伝統板・第二

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白鳩箴言~神と人間との交渉(昭和48年3月) - 伝統

2022/03/01 (Tue) 04:12:08

”道産子 さま” ありがとうございます。
先日、道産子さまによる投稿が終わりました
「白鳩箴言~神と人間との交渉(昭和48年3月)」を、
このスレッドに独立させて、残させていただきます。

”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244689 からの転載です)

今月と同じ3月の箴言ですので、日々、順次、進めてまいります。


三月の箴言 神と人間との交渉  女性のための智慧  

                谷口雅春先生

      昭和四十八年「白鳩」誌三月號


【一日の箴言】 ~ 物質文明のもたらす精神的公害

昨年一ヶ月以上に亙つて、國土綜合開發審議會會長平田敬一郎氏を團長とし、
各界の名士たちが參加して日本調査團が出來、

ヨーロッパその他の先進文明國九ヶ國を、視察旅行をしてきて、
その視察の結果を報告されてゐたのであるが、その報告の一部概要が
『人間改造』第168號に載つてゐた。その概要摘記すると、

「この豫言によると、
 國民所得が豊かな先進國ほど、犯罪の發生が多くなつてゐる。
 これは高度に物質文明が發展した國の人々は、
 かへつて不幸な人生をもつている一つの證據である。」

「國民所得第一位のアメリカで青少年の麻薬や性犯罪が急激に増加したり、
 經濟・政治・文化の高度な發展のために生活は豊かになつてゐるが、

 個人の人生に生き甲斐が失はれてゐるために、
 いろいろな事件が續發する。
 このことはアメリカもソ連も同一である。」

「同じやうな狀態になつている日本を含めて、
 今後、精神環境改善の必要がある。
 これらの精神環境改善の問題はまつたく先進國が一致して
 味はつている點である。」

「日本などでは物質文明の發達に伴ふ物質的公害などといふものが
 世界の先端を切つて問題にされてゐるけれども、
 更に精神環境の惡化といふことについて、
 その原因をはつきりしなければならない。」

「ヨーロッパで痛感した問題は、北歐三國のやうに社會保障制度が
 進んでゐるのに生き甲斐を失つた老人が非常に多いといふ事である。」

           <感謝合掌 令和4年3月1日 頓首再拝>

【二日の箴言】 ~ 科學文明よ傲ること勿れ - 伝統

2022/03/02 (Wed) 05:04:08


わたしが十年前、アメリカおよびヨーロッパ諸國を講演旅行した時に、
やはり老人の福祉施設が最も整つてゐる北歐三國に於て
老人の自殺が世界中で最も多いのだと聞かされて驚いたのであつたが、

日本も物質文明が發達して國民総生産が自由國家群中第二位になり
保有外貨が百億ドルを越して尚、増加し續けているやうな現狀に於て、
老人を最も敬ふ日として設けられた”敬老の日”に、
皮肉にも老人の自殺が新聞紙を賑はすことが殖えて來た現象があるのである。

「功成り名とげた老境がそのまま不幸を表はすやうなことでは、
 いかに豊かな社會をつくつてみたところで
 ナンセンスと呼ばなければならないだらう」と

前記の調査團報告は結論として述べてゐるのである。

これは物質的欲望がいかに滿足せしめられても、
魂は却つて飢ゑるといふことをあらはしてゐるのである。

だからイエスは

「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づる言葉による」

といつてゐるのである。

愛のない物質的な社會施設だけでは
人間の魂の飢を滿たすことはできないのである。


物質的な日本列島改造よりも、その改造の最も根源的なる
”精神的なるもの”が改造せられなかつたら、改造を加へれば加へる程、
また次の別の公害があらはれて來るのである。

科學文明よおごる勿れである。

           <感謝合掌 令和4年3月2日 頓首再拝>

【三日の箴言】 ~  人生の厩橋側と上野公園側と - 伝統

2022/03/03 (Thu) 04:50:41


わたしたちの運命は”自分の心”のタイプに從つて、
同じタイプのものが引き寄せられて
運命の形を生成して行くのである。

科學的に安全だと思ふ方に走つても、
それは却つて”死滅の道”であることがあるのである。

たとへば五十年前の關東大震災のとき、わたしは
東京淺草區松葉町にある寺院の境内に建てられてゐた
二階家を借りて執筆生活をしてゐたが、

大正十二年九月一日、正午二分前になると突然二階は
將に難破せんとする小船のように揺れ出したのであつた。

辛うじて階下に降り、境内の地面の上にとび出して、
その後の地震の繼續の有樣を見てゐたのであるが、
餘震は暫くでは止みさうもないのである。

揺れが静かになりかけたと思ふと以前より大きくまた激しく揺れる。

その内に四方八方、焔の海になつて來たのであつた。

私たちの逃れて行く道は唯二つあつた。
一方は厩橋の方であり、もう一方は上野公園の方であつた。
どちらを選ぶかは、瞬時を爭ふ危急の場合で理屈はないのである。

人間は、ただ「フト思ひついた方」へ走り出す。
そして厩橋の方へ逃れて行つたものは、焔にとりかこまれ
酸素に缼乏した空氣の中で倒れて數萬人が焼け死んだのであつた。

わたしは幸ひにして上野公園の方に逃れたので、
公園には延焼して行くべき密集した建物が無いので、
焔にとりまかれることはなく數萬人がそこへ逃れて助かつたのであつた。


死の方向を選ぶか、生の方向を選ぶかには咄嗟の場合で理屈はない。
ただ「フト思ひ浮かぶアイディアに動かされて行動するだけなのである。

その「フト思ひ浮かぶ」といふのは果たして何者が「フト思ひ浮かばす」
のであらうか。

日本列島改造も、いろいろの理屈はついてゐるが、それは付け足しで、
田中角榮さんが總理になる前からフト思ひ浮んだアイディアに、
あとから理論づけをしたものであるのである。

