伝統板・第二
光を灯す④ - 伝統
2022/01/09 (Sun) 02:35:59
論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より
他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。
それぞれにはまた別の立場があるからである。
相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入(い)るものではない。
相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、
われわれはただ正しい真理を説き、所信を実行すればよい。
ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。
これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。
暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として
天日(てんじつ)をくらますようになるのである。
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「光を灯す①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6649683
(2)伝統板・第二「光を灯す②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7166594
(3)伝統板・第二「光を灯す③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7972401
・・・
<参照>
伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
精神論で、もめない(2021/12/30)
https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8238335
<感謝合掌 令和4年1月9日 頓首再拝>
眼の光が澄むようになる - 伝統
2022/01/14 (Fri) 05:03:10
*「光明道中記」(1月14日《微笑を楽しむ日》)より
【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
(『生命の實相』第一巻)】
優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。
赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。
眼の光が澄むようにならなければ、その人はまだ本物ではないのである。
澄んだ中にも色々の光がある。
その光が色々の内容を語っている。
智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、
慈愛に輝いている眼、みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。
争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。
世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。
やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。
人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。
<感謝合掌 令和4年1月14日 頓首再拝>
光への道 - 伝統
2022/01/17 (Mon) 04:49:59
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より
世俗のことに心を捉われず、
世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。
外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。
光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。
虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。
<感謝合掌 令和4年1月17日 頓首再拝>
光明を見よ - 伝統
2022/02/09 (Wed) 04:58:04
*「光明道中記」(2月9日《陰を見ぬ日》)より
【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。
(『生命の實相』十一巻)】
現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。
現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。
人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。
太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。
心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。
子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。
<感謝合掌 令和4年2月9日 頓首再拝>
《唯光明のみを想念し光明のみを語れ》 - 伝統
2022/02/20 (Sun) 04:19:12
*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P304~305)より
あなたの心に暗黒なる想念を以て影を投ずること勿れ。
光明の想念をもって、神の投じたまう光に対して協調せよ。
神の光はあらわれて天国浄土を実現するであろう。
あなたの心に暗黒なる想念が消える程度に従って、
あなたの天国浄土の光明は愈々益々明らかになるのである。
天国浄土の光は時として外からの導きとなってあらわれ、
時には内からの直覚となり、詩想となり、発明的考案となり、
新しき事業の構想となり、貧乏は駆逐され、病気は癒え、
人生のありと凡ゆる悦びは実現するのである。
あなたが、自己に宿る「真(しん)の自分」が神の子であり
大生命と常に一体であることを自覚する程度に従って、
そして貴方が、善きことのみ、明るき事のみ語る程度に従って、
あなたの身辺にあらわれる浄土は愈々ハッキリして来るのである。
<感謝合掌 令和4年2月20日 頓首再拝>
吾々の内部には「光」が宿っている、われみずからを「光」であると観ぜよ。 - 伝統
2022/02/26 (Sat) 04:55:29
*「光明道中記」(2月26日《常に微笑する日》)より
【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
(『生命の實相』第十六巻)】
これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。
キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。
このことをキリストは
「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。
吾々の内部には「光」が宿っている。
吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。
われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。
常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。
<感謝合掌 令和4年2月26日 頓首再拝>
倒れた其の瞬間に光を見よ - 伝統
2022/02/28 (Mon) 05:03:51
*「光明道中記」(2月28日《金剛不壊の日》)より
【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】
倒れた其の瞬間に光を見よ。
どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。
不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、
倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とは
その魂の深さに於て、その体験の深さに於いて、相違するものである。
人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。
倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。
風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。
熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。
<感謝合掌 令和4年2月28日 頓首再拝>
眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統
2022/03/09 (Wed) 06:20:58
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より
これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。
ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。
眼をひらけば、そこはすでに天国である。
<感謝合掌 令和4年3月9日 頓首再拝>
あなたは燦然と輝く光です! - 伝統
2022/06/09 (Thu) 06:40:59
あなたは、きらめく輝く光/あなたは燦然と輝く光です!
