伝統板・第二
ひかりの一日一言85~心と肉体と形の世界・人生調和の原理 - 伝統
2022/04/01 (Fri) 06:28:35
真理第1巻入門篇 第13章14章(P193~192<8+6項>)から
の謹写です。
各項目については、「ひかりの一日一言」としては、
長文となるものがありますので、小項目に分けての紹介になります。
結果的に、31日分の構成を目指します。
ひかりの一日一言《1日》
《1日 人間の本当の心とは①》
桜の花は桜色、藤の花は藤紫、たれが見てもそう見えるのであります。
カラスは「カァ、カァ」と鳴き、雀(すずめ)は「チュウ、チュウ」と鳴く。
誰が聞いてもそう聞えるのであります。
芝居を見ても、役者が舞台で泣くところは、観る人も泣く。
笑うところは誰が見ても笑います。
《しんみり》するところは、誰もが《しんみり》する気持になります。
これは、誰にやどっている「心」も、
みな天地の心、神さまの同じ心がやどっているからであります。
この神さまの「心」が自分の本当の心であります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P193)より
<感謝合掌 令和4年4月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2022/04/02 (Sat) 07:50:02
《2日 人間の本当の心とは②》
「心」はすみきりのものでありまして、色(いろ)がない。
水よりも、もっと透きとおっていて、あるかないかわかりませぬ。
鏡よりもなお一層、曇(くもり)がなくて、
何でもその通りにうつるのであります。
だから桜の花は、桜色にうつり、
藤の花は、藤色に見えるのであります。
そのようにすべてのものを映してハッキリわからすのが「心」です。
しかし、それは相手に応じてあらわれるので、
相手の自分の前から無くなれば、鏡にうつった姿もない。
馬鹿な者が、目の前にいるときには、馬鹿に見えるが、
目の前から無くなれば、何もない。
心はカラリと晴れていて、
「心」には何のくもりもなければ、傷もつかない。
ちょうど、カラリと晴れた青空のようなもので、
その青空の「青さ」さえもない、
実に透きとおり、澄み切った清らかなのが
人間の「本心(ほんしん)」すなわち本当の心なのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P193~194)より
<感謝合掌 令和4年4月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2022/04/03 (Sun) 06:50:20
《3日 肉体は人間のカラです①》
人間の本体は、この澄み切りの形のない「心」なのです。
この「心」が抜けてしまったら肉体は、人間ではない。
人間のカラだ。
だから肉体のことを「カラダ」と云うのです。
体は人間のカラだから、焼けば灰になり、埋めると土になる。
その他(た)のものは水蒸気や、炭酸ガスや、窒素ガスなどになって
空中をガス体でふらふらしているが、やがてそれは動物や植物の
いろいろの働きを通して土へかえって来る。
形があるものは皆、地即ち土にかえる。
それで昔の人は「カタチ」と云ったのです。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P194~195)より
<感謝合掌 令和4年4月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2022/04/04 (Mon) 06:37:36
《4日 肉体は人間のカラです②》
今の人は、そのつづきでやはり「形(かたち)」と云っています。
「カタチ」は「形地(かたち)」ですね。
印度などでは、「カタチ」の元になるものを四つにわけて、
四大と云いましたね。
すなわち地水火風という四つのものに分けたのです。
地と、水と、温(ぬく)みの力と、瓦斯体(ガスたい)とに分けたのです。
地は固体、水は液体、風は瓦斯体、そして火は熱エネルギーです。
これらが集って形あるものが出来たのです。
しかしこれらは皆、天体に属するものですから、
ひっくるめて云うと地に帰るのです。
カタチあるものはみんな「地」にかえるのです。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P194)より
<感謝合掌 令和4年4月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2022/04/05 (Tue) 06:59:09
《5日 形あるものは皆元素の集まりです》
今では四大と云わずに、九十六元素と云うように、
物質の元素をわけていますが、分けかたが細(こまか)くなっただけで、
形あるものは結局、地球の物質です。
蟻も、蜂も、蚤も、犬も、猫も、牛も、馬も、
鳩も、烏(からす)も、雀(すずめ)も、
すべての魚(さかな)も、人間も、皆、地球の物質です。
すなわち九十六元素のうちのどれかがあつまって出来たものです。
