伝統板・第二

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生命の教育 ⑨ - 伝統

2022/05/19 (Thu) 10:01:46


幼児の潜在意識に、不安、恐怖、虚言の印象を植え付けない

        *「光明道中記」(5月19日《欠点を見ぬ日》)

【欠点を見つけるな、荒立てるな、静かに彼の為に祈れ。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

幼児の潜在意識に「希望は失われる」印象を残すような事は
凡ゆる場合に於いて可(い)けない。

「私には希望が失われる」と云う潜在意識が幼児に沁み込まされ、
為に一生不成功を招く人もある。

「そんな弄戯(いたずら)を止めないなら
 お母さんは彼方(あちら)へ往って了いますよ」

と言って幼児を威脅(おど)してはならない。

幼児の潜在意識には自分の大切な希望が
行衛不明(ゆくえふめい)になって了う恐怖心が植えられます。

幼児に何かをやらせるために大人が虚言(うそ)をついて
幼児の信頼を裏切らせるようなことをしてはならない。

「これをしたら、これを買って上げますよ」などと言いながら、
幼児がそれを履行したのに、大人の方がその約束を履行しないなどはよくない。

「痛くないから一寸(ちょっと)口を開いて御覧」と言いながら、
急に大袈裟な恐ろしい道具を口の中へ突っ込んで口の中の治療をしたために、
弾丸でも恐怖を感じないのに、歯医者に通うことを考えるだけでも恐ろしくて、
頭中が痛んで来る病気に罹(かか)った男もある。

「熱いことありませんよ」と言いながら、
多勢寄って圧えつけて灸(やいと)を据える人などがあるが、
子供はその大人の無法に対して終世恐怖心を抱くようになることがある。


・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「生命の教育 ①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6833626

(2)伝統板・第二「生命の教育 ②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7673404

(3)伝統板・第二「生命の教育 ③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7745476

(4)伝統板・第二「生命の教育 ④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812318

(5)伝統板・第二「生命の教育 ⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7865326

(6)伝統板・第二「生命の教育 ⑥」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7966921

(7)伝統板・第二「生命の教育 ⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8019877

(8)伝統板・第二「生命の教育 ⑧」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8203325

         <感謝合掌 令和4年5月19日 頓首再拝>

肉体の自己玩弄に繋がる環境を避ける - 伝統

2022/05/20 (Fri) 08:57:54


        *「光明道中記」(5月20日《自由自在の日》)より

【義務と思えば重く、愛して行えば歓びが得られる。(『生命の實相』第四巻)】

幼児より爪を咬む習慣のある児童は、あまりに家庭で束縛され、
心が内面にばかり陰気に向いている証拠で、
自涜(じとく<肉体の自己玩弄>)の一種である。

心が明るく愉快に外面的に伸びて行く場合には
肉体の自己玩弄(がんろう)は起らないのである。

明るく愉快に、心が自己玩弄に向う時間がない程に肉体運動を奨励するが好い。
疲れて眠くなるまで無理に眠らせないが好い。

肉体の自己玩弄を看付けた場合には、
余り激しく「罪悪」として叱り附けてはならない。

余り激しく叱り附けられると恐怖心の結果、
「恐いものをやって見たい」の欲望で、
隠れて肉体を自己玩弄するようになり易い。

男女とも13歳位になったら素地(きじ)の粗(あら)っぽい布の
猿又(さるまた)を着用して眠らせるが好い。

あまりに柔らかい布の下着は接触の快感を連想せしめて、
肉体の自己玩弄に導いて行くことがある。
また蒲団は軽く硬いものが好い。

男子は柔剣道、駆歩(かけあし)などを盛んにやって妄想の余裕を与えぬこと。

少年に対しては、恋愛小説、放送番組のラブ・シーン、レビューのダンス、
卑猥なる週刊雑誌を避けねばならぬ。
これを見せれば梅干を見れば唾液が湧く程度に性欲を興奮せしめる。

高潔なる思想家、英雄豪傑の伝記などを読み、
性欲を想像せしめる読物を廃するが好い。

         <感謝合掌 令和4年5月20日 頓首再拝>

両親が楽しく、子供の遊びの相手となってやらねばならぬ。 - 伝統

2022/05/21 (Sat) 09:53:23


        *「光明道中記」(5月21日《楽しく深切の出来る日》)より

【自制力は心のタガの様なものである。(『生命の實相』第四巻)】


人間は楽しい時には好い気持になり、人に深切がしたくなり、
善い事がしたくなるものだが、楽しくないとき不快なろきには、
善いことはしたくなくなり、自暴自棄になって悪いことがしたくなり、
自分をも他人をも動物をも器具をも乱暴に取扱いたくなるものである。

それにはどうしても両親が楽しくなければならぬ。
両親が子供の遊びの相手となってやらねばならぬ。
特に一人子の場合はそうである。

子供を一人一室に放って置けば、
別に楽しむものがないから肉体の自己玩弄を始める。
「小人閑居すれば不善を為す」とはよく言ったものである。

子供が内気な場合に、お前は内気だからもっと明るくならなければならないと
小言を言ったら、その子は一層内気になって了(しま)うだろう。

そんなときには、「××は近頃大変明るく勇気が出て来た」と
言うときは次第に内気が直ってくるのである。

内気な子供とは反対に、
乱暴な子供も結局は生活が楽しくないから、愛が欠けているから、
反動的にそうなる子供が多い。「お前乱暴を直しなさい」などと言わずに、
縛らずに信頼してやれば乱暴は止まるのである。

         <感謝合掌 令和4年5月21日 頓首再拝>

適者生存の原理を教え込む - 伝統

2022/05/22 (Sun) 09:28:15


        *「光明道中記」(5月22日《真に幸福なる日》)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】


あまり親が愛してくれて、何でも自分の欲することを協(かな)えてくれるものだと
思い込ますようにすることは、子供の利己心を増長させるようなものである。

そんな子供は自己中心であって、周囲の事物一切は自分の快楽を満足させてくれる
ためにあるものだと考えるようになり勝ちである。

そんな子供が成長して社会へ出ると、周囲の人々はなかなか自分の快楽を
満足させてくれたりするものではない。
そこに期待の不充足に対する不平が起り、社会国家を呪うようになり易い。

人間は他が自分に調和してくれるまで、自分の方からは調和しないでいても好いと
考えるようになっては、決して世の中に容れられず出世しないものである。

人間は天地間に生まれて、自分の方から、その世界に適するように動き出して行く者が
勝利を得るのだと云うことを知らねばならない。
即ち適者生存の原理を知らなければならないのである。

適者と云うのは自分が全体の幸福のためにどれだけ献(ささ)げ得るかの程度に
随(したが)って定(さだ)まるのであり、全体のために幸福を献げ得る者のみが、
自分がまた幸福になり得るのだと云うことを教え込まねばならない。

         <感謝合掌 令和4年5月22日 頓首再拝>

子供を健康に育てるには彼を取り囲む環境を楽しいものとする - 伝統

2022/05/23 (Mon) 11:28:54


        *「光明道中記」(5月23日《何でも成就する日》)より

【食事にうんと歓びのお菜(さい)を附けて食べよ。
どんな粗食でも最上の栄養食に変るのだ。 (『生命の實相』第八巻)】


楽しい時には良質の胃液が抱負に分泌され、
怒ったり悲しんだりしたときには胃液が殆ど分泌されないと云うことは、
パヴロフが犬の胃袋を切り開いてゴム管を通して実験した通りである。

子供を健康に育てるには彼を取り囲む環境を楽しいものとしなければならない。

楽しいと云うことは大人の考えるような柔らかな褥(しとね)や、
美味しい贅沢な食事のことではない。
自由を縛られない伸び伸びとした生活のことである。

親が小言を言いながら食べると、子供自身の消化吸収同化作用を妨げる。
子供は親の言う言葉を信じ易いものであるから、親の小言を云う食事は
排斥すべき食物であり栄養価地のない食物だと思い込んで了(しま)うからである。
排斥する心が起れば同化吸収作用が鈍るのは当然である。

親がどんな食物にも本当に感謝して、
これは為になる食物だと云う風にして食べるべきである。

食事の作法にあまり神経質に拘(こだ)わって叱る習慣をつけるのはよくない。
叱られて悲しみながら食べては、どんな食物でも栄養にならない。

         <感謝合掌 令和4年5月23日 頓首再拝>

言語は、柔らかく、明瞭で精確なものを教える - 伝統

2022/05/24 (Tue) 09:15:37


        *「光明道中記」(5月24日《善き言葉のみの日》)より

【言葉の種子も石地(いしぢ)に蒔いた種子は生えないが、
 肥沃地の心に蒔けば良く生える。  (『生命の實相』第六巻)】


言語の発達は知能の発達を意味している。

野蛮人は思想感情の種類も大雑把であるから、言語も少ない。
文化人になるほど思想感情にデリケートな種類が発達するから、
それを表現する言語の数も甚(はなは)だ多い。

言葉は柔らかく、そして明瞭でなればならない。
柔らか味を失った言葉は砂漠のようで、
そんな言葉の横行する家庭では万物は育たない。

子供が育たないし、事業も育たない。

明瞭さを失った言葉は人間の知能を低下するものである。

幼児の片言(かたこと)が可愛らしいからと言って、
大人の方から幼児の片言を真似て行くようでは、
大人が幼児まで退化して行くだけであって、
幼児を進歩せしむる力はない。