kokoro century2(2022/06/06)
https://www.youtube.com/watch?v=vFzyGlnnR_s
<感謝合掌 令和4年6月9日 頓首再拝>
神は光、光はわたしの内にある - 伝統
2022/07/26 (Tue) 07:10:15
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋
神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。
わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。
―― 光はわたしの内にある
<感謝合掌 令和4年7月26日 頓首再拝>
天地の真相を見よ。そこに光の世界を見出すであろう - 伝統
2022/08/01 (Mon) 07:19:34
*「光明法語」(8月1日《健康と祥福とは万人具有》)より
誰でも皆、最善の健康と最善の祥福とを楽しむことが出来るのである。
何故なら人間は皆神の子であるからである。
それが出来ないのは、神の子たる実相を自覚しないか、
神の子たる生活を生活しないからである。
健康と祥福とは、特別に或る人にのみ与えられたる恩恵ではない。
眼をひらいて天地の真相を見よ。
そこに光り輝く光明の世界を見出すであろう。
眼を開いて自己生命の実相が「神の子・円満完全」であることを見よ。
病いや不幸に心の眼を振り向けても光は見えない。
<感謝合掌 令和4年8月1日 頓首再拝>
【光と闇の力関係】 - 伝統
2022/09/10 (Sat) 07:45:46
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.03.16)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
ここに楽器の調律に使う、音叉(おんさ)というものがあります。
同じ大きさの音叉を二本持ってきて、一本をポンと叩くと、
ビィーンと唸っているのですが、その叩いたほうを、
手でピッと止めると、当然、音はやみます。
音がやんでも、耳をすましているとビィーンと音が聞こえてくる。
叩いたほうの音叉ではなく、実は並んでいる
もう一つの音叉が唸(うな)っているのです。
これを共鳴共振といいます。
同じ素材、同じ重さでできているので、
叩いて同じ振動で震えるものは、
一つが鳴れば、もう一つも共鳴するのです。
隣の人が笑っているとします。
そうすると、笑っている人の影響を受けて、隣の人も笑いたくなります。
隣の人が楽しそうに思っていると、
そばにいる人にも、その楽しい共鳴共振が伝わる。
反対に自分が不機嫌だと、隣の人も不機嫌になる、ということです。
にこやかにしている人と不機嫌な人では、
どちらがより強く共鳴共振の力を持っているでしょうか。
面白いことに、光と闇というのは、50対50だと思われがちです。
でも実は、 光と闇は50対50の力ではありません。
なぜならば、闇のほうに闘う力はないからです。
光が闇の中に入っていくと、100%光になります。
光が闇の中から出ていくと、闇になります。
光がいなくなったときだけ、闇は闇を主張できる。
闇という独立した存在はなくて、光が無いときを闇と呼びます。
光があるときは完全に光。
ですから、目の前に、病気であったり、
つらい思いをしている人がいて、その人が不機嫌だと、
自分までも不機嫌になるという場合もありますが、
実は、闇と光では、圧倒的に光のほうが強い。
闇はゼロ、光は100です。
にこやかで楽しく幸せそうに生きている人と、
不機嫌に生きている人が家の中に同居している場合は、
にこやかな光のほうが広がっていくことでしょう。
<『幸せな人は知っている「人生を楽しむ」ための30法則』フォレスト出版
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・・・
小林正観さんは、「光と闇」についてこう語っています。
『「世の中のここが悪いじゃないか、
ここが暗いじゃないか、ここが理不尽じゃないか」と、
言っている人ほど、暗くなってきて、笑わない。
「暗い社会じゃないか」と問題点を指摘している人ほど、
暗くなっているように私には見えるのです。
《世の中を暗い暗いと嘆くより、自ら光ってその闇照らせ。》
というのが私自身に言い聞かせている言葉。
その人が光だったら、その人の周りには闇はないでしょう。
評論する暇があったら、自分が光になること。』
(なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?/イースト・プレス)より
金子みすゞさんの『明るいほうへ』という詩があります。
『明るい方へ明るい方へ。
一つの葉でも
陽の洩(も)るとこへ。
薮かげの草は。
明るい方へ明るい方へ。
翅(はね)は焦(こ)げよと
灯(ひ)のあるとこへ。
夜飛ぶ虫は。
明るい方へ明るい方へ。
一分もひろく
日の射(さ)すとこへ。
都会(まち)に住む子等は。』
大事なことは、自らが明るく光ってまわりを照らすことです。
いくら闇を指摘したところで、闇は光にはなりません。
明るい方へ明るい方へ、前進する人でありたいと思います。
<感謝合掌 令和4年9月10日 頓首再拝>
常に心を光明で照り輝かす - 伝統
2022/10/27 (Thu) 07:11:52
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月27日)より
神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。
光が点ぜられたならば、
その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、
われらの心に光が点ぜられたら、
われらが神の世継としてすでに与えられているすべての善き物を、
眼の前にハッキリ見出すことができるのである。
具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。
<感謝合掌 令和4年10月27日 頓首再拝>
本質は光り輝いている - 伝統
2022/12/02 (Fri) 07:50:19
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より
ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、それはそのまま貴いのである。
ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。
が、それをある人に示したとき、
甲は、「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」と言った。
乙は、「わたしがつけていたら、
どうせあれは贋(まが)い物だろうと人が言うでしょう」と言った。
丙は、「わたしがそれをつけていたら、
どこかできっと盗んで来たんだろうと人が言うでしょう」と言った。
甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。
かくして無上の価値を持った宝石も、
心なき人の手に触れるとき、それはすでに宝石でなく、
「贅沢」となり、「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。
しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然としてそれ自身の光輝をもって輝いているのである。