それが日本の公害を避けるために走り出す厩橋側になるか、
上野公園側になるかは、

田中角榮さんが、神の叡智に導かれたのであるか。
ただ物質文明的な唯物論的知識に導かれたのであるかによつて、
その成果が異なつて來るのである。

           <感謝合掌 令和4年3月3日 頓首再拝>

【四日の箴言】 ~ 人間の運命を指導する神祕な力 - 伝統

2022/03/04 (Fri) 07:19:11


人間の運命 ―- 時としては國家の運命 ―― をすら
左右する不思議な力であるところの” フト思ひつく”といふ想念は
一體どこから來て私たちを導くのであらうか。

ある人は、「この株を買つたら、儲かるだらう」とフト思いついて
株を買つたら暴落して大損をするのである。

またある人は「この馬こそ一著になる大穴馬だ」と思つて
馬券を買つて損をする。

その反対にフト思いついた事業が大發展して一大資産をつくる人も
あるのである。


心理学者は、この不思議な”聲なき囁き”の正體を
潜在意識の囁きだと解釋する。

あなたの潜在意識には一體何が潜んでゐるのであらうか。

それについて皇學館大學の佐藤通次博士は、山陰神道の機關紙に
『自靈拜の哲理』と題してその”聲なき囁き”の正體について
次のやうに書いてゐられる。

「・・・・・古代ローマ人が、人には誕生と共に守護の靈がつく
 と考へたのを、まことに道理のあることと思ふ。

 ・・・・・この守護靈は、各人の誕生と共に活動を始め、
 その人の死とともに消えるのであるから、

 これを哲學的に説明するならば、普遍的に作(はたら)く生命が、
 いはばおのれの焦點を定める力がゲーニウスであるといふことが
 出來よう。

 ローマの美術では、このゲーニウスを翼を持つ姿に表現してゐる。」

”翼を持つ”といふのは、天界より降誕した天使を意味していると思ふ。

           <感謝合掌 令和4年3月4日 頓首再拝>

【五日の箴言】 ~ 吾らはみな”天才”である - 伝統

2022/03/05 (Sat) 08:32:41


われわれが研究して結論を得た心靈學では、
人間の魂が地上に降誕すると、それを指導するための守護神が、
祖先靈の内の靈的に發達したる高級靈に属する靈が産土神により
指名せられて、その人間の一生涯の守護神となるのである。

これを正守護神といふ。

それは一生涯交代することなくその人に付き添ふて
その人の魂を指導するのである。

これが佐藤通次博士が「古代のローマ人が、人には誕生と共に
守護の靈(Genius ゲーニウス)がつくと考へた」といふ
”守護の靈”に當るものだと思ふ。

Geniusは英語の発音ではゲーニアスと讀み、われわれは”天才”と
譯し來つた文字であるが、佐藤先生にローマ人の讀み方” ゲーニウス”を
教へてもらつた譯である。

いづれにせよ、高級靈なる神秘的叡智者なる靈がわれわれには、
生まれるとすぐ吾らと偕にあり、その叡智に感應して
”天才”が發顕して來るのである。

だから吾々は本來皆”天才”であり、
肉體智以上の力を發顕し得る素質を備へてゐるのである。

われわれは皆”天才” (ゲーニウス)を内に宿しているけれども、
現象的には皆”天才”になれる譯ではないのである。

それは何故であらうか。

守護神は”靈”であつて肉體ではない。

われわれ自身と守護神(または守護靈)との關係は、
霊と靈との關係であるから、靈的に互ひに波長があつてこそ、
互ひに感応通行し得るのである。

ところが肉體を現じている人間は往々にして
肉體的欲望及び物質的欲望の虜となり、
その精神が物質的方向に傾けば傾くほど、その人の精神波動は、
守護神の高級な靈的波動の振幅に周波數が合はなくなる。

そのために、その人の魂は、折角つきそつてゐて下さる守護神の
助言の囁きが聴えなくなり、不測の災禍が起る直前に、
守護神は「早くここから逃れよ」と囁くけれども、

その囁きを聴くことが出來ずに、その人は
不測の慘禍をまともに受けることになるのである。

         <感謝合掌 令和4年3月5日 頓首再拝>

【六日の箴言】 ~ 古代ギリシャ人の考へた守護靈 - 伝統

2022/03/06 (Sun) 02:00:28


古代のローマ人に似た守護靈に關する考へが古代ギリシャ人にも
あつたといふことを佐藤博士は次の如く書いてゐられる。――

「ギリシャ人はそれをダイモニオン(Daimonion)と呼んだ。
 たとへばプラートンによれば、ソクラテスにはダイモニオンがついてゐて、
 ソクラテスが惡の方向に走らうとすると、内なる聲として
 ソクラテスを戒めたといふことである。

 人間の良心のとがめといふものは、まさしくダイモニオンの聲であらう。

 古代の抒事詩人ホメーロス(ホーマー)では、ダイモニオンは神にほかならず、
 神をその超人的な活動力のはうから呼んだ名であつた。

 べつの抒情詩人ヘシオドスでは、ダイモニオンは神と人との仲に立ち、
 人間の運命を良きにつけ惡しきにつけて左右するものと考へられた。

 そのダイモニオンが、ギリシャ哲學では、人に内在する”靈的なるもの”と
 解せられ、もつぱら人を正善に向はしめるもの、人間の内における
 神的なるものとされるにしたがひ、上記のプラートンの表現を生んだのである。」

         <感謝合掌 令和4年3月6日 頓首再拝>

【七日の箴言】 ~ ” 内なる聲”にもこんな低級靈の聲がある - 伝統

2022/03/07 (Mon) 03:51:48


以上は佐藤博士の説明であるが、教へられるところが多いのである。

しかし”内なる聲”にも心靈學上に分析して行けば、
決して内容が同一ではなく、いろいろあり、
”善霊の聲”もあれば”悪靈の聲”もあのである。

嘗て名古屋でこんな人があつた。

靈媒的素質を持つた人であつたので、
何か”靈の聲”が頭の中にきこへて來るのである。

本人が何か問ふと、それに対して答へてくれる。
随分、當ることや人間の及ばないやうな豫言的囘答を
してくれたりすることがある。

時々、間違ふ囘答もあつたが、問ふと答へてくれるので面白いので、
その”靈の聲”と互ひに話し合ふのが楽しみになつて來たのであつた。

そこまでは大して弊害もなかつたが、
そのうちにこちらが尋ねもしないのに、その”靈の聲”が彼の頭の中で
間斷もなく話しかけるやうになつたのである。

これではうるさくて仕方がない。
仕事の邪魔になる。
落ち着いて何かを考へる暇もない。

彼は靈から來る聲を無線電信的なものだと考へて、
その受信を他へ誘導して外らしたら聞えなくなるかもしれないと考へて、

頭に錻力のバケツを冠り、バケツの柄のつく穴の所に銅線を結び付けて、
その銅線の下端を地中に埋めてアースした。

けれどもその”靈の聲”は、その銅線を傳はつて地中に逃げて行つて
くれないので、依然として間斷なく聞える”靈の聲”に
なやまし續けられてノイローゼとなり、
つひに精神病者として精神病院に収容されることになつたのであつた。


「七つの燈臺者の神示」に
「神を霊媒に呼んでみても神が來ると思つてはならぬ」と
警告されてゐるのも、このやうな低級靈になやまされることのないための
警告として受け取れるのである。

本當の神は「人に内在する”靈的”なもの」であつて、
二重人格的に話しかけたり、問答できたりするのは、
ある階級の靈であるが、高級靈は少ないのである。

大抵は迷へる”浮浪の靈”が多いのであるから、
靈媒現象的にそのやうな靈に話しかけたり、問答するのは、
以上の如き危険を伴ふのであるから決して試みてはならないのである。

