伝統板・第二
神癒 ⑦ - 伝統
2022/06/10 (Fri) 11:13:33
メタフィジカル・ヒーリング(神癒)
*『生命の實相』第一巻総説篇(P3)より
生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば
大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。
メタ(meta)とは「超越」するという意味でありまして
フィジカル(physical)とは「物質的」という意味であります。
そしてヒーリング(healing)という言葉は癒すこと治すことを意味しております。
つまりメタフィジカル・ヒーリングと申しますのは、
物質的方法によらずに実相円満の自覚によって、大生命のお力をよび起こして
われわれの不幸を癒していただく方法であります。
わたしがこの面倒な長い名称をことさらに用いることにしましたのは、
「生長の家」のこの救済法が世間にふつうある心霊療法や「手のひら療法」と
同一視せられないためであります。
元来「生長の家」は人類の思想中よりその転倒妄想(まよい)を去らしめ
人類生活の全面を光明化せんがために出現したので、
病気治療のみを目的に出現したのではありません。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065 (消滅)
伝統第二「光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7823515
(2)光明掲示板・第三「神癒」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243
(3)光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42
(4)伝統板・第二「神癒①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458999
(5)伝統板・第二「神癒②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6910051
(6)伝統板・第二「神癒③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7640600
(7)伝統板・第二「神癒 ④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7820270
(8)伝統板・第二「神癒 ⑤」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7989682
(9)伝統板・第二「神癒 ⑥」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8153560
<感謝合掌 令和4年6月10日 頓首再拝>
病者へは、思念より真理を理解せしめよ - 伝統
2022/06/19 (Sun) 07:16:50
*「光明道中記」(6月19日)より
【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
(『生命の實相』第四巻)】
凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。
病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも
思念してはならないのである。
病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその
「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。
此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。
けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、
生きている間じゅう相手が一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。
重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが
出来るようにこそ誘導すべきである。
思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。
思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。
<感謝合掌 令和4年6月19日 頓首再拝>
利己心は治癒を妨げる - 伝統
2022/06/20 (Mon) 07:25:35
*「光明道中記」(6月20日)より
~自分の心を調べて見る日
【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
(『生命の實相』第一巻)】
自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。
利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。
憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、
腹につかえるものが残っているからである。
多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても
病気が治らないのであった。
治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。
治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。
『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。
<感謝合掌 令和4年6月20日 頓首再拝>
癒やしを阻害する6つの要素 - 伝統
2022/06/23 (Thu) 07:18:38
*「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋
【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時速やかに崩壊し始める。
(『生命の實相』第四巻)】
病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。
(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。
(2)家族のうちに反対観念者があって、
そんなことで治るものかと強く念じている場合。
(3)憎んでいる人を赦していない場合。
(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。
(5)心が焦(あせ)っている場合。
(6)死に切っていない場合
―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。
利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
恐怖心は利己心から来るのである。
<感謝合掌 令和4年6月23日 頓首再拝>
あなたの内にはすべてを癒す自然療能力が宿っている - 伝統
2022/07/13 (Wed) 07:48:05
*「H14年光明日訓」(16日)
『新版 真理』第2巻「基礎篇」 より
吾々(われわれ)の内部にいて、
吾々の生理作用を営(いとな)ましめている力は「内在の神」である。
この「内部の神」は常に内よりわが「肉体」と云(い)う道具を修理し、
栄養を与え、若返らしつつあるのである。
吾々は常にその力を認めて感謝するとき
内部に宿る神の力は一層完全に働いて自然療能が盛んになるのである。
<感謝合掌 令和4年7月13日 頓首再拝>
素直になったとき、万事が道にかない、病は癒える - 伝統
2022/07/14 (Thu) 07:26:58
*「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より抜粋
ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。
道は病気になるものではないから、
吾々の生活が平々凡々何の変哲もないところに
無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、
病気は自(おのずか)ら癒えるのである。
<感謝合掌 令和4年7月14日 頓首再拝>
『全き神のいのち』に浸りきる、そこには病は無い - 伝統
2022/07/23 (Sat) 08:23:10