だから焼けば、人間も動物も虫けらも同じことです。
それですから、人間が、動物や虫けらとちがうと云うのも、
生きている間のことです。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P195~196)より
<感謝合掌 令和4年4月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2022/04/06 (Wed) 06:46:00
《6日 「生きている」とはどんなことですか》
それでは生きていると云うことはどう云うことでしょうか。
「生きているもの」と、「死んでいるもの」との区別は、
「生きているもの」には「心」があり、
「死んでいるもの」には「心」がないということです。
「心」がぬけたら結局、おそいか早いか、地に帰るのです。
九十数元素の物質が、或る形にならんで、
鳥(とり)は鳥の形、犬は犬の形、猫は猫の形、象は象の形、
人間は人間の形、
人間は人間でも、太郎さんは太郎さんの顔、
次郎さんは次郎さんの顔、花子さんは花子さんの顔、
芳子さんは芳子さんの顔をしているのは何故でしょうか。
それは、その体の中にやどっている「心」の形がちがうからです。
みんな「心」のとおりの「形」をしているのです。
だから、どんな「心」をしているかは、
その人の顔を見ればわかるのです。
観相家でなくとも、顔を見れば、だいたいどんな心の人か、
怒っているか、喜んでいるか、不平でいるかがわかるのです。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P196~197)より
<感謝合掌 令和4年4月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2022/04/07 (Thu) 07:04:49
《7日 心の形とはどう云うことですか①》
「心」には形がないから、
「隔(へだ)て」とか「仕切り」とか云うものがない、
みんなに同じ「心」が宿っている。
その同じ心は、澄み切りの、清らかな、
神さまの「心」だから、みんな同じ「心」です。
それなのに、何故みんな「心」がちがうかと云いますと、
「心」そのものは「神さまの心」であって、かわりないのですけれども、
その「心」のうえに思いうかべている「思い」や、「感じ」がちがうから、
その「思い」や「感じ」の通りの姿に、養分や成分になる物質がならんで、
色々の人相や、かたち姿になっているのです。
「心」は本体、「神さまの心」であって、どんな形もない、
「心」のうえに浮んだ「思い」が、心の姿と云うものです。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P197)より
<感謝合掌 令和4年4月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2022/04/08 (Fri) 07:30:50
《8日 心の形とはどう云うことですか②》
古い歌にこんなのがあります。
水の面(おも)に夜(よ)な夜(よ)な月は通へども
思ひもとめず跡ものこさず
水の面(おも)と云うのは、
池などの澄み切った水の表面のことであります。
夜(よ)な夜(よ)なの「な」は、
「ならぶ」とか「なれる」とかの「な」でありまして、
「同じものが続く」意(い)であります。
そこで、夜な夜なと云うのは夜(よる)がつづく意味で、
「毎晩」と云うことであります。
毎晩、池の水の上にお月さまが影をうつしても、
そのお月さまが出ている間は、お月さまが映ってはいるが、
お月さまがかくれてしまうと、水はそのまま澄み切って、
心の月の跡をのこさないと云う意味であります。
これが「神さまの心」が人間にやどっている「本当の心」であります。
この「本当の心」のうえに、波のように色々の思いが浮ぶ、
これが「心の形」であります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P198)より
<感謝合掌 令和4年4月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2022/04/09 (Sat) 07:07:24
《9日 「本当の心」は汚れない①》
波がゆれても、水は殖えるものでも、減るものでもない。
これを仏教では不増不減と云うのです。
「人間の心」は「神の心」がやどっていて、
思いが波のように起っても殖えもせねば減りもしませぬ。
「人間の心」は神の心ですから、はじめから澄み切りのものであって、
これから浄(きよ)らかになるとか、垢(よご)れるとか云うものでもありません。
これを仏教では不垢不浄(ふくふじょう)と云っているのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P198~199)より
<感謝合掌 令和4年4月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2022/04/10 (Sun) 07:39:42
