伝統板・第二

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真理の生活 ⑮ - 伝統

2022/08/27 (Sat) 06:58:03


自己の内なる敵を殺す

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月27日)より

愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。
愛憎の心は妄心である。
妄心とは本来”ない”心である。

本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。
愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、
自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。

無敵流の兵法の極意はここにある。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815

(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957

(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8209345

(12)伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8238335

(13)伝統板・第二「真理の生活 ⑬」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8250384

(14)伝統板・第二「真理の生活 ⑭」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8263502

      <感謝合掌 令和4年8月27日 頓首再拝>

【見返りを求めないということ】 - 伝統

2022/08/28 (Sun) 05:04:36


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.08.26)より

   (曹洞宗徳雄山建功寺住職、枡野俊明氏の心に響く言葉より…)

   「無功徳(むくどく)」という禅語は、
   達磨(だるま)大師の言葉とされるものです。

   由来は達磨大師と梁(りょう)の武帝との問答。

   武帝は仏教に対する造詣も深く、その隆盛にも尽力した人で、
   みずから仏典も著(あらわ)すほどでした。


   達磨大師がインドから中国にわたった折、
   そのことを聞きつけた武帝が宮殿に大師を招きます。

   そして、問答におよんだのです。

   「自分は仏教寺院も建ててきたし、写経も熱心にしている。
    僧への貢献も惜しむものではない。
    さて、この自分にはどんな功徳があるのか?」

   そのときの達磨大師の答えが、「無功徳」、
   すなわち、功徳などありはしない、というものだったのです。


   武帝のおこないを大師が認めなかったわけではありません。

   しかし、これだけのことをしたのだから、
   功徳があってしかるべきだろう、とする心が
   そのおこないの価値を無にしてしまう。

   達磨大師は武帝をそう諭したのです。


   功徳を現代風にいえば、「見返り」ということになるでしょうか。

   人は自分がしたことに対する見返りを求めてしまったり、
   どこかで期待してしまったりするところがあります。

   残業も厭わず、数日間必死に取り組んで、ようやく仕事を仕上げた。

   それを上司に提出したとき、「はい、ご苦労さん」。

   そんなひと言だけだったら、舌打ちのひとつもしたくなりませんか。


   「がんばってくれたな。残業続きで大変だったろう。
    すこし、ゆっくりしてくれよ」

   そんな言葉の見返りを期待していたからです。


   プライベートではこんなこともありそうです。

   恋人や友人の誕生日に洒落たレストランでディナーをご馳走し、
   プレゼントも用意した。

   やがてやってくる自分の誕生日。

   その日が近づくにつれて、しだいに思いがふくらんできます。

   「あれだけのことをしてあげたのだから、
    どんなふうに誕生日を演出してくれるかな。
    プレゼントは何だろう?」

   ところが、期待に反して、LINEで「おめでとう」しかなかったら、
   なんだか裏切られたような気持ちになるのではないでしょうか。

   見返りを求めていたからです。


   その結果、上司に反感をもつようになったり、
   恋人や友人を怨むようになったりする。

   寂しい感じがしませんか。

   「労いの言葉がなくたっていいじゃないか」
   「誕生日にお返しがなくてもいいじゃないか」
   そんなふうに受けとめたら、よほどすっきりした気分でいられます。


   必死に仕事を仕上げたという、自分の充実感だけでいい。

   大好きな恋人や親しい友人の誕生日を祝ってあげられたことがうれしい。

   それがすべてなのです。

   そのあとのことは放っておけばいいのです。

   そう考える習慣を身につけて、
   心安らかに、恬淡(てんたん)として、日々を送りましょう。


    《無功徳/どんなおこないも、することがすべてであり、
     果報や見返りを求めるものではない。》

    <『仕事がはかどる禅の習慣』マガジンハウスhttps://amzn.to/3ciAZPV

            ・・・

「ギブ・アンド・テイク」は
何かをしたとき、何かの見返りを求める、という考え方です。

持ちつ持たれつという関係です。


また、「ギブ・アンド・ギブ」という言葉もあります。

相手に見返りを求めず、ただ与え続けることです。


自分の「我」を捨てて、ただただ、人に喜んでもらうことをすることです。

「おかげさま」の気持ちでする行為です。

それが良寛さんのいう、次の言葉です。

「俺が、俺がの、我(が)を捨てておかげ、おかげの、下(げ)で生きる」


また、「忘己利他(もうこりた)」という
伝教大師最澄(さいちょう)の言葉と同じです。

自分のことは忘れて、他人のために尽くすこと。


見返りを求めず…

ただただ、ギブ・アンド・ギブの気持ちで、
日々を送ることができる人でありたいと思います。

      <感謝合掌 令和4年8月28日 頓首再拝>

【腹を立てぬ呪文】 - 伝統

2022/08/31 (Wed) 04:49:16


       *安岡正篤・著『百朝集』
           (致知BOOKメルマガ2022.08.07)より

……………………
腹を立てぬ呪文
……………………

おんにこにこ はらたつまいぞや そはか



明治初年禅門の耆(長老)宿西有穆山が
ある老婆に教へた真言陀羅尼である。

支那最古の医書といはれる素問霊枢の開巻第一章、上古天真論に、

人間万病の根源は ――「恚」(怒)の字にあると論じてをる。

すでに西洋の進んだ医学者は、
精神と肉体との間に非物質的な交互作用が行はれてをり、

たとへば、肉体に対する情緒の反応を物質化して証明することに成功してをる。

ワシントンの心理学者エルマー・ゲイツ氏は
汗と呼吸とについて、精神状態が肉体に及ぼす化学的変化を明らかにした。

怒ると汗がひどく酸性になる。

ゲイツ氏は汗の化学的分析から情緒の表を作りあげた。

又各精神状態はそれぞれ腺や内臓の活動に化学的変化を生じ、
これによって作り出された異物を呼吸や発汗によって
体外に排出することを証明した。

液体空気(圧力を緩めて蒸発させると零下二一七度まで下る)で
冷却したガラス管の中に息を吐きこむと、
息の中の揮発性物質が固まり、無色に近い液体になる。

この人が怒ってをると、数分後に管の中に栗色の滓が残る。

苦痛或は悲哀の時は灰色、
後悔してをるものは淡紅色になる。

この栗色の滓を天竺鼠に注射すると必ず神経過敏になり、
激しい嫌悪の情に駆られてをる人の息の滓なら、数分で死んでしまふさうだ。

1時間の嫌悪の情は八十人を殺せる毒素を出し、
この毒素は従来の科学の知るかぎりの最強の猛毒であると。

おんにこにこ 腹立つまいぞや そはか

      <感謝合掌 令和4年8月31日 頓首再拝>

心に抱く思いによって人生が決まる - 伝統

2022/09/01 (Thu) 08:09:08


       *メルマガ「人間力」(2022年09月01日)より
        ~追悼・稲盛和夫氏

───────────────────

京セラ創業者の稲盛和夫氏がお亡くなりになりました。
突然の訃報に惜別の情を禁じ得ません。

京セラやKDDIを創業し、
大企業に育て上げるだけでなく、
経営破綻したJALを僅か2年8か月で再上場へと導くなど
数々の偉業を成し遂げた稲盛氏は、
月刊『致知』の応援者のお一人でもありました。

追悼の思いを込めて、
稲盛氏が2006年10月号にお寄せいただいた
連載「巻頭の言葉」の一部をご紹介します。

───────────────────

(稲盛)

素晴らしい人生を送るためには、
「心に抱く思いによって人生が決まる」という
「真理」に気づくことが大切です。

19世紀後半に活躍したアメリカの啓蒙思想家、ラルフ・W・トラインは、

「あなたが抱く、どの考えも力となって出ていき、
 どの考えも同じ考えを引き連れて戻ってくる」

と説いています。

心に善き思いを持ったとき、
それは善き力となって出ていき、善き結果を連れて戻ってくる、

一方邪悪な思いを抱けば、それは邪悪な力となって発現し、
悪しき結果を引き連れて帰ってくるというのです。

そうだとすれば、私たちが心に抱く「思い」が、
どのようなものであるかが問われてきます。

幸福で満ち足りた人生を望むならば、
善き思いをベースとして生きなければならないはずです。

なぜ善き思いを抱けば、
善き結果を得ることができるのでしょうか。

それは、この宇宙が、善き思いに満ちているからです。

宇宙を満たす善き思いとは、
生きとし生けるものすべてを生かそうとする、
優しい思いやりにあふれた思いです。

私たちが、この優しい思いやりに満ちた思いを抱けば、
愛に満ちた宇宙の意志と同調し、必ず同じものが返ってくるのです。

「与えよ、さらば与えられん」、

あるいは

「情けは人のためならず」と、

愛が持つ偉大な力が古今東西で説かれているように、

あなたが差し出した愛は、
必ずあなたに返ってきて、あなた自身を幸福にしてくれるのです。

(中略)

「そんな思いやりに満ちた心などといっていては、
 厳しいこの社会をわたっていけるのか」と、

疑問に思われることもあるでしょう。

そうではありません。

善き心こそが、強大なパワーを持っているのです。

このことを、私は第二電電(現KDDI)の経営を通じて実感しました。

第二電電を立ち上げたとき、京セラのような中堅企業が
国家事業に名乗りを上げ、NTTに立ち向かうのは、
まるでドン・キホーテのようだと揶揄されました。

その後、国鉄を母体とする日本テレコム、
また建設省、道路公団を中心とする
日本高速通信が新規参入しましたが、

いずれも官業を母体とし、
鉄道網や高速道路網という、
全国にまたがるインフラを持っていました。

一方、第二電電は、情報化社会の到来に向け、
国民のため通信料金を下げたいという純粋な思いのみで、
徒手空拳参入し、彼我の差は歴然としていました。

しかし、第二電電はその設立の趣旨に共鳴した社員が、
ネットワーク幹線の構築や顧客獲得などで
涙ぐましい努力を重ねてくれたのです。

また、そんな社員の懸命な姿は、
代理店やお客様など社外の多くの方々の共感を呼び起こしました。

このことがあればこそ、第二電電は今日もKDDIとして、
隆々と成長発展を重ねているのです。

経営資源に恵まれ、成功すると思われていた企業が消え去るなかで、
ただ「世のため人のため」という純粋な思いを経営資源とした
第二電電が成長発展を重ねた。

このことは、人間や集団を成長へと導いてくれる要諦を示しています。

それは、純粋で気高い思いには、
素晴らしいパワーが秘められているということです。

      <感謝合掌 令和4年9月1日 頓首再拝>

【人に元気を与える人】 - 伝統

2022/09/08 (Thu) 04:54:51


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.04)より

   (藤原和博氏の心に響く言葉より…)

   その人と話をすると、元気になってしまう人がいる。

   逆に、何か力が抜けて行くような、人のパワーを奪う人もいる。

   これは一体何の違いなのだろう。


   元気をくれる人の会話の特徴は、必ず「そうだね」で始まる。

   つまりYESの発想だ。

   どんなに突飛な企画に対しても、しょーもない人からのお願いでも、
   「やろう」 という前提で話を進める。

   前向きな人といえばそれきりかもしれないが、
   私はこのような人を “YES, but" の人と呼ぶ。


   これに対して、こちらの話をいつも

   「それには、こんな問題点がありそうだ」
   「いや、こういう面が難しい」
   「他の誰かに、こんなふうに見られないか」

   という態度で聞く人がいる。

   会社として受けられないことや
   彼個人の力量では遂行不可能と思われる場合は、
   素直に“NO (できない)”と言ってくれた方が時間に無駄がない。

    "NO"とはっきり主張する人は、それはそれで議論もできるし、
   物事が進むにしろ進まないにしろクリアになってよい。


   始末が悪いのは、むしろ「評論の人」である。

   「評論の人」の口癖は、

   「こういう面はどうかなあ(何か問題があるんじゃないか)」
   と
   「どのように(上役や社長に)見えるかなあ」の2つである。

   始めから"YES"か"NO"かの結論を出そうという
   気持ち(もしくは力量)がないのに、会議で検討したり
   部下に調査させたりするのが仕事と思っているから、
   付き合わされるほうはたまらない。

   これから仕事の主人公になろうとする人は、
   このような無為な会議から逃れなければならない。

   会議には出れば出るほど「自分」が遠のいていく。

   会議が仕事の「評論の人」は、私たちの貴重な人生を奪う。

     <『処世術 自分らしく生きる方法』ちくま文庫>

          ・・・

「YES, but」という手法の他に、
「YES, and」という話法があります。

「イエス」と受けて、「しかし、〇〇で違いますよね」
という否定語で返すのが、「YES, but」。

「イエス」と受けたあと、
「実は〇〇なんで、すごくいいと思います」
「だからこそ、〇〇なんです」、
という感じに肯定語で返すやりかたが、「YES, and」。


肯定的な人は笑いが多い人です。

だから、明るくて、機嫌がいいし、行動的です。

しかし、否定的な人は笑いません。

だから、暗っぽくて、不機嫌で、行動しません。


誰かが突拍子もない意見を言ったとき、
それを笑って受け止める人は、肯定的な人です。

笑いは、すべてを「受け入れている」ということだからです。

だから、「YES」という肯定的な人と会うと、元気になるのです。


どんなことも、肯定的にまずは受け止める…

人に元気を与える人でありたいと思います。

      <感謝合掌 令和4年9月8日 頓首再拝>

「善行を誇る」「悪行を悲嘆する心」を捨て、実相に乗托せる心を出して来る - 伝統

2022/09/10 (Sat) 10:25:47


        *「光明道中記」(9月10日)より抜粋

「自分の善行(ぜんこう)」だと誇る心、
「自分の悪行(あくぎょう)」だと悲嘆する心、
この善悪二つながらに捉われる心を踏み超えてはじめて、

本当の心 ―― 何物にも捉えられない
実相に乗托せる心を出して来ることが出来るのである。

「自分の善行」だと誇る心も
「自分の悪行」だと悲しむ心も倶(とも)に虚仮不実(ほんとうにない)
の心として棄(す)てて了わねばならないのである。

      <感謝合掌 令和4年9月10日 頓首再拝>

神性を開発するには、善智識に遭い又は善き書物に触れることである - 伝統

2022/09/12 (Mon) 08:56:21


        *「光明道中記」(9月12日)より抜粋

而も仏性はどうして内部から開発され催して来るのであるのか。
善智識に遭い又は善き書物に触れることである。

善智識に遭い、善き書物に触れるのは「自己のつくれる過去の業」によるか
 ―― そうすれば、自力となるのである。
然らず、それは如来より廻施(えせ)せられたる機縁である。仏縁である。

