伝統板・第二
白鳩箴言~生命の尊重と佛性の囘復 - 伝統
2022/06/01 (Wed) 10:28:31
”道産子 さま” ありがとうございます。
先々月(4月)、道産子さまによる投稿が既に終了していたところの
「白鳩箴言~生命の尊重と佛性の囘復(昭和48年4月)」を、
このスレッドに独立させて、残させていただきます。
”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
(https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251156 からの転載です)
なお、4月の法語ではありますが、
今月(6月)の日付に合わせて紹介してまいります。
四月の箴言 生命の尊重と佛性の囘復 女性のための智慧~谷口雅春先生
昭和四十八年「白鳩」誌四月號
【一日の箴言】 ~”神”は決して單なる個人の空想による觀念的存在ではない
ユングの心理學の本が近く日本教文社から
『ユング心理學』と題して新しく出るさうだが、ユングの心理學は、
生長の家の教義を理解する上に非常に參考になるものなのである。
マルキシストその他の唯物論者は、”神”の客觀的存在を否定して、
”神”とは、人間自身が勝手に發明した空想的存在又は觀念的存在である
と説くのであるが、ユングはそれを次のやうに説明するのである。—-
「心理的な出來事は、我儘勝手な憶測からうまれた恣意的な産物であるとか、
更に進んでは、それらはそれらの生みの親である人間が發明したものであるとか
いふ考へ方に餘りにも馴染んでしまつてゐるわれわれは、
心理やそのもろもろの内容は吾々自身が勝手に發明したもの、ないしは、
色々な推測や判斷にもとづいて多かれ少なかれ空想的にでつち上げられたものに
他ならないといふ先入觀念からなかなか脱却することが出來ないのです。
ところが事實はどうであるかといへば、
ある種の觀念は、伝播や傳承とは全然關係なしに、殆どいたる所で、
しかもあらゆる時代に現はれて來ますし、場合によつては
自然に發生してくることすらあり得るのです。
これ等の觀念は個人によつてつくられるのではなく、
個人の方がこれらの觀念に遭遇するのである。
いやそれどころか、これらの觀念は無理やりに個人の意識の中に
侵入して來るのだのだと言つた方がよいかも知れません」と
彼は強く言い切つてゐるのである。
”神”なる 觀念も、そんな觀念が、たつた一人の個人の心理の中に
表れてゐるだけだつたら、それは單なる心理的主觀的なものだけれども、
「このやうな觀念が、ほとんど到る處で、あらゆる時代に、
一定數以上の共有になつた場合にはそれは客觀的なものである」と
ユングは説くのである。
<感謝合掌 令和4年6月1日 頓首再拝>
【二日の箴言】 ~ ”生命”は單に空想された觀念ではない - 伝統
2022/06/02 (Thu) 09:34:03
”生命”といふ觀念も”神”といふ觀念も同じく、
”生命”そのものは肉眼には見えないものであるけれども、
それは「傳播や傳承」とは全然無關係に、
ほとんど到る處であらゆる時代に、
すべての人種を通じて「一般的同意」を得てあらはれているものだから、
それは客觀的の存在だとみとめてよいものである。
”生命”とは決して單なる觀念ではなく、
個人の恣意的な勝手な空想ではないのである。
そこに「生命尊重」といふ語が「一般的同意」を得て、
個人の利己的私欲的行爲を生命尊重の立場から制約し得る所以があるのである。
<感謝合掌 令和4年6月2日 頓首再拝>
【三日の箴言】 ~ 唯物論では”生命の尊重”は出て來ない - 伝統
2022/06/03 (Fri) 10:00:37
”生命”は單に空想された觀念ではない。
それゆゑに生長の家發祥時の”七つの光明宣言”の第一絛に書かれてゐる。
「吾らは宗派を超越し生命を禮拜し、
生命の法則に随順して生活せん事を期す」
が正當な意義を持つて來るのである。
”生命”が何故尊重せられなければならないかといふと、