《10日 「本当の心」は汚れない②》
花に向えば花がうつり、月に向えば月が映るが、
その花の心が水にしみついて、水が真赤になると云うことがないように、
思いも止めず、跡も止めない
―それが人間の本性(すなわち神の心で)人間の実相であります。
「人間の本性」は神の心であります。
「神の心」がなくなれば、「人間の本性」がなくなる。
ですから「心」がぬければ、たとい人間の形をしていても
「人間」ではないのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P199)より
<感謝合掌 令和4年4月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2022/04/11 (Mon) 07:23:26
《11日 「生命の実相」とはどんなことですか》
「人間の本性(ほんしょう)」を
生長の家では「生命の実相」と云っております。
吾々の生命(せいめい)の本当の相(すがた)と云う意味であります。
人間は生命(いのち)が本体で、
肉体はその容れ物、すなわちカラであります。
生命(いのち)が本物で、肉体として
カリにあらわれている人たちが集っている世の中ですから、
此の世界を仏教ではカリの世と云うのです。
水に映っている影みたいなものです。
あるように見えていて《ない》のです。
ですから、今日(きょう)肉体は生きているように見えても無いのです。
「心」のほかになにもない。
「心」がなくなれば、肉体は、ほっておいても
腐って形がなくなるのは、
もとから肉体はカリのものであって、無いからです。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P199~200)より
<感謝合掌 令和4年4月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2022/04/12 (Tue) 08:07:29
《12日 肉体の事を思わず、金を思わず働けば金持になる①》
この肉体と云うものが自分の本物でない、
「心」こそ「本物の自分」だと云うことを知らぬものだから、
目がさめると、すぐ何かほしい。金がほしい。
ああしたいこうしたい、と考える。
「何をするにも金次第じゃ。金がなければどうもならぬ。
人をだましても、おどしても、ごまかして金をこしらえよう」
などと考える。
そして新聞の三面記事に色々の悲惨事が書かれることになるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P200)より
<感謝合掌 令和4年4月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2022/04/13 (Wed) 07:21:31
《13日 肉体の事を思わず、金を思わず働けば金持になる②》
目に見えているものは、皆カリの世のものでありますから。
肉体と云うカリの姿があらわれている間だけのものです。
肉体から「心」がぬけ出して、あの世へ行くときには、
金も、なにも、形のある一切のものは、もって行けませぬ。
人間の本体は「心」ですから、
「心」でもって行けないようなものは、
ただカリにあるだけです。
何も、そんなに命がけになって争うほどの
値打のあるものは形の世界にはない。
金(かね)など、どうでも好(よ)いではないか。
生命(いのち)が今働けばよいのです。
と云っても貧乏になれと云うのではありません。
この心意気になって働いたら自然に金持になれるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P200~201)より
<感謝合掌 令和4年4月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2022/04/14 (Thu) 07:03:55
《14日 肉体の事を思わず、金を思わず働けば金持になる③》
ありがたき神の生命(いのち)を今いきて、
今を生きればそれが金持(かねもち)
と云う歌がありますが、
肉体は「心」の容(い)れ物で、カラであり、
「心」が自分の生命(いのち)だとわかれば、
肉体の骨身(ほねみ)を惜しまずに働くことが出来るのです。
金(かね)、金、などと思わないで、骨身を惜しまずに働いていますと、
却って、人から尊ばれ、財産も、求めないでも、
沢山出来ることになるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P201)より
(以上で、「第13章心と肉体と形の世界」の紹介を終えます。
次回より「第14章人生調和の原理」へと移ります)
<感謝合掌 令和4年4月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2022/04/15 (Fri) 07:07:31
《15日 自分を、有限な肉体だと思ってはならぬ①》
人間の《いのち》は物質ではないのです。
《いのち》が物質をつくり固めて肉体をこしらえたのです。
