伝統板・第二

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「放てば、自由④」 - 伝統

2022/06/13 (Mon) 09:49:16


心の拳(こぶし)を開く

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして喜びを感ずるのは
自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。
したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」と不平に思う人は、
そのこれほど尽くしましたと力む「自分」という存在はどこから来たのか
考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから
神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。

「甲はまだ無我になっていない。
善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」
と祝嗣(のりと)にとなえる《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。

相手の心に「我(が)」を握らせておいて、
神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

・・・

<関連>

(1)光明掲示板・第一「無執着 (9518)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1806 (消滅)

(2)光明掲示板・第三「無執無縛 (1208)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=250

(3)光明掲示板・伝統・第一「放てば、自由」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=20

(4)伝統板・第二「放てば、自由①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6464501

(5)伝統板・第二「放てば、自由②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7082385

(6)伝統板・第二「放てば、自由③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7991199

           <感謝合掌 令和4年6月13日 頓首再拝>

放つということ - 伝統

2022/06/27 (Mon) 07:34:54


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは「一切が常にある」ということを知ることである。
「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

            <感謝合掌 令和4年6月27日 頓首再拝>

《自分で自分自身を解放せよ》 - 伝統

2022/07/10 (Sun) 08:04:30


       *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P91~92)より

すべての献げ物の中で最も大なる献げものは
自己を献げると云うことである。

自分と云うものを頑(がん)として握っていて、
そのうちから一部分ずつ小出しに献げているようなことでは、
その献げ物は「自分の手垢のついた献げ物」であるのである。

自分を完全に献げきったとき、自分自身が完全に救われるのである。
自分を握っていることは自分を狭めていることであり、
自分を縮小することであるのである。

自分を放ち去ったとき、自己は拡大するのである。
自分を握らなくなったとき、自分が解脱するのである。

解脱すると云うことは外なる物から解放されることでなくて、
自分で自分自身を解放することなのである。

            <感謝合掌 令和4年7月10日 頓首再拝>

過去に縛られず、放つ - 伝統

2022/10/02 (Sun) 07:09:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月2日)より

過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。

ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。

過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。

生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに
新たなる創造を成しつつあるのである。

過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。

端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。
神想観を励め。

           <感謝合掌 令和4年10月2日 頓首再拝>

捉われない - 伝統

2022/10/17 (Mon) 07:49:44


    *「光明道中記」(10月17日《愛憎を超える日》)より 

【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。
                   (『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は
元の兵来たって彼を斬ろうとした時平然として
「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」と
一喝を諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って
斬ろうとしたとき平然として首をさし伸べたが
三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。
囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 令和4年10月17日 頓首再拝>

愛憎に囚われない道は、必勝の道 - 伝統

2022/10/18 (Tue) 08:40:57


    *「光明道中記」(10月18日《愛憎を捨てる日》)より

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、
沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから
同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、いろいろの分別が胸に候間、
 胸のうちにいろいろに動き候。
 止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。

 たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
 一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、
 十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

 十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、
 次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候(まじくそうろう)。

 若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば
 受流すべけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

 千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、弓を取る手に心が止まらば、
 九百九十九の手は皆、用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、
千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

           <感謝合掌 令和4年10月18日 頓首再拝>

濁り水を捨て、真理の水を注げ! - 伝統

2022/11/03 (Thu) 07:28:09


       *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より

生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。

濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、
われわれは依然として濁り水を見るのみである。

怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。

せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。

よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。

心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。

            <感謝合掌 令和4年11月3日 頓首再拝>

「日面仏、月面仏」~現象の健康、富に捉われない - 伝統

2022/11/13 (Sun) 07:56:51


     *「光明道中記」(11月13日《夫婦互いに調和する日》)より

【周囲の人は自分の生活の鏡。(『生命の實相』第四巻)】

維摩が病気で寝ていたとき、文殊菩薩が病問の使者として来た。
維摩は文殊に対して、「衆生病むが故にわれ病む」と答えている。

生長の家ではあまりに病気が治りすぎるために、
またあまりに現象的利益が得られるために、
現象的な利益に傲(おご)り驕(たかぶ)って、
病気のないことを悟の証拠にしようと思ったり、
金の儲かることを悟の証拠にしようとするような危険がある。

