伝統板・第二

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真理の生活 ⑯ - 伝統

2022/12/14 (Wed) 09:59:29


他が悪い時、善い人が毒を飲むな

          *「人生読本」(P127~128)より

「そんなことを言っても、あいつが悪いから腹が立ってしかたがない」
と言う人があります。

あいつが悪いのなら、その悪いやつが自分で腹立てて、
自分の身体の血の中に毒をこしらえていればよいのです。

それだのに、悪くない者が腹を立てて、
毒を自分の血の中にこしらえるのは間違っています。

ですから、これから自分が善いと思ったら、
自分の血の中に毒をこしらえないことです。

腹を立てないようにすることです。

そして自分が悪いと思ったときこそ、
うんと自分自身に腹を立てて、
自分の血の中に毒をつくってやることです。

それを逆さまに、普通の人は
「他人が悪い、自分が善い」と思っているときに腹をたてて、
自分の血の中に毒を飲ましているのですから、間違っています。

これからはそんなばかなことはいたしますまい。
これからは決して腹を立てたりいたしますまい。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815

(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957

(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
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(12)伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
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(13)伝統板・第二「真理の生活 ⑬」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8250384

(14)伝統板・第二「真理の生活 ⑭」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8263502

(15)伝統板・第二「真理の生活 ⑮」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8290983

         <感謝合掌 令和4年12月14日 頓首再拝>

【最後に生き残る人々】 - 伝統

2022/12/15 (Thu) 08:01:49


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.29)より

   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   最新のコンピュータに
   「どんな人間が最後に生き残るか」を推測させたところ、

   「力の強い人、自分のことを優先させて考える人、
    競争に勝ち抜いていく人」などという大方の予想を裏切って

   「譲る心をもった人」という回答が出てきた
   という話があります。

   これはいったい何を意味しているのでしょうか。

   「他人のためを第一に考える人が結局報われる」
   ということではないでしょうか。


   このことは遺伝子のはたらきからも納得のできることです。

   人の心は「他人のため」に献身的に努力しているとき理想的な状態ではたらく。

   よい遺伝子がONになるのです。

   だから他人のために何かをすることほど、
   自分に役立つことはありません。


   自分の心を充実させたかったら、人の心を充実させてあげ、

   自分が成功したかったら、人の成功を心から望む。

   こういう生き方をすればよいのです。

   これは、子供の幸せな姿を見て安心し、
   自分のことよりも子供のことを考えて生きている親心と同じです。

   親は自分だけの喜びよりも、
   子供の笑顔を見たときのほうが、その幸福感は倍増します。


   ところが競争原理が勝った世の中では、
   なかなかこういう生き方はできません。

   人を押 しのけてでも勝とうとしないと負けてしまう。

   負ければ敗残者として顧みられなくなる。

   だからみんなが競争で、勝とう、勝とうとしています。


   たしかに産業革命以後の社会は、
   ダーウィン進化論の世界であったかもしれません。

   強いものが勝って生き延び、弱いものは淘汰されていく。

   だが、そのような社会ができあがったのは、
   もとを正せばダーウィン進化論が「正しい」という前提があったからです。

   人類は百年以上もの間、生存競争に勝ち抜いたものが生き残るという
   ダーウィンの説を主流においてきましたが、

   科学が進歩して生命の仕組みが解明されるにつれて、
   まったく違った考え方が大きく浮上してきているのです。

   その一つに共生的進化論というのがあります。

   人間にかぎらず生物は、お互いに
   助け合いながら進化したという考え方です。

   この説によって進化を説明すると、おおよそ次のようなことになります。


   原初の海に大腸菌のように細胞内に核をもたず、
   しかも細胞一個で生きている単純な生物がいた。

   その単純な細胞が核をもつ一段上の細胞に進化するとき、
   どういうことが起こったか。

   それまで存在していたいくつかの単純な細胞やその一部が、
   争うのではなく合体して一つの新しい細胞を形成したのです。


   つまり細胞同士が協調的なはたらきをすることで、
   複雑なはたらきをする細胞ができあがっていった。

   けっして強いものが弱いものをやっつける
   というかたちで生まれたのではなく、
 
   それぞれ独自のはたらきをする単純な生命体が、
   互いに助け合ってつくり出されたと考えるのです。

   産業界でも最近はお互いが協力しての
   提携や合併が盛んに行なわれていますが、
 
   似たようなかたちで細胞が進化を遂げたというのは、
   いわれてみればありそうなことです。


   それからもう一つ、
   生物が争うよりも協調することで、
   進化してきたことをうかがわせる考え方があります。

   それは、地球そのものが
   生きている一つの大きな生命体であり、進化を遂げてきたとする学説です。

   これは、対立と抗争、分断と個別化を、
   進歩や進化の原動力と見なすのではなく、
 
   助け合い、譲り合い、分かち合いの三つの「合い」が、
   本当の進化の原動力だとする考え方なのです。

   この学説はイギリスの生物物理学者の
   ジェームス・ラブロックという人が唱えた「ガイア仮説」と
   呼ばれているもので、この考え方は各分野の人々に大きな影響を
   及ぼしつつあります。

              <『人生の暗号』サンマーク出版>

            ・・・

村上和雄氏は本書の中で、
「なぜ、ひとのため」なのかについて、こう述べている。


『科学の世界のこうした新しい流れは、
 従来の生物学の枠組みを乗り越えて
 「生物とは何か」をあらためて問いかけているのです。

 なぜ、そういうことが必要かといえば、
 ダーウィン進化論を背景に発展した近代工業社会がもたらしたものが、
 けっして人類にとってよいものばかりではなかったからです。

 たしかにスピードと便利さと快適さを提供してくれましたが、
 一方で環境汚染や破壊も大規模に進み、
 このままでは地球生命を危うくしかねない。

 「どこかおかしいのではないか」と思って当然なのです。

 ダーウィン進化論と異なる新しい考え方の特徴は、
 いずれも共生的な立場をとっていることです。

 以前はこういう考え方は、
 もしだれかが発表しても、なかなか受け入れられなかったと思います。

 実際、先に紹介した「共生的進化論」は
 雑誌に掲載されるまで十二回も拒否されたそうです。

 そうした考え方が今日にいたって注目を集めるようになったのは、
 そこで主張されていたことが、
 科学的にうなずけるところまで科学が進歩したからです。

 たとえば生命体が弱肉強食でなく、共生的であるということは、
 人間の細胞のはたらきをみるだけでうなずけることなのです。

 個々の細胞はつねに全体に奉仕するかたちではたらいている。

 そして全体は個々の細胞が生きられるようにコントロールしている。

 その姿は、自然の世界の理想的なあり方をそのまま体現しているのです。

 「人のために」を実行するとなぜ報われるのか。

 それは自然の姿そのものであり、
 自然体こそが最適な生き方の選択といえるからです。』



「生き残る種とは、最も強いものではない。
 最も知的なものでもない。
 それは、変化に最もよく適応したものである」

というのが、ダーウィンの進化論だといわれる。

経営の教科書などに書いてある
「変化できないものは淘汰される」という解釈だ。

これは、経営的にいうなら、しごくまっとうな名言だ。


しかし、生物の進化論では、かなり違う考え方が出てきている。

それが「共生的進化論」。

戦うのではなく、協調し、助け合って
(企業でいうなら提携し、合併をくりかえして)、
細胞が進化を遂げたという説。

もう一つの説、「ガイア仮説」も同じだ。


まさに、最後に生き残る人々は

「譲る心を持った人」

という言葉とシンクロする。

今、経営の世界でも、競争原理という
「比較の世界」だけでこの先やっていけるのか、
という考え方もある。


人の幸・不幸の感情は、すべて、
「人と比べること」「競う心」「戦う心」
「争う心」から始まると小林正観さんはいう。

幸せを手に入れたければ、それらをやめればいい、と。


最後に生き残る人々は「譲る心をもった人」、
という言葉を胸に刻みたい。

       <感謝合掌 令和4年12月15日 頓首再拝>

【人間の花を咲かせるには】 - 伝統

2022/12/17 (Sat) 07:44:58


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.10)より

   (致知出版社、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   では、人間の花はどういう人に咲くのだろうか。

   あるいは、人間の花を咲かせるために大事なことは何だろうか。

   安岡師の言葉に見るとおり、
   雑念、妄念(もうねん)を心に茂(しげ)らせている人に花は咲かない。

   心の雑草を取り去り、よく手入れし、調和させている人、
   心の力をよく知る人のみが、人間の花を咲かせるのだろう。


   『易経』にこういう言葉がある。

   「性(せい)を尽くして命(めい)に至る」

   自分が天から授かったもの、持って生まれた能力をすべて
   発揮していくことで天命に至る、というのである。


   天命に至る道は、そのまま人間の花を咲かせる道である。

   このことを深く肝に銘じたい。

   稲盛和夫氏の言葉は、
   人間の花を咲かせるための示唆に溢れている。

   八十六年の人生を振り返り、 人生で一番大事なものは何かの質問に、
   稲盛氏はこう即答されている。
  

   「一つは、どんな環境にあろうとも 真面目に一所懸命生きること・・・・・・

    (私が)ただ一つだけ自分を褒めるとすれば、
    どんな逆境であろうと不平不満を言わず、 慢心をせず、
    いま目の前に与えられた仕事、それが些細な仕事であっても、
    全身全霊を打ち込んで、真剣に一所懸命努力を続けたことです」


   「それともう一つは、やはり利他の心、
    皆を幸せにしてあげたいということを強く自分に意識して、
    それを心の中に描いて生きていくこと。

    いくら知性を駆使し、策を弄しても、
    自分だけよければいいという低次元の思いがベースにあるのなら、
    神様の助けはおろか、周囲の協力も得られず、様々な障害に遭遇し、
    挫折してしまうでしょう。

    “他(た)に善かれかし” と願う邪心のない美しい思いにこそ、
    周囲はもとより神様も味方し、成功へと導かれるのです」


   これまで『致知』にご登場いただいた多くの先達が、
   同じことを述べている。

   人間の花を咲かすための原点がここにある。

   我が行いとしたい言葉である。

      <『人間における 運とツキの法則』致知出版社>

         ・・・

稲盛和夫氏の「どんな環境にあろうとも 真面目に一所懸命生きること」というのは、
元ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子氏の「置かれた場所で咲きなさい」と同じ。

