伝統板・第二

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「神示とは ⑦」 - 伝統

2022/03/22 (Tue) 07:51:58

(三月の神示)【いのちのゆにはの神示】

見眞道場(いのちのゆには)とは眞(まこと)を見(あら)はす齋(きよ)めの場(にわ)である。
『眞(まこと)』とは『生命の實相(まことのすがた)』のことである。

齋(きよ)めるとは迷ひを除くことである。
人は神の子であるから、その實相を見(あら)はせば
病なく、惱みなく、死なく、一切の不幸は無い。

人の世は、神の子と神の子とが相寄って造つてゐる世界であるから、
その眞実の姿があらはれれば、人と人、階級と階級、國と國との爭い戰いも自然に消える。

實相をさとつた人が少ないために皆が苦しむのである。
假相を實相だと思ひ誤り、皆が苦しんでゐるのが可哀相であるから、
さきには智慧の光で迷を照破するために、聖典『生命の實相』を造らせたのである。

これを讀むだけで救われる人は餘程神縁の深い人達である。
此の神縁をおろそかにせずに人に傳へて尚々多くの兄弟を救ふやう協力せよ。
人はすべて神に於て兄弟である。

人を救ひ道を傳へようと思へば、それが愛即ち神心であるから、
その人に神は偕にありて神の言葉を其の人に話さすのであるから、
自分はまだ人に話すだけの力がないなどと思わず、其の時に『生長の家』について
思出したことを話せば、それが種子(たね)になつて相手が救はれる。

人は種子(たね)を播きさへすれば好い。
教への種子(たね)は神が人の心の中へ吹き込むから、
思ひ出すまゝに語ればそれで相手が救はわれる。

人ひとりでも救ふのは神の前に大いなる仕事である。此の事はだいじである。

本だけ讀んで悟れるほどの境に達していない人のためと、
人を救ふために尚一層深く知りたい人のために、智慧の光に、
愛の温かさを加えて色々世話をやくやうに
智と愛との十字で曼陀羅を織らせるのが見眞道場(いのちのゆには)である。

これから人を救ふための天使の靈の宿つてゐる善き人たちが諸方から
此の道場(ゆには)へ集まつて來て、奇蹟(てほん)を此の道場(ゆには)で見せる。

愛の心で來るものは神德を受けて歸るが、審判く心や素見(ひやか)し心で來るものは
神と心の波長が合はぬから其の心が直らぬうちは神德は受けられぬ

(昭和七年三月十四日神示)


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神示とは」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479

(2)伝統板・第二「神示とは ②」
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(3)伝統板・第二「神示とは ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571

(4)伝統板・第二「神示とは ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8171151

(5)伝統板・第二「神示とは ⑤」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8213395

(6)伝統板・第二「神示とは ⑥」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8239192

           <感謝合掌 令和4年3月22日 頓首再拝>

(三月の神示)【使命邁進の神示】 - 伝統

2022/03/23 (Wed) 07:00:17


人がどう思ふかも知れぬと、そんなことばかり氣にかけてゐるやうなことでは
心の苦しみは絶えぬものだ。

自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかり考へるが好(よ)い。

肉体の人間は誤解するものだとあれほど言ひきかしてある。
肉体は念の集積で出來たレンズ又はプリズムであるから、
人によつて其の『眼鏡』は違ふから、
どんな光線でもみんな屈折して見えるし、
人によって屈折の仕方も違ふのだ。

三角のものも丸く見えるし、丸いものも三角に見える。
深切で言つたつもりが悪意にとられたり、
失敗(しくじ)つて言った言葉でおかげを受ける人もある。

誰が何と思つても、それは迷ひで屈折して色々に觀るのであるから、
たゞ神に知られることだけを求めて人に知られようなどと思はぬが好い。

人間の苦しみの一つの元は上(うわ)べを飾りたい心である。

(昭和七年三月十五日執務中神示)

           <感謝合掌 令和4年3月23日 頓首再拝>

(三月の神示)【至上者の自覺の神示】 - 伝統

2022/03/24 (Thu) 07:14:59

 
人即ち神であると云ふ眞理を知らぬ者が多いのは氣の毒である。

『生長の家』 が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の眞理を知らさんが為である。

自己が神だと悟つたら人間が傲慢(ごうまん)になるやうに誤解したり、
自己の本生が神だと悟つたものを謙遜が足りぬと思ふ者は大變な思ひ違ひである。

斯(か)くの如き想像する者は
自己が神だと云ふ眞理をまだ一度も悟つて見たことがないからである。

自己が神だと悟れたら人間は本當に謙遜(けんそん)になれるのである。
キリストが弟子の足を洗ふことが出來たのも、自己が神だと悟つてゐたからである。

本當の謙遜は「神の自覺」 から來る。
神を自己の本性(うち)に自覺しないものは、いくら謙遜らしく見えても、
それは卑屈(ひくつ)にすぎない。

卑屈(ひくつ)と謙遜とを思ひ誤るな。

本當の謙遜とは「自己は神より出でた神の子である。従つて神そのもののほか何者でもない」
と云ふ眞理を何らの抗(さか)らひもなしに承認することである。

此の眞理を承認するものを謙遜と云ひ柔和と云ふ。

この眞理に逆ふ者を傲慢(ごうまん)と云ふのである。

すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神成り』の眞理を承認しないところの
根本傲慢より分化し來(きた)るのである。

觀点の違ふ者には解りやうがない。

人間の偉大な仕事を皆憑靈(ひょうれい)の仕事のやうに説いて、
人間をたゞ憑靈の傀儡(かいらい)のやうに教へるものがあるが邪教である。

人間の本性(うち)に憑靈の示唆(しさ)よりも偉大なものがあることを
教へるものこそ正しき教である。

《人間は肉體でもなければ傀儡(かいらい)でもない》、
人間は靈であり神であり自主である。

若し憑靈が「靈」 であるが故に偉大なる教(おしへ)を説き、
偉大なる仕事が出來るならば、人間自身も「靈」であるが故に、
偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出來ることも当然でなければばらぬ。

ただその教(おしへ)や仕事に高下(こうげ)があるのは靈界の靈にも、人間にも、
自己内在の無限性の掘りさげ方に差があるからである。

釈尊は決して憑靈の傀儡ではない、基督(キリスト)も決して憑靈の傀儡ではない。

いづれも自己内在の無限性を堀下げて、終(つい)に佛性(ぶっしょう)に達し、
神性に達したから、靈界の諸靈來たつて此の二聖に事(つか)へたのである。

釈耶(しゃくや)の憑靈ばかりを觀て釈迦が自覺したところの佛性、
イエスが自覺したところの神性を見ない者は憐(あわ)れである。

憑靈が説くほどの教なら人間自身も靈であるから説き得(う)べきであるのに、
釈耶(しゃくや)の教を釈耶自身の教ではなく釈耶の憑靈の教であると説く
スピリチュアリズムは自己撞著(どうちゃく)に陥(おちい)つてゐるのである。

人間よ、人間自身の尊嚴を自覺せよ、
これを自覺することは人間自身の尊嚴を奪還することである。

『生長の家』は人間自身の尊嚴を奪還せんがために出現した人生の燈臺である。

         (昭和八年三月十六日神示)

           <感謝合掌 令和4年3月24日 頓首再拝>

【いのちのゆにはの神示】 (講義) ① - 伝統

2022/03/25 (Fri) 09:19:45


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
          《いのちのゆにはの神示》」より抜粋。

(1)『眞(まこと)』とは「現実の人間」の彼方に実在するところの、化して見えざる
   「精髄の人間」即ち『甘露の法雨』に「真性の人間」と書かれているところの
   「《まこと》の相(すがた)の人間」のことであります。

(2)見真とは、その「実相」の完全さをあらわすことであります。
   人間の「実相」の完全さは化して見えないものでありますが、
   それを目に見える象(かたち)にあらわすのが「見真」であります。