「ワンワン」「ニャンニャン」などと言わずに、
出来るだけ「犬」「猫」とハッキリ明瞭に
発言せしめ、

子供らしい情調が要(い)るならば「犬はワンワンと鳴く」と
幼児語と大人語とを同時に教え込むが好い。

決して「犬」なる精確語を省略して「ワンワン」だけを教えてはならぬ。

幼児は言語発達の天才的能力を有(も)っているものであって、
同時に数ヶ国語を教授しても、頭脳に大した負担なしに覚えるものである。

         <感謝合掌 令和4年5月24日 頓首再拝>

興味のあるときに教え込むのが、幼児教育の原則 - 伝統

2022/05/25 (Wed) 11:39:27


        *「光明道中記」(5月25日《深く物を観る日》)より

【心の薬は、心は波なんですから、波と云うものは互いに交感するものです。
                      (『生命の實相』第二十巻)】


興味のあるときに教え込めば労苦なしに覚えると云うのが幼児教育の原則である。
幼児には色々のことを尋ねたがって仕方のない年齢があるものである。

大人は生活に忙しいので、
いちいちそんな子供の質問に答えていられない場合がある。
そんな場合「蒼蝿(うるさ)い! そんあこと訊くもんじゃありませんよ」と
言ってその問を一蹴してしまってはならないのである。

幼児の質問に両親がそんな風に答えてしまうと、
学校へ行っても何一つ訊く勇気のない引込み思案の人間が養成され、
社会に出ても思い切って自分の意志を発表する勇気のない人間に
なって了うものである。

子供が質問するときにはその事物に興味を感じている時であるから、
親は知っている限りのことを教えてやるべきである。

一つ覚えれば、次の一つに向学心が向うものである。

親の知らぬことなら、「一緒に研究しましょう」と云う態度をとることであり、
世界にはどれだけでも知るべき楽しいことが充ち満ちていて、
大人になってからでも研究の尽きるものでないことを充分に
子供に知らせてやるべきである。

            <感謝合掌 令和4年5月25日 頓首再拝>

児童の乱暴は咎めるのではなく、行動を別の方向へ転ぜしめると好い - 伝統

2022/05/26 (Thu) 09:12:48


        *「光明道中記」(5月26日《真行の日》)より

【ここに生きている生命は神の生命そのものである。
 大生命の生命(いのち)そのままである。
 み仏の生命がここに生きているのである。(『生命の實相』第二十巻)】


ある村の神社の境内を村の子供が荒らし廻って困ったことがあった。
しては悪いと言ってそれを叱り続ければ見ていない頃を見計らって
益々乱暴を働くのである。
こんな場合どうしたら好いか。

答は簡単である。「しては悪い」と言うことは相手を咎めたことであり、
相手を「悪い」と言ったことになるから「悪い」と批判された相手は益々憤慨して
此方(こちら)の好まない事を反抗的にしたくなるのが当然である。

相手を心で観れば相手は益々反抗する。

児童が大人にとって「悪い」と見えることをするのは、
児童の本性が悪いためではない。

児童の立場からは興味があるからしているのだが、児童は周囲への影響が
どう云う風になるかと考える程には観察力が広くないから、
それが偶々(たまたま)大人にとって都合の悪いことになるに過ぎない。

児童は悪いのではなく大人にとって都合が悪いだけである。

それならば児童の行動を別の方向へ転ぜしめたらそれだけで好いのである。
児童は大人に信頼され、大人に頼まれることを喜ぶものである。

命令せずに「これを君してくれないか」と言って
他にして欲しいことを頼むが好い。

            <感謝合掌 令和4年5月26日 頓首再拝>

友達、読み物は、明るく陽気なもの(者・本)を選ぶ - 伝統

2022/05/27 (Fri) 10:56:29


    *「光明道中記」(5月27日《明るい物のみ引き寄せる日》)より抜粋

【じかに阿弥陀仏の懐に飛び込む教である。(『生命の實相』第二十巻)】


子供の友達は快活な明るい者を選ぶが好い。

暗い陰気な子供と交わらしていると、
自分の子供も暗い陰気なものとなり易い。

従って健康も害(そこな)われ易いのである。
快活な明るい子供と遊ばせることにしただけでも、
その子供が健康になった実例がある。

子供の読物は明るい、父母の愛や、友達にみちた物語、
道徳的な、努力を楽しむ、困難を物ともせず成功する
立志伝又は武勇伝などが好い。

陰気な物語、お化(ばけ)の出て来る物語、
正しき者が滅びる物語などは宜しくない。

            <感謝合掌 令和4年5月27日 頓首再拝>

叱ること、そしてそのコツ - 伝統

2022/05/28 (Sat) 07:26:56


    *「光明道中記」(5月27日《明るい物のみ引き寄せる日》)より抜粋

子供は絶対に叱ってはならないと云うことはない。
過(あやま)って悪を犯したり、人の迷惑になることをしたときには、
叱っても悪くない。


けれども「そんなことをする子は悪人です」などと、
本人そのものを悪人と宣言するような叱り方をしてはならない。

若しそんな叱り方をするならば、子供は自分を悪人だと思い込んで了い
善に遷(うつ)る動機と勇気を失ってしまう。

子供が過(あやま)ちを犯したら、

「あなたは善い子だのに、こんなことをする筈の子ではないのに、
 悪いと気が附かなかったのね。
 もう悪いと気が附いたら決して悪いことをする貴方ではありません」

と断言するが好い。

            <感謝合掌 令和4年5月28日 頓首再拝>

子供の眠りしなに『甘露の法雨』を誦する際には - 伝統

2022/05/28 (Sat) 11:42:01


    *「光明道中記」(5月28日《信以(もっ)て貫く日》)より

【振替でもやはり同じ道理だ・・・信ずる人に取ってはこれは本当である。
                     (『生命の實相』第二十巻)】


子供の性癖を直し、成績をよくするには
眠りしなに『甘露の法雨』を誦(よ)みきかしながら眠らせるが好い。

『甘露の法雨』を誦(よ)み上げる前に、子供に『甘露の法雨』を聴きながら
眠ったら大変成績がよくなって、健康になり、性質もよくなって、
××の性癖も直り、自然に好い子になれるんですよ

 ―― と子供に言って聴かせ、

さて親も敬虔な態度で

「聖経の功徳によって斯(か)くならしめ給え」

と合掌して念じ、

「さあ眼を瞑(つむ)って眠(ねむ)んなさい。聖経を誦んであげましょう」

と言って『甘露の法雨』を読誦する。

読誦が終れば子供は屹度眠っているから、

「さあ、これでもう貴方は成績がよくなりました。××が上手になりました。
 身体は一層達者になる、性質はよくなり、××はしなくなった」

と云う風に眠っている子供の耳に内緒話のような声で、
下腹に力を入れた声で、囁きかける。

―― この方法を行なえば子供は確かに健康になり、成績がよくなり、
性質が改まってくるものである。

1回で効かないなどと思って、中断してはならない。

言葉の力は累積すると力を発する。
『生命の實相』第七巻にある自己暗示法をやらせるのも好い。

            <感謝合掌 令和4年5月28日 頓首再拝>

乱暴な生徒には、そう云う生徒の美点を賞(ほ)め且つ働かせる方向に誘う - 伝統

2022/05/29 (Sun) 10:13:53


    *「光明道中記」(5月29日《力みを捨てる日》)より      


【「私が・・・私が」と力む事は、
 本当の自他一体の深切行になっていないのであります。
                  (『生命の實相』第二十巻)】

腕力ある乱暴な生来(うまれつき)の子供が
学校などで乱暴するときには、
先生がそれを頭から圧迫的に抑え附けようとすると
益々反抗的に乱暴になるばかりである。

それに対して停学とか放校処分とかに附すれば、
権威を呪い、社会を呪って子供の一生涯を無駄にして了う
こともあり勝ちである。

そう云う性質をあながち「悪」と考えてしまうのは
学校の先生が寧(むし)ろ低能なのである。

そう云う学校の先生は先生としての天分がないのであるから、
宜(よろ)しく放校処分に附して、
もっと適業に転ずる機会を与うべきである。

そう云う子供は大抵腕力による人を統率する天分を持っているものである。
謂わば幡随院長兵衛とか清水次郎長などのように豪胆と腕っぷしとで
人を統率する力があり、恩義に感じやすく、憎悪に反抗し易いのである。

だからそう云う生徒の美点を賞(ほ)め且つ働かせることにして、
校庭の掃除とか、遊戯のキャプテンとかにならせて、
その豪胆と、腕力とによる統率力を利用してその力によって
学校が浄(きよ)まり整理が行き届いて行くように
取計(とりはか)らうのが一番好い。

            <感謝合掌 令和4年5月29日 頓首再拝>

手古摺(てこず)らす子供への対応は - 伝統

2022/05/30 (Mon) 10:09:44


    *「光明道中記」(5月30日《和顔愛語の日》)より  

【人間は学科ばかりの
 点取虫になって了(しま)ったのでは値打がないのであります。
                   (『生命の實相』第二十巻)】


直ぐ吩咐(いいつけ)を実行しない子供は、その吩咐けられた言葉の内容が
呑み込めないか、吩咐けた人に対する反抗があるか、怠け癖で面倒臭いか何か
子供自身にとって手の離せない興味ある仕事があるかしているのである。

