伝統板・第二

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「神示とは ⑩」 - 伝統

2022/12/27 (Tue) 12:18:29


【君民同治の神示】(十二月二十八日神示)

國は人間生命の外延である。
それは身體が人間生命の外延であるが如くである。

人間生命が神より生れたる神聖なるものであるといふ自覺が、
その外延であるところの國をも神より生れたる國であるとの
神聖性を要求するのである。

この要求が神によつてその國が造られたのである
との神話を創造するのである。

しかも人は自己が無にして絶對であり、一切の主であり、
永遠者であり、久遠の主宰者である(民主)との自覺を、
生命の外延の世界においても持つことを要請するのである。

觀られる世界は觀る人の心の世界であるからである。

身體も國も共に觀る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。
觀る心の要請が身體においては脳髄の存在となり、
國に於(おい)ては永遠の元首なる、

無にして絶對であり、一切の主であるところの
天皇の存在を要請するのである。

天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る。
即ち觀る主體(民)が神聖であるから、
觀らるる客體である天皇が神聖なのである。

觀る主体(民)の神聖性が包まれ蔽(おほ)はわれて混濁するとき、
天皇の神聖性は蔽(おほ)はわれて發現しなくなるのは其のためである。
今の状態がそれである。

人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造して
その歴史の中に住む自己を觀るのである。

天孫降臨とは人間自身すなはち民(たみ)自身が天孫であり、
神の子である自覺の反映にほかならない。

かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。
されば民が主であり君(きみ)は客(かく)である。

是(これ)を主客合一の立場に於(おい)て把握すれば主客一體であり、
君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む。

民を拝みたまう治(ぢ)は、君を拝むところの事(じ)と一體である。
治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。

天皇は絶對者にましますとは、
觀る主體たる人間(民<たみ>)の絶對性より來る。

民が自身の絶對性の把握が破れるとき、
その反映として國の絶對性と天皇の絶對性とは破れるのである。

打ち續く敗戰により、
民(たみ)自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、
天皇大權の一時中斷の形をもつて現れたのである。

(一二・二八 午後一二時)


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神示とは」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479

(2)伝統板・第二「神示とは ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7789782

(3)伝統板・第二「神示とは ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571

(4)伝統板・第二「神示とは ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8171151

(5)伝統板・第二「神示とは ⑤」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8213395

(6)伝統板・第二「神示とは ⑥」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8239192

(7)伝統板・第二「神示とは ⑦」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8254025

(8)伝統板・第二「神示とは ⑧」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8267834

(9)伝統板・第二「神示とは ⑨」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8295640

           <感謝合掌 令和4年12月27日 頓首再拝>

【日本の實相顯現の神示】(十二月二十八日神示) - 伝統

2022/12/28 (Wed) 08:57:35


敗戰の原因は多々あれども戰爭を始めたから敗けたのである。
これは過去現在未來永劫に變ることなき眞理である。

戰爭を始めねば敗戰もない。
當り前のことが當り前なのである。
眞理というものは簡單で直截明瞭である。

當り前のことがなかなか解らぬ人が多いからこの世界が亂れるのである。

神が戰(たたかひ)をさせているのではない、
迷ひと迷ひと打合つて自壞するのだと教へてある。
迷ひの軍隊を皇軍だなどと思つたのが間違だつたのである。


この神の教へは『自給他足・他給自足』と教へてあるのに
独逸(ドイツ)にならつて經済自給圏を確立しよう
と思ったりしたのが既に相対の心である。

心に相對があらはれ、彼我對立する心は既に戰ひの心、
分裂抗爭を予想しての心であるから、戰爭準備の心である。
世界は一圓相であると云ふうことを知らねばならぬ。

世界一環互に手と手を繋(つな)ぎ合つて、
しつかりと和する心になつてゐたらば戰爭もなく敗戰もなく、
實相無限の圓滿調和世界が實現する筈(はず)であつたのに、

當時の日本人は氣が狭くて島國根性であり、排他的精神で、
我慢自慢独善精神に陥り、それを日本精神だと誤解して、
一人よがりにいい加減な気持になつて、
遂に世界を敵として戰ふやうになつたのである。

排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、
切る心は切られる心と教へてある通りに
自分が切られる事になつのである。

切る心は三日月の心であり、利鎌(とがま)のやうに氣が細く、
角だつていて、空にあらはれてゐる時間も少く、
その光も弱く、直(じき)に地平線下に沈んでしまふ心である。

心の通りに日本の國が沈んでしまっても、
それは日本人の心みづからの反映であるから、
徒(いたず)らに失望、落膽、放心してしまつてはならない。

『見よ、われすべてのものを新たにするなり』と教へてある。

現象の三日月は沈んでも實相の圓滿玲瓏一圓相の滿月は
依然として虚空に輝いている。

それと同じく、心狭くとがりたる排他的な
軍國主義の似非日本の國は沈んでしまつても、
實相圓滿の日章旗のやうにまんまるい日本の國は
無くなつてはゐないのである。

有るもの、有りしものは永遠に滅びることなく、
必ずそれは日本人全體の心が圓滿になり、
實相の波動に日本人全體の心の波動がぴつたりと合ふやうになれば、
現象界にもその不滅圓相のすがたをあらはすのである。

汝等嘆くことはない、
滅びしものは本來無きもののみが滅びたのである。

無きものは滅びるほかはない。
軍國日本の如きは本來無き國であるから滅びたのである。

神州日本は不滅であり、永遠に滅びることはない。
滅びたやうに見えてゐるのは實相が蔽ひ隠されてゐるだけである。
實相を蔽ふ心が眼鏡(めがね)をかけている心である。

すべて此の世の中の事物は象徴であるから、
その象(かたち)をよく見てゐれば、
世界に何が起りつゝあるかを知ることが出來るのである。

   (昭和二十年十二月二十八日未明神示)

           <感謝合掌 令和4年12月28日 頓首再拝>

【日本の實相顯現の神示】(講義)① - 伝統

2022/12/29 (Thu) 09:41:16


      *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《日本の實相顯現の神示》」より抜粋

(1)神が戦(たたかい)をさせているのではない、
   迷いと迷いと打合って自壊するのだと教えてある。

   迷いの軍隊を皇軍だなどと思ったが間違だったのである。

(2)業の自壊・自己解除の”巻き戻し”の過程として
   あの戦争は起こったのである。

   英米の業と、日本国の業との衝突となってあらわれて来たのである。

(3)「排他精神は切り分ける心であるから」結局、自分も切られて
   三日月のように「直(じき)に地平線下に沈んでしまふ」
   ということを教えているのである。

           <感謝合掌 令和4年12月29日 頓首再拝>

【日本の實相顯現の神示】(講義)② - 伝統

2022/12/30 (Fri) 08:51:01


(4)世界に平和を来らすのは、「結び合わす」働きがなければならない。

   私たちは今後余程、
   言語、行動に慎み深くならなければならないのであります。

(5)軍国日本は本来無いのであります。
   本来無いから消える。

   消えても本来あるところの
   円相の大和(だいわ)の日本は消えやしない。

   実相の大和(だいわ)日本のみが独在であるから、
   それをあらわすようにすればよい。

   それが”日本国の実相顕現”だと教えられているのであります。

(6)神州日本が滅びたように見えているのは、
   「実相が覆い隠されている」だけのことである。

   実相不敗の日本国は永遠に滅びることはないのである。

           <感謝合掌 令和4年12月30日 頓首再拝>

【君民同治の神示】(講義)① - 伝統

2022/12/31 (Sat) 10:37:52


     *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《君民同治の神示》」
      より抜粋

(1)この神示は、先ず、国とは如何なるものか
   という解明から始まっているのである。

   「国は人間生命の外延である。
    それは身體が人間生命の外延であるが如くである」
   としめされている。

   人間の生命は、神より来たり、
   神の自己実現として地上に「生」を保つのである。
   その「生命の波動」が外部に具象化したものが「肉体」である。

   その「生命の波動」は、
   人間に於いては想念感情となってあらわれるのであるが、
   想念感情の変化にしたがって、肉体に健・不健の状態があらわれるのは、
   生長の家誌友に無数の実例があるのであって、
   それは既に読者諸君が充分知悉していられるところである。

   肉体が「人間生命の外延」として想念感情の変動を
   容易にその健・不健にあらわすとするならば、

   國家が「人間生命の外延」である限りに於いて、
   国民自身の想念感情が、国家の状態に具象化することは
   当然の事だと言わねばならないのであります。

   国家の事を述べるに先立って順序として
   「環境」について考えて見るならば、
   「心が変われば環境が変わる」という事実は随分沢山あるのであります。
   それを先ず述べて理解の基礎を築いて置きたいと思います。