蒔(ま)かれた種は、文句を言わず、その場でただひたすら咲くしかない。

だからこそ、置かれた場所で咲く花は強く美しい。



またもう一つの、「利他の心」を大事にすること。

「うばい合えばたらぬ わけ合えばあまる」 という相田みつを氏の言葉がある。

利己的な人だけがあつまり、利己的な行動の限りをつくすと、
そのグループは自滅する。

うばい合えば足りぬ、と殺伐(さつばつ)として、
最後はお互いに傷つけあうことになる。


それは、地獄と天国の寓話にもある話だ。

天国にも地獄にも、ごちそうがふんだんにあるという。

食事の際には、長い箸(はし)を使う。

箸は、あまりに長いので、自分の口に持ってくることはできないが、
相手の口には持っていくことはできる。

天国の住人たちは、その長い箸を使って、
ニコニコしながら、お互いの口に御馳走を運んで、
お互いに感謝しながら楽しく暮らしている。


しかし、地獄の住人たちは、われ先に、自分の口に御馳走を持ってこようとするが、
一口も食べることができないため、
みな殺気立って、ケンカが絶えず、怒鳴り声が鳴り響き、
やせて骨と皮ばかりになっている。

地獄の住人は、自分のことしか考えない利己の人。

相手の利益になることや、相手が幸せになることなど、
これっぽっちも考えていない。


人間の花を咲かせるため…
どんな環境に置かれても文句を言わずそこで一所懸命生き、
そして同時に、利他の心を持てる人でありたい。

・・・

<参照>

「譲る心」
伊勢ー白山 道(2022-07-30)
心中では譲(ゆず)る心で居ると発展します
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/1084d0f9421a22ac778be7b12da2202e

       <感謝合掌 令和4年12月17日 頓首再拝>

鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する - 伝統

2022/12/18 (Sun) 11:23:04


   *「光明道中記」(12月18日《「今」の瞬刻を生きる日》)より抜粋

犬は良人に分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、
自分の生んだ子を、一匹、一匹と他の人に与えられても、
もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。

また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。

犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、
人間ほどに鋭感(デリケート)でないからである。

私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、痛みも感じ、
苦しさも感ずるだけのデリケ-トな心の琴線を有(も)ちながら、

それを《感じ得ない》のではなく、感じ得るにも拘(かかわ)らず、
意識的努力によって、感ずべき波と、感じてはならない波とを区別して、
それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

       <感謝合掌 令和4年12月18日 頓首再拝>

常に明るい気持になる - 伝統

2022/12/21 (Wed) 07:54:39


    *「光明道中記」(12月21日《心の岩戸開きの日》)より

【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。生命は貴(とうと)い。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。

ただそれだけを常に心掛けるだけでも、
あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。

神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。

神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。

『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され八百万神々の
明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。

吾々は明るいと共に、積極的でなければならないし、建設的でなければならない。
積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、
結局は失敗ではないのである。

明るいばかりで此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。

明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。

       <感謝合掌 令和4年12月21日 頓首再拝>

常に、後味のよいことを考える - 伝統

2022/12/25 (Sun) 08:01:39


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月25日)より

憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを考えるようにしなければならぬ。

ピシリと相手をやっつけても、そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。

勝つとは、後味までも歓べることである。

            <感謝合掌 令和4年12月25日 頓首再拝>

不幸、災厄、病気の話題の聴き手にならず、話題を転ぜよ - 伝統

2022/12/26 (Mon) 08:05:40


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月26日)より抜粋

自己が不幸を、災厄を、病気を語らないばかりでなく、
他(た)の人々がかかることを語る時聴き手になってはならぬ。

もし聴き手になったならば、あなたは自己に、不幸災厄病気に対して
無防備に扉をひらいたと言わなければならないであろう。

そんな時に最もよいことは、
ツンと澄まして相手との調和を悪くすることではなく、
話題を転ずることである。

            <感謝合掌 令和4年12月26日 頓首再拝>

【悪魔の傾聴(=究極の傾聴)とは】 - 伝統

2022/12/28 (Wed) 08:31:48


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.14)より

   (ノンフィクションライター、中村淳彦(あつひこ)氏の心に響く言葉より…)


   相手に好かれる会話をすることや、相手から本音を引きだすことは、
   コミュニケー ション能力や、ネアカ・ネクラなど性格はまったく関係ありません。

   必要なのは簡単な技術と、日々の意識の心がけです。

   いまは自信がなくても、
   様々な人々の本音を聞いてインプットや成功体験が増えて いくうちに、
   自然と自信はついてきます。


   悪魔の傾聴は、相手に対して「〜をしない」 不作為の技術が中心です。

   ●自分の話をしない。

   ●相手の話を否定しない。

   ●自分の意見を言わない。

   ●アドバイスしない。


   このように、いままでの思考や行動を意識して封じることが中心のスキルなので、
   口下手でも人見知りでも、イケメンでなくても、誰でも習得することが可能です。

   膨大な実践を積んできて言えることは、
   「相手に積極的に働きかける能動的なコミュニケーション能力と、
    傾聴能力はまったく別」

   「いまコミュニケーション能力が低いことは、
    本音を引きだす傾聴にはプラスに働く」
    ということです。



   人には「話したい」「伝えたい」という願望があります。

   悪魔の傾聴では、人のその根源的な意識を逆手にとって、
   聞き手が相手のその願望が叶いやすいように環境をつくっていきます。

   準備完了した状況で相手と対峙して、
   相手にスイッチが入ると、本当に様々な本音を話してきます。

   問題意識や将来の希望、恋愛話など、前向きな話だけではありません。

   愚痴や悪口、将来への不安、家族への憎悪や虐待経験、借金、などなど、
   シリアスな話もどんどんとこぼれてくるようになります。



   やることは、相手の興味を聞きながら、相づちを打ち、つなげていくだけです。

   相手を楽しませるために
   情報提供することもなければ、盛り上げる必要もありません。

   相手の話が面白かったら、自分の感覚に任せて笑いましょう。


   しかし、人と会話するあらゆる場面で
   絶対にやってはいけないことがあります。

   ●否定する

   ●比較する
 
   ●自分の話をする  


   この3つです。

   これは本書の最重要項目です。

          <『悪魔の傾聴』飛鳥新社>

        ・・・

中村氏は人物取材をするライターだ。

取材した人数は3000人を超えるという。

「名前のない女たち」「東京貧困女子。」等々の著作がある。

極端な人見知りだった筆者が、
何度も失敗を繰り返し、会得した「傾聴」の仕方が書いてある。


特に、「否定する 」「比較する」「自分の話をする」の3つは、
してはいけない大事なことだという。

普通の人間は、自分のことを話したくてうずうずしている。

相手が話している最中に、意見したり、否定したり、他と比較したりしてしまう。

そして、挙句のはてには、
相手の話をとってしまい、自分が滔々(とうとう)としゃべってしまう。


もちろん相手から話題を振られたら、話してもよいが、
それはほんの二言(ふたこと)、三言(みこと)にとどめ、

また相手の話題に戻ること。

このときは、強烈な自制心が必要だ。

それまで最高の聞き役に徹していたのが、うっかりすると、そこからタガが外れてしまい、
ただの自分語りのうざいオッサンになってしまう、などということはよく起こる。


悪魔の傾聴という、究極の傾聴の技を身につけたい。

・・・

<参照>

悪魔の傾聴 会話も人間関係も思いのままに操る
https://ddnavi.com/serial/akumanokeicho/


悪魔の傾聴【要約】15個の抜粋ポイント
https://sharedoku.com/archives/26015


動画による要約紹介
https://www.youtube.com/watch?v=uBD2vvjHuMw


       <感謝合掌 令和4年12月28日 頓首再拝>

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2022/12/29 (Thu) 09:34:45


      *「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日、29日)より

「勝てる」という自信はよいが、
「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。

「勝てる」という自信はその人を寛大にし、
「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。

難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、
それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうとするのであるから、
その人の心中は自己葛藤に満たされる。

自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、自己の健康を傷つける。

この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。

・・・

人々よ、今日(きょう)から
他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。

人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

            <感謝合掌 令和4年12月29日 頓首再拝>

天鼓と曼陀羅華とで飾られたる天国 - 伝統

2023/01/03 (Tue) 08:01:18


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月3日)より

人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。
神の国とは天人常に充満し、絶えず天鼓(てんく)の響きを妙(たえ)に、
摩訶曼陀羅華の花降る世界である。

天鼓(てんく)とは天の鼓ではない。
人間の人を賞(ほ)め讃える声である。

曼陀羅華とはインドにある華(はな)ではない。

華(はな)の笑(え)むように
和やかな微笑、深切な言葉、思いやりのある行ないが
天上から降る曼陀羅華である。

これら天鼓(てんく)と曼陀羅華とで飾られたる
妙(たえ)なる世界の姿が天国である。

天国とは別の世界のことではない。
われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。

           <感謝合掌 令和5年1月3日 頓首再拝>

家族を愛せよ - 伝統

2023/01/04 (Wed) 07:50:02


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月4日)より

何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術(すべ)である。
それができなければ人間生活の土台が完成したとは言えぬ。

まず手近にある家族を愛せよ。
そこから天国が生まれてくるのである。

われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、
幸福とはどこか外のところにあるように思っていたが、
脚下(あしもと)になるのである。

まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、
朗らかな韻(ひびき)のある語調で投げかけよ。
これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。

気がついたら今日(きょう)からそれを始めよう。

           <感謝合掌 令和5年1月4日 頓首再拝>

善事をなす習慣 - 伝統

2023/01/05 (Thu) 07:43:52


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月5日)より

一日だけで、やりかけた善事を止めてしまうような者は、
何事も成功から墜落する。

つまらないことのようでも小さき善事を継続することによって、
その人の魂は進歩し、環境は天国化するのである。

一日ぐらい懶(なま)けてもいいだろうというような考えから、
善事をなす習慣をたった一日廃絶したことによって堕落した人は
世間にたくさんある。

昨日(きのう)きめた、
朝起きた時に家族一同に優しい言葉を朗らかな調子で投げかける
ことを今日も続けなければならない。
そしてさらに進んでいっそうの善事をつけ加えることをしたい。