それを悉く、
不従順だとか我儘(わがまま)だとか云う名で呼ぶのは間違である。

吩咐不明瞭なために実行しないのを、
不従順だと誤解しないようにするためには、
「一寸此処へいらっしゃい」と柔(やさ)しく招(よ)んで、
ハッキリと吩咐(いいつけ)を伝えるようにすることが必要である。

不従順ではなく吩咐(いいつけ)を実行する気はあるが、
何時(いつ)までに実行したら好いかの意思表示がないために、
直ぐ立上ろうとしない子供がある。

そんな子供には「何分間でやんなさい」とか
「何時までに往って帰んなさい」とか
明瞭に、その完成の時刻を指定する必要がある。

反抗心があって命令を実行しない子供に、
強情だとか不従順だとか責め立てて見ても
一層強情になるだけの事である。

何故なら彼は親や先生を手古摺(てこず)らすのが目的であるから、
親や先生が手古摺っていると判ると益々強情になるからである。

命令するよりも「斯(こ)うして下さい」と信頼して頼むような語調が
斯ういう子供には功を奏する。鼠小僧でも頼まれた事は進んで実行する。

            <感謝合掌 令和4年5月30日 頓首再拝>

複数の子を持つ親たる者は、常に平等の心を以て感謝していなければならぬ。 - 伝統

2022/05/31 (Tue) 09:32:16



    *「光明道中記」(5月31日《その儘有難い日》)より  

【誠に「今」こそ一切の生活を支配する鍵である。(『生命の實相』第二十巻)】

2番目の子供が生まれようとする頃になると、
最初に生まれた子供は、それに興味を感ずるが、
それが自分の玩弄物(おもちゃ)のように
自分の支配下にあることを欲するのである。

自分よりも両親の愛を鍾(あつ)めるなどと云うことは、
両親を自分から奪われることに当る。

そのために最初に生まれた子供は熱を出したり、病気になったり、
時として乱暴になったり、強情になったり、如何なる方法かによって
両親の注目を自分に惹き付けて導く手段を講ずる。

そういう手段に動かされてはならないのである。

この状態は始終抱き癖をつけたり、
あまりに両親から構い附けられる癖を持っていて、
両親から離れて独立して遊ぶ習慣のない子供に於て特に起り易いものである。

最初の子が女性であった場合、
両親が「男児(おとこのこ)が欲しい」と言い続けていたのを
常に訊いていた長女は、母親が今度生む子が自分と同じ女性であり、
自分よりもただ幼いと云うだけの存在で、自分と比べて特殊の優越の資格を持つ
「男児(おとこのこ)」でないことを希(ねが)うものである。

親たる者は、男児(おとこのこ)にせよ、女児(おんなのこ)にせよ、
常に平等の心を以て感謝していなければならぬ。

子供の前で言葉を繕(つくろ)っても、
態度や表情が差別待遇を語っているときは、
それは嫉妬の因(もと)となり、兄弟喧嘩の因(もと)となる。

            <感謝合掌 令和4年5月31日 頓首再拝>

取越苦労をする必要はない - 伝統

2022/06/03 (Fri) 09:55:47


谷口雅春先生のお言葉(令和4年5月号「生命の教育」誌)


【子供の善性は必ず輝き出てくる】

《取越苦労をする必要はない》

         *新編『生命の實相』第22巻(2頁)
          頭注『生命の實相』第14巻(128頁)

多くの母親は子供のことを餘りに取越苦勞するために、
却つて子供に惡思念を放送して子供の健康や運命を害してゐる。
或る母親は一瞬間でも自分の眼の前にゐないと心配でたまらないのである。

彼は自分の想像の中(うち)で、躓いて轉んでゐる自分の子供の姿を思ひ浮べる。
自動車にひかれて死にかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。
水に陥(はま)つて溺れかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。

世の母親よ、何故(なぜ)あなたはこの反對をして可(い)けないのか。
こんな取越苦勞が起るのは、子供を神の子だと思はないで人間の子だと思ふからである。

神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。

人間の子だと思ふものは終世(しゅうせい)、取越苦勞をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思ふものは、子供を尊敬して出來るだけその世話をさせては頂くが、
神が守つてゐ給ふと信ずるが故に取越苦勞は必要はないのである。

人間力で子供を生かし得ると思ふなら終日終夜起きて子供の番をしてをれ。
それは出來なかろう。
出來ない間に子供を生かしているのは神の力である。

(【児童教育に關する神示】~日付不明)

・・・

<参照>「生命の教育」令和4年5月号 より
    ( https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/ )

         <感謝合掌 令和4年6月3日 頓首再拝>

まず子供に「神性(しんせい)」があることを認めよ - 伝統

2022/06/07 (Tue) 09:01:26


谷口雅春先生のお言葉(令和4年5月号「生命の教育」誌)


【子供の善性は必ず輝き出てくる】

《まず子供に「神性(しんせい)」があることを認めよ》

         *新編『生命の實相』第22巻(170〜171頁)
          頭注『生命の實相』第14巻(195~196頁)


諸君は光がそこに輝き出せば陰影(かげ)がそこにおのずから
消える事実を見られたであろう。

「存在の世界」に於(おい)ては「認める」とは「光を点ずる」ことである。

いかに潜在的に存在していようとも、認めなければ
それが存在していることが現実に見えて来ないのである。

いかに多くの宝が庫(くら)の中に蔵(しま)われていようとも
燈火(ともしび)がそこになければその宝は無いに等しい。

だから諸君よ、諸君の子供にそして諸君の教え子に宿っているところの
「神性(しんせい)」(神からの大遺伝) を認めることから始めよ。

そして光が暗(やみ)を逐(お)い出すすように、
われわれががありありと彼に宿っている「神性」をば認めさえすれば、
その「認める力」の輝きによって、いかなる悪癖(あくへき)も悪遺伝も
数年のうちに根絶することはまた難(かた)くはないのである。

         <感謝合掌 令和4年6月7日 頓首再拝>

子供の美点のみを強調しよう - 伝統

2022/06/11 (Sat) 11:25:32


谷口雅春先生のお言葉(令和4年5月号「生命の教育」誌)


【子供の善性は必ず輝き出てくる】

《子供の美点のみを強調しよう》

         *新編『生命の實相』第22巻(174〜175頁)
          頭注『生命の實相』第14巻(198~199頁)

諸君よ、先(ま)ず子供に教えよ。彼自身の生命の尊さを。
―― 人間の生命の尊さを―― そこには無限力の神が宿っていることを。

展(ひら)けば無限の力を発し、無限の天才をあらわし、
彼自身の為(ため)のみならず、人類全体の輝きとなるものが
彼自身の内に在(あ)ることを教えよ。

彼をして彼が地上に生命を受けて来たのは、自分自身のためのみでないこと、
人類全体の輝きを増し、人類全体の幸福を増すために神が偉大な使命を
彼に与えて来たのであることを教えよ。

この自覚こそ、最初の最も根本的な自覚であって、この自覚が幼時(ようじ)
に植えつけられたものは必ず横道(よこみち)に外(はず)れないで、
真(しん)に人類の公(おおや)けな歓(よろこ)びのため何事かを
奉仕しようと喜び励む人になるのである。

常に子供を鞭撻(べんたつ)して、彼の善さを力説せよ。
彼の美点を強調せよ、自分自身のもつ長所を自覚せしめよ。
ここに子供を教養する極意があるのである。

美点を強調し、弱点を忘却(ぼうきゃく)せしめ、
失意に枉屈(おうくつ)(編註:抑えつけられて屈すること)する時間を
希望に躍進(やくしん)する時間に変化せしめよ。

彼もし希望に輝き、美点にのみ躍進を続けるならば、
弱点に執着し、弱点を考え、失敗を悲しんでいる暇(ひま)は
ないのである。

心を弱点に置かないとき、行いに弱点を繰返す暇がないとき、
その弱点を再び繰返す傾向はうすれて来るのである。

ここに彼の美点のみが発揮され、長所のみが生長する。

最初は彼に接する両親や教育係がそれを賞(ほ)める
―― やがては人類全体が、彼の長所を称揚し、美点を讃嘆し、
その貢献に拝謝する時が来るであろう。

ここにおいて父母たる者の子供を教養する
最後の目的が達せられたのである。

(最後の5行は、『生命の實相』第14巻のご文章です)

         <感謝合掌 令和4年6月11日 頓首再拝>

「今に善くなる!」という讃嘆の種子(たね)を蒔(ま)こう - 伝統

2022/06/13 (Mon) 09:54:22


谷口雅春先生のお言葉(令和4年5月号「生命の教育」誌)


【子供の善性は必ず輝き出てくる】

《「今に善くなる!」という讃嘆の種子(たね)を蒔(ま)こう》

         *新編『生命の實相』第22巻(167〜169頁)
          頭注『生命の實相』第14巻(193~194頁)