(2)自己の心が「神より生れたる神聖なもの」だという自覚が得られると、
   その「外延である肉体」が、
   神らしく健康なものとなる実例は沢山ありますし、

   また心が一変すれば、
   上記のように環境が一変するという実例も沢山あるのであります。

   「生命の外延」というものを、
   生命を包む一種の「肉体」としてみとめるならば、
   環境や境遇は広い意味に於いて、人間の「肉体」であり、

   国家というものは、「多くの国民の心」の外延として
   多くの国民の心を反映している全国民の「肉体」みたいなもので、
   国民大多数の心の状態が国家の状態を決定するのであります。

   だから、その国の人民が、自分が「神の子」であり、
   “ミコト”であるという自覚がある場合には、

   その人民の生命の外延(肉体)としての国家は、
   「神の国」だという国民自覚を生ずるのであります。

           <感謝合掌 令和4年12月31日 頓首再拝>

【君民同治の神示】(講義)② - 伝統

2023/01/01 (Sun) 07:59:28


(3)では、神とは何であるかというと、
   「無にして絶対であり、一切の主であり、
    永遠者であり、久遠の主宰者である」
   とあります。

   従って神の生命を分かち有つところの「神の子・人間」も

   「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者」
   
   でなければならない。

   その「久遠の主宰者」たる自覚を
   「生命の外延の世界(社会及び国家)に於いても
   持つことを要請する」主義が民主主義なのであります。

   そこで、その民主主義なるものは天皇制と背反するものであるかの如く
   説く人もありますが、

   天皇制そのものが、「久遠の中心者」又は「久遠の主宰者」を
   要請する「人民の心」の反映として、
   日本民族の「生命の外延」として存在することを
   此の神示には次の如く示されているのであります。

   「身體も國も共に、観る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。
    観る心の要請が身體に於いては脳髄の存在となり、
    國に於いては永遠の元首なる、無にして絶對であり、
    一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。
    天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る……」


   この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、
   その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、
   対象をそのように感ずるのでありますから、

   吾々が国家に於いても、「変わらざる永遠の中心者」を要請するのは、
   人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がある
   からであります。

   人間自身の生命に、
   「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がやどっているのは、
   人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、
   「変わらざる永遠の中心者」を要請する根本要求があるためであって、
   そのためにすべての造られたる物には
   「変わらざる永遠の中心」が備わっているのであります。

   だから、

   「観る心の要請が、身体に於いては脳髄の存在となり、
    国に於いては永遠の元首なる、無にして絶対であり、
    一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである」

   と示されているのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月1日 頓首再拝>

【君民同治の神示】(講義)③ - 伝統

2023/01/03 (Tue) 08:12:21


(4)この神示に於いて注目すべき点は

   「無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇」

   とあることであります。

   天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、
   「無にして絶対」なのであります。

(5)しかし、そのような天皇の神聖性は、人民自身が「無」になって
   謙虚に天皇に対して回帰しない限りはあらわれない。

   傲慢に天皇を批判している者にとって、
   天皇の神聖性が理解されないのは当然のことである。

   だから、

   「観る主體(民)の神聖性が包まれて蔽はれて混濁するとき、
    天皇の神聖性は蔽はれて撥現しなくなるのは其のためである。
    今の状態がそれである」

   と示されているのである。

   自己に内在する「神聖性」が包まれ蔽われて混濁している場合には、
   天皇の神聖性は蔽われて発現しない。


   自己の内に「神聖性」が発現し、その「神聖性」を観る眼をもって、
   国家を観、天皇を観るとき、其処に、自己の神聖自覚の投影としての、
   神聖国家及び神聖天皇を観ることができるのであります。


(6)神示には、

   「人間は自己自身の神聖性のゆゑに
    神造の國家に神聖降臨の神話を
    創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。

    天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が、
    天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。

    かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。
    されば民が主であり、君は客である」

   と時代に適応したところの民主主義に背反することなき、
   天皇神聖論をお諭しになっていられるのであります。

(7)神示は更にこれを綜合的立場から説明を加えて、

   「是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一體であり、
    君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む」

   と説かれ、

   天皇の「治」を民を拝みたまう行事として、   
   次のように示されているのである。

   「民は君を拝み、君は民を拝む。
    民を拝みたまふ“治”は君を拝むところの“事”と一體である。

    治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、
    君民同治である。……」

           <感謝合掌 令和5年1月3日 頓首再拝>

【君民同治の神示】(講義)④ - 伝統

2023/01/04 (Wed) 07:55:31


(8)神示によれば、
   政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、

   「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」

   ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。

(9)併し現在の日本の状態は、天皇の神聖性などを観ることが出来る者は
   残念ながらきわめて少ないのであります。

   それは人民自身が自己の神聖性をみとめないで、
   自己をただの「物質なる肉塊だ」と観じている。

   そしてこの肉体なる化学物質の反応の如き本能満足の要求を
   「基本人権」だなどと信じているのですから、
   「人民自身の絶対性の把握」など殆どない。

   そして、“観られる世界”は“観る心”の反映であるから、
   天皇の絶対性など観得る人も殆ど無いのであります。

   そのことを此の神示には、

   「天皇は絶對者にましますとは、
    観る主體たる人間(民)の絶對性より來る。
   
    民が自身の絶對性の把握が破れるとき、
    その反映として國の絶對性と天皇の絶對性とは破れるのである。

    打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが
    國家大權天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである」

   という風に諭されているのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月4日 頓首再拝>

【梅の花の神示】 (昭和八年一月六日神示) - 伝統

2023/01/05 (Thu) 11:20:10


梅の花の開く時節が來たのである。 

去年の春に聖典『生命の實相』の一部を或る人に讀ませて、讀むに從つて、
一頁毎に、まだ時期來らぬ固き白梅の蕾を一輪づつ開かせて、
その開く毎にポンと《音を立てさせて》あつたのは、
彌々(いよいよ)《ひらく年》の型を見せてあつたのである。 

今年が彌々開く年である。 
昭和八年は彌(や)の年、彌々(いよいよ)の年、
《八》の年、《ハ》ナの年、《ハ》リ伸びる年、
《ハ》ジメに開く年である。 

《ハ》は開き伸びると云ふ意味であつて、
春、原、腹、晴、遥等皆この語源から來るのである。 
コト《バ》の『ハ』も開くと云ふ意味から來たのである。 

スメラミコト(命<みこと> ― 神)が開き展(の)びるとき音をたてるのであるから、
固き梅の蕾の花を開かせてその一輪毎にポンポンと音をたてさせて
型が示してあつたのである。 

『萬づのもの言葉にて生み出される』と云ふことが象徴化して示してあつたのである。

梅の花とは、《生みの花》 ―― 創造(うみ)の始動(はな)のことである。
『生みの花』はまた『海の原』のことである。 

『梅の花』の五瓣は五大洋に象(かた)どる。
五大洋にスメラミコトの花が開く始まりが今年である。 

一つ開く毎にポンと音がさせてあるのは何の象徴であるか考へれば判るであらう。 
何事もなしにはスメラミコトの花は開かぬのである。 
一つ一つ開く毎にポンポンと音を立ててつひに五大洋に梅の花がひろがるのである。 

開くまでには嚴寒の冷たい日が續くが、
嚴寒の冷たい日があるので一陽來復の日が來るのである。 
無明(まよい)の自壞作用がないのに光明遍萬の樂土が來るなどと甘いことを思ふな。 

昨年十二月十一日にも『戦ひの時は來たのだ』と知らせてある。 
ヒノモトの軍(いくさ)が嚴かに進むのは、
無明(まよひ)の世界を照らす唯一の光が進むのである。 

甘い平和論に耳を傾ける勿(な)。 
膏薬貼りで此の世が幸福になるなどと思ふな。

世界には《唯一の》光しかないのだ。唯一の光であるからヒノモトと呼ぶのである。 
ほかの光は皆僞(いつわり)の光ばかりである。 
梅の花には中心が一つしかないではないか。
世界に中心が幾つもあつて爭つてゐて人類が幸福になれるなどと思ふな。 

太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、
人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。 
極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。
この事實を見て宇宙の意志を窺へよ。 

地上の國々だけが中心が幾つもあつて好いと思ふな。 
複數の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。 
一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいたのである。 

現在無中心主義を標榜する者は皆現在の中心を貶黜(へんちゅつ)して
自分が中心を僣稱したいからである。 
スターリンなど、無明(まよひ)の塊の人物を中心として
世界が幸福になれると思ふものは愚か者である。 

世界を一つに統一する運動は二つある。 

一つは露西亜(ロシア)から始まつてゐる運動で、
世界を物で支配する運動である。 

もう一つは靈の本(ヒノモト)から始まつてゐる運動で、
世界を靈で支配し、一つの光明に統一する運動である。 

この二つの運動の衝突は避けられぬ。 
時機は迫つてゐるのに、まだヒノモトの使命を知らぬ者があるのは歯痒い。 

本當の愛は甘えかす愛ではない。戦ひの愛である。

      (昭和八年一月六日神示)