それは單なる物質の結合より生ずる化學作用ではないからです。
もしそれが物質の化學作用で「生命」といふものが生れて來、
その生命が大腦を作り、大腦から精神が生れて來て、
そのために苦痛の意識や惱みの感情がわいてくるのであれば、
その化學作用の根源となる物質の結合(肉體)を破壊してしまふならば、
苦痛も惱みもなくなる
――それこそ”根本的救ひ”といふことになるはずである。
つまり「安樂殺人」が根本的救濟といふことである。
このやうな唯物論的人間
觀からは「生命の尊重」といふ事は發生しがたいのである。
更に況んや「生命を禮賛」といふやうな
深い心境は生れて來ないのである。
<感謝合掌 令和4年6月3日 頓首再拝>
【四日の箴言】 ~ ” 生命の尊重”に人類全體の”一般的同意”が得られるのは - 伝統
2022/06/04 (Sat) 10:37:51
”生命の尊重”が叫ばれると、殆どすべての人間が、
場所も時も人種も超えて「一般的同意」(general consensus)を與へた
といふ事實は、
”生命”といふものの實在(實在しないものは尊重に價しない)を
すべての人間が潜在意識の底に信じてをり、”生命”といふものが
物質の單なる化學的結合によつて生じたものではないといふ事を知つてゐる
證據だとみとめられるのである。
<感謝合掌 令和4年6月4日 頓首再拝>
【五日の箴言】 ~生命は何故尊重されるか - 伝統
2022/06/05 (Sun) 09:18:52
”尊重”の感情が湧いて來るのは、そのものに”價値”があるからである。
”價値”があるのは、そのものが”本當に存在する”からである。
”価値”があると思つて貰つたものが、掌の上で消えてしまつたならば、
それは”價値”がないのであり、”價値”があるとだまされてゐたのである。
”生命の尊重”といふものが尊重されるには、
それは”本當に存在する”からであり、
”本當に存在する”ものを”實在”といふのである。
”生命”はそれみづから實在する。
それゆゑにそれは尊敬され尊重されるのである。
<感謝合掌 令和4年6月5日 頓首再拝>
【六日の箴言】 ~ 神モーセにその名を語り給ふ - 伝統
2022/06/06 (Mon) 11:38:23
”生命”は實在する。
それゆゑに生命は「實在」である。
唯一の「實在」は”神”のみである。
モーセがエジプトからの俘囚から解放される直前の出來事である。
モーセが家畜の群れを引き連れてホレブの山に到れるとき、
棘(しば)の中の輝く焔の中に”神”が現れたまふ。
モーセこれを見るに棘が炎に包まれてあるのにその棘燒けず。
神言ひ給ふ
『我必ず汝と共にあるべし。
是はわが汝をつかはせる證據なり。
汝、民をエジプトより導きい出したる時、汝らこの山にて神に事へん』と。
モーセ神にいひけるは、
「我イスラエルの子孫(ひとびと)の所にゆきて、汝らの先祖等(たち)の神、
我をなんぢらに遣はしたまふと言はんに、
彼等も其の名は何と我にいはば何とかれらに言ふべきや」
神モーセにいひたまひけるは
「我はありてある者なり」
神またモーセにいひたまひけるは、
「汝かくイスラエルの子孫にいふべし”我有り”といふ者、
我をなんぢらに遣はしたまふと」(『出埃及記』
これが唯一神なる實在者なる神のみ聲である。
<感謝合掌 令和4年6月6日 頓首再拝>
【七日の箴言】 ~ 神は名前を付けて限定することはできない - 伝統
2022/06/07 (Tue) 09:03:27
神は本來”無名”であり給ふ。
神は絶對者であるから、限定しがたきものである。
若し名前を付けたら、名前の表現し得る内容にしたがつて、
それだけ”神”を限定してしまふ事になるのである。
だいたいモーセが神のお名前をたづねたことが、
まだ彼が”神”を人間と對立的にある存在だと見てゐた
モーセの妄想からである。
もっとも棘の燃えずしてしかも輝く焔の上る靈光の中から
神はモーセに語り給ふたのであるから、モーセにとつて見れば、
その神は、自分の外にあつて自分に對立してゐる神であり、
多神教的に色々の神々の中のひと柱の神であると感じたのも無理はないのである。