<感謝合掌 令和4年12月2日 頓首再拝>
《心で光を見る》 - 伝統
2022/12/29 (Thu) 09:32:05
*「光明法語」(12月29日)より
福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。
「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。
6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して
二日目の講習会には出席出来なかった」。
これは迷いの自壊作用である。
「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。
心が一変して光を見る心になったからである。
<感謝合掌 令和4年12月29日 頓首再拝>
《万物の奥に光を見よ》 - 伝統
2022/12/30 (Fri) 08:43:29
*「光明法語」(12月30日)より
光は天地間に充ち満ちておれども、
其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。
多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。
心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。
空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。
水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。
食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。
<感謝合掌 令和4年12月30日 頓首再拝>
光を輝かせば暗(やみ)は消える - 伝統
2023/01/09 (Mon) 08:00:05
論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より
他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。
それぞれにはまた別の立場があるからである。
相手の悪を認めて悪に対して論争するのは
相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も
相手の心に入(い)るものではない。
相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、
われわれはただ正しい真理を説き、所信を実行すればよい。
ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。
これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。
暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として
天日(てんじつ)をくらますようになるのである。
<感謝合掌 令和5年1月9日 頓首再拝>
眼の光が澄むようになること - 伝統
2023/01/14 (Sat) 07:49:04
*「光明道中記」(1月14日《微笑を楽しむ日》)より
【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
(『生命の實相』第一巻)】
優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。
赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。
眼の光が澄むようにならなければ、その人はまだ本物ではないのである。
澄んだ中にも色々の光がある。
その光が色々の内容を語っている。
智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、
慈愛に輝いている眼、みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。
争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。
世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。
やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。
人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。
<感謝合掌 令和5年1月14日 頓首再拝>
自分が光であること知り、その「光」を灯す - 伝統
2023/01/16 (Mon) 08:13:34
*「光明道中記」(1月16日《本当の幸福を把(つか)む日》)より
【ただよえる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ごわが姿なる。
(『生命の實相』第十一巻)】
雲を幾ら積んでも光は出て来るものではない。
肉体の快楽、五官の楽しみ、富の集積
―― それらは多くなればなるほど人生に光が出て
来るように思って夫(それ)を積んで見る人は沢山あるが、
いずれも幸福を見出してはいないのである。
幸福は先ず光を見出すことにある。
自分が光であると云うことを先ず知ることである。
光がなければ雲は重なれば重なるほど
黯澹(あんたん)として淋しくなるばかりである。
智慧のない、愛のない、
我利我利亡者が金を蓄めているほど黯澹たるものはない。
光がさし昇れば雲の”ある”無しは問題にはならぬ。
人間の「光」は自分が照らす愛であり智慧であることを知るべしである。
自分が「愛」でなければ積み重なっているすべての持物は、
光のない荒涼な暴風(あらし)の日の雲のようなものに過ぎない。
自分に智慧がなければ、持てるすべての物は
氷山と衝突して難破する船のようなものである。
神は愛である、我は愛である。
神は智慧である、我は智慧である。
<感謝合掌 令和5年1月16日 頓首再拝>
光への道 - 伝統
2023/01/17 (Tue) 07:16:30
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より
世俗のことに心を捉われず、
世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。
外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。
光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。
虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。
<感謝合掌 令和5年1月17日 頓首再拝>
【自己内在の光】 - 伝統
2023/02/01 (Wed) 08:13:21
*「光明道中記」~二月「天地そろう」はじめの言葉より
吾々の『生長の家』は
毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。
他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。
救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。
吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であって
わたしはただ指(ゆびさ)すのみである。
文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。
そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。
光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。
指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。
私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。
私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。
<感謝合掌 令和5年2月1日 頓首再拝>
明暗の現象を見ず、光の世界を観る - 伝統
2023/02/09 (Thu) 11:07:45
*「光明道中記」(2月9日《陰を見ぬ日》)より
【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。
(『生命の實相』十一巻)】
現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。
現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。
人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。
太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。
心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。
子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。
<感謝合掌 令和5年2月9日 頓首再拝>
われみずからを「光」であると観ぜよ - 伝統
2023/02/26 (Sun) 05:07:01
*「光明道中記」(2月26日《常に微笑する日》)より
【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
(『生命の實相』第十六巻)】
これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。
キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。
このことをキリストは
「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。
吾々の内部には「光」が宿っている。
吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。
われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。
常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。
<感謝合掌 令和5年2月26日 頓首再拝>
倒れた其の瞬間に光を見よ - 伝統
2023/02/28 (Tue) 07:12:10
*「光明道中記」(2月28日《金剛不壊の日》)より
【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】
倒れた其の瞬間に光を見よ。
どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。
不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、
倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とは
その魂の深さに於て、その体験の深さに於いて、相違するものである。
人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。
倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。
風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。
熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから
新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。
<感謝合掌 令和5年2月28日 頓首再拝>
眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統
2023/03/09 (Thu) 06:48:13
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より
これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。
ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。
眼をひらけば、そこはすでに天国である。
<感謝合掌 令和5年3月9日 頓首再拝>
神は光、光はわたしの内にある - 伝統
2023/07/26 (Wed) 08:35:50
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋
神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。
わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。
―― 光はわたしの内にある
<感謝合掌 令和5年7月26日 頓首再拝>
実相そのままの明るさにならねばならぬ - 伝統
2023/09/27 (Wed) 10:22:33
*「光明法語」(9月27日《明るさの善徳》)より
あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。
あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事はすべての善を悉く覆して
反対効果に変じてしまう程の力をもっているものなのである。
心に明るさを持つと云う事は、大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。
心が暗いと云う事は、大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。
大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。
何事にも執(とら)われない自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。
<感謝合掌 令和5年9月27日 頓首再拝>
常に心を光明で照り輝かす - 伝統
2023/10/27 (Fri) 09:40:09
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月27日)より