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月23日)より
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。
かく念じつつ、神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの
内に、そして「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
それに生かされている」との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き
神想観である。
病ある者はすみやかに癒されるであろう。
観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、そこには病は無いのであるから。
<感謝合掌 令和4年7月23日 頓首再拝>
神癒をもたらすには、“生命”は病まざるものであることを知るがよい - 伝統
2022/07/24 (Sun) 07:54:47
*「信仰の科学」谷口雅春・F.ホルムス 共著(P313)より
神癒をもたらすため、あなたが“病める”者の病床の傍に坐るならば、
“生命”は病まざるものであることを知るがよい。
あなたの患者は癒やされねばならぬ病人ではないのである。
目前の彼又は彼女は“生命”とは何たるかの悟りを喪失した人に過ぎぬのである。
それだから今あなたが彼らの代理者となって
“生命”の何たるかを悟ればよいのである。
あなたは“生命”が今ここに存在するのであると考え、宣言する。
その生命は患部を癒やすには何をなすべきかを知っているのであり、
体力を増強するにはいかにすべきかを知っているのである。
あなたはただ“生命”は全てであるということを、
全心をもって悟るだけでよいのである。
<感謝合掌 令和4年7月24日 頓首再拝>
神の癒しを受けよ - 伝統
2022/08/04 (Thu) 10:15:18
*「光明道中記」(8月4日《常に神を憶う日》)より抜粋
【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
(『生命の實相』第十一巻)】
神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを知らねばならぬ。
恐れることはひとつもあり得ないのである。
われは神と偕であるからである。
神はすべてのところにましますが故に
その癒しもすべてのところにましますのである。
癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、
これはただ病気をみとめている人々に対してのみ言うところの
方便的語(ことば)に過ぎないのである。
癒しと云うのは神の創造の顕現であり、
神の完徳(まったきとく)が現象世界面に
あらわれて来ることに過ぎないのである。
だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。
不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
<感謝合掌 令和4年8月4日 頓首再拝>
宇宙の大自療力 - 伝統
2022/10/12 (Wed) 07:42:06
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月12日)より
宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。
どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)っても
しばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、
それを浄(きよ)らかな澄みきった海水に変化する力、
皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、
自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちているのである。
しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。
それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。
<感謝合掌 令和4年10月12日 頓首再拝>
すべて有り難く受け流して行けば病気は消える - 伝統
2022/10/19 (Wed) 11:30:33
*「光明道中記」(10月19日《心配のなくなる日》)より
【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。
(『生命の實相』第十二巻)】
「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、
那箇(いかん)かこれ明上座(みょうじょうざ)が
本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。
善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かんと
言っている間は通力を失った状態であるから
本当の大善は出て来ないのである。
「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が
多く肺病にかかって血を喀(は)いたりするのである。
善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。
「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。
「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、
それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。
心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。
血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。
すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。
<感謝合掌 令和4年10月19日 頓首再拝>
《欲しい》と《たい》を捨てれば不思議に病気が治る。 - 伝統
2022/10/20 (Thu) 07:04:13
*「光明道中記」(10月20日《「欲しい」を捨てる日》 )より
【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
(『生命の實相』第二巻)】
善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」「見《たい》」
「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。
この「《たい》」が心にある間は、
その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。
天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、
八つの埃と言っている。
「たい」が心の病気であり、
心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。
時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が
「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。
すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。
「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、
斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」と
言いますと、「それはあります」と言われる。
その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、
あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、
生命力が自由を得ないで病気に罹っている。
その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の