   真を見(あら)わせば人間の円満完全なる真実があらわれて、
   一切の不幸、病気、災難等が消えてしまうのであります。

           <感謝合掌 令和4年3月25日 頓首再拝>

【いのちのゆにはの神示】 (講義) ② - 伝統

2022/03/26 (Sat) 07:27:56


(3)神様の世界では、生長の家の道場はその大小にかかわらず、
   すべて「いのちのゆには」即ち「生命(いのち)の齋(きよ)めの庭」なのです。

(4)『生命の實相』の本を書かしめられたのは神様であります。

(5)人を救う愛の念願を起して、道を伝えようと思えば
   神の心と波長が合うのでありますから、
   自然に相手を救う適当な言葉が口を衝いて出るようになるのであります。

(6)内部霊魂の導きの催しによって道場に集まった人が、
   道場で講話をきいていると、神の力を示現するための
   模範的奇蹟的治癒のようなことが起こるのであります。

           <感謝合掌 令和4年3月26日 頓首再拝>

【いのちのゆにはの神示】 (講義) ③ - 伝統

2022/03/27 (Sun) 08:03:34


(7)天使の霊の宿っている人々

   そこへ集って来る霊の多くは、肉体の脳髄にも真理を悟らせて人を救いたいという熱願ある
   「高級霊」の方が多いのであります。こういう人を救いたい熱願をもっていられる
   「高級霊」の宿っている人を「天使の霊の宿っている人」と申されているのであります。

   既に真理を悟っている高級霊(菩薩に当たる)でも、
   その宿っている肉体の頭脳が真理を知らないと大変都合が悪い。

   人生に於ける行為は霊と肉体との協同動作によって行なわれるのですから、
   その人の霊魂だけが高級霊で、肉体の脳髄は「真理」を知らないのでは可けないので、
   霊魂は、其処に生長の家の道場が出来たとか、講習講演会が催されるとかいうことが
   肉体の眼にとまると、内部から「何となくその講習会講演会に行きたい」という念を
   起こさせる。

   この場合、肉体の脳髄が「講習に参加しよう」と思ったようだけれども、
   実は内部霊魂の導きによる催しである場合が多いのであります。

   斯ういう人たちが道場に集って講話をきいていると、神の力を至現するための
   模範的奇蹟的治癒のようなことが起こるのであります。

   治癒と言っても、単に病気だけのことではありません。
   悟りによって悪い運命が好転に一転するのも治癒であります。
   不調和な家庭生活が調和に一転するのも治癒であります。

   そのような奇蹟が「手本」となって他の人々が神の存在をみとめて悟りに入る媒介と
   なるのであります。このようにして無数の奇蹟的治癒の行われる道場へ来ても、
   何ら神徳を受けることのできない人もないことはありません。

   「愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが、審判く心や素見し(ひやかし)心で
   来るものは、神の心と波長が合わぬから其の心が直らぬうちは神徳は受けられぬ」
   とあるのであります。

   即ち心の波長が神の波長に同調すれば、神の御徳が現象界にカゲを映して来るのであります。
   それで「神徳」と書いてオカゲと振仮名することもあります。


(7)実相に於ては人間は万徳円満でありますが、
   現象界に於てオカゲ(神徳)が得られるか得られないかは、
   その人の心次第ということになるのであります。

           <感謝合掌 令和4年3月27日 頓首再拝>

【使命邁進の神示】(講義) ① - 伝統

2022/03/28 (Mon) 07:00:41


      *『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《使命邁進の神示》」より抜粋

(1)人の思わくなどを気にせず、
   「自分がその位愛したか。そればかりを考えるが好い」
   と神さまは仰せられるのである。

(2)神はマコトひとすじであって、無限の叡智と愛とをもって、
   一切のものを正しく見給うのであるが、
   人間の見解は、恰も色々の異なる屈折度のレンズ又はプリズム
   によって色々に見るのである。

           <感謝合掌 令和4年3月28日 頓首再拝>

【使命邁進の神示】(講義) ② - 伝統

2022/03/29 (Tue) 06:50:54

(3)人類の危機、国家の危機を目の前に観ながら、
   天皇のことを説いたり、愛国心を説いたり、古事記を講義したら、
   「右翼」と誤認せられて、自分に非難が集中するかもしれないからとて、

   人の思惑に気兼ねをして、この危機から人類及び国家等を
   救おうとしないことはまことに愛なき事だど言うほかはないのである。

(4)この神示を読むとき、

   「お前はどれだけ人類を愛したか」
   「お前はどれだけ国家を愛したか」
   「お前はどれだけ愛の仕事を遂行したか」

   と問い詰められるような気がするのである。

   本当に人類を愛し、国家を愛するならば、此の人類及び国家及び
   一人ひとりの人間の破滅の危機が近づいている現代に、
   人の思惑を気にして日和見的態度をとるなどという
   事は決して出来ないことだと思うのであります。

           <感謝合掌 令和4年3月29日 頓首再拝>

【至上者の自覺の神示】(講義)① - 伝統

2022/03/30 (Wed) 07:16:40


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《至上者の自覺の神示》」より抜粋

(1)「人即ち神である」というのは
   「人間の本性又は実相は神である」ということです。

(2)人間に”内在する仏性”こそが人間の実相であり、
   「本当の人間」であり、肉体と見えるのは「人間の仮相(かそう)」に
   過ぎないのであります。

   仮相はそれがアルかの如く見えても、「無い」でありますから、
   「実相」のみがアルのであります。

           <感謝合掌 令和4年3月30日 頓首再拝>

【至上者の自覺の神示】(講義)② - 伝統

2022/03/31 (Thu) 07:24:58


(3)「神」という語を定義すれば
   「至上者(いとたかきもの)」ということであります。

   「至上者」とは、”至上最高の自由を得た者”ということであります。

(4)実相は完全であっても、現象は、その人の”心の影”として
   唯心所現的にあらわれます。

   その人の心が何を想念するかによって、
   その人の現象界の幸不幸はあらわれてくるのであります。

           <感謝合掌 令和4年3月31日 頓首再拝>

【至上者の自覺の神示】(講義)③ - 伝統

2022/04/04 (Mon) 07:22:46


(5)「人間はみな神の子」であると悟ったならば、
   自分も”神の子”であると同時に、相手のすべての人も
   ”神の子”であるということがわかりますから、
   相互礼拝ということが自然に行なわれるようになります。

(6)自己内在の「神の子」が目覚めていましたら、
   「人間は神の子じゃよ」と言われたら、素直に従順に
   さようでございます。その通りでございます」と、
   少しも剛情に逆らうことなくその真理を受けることができるのであります。

(7)「内在の神」を自覚いたしますと、悠々として人に処し事に処して
   行くことが出来ますから、常に柔和なのであります。

           <感謝合掌 令和4年4月4日 頓首再拝>

(四月の神示)【万教帰一の神示】 - 伝統

2022/04/05 (Tue) 07:16:26


われに姿かたちあるやうに言ふものもあれどわれは姿なきものである。
われは道である。われは靈性である。

智慧である、愛である、生命である、われは如來である、われは一つにして多である。

信仰深き諸方の靈覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが眞の姿に非ず、
見えたる神姿は靈覚者の心識の所現にも非ず。

そは、われ神通力によつて、疑ふ者の蒙を啓かんがために、
異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、
神の客観的存在を實証したに過ぎない。

されど、本來われに一定の神姿はない。
如何なる姿も欲(おも)ひのままに現ずることが自由である。
されば、嘗(かつ)てわれ汝に告げたのである『われに神殿は不要である』と。

われは神殿がないとて身の入れ場所に困るやうな神ではない。
供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲ふものは『生長の家』を読め。
われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。

この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。
われにすがた形はない。われは靈の海である。大海原である。
すべての宗教(おしへ)流れ來りて吾れに入らん。

吾れは完成する者である。われは『七つの燈臺』に燈を點ずる者である。
古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、
すべての教我に流れ入りて生命を得ん。

われは大(おほい)なるものなるかな。
すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を与へ、すべての相爭ふ教を
その眞髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与へ、
すべてに栄養を与へ、すべてを生かす地下水である。

他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃頌(さんしょう)と、
善き言葉とを雨ふらして、それを淨めその眞髄に燈を點ずる。

あらゆる宗教がその眞髄を礼拝して手をつなぐやうにならねば
此の現實世界の改造は完成せぬ。
精神界が先きで現實界はその影である。

元乱れて影完(まった)からず、宗教家よ、宗派爭ひをしてゐる時ではない。 

(昭和六年四月五日神示)

