伝統板・第二
青年法語~”幸ひ”と”仕合はせ”といふこと(昭和48年5月) - 伝統
2021/12/31 (Fri) 03:53:03
青年法語~”幸ひ”と”仕合はせ”といふこと
少し、遅れましたが
”道産子 さま” ありがとうございます。
”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
(https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=82122764 からの転載です)
(理想世界誌法語昭和48年5月)
(上旬)
【一日の法語~日日是れ前進の祝福の日】
人間は”神”なる親樣から出現したところの
各々特殊の個性ある神の自己顕現であるから、
その自己實現又は自己顕現に必要なる力は既に與へられてをり、
その自己顕現に必要なる環境と絛件とは、
時間的經過と共に、順次必要に從つて、それは恰も
春夏秋冬の移り行く環境に從つて花咲き、實を結ぶが如く、
その時節々々に必要なる要素を備へ乍ら展開して行くのである。
それ故に、あなたの環境が、今たとひあなたにとつて木枯風が
吹きすさぶやうに苛辣な狀態であらうとも、やがて萬物萌へさかる
春が來るやうに、あなたの希望が花咲き實を結ぶ季節が來るのである。
どんな環境絛件も、皆、自己の個性を鍛へるための絛件として
必要なのだと歡喜して努力精進前進せよ。
・・・
【二日の法語~春爛漫の櫻花を見て】
もしあなたが、嚴寒の如き苛辣な環境絛件に遭遇した場合に、
それがあなたの魂の鍛錬生長のためだといふことに考へ及ばず、
生命の前進の努力を停止してしまつたならば、
生命の前進の停止は”死”であるから、
それは冬枯れの狀態のまま、生命が停止してしまつた枯木のやうに
あなたも枯れてしまふほかないのである。
生命が生きるためには常に、どんな苛辣な環境の下に於ても
前進を繼續することが必要なのである。
春爛漫の花を咲かせる櫻の木を見るがよい。
枯木のやうに落葉し切つた狀態に於ても、失望も落膽もせず、
間斷なく、”花咲く”といふ將來の目的のために生命の前進の
努力を續けて來た結果、春爛漫の花を咲かせ得るのである。
・・・
【三日の法語~靈的無限力のバルブを開く道】
生命の前進の努力をつづけるには
諸君は希望を持たねばならないのである。
希望を失はないためには、
自分の希望の實現を支へてくれてゐるところの、
自分の肉體力よりも一層偉大なる力が大自然には存在するのだ
といふ信念をもたねばならないのである。
そのためには諸君は、自己自身の生命力を、單にこの小さな肉體といふ
物質の塊から生じたるエネルギーだなどといふ”有限弱小の存在”だ
と觀る人間觀を棄てなければならないのである。
あなたは先ず”人間”を單なる”肉體”に過ぎないといふ
唯物論を棄て去らねばならないのだ。
そこから、物質以上の靈的力が、あなたの内から湧き上がつてくる
導管のバルブが開かれることになるのである。
・・・
【四日の法語~物質にあらはれている單位知性とその綜合】
考へても見給へ。
物質分子にどんな知性があるか、親和性のある他の分子と出逢へば
化合する場合、それは相手と自分とが親和する性質を持つことを
知る知性がある。――といふ風に私は考へる。
そして、萬物は分子と雖も、鑛物と雖も、神の生命の或る段階に
於ける自己實現であると私は解釋するのであるけれども、
各々の物質分子や鑛物における知性は、極々低度の知性であり、
幼稚な知性であり、それは極めてわずかな”知性の芽生へ”
みたいなものに過ぎないのであり、
そんな單位知性だけが、いくら集まつても雄大崇嚴な天國的構圖の實現
といふやうな理想や希望が現出して來る筈はあり得ないのである。
そんな單位知性を適當に集合・綜合する大知性が人間に天降つて來てゐて
