伝統板・第二
ひかりの一日一言92~楽心悲心・病気不孝は斯うして消える - 伝統
2022/11/01 (Tue) 05:08:26
真理第1巻入門篇 第24章(P335~347<9項>)と→17
真理第1巻入門篇 第25章前半(P348~361<10項>)から
の謹写です。
各項目については、「ひかりの一日一言」としては、
長文となるものがありますので、小項目に分けての紹介になります。
結果的に、30日分の構成を目指します。
ひかりの一日一言《1日》
《1日 心はこんなに肉体に影響する①》
びっくりすると胸がどきどきします。
胸がどきどきするのは心臓の鼓動がはげしくなったのです。
悲しい時には胸がつまったような気がします。
胸がつまったような気がするのは
心臓の働きや呼吸器の働きが抑えられたのであります。
「びっくり」や悲しみを続けていると心臓病の原因になります。
激しい怒りは、筋肉が固くしまり、身体や腕がぶるぶる震えます。
副腎と云うところからアドリナリンと云う毒素が分泌せられて、
その作用で血管が硬くなったのです。
こんな状態を長く続けて置けば、血管が硬くなるのが習慣となり、
それが固まって、血管硬化や高血圧症の原因となります。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P335)より
<感謝合掌 令和4年11月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2022/11/02 (Wed) 05:08:52
《2日 心はこんなに肉体に影響する②》
始終身体(からだ)のふるえる病気、
「ふるえ中風」や「震顫(しんせん)麻痺」などと云う
からだのふるえる病気になるのであります。
ビックリしたので心臓麻痺を起して死んだ人もありますし、
悲しんだために盲目(めくら)になった人もあります。
愛する子供に死に別れた悲しみで、
その後(ご)身体(からだ)が弱って
ブラブラ病(やまい)に罹(かか)っている人もあります。
これは悲しみの思いが消化作用を妨げ栄養の補給を不充分にし、
心臓の働きをにぶらせ、身体を衰弱させたのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P335~336)より
<感謝合掌 令和4年11月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2022/11/03 (Thu) 05:06:32
《3日 心はこんなに肉体に影響する③》
或る婦人は、ゴルフの打棒で顔を怪我しましたが、
それは三針ほど縫って傷は治りました。
しかし傷痕(きずあと)がかすかにあとに残りました。
ところが、自分の顔に傷が出来て醜くなったと云うことが、
この婦人の心に非常な苦痛を与えまして、それ以来、
この婦人は神経衰弱にかかりまして、とうとう始終寝床で
ブラベラしているようになりました。
医者が診察しましても何処(どこ)にも
具体的な病気はありませんでした。
これは、自分が傷ついた醜い顔を人に見せたくない心が、
自分を寝床(ねどこ)にかくしていたい心が
病気をこしらえたのだと云えるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P336)より
<感謝合掌 令和4年11月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2022/11/04 (Fri) 04:57:32
《4日 病気は自分が心で作る》
誰でも病気になりたいと思ったら病気になれるのです。
あまり忙しいので1週間ぐらいは寝てみたいな ―― などと
思ったりしますと、すぐその日から病気にならないにしても、
そう思ったことをわすれた時分に病気になることがあります。
種を蒔いても、すぐその日に芽が出ないで、
蒔いたことを忘れた時分に却って芽が出るようなものです。
心でおもうことは種を蒔くことになるのであります。
だから「病気で寝てみたいな」などと思ってはなりません。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P336~337)より
<感謝合掌 令和4年11月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2022/11/05 (Sat) 05:02:58
《5日 人間決して心配や恐怖してはならぬ》
心配や恐怖心は髪の毛を一夜のうちに白くすることがあります。
イギリスのチャールズ一世の如きはその有名な実例です。
戦地から引揚げて来た人の中には、
見ちがえるように頭髪が白くなった人がありました。
恐怖の念は血液中に有害性の硫黄の化合物をこしらえて、
頭髪の色素を破壊するのだと科学者は云っています。
身体を病気にするほどでもない。
小さな恐怖が、頭髪だけには強くこたえて、白くしたり、
頭を禿げさせたりすることがあります。
人間たるもの決して恐れたり心配してはなりません。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P337~338)より
