28

         <感謝合掌 令和5年1月12日 頓首再拝>

暗黒を消す道~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/13 (Fri) 04:52:27


        *『生長の家』(昭和26年5月号 巻頭言)より

一切は神の想念によって創造られたものであります。 
神以外に創造主はないのであります。 

神の想念には不浄なもの不完全なもの不健全なものは存在しない
のでありますから、神につくられたる一切は、
すべて浄らかなるもの、完全なるもの、
健全なるものであるほかはないのであります。 

だから真に実在するものは浄らかであり、完全であり、
健全でありますから、人間もまたすべて浄らかであり、
完全であり、健全であるのであります。

病気、不幸、災難、その他不健全なる一切のものは、 
『すべては神の霊的想念の具象化』 であると言う真理を
わすれた人間の妄想の産物に過ぎないのであります。 

吾々は時として暗黒を真に実在するが如く感ずるものでありますが、
暗と言うものは、真に存在するものではなくて 
『光の非在』 と言う状態に過ぎないのと同じ様に、

吾々は時として 『不幸』 や 『病気』 を
真に実在するが如く妄想するのでありますが、
それは真に存在するものではなく、 

『実相を自覚しない』〈実在に目を瞑じている〉 と言う
消極的状態に過ぎないのであります。

罪とは実に 『包み』 と語源を同じうするものでありまして、
実在の実相に眼を瞑じ、包み蔽いくらましてしる状態に過ぎない
のであります。 

罪とは実在にあらずして ‘状態’ であり、
しかも自己の実相を ‘隠覆せる状態’ なのであります。 

‘状態’ は固定したものでありませんから、
罪を消すには唯、目を覚ましさえすれば好いのであります。 

即ち、実在の実相を自覚すれば好いのであります。 

これを観普賢菩薩行法経には、 
『懺悔せんと欲せば端坐して実相を観ぜよ。 
 衆罪は霜露の如し、慧日よく消除す』 と説かれているのであります。 

即ち、心の眼をひらいて実相覚によって、存在の実相を観、
自己の本体の実相の至美至妙完全円満なることを観ることによって、
一切の仮相〈みせかけ〉の不完全な状態は影をひそめてしまうのであります。

暗黒を消すには、唯、光明を点ずるだけでよい。 
それと同じように一切の不幸と病気とを消すには、
唯、実相を観じて、深くそれを自覚すればよいのであります。 

しかし自覚は自覚と共に動き出す自然法爾の動作があるので
ありまして、それを惰けたり拒んだりしてはならないのであります。 

覚行ともに円満完全となる時、万事が整うのであります。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p35.html
晴れときどき(2014 年 5 月 1 日)

         <感謝合掌 令和5年1月12日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」11-b 生長の家 - 伝統

2023/01/13 (Fri) 15:22:50

徳久克己「ヨハネ伝講義」11-b 生長の家
妙楽天国( 2018/04/27)
https://www.youtube.com/watch?v=glAzG1k9i2I

         <感謝合掌 令和5年1月13日 頓首再拝>

新たに生れる言葉 - 伝統

2023/01/14 (Sat) 04:12:44


     *『日々読誦三十章経』一日の経言(のりごと)(P6-P10) より

天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり。

今吾等(われら)は新生(しんせい)したのである。

今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。
自分は自分の生活の主人公なのである。


吾れはいま力と勇気とをもって新生し
新しき日の仕事と生活とに向うのである。

吾れは今わが仕事に
溢(あふ)るる熱誠(ねっせい)をもって赴(おもむ)く。


吾れは歓びに満たされて進み行く。

そは吾れいま吾が求むるものは
凡て神より与え給(たま)うと信ずるからである。


吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る。
吾れは決して此(こ)の感じを失わないのである。


吾れは今日(きょう)も終日(ひねもす)
吾れを支えたまえる無限全能の力をわがうちに感ずるのである。

何が吾れに起って来ようとも、
其れに対する準備が与えられていないと云(い)う事はあり得ない。

吾れに智慧が必要ならば其(そ)の智慧は既に与えられているのである。
吾れに愛が必要ならば其の愛は既に与えられているのである。
吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
吾れに力が必要ならば其の力は既に与えられているのである。


吾が内なる生命は、神と融(と)け合って一つとなっているのである。
吾が内より生命の清水(しみず)は無限に泉(いず)み出るのである。


真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、真理の道にわれを導き給うのである。
吾れは全能の力によって守護されているのである。


吾れは無限の力の泉を自己の衷(うち)に有する。
不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。

今日(こんにち)われに接する人々は、
わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。

吾れは此の魔力の如き力が、
吾が内に宿れる『無限なる者』の力であることを知るのである。

吾れ此の『無限なる者』に感謝し奉(たてまつ)る。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c91df6fd012e6c6d5774061a27e5ca05
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-07-04)

・・・

<参照>

伝統板・第二「日々読誦三十章経 」
https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6505730


谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「日々読誦三十章経」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=17

         <感謝合掌 令和5年1月13日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」12-a 生長の家 - 伝統

2023/01/14 (Sat) 14:01:10

徳久克己「ヨハネ伝講義」12-a 生長の家
妙楽天国( 2018/04/28)
https://www.youtube.com/watch?v=jMHUSg4vyXA

         <感謝合掌 令和5年1月14日 頓首再拝>

『天皇獨在』 の真理は病をも癒す~吉田 國太郎 - 伝統

2023/01/15 (Sun) 04:45:42


       *『生長の家』(昭和14年9月号) より

谷口雅春先生によって私達は 
『天皇獨在』 と云う真理にめざめさせて戴きました。

天皇陛下の大御生命一つのみ此処に坐して、
私達生命あるものは禽獣草木の果に到る迄
大御生命によって生かされて此処にあると云うことであります。

日本人として此の世に生をうけ、
今現に大御生命に生かされて生きていながら、

其の有難さを身に沁みて感謝出来ないと云うことは、
その人自身の大きな不幸であるばかりではなく、
此処が確立しません時、それは日本の不幸だと思うのであります。

一つになる処に強さが出てくるのだと思います。 
他からくずすことの出来ない強いものが生れてくるのだと思います。

思想の貧困などと云う言葉がありますが、
吾等全てが 陛下の内に生かされて生きてある大自覚  
天皇獨在の真理 ― 此の真理に目覚め、此の有難さに
感謝出来る人間になる事が、此処へ皆が一つになれます事が
大変大切な事だと思うのであります。