”神の子・人間”の出現となつてゐるからこそ、人間は雄大崇嚴な天國の
構圖を心に描いて大なる希望をわれわれは描くことが出來るのである。
・・・
【五日の法語~綜合知性は神の生命の天降りである】
われわれの肉體が構造單位の上から觀るならば、物質分子の集合体に
過ぎないにしても、その單位知性を複雑精巧に組合はせ、
その單位知性を互ひに連絡させて統一ある生理作用を營ませ、
更に、統一ある精神活動を可能ならしめる如きことは、
物質分子の單位知性の能くなし得ることではないのである。
そのやうな不可能を可能ならしめる綜合知性はすべてのものを総覧し得る
”最高知性”—―“神の生命”の天降りに由る外はないのである。
・・・
【六日の法語~茶碗も、本來の目的に向つて生きる時】
人間が幸福になるためには、
人間とは何ぞやの根本を知らなければならないのである。
茶碗に若し意識があつて 幸福になるためには茶碗は
何の目的に作られたのであるか知らなければならないのである。
それを尿瓶と間違へられ、茶碗は排尿を溜める器であると思つて、
それに尿を注がれたりしたら茶碗としては幸福ではあるまい。
茶碗が幸福な時は、茶碗としての本來の目的に鄭重に使はれる時である。
・・・
【七日の法語~人間も、本來の目的に向つて生きる時】
人間も幸福になるためには、自分自身を金を溜めておく金庫と間違へたり、
膣の中へ射し込む”ゴムの道具”だ位に間違へられたりしたのでは、
その人間は幸福になれる筈はないのである。
人間が人間として幸福であるためには、人間は何の目的で地上に出現したか、
その眞實目的を知り、その目的にむかつて自己自身を使う時に本當の幸福感
―― すなわち生甲斐を感ずることが出來るのである。
・・・
【八日の法語~神は無相にして無限相である】
人間の地上誕生の目的は何であらうか。
『創世記』には「神の像(かたち)の如く人を造り、
これを男と女に創造り給へり」と錄されてゐるのである。
「神の像とは如何なるものであらうか。日本的語源によれば、
カミは”隠身(カミ)”即ち「隠り身」又は幽身(カミ)」であつて
幽玄の身にして肉眼には見えないところの隠れたる身(ミ)なのである。
それは”理念の體”といつてもよい。
肉眼で見るならばその相形(すがたかたち)はみえないのであるから
「夢相といつてもよい。しかし、それは肉眼によつて視るから
相が見えないのであつて、「理念」そのものは不可視の形相を備へてゐるのだ。
そして、「神の像のごとく人を創造り」と『創世記』にあるのは、
その不可視の理念的形相を、神自身の肖像畫のごとく、
時間・空間の世界に映し出したのが人間であるといふのである。
換言すれば無相なる神が、無數の人間としてその肖像を現實世界に
寫し出したのが、現實の人間誕生なのである。
それ故に人間を”神の子”と稱し、神を”無相にして無限相”と説くのである。
・・・
【九日の法語~唯一神と人間との關係】
人間は、神なる理念的存在が、
その肖像を現實界にあらはしたところのものである。
それ故に神の生活を現實に生きることが人生の目的であると言ひ得るのである。
無相なる神が、無數の人間としてその肖像を現實世界に寫し出したのが、
吾々であるといふことを聖經『天使の言葉』には
次の如く錄されてゐるのである。
”汝らの先ず悟らざるべからざる眞理は、
『我』の本體がすべて神なることなり、
汝ら億兆の個霊(みたま)も、
悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ。
喩へば此處に一個の物體の周圍に百萬の鏡を按きて
これに相對せしむれば一個もまた百萬の姿を現ぜん。
斯くの如く汝らの個霊も
甲乙相分れ、
丙丁互ひに相異なる相を現ずるとも、
悉くこれ唯一神霊の反映にしてすべて一つなれば
これを汝ら互ひに兄弟なりと言ふ”
・・・