《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。
<感謝合掌 令和4年10月20日 頓首再拝>
人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統
2022/11/06 (Sun) 07:09:36
*「光明法語」(11月6日の法語)より
人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。
医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。
かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。
先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。
<感謝合掌 令和4年11月6日 頓首再拝>
自然療能と云う大生命力の働き - 伝統
2022/11/14 (Mon) 06:32:45
*「光明道中記」(11月14日《執着が無くなる日》)より
【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
『生命の實相』第九巻)】
下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。
「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。
実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。
そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。
凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。
されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。
けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と
切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。
<感謝合掌 令和4年11月14日 頓首再拝>
大安心に達したとき自然療能力で病気が治る - 伝統
2022/11/15 (Tue) 07:23:41
*「光明道中記」(11月15日《恐怖心が全然なくなる日》)より
【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめる。
(『生命の實相』第一巻)】
南岳禅師、嘗て病気をしたときに、
自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。
以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、
生長の家の説くところと同一である ――
「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。
業と云うものは何処から起る、妄(まよい)から起る。
それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。
其業を作る所から病気が起って来る。
病気は元(も)と業だ。
業は元(も)と妄(まよい)だ、妄の源(みなもと)は心だ。
サア心と云うものは何だ。心は無生(むしょう)としてある。
其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。
全体姿形のあるものでない。
そんならば此病は何(いず)れの所より来ると観念する時、
病は平癒したと云う事がある。
病を根底から直した。
それで自分の病気は心から妄となり、
妄から業と云う事になって来ている事である。」
口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、
病気の本源を探ね行き、心に到達し、
心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知り、
大安心に達したとき自然療能力で病気が治るのは
今更(いまさら)始まったことではない。
<感謝合掌 令和4年11月15日 頓首再拝>
人の病いを癒すには - 伝統
2022/11/23 (Wed) 10:49:26
*「光明法語」(11月23日の法語)より
他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。
自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。
この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである。
<感謝合掌 令和4年11月23日 頓首再拝>
彼の心の悩みを自己にとる事 - 伝統
2022/11/24 (Thu) 06:44:54
*「光明法語」(11月24日の法語)より
人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。
何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。
<感謝合掌 令和4年11月24日 頓首再拝>
ラザロを復活させたイエス - 伝統
2022/11/25 (Fri) 07:17:47
*「光明法語」(11月25日の法語)より
イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。
その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。
人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。
今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。
その時ラザロは復活した。
<感謝合掌 令和4年11月25日 頓首再拝>
彼の悩みを洗浄する法 - 伝統
2022/11/26 (Sat) 06:53:21
*「光明法語」(11月26日の法語)より
人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。
「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。
これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。
「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。
<感謝合掌 令和4年11月26日 頓首再拝>
相手の病いを治す思念 - 伝統
2022/11/27 (Sun) 07:16:56
*「光明法語」(11月27日の法語)より
更に彼が神の子であること、
神の肖像(にすがた)としてつくられたる完全なる存在であること、
その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。
相手に念を送るのではなく、
自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。
<感謝合掌 令和4年11月27日 頓首再拝>
柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統
2022/11/28 (Mon) 07:52:30
*「光明法語」(11月28日の法語)より
「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。
それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。
傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。
氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。
<感謝合掌 令和4年11月28日 頓首再拝>
物質の世界、精神の世界、霊の世界、実相の世界 - 伝統
2022/11/30 (Wed) 07:16:28
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より
人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
さらに実相の世界に住んでいるのである。
物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。