           <感謝合掌 令和4年4月5日 頓首再拝>

【万教帰一の神示】(講義)① - 伝統

2022/04/06 (Wed) 07:16:32


        *「『神ひとに語りたまう』神示講義 教の巻
          《万教帰一の神示》」より抜粋

(1)本源の神は如何なるものか

  ①神は無相にして無限相。
  ②宇宙の中に神様が生まれたのではなく、
   神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。
   宇宙そのものが神様であるわけです。

  ③神は普遍的でありますから、普遍的根本神は、霊媒にはかからぬのであります。
  ④何処にでも到るところに、我の内に、すべての人のうちに、宿ってましますのが
   宇宙の大神であります。

(2)カミの語源について

  ①神というのは「幽かなる身」
   あるいは「隠れている身」、「輝く身」、「翔り身」。

  ②第一義の神
   神様は姿形が見えずして、遍在であり、
   宇宙到る所に、何処にでも充満しておられて、
   吾々の生命となっておられるのであります。

  ③第二義の神
   無相にして無限の姿の本源の神様が、
   無限の姿の一つを化身として現されたものであります。
   例として、観世音菩薩であるとか、
   白髪の老翁の姿をして多くの誌友の霊眼に、生長の家の神様。

  ④第三義の神
   個別霊即ち個々別々の霊魂、神格を得られている人間の霊魂、自然霊・・・。

(3)実相の世界とは

  ①霊界と一口に申しますけれども、
   一番深奥にある実在の世界は実相の世界でありまして、
   これが第一義の世界であります。

  ②既に完全円満に成就せる世界であります。

  ③「天国浄土」、「極楽」、「龍宮」、「天」、
   「真空妙有の世界」等と名づけられている。
   これが実相の世界で、これが「本体界」であって、
   「吾々の本体」が生活しております。

           <感謝合掌 令和4年4月6日 頓首再拝>

【万教帰一の神示】(講義)② - 伝統

2022/04/07 (Thu) 07:24:26


(4)自然霊のこと

  ①地上には一遍も肉体を持って来ないで、初めから霊体だけで、
   「霊の世界」に今もおるのが「自然霊」であります。

  ②天候を司っているのが「自然霊」であります。
   自然霊という「生きもの」が自由意思で(天候を)動かしているのであります。

  ③人間の心が和順して天候を司る自然霊を怒らせぬように、
   調和したような状態になりますと、豊作につながるわけであります。

  ④自然界というものは、生き物(自然霊)で左右せられていますから、
   人間の心が感応して、左右せられます。

  ⑤それにはやっぱり、生長の家の「天地一切に調和する」精神の
   政治の首班が出来まして、その心境が自然霊と調和して、
   自然霊のこころを悦ばすようにして置く必要があると思うのであります。

(5)自然現象を受持つ諸霊

  ①自然現象を受持っている霊は自然霊でありまして、神秘なる力を有して、
   肉眼には見えませんから「カクリミ」即ち神様でありますけれども、
   これは絶対の神様じゃありません。

   それは個別霊でありまして、
   宇宙全体に充ち満ちていられる普遍的な神様じゃないのであります。

  ②大きな自然現象を左右するものだけが自然霊かと言いますと、必ずしもそうではない。
   自然霊にも小さなものもあります。

   龍神に属する自然霊でも、大きく雨を降らしたりする働きのものもあるけれども、
   それほどでないのもある。酒なんか飲ませると、喜んでいるのもあります。

(6)色々の邪霊について

  ①黴菌も、結局自然発生の自然霊なのであります。

  ②大は台風を起し、竜巻を起し、気象を変化するような龍神から、
   人間の体内に症候変化を起さしめる黴菌のようなものに到るまで、
   自然霊にも色々の段階があるのであります。

  ③そういうものがおって色々の禍いをするのです。
   尤も禍いだけじゃない、良い事もするのです。

           <感謝合掌 令和4年4月7日 頓首再拝>

【万教帰一の神示】(講義)③ - 伝統

2022/04/08 (Fri) 07:44:14


(7)産土神と氏神

  ①肉体を脱した人間の霊魂の世界を行政的に取り締まっているのが、
   産土の神様であります。

  ②氏神というと、祖先に当る古代の神様のことをいうのであります。

  ③祖先が守護神として、吾々を守護しているのは事実であります。
   生長の家では「××家先祖代々親族縁族一切之霊」として祖先霊をまつりますから、
   その中に氏神も含まれて、別に霊媒を通して、氏神が何某(なにがし)の命という
   古代の神様だということを知らないでもよいということになっております。

(8)産土神の役目に就いて

  ①産土神という神様は霊界に於ける知事とか、市長とかいうのに当ります。

  ②宇宙普遍の神様は遍在しておられて、到る所に充満しておられるために、
   産土神様のように、吾々に対立的には働き掛けられるのではなく、
   直接、吾らの内部から、働き掛けられるのであります。

  ③内在の神から、宇宙普遍の神に通じ、宇宙普遍の神の霊波が産土神に通じ、
   産土神様が中継放送局みたいになって、具体的な人間に働くのであります。

  ④霊界にも色々役目の神様(諸霊)の配置があって分担しているので、
   直接最も関係の深いのは、産土神様であります。
   だから産土神様への毎月一回は参拝ということを忘れてはなりません。

  ⑤住所を変更したり、土地を購入したとかいうようなときには、
   産土神様へ行って報告するのが当然なすべきことで、

   新年には勿論、毎月一回は産土神様にお礼まいりをして、
   日々の御守護をお願いし、御礼を申し上げる
   ということにするのがよいのであります。

(9)守護神

  ①守護神は、その子供が大人になっても、老人になっても、死ぬまで、
   一代のあいだその人間を守るべき役目を与えられて、
   その人に常に付き添うているのであります。

   その守護神というのは、その人の祖先の中の優秀なる霊魂が、
   産土の神の命令により、その役目に当っているのであります。

  ②守護神というのは、私たちが生れると直ぐついて
   一生涯守護してくれるのでありますが、これは正守護神であります。

   ところが、後天的に一時守護する守護神もあります。
   その人がある仕事に就きますと、その仕事の種類に随って、
   ある特別の守護神がつく訳です。

  ③しかしながら、その役柄の守護神が付いても、吾々の心境が低下して、
   その守護神の波長と合わなくなったら、
   守護神がおれども居らぬと同じ状態になるんです。

   だから、吾々の心境が高まなければ、
   良き導きを受けるわけにゆかないという事になるのでありますから、
   やっぱり「自分が」高まるより仕方がないということになるわけであります。

           <感謝合掌 令和4年4月8日 頓首再拝>

【万教帰一の神示】(講義)④ - 伝統

2022/04/09 (Sat) 07:29:24


(10)正神界と邪神界

  ①霊魂の中には、(心の波長の)高い霊と、低い世界にフラフラしている霊と、
   非常な罪悪を犯して、地獄のような煉獄のような世界に、
   落ちている霊とがあります。

   それで高き世界に上がっている霊の世界を正神界と称しまして、
   間違って邪道に落ちている霊魂の世界を、
   邪神界ということになっているのであります。

  ②邪神界の頭目を『黙示録』などでは、「赤き龍」と言っているのであります。

  ③正神界と邪神界との中間ともいうべき霊の世界に、天狗界があります。

  ④稲荷(いなり)といわれるのは「稲生り」で、
   五穀豊穣の天地の生成化育の働きをする
   普遍的な神のお働きを人格化して、祭祀したのであります。

   だからこれは実相の普遍的な創造神の方に入るわけであります。

   なのでありますけれども、稲荷の眷(けん)族として、
   稲荷を中心にして集っているところの霊界のグループがある。
   これが伏見稲荷のグループとか、豊川稲荷のグループとかいう風にあります。

   その眷族の神々の中には、色々の階級や種別の霊がいるんです。
   その神々の中には、天狗もおれば、武士の霊などもあります。
   正神邪神の中間階級の親分みたいな霊たちが稲荷の眷族となっております。

・・・

<参照>
伝統板・第二「稲荷神社」
https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6656517