仏縁おろそかならず、善智識はその人にとり弥陀であり、
善き書物はその人にとり弥陀の説法である。

      <感謝合掌 令和4年9月12日 頓首再拝>

「人は何のために生きるのか」 - 伝統

2022/09/14 (Wed) 12:04:18


     *メルマガ「人間力」(2022.09.14)より
      ~稲盛和夫

この我々の自然界には、微生物から動植物まで、たくさんの生物が存在しています。
そして、それらはすべて循環をしております。

例えば、地中にはいろいろなバクテリアや細菌がいて植物の根の成長を助け、
それによって地上に草が繁茂します。

すると、そこに草を蝕む昆虫類がたくさん群がってきます。
これらの昆虫は、昆虫同士で食べたり食べられたりして生存をしています。

また、草食動物も草を食べます。
そして今度は、その草食動物を肉食動物が食べて命を永らえていきます。

肉食動物は老いて朽ち果てると、
また土へ帰っていき、それが土壌を豊かにし、
そこにまた新しい草花や木が生えるようになります。

このように自然界は循環をしているのですが、
それは同時に、命の連鎖が続いていることを意味しています。

自然界のあらゆるものは生命の鎖でつながっているのです。

草は昆虫に蝕まれて昆虫を育て、
また草は草食動物に食べられて草食動物を繁栄させます。

草食動物は肉食動物に食べられて、肉食動物の繁栄を支えている。
その肉食動物も、やがて死を迎えるとバクテリアによって分解され、
植物の栄養となるのです。

自然界はそういう命の連鎖でつながって維持されています。

つまり、これらの一般の生物たちは、
自分が生きるだけではなくて
自分の命を差し替えて他の命を助けているのです。

そのような循環が、この地球上では延々と行われてきております。

我々人間は大変素晴らしい知恵を神から授かっています。

素晴らしい頭脳を駆使して近代科学を発展させ、
素晴らしい文明社会をつくってまいりました。

知恵によってあらゆる生物の頂点に位し、
地球上にあるあらゆる生物を食べて生き永らえ、繁栄を図ってきました。

見方を変えますと、
一般の動植物は自分の命を差し出して他の生き物を助けてあげていますが、

我々人間は、植物でも動物でもすべてのものを殺して生き永らえて
繁栄を続けているのです。

そうやって生物の頂点に位し、
それぞれの人生を生きているのが我々人類の姿であります。

そう考えると、
私にはこういう思いが湧いてくるのです。

人間は素晴らしい知恵を持つと同時に、
素晴らしい理性とか良心というものを持っているではないか。

ならば、すべての命を収奪して生きるだけではなく、
理性とか良心の領域を使って、他のものたちに対して何か施しをすることも
考える必要があるのではないだろうか。

せっかくこの世に生を受けたのですから、
命のある限り自分だけが生きるというのではなくて、

我々人間も世のため人のために
少しでも尽くして生きるべきではないのか。

わずかでもいいから、世のため人のために
尽くす生き方が人間として大変大事なのではないか。

そこに、この人生を生きていく
意義があるのではないかと思うのです。

つまり、私たちは何のために生きるのかといえば、

その第一の目的は、

世のため人のためにささやかでもいいから尽くすことであると

私は思っているのです。

※本記事は月刊『致知』2006年6月号
特集「開物成務」から一部抜粋・編集したものです。

      <感謝合掌 令和4年9月14日 頓首再拝>

愛と敬虔との心をもってすべてを行なう - 伝統

2022/09/15 (Thu) 09:31:39


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。

しかも金(かね)や物を与えるのに
湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

・・・

       *「光明道中記」(9月15日)より抜粋

みんな仏様のお計らいであるから、
偉そうな気持でなしに、如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ってすべきである。

        <感謝合掌 令和4年9月15日 頓首再拝>

【「いき」に生きる】 - 伝統

2022/09/17 (Sat) 07:48:36


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.08)より

   (医師、帯津良一氏の心に響く言葉より…)

   貝原益軒の『養生訓』の研究家として知られる立川昭二先生によれば、
   益軒が『養生訓』のなかで説いているのは長寿でもなければ無病でもない。

   粋(いき)な生活をしなさいということである。


   酒は天の美禄(びろく)であるといい、
   22歳も年下の奥さんを愛し、自然を愛し旅を愛し、読書に親しみながら、
   莫大な著作を物にしているのだから、たしかに、ではある。

   「酒は天の美禄なり。少のめば陽気を助け、
    血気をやはらげ、食気をめぐらし、
    愁(うれい)を去り、興(きょう)を発して、
    甚(はなはだ)人に益あり。」

   これだけでも十分なのに、さらにいう。

   「客に馳走するときも、むやみに酒を勧めて
    苦しませるのは思いやりがないことだ。
    深酔いさせるのも禁物である」

   一方、

   「客は主人が勧めなくても日頃より多く飲んで酔う。
    主人は酒をやたらと勧めず、客はいたずらに遠慮せず、
    程よく酔って共に楽しむのがいちばんよい」
 
   というのだから、これを粋と言わず何と言う。


   粋といえば、何といっても
   『「いき」の構造』(九鬼周造、岩波文庫、1979)だろう。

   ここでは「いき」を定義して、

   「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地・いくじ)、色っぽさ(媚態・びたい)」

   と定義している。


   垢抜けしているとは、諦念(ていねん)を上手に使うことだという。

   いかにすばらしいことでも、
   最後まで追求すればよいというものではなく、
   適当な位置取りであきらめることによって、すべてが丸く収まるのだ。


   また自分の生涯をかけた目標に気力をもって向かうのが意気地だが、
   ライバルが現れたら道を譲ることも必要だ。

   そして最後の媚態すなわち色気だ。

   色気の始まりは生命のあふれ出ること。

   いつも躍動する心を抱いて事に臨むことだ。


   粋に生きるとはなんとも「いき」なことではないか。

   しかも、生命があふれ出るときた。

   色気とは、昆虫におけるフェロモンのような、
   異性を惹きつける物質を出しているのと同じ状態という可能性はあるが、
   これはまだ人間では証明されてはいない。

   あるいは、体内のエントロピーがあふれ出ることによって、
   体内の秩序性が高まり、色気につながると想像できなくもない。

           <『不養生訓』山と渓谷社>

       ・・・

「いき」の定義は、

(1)垢抜けして(諦)、

(2)張りのある(意気地・いくじ)、

(3)色っぽさ(媚態・びたい)

だという。


(1)「諦め」とは、執着しないこと、執着を手放すことだ。

   執着が強い人は、過去を手放せない。

   過去の、失敗や悲しかったこと、つらかったことを何度も思い出しては、
   自分でテンションを下げてしまう。

   あるいは、「欲」に恬淡(てんたん)することだ。

   まさに「行雲流水」の境地だ。

   行雲流水とは、空を行く雲と流れる水のように、

   「執着しない」

   「物事にこだわらない」

   「自然の成り行きに任せて行動する」

   ことを言う。


(2)「意気地(いくじ)」とは、
   ある種のやせ我慢であり、
   物事をやり通すという気概や、他に負けまいとする意地のようなものだ。

   「武士は食わねど高楊枝」というように、
   たとえ生活に窮しても、気位を高く持ち、恥ずかしいことをしないということ。

   その根底にあるのは、
   弱者や敗者に対する思いやり、すなわち「惻隠(そくいん)の情」だ。


(3)「媚態」とは、人におもねることではない。

   男性にも女性にもモテる、という魅力があることだ。

   人の魅力は「与えること」によって生じる。

   与えるとは、「お金(ケチは嫌われる)」だけではなく、

   「はじけるような笑顔」や

   「機嫌がいいこと」

   「明るさ」

   も大事な要素だ。

   それは、愛敬があるということでもある。


粋な生活を目指したい。

        <感謝合掌 令和4年9月17日 頓首再拝>

【同じことの繰り返しでは、違う結果は得られない】 - 伝統

2022/09/21 (Wed) 13:05:41


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.13)より

   (マーク・レクラウ氏の心に響く言葉より…)

   あなたの成功と幸福は、自制心と意志力に大きく左右される。

   この2つの資質は、
   自分がすると言ったことをやり遂げ、
   状況が不利なときでも目標に向かって邁進するうえで決定的な要因となる。

   自制心と意志力があれば、人生で大きなことを成し遂げることができる。

   しかし、たとえこの2つの資質を
   持ち合わせていなくても、心配する必要はない。

   自制心と意志力は訓練次第で身につけることができるからだ。

   もし自制心と意志力が足りないと感じるなら、
   達成可能な小さい目標を設定することから始めればいい。

         <『習慣を変えれば人生が変わる』ディスカヴァー>

          ・・・

『同じことを繰り返して違う結果を得ようとするのは愚の骨頂である。
 人生で違う結果を得たいなら、新しい習慣を確立する必要がある。
 努力して自分を律すれば、それは比較的簡単にできる。』

               (アインシュタイン)

自制心とは、自分の感情や欲望などをコントロールする精神力のこと。

自分の感情や欲望のままに流されないことだ。


自制心がない人は、

「継続力がない」「時間を守らない」
「感情的になりやすい」「浪費する傾向がある」
「ギリギリまでやらない」「お酒に飲まれてしまう」「肥満傾向にある」…。

自制心を身につけるには、この反対をすればいいだけの話だ。

しかし、言うは易く行うは難し。


舩井幸雄氏は、それは「長所伸展法」によって解決するという。

「長所伸展法」とは、よいところ、得意なこと、 上手にできることを伸ばしていく方法だ。

長所を伸ばしていけば、 短所は自然に消えていくからだ。

つまり、マイナスの習慣「継続力がない」なら、
何か簡単にできること、続きそうなことをまずは習慣にすること。

それが呼び水となり、次々と良き習慣が身につくようになる。


そして、大事なことは、まずできるところから始めること、行動を起こすことだ。

たとえば…

「(新しいことや得意なことを始めて)継続するクセをつける」、

「(身のまわりのできるところから)片づけを始める」

「(自分の約束を守るための)仕組みをつくる」

この中の「仕組みをつくる」とは、かなり重要で、
(ゲーム的に)やらざるを得ないように自分に仕掛けること。

たとえば、忘れ物をしないという習慣をつけるには、
次の日に持っていくものを(忘れてはいけないもの)、
翌朝履く靴の上に置いておくというようなシステムをつくること。


毎日本を読む習慣を身につけるなら、
本を読んだ内容を、毎朝決まった時間にブログにアップすること。

そして、毎朝何時ころアップするとまわりに公表し、
自分自身引き返せないように仕掛ける。

読後感というアウトプットを見え化することによって、
読書というインプットが強制的にできるようになる。


何か新しいことを始めなければ、違う結果は得られない。

つねに、新しいことにチャレンジする人でありたい。

        <感謝合掌 令和4年9月21日 頓首再拝>

理想へ精神を集注し、ひたすら歩む - 伝統

2022/09/25 (Sun) 05:06:57


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月25日)より

「夢を描け」と教えられても、無駄な空想に溺れて、
その夢を右に左にふらふらさせてとりとめもないことに
時間を費やせという意味ではないのである。

かくのごとく、目標も理想もなく、進むべき中心点のない夢に耽ることは
精神力の浪費にすぎないのである。

これに対して、一つの目標または理想に向かって精神を集注し、
かくて得たるヒントを建設的に組み立ててゆく努力は、
精神力の鍛錬にあるのである。

かくて、その人の行動は正しい方向に載せられ、一歩一歩築いてゆくとき、
ついにも目標に到達することができるのである。
一歩も歩まないものは百歩先を見ることができないのである。

遠くが見えなくとも歩いて行けばわかる。

           <感謝合掌 令和4年9月25日 頓首再拝>

【アポトーシスの法則】 - 伝統

2022/09/26 (Mon) 11:51:47


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.17)より

   (元春日大社宮司・医師、葉室頼昭(はむろよりあき)氏の心に響く言葉より…)

   宇宙にはアポトーシスという法則が、
   150億年前に宇宙が誕生した当初から厳然と続いております。

   このアポトーシスというのは何かというと、
   この世の中で必要でないものは消えるということです。

   例えば人間の体でも、
   細胞が自分は必要とされていないと感じると、消えてしまうのです。


   そんなばかなことがあるかと思われるかもしれませんが、
   例えば病気で長い間寝ていて、病気が回復した後で歩こうと思っても、
   足が弱ってなかなか十分に歩けないということは
   多くの人が経験していることでしょう。

   これは簡単に言うと、長い間寝ていると、
   足の細胞の遺伝子が自分たちは必要でないと感じてどんどん消えていって、
   足が細くなるからです。

   これはほんの一例にすぎませんが、
   体のどの細胞でも自分が必要でないと感じると、
   消えていくようになっているのです。

   これは体にとってマイナスの意味しかないように思われますが、
   じつはこれもまた素晴らしい神さまの知恵の現れなのです。


   例えばガン細胞なども、自分が必要でないと思えば消えていくはずです。

   ところが、人間はガンを認めて、逆にそれを撲滅しようと闘うから、
   かえってガンは治癒しないのではないでしょうか。

   日本人は古来から祓(はら)いというものを毎日行ない、
   神さまの素晴らしい気を体に入れて、
   不必要なものは消えていくということを行なってきました。

   例えば感謝というのが神さまの気です。


   昔の日本人はアポトーシスなどという医学の知識は全くないのに、
   祓いを行なって 健康で幸せに生活してきたことは、
   素晴らしい知恵ではないでしょうか。

   ところで、脳の細胞も脳を使わなければどんどん消えていきます。

   例えば、アルツハイマーという、いわゆる認知症になった人の脳は、
   細胞がどんどん消えて小さくなると言われています。

   脳を使うというのは、いったいどういうことなのでしょうか。


   先ほどの例で言えば、私は物事の現象や結果だけを見るのではなく、
   目に映った像を立体的に変え真実の正しい姿として見るということが、
   人間に与えられた脳を使うことだと思います。

   ですから、毎日テレビゲームやインターネットに映る
   平面の像ばかり見ていると、

   自分では気が付かないうちに、
   人間としての情緒や感情をつかさどる脳の細胞が
   消えていくのではないかと思います。

   また、若い人たちは携帯電話でメールのやりとりなどをしておりますが、
   これもまた平面の像でありますので、
   これも長い時間行なえば、人間の脳の細胞は消えていくのかもしれません。

   どうか目に映った平面の像だけを見ないで、
   真実の姿を見ていただきたいと思います。


   というのも、平面の像を見続けることで、
   自分では気が付かないうちに、人間としての脳細胞の一部が消えて、
   動物的な考えになっていくのが恐ろしいのです。

   そのような人は無意識のうちに、
   人間でありながら動物的な行動をすることがあるからです。

   わたしはそのことを心配しているのです。


   それというのも、この問題が日本の将来を左右する
   重要な鍵になるのではないかと思うからです。

       <『神道と〈ひらめき〉』春秋社>

        ・・・

「アポトーシス」は、組織をよりよい状態に
保つために細胞が死んでいくことをいうが、
その対義語として使われるのが「ネクローシス」。

「ネクローシス」とは、
外からの何らかの障害、外傷や血行不良などが
原因で細胞が死ぬことを言う。


孤独を感じている中年の人たちは、
孤独を感じていない同世代の人たちと比べて、
認知症やアルツハイマー病を発生するリスクが2倍高いという研究結果が、
米ボストン大学のウェンディ教授らの研究で明らかになったという。