【十日の法語~人間の本質の自覺について】
また聖經『甘露の法雨』には
次の如く示されてゐるのである。――
”神は人間の光源にして
人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源はなく、
光源の無き光はなし。
光と光源とは一體なるが如く人間と神とは一體なり。
神は靈なるが故に
人間も亦靈なるなり。
神は愛なるが故に
人間も亦愛なるなり。
神は智慧なるが故に
人間も亦智慧なるなり。”
<感謝合掌 令和3年12月31日 頓首再拝>
(中旬:11日~20日) - 伝統
2022/01/03 (Mon) 07:32:47
【十一日の法語~人間の幸福は”神”から”末”への先き延(は)へである】
人間の本質をこのやうに自覺して始めて、
何が本當の幸福であるかが判り、何を爲すべきかかがわかるのである。
幸福といふ事を日本人は二つの語で表現したのである。
その一つは「さいはひ」でありもう一つは「しあはせ」である。
「さいはひ」の語源は「先き延へ」といふ意味から來てゐる。
「人間は神より出でたる光なり」であるから、
神との關係が斷絶してしまつたら、
神から先端(さき)に延へて來る恵みも中斷してしまふのである。
わたしたちが本當に幸福生活を生きやうと欲するならば、
神との關係を斷絶しないやうにし、
神が自分に如何なる使命を與へてゐられるかを知り、
神が「汝これを爲せ!!」と仰せられるところを爲すとき、
神からの生命と智慧と愛の流通を得て、
それが” 先き延へ”である天國的狀態が自分の生活及び環境に
あらはれて來て、本當の幸福感が得られるのである。
・・・
【十二日の法語~ ”仕合はせ”とは愛の實踐である】
日本人は幸福の事を、また「しあはせ」といつたのであるが、
「しあはせ」は”仕合せ”であり、
深切の行爲を互ひに”仕合す”ことである。
相手は今、何を求めてゐるか、何を欲してゐるかを察して、
それを互ひに仕合すのである。
”愛”とは、相手が何を求め欲してゐるかを知り、
その求め欲しているものを互ひに仕合ふこと事が”愛の實踐”である。
そしてその求め欲してゐるものを互ひに仕合ひ、與ヘ合ふとき、
「私はしあはせだ」といふ感じがするのである。
・・・
【十三日の法語~やがて消えるものは”本當の値打ち”ではない】
わたしたちは値打ちのある生き方をした時生き甲斐を感ずるのである。
人は皆値打ちを追求する。
しかし肉體人間は、自分が現象的存在であるものだから、
現象的な値打ちを追求する。
そしてこれから値打ちの上るものを買ひ漁つたり、
いつまでも續かない肉體の快感をもとめたり、
肉體が死んだとき、靈界には持つて行けない値打ちを追求したりしてゐる。
靈界には持つて行けない値打ちといふのは本當の値打ちではないのである。
それはやがて消えて行くべき値打ちである。
それは“眞實の値打”の如くあらはれてゐるけれども
それは“眞實の値打”の影であつて、本物の價値ではない。
わたしたちは”本當の價値”を求めて生き、
”本當の價値”を生活する時、本當の生き甲斐が出て來るのである。
・・・
【十四日の法語~眞の”愛”と”愛慾”とは次元が異なる】
”愛”は永遠の價値であり、實在の價値である。
神は”愛”であり、唯一の實在者であるからである。
”愛”とは、セックスの快感のことではない。
また享樂のことでもない。
そんな唇の皮膚や粘膜の皮膚の快感のことではない。
”愛”はもつと神聖なものである。
神聖とは肉や物質を超越して、
もつと崇高な存在に名付けられる語である。
その代はりに”愛”は嚴しきものである。
”愛”を成就するためには
肉體を苦しめることさへ避けてはならないことがある。
キリストの十字架は”愛”の本當のシンボルである。
三島由紀夫は祖國日本を”愛”するために、
あの美しき肉體を殺す事さへ厭はなかつたのである。
