伝統板・第二

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ひかりの一日一言93~病気不孝は消える・願望を成就する - 伝統

2022/12/01 (Thu) 03:56:03

ひかりの一日一言93~病気不孝は斯うして消える・願望を成就するには

真理第1巻入門篇 第25章後半(P366~380<9項>)と
真理第1巻入門篇 第26章(P381~404<10項>)から
の謹写です。


各項目については、「ひかりの一日一言」としては、
長文となるものがありますので、小項目に分けての紹介になります。

結果的に、31日分の構成を目指します。        



ひかりの一日一言《1日》

《1日 神の国と、神そのものの完全さを心に描きなさい》

そこで常に間断なく祈ると云うことは
現象での御利益を見詰めて感謝する“より以上に”、
神そのものの完全さを心に描き、

神の創造り給うた実相の世界の罪なく、病なき、
円満完全なる世界のみを心に描いて、それのみを有り難いと
感謝するようにすれば好いのであります。

そう云う円満完全な世界と人間のみを心に描いておりましたなら、
何ら不完全な相(すがた)を心に描くことがないから、
病気を恐れることもなく、不健康に不平や不安の念を起すこともなく、

人々に対しても怒りや憎みや不快の念を起すこともなく、
ただ神に対して「有りがとうございます」と
感謝の念を絶えず起していることが出来るのであります。

キリストは不完全な相に心を執われている弟子に対して、
「我れ汝と何の係りあらんや、我れに従え。」と言っているのであります。

イエスが「我れ」と云われたのは真理(即ち実相)の体現者として、
「真理」そのものを指し示されたのであります。

不幸や病気は迷いの結果でありますが、
「迷い」と「真理」とは何の関係もない。

そんなに「迷い」などを見詰めないで、
唯、「実相」の方ばかり見詰めたら好いのではないか
と言われたのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P366~367)より

       <感謝合掌 令和4年12月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2022/12/02 (Fri) 05:03:01


《2日 人の欠点を心に描かぬようにしなさい》

真理を生き、実相を生きるには、
自他の欠点や欠陥の中を少しも覗き込む必要はないのであります。

吾々は「悪」の存在を《みとめ》、且つそれに対抗して
心をさわがす必要はないのであります。

心が騒げばさわぐほど、実相完全の姿とは、
波長が合わなくなるのであります。

祈りと云うものは、心の底深く生命(せいめい)の底深く
宣(の)ることなのでありますから、
「悪」を心に描いて、それを強く念じていることは、
恰(あたか)も「悪」を祈り出しているのと同じことなのであります。

それよりも寧(むし)ろ、吾々がなさなければならないことは、
「吾れに従え」とイエスの言われたとおりに
「実相」の方へ吾々の心の注意を振向けることなのであります。

それは実相世界の凡(あら)ゆるよき事物に対して
波長を合わせることになりますと同時に、
常に善きもの明るきものばかりを心に描いているのでありますから、
常に心が愉快であって、人生に光明が輝き、祈るところの事物が
一層完全にあらわれて出て来易くなるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P367~368)より

       <感謝合掌 令和4年12月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2022/12/03 (Sat) 05:04:43


《3日 人を憎んでいたら懺悔しなさい》

祈りの助行として必要なのは、
自分の心を神の世界、実相の世界に波長を合わせる準備行動として
自分の心を浄めると云うことが必要なのであります。

喩(たと)えば善が流れ入るために、
心の水垢(みずあか)がたまっているパイプを
浄めなければならないのです。

それは「悪(あく)」の否定的面でありまして、
今まで心の黒板に描かれていた落書きをきれいに
《すっきり》と消してしまうようなものであります。

この否定のはたらきの最も有効なのは懺悔であります。

喩えば「今迄、人を憎んでいたのは、ああ悪かった」と、
過去の心を否定してしまうのであります。

しかし否定が完成しましたならば、
否定のままで放置してはならないのであります。

「自然は真空を嫌う」と云う西洋の諺(ことわざ)がありますが、
真空のままで置けば何かが入って来るのであります。

或は「悪かった、悪かった」と云う自己悲観的な暗黒想念が
そのまま停留(ていりゅう)していることがあるかも知れません。

従って、「ああ悪かった」と云う懺悔の想念が起りましたならば、
その想念を一回転して光明の想念に転入することが必要なのであります。

心の中の垢(あか)が否定せられ、そこが空っぽになっていましたならば、
すみやかに真理が受け入れられる受け入れ態勢が整った
ところでありますから、実相に対して心を振向けさえするならば、
必ずや実相円満の姿が流れ入って来てそれが実現するのであります。

祈りが成就しないのは、結局、実相の円満な流れが、
現象界に流入する門戸(もんこ)に扉がしまっているからであります。

その扉が何であるにせよ、
その扉を外してしまわなければならないのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P368~369)より

       <感謝合掌 令和4年12月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2022/12/04 (Sun) 05:03:07


《4日 一切皆善の神の創造世界を心に描きなさい》

この扉(とびら)を外して神と直接対面するには、
神は宇宙の創造者であり、ただ善のみの創造者であり、
如何なる悪も創造し給わないのであって、
如何なる「善」も神は吾々に与えることを拒み給うものでない
ことを知ることが第一であります。

すべての「善」ならざるもの、、「不幸」なるもの、
「病気」なるものは、如何に存在するが如く見えても、
存在しないものであることを知り、
それを無視してしまうことが必要なのであります。

吾々が現在不幸に直面しているのは、
現象の出来事に時々心を捉えられて、
常に実相円満の相(すがた)を心で見つめなかったために、
善悪混淆(こんこう)の有様が現在あらわれているに
過ぎないのであります。

神は決して不幸の状態を創造(つく)り給わなかったのであって、
既に「我が欲する円満完全な状態」は与えられているのだ
と云うことを常に心に描くことが大切であります。