これは厳重に避けなければならない錯誤である。

「従容録」第三十六則馬師不安の公案がある。
不安と云うのは病気と云う意味である。

馬師の話は七月二十一日の欄でも触れたことがあるが、
馬大師が病気で寝ていた。

そこで寺の院主が
「和尚(おしょう)近日(きんじつ)尊位(そんい)如何(いかん)? 」
とやった。 

「近頃病気は如何(いかが)でございますか」と云う程度の問だ。

馬大師答えて曰く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(げつめんぶつ)だ」
これは「仏名経」に載せられている仏の名前であるが、
日面仏は昼を照らし、月面仏は夜を照らす。

昼は健康を表し、夜は病気を表している。
馬大師は「昼あり、夜あり、それが自然の健(すこや)かさ」と言ったのだ。
下痢あり、嘔吐あり、そのまま健康なのである。

晴天あり、雨天あり、そのまま日々好日である。
凡夫の晴天はそれに執(とら)われて慢心し、
凡夫の雨天はそれに執われて悲しむ。

聖人にも雨は降るが、青空のように雨の染(しみ)を残さぬのである。

          <感謝合掌 令和4年11月13日 頓首再拝>

「傲(たか)ぶる心」「《わしが》 の心」を捨てよ - 伝統

2022/11/16 (Wed) 07:31:38


       *「光明法語」(11月16日の法語)より抜粋

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

          <感謝合掌 令和4年11月16日 頓首再拝>

あとに苦味の残らぬ日 - 伝統

2022/11/24 (Thu) 07:21:30


          *「光明道中記」(11月24日)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。
                 (『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。

先生でも人間が嫌いになることがあるのですかと言われると、
仕方がない。

降参するほかはない。

実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、
虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、
やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、熱いものは熱いと感ずるし、
快いものは快いし、不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云うのだったら
私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、
そうかも知れない。

ただ常人は一度熱いと執したら
冷たい膾(なます)でも熱いと囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

          <感謝合掌 令和4年11月24日 頓首再拝>

いずれ、これも過ぎ去る - 伝統

2023/02/06 (Mon) 12:47:02


      *Web:かんながら(2022年10月15日)より

あらゆる思考は幻想の一種だと気が付いた後も、思考は訪れます。

いったん目覚めれば、手に負えない思考は
二度と現れないと思っている人には残念なお知らせです。


手に負えない思考というのは

自分や周囲を批判しまくるもの、
自分を貶めて辱めるもの、
比較することで惨めさや嫉妬を呼び起こすもの、
怒りや悲しみを誘発するもの、

いろいろあります。


でもどんな思考も一か所に留まっていられません。

必ず形を変えながら消え去っていきます。


ですから、そんな思考群との付き合い方は、
「いずれ、これも過ぎ去る」という態度で見守ることです。


実際には、その思考が湧いた瞬間だけその考えの世界が存在し、
次の瞬間には消えています。

しかしそこにしがみ付く何かがある。

それが「エゴ」と呼ばれる、ありもしない衝動です。

これは人間が持つ癖のようなもので、
意識的に生きることを通して巻き込まれなくなります。


でもそれらの思考が湧かなくなるわけではありません。

これからも頻繁に出てくることでしょう。


そのたびに思考と距離を取って、
手放しのまま見送るゲームはやりがいがありますよ。

いつでもできるしね。


ことによったら一日中やれるかも。

でもまたすぐに巻き込まれちゃうんだよね。


そうやって今日も一日、思考が作る幻想世界を生きるのであった(-“-)


あなたの人生(幻想)に行ってらっしゃい。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12355312.html

・・・

<参照>

自分の執着事を捨てれば、今までの自分の正体が分かる
伊勢ー白山 道(2023-01-12 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/df1847204fa7a41243b12f5f52bbd023

        <感謝合掌 令和5年2月6日 頓首再拝>

執縛を解き、自在を得る - 伝統

2023/02/17 (Fri) 05:09:33


     *「光明道中記」(2月17日《自在を得る日》)より

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。
                  (『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。
解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。
執を縛(ばく)と言う。

執は一定のところに縛り附けて
其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、子供はその自由を失って
病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。
執愛は縛愛(なくあい)であり、一定の場所に
相手を縛りつけて自由を失って了う愛であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、
その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、
小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。