食膳で感謝することである。
食物の本源である神の生かす力に、それを造ってくれた百姓の労苦に、
それを調理してくれた妻・娘または召使にである。

食物はまずくとも決して小言を言わぬことである。
食物の小言を言ったために終日その家庭が不快になったような経験は、
人類の誰でもが持っていることである。

食物そのものよりも、心の愉快さと、空腹とが食物の味を増すのである。
遠足に行って食べる梅干と握り飯の美味しさを思えば、
このことの真理は解る。

心が愉快でないときどんな食物もまずい、
まずいのは自分自身の心の罪であり、
料理をしてくれる他(た)の家族や召使の罪ではない。

空腹でないために、美味しくないのは、
習慣に捉えられて空腹でないのに食事をするためである。

精神的に進歩したい人は、朝食を廃して、
出勤前の2時間を善き読書に費やすがよい。
毎朝2時間の読書の習慣は、
その人をかなり向上もさせれば、博学多識にもする。

時間がないという者は、時間を造らない人のことである。
時間は、他の多くの道具などと同じく、
人間によって製造せられるものである。

           <感謝合掌 令和5年1月5日 頓首再拝>

仕事の秘訣 - 伝統

2023/01/06 (Fri) 07:49:01


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より

たえず活(はたら)いているということが喜びの源泉である。
活(はたら)かないものは、
何か自分の内部から気がとがめるあるものを感ずる。

この気がとがめる囁きをごまかすために
多くの人は外面を麻酔する誘惑に身を投ずる。

「小人(しょうじん)閑居すれば不善をなす」というのは、
働かないものが内部に感ずる良心の囁きをごまかすために
誘惑に身を委(まか)せることをいう。

酒や麻酔薬で内部の囁きをごまかしてみても本当の幸福は来ぬのである。
ごまかしの生活の中には必ず何か暗いものがある。

本当の幸福というものは暗い生活からは生まれぬ。

暗い生活をごまかしごまかしして偽りの快感らしい生活を送るのは、
湿疹(しっしん)の瘡蓋(かさぶた)の痒きを掻(か)いて
ごまかすところの快楽である。

掻けば掻くほど、魂は爛(ただ)れ、
みぐるしい膿血(のうけつ)が流れるのである。


常に人の《ため》になる仕事、常に世の《ため》になる仕事、
たゆみなくかかる仕事に従事している人には魂の喜びが伴う。
仕事が無上の喜びとなり、仕事の中に休息と慰安とがある。

金(かね)を貰って働いている人も、
金を貰って働くと思えばその時から魂の喜びは消えてしまう。

金(かね)を頂くのは、それが多いにせよ少ないにせよ
神様から恵まれたものであると感謝し、

仕事は仕事で人のため世のためへ
自分の魂の献(ささ)げ物であると思って、
人のために尽くすという喜びの中に仕事をするがよいのである。

かかる仕事の中からは不断の喜びが湧く。
金と仕事とを交換的に考えてはならぬ。

仕事はいかなる「金(かね)」よりも尊いものであるがゆえに、
仕事のために「金(かね)」を貰っているという考えが起こるや否や、
仕事の歓びは半減される。

仕事を常に支配すること。
仕事に支配されてはならぬ。
仕事を追い回すことは、仕事から追い回されない秘訣である。

仕事に不平を立てておいて、そのゴールまで突進するのは
仕事を捗(はかど)らせる良き方法である。

しかし、ゴールに到着しない日があっても焦(あせ)ってはならぬ。

一日の労は、一日の労で足りるのである。

常に働いていながら、その仕事が捗らないのは、
何か神の摂理(おぼしめし)があるのであろうと、
またそのことに感謝するがよい。

そこからいらいらした心持(こころもち)が
和(なご)やかになり、平和が魂に戻ってくるであろう。

急がず、たゆまずに進むのが仕事の秘訣である。

            <感謝合掌 令和5年1月6日 頓首再拝>

緩急自在な生活 - 伝統

2023/01/07 (Sat) 07:59:57


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月7日)より

常に仕事をすると言っても、緩急がなければならぬ。
緩急のない生活は、張り切ってばかりいる弓の弦(つる)のように、
次の矢をつがえることができぬ。

一張(ちょう)一弛(し)の交代によって弓の矢は的(まと)を射抜(いぬ)く。
張り切ってばかりいる弦(げん)はついに切れる。

さればといって、仕事をする時に懶(なま)けよと言うのではない。
弓を射るときには一心(しん)でなければならぬ。
仕事をするときにも一心でなければならぬ。

本当に張り切ったとき仕事は前に命中する。

仕事が終わるか、定められた休息の時間が来るか、家に帰って家族と
うち寛(くつろ)ぐ時が来た等のときには本当に打ち寛(くつろ)がねばならぬ。

仕事は渋面(じゅうめん)をつくるためにあるのではない。
仕事は喜びを感ずるためにあるのである。
仕事を渋面をつくるためにあるように思ったり、
渋面をつくらねば真面目でないと思ったりするのはまちがいである。

団欒のときには楽しくすることが一つの仕事である。
家庭の団欒が忘れられているがために、妻が不平を言ったり、家族が病気になったり、
良人が危険の淵に近づいてゆくことも考えねばならぬ。

人間は金を積んで走る馬車馬のために造られているのではない。

            <感謝合掌 令和5年1月7日 頓首再拝>

団欒と仕事との調和を考えること - 伝統

2023/01/08 (Sun) 07:10:34


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月8日)より

あまりに四角四面な余裕のない押しつめられた生活からは
幸福な生活は生まれぬ。

曲線と直線とが巧みに調和していなければ
美術でも生活でも美しくないのである。

団欒と仕事との調和を考えること、
あたかも美術家が曲線と直線との調和を考えるがごとく
でなければならぬ。

        <感謝合掌 令和5年1月8日 頓首再拝>

争わないこと - 伝統

2023/01/12 (Thu) 07:36:04


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。

われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。

真空を超えてさらに高くこう翔(しょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。

わたしはこれをこう考える
 ―― と言うときわたしは一つの立場に立つ。

一つの立場に立つかぎり、
「彼はこう考える」という立場をも許してやらねばならぬ。

球体の眼球(がんきゅう)を有するわれわれは、
穹窿(あおぞら<きゅうきゅう>)は球状であって
宇宙も球状であると考える。

しかしその考えをわれわれがもし三角ガラスの眼を
もった人種に強(し)いるならばまちがいである。

宗派を立ててはならぬ。偏狭がいっさいの争いの因(もと)である。
神のうちには争いはない。
神はいっさの争いを、いっさいの背反を包容している。

釈迦が未(いま)だかつて何々宗という仏教を
説いたことはなかったのである。

何々宗という多数の宗派は釈迦滅後に生じたのであって、
いっさいの背反を包容する超越的立場が失われたときに生じたのである。

だから釈迦は宗派争いをしたことはない。
ただ後世の仏徒 ―― いな反仏徒が宗派争いをするのである。

宗派ばかりではない。
個人の生活でも争いができるのは、
おおむね超越的立場から墜落した者の挑戦から来るのである。

            <感謝合掌 令和5年1月12日 頓首再拝>

八方正面の心境 - 伝統

2023/01/13 (Fri) 07:28:32


      *「光明道中記」(1月13日《八面玲瓏の日》)より

【心が柳の枝に雪折れなしの様な状態になったら神経衰弱が治りました。
                      (『生命の實相』第三巻)】

すべての人の立場を認めるとき、吾々は八方正面の心境に到達するのである。
八方正面とは隙がないことである。
凡ゆる立場に於ける相手の位置が、その儘に自分の心の中に映り来るのである。

すべての立場を認めることが出来ず、一つの立場のみを正しいと思い、
その立場にのみ心を執しているとき、その他の方面は全然隙だらけになって
打ち込まれてしまうのである。

あのことに熱中していましたので、つい忘れていましたと言うのは、
弁解にはならないのである。

剣も碁も兵法も商道も、すべての方面見て行き届かねば名人ではない。

如何に鋭くとも折れ易い刃は役に立たない。
人間は剃刀(かみそり)の如く鋭い一面も必要ではあるが、
柳の枝のような強靭性も必要である。

世の中は「硬(かと)う柔(やわら)こう、柔こう硬う、
円(まる)う四角う、四角う円う」
自由自在に生きなければならないのである。

仏教に通達するには無字の門関を透過しなければならぬ。
無字を透過するは、柳の枝の如く無抵抗に、そして
「我れ地に穏かを出さんが為に来れるに非ず、剣を投ぜん為に来れるなり」
と言った基督のように鋭くならん為である。

          <感謝合掌 令和5年1月13日 頓首再拝>

《その所に於いて生き切れ》 - 伝統

2023/01/15 (Sun) 06:39:30


        *「光明法語」(1月15日)より

すべての人は神の子であるから、
必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。

その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、
それによって幸福を得るのである。

その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが
自分に解らないときには、現在の仕事と環境に於いて、
自分の出来るだけの力を尽くして精出せばよいのである。

全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、
必ずそれは真の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。

          <感謝合掌 令和5年1月15日 頓首再拝>

日々、自分は本当に生きているか、と問いかけよ! - 伝統

2023/01/16 (Mon) 08:10:22


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月16日)より

今日(きょう)いちにち自分の生命(せいめい)を生かさないことは自殺である。

「今日(きょう)自分は本当によく生きたか」
とわれわれは毎日自分自身の心に対して問いかけねばならぬ。

自殺はすべての罪悪のうちで最大の罪悪である。

        <感謝合掌 令和5年1月16日 頓首再拝>

自分の生命(いのち)がどれだけ生きたか? - 伝統

2023/01/18 (Wed) 07:49:06


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月18日)より

毎日何事か《人のためになる》仕事をせよ。
その《ためになる》部分だけが自分の《生きた》生命である。

《ためにならない》部分の生活は死んだ生活である。
自殺の生活である。
日々、自殺の生活を送らないように心がける者だけが大きく生長するのである。

何よりも自分に深切であることである。
そして自分に深切であるには、常に振り返ってみて、
人のために何事をなしえたか ――
それによって自分の生命(いのち)がどれだけ生きたかを反省しなければならぬ。

            <感謝合掌 令和5年1月18日 頓首再拝>

心清き人になる - 伝統

2023/01/19 (Thu) 07:36:14


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月19日)より

心が清くなることを心がけよ。
衣裳や白粉(おしろい)で飾っても、心の清さには及ばない。

心を清くするには悪を思ってはならない。
特に他人(ひと)の悪を思ってはならない。
他人(ひと)の悪を思ったら、他人(ひと)の悪が入って来る。

これは「自分に深切でない」ことである。
心を汚(けが)すのが唯一の罪であり、唯一の穢(きた)ないことである。

それでも他人(ひと)の悪が自分の心の中へ毒薬のように入って来たならば、
その毒薬の害毒を避ける道は、赦すことである。

腹を立てたり、興奮してはならない。
その人が善に立ち戻ることができるように静かに祈り、
かつその人のために考えてやらねばならぬ。

         <感謝合掌 令和5年1月19日 頓首再拝>

【面白く見て、面白く考える】 - 伝統

2023/01/21 (Sat) 09:37:09


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.28)より

   (精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…)