此処に冒す事の出来ない日本の強さが生れてくるのであります。 

此処につながります時、思想の貧困もなければ
何も最早云うことはないのであります。 

唯光栄に感謝して其の時そのままを生き行けるばかりであります。

 
岐阜市外那加の河村尚賢さんは胃癌に苦しめられ、
医学に絶望し生長の家に救いを求められたのでありますが、

此の方が  陛下の有難さ、今生命ぐるみ救われてい
る此の有難さを一度と雖も拝んだことの無い人であります。

ユダヤ問題の話を説ききかされ、やがて天皇獨在の真理に迄
諄々と説ききかされた時、河村さんの心を覆うていた迷いの埃が
ふきはらわれたのであります。

初めて拝む 陛下の有難さ、宇宙大に広がる 陛下の無限絶対さ、
此の目覚めに立った時、河村さんの胃癌はいつの間にか消えて
影をひそめていたのであります。

これは事実であってうそではないのでありますが、
それは副産物でどうでもよいと云えばどうでもよいのでありますが、

天皇獨在の真理の目覚め、
大御生命を今此処に割き与えられて生きる生活は、
日本人一人一人の心の底に植えつけたいのでありまして、
植えつけなければならないと思うのであります。

日本書紀に御徳を讃え奉りて 『光華明彩六合に照徹』 とあるのは
このことだと畏れ多い極みであります。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/d1531815e6aa3fd5e3000db56ed8918b
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-18)

         <感謝合掌 令和5年1月14日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」12-b 生長の家 - 伝統

2023/01/15 (Sun) 15:14:58

徳久克己「ヨハネ伝講義」12-b 生長の家
妙楽天国( 2018/04/29)
https://www.youtube.com/watch?v=FKZxFwvEmnA

         <感謝合掌 令和5年1月15日 頓首再拝>

超宗教 - 伝統

2023/01/16 (Mon) 04:32:38


        *藤原敏之「すべてを癒やす道」より
         Web「神は愛なり」(2021年10月28日)
        https://ameblo.jp/sbmaitnanixy/entry-12706652743.html?frm=theme

(以下は抜粋です)

(1)困った時すがるのが宗教ではない。

   神様というのは困ったときに上手にお願いし、熱心に頼んだら、
   ゛そんなに困って、そんなに熱心に頼むなら、よし!!
   何とかしてやらなければなるまい゛と腰を上げて助けに来て下さる
   というような救い方をなさるのではありません。

   そんなのは正しい信仰ではなく迷信です。
   迷信では、どんな方法でも本当の救い、本当の解決にはなりません。

(2)生長の家は大安心に達し得るところの超宗教なのです。
   生長の家のみ教えは唯神実相哲学であり、
   神一元、実相一元に徹する教えだからであります。

   現象や条件を信ずるのではなく、
   神を信じ、神だけを対象に生活する教えだからであります。

   神以外は徹底的否定し、実相以外は断じて肯定しない
   という徹底した教えであります。

   一般の宗教論理を超越したところの救済法なのです。

   この真理を体得しない者には想像もおよばないところ、
   全く次元のちがう教えであります。

(3)人間は神の分身分霊であり、神の生命そのものであり、
   元々完全円満であって悪いものや不完全なものは一切無い
   のでありますからどうしなくても完全なのであります。

   わかってもわからなくても、知っても知らなくても完全なのです。

         <感謝合掌 令和5年1月15日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」13-a 生長の家 - 伝統

2023/01/16 (Mon) 14:52:22

徳久克己「ヨハネ伝講義」13-a 生長の家
妙楽天国( 2018/04/30)
https://www.youtube.com/watch?v=J-6akfHMlg8

         <感謝合掌 令和5年1月16日 頓首再拝>

今からでも遅くない~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/17 (Tue) 04:44:21


       *『白鳩』(昭和35年9月号)より

生活改善は家庭からです。 

生活改善をするには勇気が要る。 
悪い習慣だと思いながらズルズル引き摺られて旧態依然たる者もあるし、

習慣を自己支配して自由に、
もっと新しく便利で時間と労力との節約ができるように
常に改善している者もある。

『時は金なり』 と云う古い諺があるけれども、
実は時間は金で購うことはできないのである。 

時間を節約して能率を上げる生活方法に踏み切ることが大切である。

 
今からでも遅くない。 

神は時間を超越していたまうから、今からでも神の方へ振向けば、
いつでも神の祝福を受けることができるのである。 

私たちは心が神に振向いた瞬間から自己改善がはじまるのである。

何故なら神は無限の善であり、自己の内に既に神が居給い、
私たちが神の方に心を振向けたとき、
内在の神が普遍の神の心と波長が合い、
神の無限の善が現象面に開顕し始めるのである。 

祈りを深めることによって普遍の神に波長を合わすがよい。

生活を快適にするには 『そのままの心』 になることが必要である。 

つまりキリストの教えたところの 
『十里の公役を強いられなば二十里を行け。 悪に抗する勿れ』 の
教えを実践することである。

と言って現状の不満足に屈従せよと云う意味ではないのである。 

何事でも一応それを素直に受けて、受けてから、
それを何処へ投げるかは、神の智慧によって決定するのである。 


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p36.html
晴れときどき(2014 年 5 月 11 日)

         <感謝合掌 令和5年1月16日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」13-b 生長の家 - 伝統

2023/01/17 (Tue) 15:11:28

徳久克己「ヨハネ伝講義」13-b 生長の家
妙楽天国( 2018/05/01)
https://www.youtube.com/watch?v=8jJESVzlxRE