その《いのち》は神の《いのち》が流れ入ってあらわれる
出口になるのが肉体の人間ですから、
出口は五尺三寸で、目方は13貫でも、
そこから流れ出る《いのち》の力は無限なのです。
それなのに、自分の力は、この小さな身体からだけ出るものだ
と思っていますと、心のなかで、
神の無限の《いのち》の流れと云うものを、
「これだけが自分だ」と云う迷い心で、
ぴしゃりとバルブを閉めてしまう事になりまして
神の生命(いのち)が流れ入(い)って来ないのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P202)より
<感謝合掌 令和4年4月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2022/04/16 (Sat) 03:24:24
《16日 自分を、有限な肉体だと思ってはならぬ②》
此の五尺三寸の体(からだ)のタンクにあるきりが、
自分の力の全部だと思って惜しみながら使っていますと、
幾ら惜しんでも矢張り息もしなければならないし、
胃腸の消化作用も行われますから、お腹が減るだけ、
エネルギーが減ると云う事になるのであって、
惜しみながら使ったら減らぬと云うわけではないのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P202~203)より
<感謝合掌 令和4年4月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2022/04/17 (Sun) 07:13:16
《17日 自分を、有限な肉体だと思ってはならぬ③》
その上、また心を消極的に使うと云うことは、
例えば会社で働いておりましても、「怠ける」ことにしていると、
気がとがめたり、上役と摩擦の心を起しますから、
吾々は二重に精神を疲労しなければならないのです。
気がとがめるだけでも病気を起すことがありますから、
楽しくみずから進んで仕事をすれば、
血のめぐりがよく健康になるのであります。
「なまける」と云っても、出勤している以上は、
一つも仕事をしないと云うわけにはいかない。
月給貰ってる以上は、仕事を全然しないわけにはいかないから、
《やっている》真似をする。
真似をしているのでは本当にやっているんじゃないから、
上役の人にでも見つけられやしないかと一所懸命それを警戒して
恐れていなければならない。
何か自分をとがめるものがやって来はしないかと
キョトキョトしていなければならないと云う事になります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P203)より
<感謝合掌 令和4年4月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2022/04/18 (Mon) 08:53:09
《18日 恐れる心は血液に毒素をつくる》
この恐れる心 ―― 人が何とか自分の悪を非難しやしないかと恐れる心
―― この恐れる心ぐらい吾々の精力を浪費させるものはないのであります。
これはエネルギーの逆用でありまして、常に自分のいのちを疲労せしめ、
血液の中に毒素をつくり、仕事のために力を使わないでも、
毒素のために自分の身体を一層疲れさせる事になるのであります。
恐れると吾々は血液の中に毒素が出来ると云う事は、
ハーヴァード大学のゲーツ博士が色々の実験に依ってそれを
ハッキリ証明したことは前に書いたことがありますが、
恐れていると急に疲れてふらふらになることは
皆さんにも経験にもありましょう。
又おそれていると、人相なども段々悪くなって来ます。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P204)より
<感謝合掌 令和4年4月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2022/04/19 (Tue) 07:40:10
《19日 目付が悪いと運が悪い①》
目付なども上目(うわめ)三白眼(はくがん)と云って
泥棒目付になって来ますから、
折角、よい働き口があって就職に行きましても、
「どうもあの人を使っても、目付が悪いから、折角就職に来たけれども
あんな感じの悪い人は事務所にいても気持がわるいから、断ってやろう」
と云う事になるのであります。
娘さんの縁談などでも、仲人のところではいい具合に進んでおりましても、
見合をしたら思ったより娘さんの目付が悪かったと云うので、
折角の好い縁談も順調に運ばないと云う事にもなりがちであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P204~205)より
<感謝合掌 令和4年4月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2022/04/20 (Wed) 06:53:40
《20日 目付が悪いと運が悪い②》
人間の運命と云うものは目付にあるのでありまして、