           <感謝合掌 令和4年4月9日 頓首再拝>

(四月の神示)【無相圓相一切相の神示】 - 伝統

2022/04/10 (Sun) 08:07:19


吾が臨(きた)れるは物のためではない。生命のためである。
肉のためではない、靈のためである。
これを覺(さと)ものは少ない。

物の生滅に心を捉へられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減つたときに信仰を失ひ、
身體が健康になつたときに神を讃へ、家族の誰かに病氣が起つたと云つては
信仰を失ふが如きは、神を信じているのではなく物を信じてゐるのである。

物は結局移り變わるものであるから、物の御利益の上に建てられた信仰は、
物の移り變わりによって懷れるのである。
  
神が病気を治して見せるのは、肉體は心でどうにでも移り變わらせることが出來ると云う
事實を見せて、『體(たい)』は念(こころ)の影だという眞理をさとらせるためである。

念(こころ)の影だと云ふ『體(たい)』とは肉體ばかりのことではない。
幽體も靈體もすべて念(こころ)の影である。

『死は無い』と云ふのは肉體のことではない。現に肉體細胞は刻々死滅し流轉している。

生き通しであるのは、斯くならしめている『生命(せいめい)』のみである。
『生命』のみが《吾れ》であり《汝》であり、
そのほかに《吾れ》も《汝》もないのである。

此の『生命』を“みたま”と云ふ。
“みたま”の形は球(たま)のやうに眞ん圓(まる)いから“みたま”と
云ふように解するものもあれど、眞ん圓いのは形のことではない。

神は本來形無く、空(くう)のうちに圓滿具足して自由自在であるから
仮りに稱して圓相と云ふのである。

自由自在なるが故に或時は龍神の姿を現じ、また或る時は衣冠束帶の姿を現じ、
或る時は天使天童の姿を現ずる。いづれの姿も權化であつて僞りではない。

しかし一つの形に執して、それのみを吾れであると思ふものは、
吾が眞実を知らざるものである。吾が全相を知らざるものである。

汝ら心して眞(まこと)を知れ。
汝たちも《神の子》であるから我れと同じきものである。

肉體は汝の一つの現れであつて汝の全相ではない。

 (昭和七年四月十日 神示)


           <感謝合掌 令和4年4月10日 頓首再拝>

【無相圓相一切相の神示】(講義) ① - 伝統

2022/04/12 (Tue) 08:22:50


         *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《無相圓相一切相の神示》」より抜粋

(1)宗教の御利益というのは肉体が治るよりも、心が一変することなのです。

(2)神様は肉体的にもお蔭を与えておられるけれども、
   それは「肉体は心の影である」という真理を知らせるための
   実験みたいなものに過ぎないのであります。

(3)神は、肉体を癒すのはその目的ではない、
   魂が真理に目覚めて向上することであります。

(4)肉体の恢復を契機として、人間は神の子であって、霊的存在であると気付き、
   「永遠の生命」をさとり、現象の消長、盛衰、変遷に引っかからず、
   常に感謝の心境になれることこそ、神から人間に与えられた
   本当の救いなのであります。

           <感謝合掌 令和4年4月12日 頓首再拝>

【無相圓相一切相の神示】(講義) ② - 伝統

2022/04/13 (Wed) 12:07:45

  
(5)生長の家に入教されて病気が治るのは、必ずしも患者自身が
   悟りを本当にひらいて自由自在の心境に達して治るのではなく、
   「神が病気を治して見せ」られるのであります。

   この場合の神というのは、実相に於て既に完全に人間をつくっていられる
   神が既に“完全なる人間”を癒すということはあり得ないのですから、
   実相本源の神から使命を受けて人類光明化運動に参加していられる
   高級霊を爰(ここ)では「神」と称するのであります。

   高級霊の強力な光明霊波に照らされると、
   病念の具象化であった肉体の波動が、
   光明の波動に同化されてしまいますから、
   自然に肉体が健康化されてしまうのであります。

           <感謝合掌 令和4年4月13日 頓首再拝>

【無相圓相一切相の神示】(講義) ③ - 伝統

2022/04/14 (Thu) 07:29:47


(6)肉体は霊魂が地上生活をいとなんで向上するための
   道具としての被服であります。

   物質は燃えつきて常に変るが、
   その精神的設計の“主体”(生命)は常に変らないので『死は無い』と言い、
   『人間は生き通し』と言うのであります。

   その生き通しの『生命』のみが「本当の自分」であり、諸君自身であり、
   肉体は単なる作業服であるにすぎないのであります。

           <感謝合掌 令和4年4月14日 頓首再拝>

【無相圓相一切相の神示】(講義) ④ - 伝統

2022/04/19 (Tue) 09:02:41

(7)あらゆる姿を完全に全部そなえているのが神であるから、
   「完全に全部をそなえている」という意味での「円相」であり「みたま」である
   とお示しになっているのであります。

   この神示で大切なところは「汝(なんじ)ら心して真(まこと)を知れ。
   汝たちも神の子であるから我れと同じきものである」というところであります。

   「神」と「神の子」とは一体であり、神が「みたま」であり完全円相であるが如く、
   人間も「みたま」であり、完全円相であると教えられているのであります。

   その神が各人の「生命」であり「真我」であり各人の“I am”なのであります。

           <感謝合掌 令和4年4月19日 頓首再拝>

(五月の神示)【無限供給の神示】 - 伝統

2022/05/05 (Thu) 07:01:47

われは道である。光である。生命(せいめい)である、智慧である。
光は先づ東方より現はれて遍く一切を照らすのである。
生長の家が日本に現はれたのも因縁のあることである。

老子が《谷神》死せずと云つたのも吾れのことである。
釈迦が過去無量千萬億阿僧祇《東方世界》に國あり。
此の國に佛いまして《多寶如來》と稱(とな)ふと云ひたりしも吾れのことである。

天地一切を渾球(こんきゅう)と云ひ渾球をタカ《アマ》ハラと云ひ、略してアマと云ひ、
天地一切を照らすときの名を天照大御神(あまてらすおほみかみ)と云ふ。

神の名はそのハタラキを示したのであって
ハタラキに從って相(すがた)もまた異(ことな)る。

吾れが一切多寶の供給無盡藏なるハタラキをするとき多寶如來と云ふのである。
《一切の寶一切の善一切の美一切の生命より出でざるはない》。

吾が姿の一つは太陽である。
諸方の信仰厚き人々に吾が太陽の靈姿を靈眼で見せてあるが、
《天文學上の對象になっている太陽はわが影に過ぎない》。

釋迦が法華經を説くとき、われは地より湧き出で、
空中に『七寶の塔』となって出現したのである。

『七つの燈臺』は世を照す光の側よりわれを見たのであり、
『七寶の塔』は多寶無限供給の側よりわれを見たのである。
『七つ』と云うのは一切と云ふことである。

吾れは吾が誓願の如く、誰にてもあれ《『生命の實相』を説くところに顯れ》、
《彼を讃嘆し彼に半座を分つて偕に坐し彼と一體となることを示す》。

釋迦が法華經を説くときわれがあらはれたのは、
釋迦が法華經を説いたとき『生命の實相』を説いたからである。

『生長の家』にわれが顯はれたのは
『生長の家』のとくところは『生命の實相』であるからである。
『生長の家』も久遠の昔からあり、
『生命の實相』も久遠の往昔(むかし)からある。

《わが靈身は『生命の實相』そのものである》から
『生命の實相』が説かれるところ、讀まれる所、披(ひら)かれるところに
吾は顯はれざるを得ないのである。

吾れは光明遍照世界(たかあまはら)の主宰者大日如來であり
千萬億阿僧祇久遠の昔より成佛せる釋迦であり、
アブラハムの生まれざる以前より既に救ひ主なりしキリストである。

吾れに汲むものは涸(かわ)かず、
吾れは無限の光、無限の生命(せいめい)、無限の愛、無限供給の泉である。

(昭和七年五月五日神示)

           <感謝合掌 令和4年5月5日 頓首再拝>

(五月の神示)【新天新地の神示】 - 伝統

2022/05/06 (Fri) 09:36:22


見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。
人々よ、眼の蔽ひをとれ、

われは新しき智慧である。
新しき生命である。
新しき宇宙である。
新しき光明である。

われ臨(きた)つて此の世界は既に變貌したのである。
既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、
悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神祕を見て人々よ、目覺めよ、
覺めてわが新しき光に照らして存在の眞實を見よ。