肉體の愛慾に耽溺しながら、「私は愛を完うした」などと考へるものは、
”靈の世界”の事を知らない。
ただ、”物質の世界”に生きてゐる人々の考へ方に過ぎない。
次元が異なるのである。
・・・
【十五日の法語~”仕合せ”は神の宇宙設計の永遠構圖である】
人間の幸福は「仕合せ」によつて得られるといふのは、
「仕合せ」は神による宇宙設計の中の根本構圖であるからである。
神による宇宙設計の中の根本構圖が、現象界に先き延へ來つて
人間が ”愛”による行爲を、互ひに仕合はせすることになるのである。
『創世記』によれば、
神は自己の生命の肖像として先ずアダムを造りたまひ、
更に「人ひとりなるは宜しからず」と言ひ給うて
アダムの肋骨の一部をとつてイヴを造りたまひ、
神御自身の生命の肖像として男と女とが出生したのである。
何故「人ひとりなるは宜しからず」であるかといふと、
ひとりでは互ひに”仕合せ”することが出來ないからである。
人は何かを相手のために爲てあげることと、
その爲てあげることを受けてくれる者と
――”與へる”と”受ける”と――此の授受の關係において、
”仕合せ”の自覺、すなわち幸福感が得られるのである。
・・・
【十六日の法語~”仕合せ”を得る秘訣】
『生命の實相』の”生活篇”の中に次のやうな物語が書かれてゐる。
概略を摘記すれば――
昔あるところに大きな富める國があり、
その國王には一人の賢い王子があつて、王様はその王子を愛して
王子の欲するものをすべて叶へてあげることにした。
國中の一切の富は、擧げてこの王子の欲するままになつた。
それなのに王子は常に何か不滿足な浮かない顔をしてゐるのであつた。
王様はある日、王子を呼んで、
「お前は何故そんなに幸福でないのかね。
何でもお前のほしいものをとて叶はないことは一つもないのに。
何か心に秘密な惱みでもあるのかね」
とたづねた。王子は、
「私にしようと思つて出來ないものはありませんから、
別に秘密な惱みなどある筈はありません。それなのにどういふものか
私は人生に、輝くやうな悦びが感じられないのです。
自分にも譯がわかりません」
といふのだつた。
そこで王様は國中に布令を出して
王子を幸福にしたものには褒美の金は望み次第
といふ懸賞付きで王子の幸福生活法を募集したのであつた。
いろいろと幸福になる方法を応募してくる者があつたが、
その中にある日、一人の魔術師が來て
「王子を幸福にする方法を知るものは私一人です。
その方法はこの白い紙に白い文字で書いてあります。
私が去つてから、この紙を蝋燭の火にかざしてあぶつて下さい。
すると、この紙に文字が出てきます。
王子様が此の文字の通りにして下さるならば
屹度王子さまは仕合せになります」
と魔術師は言ふかと思ふと、その姿は消えてしまつた。
王子はその紙を蠟燭の炎にかざして暖めながら見ると、
それは”あぶり出し”の文字であつて、
「毎日一度は誰かに深切にせよ」と書いてあつたのだ。
これこそ幸福生活の秘密であつたのである。
この魔法使の教へに從つたので
王子は直ぐその日から幸福になつたといふのである。
これは『生命の實相』生活篇の一部の要點を書き抜いたのであるが、
ここに”仕合せ”の秘訣があるのである。
・・・
【十七日の法語~”深切”と”親切”について】
私は”深切”といふ語を常に書くやうにして、
大抵”親切”となるべく書かないやうにしているのである。
本當の”深切”は”親しらしい眞似”をすることではないからである。
しかし親しらしいマナーをするやうな意味を重點に於て書くときには、
時に私も「親切」と書く時もある。
たまたま『無門關』を讀んでゐたら「親切」といふ熟語が出て來て、
此の熟語が支那製造の熟語だと知つたこともある。
本當の深切は、肉體の表層の甘い感じの言葉をかけることではなく、
實相の深いところからの切に催して來るところの、