           <感謝合掌 令和5年1月5日 頓首再拝>

【大和(だいわ)の國の神示】(昭和二一年一月六日朝の啓示による) - 伝統

2023/01/06 (Fri) 08:32:47


われ再び大日本天津日嗣天皇(だいにつぽんあまつひつぎすめらみこと)
と云ふ意味について語らん。

天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、
天(あめ)が下(した)ことごとくが一つの光の世界になり、
大和(だいわ)、平和の世界があらはれると云ふ意味の象徴的表現である。

日本民族が世界を治めるのではなく、
『天孫(てんそん)』すなわち
『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。
これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。

それが眞(まこと)の大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)である。

大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)ということを狭い意味に解して、
日本民族の國だなどと考えるから誤解(まちがひ)を生ずるのである。
そんなものは小日本であり、本當の大日本國(ひかりのくに)ではない。

天(あめ)の下(した)ことごとくが
『天のみこころ』で滿ちひろがる世界が來ることを、
「全世界五大洲の國土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が來る」
と教へたのである。

天孫とは肉體のことではない。

「肉體は無い」と云ふことをあれほど教へてあるのに、
やはり肉體のことだと思つて
執着が強いから大(だい)それた間違(まちがひ)をして
取返しがつかぬことになるのである。

神からみればすべての人間は神の子であるから、
特に日本民族のみを愛すると云ふことはない。
あまり自惚れるから間違ふのである。

大日本天津日嗣(だいにつぽんあまつひつぎ)スメラミコトとは
固有名詞ではない。
理念の表現である。

「大日本(だいにつぽん)」すなわち「ひかりあまねき」、
「天津(あまつ)」すなわち「天の父の」、
「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまえる」、
「スメラミコト」すなわち
「天降(あも)りましたる帝王(ていおう)」という意味であるから、

總じて譯せば「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる
天降(あも)りましたる帝王」と云ふことである。

天の父のみこころが全世界に光被(くわうひ)して
あまねく平和になる世界になれば、
それが本當の大和(だいわ)の國である。

それが本當の大日本天津日嗣(だいにつぽんあまつひつぎ)すめらみことの
治(しろ)しめし給ふ世界である。

肉體のことではない。

(昭和二一年一月六日朝の啓示による)

           <感謝合掌 令和4年1月6日 頓首再拝>

【梅の花の神示】(講義)① - 伝統

2023/01/07 (Sat) 08:14:06


     *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
        《梅の花の神示》」(P36~54)より抜粋

(1)現象界に起こる事物は、”カゲ”即ち心の世界に既にあることの
   ”象徴”であるから、それを”象徴”として観察するとき、やがて
   何が起こるかの兆候としてそれを判断することも出来るのであります。

(2)この神示において、
   日本国力の伸展には「ポンポンと音をたてる」とあります。

   既に心の世界に於いては、ポンポンと音をたてる大東亜戦争は
   その「国力の伸展」の中(うち)に、その現象化のための
   「心のフィルム」がつくられつつあったと見ることができるのです。

(3)「ヒノモトの軍(いくさ)」とは、「実相実現の内部的動力としての
   ヒカリの摂理の進軍」であります。
   形の上での物質の軍隊のことではないのであります。

(4)「摂理としての内部的動力」が動き出すと、現象界には「迷いと
   迷いとが相打って自壊するという形」があらわれて、その自壊作用を
   通して平和と光明とのみ充満する理想世界が実現するに至るのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月7日 頓首再拝>

【梅の花の神示】(講義)② - 伝統

2023/01/08 (Sun) 07:23:48


(5)物質によって世界を支配する運動に対して、霊によって世界を
   統一する運動の中心をなすのが日本の使命であります。

   東洋の使命、その代表者としての日本国の使命は「霊の使命」であり、
   霊は分割し得べからざるものである。

   分割したる世界を一つにまとめるのが日本の使命であります。

(6)実相に於いては「みんな”神の子”であり、兄弟である」という
   霊的実相を知らしめるための戦いがヒノモトの戦いなのであります。

(7)世界政府に統一された世界連邦のような理想世界が実現する前に、
   釈尊やキリストが揚言したような世界終末の大破壊が来る、という
   ことを暗示した言葉が、この神示の最後の言葉にあります。

   「本當の愛は甘えかす愛ではない。戦ひの愛である。」

   これを緩和するようにするために、「世界平和を祈る会」に
   参加して頂きたいのであります。

(8)世界平和の祈り

   神の無限の愛われにに流れ入(い)り給(たま)いて、
   愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給(たま)う

   その光 愈々(いよいよ)輝きを増(ま)して
   全地上を覆(おお)い、
   
   すべての人々の心に愛と平和の思いを満(み)たしたまうのである。

           <感謝合掌 令和5年1月8日 頓首再拝>

【大和(だいわ)の國の神示】講義① - 伝統

2023/01/09 (Mon) 08:03:00


        *「大和の国 日本」(P25~41)
          (第一部『大和の國の神示』講義)より抜粋

(1)「天津日嗣」

  ①〝天津〟とは、天津神すなわち「実相の神」のことでありますが、
   本源の神としては天之御中主神様を申し上げ、これが陰陽二つの働きに分れて見れば
   高御産巣日神(たかみむすびのかみ)様と神産巣日神(かみむすびのかみ)様の
   二柱の神様のことを申し上げているのであります。

  ②〝日嗣〟(ひつぎ)というのは〝日〟は即ち〝霊〟(ひ)であって
   「霊的理念」のことであります。

  ③従って「天津日嗣」とは、天之御中主神の中心帰一の原理であるところの
   「中」(みなか)の理念を承け継ぐということであります。


(2)「天孫降臨」

  ①〝天孫〟の〝孫〟とは子のつぎの三代目になる孫といった意味ではなく、
   「天の御心」(理念)の真子(まこ)即ち「真実の子」(真実の具体化)
   という意味であります。

  ②天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、天の下ことごとくが
   一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらはれると云ふ意味の
   象徴的表現である。

  ③「天の父のみこころ」を受けた真(まこと)の子すなわち、
   皇孫尊(すめみまのみこと)によって全世界を治める時期が来る
   ということであります。

           <感謝合掌 令和5年1月9日 頓首再拝>

【大和(だいわ)の國の神示】講義② - 伝統

2023/01/10 (Tue) 12:49:36


(3)「大日本世界国」(ひかりあまねきせかいのくに)

  ①〝大日本〟とはひかりあまねき国であって、
   日本列島の如き小日本ではない。

   〝ひかりあまねきせかいのくに〟
   これが「大日本世界国」であるのであります。

  ②本当の大日本国とはひかりの国であり、
   「ひかりあまねき」日本の国こそ大日本国である。

   それはすなわち

   「天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来る」

   ことだということであります。


(4)大日本天津日嗣スメラミコト

  ①大日本天津日嗣スメラミコトとは固有名詞ではない。
   理念の表現である。

  ②「大日本」すなわち「ひかりあまねき」、「天津」すなわち「天の父の」、
   「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまへる」、
   「スメラミコト」すなはち「天降りましたる帝王」と云ふ意味であるから、

   総じて譯せば
   「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる天降りましたる帝王」
   と云ふことである。

   天の父のみこころが全世界に光被してあまねく平和になる世界になれば、
   それが本當の大和の國である。

   それが本當の大日本天津日嗣すめらみことの治しめし給世界である。
   肉體のことではない。


           <感謝合掌 令和5年1月10日 頓首再拝>

【聲字即實相の神示】(昭和七年一月十一日神示) - 伝統

2023/01/11 (Wed) 07:23:30


吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の實相」と云ふ。
完成(ななつ)の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顯現には
周期的波動があるからである。七つが事物の顯現の周期律になつてゐる。

吾れに神殿は不要であると嘗(かつ)て示したことがあらう。
吾れは道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。
吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。

『生命の實相』は吾が本體であり、無形の「生命の實相」を形にあらはしたのが
『生命の實相』の《本》である。

『言葉』を載せた書物を「本(ほん)」と云ふのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、
本質であり、本體であり、本物であるからである。

『言葉の宇宙』が先ず出來て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。
今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐたから、
宇宙の萬物の運行が亂れて生活苦や、病氣や、天災や戰爭など色いろ不調和なことばかり
起つたのである。

『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿な調和した言葉の
『本(もと)』が調(ととの)うたのであるから今後何事も急轉直下する。

『生命の實相』を披くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々たゞ自己の生命の
實相(ほんとのすがた)を知り、歡喜踊躍(かんきようやく)して
手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。

その歡びの相(すがた)こそ人間の生命の實相である。
吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本(ほん)の形にして、
披(ひら)いて讀むものにさせたのも象徴的因縁あることである。

『生命の實相』が展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。
今は過渡時代であるから、假相(かりのすがた)の自壊作用として
色々の出來事が突発する。

日支の戰ひはその序幕である。神が戰ひをさせてゐるのではない。
迷ひと迷ひと相摶(あいう)つて自壞するのだ。

まだまだ烈しいことが今後起るであらうとも
それは迷ひのケミカラィゼーションであるから
生命の實相をしつかり握つて神に委(まか)せてゐるものは何も恐るる所はない。

(昭和七年一月十一日神示)