         <感謝合掌 令和4年3月7日 頓首再拝>

【八日の箴言】 ~ ”内なる聲”の分析について - 伝統

2022/03/08 (Tue) 08:12:58


ソクラテスに顕れたダイモニオンといふ守護霊は、

「ソクラテスが惡の方向に走らうとすると、”内なる聲”として彼を戒めた」
といふのであるから、以上のやうな浮浪の靈や迷靈ではなく、
高級靈である守護霊であつたと思はれる。

誕生と共に神界の命により、ソクラテスに付き添つて
彼を導くために遣はされたところの善霊であると思はれる。

しかし單に「内なる聲」に聴けといふやうな場合、
その”内なる聲”といふ表現が曖昧であつて、頭の中で二重人格的に喋る
靈の聲であるか、そのやうな聴覺的な聲ではなく、”良心の囁き”として、
内在の神性(又は佛性)の催しとして一種の直感的な”魂の叫び”

(カントが”實踐理性”と呼んだ如き、道徳的理性の囁き)であるのか
ハッキリしないのであるが、實は、是はハッキリさせて置かなければ、
頭にバケツを被つて、その、靈の聲をアースしようと試みた人のやうな
重大な間違ひを引き起こす事にもなりかねないのである。

         <感謝合掌 令和4年3月8日 頓首再拝>

【九日の箴言】 ~ ”守護霊の聲”と”良心の囁き”との差別 - 伝統

2022/03/09 (Wed) 10:53:13


天理教祖の傳記を讀んでみても、金光教祖の傳記を讀んでみても、
これらの教祖は二重人格的にあらはれた
”神”の聲を聞いてゐられるのである。

それは「良心の囁き」とか「神格の内流」とかいふやうな、
單なる”自己の魂の深層”から催して來た”内なる聲”ではなく、
”人間”と対立して、”彼”と”我”との關係に於て、
”彼”なる神が人間に呼びかけ、命じ、訓し給ふといふやうな形に於て
あらはれてゐるところの”神”である。


それはソクラテスに顕はれたるダイモニオンなる”守護靈”によく似てゐて、
問答すれば、時にはそれについて答へ給ふ靈であり、
自己とは別の世界に住む客觀的な神霊の聲のやうである。

ソクラテスや金光教祖や天理教祖が、そのやうな”神霊の聲”を素直に信じ、
その通り実踐して、間違つた行動をせず、人類を善導する光となり得たのは、
たまたまこれらの聲の主が低級なる迷靈の出鱈目の饒舌ではなく、

高級靈が教祖を選んで、その肉體を使つて人類を救濟せんとする悲願を
達成しようとせられたものであつたに違ひない。

そのために、これら教祖やソクラテスは二重人格的にあらはれた
”霊の聲”に素直に從つても間違を犯すことなく却つて
人類の”光”となり得たものである。

         <感謝合掌 令和4年3月9日 頓首再拝>

【十日の箴言】 ~ 迷靈には問答打ち切り宣言が早いほどよい - 伝統

2022/03/10 (Thu) 09:50:33


イエスもヨルダン川で四十日四十夜斷食水行して自分の心を浄めようと
してゐるときに「自己とは別の世界に住む迷靈サタン」があらはれて來て
問答してゐるのである。

この迷靈とイエスとの問答は、頭に錻力のバケツを被つて迷靈の言葉を
アースして避けようとした人のやうには、その迷靈に、
長くかかはり合つてはゐないのである。

迷靈との問答は、長くかかはり合つてゐると、
人間を翻弄して樂しみたいのが彼らの人間に話しかける動機であるから、
いつまでもその迷靈が粘り著いて間斷なく話しかける爲
人間の方がノイローゼになつてしまふ。

イエスと迷靈サタンとの問答は極めて簡潔にして、
イエスは「去れ」といつて、迷靈を突き放してゐるのである。

サタン――なんぢ若し神の子ならば、命じてこれらの石を變じてパンと爲せ。

イエス――人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る。

サタン――なんぢ若し神の子ならば、己が身を下に投げよ。
     若しなんぢ神の子ならば、聖書に錄されたる如く
     「神は御使たちに命じて、彼らの手にて汝を支へ、
      その足を石にうち當つることなからしめん。」

イエス――「主なる汝の神を試むべからず」と聖書には錄されてゐる。

サタン――汝若しひれ伏して我を拝せばこれらの榮華を皆なんぢに與へん。

イエス――サタンよ去れ。聖書には「主なる汝の神を拜し、ただ之にのみ事ふべし」
     と書かれてゐるではないか。

 
この簡単な會話によつてイエスは、迷靈が、言葉を弄して、
彼に絡みついて來るのを突き放してゐるのである。

これは若し諸君のうちの誰かに迷靈がひつかかつて愚弄しようとするとき、
簡單にそれを突き放してしまつて、今後話しかけて來ても取り合はぬやうにすれば、
それ以後迷靈は沈黙してしまふといふ實例である。

         <感謝合掌 令和4年3月10日 頓首再拝>

【十一日の箴言】 ~  ”聲ある聲”の靈の導きに警戒せよ - 伝統

2022/03/11 (Fri) 06:55:02


人間に話しかける靈が必ずしもソクラテスに話しかけたダイモニオンのやうに
善靈ばかりに決まつてゐないことは注意しなければならないのである。

概ね、人間の地上誕生のとき産土神から任命されてその人の全生涯に付き添ふて
導いてゐる正守護神は、本當に”聲なき”(單なる形容詞でなく本當の無聲の)
聲によつて潜在意識を通してわれわれを導いてゐられるのであり、

第三者又は第二者の「聲ある聲」による”靈の聲”には
關り合はない方が危険が少ないのである。

         <感謝合掌 令和4年3月11日 頓首再拝>

【十ニ日の箴言】 ~  役職に從つて特命の守護神が與へられる - 伝統

2022/03/12 (Sat) 07:37:39


人には生れた時から生涯その人を指導守護するために任命された正守護神のほかに、
その人の役職が重大な仕事である場合は、その役職について經験の深い高級靈が
その職務遂行の守護の靈として命ぜられて付き添ふて來るものである。

それを生誕と同時に來つた正守護神と區別するために
假に副守護神といふことがある。

色々の宗教の教祖が、
神示を「聲ある言葉」の形や、自動書記的”お筆先”の形をもつて、
神の言葉を聞くのは、その教祖たる人の使命に應じて命ぜられて臨(きた)つた
ところの特命の副守護神を通して神示が傳へられるのである。

さういふ場合はこの神示の”傳へ手”を”天使”と稱するのである。

 
聖經『甘露の法雨』に「ある日、天の使ひ生長の家に來りて歌ひ給ふ」とあるのは、
「特命の守護の神として觀世音菩薩が生長の家に來りて眞理の法輪を轉じ給ふ」
といふ意味に解することもできるのである。