<感謝合掌 令和4年6月7日 頓首再拝>
【八日の箴言】 ~ ”ヱホバ神”の本當の意味について - 伝統
2022/06/08 (Wed) 10:26:04
神はその時、「我有り」といふ者が自分だと答へられたのである。
英語聖書では「我有り」と和譯された部分をI AMと英譯されてゐるのである。
すべての人に、物に、宿り給ふI AMこそが、
「我有り」(われは實在者なり)といふ”神の本體”なのである。
即ちすべての人に物に宿り給ふ「内在の神性」が「我有り」なのである。
ヘブライ語では、この「我有り」といふ語をYahowah(ヱホバー)と言ふので,
神はモーセの問に答へて「ヱホバー」と言ひ給うたのである。
人々これを勘ちがひして「ヱホバ」といふ固有名詞の名前の付いた神だと思つて
「ヱホバ神」といふ個別的な神にしてしまつたのである。
<感謝合掌 令和4年6月8日 頓首再拝>
【九日の箴言】 ~ 舊約の靈媒的豫言者にあらはれたるヱホバ神 - 伝統
2022/06/09 (Thu) 09:40:28
舊約聖書には、多くの”靈”が「ヱホバ神」の名を用ひて
諸々の豫言者に靈媒的現象を起させて豫言をしてゐるのである。
その豫言の中には正しいものもあれば、荒唐無稽なものもある。
「本當の神は靈媒にはかからぬ」のである。
しかし時にはある階級の正しき高級靈が、
宇宙不遍の「唯一神」の神意を受けて、”唯一神”の名のもとに
神意を傳へるところの正しき預言を語ることがある。
それは、勅使が、一天萬乗の天子の御諚を携へて來て
天使の名に於てその御諚を朗讀するのにも似てゐるのである。
だからそれらの預言には、實際、神意を傳へてゐる部分も多いのである。
<感謝合掌 令和4年6月9日 頓首再拝>
【十日の箴言】 ~ 「われは何々である」といふ通りにあらはれる - 伝統
2022/06/10 (Fri) 11:10:04
モーセが、棘の燃ゆるが如き靈光の中にあらはれた神に對して
「その神樣のお名前は何と傳へたらよろしうございますか」とたづねたのに對して、
神は「我有り」(I AM)とも言はれたが
「我有りて在る者なり(I AM that I am・・・・)」
と先ず答へられてゐるのである。
これは
「われは心の法則として汝の内に宿るところのものなり」
といふ意味なのである。
(I AM that I am・・・・)を直譯するならば、
「我は” I am sick”(私は病氣です)」と言へば
病氣の姿を以てあらはれるものであり、
”I am son of God”(われは神の子”である)と言へば
”神の子”の完全な姿をもつてあらはれるところの
唯心所現的實態であるといふ意味である譯である。
だからわれわれが言葉を使ふ場合、
「われは何々である」といふ其の”何々”を
「立派なもの」に定置しておかなければならない。
われわれは言葉を慎んで、
苟くも惡を表現する言葉を慎まねばならないのである。
<感謝合掌 令和4年6月10日 頓首再拝>
【十一日の箴言】 ~ 一遍上人の語録は素晴しい - 伝統
2022/06/11 (Sat) 11:28:47
最近『念佛信仰の神髄』と題する善い本が谷口清超宗教論集の
完結集(第十二巻)として出たのを讀んだ。
一遍上人の法語の神髄を解説した眞理の書であるが、
序文よりも本文が素晴しい。
”決定(けつじょう)往生の信たらずとて人ごとに歎くはいはれなき事なり。
凡夫のこころには決定なし。決定は名號なり。しかれば決定の信たらずとも、
口にまかせて稱せば往生すべし。是の故に往生は心によらず。
名號によつて往生するなり。”
といふのが一遍上人の法語の一節である。
「口にまかせて稱せば往生すべし」といふ事があり得るのは、
人間の本體はI AMであり、
「南無阿彌陀佛」(英語で譯せばアイ アム ナミダブツ)といへば、
自分自身が阿彌陀佛になつてしまふのである。
往生極樂がこの身此の儘、今實現するのである。
名號の秘密神通力ともいふべき不可思議力は、神は「唯心所現の法則」として