すべての「善ならざるもの」、「悲しみを齎(もたら)すもの」、
「苦しみを齎すもの」が此の世の中に現れて来るのは、
自分の心の向け方、心の照準の仕方を過ったに過ぎないのであります。

そう云う時には次のように祈るのがよいのであります。

「神よ、あなたの静かなる魂の平和をわれに与えたまいて、
 すべての心の悩みより我を解放したまえ。」

苦しみのあらわれているとき、悩みのあらわれているとき、
すべての善ならざるものがあらわれているとき、
最も必要なのは、その苦しみ、悩み、不善を
把(つか)まないことであります。

それらは神の静かなる魂の平和が流れ入って来たならば
自然に解消してしまうものなのであります。

しかし神の静かな魂の平和が流れ入るためには、
すべての「不善」を《あり》として把んでいる心の垢(あか)を
きれいさっぱり流してしまわなければならぬのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P369~371)より

       <感謝合掌 令和4年12月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2022/12/05 (Mon) 05:06:24


《5日 祈りは何時、何処でもできるが、一定時の祈りは大切①》

神は常に、すべての時に、すべての処に存在したまうのであるから、
何時(いつ)、何処(どこ)で一定の時間に、一定の方式で
祈らなければならないと云うことはないのであります。

しかしこれは一般理想論でありまして、
そのような理想論的心境になれた人なら問題はないのでありますが、
そのような境地にはなかなかなれないのでありまして、

孔子でさえも、年(とし)70歳を越えてはじめて
「心の欲する処に随って距(のり)をこえず」と
言っているのであります。

だから、一般の人には一定の場所で、一定の時間に、一定の形式で
神想観する必要はないなどというのは間違いなのであります。

一定の時間を定(さだ)めて、祈り又は神想観なさることにしていますと、
定(さだ)まらない時間に突然の用事や訪問によって妨げを受けることなく、
他(ほか)の忙がしい時間にイライラすることなく、

日常生活が神の智慧に導かれて、
何事もスラスラと運ぶようになるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P371~372)より

       <感謝合掌 令和4年12月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2022/12/06 (Tue) 05:04:45


《6日 祈りは何時、何処でもできるが、一定時の祈りは大切②》

法然上人も一日念仏六万遍と言われまして、
常住「仏(ほとけ)」を念ずる生活を推奨されましたが、
「別時の念仏」と云って、特別に定めたる時間に
一定の作法をもって仏を念ずることを推奨されたのであります。

われ「神の子」なることを自覚して、
常に緊密に神との一体感に入っておられるイエス・キリストでさえも、
或る時間にはすべての現象界の喧噪を避けて、
神との一体感に唯(ただ)耽(ふ)けることにせられたのであります。

況(いわ)んや吾々普通人は、70歳の孔子や、法然上人や、
イエス・キリストのように常住「神の子」の自覚を持続することが
難かしいのでありますから、一定時に神想観の習慣をつけることは
是非とも必要なのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P372)より

       <感謝合掌 令和4年12月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2022/12/07 (Wed) 05:03:39


《7日 神想観又は祈りは、
    単なる要求や懇願の時間ではなく
    神様と父子対面、愛情交換の時間です》

大体、神想観の時間、又は祈りの時間を、
自分の要求を訴えるための時間だなどと
利己主義のことを考えてはならないのであります。

それは神様と相対面するための《とって置き》の時間だと
考えなければならないのであります。

吾々は神様から生命(いのち)をいただいた。
神様は吾々の親様なのであります。

親様に対面するのに常に乞食のように、放蕩息子のように、
親様から無心を云うことばかり考えていてはならないのであります。

それよりも寧’むし)ろ、
「お父さま、貴方の御心は如何ですか。
 何か私に出来ますことで貴方をお喜ばせ申すことが
 出来ますならば、お教え下さい」と祈るべきであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P372~373)より

       <感謝合掌 令和4年12月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2022/12/08 (Thu) 05:05:02


《8日 「物質」にのみ執着している者は放蕩息子①》

吾々は神から離れたとき放蕩息子になるのであります。

時々、神を思い出して物質的な物乞いをするのは
放蕩息子の特徴であります。

神は霊でありますから、霊をもって相(あい)対すべきであります。

それなのに「物質」を実在と観て、それに執着するのは
土の塵(物質)の土に執して歩む蛇の智慧であり、
蛇に教えられて五官の智慧の樹の実を食べた
「アダムの智慧」であります。

この放蕩息子たる人間は遥々(はるばる)遠く父(神)の家を
離れていたことに気がつき、「いざや、是(これ)より父の家に還らん」と
起ち上って「郷に還る」ためには、道元禅師の言われたように
「空手にして郷に還る」ことが必要なのであります。

今迄握っていたものをみんな放してしまわなければならないのであります。

これは中々むつかしい事なのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P373~374)より

       <感謝合掌 令和4年12月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2022/12/09 (Fri) 05:05:45


《9日 「物質」にのみ執着している者は放蕩息子②》

「五官の心」は言う。
(これを聖書は「サタン」と云う名称で書いています)

「ひれ伏して吾れを拝せば、此の世の栄華の全てを与えん」と。

これは実に巧みなるサタンのまどわしなのであります。

イエスは厳然と是に対して「サタンよ、去れ」と
言っているのであります。

「五官の心」に支配されている間は、
人間はこのサタンの言葉を信じてサタンに
跪(ひざまずい)ている状態に過ぎないのであります。

彼は自分の心の中に
「物質」の塊(かたまり)ばかりを描いております。

彼は、「霊(れい)」をもって「霊(れい)」に対せずして、
五官の心をもって「物質」に対しているのみであります。

その「心」の振り向くところは「神(かみ)」ではなくて、
「物質」なのであります。

時々、彼も「神(かみ)」の名を呼ぶかも知れませんけれども、
それは「物質」を得んがための手段であって、
銀30両を得んがためにイエスを売ったユダと大同小異なのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P374~375)より

