伝統板・第二

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神示とは ⑧ - 伝統

2022/06/26 (Sun) 07:31:50


【歸幽の神示】(昭和六年六月二十六日 神示)

汝の肉體は汝の《念絃》の彈奏(だんそう)する曲譜である。

生命が肉體に宿ると云ふのは二元的な考へ方であつて眞理ではない。
正しく云へば、生命はその念絃の彈ずる曲譜に従つて肉體を現すのである。
肉體と云ひ、複體と云ひ、幽體と云ひ、靈體と云ふはこれ悉く念の映像に過ぎない。

汝の念譜の種類に從つて或は肉體を現じ、或は複體を現じ、
或は幽體を現じ、或は靈體を現ずる。

すべての人はいつか肉體を失ふであろうが死ぬのではない。
人は神の子であるから不死である。

念譜の形式が變わるに從つて汝の假有の形式が變わるのである。
すべての人の假有は念の異なるに從つて、その顯現を異(こと)にする。
念の形式に大變動を生ずれば、汝の假有は他界に顯現し、
今迄の念の顯現たる肉體は速かに自壞自消する。

これを人々は死と呼ぶが死ではない。
それは『生命』が念の絃をもつて一曲を彈じ終つてそれを止め、
他の奏曲に移らんとするにも等しい。


『生命(せいめい)』の彈ずる念の曲譜の形式に大變動を生ぜず、
その念絃の律動にただ調和を缺きたるのみなるを病と云ふ。
かくの如き病は、念絃の律動の調子を直せば治るのである。

併し如何にその念絃の律動正しくとも初歩の一曲を必ず終つて
一層高き形式の《曲譜》を學ばねばならない。

吾が云ふ意味は地上の生活は必ず終らねばならないと云ふことである。
地上の生活は汝の初歩の一曲である。

速かにこれを終るものは、初歩の教本を速かに終えたものである。
一曲が終らんとするを悲しむな。それはなお高き一曲に進まんがためである。
その前に調律者が來て汝の念絃の調子を正すであろう。

この調律のため一時汝の假有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。
此の世の一曲が終る前に肉體の調子が亂れたやうに見えるのは
此調律のためであつて眞に調子が亂れたのではない。

汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。
一曲は終るとも彈き手は終るのではない、
彈き手は神の子であつて不死であるぞ。

(昭和六年六月二十六日神示)

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神示とは」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479

(2)伝統板・第二「神示とは ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7789782

(3)伝統板・第二「神示とは ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571

(4)伝統板・第二「神示とは ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8171151

(5)伝統板・第二「神示とは ⑤」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8213395

(6)伝統板・第二「神示とは ⑥」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8239192

(7)伝統板・第二「神示とは ⑦」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8254025

           <感謝合掌 令和4年6月26日 頓首再拝> 

【歸幽の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/06/27 (Mon) 07:43:26


        *「『到彼岸の神示』神示講義 
          自覚の巻 《歸幽の神示》」より抜粋

(1)肉体というのは、『甘露の法雨』には
   「心の糸を組合せて、肉体の繭を作り」と
   書かれているのであります。

(2)「生命(せいめい)」は空間的広がりの世界には無いのであって、
   その空間的広がりの無い世界から
   ”コトバ”即ち「生命の波」を起すのであります。

   その結果、時間空間というものが生じ、現象界に波が現れて、
   だんだん振動数の迅い小さい波から振動数の大きい波になって、
   拡がって行く訳です。

           <感謝合掌 令和4年6月28日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/06/28 (Tue) 07:34:05

(3)「無にして無限相」である人間の本体(神霊)が「振動」を起して、
   その「振動」によって現わしている所(霊体→幽体→エーテル体→肉体)
   のものが肉眼で見える世界であり、人間であるという訳であります。

(4)「無空間の世界」にある所の本体の「生命(せいめい)」が振動を起すと、
   その振動の範囲が空間として吾々に認識され、その振動の持続が時間として
   認識されるという事になっているのであります。

           <感謝合掌 令和4年6月28日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/06/29 (Wed) 07:27:42


(5)人間はそれぞれその人の心境に従って
   異なる色の後光(オーラ)を放っている。
   (「生命の謎」参照)

(6)自心の延長としての環境

  ①本体から出たところの心の波が
   「霊体」となり、「幽体」となり、肉体となり、
   更に「オーラ」となり、更にそれが遠くまで及んで、
   自分の「環境」として現れたのだとみることが出来るのであります。

  ②自分の環境にあらわれて来るものは皆自分自身なんであります。
   「外にあるものは一つもない、一切が自分である」
   という事になるのであります。

  ③だから環境に何事があらわれて来ても、
   それは自分自身の心の影だと反省しなければなりません。

           <感謝合掌 令和4年6月29日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/06/30 (Thu) 07:39:54


(7)エーテル体

  ①感覚の「座」であります。

  ②同時に幽体から発する感情の爆発を被覆して
   それを調和ある程度に調節する役目をしているのであります。

  ③エーテル体は全身に満ち満ちておりまして、
   それが神経系統というコードを流れているときに感覚や知覚が起るのです。

  ④エーテル体の一部は精神が集中するところへ集り、
   また時々体外へ放出されます。
   それは、手の指先、掌、眉間または額から放出されます。
   吐く息と共にも放出されます。

   これをインドのヨガの行者などは、プラナと言っているのであります。

(8)幽体

  ①幽体というのは、
   それは「想念感情の媒体」になっているところの体でありまして、
   感覚や知覚よりも一層複雑な「想念感情」の媒体であります。

  ②悲しい、口惜しい、残念だ、嬉しい、楽しい、腹が立つ・・・。
   このような感情の「媒体」となり、それの「座」となり、
   「レコード」にもなって、
   感情が其処に印象され、蓄積される「場」であります。

  ③「もの言わぬは腹ふくるる業(わざ)なり」と
   兼好法師が『徒然草』に書いてある様に、
   想念感情を表現することが出来ない場合はふくれるのであります。

   心に想う通りの形に幽体というものは直ぐ姿が変わるのであります。

  ④私たちの起した想念感情のエネルギーは蓄積され残っているのであります。
   これが仏教でいわゆる「業(ごう)」であります。

   この蓄積されているところは、
   その「場」を「体」としてみるとそれは「幽体」であります。

   其の蓄積の「場」を心理学的に言いますと、
   「潜在意識」という事になる訳であります。

           <感謝合掌 令和4年6月30日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義⑤ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/07/03 (Sun) 07:38:17


(9)人間は現実界と霊界とに二重に生活する

  ①吾々自身の体が、霊界に属する霊(れい)と、
   物質界に属する肉体とがダブっているのですから、
   吾々の霊(たましい)は、霊の世界に住んでおり、肉体は物質の世界――
   この空気の世界に住んでおり、二重の生活をしているのであります。

  ②霊界の区長さんとか町長さん位にあたるのが、産土神様ということになり、
   その区長さんに何の挨拶もしないのは、礼儀に反する訳であります。
    (浅野和三郎さんの例を紹介して)

           <感謝合掌 令和4年7月3日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義⑥ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/07/04 (Mon) 07:29:41


(10)肉体は”人間”の潜空服である

  ①吾々が現実界に生きている間は、その肉体というものは、現実界で
   ある使命を果す為に必要な道具として肉体は作られているのであります。

   肉体は人間の一つの皮袋であり、
   空気の圧力の下にあって仕事をするための潜空服又は作業服であります。

  ②”人間”は本来”霊的存在”で自由自在なんですけれど、
   その霊的実在なる”人間”が空気の世界に降りて行って、

   或る使命を果さんが為に地上に降りて来る為に必要な「乗物」と言うべきか、
   「作業服」というべきか、ちょう度、潜水夫の”潜水服”にあたるものが
   肉体なのであります。

  ③肉体の創造は、
   肉体分子や細胞を「外」から積み重ねて行くように見えますけれども、

   実は内部から「生命(せいめい)」が「想念」の振動を起しますと、
   その想念の相(すがた)の通りに外界に有機体組織が表現されて行く
   のであります。

   だから、「生命(せいめい)」が内部から起す「想念」の波動が、
   不調和な想念でありますと、肉体にそれが表現されると
   「不調和な肉体」(病気)として表現されることになるのであります。

  ④この肉体はあまりに精巧に出来ているために、
   肉体それ自身に自働的な一種の「心」の働きがあるのであります。

   肉体それ自身が「我(われ)」という意識をもっていて、
   自分で或る肉体的欲望をもち、肉体だけで、
   魂の統制を破って動き出そうとすることがある。

   しかし、肉体の性欲や食欲に霊(たましい)が無統制に引きずられて行くのは、
   逆様事であります。

  ⑤「肉体は人間でない」という根本的に自覚することが、
   「自我の新生」であり、コンヴァーションであります。


<参照>
「帰幽の神示」余話 ~ 仙頭 泰
Web「み教えの基本に関する講演と論文」仙頭 泰氏
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/mioshie-no-kihon-sendou.htm
63. 「帰幽の神示 」余談


           <感謝合掌 令和4年7月4日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】 - 伝統

2022/07/07 (Thu) 07:43:37

【萬教包容の神示】(昭和七年七月七日 神示)

キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると云ひ、
大本教では丹波の綾部が世界の中心であると云ひ、
天理教では大和の丹波市が世界の中心であると云ひ、
天行居では周防の岩城山が世界の中心であると云ふ。

世界の中心爭ひも久しいものである。
併しわれは言ふ、それらは悉く皆世界の中心であると。
一定の場所が世界の中心だと思つてゐるものは憐れなるかな。

生命の實相の教へが最も鮮かに顯れたところが形の世界の中心であるのである。
そこは最も世を照らす光が多いからである。

基督教でもイエスの教へがエルサレムに最もよく輝いてゐた時代は
エルサレムが世界の中心であつたのである。

天理教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は
大和の丹波市が世界の中心であつたし、

大本教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は
丹波の綾部が中心であつたのである。

わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。

誰にてもあれ生命の實相を此の世に最も多く輝かせた處に
吾は行きてとどまり其処が世界の中心となるのである。

十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。
『十』もヒノモトと読み、卍もヒノモトと讀む。

いづれも中心より四方に救ひの慈光の放射された相(すがた)を
形どつたものであるからヒノモトと讀むのである。

古神道ひとすぢで行く、基督教ひとすぢで行く、
阿弥陀ひとすぢで行くと云ふやうな人があり、
そのひとすぢの所に誠があらはれてゐて喜ばしいが、

大抵は自教の外に他教を認め、
他と混りたくない意味で云ふのであるから、
自分で自分の崇める神なり佛なりを
小さく貶(おと)してゐるのが気の毒である。

本當の神は一つであり、他の神と対立するやうな小さな存在ではない。

本當の古神道は自餘の一切の教を包括するものであり、
本當の基督教は自餘の一切の教へを包括するものであり、
本當の仏教は自餘の一切の教へを包括するものである。

そして如何なる教にてもあれ一切の教へを包括する本當の實相に到達したとき
『生長の家(たかあまはら)』と云ふのである。

それは天爾(てんに)の『家』であり『巣』であり
『統(す)』であつて教ではない。

その家の中にあって色々の教(おしへ)が生きるのである。

本當の古神道は『生長の家』の内にあり、
本當の基督教は『生長の家』の内にあり、
本當の佛教は『生長の家』の内にあり、

生命の實相の顯現する所、説かるる所、
讀まるる所、その悉くが世界の中心である。

(昭和七年七月七日朝神示)