實相顕現の言葉であり、思ひであり、行爲でなければならないのである。
・・・
【十八日の法語~神と人間との”仕合せ”について】
「人ひとりなるは宜しからず」といふエホバ神の語は、
人間が社會的生物として、相互共存的に生きるのがその使命である
といふことを表現してゐるのである。
それと共に、
「人は自分だけで生きてはならない、
人ひとりで生きてゐる時にも、彼は神と二人である。
その人の他にもう一人ゐるところの神を忘れてはならない」
といふ意味が含まれてゐるのである。
神は、人間の生きるために
各方面から無限の恵みを授けられてゐられるのである。
空氣も日光も色々の食物も・・・・・しかしそれは、
人が自分の力ひとりで生産し、生きてゐると思つてはならない。
われわれは神から生まれ、神によつて生かされてゐるのだといふ
眞實を知り、神から受けるだけではなく、神の御意圖を成就するために、
人間は神のために盡さなければならないといふ意味も含まれてゐるのである。
神は人間のためにしてくれる。
人間は神のために仕なければならない。
そこに相互に「仕合せ」が成就するのである。
人間の仕合せは、神の仕合せであり、
神の”仕合せ”は人間の”仕合せ”であるのである。
・・・
【十九日の法語~人間自身が「仕合せ」を放棄した】
ちか頃、盛んに”公害”といふ事が叫ばれてゐるが、
それは神が人間に對して仕て下さつたことに對して、
人間が神の意圖を察して、神のために仕てあげることをせず、
人間だけの損得のみを考へて、
神が與へて下さつた”自然界”の一切を大切に扱ふことなく、
所謂る「良いとこ取り」で「カスは棄てる」
――まだ「カス」ではない未利用の資源がその中に無數にあるのに、
それを”使ひ棄て”ならまだ良いけれども”使はず棄て”にしてしまつた。
それが未利用のカドミウムの流出となり、有機水銀の流出となり、
亜硫酸ガスや、窒素酸化物の放散となり、空気も河川も海水もことごとく
汚染されて、人類はエデンの樂園からの追放となつたのであつた。
これ皆、神が人間にして下さつた恵みに對して「仕合す」ことを怠つた結果の
”仕合せ”の抛擲となつた譯である。
神が人間をエデンの樂園から抛擲追放せられたのではなく、
人間自身が、神の仕て下さる恵みに對して”仕合せ”なかつた結果の
不幸であるのである。
・・・
【二十日の法語~産業公害の由つて來るところ】
”仕合せ”には主働者として能動的にはたらきかける男性原理と、
それを受けて育てる受動的に働く女性原理とがあるのである。
神と人間との關係に於ては、神が主働者であり、恵みの与へ手であり、
人間はその恵みを受けて育てる受動的役割を果たすのである。
公害を生ずるのは、「受けてそれを育てる」人間の役割を完遂せずに、
受けるには受けたが、それを生かして育てる役割をしないで、
生かすよりも殺すことを平氣でしたからである。
工業生産面における人間の「生かして育てる役割」を完うせず、
使ひ棄てにした結果が産業公害として今や日本のみならず、全世界を覆ふ
毒ガス・毒廃液として、全人類の生命を危機にまで脅かしつつあるのである。
<感謝合掌 令和4年1月3日 頓首再拝>
(下旬:21日~31日) - 伝統
2022/01/04 (Tue) 02:00:04
【二十一日の法語~神に對する反逆は”幸ひ”を受ける通路を閉す】
神が主働者となつて人間に與へ給ふたものを棄てる
最大の残虐行爲は堕胎なのである。
受胎して來る子供の魂は、神がその魂に何らかの使命を地上に於て
果たすやうに地上に降下せしめられたのである。
その魂の”宮”であるところの肉體を破壊してその魂を靈界に追い出す
といふことは、神に對する反逆なのである。
すべての罪は、自己の實相を「包む」ところの自己隠蔽であるから、
自己が悔い改めて、その「包み」(罪)を開いて、