         <感謝合掌 令和5年1月17日 頓首再拝>

人を拝め、自分を拝め、みんな神の子だ~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/18 (Wed) 05:00:45


       *『 生命の實相 』 頭注版第38巻 より

人の悪口をけっして陰(かげ)でも喋(しゃべ)ってはならない。

言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。

すべての人に対して、愛と敬(けい)とをもって
その人の幸福を祈るべきである。

万人(ばんにん)は神において一体であり、
彼の不幸は必ずや、彼と一体であるところの自己の不幸となって
現(あら)われて来るのである。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/86e39086914b807b9e3fdb70e0da28e8
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-07-22)

         <感謝合掌 令和5年1月17日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」14-a 生長の家 - 伝統

2023/01/18 (Wed) 14:10:30

徳久克己「ヨハネ伝講義」14-a 生長の家
妙楽天国( 2018/05/02)
https://www.youtube.com/watch?v=SNmxTpuLraY

         <感謝合掌 令和5年1月18日 頓首再拝>

本当の “神” を発見した - 伝統

2023/01/19 (Thu) 04:51:52


     *『心の持ち方一つ(下)心と病気』
             徳久克己・著(3頁 ~ 8頁)より

昭和23年から25年頃の間に、
谷口雅春先生の随行をさしていただいた時に、
先生は汽車のなかで、色々と私に教えてくださいました。 

まだ本部講師になったばかりの、未熟な私に、
少しでも生長の家の真理を教えておきたい、という御愛念であったと
思いますが、時に応じて、まことにわかりやすく、
しかも何気なく話してくださいました。

ある時、たしか、汽車のなかであったと記憶していますが、

「徳久君! 生長の家はね、一度、無神論をとおって、
本当の神を発見したのだから、スバラシイのだよ」

こう言われました。 

私は、その御言葉によって、今まで気がつかなかった、
生長の家の真理の深遠なことを、ハッと気づかせていただきました。

 「一度、無神論をとおって、本当の神を発見した」

ということは、先生が自叙伝 『生命の實相』19巻20巻〈※頭注版〉 
にお書きになっておられますが、それまで、私は漠然と読んでいて、
あまり深く考えもしませんでした。 

先生に、このようにハッキリ教えられまして、
そうであったのか、とわかりましたので、私は 
『聖道へ』、『生命の實相』(19巻、20巻) を読みなおしました。

そうしますと、一度、無神論をとおったという意味が、
段々とわかってきました。 それまでウッカリしていました。 

生長の家でとく 「本当の神」 が、少しずつ理解されるようになりました。 
生長の家のスバラシサが、なんとなくわかっていたのですが、
それがわかるのには、ずいぶん長くかかりましたが、

『生命の實相』 のいたる所に、先生がそのことについいて、
書いておられることに、改めて気づきました。

そして、私は 「生長の家」 を信ずるなら、
生長の家でなければわからない、

生長の家の独特の真理を学ばないと、生長の家を信ずる、
本当の喜びは湧いてこない、ということを教えられました。

 「一度、無神論をとおって、本当の神を発見した」

ということは、生長の家独特のことであったのですが、
先生に指摘されるまで、私はそのことには気がつきませんでした。 
気がつきましてから、とても明るい気持になることができました。


『生命の實相』 21巻 〈『甘露の法雨』 講義〉 の、
「神」 の項を、もう一度読みなおしてみますと、
今まで読みました時とはちがいまして、

生長の家でとく 「神」 のことが、
よく理解されるように教えておられます。 

同じ文章を読みましても、読む心が変ると、
こんなにも違うものかと思いました。

『聖道へ』 も繰り返し読みまして、一度、神を否定して、
それから本当の神を発見された、経過を勉強しました。 

先生の並々ならぬ御精進の結果、「物質なし」 という、
神からの啓示をうけられて、本当の神を発見されたことなど、
頭ではわかるのですが、それを実感として体得することは、
とてもできません。 

しかし、そのような勉強をすることによりまして、
私は生長の家のスバラシサが、だんだんとわからせていただきました。


「なぜ、肉体はないのか?」

「なぜ病気はないのか?」 

「なぜ、悪はないのか?」 

というような、心の底にひそんでいた数々の疑問が、
だんだんと消えてゆきました。 

トントクの悟とでも言うのでしょうか、
パッとわかったつもりでいる悟で、わかったと思っていましたが、
心の底では、まだなんとなく、スッキリしないものがあったのですが、
それが少しずつ消えてゆきました。

神は創造主でありますから、この世も神がつくったものである、
と考えるのが、今までの宗教の考えでありました。 

もし、神がこの世をつくったというのなら、
全能であり、愛であるはずの神が、こんな不完全な、
生物が喰い合いをしなければ、生きてゆけない、
そんな悲惨みちみちた世界をつくるはずがないし、
また、人を殺すような悪人をつくるはずがない、