萬人に宿つてゐられるのであるからである。
兎も角一遍上人の語録の清超先生の解釋を幾度も心讀して
自己に宿る秘密神通力を悟られるがよいと思ふ。
<感謝合掌 令和4年6月11日 頓首再拝>
【十二日の箴言】 ~ 自分が阿彌陀佛になり切る - 伝統
2022/06/12 (Sun) 13:19:20
一遍上人の語録には、
「決定といふは名號なり。わが身わが心は不定なり。
身は無情遷流の形なれば念々に生滅す。心は妄心なれば虚妄なり。
たのむべからず」
となる。
身は無情であつて常に變化して念々に
その細胞は死滅して新生細胞にとつて代られる。
そんな肉體の腦髄から生じた”心”なんて他愛もない。
ニセモノの心である。
そんな心で信心して極樂へ生れるとか、
そんな肉體の唇で稱名をしたところが何の役にも立たぬ。
變化無情の”非存在の者”が信心しようが稱名しようが、
そんなことで人間が極樂往生できるわけではない。
そんな虚妄の體を捨てなければ本物が出て來ないといふのが
一遍上人なのである。
體を捨てていのちぜんたいが名號そのものになり切る。
自分の實相が阿彌陀佛であり、
その實相即ち名號が名號を稱へて阿彌陀佛に成り切る。
これが即得往生極樂なのである。
<感謝合掌 令和4年6月12日 頓首再拝>
【十三日の箴言】 ~ 大信心は佛性の發顕である - 伝統
2022/06/13 (Mon) 09:58:56
その事を一遍上人は、
「我が體を捨て南無阿彌陀佛と獨一なるを一心不亂といふなり。
されば念々稱名は念佛が念佛を申すなり」
と説かれてゐる。
これは親鸞聖人の和讃に
「信心よろこぶその人を如來と等しと説き給ふ。
大信心は佛性なり。佛性すなわち如來なり」
とあるのと同じである。
―― 即ち佛性が大信心を起すのであり、
その佛性とは自己に宿る如來である。
如來が念佛して如來の實相があらはれるのである。
<感謝合掌 令和4年6月13日 頓首再拝>
【十四日の箴言】 ~ 瓦礫は磨いても寶石にはならない - 伝統
2022/06/15 (Wed) 07:30:26
本来、如來でない者がいくら念佛しても如來になれるものではない。
本來寶石でない瓦礫はいくら磨かれても寶石にはなることは出來ない。
寶石のみが寶石になれるのである。
如來のみが如來になれるのである。
人間は本來如來なのである。
念佛は如來がするのである。
如來が念佛して、如來の實相があらはれるのである。
<感謝合掌 令和4年6月15日 頓首再拝>
【十五日の箴言】 ~ 妄念が念佛して何の甲斐もない - 伝統
2022/06/15 (Wed) 07:31:40
谷口清超氏の『念佛信仰の神髄』には、一遍上人の
「・・・・・我よく意得、我よく念佛申して往生せんとおもふは、
自力我執がうしなへざるなり。
おそらくかくのごとき人は往生すべからず。
念不念・作意不作意、總じてわが分にいろはず、
唯一念佛に成るを一向専念といふなり」
といふ語錄を引用して、
”罪人である「私が」「念佛を」申して「往生せん」と思ふやうなバラバラの信仰ではない。
そのやうな信仰は自力我執であつて本當の他力絶對の信仰ではあり得ない。
「私が」「念佛する」といふ場合には、
もうその「私」なるものは「念佛」と離れた「私」である”
と説いてゐられる。(『念佛信仰の神髄』参照)
一遍上人によれば我執のある肉體人間が念佛しても、それは何の甲斐もない。
「妄執は所因もなく實體もなし」と説いてゐられるのである。
<感謝合掌 令和4年6月15日 頓首再拝>
【十六日の箴言】 ~ 地獄も極樂も自分の心の中にある - 伝統
2022/06/16 (Thu) 07:43:49
妄執が念佛に執著して極樂へ往かうと思つても
「所因もなく實體もない妄執」が極樂へ行かれる譯はない。
妄執や執著がなくなつたとき、そこに極樂があるのである。
念佛妄執で、念佛に執著して他宗と喧嘩してゐる宗教家もある。
その喧嘩の心の相が修羅の妄執であり、
修羅道に墜ちてゐるのだといふことが出來るし、
その互に責め合ふ相が地獄の有様であり、
地獄に墜ちてゐるといふ事も出來るのである。