言葉は 種子(たね)を蒔(ま)く。
それは 必ず芽(め)を出して実(み)を結ぶのである。

家庭からこうした罵(ののし)りの声が絶えない限りは、
かかる家庭で育てられた子供が生長して作り上げた社会が
善くならないのは当然のことである。

種子(たね)は、遥(はる)かの幼時(ようじ)に蒔(ま)かれている。

くわしくいえば 幼時以前の胎教(たいきょう)に於(お)いても
蒔かれている。

胎教以前にその魂(たましい)の前生(ぜんしょう)の経験や、
祖先の遺伝の種子(たね)もあるのである。

因果(いんが)は めぐる、だから われわれは これらの悪い種子(たね)の力を
奪ってしまうために 反対の種類の種子(たね)を蒔かなければならないのである。

それは賞讃(しょうさん)の種子(たね)である。
讃嘆(さんたん)の種子(たね)である。

いかに子供の現在の状態が賞(ほ)めるに値(あたい)しなくとも、

「今に善(よ)くなる!」 

「きっと偉い人物になる!」 

こういうふうな漸進(ぜんしん)的進歩の暗示(ことば)を与えるに
相応(ふさ)わしくないことはないのである。

そしてその暗示(あんじ)の力で、漸進(ぜんしん)的に
その子供を良化(りょうか)して行(ゆ)くことは
われわれの為(な)し得(う)る、
否(いな)為(な)さねばならない義務であるのだ。


遺伝が良くないといって絶望するな。
胎教を過(あやま)ったといって失望するな。

人間は その最も深いところに 実に根強く、
神の子としての神性(しんせい)の遺伝を有(も)っているのである。


神性の根強い遺伝に比(くら)ぶれば、
数代前(ぜん)十数代前(ぜん)位(くらい)からの遺伝の力は
太陽の前の星でしかないのだ。

このことを強く信ずるものは幸(さいわ)いなるかな。

諸君よ、われわれが毎日必ず子供の心に対して
「この馬鹿者めが!」とか「貴様は実に不良だ!」とか
始終(しじゅう)罵声(ばせい)をあびせかけることによって
子供の心に「悪い種子(たね)」を蒔(ま)いてさえも、
なお それほどに実際に馬鹿者が出現せず、不良が出現しないのはなぜであるか。

これこそ実(じつ)に強く神から譲(ゆず)られた 「 神性(しんせい)の遺伝 」 が
われわれに はたらいていてくれる証拠であるのである。

われらはこの 「 神性の遺伝 」 に敬礼し、感謝し、日夜(にちや)
この神性に対して讃嘆の声を雨ふらさなくてはならないのである。 

         <感謝合掌 令和4年6月13日 頓首再拝>

にこにこした、たのしい顔つきが幸福を与える - 伝統

2022/06/16 (Thu) 07:39:51


谷口雅春先生のお言葉(令和4年6月号「生命の教育」誌)


【あたたかい笑顔と讃嘆(さんたん)がわが子を善くする】

《にこにこした、たのしい顔つきが幸福を与える》

         *新版『生活読本』(135〜136頁)
          『生活読本』(133〜134頁)

きれいな心の人はまるで太陽の光や青空を運んでくるような人です。
その人の行く所に何となくあたたかみがさしてくるものなのです。

取越苦労や心配は光の射すようなそんな明るい気持ちの人の近くへ来ると、
自然に和やかになって消えてしまうのです。

吾々は人に深切であっても、にこにこ笑う喜びの心をなくして、
深切をするのでは、一方では人に深切にしながら、自分の暗い顔つきで、
人を気持ち悪くしているのですからその深切が何にもなりません。

吾々は明るく生活しなければなりません。

明るい生活の中にはすべての善いものが集まってくるのです。

昔から「笑う門には福来る」という諺がありますが、
にこにこ笑っていると、自然に善いことが集まってくるのです。

人をたのしく愉快にしてあげることは美しい行いであり善いことであります。

その楽しく愉快にしてあげるには、色々の贈物をさしあげるのも、
一つの方法でありますけれども、物をさしあげなくとも
吾々がにこにこ楽しい顔つきをして、たのしい心を他の人に移してやれば
それが最も深切な、人に幸福を与える方法であります。


<参照>

「生命の教育」誌(令和4年6月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

         <感謝合掌 令和4年6月16日 頓首再拝>

幸福とは心が楽しいことです - 伝統

2022/06/18 (Sat) 07:42:32


谷口雅春先生のお言葉(令和4年6月号「生命の教育」誌)


【あたたかい笑顔と讃嘆(さんたん)がわが子を善くする】

《幸福とは心が楽しいことです》

         *新版『生活読本』(136頁)
          『生活読本』(135〜136頁)

家の中に一人でも不機嫌な人がありますと、
その家の人達の心全体が乱れてくるのです。

そして家族は始終病気をしたり、
面白くないことばかり起こってくるのです。

そんな家に住んでいる人は、
お金を百万円つんであっても幸福だということはできません。


幸福な生活とは心が楽しい生活です。

家族互いにうれしそうな顔をして
にこにこせずにはいられない生活が幸福な生活です。

         <感謝合掌 令和4年6月18日 頓首再拝>

あなたの明るい顔は太陽の光のようなもの - 伝統

2022/06/19 (Sun) 07:26:21


谷口雅春先生のお言葉(令和4年6月号「生命の教育」誌)


【あたたかい笑顔と讃嘆(さんたん)がわが子を善くする】

《あなたの明るい顔は太陽の光のようなもの》

         *新版『生活読本』(144頁)
          『生活読本』(143頁)

うれしい顔をするには何の資本(しほん=もとで)もいりません。
深切な目付きをするにも何の資本(しほん)もいらぬのです。

吾々は、この人をよろこばしてあげたいとただ思うだけで
深切な顔にもなれたり、愉快な微笑を顔に浮かべたりできるのです。

あなたの愉快な顔つきは曇った日にさしこんで来た太陽の光のようなものです。
周囲の人が苦虫(にがむし)をかみつぶしたような顔をしていればいるほど、
あなたの明るい顔が必要なのです。

どんな富や財産をもっているよりも明るい心をもっているものは、
もっとも尊い宝をもっているものだといわなければなりません。

         <感謝合掌 令和4年6月19日 頓首再拝>

子供は親に愛されることが一番の楽しみ - 伝統

2022/06/20 (Mon) 07:27:50


谷口雅春先生のお言葉(令和4年6月号「生命の教育」誌)


【あたたかい笑顔と讃嘆(さんたん)がわが子を善くする】

《子供は親に愛されることが一番の楽しみ》

         *( 『生命の實相』頭注版第40巻37〜38頁)

どなたでも子供を憎むという人はないのですが、
子供を愛している表現が少ない時には

本当に愛してくれていないのだという
親に対する恨みがましい気持が出てくるものであります。

(中略)

子供というものは親に愛されるということが、
もう一番の楽しみなのです。

親に愛されている子供は、親のためなら、親の喜ぶことなら、
たとい火の中水の中に入ってでも、命を棄てても厭わぬという感激をもつのです。

そういう親をもつ子は親に喜ばれるためにいくらでも善いことをいたします。

ところが親が子を愛しているということを
言葉にも表情にも表現しないであまり仕事が忙しいとか、
何か自分に《くしゃくしゃ》する事件があった時などに
子供につっけんどんに当たる ―― それがいけないのです。

愛は心のうちにもっていても表現してもらわなければ
愛してもらったような気がしないのです。

心の中に愛があっても、顔でしかめ面していると
「どうもうちのお父さんはこわい」とか「お母さんは叱ってばかりいる」とか
思うようになるのです。

これに反して言葉でも、形でも愛してやるというようにいたしますと、
必ず子供は親に従順になってきまして、親がこうなってほしいというように
必ず子供から進んでそうなってくれるのであります。

         <感謝合掌 令和4年6月20日 頓首再拝>

子供の善さや美点を強調しましょう - 伝統

2022/06/22 (Wed) 07:27:25


谷口雅春先生のお言葉(令和4年6月号「生命の教育」誌)


【あたたかい笑顔と讃嘆(さんたん)がわが子を善くする】

《子供の善さや美点を強調しましょう》

         *( 新編『生命の實相』第22巻170〜174頁)
          ( 頭注『生命の實相』第14巻196〜198頁)

如何(いか)に潜在的に存在していようとも、
認めなければそれが存在していることが現実に見えて来ないのである。

如何に多くの宝が庫(くら)の中に蔵(しま)われていようとも
燈火(ともしび)がそこになければその宝は無いに等しい。

だから諸君よ、諸君の子供にそして諸君の教え子に宿っているところの
「神性(しんせい」 (神からの大遺伝) を認めることから始めよ。

(中略)

諸君よ、先(ま)ず子供に教えよ。彼自身の生命の尊さを。
 ―― 人間の生命の尊さを ―― そこには無限力の神が宿っていることを。

展(ひら)けば無限の力を発し、無限の天才をあらわし、
彼自身の為(ため)のみならず、人類全体の輝きとなるものが
彼自身の内に在(あ)ることを教えよ。

彼をして彼が地上に生命(せいめい)を受けて来たのは、
自分自身のためのみでないこと、人類全体の輝きを増し、
人類全体の幸福を増すために
神が偉大な使命を彼に与えて来たのであることを教えよ。

この自覚こそ、 最初の最も根本的な自覚であって、
この自覚が幼児に植えつけられたものは必ず横道(よこみち)に
外(はず)れないで、真に人類の公(おおや)けな歓(よろこ)びの
ため何事かを奉仕しようと喜び励む人になるのである。

