伝統板・第二

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「心は何処にあるか」 - 伝統

2022/01/03 (Mon) 07:28:54

真理第1巻入門篇 第7章「心は何処にあるか」

<誰がこの難しい問題を解くか>

           *「眞理」第1巻入門篇第7章(P67)より

「国」と云うものは一人々々の人間が集って、
そこに寄合世帯が出来たのが国だと思っている人もありますが、
そんな考え方を唯物的な考え方と申します。

一軒の家で考えてみましても、
一つ一つの材木が建物の形に集って出来たものが「家」であって、
「家」のどこを探しても「物」ばかりで、
どこにも家全体の「精神」と云うようなものはないのだと云うように、

世の中のもの、すべて「物」ばかりが寄り集って出来たものだ
と考える考え方を唯物論と申すのであります。

       <感謝合掌 令和4年1月3日 頓首再拝>

《唯物論と唯心論》 - 伝統

2022/01/04 (Tue) 01:57:28


       *「眞理」第1巻入門篇第7章(P67~68)より

貴方の住んでいる「家」のどこを探し廻っても
「心」と云う奴(やつ)には出会(でくわ)さないし、
「精神」と云う奴にも出会(でくわ)さないでしょう。

床だって「物」だし、「窓掛(まどかけ)」だって「物」だし、
「窓掛」だって「物」なんだから、
この建物は「物」のほかの何物でもない
と斯うお考えになるのは間違がないように思えましょう。

併し、若し建物が「物」ばかりで出来ているのでしたら、
その「物」が勝手に動き出して好きな形に重なり合って
建物になったでしょうか。そうではないでしょう。

その建物が出来るまでに、設計者の「心」の中に建物がつくられて、
その「心」でつくられた建物の形の通りに建築が進んで
家がつくられて行ったのです。

「心」が若し無かったら
建物は今こんな一定の形でいる訳に行かないのです。

「心」が元で、その心の中に作ったとおりの形に
色々の物が積み重ねられて、建物が出来たのです。

建物ばかりではない。
すべて形あるものは、「心」が先で出来上ったのです。

この考え方を唯心論と申します。

       <感謝合掌 令和4年1月4日 頓首再拝>

《日本民族は寄せ集めではない》 - 伝統

2022/01/05 (Wed) 02:25:26


       *「眞理」第1巻入門篇第7章(P68~70)より

日本民族も熊襲(くまそ)の人間や、出雲の人間や、
蝦夷(えぞ)の人間や、南洋から来た人間などが寄り集って
日本国と云う国を作ったと云うような寄せ集め物だ
と考えている人がありましたら、
これは民族に対する唯物的な考え方と云うものです。

寄せ集めものならば離れる時がまいりましょう。
それでは日本民族と云うことは出来ないのであって、
寄せ集め民族と云わねばなりません。

先ず日本民族と云う民族の設計が神の心の中に出来たのです。

設計と云うと、絵に描(か)いた図面のように思われますが、
図面に描(か)く前に心の中で思わねば描けません。

神の心の中で思われた「日本民族」の設計がもとになって
現実の日本民族が出来上ったのです。

家でも、大工の心の中で思った通りの形に出来上るように、
神の心の中で思われた通りの特色をもって
日本民族は出来上ったのです。

神の心の中で思われた設計図を理念と申します。

理念がだんだん形の世界にあらわれて来るのは、
大工が家の図面をひいたら、だんだんその図面通りの形に
出来上って来るのと同じです。

神は「日本民族」と云う大きな図面をお描(か)きになったのです。
すると、日本民族と云う家がだんだん図面通りの形に
出来上ってまいりました。

家が建つのにも、材木や瓦(かわら)やセメントや色々のものが
集って来なければならぬように、
日本民族が出来上るにも色々のものが集って出来たのです。

併し、いくら色々の材料が集って家が建ったと云っても、
材料や瓦やセメントは、それは材料であって、家ではないのです。

「この材木が家ですか」と問われると、
「そうではありません」と云うほかはありません。

「それでは、この瓦が家ですか」と訊(き)かれると、
「そうではありません」と答えるほかに仕方がありません。

「それでは、このセメントが家ですか」と尋ねられると、
これまた「そうではありません」と答える他(ほか)はありません。

材木も瓦もセメントも「家」ではない。

それでは、材木や瓦や壁やセメントのほかに
何処に「家」がありますか。

此の問題を考えることに致しましょう。


       <感謝合掌 令和4年1月5日 頓首再拝>

《スフィンクスの謎》 - 伝統

2022/01/06 (Thu) 04:57:58


       *「眞理」第1巻入門篇第7章(P70~73)より

昔、ギリシャの或る町に夜な夜なスフィンクスと云うお化けが出て
「生れたときには4本足で歩いて、大分大きくなれば2本の足で歩き、
 もっと経(た)つと3本の足で歩くものは何だ」と云う謎を出して、

その答の出来ない者はみんな捕えて食べてしまったと云うことですが、
此の謎よりも尚々(なおなお)むつかしい問題が、
今私が出した問題です。

材木も瓦も壁もセメントも「家」でなければ、
どこに「家」はあるのかと云う問題です。

答は次の通りです。

生れた時に4本足で歩き、生長して2本足で歩き、
やがて杖をついて3本で歩く者は人間なのです。

スフィンクスの謎は誰も大抵お答えが出来ますが、
材木も瓦も壁もセメントも家ではないとすれば、
「家」とは《どれ》が「家」であるか。


第一の答

「家とは材木も瓦も壁もセメントも、
 それら全てを一つの形に寄せ集めたものが家なのです。」

第一の答は常識的な答ですが、それでは材木や瓦や壁やセメントを
無茶苦茶に寄せ集めてもそれは家であるか?


