伝統板・第二

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ひかりの一日一言84~ふりそそぐ愛の光・実相と現象 - 伝統

2022/03/01 (Tue) 03:35:36

真理第1巻入門篇 第11章12章(P170~192<8+4項>)から
の謹写です。


各項目については、「ひかりの一日一言」としては、
長文となるものがありますので、小項目に分けての紹介になります。

結果的に、31日分の構成を目指します。




ひかりの一日一言《1日》

《1日 愛は与えればかえって来る①》

この世界には愛が満ち充ちているのである。

野にも山にもお空にもお土にも日光が輝いているのではありませんか。

これが神様の愛のあらわれなのであります。

自分の造ったことのない日光、空気、水、着物の材料、木材、
手にふれるもの、見えるもの、食べるもの、
ことごとく人間以外の不思議な力で与えられたのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P170)より

       <感謝合掌 令和4年3月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2022/03/02 (Wed) 04:55:32


《2日 愛は与えればかえって来る②》

この不思議な力は天地のあいだに何処にでも満ち充ちていまして、
吾々に必要なものを与えて下さっているのであります。

この眼にみえぬ不思議な力が、神さまの愛であります。

もし、私たちが、このように頼みもしないのに、
神さまの愛につつまれ、色々のものを与えられているとしますと、
私たちもまた神様のように人々に愛を与えて行かなければ
申し訳がないことがあります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P170~171)より

       <感謝合掌 令和4年3月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2022/03/03 (Thu) 04:37:41


《3日 愛は与えればかえって来る③》

愛は円環であります。
与えればまた自分に還って来るのであります。

「私は誰からも愛されて幸福だ」と云うような人は、
屹度人々に対して愛を持ち、人に深切を尽す人に相違ないのであります。

「私は人に愛されないから詰らない」と云うひとは屹度、
自分が人に対して深切でなく、人を愛しない人であります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P171)より

       <感謝合掌 令和4年3月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2022/03/04 (Fri) 06:55:29


《4日 愛は与えればかえって来る④》

人を愛する人には、人々の顔が
常に自分に微笑をたたえて祝福してくれているように見えます。
(祝福してくれると云うのは、
幸福であれと呼びかけていてくれると云うことです。)

自然を愛する人には
自然が優しく自分に話しかけてくれるように感じられ、
自然が愛の微笑を自分に送ってくれるように感じられるものなのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P171)より

       <感謝合掌 令和4年3月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2022/03/05 (Sat) 07:56:53


《5日 悪い人間はひとりもいない①》

すべてのものは神の生命(いのち)のあらわれ、
神の智慧のあらわれ、神の愛のあらわれでありますから、

私たちが心を清くして、まともに、その本当のすがた
(この本当の《すがた》を「実相」と云います)を見ましたならば、
悪いものは一つもなく、悪い人もひとりもなく、
意地の悪いひとも一人もないのであります。

それが不完全な悪い相(すがた)に見えるのは、
こちらの心のレンズが歪んでいるからであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P171~172)より

       <感謝合掌 令和4年3月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2022/03/06 (Sun) 01:40:51


《6日 悪い人間はひとりもいない②》

安物のガラス窓からのぞいて見ると、
人間の顔が歪んだり、景色や花がゆがんで見えます。

しかし本当の人間は歪んでいるのではありません。
これはガラスが歪んでいるからであります。

それと同じく、こちらの歪んだ心からながめて見ると、
神様のおつくりになった深切な人間も歪んで見えるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P172)より

       <感謝合掌 令和4年3月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2022/03/07 (Mon) 03:41:20


《7日 悪い人間はひとりもいない③》

本当は不深切な人間や、意地悪の人間などは
神様がお造りにならないから、そんな人間はひとりも
此の世の中にはいないのであります。

すべての人間はあなたに対して好意をもっており、
あなたに対して「幸福であれ」「成功せよ」「仲好くしましょう」と
呼びかけているのであります。

先ず、あなた自身が心の中で、すべての人に対して
「幸福であれ」「成功せよ」「仲好くしましょう」と
心の中で呼びかけて御覧なさい。

屹度、それと同じことを云っているような顔をして、
貴方に対して深切にしてくれるでしょう。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P172)より