       <感謝合掌 令和4年12月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2022/12/10 (Sat) 05:05:43


《10日 「物質」にのみ執着している者は放蕩息子③》

吾々が銀30両即ち「物質」を得んがために
「神を売物にしたり、看板にしたりしてはならないのであります」

だから吾々の本部道場や教化部道場には、他(ほか)の宗教の如くには、
祭壇を設けて奉賽(ほうさい)金を神に献納さすような装置をして、
あとから自分がその奉さい金を使うと云うような事はしていないのであります。

祭壇のかわりに演壇があってその正面に「実相」の軸が
掲げてあるばかりで賽銭箱などは置いてない。

感謝箱は置いてあるところもあるが、教えを受けて、
教化の人件費や道場の拡張修繕費なども要るであろうから、
感謝金位おいて帰らないでは、二度と来にくいと
云うような人のために置いてあるのであって、

神様を《だし》に使って神様にあげる顔をしていて、
自分が使うのではないのであります。

すべて公明正大にできているのが生長の家であります。

兎も角、「神様」に心を振り向けているつもりで、
実は「物質」に心を振向けながら、それを「神信心」だ
と誤解している人はずいぶん多いのであります。

吾々に恐怖心が起ってきたり、取越苦労が起って来るのは、
「神様」に心を集注していない証拠であります。

神様に心を本当に集注し得ましたならば、
物質の増減や、肉体の老病死などに心配や不安や取越苦労などは
起らない筈であります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P375~376)より

       <感謝合掌 令和4年12月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2022/12/11 (Sun) 05:02:48


《11日 病気を治そうと祈るよりも、心が神に一致するように祈りなさい①》

吾々が病気を治そうと思って病気に精神を集注するのは、
神を信じているのではなく、病気を信じているのであります。

不幸から逃(のが)れようと思って、不幸に対して心を集注するのは、
神を信ずるのではなくて、不幸を信じているのであります。

すべて形は心が原因であり、形あるものは心の結果でありますから、
結果を一応処理するのは応急的に必要でもありますが、

原因を修正して置かなければ、雑草を刈り除っても、
再び雑草の種子’たね)を蒔いて置くようなもので、
結果は繰り返し現れて来るのであります。

そこで吾々は神に対して「形」の不幸を除いて下さいと祈ることは、
根源を除かないことになりますから無駄なことであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P376)より

       <感謝合掌 令和4年12月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2022/12/12 (Mon) 05:06:44


《12日 病気を治そうと祈るよりも、心が神に一致するように祈りなさい②》

若し吾々に病気や不幸があらわれてまいりましたならば、
「病気や不幸を除いて下さい」とお祈りしないで

「病気や不幸のもとの心を知らせて下さい。
 そしてその心が自然になくなりますように」と祈るべきであります。

そうすると、自分の心の間違いがわかって来、
再びそんな心を起さなくなるような決心が出来るのであります。

吾々の運命と云うものは、現在意識に選択の自由が許されていて、
自分の現在意識が潜在意識に注(つ)ぎ込んだものが、
潜在意識の創化作用によって現実化することになっているのでありますから、

若(も)し吾々の現在意識が心の振向ける焦点を、
「不幸」や「病気」の方へ振向けず、
本来の実相(神の子たる権利)の方へ振り向けさえするならば、

本来神の子である実相の完全なる有様(ありさま)は、
自然に吾々の現在意識と共感し、共鳴し、
その完全な実相を顕わして来ることになるのであります。

吾々の現在意識は「自分」と云う船の船長として、
自分の注目するところの方向へ自分の運命の航路を
舵(かじ)とって行くのでありますから、

吾々は「不幸」や、「病気」に注目してはならないのであり、
人間本来の生得(しょうとく)の権利である
「神の子円満完全」の姿にのみ精神を集注して、
それを悦び感謝して行けば好いのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P377)より

       <感謝合掌 令和4年12月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2022/12/13 (Tue) 05:02:14


《13日 自己内在の神性を喚び出しなさい①》

人間の潜在意識の中には善悪混淆(こんこう)して
色々の観念が宿っておりますけれども、
その奥にある超越意識(Super Consciousness)の中には
唯(ただ)「神性」「仏性」が宿っているのみであります。

この「神性」「仏性」を呼び出して来るのは
人間現在意識の権利であります。

吾々は自分の現在意識のなかに「神性」「仏性」を
浸透せしめてくることが必要なのです。


吾々の現在意識を完全に超越意識に浸透せしめるためには、
常に「神性」「仏性」を心に描いて、
それに精神を集注しなければなりません。

1日のうち30分間だけ神想観して
あとの23時間半はその反対の「不幸」や「病気」を思い出し、
神想観中には円満完全なる実相世界を念じながら、
日常の会話の中ではその反対の事を喋っていて、

その言葉の力で、潜在意識内に「病気」や「不幸」を
蓄積しているならば、「念ずることが《あらわれる》」と云う
心の法則に従って、やはり「病気」や「不幸」が
あらわれて来ることになるのであります。

旧約聖書に
「汝ら我が前に他(た)の如何なる神をも有(も)つべからず」と
エホバ神(かみ)が宣言せられたと書いてありますが、
これはエホバと云う固有名詞の神のみを有(も)つなかれと
云う意味ではないのであって、

唯一神(しん)以外に
如何なる権威者も存在しないのだと云うことであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P378~379)より

       <感謝合掌 令和4年12月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2022/12/14 (Wed) 05:01:13


《14日 自己内在の神性を喚び出しなさい②》

吾々が神想観をして、唯一神(しん)とのみの対面を志しているとき、
叢雲(むらくも)の如くその存在を主張して浮び上って来る
ところの雑念はすべて、唯一神以外に「吾れ《あり》」と呼号する
雑神(ざつしん)のようなものです。