神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。
光が点ぜられたならば、
その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、
われらの心に光が点ぜられたら、
われらが神の世継としてすでに与えられているすべての善き物を、
眼の前にハッキリ見出すことができるのである。
具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。
<感謝合掌 令和5年10月27日 頓首再拝>
本質は光り輝いている - 伝統
2023/12/02 (Sat) 10:29:01
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より
ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、
それはそのまま貴いのである。
ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。
が、それをある人に示したとき、
甲は、
「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」
と言った。
乙は、
「わたしがつけていたら、どうせあれは贋(まが)い物だろうと
人が言うでしょう」
と言った。
丙は、
「わたしがそれをつけていたら、どこかできっと盗んで来たんだろうと
人が言うでしょう」
と言った。
甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。
かくして無上の価値を持った宝石も、心なき人の手に触れるとき、
それはすでに宝石でなく、「贅沢」となり、
「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。
しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然として
それ自身の光輝をもって輝いているのである。
<感謝合掌 令和5年12月2日 頓首再拝>
明るさ、積極性、更に建設的であれ! - 伝統
2023/12/21 (Thu) 10:01:36
*「光明道中記」(12月21日心の岩戸開きの日)より
【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。
生命は貴(とうと)い。(『生命の實相』第十一巻)】
心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。
ただそれだけを常に心掛けるだけでも、
あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。
神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。
神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。
『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され
八百万神々の明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。
吾々は明るいと共に、
積極的でなければならないし、
建設的でなければならない。
積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、
結局は失敗ではないのである。
明るいばかりでは此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。
明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。
<感謝合掌 令和5年12月21日 頓首再拝>
《心で光を見る》 - 伝統
2023/12/29 (Fri) 09:51:39
*「光明法語」(12月29日)より
福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。
「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。
6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して二日目の講習会には出席出来なかった」。
これは迷いの自壊作用である。
「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。
心が一変して光を見る心になったからである。
<感謝合掌 令和5年12月29日 頓首再拝>
《万物の奥に光を見よ》 - 伝統
2023/12/30 (Sat) 10:53:31
*「光明法語」(12月30日)より
光は天地間に充ち満ちておれども、
其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。
多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。
心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。
空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。
水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。
食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。
<感謝合掌 令和5年12月30日 頓首再拝>
地球に光を灯す人となるために - 伝統
2023/12/31 (Sun) 11:39:48
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2023年1月8日)より
世の中が暗くなる時には、光りを灯す者が必要です。
次第に日が沈んでいって、辺りが見えにくくなると、
転んでけがをしたり、悪いものが徘徊してきて、
犯罪に巻き込まれたりしてしまいます。
そんな中で、光りが煌々と灯っていることで、
人はその光を頼りに、道を踏み外すことなく生きていけます。
世界が暗くなる時には、光を灯す人が必要になってきます。
でなければ人は、正しい道を踏み外してしまい、
魂を傷つけてしまうからです。
光を灯す人となるためにはどうしたらよいでしょうか?
それにはまず、人々のためになろうとする愛の思いが必要だと思います。
光が自らの顕示欲のために、煌々と照っていたら、
その光は周りを焦がす光ともなっていきます。
世間でよく輝いているという人たちがいます。
しかし、それらの者たちのほとんどは、自らを示す光を発し、
それは周囲を焼き焦がしている者たちです。
そうではなく、人々のために明りを灯す気持ちが無ければ、
本当の光を灯す人とはならないでしょう。
そして光を灯すためには、
真理を知っている事、目覚めている事が大切です。
いくら愛をもって人のためになろうとしても、
間違った方向に導いてしまったなら、
それは逆に不幸をもたらすものとなってしまいます。
ですので、真実に目覚め、覚醒している事です。
そして自らを偉しとせず、謙虚にいて、
絶えず自分を変えていく努力を重ねないといけません。
自分は真実を知っているものだとか、光の側なのだと慢心していると、
そこに魔が忍び込んで、いつの間にか闇側に落ちてしまいます。
その事に気付かずにいる者たちがどれほど多いでしょう!