・・・

<参照>

言葉が実相を語らず……、戦争が起った
粟野真弘のblog(2023年01月04日)
http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/57231699.html

           <感謝合掌 令和5年1月11日 頓首再拝>

【聲字即實相の神示】(講義)① - 伝統

2023/01/12 (Thu) 08:26:51


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《聲字即實相の神示》」
        (P121~141)より抜粋

(1)聖書には、万物の最初の創造 ―― 光の創造は「言ひたまひければ」即ち、
   ”言葉”によって行なわれているのであります。

   弘法大師も「聲字即實相」と仰せられており、
   「聲」即ちコトバ及び「字」即ちコトバが形象化したものは、
   事物の「實相」即ち「本質」であると説いていられるのであります。


(2)第一原因、第一にあるものがコトバであって、
   それが創造力をもっていて、第二、第三と、
   次々に現象が生まれて来るのであります。

  ①宇宙創造の本体にまします神はコトバであり、
   万物はコトバの創化力によって出現したのであります。
   だから事物の「成就」することを「成る」(鳴る)と言います。

  ②コトバは事物の本質でありますから、
   コトバを載せた書物を「本(ほん)」と言うのであり、
   コトバが世界を左右することにもなるのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月12日 頓首再拝>

【聲字即實相の神示】(講義)② - 伝統

2023/01/13 (Fri) 07:47:43


(5)「『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐる」というのは、

   人間の想念及び言語が實相の円満さを
   そのまま讃美し感嘆するようなコトバを内容とせず、

   対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で
   濁っていることなのです。

   現象世界に不調和な事象が頻繁に起こっているのは、
   「實相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於いて、
   人間の「心のレンズ」が曇っていて、實相を同調しない濁った
   想念(コトバ)を発しているからなのであります。


(6)すべて現象世界の善きものは、
   「實相世界」にあるものの展開でありますから、

   「實相」を心で観ずることによって展(ひら)いたら、

   現象世界にも實相界の円満完全な有様が投影されて
   実現することになるのであります。

   その象徴として『生命の實相』の本を披(ひら)くことによって、
   現象界にも家庭調和や病気の治癒や色々の功徳が
   実現するようになっているので、

   そのことをこの神示で示しているのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月13日 頓首再拝>

【聲字即實相の神示】(講義)③ - 伝統

2023/01/14 (Sat) 07:56:03


(7)この神示は、日支事変中に示されたものでありあります。
   實相世界には「戦争」そのものが無いのでありますから、
   戦って敵を傷つける神軍というものは存在しないのであります。

   すべて戦って互いに相傷つくもの「迷い」と「迷い」との衝突であります。

   一時戦争としてあらわれて人類の過去の「迷い」(憎みや、民族的嫉妬、憎悪等)が
   消えるのをケミカライゼーションと言ったのであります。

   日支事変や大東亜戦争も「迷い」と「迷い」とが衝突して消えるための
   自壊作用であったのは言うまでもありません。

   併し私(谷口雅春)は、大東亜戦争中、日本軍が勝つように努力協力致しました。
   当時、日本国内は言葉の力をきわめて「死」を讃美しており、
   ”言葉の力”を知る者として、黙ってはおれませんでした。

   到る処の講習会場で、「皇軍必勝、必勝生還」の標語をつくり、
   その”言葉の力”を強力に日本全土にひろめなければならない
   と講演したのであります。

   しかし、5万枚の「皇軍必勝」の短冊のコトバの力は、
   数千万人の「水漬く屍」のコトバの力に対してはまことに衆寡敵せずでありました。

   こうして、「迷い」と「迷い」とは相博って自壊しましたが、
   「生命の實相をしっかり握って神に委せているもの」は
   その恐るべき自壊作用の中に於いても、何等傷つくことなく、
   原子爆弾の放射を近距離に於いて受けても、少しも傷つくことがなかったのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月14日 頓首再拝>

【完成(ななつ)の燈臺(とうだい)の神示】(昭和六年一月十五日) - 伝統

2023/01/15 (Sun) 06:45:05


時が來た。
今すべての病人は起つことが出來るのである。
最早、あなたにとつて病氣は存在しない時が來たのである。

二千年前、キリストが
『汝の信仰によつて汝の信ずる如くなれ』と云ふ唯一語で、
遠隔の地にゐる病人を癒やした其の眞理が、
すべての人類に開顯される時期が來たのである。

『生長の家』を讀み眞理を知るだけで遠くにゐて病氣が治る事實を見よ。
『生長の家』は今かの黙示録が預言した『完成(ななつ)の燈臺』として
人類の前に臨むのである。

此の燈臺より眞理の光を受くるものは、
創世記のエデンの樂園追放以後、人類を惱ましたところの
『罪』と『病』と『死』との三暗黒を消盡するのである。

光が近附くときすべての暗黒は消える。
『眞理』が近づく時、すべての『迷』が消える。
『迷』が消える時、『迷』の産物なる『罪』と『病』と『死』とは消える。

疑はずに吾が光を受けよ。
われは『完成(ななつ)の燈臺』に燈を點ずるものである。

(昭和六年一月十五日神示)

           <感謝合掌 令和5年1月15日 頓首再拝>

【完成(ななつ)の燈臺(とうだい)の神示】(講義)① - 伝統

2023/01/16 (Mon) 08:16:43


    *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《完成の燈臺の神示》」
        (P231~242)より抜粋

(1)この神示は、病人の枕許で厳かな語調で読んで聞かせて上げると、
   信仰心が高まり、それと共に自然良能を高めるのに効果があります。

   この文章のリズムが人の心を打って変化させる力を持っているのです。

(2)『黙示録』にある「人の子の如き者」は「久遠のキリスト」であり、 
   生長の家の神様であるのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月16日 頓首再拝>

【完成(ななつ)の燈臺(とうだい)の神示】(講義)② - 伝統

2023/01/17 (Tue) 07:23:04


(3)この神示にある「エデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの
   『罪』と『病』と『死』との三暗黒」を消尽して、
   光明遍照の天国浄土へ再び人間を復帰せしめるには、
   「生命の實相」とは如何なるものかという
   真理の光によって照らさなければならない。

(4)すなわち、今迄「罪」と「病」と「死」とに悩まされておったところの人間が

   『生命の實相』の本を読んで生命の実の相を知り、

   「ああ人間本来神の子である! 罪は無いのである!」

   ということが解りますと、罪から解放されるのであります。

(5)この真理を教える神聖なる使命を果すのが生長の家の教えなのであります。
   そして、この世界最後の教えをすべき時が来た訳なのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月17日 頓首再拝>

【自然流通の神示】  (昭和八年一月二十五日) - 伝統

2023/01/25 (Wed) 07:57:35


『生長の家』は奇蹟を見せるところではない。
『生長の家』は奇蹟を無くするところである。

人間が健康になるのが何が奇蹟であるか。
人間は本來健康なのであるから、健康になるのは自然であって奇蹟ではない。

『生長の家』はすべての者に眞理を悟らしめ、異常現象を無くし、
當り前の人間に人類を歸らしめ、當り前のまゝで其の儘(まま)で喜べる
人間にならしめる處である。

あらゆる人間の不幸は、當り前で喜べない爲に起るものであることを知れ。
當たり前で喜べるようになったとき、
その人の一切の不幸は拭(ぬぐ)ひとられる。

病氣もなければ、貧乏もない、
また搾取された富もなければ、搾取した富もない。
蹂躙(ふみにじ)られた弱者もなければ蹂躙つた強者もない。

唯、一切が渾然(こんぜん)として一切の者が富んでゐる。
此れが實相である。

大いなる生命の流れが一切者に貫流し、
とゞまらず、堰(せ)くところなく、
豊かに流れて、物の供給もおのづから無限である。

一切のもの必要に應じて流れ入ること、
一つの大河の流れより水を汲みとれば、
隣の水來りて其の虚を埋めるのと同じさまである。

流通無限、貧に執せざるが故に貧とならず、
富に執せざるが故に他を搾取(さくしゅ)せず、
流通せざる固定の富なきが故に、
みずから豊富なる供給の流れを受くれどもそれを占拠せず、
執着せず、來(きた)るに從つて拒まず、
受けて更に価値を増して他を霑(うるお)す。