この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。
だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。
昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。
われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。
科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。
この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない生命に必要な
ある要素が存在するのであって、科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素において異なるのであって、
これは臨床効果においても見られるところである。
さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、
心のうちに恐怖や心配や悲しみや、ある人に対する憤(いきどお)りや憎しみを
捨てないでいるかぎりにおいては、薬効があらわれないことがしばしばあるのである。
それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して不用意に
その病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、かかる不用意なる医者の
診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと思われる患者を
急速に死に導いてゆく実例も多いのである。
これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は、人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度にしたがって、
「罪あり」と認めらるべきものである。
さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。
生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先霊を含む)の悟りの向上による
ところが多いのである。
医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、
癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう実例の多いのも、
これらの病気が霊的障礙であるからである。
顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するにやぶさかでない
現代の医学が、なぜ肉眼で見えないという理由だけで霊の障害による病源を
研究することを迷信視しようとするのであろうか。
さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。
<感謝合掌 令和4年11月30日 頓首再拝>
明るく考え、波動を高める - 伝統
2022/12/20 (Tue) 07:45:18
*「光明道中記」(12月20日《大調和の日》)より
【躓いたがために落ちる人もあれば、
躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。
(『生命の實相』第十一巻)】
人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。
人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。
斯う云うことを考えめぐらせて見れば、
その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。
人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、
山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を
受けながらも病気になる事実で明かである。
この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、
その習慣を改めなければならない。
誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。
「何でもクヨクヨするな」
この言葉を病人の多い家庭に捧げる。
<感謝合掌 令和4年12月20日 頓首再拝>
《眠りに入らんとしてかく念ぜよ》 - 伝統
2023/01/09 (Mon) 07:40:39
*「光明法語」(1月9日)より
汝ら眠りに入る時、
汝の掌(たなごころ)を汝の眼の上に置きてかく念ぜよ。
「この眼は神の眼である。善以外のもの、美以外のもの、
完全以外のものは何物も見ないのである。
この眼は神の眼である。
毎日毎日一層その実相の完全なる視力があらわれつつあるのである。
自分の眼は神の眼である。
人々の善さのほか美しさのほか、
完全さのほかは何物をも視ないのである」。
かく念ずること毎就寝時にして、数ヵ月たちし時、
或る朝目覚むれば眼鏡(めがね)をかけていた眼が見えない。
眼鏡を外(はず)せば完全に見えた。
その人の乱視性近視は治ったのであった。
<感謝合掌 令和5年1月9日 頓首再拝>
目醒めに大切な「癒し」と「許し」の本質 - 伝統
2023/02/07 (Tue) 13:07:03
目醒めに大切な「癒し」と「許し」の本質
【宇宙くんの手紙】中村咲太( 2023/02/06)
https://www.youtube.com/watch?v=9RufzslBhJ4
《宇宙種族「クジラ族」からのメッセージ》
私は宇宙種族の1つ、「クジラ族の根源」です。
地球には動物としてのクジラとクジラ族という宇宙種族の
2種類がいます。
地球上の95%のクジラは、クジラ族からの転生です。
クジラ族は常に意識を共有しています。
宇宙に、「大元となるクジラ族の意識」があり
全てはその分身として転生するのです。
地球にいながらも、クジラ族の大元と繋がり、
エネルギーの交信をします。
この交信を通して、クジラ族の「転生クジラ」は
地球に宇宙の高い波動を、おろしている存在なのです・
地球には今、大きな苦しみを抱えている人々もいます。
また深いところの、つっかかりとなっているような
ネガティヴな握りしめたまま、進もうとしている人もいます。
なぜ、人々は、自らを許さず、自らを苦しめるのか。
「許し」とは、あなたに自由を与え、
「許さない」とは、あなたに制限を与えます。
許すとは、「ダメとしないこと」とも言えます。
過去の自分を、この現実を、人を、未来を、小さな自分を
ダメとせずに
「それはそれでアリだったのだ」と受け入れるのです。
そうして許した上で、あなたがしたいように
もう一度、心を修正し、行動し直す。
どうしても許せない時は、「許せない自分」を許すのです。
我々、クジラ族は
あなたたちの「癒し、許し」をサポートする種族でもあります。
常に許しと癒しを祝福する
「光の雨」をあなたたちに送っています。
もしもあなたが
癒しと許しのサポートを必要とするなら
意識の中で我々に呼びかけるといいでしょう。
癒しとは、真実の自分に歩み寄るときに起こります。
あなたたちが、「自分ではない何か」に向かって走りすぎたとき
癒しとは真逆の状態にあります。
癒しとは、あなたたがを「救うエナジー」ではありません。
あなたが救われたいと願うならば、
そこに本当の癒しはないのです。
癒しとは「私が私として在る」という軸を立てたときに
本当の意味で発生する現象です。
私たちはあなたたちを、サポートすることができます。
それは、あなたが「救われたい」という気持ちから
「自分は自分であることを選ぶ」という軸を持ったときに
本当の意味で共鳴します。
厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが
「誰かに、なにかに、救ってもらいたい」という
弱さの自分では小さな癒やししか生まれません。
逆に「軸を持った自分」を選んだとき
これまでよりも、1(ワン)ランク完全な癒しが始まるのです。
その癒しは「救われるための癒し」ではなく
「元の自分へと返っていく上昇を起こす癒やし」です。
癒しとはパワフルなものでもあります。
よって、あなた自身が大きくシフトすることも
癒しによって生まれるのです。
誰かと協力することは必要です。
しかし、救ってもらう必要はありません。
あなたは「自分を生きる軸」を持っていますか?
誰かや、時間が。解決してくれるのを待っていませんか?