         <感謝合掌 令和4年3月12日 頓首再拝>

【十三日の箴言】 ~ 副守護神と司配靈とについて - 伝統

2022/03/13 (Sun) 06:45:01


普通、副守護神と稱する場合には、誕生の時以來、
生涯を通じて守護して下さる高級靈なる正守護神以外に、

後からその人に扈從又は憑依してゐる守護霊のあらゆる種類を
ひつくるめて稱する場合が多いのである。
”守護靈”と呼ばずして「司配靈」と稱する場合がある。

これは実際は”守護してゐるのではなく、靈そのものが、
その靈自身の目的を實現せんがためにその人間をむしろ
司配せんとするのであるからである。

物理的心靈現象を起して心靈研究家を驚かすやうな
離れ業をやつて見せるのは、この種の司配靈のやることである。

(谷口清超著『奇蹟』参照)

         <感謝合掌 令和4年3月13日 頓首再拝>

【十四日の箴言】 ~ 絶對の神は、相對の人格神となつて自己完成する - 伝統

2022/03/14 (Mon) 06:27:01


ソクラテスに助言を與へたダイモニオンと呼んだ靈が、
ソクラテスの正守護神か副守護神か、
特命の”守護の天使”か、司配靈かはハッキリとは判らない。

これを直ちに「相對を超へる絶對者が、自己の内に内在して、
その絶對者が”聲”となつてあらはれて來た」
と解釋するのが適切であるとは必ずしも斷じがたいのである。

超越的絶對者は、それは” 絶對者”であるが故に、
われらに語り掛けて對話を交へることはあり得ない。

それ故に絶對者の慈悲を體現したところの相對的に顕現する人格神、
または天使、または菩薩、または教祖があらはれなければ
絶對者はその救濟を具體化することは出來ない。

救濟を具體化することができないやうな神は、
”神”と稱されるにしてもハタラキに於ては神ではない。

”神”が救済を完うし得る本當の神となり得るためには、
絶對者が相對的人格神としてあらはれて救濟の御業を現實になさなければならない。

即ち法身の阿彌陀佛が、報身又は應身の佛如來として顕現しなければならないし、
「天にまします父」なる神が、地に降誕したイエス・キリストとして
顕現しなければならないし、

天之御中主神が住吉の大神として顕現しなければならないし、
宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。

神が神たる慈悲の本來をあらはし、神たる使命を完了するためには
色々の宗教に於て”教祖神”として”神”はあらはれなければならないのである。

神の具體的な人格的慈悲の完成は
應身の教祖となつて顕はれることによつて完成する。

         <感謝合掌 令和4年3月14日 頓首再拝>

【十五日の箴言】 ~  宗教にも色々の段階がある - 伝統

2022/03/15 (Tue) 06:49:03


すべての宗教の教祖が必ずしも
宇宙絶對神の人格化又は應身の如來といふ譯ではないのである。

頭の中で囁いたり、自動書記によつて”お筆先”と稱する神示を
書いたりする”靈物”は必ずしも最高の創造神でもなければ
高級靈でもないこともあり得る。

時とすれば動物靈が自ら”神”と稱しておごそかな態度姿勢を示し、
おごそかな語調をもつて”神示”と稱するところのものを喋ることもある。

靈眼で見れば、神靈來格せりと稱する”肉體人間”(靈媒又はある階級の教祖)は、
厳かな姿勢語調を持つて神示を語るのであるが、練達せる審神者が、靈眼で見れば、
その肉體の背後に白虎の靈や天狗の靈の姿が見えて、
忽ちその正體を見破られる事もある。

白虎や天狗の靈の中には,物質界より視ることも出來ない普通の人間よりも
すぐれたる”靈界の知識”や豫言の靈智を備へて、人間を驚かすことがある。

そのやうな靈が時々乗り憑つて喋る人間が教祖になることもある。

宗教にも高級な宗教から狐狸の類の靈示による宗教に至るまで、色々の段階があり、
それに魅せられたり、その教へに同調する心の持主が信者となるのである。

そして色々の新興宗教や疑似宗教的なものが發生するのである。

その指導靈又は司配靈の正邪及び力量によつて、最高といへないが、
或は人間を正しく導く宗教もあらはれ、或は時には淫祠邪教となつてあらはれる。

         <感謝合掌 令和4年3月15日 頓首再拝>

【十六日の箴言】 ~ このやうにして發生する宗教もある - 伝統

2022/03/16 (Wed) 08:52:22


或る時、東京都に”宇宙教”とみづから稱する宗教が發生したことがある。
その教祖といふのは婦人であつて、自己催眠狀態又は神憑り狀態になつて
喋り出す時には、みづからを宇宙創造神であることを名乗り

人智では量りがたいやうな神秘なことをいふらしいので、
それに魅せられてその信者になつた白鳩會の一部會員もあつたほどであつた。

近いうちに谷口は死んで、生長の家は後繼者もなく亡びるとか、
生長の家の本尊は何とかいふ天體から天降つて來た邪靈であるから滅びるとか何とか、
立證の仕様もない事を眞實めかしい信念の語調でいふものだから、
却つて魅力があつて人を引き付けたのであつた。

そのうちにその婦人教祖はしきりに私の宅へ電話を掛けて來てうるさくて仕方がなかつた。

彼女は生長の家を咒ふやうな豫言をしたので「呪ふものは呪はれる」といふ
”心の法則”にしたがつて、自分で氣が咎めて被害妄想にとりつかれたらしいのである。


「生長の家の神癒祈願部の井上如水が毎日、早朝神想觀をして私をいぢめるので
苦しくてたまらないから、早速井上如水の早朝神想觀をやめてほしい」と
しきりに訴へるのである。

「宇宙の創造神が自分に乗り憑つてゐる」と自稱する教祖が、
井上如水の早朝神想觀で苦しめられといふのだから、
大變な宇宙の創造神があるものだと思つて、

「神想観は人を呪つたり苦しめたりするためにするものでないし、
人の實相を觀じて「その人を救ふものですよ」と返事をしても、

「いや、やはり、井上如水が神想觀で私を苦しめる」と幾度も幾度も電話して來て、
こちらは應對に忙しく、仕事の邪魔になつて仕方がなかつた。

そのうちに彼女は電話を掛けて來なくなつたが、
噂に聞くと衰弱して死んでしまつたといふことであつた。

もし彼女が死ななかつたら今も尚、小さな淫祠邪教の教祖として
ある程度の信者を集めて存續してゐたかも知れないのである。

それからもう十五年も繼つが、こちらの方は彼女の豫言通りには死なないで、
立派な後繼者も出來て教勢は日に日に發展しつつあるのである。

以上の程度の司配靈や野心のある邪霊が神示と稱するものを喋つて立派に
長く存續することもあり得るのである。

         <感謝合掌 令和4年3月16日 頓首再拝>

【十七日の箴言】 ~  『自靈拜の哲理』と”實相禮拜” - 伝統

2022/03/17 (Thu) 08:29:31


佐藤通次博士は本當に正しい宗教の定義とも見るべきものを
『自靈拜の哲理』の中で次のやうに書いてゐられる。

(”宗教とは”といふ書き出しではあるが、
 前記のやうな低級な宗教もあるのだから、
 これは”正しい最高の宗教とは”といふ意味で讀むべきものだと思ふ。)

