伝統板・第二

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ひかりの一日一言94~ひかりの語録(1月) - 伝統

2023/01/01 (Sun) 07:51:24

谷口雅春先生著「ひかりの語録」(『生命の實相』聖語扁)から
の謹写です。


ひかりの一日一言《1日》

一切の實在は神なる一元より発生したのである。

吾々は神の中にいる。
常住神を離れることは出来ない。

だから神に近づくとは、一歩々々色々の工夫を凝らして
神にまで攀じ登ることではない。

工夫と云う私の計(はから)いがなくなった時、
そのままで神の中におり、神に一致し、
神のままに行為し生活している自分を見出すのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P3)より

       <感謝合掌 令和5年1月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2023/01/02 (Mon) 04:57:52

西行法師の歌

「雲にただこよいの月をまかせてん 厭うとしても晴れぬものゆえ」
 
雲に捉われていては晴れようがない。
しかし月の方から見れば常住明月である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P3)より

       <感謝合掌 令和5年1月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2023/01/03 (Tue) 05:09:00

ただよえる雲の彼方のまんまるに 澄み切る月ぞわが姿なる

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P3)より

       <感謝合掌 令和5年1月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2023/01/04 (Wed) 04:51:19

家の中にいて自分が濡れていないのに、
外の雨が気になるのは、
心が雨に捉われているからである。

われわれは常に金剛不壊実相の家の中にいる。
現象(そと)の雨を気にかけせねば、そのままで濡れないのである。

濡れるのは、雨の音に驚いて、『実相の家』から出て見るからである。
外の為に傷つくのは自分が外物(がいぶつ)に捉われるからである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P3)より

       <感謝合掌 令和5年1月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2023/01/05 (Thu) 05:07:22

真理への道はただ一つ ―― 人間は神の子だ ―― と云うことである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P3)より

       <感謝合掌 令和5年1月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2023/01/06 (Fri) 05:05:09


神は『人の心』を悪に造らない。

悪い心は『人の心』ではない。
人とはそんな悪いもの ではない。

なんじが『悪い心』を顕していると云うことは、
それはなんじがそこに本当にあらわれていないと云うことである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P3~4)より

       <感謝合掌 令和5年1月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2023/01/07 (Sat) 05:02:20


なんじは何のために自己弁解するのか。
なんじがそのように弁護し、まもろうとしている自己は
「汝(なんじ)の本物」ではないのだ。

それは「汝」であると云って、
なんじを欺(あざむ)き周囲を欺いている詐欺漢である。


何も隠すことも蔽(おお)うこともない。
なんじ自身が悪いのではない。

ニセ物がなんじの名を騙(かた)って、
なんじと周囲を欺(あざむ)いていたのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P4)より

       <感謝合掌 令和5年1月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2023/01/08 (Sun) 05:00:01


なんじのニセ物の仮面を剥げ。
ニセ物の罪状(ざいじょう)をあらわにせよ。
ニセ物を逐(お)い出し、叩き出だせよ。

 ―― これを懺悔と云う。


罪を隠しているのは、罪を実在だと思っているからである。
矢張り「本物の自分」が罪を 犯したのだと思っているからだ。

「本物の自分」をもっと尊べ。
「ニセ物の自分」を罵(ののし)れ。

それを叩き出し、「無」にまで粉砕せよ。


「ニセ物」をその家から逐(お)い出すには、
「ニセ物」は盗賊であり詐欺漢(さぎかん)であるから
「本物の主人」がその家へ帰ってくれば、
ひとりでに「ニセ物」は逃げて行く。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P4)より

       <感謝合掌 令和5年1月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2023/01/09 (Mon) 04:57:52


「薬剤の法則」と云うものもニセ物の法則であるから、
「実相(じっそう)の人間」が 自宅(体<たい>)へ
帰って来れば効かなくなる。

「実相の人間」が其の家に近づいていても、
まだ 本当に帰りついていない間は
「薬剤の法則」が本物顔に幅をきかす。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P4)より