あなたはもう、あなたの力を発揮するときが来ているのですから
あなたが腰を上げて
軸を持ち、「本当の癒し」とつながる時がきています。
私たちクジラ族は
あなたたちとそんな「新しい癒しと許しの共鳴」を
起こせることを心待ちにしているのです。
なぜならばそれは
私たちにとっても「新しい体験と経験」でもあるから
私たちとあなたたちは
ともに進む宇宙の仲間であると、知っていてください。
あなたが目を閉じて、私たちによびかけ
大きな光の鯨をイメージした時、私たちはあなたの側にいます。
そのときに、あなたが軸を持った存在ならば
新しい関りがそこから生まれることでしょう。
【クジラ則の「癒しと許し」のワーク】
①青と白の光の、大きなクジラを頭上にイメージする。
②大きな鯨から、光の雨が降り注ぐ。
③その光の雨で、自分の中が浄化されていく。
・・・
<関連>
(海の)クジラからの大切なメッセージ
ルイーズジョーンズ
2022年5月9日(最終話⑩)
クジラからの大切なメッセージ 【日本の沖合に!!】
Alohapi Channel(2022/05/30)
https://www.youtube.com/watch?v=TxdPRoskFjc
<感謝合掌 令和5年2月7日 頓首再拝>
人の病気を治すには - 伝統
2023/03/07 (Tue) 05:08:51
*「光明法語」(3月7日)より
人の病いを心で治そうと思ったならば、
その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。
観たとおりに現れるのが心の法則であるから、
吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。
病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが
病気を消滅することが出来るのである。
此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。
<感謝合掌 令和5年3月7日 頓首再拝>
すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て。 - 伝統
2023/04/10 (Mon) 05:03:06
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より
ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。
この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。
「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。
あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。
撲り合いはなさらないでしょう。
しかし、本当に満足していますか。
このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って
家族に感謝していられますか。
そうではないでしょう。
『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。
そんな心そのものが病気なのです。
病気は肉体にあるのではありません。
その心にあるのです。
右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。
そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか?
とおっしゃるのですか。
やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、
心の生まれ更わりができていませぬ。
不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。
すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。
もう病気はないのである。」
<感謝合掌 令和5年4月10日 頓首再拝>
利己主義は病気のもと - 伝統
2023/05/04 (Thu) 04:59:24
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月4日)」より
「虫のよい」という言葉がある。
自分だけのことばかり考えて、人のことを考えない利己主義者の別名である。
病気を治してほしいなどと訴えてくる人にこういう虫のよい人が多い。
利己主義者は全体生命と隔離されているから、
全体生命(大生命)が流れ込んで来ない。
それが病気のもとなのである。
虫のよさはまた不平の本である。
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。
「あなたは利己主義だ」と言われてハッと気がついて
神経衰弱の治った人がある。
<感謝合掌 令和5年5月4日 頓首再拝>
虫のよさを捨てることが病気の心を捨てること - 伝統
2023/05/05 (Fri) 09:12:02
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月5日)」より
『生命の實相』全卷を読めば詳しく回答のあることを、
読まずにいて幾回でも長文の質問を列記して返事を求めて来る人がある。
手紙ですめば本は買わずにすむという経済観念でやってくる人には
太刀打ちができない。
かかる人は人の時間がいくばくの価値がある物だか知らないのである。
そのこと自身が自己の心が病気であることを表わしている。
そんな虫のよさを捨てることが病気の心を捨てることである。
返信料を封入してあれば、回答を迫る権利があるかのように思って、
返事が遅れると努号してくる人もある。
返信料は郵政省が収入する。
わたしへの手紙に対するわたしの返事は、返信料の報酬として書かれるのではない。
わたしの好意によって、書かれるのである。
しかもわたしだけが返事を書いていては、
とても間に合わないので、回答係があって返事を書いているのである。
それでも肉筆では、そして便箋幾枚の短文では詳しく説明しえないので、
数百ページの書籍において回答しているのである。
地方へ派遣する講師、みんな回答係のようなものである。
道場は直接回答係の詰所である。
回答係の必要がなかったら本部の建物も講師組織もみな不要である。
われわれは回答係に奉仕せしむるために毎月少なからぬ経費を支出しているのである。
回答を求むる人はこれらの経費を分担してもよいはずだけれど請求したことはない。
生命(せいめい)の悟りに関することを、
古人は「生命(せいめい)」を抛げ出して求めたのだ。
今人(こんじん)は(そのすべてではないが)返信料だけで得ようとする。
ものは出しただけの値打ちである。
<感謝合掌 令和5年5月5日 頓首再拝>
雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す - 伝統
2023/05/12 (Fri) 05:03:10
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月12日)」より
病気の治るまでに、病気の雰囲気を去ることが必要である。
雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す。
幸運の来るまでに幸運の雰囲気を作ることが必要である。
部屋を浄(きよ)め、窓を開き、ガラスを拭き、門前を浄め、