『宗教とは内在の位に立つ神が超越の位に立つ神と合一するところの『自覺』に他ならない。

(それはそのまま、超越の位に立つ神が、個に内在する神を媒介として、
 みづからを見るところの自覺ともなる。)

 それは超越の位に對する故に、身構へとしては「帰依」とか帰命とかの形をとり、
 神を内在せしめる人は下座を行じ、自己に内在する神を上座に超越せしめて
 仰ぐのである。

 それは自己が自己の靈を拜すること、すなはち「自靈拜」である。
 よつて本質觀照の立場からは宗教とはすべて自靈拜であると斷言することが出來る。』


この文章の意義をよく知るためには、
この文章の前半の内にある次の一節を理解しておかねばならぬのである。――

『わたくしの本體は、その時々の現象としてのわたくしを超越し、
 しかもその時々のわたくしに内在してゐる。

 超越即内在である。

 わたくしに内在してわたくしの本體となるその見えざる力は、
 此のわたくしを超越するが故に、わたくし以外のいつさいの人にも、
 延いては萬有のも普遍的に内在するところの本體――神・佛・天――である。

 その本體は、かつて目に見えることなく、
 しかも可視的な個に内在してのみ具體的に顕現し得るのである。』


以上の如く佐藤博士の言はれる意味に於て”個”に宿る”超越者”を、
自己の”實相”として禮拜するのが「自靈拜」であり、
生長の家に於ては『實相禮拜』なのである。

         <感謝合掌 令和4年3月17日 頓首再拝>

【十八日の箴言】 ~  ”神の間”は”空”である - 伝統

2022/03/18 (Fri) 10:45:43


生長の家の建物に圓塔がある。
これは七階に造られていて、その最上階が”神の間”であり、
そこには何も物質的な形あるものは安置してない。

本尊の像も、象徴もない。

全然”無一物”であり、”空”である。

入り口の襖だけは荘嚴につくられてゐて、
如何にもその内部は神の御座所であるやうにしつらへられてゐるのである。

その下の部屋が”神癒祈願の間”である。
ここで祈願部の職員が祈るのである。

”神の間”が何もなく空であるのは、普遍の超越神の御座所であり、
何かを安置すればそれだけ超越神を、人間の觀念で固定することになるから、
それを避けるためである。

         <感謝合掌 令和4年3月18日 頓首再拝>

【十九日の箴言】 ~ 本尊として祭祀する「實相」の由來 - 伝統

2022/03/19 (Sat) 09:00:41


生長の家は、物質的な偶像的なものを何一つ置かないで、
「内在の位に立つ神が超越の位に立つ神を”實相”として禮拜し、
 ”個”即”普遍”、 ” 普遍”即”個”の自己を、
 今此処の「わが身に自覺するを主目的とする最も純粋な、
 一宗一派に偏らない宗教」なのである。

禮拜の本尊として何か形のあるものを安置したならば、
他の宗教と衝突して別異の宗教であることをあらはすので、
生長の家では如何なる形ある本尊も安置しないことにして
あつたのである。


ところが戦後、過去の宗教團体法が、新しく宗教法人法に
生まれ變るに當たつて、禮拜の本尊として何かの安置物をおかなければ、
文部省ではその宗教團体を宗教法人として認証しない
といふことになつたのである。

文部省が宗教法人として認証してくれなかつたならば、
講習會を開くに當たつても、一々税務署に人數を申告せねば
ならなかつたり、色々の手數や面倒を生ずるので、

やはり宗教法人としての恰好をつけて文部省に認証して貰つて置く方が
都合がよいので、禮拜の對象として何か本尊を安置しなければ
ならなくなつたのである。

さて、何を本尊として安置しようかと考へた擧句、形ある本尊を
安置しては、超越的内在の超越者を象徴することは出來ないし、
といつて、神は無相であるといつても、形ないものを安置する譯にも
いかないので、

形がありながら、形なき超越的内在の意味を持つものを
本尊として祭祠するほかはない。

そのためには『實相』といふ文字を選んで本尊として掲げるのが
適當であると考へ、私の自筆の「實相」といふ文字の”額”又は、
”掛軸”を本尊として掲げ、

地方の教化部や道場は勿論、相愛會等のごとき信徒の集會ある場所には、
その「實相」といふ文字を本尊として安置し各自の内在の實相たる
”神性”をその本尊に移入して、宇宙普遍の神靈との合一點として、