<感謝合掌 令和4年11月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2022/11/06 (Sun) 05:05:39
《6日 悦びと感謝は人を健康にする》
よろこびの感情は人間を健康にいたします。
歴史によりますと、ブラジル国王ドム・ぺドロが
ヨーロッパで病気になって苦しんでおりましたときに、
彼の摂政をしていました王女から、この病める国王の宿願であったところの
奴隷禁止令に署名したという電報がまいりました。
その電報を見ると、あまりのうれしさに王の病気は治ってしまいました。
このように喜びの感情は人間を健康にする力があるのですから、
常に喜び、常に希望に輝き、常に感謝している人は
病気にかかるものではありません。
病気にかかるのは、ふと腹を立てたり、不平に思ったり、
口惜しかったり、悲しかったりしたあとで、
その心のあらわれとして病気になるのです。
腹立ちを「ゆるし」に替え、不平を感謝にかえ、口惜しさや悲しみを、
「これがあるので私の魂が高まるのだ」と感謝とよろこびに
替えるようにしますと、病気が治るのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P358)より
<感謝合掌 令和4年11月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2022/11/07 (Mon) 05:04:44
《7日 病気している暇がない》
病気は人間の心の《とどこおり》でありますから、
その《とどこおり》を無くすれば治るのであります。
心の《とどこおり》は腹が立ったり、不平だったり、
悲しかったりしても起りますが、
あまり暇がありすぎて、
《なまけて》いても差し支えのないときにも起ります。
《なまける》と云うことは、やはり心が《とどこおって》いることですから、
沢山仕事をもっていて、心をじっとさせている暇がないときには、
病気になどかからないのです。
忙がしいときには「私は病気をしている暇がない」と云う人がありますが、
こんな人はいつも活発に心が活動しておりますから、
心に《とどこおり》がない。
従って病気にかからないのです。
長い間、中風で動けなかった人が、
関西の大風水害のとき自分の妻君が婦人会館の総出で罹災者のために
御飯の炊(たき)出しに出たあとで、自分の家にも洪水がとうとう流れて来て、
自分のねている床(ゆか)を洪水が浸(ひた)しはじめました。
中風で脚が立たないままで寝ていましたら、溺れ死ぬより仕方ありません。
その人は突然立ち上がりました。立ち上がっただけではありません。
水に浸(ひた)してはならない貴重品を柳行李(やなぎこうり)につめて、
幾回も幾回も二階へ運びました。
もう「自分は中風だから動けない」と云う考えに
心をとどこおらせている暇がなくなったのです。
忙がしく逃げなければ死んでしまう。
これも「病気している暇がない」と云うので病気が治ったと云う
実例の中に入るのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P339)より
<感謝合掌 令和4年11月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2022/11/08 (Tue) 05:06:40
《8日 急に働かねばならぬ用事が出来たら病気が治る①》
フローレンスの博物館に有名なペルセウスの銅像が保存されています。
その作者たるベンヴェヌント・セリニは、
その銅像の制作中に急に熱病にかかって家に帰って
床(とこ)の中で苦しんでいました。
その時、銅像制作の助手の一人がかけつけて来ました。
「唯今大雨が降って鋳造中の銅像が駄目になりそうです。早く来て見て下さい。」
そこでセリニは大急ぎで服装をととのえて、
鋳造中のルツボの処へ往ってみました。
大雨のために火が消えて溶かした金(かね)が固まりかけていました。
彼は熱病の最中であったに拘らず、雨の中で濡れながら薪を運んだり、
火を燃やしつけ、鞴(ふいご)を吹いたりして
やっとその鋳造中の鋳物をしあげました。
その仕事を終ったときに、彼はもうスッカリ病気を忘れてしまって、
制作の助手たちと一緒に《たらふく》食事をいたしました。
それ切り病気は何処えやらケシ飛んでしまって
再発することもなかったのであります。
病気は心が《なまける》ことによっても起るのであります。
《なまける》のも心が《ずるけて》、《とどこおる》ことだからです。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P340~341)より
<感謝合掌 令和4年11月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2022/11/09 (Wed) 05:08:14
《9日 急に働かねばならぬ用事が出来たら病気が治る②》
心の法則も、電気の法則と同じようなものです。
それを上手につかえば大変便利なもので、
人間の幸福を増してくれるものなのです。
肉体は機械みたいなもので、