自給自足などとは自他に捉われた狭い考へである。
自他は一つである。

『生長の家』は自給他足、他給自足、循環してとゞまらず、
大實在の無限流通の有様を見て、その有様の如く現實世界を生きるのが
現實界の『生長の家』 である。

貧に執する聖者も、富に執する富者も、『生長の家』 人ではない。

當(あた)り前の人間を自覚し、當り前に生きるのが
『生長の家』 の人である。
「當り前の人間」 が神の子である。

皆此の眞理を悟つた人が少い。

「當り前の人間」のほかに「神の子」 があるやうに思つて
異常なものを憧(あこが)れるのは、
太陽に背を向けて光を求めて走るに等しい。

皆の者よ、人間の生命の實相を悟つて病氣が治るのは、
病念と云う異常現象が止んで、人間本來の自然に帰るからである。

異常現象はすべて病氣の一種である。
貧しさも異常現象であるから、人間の心が自然に還ればなほるのである。

異常現象のなかに神があると思ふな。
そこには好奇を喜ぶ不自然な心があるばかりである。

怒り、憎しみ、恐れ、嫉(ねた)み、
他を蹂躙(ふみにじ)つて打ち勝ちたい心
──すべて是等は異常な心であるから病氣の因(もと)である。

異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。

當り前の人間になることが大切である。

當り前の人間のほかに神の子はない。

 (昭和八年一月二十五日神示)

           <感謝合掌 令和5年1月25日 頓首再拝>

【自然流通の神示】(講義) ① - 伝統

2023/01/26 (Thu) 06:41:06


      *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》」
        (P311~354)より抜粋

(1)悟りというものは観念の遊戯ではない。
   生活の実践なのです。

(2)行(ぎょう)とは「おこない」ということで
   日常生活のことであります。

   神想観も飯をたくのも同じように尊い行(ぎょう)であります。

(3)日常生活の当たり前のことが当たり前に喜べるようになると
   心が当たり前になるから、間違った心の結果起こっていた病気が治る
   というような事が起こるが、これは奇蹟ではない。

   当たり前のことだというのです。

           <感謝合掌 令和5年1月26日 頓首再拝>

【自然流通の神示】(講義) ② - 伝統

2023/01/27 (Fri) 07:02:09


(4)人間巧者の工夫というものが無くなって、「そのままの工夫」 ―― 
   「実相の催し」というものが出て来なければ本物ではないのであります。

(5)人間智慧の”はからい”というものが消え、”計らわないところの計らい」
   というものが出てくると、それは本来一体なる「実相」からの
   内部的催しでありますから、もうどこにも衝突するということが
   出て来なくなるのであります。

(6)「そのまま」の心で生活する人には
   決して貧乏というものがないのであります。

(7)「そのままの心」になれば、自然に汚(きた)ないものを
   きれいにしたいという衝動が起こって来る。
   その巡り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月27日 頓首再拝>

【自然流通の神示】(講義) ③ - 伝統

2023/01/28 (Sat) 07:10:10


(8)すべての人間は、神の子なんでありますから、
   裕かなのが実相でありまして、
   貧乏な状態になっているのは実相ではないのであります。

(9)愛するということは、単に「性」を与えるということではない。
   あらゆることを貴方の望まれることなら何でも致しましょうという
   心であります。

(10)みずから富みたいと思う人は、
   「すでに私は神の子であるから無限の富者だ」という自覚を
   潜在意識に持つ事が、富者になってることの始まりであります。

   ところが多くの人は潜在意識の底に、
   「富」を「搾取の産物」として憎む心をもっております。

   富豪に対して憤(いきどお)りを感ずるというのは、
   自分にも向けられて自分が貧乏するのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月28日 頓首再拝>

【自然流通の神示】(講義) ④ - 伝統

2023/01/29 (Sun) 10:40:17


(11)人間は他(ひと)から同情されたいと思うような心を持っていると、
   その人は豊かにもなれないし、大いに伸びる事は出来ないのであります。
   自己憐憫は宜しくない。

   私(谷口雅春)もそうでしたが、皆さんも

   「我(われ)は《いと》優れたものである、
    神の子である、仏子である。

    我が行く所には如何なる妨礙(ぼうがい)も、ことごとく崩れ去って、
    何者も自分の行く所を妨げる者はないのである」

   というような、そういう素晴らしい信念を持って
   生活を勇敢に進めて行ったならば
   好い事が出てくるのであります。

(12)「我(われ)は最勝なる者である」と自覚せられたのが、
   仏の悟りであります。

           <感謝合掌 令和5年1月29日 頓首再拝>

【自然流通の神示】(講義) ⑤ - 伝統

2023/01/30 (Mon) 07:22:42


(13)何物も自分のものは無い。
   すべてのものは神様のものであります。

   ありと凡(あら)ゆるもの神様のものならざるはないのであって、
   そして神様の生命(せいめい)の中に融け込んで、任運無作の循環に
   任せて、さからいがなくなって、法爾自然、法のそのままに
   自然に動いて行くというと、そこに本当の流通無限の自由自在の
   生活というものが現れてくるのであります。

           <感謝合掌 令和5年1月30日 頓首再拝>

【自然流通の神示】(講義)⑥ - 伝統

2023/01/31 (Tue) 07:46:16


(14)人間が健康なのは当たり前であって、
   病気になる方が奇蹟なのであります。

   神示に次のようにあります。

   「怒り、憎しみ、恐れ、嫉(ねた)み、他を蹂躙(ふみにじ)つて打ち勝ちたい心
   ──すべて是等は異常な心であるから病氣の因(もと)である。
   異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。」

(15)病気が治るのは奇蹟じゃないというのは何故であるかと言うと、
   これは心霊科学的な事実であるからであります。

(16)人間の心が当たり前になって迷いが消えたとき病気が消えたのであって、
   奇蹟の如く見えても奇蹟ではないのあります。

(17)『生命の實相』という本は、この現象界の人間を救うだけで無しに、
   霊界に居るところの霊魂の迷いをも救う力があるのです。

           <感謝合掌 令和5年1月31日 頓首再拝>

【自他一體の神示】(昭和七年二月四日神示) - 伝統

2023/02/04 (Sat) 07:27:39


『生命の實相』を讀んで自分だけが眞理を悟つてそれで善いと思ふものは
まだ“生命の實相”を悟ったものではない。

眞理は自他一體のものであるから、ひとに傳へるとき、
其處に『結び』の力が發現するのである。

『結び』は愛の力、慈悲の力、神の力、佛の力である。

これを日本古道ではムスビ(産靈)と言ひ、ムスビによつて醸生(神)の力、
即ち生々化育の力が發現して來るのである。

だから『生命の實相』に書いてある通りのことを病人に愛の心で話してあげれば、
ただ、話をするだけで病氣が治るのである。
話が下手なら『生命の實相』の中で『光明の眞理』のところを、
本の由來を話してから讀んで聞かせてもよい。

神の道では『結び』の反對『切る』ことを最も厭ふのである。
怒つたり、審判いたりするのでは心で切るから善くない。
離縁、背信、忘恩、不忠、叛逆等がすべて善くないのは人と人との間を切るからである。

『神』は『道』であると云ふのも『道』と云ふものは
離れてゐるものを結び合はす働きがあるから『道』即ち神である。

結び合わす働きがなくて、審判く働きばかりあるものはどんな善人でも神に遠い。

一人の男子が縁あって一人の女性と結ばれたならば再び離れるのは『道』ではない、
それを圓く結んでやるのが道である。

神の道を知り『生命の實相』を知ると云ふことも
その道びきになる人々の間には深い因縁があることであるから、
橋掛けになつた人の恩を忘れてはならぬ。

自分はもう神と直取引が出來るから、
橋掛けになつた人の恩は忘れても良いと思ふやうな人は、
自分はもう神を知つたから神に背いても好いと云ふのと同じく不合理である。

『生長の家』を知らしてくれる人は
其の人にとつて天の使ひであるから何日までも恩を忘れてはならぬ。

日本人は忠孝一貫恩を忘れぬ國民であるから強いのである。

今度の戰ひは國民の魂の質から言へば知恩と忘恩との戰ひ、
『結び』働きと、バラバラに分離する働きとの戰ひである。

バラバラに分離する働きは結局自滅して『結ぶ働き』が世界を統一する。

醫學でも大和の醫學は結合の醫學であるが外國の醫學は分析の醫學である。
『生命』は綜合の統體であるからバラバラの醫學では解らぬ。

(昭和七年二月四日神示)

           <感謝合掌 令和5年2月4日 頓首再拝>

【自他一體の神示】(講義)① - 伝統

2023/02/05 (Sun) 07:39:53


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《自他一体の神示》」より抜粋

(1)人間の生命(せいめい)は、神より出で、
   すべての人類は「神の生命(せいめい)」を宿していられるので、
   自己の生命(せいめい)と他己の生命(せいめい)とは一体であります。
   
   だから他の人たち全部が真理を悟らない限り、
   自己は真理を悟っていないのであります。

(2)菩薩たるものは人類全体の苦悩を自己に摂取する結果、
   人類すべてが苦悩を脱しない限りは自己の苦悩が去らないので、
   聖者は永遠に人類救済にその全力を尽すのであります。

(3)”ムスビの力”こそ万物を生々化育する生命発現の力であり、
   一切のものを醸成する力であり、それが愛の力であり、
   慈悲の力であり、神仏の力なのであります。