子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。

愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。

        <感謝合掌 令和5年2月17日 頓首再拝>

《喜びの青空に出る道》 - 伝統

2023/05/11 (Thu) 13:56:39


      *「光明法語」(5月11日)より

海中に墜落したならば、
墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。

墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば
喜びの青空に出ることは出来ない。

悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。

今有(も)てる何物かを失った時には、
それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、
喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。

かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。

神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。

         <感謝合掌 令和5年5月11日 頓首再拝>

放つということ - 伝統

2023/06/27 (Tue) 05:07:41


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから
始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。

物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは
「一切が常にある」ということを知ることである。

「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、

「ある特定のものだけ」があるように思って
ことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

       <感謝合掌 令和5年6月27日 頓首再拝>

功徳を求める心を放つ - 伝統

2023/07/03 (Mon) 04:39:20


      *「光明道中記」(7月3日 無限功徳ある日)より

【娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのだ。
              (「生命の實相」第十一巻)】

梁(りょう)の武帝は達磨大師から、
今まで自分の行(おこな)って来た供養が、
「無功徳!! 」だとの喝を受けて、

自分の倚(よ)って立っていた真理が
くだけた気がして寂しくて耐(た)まらなかった。 

それでは何が最も功徳ある真理だろうか、それが聴きたい。
そこで、「いかなるかこれ聖諦(しょうたい)第一義? 」
とたずねたのである。

それでは何が第一義の聖(とうと)き真理でございましょうか
と云うほどの意味である。

達磨の答は意表に出(いで)た。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と彼は言ったと、
「碧巌録」に書いてある。

聖(しょう)は「悟りの真理」と云うことである。

「聖(とうと)い悟りの真理なんて、そんなものはないのだ」

と云う一喝なのだ。

《これが》真理だ、《これが》功徳だなどと言っているものには、
功徳を先ず打消し、真理さえも打消してしまうところに、
本当の真理があらわれて来るのである。

一つのものを指(ゆびさ)して、「《これが》」と言ったとき、
指(ゆびさ)すことの出来ない大地に充(み)つる宏大な真理が
くらまされてしまうのである。

達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」と言って
聖諦(さとりのしんり)を否定して了(しま)ったとき、
却って其処に天地に満つる宏大無辺な真理が肯定されているのである。

            <感謝合掌 令和5年7月3日 頓首再拝>

執着を脱して始めて自由 - 伝統

2023/07/06 (Thu) 05:02:33


      *「光明法語」(7月6日)より

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
 慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いて
いと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、

異学の優陀(うだ)と云う者が、
釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)妙(たえ)にして
面光照りわたりたるを見て訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、

その何がいと優れたる者であると云うと、
一切のものに執着しない事、
あらゆる愛を盡(ことごと)く解脱していることであった。

            <感謝合掌 令和5年7月6日 頓首再拝>

一つの形に執しない - 伝統

2023/08/21 (Mon) 12:44:47


        *「光明法語」(8月21日~22日)より

神は五感も六感も超越せり

「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。

感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。

感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。

六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、
視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。