   改めていうまでもなく、
   世の中には面白いことばかりではなく、つまらないこともあります。

   面白いこと、つまらないこと、どうでもいいこと、面倒なこと、
   やりたくないこと、ありとあらゆる物事が
   ごっちゃになっているのが世の中です。

   そういう世の中で、私たちは日々暮らしているのです。

   面白いことばかりであれば楽だけれど、
   だからといって、世の中を整理して面白いものだけにする、
   というのはできない相談です。


   たとえば、私にとって面白いことがあなたにとって面白いとは限りません。

   「私か面白いこと」を基準にして、世の中の物事を整理すると、
   「あなたが面白いこと」が除けられてしまうかもしれません。


   また、自分にとって今は面白くなくても、
   十年後に面白くなるものだってあるでしょう。

   こんなこと考えていくと、結局、自分の外側にある世の中を変えるより、
   自分の内側を変えて面白くするほうが安心で、
   しかも確実といえるのではないでしょうか。


   では、何をどうすればいいのか。

   面白く見ようとしたり、面白く考えようとすればいいのです。


   「なんだ、そんな簡単なことか」と思う人がいるかもしれません。

   しかし、つまらなく見たり、考えたりすれば、
   どんなことでもつまらなくなるものです。

   少なくともこういう見方、考え方は抑制してみる。

   これだけでずいぶんと変わってくると思います。

   当たり前の話といってしまえばそれまでですが、
   世の中には複雑そうに見えて、
   ごくごくシンプルな法則というものが存在するのです。

   《物事を面白く見れば、世の中は面白くなるようにできている》

   《何事もつまらなく見たり、考えたりすれば、
    どんなことでもつまらなくなるもの。》

      <『人生は曇りときどき晴れがちょうどいい』PHP >

        ・・・

誰かが夢を語ったり、新しいことを始めようとしているとき、
それに対して、

「それ、すごくいいと思います。でも…」と言って、話の腰を折る人がいる。

夢を壊す「ドリームキラー」だ。

そういうタイプの人は、人生全般においても、否定語が先行する。

つまり、「面白くない人」だ。

会っても、自分のエネルギーを吸い取られ、不機嫌になってしまう。

その反対の、肯定語が先行する人は、会っていて元気がでて明るくなる。


人生において、肯定語が先行するか、否定語が先行するかは、
その人の習慣によって決まる。

肯定語が先行する人は、どんなことがおきても、
その中に面白いことを見つけることができる習慣をもっている。

否定語が先行する人は、起こるできごとにたいして、
否定的なことばかりを見つける習慣がある。


どんなときも…

面白く見て、面白く考える人でありたい。

         <感謝合掌 令和5年1月21日 頓首再拝>

【独創に最も大切なものは美的感受性】 - 伝統

2023/01/22 (Sun) 07:23:53


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.30)より

   (藤原正彦氏の心に響く言葉より…)

   数学や物理学における世界の天才を調べたことがあるが、
   天才の生まれる土壌は私得意の独断によると、まず美の存在である。

   美しい自然、芸術、文学などが身近に存在することだ。

   自然科学の独創に最も大切なものは、分野にかかわらず
   美的感受性であり、それは、美のある環境の中で培われるからである。


   次いで精神性を尊ぶ風土である。

   金銭に結びつかず役に立つかどうかさえ分からないことをも尊重する
   風土とも言えよう。

   普遍的価値に敬意を払う気風なくしては、
   真理の探究に命を懸けることなどとうていできないのだ。


   英国は戦後、二〇〇〇年までに自然科学で
   四十五名ものノーベル賞受賞者を輩出した。

   この期間、英国は他のヨーロッパ諸国から
   「英国病」とか「ヨーロッパの病人」と言われるほど
   経済がふるわず、一人当たり所得は先進国中最下位近辺にいた。

   にもかかわらず英国の田園は絵のように美しく保たれ、
   文学や科学が盛んだった。


   またインド出身で自然科学の受賞者は三人だが、
   このすべてが南部のタミルナドゥ州出身なのである。

   数学における高卒の大天才ラマヌジャンもこの州出身だ。
   二度にわたりインドをめぐった私にとって、
   この州は貧しいながら美しい寺院の最も多い州だった。

   また、元々僧侶階級で精神性を尊ぶバラモンの密度が最も高い州でもあった。

   上記四人も皆バラモンだ。


   日本もイギリスもタミルナドゥ州も二条件を完全に満たしていた。

   なお、日本人受賞者で東京で生まれ育った者はいまのところ一人もいない。


   日本では近年、「精神性を尊ぶ風土」が急激に壊されている。

   二十年余りの新自由主義により、
   社会は生き馬の目を抜くような激しい生存競争に巻き込まれた。

   物事の価値を金銭や役立つか役立たないかで測る風潮がはびこった。

   この風潮は学問の世界にまで蔓延している。


   三年後、五年後に役立つという研究ばかりに科学研究費が与えられるようになった。

   いつの日か花を咲かせるかも知れない、という研究には与えられず、
   すでに咲いている花に水をやるような研究ばかりに与えられる。

   真鍋博士の気候変動に関する研究など、
   半世紀前には誰も関心をもっていなかったものだ。


   それに加え緊縮財政による大学のポスト減だ。

   国立大学では、四十歳未満の常勤教官の七割近くが
   二年とか三年といった任期つきである。

   この間に論文をいくつも書かないと
   クビになるのでお手軽な研究に走ることになる。

   ここ十数年の日本人による論文の質と量の低下は国際的な話題となっている。

   こんな状況だから博士課程進学者もこの間に半減してしまった。

   このままではノーベル賞がとれなくなるどころか、
   極東の一農業国となってしまいそうだ。

            <『日本人の真価』文芸新書>

       ・・・

行徳哲男師にこんな言葉がある。


『理性が強すぎると自由を止める。

 笑いを抑え、自分自身をがんじがらめにしてしまう。

 理性とは体裁(ていさい)をつくり出す。

 しかし自然を遠のけてしまう。

 感性は嘘いつわりで固めることができない。


 感性とは集中・統合・統一の機能である。

 それゆえ集中できなくなると感性は鈍くなる。

 集中するとは思考停止することである。

 千日行にしろ、滝壺(たきつぼ)修行にしろ、火中歩行にしろ、
 少しでも考えてしまうと命にかかわる。

 思考停止の行である。

 思考が止まると勘が驚くほど鋭くなる。

 鯰(なまず)が地震を予知するのも、蜘蛛(くも)が雨を予知できるのも、
 思考回路を持たないからである。

 アインシュタインの相対性理論の発見も、
 湯川秀樹博士の中間子理論の発見も、
 思考が止まったときである。

 集中は感性の基本である。

 世紀の発見とはひらめきの中にある。』
        (感奮語録/致知出版社)より



数学や物理学に必要なのは、理科系の考え方や理性の力だと思ってしまう。

しかし、実際に必要なのは、美や自然、芸術、文学といった感性の力だという。


「独創に最も大切なものは美的感受性」という言葉を胸に刻みたい。

         <感謝合掌 令和5年1月22日 頓首再拝>

【一隅を照らす人】 - 伝統

2023/01/23 (Mon) 07:20:34


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.1.2)より

   (安岡正篤師の心に響く言葉より…)

   ◆《一燈照隅行(いっとうしょうぐうぎょう)》  

   燈遍照行(ばんとうへんじょうぎょう)

   内外の状況を深思(しんし)しよう。

   このままで往けば、日本は自滅する外は無い。

   我々はこれをどうすることも出来ないか。

   我々が何とかする外無いのである。

   我々は日本を易(か)えることが出来る。

   暗黒を嘆くより一燈を点(つ)けよう。

   我々は先ず我々の周囲の暗(やみ)を照す一燈になろう。


   微(かす)かなりとも一隅を照そう。

   手のとどく限り、到る処に燈明(とうみょう)を供えよう。


   一人一燈なれば、萬人萬燈である。

   日本は忽(たちま)ち明るくなる。


   是れ我々の一燈照隅行、即、萬燈遍照行である。

   互いに真剣にこの世直し行を励もうではないか。

   (師友の道)



   ◆《無名にして 有力なる人たるべし》

   諸君は宜しく平凡にして、 その味わい飽(あ)かざる人たるべし。

   無名にして有力なる人たるべし。
 
   もしおのずからにして、 奇抜或は有名となることあらば、
   力(つと)めて捉われざる工夫をなすべし。


     (送別の辞 日本農士学校第十一期生卒業式 『菅谷の荘七十年史』より)


      <『安岡正篤 人生手帖 古教に心を洗う』致知出版社>

       ・・・

神渡良平氏は、
「無名有力」についてこう述べている。(下坐に生きる /致知出版社)より


『安岡正篤先生は勉強会でよく「有名無力、無名有力」と言われた。

有名無力、無名有力とはこういう意味だ。

「若いときには誰もがひとかどの人物になりたい、
 立派な会社を作り上げたいと一所懸命努力をします。

 だんだん頭角を現し、人々の評価もいただけるようになって、
 名が上がって有名になってきます。

 会社の規模も大きくなってきます。

 そうなるとちょっとした名士になり、
 講演を頼まれたり、新聞に原稿を書いたり、テレビに出演したりして、
 だんだん忙しくなってきます。

 そしていつのまにか自分を掘り下げる時間すらなくなって、
 有名ではあるけれども無力な人間になり下がることが多いものです。

 しかし、世の中には、新聞、雑誌に名前が載るわけではない、
 テレビのスポットライトがあたるわけでもないけれども、
 頭が下がる生き方をしている方がいらっしゃる。

 無名だけれども有力な生き方をしていらっしゃる。

 私は時間がなくなって自分を失ってしまうよりも、
 無名のままでいい、自分を高め、磨く時間を持てる者でありたいのです」』



■日本をよくしていきたい、と大望を抱くなら、
それは一国の宰相になることでもなく、経済界のトップになることでもない。

一人ひとりが、自分の置かれた場所で、
精一杯努力して、自分を高め、魂を磨くことにより、自分が明るく光り輝くことだ。

それが、一隅を照らす人。


■無名有力の人は、一隅を照らすことができる。

しかし、有名無力の人は、一見すると大勢の人を照らしているように見えるが、
実はそのあかりは誰にも届いていない。

自分を磨いてこなかった人の言葉は空虚で、心に響かないからだ。


無名有力で…

一隅を照らすことができる人でありたい。

       <感謝合掌 令和5年1月23日 頓首再拝>

深刻と暗黒とを混同するなかれ! - 伝統

2023/01/25 (Wed) 07:48:58


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月25日)より

悲劇は深淵であり、どん底であり、暗黒であるかもしれぬが、
悲劇を深刻だというのはまちがっている。

深刻とは深切と同じ意味の言葉であって、
人間の 魂 の深奥から湧き出でるところの、
深々とした生命(せいめい)の表現、叡智の表現、法愛の表現が、
深切であり深刻であるのである。