よきお客様が来るような気持ちでせっせと働いておれば、
幸運はたずねて来るのである。
不運な人にかぎって、
ルンペンしか泊まってくれないような
見苦しい雰囲気をその身辺に作っている。
「床を取り上げて起きよ、しかして、汝の周囲を浄めよ。」
<感謝合掌 令和5年5月12日 頓首再拝>
病者へは、思念より真理を理解せしめよ - 伝統
2023/06/19 (Mon) 05:04:45
*「光明道中記」(6月19日)より
【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
(『生命の實相』第四巻)】
凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。
病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも
思念してはならないのである。
病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを
誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。
此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。
けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう相手が
一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。
重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。
思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。
思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。
<感謝合掌 令和5年6月19日 頓首再拝>
利己的な心、 憎む心を捨てる - 伝統
2023/06/20 (Tue) 10:14:48
*「光明道中記」(6月20日《自分の心を調べて見る日》)より
【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
(『生命の實相』第一巻)】
自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。
利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。
憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、
腹につかえるものが残っているからである。
多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても
病気が治らないのであった。
治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。
治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。
『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。
<感謝合掌 令和5年6月20日 頓首再拝>
癒やしを阻害するもの - 伝統
2023/06/23 (Fri) 05:02:59
*「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋
【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時
速やかに崩壊し始める。(『生命の實相』第四巻)】
病気を癒そうと思って神想観をしながら、
癒えないと云う人には6種類ある。
(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。
(2)家族のうちに反対観念者があって、
そんなことで治るものかと強く念じている場合。
(3)憎んでいる人を赦していない場合。
(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。
(5)心が焦(あせ)っている場合。
(6)死に切っていない場合
―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。
利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
恐怖心は利己心から来るのである。
<感謝合掌 令和5年6月23日 頓首再拝>
自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本 - 伝統
2023/07/13 (Thu) 05:01:12
*「光明法語」(7月13日《生命の本源は神》)より
吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。
先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が
治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は
自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。
されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し
神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。
<感謝合掌 令和5年7月13日 頓首再拝>
素直になったとき、万事が道にかない、病は癒える - 伝統
2023/07/14 (Fri) 08:06:29
*「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より抜粋
ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。
道は病気になるものではないから、
吾々の生活が平々凡々何の変哲もないところに
無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、
病気は自(おのずか)ら癒えるのである。
<感謝合掌 令和5年7月14日 頓首再拝>
心の解剖とその浄化こそ真に癒す道 - 伝統
2023/08/03 (Thu) 05:08:11
*「光明法語」(8月3日《心の中の複雑混迷》)より
精神科学の研究家は、病気の大部分は殆どすべて
心に根源を発し、心によって病み、心によって癒される事を知る。
併しながら、それは決して、「病気になる」と思ったから病気になり、
単に「病気は無い」と想ったから治ると云う様な単純なものではない。
病気なんて一切考えないのに病気になった人もあり、
心はその儘で一時治る人もある。
人間の心の内部には
もっと複雑な混輻輳(コンプレックス)があるのである。
この混雑輻輳(ふくそう)極まりなき心の解剖と
その浄化こそ真に癒す道である。
<感謝合掌 令和5年8月3日 頓首再拝>
神の癒しを受けよ - 伝統
2023/08/04 (Fri) 09:34:28
*「光明道中記」(8月4日《常に神を憶う日》)より
【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
『生命の實相』第十一巻)】