それを操縦する働きをするのも心でありますし、
それを修繕する働きをするのも心であります。
同じ栄養分をとりましても、痩せる人と肥える人とが出来るのは、
心によって栄養分の配達がかわるからであります。
同じ薬をのみましても、それがきく人ときかぬとがあるのは、
その薬の成分を、心によって、何処へ《どう》運ぶかがちがうからであります。
心が常に悲しんでいましたら、折角の栄養物も吸収されません。
悲しむ心は、「こんな悲しい世界にいる位なら、死んでしまいたい」
と云う心ですから、元気になったら死〇ませんから、
どんな栄養分も、どんなによくきく薬でも、心できかなくしてしまうのです。
楽しい心は「こんなに楽しい世界なら、いつまでも生きておりたい」と
云う心ですから、いつまでも生きているためには、
健康でなければならぬから、健康になるのであります。
「誰かのために働きたい」と云う心も人を健康にいたします。
誰かのために働くためには健康でいなければならないからです。
なまけ心を出さずに人のためになるよう働く決心をして立ち上ったとき
病気の治った実例は沢山あります。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P341~342)より
<感謝合掌 令和4年11月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2022/11/10 (Thu) 05:03:25
《10日 微笑(びしょう)の功徳》
微笑(びしょう)は
神様のつくりたまえる完全な世界を現像するに必要な光です。
明るい微笑(びしょう)は、
魂にさしのぼる太陽の光みたいなものです。
どんなに陰気くさく曇って見える日にでも
太陽がさしのぼれば急に生々(いきいき)と
万物が輝いて楽しく見えてまいります。
それと同じくどんなに陰気な家庭でも、会社でも、そのうちのひとりが、
にこにこ楽しそうに、善意に満ちた微笑(ほほえみ)をたたえているとき、
そしてやさしい喜びに満ちた語調で話すとき、
たちまち、その家庭が、会社が、楽しくなって、光が射してきたように見え、
家族も社員も闊達になるものです。
近江絹糸株式会社で争議がありましたとき、
工員の神経衰弱が昂じて続々発狂した者が出たのは有名な話です。
家族や仲間が争って暗い気持ちになっていると病気にかかりやすくなるのです。
暗い気持は、暗いものを引寄せると云うことは真理です。
昔から「泣き面に蜂」と云う諺があります。
泣き面をしていると、益々わるいものが集って来ると云うたとえです。
眉の間に皺を寄せ、口の縁を下に垂れて悲しい顔をしている家族がありましたら、
その顔を見るだけでも陰気くさく不景気になってまいります。
口の縁を引き上げ、眉の間をひろげ、目尻をさげて愉快に微笑して御覧なさい。
心の不景気はふっ飛んでしまいます。
笑いましょう。微笑しましょう。
愉快に、楽しく、明るく、笑いましょう。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P342~343)より
<感謝合掌 令和4年11月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2022/11/11 (Fri) 04:58:07
《11日 自分の顔を研究して①》
いつも其のままの顔で鏡を見て御覧なさい。
あなたは楽しい顔をしていますか。
陰気くさい顔をしていますか。
若し不愉快な顔をしている習慣があれば、その習慣を破りなさい。
固い表情をしているならば、その固さを破りなさい。
固い澄ましている表情をやわらかくして笑って御覧なさい。
そして、今まで自分の知っている、一番楽しい事を思い浮べるか、
一番好きな人に逢ったときのことを思い出して
楽しい表情をして微笑(びしょう)して御覧なさい。
見ちがえるほどあなた自身の顔が生々と輝いて見えるでしょう。
そう云う顔は誰からも好かれ、愛され、喜ばれるのです。
その楽しい時の微笑(びしょう)の感じを思い出して、
一日に少なくとも、5、6ぺんは微笑(びしょう)することです。
微笑(びしょう)と云うものは魔術的、奇蹟的な働きをもっているものです。
常に楽しく微笑(びしょう)して、人々に好い感じを与えると云うことは、
金(かね)のかからない投資であります。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P343~344)より
<感謝合掌 令和4年11月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2022/11/12 (Sat) 05:05:44
《12日 自分の顔を研究して②》
若(も)し面白くない事が起って来たり、
心配する出来事が起って来ても、
心配すればするほど物事は悪くなるばかりです。
心配する代りに、鏡に向いなさい。
心配の時にはきっと暗い顔をしています。
眼は輝かず、眉間(みけん)には皺が寄り、口の角は下に垂れ下がって
実に不快な感じの顔をしています。
そんな時には、先ず「私は楽しい・・・」と考えなさい。
「何事が起って来ても、神さまが、その解決法を教えて下さるから私は楽しい!