深切を親切などとまちがえて書かれている世の中であるから、
なれなれしく親しくするのが深切だと思っている人もあるが、
深切とは時として峻厳な統制であり、仮借(かしゃく)することなき規律である。

人類の 魂 の《深》奥から《切》実に深々として湧き出でるかぎり、
どんな明るいものでも深刻である。

人類は深刻と暗黒とを混同する愚(ぐ)から避けねばならぬ。

           <感謝合掌 令和5年1月25日 頓首再拝>

すべての人と仲よく交わる - 伝統

2023/01/27 (Fri) 05:07:07


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月27日)より

《ひとり》になる時間を持つことは大切である。
その時間は静かに自分の 魂 に対座する時間である。

しかし、《ひとり》になる時間ばかりに耽(ふけ)る者は独善主義に陥りやすい。
人は自他一体の生命(せいめい)であるから、互いに扶(たす)け合い、語り合い、
讃(ほ)め合い、勇気を付け合う時間も必要である。

孤独は《ひとつ》の徳であるが全部の徳ではない。
他人と仲の悪い孤独は悪徳でさえある。
さらに家族と仲が悪いにいたっては度すべからざる罪人(ざいにん)である。

すべての人と仲よく交わることの中に 魂 の生長があり、家庭の和楽があり、
人間らしい歓びがあるのである。

          <感謝合掌 令和5年1月27日 頓首再拝>

心朗かなる日 - 伝統

2023/01/29 (Sun) 07:12:43


           *「光明道中記」(1月29日)より

【病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。
                    (『生命の實相』第五巻)】

心朗かなれば病はない。
他を憎まなければ病はない。
悲しまなければ病はない。

物思いに沈むことなければ病はない。
怒ることなければ病はない。
気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。

不平に思うことなければ病はない。
呟くことなければ病はない。
ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。

病気になって都合よしと思うことなければ病はない。
家に争いなければ病はない。
仕事を嫌うことなければ病はない。

隠す心なければ病はない。
羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。

心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。
心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。
心暗ければ本当に善の資格はないのである。

人を愛すれば病はない。
すべての事物を愛すれば病はない。
愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、
執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。

心顛倒するは智慧が欠けているのである。
智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。

          <感謝合掌 令和5年1月29日 頓首再拝>

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと生きる - 伝統

2023/01/30 (Mon) 07:13:26


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月30日)より

交友を選ぶことは生涯のうちで最も大切なことである。
悪しき友と交わってはならぬ。
悪しき人間は《本来ない》けれども、
方向のまちがった側へ進む者を「悪しき人間」と仮に言う。

生命(いのち)の本質の栄えのことを思わず、
外面の虚栄に心を奪われ、五官の快楽のことにのみ心を引かれて
悪しき者と交わるならば、その人は人生で一番大切なものを見失う時が来る。

かく言えばとて、
決して一日中一室に閉じ籠っている憂鬱な友達を選べという意味ではない。

明るく生きることは人生の一つの美徳である。
強く生きることも一つの美徳である。
大きく生きることはさらにまたもう一つの美徳である。

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと
生命(せいめい)の大地を踏みしめて行くことは常によい。

外面(がいめん)の虚栄や五官の快楽には強さがなく、大いさがなく、
広さがなく、包容性がなく、それが常に狭く個人的なものになりたがるから
低卑なのである。

孤独ということも、それが個人的なかぎりにおいては
人の生長を害(そこな)うものである。

        <感謝合掌 令和5年1月30日 頓首再拝>

時処相応の真善美の生活 - 伝統

2023/01/31 (Tue) 07:38:13


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月31日)より

事件に巻き込まれてはならない。
また時処(じしょ)に超然としてもならない。
生命(せいめい)は時処を超越しながら時処の中に美しき華を開く。

「真(しん)」は時空の外に超越している存在であるが、
「善」と「美」とは
真(しん)が時処(じしょ)相応(そうおう)を得たときにあらわれる。

「二二ンガ四」は「真(しん)」であるが、
「三三ンガ九」が必要な時処(ときところ)に
「二二ンガ四」が出て来たのでは時処相応でないということでそれは悪である。

数理の「真(しん)」の世界には無限の数の組合せがあるが、
そのうちで時処相応はただ一つである。

生命(せいめい)の「真」の世界においても
無数の生命(せいめい)の行き方があるが、
その中で、ただ一つだけ「時処相応」がある。

常に「時処相応」の生活をしている人は生活の名人である。
われわれはこの生活の名人になるべく常に心がけたいものである。

常に神の叡智の導きに耳を傾けよ。
そこから本当の時処相応の真善美の生活が顕われてくるのであろう。

        <感謝合掌 令和5年1月31日 頓首再拝>

《与えることによってのみ受けられる》 - 伝統

2023/02/02 (Thu) 04:57:50


           *「光明法語」(2月2日)より

太陽の温かさを受けようと思えば先ず一歩日向(ひなた)に向って「歩み出し」を
与えることが必要である。日向にむかって「歩み出し」を与えないでいて
太陽の温かさをうけることは出来ない。

写真を写すには先ずカメラに代金を払わなければならぬ。
マメラを借りて来ても好(よ)いが、やはり吾らは、
焦点距離を合わしてスイッチを捻る動作を与えなければならないのである。

音楽をきこうと思えば音楽会に金を払うか、レコードに金を払うか、
蓄音機を廻すかラジオの波長を合わすか、
いずれにせよ金又は「動作」を与えなければならぬ。

        <感謝合掌 令和5年2月2日 頓首再拝>

《自分の立場を捨てること》 - 伝統

2023/02/05 (Sun) 07:25:14


           *「光明法語」(2月5日)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。

        <感謝合掌 令和5年2月5日 頓首再拝>

【いくつになっても「学ぶこと」そして、「熟さないこと」】 - 伝統

2023/02/09 (Thu) 04:55:24


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.23)より

   (放送作家、鶴間政行氏の心に響く言葉より…)

   《国語、歴史、英語を勉強しておかないと、
    いざというときにアドリブの言葉が出ない。》(萩本欽一)

   (いくつになっても「学ぶ」 ことはとっても大事)
           (増井昭太郎・元TBSテレビディレクター)


『週刊欽曜日』や『ぴったし カンカン』(どちらもTBS 系)を手がけた増井さんが
大好きな言葉です。

浅草の舞台からテレビの世界にやってきたとき、
「常識力が圧倒的に必要だ」と思い知らされた欽ちゃんは、
自力で勉強を続けていました。

学校の試験に出るようなことではなく、
アドリブで使えそうなことやものを覚え込むのが欽ちゃん流学習術です。


たとえば「好きな国は?」と聞かれたとき、
「カムチャツカ半島!」と答えるだけで笑いが起きる。

そもそも国でもないし、でも響きが面白いのでウケちゃう。


いいアドリブを言えるかどうかは、
じつは知識がどれだけあるかにかかっているのです。

欽ちゃんは新人オーディ ションでも、基礎の知識をチェックします。

たとえば戦国三大武将、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の個性を表すホトトギスの川柳。

その3つをスラスラ言えたら、この子は国語も歴史も知っているとわかる。


次に「君が4人目の武将ならなんて詠む?」と質問します。

そこで、
「鳴かぬならくすぐっちゃうぞホトトギス」なんて
答えるセンスのある子が、欽ちゃんの好みです。

センスは大事ですが、その前に常識や基礎知識がないと
いいアドリブやパロディにはたどり着けません。

コント55号のコントも、「常識」が土台でした。

欽ちゃんは常識からちょっとズレたことを二郎さんに要求し、
二郎さんは困りながら懸命にやる。

そこに55号独特の笑いが生まれたのです。

        <『欽言(きんげん)』主婦と生活社>

         ・・・

劇団ひとりさんは
『欽ちゃんのアドリブで笑(ショー)』で、欽ちゃんと共演し、多くを学んだという。

そのひとつが「熟さないこと」。


『欽ちゃんはとっくに熟しているはずなのに、
 ステージ上ではそんな雰囲気を一切出さず、若者のように動きまわって
 ひとりさんにツッコんでいきます。

 その姿をみて、

 「自分もずっと熟さず、もがき苦しむ中から笑いをつくろうと決意した」

 といいます。

 笑いには「正解」も「完成形」もありません。

 成功したコメディアンでも、
 「これが正しい」「こうしたら絶対に面白い」 とは言い切れません。

 成功したものを次々壊し、新しいものを探していかなければならない。』


いくつになっても、学び続けるからこそ、
今まで成功してきたことを壊すことができる。

逆にいうなら、今までの成功パターンを
守り続けている人は、新たな勉強をしていないひと。

学ばないから壊す自信がない。


いくつになっても学び続け…

「熟さないこと」を忘れない人でありたい。

        <感謝合掌 令和5年2月9日 頓首再拝>

《一寸でも愛に反(そむ)く行為をするな》 - 伝統

2023/02/10 (Fri) 05:08:26


           *「光明法語」(2月10日)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、
人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をすることを全然やめた時に、
自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために
神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は

「神と自分との間にある通路は、
 實に何でもないとおろそかにする小事によって塞がれてしまうことがある。
 一寸したズルい行為。一寸した不深切な嘲笑。一寸した世間話。
 一寸した酷評。すべて一寸した愛にそむく行為によって」

と言っている。

        <感謝合掌 令和5年2月10日 頓首再拝>

責任を喜ぶ日 - 伝統

2023/02/11 (Sat) 07:30:34


           *「光明道中記」(2月11日)より

【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。
                 (『生命の實相』第二巻)】

責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。

自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、
それは既に自己が弱者であることを自己確認したのである。

そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。

弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。
若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。