吾々はそれを《あり》として
心をそれに捉えられしめてはならないのであります。

イエスが汝ら祈るとき、
「汝の内なる室(へや)に入れ、
 而して汝の扉(とびら)を閉(と)ざして汝の父に祈れ」と
云っているのは、

在来「密室の祈り」と云われていたのであって、
形の部屋の中にとじこもる事だと思われていたのでありますが、
実はそうではないのであります。

「汝の内なる室(へや)に入(い)る」とは
「汝の内部実相に深く精神を集注する」ことであり

「汝の扉を閉ざして」とは、他(た)の神ならざる者の入らないように、
自分の心の扉を閉めてしまうことであります。

内部実相には、ただ「善」のほか何物もないのに、
祈りの最中に、色々「病気」や「不幸」を考えるのは可(い)けません。

そのような「病気」や「不幸」を考える想念を、
心の扉を閉ざして拒絶してしまって、ただ、只管(ひたすら)、
神のみ、善のみを、心の内室(ないしつ)に思い浮べるが好いのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P379~380)より

(以上で、第25章の紹介は完了です)

       <感謝合掌 令和4年12月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2022/12/15 (Thu) 05:05:52


(ここからは第26章「願望を成就するには」の紹介です)

《15日 神様は人間に完全な自由を与えた》

『祈りの科学』の本の中にこういう話が書いてあります。

アメリカの或るところに若夫婦がありました。
その奥さんは自分の叔母さんにあたる人に
非常なお金持があったのであります。

その叔母さんは身寄りが少なくて
この若夫婦がその叔母さんのただ一人の親類だったのです。

ほかに身寄の者が一人もいないのですから、
その叔母さんが死んだら全財産はその姪である
若い奥さんに転げこんできて自分がお金持ちになれるのだ
と思っておりました。

ところがその叔母さんに最近愛人ができました。
男の愛人ができたのです。

そうしてしげしげと逢引きするらしい。
散歩しておったのを見た人もある。
近いうちに結婚するらしいと云う噂もあるのです。

「その男と叔母さんが結婚したら、叔母さんが若し死んでも
 其の夫たるあの男に全財産が行ってしまうだろう。
 そうすると自分は一文も貰えなくなる。これはたいへんだ」

というので、テリル・マンというアメリカの
生長の家のような教えの教師のところへやってきて、

「実はこういうわけだから叔母さんの心境が変って、
 あの男と結婚するまでに財産の半分ぐらいを私にわけてやりたい、
 そういう気持になってくれるように祈って下さいませんか」

といって来ました。

そうしたらテリル・マン先生がいわれるのに、

「そんなに他の人の心を変えるように祈るということは邪道である。
 そういうことは民主主義にかなわぬ。神様の心にかなわぬのだ」

とおっしゃった。


「神様は人間に完全な自由を与えられておるのですから、
 その叔母さんがあなたに財産を与えようという気を起そうと、起すまいと、
 それは叔母さんの自由に任せてあるのです。

 叔母さんは自分の財産をたれに与えようと、
 自分で有っておろうと勝手なのです。

 神様は人間の心を矯正して善にしか向かないようにすることは
 できるにしても、決してそれはなさらない。

 それが実現すれば人生のいろいろな悩みがなくなるのであろうけれども、
 神様がそういう強制力を実行したまわないのは
 人間に完全なる自由を与えておられるからであり、
 自由を奪うことは他の如何なることよりも悪であるからです。」


このマン先生の答えのように祈りによって
或る人の心を善いように向けていってください、
という祈りもきかれないのです。

ある人の祈りによって人の心を善にねじまげられるのでしたら、
何々の国の政治家の心が戦争を計画しませぬようにと祈ったり、
世界の元首が悉く武装を撤廃いたしますようにと祈ったら、
直に世界に平和が来そうなものであるが、それもきかれないのです。

そういうように人の心の自由を、祈りによって縛るのは邪道であります。

そこでマン先生は言葉を続けました。


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P381~383)より

       <感謝合掌 令和4年12月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2022/12/16 (Fri) 05:01:27


《16日 与えれば与えられる心の法則》

「あなたは叔母さんから与えられたかったならば、
 心の法則を応用すれば与えられるのです。

 あなたの方から叔母さんに与えれば、
 叔母さんもあなたに与えます。
 与えれば与えられるのが法則ですから。」

「先生それは無理です。」と彼女は答えました。

「叔母さんはお金持ちだし、
 私は素寒貧だから与えるものはないじゃありませんか。」

「いいえ、あなたは与えられるのですよ。
 今話を聴いていると、あなたはあの叔母さんの
 唯一の肉親のものだと言われた。

 叔母さんは今、或る男の人と往き来をしておるか知らぬが、
 それは肉親の愛情に飢えているからです。

 肉親の者の深切というものは、
 肉親のあなたから《だけ》受けることができるのです。

 肉親のものの心からなる深切の、愛情のこまやかさというものは、
 その叔母さんに対してはあなただけが与え得る特権をもっている。

 そのあなたが叔母さんに与えるには一文の金も要る問題ではない。
 ただ深切にしてあげればよい。
 叔母さんをよくいたわってあげれば好い。

 与えよ、さらば与えられんというのは、金(かね)ばかりではない。
 深切を与えればよいのです。
 優しい言葉を与えればよいのです。

 それを与えたら何かくれるだろうと思うのでは、
 ほんとうの愛でも深切でもありません。
 それは一種の取引であります。

 深切をしてやれば与えられるというような報いを求める心を捨てて、
 無我になって深切をつくして、
 その結果は神様に任すのがよいのです。

 こんなに深切をしてやったのに、何もくれない。
 こんなに助けてやっても何もくれない、ということで、
 憤慨する人があるけれども、それは間違いです。

 ですから、ただ無条件に叔母さんにあなたが与えればいいのです。
 すると、おのずからお礼というものは、はいってくるものである。」

こうマン先生は言われました。


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P383~385)より

       <感謝合掌 令和4年12月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2022/12/17 (Sat) 05:05:13