よくなるほかに仕方はない!」と考えなさい。
そして微笑(びしょう)しなさい。
そして「屹度(きっと)よい考えが湧いてくる。
神が導き、護って下さるのだもの」
と考えなさい。
そして微笑(びしょう)しながら、その問題の解決法を考えなさい。
苦虫(にがむし)を咬みつぶした時のような顔をしている時よりも、
屹度(きっと)よい考えが浮んできます。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P344~345)より
<感謝合掌 令和4年11月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2022/11/13 (Sun) 05:07:01
《13日 幸福になるには先ず微笑(ほほえ)みなさい①》
微笑(びしょう)! それから自分は神の子だと考えること。
其処から人生即ち、人間と世界とに新しい楽しい観方が
生れて来るのです。
心が憂鬱に沈んでいたのが、
愉快に活発に働いて来るようになります。
肉体は健康となり、すべての調子が整うて来て、
何事も順調に運ぶようになり、人と人との争いもなくなり、
すべての人が貴方を祝福するようになって来ます。
微笑(ほほえ)みなさい。
喜びなさい。
そして「私は神の子だ」と思いなさい。
其処から万事が愉快に解決するようになるのです。
すぐ、あなたの行(ゆ)き詰っている問題が解決しないにしても、
微笑するときから、一層すべてがよいように、
方向がかわってくるのです。
しかもその微笑(びしょう)が、
「人間は神の子だ、幸福になるより仕方がないのだ」と云う
考えから出発したものである場合には、
更に更に一層あなたを幸福にするのです。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P345~346)より
<感謝合掌 令和4年11月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2022/11/14 (Mon) 04:58:39
《14日 幸福になるには先ず微笑(ほほえ)みなさい②》
「人間・神の子」何という素晴らしい思想でしょう。
この考えは、貴方をあらゆる方面に高め上げてくれます。
「人間は神の子だから、何でも出来る。
善いことなら何でも出来る」と考えなさい。
心配や取越苦労をしている暇に、
「人間・神の子、神様に護られているからきっとよいことが来る」と
考えるのです。
そして喜びなさい。
微笑(びしょう)なさい。
本当に善いことが来るのです。
そして毎日、善い事が来る前から、
「既に日々よい事を与えて下さいまして有りがとうございます」と
感謝するのです。
感謝すればするほど善いことが来るのです。
まだ、善い事があなたの前にあらわれなくっても、
それは既に与えられていて、今、来つつある途上にあるのだ
と考えるのです。
そして希望に満ちて毎日あかるく微笑(びしょう)をするのです。
あなたの境遇でも、あなたの肉体でも、健康でも、
善いことが来ると云う想像と、希望と、明るい心と、
微笑(びしょう)とには、きわめて敏感に反応するのです。
*「眞理」第1巻入門篇 第24章(P346~347)より
以上で、第24章「楽しい心、悲しい心」を終えます。
<感謝合掌 令和4年11月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2022/11/15 (Tue) 04:53:16
第25章「病気不孝は斯うして消える」
《15日 天地は一つであった》
聖書には「はじめに神、天地をつくりたまえり」と書いてあります。
「はじめ」と云うのは「一」であります。
はじめは神さま一つだけで、総ては一つだったのです。
その総)すべ)ての一つが
それが天と地に分れたと云うのであります。
天地(てんち)と云うのは
必ずしもこのお空の天と吾々の歩く地面と云うような
意味ではないのであります。
陰陽の原理であります。
陰陽の原理と云うのは、電気でもマイナスとプラスとがあるでしょう。
そのマイナスが「陰」でありまして、プラスが「陽」であります。
神さまは姿かたちがないのですから、
機械で《もの》を拵(こしら)えたりするようにしては
天地をつくられたのではないのでありまして、
初めに神さまと云う「すべての《もと》」がありまして、
それが陰(マイナス)と陽(プラス)との電気になりまして、
それがいろいろのものに結びあわされて、
皆さんが生れて来たのであります。
そこで総てのものは神さまから来た兄弟である
と云う事が分りましたならば、
吾々の利己主義と云うものは消えてしまうのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P348~349)より
<感謝合掌 令和4年11月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2022/11/16 (Wed) 04:54:49
《16日 利己主義は自分を狭く見ている》
すべて利己主義と云うものは一番不幸な心の状態でありまして、
世の中の不幸な人はみんな利己主義から起っていると
見てもいいのであります。
利己主義と云うものは自分と云うものを、
ほかの人と対立させて、誰でも自分の敵のように、
自分の利益を奪うかのように人を非常に狭く見ているものです。
人を非常に狭く見ていると、自分の心が窮屈になってきまして、
どうしてものびのびとした気持で生きる事が出来ないのであります。