われは存在の實相を照らし出す完成(ななつ)の燈臺に
燈(ひ)を點ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。
汝の悲しみは喜びに變るであろう。

病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命(せいめい)を受けよ。
われを拒(こば)むな。

われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。
われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。
われ汝等に「神想觀」 と云ふ觀行を教へたれば、それを爲せ。

われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。
吾を呼ぶ者のもとに吾は常にありて、
汝らのために汝らの重きくびきを輕からしめる。

なんぢ一人なれば吾を念じて吾とともに二人なりと思へ。
なんぢら二人ならば、われを念じて吾と倶(とも)に三人なりと思へ。

惱める者よ、わが言葉を讀めば苦しめる魂も輕くなり、
悲しめる魂も慰めを得ん。

そはわれは限りなき大愛であるからである。
汝ら事にのぞんでわれを呼べば、
自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫(ふびん)であるが助けやうがないのである。
汝の心の疑(うたがい)がわが救ひの波長に合はないからである。

遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。

もつと兄弟たちに『生長の家』を傳へよ。
神の愛は貰ひ切りではならぬ。
頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。

『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、
『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好い。

七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで
新しき生命(せいめい)を得るのだ。

わが教へはどんな宗派をも排斥するやうな狭い宗教ではない。
教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。

(昭和六年五月六日神示)

           <感謝合掌 令和4年5月6日 頓首再拝>

【無限供給の神示】(講義)① - 伝統

2022/05/07 (Sat) 11:29:23


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《無限供給の神示》」より抜粋

(1)生長の家の人類光明化運動をはじめられた神は、
   決して一宗一派の神ではないのでありまして、
   「われは道である」と仰せられております。

(2)「道」とは、一切のものの初めであり始原であり、一切のものに先行して、
   それみずから存在するものであります。

(3)神は遍在し給い、何処にも彼処にも「満ち満ち」ていますから
   ミチと言うのであります。

   「道(みち)」(宇宙に満ちている状態)が動けば、それが「光」となり、
   「生命(せいめい)」となり、「智恵」となってあらわれるので
   ありますが、「道(みち)」の未だ動かない状態が「空(くう)」で
   あります。

(4)宇宙に満つる普遍的実体なる神が動き出せば、「波動」即ち「コトバ」と
   なるのでありまして、「コトバ」というのは動的状態に入(はい)った
   「道(みち)」であります。

           <感謝合掌 令和4年5月7日 頓首再拝>

【無限供給の神示】(講義)② - 伝統

2022/05/08 (Sun) 10:05:14


(5)あらわれている現象の奥には、「谷(たに)」すなわち凹(へこ)んでいて
   見えない「空(くう)」なるののがある。
   「空(くう)」というのは「有無相対」の「無い」ということではない。

   一切が「空(くう)」のうちに包蔵され、一切が「空(くう)」によって
   支えられているのであります。

   「空(くう)」は一切の本源であり、一切のところに普遍している
   実在であります。その本源普遍の神が「谷神(こくしん)」であります。

   「谷神死せず」というのは、
   その本源普遍の神は不滅の実在であるということです。

(6)現象は無常でありますけれども、「空(くう)」なる実在は不滅である。
   「空(くう)」とは何もないのではなく一切がそのうちに蔵されている
   のであります。

(7)谷神(こくしん)は「空(くう)」であり、一切所に普遍しているので
   ありますけれども、

   普遍神が、応化神として、人格神としてあらわれる場合には、
   「光は東方より」の諺の如く、東方に出現するのであります。


           <感謝合掌 令和4年5月8日 頓首再拝>

【無限供給の神示】(講義)③ - 伝統

2022/05/09 (Mon) 10:29:28


(8)多宝如来とは、本源の神の「無限供給」の面を名称にあらわしたので
   あります。

(9)生長の家は、それが地上に発祥したときに始まったのではない。
   「久遠の昔」から存在して、世界周期の最後が近づいた今、
   人類救済の瞬刻限に出現したのであります。

(10)この神示には「わが霊身は『生命の実相』そのものである」とあります。
   無量寿の普遍的な本源神の生命(せいめい)が、すべての人間に宿って、
   すべての人間の生命(せいめい)となり、吾々は生かされているので
   ありまして、それが吾々の『生命の実相』なのであります。

   だから吾々自身の生命の実相は、無量寿普遍の本源神の生命(せいめい)
   と一体であり、『生命の實相』が読まれ、説かれ、それが明らかに
   されるところ、

   そこに宇宙の本源神が「幽之幽」なる世界から「顕」の世界にあらわれ、
   無量寿の完全生命(せいめい)が顕われるので、自然に病いは消え、
   一切の不幸も災いも滅することになるのであります。

           <感謝合掌 令和4年5月9日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ① - 伝統

2022/05/10 (Tue) 09:43:01


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(1)宗教の本質は何であるか

  ①自分とは如何なるものか、それを明らかにする所の教えが宗教であります。
   汝自らを知るという事が宗教であります。

  ②「人間というものは、そういう物質の塊ではないのだ」という事を自覚して、
   人間自らは如何なるものであるかという人間の実相を知る事が宗教である訳です。

  ③人間は肉体ではない、久遠の生命であるという事を自覚せしめるのが、
   宗教である訳であります。

   だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるという事を
   自覚する教えが宗教である、という訳であります。

           <感謝合掌 令和4年5月10日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ② - 伝統

2022/05/11 (Wed) 12:14:46


(2)「七つの燈台」の意味するもの

  ①「七つの燈台」という言葉は、『黙示録』第一章にあります。

  ②「吾はαなりωなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり」
   とこう言われたところの白髪の老翁は、生長の家の神様であって、
   「七つの燈台に燈を点ずる者」でありたまうのであります。
   キリスト教的に言えば、「久遠のキリスト」であります。

  ③「本当のキリスト」は「真理」そのものであり、始めなく終りなく、
   宇宙に充ちている所の真理そのものである訳なのです。

   その真理そのものは久遠不滅であるから、
   初めであり終りであり、永遠に不滅である、
   というので白髪の老翁の長寿の姿をもって人格化して出て来られている
   ――こういうことになっているわけであります。

           <感謝合掌 令和4年5月11日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ③ - 伝統

2022/05/12 (Thu) 09:52:38


(3)内にやどるキリスト

  ①パウロは、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあって生くるなり」
   と言っておりますが、この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。
   肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。

  ②皆さんは、「汝自らを知れ」というソクラテスの言葉を、
   深い意味に於いて如実に知ってですね、

   「自分というものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、
   キリスト我にあって生くるなり」と自覚するんですね。

   これを忘れるから不可(いか)んのですよ。

  ③「人間は神の子である」という事が判りますと、
   人それぞれに「神の子」である実相があらわれて来るのです。
   実相は神の子で完全ですから、その完全さが出て来るのです。

           <感謝合掌 令和4年5月12日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ④ - 伝統

2022/05/13 (Fri) 11:31:18

(4)七つの燈台に燈を点ずる者

  ①燈台というのは、世を照らす光であって、
   世の光となる宗教の象徴であります。

  ②生長の家は、凡ゆる宗教に真理の光を点ずるのです。
   その代りにその各々の宗教が光を放って人類を救ってくれたら
   もうそれで宜しいのです。

  ③生長の家は一宗一派ではない、あらゆる宗教は、
   宇宙唯一の救いの本尊からあらわれた七色の放射光線みたいなもので、
   その色は各々異なるけれども、皆それぞれの宗教に救いがあることがわかる。

           <感謝合掌 令和4年5月13日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑤ - 伝統

2022/05/14 (Sat) 10:32:06

  
(5)神示に、
   「見よ、吾れ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の覆いをとれ。」
   とあります。