・・・

無相にして無限相

霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、
神の化身(けしん)を見たに過ぎない。

神は、かくの如き六感を超えた存在であり、
相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。

これを無相にして無限相と呼ぶ。

吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。

無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。

          <感謝合掌 令和5年8月21日 頓首再拝>

捉われる心を踏み超えて、実相に乗托せる心を出して来ることが出来る - 伝統

2023/09/10 (Sun) 11:55:51


     *「光明道中記」(9月10日《ただ念仏する心の日》)より抜粋

 【祈りには実相を顕現する祈りと人格的交渉の祈りとある。
                   (『生命の實相』第九巻)】

「自分の善行(ぜんこう)」だと誇る心、
「自分の悪行(あくぎょう)」だと悲嘆する心、
この善悪二つながらに捉われる心を踏み超えてはじめて、

本当の心
 ―― 何物にも捉えられない実相に乗托せる心
を出して来ることが出来るのである。

「自分の善行」だと誇る心も「自分の悪行」だと悲しむ心も
倶(とも)に虚仮不実(ほんとうにない)の心として
棄(す)てて了わねばならないのである。

”そのままの”心を出して来るには
善悪二つながらに執しない心「ただ念仏申される心」を要す。

           <感謝合掌 令和5年9月10日 頓首再拝>

映画とスクリーン - 伝統

2023/09/13 (Wed) 10:09:39


       *Web:かんながら(2007年10月15日)より

目の前で何が起きていようと変わらないものがある。

自分の内側には、外の出来事に何も影響されていない、
ピュアな存在が必ずいる。


僕らはついうっかり、外側の出来事に全身で巻き込まれてしまうんだ。


たとえば、誰かが自分を見下したとか。

何かの責任を取らなきゃいけないとか。

どうしても嫌いな人と会わなきゃいけないとか。



日常の世界には、そんな出来事がオンパレードだけど、
それは映画みたいなもので、いずれ場面は移り変わっていくし、
そんな出来事に心まで削るのは間違っている。


何が起きても、実際にはあなた自身は何も影響されず、
何も傷ついていないし、何も汚されていないんだから。


あなたの本質は、映画のスクリーンのようなもの。

出来事は映っている映像だ。

どんな映画が上映されても、スクリーンは無傷のままでしょ?

生活の中でストレスを避ける秘訣は、
自分はスクリーンで、目の前の出来事は単なる映像だって事を
見極めること。

映像が自分に求めるニーズには、きっちりと応えながらも、
そこに何も影響されずに存在する・・・それが人生の極意だと思う。


そんなふうに不断の気づきを持って自己を確立することは、
シャバで生きる我々にとって最高の修業じゃないだろうか。


さ、今日も修業に行ってらっしゃい。

そうやって胆力を養っておいでよ。


僕も、もっか修行中。

この修業、タダだからありがたいね。


修業のポイントは、何度も「スクリーンの自分」を思い出すこと。


映画にどっぷり浸かっちゃダメだよニコニコ


  (https://abetoshiro.ti-da.net/c48058.html

・・・

<参照>

すべては借り物なのに・・・
伊勢ー白山 道(2023-06-29)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/137fc55d279eca5b10cd2ca6a326c36d

           <感謝合掌 令和5年9月13日 頓首再拝>

他人を気にすることが間違っていた - 伝統

2023/09/19 (Tue) 13:16:50

他人を気にすることが間違っていた
伊勢ー白山 道(2023-09-18)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/340acf04569eacfc372d0cd4582127ed

           <感謝合掌 令和5年9月19日 頓首再拝>

真の愛は放つ - 伝統

2023/09/24 (Sun) 11:42:42


        *「光明法語」(9月24日)より

真の愛は放つということである。
そのものの生命(いのち)のままにそのものを行かしめることである。

朝顔の蔓(つる)に牡丹の花を咲かせようとすることではない。
小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、
自分の子供を放つと云うことである。

個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。

個人個人の自由を縛るのは、
神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。
それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、
神の創造のみわざに対する冒涜である。

         <感謝合掌 令和5年9月24日 頓首再拝>

結果には執着はしない - 伝統

2023/09/27 (Wed) 10:20:05

一生懸命にするが、その結果には執着はしない
伊勢ー白山 道(2023-09-26 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/3664f7987476668fee961c44194e8f6d

         <感謝合掌 令和5年9月27日 頓首再拝>

幸運の舞い込めるスペースは空いているか - 伝統

2023/10/10 (Tue) 08:36:05


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2023年10月8日)