           <感謝合掌 令和5年2月5日 頓首再拝>

【自他一體の神示】(講義) ② - 伝統

2023/02/06 (Mon) 17:49:51


(4)自他一体なるがゆえに全世界がこの真理によって救われるまでは、
   この真理の宣布を根(こん)かぎり、精力の続くかぎり
   行なわずにいられない筈です。

   この心境に達したというのでなければ、
   生命の実相を悟り得たなどと口幅ったい事は言われない訳であります。

   そこで先ず『生命の實相』を読み、少しでも真理をわかりかけた人は
   他の人へ伝えることを実践しなければならない訳です。

   真理を伝えた結果、相手が癒やされ、その癒やされた人自身の悦びが
   自分に反照して来るとき、自他一体の実相を自覚することが得られ、
   それによって、『生命の実相(ほんとうのすがた)』
   の本当の悟りが得られるのであります。

(5)この「自他一体」の真理の実践が「結び」と言うのであります。
   「自他一体」をこわして、孤立又は独善に陥ることを、
   「結び」の反対なる「切る」と言うのであります。

           <感謝合掌 令和5年2月6日 頓首再拝>

【自他一體の神示】(講義) ③ - 伝統

2023/02/07 (Tue) 07:52:31


(6)「神は道(ことば)である」というのは、
   「道(ことば)」即ち神なのであります。

   単に言語というような簡単な意味での「言(ことば)」が神ではないのであって、
   宇宙の首(はじめ)なるもの、無形の「道理」なるものを神と言ったのである。

           <感謝合掌 令和5年2月7日 頓首再拝>

【自他一體の神示】(講義) ④ - 伝統

2023/02/08 (Wed) 10:16:58


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《自他一体の神示》」より抜粋

(7)大東亜戦争では負けましたが、
   それまで日本が何処の国と戦っても強かったのは忠孝一貫して、
   天皇の恩を忘れず、親の恩を忘れず、天皇のため、両親のために
   誠心(まごころ)を尽して挺身する美徳があったからであります。

(8)神示にある「知恩と忘恩との戰ひ」は対外的な戦争のことではなく、
   天皇や、国家や、祖先や両親に対する恩を知る者と、
   天皇の恩も、国家の恩も、両親の恩も忘れて、

   誰が日本の国を統治しても、個人が幸福になればよいではないかという
   所謂る「赤い思想」の者との戦いのことを指していられるのであります。

   この神示の出た頃には、一時的方便として天皇を金看板に使いながら、
   日本国を焦土とし、結局共産革命にもって行こうとしていた
   所謂る進歩的文化人があったことは明らかであります。

   「天皇のご命令だ」という金看板で我意を遂行しようとしていた
   当時の軍閥の中にも、社会主義革命遂行の前哨戦的手段として
   戦争を煽動していた者もあったのは事実で、

   日本が戦争に負けた一つの原因も、
   そのような背信行為に裏をかかれて
   戦争すべからざる時期に戦争したことにあります。

   併しやがてはバラバラに分離する働きは自滅して、
   世界全体が一つに融合する時代が来るに相違ないのであります。

           <感謝合掌 令和5年2月8日 頓首再拝>

【上求菩提・下化衆生の神示】(昭和七年二月九日神示) - 伝統

2023/02/09 (Thu) 11:09:56


【上求菩提(じゃうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)の神示】  

實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである。
實生活を捨てるのも自分だけ淨まるために捨てるのと、
他(ひと)を救ふために捨てるのと二種類ある。

實生活をあまり忙しがるな。
皆の者が『道』をきき病ひを癒して貰ひたうても遠慮して頼みに來にくい。
そのうちに救はれる機縁を失うて取返しがつかぬやうになる人もあるのが可哀さうだ。

同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとり運命は別々である。

わが第一の神殿は皆の誠によつて形の世界へ顯はれたから
第二の神殿に取りかゝつて貰はねばならぬ。

第一の神殿は聖典『生命の實相』であつて《智慧の神殿》である。
第二の神殿は《愛の神殿》であって、神が愛であり、
愛は癒やす力であることを知らす『見眞道場(いのちゆには)』である。

智慧と愛と兩(ふた)つの神殿が『生長の家』に揃へば
全世界の他上天國建設の心柱(しんばしら)が出來るのである。
この心柱は心の柱で智慧と愛との十字である、卍(まんじ)である。

  (昭和七年二月九日神示)

           <感謝合掌 令和5年2月9日 頓首再拝>

【上求菩提・下化衆生の神示】(講義) ① - 伝統

2023/02/10 (Fri) 07:08:04


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。


(1)「實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ」

  ①釈尊やイエスは、特殊な使命を果すために、實生活を捨てました。
   そのため、釈尊の生活もキリストの生活も、
   家庭生活や、実際生活という面では、
   それを成就したと云うことができません。

   特殊な使命と天才とを持った人のほかには、
   このような家庭生活や国家破壊の道には、ついて行けないのであります。

   そこに彼らの教えの足らない所があるのです。

   その足らない所を補うために、
   そして釈尊の教え、キリストの教えを成就するために
   出現したのが生長の家であります。

  ②「實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである」
   と神示に仰せられています。

   家庭も生かさなければならないし、国家も生かさなければならない。
   そこで「捨てずして捨てる生活」「有たずして有つ生活」という
   両方生かす生活が必要になって来るのであります。

  ③生活の必需品は、必需だから「有たねばならない。」
   しかし有っては執着がかかって、心が汚れる。だから「有ってはならない。」

   「有たねばならないが、有ってはならない」ということになり、
   結局「有たずして有つ」「無所有の所有」ということが
   必需になって来るのであります。

   形の上では「有っている」けれども、
   「自分の所有だ」という観念を有たないで、
   「神様からあづからして戴いている」という自覚に立ち還ることであります。

  ④「すべてのものは自分のものでない」と自覚し、それは「神のもの」と知り、
   心の世界で、一切の所有を「自分名義」から「神様名義」に書き換え、

   この「所有」を預からせて頂いているのは、
   神様のものを預からせて頂いているのであるから、
   神様の御用に、神様のみこころに従って使わして頂きましょうと決意する。

   これが「有たずして有つ」であり、そこから、實生活を捨てながら、
   実生活が成就する道がひらけて来るのであります。

           <感謝合掌 令和5年2月10日 頓首再拝>

【上求菩提・下化衆生の神示】(講義) ② - 伝統

2023/02/11 (Sat) 07:44:10


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。


(2)「實生活をあまり忙しがるな」

   どんなに忙しい場合にでも悠々乎(ゆうゆうこ)としているべきで、
   あまり「忙しい、忙しい」などとつぶやいてはなりません。


(3)「同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとり運命は別々である」

  ①家族それぞれは、その信念に従って、その行動は自由でなければなりません。

  ②自分が充分悟りを開いたつもりになったからとて、
   人それぞれの行動を強制してはなりません。

   あまり強制すると、
   却って家族の精神が互いに反目するようになったりします。

           <感謝合掌 令和5年2月11日 頓首再拝>

【上求菩提・下化衆生の神示】(講義) ③ - 伝統

2023/02/12 (Sun) 07:53:21


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。

(4)智慧の神殿と愛の神殿

  ①聖典『生命の實相』は人を真理に導く”智慧の神殿”であるとするならば、
   講師がいて直接愛情をもって指導してあげる”場”となる道場は
   ”愛の神殿”とも称すべきものであり、

   愛は癒やす力であるから、講師たるものは、智慧のハタラキで、
   高座におってただ真理さえ教えたらよいのだというようにあってはならない。

   相手に随って、対機説法自由自在、或いは打ち、あるいは柔げすると同時に、
   「自分の力」が癒やすのではなく、自分を媒介として「神の愛」が
   癒やしたまうのだということを知り、「神の愛」の媒介となるように、
   自分自身、相手の人に対する愛念を深く起すようにしなければならぬ。

   道場を神様は総括して「見信道場(けんしんどうじょう)」となづけられ、
   これを”いのちのゆには”と訓読するように示されているのであります。

  ②『生命の實相』その他の書籍の智的な「真理の柱」と、
   「見眞道場(いのちのゆには)」と謂う道場の愛の「真理(しんり)の柱」とが
   十字に卍字に交叉して、全世界に地上天国建設の 心柱(しんばしら)が
   出来上がるのだと示されているのであります。

   最近続々と各地に道場ができつつあるのは地上天国成就の機運が
   近づきつつある兆候としてまことに有難き極みであると、
   地方の熱意ある同信の諸賢に対して感謝している訳であります。

   因みに、「見眞道場(いのちのゆには)」は
   道場の総括的名称であり普通名詞であります。

   現在“いのちのゆには”を固有名詞的名称として使っているのは
   九州福岡市の道場だけでありますが、

   「いのちのゆには」とは「生命(いのち)の斎庭(ゆには)」という意味で、
   「斎」は“きよめる”といふ意味、「庭」は“場”又は“道場”の意味で、
   生命(いのち)を浄めて、今まで隠覆埋没されていた、
   生命(いのち)の完全な實相を開顕して個人の生活を健全化し、