           <感謝合掌 令和4年7月7日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/07/08 (Fri) 07:36:29


        *「『秘められたる神示』神示講義 
          秘の巻 《萬教包容の神示》」より抜粋

(1)この神示のうち最も注目すべきところは、

   十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。
   『十』もヒノモトと読み、卍もヒノモトと讀む。

   いづれも中心より四方に救ひの慈光の放射された相(すがた)を
   形どつたものであるからヒノモトと讀むのである。


   という箇所と、


   『生長の家(たかあまはら)』と云ふのである。
   それは天爾(てんに)の『家』であり『巣』であり『統(す)』であつて
   教ではない。

   その家の中にあって色々の教(おしへ)が生きるのである。


   と書かれてある箇所であります。

(2)「十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。」という
   ”日の本”とは「実相世界にただ一つある国」であると判断できる。

           <感謝合掌 令和4年7月8日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/07/10 (Sun) 08:06:39


(3)「実相世界」のことを「たかあまはら」とも「生長の家」とも
   解されるのであります。

   実相世界が「日の本」即ち「光りの本」であり、
   「たかあまはら」であり、それが「生長の家」であり、
   それは此の世の国(現象世界)ではない。

   それは現象世界の奥にある世界である。

   現象世界の奥にある世界は、「天爾(てんに)の『家』」
   即ち「天の御心そのままの家」であり、それが一切の生命(せいめい)が
   発現する根元たる「巣」であり、一切のものが統一せられる
   本源の「統(す)」であると教えられているのであります。

   だからすべての魂の救済の本源地は実相世界にある。

           <感謝合掌 令和4年7月10日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/07/11 (Mon) 07:34:42

(4)この神示に示されている「生長の家」とは、
   「実相世界の家は生長の家なれば」(聖経『天使の言葉』)
   の生長の家であり、それは内在実相の世界であるのである。

(5)【久遠天上理想國實現の神示】で、実相世界の生長の家のことが
   示されているので、対照して頂きたいのであります。

   *(伝統註)【久遠天上理想國實現の神示】
     https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8254025
     内(2022/05/28)
    
           <感謝合掌 令和4年7月11日 頓首再拝>

【本當の信仰に就いての神示】(昭和八年八月五日神示) - 伝統

2022/08/06 (Sat) 11:35:50


平和は内界にあるのであって、外界にあるのではない。
外界は現象である、目眩(めまぐる)しく移り變る世界である。
常に變移する世界を追ひ廻してゐて落着かうと思つても落着けるものではない。

一世を支配する権力者の位置にのぼれば
誰も自分を脅かすことが出來なからうと思って最高の位置にのぼってみても、
高ければ高いほど不安であるのが常である。

では、誰よりも下座の地位について、もうこれ以上は落ちようのない
貧しい生活を送つたら不安がなからうと思つて、乞食の生活を送つてみても、
やはり不安は去るものではない。

下座々々と心掛けても、一椀の食にありつくとき、
尚、その一椀の食にすらありつき得ない同胞があることを思つたら、
その一椀の食も安心して食べられないであらう。

所詮は、高く上(のぼ)るも、低く下るも、比較上の世界に住む以上は、
その人の心から不安が去らないのは當然である。

何故汝らは絶對の世界に住しないのであるか。
目眩(めまぐる)しく回転する圓周の世界を追ひ廻さないで、
圓の中心の世界に住しないのであるか。

何故(なぜ)汝らは比較を絶した『我れ神の子』の世界に住しないのであるか。
中心の世界に坐せば、上下左右天地四維(しい)のいづこに顯現するとも
不安はないのである。

『我れ神の子』の世界に住すれば、
如何に高き位置につくとも高過ぎると云ふこともなく、

如何に低き位置につくとも
穢されたと云ふ感じも屈辱の感じも受けるものではないのである。

かくの如き『我れ神の子』の實相に参ぜしめ、
無畏怖の境地に入らしめるのが本當の宗教である。

恐怖心を唆(そそ)って遷善改過(せんぜんかいか)せしめるものは、
それは一種の社會施設であり、刑務所であり、懲治場(ちょうちば)であつて
宗教ではないのである。

宗教とは己が眞性を自覺せしめ、上下左右天地四維いづれに動いても、
いづれに置かれても、縛られない、恐れない、
自由自在の『神の子』たる本性を自覺せしめるものを云ふのである。

汝ら恐怖の宗教に心せよ。
神の子は、金剛不壊の實相身、無礙自在(むげじざい)の
無罣礙身(むけいげしん)であるから、凡そ恐怖すべき何ものもないのである。

恐怖を教へるものは迷を教へるものである。
恐怖を唆(そゝ)るものは、迷を唆るものである。

病氣や天變地變や色々の災厄で恐怖を教へるものは
人間の幸福が物質の増減で左右せられ、或は火に焼かれ、
或は水に溺れるものだとの迷信に立脚して教をなすのであり、
それを信ずる者は、それは信仰は信仰であっても、迷信に堕するものである。

火にも焼けず水にも溺れず、天地四維上下左右いづれに置かれるも
自由自在な人間の本性を信ずる信仰こそ本當の信仰である。  

                 (昭和八年八月五日神示)

・・・

本当の信仰に就いての神示   谷口雅春
https://www.youtube.com/watch?v=RwlBZ_xO1uQ

           <感謝合掌 令和4年8月6日 頓首再拝> 

【本當の信仰に就いての神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/07 (Sun) 11:59:41


        *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《本當の信仰に就いての神示》」より抜粋

(1)現象的な力によって相手に打ち勝つことによって
   安心を得ようとするから、
   根本的に安心即ち「心の平和」は得られないのあります。

(2)(歴史上及び現代の指導者、強国の)実例は、
   人間は実相を自覚しない限りは、
   どれだけ高い位置にいても安心することはなく、
   「高ければ高いほど不安」であることをあらわしているのであります。

           <感謝合掌 令和4年8月7日 頓首再拝> 

【本當の信仰に就いての神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/08 (Mon) 13:06:24


        *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《本當の信仰に就いての神示》」より抜粋

(3)正しい信仰というものは、
   自己中心的な考えを捨てるというような心境にならせて貰うところに
   「魂の向上」と謂う人格的御利益があるのであります。

(4)私たちは、円周線上の回転する物象に目を奪われて動揺してはならない。

   本当に心の平和を得ようと思ったら、この中心に坐すべきである。

   「中心に坐す」というのは
   「我れ神の子」の自覚に坐すということなのであります。

   「我れ神の子」の自覚に坐すということは、
   また同時に他(た)のすべての人々も「神の子」であるとして
   尊敬する心境に坐すことであります。

           <感謝合掌 令和4年8月8日 頓首再拝> 

【本當の信仰に就いての神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/09 (Tue) 13:24:54


        *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《本當の信仰に就いての神示》」より抜粋

(5)「我れ神の子なり」という実相に直参せしめて、
   「無恐怖の境地に入(い)らしめるものが本当の宗教である」
   と教えられているのであります。

(6)人間の本性を信ずる信仰こそ本当の信仰であって、
   その信仰に到達したら無恐怖の状態に入(はい)ることができるのだと
   教えられているのであります。

           <感謝合掌 令和4年8月9日 頓首再拝> 

【本當の信仰に就いての神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/10 (Wed) 10:00:34


        *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《本當の信仰に就いての神示》」より抜粋

(7)私たちが世界の危機を説くのは決して恐怖心を与えるためではなく、
   時局認識をハッキリさせて、力を結集し、一緒に世界平和を祈る
   同志を一人でも一層多く求めたいからであります。

   これにより、世界人類の終末預言が覆されて平和のうちに
   新しき理想世界の建設が成就すると信ずるのであります。

           <感謝合掌 令和4年8月10日 頓首再拝> 

【懺悔の神示】(昭和七年八月十二日神示) - 伝統

2022/08/13 (Sat) 11:05:17


汝らのうち病める者あらば、吾が教への先達(せんだち)の許に來たりて祈りを乞ひ
神想觀の指導を頼め。吾が教への先達は吾が言葉を受けたるものなれば、
彼の言葉汝を癒さん。

心に省みて罪ありと思負うものは、教への先達に包むところなく懺悔すべし。
吾が教へは、『罪』の無を説く。
本来『罪』なければ、懺悔も不要なりと思負は過(あやま)れり。

『罪』は本來『暗(やみ)』にして光にあうとき自滅すれども、
包みて光に會わしめざるときは、闇はそのまま闇にして滅ぶるものには非ざるなり。
罪の價は死なり。罪を包みて光に會わしめざる結果は死なり。

世の人々よ、悪を包み隠すことなかれ。
悪を包み隠すは、なお悪に執着せるがためなり。
罪の暴露を恐るるはなおその罪に執着せるがためなり。

『本來罪なし』の吾が教えを聽きて増上慢に陥ることなかれ。
本來罪なしの真理を知るものが、
何ぞ罪の暴露を恐れてそれを蔽うことを敢えてせんや。

『罪は本來ないからこれで好い』と自らを偽ることなかれ。
みずからを偽ることは罪の第一なり。
そは、みずからを包み隠し、その本來相の顯現をさまたぐるが故なり。

されどまた罪を一旦懺悔したる以上は、再びその罪に心を捉えられて、
神の分身なる自己の心を苦しむることなかれ。罪は懺悔と共に消ゆるなり。
暗は光の前に暴露さるると同時に消ゆるならずや。

