伝統板・第二

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実相を観よ(Look into the reality) ⑤ - 伝統

2022/06/01 (Wed) 06:16:52

宝樹華果(ほうじゅけか)多くして衆生の遊楽する処

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。

「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」
と云う『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、
既に肉眼では見えないが波長を合わしさえしたならば
現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように今此処に既にあるのである。

現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから
不調和なものばかりが現れて来るのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「実相を観よ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6922622

(2)伝統板・第二「実相を観よ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7669466

(3)伝統板・第二「実相を観よ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7910498

(4)伝統板・第二「実相を観よ(Look into the reality) ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8021479

         <感謝合掌 令和4年6月1日 頓首再拝>

実相を諦観せよ! - 伝統

2022/06/24 (Fri) 07:30:01


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは
同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、
未だかつて憤(いきどお)ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
本来円満完全なる仏身なり」    (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、
円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

        <感謝合掌 令和4年6月24日 頓首再拝>

人を観るには、その人の絶対価値の顕れを見よ - 伝統

2022/06/28 (Tue) 07:37:40

          *「光明道中記」(6月28日)より抜粋

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

        <感謝合掌 令和4年6月28日 頓首再拝>

罪・病・死は浮雲の陰影、実相は円満完全 - 伝統

2022/07/06 (Wed) 07:36:59


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月6日)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、
やはり金殿玉楼に錦秋を纏うて眠っているということの事実を
否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、
万(よろず)のよきものが充満している世界であるのだということに
まちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは
肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に

「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
 安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり・・・
 わが浄土は壊せざるに、衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」とあるのを、

たいていの仏教者は、

「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
 心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、
 立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝がいっぱい飾ってあるのも
 同じようなものだ。

 この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
 釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、
 いつも花降るような心境にいられるのだ」

というような意味に解釈しているのであるが、
これはすこぶる浅い解釈だと言わなければならないのである。

快川禅師の
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、
その実相円満完全の表面に、心頭を滅却したり、心境を一変したり、
向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。

三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 令和4年7月6日 頓首再拝>

本来清浄 - 伝統

2022/07/17 (Sun) 07:00:38


        *『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より

【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。
                     (『生命の實相』第七巻)】


五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。

或る時その弟子達を集めて、
「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 
と言った。

千人の弟子のなかでは
神秀上座(じんしゅうじょうざ)が押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。


   身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 
   心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
      
   時に払拭(ふっしょく)して
   塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。


「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、
神秀上座をひそかに招(よ)んで、
尚その本来塵埃なく、本来罪なき人間の本性を徹見すべきことを
諭したと云うことである。


米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと
神秀上座の句をもじって、次の如く落首した。――


   菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
       本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。


その落首が評判になった。

師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとづれ、
汝こそ第六代の祖師となる資格があると、法衣を譲って、
夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。

            <感謝合掌 令和4年7月17日 頓首再拝>

迷い心なし! 実相心あるのみ! - 伝統

2022/07/18 (Mon) 08:02:23


      *『光明道中記(7月18日)』より抜粋

神秀上座の一句

「身は是菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡の台の如し」には
まだ「肉体の存在」をみとめ、「迷う心の存在」を認めている。

五祖弘忍が法衣を譲らなかった理由である.

「菩提(さとり)には樹(じゅ)無し 明鏡は台に非ず」と
明耿々(めいこうこう)たる実相心のみを悟った慧能は
まさしく生長の家の悟(さとり)に到達していた。

         <感謝合掌 令和4年7月18日 頓首再拝>

《妄想を去って実相を見よ》 - 伝統

2022/07/21 (Thu) 09:13:03


       *「眞理」第2巻基礎篇第2章(P41~42)より

あなたの欲するものが中々得られないと思われますか。
それは単に妄想に過ぎません。

あなたの欲する事物が時間・空間に隔てられて遠くにあると思われますか。
それは単に妄想に過ぎません。

誰かが、あなたに幸福が来るのを妨げているのだとお考えになりますか。
それも妄想に過ぎません。

その妄想にあなたが屈従していられる限りは、
その妄想の通りに、あなたに幸福はやって来ないように見えます。

しかし妄想は何処(どこ)まで往っても真実ではありません。
それはウソであり仮面に過ぎません。

何故(なぜ)なら三界は唯心(ゆいしん)の所現であり、
あなたが信ずる通りに事物はあらわれ、
あなたがどうしても信ずることが出来ないことは出て来ないからであります。