若し自身が不幸であるならば、
自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。

いずれにしても他を恨み、
他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。

最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だと
自覚を持つ聖者である。

世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、
自分の罪だと私は言いたい。

        <感謝合掌 令和5年2月11日 頓首再拝>

《後ろから卑怯に斬るな》 - 伝統

2023/02/12 (Sun) 05:02:11


           *「光明法語」(2月12日)より

本人のいない前で悪口を言うのは実に卑怯な行為である。
若し相手が悪いのならば本人に直言すべきである。

若し相手に悪がないのに虚構して悪口するのであれば尚一層卑怯である。

誰も警戒していないのに後ろからバッサリやるのは
昔から“悪ざむらい”の所行である。
本人のいないところで悪口言うのは後方からバッサリ斬るのと同じことだ。

そんな行為は常に自分と神との間を遮断するものなのである。

そんなことは愛深き神の波長と会わないのである。

幸福になろうとする者は人の美点を賞めることから始めよ。

        <感謝合掌 令和5年2月12日 頓首再拝>

人間の悪口を言ってはならぬ - 伝統

2023/02/13 (Mon) 05:03:17


   *「光明法語」(2月13日《自己の不運をかこつな》)より

不深切、残忍、卑怯、殺人、盗罪ーそのようなことは
神の愛にそむくのである。

神は愛であるから、
神の愛にそむく一切の行は神と波長が合わないのである。

吾々が人の悪を決して云わないことに決心し、
それを実行した時に屹度その人は運が向くのである。
更に自分の不運をかこたぬことにしたら一層運が向くだろう。

他人の不運(悪口)を呟くのも、
どちらも神の子をけがす罪なのである。

キリストはすべての罪は赦されるけれども
聖霊をけがす罪は赦されないと言っている。

聖霊の出生である人間の悪口を言ってはならぬ。

        <感謝合掌 令和5年2月13日 頓首再拝>

【「人生は面白い」と思える人に】 - 伝統

2023/02/15 (Wed) 07:55:06


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.1.4)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   ■《親が子に伝えるのは

    「これからはもっとよくなる」

    「楽しいことは次々起きる」ということだけ》

   なんで、親って
   子どもが不安になることを言うんだろう?

   いいかい、子どもに伝えるのは、

   「今日より明日はもっとよくなる」

   「あなたの未来はいいことばかりだよ」

   ってことなの。

   そう言って育てた子は、どんなときでも立ち直って、
   明るい未来を見ることができるんだよ。




   ■《「仕事は楽しい」「人生は面白い」って
     親が見本を見せることだよね》

   親がやってはいけないのは、
   干渉して、余分に心配することなんだ。

   そんなに構わなくていいんだよ。

   日本人は、心配することが愛情だと勘違いしているんだよね。

   過干渉な親って、遊びが足りないの。

   子どものためにも、もっと遊ぶことだよ。

   そして、人生が楽しいんだって、身をもって教えてあげることだよね。

       <『斎藤一人 新 一日一語』ぴあ>

        ・・・

これは、親だけでなく、すべてのリーダーや教師や上司に言えること。

たとえば、教師が数学を教えるとき、
いつも不機嫌で、つまらなそうに教えていたら、誰も数学を好きにならない。

逆に、数学が好きで好きでたまらないという教師が、
いつも機嫌よく、楽しくて楽しくてたまらないというオーラを出して
数学を教えていたら、数学を好きになる生徒は間違いなく多くなる。

そういう先生は、たいてい授業が脱線ばかりしている。

楽しいから、好きだから、それを伝えたくて仕方ないからだ。


たとえば中小企業や商店の経営者。

仕事を面白がって、楽しんでいる経営者は、遊びもしっかりできる。

そして、儲けるのも上手。

だから、それを見ている子供たちは、後継者や跡継ぎになりやすい。

なぜなら、大企業に入るより親の方がよっぽど楽しそうだから。


また、

「子供のときも面白いけど、
 大人になるともっと面白くて楽しいよ。大人はいいぞ!」

と言える親や大人は魅力的だ。

親や大人が、不平不満や、愚痴、泣き言ばかり言っていたら、
「大人になりたくない」と子供は思う。


斎藤一人さんは

「神様にひいきされるためには、
 神様が喜ぶような生き方をすること」

だという。

神様が喜ぶのは、
「毎日楽しそうに生きている人」を見ること。

毎日、喜んで、楽しんで、日常に感謝している人は神様にひいきされる。

反対に、不平不満や、愚痴、泣き言、悪口、文句、そして不安や恐れなどの
負の感情をもっている人を神様も見たくはないから遠ざかる。

これは人間の感情と同じ。


「人生は面白い」「仕事は楽しい」

と思える人でありたい。

        <感謝合掌 令和5年2月15日 頓首再拝>

【謙虚にならざるを得ない】 - 伝統

2023/02/18 (Sat) 07:49:04


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.1.7)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   菩提樹(ぼだいじゅ)の下で瞑想に入ったお釈迦さまは、
   12月8日の朝、日の出の時、
   その日の光を浴びて「わかった、私は悟った」と叫んだそうです。

   それから、釈迦は、かつて一緒に修行をしていた
   5人の仲間に会いに数km離れた竹林へ向かいました。

   この修行仲間たちは「苦行を捨てた釈迦は、堕落した」と言って
   去っていった人たちだったんですが、釈迦は彼らに開口一番
   「私は悟った」と言ったんです。

   するとその5人は、釈迦のことを堕落してどうしようもない奴だと
   軽蔑して去っていった人たちですから
   「どうしたんだい、ゴータマ君」って“君”づけで呼びました。


   「実は、こういうことを悟ったんだ」と釈迦が数分話をしたら、
   その5人は、居住まいを正して

   「今、この瞬間からあなたを師匠として、私たちは弟子として、
    これからあなたに一生ついていきます」と言った。

   では、その数分間の話とは一体何なのか。


   それが釈迦の最初の悟りと言われているもので
   ”縁起の法則”というものなんです。

   「縁(よ)りて起こる」。

   縁起の法則というのは

   「人は自分の人生を自分の想いでつくれる
    と思っているがゆえ に、悩み苦しむ。

    人生は自分の想いでできあがっているのではなくて、
    自分たちの想い以外の神仏や周りの人々のお陰で
    全部が成り立っている」

   と釈迦は言った。

   釈迦はそれに気がついた。

   私の人生をつくってるのは私じゃない。

   人は、自分の人生には1%も関わってない。
   0%だ。


   では、私以外の神仏、友人、知人、家族というものが
   私の人生を成り立たせてくださっているとしたら、
   私の想いで私の人生をつくってるんじゃないとしたら、

   私にできることは、私の人生を成り立たせてくださってる
   神、仏、友人、知人、家族に対して、
   ただひたすら感謝をするしかない、ということになります。

   そこにしか自分の人生に参加する方法がないということなんです。

   自分の想いで自分の人生をつくっている人はいない。

   自分の想い以外の大きな力によって人生が成り立っている。


   例えば、コップに水が入っていて、これを私が飲もうとする。

   自分の意志でこの水を飲もうとしているけれども、
   私がこの水を飲むことについて
   私が関わっているのかどうかという話をしますと、

   このガラスコップを作ってくれる人がいなければ、
   ここまで水を持って来ることはできませんよね。

   今、この状態で置いておくことができない。

   両手でずーっと持っていなくちゃいけない。

   両手で持っていれば、水はどんどんこぼれていって、
   飲めないですよね。

   だから、ガラスコップのお陰で水が飲める。


   ガラスコップというのは砂から珪砂(けいさ)というものをとってきて、
   ガラスを作るわけですから、コップになる前の段階でガラスになる
   材質をとってきてくださった方がいるわけです。

   そのガラスコップがテーブルに載ってる
   ということは、テーブルを作った人がいるんです。

   テーブルは床の上に載っかってます。

   床は大工さんが造ったんですよね。

   その大工さんに家を頼んだのは
   建物の持ち主なんですよね。

   それに関わったすべての人がいなければ、
   このコップの水は存在しないから、飲むことはできない、
   ということになりますね。


   で、何よりも一番肝心なのは、
   この水そのものが私たちにはつくれないんですよ。

   水が空から落ちてきて、
   それを飲むことで人は生命を維持することができている。

   「私が自分の命を維持してるんだ」と
   私がどんなに頑張って主張しても、
   この水さえもつくることができないのです。

   この水が上から落ちてきて初めて、
   私たちは飲むことができて、生きていられるのだから。

   私の想いとか私の能力とかが、
   この水に関して何か参加していますか。

   そういうことを考えていったら
   「私の人生に、私はどこにも参加していない」
   と確かに言えるんですね。

   そう考えると謙虚にならざるを得ないでしょう。

        <『宇宙が味方の見方道』清談社>

       ・・・

小林正観さんは「感謝の効用」についてこう語っています。


『 "私"を"私"たらしめてくださっている存在物
 ――神、仏、守護霊さま――この目に見 えない3者と、
 私をとり囲んでいる人間関係――友人、知人、家族―――
 この6者によって私の人生は成り立っている。

 そうすると、私が自分の人生に参加できるのは、その6者に
 「私をいつも、なんとかしてくださって、ありがとうございます」と、
 ただひたすら感謝する......。

 それしか参加できないでしょう。

 人の協力がなければ、何事も成り立っていかないんです。

 で、現実問題として、周囲をとり巻くすべてのものに対して
 「ありがとう」って言える 「私」になったら、

 例えば、営業成績とか収入とかの三次元的な数字が
 どんどん上がっていくという事実があるようです。

 だって、常に応援してくれている味方たちに
 感謝の言葉を投げかけているんですから、
 その方たちだって、さらにやる気になって応援してくれますよね。

 自分ひとりで頑張ってるときとは全然違うようになります。

 〈縁起の法則〉が、本当かどうかわからなくても、
 これには、ものすごいプラス効果があるみたいですね。

 私たちが感謝すればするほど、
 周りの人たちは、もり立ててくれるから、
 実際にとても楽に生きられるようになりますし、
 これまで以上に、支えてくれることは事実のようです。』