懺悔せざるものの罪は消えず、暴露されざる暗の消えざるは当然にあらずや。
懺悔は密室にて行なうか、手紙に書きて教えの先達に送りても宜(よ)し。

されど暗の前にいたずらに悪評する民衆の前に、罪を暴露しても何の効なし。
暗に暗を照らさしむるとも何の甲斐かあらん。

人は一たび眞に懺悔するとき、
その刹那よりその全存在は洗い淨められたると等しく、
本來の神の子たる圓相をあらはす。

眞に懺悔せる後は汝ら心安かれ。
汝らは吾が眞子なればなり。吾汝らと一體なり。
聖靈(いのちのいき)汝らに交通し、汝らの靈(みたま)殖えて汝ら無限生命を得ん。

汝らのうち病める者あらば互いに祈り合ふべし。
互いに祈り合ふとき、吾が力汝らの上に來たらん。
自己が癒さるることを祈るはなお自己の利害にとらはれていることあり、
互いに祈り合ふとき愛の心あらはれ、神の靈波そのままに汝らの上に感ずべし。

病める人のために、その人を訪れて、祈り、且つ神想觀をなすべし。
祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、いずれも神の靈波に波長の合わぬ
迷(まよひ)の波動なりと知れ。

地方の信者たち互いに団結して祈り合へ。
家族同士互いに祈り合ふべし。
祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり。

本(もと)を忘るべからず。愛を竭(つく)し合い、
敬虔を竭し合ひ、誠を竭し合ひ、神を敬すべし。
この世界は光と迷いの反影が交錯してあらはれている映画なれば、
迷を一日も早く消すが世の苦難を濟(すく)う唯一の道なり。

(昭和七年八月十二日神示)

           <感謝合掌 令和4年8月13日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/14 (Sun) 12:31:53


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
           《懺悔の神示》」より抜粋

(1)宗教とは罪を解消して人間を自由ならしめるものであります。
   宗派によって罪を解消する方法が異なるのであります。
   罪というものは「本来ない」というのが、生長の家のおしえであります。

(2)『生命の實相』を読んで3年間仰臥の結核が治る。

   福島博さんは、それ(『生命の實相』)をお読みになりまして、
   端的に「人間・神の子、病気は無い」という
   ことをお悟りになりまして、すぐ病床から起ち上がると治ってしまったのです。

(3)人間に本来罪ありや否や

   罪というものはどういうものであるかと言いますと、
   ツツミ(包み)という語源から来ているのです。

   人間に「罪」があるんじゃなくって、人間の完全さが
   ツツミ隠されているというのが「罪」の状態であるというのであって、
   「罪」というものが人間そのものと一体なのではない。

   「罪」は如何にあろうとも「人間」そのものとは別のものなのであって、
   人間の完全な神性というものを自覚しないで、
   瞼を塞いだように、光があるのに光を見ないでいる状態が「罪」であります。

   生長の家では、こういうように罪を解釈するのです。

           <感謝合掌 令和4年8月14日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/15 (Mon) 09:14:33


(4)「罪」とは「神性隠蔽」であると『生命の實相』の第七巻倫理扁
   (携帯版では第十三・十四巻)には書かれているのであります。

   「神性隠蔽」とは、神なる本性を隠蔽して覆い隠していること、
   それが罪(ツツミ)であるから、「人間・神の子」を自覚して、
   その実相を露堂々とあらわすと、罪が消えることになるというのであります。

(5)実相を観ずれば罪は消える。

   懺悔とは、狭い意味で言えば、ああ私は悪いんです、済みませんというのも
   懺悔ですけれども、

   もう一つの素晴らしい懺悔というのは、現象を一切捨離して
   実相に向き変る事であります。

           <感謝合掌 令和4年8月15日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/17 (Wed) 09:34:52


(6)「大乗経を誦し」というのは、大乗即ち、
   すべての人間はみな仏であるとして大きく広く人類を救うところの経典、
   生長の家で言えば『生命の實相』とか『眞理』とかいう本ですね。

   それを読んで、昼夜六時に十方の仏様を拝する――このことは今申し上げました。

   そして、「一切の人を観ること、悉く仏の想いの如くせよ」と仰せられた。

   即ち凡ての人を観るに、「みんな仏であると思え」という訳です。
   すべての人間を、みんな仏さまだと思って拝まなくちゃあいけません。

           <感謝合掌 令和4年8月17日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/18 (Thu) 11:14:41


(7)法句経には、『生命の實相』に書いてあるのと同じように、
   「まこと、"怨み心を以ってしては、"怨み"を解くことは出来ない。
   "怨みなき心"をもって来たとき、はじめて恨みを解くことができる」
   と書かれているのですね。

(8)懺悔というのは洗い清めるということであって、悪いものを放してしまう。
   心から放してしまえば、「無いもの」は無いとい宇宙の浄化作用で消える。
   それが懺悔であります。


           <感謝合掌 令和4年8月18日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義⑤ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/19 (Fri) 10:02:09


(9)わたしたちは、神の子だから、"神の子たる実相"が顕れるに従って、
   それだけはっきりとホコリが見えるべきはずであります。

   きれいな立派な漆の塗りものなんかには、
   一寸ホコリでもつくと直ぐ分るでしょう。
   穢(きたな)い絨毯の上にホコリがつもっていても分りはしない。

   それと同じく、自分の心が浄まれば淨まるほど、
   「ああ穢い」ということが分るのであります。

   だから「ああ済みません」と過去を詫びる懺悔の心が起りますと、
   そういうときは、過去より自分は一段高まった
   ということになっているのであります。

   それですから、人を憎んだり恨んだったりしとった人が、
   「ああ済みません、私が悪うございました」とあやまり切る気持になりますと、
   病気が"さっと"治ったりします。

           <感謝合掌 令和4年8月19日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義⑥ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/08/20 (Sat) 08:27:08


(10)我々はいろいろな環境に置かれていますけれども、
   その環境というものは、一つの学校のようなものであります。

   各人の環境というものは、それぞれその人が
   一番魂が進歩するのに必要な環境に置かれている訳であります。

   それで苦しい環境にあるときには、
   その人の魂が苦しみによって鍛えられなければならない様な状態に
   なっているのです。

   それによって、その環境を自己反省のための鏡として、
   「ああ、こういう心を持っているのはいやだなあ」という気持ちになり、
   一段魂が進歩すると、その環境という学校を卒業して、
   環境がスーッと変わるのであります。

           <感謝合掌 令和4年8月20日 頓首再拝>

「懺悔の神示」の重み大切さ - 伝統

2022/08/21 (Sun) 09:21:08


        *Web:粟野真弘のblog(2017年11月25日)より抜粋

『神ひとに語り給う』神示講義「懺悔の神示」」(203~228頁)。

「懺悔」は「大懺悔」(現象の否定と実相の肯定)でなければという
谷口雅春先生のご指導を想い起こし、心に沁みました。

「大懺悔」の実践内容を、
「観普賢菩薩行法経」を解説しつつ示されています。

同経は、〝法華の三部経〟の中の三つ目の経で、

「人間、本来久遠の本佛であるといふ實相を現實に現すためには、
どうしたら良いかという行の方面から書かれている」(同書215頁)と説かれ、

その中の

「若し懺悔せんと欲せば端坐して實相を念(おも)へ。
 衆罪は霜露のごとし、慧日よく消除す。」(同書226頁)

の解説はその結論的な部分です。

また神想観の一つである「観普賢菩薩行法」は、
実相を自覚するために先生が示されたものです。

「懺悔の神示」は、『続々甘露の法雨』の冒頭で拝読するようになっております。

「浄心行」の実修においては、実修の始まりが「懺悔の神示」の朗読です。

「懺悔の神示」の重み大切さを、再認識いたしました。

http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/51140457.html


「懺悔の神示」の朗読
https://www.youtube.com/watch?v=rVDM-d6q6p0

           <感謝合掌 令和4年8月21日 頓首再拝>

懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その1 - 伝統

2022/08/23 (Tue) 08:54:32


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/66zange-no-shinji.htm


今回は「懺悔の神示」を学習いたします。
今思い出しますのは、谷口雅春先生御夫妻が、
はじめて海外御巡錫(昭和三十八年三月)に出かけられ、
ニューヨークに行かれた時のことです。

キリスト教会で先生の講話がありました。

そのとき谷口雅春先生は、聖書を中心にして話をされました。

キリスト教会では、イエスは神の子のひとり子であり、
他の人々は罪人であるとの説教を日曜礼拝に集まった人々にするのでありました。

このニューヨークの教会では、谷口雅春先生は
「みなさんは『神のひとり子』ですよ」と
聖書の言葉を引用されて話されたのです。

また「主の祈り」の話もされました。

「ここには、イエスが 『天にましますわれらの父よ』と呼びかけているでしょう。
 イエスは『われらの父』と呼びかけているのであって、
 自分だけの父と呼びかけているのではないのです。

 みなさんも、神の一人子であって神さまから愛され、大切にされているのですよ。
 皆さんが生きておられるだけでも、神様は祝福しておられるのです。
 用のない人、つまらない人は一人もおられないのです。」

と縷々聖書にもとづいて人類無罪宣言の話をされました。

聴衆は、今まで牧師から聞いたことのない聖書の講話に感激の涙を流しました。

解散した後は、聴衆が感謝の握手をするので大変でした。
谷口雅春先生の掌が腫れてしまいました。

この夜の二回目の講話が終わり、私達が帰ろうとしたとき、
一人の黒人青年が感激を体いっぱいに表現して、
今日のドクター・タニグチの話で救われたと涙して語るのでした。

この青年は自分が物心ついたときには、黒人として差別をされていたというのです。
それでも、彼は懸命に勉強もして、大学もりっぱに卒業をしました。
でも就職のときには、白人との差別を感じて世間の不公平に悩むのでした。

その時期に、あちらこちらと教会の門を叩き、
自分の悩みを打ち明けて救いを求めるのですが、
どの教会に行きましても同じように
「十字架を背負って人生を歩むのです。必ず天国に救われます」
と云う答えしかもらえませんでした。

それは、現実生活の救いにはならず、ますます憂鬱な人生であったのです。
彼には、何故自分は生きてゆかねばならないのか、
なんのために此の世に生まれてきたのかと、疑問ばかりが湧くのでありました。

この時に彼に人生の解決を与え、光明を与えたのが谷口雅春先生の、
人間神の子の話であり、人間地上誕生の意義であり、人生の目標の話であり、
人類無罪宣言であり、萬教帰一の真理でありました。

彼は、自分もイエスと同じく「神のひとり子であり、神のめぐし子であり」、
この世に神の栄光を現すために誕生したのだと、
魂の歓喜を得て人生が全く光明化したのでありました。

(続く)

           <感謝合掌 令和4年8月23日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その2 - 伝統

2022/08/24 (Wed) 09:14:59


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

人々はこの世に生まれて、不遇な人生、運命に出会うとき、
どうして私だけがこのような不幸な運命に遭わねばならないのだろうか、
過去の業の結果ではないだろうか、
何かの罪の結果が今日現れているのだから仕方がないのではないか、
などなど人生を暗く考えて落ち込むのであります。