そこに”内在超越”の神靈を禮拜するための
”心の焦點”をつくることにしたのであつた。

         <感謝合掌 令和4年3月19日 頓首再拝>

【二十日の箴言】 ~ 神饌捧獻の儀式について - 伝統

2022/03/20 (Sun) 09:25:46


『實相』といふ「”形”を超越した文字」を掲げるにしても、
それを掛軸とか扁額にする場合には、
やはりそこに人間は「形」を見出すのである。

そしてその形が”愛の神”とか”智慧の神”とか”生命の本源神”を
あらはすものであると思ふと何かを獻げたくなるのである。

これは人間の自然感情といふものである。

それで本部の祭司たちは、何時の間にか、祭日の儀式のある時に
野菜果物お菓子などを三寶にのせて、『實相』の本尊にお供へしてゐる。

アメリカにある生長の家の道場でも、
さういふ供物奉獻の行事が行なはれる事がある。

ところが、生長の家大神の神示には、「われに供へ物は要らぬ」と
書かれてゐるのと神饌を供養する儀式とは一致しないので、

アメリカ人の信者から、
「何故、”生命の實相”の本にある神示と違ふことをするのか」
といふ質問があり、

神に食物をお供へする習慣に乏しい西歐人には
神への供物奉獻の事は異樣な出來事だと感じられるらしいのである。

それでアメリカ駐在の本部講師に最近命ぜられた
ルードルフ・ゴーゾラさんから「信徒に對してどう答へたらよいか」
といふ質問が來てゐたのである。

まことにもつともなことである。

         <感謝合掌 令和4年3月20日 頓首再拝>

【二十一日の箴言】 ~ 神は「物質」の食物を食し給はない - 伝統

2022/03/21 (Mon) 11:01:14


宇宙普遍の神に對して、物質的食物等をお供へすることは不必要である。

神は”靈”であるから物質の食物をお喫りにならないからである。

だから神御自身の方から言へば
「われは供へ物は要らぬ」と仰せられるのは當然のことである。

しかし日本には、「収穫の初穂を神にお供へする』といふ行事が
自然發生的にあり、從來、それは國家的祝祭日として
”神嘗祭”と名付けられてゐたのである。

靈なる神が物質的食物をお喫りにならないのは明らかではあるけれども、
収穫の初穂をお供へするのは、

「この収穫は、神樣あなたの恵みの結實として得られたものでございます。
 こんなに立派に出來ましたから御覧下さいまして、お悦び下さいませ」

といふ氣持で、神にその結實の立派さをお見せ申して
お禮を申し上げる程の氣持で獻饌するのである。

それが終戰前の”神嘗祭”の意義であつた。

         <感謝合掌 令和4年3月21日 頓首再拝>

【二十二日の箴言】 ~ 神よりも民を優先さす民主主義 - 伝統

2022/03/22 (Tue) 10:04:11


かうして日本には神祭りの日に神饌を捧げる儀式が
行はれる習慣になつていたのである。

そして人間が最初の収穫を神に感謝して食する祭日を
”神嘗祭”として國家的大祭日と定められてゐたのである。

ところが占領軍が上陸して來て信仰は自由であるが、
國家が宗教的行事に觸れるのを禁ずる指令を出して、
”國祭日”はなくなり、神嘗祭、新嘗祭の代りに
「勤勞感謝の日」といふ國民的休日が設けられることになつた。

神嘗祭、神嘗祭とも神に感謝する祭日であつたのであるが、
それに代置せられた「勤勞感謝の日」といふ神に感謝し神を讃へる
祭日ではなくなり、収穫のために勞苦した人間に感謝する意味の
休日となつたのであつて、全然違質のものとなつたのである。

民主主義といふものは、”神”が主でなく、
”民”が”主”であるから”民”にだけ感謝すれば足りるといふ譯である。

神を見失つて、自我(小我・肉體我)だけを認めることによつて、
日本人の道徳的墜落は始まつたのであつた。

         <感謝合掌 令和4年3月22日 頓首再拝>

【二十三日の箴言】 ~  宗教運動に參加する靈の組織群 - 伝統

2022/03/23 (Wed) 08:52:35


ある教祖が靈應を得て宗教的な人類救濟運動が起ると、
その運動に共鳴するところの現實界の人々がその運動に集まつて來て參加し、
能力に應じて適當なる部署につく組織が發展してくるのは當然であるけれども、

その人々の役職に應じて、特命の守護神がその人々に配属して守護したり、
指導したり、することになり、そこに靈界に於ても、その宗教それぞれに
參加する靈たちの組織群ができることになるのである。

これらの靈の組織群が人類光明化にあたることになるのである。

その靈たちのうちには「お供へ物は要らぬ」といふ程度の高級靈界の
位にある(佛教で謂へば”無色界“に属する色身(幽體及び靈體)を超越せる)
神通自在の靈もあるが、

尚、幽界に属してゐて、幽體を具へてゐて、
肉體を具備した時代の食習慣を忘れかねて、何か食べねば、
腹が減つたやうな氣がして精力減退し、”何かたべたい“と考える程度の靈も
混じつてゐるのである。

それ故にこれらの靈に對して食物を供へてあげることは、
まことに合理的であり、また必要な事であるのである。

         <感謝合掌 令和4年3月23日 頓首再拝>

【二十四日の箴言】 ~  靈魂の食する食物について - 伝統

2022/03/24 (Thu) 10:19:51


”靈”に物質的食物をお供へしてあげても、靈は肉體を持たないから、
肉體の栄養分になる成分をおあがりになることはないのである。

また悟りをひらいて、

「自己は物質にあらず肉體にあらず、幽體にも在らず、靈的実在なり」

と悟つたところの高級靈は物質的食物には關心をもたないのである。

しかしまだ充分悟りをひらかず、まだ自己を一種の幽體的存在である
といふ自覺で、食物に關心をもつ程度の靈魂は、
物質的食物を供へられれば、その食物の幽體を食するのである。

すべて「生きてゐる食物」(化學的食品ではないこと)には
人間と同じく幽體があり、まづ念の作用により幽體が發生して後、
その念の形に幽體の被覆層として”物質の體”がつくられるのである。

幽界の靈魂は果物なら果物の” 物質の體”は食しないで、
その果物の幽體(幽質と言つてもよい)を食するのである。

肉體が死して後、まだ長期間の淨化の過程を経ない靈魂には食欲が存續し、
食物の幽體を食してそこから活力を得るのである。

それ故、死後、まだ短年月の靈魂を祭祀する際には食物を供へて置いてから、
聖經を讀誦してあげるのがよいのである。

         <感謝合掌 令和4年3月24日 頓首再拝>

【二十五日の箴言】 ~ 餓鬼道に墜ちるといふこと - 伝統

2022/03/25 (Fri) 09:17:06


盂蘭盆に施餓鬼の供養をする時に、先づ食物をお供へしておいてから
讀經がはじまるのは、餓鬼の境涯にある亡霊には先づ
食物を供養する必要があるからである。

若し食物を供養しないで讀經をしても、飢餓感の切実さに
心を奪はれていて經文の意義が心に理解されないからである。

餓鬼といふ位は必ずしも、餓鬼道といふ、六道輪廻の境涯中の
一種の生活狀態に陥つてゐる者だけを謂ふのではないのである。

通俗には餓鬼道に墜ちたものは、飢餓狀態で空腹でたまらないが、
食物を供養されてそれを食しようと思つて、食べようとすると、
その食物が焔となつて燃え去つてしまふので、いつまでたつても
空腹感が癒されないないやうな靈界での境涯にあるものを謂ふのであるが、

それは死後の事であるが、現實界における人間の道徳生活に
これを當て嵌めていふならば、いくら儲かつても、いくら昇給されても、
いつまでも「足らぬ、足らぬ」といふ飢餓感に惱まされている心境にあるものを
” 餓鬼道に墜ちた亡者”だと揶揄的に謂ふのである。

         <感謝合掌 令和4年3月25日 頓首再拝>

【二十六日の箴言】 ~  肉體死後に於ける病氣の繼續 - 伝統

2022/03/26 (Sat) 09:31:58


靈魂の肉體死後、間もなくの狀態は、
現實世界の臨終の狀態のつづきの狀態を經驗するのである。

心境が急激に變ることはないからである。

靈魂が肉體を脱皮して新たなる境涯に入る過程は、
毛蟲が蛹の狀態から脱皮して翅の生へた蝶の狀態に移行する過程にも似てゐる。

それは”靈界への出産”ともいふべき狀態で、
出産の陣痛ともいふべき斷末魔の苦しみを經驗する。

(もつとも悟境に入つてゐる靈魂は無痛分娩とでもいふべき安樂の狀態で、
 意識を持續しながら靈界に移行する)