と先生は考えられたのです。

神が悪い人間をつくっておいて、
その悪い人間が悪いことをしたというので、
神が自分のつくった人間を罰するということは、
まことにおかしいことで、

むしろ、悪い人間をつくった神のほうが、悪いのではないか、
というように先生は考えられて、そんな神があるはずがない、
と神を否定されたのでした。

これは、まことに簡単にかきましたが、
先生は色々の方面から考えに考えて、
そのような結論にたっせられたのです。 

とにかく、この現象の世界が実在するならば、
こんな不完全な世界をつくる神は、存在するはずがない、
ということになるのが当然の結論であります。

しかし、キリスト教では、神がこの世をつくった、
と教えていますが、悪いことは悪魔がするのだといいます。 

それでは、悪魔という、神と同じくらいの力をもった存在を、
認めることになってしまいます。 

これも、まことに矛盾したことになることを、
先生は 『生命の實相』 のなかに詳しく書いておられます。


このようにして、先生は神を一度は否定されまして、
それでも、創造主はあるはずだと考えられて、
思索に思索をかさねておられる時、

神から 「物質はない」 という、啓示をうけられて、
この現象の世はないと、現象の世界を否定された時、
本当の神を発見されたのです。 

この経緯は 『生命の實相』 20巻に詳しく説かれています。

このようにして、絶対善なる神を発見せられたのです。 

そして、絶対善なる神の造り給える世界は、
この不完全な現象の世界ではなく、絶対善なる世界であり、
それを 「実相」 となづけられたのであります。


『続々甘露の法雨』 の始めのところに、

「全ての不幸と悲惨とは神の所造に非ざるなり」

という、絶対善なる神を発見され、その神のつくりたまえる、
そのままの世界を 「実相」 となづけられたのです。 

このような経緯を、『生命の實相』 を読むにつれて、
少しずつわからせていただき、生長の家の教にふれさしていただいた、
本当の喜びが、心の底からこみあげてくるようになりました。

この 「実相」 と 「現象」 との区別が、
私には一番むつかしいことでしたが、先生に

「無神論をとおして、本当の神を発見したのだ」、

と教えていただいて、そのことを知ろうと 
『生命の實相』 を読みだしまして、そのおかげで、
生長の家の根本的な真理を勉強することとなり、私はとても幸せでした。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/87293aded4e9819645a544e91151f424
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-17)

         <感謝合掌 令和5年1月18日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」14-b 生長の家 - 伝統

2023/01/19 (Thu) 15:24:17

徳久克己「ヨハネ伝講義」14-b 生長の家
妙楽天国( 2018/05/03)
https://www.youtube.com/watch?v=0Se3hS2KtA4

         <感謝合掌 令和5年1月19日 頓首再拝>

明るい心を持って~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/20 (Fri) 04:52:37


       *『白鳩』(昭和35年9月号)より

どんな時にも明るい心でいなければならない。

たとい不幸がやって来ても、その不幸がやって来たところの、
その意味を見出すならば、明るい心でいることが出来るのである。

不幸がやって来る毎に、明るい方へ心の波長を切りかえて行くように
するならば、暗い方面に合う波長は種切れになってしまって、
ついには現象的にも明るいものばかりが出て来るようになるのである。

どんなに信仰が深くとも、
心が明るくならなければ、不幸は根絶することはできないのである。


金切声や癇癪声で物を言ってはならない。

言葉は常に愛情の表現でなければならない。

柔く温かい感じの言葉は相手を生かすとともに自分自身をも生かすのである。

言葉は創造主であるから柔く温かい感じのする言葉を使うように
心掛けていると、次第に自分自身に温かく柔い性格が養成されるようになり、
容姿までにも温かく柔い感じが現れて来るのである。



https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p37.html
晴れときどき(2014 年 5 月 18 日)

         <感謝合掌 令和5年1月19日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」15-a 生長の家 - 伝統

2023/01/20 (Fri) 14:50:28

徳久克己「ヨハネ伝講義」15-a 生長の家
妙楽天国( 2018/05/04)
https://www.youtube.com/watch?v=mdqKqDivf1A

           <感謝合掌 令和5年1月20日 頓首再拝>

「 生きている 」 とは 「 生かされている 」 ことである~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/21 (Sat) 04:55:59


       *『 真理は生活にあり 』より

人間は、自分ひとりの力で生きているなどと
個人主義的なことをいっても、
それはウソであり、

神と先祖と父母との 生命と智慧と愛とに生かされ 導かれ 護られて
“生かされている”のであります。


今ここに生きているということは、

同時に今ここに生かされているということを

言い換えたに過ぎないのです。

https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/1b8cf76af83d26168f64b37ad5cb83c3
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-07-23)

           <感謝合掌 令和5年1月20日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」15-b 生長の家 - 伝統

2023/01/21 (Sat) 14:45:35

徳久克己「ヨハネ伝講義」15-b 生長の家
妙楽天国( 2018/05/05)
https://www.youtube.com/watch?v=YEB8w_ZHg3M

           <感謝合掌 令和5年1月21日 頓首再拝>

゛現象このまま゛と゛実相そのまま゛ - 伝統

2023/01/22 (Sun) 04:56:53


        *藤原敏之「すべてを癒やす道」より
         Web「神は愛なり」(2021年10月30日)
        https://ameblo.jp/sbmaitnanixy/entry-12707094166.html?frm=theme

(以下は抜粋です)

(1)現象界の出来ごとは、すべて心の影でありまして、
   心の通りにうつるのです。

   心で思った通り、決めた通り、信じた通りになるのです。

(2)本当に人間が幸福な、明るい生活を送るためには、
   絶対の神を発見し、信ずることが根本となるのであります。

   生長の家の教えは唯神実相論でありまして、神は光であり、
   神のつくり給うた世界は、光一元であり、善一元であり、
   光のほかは何も認めない教えであります。

(3)暗(不幸)は積極的にあるのではなく
   光りの非在に過ぎないと教えられています。

  ①神を認め信じた程度にしたがって、悪は退散するのであります。
   光を認め、雨戸をあけるのは自分自身であります。

  ②本来ないはずの暗(病気や不幸)は、
   すべて本当のことを知らない無明(まよい)であり、

   無明は、真理(本当のこと)を知らない結果、
   仮りに現われている状態であります。

  ③暗は真実存在ではないから、光がくれば自然に消えるように、
   無明は本来ないから、真理を自覚し、真理を体得すれば、
   本来ない暗が光を当てると同時に消えるように、
   無明も消えることになるのであります。