自分は罪悪深重の凡夫で、苦しんで人生を送らねばならぬ存在だ
と信ずる人も出てくるのであります。

だからこそ宗教が必要なんだと、強調する人もいるのであります。

「懺悔の神示」には、この人生の『罪』について、
「本来ない」ものであるから、懺悔をすることにより消滅するもの
であることを、色々な方面からその方法を示され、

人間神の子の実相を悟り、迷いを一日も早く消すことが
世の苦難を救う唯一の道であると示されています。

(続く)

           <感謝合掌 令和4年8月24日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その3 - 伝統

2022/08/25 (Thu) 10:09:51


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

はじめに

「汝らのうち病める者あらば、わが教えの先達の許に来たりて、
 祈りを乞い神想観の指導を頼め。
 わが教えの先達はわがことばを受けたるものなれば、彼の言葉汝を癒やさん」

とあります。

生長の家は、谷口雅春先生が神様のご使命を受けられてこの地上に誕生され、
神理を全人類に伝えるべく活動をはじめられためにこの地上に顕現したもの
であります。

「神真理を告げ給う」の御本の中につぎのような御文章があります。

「“わたし”は今まで多くの教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。
 君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の書物を読み、
 色々の学者の説を読み、それに基づいて思索をし、
 既に人生の意義を知ることが出来た人もある。

 しかしそんな人は非常に稀であって、大抵は、自分の偏見や既成概念の中を
 迂路チョロしていて、悟ったつもりで実際は悟っていないか、
 真理なんて求めても到底得られるものではないのだという絶望感で、
 “聖なる求め”を放棄している人もある。

 そのような人たちに“私”は、今ふたたび真理を知らせてあげたい
 愛念によって、今此処に谷口雅春を通して真理を説こうと思うのである。」
                            (同書11頁)

私たちにとっては、このような偉大なる谷口雅春先生を通して
神理を学ぶことの出来る機縁を与えられたことを、
心から神さまに、そして谷口雅春先生に感謝するものであります。

と同時に私たちは、これからも益々謙虚に情熱をもって求道に
そして伝道に励んで、神理を自分の生活の得意の分野に展開して、
地上に天国を顕現するように活動をしてゆきましょう。

この神示に「わが教えの先達」とあるのを、
谷口雅春先生ではなく「自分だ」として、
人に神理をお伝えするときに、自分が悟って偉くなったつもりで、
他人に向かって横柄な態度になり、相手を神の子として礼拝する謙虚さを
失うことのないように、お互いに気をつけたいものであります。

(続く)

           <感謝合掌 令和4年8月25日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その4 - 伝統

2022/08/26 (Fri) 11:39:17


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

「神真理を告げ給う」には、神様がさらに次のように述べておられます。

「しかし“本当の教祖”というべき“真理の啓示者”は
 “実相世界”にある“神”のみなのである。

 イエス・キリストも『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』
 といっているし、

 谷口雅春も、“自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある”
 といっているのである。」(同書13頁)とあります。

 私たちは教えを学ぶ生命の兄弟・姉妹として、
 互いに励まし合いながら謙虚につきあって行きたいものであります。

 指導者になれば、なるほど、
 神理の伝道に間違いがないように反省が必要であります。

 「真理は汝を自由ならしめん」とキリストは教えました。
 真理を自覚し得たものは自由自在を得るのでありますから、
 佛教では「解脱を以て佛となす」というのであります。

 宗教とは真理を知ることにより、一切の苦悩その他の繋縛から脱して
 衆生を大自在の境地に導くのものであります。

 前に述べましたが、今までの宗教は
 「人間には罪があり、業がある。その罪の意識になやみ、
  業因の循環があるので、その解決のために宗教があるのである。
  罪がなかったら宗教はいらないのだ」
 という人もいるのであります。

 生長の家の教えでは、「罪は本来ない」と説いているのであります。

(続く)

           <感謝合掌 令和4年8月26日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その5 - 伝統

2022/08/27 (Sat) 09:07:31


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

神示には
「『罪』は本来『暗(ヤミ)』にして、光にあうとき自滅する」とあります。

真理の光をあてることが大切なことであります。

ところが、今までは罪悪深重の凡夫を救うために、
「宗教は出現した」のであると云うのです。

この場合「救う」というのは、「罪がなくなる」ということであり、
その「罪をなくする」というのです。

この神示には「罪は本来無し」と明示してあります。

私たちが「罪本来なし」ということが自覚できたときに、
病気が罪や業のあらわれである場合には、
罪や業が消えると同時に病気も消滅してしまうと教えられています。

何故罪や業が消えるかと言えば、それは「本来無い」からであります。


「罪」というものはどういうものであるかと言うと、
ツツミ(包み)という語原から来ていると云うのであります。

谷口雅春先生は講話の中でつぎのような説明をよくして下さいました。

例えばここに懐中時計があるとして、これを光明燦然と輝くところの
立派な人間の神性・仏性であるとします。
それをハンケチで、包んで隠してしまいます。

その光明燦然と輝く神性・仏性を包み隠した状態が「罪」なのであります。

このハンケチがあるという意味から言うと、
“包んでいるもの”ツツミ(罪)が確かに有ると言ってもよいのでありますが、

この「包み」というものが、この中の円満完全な光明燦然たる存在に、
染みこんでいるかというと、ちょっとも染みこんでいないのであって、
中味の本来輝ける実体は少しも汚れていないし、
光も失われていないのであります。


唯それが覆い隠されており、包まれているというだけのことが、
罪なのであります。


人間の実体は円満完全・清浄なものであり、決して汚れていない
ということに注目しなければならないので、その例え話として、
次のようなお話しも谷口雅春先生はよくしてくださいました。


今ここにコップがあって水が入っているとします。
この水の中に泥を投げ込むと、するとコップの水が
ドロドロになって不透明になってしまいます。

これを一般の人は、この状態を見て「水が濁った」と言うのであります。

常識的に言うと確かに水が濁ったのでありますが、
それは私たちが、五官の眼で見ているからであり、
そう見えているだけのことなのです。

水は水素と酸素の化合物であって、本来透明な液体であります。
水というものは永久に濁らないものであります。

「だって濁ったように見えるではないか」と言う人は、
五官の感覚で見ているからです。

いくら五官の感覚で、水が濁ったように見えても、
濁っているのは、水そのものではなくて、泥が濁っているのであります。

ここが大切なところで、生長の家では、
罪というものは「本来ない」と教えているのであります。

泥水から、その泥さへ取りのぞいたら、水はもとの透明な状態になるのであります。

(続く)

           <感謝合掌 令和4年8月27日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その6 - 伝統

2022/08/28 (Sun) 12:03:21


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

これより、テキスト・谷口雅春先生著「神人に語り給ふ」の
「懺悔の神示」のご講義の要点を抜粋せていただき、
朗読しながら内容理解をすすめていきます。

つぎのように「罪」に関するご説明があります。ここから、始めます。

「それと同じように、人間の正体は、本来、神の生命、佛の生命
 というものが宿っているから、『本来清浄、濁っていないもの』
 なのであります。

 だから人間に『罪』があるのではなく、
 人間の完全さがツツミ隠されている状態が『罪』というのであります。

 罪というものが、人間と一体なのではないのです。
 『水』と『泥』とが永久に一体でないように、
 『罪』は如何にあろうとも『人間』そのものとは別のものであって、
 それは人間の完全な神性・佛性というものを自覚しないで、
 瞼をふさいで光があるのに光を見ないでいる状態、
 つまり神性・佛性を自覚しないこと、それが『罪』なのであります。

 生長の家では、このように『罪』を解釈するのであります。」(同書213頁)


聖書の中に、つぎのような話があります。
イエスが或る日、途上で、生まれながらの盲目の人に会いました。

その時に弟子達が
「先生、この人が盲目に生まれたのは誰の罪ですか。
 自分の罪ですか、それとも親の罪なのですか」と尋ねました。

するとイエスは
「この生まれつきの盲目は、この人自身の罪でもなければ、親の罪でもない。
 ただ彼の上に神のみ業のあらわれがためである」
と答えられたと言うのであります。

そして、唾で泥をつくり、これを盲目の人の目にぬられて
「シロアムの池に行って目を洗え」と云われました。

すると、この盲目の人は見えるようになったと云うのであります。
このお話も谷口雅春先生の御講話の中に出てくる物語であります。

ところで、「神は愛なり」でありますから、
神様がご自身の神癒のみ業を或る人の上に実現して見せて、
自分の尊さを実証する方便として、或るときまで盲目にして置かれるなど
という残酷なことをされる筈はないのであります。

人間は神の子であり、はじめから、自性完全円満自由自在のもであります。
この本性を自覚するとき、「罪」は本来ないからこそ「本来ない」状態に
還元されるのであります。ではつぎに進みます。

(続く)

           <感謝合掌 令和4年8月28日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その7 - 伝統

2022/08/29 (Mon) 12:42:34


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )


「『観普賢菩薩行法経』には、罪を消す方法が書かれているのであります。
 釈尊はこの観普賢菩薩行法経をお説きになるときに、
 『わしは、もう三月したら涅槃に入るぞ』と言われたと書かれています。

 涅槃に入るとは、この場合は肉体が亡くなくなって、
 釈尊が霊にお成り遊ばされるという意味でした。

 すると、弟子が『世尊、如来の滅後に云何(イカン)が衆生、菩薩の心を起し、
 大乗方等経典を修行し、正念に一實の境涯を思惟せん。

 云何が無上菩提の心を失はざらん。
 云何が復当(マタマサ)に煩悩を断ぜず五欲を離れずして、
 諸根を浄め諸罪を滅除することを得ん……』と云っておたずね申しあげた。」
                        (同書215頁)

このままでは話の内容が難しいので、
谷口雅春先生はこれを現代語になおして、つぎのように説明しておられます。

「『お釈迦さん、あなたは三月もしたら死ぬんだったら、生きとる間に
 教えといて下さい。如来さまがお亡くなりなった後に、

 どうしたら
 我々衆生が菩薩の心を起こして、大乗方等の経典を修行して、
 そして正念をひたすら起して、唯一つ、実相の境涯のみを
 心に惟うようにできますか。

 どうしたら、無上のサトリの心を失わずにおられますか。

 どいう具合にしたら、山へ籠もったり断食したりしないで、
 煩悩の世界におりながら、五欲の世界におりながら、
 感覚器官を清浄にし、色々の罪をなくすることができますか』
 と云って尋ねたのであります。」

そこで今度は、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということのお話しであります。
ではつぎに移ります。