   更に進んでは地上に天国を建設する拠点となる場を意味するので、
   この建設のために意をつくされる功徳は実に偉大なるものがあるのであります。

           <感謝合掌 令和5年2月12日 頓首再拝>

啓示~第一の創造は神の「世界および人間創造」 - 伝統

2023/03/01 (Wed) 06:23:21


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より

啓示 ――

人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。

神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、
人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。

第一の創造は神の「世界および人間創造」である。

神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。

「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。

しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」
「創世記」第一章の神の宣言にあらわれている。

神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。

人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。

人間に病気はない。

            <感謝合掌 令和5年3月1日 頓首再拝>

啓示の第二~「創世記」第二章以後の創造は非実在 - 伝統

2023/03/02 (Thu) 05:09:08


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より

啓示の第二 ――

人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。

人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ―― 
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。

エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。

かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。

しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。

神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」
とある以上は、すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。
エデンの楽園のほかに国土はない。

このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。

実在の国土のみが《ある》。
実相の国土のみがある。
エデンの楽園のみがある。

エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。

そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。

もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき
不完全な世界があると予想するならば神を冒涜するものである。
神を涜(けが)すものである。

では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
 ―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。

そしたら「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の「どこへ?」
逐い出されたのであるか。

誰が? どこへ? 
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。

            <感謝合掌 令和5年3月2日 頓首再拝>

(三月の神示)【いのちのゆにはの神示】 - 伝統

2023/03/18 (Sat) 08:07:53

(三月の神示)【いのちのゆにはの神示】

見眞道場(いのちのゆには)とは眞(まこと)を見(あら)はす齋(きよ)めの場(にわ)である。
『眞(まこと)』とは『生命の實相(まことのすがた)』のことである。

齋(きよ)めるとは迷ひを除くことである。
人は神の子であるから、その實相を見(あら)はせば
病なく、惱みなく、死なく、一切の不幸は無い。

人の世は、神の子と神の子とが相寄って造つてゐる世界であるから、
その眞実の姿があらはれれば、人と人、階級と階級、國と國との爭い戰いも自然に消える。

實相をさとつた人が少ないために皆が苦しむのである。
假相を實相だと思ひ誤り、皆が苦しんでゐるのが可哀相であるから、
さきには智慧の光で迷を照破するために、聖典『生命の實相』を造らせたのである。

これを讀むだけで救われる人は餘程神縁の深い人達である。
此の神縁をおろそかにせずに人に傳へて尚々多くの兄弟を救ふやう協力せよ。
人はすべて神に於て兄弟である。

人を救ひ道を傳へようと思へば、それが愛即ち神心であるから、
その人に神は偕にありて神の言葉を其の人に話さすのであるから、
自分はまだ人に話すだけの力がないなどと思わず、其の時に『生長の家』について
思出したことを話せば、それが種子(たね)になつて相手が救はれる。

人は種子(たね)を播きさへすれば好い。
教への種子(たね)は神が人の心の中へ吹き込むから、
思ひ出すまゝに語ればそれで相手が救はわれる。

人ひとりでも救ふのは神の前に大いなる仕事である。此の事はだいじである。

本だけ讀んで悟れるほどの境に達していない人のためと、
人を救ふために尚一層深く知りたい人のために、智慧の光に、
愛の温かさを加えて色々世話をやくやうに
智と愛との十字で曼陀羅を織らせるのが見眞道場(いのちのゆには)である。

これから人を救ふための天使の靈の宿つてゐる善き人たちが諸方から
此の道場(ゆには)へ集まつて來て、奇蹟(てほん)を此の道場(ゆには)で見せる。

愛の心で來るものは神德を受けて歸るが、審判く心や素見(ひやか)し心で來るものは
神と心の波長が合はぬから其の心が直らぬうちは神德は受けられぬ

(昭和七年三月十四日神示)

            <感謝合掌 令和5年3月18日 頓首再拝>

【いのちのゆにはの神示】 (講義) ① - 伝統

2023/03/19 (Sun) 07:37:07


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
          《いのちのゆにはの神示》」より抜粋。

(1)『眞(まこと)』とは「現実の人間」の彼方に実在するところの、
   化して見えざる「精髄の人間」即ち『甘露の法雨』に「真性の人間」と
   書かれているところの「《まこと》の相(すがた)の人間」のこと
   であります。

(2)見真とは、その「実相」の完全さをあらわすことであります。
   人間の「実相」の完全さは化して見えないものでありますが、
   それを目に見える象(かたち)にあらわすのが「見真」であります。

   真を見(あら)わせば人間の円満完全なる真実があらわれて、
   一切の不幸、病気、災難等が消えてしまうのであります。

(3)神様の世界では、生長の家の道場はその大小にかかわらず、
   すべて「いのちのゆには」即ち
   「生命(いのち)の齋(きよ)めの庭」なのです。

(4)『生命の實相』の本を書かしめられたのは神様であります。

(5)人を救う愛の念願を起して、道を伝えようと思えば
   神の心と波長が合うのでありますから、
   自然に相手を救う適当な言葉が口を衝いて出るようになるのであります。

(6)内部霊魂の導きの催しによって道場に集まった人が、
   道場で講話をきいていると、神の力を示現するための
   模範的奇蹟的治癒のようなことが起こるのであります。

           <感謝合掌 令和5年3月19日 頓首再拝>

【いのちのゆにはの神示】 (講義) ② - 伝統

2023/03/20 (Mon) 07:42:50


(7)天使の霊の宿っている人々

   そこへ集って来る霊の多くは、
   肉体の脳髄にも真理を悟らせて人を救いたいという熱願ある
   「高級霊」の方が多いのであります。

   こういう人を救いたい熱願をもっていられる
   「高級霊」の宿っている人を「天使の霊の宿っている人」と
   申されているのであります。

   既に真理を悟っている高級霊(菩薩に当たる)でも、
   その宿っている肉体の頭脳が真理を知らないと大変都合が悪い。

   人生に於ける行為は霊と肉体との協同動作によって行なわれるのですから、
   その人の霊魂だけが高級霊で、
   肉体の脳髄は「真理」を知らないのでは可けないので、

   霊魂は、其処に生長の家の道場が出来たとか、
   講習講演会が催されるとかいうことが肉体の眼にとまると、
   内部から「何となくその講習会講演会に行きたい」という念を
   起こさせる。

   この場合、肉体の脳髄が「講習に参加しよう」と思ったようだけれども、
   実は内部霊魂の導きによる催しである場合が多いのであります。

   斯ういう人たちが道場に集って講話をきいていると、
   神の力を至現するための
   模範的奇蹟的治癒のようなことが起こるのであります。

   治癒と言っても、単に病気だけのことではありません。
   悟りによって悪い運命が好転に一転するのも治癒であります。
   不調和な家庭生活が調和に一転するのも治癒であります。

   そのような奇蹟が「手本」となって他の人々が
   神の存在をみとめて悟りに入る媒介となるのであります。

   このようにして無数の奇蹟的治癒の行われる道場へ来ても、
   何ら神徳を受けることのできない人もないことはありません。

   「愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが、
    審判く心や素見し(ひやかし)心で来るものは、
    神の心と波長が合わぬから其の心が直らぬうちは神徳は受けられぬ」
   とあるのであります。

   即ち心の波長が神の波長に同調すれば、
   神の御徳が現象界にカゲを映して来るのであります。
   それで「神徳」と書いてオカゲと振仮名することもあります。

(8)実相に於ては人間は万徳円満でありますが、
   現象界に於てオカゲ(神徳)が得られるか得られないかは、
   その人の心次第ということになるのであります。

           <感謝合掌 令和5年3月20日 頓首再拝>

【使命邁進の神示】 - 伝統

2023/03/21 (Tue) 07:43:06

(三月の神示)【使命邁進の神示】

人がどう思ふかも知れぬと、そんなことばかり氣にかけてゐるやうなことでは
心の苦しみは絶えぬものだ。

自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかり考へるが好(よ)い。

肉体の人間は誤解するものだとあれほど言ひきかしてある。
肉体は念の集積で出來たレンズ又はプリズムであるから、
人によつて其の『眼鏡』は違ふから、
どんな光線でもみんな屈折して見えるし、
人によって屈折の仕方も違ふのだ。

三角のものも丸く見えるし、丸いものも三角に見える。
深切で言つたつもりが悪意にとられたり、
失敗(しくじ)つて言った言葉でおかげを受ける人もある。

誰が何と思つても、それは迷ひで屈折して色々に觀るのであるから、
たゞ神に知られることだけを求めて人に知られようなどと思はぬが好い。

人間の苦しみの一つの元は上(うわ)べを飾りたい心である。

(昭和七年三月十五日執務中神示)

           <感謝合掌 令和5年3月21日 頓首再拝>

【使命邁進の神示】(講義) ① - 伝統

2023/03/22 (Wed) 08:36:28


      *『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《使命邁進の神示》」より抜粋

(1)人の思わくなどを気にせず、

   「自分がその位愛したか。そればかりを考えるが好い」

   と神さまは仰せられるのである。

(2)神はマコトひとすじであって、無限の叡智と愛とをもって、
   一切のものを正しく見給うのであるが、
   人間の見解は、恰も色々の異なる屈折度のレンズ又はプリズム
   によって色々に見るのである。