今置かれている状況や環境、いまある運命を変えたいと願うなら、
手に握りしめているものを手放してください。

ひとは新しい環境を恐れ、古い物にしがみついてしまう生き物です。

それは蛸壺に捕らえられるタコのようなものです。

タコは蛸壺が漁師によって引き上げられる時に、
そこから振り落とされないように必死に壺にしがみ付きます。

そのため漁師によって壺ごとあげられて捕まえられてしまいます。

人も同じように現状を変えることに不安を持ってしまい、
新たな環境にチャレンジ出来なくなります。

たとえば勤めた会社がブラック企業で、
心身ともにすり減らしながらそこから抜け出せずにいる人もいます。

職場を止めて新しい仕事を探したり、
新たな職場に行く事に不安を感じる事もあるでしょう。

あるいは、ダメな男性と結婚してしまい、そのことが分かっても
なかなか離婚に踏み切れない人もいます。

離婚して自分で生活するのが不安であったり、
離れてしまう事に不安を感じてしまうからです。

そのように人は変化を嫌い、
タコのように必死に壺にしがみ付こうとします。


ですが世の中というのはお釈迦様が説かれたように諸行無常であり、
とどまり続けるものはなく、すべてが移ろい行きます。

時の流れに逆らおいとしても、そこに苦しみが生まれるだけです。

ずっと手放せずにいて握りしめているものが、
苦しみのもとになっていくことがあります。

古い物を手放さなければ、新たなものは入ってきません。

自分が持っているモノ、握りしめているものを手放すことで、
新たなものが入ってきます。

ダメな人だとわかっていても、その彼氏や彼女に執着している人も、
それがために新たな出会いを失っています。

仕事でも、現状では先細りになるとわかっていても、
新たな道を模索せずに、現状を維持したままで過ごそうとすると、
せっかくのチャンスを逃し、だんだんと苦しくなっていきます。

ひとは何かを捨てることで、何かを得られます。

ずっと握りしめているものが、苦しみの原因だと悟り、
執着を断って捨てることが、新たな道を開きます。

新たなものを得たいと願うなら、
手放せずにいるものを捨ててみましょう。

捨てることで空くスペースがなければ、
新しいものは入ってこれないのです。

https://www.spacebrothers.jp/2018/10/blog-post_15.html

・・・

おまけです。

「執着について」~美空ひばり
内山弘一の The GODチャンネル(2023/03/25)
https://www.youtube.com/watch?v=3kSPRNknKHQ

           <感謝合掌 令和5年10月10日 頓首再拝>

愛憎のないところに自由自在を得る - 伝統

2023/10/17 (Tue) 10:43:08


    *「光明道中記」(10月17日《愛憎を超える日》)より 

【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。
                   (『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は
元の兵来たって彼を斬ろうとした時平然として
「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」と
一喝を諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って
斬ろうとしたとき平然として首をさし伸べたが
三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。
囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 令和5年10月17日 頓首再拝>

愛憎に囚われない道は、必勝の道 - 伝統

2023/10/18 (Wed) 11:41:24


    *「光明道中記」(10月18日《愛憎を捨てる日》)より

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、
沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから
同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、いろいろの分別が胸に候間、
 胸のうちにいろいろに動き候。
 止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。

 たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
 一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、
 十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

 十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、
 次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候(まじくそうろう)。

 若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば
 受流すべけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

 千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、弓を取る手に心が止まらば、
 九百九十九の手は皆、用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、
千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

・・・・・

<参照Web>

【解説前編】不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)とは?
沢庵が柳生宗矩に伝えた剣禅一致の極地
https://www.aishinkankyoto.jp/fudochi-shinmyoroku1/


【解説後編】不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)とは?
沢庵が柳生宗矩の活人剣思想に与えた影響
https://www.aishinkankyoto.jp/fudochi-shinmyoroku2/

           <感謝合掌 令和5年10月18日 頓首再拝>

《欲しい》と《たい》を捨てると自由を得る - 伝統

2023/10/20 (Fri) 11:35:50


    *「光明道中記」(10月20日《「欲しい」を捨てる日》」より

【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
                     (『生命の實相』第二巻)】

善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」
「見《たい》」「食べ《たい》」などの「《たい》」に
囚われることである。

この「《たい》」が心にある間は、
その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。

天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、
八つの埃と言っている。

「たい」が心の病気であり、
心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。

時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。

そんな人に私が
「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。

すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。

「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、斯うして《欲しい》と
 思うことがあるでしょう」と
言いますと、

「それはあります」と言われる。

その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、
あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、
生命力が自由を得ないで病気に罹っている。

その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の
《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。

      <感謝合掌 令和5年10月20日 頓首再拝>  

コレを手放すとすぐに人生は激変します - 伝統

2023/10/21 (Sat) 09:06:24

たった1つ、コレを手放すとすぐに人生は激変します
伊木ヒロシ(2022/07/29 )
https://www.youtube.com/watch?v=FcgsJm81NTY