実相(じっそう)を見なさい。

其処に貴方(あなた)の欲するものは既にあるのです。

         <感謝合掌 令和4年7月21日 頓首再拝>

實相を悟る - 伝統

2022/07/27 (Wed) 10:36:42


  實相を悟ると申候事

  今此處の生命を神のいのちなりと知る事に有之候



  實相を悟るとは觀ずれば顕はれ

  觀ぜざればあらはれ申さず候



  善のみを觀じて

  此處實相天國と觀ぜられ候
        
             雅  春 書


  
 ※久山信也氏あての書翰
谷口雅春先生に帰りましょう・第二
「悟り」  谷 口 雅 春 先生NEW (5674)
日時:2017年04月05日 (水) 06時28分
名前:童子
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1344

         <感謝合掌 令和4年7月27日 頓首再拝>

「今」「此処」既に円満完全の実相に感謝する - 伝統

2022/07/29 (Fri) 07:58:39


        *『光明道中記(7月29日 日々是れ好日と知る日)』より

【漂える雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが姿なり。(『生命の實相』第十一巻)】


雪峰(せっぽう)の法嗣(あとつぎ)に雲門和尚と云う人がある。
その雲門がある日公案を出して
「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後一句を道(い)い将(も)ち来れ」
と言った。

その問は十五日に提出されたものであるから、
「十五日已前」と云うのは過去を指し、
「十五日已後」と云うのは、これからの現在どう生きて行くかと云うことである。

師の意を揣(はか)りかねて誰もこれに門下の者は答えることが出来なかったので、
雲門和尚は「日々是れ好日(こうにち)」と自分の問に自分で答えた。


生長の家で言うならば、「そのまま素直に難有(ありがた)い」であり、
「今を生かせ」であり、「今の中に久遠があり」である。
日々を難有いとしてその日の行事に励むのが「日々是れ好日」である。

烈日燬(や)きつくすようでも、
それは好いお旱(ひでり)を頂いたのであって、ただ難有いのである。

風が吹いたからとて、風があるので害虫が育たず、
雨が降るので植物が育つ。

若し雨が降り過ぎて家が流れ、田畑に損害があるならば、
それは業(ごう)の自浄作用としてただ難有いのである。

 
動き流れる雲の彼方に「今」実相の円満そのままの姿を見る者は幸いなるかな。

         <感謝合掌 令和4年7月29日 頓首再拝>

實相円満の相(すがた)を見よ - 伝統

2022/07/30 (Sat) 07:10:28

超個人的精神上の観念

       *「光明法語」(7月29日)より)

バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。

併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。

そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。

              ・・・

實相円満の相(すがた)を見よ

       *「光明法語」(7月30日)より)

この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。

神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。

併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。

一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。

         <感謝合掌 令和4年7月30日 頓首再拝>

凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに包まれていることを観ずる - 伝統

2022/08/09 (Tue) 13:22:18


       *「光明道中記」(8月9日《迷い消ゆる日》)より抜粋

では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。

しずかに五官の眼を閉じ、
五官によって仮りに見えているところの制限の感じを
取り去ることである。

そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。

例えば次の如く ──

   自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
   自分の眼(まなこ)のとどく限り、
   自分の影響される限りの、

   すべての虚空にはただ神のみが
   幸福のみが善のみが満ちている。

       <感謝合掌 令和4年8月9日 頓首再拝>

損失や、犠牲や、負債は実相においてはないのです - 伝統

2022/09/04 (Sun) 07:22:41


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月4日)より

誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。

実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。

どこにも自分を害した者もないのである。

いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)は
まず心の世界で克服しなければならないのである。

心の世界でそれを消滅するとき、
損をかけた人も、損をかけられた状態もなくなるのである。

       <感謝合掌 令和4年9月4日 頓首再拝>

実相は最大の力 - 伝統

2022/10/11 (Tue) 09:25:36


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月11日)より

実相は最大の力である。
それは「実」であるから、
いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。

一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えて
そこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。

暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。

それを言葉にして語れ。

悪を言葉で否定せよ。

        <感謝合掌 令和4年10月11日 頓首再拝>

神の国の義しきを観よ - 伝統

2022/10/14 (Fri) 07:37:53


          *「光明法語(10月14日)」より

「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。
 其の余のものは汝らに加えられるべし」と

イエスが言ったのは、彼の祈りが、
対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。

そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する
何等の人間側の努力もない。

天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。

吾等は唯それを観れば好いのである。

イエスが

「われみずからにては何事をも成し得ず、
 天の父われにいまして成さしめ給う」

と言ったのは此処である。

        <感謝合掌 令和4年10月14日 頓首再拝>

「真実の完全自己」を取り戻せ! - 伝統

2022/10/16 (Sun) 07:28:51


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月16日)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。

「真実の完全自己」を想念せよ。

「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 令和4年10月16日 頓首再拝>

すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う - 伝統

2022/10/21 (Fri) 07:17:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月21日)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。

机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、
蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、鉛筆も、茶碗も、大根も、
・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、
人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

           <感謝合掌 令和4年10月21日 頓首再拝>

「妙有(金剛不壊)の人間・世界」今・此処にありと肯定せよ - 伝統

2022/10/25 (Tue) 07:42:54


    *「光明道中記」(10月25日《月一回の恩を返す日》)より 

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、
   現象肉体の人間よりも、尚一層具体的であり、尚一層金剛不壊であり、
   真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
   病気が頓(とみ)に癒えるのである。


(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは
   現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。

   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、
   「妙有の世界」は現象世界が破壊すると見ゆるときにも
   「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と
   釈迦が「法華経」に於て説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が
   「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」
   と言った如き、風の如きエーテルの如きものであるから、
   斬っても斬れないと云うような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、
    諸天天鼓を打ち伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして
    大衆(だいしゅ)に散ず」

   と「法華経」の自我偈にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 令和4年10月25日 頓首再拝>

妙有は理念実成の世界 - 伝統

2022/10/26 (Wed) 07:32:10


    *「光明道中記」(10月26日《家庭整う日》)より 

【現在は過去の念で決定した宿命である。未来は・・・。
                   (『生命の實相』第二巻)】


    引き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり

こんな仏教の諸行無常を歌った歌が、
妙有の世界を殺風景な野原的世界の観を与えしめた。

現象界の美しき建物は”ある”けれども、それが解けて解体してしまえば、
その材料となった殺風景な野原ばかりだと云うのは、
実在の風光を誤ること著しいものである。

金銀財宝色々の形にあらわれているが、そんな金銀財宝は空しきもので、
いずれも電子の組み合わせによって顕れ方が異(ちが)うだけで、
実相は一様平等砂漠みたいな電子に過ぎないと云うような人生観である。

これでは妙有の世界は、ただ材料の世界だと云うことになって了う。
「材料はあれども製品(現象)は仮の姿」と云うような考え方である。

併し在来、仏教ではこの材料なるものを、地水火風の四大としたのであって、
四大を妙有としたのではない。

地大(堅性のもの)と、水大(湿性「のもの)と、
火大(霊性のもの)と、風大(動性のもの)とこの四つの要素が組合わされ、
引き寄せて結べば柴の庵のような現象になっているのであるが、
分解すればただの要素になる。

実在世界もなければ、実在人間も無い――こんな考え方では仏教は生きて来ない。

妙有は理念実成の世界なのである。

           <感謝合掌 令和4年10月26日 頓首再拝>

心に描いた醜き姿を払拭し、実相を念じる - 伝統

2022/11/05 (Sat) 07:19:19


    *「光明法語」(11月5日《醜き姿を心より払拭せよ》)より

病気や災禍を思い浮かべ、それを恐怖したとき想念は形にあらわれる。
恐るるものは皆来るので、これは神が造ったものではなく、
想念の具象化である。

何か病気の醜き姿を見て、恐ろしいと思った時には

「かかるものは実在ではない。
 実在するものは、唯(ただ)完全なるもののみである」

と数回心に念じて、
醜き姿を心の底から拭い去ってしまって置くことが必要である。

宇宙のすばらしく宏大にして完全なること、
それを創造(つく)った神の力の無限大なる事、
その偉大なる無限力の前に何の病気の存在の余地があろうぞ。

            <感謝合掌 令和4年11月5日 頓首再拝>

現象の奥に実相を見る日 - 伝統

2022/11/27 (Sun) 07:23:13


          *「光明道中記」(11月27日)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。
               (『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、
現象の奥に実相を見出し、それを顕し、礼拝するための行事が
自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。
眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。