常に子供を鞭撻(べんたつ)して、彼の善さを力説せよ。
彼の美点を強調せよ、自分自身のもつ長所を自覚せしめよ。

ここに子供を教養する極意があるのである。

         <感謝合掌 令和4年6月22日 頓首再拝>

啐啄同時 - 伝統

2022/07/30 (Sat) 06:58:35


        *『光明道中記(7月30日 随所に主(ぬし)となる日)』より抜粋

【これは絶対真理、これは対気説法であると云う区別を知って
 絶対真理を掴む(つか)むようにしなければなりません(『生命の實相』第十五巻)】


雲門と同時代の禅僧で、法眼宗の開祖である法眼和尚と云う人がある。
なかなか対機説法の上手な人である。

対機説法と云うものは中々難しい。
小学生に大学の講義をしても分らぬ。
猫に小判、豚に真珠である。

大学生に小学の講義をしたのでは判るには違いないが、面白くないから逃げ出してしまう。
それは啐啄同時(すいたくどうじ)でなければならぬ。

啐(すい)は雛鳥が内からつつくことである。
啄(たく)は親鳥が外から啄(つつ)くことである。

中から出ようとしている悟りのちょうどそこを説いて
引っ張り出してやるようにしなければならない。

児童の教育でも才能が出ようとしている、
その点をその時期を失せずほめて引き出すのが骨(こつ)である。

これが出来なければ教師となり導師となることは出来ない。

            <感謝合掌 令和4年7月30日 頓首再拝>

「大和(やまと)」という国号にあらわれた日本人の精神性 - 伝統

2022/08/07 (Sun) 11:52:47


谷口雅春先生のお言葉(令和4年8月号「生命の教育」誌)

【伝統的な精神にあらわれた日本人のすばらしさ】

「大和(やまと)」という国号にあらわれた日本人の精神性

      *「真理」第三巻 第18章(P281~284)より
       新装新版『真理』第3巻(239~241頁)

神話は世界各国にありますけれでも、日本にあらわれた神話は
やっぱり日本民族の精神を通して宇宙の真理をとらえたのでありますから、
同じ真理でもとらえ方において、又その表現の仕方において、
作者たる日本民族の個性なるものが現れているので、

その神話を研究すると、日本民族の
個性や世界観がよくわかるのであります。

(中略)

日本民族は総(すべ)てバラバラに分かれているのを一つに綜合(そうごう)
するところの天分を持っているのでありまして、日本の国の名前を
「大和(やまと)」と名づけられたということも、

「や」というのは「弥々(いよいよ}」と云(い)う字が当てはまるので、
いよいよ多いという意味であります。

「《まと》」というのは「纏(まと)める」という意味であります。

弓で射る「的(まと)」を「まと」というのも、同じことでありまして、
中心に纏(まと)まって」いる姿を現わしています。

いろいろに分かれていても、その悉(ことごと)くが
一つに纏(まと)まるべきものであって、決してバラバラのものは存在しない、
宇宙は一つである、世界は一つである

というところのその人生観が、古代の日本民族を通して現在の日本民族に
至るまでずっと貫き通しているところの民族的信念とでもいうべきもの
なのであります。


・・・

<参照>「生命の教育」令和4年8月号 より
    ( https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/ )

            <感謝合掌 令和4年8月7日 頓首再拝>

古来の日本人の衣食住にもあらわれた一体感 - 伝統

2022/08/10 (Wed) 09:57:52


       *(黒布表紙版『生命の實相』第6巻54~55頁)

日本人の衣食住の様式を観察しますと、(中略)吾々日本人は一枚の衣(ころも)
で身(からだ)全体を引包(ひきつつ)んだような着物を着ている。

是(これ)は全世界を一つに包むと云う全包容的な国民の使命が
象徴化されているのであります。

(中略)

『食(しょく)』の方面を見ますと、外国人は片手で血の垂(た)れる肉を切る
ナイフを持ち、片手は手摑(てづか)みで食べること其の儘(まま)を形に
あらわして手の形のフォークで食べるのであります。

茶碗(ちゃわん)にも蓋(ふた)がない、天地が揃(そろ)っていないのであります。

ところが日本人は茶碗にも吸物椀(すいものわん)にもちゃんと蓋(ふた)があり、
天地があり、上下がある、箸(はし)も天地陰陽を象(かたど)った二本の箸(はし)
をもって、愛の道に協(かな)った植物食(しょくぶつしょく)を主食として
神様らしく人間らしく食べるのであります。

『住(じゅう)』の方面を観察しますと、日本人はどの部屋もどの部屋もただ
紙一重(かみひとえ)の障子(しょうじ)だけで開放的である。

西洋人のように各国否(いな)、各部屋分立(ぶんりつ)して、決して他国を
入(い)れないと云(い)う風(ふう)に各部屋部屋に鍵をかけて置くなどと
云うことがない。

全体が一つの吾(わ)が国だと云う風(ふう)に各部屋を共通にさせている、
日本人の心の底にはそう云(い)う風(ふう)に全体が一体だと云う観念が
主流を為(な)しているのでありますから、

世界も全体を一つにして纏(まと)めて統一する国民性を有(も)っていると
云うことが出来るのであります。

(中略)

何をしても日本人は、自他一体感が深く、
全体を『一つのもの』として取扱(とりあつか)う
国民性をもっているのであります。

            <感謝合掌 令和4年8月10日 頓首再拝>

「愛」とは自他一体の自覚をあらわすこと - 伝統

2022/08/11 (Thu) 09:24:19



      *新装新版『真理』第3巻(232~233頁)
      *「真理」第三巻 第18章(P273~274)より

日本民族は、人類互(たがい)に相和(あいわ)そうと云いう
理想をもって、国をはじめたのでありまして、
「大和(やまと)」の国号がそれを示しているのであります。

(中略)

このように「人類は互いに一つだ」と云う大和の精神が、
日本精神でありますから、日本の建国の「愛」だと云うことが
出来るのです。

「愛」と云うのは、どの人種も、元は一つと云う自他一体の自覚であります。
自分と他とは形の上では別々であっても、生命は一体だと云う自覚です。

「私はあの人を愛する」と云うことは、あの人と私とは本来一つである。
そこで彼の悦びを私の悦びとし、彼の悲しみを私の悲しみと感ずる、
「これが「愛」であります。


それは、或いは男女の恋愛のようにも現われ、
或いは父母親子の愛と云うような関係にも現われ、
或いは家族が一体であると云う感じの家族愛と云うものになって現われ、
或いは国を愛する愛国心ともなってあらわれ、
或いは人類を愛する人類愛ともなって、あらわれます。

吾々はこれらの色々の愛を、その内の一つでなく、
みなことごとく調和した相で愛し得るように努力するとき、
偏った人間ではなく、「全人」としても
完全な人間の魂がみがかれるのであります。

            <感謝合掌 令和4年8月11日 頓首再拝>

《児童をよくしてあげるには》 - 伝統

2022/08/20 (Sat) 08:25:14


      *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P299~300)より

各人は肉体が互いに分れていましても全然は別個の存在ではなく、
互いに相即相入しているのでありますから、
児童は、善(よ)かれ悪(あし)かれ、その周囲の人々の
精神的雰囲気によって感化されるのであります。

そして最もその精神的雰囲気に感化され易いのは、
何と言っても自分の尊敬している人及び愛している人に
感化されやすいのです。

それは尊敬している人及び愛している人に対しては、
心を開いてその全てを受け入れようとするからです。

ところが軽蔑している人や排斥している人に対しては
心の扉を閉じていますから其れに感化されることは少ないのです。

父母や教師は、児童から尊敬されているのですから
何と言ってもその感化力は大きいのです。

            <感謝合掌 令和4年8月20日 頓首再拝>

人に深切(しんせつ)にする味わい - 伝統

2022/09/04 (Sun) 07:43:32

谷口雅春先生のお言葉(令和4年9月号「生命の教育」誌)

【顔の表情ひとつから人に深切(しんせつ)ができる】

人に深切(しんせつ)にする味わい

      *(光明思想社版『人生読本』(162~163頁)より
       『人生読本』(P138~139)

人と人とは肉体を見ておりますと、
彼と我(われ)、我と彼とは相分かれているように見えますが、

本当はただひとつの神の生命(いのち)が、
そういう具合に分れて出たように見えているだけであって、
決してこの別々の存在ではないのであります。

この真理(こと)を知るのを、
自他一体とか事々無礙(じじむげ)とか申します。

まことに人に深切にしてあげ、人が幸福になるとこちらも嬉しい。

この私達が人に深切にした時の嬉しさ、
というものを振返って味わってみますと、
長く別れておったところの親子が再び出会ったような、
兄弟または夫婦がひさしぶりに出会ったような
何とも言えない喜ばしい感じなのであります。

これは人間は本来、ひとつの神様の生命(いのち)の水が
吾々に流れ入って人間となっているので、
同じ生命(いのち)の別れであり、兄弟であり、親子であり、
本来他人というものは一人もない。

それが別れたように見えていたものが一つに合(がっ)する
―― その喜びを感ずるのであります。

分かれていた半分同士が一つになる
―― そこに深切をすれば嬉しいという根本原理があるのであります。

・・・

<参照>「生命の教育」令和4年9月号 より
    ( https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/ )

       <感謝合掌 令和4年9月4日 頓首再拝>

利己主義では自分の心が苦しくなる - 伝統

2022/09/06 (Tue) 08:36:45

谷口雅春先生のお言葉(令和4年9月号「生命の教育」誌)

【顔の表情ひとつから人に深切(しんせつ)ができる】

利己主義では自分の心が苦しくなる

      *(光明思想社版『人生読本』(167~171頁)より
       『人生読本』(P143~147)

ところがこの自他一体の観念の少ない人は利己主義になるのでありますが、
利己主義になってまいりますと、自分が偉くなるためには人を貶さなければ
偉くなれないという気持ちがしてくるのであります。