家族や友人、近隣やサークルなど、社会的つながりが極端に少ない人のことだ。

すると、新しいことへの関心、好奇心、驚き、感動などに関する脳細胞
が死んでいく「アポトーシス」現象が起こる。


勉強も、読書も、運動も、継続的にしなければ、
脳は「ああ、必要ないんですね」と思い「アポトーシス」の法則が働く。

そのために必要なのが「旅・人・本」。


旅は、なにも海外や国内の旅行に行くだけとは限らない。

いつもは行かない変わった場所、
面白そうな勉強会やイベントへ行くという「旅」。

また、初めての人と会う、面白そうな人と話す、
自分とはまったく異質な人と出会う、という「人」。

そして、「本」によって、新たな出会いや、
知識、気づき、感動を得ること。


おっくうがらずに出かけること。

勇気を出して新たな人と会うこと。

そして、読書の継続。


「細胞が自分は必要とされていないと感じると、消えてしまう」

これは、人もまさに同じ。

人から必要とされる人になるため、自らを高め続けたい。

           <感謝合掌 令和4年9月26日 頓首再拝>

保身の術 - 伝統

2022/10/01 (Sat) 04:59:50


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月はじめの言葉)より

あらわれて出ることだけを知って隠れることを知らない者は
自己を滅ぼすのである。

緊張ばかりを知って弛緩の道を知らない者も自己を滅ぼすものである。

昼のみあって夜なきときは人はついに滅びてしまうのであろう。

みずからを護る術を知る者はよくみずから隠匿する者である。
水遁、火遁、自由自在にして、変幻出没するものでなければ、
大をなすことは出来ない。

嘗て大本教が破滅し、「ひとのみち」が崩壊したのは、
その教義のなかに適しない点があったであろうが、
その適しない点が露骨に表れて来て天下の耳目を惹いたのは、
あらわれて出ることだけを知って、隠れる道を知らなかったからである。

それらの教は、或は「時節には勝てんぞよ」と教え、
「急ぐは事を壞る」と教えながら、
みずからの教団全体の動きが自己を顕すに急であって、
隠れることを知らなかった。

保身の術は自ら韜晦(とうかい)して顕れざる位置に隠れ、
人を押し上げて人をも生かし、自分も生きるのである。

自分が暫く顕れることを焦ったために、
自分自身が出る杭として壊滅するのみかは、
自己に頼っていた幾十万の人々を帰趨する処なからしめる。

その人のためを思いて顕われた位置に置かない私の心を汲むものは稀である。

           <感謝合掌 令和4年10月1日 頓首再拝>

【「ゆるめる」とうまくいく】 - 伝統

2022/10/05 (Wed) 07:16:42


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.20)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「こんな話を聞いたことがあるんです。
    実は、日本最大手の葬儀社が、残された遺族の方に
    アンケート調査をしたらしいんですね。

    その結果、不思議な傾向が認められたというんです」


   「へぇー、それはおもしろそうな話ですね。どんな傾向ですか」


   「生前、優しくて親切で思いやりに満ちて温かい存在だった人、
    感謝される存在だった人は、多くの場合、安らかな死、『大往生』と
    言うんでしょうか、そういう死を迎えていたそうです。

    痛がらない、苦しまない死に方だったというんです。

    ところが、生前自己主張が強く、わがままで、
    自己中心的で他人に思いやりが少なかったような人は、
    多くの場合、痛がったり苦しんだりして死んでいったというんですね。

    その葬儀社は、全く無心に、
    事実だけを集めたかったんだそうですが」


    「すごい話ですね」


   みんなが、うーむ、と考え込みました。

   もちろん、心優しい人でも、苦しんで死んだ人もいますから、
   これが「全て」「必ず」というわけではありません。

   「多くの場合」なのです。


   ただ、そういう場合も、
   「頑張る」 「負けず嫌い」との傾向があるように思いました。


   私に一つの体験があります。

   未知の人から電話がかかったことがありました。

   神経痛で10年も苦しんでいる、いろいろやってみたが治らない。

   人から聞いて、神経痛を治すヒントが得られないかと電話した。

   病院でも薬でも治らない神経痛を、治す方法はないか。

   そういう内容でした。



   そのときの私の答えは、
   「もしかしたら、神経をビッと張っていませんか」というものでした。

   相手の方は(声は60代の感じでしたが)、
    「はあ......」と、けげんそうな声を出しました。


   「もし神経をずっと張り続けてきたのなら、
    神経をちょっとゆるめてみてください。

    張っ た弦はちょっとさわっただけで大きな音になりますが、
    ゆるんだ弦は いくらつまびこうと しても音になりません。

    神経痛も同じように考えたら、
    響かない、ビンビンしない、ということになりますよね」


   「神経をゆるめるんですか......」

   はあ......っ、と大きく息を吐き出したような音が、
   電話の向こうでしました。

   10秒ほどたって、「痛みが......消えました」
   小さな、蚊の鳴くような声でした。

   「信じられない」という思いが、こちらに届きまし た。

   それはそうでしょう。この10年、
   ずいぶん苦労をして病院を回ったらしいのです。

   その “難病” が、10秒で、
   しかも自分自身の力だけで、消滅したのですから。

   もちろん、全ての神経痛がそれで治る、などとは言えません。

   が、そういう実例が存在しました。

   この実例をもとに、ある推論が成り立ちました。


   自己主張をしたり、他人と争ったり闘ったりしてきた人は、
   「神経の糸」をずっと張り続けてきたのかもしれません。

   そこに、病気という名の臓器の故障や不調が加わったとき、
   神経の張り=「痛み」という かたち で表れてくるのかもしれません。


   一方、他人と争ったり闘ったりせず、
   優しく穏やかで温かく思いやりに満ちた人格を持っていた人は
   「神経が張っていない」がゆえに、
   臓器が故障し不調になっても、「痛み」を感じにくかったのかもしれないのです。

   いつも「負けないぞ」と頑張っている神経と優しさに満ちた神経とでは、
   確かに響き方(痛さ)が違うような気がするのですが、どうでしょうか。


   「死」という瞬間をはさみ、その直前の「死に方」は楽な方がよいでしょう。

   力を抜いて生きることが「安らかな死」につながっているらしいのです。

           <『こころの宝島』清談社>
   
            ・・・

誰かに、ああだこうだと指摘されたり、
上から目線で偉そうに言われたりすると、
カチンときたり、ムッとしたりすることがある。

「何故私があなたに言われなければならないんだ」
「あなたに(そこまで)言われる筋合いはない」
「なぜそんなに下に見られなければならないんだ(私のが上なのに)」

と思うからだ。


心の奥底には、自分が「大したものである」
「なかなかのものだ」という思いがある。

うぬぼれ、驕(おご)り、高ぶり、傲慢という気持ちがだ。

逆に言うなら、人に何か言われて「カチン」ときたら、

「ああ、今自分は『大したものだ』と
 思っているんだな」
「今、自分は『偉そう』になっているんだな」
と気づくことが必要だ。

それが、心の弦がピーンと張って、臨戦態勢に入っている状態。


小林正観さんは、そんなときは、
自分は「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」と
思うことが必要だという。

実際、よく考えてみれば、
欠点もあり、間違いや失敗もするし、ダメなところも多い、
ろくなものじゃないのが人間だ。


そして大事なことは、人は、自分一人で生きているわけではなく、
まわりの人たちの助けがなければ、一日たりとも生きていけない
小さくて弱い存在だと知ること。

無人島で、自給自足で生きているわけではないからだ。

だからこそ、
「おかげさまの心」や
「謙虚さ」が必要となる。


また、人と争い、戦って、競争して生きてきた人は、
心の弦(つる)が常にピンと張っている。

神経がいつもピリピリしている。

それが嵩(こう)じると、心の病になりやすい。


だから、大事なのが、弦をゆるませること。

それは、ボーっとして、力を抜くことでもある。

「ゆるめる」とうまくいく。


カチンときたら…

自分は、

「大したものではない」
「ろくなもんじゃない」

と思い定めること。

           <感謝合掌 令和4年10月5日 頓首再拝>

【「自慢」はあなたを滅ぼす】 - 伝統

2022/10/06 (Thu) 07:12:55


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.09)より

   (東洋思想研究家、田口佳史(よしふみ)氏の心に響く言葉より…)


   自ら見(あら)わさず、故に明かなり。

   自ら是(ぜ)とせず、故に彰(あきら)かなり。

   自ら伐(ほこ)らず、故に功有り。

   自ら矜(ほこ)らず、故に長たり。(益謙第二十二)


   自分のやったことを人に自慢するのは愚かなことだ。

   もっと実力を高めよう とする向上心が、そこで止まってしまうからだ。

   しかも、自慢話を聞かされるほうは、たまったものではない。

   親友を得ることはできないだろう。


   自慢 は二重の意味で、自分で自分の首を絞める行為なのだ。

   日常会話に占める自慢話の割合は、相当高いのではないでしょうか。

   誰かが自慢話をして、それに負けじとまた誰かが自慢話をする。
   そんな連続でしょう。

   しかも、自分が自慢話をしたことは棚上げにして、
   「あいつは自慢ばかりする」と他者を嫌悪する人の、何と多いことか。


   せっかく人に誇れる良い行ないをしても、
   自分からそれをひけらかし、自慢したのでは、行ないの値打ちは
   半減どころかマイナスになってしまいます。

   その理由は、二つ。

   一つは、自慢から慢心が生じ、
   「さらに実力を磨いていかなくては」という向上心が失われてしまうからです。

   その瞬間、自分の成長は止まると言っていいでしょう。

   結局は実力がつきません。

   本当に実力のある人というのは、常に現状に満足しません。

   だから、向上心をバネ にして、いっそう実力を磨いていけるのです。

   あえて自慢などしなくても、
   いや、しないからこそ、周囲に評価されるというわけです。


   もう一つは、自慢話は人を遠ざけてしまうからです。

   これはみなさん、経験的によくご存じでしょう。

   自慢話ばかりするような人と、一体誰がつき合いたいと思うでしょうか。

   もしつき合ってくれる人がいたとしても、そこにあるのは利害関係だけ。

   本当の親友は得られないし、
   自分が困ったときに、誰も助け舟を出してはくれません。

        <『超訳 老子の言葉』三笠書房>

         ・・・

●自分に見識があるとは思っていないから、物事がよく分かる。

●自分が正しいとは思っていないから、物事の是非がよく分かる。

●自分の功を誇らないから、逆に功が得られる。

●自ら謙虚であるから、何事も長く続くのだ。



実力が伴っていないのに、自分を大きく見せようとする人は多い。

たとえば、年が少しでも下だったりすると途端にマウンティングしてきたり、
見栄をはって話を盛って大きなことを言ったり、
有名な人と一緒に写真を撮ったり、
身内に有名人や金持ちがいると吹聴したり、
良く知らないことなのに知ってると言ってしまったり…。

虚栄心が強く、ムダにプライドが高い人だ。

逆にいうなら、自己肯定感の低い人。


「歳をとってやっちゃいけないのは、
『説教』と『昔話(思い出話)』と『自慢話』。」
と言ったのは、高田純次氏。

自慢話はカッコ悪いし、みっともない。


どんなときも…

自慢話をしない人でありたい。

           <感謝合掌 令和4年10月6日 頓首再拝>

【人生の五計】 - 伝統

2022/10/07 (Fri) 09:16:22


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.15)より

   (安岡正篤氏の心に響く言葉より… )


   南宋の見識ある官吏に朱新仲(しゅしんちゅう・名は翌)という人がおりました。

   時の宰相に憎まれ、辺地に流されたが、
   悠々と自然を愛し、その地の人々に深く慕われた。

   その彼が説いたものの一つに「人生の五計」という教訓があります。


   一「生計」われ、いかに生きるべきか。
    人々は一般に生計と言うと生活、暮らしの意味にとっておるようだが、
    彼はもっと大きな、いわば「天地の大徳」を受けて生きる人間の
    本質的な生き方に迫っているわけであります。

   二「身計」いかにわが身を人間として社会に対処させていくか、何をもって世に立つか、
    いかなる職業、価値観をもって生きていくかということ。

   三「家計」これも、単に経済的な意味ばかりでなく、
    家庭というものをいかに営んでいくか、夫婦関係、親子関係はどうあるべきか、
    一家をどう維持し ていくかということであります。

   四 「老計」いかに年をとるか、
    人間は誰も生きているからには老いる。
    ことに日本は今や世界一の高齢化社会になり、
    老いることの難しさをひしひしと感じる昨今である。

    老後の生活とか健康ぐらいしか考えないが、
    「老」たるものの価値を生かしていかなければ、
    ただ寂しく年をとるというに過ぎないのであります。

   五 「死計」われ、いかに死すべきや。
    これについて思案の最も発達しているのは、言うまでもなく仏教ですが、
    儒教においても興味ある思案と実践がある。

             <『人生の五計』PHP文庫>

        ・・・

五計について安岡正篤氏はこう語っている。

一「生計」

 私たちは多くの書を読む必要があると同時に、多くの人を知る必要がある。

 また、人間というものは、たまには膝を交えて話をした、一緒に一献
 酌(く)み交わした時に、何心(なにごころ)もなく言うた一語に、
 君はなかなかいいことを言うね、見直したよというようなことから、
 大いに話が進む。

 それがいわゆる人生の生というものである。



二「身計」

 いかに身を立つべきか、世に処すべきか、志を立てるべきかという身計。

 志のある者が、それぞれの場において、
 自ら信ずるところを実践するよりほかに世の中を良くする道はないのであります。

 伝教大師のいわゆる「一灯一隅を照らす」と言う、自ら一灯となって、
 自らの座しておる一隅を照らす。

 一灯行の実践をすることだ。



三「家計」

 私の親友に知事までやった人がいる。

 知事になる時に次官と喧嘩をして、辞表を叩きつけて、家へ帰ってきた。

 この奥さんといのは、財界の名士の娘さん。

 奥さんに「俺は今日、次官と喧嘩して辞表を叩きつけてきたよ」と言った途端に、

 その細君が「言わんこっちゃない。
 だから私はあんたは偏屈でいかんとしょっちゅう言ってるんだ」とやり返し、
 「これからどうするんです?」と言った。

 それで彼は気の短いやつなもんだから、手を出してしまった。

 この時ぐらい俺は結婚を誤ったと思ったことはないと、私に告白しておったが、
 とうとう本当に別れてしまった。

 この正反対の話がある。

 これは内大臣をした湯浅倉平という、非常に立派な人で、
 悠々迫らずというのか、非常に温厚な風格のある人でもありました。

 この人もやっぱり辞表を叩きつけてその座を降りた。

 玄関に出迎えた夫人に
 「わしは今日辞表を出してきたよ」と言って、さすがにむっつりして上がりかけたら、

 途端に奥さんが「ああ、よかったですね。
 これでまたお好きな釣りができますねぇ」と言われた。

 これに、その倉平先生、非常に感動して、「ああ、女房は立派な女だ」と思ったという。



四「老計」

 江戸前期の儒学者・伊藤仁斎(じんさい)先生は
 「老去佳境に入(い)る」という詩を作っています。

 年をとって佳境に入ると言うのです。

 人生の妙味、学問の妙味、こういうものは年をとるほど分かる。

 何と言っても若い時は、それこそ未熟です。

 この未熟ということは、それだけ味がない。

 まずい。

 甘味、渋み、苦みという味は、お茶でも
 三煎(せん)しなければ出てまいりません。

 だいたい甘みというのは子供でも野蛮人でも、みな好くもので、誰にでも分かる。

 ところが、それが進むと、この渋みというものになる。

 渋みになると、これはだいぶ進んだ味わいの境地で、なんとも言えん味が出てくるんだ。

 そして、第三煎で、初めてカフェインの苦みが出てくる。

 この苦みというやつが、味の最も高等なものなのであります。

 なんともいえない、至れる味わいなんです。

 これを淡という。

 淡というのは、もう甘いとか、渋いとか、
 そういうことを超越している至れる味のことである。

 それで初めて君子の交わりは、淡として水の如しということが分かる。

 人間にしても、やはり五十を過ぎないとこの味は出てまいりません。

 「夫婦もいい年になると、もうこれは茶飲み友達ですね」ということを人は言う。

 味もそっけもなくなったという意味ではない。

 本当に茶が飲めるというのは、
 よほど人生の体験を積んで、酸いも甘いも噛み分けた人間でなければできない。

 茶話ができるようになれば、人間は大したものであります。

 だから茶飲み友達というのは、これは至れるもんなんだ。

 苦楽を共にしてきて、夫婦がいい年齢になって、
 しみじみと人生の理法を、道理を話し合えるというのが茶飲み友達。

 これはやっぱり老境に至らんと駄目であります。



五「死計」

 いかに死すべきかという計りごとであります。

 刀折れ矢尽きて死んでしまうというのが、最も情けない死に方であります。

 いかに死すべきかは、いかに生くべきかと同じことであります。



この中で老計までの四計はわかるが、死計ということはあまり聞かない。

だが実は、この死計が最も大事なのだ。

何故なら、世に出ずとも
しあわせな人はいるし、生涯に結婚しない人も多くいるが、

人生において等しく、
全ての人が経験することは、
「人は生まれたら、いつかは必ず死ぬ」ことだからだ。

毎朝、我々は目が覚めることが当然だと思っている。

しかし、夜熟睡しているうちに、誰かに息を止められたら、
文句も言えないし、翌朝の目覚めもない。

人は、「毎夜寝るごとに一度死んで、朝また生き返る」とも言われる。

もし、明日の朝に目覚めないと思ったら、
ほとんどの人は、この世はやり残したことだらけだったことに気づくだろう。



そんなとき、高杉晋作の辞世の句が思い浮かぶ。

面白き事もなき世をおもしろく(高杉晋作)