少くも好い。実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

       <感謝合掌 令和4年11月27日 頓首再拝>

実相健全の姿を見るとき、復活し救われる - 伝統

2022/12/04 (Sun) 07:44:21


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、
自由思想家、むしろ無宗教家と言われている人の
側に真の宗教を体得した人々があるということができるのである。

真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、
みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実現し、
神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。

ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、
ある人は家庭不調和に苦しむ。

真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって
一緒に同情の涙をかき垂れて号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、
同情の涙を流したことが聖書に書かれている。

しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ
「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。

「ああかわいそうに! 」と言って、一緒に倒れふし泣き濡れて
動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。

倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。
「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

         <感謝合掌 令和4年12月4日 頓首再拝>

《吾は日に日に完全円満である》 - 伝統

2023/01/08 (Sun) 07:21:22


       *「光明法語」(1月8日)より

神の完全なる実相が、
吾を通じて時々刻々尚(なお)一層完全に実現しつつあるのである。

われは神の子であり、
神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、
日々に一層あらゆる点に於いて
神の完全さを顕わし来(きた)るのである。

肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、
言葉に於いて無礙であり、交友に於いて愛にめぐまれ、
ありとあらゆる点に於いて完全なのである。

若(も)し汝が何事か不調和な事を経験するなら
数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。

念を感謝に転ぜば一切は変化する。

         <感謝合掌 令和5年1月8日 頓首再拝>

善い本性を無尽蔵に有っている - 伝統

2023/01/22 (Sun) 07:34:36


       *「光明道中記」(1月22日)より
         ~《九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日》

【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】

金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。

凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。

仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると
道元は『正法眼蔵』で喝破している。

たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。

発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、
人間はその仏なる実相を露呈する。

そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、
打てばそれがあらわれる。

打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 
生長の家は

「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。
 励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」

と言って打つ。

どちらが効果があるかは既に実証済である。

         <感謝合掌 令和5年1月22日 頓首再拝>

現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統

2023/03/13 (Mon) 07:47:45


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

         <感謝合掌 令和5年3月13日 頓首再拝>

心の眼をひらいて実相を見よ - 伝統

2023/03/27 (Mon) 05:09:14


           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを
照らし出(い)だせば全身は明るくなり、健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、
豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。

         <感謝合掌 令和5年3月27日 頓首再拝>

《本当にあるもの》(実相)を把むこと - 伝統

2023/04/05 (Wed) 05:06:30


     *「光明道中記」(4月5日《人に宿る美を知る日》)より

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                       (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」
なる理念と合致するから、その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、今視えているような
肉体の形は肉体そのものの形ではなく、吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも相対的には本当であって、
絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

         <感謝合掌 令和5年4月5日 頓首再拝>

《實相の完全さのみを観よ》 - 伝統

2023/04/06 (Thu) 05:05:36


        *「光明法語」(4月6日)より

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、

”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

         <感謝合掌 令和5年4月6日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2023/04/07 (Fri) 05:01:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。

冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。

魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

         <感謝合掌 令和5年4月7日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2023/04/23 (Sun) 03:50:32

          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、

なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 令和5年4月23日 頓首再拝>

ただあるもの(実在)は第一創造の完全世界ばかり - 伝統

2023/05/14 (Sun) 08:25:55


    *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者が
かえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。

それは「雲の法則」であり、
それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、
雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。

もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

           <感謝合掌 令和5年5月14日 頓首再拝>

宝樹華果(ほうじゅけか)多くして衆生の遊楽する処 - 伝統

2023/06/01 (Thu) 11:57:54


    *『光明法語』(6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。

「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、
 宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」

と云う『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、
既に肉眼では見えないが波長を合わしさえしたならば
現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように
今此処に既にあるのである。

現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから
不調和なものばかりが現れて来るのである。

        <感謝合掌 令和5年6月1日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2023/06/13 (Tue) 07:05:51