責め合ふことがなくなり、妄執に縛られなくなつたとき
そこが極樂であるのである。
<感謝合掌 令和4年6月16日 頓首再拝>
【十七日の箴言】 ~ 極樂とは場所ではない - 伝統
2022/06/17 (Fri) 07:23:50
一たい極樂とは如何なる境であらうか。
それは一定の面積を持つた場所の事ではないのである。
完全に繋縛から脱して、何にも縛られなくなつた自由解脱の境なのである。
極樂は場所ではなく境涯である。
<感謝合掌 令和4年6月17日 頓首再拝>
【十八日の箴言】 ~ ”救はれる”といふこと - 伝統
2022/06/18 (Sat) 07:46:05
一體、宗教的に”救はれる”といふ意味は如何なることであるであらうか。
”救はれる”といふことは、
何ものにも縛られない自己解放を得ることなのである。
色々の煩惱に縛られて自由を失つた狀態のままで
「罪ある儘で救はれる」といふ言葉に騙されて、
たとひ「ここは極樂淨土です」と標札がたてられてゐる場所に入れてもらつても、
その人の心がクヨクヨといろいろの俗世間の出來事に煩はされてゐる心を持ち、
肉體の欲望に縛られて渇欲にさいなまれてゐるならば、
いくら住む場所が淨土であつても、その人は「救はれてゐない」のである。
<感謝合掌 令和4年6月18日 頓首再拝>
【十九日の箴言】 ~ 人間の”救はれる可能性” - 伝統
2022/06/19 (Sun) 07:39:22
人間が少なくとも救はれる可能性があるならば、
今は濁つて不透明な原石だけれども、その原石の奥底を磨けば
、完全な光を發する寶石となる本質があるとのと同じやうに、
人間の本質に、一見その不透明な濁つてゐると見える肉體的欲望の
その奥に”本來救はれてゐる本質”があるからなのである。
宗教といふのは、その”本來救はれてゐる本質”(即ち實相)をあらはすために、
色々の修行又は行持を行はしめることによつて人々を導くのである。
その導き方の相異によつて宗派が分かれて來るのであつて、
「人間を救ふ眞理」が宗派によつて色いろ異なつてあるといふ譯ではないのである。
<感謝合掌 令和4年6月19日 頓首再拝>
【二十日の箴言】 ~ 華嚴の”三無差別”と白隠の”坐禪和讃” - 伝統
2022/06/20 (Mon) 07:34:14
白隠禅師は、その”本來救はれてゐる人間の本質”について、
その御作「坐禪和讃」の中に單的に次の如く説いてゐるのである。
衆生本來佛なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に佛なし
衆生といふのは一般生類すなわち「生きとし生けるもの」を
意味するのであるが、狭い意味にとると”人間たち”とか
人類とかいふ意味である。
時には”凡夫”といふ意味に使はれる語でもある。
人間が救はれるのは、人間は本來佛であつて、
はじめから救はれてゐる本質(實相)をもつからである。
華嚴經には「心(しん)・佛・衆生・三無差別(むしゃべつ)」と説かれてゐる。
”心(こころ)”が悟れば”佛”となり、
”心”が迷へば”衆生”となるといふ意味である。
佛といつても衆生が離れてあるのではないといふことである。
このやうな場合には”衆生”は”凡夫”といふ意味につかはれてゐる。
華嚴の” 三無差別”と白隠禅師の
「衆生本來佛なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に佛なし」
とは一應一致するのである。
<感謝合掌 令和4年6月20日 頓首再拝>
【二十一日の箴言】 ~ 人間の實相は凡夫であるか如來であるか - 伝統
2022/06/21 (Tue) 07:27:02
私は大分以前の講習會で華嚴經の一節を講義してこの
「心・佛・衆生・三無差別」の思想を批判して、
「心が悟れば佛に成り迷へば衆生となる」といふ句には
一つの陥穽(おとしあな)があるのであつて、多くの佛教者は
此の陥穽にひつかかるといつて指摘したことがある。
即ち人間の實相は、