「『煩悩を断ぜずして涅槃を得』と云うことは、中々むつかしいのであります。
 煩悩というのは、美味しいものを食べたいとか、美しいものを見たいとか、
 好きな人に会いたいとか、何とか色々慾があるのを言うのであります。

 そのほかにも人間には酒を呑みたいとか、
 煙草を喫みたいとか色々の慾があるのです。

 こうした煩悩を断ち切らないでおって、それで悟りを開いた状態に
 到達するにはどうしたらよいか、という訳であります。

 生長の家では煩悩を無理に断ち切れと言わないのです。」(同書216頁)

ここでの反省は、私たちは他人から余り干渉されると、
例え善いことであっても反発をしたくなる変な傾向があります。

「酒やタバコなど、“止めなさい”といわれると、
 なかなかそれが止まらないのであります。
 縛られるような気になり窮屈になるから、その心の窮屈さをごまかすために、
 さらに酒やタバコという麻酔剤を必要とするのであります。

 併し、悟りの境涯に入ると、自然と、タバコも止み、酒も止み、
 生活が正しい道にのるようになるのであります。」(同書217頁)


「観普賢菩薩行法経」は、釈尊の最後の遺言みたいな経である。
『もう三月したらわしは死ぬのだ』と云う予告をされた時に、
 説かれたのであることは、前に学習しました。

谷口雅春先生は
「これくらい佛教の極地が説かれているものは無い」といわれました。
では次ぎに移ります。

「『普賢』即ち『普ねく賢い』という意味で、
 『普遍的に、何処にでも普く充ち満ちているところの智慧』そのものが、
 普賢菩薩であります。

 だからその普遍の智慧が吾々にも宿っている。
 吾々自身が普賢である、
 宇宙に満つる智慧が肉体として此処に現れているのが
 私たちであるわけです。」(219頁)

「だから私たちのこの身体は、宇宙に満つる智慧そのものの身であって、
 物質身ではない。物質の体ではないから黴菌に食われたり、
 いろいろの禍いを受けたりするということは無い訳であります。

 即ちこの観では自身を智慧身であるとして其の相を観ずるので、
 その観の功徳はどれほどであるかというと、観普賢菩薩行法経には、
 『この観の功徳は諸々の障礙を除いて上妙の色を見る』と
 書かれてあるのであります。」(同書219頁)つづいて拝読します。


「色々な障りを除いて、極めて優れた妙なる波動の世界を見る
 というのであります。色(シキ)いうのはラジオみたいに、
 波動によって形をあらわしているものを称するのであります。

 即ち心の波によって或る姿を現しているものを全て色(シキ)という訳で、
 吾々の肉体も一種の色身(シキシン)であります。

 『昼夜六時に十方の佛を礼して懺悔の法を行ぜよ。』
 『昼夜六時――朝晩六時にですね。十方の佛様を拝め、
 そして懺悔をせよ。』こう釈尊が言われた。

 この十方世界の佛様を礼拝することが大切であります。
 これは私達の神想観の行法に『遙々と目路の限り眺むるに
 十方世界悉く神なり、吾れ十方世界を礼拝す。
 十方世界の一切のもの有難うございます』と念ずるのと同じことであります。」
                (同書220頁)

神想観については、讃嘆行であり、感謝行であり、礼拝行である
と言われた言葉を思いだします。次ぎに進みます。

「懺悔とは、狭い意味で云えば、
 『ああ、私は悪いんです、すみません』というのも懺悔でありますが、
 もう一つの素晴らしい懺悔というのは、現象を一切捨離して
 実相に向き変る事であります。……」(同書220頁)

 つづいて、凡ての人を観るに『私はすでに悟りをひらいて佛であるが、
 あいつはまだ迷っている』といって、
 衆生を軽蔑するようなことではいけないと説明してあります。

(続く)

           <感謝合掌 令和4年8月29日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その8 - 伝統

2022/08/30 (Tue) 11:38:07


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

「次には、『諸々の衆生に於いて、みんな父母の思いの如くせよ』
 ――『凡ての生きとし生きるものは、みんな私の父母であると思え』
 と釈尊は教えられたのです。

 一切の衆生を尊敬しなければいかんのです。
 人類が、互いに相手を父母と思って尊敬し、
 親に仕える思いを起こしておったら戦争なんかありゃしないのですね。

 『諸々の衆生に於いて、父母の思いを致し』でなくて
 敵を思い起こしたりするから戦争するのです。

 互いに父母と思って愛する思いを起こしたら戦争の起こりようがないのです。」
 (同書220頁)

このように谷口雅春先生は、戦争についての思いを述べておられるのです。

全世界の人々が『みんな神の子・佛の子である』ことを自覚して、
人々の実相を礼拝し合い、讃嘆し合い、感謝し合い、助け合うよう
になることの素晴らしさをつよく感じます。

「常不軽菩薩行」の実践はすばらしいと信じます。

私たちが、ただ単に父母だけでなく、人類みんなが互いに
相手を父母の如く思って尊敬し、親に仕える思いを起こし、
愛する思いを起こしたら戦争なども起こりようがない。

顛倒の思いより諸々の不幸災難が起こるということが分かります。
ここで云う「思い」、心というものは、「迷いの心」のことです。

次ぎに進みます。

「この『心』というのは、『迷いの心』であります。
 迷いの心というのは、よく『病気は心の迷いより起こる』と言いますね。
 『君は恐れるからいかんのであって、恐れる心を捨てなさい』とそう言われると、
 恐れる心を捨てようと思っても、なかなか捨てられないで、やっぱり恐ろしい。

 そしてどうしても、その恐怖心を捨てる訳には行かない。
 『恐れる心が病気に現れるんだ』と思えば思うほど、
 『恐れること』そのことが恐ろしくなり、その恐れる心を捨てようと思うのに、
 やっぱり恐れるから捨てられないで、そのジレンマに陥って、
 益々恐れて病気が益々重くなることもあります。

 その恐れる心を恐れて、それを捨てようにも捨てられないところに
 連鎖反応的に恐怖心が起って、困る人が往々にあります。」
             (同書221頁)

全くこの通りで、地獄の中に落ち込んだ心境になり
自暴自棄になることがあるのであります。

では一体どうすればそのような状態から脱出することが出来るだろうか
ということです。

「そういう場合には、『心を観ずるに心なし』と、
 捨てなければならないような『恐れる心』もないのである、
 とこう『此の心をどうしようか』と心に引っかかる心をも断ち切るんですね。

 そこが大切なところなのであります。
 『恐れる心』というものがあると思って捨てよう思うから
 其の『心』にひっかかっていかんのです。

 『悪』というものがあると思って捨てようと思うから
 『悪』にひっかかって捨てられん。」(同書221頁)


ない、ないずくしでありますね。次ぎに進みます。

「病気でも『病気を恐れる心を捨てなさい』と言うと、
 病気はあると思って掴んで、それを『恐れるな』と言っても、
 なかなかそれを恐れない訳に行かんのです。

 『病気はない』と、こう捨てるんですね。
 『その病気を恐れる心もない』と捨てるのでね。」(同書222頁)

私達は如意宝珠の玉を持っていると教えられています。
この如意宝珠には潮満珠と潮干珠の二種類あるといわれます。

潮満珠を投げると潮が満ちて満潮となるように、
自分欲するものが成就するというのであります。

潮干珠をなげますと、潮がどんどんと引いてゆくように、
自分の欲しないものが目の前から消えていくというのであります。

この珠とは言霊であります。
言葉には不思議な力があり、欲するもの好ましきもの自ずから集まり来たり、
欲せざるもの、好ましきものからざるものは自ずから、去ってゆくのであります。
消えてなくなるのであります。このことを思い出すのであります。

次ぎに移りましょう。

「それでこの経に書いてあるように『心を観ずるに心なし』と観ずる。
 恐れる心なんていうものはないのであると捨ててしまうのです。
 これは腹立つ心でも同じことです。

 腹立つ心があるのであると思いながら、腹立たんようにと思っても、
 腹立つ心は止まないのであって、
 『あいつ、クソいまいましい』と思っても、
 癇癪が起こって来るのであって、どうしても癇癪をなくすることができない。」
            (同書222頁)

とこういうわけであります。

谷口雅春先生はよくつぎのような話をなさいました。
タバコの煙で目の前がモヤモヤして鬱陶しいからといって、
煙の出ているタバコを持った手を一生懸命にふっても
目の前のモヤモヤは無くならないどころか、ますますモヤモヤが増えてくるのです。

しからばどうすればよいか、タバコを持っていない手でもって、
目の前のモヤモヤを払えばたちどころにそのモヤモヤは消えて
なくなるのであります。

非常に示唆にとんだ話です。それでは次を読んでみましょう。

「だから『生命の實相』にも書いてあるように、
 『まこと“怨み心”をもってしては、“怨み”を解くことは出来ない。
 “怨みなき心”をもって来たとき、はじめて怨みを解くことができる』
 と書かれているのですね。

 “怨んでいる其の同じ心”で“怨まない”と頑張ってみても、
 怨みを解くことは出来ないのです。

 “怨みなき心”を持って来たら、ひとりでに怨み心がなくなるのであります。

 腹立つ心を止めようと思ったら、“腹立つ心”で“腹立つ心”を
 おさえようと思っても駄目だから、“腹たたん心”を自分の実相から
 出して来たらよいのです。

 だから、この“腹立っている心”というものは、“ニセモノの心”で、
 わしの心じゃないんだと先ず知るのですね。

 そして『わたしの心は“佛の心”じゃもの、
 “腹立つ心”なんていうものはニセものだ。

 よその奴が、脳髄っていうオートメイション装置が腹立てとる。
 わしは知らんよ』というように、そんな心を自分から放してしまって、
 『そんなものはありはしないんだ!』と捨ててしまう。

 そうすると、腹立っていても、直にスーッと“腹立つ思い”は
 消えてしまうのです。」(同書223頁)


谷口雅春先生は、さらにつぎのように説明しておられます。

「脳髄の思いなんていうものは、一寸酒を飲んでも、
 すぐに変わるものであって、こんな心は常住不断の心じゃないのであって、
 そんな心というものは本来ないのであります。

 だから観普賢菩薩行法経には
 『心を観ずるに心なし、法、法のなかに住せず』と書かれているのであります。

 この『法』というのは、
 『世の中のもの』というような意味で、現象のことです。

 病気なら病気の姿が現象として現れているけれども、
 その『現象は現象の中に住せず』です。

 というのは、現象として、病気がここに存在するように見えても、
 實はここに存在するのではない。

 心のフィルムにつかまれていて、
 それが『時間・空間』の映写幕に映っているんです。

 吾々はそれを見て、『病気が此処にある』と心で引っかかるのです。
 それを『無い』と放してしまうのが懺悔であるというのであります。」
       (同書223頁)