斷末魔の苦しみを伴ふ靈魂は、神の慈悲により、或る程度以上の苦痛を
免除する爲に、靈界に移行時に意識を中斷せしめられて無意識の
感覚麻酔狀態に入り、肉體を脱皮してある期間、

(人により長短があり、間もなく意識を恢復するものもあるが、
 長きは數十年にわたつて人事不省の無意識狀態)

が長きにせよ、短きにせよ、いづれにせよ、靈界に於て意識を恢復したときには、
(その人にとつては無意識中の事は心の中に存在しないのであるから)生前、
臨終の際の狀態が、記憶の世界によみがへつて來て、
癌の症狀をその幽體に繼續する狀態で苦しまなければならないのである。

         <感謝合掌 令和4年3月26日 頓首再拝>

【二十七日の箴言】 ~  臨終の苦しみは過去の業因の清算である - 伝統

2022/03/27 (Sun) 09:09:41


壽命と病氣とは別なのである。

三十年もそれ以上も病苦に惱みながら、なかなか死なぬ人もあれば、
殆ど病氣をしたこともない頑健そのもののやうな健康體でゐながら
突然死ぬ人もある。

病氣は人間を殺すのではなく、人間が死が近づくに從つて自己の生涯の業因を
ある程度清算淨化し、整理し、調整するために必要な仕事として
各人それぞれの病苦をあらはすのである。

そして病氣となるべき業因が清算し盡されたり、
眞理を悟つて「病氣本來無」の境涯に達したりして、
病氣が消え去つたのちでも、その人の地上の豫定された壽命が盡きれば、
その人の靈魂は肉體を去つて(所謂る”肉體の死”)靈界に移行するのである。

このやうな場合には「病氣が消へて」(從つて”病氣”の想念を持續せずに)
靈界に行くのであるから、その人の靈魂は靈界に於て、
その幽體に病氣を顕すことなく健康そのものの快適な靈界生活を營み、

時來れば、またその靈魂が今までとは異なる環境の地上に生れて來て、
今迄とは異なる方面の魂の能力が研かれることになるのである。

         <感謝合掌 令和4年3月27日 頓首再拝>

【二十八日の箴言】 ~ 病氣が治つて健康狀態で靈界に移行する魂 - 伝統

2022/03/28 (Mon) 10:33:18


ある喉頭結核の患者があつたが、生長の家の教へに触れ、
毎日『生命の實相』を讀み、且つ聖經『甘露の法雨』を讀んで、
「病氣本來無」の眞理を毎日々々、自己の潜在意識の中に
印象蓄積して往つたのであつた。

その結果、彼は喉頭結核をいやされたのであつた。

癒されたけれども、地上生活の死期は迫つて來たのであつた。

彼は、クリスチャンであつた。

生長の家は萬教同根共通の根本的眞理を説くのであるから、
クリスチャンはクリスチャンの儘で、
イエスの教への根本的眞理に入ればキリスト教そのものが一層深くなり、
病人は病氣が消へ、不幸は消へ幸福は來るのである。

彼は病氣が治つたけれども地上生活の壽命が終りつつあることを自覺した。

彼は朗々と讃美歌を朗誦して神をたたへ、
唱へ終ると家族及び周圍の人たちに感謝の言葉を述べて瞑目すると、
魂は靈界に移行したのであつた。

彼は重症の喉頭結核を患つてゐたので、
ふだんは、低いカスレた聞き取れない程の聲で物言ふのであつたが、
死の直前、彼が朗誦した讃美歌は、まことにハッキリした朗々たる響きを立てて
周圍の人々を驚嘆せしめたのは、既に彼が喉頭結核の治つた證據であつた。

         <感謝合掌 令和4年3月28日 頓首再拝>

【二十九日の箴言】 ~  精靈崇拜の原始人的信仰 - 伝統

2022/03/29 (Tue) 08:36:57


佐藤通次博士から大神神社發行の雑誌『大美和』の第四十四號を送つて來られた。

その中に氏の「三輪山と宗教」といふ論文がのつてゐるのである。
その中に次のやうな事が説かれてゐる。

『わたくしは宗教を定義して「人が現實を生きながら超越の境地に住すること」
 及び「人が超越の境地に住しながら現實を生きること」と言ひ現はしてゐる。』


これは常々佐藤博士が言はれている事であるが、この論文に於て
私の注目を引いたのは、氏が「原始民族のアニミズム」(animism)に
言及してゐられる點である。

アニミズムとは精靈説とか精靈崇拝とか譯されてゐるものであり、
人間にも靈魂と稱する精靈を認めるが、人間のみならず自然界の一切の存在物に
超越的な”靈異”又は”精靈”の存在を認める信仰であり、

「温帶の恵まれた土地に、人性の素直な開展に乘じて成立する健やかな宗教は、
 アニミズム的な基盤に立ち、その要素を少しも失はずに、稚(つた)ない
 宗教心の發露を、そのまま高い道義心、また眞實を深く洞察する心と
 一致せしめるのである」

と佐藤博士が言はれて、「その道義を言い表した珠玉の文字」だと稱讃して
若林彊斎著の『神道大意』から次の如き一節を引用してゐられる。

「おそれある御事なれども、神道のあらましを申し立てまつらば、
 水一つ汲むといふても、水の神靈がましますがゆゑ、あれあそこに水の神、
 ミズハメ樣が御座なされて、あだおろそかにならぬ事と思ひ、

 火ひとつ焼くというても、あれあそこに火の神カゲツチ樣が御座なさる故、
 大事の事と思ひ、

 わづかに木一本用ふるも、ククノチ様が御座なさる、草一本でも、
 カヤヌヒメ樣が御座なさるものをと、

 何につけ、かくにつけ、觸るる所まじはる所、あれあそこに在ますと、
 戴きたてまつり、崇めたてまつりて、やれ大事とおそれつつしむが神道にて、
 かういうなりが即ち常住の功夫ともなりたるものなり。」

これは神道の神髄を説いたものであるが、
釋尊成道の悟り「山川草木國土悉皆成佛」と全く同じことである。

自然界の一切の事象及び存在を”佛”のいのちの現成とみるのである。

水を”水の神”の現成であり、
火を” 火の神”の現成であり・・・・・等々と見、
それを單なる物質と見ないのである。

そこに恐懼し謹んで使はして頂くのである。このやうな恐懼畏敬禮拜の心を
もつて自然界のものを使はわして頂くならば、今、日本を始め全世界の
物質文明國がなやんでゐる工業公害の問題など起らなかつた筈である。

現在の公害の起つている原因は自然界とそこから産み出される資源を
ただの「物質」として見て自然を征服し、利用し、

今の段階で利用價値のないものは流し捨て、吹き捨てさへすれば
それでよいと考へて「拜む心」を失つて、「使ひ捨て」にした結果、
使ひ棄てられたものが反撃して復讐に出たといふ因縁因果のあらはれが
公害であり、人類の”エデンの楽園”追放なのである。