住みなすものはこころなりけり(野村望東尼)


明日、死ぬかもしれない儚(はかな)い浮世。

だからこそ、面白く、おかしく、そして
充実して生きなければあまりにも、もったいない。


すべて、自らの…

心ひとつの置きどころで決まる。

           <感謝合掌 令和4年10月7日 頓首再拝>

般若波羅蜜多を行ずる - 伝統

2022/10/10 (Mon) 09:51:18


    *「光明道中記」(10月10日《般若波羅蜜多を行ずる日》)より

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、
すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、
斯くして精神統一を得て一切に煩わされることなく
自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。
神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して
蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の毘盧舎那身(びるしゃなしん)として
観ずるのであるから、般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを同時に行なうものである。

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 令和4年10月10日 頓首再拝>

精進堅固 - 伝統

2022/10/11 (Tue) 09:05:22


    *「光明道中記」(10月11日《精進堅固の日》)より

【悟りの中間過程にある時は、信念を以て怠らず進め。
                    (『生命の實相』第六巻)】

波羅蜜多(神格の内流による自覚)を得る方法に尚三つある。

尸(し)羅波羅蜜多(持戒波羅蜜多)、せん提波羅蜜多(忍辱波羅蜜多)、
毘利耶(びりや)羅蜜多(精進波羅蜜多)の三波羅蜜多がそれである。
これはいずれも「良心として顕れる神格の内流」に関係している。

神格の内流の愛行面が「布施」であり、
神格の内流の悟道面が般若と禅那(換言すれば智慧と静慮)とである。
そして神格の内流の道徳面又は良心面が持戒、忍辱、精進である。

神格(仏性)そのものは一つであって不可分であるけれども、
それに波長を合わせる方面から言うと、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の六つを立てて六羅蜜多としたのが
仏教である。

生長の家では忍辱の方面はあまり言わぬ。
如何なる不遇、不幸、逆境、侮辱に対しても克(よ)く耐え忍ぶことによって
仏性を開顕せんとする忍辱に代って感謝を強調したのである。

無理に「怺(こら)える」のでは和解が出来ていないと説かれている。
感謝が出来たとき「怺(こら)える」ことが要らないので
辱(はずかし)めが消えるのである。

           <感謝合掌 令和4年10月11日 頓首再拝>

【愚痴は霊的な汚れになる】 - 伝統

2022/10/12 (Wed) 07:37:26


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2022.10.10)より
            ~光の加護が得られなくなる霊的な汚れとは?

心を汚してしまうもののなかに愚痴というものがあります。

愚痴は自身の心を汚すとともに、
聞いている他人の心をも汚してしまう性質があるのです。

どうして人は愚痴を言うのかというと、そこには愛の不足を感じているからです。

サラリーマンであれば、自分がこれだけ会社に尽くしているのに、
会社はそれほど自分を評価してくれないとか、
理解してくれないという思いがあるでしょう。

主婦の方であれば、ご自身がこれだけ家事や育児を頑張っているのに、
夫は理解してくれないとか、
それほど愛してくれいていないという思いがあったりします。

いずれにしても、そこには愛の不足を感じる思いがあります。

自分が尽くしたほどには、相手は自分の事を愛してくれないと感じるから、
そこに愚痴が生じてきます。

そして不幸な自分というのを、他人から認めてもらい、可哀そうだと
愛情を得たいので愚痴が出てきます。

これだけ自分はやったのに、
不幸な境遇にあると、同情してもらいたい思いがあります

しかしそこには、因果の理法を見失った哀れさもあるのです。


お釈迦様は、不幸の原因は、
過去に自分が行った行為や思いの結果だと述べています。

自分の今置かれている環境は、
過去に蒔いた種を刈り取っているに過ぎないと説いているのです。

ですので、今の境遇というのは、誰のせいでもなく、
自分自身の過去の思いと行いの結果だという事です。

他人や環境、社会のせいではなく、
自分自身が原因で今の状況が出来ているのです。

愚痴を言う人というのは、
どうしても他人のせいや環境のせい、政治のせいで
自分は報われず、不幸な境遇に置かれていると考えます。

自分が原因でそうなったと考えれば、愚痴は出る隙はありません。

何かしら他人や周りのせいだという思いがあるから、愚痴も出てきます。

しかし、愚痴というのは、自分の心を汚してしまうとともに、
聞いている人の心をも汚してしまう恐れがあるのです。

本人は愚痴を言ってスッキリするのでしょうが、
聞かされた方は、ゴミを置いていかれたようなものなのです。

誰でも他人が来てゴミを置いていったら嫌でしょう。

そのように愚痴を言って帰っていく人というのは、
自分のゴミをわざわざ他人の敷地の中に捨てに来るようなものです。

それれ自分はゴミが減ってスッキリしたと思うかもしれませんが、
他人にごみを押し付けているようなものなのです。

そのため愚痴というのは、
自身の霊性を汚すとともに、他人の心も汚してしまう行為となります。

そうなると光の世界から、守護霊さまなどの加護の光が降りそそごうとしても、
心の曇りによってそれを防いでしまう事になるのです。

心の汚れというのは、霊的に光を防いでしまう曇りとなってしまうので、
加護の光も遠ざかってしまいます

ですので、愚痴の心を抑えて、
自分の中に反省する部分を見つけ、改めていこうとするのが、
人生を好転させるうえで大切です。

愚痴が出そうになったら、
自分が今、ゴミを吐き出そうとしていると思いとどまるべきです。

そうして綺麗な心となって、加護の光を得られる自分となっていく事です。

https://www.spacebrothers.jp/2022/10/blog-post_10.html

           <感謝合掌 令和4年10月12日 頓首再拝>

悪癖自然に去る - 伝統

2022/10/14 (Fri) 07:32:12

    *「光明道中記」(10月14日《悪癖自然に去る日》)より

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。
                  (『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。

持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、
人間は罪を犯すように出来ているのであるから、
成るべくその野性に逆行して抑えて行くようにしなければならぬ
と云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には
説かれないで、殺生、偸盗(ちゅうとう)邪淫、妄語、飲酒などの上に
不の字を付けて、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒などと
呼んでいるのを見ても、「何々を為すな」式に抑えておりことが
判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法の仏教は
甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、
破戒の僧や、破戒の信者が現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている
 ―― そう云う人生観でいて、罪を犯さぬように
戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに
自然に飲酒癖が治って行く実例が多いのは何故であるか。

それは「人間は罪を犯すように出来ていない。
善いことしか出来ないように出来ている」と、
人間観をグラリと転ぜしめる結果、
彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

       <感謝合掌 令和4年10月14日 頓首再拝>

何事にも精進で、魂を磨く - 伝統

2022/10/15 (Sat) 07:31:18


    *「光明道中記」(10月15日《点滴石を穿つ日》)より

【幾度も生れ更わった霊魂ほど、
 現世幽界を度重ねて浄化作用を営んでいる。(『生命の實相』第八巻)】

精進と云うことは何事を成就するにも必要なことである。
「精神一到何事か成らざらん」の諺もこれに当る。
国民総動員も之に当る。

点滴石を穿つ。天才は忍耐也。精神とは毎日たゆみなく行なうことである。

少しずつでも毎日たゆみなく聖典を読む、毎日たゆみなく神想観を行ずる、
毎日たゆみなく飯を食う、すべて是(これ)が精進である。

一度に力を出して置いて、あとはい眠っているのは精進ではない。
兎と亀との競走に於て、
のろい亀が勝利を得たのは、亀はたゆみなく歩んだからである。

仏教で六波羅蜜の一つに到彼岸法(はらみたほう)として、
精進が挙げられているのは、
悟りに到るにも毎日の精進が必要だからである。

精進のあるところ必ず魂が輝き出ずるのは、
毎日磨いている廊下が光沢を増してくるのと同じことである。

1年360回拭くので廊下が光るのであるから、
1週に360回拭いて置いて、あとは放って置いても廊下は光るか
と云うと、そう云う訳には行かぬ。

何故行かぬか、それは精進がないからである。

『生命の實相』も1回読んで意味が分かったと思って、
アトすっぽ抜かして置いては魂の進歩はない。

道場の講義も毎日聴くので効果があり、この日記も毎日読むから効果がある。
解ったと思って止める者は気の毒だ。

           <感謝合掌 令和4年10月15日 頓首再拝>

自己を深く掘り下げよ! - 伝統

2022/10/17 (Mon) 07:45:21


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月17日)より

ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。

自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。

あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも
土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。

自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。

目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。

ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。

人間もまたかくのごときものである。

表面にあらわれている力だけで満足する者は自己の内にただそれだけの値打ちしか
発見することができないが、今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。

何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。

今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。

なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。

           <感謝合掌 令和4年10月17日 頓首再拝>

【どんなときも笑顔を忘れない】 - 伝統

2022/10/18 (Tue) 07:53:52


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.10)より

   (藤木相元(そうげん)氏の心に響く言葉より…)

   お釈迦様は「この世は苦界である」と言っておられますが、
   人間というものは生まれた時から、
   さまざまな逆境・ピンチを背負って生きていくものなのです。

   それが人生というもので、
   それを取り払い、乗り越えるために みな奮闘努力をしているのです。


   人間というものは、逆境やピンチに陥って
   笑い顔を忘れたら病気になってしまいます。

   石川啄木という人は、
   その生涯で笑った写真が残されていません。

   そこに啄木の悲劇があったと思います。


   それに比べてチャップリンはユダヤ人で、
   虐げられた少年時代を送ったのですが、

   「言葉は30%くらいしか人を動かすことができないが、
    笑うことは70%くらいの人を納得させることができる」

   という言葉を残しました。

   私は、戦後、松下幸之助さんに紹介されて、
   中村天風さんに会ったことがあります。

   京セラの創業者・稲盛和夫さんにしても、
   松下さんにしても、中村天風という人に師事した時期がありました。

   天風さんは満州浪人だったのですが、
   いろんな苦労をされて、ある時期からそれまでのすべてを捨てて、
   人生の生き様というものを辻説法で説き始めたのです。


   その天風さんが

   「笑い顔は万言に優るものである」

   と言っています。

   「いかに辻説法して、万の言葉を費やしても、やはり笑うことにはかなわない。
    しかもこれはインターナショナルなサインである」と言いました。


   逆境やピンチは常にありますが、
   どんな時にも笑いを忘れてはいけません。

   お腹の中から笑うことです。

   これは自分に対しても大きな力を与えるものです。


   観相学のなかに
   仰月口(きょうげつぐち)という口の形があります。

   口の両端が上向きに上がっている唇の形をした 口元のことで、
   これは人々に幸運を与えるとされ、
   女性に多くある口です。

   つまり微笑の口元なのです。

   この微笑を湛えた人に会うと心からほっとします。

   観相では、 口の大小で生活力、行動力を、
   厚薄では愛情を判別します。

   口は開いた時大きく、閉じた時は小さいのが良い相です。

       <『顔運一致(がんうんいっち)』角川学芸出版>

        ・・・

「笑顔」に関する名言は多くある…。


■『笑顔には、不思議と挫けそうな心を癒やし、
  新たな勇気と意欲をわき立たせる力がある。

  難しいことだが、つらい時ほど、
  笑顔を忘れないようにしよう。
  笑顔は心を癒す万能薬。』 ( 松下幸之助 )


■『誰にでも与えるものはある。
  笑顔を与える、笑いを与える。
  求める活動から与える活動へ転換をはかりたい。』
                (松下幸之助)


■『終始一貫、笑顔でとおすようにしてごらん。
  不運な人、体の弱い人は、
  ひとしお笑いに努力するんだ。』(中村天風)


■『笑顔でいれば好かれるし、
  怒(おこ)ってばかりいたら嫌われる。
  それだけなんだよ。
  笑顔で愛のある言葉をしゃべろうよ。』 ( 斎藤一人 )


■『笑顔は元手が要らない。
  しかも、利益は莫大。与えても減らず、
  与えられた者は豊かになる。
  一瞬間見せれば、その記憶は永久に続く。』
              ( デール・カーネギー )


■『楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ。』
            (ウィリアム・ジェームズ)