《17日 今与えられているどんな小事にも感謝せよ》

そして次にはマン先生はこう云われました。

「与えられるためには今すでに与えられているものを
 よく消化して吸収するということが必要です。

 今与えられておってもそれを消化吸収することが
 できなかったならば、不消化病にかかった胃袋みたいなもので
 いかに与えられてもはいらない、受けられないのです。

 だから今与えられておるものに対してほんとうに感謝なさい。

 今与えられているものがどんなに小さいものでありましても、
 それをしみじみ咬みしめて消化吸収するとき、
 次に与えられることになるのです。

 あなたは既に日光を与えられておるではないか、
 あなたは既に太陽の光線を与えられているではないか、
 あなたは既に空気を与えられておるではないか。

 あなたは既に水を与えられておるではないか、
 着物を与えられておるではないか、
 住居を与えられておるではないか、
 衣服を与えられておるではないか、

 食物を与えられているではないか、
 数えあげれば無数にいろいろなものを与えられているではないか。

 その有り難さをしみじみと味わうことなしに
 あなたは何にも私は与えられておりませんというが、
 それは実は与えられていないではない、
 与えられているものを消化して、その滋味を吸収していないに過ぎない。

 本当は沢山与えられているのです。

 だからすでに与えられているのに感謝して、
 “ありがとうございます”と事々物々に感謝し、
 魂の中にその滋味を吸収してこそ、
 次のものを与えられる資格が出来るのですよ。

 ここが大切なところです。

 朝起きたら洗面するときには水に感謝し、
 洗面器に感謝し、歯ブラシに感謝し、歯磨粉に感謝し、
 日光に当ったら日光に感謝し、空気に感謝し、
 暇がある毎に、すべてのものに感謝するのでなければなりません。」


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P385~387)より

       <感謝合掌 令和4年12月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2022/12/18 (Sun) 05:07:14

《18日 愛は円環である、次に廻せ》

「それから、愛は円環です。
 この世界は次から次へとまわすと生きて来るのが原則です。
 今自分に与えられているものを次にまわす。

 次にまわさなかったらそれは死んだ与え方になります。
 だから与えられたものを次にまわすということは
 生きる世界、生命の世界、愛の世界の原則です。

 すでに与えられた何ものかがあるならば、
 それは次にまわすべきものです。
 そうしたら多くの物が与えられる。

 そういうことでもあなたは能力が与えられているのです。

 ミシンの裁縫の能力があるならば、
 そのミシン裁縫の能力を次にまわすことです。

 その裁縫を教えてもらいたいという人があれば、
 それを教えてあげるのもよい。

 あるいは、その裁縫の能力によって裁縫を知らない人のために
 シャツやパンツを縫ってあげるのもよい。
 洋服を縫ってあげるのもよい。

 そういうことはすべて自分の与えられている能力を
 次へ渡すということである。
 次へ次へと自分の与えられているところの能力をまわす。

 そのときに自分はまた次から次へと与えられることになるのです。」

テリル・マン先生にこう言われた。それからその若い奥さんは
テリル・マン先生に言われたようにその通り実行したのであります。

そうして叔母さんのところを訪問しては叔母さんに深切をつくし、
優しくしてあげ、いたわってあげるようにしたので、
大へん喜ばれました。


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P387~388)より

       <感謝合掌 令和4年12月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2022/12/19 (Mon) 04:57:35


《19日 相手の心はこちらの心の反映①》

そのうちにその婦人の夫が云うのに、

「お前は今までは叔母さんの悪口を、寄るとさわると言っておったが、
 このごろでは話をすると、叔母さんを褒めてばかりいるね。」

「だって、あの叔母さんはつきあってみると実にいい人なんです。」
こう云う会話がかわされるようになったのです。

本当に立ち向う人の心は鏡なのです。

こちらが無条件に深切をつくすのだから
向うからも深切をするということになって、
無条件に好い叔母さんに変ってしまったのです。

つまり自分が深切を与えると向うからも深切を与える
―― 「与えれば与えられる」であります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P388~389)より

       <感謝合掌 令和4年12月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2022/12/20 (Tue) 05:02:12


《20日 相手の心はこちらの心の反映②》

しかし叔母さんはまだ財産をくれなかった。

しかしながら、もう其の叔母さんの財産をあてにしないでも、
その若夫婦は毎日、水に感謝し、空気に感謝し、日光に感謝し、
食物(しょくもつ)に感謝し、着物に感謝し、

ありとあらゆるものに感謝して、
自分のできる限りの能力をもって周囲の人に奉仕しておりますと、

夫の仕事も栄えてまいりまして、自然に収入が殖えてきまして、
自分の住居(すまい)の一軒ぐらいは自分の独力で
建てられるようになりました。

その新居に移りますと、その叔母さんは、

「あの姪も自分の独力で自分の住居ぐらい買うだけの力が
 でてきたから、あれに財産をわけてやってもいいだろう」

ということになり、若夫婦の間に生んだ子供を
自分の孫のように愛して、その子供と一緒に
若夫婦の家に住むことになりましたので、
結局、その叔母さんの遺産はその若夫婦がつぐ
と云うことになったと云う話であります。

この話のとおり、与えれば与えるほど与えられるのです。

与える場合、報いられるために与えようと思う人は多い。

しかし、こうしておいたら何か与えられるだろうと思って
与えるくらいなら、与えていないことと同じことです。

それは「与えている」という仮面をかぶった
「求め」にすぎないのです。

われわれが無条件に他(た)に与えたときこそ、
その行いが神聖で、それが循環してきて、
また自分へと帰ってくるのでありますが、

それを予期(よき)しては汚く(きたなく)なります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P389~390)より

       <感謝合掌 令和4年12月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2022/12/21 (Wed) 05:06:32