       <感謝合掌 令和4年3月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2022/03/08 (Tue) 08:05:12


《8日 貧乏もなく病気もない①》

神様のお造りになった実際の世界には
意地悪や、不深切な人間が《ない》ばかりではなく、
更に、貧乏もなければケチな人間も《ない》のであります。

貧乏や不深切や病気などは、
神の無限の愛、無限の智慧につくられた世界にはどう考えて見ても、
ありようがないのであります。

それなのに、そうあらわれてみえるのは人間が勝手に、
利己主義の心で、働きの出し惜みをしたり、深切の出しおしみをしたり、
循環さすべきものを循環させないでいたりするからであって、
働きがないのではなく、深切がないのではなく、

無限の富がないのではなく、
ただ自分の心の歪みでそれを隠しているに過ぎないのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P173)より

       <感謝合掌 令和4年3月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2022/03/09 (Wed) 06:12:24


《9日 貧乏もなく病気もない②》

この自分の心の歪みを、すべての人類が取り去ってしまいましたら、
必ずや、其処に無限の供給が満ちあふれており、
すべての人が深切に扶け合っている幸福な世界の実相(じっそう)が
あらわれて来るのであります。

皆さん、心の歪みを取去りましょう。
先ず自分から、人に深切をして見ましょう。

働きの出し惜みなどしないで、出来るだけ、
人のためになる働きを、心掛けてやりましょう。

お金や賃金のために働くなどと云うケチな考えを捨てましょう。
「人のために働くのが菩薩行だ」と云う尊い考えで、
尊い人間の働きをこの世界に加えて行きましょう。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P173~174)より

       <感謝合掌 令和4年3月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2022/03/10 (Thu) 09:31:23


《10日 神さまは与え切りです》

神様は利己主義ではないのです。
神様はすべてのものを造って私たちに与えたまい、
一銭一厘の賃金をも要求してはいられないのです。

「神様の造りたまうた世界には貧乏も病気もない」と云う
実相を見ようと思ったならば、私たちの心が、神様のような、
利己主義でない心にならなければなりません。

神様のような与え切りの心にならなければなりません。
自分の肉体を賃金で切り売りするようなサモシイ心を捨てて、
人類全体を富ますために無条件で働くような心にならねばなりません。

ケチな心、サモしい心、利己主義の心などは、
神様の造りたまうた完全な世界の上に、迷いの雲をかけて、
お月様を雲で曇らせるように、
その本当の完全な相(すがた)を蔽い隠してしまうのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P174~175)より

       <感謝合掌 令和4年3月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2022/03/11 (Fri) 06:23:19


《11日 互に他(ひと)の為をはかれ①》

自分の得になると云う事を先に考えて物事をするようでは、
人間は幸福にはなれません。人類に幸福は出て来ません。

そのような利己的考えを先ず捨てること、
他(た)の人が幸福になるようにと、すべての人が自分の得をアトにして、
他(た)の人の幸福を図ってあげるようにしたとき、

人間の心が、神様の心の波長と一致するようになり、
人間全体に幸福な世界が生れて来るようになるのです。

そして全ての人間が他(ひと)の為に、他(ひと)の為にと働きますから
自然に生産がふえて来て、貧乏もなくなってしまうのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P175)より

       <感謝合掌 令和4年3月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2022/03/12 (Sat) 07:18:44