        *『光明法語』(6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、
幸福のほか与えることを知らぬ神が自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、
現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。

吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、
取囲まれているのである。

それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、
善のみが出て来るし無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 令和5年6月13日 頓首再拝>

実相を諦観せよ! - 伝統

2023/06/24 (Sat) 05:05:39


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、
その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには
一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬようなものである。

「自分の内に摂取する」とは
同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも
自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、
病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、
未だかつて憤(いきどお)ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
 迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

 この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
 罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
 汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを
自己に摂取した後には、病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
 本来円満完全なる仏身なり」    (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、
円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

            <感謝合掌 令和5年6月24日 頓首再拝>

人を観るには常に絶対価値を以てせよ - 伝統

2023/06/28 (Wed) 08:26:30


       *「光明道中記」(6月28日)より抜粋
         ~《審判(さば)き心を捨つる日》

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。

人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。

彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

       <感謝合掌 令和5年6月28日 頓首再拝>

罪・病・死は浮雲の陰影、実相は円満完全 - 伝統

2023/07/06 (Thu) 10:16:40


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(7月6日)より

罪と病と死とは、
畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に
錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。

そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、
やはり金殿玉楼に錦秋を纏うて眠っているということの事実を
否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、
このままここが天国であって、万(よろず)のよきものが
充満している世界であるのだということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。

なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは
肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に

「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
 安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり
 ・・・わが浄土は壊せざるに、
 衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」

とあるのを、たいていの仏教者は、

「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
 心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、
 立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝がいっぱい飾ってあるのも
 同じようなものだ。

 この身は殺されても、
 心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。

 釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、
 いつも花降るような心境にいられるのだ」

というような意味に解釈しているのであるが、
これはすこぶる浅い解釈だと言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って
実際に焼け死んだのも、「心頭」の浅いところに
「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、
その実相円満完全の表面に、心頭を滅却したり、心境を一変したり、
向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、

それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。

三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 令和5年7月6日 頓首再拝>

本来清浄 - 伝統

2023/07/17 (Mon) 09:47:59


        *『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より

【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。
                     (『生命の實相』第七巻)】


五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。

或る時その弟子達を集めて、
「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 
と言った。

千人の弟子のなかでは
神秀上座(じんしゅうじょうざ)が押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。


   身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 
   心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
      
   時に払拭(ふっしょく)して
   塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。


「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、
神秀上座をひそかに招(よ)んで、
尚その本来塵埃なく、本来罪なき人間の本性を徹見すべきことを
諭したと云うことである。


米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと
神秀上座の句をもじって、次の如く落首した。――


   菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
       本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。


その落首が評判になった。

師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとづれ、
汝こそ第六代の祖師となる資格があると、法衣を譲って、
夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。

            <感謝合掌 令和5年7月17日 頓首再拝>

迷い心なし! 実相心あるのみ! - 伝統

2023/07/18 (Tue) 11:50:07


        *『光明道中記(7月18日 行届いた生活の出来る日)』より

【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
  光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】

「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、
ひとり自室に招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒する
その深く切なる心遣いが禅なのである。

慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、
夜に慧能を訪れて法衣を譲ると、夜のうちに姿を隠して落ちのびるように
注意した其の深くこまやかな心遣いが禅なのである。

茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、
割烹と言えば、料理をする手先の技巧だとのみ思い、
禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。

行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、
禅の悟りこそ生長の家の悟りである。

神秀上座の一句
「身は是菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡の台の如し」
にはまだ「肉体の存在」をみとめ、「迷う心の存在」を認めている。

五祖弘忍が法衣を譲らなかった理由である。

「菩提(さとり)には樹(じゅ)無し 明鏡は台に非ず」と
明耿々(めいこうこう)たる実相心のみを悟った慧能は
まさしく生長の家の悟(さとり)に到達していた。

         <感謝合掌 令和5年7月18日 頓首再拝>

「今」「此処」既に円満完全の実相に感謝する - 伝統

2023/07/29 (Sat) 12:16:22


        *『光明道中記(7月29日 日々是れ好日と知る日)』より

【漂える雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが姿なり。(『生命の實相』第十一巻)】


雪峰(せっぽう)の法嗣(あとつぎ)に雲門和尚と云う人がある。
その雲門がある日公案を出して
「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後一句を道(い)い将(も)ち来れ」
と言った。