《21日 言葉に出せば現れる》

それから、言葉に現したものは形に現れるという法則があります。
コトバはつくり主であるからです。

「噂をすれば影とやら」と云う諺(ことわざ)もそれです。

或る所に生長の家の誌友で戦災で焼け出されたので
何をしようかと考えて下駄屋を始めた人がありました。

つまり大勢の人たちのためになることをするのが富になると
生長の家で教えられて下駄屋を始めたのです。

戦災で履き物が大抵皆焼けてしまったから補充がたくさんいるだろう。
だからたくさん買ってきてその下駄を供給することは多くの人に便利を与え、
それだけためになるということで始めたのですが、
その人は焼け出されてあまり資本がない。

資本がないから商品をたくさん仕込むことができない。
そこで十足の下駄と十足の草履を仕入れて店にならべ、
「生長の家の教え通りにひとつやってみよう」と考えたのであります。

まず看板に「履物卸小売商。業界の王」と書いた。
下駄十足しかない卸小売店です。
が、これが言葉の力です。

こうしたら一人の奥さんが買いに来た。
その時分は戦災で焼けた直後であって、
インフレ時代ではないから、下駄は安かったのです。

その下駄は3円60銭で仕入れたのでありますけれども、
よそでは5円ぐらいで売っていました。

「いくらです」とたずねられるから仕入れ値段そのままでは人件費が出ないので、
「3円80銭でございます」と答えた。

一足でたった20銭しかもうけない。
十足みな売れればそれだけ人のためになると思っておったのです。

そうしたら奥さんが駆け引きのつもりで、

「これと同じ下駄をあそこの下駄屋さんで3円60銭で買って来た人がある」

と言いました。

そこで新米の下駄屋さんはだまされてしまったのです。

「ああそうですか。よそで3円60銭で売るなら、
 うちでは3円50銭にしときましょう」

と云って10銭損して売ることにしたのです。

そうするとよそではそれと同じものを、一足4円も5円もするというので
大勢買いにきて、またたくうちに10足売れてしまいました。

そこで、いくら売れても儲からない。
元金がない、借金をしてまた買ってくる、すぐ売れてしまう。
それはその筈です。

小売のくせに卸(おろし)値段より10銭安いのですから。


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P390~392)より

       <感謝合掌 令和4年12月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2022/12/22 (Thu) 05:07:44


《22日 夫婦一つになれ》

そうするとその人の奥さんが心配し出した。

「お父さん、そんなことをしていいのですか、
 あなたそれじゃ損するじゃありませんか。」

「だって生長の家では与えれば与えるほど殖えるというから、
 今与えている最中なんだ。
 大体お前が夫のすることに口出しすることはけしからぬ。

 生長の家では夫の言うことはどんなことでも素直にハイと従うという教え邪ないか、
 わしはもう焼け出されて素寒貧になって、まる裸なのだから、
 損しても大したことはない。

 あらゆる生活を生長の家の教えのとおりやるつもりだ。
 与えれば与えるほど与えられると云うからな。

 大体妻というものは夫に無条件に従って夫のする事は間違いない。
 悪く見えていても神様の教えのとおりするから間違いない。
 きっとよくなる。

 それを信ずるのが生長の家の信徒の生活じゃないか。
 お前も、そうしてくれ」

といって、
アンデルセンの「お爺さんのすることに間違いがない」と
何でも夫のすることを褒めていると大地主になった寓話の話をして、

「生長の家はこの童話の通りに、
 夫は途中では損をするように見えても後にはきっとよくなる。
 きっとよくなるのだから、お前黙って見ておってくれ。
 夫のすることは間違いないと思って黙っておってくれ。」

と云いました。

それは此の値段では売れるほど損するのですから、
卸屋からも買いに来るのです。

10銭ずつ卸屋より安いのですから、小売商も他の卸屋で買わなくなり、
皆この人の店へ買いに来ることになったのです。

どの下駄屋も皆この人のところで、下駄を卸して貰うことになったので、
最初に「履物卸小売商」と看板に書いたとおりになってしまいました。

そうなると、その辺り一帯の下駄はほとんど皆
この人の店から卸売をされるということになりました。

それで製造所に交渉しますと、そんなに総卸商になって下さるなら、
又別に値引きして履物を卸しましょうといった。

そこで、今度は愈々儲かることになったのであります。


こうなることができたのには、三つの要素があります。

それは第一に言葉の力です。「履物卸小売商」と書いたことです。

その次は「与えれば与えるほど殖える」法則を実行なさったから
富がおのずから与えられるようになったことです。
これは富の第二の原則です。

その次には絶対無条件に素直に奥さんが良人の冒険を疑わずに
拝んでいたことです。

第三には、その取扱うものが大勢の為になるものだと云うことです。
下駄は割合に多勢の人に使われるものであります。
そして下駄は消耗品である。

いくらでもちびるから、一度でもう買う必要はないと云うものではない。

こう云う富を得る根本法則に従って実行したしましたならば、
何商売をやりましても、必ず富が得られるのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P392~394)より

       <感謝合掌 令和4年12月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2022/12/23 (Fri) 05:05:28