自分が八十点ならば他を七十点にし、
六十点にしなければ自分が偉く感じられない事になって
人を嫉妬するようになります。

金持ちを見れば癪に触るし、自分より点数の多い学生は憎らしいし、
自分より収入の多い社員には腹が立つ。そういう嫉妬を起こす心になると、
自分の心が苦しい上に自分が立身出世できないのです。

(中略)

私達は弱きをも助けるが、
強きをも挫(くじ)く事は要らないのであります。

弱きにも深切にし強きにも深切にし、どちらも褒めてみんなを生かし、
みんなを味方にしてゆくという事によってのみ
私達は本当に生長することができるのであります。

       <感謝合掌 令和4年9月6日 頓首再拝>

人に好かれるコツ - 伝統

2022/09/07 (Wed) 10:29:31

谷口雅春先生のお言葉(令和4年9月号「生命の教育」誌)

【顔の表情ひとつから人に深切(しんせつ)ができる】

人に好かれるコツ

      *(光明思想社版『人生読本』(236頁)より
       『人生読本』(P202)(第12章)

人に好かれるコツの一つは表情にあるのです。
表情というのは、その人の顔にあらわれている感じです。
人の顔付、感じです。

その人の顔を見ると何となしに好きになれる人と、
何となしに嫌いになる人とがあるでしょう。
この事は全く不思議な問題です。

皆さんは「私の顔は生まれつきだから仕方がない」とお考えになりますか。
そうお考えになりますならば、それは間違いです。

顔の感じは常に変わっているものです。

今、あなたのお母さんが死にましたという電報が来ましたら、
あなたは悲しい顔をなさいます。
その悲しい顔の感じはあなたが喜んでいる時の感じとは異(ちが)います。

あなたが不平で膨れている時の顔の感じと、
あなたが深切に赤ん坊をいたわっていられる時の顔の感じとは
異(ちが)います。

       <感謝合掌 令和4年9月7日 頓首再拝>

何にでも深切な気持の人は人に好かれる - 伝統

2022/09/08 (Thu) 07:43:05

谷口雅春先生のお言葉(令和4年9月号「生命の教育」誌)

【顔の表情ひとつから人に深切(しんせつ)ができる】

何にでも深切な気持の人は人に好かれる

      *(光明思想社版『人生読本』(237~238頁)より
       『人生読本』(P203)(第12章)

これに反して、
あなたが常に人々に対して深切な好意ある表情をしていられましたならば、
あなたに対(むか)った人は常にあなたから好い感じを受けましょう。

あなたから好い感じを受けましたら、
その対手(あいて)の人はあなたを好きにならずにはいられないでしょう。
あなたを好きになったら、その人はあなたに深切にもしてくださいましょうし、
また色々とお世話もして、出世に導いてもくださいますでしょう。

       <感謝合掌 令和4年9月8日 頓首再拝>

善い言葉は人生の宝 - 伝統

2022/09/09 (Fri) 10:58:45


谷口雅春先生のお言葉(令和4年9月号「生命の教育」誌)

【顔の表情ひとつから人に深切(しんせつ)ができる】

善い言葉は人生の宝

      *(光明思想社版『人生読本』(183~184頁)より
       『人生読本』(P157~158)(第9章)


善き言葉は人生の宝であります。

何がなくとも「深切」は言葉でできるのです。

貧乏では深切ができない、金がなければ深切ができない
というようなものではないのであって、
私達は深切の第一歩を言葉によって実行する事ができるのであります。

人に深切な言葉をかけてあげる、人が意気消沈している時に
それを鼓舞(こぶ)して高め上げるような言葉を出す、
これが深切であります。

人が誰も同情してくれない、淋しくなって人生を呪うような心の起った時に、
本当に深切な表情をして、深切な微笑を投げかける、
これが深切の実行であります。

誰だって微笑(びしょう)はできるのでありまして、
その深切な微笑がどれだけ相手を生かすことになるか分からない
のであります。

私達は、なんにも持っていないから深切ができないと言うのは
あまり物質的な考えに執(とら)われているのであります。

本当に深切にしようと思えば、
どんな場合でもできないという事はないのであります。

常に優しい心持をもち、愛に満ちた霑(うるお)いのある心を持ち、
人に接する時、拝み合い感謝し合い、相手を尊敬して、
その自信を失わしめない。

これが深切の中の一番深切になるのであります。

       <感謝合掌 令和4年9月9日 頓首再拝>

家庭の中を明るくするには - 伝統

2022/10/11 (Tue) 09:20:35

谷口雅春先生のお言葉(令和4年10月号「生命の教育」誌)

【家庭の中で子供の善さを引き出すには】

家庭の中を明るくするには

      *(新装新版『生活読本』155~156頁)より

きれいな心の人はまるで太陽の光や青空を運んでくるような人です。
その人の行(ゆ)く所に何となくあたたかみがさしてくるものなのです。

取越(とりこし)苦労や心配は光の射すようなそんな明るい気持の人の
近くへ来ると、自然に和やかになって消えてしまうのです。

吾々は人に深切(しんせつ)であっても、にこにこ笑う喜びの心をなくして、
深切をするのでは、一方では人に深切にしながら、自分の暗い顔つきで、
人を気持悪くしているのですからその深切が何にもなりません。

吾々は明るく生活しなければなりません。
明るい生活の中にはすべての善いものが集(あつま)ってくるのです。

昔から「笑う門(かど)には福来(きた)る」という諺(ことわざ)が
ありますが、にこにこ笑っていると、自然に善いことが集ってくるのです。

人をたのしく愉快(ゆかい)にしてあげることは美しい行(おこな)い
であり善いことであります。

その楽しく愉快にしてあげるには、色々の贈物をさしあげるのも、
一つの方法でありますけれども、物をさしあげなくとも吾々が
にこにこたのしい顔つきをして、たのしい心を他の人に移してやれば
それが最も深切な、人に幸福を与える方法であります。

・・・

<参照>「生命の教育」令和4年10月号 より
    ( https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/ )

       <感謝合掌 令和4年10月11日 頓首再拝>

家庭にはあなたの明るい顔が必要なのです - 伝統

2022/10/15 (Sat) 07:35:13

谷口雅春先生のお言葉(令和4年10月号「生命の教育」誌)

【家庭の中で子供の善さを引き出すには】

家庭にはあなたの明るい顔が必要なのです

      *(新装新版『生活読本』165)より

うれしい顔をするには何の資本もいりません。
深切な目附(めつ)きをするにも何の資本もいらぬのです。

吾々は、この人をよろこばしてあげたいとただ思うだけで深切な顔に
なれたり、愉快な微笑を顔に浮べたりできるのです。

あなたの愉快な顔つきは曇った日にさしこんで来た太陽の光のようなものです。

周囲の人が苦虫(にがむし)をかみつぶしたような顔をしていればいるほど、
あなたの明るい顔が必要なのです。

どんな富や財産をもっているよりも明るい心をもっているものは、
もっとも尊い宝をもっているものだといわなければなりません。

       <感謝合掌 令和4年10月15日 頓首再拝>

子供を良い言葉でほめましょう - 伝統

2022/10/20 (Thu) 07:09:12

【家庭の中で子供の善さを引き出すには】

子供を良い言葉でほめましょう

      *(光明思想社版『人生読本』178~180頁)より
       (『人生読本』P153~155)

それで皆さんは今日から、空から花びらが降るように、
いつも善き言葉を雨降らそうではありませんか。

皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、
どんな狭い裏長屋におりましても、そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。

たいてい会社や、工場商店などの勤め先へ行ってもやはり能率がはっきり上がらないで、
そのために勤め先で又ぶつぶつやっている。
その結果、昇給もしないという事になります。

事業の発達しないのも、元はと言うと、皆家庭が悪いのであります。

家庭の中で讃(ほ)め合わず、暗い心持で、責め合っている時には、
事業は失敗し、工場や鉱山では故障が起こり、子供の健康も成績も悪くなります。

  (中略~折角ですので、ここでは掲示させていただきます)

   何事も家が元になるのでありまして、生長の家へ来れば病気が治るという事も、
   要するに人間の身体の病気を治すのではなく、心の持ち方をかえさせて家の病気を
   治すのであります。

   家の病気を治すと言っても家に何かあるのではない、
   それは家の家族の互いの調和という事ができていないことです。

   家族と家族とが調和していなければ、喧嘩しながら互いに争って
   熱心に『生命の實相』を読んでも、病気も治らないことがあり、
   成績がよくならない場合が多いのです。

   だから何よりもます家族同士仲よくして互いに褒め合う生活をして
   『生命の實相』を読む事であります。

   (ここまで、中略部分の掲示でした)

褒める言葉ぐらい結構な言葉はないのであります。

ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。

というのは、それは現象(あらわれ)に執(とら)われて、
目前(めのまえ)の姿に執われて、人間の実相(ほんとうのすがた)を見失ってしまって、
人間が神の子である、ここが現実(このよ)の浄土であるということを忘れてしまって、
ちょっと何か外に現れた失敗があると、それに執われてしまって、
1分間あった失敗を1時間ぐらい怒鳴りつける。

その上、そのことをいつまでも心に持続けるというような事をしているような
人たちの集まっている家庭は、いつも面白くないのであります。

       <感謝合掌 令和4年10月20日 頓首再拝>

「神の子」が集まっているのがあなたの家庭です - 伝統

2022/10/21 (Fri) 12:02:36

谷口雅春先生のお言葉(令和4年10月号「生命の教育」誌)