私達は「本来ないもの」を、
「無いと云ったら、絶対に無いのだ」と断乎として、
自分自身に言い聞かせることが如何に大切な事であるか
よく分かるのであります。

では、つぎに進みます。

「懺悔というのは、洗い清めるということであって、
 悪いものを放してしまう。

 心から放してしまえば、『無いもの』は無いと宇宙の浄化作用で消える。
 それが懺悔であります。

 『心を観ずるに心なし、法、法の中に住せず』であって
 迷える心も現象界もないのであって、それをアルと見るのは
 『煩悩の想いより起こる』であります。

 煩悩というのは『サカサマ』であって、
 アルモノを無いと見、ナイモノを有ると見るのです。

 そういう想いはどうして起こるかというと、
 『斯くの如き想は妄想より起こる、空中の風の依止(エシ)する処なきが如し』
 とあります。

 空中に風が吹いて居っても、それが何処から起こって、
 何処へ行って消えるかと言ってもとらえようがないようなものである。

 風というものは突如として起こって、起こってからは方向の予知できるが、
 何物にも支えられないで消えてしまう。
 風はあるように思っても、把むことはできない。」(同書224頁)

さらに続いて拝読いたします。

「風は吹いている時だけあって、吹かなくなるとない。
 そのないものをアルと思うのが妄想である。
 その妄想を吹き払うのが懺悔である。

 かくの如き懺悔には色々の段階の懺悔があるが、
 『心を観ずるに心なし、法、法の中に住せず、諸法は解脱なり、滅諦なり』
 と観ずる懺悔が最も大なる懺悔であるというのです。」(同書224頁)

 この風の例えは、「アル」と「ナイ」とを
 理解するのに大変分かり易い話であります。

 ではさらに続けてさきを拝読いたします。

(続く)

           <感謝合掌 令和4年8月30日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その9 - 伝統

2022/08/31 (Wed) 09:39:33


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

「一切の現象を本来無い存在である、非存在である、本来寂静であると観ずる
 ―― このようなごとき想いを大懺悔と名付けるのです。

 いろいろなものは『仮りにある』けれども、
 そんな現象は『本来無い』のである、映画の中の人物の誕生のように、
 始めから生まれたことも滅することも無いのである

 ――そういう悟りの想いを起こすのを大懺悔となづけ、
 荘厳懺悔となづけ、無罪相懺悔である。

 人間本来無罪の相を観ずる懺悔である。
 罪は『本来無い』という真理によって洗い浄める懺悔である。

 この懺悔を『破壊心識(ハエシンシキ)』と名づくという。」(同書225頁)


聖経「甘露の法雨」には、「罪」の項で、
天使に対して天の童子が「罪は実在なりや?」と質問しています。

ここでも、神の創造の円満完全なることが明示されています。
そして、罪・病・死などは不完全なものであるから
「実在の仮面」をかぶって、どんなに実在ぶっていても、
それは非実在であり、虚妄であると示されています。


そして
「われも言葉にて『生長の家の歌』を書かしめ、言葉の力にて
 罪の本質を暴露して、罪をして本来の無に帰せしむ。」
とあります。

ですから「わが言葉を読むもの」は実在の実相を知り、
生命の実相を知るから、一切の罪も一切の病も消滅して、
死を越えて永遠に生きんと教えられています。

なんと有り難いことでしょう。

谷口雅春先生は、更につぎのように
繰り返し重ねて教えてくださっているのであります。

「『破壊心識(ハエシンシキ)』とは、掴んでいた心を破ってしまって、
『心を観ずるに心無し』と観ずるところの懺悔であって、

 この懺悔を行ずる者は

『心身清浄にして法の中に住せざること、猶し流るる水の如し、
 無量の勝方便(ショウホウベン)は実相を思う依り得』

 であって、現象にひっかからないから、心が自由であって、
 無量の勝れたる方便というものは、実相を観ずるところから
 出てくるのである。」

と云うのであります。

「ところが、多くの人は『一切の業障界(ゴッショウカイ)は、皆妄想より生ず』
 であって、業があるとか、業の障りによって色々の苦悩が出て来、
 業の流転で過去の業で我々が苦しんでおらんならんと言うけれども、
 そんなことはないのである。

 業もなければ、罪もない。
 そういうものがあるという妄想を掴んでいる間だけ、
 業障界は存在するのであるから、

 妄想を消すのには実相を観ずればよいのです。

 其処で次のような偈があるのです。

『もし懺悔せんと欲せば端坐して実相を念へ。
 衆罪は霜露のごとし、慧日よ消除す』。」(同書225頁)

さらに続けて拝読します。

「衆罪すなわち諸々の罪は、霜や露のようなものであって、
 『慧日』即ち智慧の太陽が照らしたら、どんな霜でも露でも
 みんなよく消えてしまう。

 それだから『懺悔しようと思ったならば、実相を観ぜよ。
 実相を観じたならば、自ずから罪というものは消えてしまうのである』と、
 釈尊は教えられたのであります。

 しかし、罪があったならば、それを神の前に、
 または教えの先輩の前に、告白するということも、亦必要であります。

 “罪はないのだから”と高をくくって悪いことをしながら、
 “罪はないのだ”と言っているのは、罪を罪としてつかんでおって、
 暴露をおそれて放たないものである。(同書226頁)

「たとえば、泥棒をして、泥棒しながらですね。
 『罪なんて無いんだよ、これは良いことをしている。
 神の子のすることに一つも悪いことは無い』なんて言っていると、

 『泥棒する』ことを『良い』として、心でそれを肯定して支えているから、
 それは消えないということになるのであります。

 これに反して、『それは済みませんでした。私が悪うございました』と、
 こうなると、今まで『悪くない』と、しっかり掴んで肯定していたところの
 罪を捨てて仕舞うことになるから、

 『ああ、すみません』と懺悔の心を起こすことによって
 罪が消えるのであります。

 だから『罪を消す』ためには、この『すみません』が必要になるのです。
 多くの病気でも、『今まで私のしたり、思ったりしたことは間違いでした。
 済みません』とあやまりきる心になることによって治るのです。

 『人間は神の子だから、“済みません”なんて
 あやまらなければならぬような悪いことを犯したことは一度もない』
 なんて言うのは間違いであって、これでは罪は消えないのです。」
            (同書226頁)

私達の生活で、自己反省して「すみません」と謝ることが、
罪を消すことに大変大切なことであると、しみじみと感じます。

「我(ガ)」の強いということはどんなに間違いを起こすか
大いに反省させられます。

ではまた先に進みます。

「わたしたちは、神の子だから、“神の子たる実相”が顕れるに従って、
 それだけはっきりとホコリが見えるべきはずであります。
 きれいな立派な漆の塗物なんかには、
 一寸ホコリでもつくと直ぐ分かるでしょう。

 穢い絨毯の上にホコリがつもっていても分かりはしない。

 それと同じく、自分の心が浄まれば浄まるほど、
 『ああ、穢い』ということが分かるのであります。

 だから、『ああ、済みません』と過去を詫びる懺悔の心が起りますと、
 そういうときは、過去より自分は一段高まったということに
 なっているのであります。

 それですから、人を憎んだり恨んだりしとった人が、
 『ああ、済みません、私が悪うございました』と、
 あやまり切る気持になりますと、病気がさっと治ったりします。」
         (同書227頁)

過去を詫びる懺悔の心が起こるとき
周囲の環境が変化することを知ることができます。

現象の世界は「観ずる通りに現れる」という
法則に支配されていることが深く理解されます。

私達は「心の法則」を使用して自由自在に天翔る生活をしてゆきましょう。

ではつぎに進みます。

(次に続く)

           <感謝合掌 令和4年8月31日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義(仙頭 泰氏)~その10 - 伝統

2022/09/01 (Thu) 14:42:12


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

「病気になっている人は、親を恨んだり夫を恨んだり、
 人々と争ったり、色々やっとるですね。

 それを皆スッカリ懺悔して、
 『済みません。恨むのじゃなかった。立ち向かう人の心は鏡なりだ。
  私の心の通りの姿があの人の姿に現れたのだ。ああ、私が悪かった』

 というので、自分が『ああ、済みません』と思うと、
 今迄の環境がスーッと変わって来て、其処に住みよい世界が現れてくるのです。

 我々はいろいろな環境に置かれておりますけれども、
 その環境というものは一つの学校のようなものであります。

 各人の環境というものは、それぞれその人が一番魂が進歩するのに
 必要な環境に置かれている訳であります。

 それで苦しい環境にあるときには、その人の魂が苦しみによって
 鍛えられなければならない様な状態になっているのです。」(同書228頁)


私達はここにありますように、
どうして自分にはこんな苦しい環境が出てくるのだろうと、
人生を呪いたくなることもあるでしょうが、

高い立場から見ればそれは、自分の魂を進歩させるために
必要なことであったのだと後で気がつくことが多いのです。

ですから私達は、どんなことが起ころうとも
「私の人生は絶対によくなるより仕方がないのである。」と、
断乎として自分自身を激励して人生の難関と見えるものを乗り越えてゆきましょう。


谷口雅春先生は、自動車が道路の上を走ることが出来るのも、
洋服を縫うことが出来るのも、摩擦があるからですよと話をしてくださいました。
味わい深いものがあります。

また、極楽浄土は蓮の華の上に座禅を組んで瞑想に耽っている佛さまを
想像する人があるかも知れないが、

神想観の三十分でも辛抱出来なくてジーッと蓮の華に座することは
苦痛で地獄でしょうねと言って聴衆を爆笑させられたことがありました。

ですから現象は変化しながら無限向上するので素晴らしいものであることを
教えてくださったのです。

自然界も春夏秋冬と変化しながら発展して行くものです。

では次ぎに進みます。

「人をぶん殴るような尖った心を起こしていると、
 自分もぶん殴られたりしますね。そしてぶん殴られることによって、
 なるほど自分が尖った心を起こしていると、こんな痛い目を
 しなければならないのかと云うことが分かるのであります。

 それによってその環境を、自己反省のための鏡として、
 『ああ、こういう心を持っているのはいやだなあ』という気持ちになり、
 一段魂が進歩すると、その環境という学校を卒業して
 環境がスーッと変わるのであります。」(同書228頁)