だから謙虚に自らを省みる思いを絶えず持たなくてはなりません。
そして最後に、少しでも多く、世の中を明るくし、
幸せな人を増やしたいとする、使命感を持たなくてはなりません。
自分が生まれることで、少しでも世の中が明るく、
より良いものになっていくようにしなくてはならないのです。
そうした世のなかを照らす光となる使命感を抱くことが大切です。
こうした思いを持っている人が、地球に光を灯す者となっていきます・
https://www.spacebrothers.jp/2023/01/blog-post_8.html
<感謝合掌 令和5年12月31日 頓首再拝>
論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える - 伝統
2024/01/09 (Tue) 10:35:19
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より
他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。
それぞれにはまた別の立場があるからである。
相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入(い)るものではない。
相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、
われわれはただ正しい真理を説き、所信を実行すればよい。
ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。
これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。
暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として
天日(てんじつ)をくらますようになるのである。
<感謝合掌 令和6年1月9日 頓首再拝>
眼の光が澄むようになること - 伝統
2024/01/14 (Sun) 11:10:37
*「光明道中記」(1月14日《微笑を楽しむ日》)より
【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
(『生命の實相』第一巻)】
優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。
赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。
眼の光が澄むようにならなければ、その人はまだ本物ではないのである。
澄んだ中にも色々の光がある。
その光が色々の内容を語っている。
智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、
慈愛に輝いている眼、みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。
争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。
世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。
やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。
人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。
<感謝合掌 令和6年1月14日 頓首再拝>
光への道 - 伝統
2024/01/17 (Wed) 10:54:25
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より
世俗のことに心を捉われず、
世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。
外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。
光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。
虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。
<感謝合掌 令和6年1月17日 頓首再拝>
明暗の現象を見ず、光の世界を観る - 伝統
2024/02/09 (Fri) 10:20:04
*「光明道中記」(2月9日《陰を見ぬ日》)より
【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。
(『生命の實相』十一巻)】
現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。
現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。
人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。
太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。
心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。
子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。
<感謝合掌 令和6年2月9日 頓首再拝>
われみずからを「光」であると観ぜよ - 伝統
2024/02/26 (Mon) 10:51:24
*「光明道中記」(2月26日《常に微笑する日》)より
【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
(『生命の實相』第十六巻)】
これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。
キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。
このことをキリストは
「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。
吾々の内部には「光」が宿っている。
吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。
われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。
常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。
<感謝合掌 令和6年2月26日 頓首再拝>
倒れた其の瞬間に光を見よ - 伝統
2024/02/28 (Wed) 09:56:03
*「光明道中記」(2月28日《金剛不壊の日》)より
【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】
倒れた其の瞬間に光を見よ。
どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。
不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、
倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とは
その魂の深さに於て、その体験の深さに於いて、相違するものである。
人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。
倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。
風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。
熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから
新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。
<感謝合掌 令和6年2月28日 頓首再拝>
【人間の本質を信じること】 - 伝統
2024/03/12 (Tue) 09:49:51
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2023年6月20日)より
私たちは、根源の光より別れ出た存在です。
本来の性質は光であり、善き性質を宿した者です。
しかし、世の中には
人間の本性は悪なるもの、という考えが広まっています。
それは肉体に宿って生活していくうえで、
自己保存欲などの我欲が出てきて、
自分勝手で他人を思いやる気持ちを忘れてしまったことによります。
私たちは物質世界であるこの世に肉体をもち、
偽我をまとって生まれてきます。
その偽物の自分である偽我を本当の自分と思い込み、
偽我と一体化することで、悪なる性質を持つように映ります。
偽我は自分の生存を最優先し、自分の事ばかり考えるため、
時には他人を傷つけ、押しのけてでも自分の利益を得ようとします。
そうした他人を害してしまう行為は、悪と捉えられるでしょう。
偽我はあくまで肉体に宿るために必要となるもので、
真実の自己とは違うものです
本来の私たちは光が本質でありますが、
肉体という重い物質の鎧を被ることで、
光を覆った状態で地上で生きています。
他人の本質が悪であると信じることは、
人間不信や疑い、恐怖心と猜疑心を、公害のガスのように
世の中にまき散らしてしまいます。
人間の本質は光であると信じられるからこそ、
そこに愛の思いが生まれ、希望の光が射してきます。
自分の本質に目覚め、
心に積もった汚れを払っていくことで、
真実の光がよみがえってきます。
https://www.spacebrothers.jp/2017/11/blog-post_23.html
<感謝合掌 令和6年3月12日 頓首再拝>
丑満時に、黎明の光を観る - 伝統
2024/04/30 (Tue) 11:44:00
*「光明道中記」(4月30日)より抜粋
【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
(『生命の實相』第十七巻)】
汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。
すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。