”心が迷へば衆生となり、その衆生の心が悟れば佛になる”では、
”衆生”の方が實相なのか、”佛”の方が實相なのか、
差別なくどちらが、實相なのであるか有耶無耶になつてしまふ。
つまり”心”といふ者は無自性の”空”なるものとなり、
人間の本體が” 無自性であるならば、如何に生きるが正しいのであるか
基準も理想も規範もなくなる。
これを白隠の如く水をもつてたとへれば、
”水”を”心”の譬とし、蒸氣を”衆生”の譬とし、氷を”佛”の譬とした場合、
衆生が實相であるか、佛が實相であるか不明となる。
”水”が本來の姿なのか、
”氷”が本來の姿なのか、
蒸氣といふ”ガス體”が本來の姿なのか、
この三者のうち主體はどれであるか判らなければ、
人間は、蒸気として生きるのが正しいのか、
氷となつて生きるのが正しいのかわからなくなる。
だから南方の佛教者は「實相・完全の姿」を生活し得ずして
”空”に捉はれ、乞食のような貧しい生活をし、
國家までも空じ去つて、その國が滅びてしまつてゐるのである。
<感謝合掌 令和4年6月21日 頓首再拝>
【二十二日の箴言】 ~ 實相獨在・圓滿完全・萬福現在 - 伝統
2022/06/22 (Wed) 07:31:18
人間の生命の實相は”佛”であり、”如來”であり、”神の子”なのだと
生長の家では大声疾呼するのである。
たとひ”心”が迷つて”凡夫”となつてあらはれてゐても、
本當は”心を觀ずるに心無し”であり、(『觀普賢菩薩行法經』)
從つて、その本來無い心が悟つて成る”佛”も無しであり、
況んや”心”が迷つて生ずる”凡夫”もないのである。
ただ「萬福現在」の實相のみが獨在する。
それ故に我らは、
「實相獨在・圓滿完全・萬福現在」
といふ聖句を常に誦行するのである。
<感謝合掌 令和4年6月22日 頓首再拝>
【二十三日の箴言】 ~ 死の刹那に於ける人間の念力 - 伝統
2022/06/23 (Thu) 07:34:58
水と氷の譬で思ひ出したのであるが、白隠は二十四歳の時、
越後の高田の英巖寺で催された夏安居(げあんご)に加はり、
性徹和尚の下で修行してゐられた時、
たまたま『正宗賛(しょうじょうさん)』といふ禪書に、
禪家の大徳嚴頭和尚が常に衆に向つて
「老僧去る時、大吼一聲して了つて去る」といつていたが、
その語の通りに賊の爲に首を斬られ、その刹那大いに叫んだその聲が、
數里の彼方に聞えたといふ公案が書かれてあつた。
白隠はこの嚴頭和尚臨終の奇蹟を讀んで、
「嚴頭和尚のやうな高僧の老師でさへも
賊の爲に首を斬られるやうな災難に遭ふのはどうした事だらう。
どこかに矢張り迷があつたのだらうか。
さうすれば私のやうな凡人がどうして長夜の心の迷から醒めて
悟りを開くことが出來るであらうか」
と大いに惱んだのであつた。
しかし本當は、嚴頭、死の刹那の奇跡的大音聲は
不思議でもなんでないのである。
これは心靈學上時々引例せられる「死の刹那における人間の念力」として
知られるものであつて、
難破した船の乗組員も刹那に家族を思ひ詰めたその念力で、
數百里を隔てた郷里の父母や妻子の枕元に姿を現す如き
實例が隋分あるのである。
<感謝合掌 令和4年6月23日 頓首再拝>
【二十四日の箴言】 ~ 「念體」といふもの - 伝統
2022/06/24 (Fri) 07:28:03
死の刹那に於ける人間の念力が、個性を持つた”念體”といふ
獨立した靈體を以て活動し、その死者に生前又は死の直前加害を
與へたところの人を惱ます實例などは市井の度々見られるところの事である。
殺人犯人が、警察の手を逃れて諸方に匿れ隠れしてゐても、
夜な夜なその被害者の靈が枕邊に出て惱ますので、苦しくて仕方がないので、
つひに「こんなに苦しい位なら自首して出て刑を受けた方がましだ」と
自首して出る實例も時々ある。
こんな例では、それは加害者本人の良心のトガメから來た妄想だと
いふ解釋もあるであらうし、その解釋が正しい場合もあるであらうが、
實際「念體」(怨靈)が惱ます場合も屢〃あるのである。
<感謝合掌 令和4年6月24日 頓首再拝>