のびのびとして生きられなかったらどうしても神経衰弱になったり、
胃病になったり、生きるのが嫌になったり、
厭世観を起したりする事になるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P349)より
<感謝合掌 令和4年11月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2022/11/17 (Thu) 04:54:30
《17日 人間を肉体だと考えるな》
そこでのびのびとして生きる為には
世界は一つ、人類は一つ、人間は互に兄弟である
と云う事を知らなければならないのです。
自分は神と一つである。
一切の生きとし生けるものと一つである。
天地と一つであると云う事を知った時に、
自分の自覚と云うものが、五尺何寸の十何貫の小さい肉体だ
と云う考えから解放せられまして、
ひろびろとした天地と一つの自覚を得る事になりますから、
利己的なコセコセした事をする必要がなくなるのであります。
自分と云うものを肉体だけであると考えますと、
この肉体に属するものばかりを大切に守ろう
と云う事になるわけでありまして、
そうして自分の肉体に属するものを引き寄せなければ損になる
と云う気にもなり、自分の肉体に属するものを人に渡したら
またそれだけ自分のものが減ると云う気になるものですから、
吾々は常に利己主義をしていなければならないことになるのです。
常に人から奪われないように出来るだけ警戒していなければならないから、
心に取り越し苦労をしなければならない。
又自分以外のものから出来るだけ奪ってくるように、
鵜の目鷹の目で見張っていなければならないと云う事になり
吾々は非常に心を労しなければならない事になるのです。
それは非常に窮屈な考えでありまして、
その窮屈さから神経衰弱や凡ゆる病気が起ってくるのです。
一切の病気は神経衰弱の変形であると云ったお医者さんもあるくらいで、
精神がしっかりして楽しかったらどんな病気も起らないのであります。
だからすべてのの病気は利己主義から起ると云っても好(よ)い位です。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P350~351)より
<感謝合掌 令和4年11月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2022/11/18 (Fri) 05:10:31
《18日 神経衰弱はこうして治る》
穏田(おんでん)の私の宅で誌友会の集りをして居りました時に、
一人の人が不眠症にかかって神経衰弱がどうしても治らない。
苦しいと云う事を云ってお尋ねになりましたが、
どう云う心を持ったら宜しいかと云う事をお訊きになりましたから、
私はその方に申上げました。
「貴方は利己主義なんだ。神経衰弱の人はみんな利己主義だよ。」
こう申したのであります。
そうしますとその人は不平そうな顔をして、
私の云った意味がわからぬらしかったものですから、私は、
「あなたは利己主義に違いないのです。
貴方は自分の病気ばかり治りたいと思って居られるでしょう。」
「そうです、そればかり考えております。」
「だから貴方は利己主義なんだ。
自分の体(からだ)治りたい、自分の不眠症治りたいと、
自分の事ばかり一所懸命考えてほかの人の事は考えてやった事がない。
それを利己主義と云うのだ。」
と申しましたら、その人は矢張り不平そうな顔しておられました。
そのうちに、集りの時間が済みまして、
多勢の方がお帰りになりましたら、後ろの方にいらっしゃった
一人の北海道から来た頭の禿げた50位の人が私の前に出て来られまして、
「先生」と云ってひとつお辞儀して、
「先生のお蔭で私の神経衰弱が治りました」
と云われるのです。
「どうしました」とききますと、
「実は、私は神経衰弱で不眠症が治らないのを苦しんで、
頭がぼっとして鍋をかぶったようで苦しくて困っておりました。
併し先生に直接訊いては失礼だと思ってうしろで控えておりました。
ところが、さっき神経衰弱の質問があって、その人に先生が
『神経衰弱は利己主義だ』と言われた途端、私は、
実に三斗の冷水(れいすい)を浴びたように《ひやっ》としました。
成る程私は利己主義だった、自分の事以外は考えず、
自分の事ばかり守ろうとしていたから治らなかった
と云う事が分ると同時に、頭から一ペンに冷水を浴びせられたように
《すっ》として、頭のかぶり物がとれたように軽くなって
治ってしまいました」
と云ってお礼を言われたのであります。
そう云う風な実例も時々ありまして、
道場で、色々御自分の病気の事を質問なさる人がありますけれども、
却って質問なさる方が治らないで、
側(はた)から聞いている人が治る事が多いのであります。
それは、病気を治そうと心に把んでいる人は却って治らず、
そのままの心で真理をきいている人には、心にぴたりと入りまして、
真理が本当に分った時に、病気なんて《ない》のですから消えてしまう
と云う事になるのであります。
「この“病気”を治して欲しい」と思って
病気ばかり把んでいる人は却って治らないのです。
それで「神経衰弱は利己主義だ」ときかされても
「自分の生活の利己主義なんてそんな講義を聞きに来たのではない。
私は病気を治して貰いに来たんだ」
などと考えている人は、心に反省がないから治らないのです。
そう云う風に、利己主義と云うものは、
自分の生命(せいめい)を自分の心で小さく限っているのです。