「縁起の法則」とは、この世のあらゆる物事は
それだけで存在することはない、ということ。

花は種がなければ咲くことはできない。

しかし同時に、土や、水や、適度な温度や、日光、
などいろいろな条件がうまく重ならなければ咲くことはできない。

すべての物事は因果関係で成り立っているということ。


多くの人は、うまく行ったときなど、
自分の努力の成果が表れた、と普通に思う。

例えば、勉強を一生懸命して、
自分の希望する高校や大学に入ったとする。

それは、すべて自分の努力の結果があらわれた、
と思ってしまうような場合だ。

確かに勉強は本人がしたかもしれない。

しかし、その勉強を支えてくれた
家族や先生がいて、友人もいる。

あるいは、そういう勉強する場所も、ある程度の経済力も必要だ。

だからこそ、自分の努力だけで
うまく行ったと思う人は「傲慢」だということだ。

すべてはまわりのおかげ、という
「おかげさま」の心がない人は謙虚さがないということ。


我々は…

「謙虚にならざるを得ない」

という言葉を胸に刻みたい。

        <感謝合掌 令和5年2月17日 頓首再拝>

凋落の兆し - 伝統

2023/02/20 (Mon) 04:47:24


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月20日)」より

伸びることを忘れた時に凋落が始まる。樹木を見て、その真理を悟れ。

           <感謝合掌 令和5年2月20日 頓首再拝>

十分合理性を持たせて事件を落着させることが大切である。 - 伝統

2023/02/26 (Sun) 05:04:28


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月26日)」より

腹を立てることと、相手に対して悪意を抱くことは相手を殺すことになる。

今日(きょう)、中島さんが入って来てこんな話をした。
○○電気局長のN氏、ある婦人と婚約したが、
しばらくの後その婚約した婦人のところへN氏から送られて来たものは、
N氏がすでに別の婦人と結婚したという通知のハガキであった。

あとで聞いてみると、さきの婦人はその時ハッと思っただけで
深く怨みに思ったわけではなかったというが、ともかく重大な問題について
約束を破られたのであるから、強い衝動を受けたということは明らかである。

それからが問題である。――

爾来、N氏の結婚生活は不幸であった。
N氏の新妻は常に病気で、ほとんど健康な日とてはなかった。
その間に一人の女児を儲けたが、
N氏の家族は妻の病気のために不快な日がつづいた。

N氏が三回目に逓信省の辞令によって洋行したとき、N氏はどういう考えだか、
その夫人との13年間の結婚生活を解消すべく離縁状を送った。

夫人が結婚生活以来13年間の病気は、その結婚解消と同時に
たちまち完全に治ってしまったのであった。

N氏は今また別の婦人と夫婦生活を営んでいるが、
常に夫婦喧嘩の絶え間がないそうである。
中島さんの話はこれだけである。

あとはわたしの感想である。

第一の約束は先取的特権として最高権威をもち、
ぜひとも守られるべきものである。

守らないくらいならば、
イエス・キリストも「誓うなかれ」といったように
約束すべきではなかったのである。

やむをえずに約束を破らねばならぬようになったならば、
一片の葉書などで破約すべきではない。
先方が大調和の心持で快諾するまで十分話し合って、
心残りのないように十分合理性を持たせて事件を落着せしむべきものである。

最初の約束を破って、N氏が結婚した二人目の夫人が始終不健康であったのは、
最初の婦人の恨みの念が、二番目の婦人を縛っていたのだとも解することが
できるのである。

あるいはN氏自身の自己審判の潜在意識が夫人に移入して
夫人が13年間も病気していたのだとも解せられる。

ともかくとうとうN氏は二番目の婦人を去ることによって、
最初に約束をしたその婦人に申し訳をしたのである。

言葉で十分相手に申し訳をして潜在意識がその行為の合理性に
納得せしめられていたならば、生活や行為に不幸な現象を現わして
最初の夫人に申し訳する必要はなかったに相違ないのである。

           <感謝合掌 令和5年2月26日 頓首再拝>

《自分を見苦しく広告してはならない》 - 伝統

2023/02/27 (Mon) 12:57:27


           *「光明法語」(2月27日)より

吾々の生活は一言一行が広告である。
それは「此処にこんな人がいる」と云うことを
広告して歩いているのだからである。

怒りっぽい人は「此処にこんな怒りっぽい下らない人間がいる」と
広告をしているのだし、

ニコニコした人は「此処にこんなニコニコした人がいる」と
広告しているのである。

膨れっ面は、不平な人を広告しているし、
泣き面は悲しい心持を広告しているのである。

何のために諸君はそんなに自分の見苦しい面ばかりを広告してあるくのか。
それは人生を見苦しくし、諸君自身の値打を下げる。

           <感謝合掌 令和5年2月27日 頓首再拝>

今、目前の仕事にサービスせよ - 伝統

2023/03/01 (Wed) 05:06:23


           *「光明法語」(3月1日)より

若し諸君に職業が見つからぬならば、金を得る仕事だけを職業だと思うな。
諸君の前に偶然あるところの何の仕事にでも(便所掃除でも、カド掃きでも、
障子硝子拭きでも)報いを求めることなしに奉仕せよ。

これが無条件に与えると云うことである。
やがて其処から諸君に最も必要にして適切なる仕事を得る
緒(いとぐち)が得られるであろう。

神は決してケチではないのである。
人間が与えることにケチなのである。

そして入り口をひらかないものだから神の恵みが流入しないのである。

           <感謝合掌 令和5年3月1日 頓首再拝>

自己の使命感を生かせ - 伝統

2023/03/02 (Thu) 07:43:26


           *「光明法語」(3月2日)より

或る有名な音楽家のところへ一人の娘がたずねて来て、
どうしたら自分は早くラジオに出られるようになりますか。
オペラのシンガーになることが出来ますかとたずねた。

その有名な音楽家は答えた。

「どんな天才でもそのような気持ちで天才を伸ばすことは出来ません。
歌手が歌手として成功するためにはどんな苦労をしてでも歌を立派に歌いたい
と云うような一念にならねばなりません。

かくて其の一念不動の決意によって音楽が自分自身をさえも
魅するような上手さに達した時他の人々をも魅することが出来るのである」と。

           <感謝合掌 令和5年3月2日 頓首再拝>

使命感と天分を目的とせよ  - 伝統

2023/03/03 (Fri) 07:33:11


           *「光明法語」(3月3日)より

名声や金儲けを目的にしているのは本道(ほんみち)ではない。
それは天分のない証拠だと言えるのである。

私が早稲田の文科にいたとき、
その分科が甲クラス乙クラスとに分かれて、
乙クラスは専門に文学のみを修業して
中等学校の英語教師たる資格を抛棄(ほうき)する。

甲クラスは若し文学で飯が食えねば
英語教師に無試験検定でなれる資格を保留することにしたのである。

その時、乙クラスにみずから進んで入学をした者は僅か数名だったが、
彼らは文壇でとも角有名人になった。

西条八十、木村毅、細田民樹、細田源吾、鷲尾雨工・・・・・等々。

           <感謝合掌 令和5年3月3日 頓首再拝>

【メモは点と点をつなげる】 - 伝統

2023/03/05 (Sun) 08:33:10


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.1.28)より

   (トム・ピーターズ氏の心に響く言葉より…)

   すべてはアンテナをつねにピクつかせていることから始まる。

   紙でも電子でもいいが、まずは「観察ノート」をつくってみよう。

   ムカつくことに出くわしたら、すごいものに出くわしたら、
   なんでも書き留める。


   (1)は、どんな小さなことでもいい。

    たとえば、ユーザーにやさしくない伝票とか、
    チンプンカンプンの使用説明書とか・・・・・・。


   (2)は、自分の仕事に活かせることなら何でもいい。

    たとえば、レストランや球場や歯科医の
    待合室での感動的な体験など......。


   ポイントは、ものを見る眼を養い、
   小さなことに感動できる感性を磨くことにある。

   ウィンストン・チャーチルは
   「教育でいちばん大切なものは意欲だ」と言った。

   リーダー シップの教祖ウォーレン・ベニスは
   「私は好奇心のかたまりとして記憶されたい」と言った。

   デービッド・オグルビーは
   「超一流のコピーライターに共通しているのは、
    天が下にあるものすべてに対する飽くことのない好奇心だ」
   と言っている。


   プロジェクトの枠を取り払う人にも同じことが言える。

   うれしいことに、好奇心というのは、
   訓練して増進することができる。

   私の最良の友は(それは妻なのだが)、
   おそるべき「メモ魔」である。

   彼女はホームファーニシングのビジネスをやっている。

   たとえば、仕入れ先を探しに出張すると、
   ノートを40頁埋めて帰ってくる
   (彼女は尊敬する祖父からこの習慣を受け継いだ)。

   メモあり、スケッチあり、
   新聞や雑誌から切り抜いて貼りつけた
   記事あり広告ありという具合だ。


   私の友であり、ビジネスの達人であるカール・ウェイクは、
   上着の内ポケットに
   3×5インチのカードをぎっしり詰め込んでいる。

   彼が二〇分以上、メモをしないでいるのを見たことがない。


   また別な友人は、マッチだろうがナプキンだろうが
   字が書けるものなら何にでもメモし、
   上着の左のポケット(いつも左)にどんどん放り込んでいく。

   三日ぐらいたつと、ポケットを総ざらいし、
   出てきたものを整理しながら、入念に
   パソコンのファイルに入れていく。

   こういう人たちの、死ぬまで勉強を続ける姿勢、
   汲めども尽きぬ好奇心、決して現状に満足しない向上心には
   ほんとうに頭が下がる。

   生きるということは学び続けることだ
   という固い信念があるからできることだ。


   強い好奇心をもち、何でも吸収してやろうという気持ちでいると、
   不思議なことが起こる。

   往々にして、思いもよらぬことが起こる。

   ちょっとしたことを思いつくと、
   ひらめきがひらめきを呼び、
   頭の中でばらばらになっていたものが
   次から次へとつながりはじめる。

   そして、つまらない仕事を
   ときめきのプロジェクトに変える能力が
   幾何級数的に高まっていく。


    <『トム・ピーターズ セクシープロジェクト
      で差をつけろ』阪急コミュニケーションズ>

        ・・・

前田裕二氏は
「メモの魔力 (NewsPicks Book)」という
本の中で次のようなことを語っている。


『人に指摘されて気づいたのですが、
 僕は毎日、尋常ではない量のメモをとっています。

 おそらく、人が1週間、いや、1ヶ月かけてとるメモの量を、
 平気で1日のうちにとります。

 なぜここまで狂ったようにメモをとるのか。

 それにはいくつかの理由がありますが、
 まず何より大切な理由が、この残酷なまでに
 時間が限られている人生という旅の中で、
 「より本質的なことに少しでも多くの時間を割くため」です。

 本質とはなにかというと、
 コピーではなく創造、代替可能物ではなく代替不可能物、
 ということ。

 つまり、クリエイティブで
 新たな知的生産につながる思考や、
 自分にしか思いつかないような代替不可能性の高い思考。

 これら価値のある本質的思考に
 1秒でも多く時間を割くために、メモをしているのです。』



これは、スティーブ・ジョブズのいう
「Connect The Dots」(点と点をつなぐ)と同じ。

点をつなげるために経験をつむのではなく、
後で振り返ってみると、不思議に今までバラバラだった、
点と点がつながる、ということ。


つまり、メモを取ることが、
思いもよらない、クリエイティブなことにつながる。

片っ端からメモを取る…

メモには点と点をつなげる力がある。

         <感謝合掌 令和5年3月5日 頓首再拝>

一事を見て万事を判断してはならぬ - 伝統

2023/03/06 (Mon) 05:07:57


           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

         <感謝合掌 令和5年3月6日 頓首再拝>

悪事を断ち切る道 - 伝統

2023/03/07 (Tue) 05:05:14


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7日)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、
この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。