【二十五日の箴言】 ~ 首を斬られた嚴頭和尚は無かつた - 伝統
2022/06/25 (Sat) 07:33:36
白隠の一大疑團は、そんな實例が「念體」か「良心の譴(とがめ)」の疑問でなく、
「このやうな大徳が盗賊に首を斬られて死ぬ」といふやうな悲惨な果報を
受けなければならぬのは何故であらうかといふ疑惑であつたと思はれる。
この問題を解決しなければならぬと白隠は、
坐禪瞑想に専念して三昧の境地に入つた時、
「阿可々!! 嚴頭和尚・萬福現在。
生死(しょうじ)の厭ふべきなく、
涅槃の求むべきなし」
と大悟したといふ事である。
白隠は「ア、可々」と大笑したのだ。
禪師は「現象の無」を悟つたのであつた。
そして實相の嚴頭和尚を悟眼を持つて見た時に、
既に萬福現在・五體圓滿具足してゐて、
首の刎ねられてゐない完全な相を見たのである。
首をはねられるとか、生きたとか死んだとか、迷つてゐる自分が今、
涅槃の境地に入つたとか、そんなことは迷人夢中の幻影であり、
涅槃を求むべきもなく、厭つて免れるべき生死流轉もない。
既に萬福現前する如來(神の子といつてもよい)そのものが
人間の實相であると大悟したのである。
<感謝合掌 令和4年6月25日 頓首再拝>
【二十六日の箴言】 ~ ”凡聖(ぼんしょう)不二”か”凡聖不一”か - 伝統
2022/06/26 (Sun) 07:27:29
水と氷との譬で、連想されるのは、
”凡聖一如”とか
”迷悟不二”とか
”生佛一如”とかいふ
佛教の成句があることである。
けれども、これは大變誤解されやすい言葉である。
凡夫とあらはれ、聖人とあらはれ、
”迷”とあらはれ、悟りとあらはれ、
衆生とあらはれ、佛とあらはれるのが、
皆、”不二”であり、”同一”であるならば、
何も悟る必要もない譯だ。
彌勒菩薩も五十六億七千萬年修行してから彌勒佛に成る必要もない譯だ。
だから凡夫と聖人とは”不一”である。つまり凡聖不一である。
しかし、凡夫が悟れば佛となる――これは”佛”といふ別人が
出て來るのではなく、同一人が聖人または佛となるのである。
さうすれば凡聖不二であり、凡佛一如である。
凡夫とあらはれるのも、聖人とあらはれるのも、
別人でなく同一人であるからだ。
”凡聖不一”であると共に、 ”凡聖不二”でもある譯だ。
<感謝合掌 令和4年6月26日 頓首再拝>
【二十七日の箴言】 ~”現象佛”も”現象凡夫”も本來無し - 伝統
2022/06/27 (Mon) 07:40:54
「凡聖不二か、凡聖不一か」「凡佛不二か凡佛一如」の微妙な問題を、
もつと明解に説くことができないだらうか。
そこで生長の家はかく説くのである。
―― 悟つて佛になつたり、また迷つて衆生に成つたりするやうな
グラグラと迷悟の間をふらついてゐるやうな
「「心・佛・衆生三無差別」のやうな”現象佛”も、”現象凡夫”も
本來無いのだと。
それなら本來本當にあるのは何か
といふ問に答へて、それは、現象佛や現象衆生の去來や轉換を
超越して存在する圓滿完全・萬福現在の、實相如來である。
その實相如來こそ自分そのものであるのだと説くのである。
<感謝合掌 令和4年6月27日 頓首再拝>
【二十八日の箴言】 ~ 生死・涅槃ともに昨夢の如し - 伝統
2022/06/28 (Tue) 07:30:52
この事を『圓覺經』には、
「始めて知る衆生本來成佛、生死・涅槃、猶、昨夢の如し」とあるのである。
「人間は本來如來であつて、悟つてから如來になるのでも佛になるのでもない、
本來如來が實相である。
生死の世界を去來したり、迷を去つて涅槃(さとり)の境地に入る
などといふことは、なほも昨日の夢の如しぢや」
といふのがこの『圓覺經』の意味である。
<感謝合掌 令和4年6月28日 頓首再拝>
【二十九日の箴言】 ~ すべての人間は如來の智慧徳相を本具する - 伝統
2022/06/29 (Wed) 07:23:35
佛子、如來の智慧徳相、所として遍ねからざるなし。何を以ての故に。
一衆生として如來の智慧を具有せざる者なければなり。
只妄想顚倒(もうぞうてんどう)の執著を以て、而も證悟せず、