《12日 互に他(ひと)の為をはかれ②》

自分の快楽を追いもとむれば却って快さも楽しさも逃げてしまいます。
これは今迄多くの人類が実験して来たところであって
決して間違いはないのであります。

多くの人は自分の幸福、自分の快楽を追っかけまわした結果、
とうとう抜き挿しならぬ羽目に陥っています。

自分の妻以外に、妾(めかけ)をこしらえたら、さぞや幸福になり、
快楽が得られると思って、さてそれを実行して見ますと、
直ちに家庭は地獄になってしまいます。

自分も妻も、もう一人の女も、心の中の苦しみは
到底言葉で尽しようのないような苦しいものとなってくるのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P175~176)より

       <感謝合掌 令和4年3月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2022/03/13 (Sun) 06:27:46

《13日 互に他(ひと)の為をはかれ③》

相場で金(かね)を儲けたら、競争で金(かね)を儲けたら、
パ〇ンコで沢山点数をとったら、さぞ愉快であろうと思いながら、
さて金が儲かって見ると、またそれだけでは足りなくなり、
金(かね)に対する渇きは益々殖えるばかりです。

ちょうどそれは、咽喉(のど)の渇きを癒やすために、
塩水(しおみず)を飲むのにも似ています。
飲めば飲むほど咽喉(のど)は益々乾くのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P176)より

       <感謝合掌 令和4年3月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2022/03/14 (Mon) 06:10:04


《14日 互に他(ひと)の為をはかれ④》

そうして儲かれば儲かるほど欲がふかくなり、
人が自分より余計儲けたら自分は損をしたような気持になりあせります。

そしてもっと儲けなければと、愈々あせる結果、
どんなに運よく今まで儲かっていましても、多くの回数のうちには
一ぺんや二へんは見当ちがいをして損をします。

その損が今まで儲けたよりも、幾層倍大きな損となって来ます。
波乱万丈、昨日の王者のような富が
今日は地獄のような貧乏の苦しみにさいなまれるのです。

我欲とはこんなものです。
得をしようと思えば却って損をします。

ひとの為に、ひとのためにと一所懸命、自分をささげていましたら
却って自分が栄えるようになるのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P176~177)より

       <感謝合掌 令和4年3月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2022/03/15 (Tue) 06:28:25

《15日 明るい快い心持ちにおなりなさい①》

「笑う門に福来る」「泣き面に蜂」と云う諺(ことわざ)がありますが、
多くの人たちは、「不幸が来る」と思って
ニガ虫をかみつぶしたような顔をしているために、

折角、あなたの友達となり、力となってあげようと思って来ている人を
追い出してしまっていながら、それに気がつかないのです。

習慣的ににがい顔や、その人に会うと気持の悪い顔などをしているために、
折角の力になってくれる筈の人が遠ざかってしまうのであります。

誰でも暗い不快な気持よりは明るい気持の方が好きですから、
力になる友だちや協力者を得るためには、あなた自身が先ず、
「明るい快い気持」の顔をしていなければなりません。


        *「眞理」第1巻入門篇第11章(P177)より

       <感謝合掌 令和4年3月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2022/03/16 (Wed) 06:57:40

《16日 明るい快い心持ちにおなりなさい②》

その「明るい快い気持」になるためには
「既に自分は幸福だ」「既に自分は金持だ」
と思わねばなりません。

すなわち、今あらわれている相(すがた=これを現象の相)はどうあろうとも、
それは今までの自分や周囲の人々の心のヴェールをかけて見たすがたであって、
実の相(すがた=実相)は「既に自分は幸福だ」と思い、信じ、

そのつもりで、笑顔をし、感謝報恩のつもりで、人のために尽していますと、
実相(じっそう)の完全な相(すがた)があらわれて来るようになる
のであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第11章(P177~178)より

       <感謝合掌 令和4年3月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2022/03/17 (Thu) 06:21:40