「立ち向かう人の姿は、鏡なり。おのが姿をうつしてや見ん」
という言葉もあります。

「環境は心の影」とも云われます。

私達は、人間の本質を正しく教えられ学んでいます。
この人生学校に入学することができ、色々なことを学んで
魂の向上を目指しています。

私達は生命の兄弟姉妹として、おたがいに励まし合い、助け合って、
無限向上の道を歩みつづけましょう。

神様が「汝ひとりならば、われとともに二人と思え。
汝二人ならば、われとともに三人なりと思え」とおっしゃっておられます。

大いなる神の御手に支えられ護られて前進・前進・また前進で力強く、
みこころの天になる世界をこの地上に顕現すべく活動を続けてゆきましょう。

「われ祈れば、天地応え、われ動けば宇宙動く」です。
私達は人生を神さまと共に力強く歩む逞しき神の子です。

神様の祝福が天降りますようにお祈りいたします。

(終わり)        

           <感謝合掌 令和4年9月1日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】(昭和七年九月二日神示) - 伝統

2022/09/02 (Fri) 12:24:23


悪平等は悉くあやまりである。
人間は肉體でないと言へば、空氣のやうなエーテルのやうな
捉へ所のない『空(くう)』なるものが人間のように思つてゐる者も
あれど皆見當ちがひである。
肉體や物質のほかは見えない者は氣の毒である。

肉體は假相の念波的存在であつて、須臾(しゆゆ)にして消え滅びるのが肉體である。
そのやうな頼りないものを《本當の人間》と思ふな。
《本當の人間》即ち”實相人間”は『空(くう)』ではない。
金剛身である。永遠不壞なる實相身である。

形は無いと思ふな。形はたしかにある。

實相人間は肉體人間よりもまだまだ確かな至微至妙な形を有つが、
五官六感に觸れる形でないから、
五官六感に觸れる現象界の言葉では説明のしやうがない、
それは假りに肉體人間の姿を一層精妙にしたような姿だと思へば好い。

實相世界と云ふのは神が創造せる唯一の實在世界であつて、
此の世界のみが實在であり、此の世界に住む人間が實相人間であり、
至微至妙完全円滿金剛不壞の実相身を備えてゐるのである。

實相世界は一つの神に創造(つく)られ一つの神の叡智によつて支配せられてゐるから、
秩序整然たる相(すがた)である。實相世界を空無の世界、虚無の世界、茫漠の世界だと
思ふのは誤りである。

肉體の智慧には判らぬ。悟つたつもりで間違つてゐるから説いて聞かすのである。

其処には山もあれば川もあり、植物もあれば、動物もある。
獅子も羊もあるが皆な仲よく相戯れてゐる。
一切の人間、動物、諸靈悉く調和して相食むものはない。

從つて病気の人間は一人もない。

山の形や、川の形や、植物の形や、乃至動物の形なども、
假に現象界のそれに似ていると思へば好いが、
一層精妙なのが實相世界の姿である。

それは既に完成されたる世界であるが、
完成したと言へば静止の世界のやうに思ふかも知れぬが、
不斷の創造の世界である。不斷の創造を續けながら完成した世界である。

實相世界にはただ一つの國があるだけである。

その國は日の本(ひのもと)と名附けられ、
また高天原國(たかあまはら)と名附けられてゐる。
唯ひとりの君(きみ)がいまして高天原國(たかあまはら)を治(しろ)しめしてゐる。

現象世界は現界でも幽界でも念の映し世であつて、迷ひの念と、正しき念とが相交錯して
映つてゐるのであるから各國相對立して相爭ひ、悪念病念相爭ひて
修羅場(しゅらじょう)を演じてゐるが、
そんな對立は實相世界には現に存在しないのである。

實相世界が現象世界に迷ひなく映(うつ)れば、現實世界も一君に統一せられ、
悉(ことごと)くの國が大和合して一つの大日本國を顯現し、
現實世界にも獅子(しし)と羊が相戯れ、蚊も蚤も人を螫(さ)さず、
幽界、靈界の諸靈悉く相和して調和し其(そ)の處を得る。

かくの如くなることを指してキリストは
『御心が天になるが如く地にも成る』と言つたのである。

その時期は近づいてゐる。
しかしこれが實現する迄には迷ひの自壞作用として暫く惨憺たる
破壞の場面が演じられなければならぬ。

早く眞理を悟つたものは迷ひの自壞作用から免(のが)れて破壞の場面の中にも
實相世界を映して破壞の中に巻込まれずに濟むのである。

上海の戰ひにその實例が示してある。

           <感謝合掌 令和4年9月2日 頓首再拝>

【生死の教の神示】(昭和七年九月五日神示) - 伝統

2022/09/05 (Mon) 13:08:28


生死はまゝならぬと云へども生死は心のまゝである。

兄弟を生かす心の者は生き、兄弟を殺す心の者は死す。
殺すと云うても刀で斬ることではない。
兄弟を生かす心のないものは殺してゐるのである。

周囲の人々の思はくを生かしてやるのは
『兄弟を生かす』の最も大なるものである。

自己の好まざる所を他(た)に轉嫁するは
『兄弟を殺す』の最も大なるものである。

周囲に痰を吐き散らすな、紙屑を投げ捨てるな。
これは物質の事でもあれど、物質のことだけではない。

口角泡を飛ばして兄弟を非難するものは
兄弟の心に唾を吐きかける者である。

腹立ちを手紙に書いて送る者は兄弟の心に紙屑を投げる者である。
かれは兄弟の心を言葉で殺し文字で殺す者である。

兄弟の心を殺すよりも尚大なる殺しがある。
汝の両親の思ひやりを殺し、汝の主君の思ひやりを殺す者である。

本當に汝が、心の殺人を止めて
感謝の心に充(み)たされるやうになるまでは、
心の波長が違ふから神の救ひの靈波は受けられぬ。

(昭和六年九月五日神示)

           <感謝合掌 令和4年9月5日 頓首再拝>

【生死の教の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/06 (Tue) 09:27:36


         *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《生死の教》」より抜粋

(1)ここで説かれている「生死」というのは、
   必ずしも「肉体の死」というような意味ではなく、
   もっと深い意味での「生命(せいめい)」の生死であります。

(2)ここに「兄弟」というのは、あらゆる人間を「大生命」なる神より出でたる
   「生命(せいめい)の兄弟」と見て、教えていられるのであります。

(3)神さまの教えをひろめるには

   神さまの教えをひろめるには“純粋な献身”が要求されるのでありまして、
   ただの「売れたら好い雑誌」の出版とは異るのであります。

   それがただ「栄える企業」としてはじめるのだったら、
   無論、その企業収入の中から自分の生活費も、休養費も娯楽費も
   出してよいのでありますけれども

   “純粋な献身”が要求されるところの宗教の伝道に於いては、
   少しでも利欲的又は利己的動機が含まれておりますと、
   宗教というものは、その伝道者が神様からの放送を受信するアンテナになり、
   それを発声するラジオ・セットのスピーカーにならねばならぬのでありますから、

   伝道者の精神態度が一寸でも不純になると、
   完全に神さまからの教えの放送を受信できないおそれがあります。
   そして神様からの純粋の放送が受信できないで、他の低い霊魂などからの
   放送を混信することになるならば、
   その宗教は生命なきものとなり崩れ去るのであります。

(4)宗教によって人を救おうと思うものは、
   「一寸でも自分の生活のため」などという職業意識的な利己精神を
   捨てなければならないのであります。

   そして神の受信機となり、テレビのように自己が講話するところに、
   神があらわれるというほどにならなければなりません。

           <感謝合掌 令和4年9月6日 頓首再拝>

【生死の教の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/07 (Wed) 10:34:15


(5)私たちが行動するときには、
   決して自分だけの利益を考えて行動してはならないので、
   自分の行動が他の人にどういう影響を与えるかということを
   充分考慮に入れて行動しなければならないのです。

(6)人間は決して孤立して存在しているものではないのです。
   人間の一つの行為は互いに連関して連鎖反応を起すものである。

   私たちは、一寸自分の気にさわることがあったとて、
   それをすぐ言葉に表現して周囲の人々に投げかけてはならないのである。

   相手の身になって考えてあげるのが本当の「愛」なのであります。

   私たちは常に人の美点を見出し、善き言葉を使って、
   人々を生かすようにしなければならない。
   言葉は人間を生かしも殺しもするのです。

   この点「生死はまゝならぬと云へども生死は心のまゝである」
   と神示にある通りであります。

(7)(私たちは)一般の人類の思いやりを生かすようにしなければならないのですが、
   特に一般の同胞よりも尚大切にしなければならないのは、
   私たちの両親の思い遣りを生かさなければならないのであります。

   親子でも、夫婦の仲でも、その互いの助言が正しいとか、
   正しくないという正邪の問題で争っていては調和は得られないのであって、
   愛情による「思いやり」を大切に受け取って
   それを生かすようにすることが肝腎であります。

           <感謝合掌 令和4年9月7日 頓首再拝>

【生死の教の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/08 (Thu) 12:02:46


(8)主君の本来の姿はその国民を幸福にしてあげたいと
   願われるのが本当の主君の思いやりであります。

   昭和天皇のお歌のなかには、主君としての国民に対する「思いやり」が深く
   あらわれているものが多いのであります。

    【をちこちの民のまゐ来てうれしくぞ宮居のうちに今日もまたあふ】

    【戦にやぶれし後の今もなほ民のよりきてここに草とる】

   ~これは、戦後荒れはてた皇居内に勤労奉仕にとて参集した国民に対する
    昭和天皇の深い「思いやり」を歌われてたお歌であります。

(9)昭和天皇の世界平和への「思いやり」

   (昭和八年御作「朝海」)
    【天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を】

   (昭和六年「社頭雪」)
    【ふる雪にこころきよめて安らけき世をこそいのれ神のひろまへ】


   この平和への深き御願望を生かさないで戦争をはじめたのは、
   軍部としては当時の成行きで絶体絶命的なものがあったにせよ、
   「汝の主君の思ひやりを殺す者」であったのであります。

   今省みて陛下に対して申訳がなくて
   ただ驚懼(きょうく)し奉るのみであります。

   だからこの神示には

   「本當に汝が、心の殺人を止めて感謝の心に充(み)たされるやうに
    なるまでは、心の波長が違ふから神の救ひの靈波は受けられぬ」

   と示されているのであります。

   この神示が昭和6年9月満州事変の直後に発せられていることにも
   意義があると思われます。

           <感謝合掌 令和4年9月8日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/09 (Fri) 11:04:17


         *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
           《實相金剛身の神示》」より抜粋


(1)”知性”が人間の本体なのであります。
   肉体は”知性”の産物又は結果に過ぎないのであります。

(2)”知性”が人間の”生命(せいめい)”であって、
   肉体の”生理作用”は、”生命(せいめい)が肉体を支配している
   間の有機的ハタラキに過ぎないのであります。