今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。
吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。
一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。
古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。
新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。
その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。
<感謝合掌 令和6年4月30日 頓首再拝>
光と愛の物理的な存在形式について - 伝統
2024/06/29 (Sat) 09:29:31
光と愛の物理的な存在形式について
宇宙の兄弟たちへ(2024年6月26日)
https://www.spacebrothers.jp/2019/08/blog-post_10.html
(以下は抜粋です)
(1)私たちの本質は光であります。
光は世を照らし、真実を明らかにし、闇をはらいます。
(2)光とは神の愛であり、周りに熱を届け、温めてくれる存在でもあります。
光そのものに愛が含まれているのです。
(3)この世で生きるためにも光は必要であり、
私たちは太陽からたえず愛を頂いて生かされている存在です。
そして私たち自身もまた、その本質は光の存在であるのです。
(4)私たちの本質が光だという事は、
私たちは人に愛を与えるために生きているという事なのです。
(5)人は与えれば与えるほど、より多くを受け取り、
自らの本質である光そのものへと近づいていきます。
<感謝合掌 令和6年6月29日 頓首再拝>
光はわたしの内にある - 伝統
2024/07/26 (Fri) 04:29:15
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋
神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。
わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。
―― 光はわたしの内にある
<感謝合掌 令和6年7月26日 頓首再拝>
光に向かうこと - 伝統
2024/07/30 (Tue) 08:52:20
闇に陥らない為に光に向かう事
宇宙の兄弟たちへ(2024年7月29日)
https://www.spacebrothers.jp/2024/07/blog-post_29.html
(以下は抜粋です)
(1)闇を暴くためには、それ以上の光が必要になります。
光こそが闇を払えるのです。
(2)闇ばかりを必死に追い回したり、追及するのではなく、
闇を払うような光を掲げる事こそ大切です。
光をより高く掲げる事によって、闇は姿を消していきます。
(3)心の中にいつも光を灯しているからこそ、
闇を見つめてもそれに染まらなくて済むことを知りましょう。
<感謝合掌 令和6年7月30日 頓首再拝>
常に心を光明で照り輝かす - 伝統
2024/10/27 (Sun) 11:18:23
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月27日)より
神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。
光が点ぜられたならば、
その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、
われらの心に光が点ぜられたら、
われらが神の世継としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。
具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。
<感謝合掌 令和6年10月27日 頓首再拝>
本質は光り輝いている - 伝統
2024/12/02 (Mon) 11:48:37
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より
ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、
それはそのまま貴いのである。
ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。
が、それをある人に示したとき、
甲は、
「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」
と言った。
乙は、
「わたしがつけていたら、どうせあれは贋(まが)い物だろうと
人が言うでしょう」
と言った。
丙は、
「わたしがそれをつけていたら、どこかできっと盗んで来たんだろうと
人が言うでしょう」
と言った。
甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。
かくして無上の価値を持った宝石も、心なき人の手に触れるとき、
それはすでに宝石でなく、「贅沢」となり、
「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。
しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然として
それ自身の光輝をもって輝いているのである。
<感謝合掌 令和6年12月2日 頓首再拝>
家庭を明るく - 伝統
2024/12/20 (Fri) 10:40:16
*「光明道中記」(12月20日《大調和の日》)より
【躓いたがために落ちる人もあれば、躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。
(『生命の實相』第十一巻)】
人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。
人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。
斯う云うことを考えめぐらせて見れば、その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。
人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を受けながらも
病気になる事実で明かである。
この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。
誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。
「何でもクヨクヨするな」
この言葉を病人の多い家庭に捧げる。
<感謝合掌 令和6年12月20日 頓首再拝>
心の岩戸開きの日 - 伝統
2024/12/21 (Sat) 09:58:43
*「光明道中記」(12月21日)より
【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。生命は貴(とうと)い。
(『生命の實相』第十一巻)】
心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。
ただそれだけを常に心掛けるだけでも、
あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。
神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。
神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。
『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され八百万神々の
明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。
吾々は明るいと共に、積極的でなければならないし、建設的でなければならない。
積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、
結局は失敗ではないのである。
明るいばかりでは此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。
明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。
<感謝合掌 令和6年12月21日 頓首再拝>
《心で光を見る》 - 伝統
2024/12/29 (Sun) 13:21:36
*「光明法語」(12月29日)より
福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。
「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。
6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して
二日目の講習会には出席出来なかった」。
これは迷いの自壊作用である。
「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。
心が一変して光を見る心になったからである。
<感謝合掌 令和6年12月29日 頓首再拝>
《万物の奥に光を見よ》 - 伝統
2024/12/30 (Mon) 09:19:11
*「光明法語」(12月30日)より
光は天地間に充ち満ちておれども、
其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。
多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。
心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。
空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。
水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。
食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。
<感謝合掌 令和6年12月30日 頓首再拝>