神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを知らねばならぬ。
恐れることはひとつもあり得ないのである。
われは神と偕であるからである。
神はすべてのところにましますが故に
その癒しもすべてのところにましますのである。
癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、
これはただ病気をみとめている人々に対してのみ言うところの
方便的語(ことば)に過ぎないのである。
癒しと云うのは神の創造の顕現であり、神の完徳(まったきとく)が
現象世界面にあらわれて来ることに過ぎないのである。
だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とを
みとめるならば、病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは
与えられるのである。
不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
神は無限の智慧、無限の愛、無限の生命(いのち)であり、
世の終わりまで”常に”吾等と偕に在り、吾等を愛し、
吾等を護りつづけていられるのである。
此の不思議なる神または仏の護りを受けようと思う者は
常に神または仏を憶(おも)うことである。
仏典に「衆生仏を憶念すれば、仏衆生を憶念す」とある。
神を、仏を、憶おうとするには常にそれを思い起こさしめる書物を携帯して
少時間を利用してそれを読むことである。
<感謝合掌 令和5年8月4日 頓首再拝>
倶に泣く - 伝統
2023/08/08 (Tue) 10:29:46
*「光明道中記」(8月8日《倶(とも)に泣く日》)より
【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。
(『生命の實相』第ニ巻)】
「倶(とも)に泣く」と云う感じは
自他一体の感じであるから、しみじみと有難く感じられる。
「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。
「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。
人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。
自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。
「咎める」言葉が不結果を招く原因は、
こんな所にもあることが判るのである。
人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。
「愛」の中にこそ聖泉がある。
それは智慧が如何に斫(き)り開いても
発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。
みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。
<感謝合掌 令和5年8月8日 頓首再拝>
大切な人を元気にする霊的方法 - 伝統
2023/09/23 (Sat) 07:13:37
大切な人を元気にする霊的方法
Web:宇宙の兄弟たちへ(2023年7月17日)
https://www.spacebrothers.jp/2023/07/blog-post_17.html
(以下は抜粋です)
(1)明るい言霊で励ます
そういう方に対して、あなた自身が元気を発揮して、
明るい言霊で励ましてあげる事が、まずは良いと思います。
言葉にはエネルギーが乗っていますので、
ポジティブな言霊を相手に投げかけると、
それで明るいエネルギーを受け取ってくれることがあります。
そのため、まずは明るい言霊をプレゼントするというのは、
落ち込んでいる人には良いかと思います。
(2)綺麗なお花をプレゼントする
①お花には妖精のエネルギーがありますので、
相手を癒す効果があります。
②お花を渡す時に、そのお花の妖精さんに、
相手の人を癒してあげてねっと声をかけておきます。
するとエネルギーの働きも活発になる事でしょう。
(3)水のプレゼント
①水には思いや気などを吸収する機能があります。
水に○○さんが元気になりますように、っと念じて渡すと、
それが相手に影響します。
その際に、水道水を使うのではなく、
なるべく天然水を使うのが良いです。
②特に、霊水とか、健康に良いとされる湧き水などがありますが、
それらには何らかの霊的なエネルギーが水に込められている
ことがあります。
そうした水に、相手が元気になるようにと
念を入れて贈るとよいでしょう。
<感謝合掌 令和5年9月23日 頓首再拝>
感謝と調和は一切の病気を癒やす - 伝統
2023/10/01 (Sun) 10:06:40
*「眞理」第2巻基礎篇第9章(P257~258)より
多くの病気は家庭の不調和から起るのである。
何よりも大切なのは夫婦の調和と云う事である。
新潟県新津市の小野澤さんは膿胸(化膿性肋膜炎)にかかって、
それが段々重症になり膿胸(のうきょう)が肺臓の方へ穿孔(せんこう)して、
毎日膿(のう)が肺臓から口腔の方へ三合位づつ排泄されるのであった。
身体(からだ)を仰臥(ぎょうが)しても横臥(おうが)しても、
身体(からだ)を水平にしている限り、
肋膜(ろくまく)に溜っている膿が肺臓から気管の方へ間断なく流れ出るので、
咳が激しく出て一睡も出来ないので、
身体(からだ)を傾斜面にもたらせ辛うじて僅(わず)かな睡眠をとっていた。
医者は何回も死の宣告をしたし、
或る日、ラジオ・ドクターの放送をきいていると、
膿胸が肺臓の方へ穿孔したのは絶対に治らないと云っていた。
小野澤さんはもう死を覚悟したが、
その時、絶対に妻に感謝し決して腹立てまいと決心して
ひたすらそれを実行したのである。
私が長岡市から新発田市へ行く途中、新津に立ち寄ると
小野澤さんは私を出迎えてこんな話をせられたのである。
絶対に医学では治らない先孔性膿胸が、
妻に絶対感謝を実行することによって治ったのである。
小野澤さんの信仰の深さと、絶対感謝の実践とには頭が下がるのである。
甲府市で昨年十月講習があったときには、
山梨県北巨摩郡小笠原村の三澤梅子さん(26歳)が親を恨んでいた
その精神葛藤から自分の肺結核が起こったと云うことを悟り、
絶対に父母に感謝することを実践した結果、
それが完全に治った体験を発表された。
尊いことである。
父母に絶対感謝し、夫婦が完全に調和したとき
膿胸や結核が治ると云う事実は、
物質医学で治らない難症にかかっている人たちにとっての
福音だと云うことが出来るのである。
医学で治らないで悩んでいる人々は一応自分の心持を反省して見て、
あらゆる人に絶対感謝し、周囲の一切のものに一日じゅう
「ありがとうございます」と感謝することを実践して見ることである。
其処から思いがけない奇蹟的な治癒を見ることがあるのである。
<感謝合掌 令和5年10月1日 頓首再拝>
宇宙の大自療力 - 伝統
2023/10/12 (Thu) 15:28:50
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月12日)より
宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。
どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)っても
しばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、