ここからここまでだけが私だと、小さく限っているものですから、
のびのびとした生命(せいめい)の力が出て来ないで
病気にかかりやすいのであります。
そこで神と私とは一体だと云う気持ちになれば、
もう天上天下、自分のものであると云う事になり、
これ以上のびのびした事はないのですから、
心も楽しく肉体も健康になるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P351~354)より
<感謝合掌 令和4年11月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2022/11/19 (Sat) 05:01:34
《19日 病気は内部の生命力が治す》
吾々は外から病気を治そうと思っても
外から治るものではありません。
手術をして腫物(はれもの)を切除しましても、
その切除は外科医のはたらきでありますけれども、
切除されたあとに筋肉を再生せしめ、
皮膚や粘膜をととのえるのは
内部からの生命力の働きなのであります。
その生命力は如何にしたら増大することが出来るのでしょうか。
それは、限りある「個生命」を無限の「全体の生命」
―― 宇宙の生命(せいめい)と一つに
結び合わすことによってであります。
然(しか)らば有限の個生命を如何にすれば、
無限の「個生命」と結び合わすことが出来るでしょうか。
それは正しき信仰と正しき精神の状態によってであります。
どんな医者でも名医なら、重体の病人が癒えるか癒えないかは、
その患者の精神状態の如何にあるかと云うことを
知っているのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P354~355)より
<感謝合掌 令和4年11月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2022/11/20 (Sun) 04:43:03
《20日 宇宙に満ちている無限の癒やす力を信ぜよ》
正しき信仰によって、
宇宙に満ちている無限の癒やす力と「自分」とを結び合わすには、
先ず宇宙には無限の癒やす力が到る処に満ちていることを
知らなければなりません。
吾々は信仰が先生のようにはないから、
どうも先生のおっしゃるようにはまいりませぬと言う人が
往々あるのですが、
信仰と云うものは「無い」ものを勝手に想像して
そしてそれを信ずるのではないのであります。
自分に恋してもいない女を、
自分に惚れていると甘く見て有頂天になって瞞(だま)されるのが
信仰ではないのであります。
信仰と云うのは、眼に見えない空気のようなものを
眼に見えない心の中へ、誰かから注(つ)ぎ込んで貰う
ようなものではないのです。
信仰は事実を見て《知る》ことなのです。
宇宙到る処に充ち満ちている大生命の癒やす力は、
吾々が心の眼をひらいて見れば知ることができるのです。
野獣には病気はない、野鳥にも病気はない。
彼らは時々或る自然の脅威に曝されて負傷したり、
ジャングルの中で怪我をしたり、
或は猛鳥に襲われて羽をむしられたりします。
しかし彼らは水を飲むか、ただ穴の中にじっと横たわっているか、
傷口を舐めるかするだけで治ってしまうのであります。
何等、他動的な治療法と言うのを行わないのであります。
吾々の皮膚の傷でも、若しそこへ黴菌でも侵入しさえしなかったらば、
何ら外科的治療法を講じなくても治ってしまうのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P355~356)より
<感謝合掌 令和4年11月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2022/11/21 (Mon) 04:56:58
《21日 各種の治療法に就いて》
ところが人間の世界には無数の種類の治療法があります。
そして「これこそ真に唯一の権威ある治療法である」と
主張し合っているのであります。
併し、それが真に「《唯一の》」治療法であるならば、
他(ほか)の方法をもってしては治らない、
その方法のみが治し得なければならないのに、
他(ほか)の方法によっても治ることがある。
或は何ら方法を用いないでも治ることがあるのですから、
その「《唯一の》」治療法と云う「或る方法」も
実は好(い)い加減なものであって、その「或る方法」の背後に、
方法ならざる或る癒やす原理が働いているのだと
云わなければならないのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P357)より
<感謝合掌 令和4年11月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2022/11/22 (Tue) 04:47:33
《22日 治療法には大別して二種ある》
古(いにしえ)から治療の方法は二種類に大別せられました。
その一つは霊的の方法であり、
もう一つは物質的方法(医薬等の方法)であります。
支部では神農氏(じんのうし)が医薬の法を創(はじ)めたと云われており、
日本では大国主命の弟、少名毘古命(すくなひこのみこと)が
医薬を創始したと云うことになっております。
西洋ではヒポクラテスが医薬の始祖であると云われておりますが、
彼は霊感によって服用すべき薬剤を教えられて、
その信念によって投薬したのでありますから
純粋に物質的医薬と云うよりも多少信仰的治療の方面も加味されていた
と見えるのであります。