(4)人間はとかく、真理だといえば真理に引っかかり、
   無明だときけば無明に引っかかりやすいのでありますが、

   真理とは前にも述べましたように、絶対の法則ということであり、
   真実(本当)のことという意味であります。

(5)神につくられたままの、条件づきでない、如何なる引っかかりもない、
   片よりもない゛そのまま゛が幸福なのであります。

   よく゛そのまま゛と゛このまま゛とをまちがえる方がありますが、
   ゛そのまま゛は゛このまま゛ではありません。

   そのまま゛は、相対的な条件を超えた、
   それ自身で完全円満欠くることなき神につくられたままの
   実相をいうのであり、

   ゛このまま゛の方は現象になります。

   実相のままであれば、病気も不幸もないのです。
   この゛そのまま゛が幸福の正体であります。

   実相は、神そのものであり、幸福そのものであります。
   これが幸福の正体であり、自分自身の正体なのであります。

(6)実相の世界は、神のおつくりになったままの世界ですから、
   神のおつくりにならない不完全なものは一切無いのであります。

   このことを自覚するのを、゛真理を覚る゛というのであります。

(7)人間はそのままで幸福なのであります。
   この真理がくらまされている状態を、無明と仮にいうのであって、
   この無明も本来ないのでありますから、

   真理を覚り、光をかかげることによって本来無い暗が消えるように、
   無明は自(おのずか)ら消えるのであります。

   無明が消えるとき、無明の影として現われた病気も不幸も消えるのです。

   現象界の出来ごとはすべて心の通りにうつるのです。

   心で思った通り、決めた通り、信じた通りになるのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月21日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」16-a 生長の家 - 伝統

2023/01/22 (Sun) 12:57:31

徳久克己「ヨハネ伝講義」16-a 生長の家
妙楽天国( 2018/05/06)
https://www.youtube.com/watch?v=CXIF2xeLhR8

           <感謝合掌 令和5年1月22日 頓首再拝>

神と倶に生活するには~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/23 (Mon) 04:57:12


        *『白鳩』(昭和25年9月号 巻頭言)より

こんな話がフェンヰック・ホルムス博士の本に書いてある。

二人の女生徒が学校へ通学していた。 
学校のすぐ側まで来たときに始業のベルが鳴りはじめたのである。 

二人は信仰深い少女であった。 

「学校に遅刻しないように跪いて神様に祈りましょうよ」 と甲の少女は云った。 
「そんなことをしていては駄目よ。 一所懸命走りながら神様に祈りましょうよ」 
と乙の少女は云った。

読者はどちらが正しい祈りであると思われますか。 
それは筆者が回答するまでもなく、自明のことであるのである。

こんな簡単なことなら誰でもわかることだけれども、
実際生活の難問題に直面すると、その原理がわからなくなり、
時々途方にくれる人が出て来るのである。

子供の病気の場合でもそうである。 
医者にもかけず、何らの手当も施さないで、
ただ気が顛倒して祈ってばかりいるような両親は、
丁度甲の少女のやり方に属するのである。 

それでは遅刻する恐れがあるし、気が顛倒しているので、
その反映として神との波長が一致せず、処置を誤るのである。

 
神は全能である。 
しかし神の働きたまう出口はただ一箇所のみには限られていないのである。 

神は医者やその他の人を通して働きたまい、
水を通しても、食物を通しても、薬剤を通しても、
また自分自身の努力を通しても働きたまうのである。 

吾々は神の働きの出口を自分の我の考えで或る一ヶ所又は数ヶ所に
制限してしまってはならないのである。


しかしこのような心の態度は、
‘あれ’にも頼り、‘これ’にも頼り、心が動揺して、
確乎とした信念が持てないようになる恐れがあるのである。 

時として医者に頼って神に頼らず、薬に頼って神に頼らず、
自力の雑行雑修に頼って神に頼らず、自力の雑行雑修に頼って、
神に信頼しないようになる惧れがあるのである。 

そこにこのような心的感度の欠陥があるのである。 
その欠陥を是正するには、どうしたら好いだろうか。

それは走りながら祈ることである。 

祈りは神との一体感を深め、何時、何処に、如何になすべきかの
啓示に対して人間を敏感ならしめるのである。

祈りながら、神の催しによって 「何を為せ」 と
内部から感じられて来ることは

それは形の上から見れば、
医療であろうと、物理療法であろうと雑行雑修のように見えようとも、
それを通して神が働き給うのであるから、
その働きにまかせることは純一無雑に神に全托したことになるのである。

一つでも神の 「是を為せ」 と云う啓示を、
自分の我で止めてはならないのである。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/83e7a620c38ca33937cbffb21c6a6b5b
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-19)

           <感謝合掌 令和5年1月22日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」16-b 生長の家 - 伝統

2023/01/23 (Mon) 14:12:15

徳久克己「ヨハネ伝講義」16-b 生長の家
妙楽天国( 2018/05/07)
https://www.youtube.com/watch?v=wcMHeGMw68g

           <感謝合掌 令和5年1月23日 頓首再拝>

『自己に忠実であれ』 と云う事の意味~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/24 (Tue) 04:41:30


        *『生長の家』(昭和33年9月号 )より

人間は自己に忠実でなければならない。

併し、その 『自己』 と云うのは如何なる自己であろうか。

美味なる食物を欲し、美しき服装をし、
異性と戯れ遊びたいような煩悩が
本当の自分の 『自己』 であろうか。

『自己に忠実でなければならない』 と云う語で
多くの人々は利己的本能に身を投じて、魂の節操を失ったのである。

『自己に忠実であれ』 と云う場合の 
『自己』 とは、肉体の本能的自己のことではないのである。

肉体は、魂が地上に於いて仕事をなすための乗物又は作業服として、
その自己修復自己保存のオートメーション作用としての
食欲や性欲を発動するのであるが、

それらの欲望は飽くまでも 『魂』 の使命を果さしめるための
基礎工事としての欲望であって、
『魂』 そのものの願望ではないのである。

 
『自己に忠実であれ』 と云うのは 
『魂』 そのものの願望に忠実でなければならないと云うことである。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p38.html
晴れときどき(2014 年 5 月 4 日)

           <感謝合掌 令和5年1月23日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」17-a 生長の家 - 伝統

2023/01/24 (Tue) 16:31:33

徳久克己「ヨハネ伝講義」17-a 生長の家
妙楽天国( 2018/05/08)
https://www.youtube.com/watch?v=oKFf7DAqkmw