《17日 明るい心で恩返しに何かさせていただきましょう①》

だから、実相の円満完全な有様を常に見つめている者は
徹底的に楽天主義になるのであります。

楽天主義とは、厭世主義とは全然反対であって、
どこどこまでも此の世を楽しいとする主義であります。

こんな楽天主義の人ばかりが此の世の中に住んでいますと、
世界は自然に平和になるのであります。

今世界が二つにわかれて、いつ戦争が起るかわからないような
危険な状態になっていますのは、互に「何か悪いことが起るにちがいない」
と思って、相手をうたがっているからであります。

「既に皆は幸福だ」と思わないからであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第11章(P178)より

       <感謝合掌 令和4年3月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2022/03/18 (Fri) 07:49:43


《18日 明るい心で恩返しに何かさせていただきましょう②》

若し世界の人々が人間の実相(じっそう)が神の子であって
決して他(ひと)を侵略などするものはいないと、
今信じることが出来ましたならば、

今、この世界に平和が来まして、武器をつくる必要もなくなりますし、
重い税金をかけられることもなくなるのであります。

全世界の人がそうなるのを待っていても仕方がありません。
先ずあなたひとりから明るい心になることです。

「自分は幸福です」と思って、
幸福の微笑(びしょう)を人々に投げかけることです。

「私に出来ることなら何かさせて下さい。私がは恩がえしがしたいのです」と
明るい気持で人々に深切をしてあげることです。

其処から、明るい、何か暖かいものが、あなたの心から流れて出、
周囲の人々の心を《なごやかな》、平和な、楽しいものに
ならせることになるのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第11章(P178~179)より

       <感謝合掌 令和4年3月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2022/03/19 (Sat) 07:54:49


《19日 明るい心が幸福のもと①》

キリストは「光のあるうちに光の中を歩め」と云いました。
キリスト教の神様は光の神様、明るい神様です。

仏教ではアミダ様と云います。
これを支那の道綽(どうしゃく)禅師と云うお坊様が
尽十方無礙光如来と翻訳なさいました。

あらゆる方角、どこもかしこも尽(ことごと)く、
どんな障害物も礙(さまた)げることが出来ない
光の如来さまと云う意味であります。

やはり仏さまは明るい光ですね。
真言宗では大日如来と云います。

日本では天照大御神と申しまして、
宇宙全体を照らす光の神様と云うことになっております。

兎も角、どの宗教でも、神様は「光」に
たとえられている位に明るいのでありますから、
その神様の眼に見えないお助けを頂こうと思いましたら、
それと同じ心の波長、すなわち明るい心を起さなければ
ならないのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第11章(P179~180)より

       <感謝合掌 令和4年3月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2022/03/20 (Sun) 07:50:22


《20日 明るい心が幸福のもと②》

明るい心を起しなさい。
暗いところにはじめじめした苔(こけ)かバイキンか
黴(かび)のようなものしか生(は)えないのであります。

明るい心になりなさい。
南を受けた暖かい土地には立派な樹木が育ちます。
それは明るいからです。

皆さんも既に幸福なのだと云うことを信じて、
幸福の明るい心の波を起しなさい。

すると、「既に幸福なる」実相の完全な豊かな姿があらわれて、
現実にも幸福に健康に豊かになるのであります。

もう其処には不幸も病気も貧乏もないのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第11章(P180)より

「眞理」第1巻入門篇第11章「ふりそそぐ愛の光」の
紹介を終えます。

       <感謝合掌 令和4年3月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2022/03/21 (Mon) 06:57:43

ここからは、「眞理」第1巻入門篇第12章「実相と現象」からの紹介です。

《21日 人間の本当のすがた①》

お月さんが三日月に出ていても、あの本当の姿はまん円(まる)いのだ、
斯う見るのが実相を見る見方です。

ところが、大抵の人は現れに捉われて三日月のお月さんが出たら
鋭い三日月がお月さんだと思うのですね。

そう思うからそれがいけないのです。
そう思うから本当に又鋭い状態が何時までも続くのです。

三界は唯心の所現で、
此方(こちら)の思う通りに形に現れて来ると云うので、
自分が円満な心を起せば相手が円満に現れて来るのです。

相手は丁度鏡である。

人が鋭く出て来たらあれは私が鋭いのだ。
斯(こ)う想えばそれでいいのです。

出てくるものがみんな自分の心の鏡で有難いのですね。

自分の心の鏡があるので化粧が出来るのですね。
顔に墨が付いているのが鏡に映って分るのと同じように、
こころに墨が付いているのが相手に映って分るのが、
われわれの周囲にあらわれる人々の姿です。