兎も角、一方には斯う云う物質的治療方法がある、
他方には加持祈祷によって病気を治すと云う方法があります。
病気と云うものは何か悪鬼とか悪霊のようなものに
つかれているのであるから、その悪鬼とか悪霊のようなものを
追い出せば治るというのであります。
それで古代日本では大祓いと云うのをやった。
伊吹祓(いぶきはら)うと云うので、
息を吹きかける息吹法と云うのをやった。
仏教では加持と云うのをやる。
キリストは悪鬼を追い出すと云う方法で癲癇などの病気をなおしました。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P357~358)より
<感謝合掌 令和4年11月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2022/11/23 (Wed) 04:54:29
《23日 祈りの最初の最大条件》
キリスト教では祈りによって病気を退散せしめます。
特に最近のユニティ教派などはそれであります。
私は『祈りの科学』の中でユニティ教派の一人である
ステラ・テリル・マン女史の信仰と哲学とを批評しながら
祈りが効果を挙げるための必要条件を書いておきました。
それは読者に大変よろこばれたのでありますが、
ここの更に追加して祈りのことを詳しく書いておきたいと思うのであります。
祈りと云うものは、神との霊的交通であります。
キリストはヨハネ伝の中で、
「神は霊なれば霊をもって拝すべきなり」と教えているのであります。
これが祈りの最初の最大の条件なのであります。
吾々が祈るためには「霊」を祈らなければならないのであります。
ところが多くの人達は「物質」を祈っている場合が多いのであります。
何か物質で欲しいものがあるからこそ神に祈るのだと云う場合が
多いのであります。そう云う場合が多いのであります。
そう云う人の心の中は「霊的想念」に満たされているというよりは、
「物質的想念」に満たされているのであります。
従って「霊(れい)」なるところの神様には、
そのような物質的な想念は波長が合わない。
言い換えると、そのような物質的想念は、
神様のいらっしゃる天国へとどかない事になるのであります。
此の事をイエスは、
「富める者の神の国に入ること難きこと駱駝の針の孔を通るが如し」と
述べているのであります。
富める者と言うのは
現実に豊かなる生活を送っている者と言う意味ではありません。
神は無限供給の本源でありますから、
豊かなる生活を人間から拒否し給うのではないのであります。
神が拒否し給うのは、
物質的富者にあり勝な「物質に凝り固まっている想念」であります。
「富める者の神の国に入ることの難き」とは、
此の様な「物質に凝り固まっている想念」は
神の波長に合わぬと云うことであります。
イエスも云われましたように、
「神は求むるに先立ちてなくてはならぬものを知り給う」のでありまして、
既に吾々になくてなならぬものは与えられているのであります。
唯、吾々自身の心境が既に与えておられる富が現象化してくるのを
妨げているのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P358~360)より
<感謝合掌 令和4年11月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2022/11/24 (Thu) 05:05:50
《24日 祈りの実現を妨げる心境と実現を助ける心境》
既に与えられている神徳(しんとく)、神恵(しんけい)の
実現を妨げている心境と云うものは、
概(おおむ)ね心の習慣性であって、
自分にも気のつかない欠点が多いのであります。
従ってそれを自分の心の中にしっかりつかんでいて
放そうとしないのであります。
その欠点に気がついて、「ああ悪かった」と
それを放してしまうことが必要なのであります。
時には自己精神分析をして見ることが効果を奏することがあります。
しかし過度の自己批判は自己の欠点に目がつき過ぎ、
欠点を心に描き過ぎるために、その欠点を愈々益々心の力によって
創造して欠点を増大する傾向があります。
そこで吾々は欠点の方へ心を振り向けるかわりに、
欠点なき実相の方へ心を振向けることが必要であります。
「この世の創造(はじめ)の前より父と偕(とも)に持ちたりし栄光」と
イエスがヨハネ伝で言っているところの、現象以前の世界
―― 実相世界 ―― に於ける全然欠点なき自分を心に描いて、
たとえば光で暗を消してしまうように、
心の習慣的欠点を消してしまうのが好(よ)いのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P360~361)より
<感謝合掌 令和4年11月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2022/11/25 (Fri) 05:04:16
《25日 自己反省して「暗黒」の心を捨てよ》
併し、光をともして暗(やみ)を消すと言いましても、
どの方向に「暗(やみ)」があるかと云うことが明らかにならないと、
どちらの方へ探照灯(たんしょうとう)を指し向けたら好いかと云うことが
わからないのであります。
そこで先ず第一に自分に人をとがめる心があるかどうか
と云うことを反省して見ることが、
自分の内にある「暗(やみ)」の一つを発見する方法になるでしょう。
吾々が「神の癒やし」に波長を合わそうと思いましたならば、
イエスが自分を磔(はりつけ)につけた人々に対してさえ、