   現在既に、新たなる天地があるというのであります。

   そして、心の眼をひらいて神様の智慧を戴き、生命を目覚めさせて、
   既に今此処にある天国浄土を見ればよいのであります。

           <感謝合掌 令和4年5月14日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑥ - 伝統

2022/05/15 (Sun) 09:42:44


(6)神示に、

   「われは新しき智慧である。新しき生命である。
   新しき宇宙である。新しき光明である。」

   とあります。

   神様そのものが宇宙なのです。

   「既にある新しき世界」が、既に常住の天国浄土として、存在しているけれども、
   今まで眼の覆いがしてあって、その存在に気がつかなかったのです。

           <感謝合掌 令和4年5月15日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑦ - 伝統

2022/05/17 (Tue) 10:02:58


(7)神示に、

   「吾れ臨(きた)って此の世界は変貌したのである」

   とあります。

   七つの燈台に燈を点じて、無明の暗黒を消してしまわれたら、
   この世界の相が変って、至美至妙の"善き世界"が現れて来るのであります。

   それで、その"善き世界"が忽然とあらわれて来るのが、
   恰も神秘的に奇蹟的に見えるのであります。

           <感謝合掌 令和4年5月17日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑧ - 伝統

2022/05/19 (Thu) 10:05:18


(8)神示に、

   「既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚は滅し、病は癒え、悲しみは慰められ、
    苦しみは柔らげられた。神秘を見て人々よ、目覚めよ。」

   とあります。

   この無明の暗幕が取り去られた結果、
   信徒や誌友たちに色々の奇蹟みたいな体験があらわれて来るのです。

   神秘というのは、人間智慧では分からぬような不可思議な現象であります。

   そういう神秘が現れて来るから、
   それを見て先ず心の眼を覚ませと仰せられているのです。

           <感謝合掌 令和4年5月19日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑨ - 伝統

2022/05/20 (Fri) 09:01:23


(9)神示に、

   「悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。
    汝の悲しみは喜びに変わるであろう。
    病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。
    われを拒むな。」

   とあります。

   私たちは悲しみに泣き濡れる必要はないのです。
   ただ眼をあげて、神の光を見れば、喜びに変わるのです。

   既に人間の実相は、自性円満であって、
   既に完全にまんまるく欠くる所がないのです。

           <感謝合掌 令和4年5月20日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑩ - 伝統

2022/05/21 (Sat) 09:57:08


(10)神想観をすることが大切であるのです。

  ①皆さんのうちにキリストが宿っている。
   これをキリスト教的に言えば、「内在のキリスト」である。

   しかしそれに気が付かなかったり、
   気が付いていても呼ばなかったら駄目なのであります。

   呼ぶことが必要であります。それが神想観です。

  ②尤も簡単な神想観は、

   「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」

   という言葉を眼をつむって、
   精神を統一しながらジーッと念ずるがよいのです。

  ③自分の内から、内在の神を呼び出す歌が、招神歌であります。

           <感謝合掌 令和4年5月21日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑪ - 伝統

2022/05/22 (Sun) 09:31:55


(11)皆さんが子供を善くするには

  ①先ず、自分の子供を「神の子」として、
   その完全さを信ずる事が必要であります。

   また子供は、親の型に嵌めて縛ろうと思うといけません。
   こうしなければいかんと子供を縛るといかんのです。

   しかし、放任してもいかんのであります。

  ②子供を信じてその実相の完全さを信じて、
   それを観ることが必要であります。

   「観る」ことは「あらわす」ことでありますから、
   観れば観られた通りに現れるのであります。

  ③子供は余り放任するのもいけませんし、縛るのもいけません。

   縛らずに、実相の完全さを信じて、
   その完全さをじーっと観る、という事ですね。
   これが子供をよくする上に大切なことであります。

           <感謝合掌 令和4年5月22日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑫ - 伝統

2022/05/23 (Mon) 11:34:07


(12)人類光明化ということ

  ①神示に、「神の人類光明化運動」と、
   こう書かれていることを看過してはなりません。

  ②この真理で救われた人は勿論、この真理に共鳴する人は、
   この運動(神の人類光明化運動)に
   協力しなければならないと思うのであります。

(13)運動の拡大につれて

  ①すべての積極的運動というものには、その運動が拡大するにつれ、
   どうしても費用が拡大して来るのであります。

  ②(はじめの頃)私だけの費用だけで弘めていたのですが、
   それでは、宣布の拡大力が減少して、
   早くひろく人類に普及することができないから、

   皆と協力してやろうというので、
   「人類光明化のパテントは、皆さんに譲った」と
   いう事にしたのであります。

   皆さんも人類光明化に要する費用の幾分を
   負担して頂くことになったのであります。

  ③人類光明化運動に参加せられた株主たる聖使命菩薩に対しましては、
   もっと素晴らしい功徳が循環して返って来るのであります。

   最近までは私が主として功徳を積んでいたのですが、
   皆さんがそれを分担されることによって、
   その功徳が、皆さんにも及ぶのです。

   そこにも、幸福のための黄金律「与えよさらば与えられん」が
   真実であります。

  ④今までは、「私の人類光明化運動」だったのが、
   今後は皆さんの出資と力に於いて
   人類が光明化されてゆくのですから、

   救われた人のその功徳というものが、
   皆さんの子々孫々に報いとして伝わります。

   これは天に積まれたる処の配当金でありまして、
   銀行に預けた遺産のように、
   遺産相続ごとに減って行くようなものではありません。

   それは皆さんのそして皆さんの子々孫々の魂の上に
   善根功徳として蓄えられるのであります。

           <感謝合掌 令和4年5月23日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) ⑬ - 伝統

2022/05/24 (Tue) 09:21:56


(14)神示の最後の部分に、

   「七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)が
    わが教へで新しき生命を得るのだ。
   
    わが教へはどんな宗派をも排斥するような狭い宗教ではない。
    教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。」

   とあります。

  ①七つは「完成」の数で、すべてを表すのであります。
   「燈台」というのは、「世を照らす光」即ち宗教であります。
   「七つの燈台」で「すべての世を照らす光となる宗教」という意味であり、
   智慧の光によって、迷いの闇を消してしまうところの教えである
   ということであります。

  ②イスラエルっていうのは、五十鈴の川の流れという意味であります。
   「いすす」というのは、五十(いす)の鈴の音、
   即ちアイウエオ・アカサタナ・ハマヤラワ‐‐の五十音によって、
   全ての言葉のヒビキが代表されますが、

   神はコトバであり、五十音の展開が万物であり、
   その万物が「統(す)」によって統一せられる、
   それを五十鈴というのであります。

  ③伊勢の大神宮には、
   宇宙の万物を統一する天照大神をお祀りしてあります。

   そこから五十鈴の流れ、五十音の言葉の流れが展開して、
   万物が成る(鳴る)のであります。

   そこには鈴の言霊(ことたま)が五十音ある。
   その五十を統べるスの音が鈴(スス)であります。

   ここから五十鈴(イスス)の川の流れが出て十二に分かれ、
   そしてこれがすべての諸国の民族の本源となったというのであります。

   だから、イスラエルの十二の支流(わかれ)というのは、
   五十鈴の流れから発して、世界各民族となったすべての人類という意味です。

           <感謝合掌 令和4年5月24日 頓首再拝>

(五月の神示)【久遠天上理想國實現の神示】 - 伝統

2022/05/28 (Sat) 11:53:57


『生長の家』の因縁を書き置く。
『生長の家』とは人間が附けた名ではない。
神がつけさせたのである。

『生長の家』とはタカアマハラのことである。

|(たて)に無限に生(の)びることを『生(せい)』と言ひ、
一(よこ)に無限に長(の)びることを『長(ちょう)』と言ひ、
|(たて)と―(よこ)とが十字に交叉した中心を
息叉(いへ)(家<いへ>)と言ふ、