「有難い!」斯う思って
相手のどんな姿でも拝むようにしなければならないのです。

そして「有難い」と思って鏡を見たら、
実に有難そうな自分の顔が鏡に映(うつ)る。

「何、憎い奴めが」と思って見たら憎い奴が鏡に映る。

他(た)の人の顔かと思ったら自分の心の顔ですね。

        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P181~182)より


       <感謝合掌 令和4年3月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2022/03/22 (Tue) 06:33:04


《22日 人間の本当のすがた②》

そう云う風に、相手の姿は、こちらの心の鏡ですから、
吾々は心を円満にして、人間と云うものは皆、神の子で、
悪い者は一人もないのだ。

罪人はないのだ。

悩みもないのであって其のまま完全である。

悪があると云うように見えるのは、それはある
と思っている間だけあるのであって、
其の間(あいだ)だけそうなるのだと知らねばなりません。

「幽霊の正体見たり枯尾花」と云う俳句のように、
本当に幽霊かと思っている間は如何にも幽霊ですが、
気が付いて後(あと)になって見たら枯尾花であったと分るのですね。

「あいつは悪い奴じゃ」と思うのは、薄(すすき)の穂(ほ)を夕方に見て
幽霊と思いちがえるのと同じです。

本当の相(すがた)すなわち実相(じっそう)がわかると、
悪い人などは一人もない。

みんな神様がつくられた善い人ばかりです。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P182~183)より

       <感謝合掌 令和4年3月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2022/03/23 (Wed) 06:41:25


《23日 心の中の石を除けば「実相」の完全さがあらわれる①》

『生命の實相』の第16巻に
維摩経と云う聖徳太子が講義をなさった三つのすぐれた御経の中の一つを
分り易く芝居の脚本に書き直したのが載っていますが、

その第一幕に、お釈迦さんが足をもって石を除いた。

そうするとそこから光線が射して来、今まで醜い色の世界であったが、
とても美しい色の世界に変ってしまった。

即ち、実相の美しい世界が現れて来たことが書かれているのであります。

吾々は此の「石を除く」 ―― 心の中の石を除くということが大切なのです。

『維摩経』にそう云うことが書いてあるのです。

釈迦が足を上げて石を除いたということは、
心の世界にあるところの石を除いた時に、
初めて吾々の住む世界が平らになる、平等なる世界になるのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P183)より


       <感謝合掌 令和4年3月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2022/03/24 (Thu) 06:58:19


《24日 心の中の石を除けば「実相」の完全さがあらわれる②》

維摩経には此の道理を象徴的に書いてあるのであります。
象徴と云うのは形に見えない真理を形の「たとえ」であらわしたのです。

その場面で、寶積(ほうしゃく)という金持が、

「中々立派なお庭でございます。
 流石(さすが)は仏さんのいらっしゃるところの此のお庭は実に美しいですね」

というふうに讃嘆しましたら、

「なんの、なんの、洵(まこと)にむさ苦しいところでございます」と
斯ういう風に舎利弗が答えたのであります。

舎利弗は智慧第一と云われて居る弟子ですけれども、
人間の五官で見る智慧で、寶積から見たら立派に見えておったところの
其の庭を、実相そのままに立派に見ることが出来ないで、
汚(きたな)い荊棘(いばら)の生(お)い繁っている庭だと見たのであります。

五官で感じられる不完全な有様に心を奪われて
実相の完全な姿を見のがしてはならないのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P183~184)より