どんなときも笑顔を忘れない人でありたい。

       <感謝合掌 令和4年10月18日 頓首再拝>

【ラジカル・アクセスタンス】 - 伝統

2022/10/20 (Thu) 06:55:54


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.1.15)より

   (小児精神科医、ハーバード大学医学部助教授、内田舞氏の心に響く言葉より…)

   withコロナ時代の中で、先の見通しが立たず、
   ままならない思いを抱えている人たちに、
   1つの考え方を紹介したいと思います。

   心理学用語で「ラジカル・アクセプタンス」というものがあります。

   これは、自分のコントロール下ではないことをあえて評価せずに、
   「起きたこと」として受容(アクセプト)して前に進むことを意味します。


   受容とは、あきらめたり、忘れたり、感情を抑制することではありません。

   起きた出来事をいいとか悪いといった評価を下さずに、
   「起きたことはもう変えられない」という前提のもと、
   そのまま受け入れていくことです。


   私が感動するほど、「ラジカル・アクセプタンス」を実践していたのが、
   フィギュアスケートの羽生結弦(ゆづる)選手です。

   彼は、2022年の冬季北京オリンピックで、金メダルを懸けた演技に挑みました。

   その演技の冒頭、リンクの氷にできた溝にはまり、ジャンプを失敗してしまいます。

   しかし、その後は最初の失敗の影響を
   微塵も感じさせない最高の演技を見せたのです。


   羽生選手は、「よりによって、なんでこの場面で」
   という悔しい思いもあったと思います。

   しかし、いったんそういう考えは置いておき、
   「残りの演技を美しく滑り切る」という、
   自分にできることに集中して、すばらしい演技を披露した。

   これはまさに、「ラジカル・アクセプタンス」の実践例だと思います。


   自分のコントロールできないことはそのまま受け入れることで、
   「やるべきこと」に意識を向けることができたのです。

   コロナ禍の日常は私たち自身ではコントロールできないことだらけです。

   いつ自分が感染するかもわからないし、
   数カ月後の社会の状況もまったく予想できない。

   そんな中、自分のメンタルを守っていくためには、
   「ラジカル・アクセプタンス」を取り入れて、
   事実は事実として、そのまま受け入れていくことが大切です。


   たとえ、事実を変えたいと思うようなときでも、その事実を受け止めることで、
   そのなかで自分がコントロールできることは何なのかが明瞭になり、
   希望が見えたり、行動に移せたりすることもあるのです。

   自分の行動や考え方で意味づけを変えられる出来事に対しては「再評価」、

   自分のコントロール下にない出来事に関しては「ラジカル・アクセプタンス」。

   これらを活用することで、
   これからの先行きの見えない時代でも、
   自分の心を守っていってほしいと思います。

           <『天才たちの未来予測図』マガジンハウス新書>

             ・・・

お釈迦様は、「思い通りにならない」ことを「苦」と言った。

小林正観さんは、苦に対しては、「思い」を持たないこと、だという。

思いを持たないとは…

『目の前で次々と起きる一般的に不幸だといわれている現象に対しても、
 「ああ、そうなりましたか」と単なる日常の1ページとして、
 淡々として受け入れていくということです。

 病気や事故、愛する人との別れといった、
 思いがけず自分の身に起こる出来事を、人生の一部として受け入れていく。

 「何でこんなことが起こったのだろう」という「思い」を持たない。

 目の前で起こるすべての現象を、
 「ああ、そうなりましたか」と受け入れていく、それだけです。』
                 (努力ゼロの幸福論/大和書房)より


また、小林正観さんは「幸も不幸もない」という。

たとえば、新車を柱にぶつけてしまったとき、
「なんてツイてないんだ(不幸だ)」と思う人もいれば、
「人にぶつけなくてホントによかった、ツイてる(幸せだ)」
と思う人もいるからだ。

柱にぶつけてしまったという事実は「幸でも不幸でもない」ということだ。


それが、まさに「ラジカル・アクセプタンス」。

自分のコントロール下ではないことをあえて評価せずに…

「起きたこと」として受容(アクセプト)して前に進むことができる人でありたい。

       <感謝合掌 令和4年10月20日 頓首再拝>

真理を行ずる - 伝統

2022/10/24 (Mon) 07:21:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月24日)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
 ―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。

嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、
あれほど真理を知っているはずの人が、感謝しなければならぬ人をさえ
憎むようになるのである。

           <感謝合掌 令和4年10月24日 頓首再拝>

【年齢は単なる数字】 - 伝統

2022/10/28 (Fri) 07:14:14


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.13)より

   (杉山大輔氏の心に響く言葉より…)

   《年齢は単なる数字 チャレンジとは関係ありません》

   何かにチャレンジする時に躊躇する言い訳として、
   年齢や若い時にやればよかったというのがあります。

   でも年齢は単なる数字です。

   年をとってもチャレンジしている人はチャレンジしているし、

   若いからといって積極的にチャレンジしているか
   というとそうでもありません。


   精神年齢は、日頃の生活の仕方や意識の持ち方に現れます。

   たとえば、なぜ日本のニュースは
   名前の後に年齢をカッコで出すのかよくわかりません。

   人に年齢を聞くのは失礼というマナーがあるのに、
   なぜ名前の横に年齢が必要なのでしょうか?


   名前の横に年齢を入れるのは
   海外の雑誌や情報で見たことがありません。

   よくハリウッドの俳優や女優 が来日した際に、
   ニュースで年齢を見て、はじめて
   ブラッド・ピットってもうこんな歳なのだと気づきます。

   それまで、彼がいくつかなんて考えませんよね?


   年齢よりも本質的な部分を見ましょう。


        <『運を動かせ』ディスカヴァー>

          ・・・

先日、「Z世代のまちづくり」というテーマの座談会を聞いた。

その中で印象的だったのは、
全員が「Z世代というくくりは嫌だ」と言っていたこと。

Z世代の中にも、
口ばかりだけで何も動かない人もいるし、
具体的に行動し挑戦し結果を出す人もいる。

だから、「Z世代を代表して意見を」と言われるとかなり違和感があるという。


これは、中高年でも、シニア世代というくくりでも同じことだ。

いくつになっても勉強し、行動し、チャレンジする人もいれば、

まったくの隠居状態になってしまい、
新たな勉強もせず、時代についていけない人もいる。



「ディズニーの成功を支えている最も重要な要素は、
 遊び心と好奇心だ。

 遊び心とは、笑うことを愛する、というアピールをする気持ち。

 好奇心とは、常に人間の心にあって、
 想像力によって刺激されて生まれたものだ」

           (ウォルト・ディズニー)



定年をとうに過ぎた年齢なのに若々しい感性を持っている人がいる。

反対に、実年齢は若いのに、すでに老人のような人もいる。


その違いは、「好奇心」と「遊び心」の有無だ。

「好奇心」と「遊び心」をなくしたとき、人は老いる。


遊び心のある人は、いくつになっても、
ふざけたり、無邪気に大騒ぎしたり、はしゃいだり、大笑いしたりする。

そして、調子に乗り過ぎて怒られたりする。

茶目っ気があって、時に子供っぽくて、愛嬌のある人だ。

つまり、可愛げのある人。


「年齢は単なる数字」

いくつになっても、「好奇心」と「遊び心」を失わない人でありたい。

        <感謝合掌 令和4年10月27日 頓首再拝>

【だから、面白くしようよ!】。 - 伝統

2022/11/04 (Fri) 07:45:11


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.26)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   仕事ってさ。つまんないんだよ(笑)。

   オレは知ってるんだよ、仕事がどれぐらい、つまんないか。

   でも、ほっとくと、ますます、つまんなくなっちゃうだけなんだよな。

 
   だから、「面白くしようよ」っていう話なんだけど。


   結婚もそうかもわかんない。

   人生、何でもそうかも知れないな。

   ほっといたら、とんでもないことになっちゃうぐらい、つまんない。

   だからこそ、「なんとかしようよ」っていうことなんだよね。



   冬場って、外に行くと寒いじゃん。

   「だから、なんとかしよう」って、
    セーターをつくったり、コートをつくったりしてな。

   寒いからこそ、あったかい鍋を食べたり、
   スキーをしたり、雪合戦したり、
   この時季にしかできない “あそび” を楽しむんだよね。


   夏は暑いから、「だから、なんとかしよう」って、

   海や川に泳ぎにいったりさ、
   浴衣を着て、花火を見に行ったり、
   この時季にしかできないことを楽しむんだよ。


   会社だって同じだよ。

   「仕事がつまんない」って、確かに、その通りなの。

   だけど、ほっといたら、会社に行くのが、
   ますます、つまらなくなるだけなんだよ。


   だから、考えるの。

   どうしたら自分の心は面白くなるだろうか、って。
   そうやって考えること自体が、オレは楽しいんだ。


   ただ、何を楽しいと思うかは、人それぞれ違うからな。
   自分の心が求めるものを探すことだよな。


   オレがみんなにしてあげられるのは、

   「一人さんはこうやって面白い人生、生きてるよ」っていう、

   楽しい、面白い生き方のサンプルを、見せることだけなんだ。

        <『斎藤一人 極楽人生』信長出版>

        ・・・

小林正観さんは、宇宙的にみると幸も不幸もない、という。

たとえば、病気になったとき、
「こんな時期に、病気になって最悪だ、ツイてない、不幸だ」と思う人もいる。

しかし、「この程度の病気で済んでよかった、りがたい、ツイている、幸せだ」
と思う人もいる。

同じ病気でも、捉え方、考え方次第で、幸にも不幸にもなる。


すべての事象に、このことは言える。

仕事にしても、それを楽しいと思う人もいれば、つまらないと思う人もいる。

仕事自体には、楽しいとかつまらないとかいう「色」はついていない。

そう思う「心」があるだけだ。


「おもしろき こともなき世を おもしろく」 

という高杉晋作の有名な歌がある。

「住みなすものは 心なりけり」

という、下の句は野村望東尼が付け加えたものとされている。

おもしろくもないこの世の中を、面白くできるかどうかは、自分の心次第だ、
という意味。


面白がれる人は、どんなつまらない場所(本当はつまらない場所というのはないのだが)
に行っても、そこで面白がれるし、楽しめる。

そして、大事なのは、
人に「もっと面白がろうよ」とか「もっと楽しまなきゃ」と
言ってはいけないということ。

言葉でいうのではなく、その人がお手本になって、見せることが大事だ。


あの人は、心の底から人生を楽しんでる、そして…

面白がって生きてる人だなぁ、と言われる人でありたい。

        <感謝合掌 令和4年11月4日 頓首再拝>

【相手の気持ちをくみとって、共感する】 - 伝統

2022/11/06 (Sun) 07:05:08


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.24)より

   (齋藤孝氏の心に響く言葉より…)

   相手が否定的な感情を持っていて、反論してきそうなときでも、
   相手をたちまちおとなしくさせて、自分に好意を持たせてしまう
   魔法の言葉があるとしたら、みなさんはぜひ知りたいと思いませんか。

   カーネギーはその言葉を教えています。

   「あなたがそう思うのは、もっともです。
    もし私があなただったら、やはり、そう思うでしょう」


   どんなに意地悪な人でも、
   最初にこんなふうに言われると、おとなしくなる、
   と力ーネギーは言っています。

   なぜなら

   「我々が交渉を持つ相手の四分の三は皆、同情に飢えている。
    それを与えてやるのだ。好かれることはうけあい」

   だからです。

   この場合の「同情」は「共感」と置き換えてもいいでしょう。

   相手の考えや希望にちゃんと共感してあげると、相手の悪い感情が消滅して、
   こちらの言うことを聞いてやろうという気になるのです。


   カーネギーがラジオ出演していたとき、
   リスナーから抗議を受ける誤りをおかしてしまいました。

   『若草物語』の作者オルコットについて間違った情報を流してしまったのです。

   なかでもある婦人から寄せられた手紙は
   ひじょうにエキセントリックで、礼を失したものでした。

   カーネギーは彼女に反論の返信を書こう としましたが、

   「それはどんな馬鹿者にもできる。馬鹿者はたいていそうするものだ」と

   気がついて、婦人の敵意を好意に変えてみようと決心しました。

   カーネギーは彼女に直接、電話をかけることにしたのですが、
   その前に自分自身にこう言い聞かせます。


   「もし私が彼女だったら、やはり彼女と同じように感じたに違いない」

   そして懇切丁寧な電話を女性にかけます。
 
   まず自分にわざわざ手紙をくれたお礼を述べ、
    次に自分のミスを謝って、最後に彼女の立場に共感を示したのです。

   するとあんなに怒っていた相手も
   カーネギーに詫(わ)び、カーネギーの立場に共感してくれました。


   カーネギーはこう言っています。

   「相手をやっつけるよりも、相手に好かれるほうが、よほど愉快である」

   反論するより、相手に共感したほうがはるかに得が多いのです。


   アーサー・ゲイツという教育心理学の博士は、
   他者に共感することが大事だと説いています。

   「人間は一般に、同情をほしがる。
    子供は傷口を見せたがる。
    時には同情を求めたいばかりに、自分から傷をつけることさえある。
    大人も同様だ」

   「不幸な自分に対して自己憐憫(れんびん)を感じたい気持ちは、
    程度の差こそあれ、誰にでもあるのだ」

   同情して注目してもらいたいために、
   「こんなにひどいんだよ」と話すのはよくあることです。


   20代の人の自慢に多いのは
   「徹夜で資料をまとめた」とか
   「忙しくて3時間しか寝てないんだ」というものです。

   「だから何なんだ」という話ですが、
   言ったほうは何かしら同情してくれとか、パフォーマンスが悪くても勘弁してくれ、
   という意味あいをこめています。

   そこは相手の気持ちをくみとって、共感してあげることです。

   ただし、“こんなにひどいんだよ”と
   自慢を言うのは子どもっぽいふるまいだと覚えておきましょう。


   私の周りにいる有能な人たちは、誰ひとり「忙しい」ということを言いません。

   忙しくても、それを言って 同情を買うというメンタリティがないのだ
   と思います。

   しかしふつうはなかなかそこまで有能になれませんから、
   少なくとも自分はそういうことで同情を求めないよう注意しつつ、
   周囲に「こんなにひどいんだよ」と同情を求めている人がいたら、
   「たいへんですね」と共感してあげましょう。

       <『齋藤孝が読む カーネギー「人を動かす」』創元社>

          ・・・

心理学(ゲシュタルト療法)には、チェアワークという椅子のワークがある。

これは「エンプティチェア」とも言われるが、
椅子を2つ用意し、自分が片方の椅子に座ったら、その前に誰も座っていない空の椅子を置く。

自分が葛藤(かっとう)を抱えている相手、
たとえば親とか夫(妻)が空の椅子に座っていると思って、
相手にずっと言いたかった、怒りや、くやしさ、辛かったことを話す。

今までずっと抱え込んで言えなかったことも、空の椅子に向かってなら言える。

思う存分吐き出した後、反対側の空の椅子に移動し、
今度は、相手(親や夫)の気持ちになって、今言われたことに対しての話をする。


それを何往復かするうちに、
ネガティブな気持ちもあらいざらい吐き出すことになり、すっきりする。

また、相手の立場も分かるようになる、

という技法だ。


本当に相手の立場になってみると、

「私があなただったら、あなたと同じように感じたと思う」

という言葉が自然に出てくる。

相手をやっつけても、恨(うら)みが残るだけだ。

また、どんなにこちらが正しいことを言ったとしても、向こうは納得はしないものだ。

共感することが、如何に大事か、ということ。


また、「(自分は)こんなに大変なんだ」「(私は)今、ホントに忙しいんだ」という、
ひと言も、同情や共感を求めて発した言葉。

それはつまり、同情を引くような、子どもっぽい振る舞いだということ。


相手をやっつけても何の得にもならない。

相手の気持ちをくみとって、

共感できる人でありたい。

            <感謝合掌 令和4年11月6日 頓首再拝>

仕事に愛をそそぐ日 - 伝統

2022/11/08 (Tue) 07:27:20


          *「光明道中記」(11月8日)より

【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。(『生命の實相』第四巻)】


天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。

「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、そのキリスト教国自身が
「我」で領土に垣を張り廻らしていて這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。