實相を自己解放してしまへば、「罪はなくなる」(包みはなくなる)ので
あるけれども、
「神に對する反逆」は、自己解放だけでは許されないのである。
神に懺悔し、神と人間との關係を和解させなければ、
神からの”先延へ”(幸ひ)を受ける道が鎖されてゐるのである。
・・・
【二十二日の法語~堕胎と脊髄性小児麻痺の關係について】
近頃、醫學が効果を収めたものとしては、脊髄性小児麻痺の発生が
ポリオ・ワクチンの導入によつてほとんど全くなくなつたといふ事である。
醫學会はそれを医學の勝利として大いに誇示しているのであるが、
私は医學の發達を祝福すると共に、それがポリオの生ワクチンを子供に
飲ませた結果のみだと一概に結論することは出來ないのである。
恰度あのポリオ・ワクチンの豫防服用を政府が強制したと同じ年に、
無縁流産児の供養塔が、生長の家の宇治別格本山に建立され、
胎児のまま殺されて人間世界を呪つてゐる流産児の魂を慰霊する施設が出來、
盂蘭盆會の時や、寶蔵神社の秋季大祭の時は勿論、毎月、宇治の生長の家
修練道場へ参詣する練成修行參加者が聖經『甘露の法雨』を集団読誦して、
これら人工流産児の霊魂を”真理の悟りに導くために、
”法供養”を重ねてゐる結果、霊界に於ける流産児が成就して、
その怨みの念波を人間界に放送することをやめたので、
殺された胎児の姿のやうに、首が据はらず、手足がぶらぶら、意識混濁等々の
脊髄性小児麻痺症状が現實人間界に受像される事がなくなり、その結果、
その後ポリオ生ワクチンを、全國的に小児に強制的に服用せしめることを
強制しないにも拘らず、小児麻痺による肢體不自由児が出なくなつたのだと
われわれは解釋してゐるのである。
別にわれわれは功を醫学と爭うのではなく、醫學その他科學上の發見や
新發明も、霊界からの良きアイデアの放送を感受した人たちによつて行はれる
のであるから、われわれは今後とも科學と宗教又は心靈學とは
手を携へて人類の幸福に貢獻していきたいものと思つてゐるのである。
・・・
【二十三日の法語~人間に宿る超能力について】
人類の幸福に關する科學上の發明も、矢張り、神の叡智の”先延へ”
でなければ、本當に人類を幸福にすることは出來ないで、一時人類を
幸福にしたかの如く見えたものが、やがて公害を續出して
人類の運命を危殆に導くことになるのである。
神の叡智を人間が受信し受像するには、
日本では古代から鎮魂歸神の方法があり、
生長の家では神想觀の修行によつて叡智神智の導きを受け、
神の生命力の供給の導管をひらいて難病が癒されことにもなり、
人類を幸福にするよきアイディアを感受して偉大なる科學的な
發見や發明が出來ることもある。
最近、生長の家の飛田給道場出身の發明家で、澤山の新技術の特許をもち
電子方面の専門家として工学博士になつてゐられる橋本健氏が、
子供にわかるやうな少年少女向きの心靈學の本を『きみにも超能力がある』
といふ書を“實業の日本社”からお出しになつた。
超能力といふのは肉體の力以上に超出した素晴しい靈的能力が、
すべての人間は”神の子“だから皆に宿つてゐることで、
しかしこの超能力も、使う練習をしないと眠つてしまつて働かないので、
この本は、その眠つている「人間内在の超能力」を引き出すための
最も易しい文字で書いた手引書である。
かういふ問題は易しく書くのが大變むつかしいのである。
大人にも心靈学入門の好參考書としてお薦めする。
・・・
【二十四日の法語~男女の與へられた使命について】
神は“與へ給ふ者”であり、主働者である。
人間はその“與へ給うたもの”を受ける役割をもつところの受動者である。
神は無限のアイディアを内に包容してゐ給ふ、
そしてそのアイディアを人間に放送して與へ給ふ。
そのアイディアを受けてそれを形あるものに育て具體化するのが
人間の役割である。
このやうな”神”と”人間”との關係のアイディアが、