       <感謝合掌 令和4年3月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2022/03/25 (Fri) 06:36:18


《25日 心の中の石を除けば「実相」の完全さがあらわれる③》

そうしたら天から螺髻(らけい)梵王(ぼんのう)の声で、

「仏様の世界はどこもかしこも浄土であって、不浄の世界などはない」
と厳(おごそ)かに聞えて来たのであります。

是は例えば娘さんがお嫁に往ったと致しますと、
こんな荊棘(いばら)の世界みたいな結婚先で、
姑、小姑鬼千匹などというのが沢山並んでいる、

とても助からない、まことに荊棘の生(お)い茂った
むさくるしい世界だと思うかも知れない。

これは自分の心の中の石を除かず、自分の心の角(かど)を周囲の鏡に映して、
此の世界は荊棘(いばら)生(お)い繁っている世界であり、
姑、小姑は、鬼みたいに自分をいじめる姿だと見ているのでありまして、
本当は、この世界は神のつくりたもうた完全な世界であります。

仏教的に云いますれば、
仏さんの威神力(いじんりき)で荘厳(しょうごん)されている
此の世界はどこもかしこも浄土であって不浄の世界はどこにもない。

舅も、姑も、小姑も、みな観音様のあらわれ、お地蔵さんのあらわれ、
或は普賢菩薩のあらわれと云うように、やさしいやさしい仏さんの
あらわれでいらっしゃって、そしてみんなを、どうかして
尚一層よくして上(あ)げようと思っていらっしゃるのですけれども、

その善くして上(あ)げようと思っていらっしゃることが、
こちらの心が歪んで見るから、
「私の悪ばかり探して私をいじめようと思っている」などと思って、
自分で苦しんで、此の世界を荊棘の世界に見てしまうのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P184~185)より


       <感謝合掌 令和4年3月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2022/03/26 (Sat) 06:53:06


《26日 心の中の石を除けば「実相」の完全さがあらわれる④》

会社や工場につとめましても、お嫁においでになりましても、
自分より年上の人は自分より余計経験を積んでいらっしゃいますから、
だからその眼をもって見ればこちらはまだ足らないところが沢山あるのであって、
ここを斯うせよと言われることは、きっとあるに違いないのです。

その足らないところを指摘されて、言われるのはまだこちらが足らないから、
其処を、もう少しよくして上げたいと思って、
慈悲の心をもってそういってくださる。

これを仏さんと見ないで、

「吾々を憎んで『《あら》探し』をして、
 一々細かいことまで、足の上げ下ろしまで干渉するのだ。
 本当に此の世界は地獄の世界だ。人間はみな鬼千匹だ」

と思うのは、自分の心の眼が開いていないから
そういう風に見えるのであります。

心の眼を開いて見たならば、そして心の石を除いて見たならば、
そこから真理の光線がぱっと射(さ)し来って、荊棘(いばら)生い茂って
醜きもの充満していると見え、岩石突兀(とつこつ)としていた世界が、
素晴らしく美しい楽園に変ってしまうのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P185~186)より

       <感謝合掌 令和4年3月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2022/03/27 (Sun) 07:47:57


《27日 心の中の石を除けば「実相」の完全さがあらわれる⑤》

そういう風に此の世界は、
心の眼の開き方ひとつでいいようにあらわれて来るのですけれども、
心が色眼鏡をかけて見ると、そうすると折角いいものが悪く見える。

嘗て私の娘が女学校にいた頃のこと、学校の友達が遊びに来て、
お庭を見て「谷口さんのところのお庭はとてもいい」と云うのです。

「何処(どこ)が好(い)いのですか」と問うと、

「雑草が生い繁っているからとてもいい、
 私の家のお庭などはまん円(まる)くみんな拵(こしら)えて、
 そして綺麗にしてしまってあって少しも野趣がないから、
 そこで本当に谷口さんのところに来たらまるで山へでも
 来たような気持がして、はればれとした」