          <感謝合掌 令和4年11月8日 頓首再拝>

【驚きと感動が知的好奇心を深める】 - 伝統

2022/11/09 (Wed) 07:02:21


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.28)より

   (植西聰(あきら)氏の心に響く言葉より…)

   《「驚く」「感動する」ということが、
    「智」というものを愛し求める者の 原動力になる。

    「智」を求めること、 つまり「哲学」の始まりは、ここにある。》
 
                      (プラトン・紀元前5~4世紀/古代ギリシャ)



   知的好奇心というものは、

   「なんてすばらしいんだろう」と感動したり、

   「これは何なのだろう」と驚いたりすることを

   きっかけにして始まり、また、深まっていきます。


   たとえば、ある人は、
   空に虹がかかっているのを見て、「なんてすばらしいんだろう」と感動しました。

   そして、「どうして虹ができるんだろう」と
   不思議に思い、気象に関する勉強を始めたのです。

   そうして勉強していくうちに、気象のことが
   どんどん面白く感じられてくるようになりました。

   そして、気象の勉強をすることが生きがいになり、
   やがて、気象予報士の資格も取ったといいます。


   この事例のように、
   知的好奇心を深めていくということは、
   その人にとって生きがいや、生きる喜びになっていきます。

   では、どうすればそんな知的好奇心を持てるのかと言うと、
   プラトンが指摘 しているように、
   日常生活の中で「驚く」「感動する」ということを経験することです。


   何を見ても、何を聞いても関心を持たず、
   無感動でいる人は、知的好奇心を持つきっかけを作ることができません。

   多くのことに感動し、知的好奇心を深めていくことが、
   人生を楽しいものにしていくのです。

   《驚きと感動が知的好奇心を深める》

        <『人生を動かす哲学者の言葉』永岡書店>
       
         ・・・

行徳哲男師は「驚くこと」についてこう述べている。


『「武蔵野」を書いた国木田独歩の短編小説に、「牛肉と馬鈴薯」という作品がある。

 その中で主人公が一番の願い事としていること、それは政治家になることでもない。
 事業家になることでもなければ、哲学者になることでもない。

 もしこの願いさえ叶えられるならば、他は何もいらないと言っているもの。

 それは、どんなことにでも「ハッ!」と出来る人間になることである。』


子供の頃は、さまざまな事に「ハッ!」としたり、感動したりした。

それが大人になるにつれ、「ハッ!」とするという「驚愕(きょうがく)」や、
感動することが少なくなってしまう。


驚愕や、感動が多い人は、子供のような感性を失っていない人だ。

いつも、ワクワクしたり、ドキドキして、キラキラと輝いている。

そして、気づき多い人であり、一緒にいると楽しい人。

食事を共にしたり、旅に一緒に行くならこういう人がいい。


齋藤孝氏は「かつて向上心を持っていて、
いまは向上心がなくなった人というのは、
“知的好奇心の矢”が飛び終わった人である。」
という。

つまり、「この人はもう終わったな」という情熱のなくなった人。


驚きと感動を忘れず…

知的好奇心を深め続ける人でありたい。

       <感謝合掌 令和4年11月9日 頓首再拝>

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ - 伝統

2022/11/10 (Thu) 07:16:08


          *「光明道中記」(11月10日)より
           ~人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                        (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。

道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、
「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ肉体の病気よりも
人は自分の心が他(ひと)を咎(とが)めたくなる心病に
罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。

その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

          <感謝合掌 令和4年11月10日 頓首再拝>

【本物のおとなとは】 - 伝統

2022/11/13 (Sun) 07:48:15


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.31)より

   (外山滋比古(とやましげひこ)氏の心に響く言葉より…)

   自分のことは わからない。

   ひとのこともわからない。

   わずかの常識で生きていれば、年をとる前に老化する怖れは小さくない。

   大きなこどもは一足飛びに、若い老人になる。
   うっかりすると、寝たきりになる心配もある。


   人は一日にしてならず。
   大人は学校では育たない。

   生きる苦労で大人になれる。
   その苦労が、きらわれものときている。

   大人たること、まことに難しい。



   大人であることが、よい、のではない。

   大人は、天真爛漫の心を失っている。

   ずるいことを考える。
   うまく立ちまわることを考える。
   本心を隠して、うまく世渡りをするのである。


   しかし、バカ正直である幼稚さは卒業している。

   競争していても、ケンカなどしない。
   仲よくやっていくように偽装する。

   本当のことを言っては角が立つなら、平気で、ウソを言う。


   喜怒哀楽を正直に面に出すのは未熟なのである。

   ケンカよりダマした方がいい、という危険なことも考える。

   ポーカー・フェイス、何を考えているのか、わからないのが、
   りっぱな大人なのである。


   学歴社会は、大きなこどもの天下である。

   青くさい議論はできるが、うまい商売はできない。

   つとめ人は大きなこどもでもつとまるが、
   客商売は、大人でないと、つぶれてしまう。

   うまく大人になることを、社会も個人も、
   もっと真剣になって考える必要がある。

   大人の価値を認めるのは進んだ社会である。

   知識と理屈で生きていくのがエリートであると考えるのは、
   すこし、おくれている。


   英語に sophisticate(ソフィスティケイト) という ことば がある。

   ちょっと、わかりにくいことばである。
   辞書を見ると、二つの意味が直訳してある。

   形容詞形の sophistical(ソフィスティカル)は、

   1(単純でなくする) (良い意味で)(人、趣味などが)
     洗練されている。高度化する。

   2.(悪い意味で)(人、態度など)世間慣れしている。わるずれしている。

   とある。


   相反するニュアンスの二つの意味をもっているところがおもしろい。

   大人は、ソフィスティケイト人間である。

   世間ずれしている。

   純粋ではない。

   と同時に、洗練されていて、野暮、幼稚ではない。


   この二つの意味を兼ねるのが“大人”である。

   ひとすじ縄ではいかないところがミソ。

   日本語にも、このソフィスティケイトに当ることばが生まれたところで、
   新しい大人が社会の中核的な存在になるのであろう。

         <『本物のおとな論』海竜社>

        ・・・

外山(とやま)氏は、「生活が大人をつくる」と言っている。

『これまでの人間は、知識を生活よりも高級なように考えていたが、
 機械が知識を駆使するようになると、考えなおさなくてはならない。

 知識によって仕事をすることに価値があったのは、
 知識を使って仕事をする機械が存在しなかったからである。

 人工知能があらわれた現代において、
 知識中心主義は反省しなくてはならない。

 これまで、半ば忘れていた“生活”に着目したい。

 これには当分機械は近づくこともできないだろう。

 知識を身につける学習は、記憶中心である。

 記憶には生活とのかかわりが希薄であるから
 どうしても、生活を軽んじることになる。

 大人にとっては致命的である。

 生活は、たとえて言えば、実験のようなものである。

 やってみなくてはわからない。

 うまくいくとも限らない。

 失敗がつきもの。

 試行錯誤である。

 ときには偶然の発見をもたらす
 セレンディピティだってないわけではない。

 セレンディピティは、
 実験から直接、生まれるものではなく
 生活の中から飛び出してくるのである。』



外山氏は、こどもの勉強は、すべて、模倣だという。

本に書いてあることを覚えるからだ。

真似のうまくないものは、
頭が悪い、能力が低いときめつけられて一生、損をする。

真似のうまいのが、よい点をとる。


そこへ現れたのが、コンピュータ―だ。

覚えること、真似することにかけては人間は足元にも及ばない。


生活とは、生活力のことだ。

生活力とは、生きていく上で必要な能力のこと。

多くは経済力、稼ぐ力についていうが、
他人に依存せず、心身ともに健康で生活できる能力のことでもある。

自律した大人であることの条件だ。


ソフィスティケイトとは、
洗練され、教養もあり、あか抜けていることだが、「粋」であることでもある。

哲学者の九鬼周造さんの『「いき」の構造』(岩波文庫)という本によると、

粋というのは、外国にはない日本独特の感覚で、
あか抜けしていて、はりがあって、色っぽい様だという。


本物のおとなを目指したい。

            <感謝合掌 令和4年11月13日 頓首再拝>

【朗(ほが)らかに生きる】 - 伝統

2022/11/15 (Tue) 07:18:06


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.6)より

   (精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…)

   人間というものは不思議なものだ。

   同じような出来事でも、
   ある人はそれを「喜ばしいこと」として受け取り、
   ある人はそれを「不幸なこと」として受け取る。

   客観的に見れば同じ事柄が、
   受け取る人の感性や精神状態によって よくも悪くもなってしまう。


   機械や算術ならば、プラスかマイナスかが自ずと決まってくるが、
   人間は百人いれば百通りの受け取り方があり、
   そこに不幸や幸福が見え隠れする。

   つまり不幸も幸福も感じ方次第なのである。

   どうせなら、なにがあっても深刻にならず、
   朗(ほが)らかな気分で日々の出来事を迎えたいものだと私も願っている。


   たとえば、私が名誉会長をしている日本精神病院協会や、
   会長をしているアルコール健康医学協会などの集まりで、
   会の運営方針や細かなことに関して、いやなことを耳にはさむことがある。

   一度なら聞こえないふりもできるが、
   何度も続けば、こちらの気分も悪くなってくる。

   ときには落ち込んだり、会長としての
   器を省みて自己嫌悪に陥ることもある。


   そんなときに、
   「これもまた、私が向上するいいチャンスだ」とか、
   「ありがたい意見を聞かせてもらった」
   などと思えれば、人生はなにが起こっても楽しく、
   ストレスも感じ ないでいられるだろう。

   実際にはそう思えるときは年に数えるほどしかないのだが。


   社会医学者のサナザロという人は、
   人が病気になっていくときのプロセスを次のような 5段階で表した。

   英語で表記するとすべての言葉の頭にDがつくので、
   これを「サナザロ の5Dの法則」と呼んでいる。

   1.不満を持つ(Dissatisfaction) ?

   2.不快に思う (Discomfort) ?

   3.病気になる (Disease)?

   4. 不能になる(Disable) ? 

   5.死 (Death)


   まず、なにかいやなことが起きると、
   それに対して不満を持ち、そういう状態に不快感を感じる。

   これがいわゆるストレスだ。

   ストレスは病気を引き起こし、
   病気になるとからだの機能が不自由になって、行動が不可能になり、
   その状態に甘んじていると、

   ついには からだの自由がなくなって、死にいたってしまうというものだ。

  <『いくつになっても「輝いている人」の共通点』祥伝社黄金文庫>

         ・・・

サナザロの5Dの反対を考えてみると、こうなる。

(1)不満や不平の反対は、感謝。

(2)不快の反対は、快や愉快、上機嫌。

(3)病気の反対は、健康。

(4)不能の反対は、可能。

(5)死の反対は、生であり、生きること。


すると…

(1)感謝
(2)上機嫌
(3)健康
(4)可能(楽勝・できる)
(5)(あざやかに・生き生きと)生きる


つまり、感謝の心を持ち、何事に対しても感謝する習慣をつけること。

すると、毎日気分がよくなり、上機嫌に過ごすことができる。

結果、健康になり、何事にも積極性が出て、やる気が充満してくる。

そして、可能性を信じ、チャレンジすることが苦ではなくなる。

そうなると、あざやかに、朗らかに生きることができる。


毎日を…

朗らかに生きることができる人でありたい。

        <感謝合掌 令和4年11月15日 頓首再拝>

【「知らない」という勇気】 - 伝統

2022/11/17 (Thu) 06:32:22


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.10)より

   (マーク・マイヤーズ氏の心に響く言葉より…)

   知ったかぶりをしない――。

   おそらく、これは一見やさしそうに見えて、
   身につけるのが最も難しい習慣の一つだろう。


   「なんでも知っている」という態度は幸運を遠ざける。

   なぜかというと、人の心が遠ざ かってしまうからだ。

   力になってくれる可能性のある人ですら、
   「なんでもわかっているのなら、 協力する必要はないだろう」
   ということになってしまう。


   つい偉そうな口をききそうになったり、人に説教したくなったり、
   あるいは人の話をさえぎって自分の話をしたくなったら、

   それをこらえて相手に質問するといい。

   ある知人は、人の話をさえぎって何か言いたくなったら、

   「それは面白い。で、それはどうして......?」と聞くことにしているそうだ。

   私は長い間、さまざまな新聞社や出版社で編集と執筆の仕事をしてきたが、
   その間に大勢の記者たちと知り合うことができた。

   彼らとつき合っているうちに気づいたのは、
   彼らの中でも一流の記者と呼ばれる人たちは、みな聞き上手だということだ。

   彼らはみな、取材する相手からいい言葉や新鮮な考えを引き出すために、
   どうやってうまく話を聞いたらいいかを自分で研究し、練習している。

   また、ある知人は、人の話を聞く時には、
   自分の口に指を当てるようにしているという。

   そうすることで、相手の話をさえぎらないようにしているのだ。


   なんでも知っている顔をしたがる人は、
   人の話を聞いてもそのまま終わりにすることができず、
   必ず最後は自分の話をして締めくくろうとする。

   だが、たとえそれがいい話だったとしても、
   そういう態度が人から喜ばれることはめったにない。

   というのは、そういう態度は、
   必ず「私の話のほうが面白い」と言おうとしているような印象を与え、
   相手から話をした喜びを奪ってしまうからだ。


   人が話した後に必ず自分の話をしたがる人、
   自分の話のほうが面白いと言わんばかりの人、
   いつも自分は正しいと言っているような人は、
   一緒にいても楽しくない。

   したがって、そういう人には誰も協力しようという気が起きない。

   人が話をする時には、その話に心から興味を持って聞いてあげることだ。

   そうすれば、なんらかの情報を漏らしてくれることもあるだろう。

   そういう時に漏らす情報こそ、
   あなたに機会をもたらし、幸運度をアップさせてくれる源泉となる。


   また、人間は誰でも、そのときの気分で
   たまに冗談を言ったり、人を笑わせたりすることがあるものだ。

   この事実がよく理解できれば、人から多少からかわれたくらいのことなら、
   一緒になって笑うことができるはずだ。

   ある友人は、人からからかわれた時には、
   たとえ本当は傷ついていても、自分が真っ先に笑うようにしているという。

   これはけっしてマゾヒズムではない。


   人が軽い冗談を言ってあなたをからかうのは、
   しばしばあなたに対する羨ましさの裏返しだったり、
   あなたと話すことがあまりに気楽なので、その心地よさのせいで、
   からかうのを悪いことと感じていないためだったりする。