       <感謝合掌 令和5年1月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2023/01/10 (Tue) 05:00:21


神をもっと尊べ。
神のみが造り主だ。

神から出たものに悪があると思うな。
神から出たものに病気などと云う不完全なものがあると思うな。


あらゆる宗教の神随は
「神から出たものに悪があると思うな」という原則に一致する。
 
しかし多くの宗教はその次の結論を誤っている。

彼等は誤って云う
 ――― だから病気も神から 出たものであるから悪ではない。
ありがたいと思って之を受けよと。

病気が《有る》と云う信仰は涜神(とくしん)的な信仰である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P5)より

       <感謝合掌 令和5年1月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2023/01/11 (Wed) 05:03:54


ありがたい生活は好いが、
「病気はありがたい、苦難はありがたい、貧乏はありがたい」と
被虐待淫乱(マゾヒズムス)的な虐待せられることばかりを
ありがたがる信仰は本当ではない。


あるキリスト教の日曜学校を経営している人が、友人から
「オルガンを買って進呈すべく今その発送の手続きをした」と云う通知を受取った。

ところが、その信仰深き人は、
「どうぞ私のような卑しいものに、そう云う結構な物を恵み給わないように」と
熱心に神に祈った。

この信仰深き人にとっては、乏(とぼ)しいことがありがたいのであって、
裕(やたか)なことはありがたいことではなかったのである。


虐待されることはありがたいが、歓待されることはありがたくないのは
病的なチンバの信仰である。
 
人類多くの病気と運命上の苦難とは、
この虐待を歓迎する人類の潜在意識から出ている。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P5)より

       <感謝合掌 令和5年1月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2023/01/12 (Thu) 04:58:02


なんでも平等に拝めるようにならなければニセ物である。

何でも平等に実相を拝めないくらいなら、
穢(きたな)いものを穢いとし、
綺麗なものを綺麗だとし、

便所を穢いとし、
一等車を綺麗だとする方が正直な生活である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P6)より

       <感謝合掌 令和5年1月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2023/01/13 (Fri) 04:57:28


愛して報償を求める愛は功利的な愛である。
利益にならなければ腹が立つ愛である。


いっそう高まった愛は、相手が喜んでくれるから愛する愛である。
これは功利的ではないが、相手が喜んでくれなかった場合や、
相手が自分の好意に気がついてくれなかった場合などには、
淋しさを感ずる愛である。


報償を求むる愛も、喜んで欲しい愛も、共に「我(が)」がある。
「自分がこうした」「自分がああした」「然るに彼は」というふうに、
「自分」というものを脱(ぬ)け切っていない愛である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P6)より

       <感謝合掌 令和5年1月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2023/01/14 (Sat) 04:19:26


至上階の愛は「自分」を全然脱却いている。
それは飄々乎として、捕えんと欲すれど捉えることができない。

「先刻はこんな結構なことをしていたきましてどうもありがとう」
と云われても、

「ヘェ、わたしが? いつそんなことをしましたかねえ」と
空(そら)とぼけるのではないが、
心から自分の愛の行為を忘れてしまったような愛が至上偕の愛である。

至上偕の愛は、自分がしたのではない。
神と偕(とも)なる時、おのづからできた愛であるから、
「自分がした」と云う感じが少しも残っていないのである。

われを忘れた愛が惟神(かんながら)の愛である。
神流れの愛である。
神催しの愛である。
神と偕なる愛である。
大菩薩の愛である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P6~7)より

       <感謝合掌 令和5年1月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2023/01/15 (Sun) 04:54:06


家庭の葛藤は、執着の愛から起こる。

舅姑と嫁同士や夫婦親子間の紛争は、
すべて「自分が こうしてやったのに」という
「我(が)の愛」から起こるのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P7)より

       <感謝合掌 令和5年1月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2023/01/16 (Mon) 04:39:53