若し妄想を離るれば一切智,自然智、無礙智現前する事を得ん。
(『法華經』如來出現品)
『涅槃經』には
「一切衆生悉く佛性あり煩惱の覆ふが故に見る能はず。」とある。
一切衆生本來、佛の徳相を具有してゐるのに、それをあらはれないのは、
『法華經』に於ては” 妄想顚倒”の執著が覆ふが故にと説かれてゐる。
これによつて是を観れば
「妄想顚倒による執著」と「煩惱」とは同一のものである
といふことが解るのである。
從つて、本来本具の圓滿完全な如來の智慧徳相(實相)をあらはすには、
「妄想顚倒による執著」即ち「煩惱」を去ればよいといふ事になるのである。
<感謝合掌 令和4年6月29日 頓首再拝>
【三十日の箴言】 ~ 如來の智慧徳相を顯現するには - 伝統
2022/06/30 (Thu) 07:32:47
さて人間本來の實相たる” 如來の智慧徳相”を如實に顯現するには
どうすればよいかの問題に入る。
その事こそ、宗教の唯一最高の目的であるのである。
わたしは”「妄執」や「執著」がなくなつたとき、そこに極樂があるのである”と
十六日の項(ところ)に書いておいたが、
妄執や執著や、顚倒妄想や、煩惱を無くするには如何にすべきであるかといふと、
これらの事は”心”が因になつて、その”心”が何かに引つかかって
” 顚倒”すなわち”在るもの”(實在)を無いと思ひ、
”無いもの”(虚妄)を有ると思ふサカサマの思ひを起すのであるから
「無心」になれば人間本具の實相たる「如來の十全なる智慧徳相を覆ひ隠す
”妄信”がなくなるから實相十全の姿がそのままにあらわれることになる
といふのである。
宗教は宗派によつて”無心”にならしめる方法や行持などが異なるが、
“口誦念佛”では、その念佛する聲に散亂する心が集約されて散亂しなくなり、
それがつひに一點の焦點に集約される時、その一點もなくなつて、”無心”になり、
ただ念佛が念佛白す境地になり、如來の實相がそのままあらはれることになるのである。
生長の家の練成會では「實相圓滿完全」の語を繰り返し誦行する
――その誦行の聲に心が集約されて”無心”となり、
肉體の私のはからひの誦行がなくなり、
われわれの生命の本質にある「實相圓滿完全」そのままが誦行してゐることになる。
「實相が實相する」のであつて假相の不完全さは自然に消えるのである。
またわれわれは神想觀といふ實相を瞑想する方法によつて、
妄信を去つて”眞實心”(實相の心)のみを引出すのである。
すべてのあしき業因、業緣、業果は假妄(けもう)の心から生ずるのであり、
” 假妄の心”を去らうと思へば” 假妄の心”をつかんで、
それを「去らう、去らう」と努力しても駄目である。
「實相」の念に心が集中して”無心”となれば
自然に” 假妄の心”は消えるのである。
甘露の法雨には
「假相(かそう)に對しては實相をもつて相對せよ」と
訓へられてゐるのである。
また「闇に對しては光を以て相對せよ」とも訓へられてゐる。
神は一切の惡をつくらないのであるから、
一切の惡は妄想より生ずるのである。
その妄想さへ消してしまへば、
いままで隠覆されてゐた佛性の完全さがあらはれる。
その妄想は、”妄想”といふものがあるのではなく、實相を
隠覆した陰影みたいなものであるから、
闇を消すのには唯燈をともせばよいのと同じく、唯、
實相の方へ心を轉ずればよいのである。
その實相を唯觀する修行が神想觀なのである。
『觀普賢菩薩行法經』には、
「一切の業障海は、皆妄想より生ず、
若し懺悔せんと欲せば端坐して實相を念へ。
衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す。」
と示されてゐるのである。
懺悔とは今迄の一切の迷誤を洗い淨めることである。
唯觀實相の神想觀を修すれば「慧日」すなはち智慧の太陽が、迷夢を、
たとへば朝露が日光に照らされて消えてしまうやうに衆(もろもろ)の
隠覆(やみ)を消去して實相の圓滿完全さを堂々と顯現させてくれるのである。
(おわり)
<感謝合掌 令和4年6月30日 頓首再拝>