   そういう時に攻撃されているように感じるなら、
   あなたは自分を偉い人のように考えすぎている。

           <『運をつかむ人 16の習慣』三笠書房>

        ・・・

「知らないことを知らない」というのは勇気がいる。

こんなことを知らないといったら、バカにされるのではないか、と。


逆に、知ったかぶって話をするのも問題だ。

特に、相手が専門家だったのを知らずに、
生半可な知識でとうとうとしゃべってしまうような時は恥ずかしい。

また、SNSなどでも、文章の論旨を読み間違え、
とんちんかんなことを平気で書いてくる人がいる。

結果、読解力のなさをさらけ出すことになってしまう。

知ったかぶりは、偉そうな自慢話と同じくらい恥ずかしい。


いずれにしても、相手の話を最後まで聞く
という傾聴の姿勢ができていないことが問題だ。

たとえば、人が話をしているのに、途中でさえぎって
自分が話をしてしまうなどは、相手の気分を害する最低な行為だ。

人の話を取って、自分が主役になろうとしている
「自分勝手な人」と思われても仕方がない。


人の話を聞くとき、口に手をあてるという方法があるという。

同時に、傾聴の姿勢には、
うなずき、相づち、驚きの表情、笑顔、があると相手は気持ちがいい。


「知らない」という勇気を持ち…

傾聴の姿勢を身につけたい。

            <感謝合掌 令和4年11月17日 頓首再拝>

味わい深い人になる日 - 伝統

2022/11/21 (Mon) 07:41:52


          *「光明道中記」(11月21日)より

【家族に礼を言うこころになれ。(『生命の實相』三巻)】

親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。

弟子が下手に音楽を奏するならば、
その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。

禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、竹を憎むからではなく竹を愛して
雪を払ってやるためである。

叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。

何事が起っても、淡々として空言のような顔をして
空嘯(そらうそぶ)いている人には深い味わいは感じられない。

味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。

じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、
味方のチームが優勝したといっては歓喜の乱舞をしたい思い、
病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・

現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、
その時、その時の、出て来ることに
真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。

併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。
文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。

          <感謝合掌 令和4年11月21日 頓首再拝>

一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日 - 伝統

2022/11/25 (Fri) 07:24:45


          *「光明道中記」(11月25日)より

【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
                  (『生命の實相』第四巻)】

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、
ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得るのだと思う。

然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、
事はなかなか成就するものではない。

神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。

功に誇る者が神智を失うのは、
山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。

功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。

若し神がいなかったら、また若し神が私を導いて下さらなかったら
今日の私はないであろう。

今日の私があるのは、
「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。

神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。

          <感謝合掌 令和4年11月25日 頓首再拝>

【知行合一とは】 - 伝統

2022/11/26 (Sat) 06:50:49


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.21)より

   (伊與田覺氏の心に響く言葉より…)

    知は行の始め、行は知の成るなり。

    聖学はただ一箇(いっこ)の功夫(こうふ)。

    知行は分かって両事と作(な)すべからず。

             (「伝収録」安岡正篤)



   〈知ることは行うことの始めであり、
    行うことは知ることの完成であって、
    それは一つの事である。

    聖人の学問はただ一つの工夫あるのみで、
    知ることと行うことを分けて二つの問題としないのである〉

   皆さんも陽明学を学ぶ、学ばないに関わらず、
   この問題は、いろいろと考えさせられるところであろうと思います。

   これを「知行合一(ちこうごういつ)」と言います。


   朱子学はどちらかというと「知先行後」と言って、
   知ることが先で、行うことが後だと主張します。

   ものを知らなければ、行うことにならないから、
   知ることが先だという考え方です。


   それに対して陽明学は、知るだけでは本当に知ったとは言えない。

   それは、行動に移してこそ、本当の知だと言います。

   実践の裏付けがあってこそ、初めてそれを知ったと言えるのである。

   「知行合一である」――これが陽明学の考え方です。


   朱子学も決して、行いというものを軽視しているわけではありません。

   しかし 「知先行後」というものの考え方からすると、
   「行」うためには先に「知」らなけれ ばなりません。

   それが陽明学では、「知」ると「行」うことは合一である。

   行動が伴わなければ、その知は単なる
   空空寂寂(くうくうじゃくじゃく)たるものである、と言うのです。


   したがって、平和なときには
   朱子学的な生き方が一般に受け入れられますが、
   混乱の時期には陽明学の「知行合一」の考え方が有効性を発揮します。

   徳川時代の学問の主流をなしたのは朱子学でしたが、
   朱子学だけでは幕末の行き詰まった状況を打開することはできませんでした。

   そこで脚光を浴びたのが陽明学です。

   吉田松陰、西郷南洲(隆盛)、山田方谷(ほうこく)などの優れた
   陽明学の徒が非常に大きな業績を残し、後世に影響を及ぼしました。

       <『いかにして人物となるか』致知出版社>

          ・・・

伊藤肇氏は、王陽明についてこう書いている。

『「天下のこと万変といえども、
 吾がこれに応ずるゆえんは、
 喜怒哀楽の四者を出でず」(王陽明)

 人生は千変万化、いろいろさまざまであるが、
 自分がこれらの問題をテキパキと処理できる理由は
 「人生のいかなる変化も、つきつめれば、喜怒哀楽の四つを出ないこと」を
 知っているからだ。

 よく考えてみれば、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむか、
 ということが人生のすべてである。

 世の中には、道徳というと
 「一切、喜怒哀楽を表面に出さない、感情などには動かされないことだ」などと
 頑(かたく)なに信じ込んでいる向きがあるが、
 これはとんでもない誤解である。

 人生とは、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむかということ…

 つまり「いかに生きるか」ということに
 「正しい自律」をたてること、「原理原則」をもつことである。

 そして、この「正しい自律」や「原理原則」
 これが「心性の学」であり「人間学」である。』

        (人間学/PHP文庫)より



せんじつめれば、政治も、経済も、経営も、すべては「情」で動く。

理屈としてはどんなに正しいことでも、嫌いなら、人はテコでも動かない。


好き嫌いという情で動き、「理屈」や「論理」では決して動かない。

つまり、喜怒哀楽が世の中を動かしているということだ。


理屈や論理は、「知」の世界であり、頭の領域だ。

行動とは情の世界。

「感動」の言葉の通り、感じて動くからだ。

頭でこねくりまわしているうちは、一歩も前に踏み出せない。


知行合一の人でありたい。

          <感謝合掌 令和4年11月26日 頓首再拝>

【おもしろくて、ありがたい】 - 伝統

2022/11/28 (Mon) 07:50:25


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.22)より

   (池波正太郎氏の心に響く言葉より…)

   睡眠は一種の「仮死」といってよいだろう。

   人びとは、毎夜に死んで、翌朝に生き返る。

   生きるためには前夜の死が必要というわけだ。


   何とおもしろいではないか。

   そして、生きものの営みとは、何と矛盾をふくんでいることだろう。

   生きるために食べ、眠り、食べつつ生きて、
   確実に、これは本当の死を迎える日へ近づいてゆく。

   おもしろくて、はかないことではある。


   それでいて人間の躰は、たとえ一椀の味噌汁を味わっただけで、
   生き甲斐を おぼえるようにできている。

   何と、ありがたいことだろう。

   ありがたくて、また、はかないことだ。

    (私の仕事/朝日文芸文庫 https://amzn.to/3TRjfdV)より

       <『おもしろくて、ありがたい』PHP文庫>

        ・・・

人は何で自分をみがくか。

それは、「人間は死ぬ...・・・・・」 という、
この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。

もう、そのことに尽きるといってもいい。

何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。

自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、
こればかりは神様でなきゃわからない。

そう思えばどんなことに対してもおのずから目の色が変わってくる。

そうなってくると、
自分のまわりのすべてのものが、
自分をみがくための 「みがき砂」だということがわかる。

逆にいえば、人間は死ぬんだということを
忘れている限り、その人の一生はいたずらに空転することになる。

仕事、金、時間、職場や家庭あるいは男と女のさまざまな人間関係、
それから衣食住のすべてについていえることは、

「人のみがき砂として役立たないものはない...............」 ということです。

その人に、それらの一つ一つを
みがき砂として生かそうという気持ちさえあればね。

(男の作法/新潮文庫 https://amzn.to/3OvbTMf)より



人は死を意識したときだけ、生について真剣に考える。

いつか死ぬ、ということを忘れている人間は、
生を鮮やかに生きることができない。

「酔生夢死」という、
ただ生きているだけのぼんやりした一生を終えることになる。



「めしを喰って、静かに息をついていたら、
 いつの間にか日が暮れて、気がついた時は墓場の中」(相田みつを)


森信三先生は、
「一日は、一生の縮図なり」といった。


すべてのできごとは自分の磨き砂…


今日ただいま、この一日を、目の色を変えて真剣に生き抜きたい。

・・・

<参照>

周囲に影響されない自分の明るい心を大切に
伊勢ー白山 道(2022-10-26 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/705bad1519928ce35f516dd1d3acb85d


「霊的な優しさ」が人生を決めます
伊勢ー白山 道(2022-11-20 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/42028473fdb843fd53c8cf0aba1ceea2

          <感謝合掌 令和4年11月28日 頓首再拝>

心、水の如く柔らかくなる日 - 伝統

2022/11/29 (Tue) 07:16:12


          *「光明道中記」(11月29日)より

【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。
                     (『百事如意』)】


生きているものは温い。

あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。

調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、
程よく温かいところに生命は大きく顕れる。

天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。

自然は《ひとり》高からんとする者を崩して
低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。
だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。

水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。

水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。

水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。

          <感謝合掌 令和4年11月29日 頓首再拝>

《気尚(けだか)く生きよう!》 - 伝統

2022/12/01 (Thu) 04:10:17


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より

もっともっと気尚(けだか)く生きよう。
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。

汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

            <感謝合掌 令和4年12月1日 頓首再拝>

【相手に関心を持つこと】 - 伝統

2022/12/02 (Fri) 07:45:45

       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.15)より

   (高野登氏の心に響く言葉より…)

   最近の日本社会のさまざまな現象を俯瞰したとき、
   なんだかとても子どもっぽくなっているように感じるのは、
   私だけでしょうか?

   耐える力が弱くなっている、
   人を思いやる力が弱くなっている、
   相手を受け止める力も弱くなっている、
   相手に関心を持つ力も弱くなっている、

   使う言葉も弱くなっている。

   本来であれば、いっぱしのおとなとして
   身についているはずのこうした力が
   弱くなっているように感じるのです。

   ひと言でいうならば、愛情の薄い社会になってしまっている......。

   とても品格どころの話ではありません。


   ではこうした現象を自分自身の問題として考えてみましょう。

   おとなの感性と品格を取り戻すために、
   最初に鍛えるべき力は何なのでしょうか?


   私は、それは、関心を持つ力だと思っています。

   相手に対して、周りの物事に対して、関心を持つ力です。

   マザー・テレサの言葉を借りるまでもなく、
   愛の反対語は、憎しみではなく、無関心です。

   すなわち、何事に対しても無関心になってしまったことが
   愛情の薄い社会になってきてしまっていることの原因のひとつだと考えます。

   当然、人を愛おしむ感情もまた弱まっています。


   人を愛することは相手を知ることから始まります。

   優しいという字は、人偏に 憂うと書きます。

   人を憂う感性もまた、
   相手を知ろうとすることから始まるのではないでしょうか。


   でも、私は、私たちの愛情そのものが減ってきているとは思いません。

   ただ、愛情に対する意識、それを表現する力が弱まっているだけです。

   つまり、私たちの中にはまだ、豊かな愛情が眠っているのです。


   では、自分の中にある愛情を目覚めさせるには、
   どうしたらいいのでしょうか ?

   その答えが、相手に関心を持つことです。


   この人は何を大切にしているのだろう。

   どんな人生を歩んできたのだろう。


   好きな食べ物は? 旅行は好き?

   どんな働き方がしたい?

   これからの夢は?


   関心を持つから、相手を知ろうとします。

   もっと関わりたいという思いが生まれます。

   相手に伝えたいことも出てきます。

   そして、相手の中で眠っている可能性に気づいたならば、
   それを引き出してあげたいと思うのです。


   優しさにあふれた豊かな社会を築くために、
   自分にできることは何だろうか?

   何事も他人事ではなく、自分事としてとらえるために、
   自分はどう変わらなくてはならないのだろうか?

   そうしたプレッシャーを自分自身に適切な形でかけていくために、
   言葉を変え、言葉を磨き上げることが大切です。

   そして、このように、私たち自身が自分を磨き続けることが、
   社会を変えていくということではないでしょうか。

          <『品格を磨く』ディスカヴァー>

        ・・・

第32代アメリカ大統領、セオドア・ルーズ〇ルトは
「相手の関心事を見抜く達人」といわれた。

『ルーズ〇ルトは、誰か訪ねてくる人があるとわかれば、
 その人の特に好きそうな問題について、
 前の晩に遅くまでかかかって研究しておいたのである。

 ルーズべルトも、他の指導者たちと同じように、
 人の心をとらえる近道は、相手が最も深い関心を
 持っている問題を話題にすることだと知っていたのだ。」

 (デール・カーネギー『人を動かす』/hRドクターより引用)



対談やインタビューの名手といわれている人は、
対談前に必ず対談相手の関心事について調べておく。

相手の直近の興味や関心事だ。

つまり、「相手の関心事に関心を持つ」ということ。


事前に下調べしていけば、
「あなたに関心を持っています」ということは自然に伝わる。

それは相手への「共感」でもある。


昨今は、SNSで発信している人も多い。

SNSでは、その人が、最近どんな行動をとっているのか、
つまり、どこへ出かけたか、何を食べたのか、誰と会ったか、
どんな会合やセミナーに出たか、という興味や関心事が簡単にわかる。


おとなの感性と品格を取り戻すために…

「関心を持つ力」を身につけたい。

       <感謝合掌 令和4年12月2日 頓首再拝>

慢心が執着、不満へとつながる - 伝統

2022/12/05 (Mon) 10:03:30


           *「光明道中記」(12月5日《常住微笑の日》)より

 【悲しい時ほど笑わなければならぬ。笑いぬくとき悲しさは征服される。
                       (『生命の實相』第四巻)】

仏教では「人身得ること難し」と説かれている。

何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、
また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、
前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、
後の天上は楽のみの世界であるからである。

苦しみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。
楽のみの世界では楽に執着するから結局はその楽は苦に変じて天上から墜落するのである。
「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。

吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、
自由自在の世界が其処に実現して来ると、
「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。

その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして
慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、
「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の
悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、

今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も
糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。

       <感謝合掌 令和4年12月5日 頓首再拝>

不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ - 伝統

2022/12/06 (Tue) 07:29:59


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈(はげ)しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと誤解せられることあり。

心のうちにでも言葉に現わしても、行ないにあらわしても、
人を傷つけてはならない。

誠実であれ。虚偽であってはならない。
素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。

値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いずれにせよなんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、
怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みととは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

       <感謝合掌 令和4年12月6日 頓首再拝>

【曖昧さを受け入れる】 - 伝統

2022/12/07 (Wed) 07:49:27


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.02)より

   (春日大社権宮司、岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…)

   日本の文化は、「みぎわ」の文化です。

   みぎわとは水際、つまり陸地でもなし、 水面でもなしという、
   水際すれすれのところに美しさを認めてきたのです。

   時刻でいうならば、日暮れどきの
   「黄昏(たそがれ/誰そ彼=日が沈み、人の見分けがつかない時分の意味)」や、

   夜明け前の
   「かわたれ(彼は誰=薄暗くて、彼は誰かはっきりわからない時分の意味)」を
   喜びます。

   暮れるでもなし、暮れないでもなし という時間を好むのです。


   また、食べ物でも、
   極端に甘いものや辛いものよりも甘辛いものを好みます。

   つまり、極端なものを嫌い、微妙な潮目を喜ぶのです。

   日本人は、極端なものを 「いみじきもの」と表現しました。



   『古事記』には、イザナギノミコト様が
 
   「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の
    阿波岐原(あわきはら)」という所で
   禊(みそぎ)をされる場面がありますが、
 