その問は十五日に提出されたものであるから、
「十五日已前」と云うのは過去を指し、
「十五日已後」と云うのは、これからの現在どう生きて行くかと云うことである。

師の意を揣(はか)りかねて誰もこれに門下の者は答えることが出来なかったので、
雲門和尚は「日々是れ好日(こうにち)」と自分の問に自分で答えた。


生長の家で言うならば、「そのまま素直に難有(ありがた)い」であり、
「今を生かせ」であり、「今の中に久遠があり」である。
日々を難有いとしてその日の行事に励むのが「日々是れ好日」である。

烈日燬(や)きつくすようでも、
それは好いお旱(ひでり)を頂いたのであって、ただ難有いのである。

風が吹いたからとて、風があるので害虫が育たず、
雨が降るので植物が育つ。

若し雨が降り過ぎて家が流れ、田畑に損害があるならば、
それは業(ごう)の自浄作用としてただ難有いのである。

 
動き流れる雲の彼方に「今」実相の円満そのままの姿を見る者は幸いなるかな。

         <感謝合掌 令和5年7月29日 頓首再拝>

實相円満の相(すがた)を見よ - 伝統

2023/07/30 (Sun) 08:27:55


        *「光明法語」(7月30日)より

この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。

神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。

併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、
迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。

一切の現象は、
ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。

         <感謝合掌 令和5年7月30日 頓首再拝>

眼をひらいて天地の真相を見よ - 伝統

2023/08/01 (Tue) 10:09:40


     *「光明法語」(8月1日《健康と祥福とは万人具有》)より)

誰でも皆、最善の健康と最善の祥福とを楽しむことが出来るのである。
何故なら人間は皆神の子であるからである。

それが出来ないのは、神の子たる実相を自覚しないか、
神の子たる生活を生活しないからである。

健康と祥福とは、特別に或る人にのみ与えられたる恩恵ではない。
眼をひらいて天地の真相を見よ。
そこに光り輝く光明の世界を見出すであろう。

眼を開いて自己生命の実相が「神の子・円満完全」であることを見よ。
病いや不幸に心の眼を振り向けても光は見えない。

         <感謝合掌 令和5年8月1日 頓首再拝>

相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。 - 伝統

2023/08/07 (Mon) 11:20:25


   *「光明道中記」(8月7日《善のみを視(み)る日》)より
         
 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。如何なる不快なる
相(すがた)をもってあらわれようとも、その不快なる相は、現在又は過去に於て
自分のどこかに潜(ひそ)んでいた不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

       <感謝合掌 令和5年8月7日 頓首再拝>

損失や、犠牲や、負債は実相においてはないのです - 伝統

2023/09/04 (Mon) 12:10:08


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月4日)より

誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。

実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。

どこにも自分を害した者もないのである。

いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)はまず
心の世界で克服しなければならないのである。

心の世界でそれを消滅するとき、損をかけた人も、
損をかけられた状態もなくなるのである。

             <感謝合掌 令和5年9月4日 頓首再拝>

仏の本来相 - 伝統

2023/09/27 (Wed) 10:27:49


   *「光明道中記」(9月27日《仏とともにある日》)より抜粋

 【夜々仏を抱いて眠る。朝々還ってともに起く。起坐常に相随う。
  語黙居止、身影の如く相似たり。
  仏の去処を知らんと欲せば、ただこの語声これなり。
                      (『仏教の把握』)】

仏法では供養のお布施の大小によってお浄土へ往って大きな仏縁になったり、
小さな仏縁になったりすると説いて布施を慫(すす)めるものがあるが、
言語道断、以ての外の興ざめたことである。

仏には分量大いさなどと云うものはないし、
供物の大小で救われ方が異(ちが)うなどと云うことはない。

阿弥陀仏の身体の大きさなどが御経に説かれているが、
それは、相(すがた)を説かないと判らない凡夫に仰ぐように
現しくださった方便報身(ほうげんのおからだ)であるのである。