「父よ、彼らをゆるし給え。彼らは為すべきことを知らざるなり」と
祈ったところの、かくの如き心境に、
自分の心の波長が合うことが必要なのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P361~362)より
<感謝合掌 令和4年11月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2022/11/26 (Sat) 05:02:03
《26日 病気を口実にしたり、自己弁解の道具にしてはならない》
恐らく病人や災難を受ける人には、何か不幸や病気を口実にして、
自己弁解したいような心があるのかも知れません。
そのような自己弁解の心がありますならば、
そういう口実を自己弁解のためにつくる心を捨てなければなりません。
病気や不幸は自己弁解のために潜在意識が仮作(けさ)したところの
「口実」である場合が度々あるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P362)より
<感謝合掌 令和4年11月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2022/11/27 (Sun) 05:03:27
《27日 自己憐愍(れんみん)の心も捨てなければならぬ》
自己憐愍も又、病気や不幸をつくるところの原因に
往々なるのであります。
自己を同情し憐れんでやることに趣味を感じている限り、
その趣味を満足せしめるために、
病気や不幸をつくるのであります。
吾々が真に健康になり、幸福になるためには、
そのような自己憐愍の心の傾向をなくしなければなりません。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P363)より
<感謝合掌 令和4年11月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2022/11/28 (Mon) 04:58:24
《28日 目的とする現象のみに心を集注してはならない》
このように心の傾向を悉く捨て切っても、
尚、祈りが成就しませんでしたら、
あなたは、祈り求める現象(物質の姿)にのみ
心を集注しているのではありませんか。
そう云う現象利益を求める心は、一種の物質主義であり、
利己心でありますから、その物質主義及び利己心が
神の波長に合わぬのだとも言えるのであります。
「人間の力の最後の限界に神があらわれる」と申しますが、
それは「人間的な物質的手段及び願望を使い果して無我全托の心境」
になった時のことであります。
その時こそ、吾々のレンズが素透しになってしまって
神があらわれるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P363~364)より
<感謝合掌 令和4年11月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2022/11/29 (Tue) 05:00:50
《29日 嫉妬の心を捨てなさい》
人の成功や豊かさを嫉妬して、
自分が相手に打ち勝ちたい、一番になりたいなどと云う願いも、
神の波長に合わない願いであります。
人の成功を嫉妬する心は、成功を否定する心ですから、
自分の成功をも否定するのであります。
神はすべての人に、その人でなければ得られない
完全円満なある美点を与えられているのであります。
藤の木には藤の木でないと咲くことの出来ない藤の花を、
桜の木には桜の木でないと咲くことの出来ない桜の花を、
各々それ自身の特長を与え給うているのであって、
どちらを「一番」の席順に置いていられるのでもないのであります。
そのように木村君には木村君でなければ花咲くことの出来ない特長を、
中村君には中村君でなければ花咲く事の出来ない特長を、
それぞれ与えていられるのでありまして、
その特長の点に於いてはどちらも一番であり、
木村君が中村君に打勝つ必要も、
中村君が木村君に打ち勝つ必要もないのであります。
他(た)を打ち負かしたいと云うような精神状態は、
それは神の子の兄弟たちである人間の有(も)つべき精神状態ではない
のでありまして、この様な精神状態は神の霊波に一致しないのであります。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P364~365)より
<感謝合掌 令和4年11月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2022/11/30 (Wed) 05:02:41
《30日 常に間断なく祈って御覧なさい》
それでも祈りが成就しないならば、
祈る時間が短いのではありませんか。
常に間断なく祈ることが、
常に間断なく神の波長に合わせることになるのであります。
が、祈ってばかりいては仕事が出来ないと言う人があります。
常に祈るには常に心のうちに
「ありがとうございます」と感謝することであります。
しかし、それは現象の御利益だけを探し出して
感謝しているようなことでは、
現象に何か不都合なことが起ってまいりました時には、
感謝出来なくなってしまいます。
*「眞理」第1巻入門篇 第25章(P365)より
以降の「眞理」第1巻入門篇 第25章(P366~380)については、
12月のひかりの一日一言 で続けて紹介してまいります。
<感謝合掌 令和4年11月30日 頓首再拝>