   そのとき、
   「上つ瀬は瀬速し(川上は流れが速い)、下つ瀬は瀬弱し(川下は流れが遅い)」と
   おっしゃって、中つ瀬にお入りになります。

   つまり極端なことを避け、中程をよしとされたというわけです。

   両方の均衡をとり、「ちょうど」の加減を大事にする。

   それが日本文化の特質の一つです。


   どちらか一方に片寄らず、中庸(ちゅうよう)を好むという特徴は
   いたるところに見られます。

   たとえば、日本の文化は、
   「雅(みやび)」と「鄙(ひなび)」の両方の文化をうまく取り入れています。

   「雅」は「宮び」が語源で、宮廷風の洗練された様子を表し、
   対する「鄙」は田 舎の風情をいいます。

   たとえば茶道では、足利将軍時代は、
   きらびやかな唐物(中国や韓国の舶来品) が珍重されていましたが、

   室町中期になると、「わび茶」の創始者とされる村田珠光(じゅこう)や、
   彼に続く 千利休の茶風が好まれるようになります。

   そして、茅葺(かやぶき)で粗い土壁の田舎風の茶室と
   真っ黒な楽茶碗でもてなす、鄙びた茶へと変貌を遂げます。

   しかし、同時に唐物も大切にされており、
   まさに「雅」と「鄙」が入り混じって
   完成したのが「ワビ」「サビ」のお茶なのです。


   宮中の女官さんの髪型「おすべらかし」も同じです。

   これは近世、女官が町娘の髪型である
   島田髷にあこがれて、宮中へ取り入れたものです。

   こんなふうに雅の世界では鄙にあこがれ、
   鄙の世界では雅にあこがれるというように、
   双方が交錯(こうさく)します。

   日本の文化は、異なる文化の妙を巧みに組み合わせた、
   多様性に富んだものなのです。

         <『神様にほめられる生き方』幻冬舎>

       ・・・

三谷幸喜氏が監督をつとめた
「ザ・マジックアワー」という映画がある。

マジックアワーとは、
日没後、太陽が沈み切っていながら、まだあたりに光が残っている
ほんのわずかな時間をさす映画用語だ。

映画では、誰にでもある人生でもっとも輝く瞬間を意味する。


まさに、黄昏(たそがれ)の時間だ。

日暮れどきの「たそがれ」も、
夜明け前の「かわたれ」も、
現在は街灯ができたため、都会ではその美しさを感じることはできない。

つまり現代では、「鄙(ひなび)」でしか味わうことができない。



「大人になるということは、
 曖昧(あいまい)さを受け入れる能力を持つということである」
                    (フロイト・精神分析学者)

白か黒かで、決着をつけなければ気が済まない人は子ども。

相手を屈服させるまで議論して勝ったとしても、遺恨(いこん)が残るだけ。



極端ではなく、中庸を愛(め)でる感性…

曖昧さを受け入れることができる大人でありたい。

            <感謝合掌 令和4年12月7日 頓首再拝> 

【物事は相対的、いちいちジャッジしない】 - 伝統

2022/12/08 (Thu) 07:37:20


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.04)より
        ~ 【老子哲学は「所詮、物事は相対的」】

   (精神科医、野村総一郎氏の心に響く言葉より…)

   「美しい、醜い」「正しい、正しくない」 「勉強ができる、できない」
   「地位が高い、低い」など、 どれも他人がいてはじめて成立する
   相対的な価値であって、たいしたことはない。

   なぜなら、状況が変わったり、 運気が変わったりすれば、
   あっさりと変化してしまうものだからだ。

   昔から聖人と呼ばれる人は、
   そのような世俗の価値観にとらわれて、 焦ったり、何かを企てたりせず、
   あえて「何もしない」という立場に身を置き、
   余計な言葉や概念を振り回したりしない。(老子)


   老子哲学のなかでも重要な概念の一つが
   「所詮、物事は相対的」というものです。

   相対的というのは、他との関係、比較において
   成り立っている様子をさします。


   たとえば、「Aさんは勉強もできて美人で人気もあるのに、それと比べて私は全然ダメ」
   といったように、自分の価値を他人との比較で決めてしまうということです。

   たしかに多くの人にとって
   「勉強ができること」「人気があること」「仕事ができること」
   「お金を持っていること」「社会的地位が高いこと」は、
   とかく「価値が高い」と思われがちです。

   しかし、所詮はすべて相対的で、一時的なもの。

   じつは、そんなに大騒ぎするほどのことではありません。


   ある町で「神童」と呼ばれていた人だって、
   東大やハーバード大という環境に行けば、
   落ちこぼれにだってなりかねないのです。

   美人という尺度にしたって、
   時代や流行によって変わってしまうもので、
   絶対的、永続的なものではありません。

   奈良時代、平安時代には
   下ぶくれのおちょぼ 口が美人の条件とされたのは有名な話ですし、

   化粧にしたって、顔を真っ白に塗りたくるのが美しい時代もあれば、
   歯を真っ黒にすることが推奨される時代だってあったわけです。


   そもそも、 「醜い」という概念は、
   世の中の人が「美」を「美」として認める ことから生まれています。

   たとえば、「にんじんは長い」と聞いても、
   「まあ、長細い形だけど・・・・・・」となんとなくピンときませんよね。

   でも、「にんじんはじゃがいもに比べて長い」と 言われると「たしかに」と感じる。

   「長短」も「善悪」も「高低」も、お互いの比較から明らかになる概念です。


   自分がどんな環境にいて、どんな人たちがまわりにいるかによって、
   評価、価値はコロコロと変わってしまうもの。

   「相対的に物事を見る」というのは、それくらい曖昧で、不確かなものです。

   だからこそ、あまり評価に一喜一憂しない。

   「いちいちジャッジしない」ということが大切なのです。

   言うなれば、これは「銅像の思考」。

   上野の西郷隆盛さんにしても、渋谷の駅前にいるハチ公にしても、
   まわりの環境やそこに集まる人たちは変わっていきますが、

   銅像は変わること なく、どっしりとその場に、ただ存在し続けています。


   引用した老子の言葉の後半には
   「聖人は無為でいる」という言葉が出てきます。

   「無為」という言葉をそのまま解釈すると
   「何もしない」ということですが、

   私なりに補足するなら
   「余計なことは何もせず、自然に振る舞う」
   ということだと思っています。

   たとえば、自分が人気者になりたいからといって、
   無理をしたり、 余計な行動を起こしたりするのは、まず間違いなく逆効果。

   そうい うときこそ
   「自然に、銅像のように・・・・・・」と言い聞かせてみてください。

   それこそが「無為」の境地。

   銅像のように、ただあるがままでいることが、結局かっこいいのです。

        <『人生に上下も勝ち負けもありません』文響社>

         ・・・

嫉妬も、不満も、グチも、すべては他人との比較から生まれる。

しかし、情報化社会はどんどん進み、
SNSなどで他人の情報は瞬時にわかるようになり、
比較することはますます増えている。

たとえば友人が、
「海外旅行に行って楽しんでいる」
「おいしそうな料理を食べている」
「たくさんの友達とワイワイしている」
「イベントに参加している」等々。


比較しない唯一の方法は、
ボーっとすることであり、力を抜いて生きること。

つまり、鈍(にぶ)くなることだ。


それは…

時に、間が抜けていたり、不器用だったり、
バカになれたり、茫洋(ぼうよう)としてつかみどころがなかったり、と

自分を飾ることをしない。

鋭(するど)すぎる人は、人から好かれない。

すぐに、人と比較して、イライラしたり、ピリピリしたりしてしまうからだ。


それは、「閑古錐(かんこすい)」という禅の言葉と同じ。

閑古錐とは、古くて先がまるくなり、使えなくなった錐(きり)のこと。

禅では、真の修行者のことを閑古錐という。

俗に「人間がまるくなる」などというが、
破天荒(はてんこう)だった人が
老境にさしかかり、穏やかな熟年になっていくことがある。

穏やかなのに迫力さえ感じさせる、閑古錐の円熟味。



他と比較をせず、評価に一喜一憂しない人…

閑古錐の円熟味をめざしたい。

            <感謝合掌 令和4年12月8日 頓首再拝> 

【自分自身をもっと磨く】 - 伝統

2022/12/10 (Sat) 07:13:54


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.5)より

   (致知出版社、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   日本のような、資源もない小さな国が、
   どうして世界の一流国の仲間入りができたのか。

   それは日本の母が偉かったからですよ。

   学歴があるとかお金があるとか関係なく、
   日本全国で、子を持った母はみんなこんな思いで子を育ててきたんです。

   だから、日本は今日まで豊かになることができたんです。


   母も学んで、我づくりをしていかないと、
   その子がいる環境をダメにしてしまう。

   学ばないと子どもを不幸にしてしまいます。


   母は子を産んだら母親になるのか。

   そうではありません。

   学ばないと母親にならないんです。

   父も同じですよ。


   学び続けて至善に止まる  そういう学びの大切さを、
   我々は縁のある人たちに少しでも
   教えていかなくてはいかなくてはいけません。

   『大学』にあるでしょう。

   大人になるためにはまず明徳を明らかにすることだ、と。

   そして民に親しむことだ、と。


   人間は学ぶことによって
   素晴らしい人格に磨かれていくし、発展し続ける。

   それを 縁ある人に教えていかなければいけませんよ、といっています。


   しかし、一回教えただけではダメなんです。

   自分自身も一回悟っただけでは何の意味もない。

   常に最高の状態、理想の状態にいくように、
   絶えず進化成長させていかなくてはいけないんです。

   そして至善、善の極に止まるようにならなくてはいけない、
   と『大学』には書いてあります。


   自分と交わっていく人たちがよくなっていくような学びを、
   我々はしていかなけれ ばいけないと思うんですね。

   家庭も、会社も、集団も、国も、そこにどういう人がいるか。

   それがすべてです。

   そこにいる人が愚かだったら、その国も会社も家庭も崩壊していきます。

   そこにいる人が立派だったら、その国も会社も発展していくんですよ。


   だから、我々は人間学を学ばなければいけない。

   自分自身をもっともっと磨いてい かなくてはいけない。
   そのために学び続けないといけないということです。

          <『安岡正篤 心に残る言葉』致知出版社>

        ・・・

《すべての日常生活は“私”を磨くための砥石(といし)なのです》(小林正観)


日常生活とは、

ひとつは「家庭と家族」。

次は「仕事」。

そして、「他のすべての人間関係、交友関係」。

あるいは、「病気や事故やアクシデント」。

その一つひとつのできごとに対して、
イライラしない、不機嫌にならない、怒らないで、
ニコニコと笑顔でいられるかを問われている、と小林正観さんはいう。



また、ある時期、一世を風靡(ふうび)するような、
スポーツ選手や俳優や歌手、芸能人、
あるいは経営者やリーダーが出てくることがある。

しかし、マスコミに登場しない日はないほど
人々にもてはやされた人であっても、その人気が続かないことは多い。

それは、そこに学び続ける姿勢があるかどうかで決まる。

学び続ける人は謙虚で、驕(おご)りがない。

自分を過信し唯我独尊になった人は没落する。


いくつになっても、どんな状況におかれても…

自分自身を磨き続ける人でありたい。

            <感謝合掌 令和4年12月10日 頓首再拝> 

【目の前のことを淡々とこなす】 - 伝統

2022/12/11 (Sun) 08:14:23


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.6)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「自分探しをして三十年、どうしたら本当の自分が見つかるのでしょうか」と
   質問をする人がいます。


   私の答えは、 「今のあなたが本当の自分です」

   「今は主婦やOLをしているけれど、
    本当はもっとすごいことができるんじゃないか」

   「違う自分がいるんじゃないか」と思っているため、
   今与えられていることに対して本気になれません。

   全部が中途半端なので本当の自分に出会えない。


   「今の自分は本当の自分じゃない」と、今の自分を90%否定しています。

   自分探しをしている人は、探し続けても構いませんが、
   おそらく出会えないでしょう。

   私たちにできることは、
   本当の自分を探すことではなく、
   今、目の前のことを、一つひとつ淡々とやっていくこと。


   《「もっとすごい自分がいるはず」と自分探しをするより、
    目の前のことをこなしていくことが大事》

      <『「今」という生き方』廣済堂文庫>

       ・・・

自分探しとは、

「自分が活躍できる世界はどこだろう?」

「自分の天職(ふさわしい仕事)はなんだろう?」

「今やっていることが本当に一番やりたいことなんだろうか?」

「自分が生きるべき場所はどこなんだろう?」


SNSが発達すると、他人の生活を垣間見るようになる。

すると、今の自分でいいのだろうか?

もっと他に楽しいことや、自分の本当にやるべきことがあるのではないか、
と迷うようになる。


他人と比較すると、悩みが始まる。

目のまえのことに集中していない状態だ。


「自分探しの人生」の反対の生き方は、
「頼まれごとの人生」や「おまかせの人生」。

自分を探すのではなく、他人の喜ぶことをするという生き方。


それが…

自分の好き嫌いではなく、
世の中の流れとしてやる羽目になったらやっていくこと。

何かを頼まれたら「はい、わかりました」とやっていくこと。


小林正観さんは、
「何が起こるかわからない」という状態を面白がっていくと、
人生がさらに面白い方向に流れていく、という。


頼まれごとや流れに従って…

目の前のことを淡々とこなし、

「何が起こるかわからない」という状態を面白がれる人でありたい。

         <感謝合掌 令和4年12月11日 頓首再拝> 

《商売主義を排す》 - 伝統

2022/12/12 (Mon) 09:50:21


       *「光明法語」(12月12日)より)

イエスはユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りのちかづいたとき、
イエルサレムの宮の境内に、牛、羊、鳩を売るもの、

両替する者などが坐っているのを見て縄の鞭をつくり、
羊をも牛をもみな宮より逐(お)い出し両替する者の金を散らし、
その台を倒し、鳩を売る者に

「これらの物を此処より取去れ、わが父の家を商売の家とすな」
と言った事が聖書に書かれている。

イエスは神を利用して儲けるところの商売主義に反対したのである。

神に対して商売的な功利主義で相対することは間違いである。

         <感謝合掌 令和4年12月12日 頓首再拝> 

《形式主義を排す》 - 伝統

2022/12/13 (Tue) 08:47:18


       *「光明法語」(12月13日)より)

イエスは暴力を用いなかったか、絶対に無抵抗主義であったかどうか
と云う問題についての議論の際引用せられるのが此の『縄の鞭』である。

イエスは形式主義者ではなかった。
『つるぎを執る者は剣に滅ぶ』といったイエスも剣のほかに
『縄の鞭』は使ったのである。

イエスは『審判(さば)く勿れ』と教えたが、
彼は激して形式主義のパリサイ人を審判いている。

また『審判(さばき)は子にゆだね給えり』とも言っているイエスは
生命主義者であり、生命の動く儘に自由に振舞ったのである。

         <感謝合掌 令和4年12月13日 頓首再拝>

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