地上に具體化して生ずることを、聖書には、
「人間は神の肖像に造られ、男と女に造られた」といふ風に記述して
ゐるのである。
つまり神”と”人間”との關係のアイディアの形代として、
人間の男と女が生れて來たのである。
そして男女が結婚して家庭をつくれば、
男は”神”の役割につき、”與へる側”に立つのである。
女は”人間”の役割につき”受ける側”に立つのである。
この役割は人間の肉體の生理的構造の上にもあらはれてゐるのであつて
それに背くことは神の御意志への背反であり、その背反は、
神からの”先延へ”(幸)を突き戻すことになるのであつて、
決してそのやうな人は幸福になることはできないのである。
・・・
【二十五日の法語~男性と女性との天分の相異】
最近、或る週刊雑誌を見て驚いたことは、男女平等の行き過ぎの解釋から、
”性”の衝動やプロポーズやアプローチが、今まで男性が主働的に働いてゐて、
女性は唯、受け身的に、そのプロポーズやアプローチを受ける側に
廻つていたけれども、これは人權平等の原理に反する。
人權に目覺めたる女性は、よろしく性の問題に於ても男女平等に、
女性が男性をリードしてアプローチして行かなければならない。
女性はいつまでも男性に奴隷的に受け身になつてはならない。
これが女性の開放(ウーマン・リヴ)であると説く猛烈女性があらはれた由
であるが、これは神が「人間を男と女に造り給へり」といふ
異性の相互の「仕合せ」の法則に背反することになるのである。
・・・
【二十六日の法語~”殺生”の自覺なき妊娠中絶】
女性が受ける天分を忘れる時、
妊娠した子供も”神から授かつた子寶だ”といふ
「子供に對する尊敬の念」がなくなるのである。
そして自分が性行爲でこしらえた子供だ
といふやうな不遜傲慢な氣持になり、
自分がこしらえたのだから自分が權利があるやうな
錯覺が起るのである。
そこで堕胎を何とも思はなくなる。
その結果、それを殺すことを恰も蟲ケラを殺すかのやうに
お粗末に考へる。
”蟲ケラ”位に思ふのならまだ優しだが、「お腹に出來た腫れもの」
を切除して貰ふかのやうに、胎児を切除して殺しながらも、
もう「殺生」の考へがなくなる。
釋尊は
「知つて犯した罪よりも知らずに犯した罪の方が一層重い。
何故なら、その禍の及ぼす害惡について自覺がないから
幾度でも罪を犯すからだ」
と訓されたのであるが、
胎児を殺すのが「殺生」だといふ考へがなくなると、
罪の自覺がなく反省がなく幾度でも堕胎を重ねる。
もう五、六人も堕胎したといふ婦人が日本にはたくさんゐるのである。
・・・
【二十七日の法語~戰前の捨児と戰後の捨児の相異】
堕胎が”殺生”の自覚なくして行はれるやうになると、
胎中の子供を殺すのも、出産後の子供を殺すのも同じやうに
何の”氣の咎め”もなく行なはれるやうになる。
NHKのニュース解説者が朝のテレビニュースで解説してゐたが、
戰前は捨児をするのでも、
「やむを得ない事情で育てられなくなつたのだから、
愛深き誰かに拾はれてこの子供が幸福に育つてくれることを望む」
といふやうな置手紙を添へ、新しく縫つた赤ん坊の着物を着せ、
ねんねこ蒲團にでも包んで、風邪を引かぬやうにして母親としての
愛児を想う愛情が目に見えるやうな姿で棄ててあつたけれども、
最近の捨児といふのは、裸でごみ箱のそばに捨ててあつたり、
ビニールの袋に入れて棄ててあつたり、自動車の往復のはげしい高速道路に、
「車に轢かれて死んだつてかまはない」といふ殘酷な心をムキ出しに、
捨ててあつたりする。
これは堕胎された胎児を扱ふ非情な行爲が、
母体をはなれた子供への扱ひにも引き繼がれて行つてゐるのである。
このやうな不祥事を根絶するためには、「堕胎は人殺しに非ず」といふやうな
觀念を國民に與へてゐる「堕胎公許の優生保護法」をぜひとも速やかに