           <感謝合掌 令和5年1月24日 頓首再拝>

因果応報~末井勉 - 伝統

2023/01/25 (Wed) 04:55:47


        *Web:心がホッとする(2009/06/04、2009/06/06 )より
              『練成に命をかけて』末井勉・著 からの紹介

ある冬の日に、雪がたくさん降る土地に行きました。そこでの出来事です。

一人の女性が、友人たちに連れられて相談しに来ました。
彼女は、十年前にこの町へ嫁に来たのですが、
この町から6キロくらい離れた山奥の村でもお金持ちのお嬢さんでした。

6歳の男の子のいるところへ後妻に来たそうです。
嫁ぎ先は商売をしているのですが、結婚式をあげた翌日から
お舅(しゅうと)さんから″泥棒″というあだ名をつけられたのです。

嫁いで最初の日に、店に出て商売をしていたのですが、
夜になり、お舅さんが金庫の勘定をしたところどうしたことか、
三千円足りなかったのです。

「昨日まで他人がいなかったのに、
 今日から他人がいるから、それでお金がなくなったんじゃな。
 泥棒がおるぞ、家には。泥棒!」とお舅さんが言ったのでした。

そうすると身に覚えはなかったけれども、
昨日まで生娘できた彼女は急に胸が痛くなったのでした。
キリを刺しこまれるほど痛かったそうです。
だんだん胸が痛んで、とうとう心臓病になってしまったのでした。

それから、泥棒と言われるのが辛いものですから、
十年間一度も里へ帰ったことがないのです。

自分のものを何も買ったことがなく、盗んだお金の証拠だと
言われたらいけないと思って、非常にビクビクしながら
生きてきたと言うのです。

結婚した翌年男の子ができました。
ところが、この子は脳に障害のある子だったのです。

あまりにお姑さんにいじめられるし、悲しいものですから、
何回も納屋で縄をかけて首を吊ろうとしますが、
不思議なことにその子がスーッと来て、
「お母ちゃん、死んじゃいや!」と言うのでした。


自分が首を吊って死んだら、
普通の子なら誰かが育ててくれるだろうけれども、
この鼻を垂れた子は誰が面倒みてくれるか、と思うと
自殺することもできないのでした。
 
お姑さんはどのようにしていじめるのかというと、
これがまた考えられないようなひどいことをするのです。

一週間に必ず一度焼け火箸(ひばし)を彼女の首にあてるというのです。
お姑さんが焼け火箸を持ってやってくるのを見ると、
蛇ににらまれた蛙のようになって、金縛りにあったようになって、
逃げられないというのです。

旦那さんは何をしているのかというと、後ろから
羽交(はが)い絞めにして捕まえているというのです。
 
 
これまで、多くの人々を指導して救って来た末井さんも
あまりの悲惨さにビックリしてしまったというのです。
 
 
指導のマニュアルとしては、
「あなたが変れば、相手が変る。あなたが変れば、世界が変る」という
やりかたで、私たちは指導するのですが、末井さんもあまりの残酷さに、
その言葉を言い出すことが出来なかったと言うのです。

しかし、真理は一つです。「あなたが変れば…」の真理に間違いはないのです。
 
すべての原因は自分にあるのです。
この世に偶然と言うものはありません。

すべて、「我より出でて、我に帰る」のです。
すべてが自分にその原因があるのです。
これは、決して間違いないのです。 

末井さんは、ひたすら祈り続けたのでした。
「この人を助けるために、どうすればいいのでしょうか、神様助けてください」と…。

一心不乱に祈っていますと、まるでテレビの画面を見るように
一つの光景が見えてきたというのです。
 
目の前に大きな川が見えてきて、
欄干(らんかん)のない橋がかかっているのです。

その橋の真ん中あたりから、
一人の女の人が橋を渡ってこちらへ歩いてくるのです。

姉(あね)さんかぶりをしているので、顔が良く見えないのです。
ピチャピチャと水たまりを歩く音まで聞こえるのです。

そばに洗い場があって、一人のお婆さんが洗濯しているのでした。
さっきの女の人がそのお婆さんの後ろに立ったのです。

そして、そのお婆さんの背中をポーンと弾(はじ)いたのです。
お婆さんははずみで、川の中に落ちてしまいました。
あっという間に、そのお婆さんは、水に呑み込まれてしまいました。
 
えらいことをする女だ、けしからん!と思い、
「お婆さんを殺しやがったな!こっちを向け!」と言う風に強く念じて
顔を上げて見ると、そこに座っている女の人だったのです。
 
「お前が殺したのか!」と思わずどなってしまいました。

「へえーっ!そうだったのか!」

末井さんは言いました。
 
「あんたの救われる時が来たんだよ。あんたは前世で残念ながら人知れず、
 お姑さんを川へ突き落として殺したんだ。

 それは、この世では誰も知らないけれども、
 業(ごう)の世界ではちゃんと知って存在している。

 そして、時を経、世を経て、一方は姑として現われ、
 他方は後妻として、6才の子供がありながらも生き別れさせた後へ
 呼び寄せ、再び嫁姑の因縁に結ばれた。

 双方とも魂としては知っている。
 現実には知らなくても因縁は今の状態のように親子の縁に結び合わせて、
 これでも判らないか、これでも判らないか、と嫁は焼け火箸の制裁を加えられ、
 しかも、首を吊って死のうとしても、知恵遅れの子供を産ませて
 死ぬことさえも出来ない。
 
 今の姿はあなたの前世の種まきだ。
 だから、鬼婆よ、きついお婆さんだと、お姑さんを憎んで恨んでいる限り、
 あんたは救われないんだよ。

 この真理が判ったら、あんたは今生(こんじょう)では
 生娘で嫁に来たか知らんけれども、
 前世では、お姑殺しの大罪を犯した霊魂だから、
 今のような運命になることが理解できる。
 