《23日 素直に神に呼びかけよ①》

祈りが成就するためには、もっとザックバランに素直に、
肉親の子が肉親の親の膝にすがるように、
神様に素直に縋(すが)りつくことが必要なのであります。

日本でも妙好人と称(い)って浄土真宗などの信者で、
ただ「南無阿弥陀仏」と《みほとけ》の御名(みな)だけを、
暇があればとなえていた。

否、暇どころか仕事をしながらでも唱えていた感心な人が沢山ありますが、

ガードナー・ハンチング氏の書いたものの中には、
アメリカにもそう云う妙好人があったそうであります。

その人は、朝、目が覚めると、それから眠りにつくまで間断なく
「ねえ、神様」(Now Lord)と唱えていたと云うのであります。

時には、その「ねえ、神様」と云う呼び声を、大声で云う時もあり、
時には唇(くちびる)の中で呟くように唱えることもあり、
或は心の中で唱えることもありましたが、

いずれにせよ、この人は、幼な児が「母(かあ)ちゃん」と
母親を呼ばずにいられないように、
「ねえ、神様」と呼ばずにはいられなかったのであります。

此の人は自分の魂を神様の御手の中にスッポリとまかせていて、
何事も神様が御存知である。

だから特別に自分の心に或る願いが起こってきたにしても、
その一つ一つを取り上げて神様に、「これをかなえて下さい」と云う
必要を感じなかったらしいのであります。

そしてただ、「ねえ、神様」と云えば、
ピッタリ自分の心が神様に通ずると信じられる心境でいたのです。

吾々、祈るとき、多くの事を云う必要はないのであります。

神が愛であり、神の護(まも)りが全(まった)いと云うことを
本当に信ずることが出来ましたならば、

ただ「神様」ととなえるだけで、
「すべてはきかれた!」と云う大安心の境地に達するのであります。

併(しか)しながら、自分の心がそれでは落着けないと云う人のためには、
やはり、自分自身の「落着けない心」を説服するために、
論理的な祈りや、懇願的な祈りも必要になるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P394~396)より

       <感謝合掌 令和4年12月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24》 - 伝統

2022/12/24 (Sat) 05:06:48


《24日 素直に神に呼びかけよ②》

ハンナー・ホイットール・スミスの
『幸福生活のキリスト教徒的秘密』と云う本の中に、
何か問題が起ったら、「しかし神様がいらっしゃる」(But there is God)と
ただ四語だけで祈る婦人があったと云うことが書かれています。

どんな疑いや、恐怖心や、迷い心が起っているときでも、
この婦人の「しかし神様がいらっしゃる」と云う語(ことば)をきくと、
皆の心が落着くのでした。

この言葉はこの婦人自身の心に「平和」を持ち来たし、
この婦人の心の平和が皆の心に感応して、
皆の者の心も自然と平和になって来たのに相違ありません。

幼いうちに、こう簡単な言葉で神様に呼びかけて、
心の平和を得るような幼児を訓練して置くことは必要なことであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P396~397)より

       <感謝合掌 令和4年12月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2022/12/25 (Sun) 04:57:51


《25日 危急の場合に神を呼ぶのは既に自己の内に神があるから①》

実は吾々の魂の奥底には、神様がいらっしゃるのでありまして、
何か人間力ではとてもかなわないと云うような出来事が起って来たときには、
自然に「神様!」と呼ばずにはいられなくなるのであります。

それが吾々の本能と云うものであります。

本能と云うものは、理屈や、理論や、外から這入(はい)った知識によるのではなく、、
生命(せいめい)の中から、持って生れて来たところの智慧であります。

誰に教えられないでも、赤ん坊は母親の乳房にすがりつくような、
もって生れた智慧が本能であります。

本能には間違いがないのであります。
それは理屈をこえています。

人間が、「イザ危ないッ」と云うときになると、
「神様」と呼びたくなるのも理屈をこえています。

それだけ、其処に「本物」があるのであります。

人間の魂の奥底は、神を知っている。
人間の魂の奥底には神が宿っている。

だから、どうしても神を呼ばない限り、
本当に魂の安心が得られないのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P397~398)より

       <感謝合掌 令和4年12月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2022/12/26 (Mon) 04:34:11


《26日 危急の場合に神を呼ぶのは既に自己の内に神があるから②》

人間の肉体には色々の腺(せん)があります。

涙腺と云って涙を出す腺もあります。
唾液腺と云って唾液を出す腺もあります。
副腎と云ってアドリナリンを出す腺もあります。

悲しい時には生理的にその悲しみを物質的液体にかえて
放出する必要があります。

若しそれを何らかの形で放出しなかったならば、
身体(からだ)に害があるので涙として
悲しみを放出するのであります。

食物(たべもの)を見れば唾液を分泌します。
若し唾液が出なかったら、食物(たべもの)を嚥(の)み下すのに困難であり、
また澱粉の消化を完全に営むことが出来ないでしょう。

腹が立ったり、敵があらわれたりしますと、
副腎からアドリナリンを沢山分泌します。

これによって、皮膚や筋肉を引き締めて、
外敵と戦う力の準備が出来るのであります。

これらは、いずれも必要に応じて生理作用が
本能的に必要なものを用意するのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P398)より

       <感謝合掌 令和4年12月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2022/12/27 (Tue) 04:56:34


《27日 危急の場合に神を呼ぶのは既に自己の内に神があるから③》

それと同じように、心の世界でも、必要に応じて必要なものを
呼び出して来るようになっているのであります。

涙を出す事が必要な時には自然の本能で涙腺が涙を出すように、
唾液の必要な時には、自然に唾液腺が唾液を出すように

「おゝ神よ」と呼ぶ想念感情が必要なときには、
吾々の魂の底なる本能が「おゝ神よ」と云う信仰の想念感情を
呼び覚ますようになるのであります。

そして唾液が出たら一切の澱粉が消化してしまうように、
「おお神よ」と魂から信仰の念が分泌されて来ましたら、
一切の悩みは解消してしまうのであります。

エメット・フォックスの推奨した、神へ振向く言葉は
「神われと偕(とも)に在(あ)り」と云う言葉でありました。

必ずしも、この言葉には限らないのであります。
「親さま!」と云う言葉でもよろしい。
「天の父(ちち)様」とイエスのように云っても宣しい。
南無阿弥陀仏でも無論結構であります。

その意味が唯(ただ)、
「死んでから極楽に行く」と云うような意味でなしに、

「尽十方に満ちたまう無礙の光にまします宇宙の本体に
 我は帰依し奉りて一体なり」

と云う意味でなら大変結構でございます。

しかし、南無阿弥陀仏と云う言葉は、あまりにも死後の
安楽席約定済と云う意味にのみ唱えられて来ましたので、
身投げや打ち首のときに唱える《となえ》言であるかのように
汚(けが)されてまいりました。