|(たて)の生命(せいめい)と―(よこ)の生命とが
交叉した中心が『家(イヘ)』である。

イヘの《ヘ》は交叉の形を象徴(かたちど)つたものである。
家(いへ)のことを巣と言ひ、住むと言ふ。
住むと云ふのは中心に集まることである。

一切のものは中心に集り、中心に統一せられることによつて澄む
即ち淨められるのである。
中心のないものは統一がないので、雑然として言噪(ことさわ)ぐのである。

今の國際連盟を見るが好い、中心が無しに
いつまで論爭(ことあげ)して見たところで、善きことは生れぬ。

論争(ことあげ)したすべての國が一つの中心にあつまりて、
統一せられねば全世界は一つの『家』にならぬのである。

久遠天上の『生長の家(たかあまはら)』が地上に顯現して全世界が
『生長の家(せいちょうのいえ)』にならねば永遠理想世界は地上に來ぬ。

《久遠天上》とは地に対する《天》ではない。
實相世界のことである。

イエス・キリストも『み心の天に成るが如く地にも成らせ給へ』と祈つたが、
實相世界では既にひとつの極身(きみ)に統一せられて、
常樂の淨土となつてゐるのである。

地上にも實相世界が形を顯(うつ)して
天國が地上に天降つてくる時期が近づいたが、

今の世界は下照姫(したてるひめ)に心を迷はせてゐて
下照姫の言ひなり通りになつてゐるから、

その迷ひの自壞作用として、地上全体が
『生長の家(たかあまはら)』になるまでにまだまだ
色々な難問題が起つて來る。

皇典にある下照姫と云ふのは地鑛の下で光つてゐる金(きん)のことである。

全世界が一つの『生長の家(せいちょうのいえ)』となり、
實相の世界の『生長の家(せいちょうのいえ)』が地上に顯(うつ)つて來る時には
是非とも此の世界も一つの中心に統一せらねばならぬ。

|(たて)と一(よこ)との十字の中心は
”光の放射”を象徴(かたど)つたものであつて
その中心を『光(ひ)の本(もと)』と言ふのである。

日本(ひのもと)は光(ひ)の中心(もと)である。
十字架の中心ユダヤにあると思つてゐたら大なる間違ひである。

十字架の中心は日の本にあり
キリストの本地(ほんじ)も日本(ひのもと)にある。

十字架の放射光線が皇統連綿の國であると云ふことが
何人にも判つて來なければ此の世は治らぬ。

久遠皇統連綿と云ふことは偶然になることではない。

形の世界が心の世界の影であることが解り、
實相世界が久遠常住の世界であると云ふことが判れば

久遠皇統連綿と云ふことは
實相世界の久遠常住性が最も迷ひの念なしに形に顯れたのが
日本國だと云ふことが解るのである。

興廃常なき世界の國々は常住性のない迷ひが影をあらはしたのであるから、
生滅常なきは當然である。

今の世界で實相世界の常住性を形に顯(うつ)し出してゐるのは
たゞ日本の國ばかりである。

生滅常なき現實世界が變じて久遠實相世界の常住性を顯現するには、
常住性ある國がひろがりて常住性なき國を包みて、十六方位の世界を
一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければならぬのである。

十六菊と云ふのは光が十六方位にひろがりて、
十六方位の國ことごとくを中心に統一せる
ことを象徴(かたちど)つたものである。

十六の數は一と六と合はせて《七つ》を意味し、
《全て》を意味し、七つの燈臺が十六方位の中央に輝きて
十六方位の國ことごとくが一つの生長(みずほ)の家(くに)となると、

そこに久遠實相の高天原が形に顯現して
常樂の國土が地上に涌出(ようしゅつ)する。
太陽はまだ昇り始めたばかりである。

生長の家を、高天原と假名附けさせたり、
生長(みずほ)の家(くに)と假名附けさせたが、

高天原(たかあまはら)── 瑞穂の國 ── 生長の家(せいちょうのいえ)──
この三つは三位にして一體である。

『生長の家』とは『長生(ながいき)の家』、『無量壽の家』、
即ち『不滅の家』であって、
實相生命の不滅の相(すがた)が家系となつて連綿と続く家である、
日本に於ては國と家とは一体である。

全世界もまた家と國とが一体である事を教へたのがイエス・キリストであつて、
そのために彼は人間同士を兄弟と呼ばせたのである。

併し兄弟があるばかりで兄弟相爭つては家は治まらぬのである。

兄弟があり、家長があり、其処に統一があつて始めて此の世が淨(きよ)まつて
生長の家となり、不滅の家となるのである。

家と云ふのは生命(せいめい)が中心に交叉し集まることを意味すると教へたが、
國と云ふものも交叉する意味のクミ(組<くみ>)から來た語である。

今の國々は皆形がクミ合つてゐるだけで、
中心の生命(せいめい)(息<いき>)が一つに統一してゐぬから
”國即家”の實が挙がつてゐぬのである。

一つの中心にすべてが統一せられて、萬民その天分に応じて其の堵(と)に安んじ、
需給の関係でも一つの人体の血液が栄養を運ぶやうに、
全体の細胞へ各々適當な資料を、適當な分量だけ過不及なく與へるやうになったとき、
《國》は即ち《家》となり始めて本当の”國家”となるのである。

かくの如き國家にては凡てのものが瑞々しく穂(ひい)で、
その國家は『瑞穂の國』であると同時に『生長(せいちょう)の家(いへ)』であり、
久遠實相の生長の家(たかあまはら)の地上的顯現であるから、
高天原と、瑞穂の國と、生長の家とは三位にして一體であると言ふのである。

高天原の『高』とは|(たて)に無限性を示し、『原』は一(よこ)に無限性を示し、
『天(あま)』は|(たて)一(よこ)陽陰相交叉して運行する結果、
至大天球と成ることを示したのであり、

一一(てんち)の間に『人(ひと)』の生まれ出でたる象(かたち)が
『天(あま)』であり顯圓(あま)である。

天地の間に生れ出でたた本當の人間はいづれも日月(かみ)の子(こ)であり
顯圓(あま)であるから完全圓滿なものである。

天津日嗣の御子と言ふのはその完全圓滿さが
何の迷ひにも隠される事なく明らかであるから
生命の實相の久遠常住性が形に其のまま顯(うつ)し出されて
連綿と無窮につづいてゐるのである。

全世界が『生長(せいちょう)の家(いへ)』になつたら
各人の家系もまた連綿につづくやうになるのである。

家が中途で絶えるのはその家が迷ひに捉はれて
『生長(せいちょう)の家(いへ)』になつてゐないからである。

                  (昭和七年五月二十七日神示)

           <感謝合掌 令和4年5月28日 頓首再拝>

(五月の神示)【“心の法則”と“平和への道”の神示】 - 伝統

2022/05/30 (Mon) 10:14:29


吾が來れるは古へ誤れる道徳観念を修正し、
新しき正しき生き方を人類に示さんがためである。

『治にゐて亂を忘れず』と云ふのが古き人類の道徳であつたが、
『生長の家』の生き方は亂にゐて治を忘れざる生活である。

亂を忘れざる者はつひに亂に逢ふ。
亂を忘れざるが故に常に恐怖し、亂を忘れざるが故に武備をたくはへ、
武備を蓄ふるが故に近隣を威脅し、近隣を威脅するがために、
近隣また恐怖して武備を増す。

かくの如くして近隣兵を増すを見て、また自國は更に兵を加へて互に虎視眈々として
近隣相睥睨す。武備に國費を要し、教育費は削られ、俸給は縮められ、民に正色なく、
國に寧日なきは當然である。

汝ら、若し治にゐて亂を忘れざらばつひに亂に會ひ、
亂にゐて治を忘れざらば平和に逢はん。
亂を忘れざるを教へたる古き教も吾前には愚かなる者なるかな。

治にゐて亂を忘れざる者は健康にゐて病ひを忘れざる者である。
健康にゐて病ひを忘れざる者は、如何なる善行の者も、如何なる積德の者も、
すべては病ひに逢わん。

忘れずと云ふことは、心の力にて呼び寄せることを意味する。

求めよ、與へられん。呼べよ、答へんと吾れ汝に告げたであらう。
呼ぶものは皆來ることを疑ふな。

高德の人が病氣になるのは實に不思議だと思ふ人があるかも知れぬが、
治にゐて亂を忘れざるを高德と稱すべくんば、健康にゐて病ひを忘れざる高德者が、
病氣になつたとて不思議ではないのである。

吾れは汝に、死を豫想するなと言ひ、遺言状を書くなと教へたることがあらう。
また、不幸に對して用意すな、病氣の起る時の用意をして藥をて携へ歩むなと
教へたことがあらう。

すべて是れ『心の法則』である。
如何なる高德の者も『心の法則』の外に出ることは出來ぬ。

汝ら心して亂を思ふこと勿れ、心して病ひを思ふこと勿れ、
亂の眞つただ中にゐてすらも、實相の世界の常住平和を思へ。
汝ら眞に實相世界の平和を思へば、汝の世界にも平和は來たるのである。