           <感謝合掌 令和5年3月22日 頓首再拝>

【使命邁進の神示】(講義) ② - 伝統

2023/03/23 (Thu) 07:33:32


(3)人類の危機、国家の危機を目の前に観ながら、
   天皇のことを説いたり、愛国心を説いたり、古事記を講義したら、
   「右翼」と誤認せられて、自分に非難が集中するかもしれないからとて、

   人の思惑に気兼ねをして、この危機から人類及び国家等を
   救おうとしないことはまことに愛なき事だど言うほかはないのである。

(4)この神示を読むとき、

   「お前はどれだけ人類を愛したか」
   「お前はどれだけ国家を愛したか」
   「お前はどれだけ愛の仕事を遂行したか」

   と問い詰められるような気がするのである。

   本当に人類を愛し、国家を愛するならば、此の人類及び国家及び
   一人ひとりの人間の破滅の危機が近づいている現代に、
   人の思惑を気にして日和見的態度をとるなどという
   事は決して出来ないことだと思うのであります。

           <感謝合掌 令和5年3月23日 頓首再拝>

(三月の神示)【至上者の自覺の神示】 - 伝統

2023/03/24 (Fri) 10:54:23

 
人即ち神であると云ふ眞理を知らぬ者が多いのは氣の毒である。

『生長の家』 が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の眞理を知らさんが為である。

自己が神だと悟つたら人間が傲慢(ごうまん)になるやうに誤解したり、
自己の本生が神だと悟つたものを謙遜が足りぬと思ふ者は大變な思ひ違ひである。

斯(か)くの如き想像する者は
自己が神だと云ふ眞理をまだ一度も悟つて見たことがないからである。

自己が神だと悟れたら人間は本當に謙遜(けんそん)になれるのである。
キリストが弟子の足を洗ふことが出來たのも、自己が神だと悟つてゐたからである。

本當の謙遜は「神の自覺」 から來る。
神を自己の本性(うち)に自覺しないものは、いくら謙遜らしく見えても、
それは卑屈(ひくつ)にすぎない。

卑屈(ひくつ)と謙遜とを思ひ誤るな。

本當の謙遜とは「自己は神より出でた神の子である。従つて神そのもののほか何者でもない」
と云ふ眞理を何らの抗(さか)らひもなしに承認することである。

此の眞理を承認するものを謙遜と云ひ柔和と云ふ。

この眞理に逆ふ者を傲慢(ごうまん)と云ふのである。

すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神成り』の眞理を承認しないところの
根本傲慢より分化し來(きた)るのである。

觀点の違ふ者には解りやうがない。

人間の偉大な仕事を皆憑靈(ひょうれい)の仕事のやうに説いて、
人間をたゞ憑靈の傀儡(かいらい)のやうに教へるものがあるが邪教である。

人間の本性(うち)に憑靈の示唆(しさ)よりも偉大なものがあることを
教へるものこそ正しき教である。

《人間は肉體でもなければ傀儡(かいらい)でもない》、
人間は靈であり神であり自主である。

若し憑靈が「靈」 であるが故に偉大なる教(おしへ)を説き、
偉大なる仕事が出來るならば、人間自身も「靈」であるが故に、
偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出來ることも当然でなければばらぬ。

ただその教(おしへ)や仕事に高下(こうげ)があるのは靈界の靈にも、人間にも、
自己内在の無限性の掘りさげ方に差があるからである。

釈尊は決して憑靈の傀儡ではない、基督(キリスト)も決して憑靈の傀儡ではない。

いづれも自己内在の無限性を堀下げて、終(つい)に佛性(ぶっしょう)に達し、
神性に達したから、靈界の諸靈來たつて此の二聖に事(つか)へたのである。

釈耶(しゃくや)の憑靈ばかりを觀て釈迦が自覺したところの佛性、
イエスが自覺したところの神性を見ない者は憐(あわ)れである。

憑靈が説くほどの教なら人間自身も靈であるから説き得(う)べきであるのに、
釈耶(しゃくや)の教を釈耶自身の教ではなく釈耶の憑靈の教であると説く
スピリチュアリズムは自己撞著(どうちゃく)に陥(おちい)つてゐるのである。

人間よ、人間自身の尊嚴を自覺せよ、
これを自覺することは人間自身の尊嚴を奪還することである。

『生長の家』は人間自身の尊嚴を奪還せんがために出現した人生の燈臺である。

         (昭和八年三月十六日神示)

           <感謝合掌 令和5年3月24日 頓首再拝>

【至上者の自覺の神示】(講義)① - 伝統

2023/03/25 (Sat) 08:01:36


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《至上者の自覺の神示》」より抜粋

(1)「人即ち神である」というのは
   「人間の本性又は実相は神である」ということです。

(2)人間に”内在する仏性”こそが人間の実相であり、
   「本当の人間」であり、肉体と見えるのは「人間の仮相(かそう)」に
   過ぎないのであります。

   仮相はそれがアルかの如く見えても、「無い」でありますから、
   「実相」のみがアルのであります。

           <感謝合掌 令和5年3月25日 頓首再拝>

【至上者の自覺の神示】(講義)② - 伝統

2023/03/26 (Sun) 07:14:01


(3)「神」という語を定義すれば
   「至上者(いとたかきもの)」ということであります。

   「至上者」とは、”至上最高の自由を得た者”ということであります。

(4)実相は完全であっても、現象は、その人の”心の影”として
   唯心所現的にあらわれます。

   その人の心が何を想念するかによって、
   その人の現象界の幸不幸はあらわれてくるのであります。

           <感謝合掌 令和5年3月26日 頓首再拝>

【至上者の自覺の神示】(講義)③ - 伝統

2023/03/27 (Mon) 08:02:13



(5)「人間はみな神の子」であると悟ったならば、
   自分も”神の子”であると同時に、相手のすべての人も
   ”神の子”であるということがわかりますから、
   相互礼拝ということが自然に行なわれるようになります。

           <感謝合掌 令和5年3月27日 頓首再拝>

【至上者の自覺の神示】(講義)④ - 伝統

2023/03/28 (Tue) 08:23:06

(6)自己内在の「神の子」が目覚めていましたら、
   「人間は神の子じゃよ」と言われたら、素直に従順に
   さようでございます。その通りでございます」と、
   少しも剛情に逆らうことなくその真理を受けることができるのであります。

(7)「内在の神」を自覚いたしますと、悠々として人に処し事に処して
   行くことが出来ますから、常に柔和なのであります。

・・・

<参照>

(1)Web:神の智慧と愛の“ひかり”(2022年5月12日)
   https://kibounohikari777.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-d9598f.html


   『自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。』


   『「人即ち神である」という教えが生長の家の教えの根本を成している
    のでありますが、この場合、注意しなければならないのは、
    用語の定義をハッキリさせて置かないと誤解を生ずることであります。

    先ずこの場合の「人」というのは「人の本性」又は「実相」のことであって、
    「肉体人間」のことではないのであります。

    乃(すなわ)ち「人即ち神である」というのは
    「人間の本性又は実相は神である」ということです。』


(2)Web:神の智慧と愛の“ひかり”(2022年5月13日)
   https://kibounohikari777.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-2bb3c0.html

   旧約聖書『詩篇』を引用
   『(前略)『詩篇』第八十二篇にも、

    「なんじらは神なり、なんじらはみな至上者(いとたかきもの)の子なり。
     然(さ)れどなんじらは“人”のごとく死にもろもろの侯(きみ)のなかの
     一人(ひとり)のごとく仆(たお)れん。」

    と示されているのであります。

    実相は「神」であり、「神の子」であっても、
    現象は「肉体としての人」のごとくに死ぬというのであります。

    茲(ここ)にはハッキリと、人間の実相と現象との区別が
    旧約聖書にも書かれているのであります。』


   『法句経(ほっくきょう)』を引用

   『「我が生(しょう)は已(すで)に安し。
    怨(うらみ)を慍(いか)らず、衆人に怨(うらみ)ありとも、
    われは無怨(むえん)を行ず。
 
    我が生は已に安し。病(やまい)を病(や)まず、
    衆人に病ありとも、われは無病(むびょう)を行ず。
 
    我が生は已に安し。憂(うれえ)を慼(なや)まず、
    衆人に憂ありとも、われは無憂(むいう)を行ず。
 
    我が生は已に安し。清浄無為(しょうじょうむい)なり、
    楽(らく)を以(もっ)て食(じき)となす、

    光音天(こうおんてん)の如(ごと)し。」

    まことに素晴しく明るく清浄で平和で健康な心境であります。
    「人は神の子なり」の真理を如実に知ったならば、
    この釈尊のような境地になれるのであります。』

           <感謝合掌 令和5年3月28日 頓首再拝>

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