         <感謝合掌 令和4年3月29日 頓首再拝>

【三十日の箴言】 ~ 精靈信仰と大乘佛教 - 伝統

2022/03/30 (Wed) 08:27:31


山には山の神があり、野には野の神があり、川には川の神があり、
井戸には井戸の神があり、竈には竈の神があるといふ信仰は、
「山川草木國土悉皆、佛性の顕現である」といふ大乗佛教的な信仰とは
多少異なるのである。

精靈信仰は多少二元的なところがあり、
或る「物」に「精靈」が宿つてゐると信ずるのである。

しかし後者の「悉皆佛性」又は「悉有佛性」(道元禅師)の大乗佛教は
「有るもの悉く佛性そのものの現成」と解するのである。

しかし兩者は同一系統に属するもので、そのプリミティーブ(幼稚)なものが、
精靈信仰(アニミズム)であると言へる精靈信仰が一層具體化して、

人格的顕現として、降霊會又は實験場にあらはれ、肉體から分離した靈魂が
靈媒者を通してわれわれに話しかけ、或は物理的心靈現象を起して、暗室で、
空中にメガホーンが舞ひ上がつてものを言つたり、

寫眞靈媒を通して、死者の靈魂が生前の容姿を持つて寫真にあらはれ、
靈魂が肉體死後も、個別的個性ある人格としてあらはれるといふ實證を示すものが、
スピリチァリズム(神禮主義とも稱するが適譯ではない)である。

(谷口雅春著『靈界の妻は語る』『人間死んでも死なぬ』
 『生命の實相』“靈界篇”参照)

         <感謝合掌 令和4年3月30日 頓首再拝>

【三十一日の箴言】 ~ 靈媒現象に接した時の注意 - 伝統

2022/04/01 (Fri) 01:38:46


靈魂による心靈現象は、肉體死後にも各人は各々個性を持つた靈魂として存續し、
次の生まれ変りの時期が來るまで靈界で生活をつづけるといふ靈魂の個性存續の立證を
その實験で見て、靈魂不滅の信仰を高める上に必要な資料として、

その實験記録や、心靈現象實験會に接することは有用な場合もあるが、
心靈現象におぼれてしまふとその靈媒に出て來る靈魂の言ふことを無差別に
何でも彼でも信じてしまつて、大變な間違いをひきだすことになるのである。

靈媒に接する場合には、靈媒にあらはれた靈が
「如何なる階級の靈か、高級靈か、まよへる亡靈か、動物變化の靈であるか」
充分審判した上で、その靈に對應すべきである。

この靈の等級、種類等を審判する者を「審神者」といふのである。
審神者となる資格は自己に天眼通的靈能があつて、

相手の靈がどんなに變化して出現して、恰も高級靈の如く變貌して來ようとも、
天眼によつて見破り得る靈能がなければならない。

また自分自身が靈媒となつた場合には、自分自身を自己審判して、
如何なる靈がかかつて來ているかを知つて、徒に”天地創造の神”だと
その靈が自稱しても、そんな事を信じてはならないのである。


創造の神は勿論高級の靈は滅多に、そこらあたりにゐる一般の汚れた心の
普通人にかかつてくるものではないのに、普通人ほど”高慢な心”を
持つてゐるために、”創造神”だとか”何がしの命”などと自稱して
出て來るとすぐ、

それを本當かと思ひ上がり狐狗狸蛇蟇等の變化の靈に翻弄されてゐながら
それを自ら知らないで有頂天になつたり、自稱教祖になつたりするのである。


「七つの燈臺の點燈者の神示」に”本當の神は霊媒に罹らぬ”と
訓示されてゐる絛(くだり)に留意しておくべきである。


佐藤通次博士は
「内在の位に立つ神と、超越の位に立つ神との合一するところの自覺」が
本當の宗教の本質であるといふことを言つてゐられることは既に述べたが、

其の「内在の神」を、靈媒現象に出て來て宇宙神だとか何某の神だとか
自稱する神の事だと考へると、とんでもない間違を犯すことになるのである。

また自然物の奥にその”精靈”と稱する”超越内在的な神”を拜する
アニミズムの信仰は、必ずしも 靈媒現象に於ける”個別亡霊”の言葉を
悉く信ずる淫祠邪教とは一致しないのである。


ヨーロッパ中世の宗教暗黒時代には靈媒現象を起す巫女を
悪鬼に憑かれたる”汚れたる者”として、
キリスト教牧師がそれを處刑して殺すことが
キリストに忠誠だと信じられて合法的に行はれのであつた。

これらは靈媒現象の何たるかを知らない心靈学的迷妄時代の出來事である。

霊媒は一種の靈的ラジオセットのやうなものであり、
靈媒自身の心境の變化にしたがつてラジオセットの受信周波數が變つて來て
時には低級動物靈の惡戯放送による下らない”靈界通信”もあるのである。

 
私は或る宗教の教祖の靈媒的自動書記によるお筆先の神示を
その全冊に渡つて調査したことがあるが、

本當に神ならではこんな眞理を書かれないと思はれる深い意味を持つ神示もあれば、
その反対に詰らない豫言の適中しないのに、毎年老ひの繰り言のやうに
臆面もなく書き綴つた部分もあるのを發見したのであつた。


靈媒の豫言は時として驚くほど適中することもあるが、全部信じて、實行するならば、
その一つでも間違つた場合に取返しのつかない結果を招くことがあるから
靈媒の豫言を全部信ずる位ならば、全部信じない方が優(ま)しなのである。

(註。古事記の仲哀天皇の項に審神者(さには)の語源が見られる。
 「天皇(すめらみこと)、筑紫の阿志比宮に坐(ま)して、
 熊曾國を撃(ことむ)けたまはんとせし時に、天皇、御琴(みこと)を控かして、
 建内宿禰の大臣、沙庭に居て、神の命(みこと)を請ひまつくりき。
 是(ここ)に大后(おおさき)、歸神(かむかかり)して・・・・・云々」とある。

 “歸神”と書いて「かんがかり」と讀むのであるが、
 大后即ち神功皇后さまが靈媒狀態におなりになり、
 天皇さまは靈を招びむかへるために皇后さまの精神を統一すべく一弦琴をお彈きになる。

 この場合、靈媒は神が憑りてくる”主”になるので、”神主”といふのである。

 皇后さまが神主(靈媒)になられるので、上段の間に坐したまひ、
 その神と問答する建内宿禰は臣下であるから、一段と下座して沙庭即ち
 “沙の庭”にすわつて、神主に憑つてくる神と問答する役を仰せつかつてゐる。

 神と問答する役即ち審神者(しんしんしゃ)の事を
 “沙庭”と呼ぶやうになつたのは、このやうな故事による。)

         <感謝合掌 令和4年3月31日 頓首再拝>  

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