目は心の窓とも云われています。
人を観わけるのに、目を見たら大抵どんな人か分るのです。
目が本当に澄み切った好い綺麗な目をしているような人は、
必ず綺麗な心をしているのでありまして、
目がどんよりと曇っているような人は矢張り心がどんより曇っている。
目が愛らしい人は矢張り心も愛らしいし、
目に嶮のある人は矢張り心にも嶮があるのでありまして、
これは争う事の出来ない事実であります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P205)より
<感謝合掌 令和4年4月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2022/04/21 (Thu) 07:12:41
《21日 目付が悪いと運が悪い③》
目と云うものは同じ人でも
怒っている時と笑っている時とは
目の光が違うのであります。
これは直接的に自分の心の波と云うものが
そこから出ているのであって、
これは何人(なんぴと)も否定する事が出来ないのであります。
常に、より多くどんな目付をしているか、
その目付が習慣性になって参りますと、
何も考えずにぽかんとしている時も、
常にしている目付をつづけているので、
いつも争いの心を起している人は何も考えない時でも
習慣性にその争いの波を眼の光から出しておりますので、
何時(いつ)も怒ったような鋭い嶮のある目つきをしていると云う事になり、
人から嫌われることになるのであります。
そこでいつも戦々兢々として囚人が看守を恐れるかの如く、
会社の上役の来るのを恐れるのは、仕事をなまける人の心理でありますから、
自分の人相を囚人のように悪くし、従ってまた自分の運命を悪くする
と云う事になるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P205~206)より
<感謝合掌 令和4年4月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2022/04/22 (Fri) 07:21:26
《22日 目付が悪いと運が悪い④》
又娘さんがお嫁に行きましても、
舅姑(しゅうとしゅうとめ)さんなどに対して、
おそれる心で警戒心を抱いておりましては、
屹度、仲好い家庭生活は出来ません。
何か自分の欠点でも見つかりはしないか、
何か《アラ》を捜されやしないかと思って、
お嫁さんの心がキョトキョトとして、
姑さんに対して恐れる、《目つき》でつかえていますと、
「どうも自家(うち)の嫁は私に懐(なつ)いてくれない」
と云って気持悪がられて、
嫁と姑との仲が悪いと云うことにもなってくるのであります。
それはどうしてそうなってくるかと云いますと、
仲が悪い原因は何であるかと云うと、
姑と嫁とは、自他一体、互に一つだと云う事を忘れているからです。
互に一つであると云う事を忘れておったら、
互に離れる心ですから仲の悪い事は当然であります。
「仲が好い」と云うのは「互に一つ」である事を
認めていることが仲がいいのです。
「一つ」位仲の好いものはありません。
上役と社員とは別々である、
とこう思っておれば上役と社員とは仲が悪いのです。
そんな会社では成績も上らず、事業も栄えないから、
月給も充分あがりません。
家庭の中で姑と嫁とは別々のものである、とこう思っておりますと、
そう考えていること《そのもの》が仲が悪いのです。
そして互に欠点を見られると思って警戒していますと、
益々仲の悪い事が現われてくるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P206~207)より
<感謝合掌 令和4年4月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2022/04/23 (Sat) 07:22:05
《23日 嫁に往ったら家庭に一つに融け込まねばならぬ①》
そこでこのお嫁においでになりましても一番必要な事は
その家庭に融け込んでしまうと云う事です。
一つに融け込む事が出来なかったら始めから仲が悪いんです。
仲がいいと云うのは融け込んで一体になっているからです。
『生命の實相』の第一巻の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」
と云う言葉がありますが、
天地一切のものの中に融け込んでしまう事が出来れば、
天地一切のものと仲がよくなり天地一切のものが自分の味方になるのです。
吾々は天地一切のものと一つに融け込んでしまわなければならない。
家族のものたちは互に一つの家族にならなければならないのです。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P207~208)より
<感謝合掌 令和4年4月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2022/04/24 (Sun) 07:18:11