  ◎「波動の低い言葉、服装、言葉、立ち居振る舞い」を捨て手放す

      <感謝合掌 令和5年10月21日 頓首再拝>

「我」の求めをすべて放下せよ - 伝統

2023/10/30 (Mon) 09:20:23


    *「光明道中記」(10月30日《求むるに先立ちて財宝集る日》)より抜粋 

ただ、神の中へ溶け込むことのみをこそ求めなければならないのである。
溶け込むとは固まりがなくなることである。
「我」の求めがなくなることである。

偉くなり、富を得たい、光栄を得たい、
すべての野心、野心がとげられない悲しみ。
一切の怒り、不安、恐怖、呪詛(のろい)、
之(これ)らすべてのものを放下せよ。

真に神の神意でありますようにと祈れ。

おお! その中にこそ全てがあるものを。

神を、聾(つんぼ)扱いしてはならぬ。
大声で怒鳴らなければ聞こえない者だと思ってはならない。
注文をして置かなければ、神はこの問題を忘れ給うかも知れぬと思うな。

           <感謝合掌 令和5年10月30日 頓首再拝>

濁り水を捨て、真理の水を注げ! - 伝統

2023/11/03 (Fri) 10:24:50


       *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より

生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。

濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、
われわれは依然として濁り水を見るのみである。

怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。

せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。

よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。

心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。

           <感謝合掌 令和5年11月3日 頓首再拝>

「日面仏、月面仏」~現象の健康、富に捉われない - 伝統

2023/11/13 (Mon) 11:37:12


     *「光明道中記」(11月13日《夫婦互いに調和する日》)より

【周囲の人は自分の生活の鏡。(『生命の實相』第四巻)】

維摩が病気で寝ていたとき、文殊菩薩が病問の使者として来た。
維摩は文殊に対して、「衆生病むが故にわれ病む」と答えている。

生長の家ではあまりに病気が治りすぎるために、
またあまりに現象的利益が得られるために、
現象的な利益に傲(おご)り驕(たかぶ)って、
病気のないことを悟の証拠にしようと思ったり、
金の儲かることを悟の証拠にしようとするような危険がある。

これは厳重に避けなければならない錯誤である。

「従容録」第三十六則馬師不安の公案がある。
不安と云うのは病気と云う意味である。

馬師の話は七月二十一日の欄でも触れたことがあるが、
馬大師が病気で寝ていた。

そこで寺の院主が
「和尚(おしょう)近日(きんじつ)尊位(そんい)如何(いかん)? 」
とやった。 

「近頃病気は如何(いかが)でございますか」と云う程度の問だ。

馬大師答えて曰く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(げつめんぶつ)だ」
これは「仏名経」に載せられている仏の名前であるが、
日面仏は昼を照らし、月面仏は夜を照らす。

昼は健康を表し、夜は病気を表している。
馬大師は「昼あり、夜あり、それが自然の健(すこや)かさ」と言ったのだ。
下痢あり、嘔吐あり、そのまま健康なのである。

晴天あり、雨天あり、そのまま日々好日である。
凡夫の晴天はそれに執(とら)われて慢心し、
凡夫の雨天はそれに執われて悲しむ。

聖人にも雨は降るが、青空のように雨の染(しみ)を残さぬのである。

          <感謝合掌 令和5年11月13日 頓首再拝>

執着を手放す - 伝統

2023/11/15 (Wed) 12:36:27


      *Web:宇宙の兄弟たちへ(2023年2月5日)より
           ~人間は幸福が不幸の種になる生き物

私たちは裸で生まれ、何も持たずに地球に誕生します。

成長するにしたがって、いろんな物を所有するようになります。

はじめは玩具からはじまり、洋服や靴など、
自分のものだという意識が芽生え、
他の子が取ろうとすると、怒りや悲しみを覚えます。

無形のものでは母親の愛情もあるでしょう。
自分に注がれる愛は、独占したく思っても、
他の兄弟などが生まれると、取られたような気になります。

さらに成長するにしたがって、成績優秀だとか、
スポーツが得意だとか、美形で持てるなど、いろんな特徴をもって、
それで他人からの人気や憧れ、名声などを得ます。

ですが、こうしたものも、次第にうまくいなかくなったり、
他にもっと優れたものが現れると、自分が得ていたものが
取られる気がして、不幸な気持ちになります。

そして大人になると、恋人やさらに結婚相手を得るようになり、
仕事を得、給料でお金を得て、成功や名声などを得たり、
健康や若さを持ち、土地や建物を所有したりします。

こうして人は段々といろんな物を所有していきます。

有形の物や無形の物などいろいろありますが、
それらは幸せな事でもあります。

しかし、いろんなものを得られたことによって、
今度はそれを失った時の悲しみや不幸を背負う事になります。

失恋や離婚、会社を首になって仕事を失う事、
貯めていたお金を失う事、名声などが失われる事、
病気になり健康が失われ、次第に年を取って若さも失われ、
持っていた土地や建物を手放す事。