内に宿る神にたよる者は幸福である。

彼はあらかじめ恐怖しない。

彼は取越し苦労をしない。
 
内に宿る神とは実相の我(われ)である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P7)より

       <感謝合掌 令和5年1月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2023/01/17 (Tue) 04:48:33


差し迫った時が来ればわれわれのうちに宿る神があらわれる。

イザと云う時を恐れるな。

必要にブッ突かれば、われわれのうちに奥深く隠れている力が
呼び覚(さ)まされて起(た)ち上がる。

この力は吾等の衷に宿り給う神の力である。

何人(なんぴと)もいよいよのときが来ると、
まったく別人のように恐れも呟きもせずに
従容(しょうよう)として死に面することができる。

生きているうちに、いよいよを誘(さそ)い出す人が
大事業を為すのである。

いつも手術台上である。

明日はないことを自覚せよ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P7)より

       <感謝合掌 令和5年1月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2023/01/18 (Wed) 05:06:47


何物かに値する程の人間は彼自身のうちに、永遠の向上を目指して
自己を駆り立てて止まない力を自覚する。

ぜひ非せねばならぬ仕事が多いと呟(つぶや)くな。
忙しいということを感謝せよ。
必要は埋蔵されたる「内なる無限力」を呼び覚ます。

世界の最大事業中の大部分は、必要の拍車のもとに完成したのである。
《ぜひ》にと駆りたてる容赦なき鞭こそ生命(せいめい)の興奮剤である。

「必要」は、とても勝ち目のないような敵に対して奇跡的に勝利を得せしむる。
「必要」は動けない病人も癒す力である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P7~8)より

       <感謝合掌 令和5年1月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2023/01/19 (Thu) 05:06:14


人間の心の中に潜む悪魔
 ―― それは人生を楽に寝てくらしたがる
懶(なま)け者の根性である。

安静療法患者の心には、
往々(おうおう)この悪魔が潜(ひそ)んでいる。

懶(なま)け者の悪魔を駆(か)り立て、逐(お)い出し、
生命(せいめい)の本然(ほんねん)を完うさせてくれるものは、
「必要」と「多忙」とである。

「必要」と「多忙」とで病気の治った人はたくさんある。

生命の本然は働くことである。
生命は働くことによって生長する。
「必要」と「多忙」とに感謝する者は生長する。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P8)より

       <感謝合掌 令和5年1月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2023/01/20 (Fri) 05:05:16


思想は時として天上から降って来る。
あるいは地下から予想もしない時に湧いて来る。
 
その思想は時として霊界からの放送の感受でもあれば、
自己の神性からの噴出であることもある。
 
天上の思想も地湧(ちゆう)の霊想(れいそう)も時間を超越している。

すぐ其の時、間に合わなくとも捨てるべきではない。

忘れてしまえば二度と想い出せないような思想に
価値あるものが多いのである。

しばらく篋底(きょうてい)に埋めて置けば
やがて現実の用途に花咲く思想もある。
 
「想(そう)」は現実に先立ち、「想」あって現実が芽生える。
 
小さな思想の手帳を常に懐中して置き、「想」起こるに従って
それを簡単に書き止めて置くのは良い方法である。


「想」に詩想(しそう)もあれば思想もあり、
実用に関する解決の暗示もある。
 
これを部分別(クラシファイ)して手帳に書きとめておき、
問題に従って、そこを開いて見ると非常に導かれることが多いものである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P8~9)より

       <感謝合掌 令和5年1月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2023/01/21 (Sat) 05:04:16


他(た)を羨(うらや)むな。

自己の現在に満足するな。

自己の奥にあるところの無限の宝を羨(うらや)んで、
その無限性を把(つか)むべく突貫するのが
最も自己生長の道である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P9)より

       <感謝合掌 令和5年1月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2023/01/22 (Sun) 05:04:56