《24日 嫁に往ったら家庭に一つに融け込まねばならぬ②》
お嫁さんの場合を考えますと、
「私は余所の家から嫁に来たので、自分は仮にこの家に居(お)るんだけど、
ここは生れた家じゃないんだ」と云うような
一つに融け込まない気持で、自他分離の感じを持っておりましたら、
決して仲が良くなれないのであります。
そう云う風な人が時々私の所にも相談に来られて云われます。
「先生私は姑さんに対して出来るだけ勤めて、
姑さんの御機嫌を害しないように、害しないようにと、
出来るだけ一緒懸命につくして居りますけれども、
姑さんに嫌われて、事毎に意地悪されるのですが、
どうしたら宜しいでしょう」
と云うような事を訊かれる場合があるのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P208~209)より
<感謝合掌 令和4年4月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2022/04/25 (Mon) 07:07:30
《25日 嫁に往ったら家庭に一つに融け込まねばならぬ③》
私がそう云う方に申上げるのは、
「それは貴女、勤めると云う気持があるからいかんのだ」
勤めると云う気持の中にはどう云う気持があるかと云うと、
「若し私が勤めなかったら、
姑さんは私に意地悪の心をもって見るかも知れない。
本来、姑と云うものは嫁に対して仲がわるいものである。
姑は嫁を愛する筈はない。
意地悪な批判的な目ばかりで見て、嫁苛(いじ)めをするものだ」
と云う予想が、先ず自分の心の中にあるから、
そこで「私は勤めなければならない」と云うような気持が起こってくるのです。
そして「姑さんの気に入ろう、気に入ろう」として
勤めているような気持、そんな勤め方は、本当は初めから、
自分と姑とは互に「仲が悪い」と云う事を認めて
やっているのですから駄目なのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P209)より
<感謝合掌 令和4年4月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2022/04/26 (Tue) 07:19:48
《26日 本当に仲よくなるには①》
そこで本当に姑さんと仲よくなろうと思いましたら
どうしたらいいかと云うと、
姑さんの懐(ふところ)の中に跳び込んで行けば宜しいのです。
姑さんの懐の中に跳込んで自分と他(た)とが一つになるのであります。
「私は余所(よそ)から来たのである」と云うような感じを捨ててしまって、
「この方が自分の生みの親である」と云うような気持になって、
その懐の中に跳込んで行くと云うようにしますと、
互に気が楽になり、本当に仲がよくなるのです。
つまり自分がなくなってしまうのです。
そして姑の懐に跳込んで一つになるのです。
自分と云う我(が)があって、相手と分れていると思う限りは
本当に仲よくはなれないのであります。
世界でも家庭でも一つになるところに仲が好くなる道があるのです。
これが矢張り宇宙の初めから、『はじめに神天地を創造(つく)り給えり』と、
この「はじめ」が神と一つであると云う根本実相を、
実際生活にも応用すると云う事になるのであります。
この初めが「一つ」であると云うこの根本実相を実際生活に応用する事が、
凡ゆる場合に総ての事を解決して行くところの鍵になるのでありまして、
これは幾ら説明しても、終(しま)いにならないくらい
応用の広いものだからであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P209~210)より
<感謝合掌 令和4年4月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2022/04/27 (Wed) 07:32:28
《27日 本当に仲よくなるには②》
あるとき、こう云う人が来られましたが、
これは逆に嫁さんに苛(いじ)められる姑さんであります。
先の方は姑に苛められる嫁さんでありましたが、
嫁に苛められる姑さんもありますから、皆、その人の心々で
色々の状態があらわれて来るのであります。
その人はもう60過ぎた姑さんでありましたが、こう云われました。
「私はクリスチャンでありまして、40年前からクリスチャン生活をしておりまして、
人と云うものは犠牲になると云う事が尊いものだと教えられ、私は40年の間、
自分の嫁の犠牲になって参りました。
犠牲になる事が神の道である。
犠牲犠牲と思いまして、自分を殺し殺しして犠牲の生活を送って参りましたが、
未だにどうしても嫁と仲好しになれません。
わたしはこれは自分の犠牲になり方が足りないのだと思いまして、
出来るだけ努めて、犠牲の心持ちで嫁の汚れた着物も自分が洗濯してやって
干してやりますと、
嫁は『お母さんが洗ってくれて一層穢れたから、もう一ぺん洗い直す』と申しまして、
又洗い直すと云うような当てつけがましい事をやりまして、
とても辛くて仕方がないのです。どうしたら宜しいでしょうか」
とこう云う質問なのであります。