【家庭の中で子供の善さを引き出すには】

「神の子」が集まっているのがあなたの家庭です

      *(新編『生命の實相』第13巻168~171頁)
       (『生命の實相』第7巻生活篇P218~220)

息子や娘を善くしてやりたい愛の心だといって、始終大きな声で口(くち)
穢(ぎたな)く罵(ののし)ることは失敗である。

それはたとい愛の心があっても、鬼の面を被(かぶ)った愛の心である。
鬼の面を被っている以上は、
愛でも相手を恐れさすほかに能力がないのである。

汝の鬼の面をとれよ。そして本物の愛の顔を出(いだ)させよ。
相手は懐(なつ)いて、愛に感じて、
喜んで善に遷(うつ)ってくれるのである。


たえず小言を言い、絶えず怒りを振り撒(ま)いて歩き、
間断なく人の欠点をさがしつつ、その人を善き人にしてやろうと思うのは、
「不調和」から「調和」が生れ出て来るだろうと予想するのと
同様な迷信である。

たとい、この世の中に瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が生れ出ようとも、
「不調和」から「調和」が生れて来ることは難しいのである。

諸君がもし諸君の立ち対(むか)う人たちをば善ならしめようと欲するならば、
自分自身が先(ま)ず調和した心持(こころもち)にならなければならない
のである。

自分の心が乱れ、癇癪(かんしゃく)に触って相手を鋭(するど)い言葉で
刺し貫いているようなことで、相手を善に化(か)し得(う)るなどと
偉そうなことを考えぬが好いのである。

(中略)

すべてあなたの家庭にてつかわれる言葉をば
「神の子」らしい洗練されたものたらしめよ。

互(たがい)を尊べ。
何故(なぜ)なら、あなた達は皆(みな)「神の子」であり、
「神の子」の生活を成就するために家庭を造っていられるのであるからである。

       <感謝合掌 令和4年10月21日 頓首再拝>

子供の天分個性を伸ばす - 伝統

2022/11/09 (Wed) 10:21:15

谷口雅春先生のお言葉(令和4年11月号「生命の教育」誌)

【日々の中に子供の善性を観(み)つめよう】

子供の天分個性を伸ばす

      *(新編『生命の實相』第47巻児童教育篇129~130頁)
       (『生命の實相』第30巻児童教育篇P98~99)


子供を育てて行(ゆ)く上に於(おい)て、先(ま)ず心得ておかなければ
ならないのは人間は皆(みな)一様(いちよう)のものでないことであります。

天分も異(ちが)えば過去の念の集積も異(ちが)う。

吾々は過去何十回、何百回と生(うま)れ更(かわ)ってこの世に出て
来ているのであって、その間(あいだ)に色々の体験を積み、
色々の過去を持っているのであります。

だから双生児(ふたご)で生れた子供でも、同じ環境で、同じ人が
同じ食物(しょくもつ)で同じ教育法で育ててもすっかり性質が異(ちが)う
ことがあるのであります。

ですから、子供をよくしようと思う時に、大人の、しかも《自分だけの尺度》
でもって判断しすぎて善悪を評価するといけないのであります。

人間というものは皆個性が異(ちが)う。
個性が異(ちが)うところにそこに価値がある。

桜の花と薔薇(ばら)の花とはどちらが美しいかというと、
これは評者の好き嫌いで定(き)まるので、

桜が一層美しいという人もあれば、
薔薇(ばら)が一層美しいという人もあります。

それを自分だけの好き嫌いでもって、 「お前桜のように、そんなに
一晩(ひとばん)で散るような淋しい姿じゃいかん。薔薇(ばら)の花
のようにならねばいかん」といったところが、それは出来ない事を望むの
であります。

桜は桜でその良さを認め、薔薇(ばら)ば薔薇(ばら)でその良さを
認めなければならないのであります。

人を教育するには自分が「こう有(あ)りたい」という《一つの尺度》
をもって、その《尺度》に異(ちが)うものは皆(みな)悪いと考え、
お前は悪い悪いという批評を加えて行(ゆ)きますと、

その批評の言葉の力によってその児童の天分は伸びず、
「僕は悪いものだ、劣等児だ」という観念を心に植えつけられて、
ついに折角の天才児も一個の劣等児になってしまうのであります。


・・・

<参照>「生命の教育」令和4年11月号 より
    ( https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/ )

           <感謝合掌 令和4年11月9日 頓首再拝>

子供の善性を引き出す教育 - 伝統

2022/11/10 (Thu) 07:19:29

谷口雅春先生のお言葉(令和4年11月号「生命の教育」誌)

【日々の中に子供の善性を観(み)つめよう】

子供の善性を引き出す教育

      *(新編『生命の實相』第47巻児童教育篇131~132頁)
       (『生命の實相』第30巻児童教育篇P99~100)

ですから、子供にはすべて、自己独特の個性的方法に於(おい)て
表現する自由を与えなければならぬのであります。

しかし、子供の思想及(およ)び活力を正しい方向にむけるよう
に誘導して行(ゆ)くことは教育者の役目であります。

教育とは圧迫ではなく、誘導であり、 「引出(ひきだ)し」であります。

子供の欲望の中にはまだ整理されない雑草があることは
認めなければなりません。

この雑草を刈りとるには、善きものを誘導することによって、
雑草が自然に枯れるような方法を採(と)るのが最も好(よ)いのであります。

およそ庭を持っておられる方なら知っておられましょうが、
庭の雑草というものは、それを引かなければ、或(あるい)は
刈(か)り除(と)らなければ直(す)ぐ伸びてくるのであります。

折角(せっかく)よき花を植えましても、一方でわざわざ種を植えて
良き花を生長(せいちょう)せしめたいと思いましても、種子(たね)も
何も植えない雑草の方が急に生長したら、折角良き花を咲かせたいと思った
草花が、何でもない雑草に圧迫されて生長しない事になるのであります。

ですから、児童教育にもその点を注意して、児童の生命を、
その本来良き花を育て引出すようにして、

雑草を枯らすように枯らすようにして行(ゆ)くと好(よ)いのであります。


           <感謝合掌 令和4年11月10日 頓首再拝>

尊い生命こそが子供の本性(ほんせい)である - 伝統

2022/11/11 (Fri) 07:31:11


谷口雅春先生のお言葉(令和4年11月号「生命の教育」誌)

【日々の中に子供の善性を観(み)つめよう】

尊い生命こそが子供の本性(ほんせい)である

      *(新編『生命の實相』第22巻教育篇174~175頁)
       (『生命の實相』第14巻教育篇P198~199)

諸君よ、先(ま)ず子供に教えよ。彼自身の生命の尊さを。
 ―― 人間の生命(せいめい)の尊さを
 ―― そこには無限力の神が宿っていることを。

展(ひら)けば無限の力を発し、無限の天才をあらわし、
彼自身の為(ため)のみならず、人類全体の輝きとなるものが
彼自身の内(うち)に在(あ)ることを教えよ。

彼をして彼が地上に生命(せいめい)を受けて来たのは、
自分自身のためのみでないこと、人類全体の輝きを増し、
人類全体の幸福を増すために
神が偉大な使命を彼に与えて来たのであることを教えよ。

この自覚こそ、 最初の最も根本的な自覚であって、
この自覚が幼児に植えつけられたものは必ず横道(よこみち)に
外(はず)れないで、真に人類の公(おおや)けな歓(よろこ)びの
ため何事かを奉仕しようと喜び励む人になるのである。

常に子供を鞭撻(べんたつ)して、彼の善さを力説せよ。
彼の美点を強調せよ、自分自身のもつ長所を自覚せしめよ。

ここに子供を教養する極意があるのである。

           <感謝合掌 令和4年11月11日 頓首再拝>

「今」を生かしましょう - 伝統

2022/11/12 (Sat) 07:28:18

尊い生命こそが子供の本性(ほんせい)である

谷口雅春先生のお言葉(令和4年11月号「生命の教育」誌)

【日々の中に子供の善性を観(み)つめよう】

「今」を生かしましょう

      *(新編『生命の實相』第47巻児童教育篇62~64頁)
       (『生命の實相』第30巻児童教育篇P43~44)

皆さんが子供の天分を伸ばそうとお考えになりましたならば、
その子供から自然に内在の才能が現われ出ようとする時期に、
その現われ出ようとする生命を生かすように、培つちかうように、
引き出すようにしなければならないのであります。

(中略~それは生長の家で常に言う「今を生かす生活法」の
    教育法的展開でありまして、)

父兄、保護者、教育者たるものは
「今」出ようとする子どもの才能を見逃してはならないのであります。

誠に「今」こそいっさいの生活を支配する鍵であります。

何よりも「今」が大切なのであります。

それですから、「今」しようと思ってる時に、
「今」したいと思っている時に、その出ようとしているものを
抑(おさ)えつけて出さないようにしましたならば、

その発現しようとしているエネルギーは、
ややもすればその抑圧によって窒息してしまうことになる
のであります。

(中略~
 たとえばわれわれが、文章を書くという時に、
 何かインスピレーションというものを感じて
 「今」書きたくてならない衝動が内から起こっている。

 その時に何か邪魔が這入って書けないようなことがありますと、
 今度書こうと思ってもなかなかそのインスピレーションを
 感じた時のようには思い出せない。

 思い出すにも非常な努力が要るわけで、努力して出て来ましても
 神徠(しんらい)のとおりに完全に出て来ないのであります。

 これによって考えましても、一ぺん能力が出ようとした時に、
 いったん抑えてまた今度出そうとするならば、
 ひっぱり出す操作に非常な努力を要し、

 その結果もはなばなしくないので、二重三重の損失を受ける
 ことになることがおわかりになりましょう。)