それを浄(きよ)らかな澄みきった海水に変化する力、
皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、
自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちているのである。
しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。
それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。
<感謝合掌 令和5年10月12日 頓首再拝>
人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統
2023/11/06 (Mon) 12:23:29
*「光明法語」(11月6日の法語)より
人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。
医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。
かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。
先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。
<感謝合掌 令和5年11月6日 頓首再拝>
自然療能と云う大生命力の働き - 伝統
2023/11/14 (Tue) 09:53:17
*「光明道中記」(11月14日《執着が無くなる日》)より
【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
『生命の實相』第九巻)】
下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。
「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。
実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。
そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。
凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。
されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。
けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と
切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。
<感謝合掌 令和5年11月14日 頓首再拝>
赦しと愛と平和 - 伝統
2023/11/21 (Tue) 10:07:01
*「光明法語」(11月21日の法語)より
赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。
若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、
「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、
神もわが過ちを赦し給いて
その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」
と思念せよ。
<感謝合掌 令和5年11月21日 頓首再拝>
神の愛の抱擁を思念せよ - 伝統
2023/11/22 (Wed) 09:39:53
*「光明法語」(11月22日の法語)より
更に次の如く思念せよ。
「神の愛の抱擁は優しいのである。
無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが故に、
私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな神の愛に触れている
のである。
だからどんなイライラしさも、
どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。
神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」
<感謝合掌 令和5年11月22日 頓首再拝>
人の病いを癒すには - 伝統
2023/11/23 (Thu) 10:14:53
*「光明法語」(11月23日の法語)より
他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。
自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。
この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである。
<感謝合掌 令和5年11月23日 頓首再拝>
彼の心の悩みを自己にとる事 - 伝統
2023/11/24 (Fri) 14:08:14
*「光明法語」(11月24日の法語)より
人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。
何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。
<感謝合掌 令和5年11月24日 頓首再拝>
彼の悩みを洗浄する法 - 伝統
2023/11/26 (Sun) 09:06:35
*「光明法語」(11月26日の法語)より
人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。
「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。
これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。
「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。
<感謝合掌 令和5年11月26日 頓首再拝>
相手の病いを治す思念 - 伝統
2023/11/27 (Mon) 09:51:54
*「光明法語」(11月27日の法語)より
更に彼が神の子であること、神の肖像(にすがた)としてつくられたる
完全なる存在であること、その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。
相手に念を送るのではなく、自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。
<感謝合掌 令和5年11月27日 頓首再拝>
柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統
2023/11/28 (Tue) 10:12:36
*「光明法語」(11月28日の法語)より
「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。
それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。
傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。
氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。
<感謝合掌 令和5年11月28日 頓首再拝>