そこで私が申上げたのです。
「それは貴女が間違いだ。自分を犠牲にすると云う考えがあるからいけない。
犠牲と云う言葉は矢張り自他対立の言葉で、自己犠牲と云う事は一寸よいように
思われるけれども、キリスト教の牧師なら大いに賛成したかも知れないけれども、
生長の家では、犠牲と云うことをそんなに尊ばないのであります。
誰かが代りに犠牲にならねば、ほかの人が幸福になれないような
不完全な世界を神様はつくっておられないのです。
自分を殺すと云うと、善いことのようだが、自分を犠牲にしている
と云う考え方は自他対立しており、自他分離対立しているから一つに融合しない、
そこに仲の悪い因(もと)がある」
と云う事を申上げたのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第13章(P210~212)より
<感謝合掌 令和4年4月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2022/04/28 (Thu) 07:46:44
《28日 本当に仲よくなるには③》
自分と他(た)と分離するような感じが仲の悪くなる因(もと)でありますから、
殺すべき対立的な「自分」も《ない》と云うところまで、解らなければ、
本当にその人は仲好しになれないのであります。
自分を「犠牲」にする事は、もう一つ言い換えますと、
「お前の為に私はこんなに犠牲になって苦しんでいるぞ」と
云う事になります。
「私はお前の犠牲になっているんだぞ」と始終こう云われますと、
あまり好(い)い気持ちは致しません。
「なに! 犠牲になんかなってくれなくてもいいんだ。
私は、なにもそんなに貴女を苛(いじ)めてなんかいないよ」と
云いたくなるのでありまして、
「犠牲になる」と云う考え、そのものの中に自他分離 ――
争いの感じが含まれているのであります。
「私はお前の自己犠牲になっている。私はお前の犠牲になっている」と、
犠牲と云う言葉を振廻されるくらい、気持のわるいものはありません。
私は、お前を犠牲にしていると云う事は、
お前を私を苦しめていると云う事になるわけです。
そこで「犠牲」「犠牲」と云う言葉を振廻されると、
「お前は何時も私を犠牲にして私を苦しめているんだ」と云う事を
反面から云っているのですから、結局、仲好くなれないのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P212~213)より
<感謝合掌 令和4年4月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2022/04/29 (Fri) 07:21:35
《29日 神に救われるにも「犠牲を払う」と云う心は要らぬ①》
これは実際生活だけに限らず、信仰も矢張り同じ事であります。
阿弥陀仏に救われるにしましても、キリストに救われるにしましても、
「こんなに私は犠牲になり行を尽しているのに、まだ救ってくれない」と
云うような、そういう風な心の態度では、阿弥陀仏にも、キリストにも
一体になれないのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P218)より
<感謝合掌 令和4年4月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2022/04/30 (Sat) 07:13:37
《30日 神に救われるにも「犠牲を払う」と云う心は要らぬ②》
聖書のマタイ伝にも書いてありますが、
二人の人がエルサレムの宮にお参りした。
そして一人の人は、宮の前に跪(ひざまつ)いて、
「私は今日これこれの善き事を致しました。このような善き事を致しました」と
云って、自分のした善き事を数えあげて、「それですからどうぞ救って下さい」と
云いました。
するともう一人の信者は宮の前に跪くと涙かきたれて
「自分はなんの善き事もないのでございます。罪深きものでございます。
自分には何の賞むべき処もありませんが、神様どうぞ救って下さい」と云いました。
「この場合どちらが救われるか」とイエスは弟子達に反問して、
そうして救われるのは「自分は何の善き事もないものである」と云って、
救われるのは自分の自力の努力によらず、神様の恵みによると、
神様の懐(ふところ)に跳込んだものの方が救われるのだと
教えられたのであります。
神様の愛の前には、どんな罪も悪もないのであります。
ただ「ハイ」とそのみ懐に跳込んで行けば好いのであります。
親鸞聖人は
「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐる程の悪なきが故に」
と歎異鈔のなかで云っていられるのであります。
「善でないと愛して貰えない」と思って自力の心を起して
ギゴちなく心が滞(とどこお)ってしまうから姑とも仲良くなれないのであります。
*「眞理」第1巻入門篇第14章(P218~219)より
(以上で、第13章~第14章の紹介を終えます)
<感謝合掌 令和4年4月30日 頓首再拝>