そして本当の「私」でない者に、
今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 令和5年3月7日 頓首再拝>

自己弁護する自分は「本物の自己でない」 - 伝統

2023/03/08 (Wed) 05:07:45


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、
ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

        <感謝合掌 令和5年3月8日 頓首再拝>

【究極のお人よしとは】。 - 伝統

2023/03/11 (Sat) 07:41:54

        *<メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.1.25)より

   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   ものごとを単純に考えて、あまりむずかしくとらえない。

   こういう人も神に祝福されやすい人だといえます。


   たとえば、いつも周囲の人に感謝しなさい、
   何に対しても、「ありがとう」の思いをもちなさい。

   そうすれば必ずいいことがある。

   そんなふうに人から諭されて、
   「はい、そうしましょう」と素直に応じる人は少ないでしょう。

   たいていの人は、
   それなら自分の悪口をいう人間にも感謝しなくてはならないのか、

   病気になってもありがとうといえというのか
 
   といった疑問を抱くはずです。


   自分に向けられた悪意にたいしても感謝できるか――これは人間にとって、
   いわば宗教性を帯びた重要な命題ともいえるものですが、

   この問いを突きつけられたとき、私は一人の人物の逸話を思い出します。

   良寛です。

   いうまでもなく、江戸時代の僧侶でありながら生涯寺をもたず、
   酒を愛し、多くの詩歌を残した、あの良寛和尚です。


   その良寛が舟に乗ったとき、
   船頭が意地悪をしてわざと舟を揺らして、良寛を水中に落としてしまう。

   溺(おぼ)れそうになっている良寛の姿をさんざんあざ笑ったあとで、
   ようやく舟に引き上げる―そんな悪質ないやがらせを
   良寛は船頭から受けるのです。

   ところが良寛は、その船頭をとがめるどころか、
   「おかげさまで命を助けていただきました」とていねいに礼を述べる。

   そういうエピソードです。


   このとき良寛の心のうちを占めていたのは、
   どんな心情だったのでしょうか。

   屈辱感を抑えて相手の愚行を許そうとする大きな寛容の心か。

   それとも、そもそも人間の心に悪意というものを認めない、
   したがって、ただ助けてもらったことへの十全な感謝の思いか。

   私はその両方であったような気がします。


   子どもの心こそ仏の心といって、
   実際に子どもとよくかくれんぼをしたり、手まりをして遊んだという
   良寛はほんとうに子どものような単純な心で、
   何にたいしてもありがとうと感謝する。

   そういう鈍な生き方を貫いた人物であったようです。


   人間は悪行、善行、どちらも行える、
   天使でもあれば悪魔でもある存在ですが、

   良寛はおそらく、人間の本質を悪よりも善に見いだす。

   そういう心境にまでなっていたので、
   自分にたいする悪意に感謝で報いたのだと思うのです。

   それは「お人よしの極み」であり、
   見方によっては「究極のアホ」ともいえる生き方ですが、
   一つのたしかな幸せな人間の生き方でもあったと思います。


   こういう例を見ると、良寛がみずからを「大愚」と称したように、
   いいときはもちろん、悪いときも、とにかく「ありがとう」という
   感謝の念を抱く、単純素直でスケールの大きな愚かさに
   かなうものはないと思えてきます。

   意地悪をした船頭と、その意地悪に感謝でこたえた良寛。

   どちらが天の意や理(ことわり)にかなうものかは
   いうまでもありません。


   病気になっても、ほんとうにありがとうといえるのか?

   けっしてむずかしいことではないはずです。

   なぜなら、大きな病気をした人ほど命の大切さに気づき、
   生きている生かされていることへの感謝の念がわいてくるからです。

   健康なときには、その当たり前のことがわからない。

   病気がそれに気づかせてくれる。

   だから病気にもありがとう、なのです。


   単純とは力のことだと私は思っています。

   複雑な思考能力やものごとを疑う力は万物の霊長である人間の特徴で、
   人間を進化させてきた源でもありますが、
   それは人間に苦しみや生きにくさをもたらしました。

   ですから、腹が減ったら飯を食い、
   家に帰りたくなったら帰り、
   眠くなったら眠る。

   ときには、そんな動物みたいな単純明快で、
   「大愚」な生き方をすることが人間を生きにくさから解放し、
   私たちに生きる強いエネルギーを充填してもくれるはず。

   生き方上手な人とは、
   単純であることの効用をよく知っている人のことなのです。


    《病気にも「ありがとう」といえるお人よし》

      <『アホは神の望み』サンマーク出版>

       ・・・

良寛和尚の
「戒語(心良からぬ言葉への戒め)二十」という一文がある。


1. 言葉の多いこと

2. あわただしくモノを言う

3. モノ言いがくどい

4. “俺がこうした”などの自慢話

5. 人がモノを言い切らぬうちに言い出す

6. 我がことを強いて押しつける

7. 他人の話を鼻であしらう

8. 過ちをつくろい飾る

9. 好んで唐言葉を使う

10. 酒酔いして理屈を言う

11. 憎き心をもちて人を叱る

12. 人をあなどる話

13. 減らず口

14. たやすく約束する

15. 筋なき長話

16. いささかなことを言い立てる

17. 言うても詮なきこと

18. おかしくもないのに笑う

19. 人のことを暴く話

20. もめ事やけんかの話


以上、(眼からウロコを落とす本 /PHP文庫)より



「愛語(あいご)」という言葉は、
良寛和尚が好んで使っていたと言われている。

それは、「自分は貧しいひとりの修行僧なので、
人に与えるもの、あげるものが何もない。
だからせめて、心をあたたかくするような、
心を安らげるような『言葉』をあげたい。
それならいくらでもあげることができるから」、と。

「戒語」もまた、「愛語」と同じく、
言葉を大事にした良寛和尚の真髄が詰まっている。


まさに、良寛和尚の「戒語」は、現代でも立派に通じる戒めの言葉だ。

それは、単純明快で、大愚な生き方でもある。


病気にも「ありがとう」といえるお人よしでありたい。

・・・

<参照>

自分の心がどこに住んでいるのかが重要です
伊勢ー白山 道(2023-03-10)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/cb491556bc94cb89a0366648e0ed882e

         <感謝合掌 令和5年3月11日 頓首再拝>

【楽しい話の収集家になろう!】 - 伝統

2023/03/13 (Mon) 07:40:59


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.4)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   世の中にはたくさんの問題があるようです。

   政治の問題・経済の問題・教育の問題。

   もう数え上げればきりがないほどに、
   これが問題だ、あれが問題だ、ということが出てくるに違いありません。


   ですが、私は宇宙の法則なり方程式なりを研究していて、
   こういうことに気がつき ました。

   問題だ、問題だと言うのと同じくらいに、
   実は、宇宙には楽しい法則や楽しい方程式が存在しているみたいだ。

   陰と陽があり、光と影があります。

   問題だ問題だという部分が100あれば、
   たぶん楽しい話、楽しい宇宙法則が100あるのです。

   問題だ、問題だというものが10000あれば、
   楽しい話、楽しい宇宙の法則・方程式がたぶん1000個あるのです。

   問題が1万個あれば、
   楽しい話や楽しい宇宙法則・楽しい方程式が1万個あるのです。

   たぶん同じ数だけ存在するに違いない
   ということが、私の中でありました。


   で、私はこういうふうに決意をしたのです。

   問題点を指摘する人間ではなくて、楽しい話の側の収集家になろう。

   こういうふうに数十年前に決めました。

   こうすると、こうなるらしいという
   楽しい宇宙の法則、楽しい方程式の収集家になろうと決意したのです。

   ですから、私の話の中にあれが問題だ、
   これが問題だという話は、ほとんど出てきません。


   たとえば、天才たちが育った家には共通項がありました。

   それは同じタイプ の母親が存在したということです。

   同じタイプの母親とは、子どもを称賛し、
   いいところを探し、褒めたたえた。

   悪いところを上げ連ねて、欠点を指摘して、修正して修正して、
   それを言い続けるのではなくて、

   いいところをピックアップして、それを探し、褒めたたえ、
   さらにまたよいところを探しては、
   それを褒めたたえたということです。


   吉田松陰も同じことを門下の塾生にやりました。

   よいところを探し出して、それを一人ひとりに教える。

   そこを指摘してあげるということをやったのです。


   世の中には、問題点の数と同じ数だけ
   楽しい法則、楽しい方程式があります。

   そちら側だけの収集家になると決意をするのはどうでしょうか。

   同じ教育の問題を論ずるにしても、
   「これがいけない」「あれがいけない」
   「今の教育が問題だ」と論ずるよりは、

   天才たちにはこういう共通項があった。

   同じタイプの親がいた。

   同じタイプの母親がいた。

   そういうことを探し出して、
   そういうことを話題にするというのはどうでしょうか。

   そういうことだけの研究家であり、
   そういうことだけを話す人間というのはどうでしょうか。

     <『啼(な)かなくていいホトトギス』中経出版>

     ・・・

いつも、楽しい話、明るい話をしている「楽しい話の収集家のグループ」には、
楽しくて、明るくて、笑顔の人が集まる。

いつも、問題点や、心配なことなどばかりを話す
「暗くて批判的な話の収集家のグループ」には、
議論好きで、批判好きの、暗くて不機嫌な人ばかりが集まる。

自分のまわりに集まる人たちがどちらのタイプの人なのか?

もし、暗い人たちばかりが集まるというなら、
自分が日頃関心あるニュースや好んでする話が暗い、ということだ。


身近にいる人たち、家族や友人や会社の仲間などが、
楽しくて明るくて、笑顔の人たちで囲まれているなら、今が天国ということ。

この世を去ってから、あの世では「天国に行く」、
というのを目指したとしても、
それは誰も分からない世界だし、天国があるかどうかの証明もできない。

だからこそ、
「この世の天国を目指す」という方が、現実的だし、理に適(かな)っている。

誰にも見える世界だからだ。


楽しい話の収集家を目指したい。

          <感謝合掌 令和5年3月13日 頓首再拝>

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