方便のおからだの奥に法性法身(ほっしょうのおからだ)、
眼に見えない、形を超えた実相の法身(おからだ)があるので、
これが実相である。

それは長いも短いも、青、黄、赤、白、黒の色をも超越しているから、
大小などと云うことは比較の出来ないことである。

         <感謝合掌 令和5年9月27日 頓首再拝>

業に捉われるな、実相を観ぜよ! - 伝統

2023/10/02 (Mon) 09:16:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月2日)より

過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。

ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。

過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。

生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに
新たなる創造を成しつつあるのである。

過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。

端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。

神想観を励め。

           <感謝合掌 令和5年10月2日 頓首再拝>

実相は最大の力である - 伝統

2023/10/11 (Wed) 11:43:40


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月11日)より

実相は最大の力である。
それは「実」であるから、
いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。
一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えて
そこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。
暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。

           <感謝合掌 令和5年10月11日 頓首再拝>

吾等は唯、天の父のみ業(わざ)、それのみを観れば好い - 伝統

2023/10/14 (Sat) 09:15:03


       *「光明法語(10月14日《神の国の義しきを観よ》)」より

「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。
 其の余のものは汝らに加えられるべし」

とイエスが言ったのは、

彼の祈りが、対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。

そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する
何等の人間側の努力もない。
天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。

吾等は唯それを観れば好いのである。

イエスが

「われみずからにては何事をも成し得ず、
 天の父われにいまして成さしめ給う」

と言ったのは此処である。

        <感謝合掌 令和5年10月14日 頓首再拝>

「真実の完全自己」を取り戻せ! - 伝統

2023/10/16 (Mon) 13:13:45


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月16日)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。

「真実の完全自己」を想念せよ。

「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 令和5年10月16日 頓首再拝>

「妙有(金剛不壊)の人間・世界」今・此処にありと肯定せよ - 伝統

2023/10/25 (Wed) 10:03:34


    *「光明道中記」(10月25日《月一回の恩を返す日》)より 

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、
   現象肉体の人間よりも、尚一層具体的であり、尚一層金剛不壊であり、
   真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
   病気が頓(とみ)に癒えるのである。


(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは
   現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。

   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、
   「妙有の世界」は現象世界が破壊すると見ゆるときにも
   「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と
   釈迦が「法華経」に於て説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が
   「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」
   と言った如き、風の如きエーテルの如きものであるから、
   斬っても斬れないと云うような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、
    諸天天鼓を打ち伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして
    大衆(だいしゅ)に散ず」

   と「法華経」の自我偈にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 令和5年10月25日 頓首再拝>

妙有は理念実成の世界 - 伝統

2023/10/26 (Thu) 09:22:43


    *「光明道中記」(10月26日《家庭整う日》)より 

【現在は過去の念で決定した宿命である。未来は・・・。
                   (『生命の實相』第二巻)】


    引き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり

こんな仏教の諸行無常を歌った歌が、
妙有の世界を殺風景な野原的世界の観を与えしめた。

現象界の美しき建物は”ある”けれども、それが解けて解体してしまえば、
その材料となった殺風景な野原ばかりだと云うのは、
実在の風光を誤ること著しいものである。

金銀財宝色々の形にあらわれているが、そんな金銀財宝は空しきもので、
いずれも電子の組み合わせによって顕れ方が異(ちが)うだけで、
実相は一様平等砂漠みたいな電子に過ぎないと云うような人生観である。

これでは妙有の世界は、ただ材料の世界だと云うことになって了う。
「材料はあれども製品(現象)は仮の姿」と云うような考え方である。

併し在来、仏教ではこの材料なるものを、地水火風の四大としたのであって、
四大を妙有としたのではない。

地大(堅性のもの)と、水大(湿性「のもの)と、
火大(霊性のもの)と、風大(動性のもの)とこの四つの要素が組合わされ、
引き寄せて結べば柴の庵のような現象になっているのであるが、
分解すればただの要素になる。

実在世界もなければ、実在人間も無い――こんな考え方では仏教は生きて来ない。

妙有は理念実成の世界なのである。

           <感謝合掌 令和5年10月26日 頓首再拝>

神の子の美を讃美せよ - 伝統

2023/11/03 (Fri) 10:27:16


       *「光明法語」(11月3日の法語)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

           <感謝合掌 令和5年11月3日 頓首再拝>

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