と言って喜んでおったこともありましたが、
そういう風に雑草が生(お)い繁っていてさえも、
心の見方に依って、いい庭なのであります。

一木一草にも、こちらの心がひらけば
仏の生命(いのち)の完全なあらわれなのであります。

これをお釈迦さんは「山川、草木、国土、悉皆成仏」と
申されたのであります。

ものが悪く見えるのは心が偏った見方をしているからで、
あらゆるものを平等の心で見ないで、お庭は斯うでなければならぬ
という或る一つの立場から見るからであります。

「雑草はきたない」と云う立場に立つと、
こんな雑草の生い繁っているこんな汚いお庭は駄目だと、
折角の野趣にみちた大自然のようなお庭の美しさもわからないのです。

ですからすべてのものを偏らずに平等の心をもって見る
ということが必要であります。

平等の心は素直な心です。
そのまま平等な心、素直な心、「楝擇(けんじゃく)せぬ心」になって、
何でも、そのもの又は其の美点をそのまま受ける気持になったときに、
どんな荊棘(いばら)のような嫌な姿もなくなって、
本当に浄(きよ)らかな美しい世の中があらわれて来るのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P186~187)より

       <感謝合掌 令和4年3月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2022/03/28 (Mon) 06:44:08


《28日 花王石鹸の山崎高晴氏のこと①》

花王石鹸の副社長だった山崎高晴さんは
戦後亡くなられたそうですが惜しい人でした。

この方はクリスチャンでこの神戸の関西学院におられたことがあり、
それから又同志社へもお出でになってそうして基督教に熱心だった。

しかしどうしても基督教では満足出来なかった。
日本的な宗教が欲しいという気がしておられたのであります。

それから諸方に仏教を漁(あさ)ってお歩きになったが、
それでも満足出来なかった。

或る日のこと、南天棒という偉い禅宗の坊さんのところへ
道を求めてお出でになった。

すると南天棒老師が小僧さんに命じて、
「まあ、茶をお飲みなさい」と、お茶をいれてくれるのです。

遠慮していると、「遠慮は要らぬ、さあお飲みなさい」と、いうから、
仕方がなしに、飲んだ。

復(また)つぐ、復(また)飲む、復つぐ、
飲んだらつぐ、飲んだらつぐ。
到頭、咽喉の辺までお茶が一杯になってしまった。
それなのに又お茶をつぐのです。

山崎さんが「もうお茶が一杯でもう飲めません」と云ったら、
南天棒老師はすうとお立ちになって奥座敷に行ってしまって
いくら待っていても老師は顔を見せなかった。

一体どういうわけかわけがわからぬ。よくよく考えて見ると、

「お前は色々智慧学問を詰め込んで咽喉まで一パイになっておる。
 この上いくら話したって入らないよ」

ということを形に示して教えられたのだということに気がついた
という話をしておられました。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P188~189)より

       <感謝合掌 令和4年3月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2022/03/29 (Tue) 06:28:27


《29日 花王石鹸の山崎高晴氏のこと②》

どうも真理と云うものは先入観念を積んで置いて、
その立場の上に立っていたら理解することはできないのです。

自分の考えを咽喉(のど)まで一杯入れているその立場を捨てていないから、
そこでいくら説いて貰っても、光は充ち満ちておっても、
古い考えの酒に酔って目が舞(ま)っているから
それがわからないということになるのです。

そこで生長の家では、すべて自分の立場を捨ててしまえ
というのが教えの根本になっているのであって、

「天地一切のものと和解せよ」と云うのも、自分の立場を捨てた時に、
はじめて天地一切のものと和解出来るのであって、
自由自在になれるのであります。

何でも或る立場に立っていると、立場とか形に左右せられてしまって、
どうしても自由を失うのであります。

こう振向いた時に有利であると思っても
その足場が狭いのが邪魔になって振向けなくなる。

そこで自分の立場とか足場とかいうものを捨ててしまって、
何(な)にもなくなったとき、即ち「空中遊歩の真人」と云うように
自由自在になれるのです。

その時にはじめて我々は本当の自由を得て、そこに神の子の実相が現れて、
不完全も不自由も、一切の悪いものも殲滅して、
好(よ)いものばかりが現れて来るのであります。