(3)《本当の人間》即ち《実相人間》は金剛身である。
   永遠不壊なる実相身である。

   実相人間は肉体人間よりもまだまだ確かな至微至妙な形を有つが、
   五官六感に触れる形でないから五官六感に触れる現象界の言葉では
   説明のしようがない、それは仮りに肉体人間の姿を
   一層精妙にした姿だと思えば好い。

           <感謝合掌 令和4年9月9日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/10 (Sat) 10:30:36



(4)実相世界と云うのは神が創造せる唯一の実在界であって、
   此の世界のみが実在であり、此の世界に住む人間が実相人間であり、
   至微至妙完全円満金剛不壊の実相身を備えているのである。 


(5)実相世界は一つの神に創造られ一つの神の叡智によって
   支配せられているから、秩序整然たる相である。

   実相世界を空無の世界、虚無の世界、茫漠の世界だと思うのは誤りである。
   肉体の智慧には判らぬ。悟ったつもりで間違っているから
   説いて聞かすのである。

   其処には山もあれば川もあり、植物もあれば、動物もある。
   獅子も羊もあるが皆な仲良く相戯れている。
   一切の人間、動物、諸霊悉く調和して相食むものはない。

   従って病気の人間は一人のない。山の形や、川の形や、植物の形や、
   乃至動物の形なども、仮りに現象界のそれに似ていると思えば好いが、
   一層精妙なのが実相世界の姿である。

   それは既に完成された世界であるが、
   完成したと言えば静止の世界のように思うかも知れぬが、
   不断の創造の世界である。

   不断の創造を続けながら完成した世界である。


(6)実相世界にはたゞ一つの国があるだけである。

   その国は日の本と名附けられ、
   また高天原国(たかあまはら)と名附けられている。
   唯ひとりの君がいまして高天原国を治(しろ)しめている。

(7)実相世界が現象世界に迷ひなく映れば、現実世界もー君に統一せられ、
   悉くの国が大和合して一つの大日本国を顕現し、
   …その時期は近づいている。

           <感謝合掌 令和4年9月10日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/11 (Sun) 13:15:13


(8)『限りなく日本を愛す』には

   「日本の皇位は、天祖の詔勅によつて連綿としてつゞくべき
   宇宙意志によつて定められていますから、”日本敗戦″というような
   古今未曾有の大自壊作用が起こってさえも天皇制は廃止せられず、
   皇位の連綿性は保たれているのであります。

   ここに不思議な天意と言おうか、神のみこゝろと言おうか、
   神聖なる実相世界の”み心の既に成れる”状態の投影として
   日本の皇位は永遠につゞくべきものであり、

   やがて此の皇位に第二の天孫降臨、
   基督教で言うところのキリストの再臨、
   仏説で言ふ弥勒菩薩の下生(げしょう)があるべきであります。

   やがて出来る世界連邦統合の象徴として何か神聖なるもの、
   久遠なるものを求むれば、日本の皇位のほかにはない。

   その皇位の上に神孫が降臨し、キリストが再臨し、彌勒が下生し、
   それが世界連邦の中心象徴としての”神の王”となるとき、
   『黙示録』 に預言されたるキリスト再臨が成就するものであります。
                     (同書287頁)

           <感謝合掌 令和4年9月11日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/12 (Mon) 11:34:31


(9)全世界の大多数の人々が、日本皇位の神聖性を本当に認識して、
   やがて出来るであろう世界連邦の連邦政府の神聖主権の象徴として、
   日本皇位を推戴するよりほかには何処にも神聖なるものはない
   と気付くようになるには、

   幾度の末法末世的な悲惨事を経たのちでないと、迚(とて)も
   現状のままではそのようなことはあり得ないのであります。

   聖書の「マタイ伝」にはキリストの再臨は「ただ父のみ知り給う」と
   書かれているのであります。だから、其の時期を私たちが憶測しても
   どうにもならないのであります。

   私たちはただひたすら「天国現前の準備をして、心を浄め」
   何時、如何なる地上の大変革又は大変動があっても
   傷つかないほどの心境になっていたいものであります。

           <感謝合掌 令和4年9月12日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義⑤ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/13 (Tue) 11:10:30


(10)「日の本(ひのもと)」とは実相世界という“超次元”の
   霊的世界そのものであり、それが現象界に“救いの慈光”の
   放射される光の本(もと)の国であり、

   その中心者たる神は“一つ”であるから、
   「実相世界にはただ一つの国があるだけである。
   その国は日の本と名附けられ」とあることの意味が
   よくわかるのであります。

(11)実相の世界の神は、本来“一つ”であり、
   その神が八百万(やおよろず)の神仏とあらわれていられる
   のであるから、唯ひとりの“主神”がましまして、
   完全なる秩序ある統一が得られていることも当然であります。

           <感謝合掌 令和4年9月13日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義⑥ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/14 (Wed) 12:08:22


(12)キリスト教でいう『天』とは『実相世界』であるとことがわかりますと、
   キリスト教の“主の祈り”の

   「御心の天に成るが如く地にも成らせたまえ」と言うことが
   「既に神の御心が実相世界に成っている。
   その通りに、現象世界にも成らせ給え」ということを
   意味しているのであります。

(13)「御心の天に成るが如く地にも成らせ給え」
   というキリスト教の祈りが実現すれば、現象世界にも、
   “一柱の主神”の投影として地上に“一君”が
   連邦国家の主権の象徴としてあらわれざるを得ないことになります。

   そこで、この連邦国家の主権の象徴として一君を選ぶ場合に、
   どなたを世界連邦国家の中心象徴とすべきかという問題が
   起ってまいります。

   世界連邦の中心象徴となるべき者は、野心ある国々の元首や支配者では
   いけない、其処に何か神聖なるものをもって来なければ
   連邦国家の主権の神聖性を象徴するにふさわしくないのであります。

           <感謝合掌 令和3年9月14日 頓首再拝>

(九月の神示)【靈魂進化の神示】昭和八年九月十五日 - 伝統

2022/09/15 (Thu) 11:30:37


『神の子』なる人間の實相を現象世界に實現するのが人生の目的である。
現象世界とは現界、幽界、靈界を通じて呼ぶ言葉である。

人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子<たね>)が現象界に投影する時、
時間的空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くやうに
大體定められてゐるのを言ふ。

それは譬へば朝顔の種子(たね)の中には既に『花』の因子が包藏されてゐるが、
それが現象界に『花』となって完成するまでには、日光に逢ひ、湿氣に遇ひ、
芽を出(いだ)し、蔓(つる)を出し、蕾を生じ、つひに花を開くと云ふやうに、
大體一定の順序を追うて展開するが如きである。

斯くの如く、神の子なる實相人間も、
その投影を現象界に完成するには大體一定の時間を要し、

植物が日光に逢ひ、雨露に遇ふが如く、
或は幸福に恵まれ、或は虐運と戦ふことによつて、
つひに實相人間の現象界への投影を完成するのである。

併し、その投影が完成するには、
その投影は『念波の集積』で成立つてゐるのであるし、

人間は心の自由を有ち、自由に實相の悟りによって
念波を淨め得もすれば、迷(まよひ)によって
念波を一層汚すことも出來るのであるから、

現象世界に實相人間を顯現する過程(進化の過程)を
心次第で縮めることも長くすることも出來るのである。

靈魂進化の過程を短縮するのは、念の淨化による。
念の淨化には、實相を悟ることが第一であり、物質慾に捉れざることが第二である。
物質慾に捉われざるためには、『物質本來無し』の眞理を悟るが第一である。

『物質本來無し』の眞理をさとる程度に達せざる者には、
物質の快に捉われざるための修行として、自ら苦を求めて喜ぶか、
物質に快を求めて却つて苦を得る體験を通じて、
つひに物質慾に捉われざるに到るかの二途しかない。

前者は自ら進んで嘗(な)める苦行であり、
後者は幸福を求めれども求めれども運命的に他動的にやつてくる苦難である。

その他に過去の惡業の自壞する過程として
自己の靈的流動體に起る擾(じょう)亂現象の苦痛もある。

苦難がみだりに取去られず、
多くの靈魂の靈界通信が苦行の價値を力説してゐるのも
此の色々の理由によるのである。

     (昭和八年九月十五日神示)

           <感謝合掌 令和4年9月15日 頓首再拝>

【靈魂進化の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/17 (Sat) 09:03:37


         *「「神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
           《靈魂進化の神示》」より抜粋

(1)『神の子』なる人間の實相を現象世界に實現するのが人生の目的である。
   現象世界とは現界、幽界、靈界を通じて呼ぶ言葉である。

  ①霊界には、神界も含まれる。

  ②神界は、修行によって神格に到達された個別霊がいる。

           <感謝合掌 令和4年9月17日 頓首再拝>

【靈魂進化の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/18 (Sun) 10:32:22


(2)人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子<たね>)が現象界に投影する時、
   時間的空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くやうに
   大體定められてゐるのを言ふ。

  ①人間には、”神の子”としての原型「精神的カタチ」(理念)というものが、
   人間の生命(いのち)の中に初めから《既に》あるのであります。

  ②「理念の人間」の相(すがた)が、人間の実相でありまして、
   それが現象世界に出て来るときに、時間的空間的に展開してくるので
   あります。

  ③現象世界に映ってくるのには、色々の順序があって出て来るのであって、
   人それぞれに色々の困難な運命に遭うようにみえますけれども、
   それによって「神の子」たる性質が現れてくる過程なのです。

           <感謝合掌 令和4年9月18日 頓首再拝>

【靈魂進化の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/19 (Mon) 09:15:16


(3)運命の原型となるべき「心のフイルム」にある色々の画像というものは
   「念波の集積」でできているのであります。

   「念波の集積」によって出来ている運命の原型たる画像は、
   これを自分で一層汚すことも出来ますし、その反対にそれを浄(きよ)めて
   もっと楽しい清らかな人生を表すことも出来るのであります。

           <感謝合掌 令和4年9月19日 頓首再拝>

【靈魂進化の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2022/09/20 (Tue) 09:35:42


(4)念を浄めるには、”実相を悟る”ことです。

   そのためには、
   第一には、人間の生命(いのち)というものは、神の生命(いのち)で
   あることを悟ることです。

   第二には、一切は神の愛と智慧との表現であることを知って
   それに感謝し、物質は本来無きことを知って、
   物質欲に捉われないことです。

(5)「物質本来無し」をいうことを悟るのは
   霊魂進化の必須条件であります。

(6)根本的には、神は人間に苦痛を与えることを欲したまわないから。
   苦行は必要ではありません。

   しかし、現象的に言いますと、霊魂進化の或る過程としては、
   必要な時代があるのであります。

           <感謝合掌 令和4年9月20日 頓首再拝>

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