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P399~400)より

       <感謝合掌 令和4年12月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2022/12/28 (Wed) 04:59:46


《28日 危急の場合に神を呼ぶのは既に自己の内に神があるから④》

いずれにせよ、吾々に必要なのは、端的に神様そのものに
吾々の全生命がつながった自覚を得ることでありまして、
唱える言葉の上手下手の問題ではありません。

 
いずれにせよ、常に神又は神の代名詞をとなえて、
神との一体感を深めることが必要であります。

危急の場合に「神」を思い出して、
それに心を振向けることは必要でありますが、
危急でない場合にも必要なのであります。

或はあまりに急激に幸福が訪れて魂が平静を失いそうなときに、
恋が成就しそうで魂が落ち着くことが出来ないときにも
神を呼ぶことは必要なのであります。

それによって吾々は魂の平和をとりもどして、
ややもすれば動転しそうになる心の平和を獲得して
正しい道に進むことが出来るのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P400)より

       <感謝合掌 令和4年12月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2022/12/29 (Thu) 05:03:55


《29日 幸福の時にも神を呼びなさい①》

しかしなによりも必要なのは、
そのような激しい感情や、危険が訪れて来たときに神を呼ぶよりも、
平常、何もない時に、すべてが順調に又は平和に生活が進行しているときに
神を呼ぶ習慣をつけて置くことが一層必要なのであります。

或る人は「暴風雨の時に土地を開墾するよりも、
晴天の平常なときに土地を開墾して置くことが必要だ」と云いました。

魂の信仰を開墾するのも人生の暴風雨(あらし)のときに開墾するよりも、
平常ふだんの時に開墾する方が適当でありましょう。

そして魂の開墾した沃地(よくち)に信仰の防風林を育てて置けば、
もう人生の暴風雨がやって来ても弱ることも恐れることも要らなくなります。


神を習慣的に呼ぶところの潜在意識の傾向がつくられますと、
蓄音器のレコードが回転すれば、ひとりでに良き音をたてますように、
自然にその人の運命が改善せられ、幸福が訪れて来るようになるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P400~401)より

       <感謝合掌 令和4年12月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2022/12/30 (Fri) 04:58:56


《30日 幸福の時にも神を呼びなさい②》

キリストは「7度(たび)を70倍たび赦せ」と教えましたが、
一体「赦す」と云うことはどんなことでしょうか。

腹が立つけれども、まあまあこらえていて我慢するのを赦すことだ
と考えている人があるかも知れませんが、

それでは形は赦していましても、
心の中で赦していないから本当にゆるしたと云うことにはなりません。

本当に赦すと云うことは、相手を怒りの念で縛っていた心を、
釈放してしまうことなのです。

漢字を当て嵌(は)めると「釈(ゆる)す」と云う字が当たるのです。

怒りの念から釈放して自由に「罪なき者」として相手を扱うことなのです。

「暴(ぼう)に報いるに暴を以てせず」と云うのは、形の上だけにもとれますが、
暴(ぼう)に報いるに感謝をもってするとか、
「あなたは神の子で素晴らしい方です」と礼拝をもってするとか云うのが、
本当に「ゆるす」と云うことになるのであります。

英語の「ゆるす」(forgive)という言葉は、
for(に対して)give(与える)と云う言葉の組合せによって出来ています。

即ち、相手の悪しき心又は言葉又は行為に対して
感謝とか礼拝とかを与えることなのであります。

法華経の常不軽菩薩品には、常不軽菩薩が、
自分に石を抛(なげう)つ者に対しても、
自分に石の達(とど)かない点まで逃げて往って、

其処から跪(ひざまつ)いて「吾れ汝を軽(かろ)んぜず」即ち

「あなたを卑しい者、悪い者とは思いません。
 あなたの中に仏様の実相が宿っていらっしゃいますから、
 屹度(きっと)、やがては仏様におなりになる方であります」と
云って拝んだと云うことでありますが、

これが即ち悪に対して「礼拝」を与えると云うことであります。

これこそ真に相手を赦すと云うことなのであります


        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P401~403)より

       <感謝合掌 令和4年12月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2022/12/31 (Sat) 04:53:14


《31日 幸福の時にも神を呼びなさい③》

イエスはその弟子から
「善き師よ、永遠の生命(いのち)を嗣ぐには
 何をなすべきかを教えたまえ」

と云われたときに、

「何故(なにゆえ)汝は、われを善き師と呼ぶか、
 神のほかによき者なし」

と答えているのであります。

イエスは、みずから「神の子」と称している位ですから、
善なる「神」の子であるならば、善であるのが当然でありますのに、
そう答えたのは何故(なぜ)でしょうか。

それは、肉体の自分というものは、「本当の自分」ではない、
それは魂の使用する一種の道具である。

しかし精巧な道具であるから、
或る種の自働人形的な精神を備えているのであります。

その肉体の自働人形的精神を称して
「肉体我(が)」と云うのであります。
「我(が)の心」などとも云います。

その「肉体我」即ち「我の心」をもって本当の自分であると思って、
私は善だなどと思うと、とんでもない、

それはサカリのついたシェパ-ドの性欲みたいなもので、
主人公の命令に反逆してでも、
獣欲(じゅうよく)をとげようとするのであります。

ところが本当の自分は、
このシェパードを飼(か)っている
「主人公」の方(ほう)なのであります。

その主人公が即ち「人間・神の子」でありまして、
『甘露の法雨』に

「肉体の奥に、物質の奥に、霊妙極まりなき存在あり、
これこそ神そのままの自分にして」

と書かれておりますところの「本当の自分」なのであります。

この本当の自分を自覚しないで、肉体の我(が)の欲望を
「善き者」などと考えている人々に対して、
イエスはその誤りを指摘せられたのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P403~404)より

(以上で、「眞理」第1巻入門篇 第26章(最終章)を終えます)

       <感謝合掌 令和4年12月31日 頓首再拝>

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