すべて世の中の争いとか怨みとかいうものが起るのは、
こう云うように、姑は姑の立場をもち、嫁は嫁の立場を持って
それを放さないというようなことから起るのであります。

この立場を捨てることを「出家」と云うのでありまして、
「出家」と云うのは決して頭を円(まる)めたり、
墨染の衣を着たりすることではありません。

自分が今まで生活していた立場から出てしまうことであります。
そうでないと本当の真理がわからないから
お釈迦さまも出家せられたのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P189~190)より

       <感謝合掌 令和4年3月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2022/03/30 (Wed) 06:55:32


《30日 何故、大抵の医者は生長の家に反対するか①》

さて、生長の家は従来、医者から嫉妬の目で見られていましたが、
医者に対して、生長の家の医学説を唱えたならば
反対なさるということは、別に不思議なことはないのであります。

第一それは、
医者と云う自分の職業の立場に立っていられるからであります。

私は医者であってそれで飯を食っているのだ。
それで飯を食っているのに、その医学説を根底から
覆(くつが)えすようなことを説かれたら、
自分たちの生活を覆(くつが)えしてしまうことになる。

だからそれを正直に承認することに抵抗を感ずる。
そこで大抵のお医者さんが、宗教で病気が治ることに反対する。

併し名医の方たちは患者に対して単に薬を処方するだけでなしに、
病中の心の持方をも教えて下さることを思うと、
やはり心で治るということも認めておられるのだろうと思うのです。

それを認めておられるけれども、
それを明(あから)さまに医者として発表する立場にいないのです。

それは、

「自分は医者であるからどうしても手術と薬剤とで治す
 という立場に立っていなければ、自分の在来の学的勉強が無駄になるし、
 自分の生活を擁護して行くことが出来ない」

という立場から離れることが出来ないのです。

しかし此の立場をはなれて自由自在になれた人のみ
自由自在になれるのでありまして、

或る時は、薬剤を使う、或る時は手術もする、
或る時は薬剤も手術もしないで、
唯、言葉だけで治すことが出来るのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P190~191)より

       <感謝合掌 令和4年3月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2022/03/31 (Thu) 07:13:07


《31日 何故、大抵の医者は生長の家に反対するか②》

けれども、そこまでになるのは余程心境が高くならねばならぬのです。
今まで使っておったものを一度はすべて捨てなければならぬのです。

そして「空手にして郷に帰る」と
道元禅師の云われたように自由自在になれるのであります。

何によらず執着というものがあると、
暗(やみ)の国までも引きずられて行きます。

『古事記』に書いてありますが、伊邪那美命が夜見国に往かれたら、
その迷いの国へ伊邪那岐命が追っかけて往かれたところが、
光の神様であるべき人間が、兎(と)もすれば迷いの執着というもので、
暗の国に引きずられて行くことの譬えであります。

自分の生活権を擁護しなければならぬというような立場のお医者さんに、
今の医学を捨てなさいという事は恐らく駄目であろうと思うのです。

そこで若しそういうお医者さんに真理を説いておあげになりたい
と思われる方は在来の医学や医術を排斥したり攻撃するようなことなく、
メニンジャー博士著『おのれに背くもの』のような医学者で
精神方面の研究をしている科学者の本でも貸してあげて
読ませてあげるのがよいと思います。

医者一人を精神によって病いを治す本当の医者にしてあげることは、
多勢の人を救うもとになるのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第12章(P191~192)より

以上で、「眞理」第1巻入門篇第12章の紹介を終えます。

       <感謝合掌 令和4年3月31日 頓首再拝>

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