また汝ら病ひの眞つただ中にゐてすらも、本當の汝の常住健康を思へ。
汝ら眞に實在の汝の健康を念へば健康は來たるのである。

されど悲しいかな。
いま實在世界の常住平和を知るものは 寥々なる暁天の星であるぞ。
いま皆のものは一刻と雖も亂を思はない時とてない。
逆の精神波動が積り積つて、汝ら世界はもう累卵の危ぶさである。

近いうちに汝らの世界には一大変動が來るであらう。迷ひの自壊作用である。
○○は○○○と戦はねばならぬ。
神はその時の惨害を出來るだけ少なくするやうに努力してゐるが、
人間の方でもその惨害を出來るだけ少なくするやうに協力するやう頼む。

協力と云ふも何も難しいことではない。
亂の中にゐても心の平和を失はぬ修行をすることである。
そのためには常々神想觀の修行をさしてある。

(昭和六年五月三十日夜神示)

           <感謝合掌 令和4年5月30日 頓首再拝>

【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ① - 伝統

2022/05/31 (Tue) 09:37:10


       *『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
              《久遠天上理想國實現の神示》より抜粋

(1)久遠天上とは地に対する天ではない。
   実相世界のことである。

(2)「久遠天上の生長の家」というのは、
   キリストの”主の祈り”にあるところの

   「みこころの天になるが如く地にもならせ給え」の
   ”天(てん)上の生長の家であり、
   その”天”とは「理念の世界」なのであります。

           <感謝合掌 令和4年5月31日 頓首再拝>

【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ② - 伝統

2022/06/01 (Wed) 10:35:20


(3)今の時代は、物質的な利害関係に人類の心が支配されているももですから、
   地上に実相世界に既に存する構図のように「一つの極身(きみ)に
   統一された、常楽の浄土」とは中々成らないのであります。

   まことに残念なことなのであります。

   主権国家が沢山あり、それぞれが軍備をもっていて、
   既得権をを主張する限りに於いては、永久平和の世界・常楽の浄土などは
   地上に実現することは望み薄であります。

(4)各国がそれぞれ主権をもちながら、世界連邦政府の統一主権を尊重し、
   中心帰一の世界が実現するまではどうも永久平和の世界は出来上がる
   見込みは薄いのであります。

(5)実相世界にある高天原 ―― 天国 ―― 浄土が地上に顕(うつ)って
   来るときには、天上の中心帰一が地上に反映して、世界連邦中央主権に
   中心帰一する世界が実現しなければならないのであります。

           <感謝合掌 令和4年6月1日 頓首再拝>

【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ③ - 伝統

2022/06/02 (Thu) 09:43:13


(6)”日の本”は”光の本”であり、それは実相世界にあるのであって、
   イエスが「吾国(わがくに)は此の世の国にあらず」と言われた
   久遠天上の世界であり、その久遠天上の世界は実相世界であります。

(7)実相世界の秩序なる”永久変わらざる中心に帰一されたる状態”が
   最も完全にあらわれている国を地上に求むれば、日本国しかないのであります。

   日本国は実相世界の「光(ひかり)の本」が最も完全にあらわれている国
   であるから、 実相世界の「光(ひ)の本」現象化して「日の本」となり
   「日本」となっているのであります。

           <感謝合掌 令和4年6月2日 頓首再拝>

【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ④ - 伝統

2022/06/03 (Fri) 10:05:56


(8)この世界は陽陰の結合で出来ています。
   現象界の一切のものは、無形の陽陰の原理が表現されているのであります。
   男女の肉体は、無形の陽陰の原理が象徴的にあらわれたに過ぎません。

(9)神の宇宙創造の根本構図であるところの、一切のものには、
   極微の原子から極大の太陽系に至るまで、変わることなき
   中心があるということであります。

(10)現象界が変化つねなきものであるのは、
   それは真に実在するのではないからであります。

           <感謝合掌 令和4年6月3日 頓首再拝>

【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ⑤ - 伝統

2022/06/05 (Sun) 09:22:06


(11)家系の連綿たる存続は実在世界の価値を現象世界に実現する上に
   是非とも必要な事柄なのであります。

   ミロクの世ともなればすべての「家」は家系連綿として不滅に続き、
   実相世界の不滅価値を現象化することになるのであります。

   この家系連綿の価値を国家に於いて実現しているのは万世一系の
   聖天皇を載(いだ)いている日本国のみであります。

           <感謝合掌 令和4年6月5日 頓首再拝>

【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ⑥ - 伝統

2022/06/06 (Mon) 11:41:23


(12)全世界の人類が互いに一つの神から生まれた兄弟姉妹であるということを
   自覚して、家長があり、兄弟姉妹が、それぞれの位相に従って、
   その責任と義務とを切実に履行するようにならなければ本当の永久平和
   というものは実現しないのであります。


(13)世界は、《永遠不滅の一つの中心》が渝(かわ)ることなく永続しながら、
   それが君主専制などになることなく、天皇の御心に、万民の心が反映し、
   天皇がそれをあきらかに「知ろしめし」て、中心と周辺とが啐啄同時に
   愛合するというように、相互にピッタリ瞬刻限を同じくして、
   呼べば応えるような国とならなければならないのであります。

           <感謝合掌 令和4年6月6日 頓首再拝>

【“心の法則”と“平和への道”の神示】(講義)① - 伝統

2022/06/07 (Tue) 09:05:44


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《“心の法則”と“平和への道”の神示》」より抜粋

(1)「治にゐて亂を忘れず」などというようなことは、
   それは近視眼的に、眼先の現象処置をする上での
   適当な準備をするという準備工作としての智慧であって、

   或る期間には必要でありますが、

   適当な準備をした上では、乱に心に描かず、完全なる安心をもって、

   「調和の世界」を心に描くことによって、
   却って此の世界に平和を持ち来たすことができるのであります。

(2)この神示が発せられたのは満州事変の直前でありますが、
   唯今の世界情勢にもこの神示はピッタリと当て嵌るのであります。

(3)日本の国土は、強国に囲まれおり、
   実力のない中立主義は番人も戸もない羊小屋のようなものであります。

   それでは、強国の餌食となることに甘んじてしまい、
   却って、戦争の原因となるのであって、(そうならないために)
   日本は恐れず猛獣に立ち向かえる実力を蓄えなければならないのです。

   実力を持って猛獣に恐れず立ち向かうとき猛獣も尻尾を巻いて後退すると
   『続々甘露の法雨』には示されているのであります。

           <感謝合掌 令和4年6月7日 頓首再拝>

【“心の法則”と“平和への道”の神示】(講義)② - 伝統

2022/06/08 (Wed) 10:34:44


(4)「戸締り」をしないで、

   「いつ猛獣が襲って来るか、襲ってくるか」と戦々恐々と
   猛獣を《恐れて》いるよりも、

   「戸締り」を厳重にして

   「これならだいじょうぶ」の態勢をとり、
   《恐れずに》正面から猛獣の眼をみつめている方が、
   猛獣に咬みつかれないことになるのであります。


(5)唯「実相の円満完全」を念じておれば平和が来るのではないか
    ―― と考えるのは、

   「ただ人間の実相の完全円満を祈っておれば
    現象的にはどんな処置を講じないでも肉体は健康になるのではないか」

   と言うのと同じであります。

   「実相の既にある完全さ」と、
   「現象にそれを実現する処置」とを混同するところに、

   現象的な適当な処置を不要とするような
   間違った論議を生ずるのであります。

           <感謝合掌 令和4年6月8日 頓首再拝>

【“心の法則”と“平和への道”の神示】(講義)③ - 伝統

2022/06/09 (Thu) 09:43:03


(6)「恐るる勿れ」は「永遠に変わらない黄金律」でありますが、
   「恐れない心境」になるためには、「戸締り」がある方がよいか、
   「戸締り」がない方がよいかはその時の現象界の情勢次第であります。

(7)「戸締り」を一層強固にして、「これだけ戸締りがあるから大丈夫だ」と、
   大船に乗った気持ちになって、恐怖心を滅して大安心」の心境である方が
   「心の法則」にかなった平和への道なのであります。

           <感謝合掌 令和4年6月9日 頓首再拝>

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