それですから、内部から才能が出ようとしている時に、
出すように引き出すようにするのが、
子供の教育の極意になるわけであります。

           <感謝合掌 令和4年11月12日 頓首再拝>

真の教育とその教育法 - 伝統

2022/11/13 (Sun) 08:03:22

    *『生命の實相』第30巻兒童教育篇(はしがきP2~3)より抜粋

真の教育はしょせん、
人格と人格との接触によって行われなければならないのである。

人たるものの人格の本質(実相)は、“仏性”または“神性”である。

教師が内部にある自己の神性を開顕して、児童に接触するとき、
児童の内部に宿っている神性が引き出されるのである。

教師みずからがその肉体的労力を賃金によって
切売りする労働者にすぎないと自覚して
肉体的な利己的、我欲的面のみを露呈して児童を教育するならば、
児童は利己的、我欲的な面のみ発達せしめられて
円満完全な人格を成長させることはむつかしいのである。

(中略)

わたしが本書において唱道(しょうどう)している教育の根本は、
まず、「児童に人格の自由をみとめる」ことである。

「児童に行為の選択の自由を与える」のである。

叱責や刑罰で恐怖心を与えて児童を先導しようと思っても、
それは反対効果を得るだけである。

(中略)

わたしは三十年間わたしの新しき教育法を多くの教師または
父母たちに実践せしめてきて、それが実際に効果があることの
実証を得てきたのである。

この革新的教育法は、わたしが創めたところの
三十年間においてはもちろん新しかったが、
三十年後の今日、戦後の民主主義教育時代にが、
なおいっそう適する喫緊(きっきん)な教育法となってきているのである。

今ではこの教育法を中心に多くの大学高等学校中小学校など
の教職員と父母の連名である「新教育者連盟」というものができて、
それがますます全国に広がりつつある現実である。

本当に新しいものは、やがて古くなるところの流行的新しさではないのである。

常に永遠に新しいものこそ、本当に新しいものである。

そのような意味において、常に新しさを失わない教育法こそ
本書に説かれている教育法である。

           <感謝合掌 令和4年11月13日 頓首再拝>

子供に宿る「無限の力」を引き出すために 谷口雅春先生 - 伝統

2022/11/14 (Mon) 06:49:50

子供に宿る「無限の力」を引き出すために 谷口雅春先生
seimeinojissoh(2022/05/09)
https://www.youtube.com/watch?v=FBVMI29ZfQA

           <感謝合掌 令和4年11月14日 頓首再拝>

心に夢をえがけ - 伝統

2022/12/12 (Mon) 10:02:56

谷口雅春先生のお言葉(令和4年12月号「生命の教育」誌)

【世のため、人のためになる夢を描きましょう】

心に夢をえがけ

      *新装新版『生活読本』72頁
       『生活読本』第六章 希望の夢を描きましょう

心に夢をえがけ(P55~57)

心に夢をえがくということは
何でも大きなことを成し就(と)げるのに大切な事であります。

夢をえがくと言うのは、決して出鱈目なことを考えるのではなく、
「必ず出来る」と未来に起こる善いことを心に思い浮かべることであります。

コロンブスは、これから西へ西へと進んで行けば大陸があると、
まだ肉眼に見えない世界を心にえがいて突進して行きましたから、
とうとう其の心にえがいたアメリカ大陸を発見したのです。

まだ見えないが、心の眼でじっと未来におこって来る善き世界を、
善き状態を、一層よき自分を、心に描くことを「夢を描く」と云うのです。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和4年12月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

           <感謝合掌 令和4年12月12日 頓首再拝>

他を害するようなことを描いてはいけない - 伝統

2022/12/13 (Tue) 09:00:32

谷口雅春先生のお言葉(令和4年12月号「生命の教育」誌)

【世のため、人のためになる夢を描きましょう】

他を害するようなことを描いてはいけない

       *(新装新版『生活読本』73頁)

心に強く夢をえがいても、
他を害して自分がよくなろうとするようなことを
心にえがいてはなりませぬ。

人を押したおして自分が出世するような考えを心にえがいても、
その人の心が強く、押しが強い場合には
しばらくそれが成就するのであります。

しかし、そうして出世しても、
無理をして出来た出世は、金が出来、地位が出来ても、
その金のために悩まされたり、地位のために色々の人が出入りして、
会いたくない人に会わせられたり、家族が病気になったり、
色々面倒がおこって来たりするのであります。

           <感謝合掌 令和4年12月13日 頓首再拝>

人につくすこと、世につくすことを - 伝統

2022/12/15 (Thu) 11:29:55

谷口雅春先生のお言葉(令和4年12月号「生命の教育」誌)

【世のため、人のためになる夢を描きましょう】

人につくすこと、世につくすことを

       *(新装新版『生活読本』74頁)
         ~『生活読本』サービスが成功の基(もとい)(P57~58)

すべて、金とか、権力とか、
名声(めいせい=なまえがでる)とか、贅沢とか、
利己的(じぶんのみによい)なことを心に描いて
成就(じょうじゅ=なしとげる)した場合には、
多少とも自分を悩ますものがつきそうて来るのであります。

真に悩みのない生活を送るには、そんな利己的なものを心にえがかず、
人につくすこと、世につくすこと、どうしたら人のために、
また世のためになるかということを考えてサービスをつとめて行くようにすれば、
金も名誉も地位も自然に得られてくるのであります。

金や名前や地位などは目的にすべきものではなく、
世のため、人のためにつくした誠が
自然にあらわれた結果でなければならぬのです。

           <感謝合掌 令和4年12月15日 頓首再拝>

わたしは運命の主人公である - 伝統

2022/12/16 (Fri) 11:49:01

谷口雅春先生のお言葉(令和4年12月号「生命の教育」誌)

【世のため、人のためになる夢を描きましょう】

わたしは運命の主人公である

       *(新装新版『生活読本』74頁)

自分の運命は自分で造る(『生活読本』P59~60)

吾々は自分でわれわれの前途(ぜんと=これから)の運命をつくるのです。

運命と云うのは運がよくてまわってくる天からの命令と云うものではなくて、
われわれの心でどうにでもなるものなのです。
われわれの心で常に思っているとおりに世界は運転してくるのです。

世界の運転のしようを自分の思いどおりにしているのが人間なのです。

だから人間は運命の主人公であって、人間は運命の奴隷ではありません。
奴隷には自由はありませんが、主人公には自由があるのです。

(中略)


思ったとおりになる世界(『生活読本』P61~62)

何でも思った通りになるのです。

「力がない」と思えば力がなくなります。
「すべての力は与えられているのだ」と信ずれば力が出てまいります。

「弱い、弱い」と語りながら強くなったものはありません。
「私は病気だ」と語りながら健康な者はありません。
強くなるのには常に「自分は強い、強い」と語らねばならないのです。

(中略)

何でも、自分の心の波長に合うもののみが引きつけられて来るのは、
波長のあう放送だけがラジオに受信されて音を たてるのと同じことであります。

「笑う門には福来る」「泣き面に蜂がさす」などと云う諺は、
ここの道理を説いたものであります。

幸福と成功と上達と繁栄と希望の夢をえがいて、
常にほほえみ、努力をおこたらぬ者のみに真の幸福は来るのです。

            <感謝合掌 令和4年12月16日 頓首再拝>

人間の内には無限の能力が埋蔵されている - 伝統

2022/12/17 (Sat) 08:15:30

谷口雅春先生のお言葉(令和4年12月号「生命の教育」誌)

【世のため、人のためになる夢を描きましょう】

人間の内には無限の能力が埋蔵されている

     *(新編『生命の實相』第22巻 教育篇 159~160頁)

人間の内には実に無限の潜在能力が埋蔵せられているのである。
深く穿(うが)つに従ってどれだけでも豊かに
その潜在能力を掘り出すことが出来るのである。

穿(うが)つとは自覚するということである。
自覚しさえすれば埋蔵せる宝は常に掌中(しょうちゅう)のもの
となるのである。

だから表面にある能力だけを自分の全部だと子供に思わすな。

表面にある「自分」は「真の自分」の唯(ただ)の「小出(こだ)し」にしか
過ぎないことを知らせよ。

「小出し」は使うのに便利かもしれないが、
この「小出し」を自分の全部だと思ってしまったならば
大(おお)いなる発達は望めないのである。

常に子供に教えて小成(しょうせい)に安(やす)んずるなといえ。

小成は自分の 「小出し」過ぎないこと、
今ある彼の能力はすべて「小出し」にに過ぎないこと、
「小出し」は決して誇るに足(た)りないこと、

つねに「小出し」に満足せず、本源、即(すなわ)ち
無限の潜在能力 (神) より汲(く)むように努力すること

――常にかくの如(ごと)き真理を子供に解る言葉で教えるように
心懸(こころが)ければ、現在の自分に満足する子供の
傲慢(ごうまん)心(しん)は打(うち)砕(くだ)かれ、
驕傲(きょうごう)は消滅せしめられ、

永遠に能力の伸びる精神的基礎は築かれるのである。

            <感謝合掌 令和4年12月17日 頓首再拝>

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