思想はこれを紙に書くときいっそう深まる。

計画もこれを書き下(くだ)すとき
いっそう微細のところに注意が行(ゆ)き届く。
 
書いておると精神が統一する。
書いてみると分析と統一とが同時に行なわれる。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P9)より

       <感謝合掌 令和5年1月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2023/01/23 (Mon) 05:02:27


一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみはそこから始まる。

本来自由自在な自分の心を、
自分の念(ねん)で縛ることになるからである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P9)より

       <感謝合掌 令和5年1月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2023/01/24 (Tue) 04:51:27


黄金(おうごん)は、指輪にしても金貨にしても帯留にしても
黄金に変りはない。

いろいろの形をしているのは中間因果であり、
どんな形にしても黄金の本質を失わないのは本来因果である。
 
人間も神の子であることが本来因果であり、
どんな形になっても、肉体が壊(こわ)れても、
神の子である本質は壊れてしまうことはないのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P9)より

       <感謝合掌 令和5年1月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2023/01/25 (Wed) 05:05:15


形(かたち)の地獄の中にも極楽がある。
「縛られても自由自在」の消息を知るものは幸いである。

死んだと思ったら生きられるのだ。
形(かたち)にとらわれなくなるからだ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P10)より

       <感謝合掌 令和5年1月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2023/01/26 (Thu) 04:41:08


すべてが備(そな)われるが人間生命の実相である。
欲ばる必要のないのが人間生命の実相である。
欲ばっている間は「生命の実相」を悟ったものではない。

最も善き施しは、罪を消し、病を消し、死を消し、欠乏を消し、
すべてが完全に備われる自己の生命(せいめい)を
自覚せしめる教えである。

善とは生命の実相に仕えること、
生命の実相の催しのままに生きることである。
 
物質的手段に頼って見たり、時には生命の実相に頼って見たり、
フラフラするようなことでは何の甲斐もない。
人は二人の主(しゅ)に仕えることは出来ない。


        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P10)より

       <感謝合掌 令和5年1月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2023/01/27 (Fri) 05:02:21


真理のみ、ただ真理のみわれを生かすのだ。

われを生かすのはパンではない。
物質ではない。

ただ霊によって新生せるもののみが真に生きるのだ。
そのほかの人の生(せい)はニセ物の生(せい)である。

霊によって新生せる者には激情はない。
利己的欲望はない。
憎(にく)みはない。
恐怖はない。
 
五官の快楽の虚妄(こもう)を知るが故に、
それに捉われることはない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P10)より

       <感謝合掌 令和5年1月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2023/01/28 (Sat) 05:04:09


旧を放下せよ。
今日(きょう)から神の子となれる。


捨てることが一つの仕事である。

物と霊と価値が顛倒して来なければ本物ではない。


自己の仮面を剥ぐとき本物のわれが顕(あらわ)れる。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P10~11)より

       <感謝合掌 令和5年1月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2023/01/29 (Sun) 04:59:44


キリストは肉体を十字架にかけた時、本当に生きたのである。

肉体は無いと抹殺しないものは、
本当の生命(せいめい)を生かしていない。

「十字架を負うて我れに従え。」

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P11)より

       <感謝合掌 令和5年1月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2023/01/30 (Mon) 04:47:11


物質は人間の不滅に何の影響もない。

物質が人間を癒さないのは
罪が人間を救う力がないのと同様である。

人間神の子の至高の権利を犯(おか)すものは何物もありえない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P11)より

       <感謝合掌 令和5年1月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2023/01/31 (Tue) 05:03:38


罪は罪自身によって罰せられる。
いわば罪自身の重さによって壊(くだ)けるのである。

執(しゅう)すれば善も善にあらず、
執せざれば悪も悪にあらず、
流るる水のごとく、漂(ただよ)う雲のごとく、
とどまらざるところに、否(いな)その奥に本当の善がある。

肉体は肉体である、人間ではない。

罪は罪である、人間ではない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P11)より

       <感謝合掌 令和5年1月31日 頓首再拝>

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