第二の答

「材木や瓦や壁やセメントを無茶苦茶に寄せ集めたものは家ではありません。
 それを心に思った家の形に寄せて建てねば家ではありません。」

「家の形に誰が建てるのですか?」

「それは大工が建てるのです。」

「大工の何が建てるのですか?」

「大工の腕が建てるのです。」


「大工の腕が建てるのなら、大工の腕を一本ここへ斬って来て、
 それを材木の上へころがして置いても家が建ちますか。」

「いいえ、それでは家が建ちません。その腕にはもう心がないからです。
 心がなければ腕は動きませんから、家は建たないのです。」

「腕が動けば家が建つのですね。」

「そうです。」

「それでは材木の上で滅多矢鱈に腕を動かせば家が建つのですね。」

「いいえ、腕を動かすにも、心に思った通りの形に
 その材木やセメントがなるように腕を動かさねば家は建ちません。」

「腕は何が動かすのですか。」

「心が動かすのです。」


「心はどこにあるのですか。」

「心は見えません。」

「その見えない心が主人で、腕は道具ですね。」

「そうです。」

「それでは心の通りに腕が動き、心の通りに家が建つのですね。
 形の家が出来るまでに、心の中に家があるのですね。」

「その形の家の出来るまでの心の中を『理念の家』と云うのですか?」

「そうです。形の『家』は心の中の『家』の通りの形が此の世へ映り出たのです。
 この世の中を現世(うつしよ)とか現象世界とか云うのです。
 そして材木や瓦や壁やセメントは『家』ではなくて、
 『家』を此の世にあらわす材料に過ぎないのです。」


       <感謝合掌 令和4年1月6日 頓首再拝>

日本建国の実相 - 伝統

2022/01/07 (Fri) 04:56:42


            *『真理』第1巻入門篇(P73~75)より

そこで日本国家と云う家も色々の部分が集って出来ていますが、
そこに住んでいる何々人種が日本国家ですかと云っても、
それは日本国家ではありません。

此の机が日本国家ですかと云っても、机は日本国家ではありません。

この土が日本国家ですかと云っても土が日本国家ではありません。

それらすべては日本国家を形づくる材料であって、
「家」にすれば、材木や瓦や壁やセメントに当たるものなのです。


神話的に云いますならば、日本国家は、
天照大御神の理念(おほみこころ)の中に先ず造られて、
それが

「千五百(ちいほ)秋の瑞穂の国は世々わが子孫(うみのこ)の
 王(きみ)たつべき地(くに)なり」

と云う天孫降臨の神勅となってあらわれています。

神話と云うのは、作者が誰と云う一定の人間ではなくて
古代の民族が、その民族全体の精神によって作られたものであって、
民族全体の一致した信念の協同作品と云うようなものであります。

この民族全体の協同信念によって各人が集団して、
日本は天皇中心の国家を形作ったのでありますから、

日本国家が天皇中心の国家であると云うことは
最も民主的なことであります。

この民族全体の協同精神が謂わば日本国家の設計のようなものでであって、
その協同精神の通りに、形の世界の日本国は、家が色々材料が集められて
徐々に出来上がるように、出来たのです。

だから日本国家の本質及び設計は、
天皇国家の姿をとるべく日本民族全体の心の中に既にあったのであります。

それが世の中の進むに従い、形の世界に徐々に出来上がって来たのであります。

そして神武天皇が大和(やまと)に都をはじめ給うたのは、
天皇中心の国と云う日本民族全体の精神が具体化した
第一期工事の完成だと云うことになります。


最近、日本民族の中にも海外から輸入された思想にかぶれて、
日本が天皇国家の形をとる必要はないと力説する人がありますけれども、

古代の日本の建国のときの日本民族精神の協同制作による日本国が
吾々の祖国であるとすれば、

そしてその祖国のつづきが日本国であるとすれば、
吾々が先祖から引き継いだ国は、
やはり天皇中心の国家でなければならないのであります。

そうでなければ、ものその国は、吾々が古代の先祖から引きついだ
日本国ではない、別の国だと云うことになります。

       <感謝合掌 令和4年1月7日 頓首再拝>

日本建国の理想 - 伝統

2022/01/08 (Sat) 04:53:51


       *『真理』第1巻入門篇(P75~76)より

ところが、神武天皇の建国も神話であって、
神武天皇は実在の人物でなかったと云う人が、
戦後に日本の歴史家の中にも出て来たのであります。

併(しか)し神武天皇が実在であろうがなかろうが、
その神話を古代の日本民族がつくったと云うこと其のことが大切であって、
日本の国を建設した古代民族の心の中にある「建国の理想」が、
人格的に表現されて「神武天皇」となったのであります。

そしてその神武天皇が、建国の理想として
「八紘を蔽(おお)いて宇(いえ)と為(な)さん」と仰せられた。

これを吾々は一口に「八紘一宇」の建国の理想と申しておりますが、

これを、まるで世界侵略思想のように
外国人は巣鴨法廷で裁判したのでありますが、

天地間に外国は無い、何処(どこ)も彼処(かしこ)も一家族で
兄弟であると云う理想を表現せられたのであります。

このように、日本国はその建国のはじめから、
全世界の人間は互いに兄弟であると云う
民主主義理想のリーダーとして神武天皇が描かれているところに
日本民族の理想を見るべきであります。

(第7章終了)

       <感謝合掌 令和4年1月8日 頓首再拝>

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