 あんたは知らなかったけれども、こういう業の借金があったから
 姑さんが今借金を払ってくれる大恩人だったのか。
 この姑さんは姿かたちを見ていたら、今まで鬼婆に見えていたけれども、
 鬼の面をひと皮剥(は)いだら、その奥は私の大きな業を消してくれる
 ところの菩薩さんだった。

 これまで十年間、恩人を恩人と知らずして、
 鬼婆と憎んでいた私を堪忍して下さい。すみませんでした!
 と詫びる以外に道はないんだ。」

「もう、時間もないから、みんなで、手を合わせてお祈りをしましょう。」
                                       
末井さんは、そこにいる女の人や彼女の友人たちと共に
5分くらいお祈りをしました。
 
「知らないとはいえ、大きな借金を払ってくれた
 大恩あるお姑さんありがとう。あなたは観世音菩薩でした
 。ありがとうございます。」

と末井さんの哀哭(あいこく)で
その場にいる人たちはみんな泣いたそうです。
 
その奥さんは「あっ治った!」と
十年間の心臓病がその場で治ってしまったそうです。
 
信じられないことかもしれませんが、
病気は人を赦し、自分を赦したとき、治ってしまうことがよくあるのです。
 
さて、このあとこの事件はどう解決したのでしょうか…。
 
その翌日から、あの有名な鬼婆がこの人の名前を呼んで、
まるきり仏様のような姑さんのなられたというのです。
 
しばらくして、末井先生がこの女の人に会ったときには、
姑さんは入院加療中で、看護士さんや付き添いさんよりも、
この嫁に見取ってもらうんだと言って、片時も離したがらない
というようになったということです。


http://arigatou77.blog68.fc2.com/blog-entry-7.html
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           <感謝合掌 令和5年1月24日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」17-b 生長の家 - 伝統

2023/01/25 (Wed) 17:18:38

徳久克己「ヨハネ伝講義」17-b 生長の家
妙楽天国( 2018/05/09)
https://www.youtube.com/watch?v=iEeymhQWGpU

           <感謝合掌 令和5年1月25日 頓首再拝>

われわれは、神のいのちが、父母を通して地上に顕現した存在~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/26 (Thu) 04:36:47


        *Web:気の向くままに(2013年12月21日)より
             谷口雅春先生著『愛と光の生活』(日本教文社)からの抜き書き

○考えて見ると吾々を「肉としての人間」と自覚する限り
 死刑の宣告を受けた死刑囚と同じであります。

 ・・・・・生活難も何もないのに、
 ただ「自分は死刑囚だ」と考えるだけで苦しいのであります。

 釈迦もその苦痛を脱するために家出せられた。
 父王の嘆きも顧みる暇がなかったのであります。
 それは人間を肉の方から見たらまさにその通りであります。

 ところが人間は肉ではないのだ。
 その中に宿っているところの不滅の理念こそ人間である。
 「内に宿るキリスト」「一切衆生悉有仏性」の其の「仏性」こそ本当の自分である。

 その仏性が仏性たらんとして慈悲を行ずるために
 此の世に生まれて来たのが出生であり、
 また「父と子」の理念を実現するために生まれて来たのが出生である
 と云うことが判るならば、
 はじめて親孝行の心が油然(ゆうぜん)と湧き出て来るのであります。

 吾々の本当の親は神様でありますが、
 その「親と子が一体である唯一神の理念」が現実になるためには
 現実の親と現実の子が地上に顕れねばならない。

 父母ありしがために、神のいのちが
 地上に神性受胎を実現するところの機縁が与えられたのであります。 

 例えば宇宙には空中電気が充満しているのですけれども、
 それが陰陽に分かれて再び結び合って呉れたので、
 はじめて空中電気が熱エネルギーとなり、
 光となり動力エネルギーとなって働きを顕して呉れるようなものであります。 P127


○われわれは宇宙に満つる「神の生命そのもの」であると云っても、
 「仏性即自分」であると云っても、それが実現するためには
 陰陽の結びを必要とするのであります。

 父母陰陽の結びと云うものは、吾々「仏性」なる自分が
 神聖受胎する神聖なる機縁を与えて下さったのであります。

 これが父母の愛であります。
 斯う観じて来ますと、父母の恩が海よりも深く山よりも高きことが
 判って来るのであります。

 吾々は親の肉体本能のために犠牲になったのではなく、
 親の愛が、愛の念波が、宇宙普遍の生命――仏性――を引出して
 ここに神聖受胎せしめられたのであります。

 決して親の「無明」によって、
 十二因縁をたどって人間は受胎したのではありません。 P128

https://blog.goo.ne.jp/suzuhide1123/e/b4612f21b9adab5c6e2d79e9ff333900

           <感謝合掌 令和5年1月25日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」18-a 生長の家 - 伝統

2023/01/26 (Thu) 13:19:10

徳久克己「ヨハネ伝講義」18-a 生長の家
妙楽天国( 2018/05/10)
https://www.youtube.com/watch?v=a75Oxe5YZdo

           <感謝合掌 令和5年1月26日 頓首再拝>

「 富 」 とは、人を幸福にするアイディアの実現である~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/27 (Fri) 04:30:17


        *「希望を叶える365章」より

宇宙には神の無限の智慧が充ち満ちており、

繁栄を欲する人は
此の宇宙に満ちている「人を幸福にする無限のアイディア」に
波長を合わすようにしなければならないのである。


「人を幸福にするアイディア」に波長を合わすには、
自分がやはり「人を幸福にする心」を起こさなければならない。



https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/1b8cf76af83d26168f64b37ad5cb83c3
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-07-24)

           <感謝合掌 令和5年1月26日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」18-b 生長の家 - 伝統

2023/01/27 (Fri) 15:17:40

徳久克己「ヨハネ伝講義」18-b 生長の家
妙楽天国( 2018/05/11)
https://www.youtube.com/watch?v=rTz0k-wjsjM