いろんな物をやがて手放す時が来て、
それは悲しみとなってしまいます。

つまり幸せをもたらした物が、次には不幸の元にもなっていきます。

もともと持っていなければ、失う事の不幸も無かったのですが、
いろんなものを所有するようになったために、失う悲しみがあります。

しかし、人間は本来、何も持たずに生まれ、
そして何も持たずにあの世に帰っていきます。

裸で生まれて、この世の物を何も持って帰れずに、
あの世に行く事になります。

ですから、本来、失う物も無く、自分のものも存在しないのです。

これを本来無一物と言い、
我が物として執着を手放し自由な心境となります。

https://www.spacebrothers.jp/2023/02/blog-post_5.html

・・・

<参照>

「思い」を溜めれば毒に変わります
伊勢ー白山 道(2023-11-14)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/955d73197dbff129d3a8d2b9353e5772


誰もが今生で自分が創った世界へと帰ります
伊勢ー白山 道(2023-11-15)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/d6f5d1e5430c55b91f00409a9bcd0786

        <感謝合掌 令和5年11月15日 頓首再拝>

あとに苦味の残らぬ日 - 伝統

2023/11/24 (Fri) 14:11:35


          *「光明道中記」(11月24日)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。
                   (『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。
先生でも人間が嫌いになることがあるのですかと言われると、仕方がない。

降参するほかはない。
実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、
虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、
やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、
熱いものは熱いと感ずるし、快いものは快いし、
不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云う
のだったら私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、
そうかも知れない。

ただ常人は一度熱いと執したら冷たい膾(なます)でも熱いと
囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

      <感謝合掌 令和5年11月24日 頓首再拝>

自分の立場、考えに執着しない - 伝統

2024/01/12 (Fri) 09:47:33


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。

われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。

真空を超えてさらに高くこう翔(しょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。

わたしはこれをこう考える ―― と言うときわたしは一つの立場に立つ。
一つの立場に立つかぎり、
「彼はこう考える」という立場をも許してやらねばならぬ。

球体の眼球(がんきゅう)を有するわれわれは、
穹窿(あおぞら<きゅうきゅう>)は球状であって
宇宙も球状であると考える。

しかしその考えをわれわれがもし三角ガラスの眼を
もった人種に強(し)いるならばまちがいである。

宗派を立ててはならぬ。偏狭がいっさいの争いの因(もと)である。
神のうちには争いはない。神はいっさの争いを、
いっさいの背反を包容している。

釈迦が未(いま)だかつて何々宗という仏教を
説いたことはなかったのである。

何々宗という多数の宗派は釈迦滅後に生じたのであって、
いっさいの背反を包容する超越的立場が失われたときに
生じたのである。

だから釈迦は宗派争いをしたことはない。
ただ後世の仏徒 ―― いな反仏徒が宗派争いをするのである。

宗派ばかりではない。
個人の生活でも争いができるのは、
おおむね超越的立場から墜落した者の挑戦から来るのである。

         <感謝合掌 令和6年1月12日 頓首再拝>

釈尊と悪魔の問答 - 伝統

2024/02/16 (Fri) 15:17:21

「その後」「それから先」を自分が考えていない時は注意です
伊勢ー白山 道(2024-02-16)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/08f0b3748b3f9d9de1bb2e4fb3da04ca

         <感謝合掌 令和6年2月16日 頓首再拝>

よく放つとき、よく生きる - 伝統

2024/02/17 (Sat) 09:54:06


           *「光明道中記」(2月17日 自在を得る日)より

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。
                       (『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。執を縛(ばく)と言う。
執は一定のところに縛り附けて其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、子供はその自由を失って
病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。
執愛は縛愛(なくあい)であり、
一定の場所に相手を縛りつけて自由を失って了う愛であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、
その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。
子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。
愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。

            <感謝合掌 令和6年2月17日 頓首再拝>

家族への執着の注意事とは - 伝統

2024/03/10 (Sun) 11:26:00

家族への執着の注意事とは
伊勢ー白山 道(2024-03-09)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/ff1d259d09f38f5a20eb52d66d1f6efa

            <感謝合掌 令和6年3月10日 頓首再拝>

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