           <感謝合掌 令和5年1月27日 頓首再拝>

霊智心~谷口雅春先生 - 伝統

2023/01/28 (Sat) 05:00:18


         *『生長の家』(昭和25年7月号 10~11頁)より

「心」と云うものを一つだと考えるのと、
「心」を「自分の本体」だと考えるところに、そう云う間違いを生ずるのです。

「心」と云うものは大体、吾々の「道具」である。
 
吾々は「肉体」と云う道具を使う。 併し肉体は人間ではない。 

それと同じように吾々は「心」と云う道具を使う。 
所謂普通に云う「心」は吾々の道具であって人間の本体ではないのである。

吾々の持っている「心」は一つではなく、幾階段もの心を持っている。 

例えば、吾々の細胞には「細胞意識」と云う心があって、
どれが自分自身の栄養になるかを選り分けて吸収する力をもっている。 

そして黴菌とか何か外敵があらわれて来ると、それを認めて、捕えて殺す
  ―  こう云う相手を選択する心はたしかに心である。 

人体の細胞の一部は全体から切り離して人工培養益の中で培養すると、
心臓の細胞とか腎臓の細胞とか云う特殊の働きをしている細胞が、
その特殊を失って類形的な、全体が同じように働きかける。 

細胞単位としての「心」はあるが、
心臓単位、腎臓単位と云うような特殊的使命の働きは失われる。

即ち人間の肉体が全体として有機的な働きをし各内蔵が各々異る内蔵として
活動している肉体全体を統率する「心」の働きである。 

この「心」を「本能の心」と云っても好い。 
「細胞の心」の上に「本能の心」があるのである。


高級の心は下級の心を支配するのであって、下級の心ほど自由が少ないのである。 
しかしこの「本能の心」はまだ吾々の「意識的心」とは異る。

吾々は意識しないでも心臓は1分間に72回鼓動する。 
意識しないでも胃腸の働きは「本能の心」によって行われている。 

「本能の心」の上級に「意識の心」がある。 
「意識の心」が恥かしがったり恐怖すると、「本能の心」がその支配を受けて
心臓の鼓動や、胃腸の消化状態が異って来る。

 
「意識の心」は心臓も腎臓をも含めて全体の肉体を移動させるが、「
本能の心」はそれに反抗することは出来ない。 
本能の心はその段階での或る自由を持っているに過ぎない。 

しかしこの「意識の心」も「人間の本体」ではない。

これは人間の「道具」であって、
自分の声をラジオ・セットでとか蓄音機とかで聞くようなものである。 

そして発声器から再現された心の振動で
人に意志を通じたりするための「道具」が「意識の心」である。


「意識の心」の奥に「潜在意識」と呼ぶものがある。 
それは意識の心が起した想念感情の「貯蔵庫」みたいなものであり、
それは一面数的に貯蔵されているけれども、蓄電器のように
ある力をもって過去の想念感情を流し出す力をもっている。 

それが現在意識を左右する力をもっている。 

この点で現在意識の自由というものは限られたものであって、
現在意識が「幸福を得たい」と思っても、その一段上の段階の潜在意識が
「苦痛にやって汝の過去の業を浄めよ」と云って引ずって行くと、
その人の人生に苦痛が現れて来るのである。 

 
その潜在意識も尚、人間の最高の心ではない。 

その奥に 『霊智心』 とでも云うべき心がある。 

潜在意識は過去の「業」の貯水池として、水力発電のダムのように、
過去の惰力で盲目的な力で押し流して来る。 

ところが此の 『霊智心』 は「潜在意識」のように盲目的ではない。 
叡智を備えていて潜在意識の流動をその正しい方向に修正しようとしてくれる。

特に潜在意識が一向専心 『霊智心』 に対して呼びかけて
自己の我見を捨ててその教えに従がおうとする時には、
その叡智は現在意識にあらわれて来る。 

現在意識そのものは直接潜在意識を支配することは出来ないが 
『霊智心』 を現在意識に呼び出してくることによって、
潜在意識を支配することが出来るのである。

 
私の 『叡智の断片』 と云う本や 『智慧の言葉』 などは、
『霊智心』 を現在意識に感受してそれに導かれて来たものである。 

あの本にはあまり病気治しのことが書かれていないが、
知性ある人にはよく理解し共鳴されるように書かれているのは、
『叡智の心』 が出ているからである。

 
この 『霊智心』 即ち 『叡智の心』 のその奥に
「本当の自分」 即ち 「実相の心」 がある。 

それは物質ではないと云う意味に於いて「心(しん)」的なものであるから
「心(こころ)」と云っても好いが、「心(こころ)」 と云う場合には、
今まで述べたような各種の「心(こころ)」と混同される惧れがあるから、
『霊』 と云った方が好いかも知れない。

『霊』 が本体であって、それが、
霊智心、潜在意識、現在意識、本能の心、細胞の心などの「道具」を使って
表現活動をしているのであって、

『実相の心』は自由自在無礙でありつつ、そ
の一面的表現には色々の表現が自己限定によって成されつつあり、
「人格」とか「個性」とか云うものはこれらの心の綜合的波動の雰囲気
と云うもので成立っている。

その奥にある実相は「一つの生命」であり、神一元である。 

万人共通の生命であり、実相に於いてみんな一体でありながら、
霊智心以下の「心」の重複体によって、
その「場」に於いて別々の個性としてあらわれているのである。


  昭和25年3月12日(日曜日・夜)
  東京青年会幹部の谷口先生を囲む会


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ee0d6299e1e4356146b7d2d76382e388
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-21)

           <感謝合掌 令和5年1月27日 頓首再拝>

徳久克己「ヨハネ伝講義」19-a 生長の家 - 伝統

2023/01/28 (Sat) 18:35:03

徳久克己「ヨハネ伝講義」19-a 生長の家
妙楽天国( 2018/05/12)
https://www.youtube.com/watch?v=5yIRS4KGV6o

          <感謝合掌 令和5年1月28日 頓首再拝>

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