改廃しなければならないのである。
・・・
【二十八日の法語~平等にして差別、差別にして平等】
人間は、男女性別の相異なく、すべて”神の子”であり、
その生命の尊嚴は平等であるといふことは
永久に否定することのできない眞理である。
しかしその平等の尊嚴をもつた「神の靈」が
“女體(をんな)といふ神の宮”に宿つて出生した場合と、
”男體といふ神の宮“に宿つて出生した場合とは、
役割がちがふのである。
役割が異なるからこそ一方は女の肉體を與へられ、
一方は男の肉體を與へられてゐるのである。
それは恰もを樂屋にゐるときには、
みんな平等に男である歌舞伎役者が
”人生”と稱する芝居の舞臺へ出演すると、
或は女になり、或は男になつて出て來る。
そして自分の配役が女であつたら、本當に女らしく優美に女情たつぷり
表現する役者が歌舞伎名門の女形歌右衛門みたいになれるのである。
われわれは”人生”といふ舞台に今出演してゐるのだから、
女として出演したら、出來るだけ女らしく心の底から振舞はねばならないし、
男として出演したら出來るだけ男らしく勇敢に振舞はねばならない。
人間は實相に於ては平等に”神の子”であるが、
”人生”に出演したら男であるか女であるかであつて、
そのどちらでもないやうな人間は人生の役者の中の“馬の脚”に過ぎない。
舞臺で“馬の脚”になつた役者は顔も姿も見られないから
男女半陰陽みたいな不具者であつても、つとまるのである。
・・・
【二十九日の法語~あなたは半陰陽の怪物になつてはならない】
諸君は“馬の脚”になつてはならないのである。
あなたが人間ならば、必ず”神の子”である尊嚴を持つと同時に、
男であるか女であるか、どちらかでなければならないのである。
半陰陽の不具や怪物であつてはならないのである。
”男”といふ理念構圖も”女” といふ理念構圖も、
神が創作せられた理念の世界にあるのであつて、
それが先延へせられて具象化したのが、
現實人間の男女性であるのである。
人間の幸福とは”サキハヘ”即ち神の理念の大地から先へ生へ
延長して來て實現するのであるから、
女性の理念が現實世界に延長して具象化して出て來たところの
「女として生まれた人」が女らしく、
男性の神の理念具象化して出て來たところの「男として生まれた人」が
男らしくあつてこそ、そこに陰陽の調和があらはれ、
人生に互に補色する美の曼陀羅が描かれることになるのである。
人生は神の創作その儘の理念を素直に受け繼いで具象化すれば
”地上天國”となるのである。
・・・
【三十日の法語~子宮は女性精神の具象化である】
半陰陽の人間たちが不幸になるのは、
それは神の理念構圖のそのままが素直にあらはれないで
歪んであらはれてゐるのだからである。
それは神の理念構圖のそのままが素直に現はれないで
ゆがんであらはれているのだからである。
次の話を私は時々するが、
この話は終戰直後の物資缼乏の頃のことである。
大都市は焼夷彈攻撃で灰と化し物資は缼乏してゐて、
なかなか衣料が手に入らない。
その時、ある都市に洋裁の上手な奥さんがあつた。
彼女は何處かで秘密で婦人洋服素地を手に入れて來て、
婦人服を自分で縫つて店にぶら下げて置くと、
羽が生えたやうに好く賣れて非常に儲かるのであり、
會社員としての良人の月給よりも數倍の収入があるのである。
妻は出勤しないで良人の月給よりも數倍の収入があると、
自分が一家の主人であり、良人は外勤社員であるやうな
氣がして來たのである。
そのうちにこの婦人は子宮に不快な異臭あるオリモノが
夥しく出るやうになり、醫師に診てもらうと、
「あなたの子宮の90%は腐つてしまつてゐる
から、子宮の全摘出の他治療の道はない」といふ診斷である。
子宮の全摘出の診斷を受けた彼女は、
「子宮がなくなつたら、自分は女でなくなる。といつて男にもなれない。
女でも男でもない怪物になつてしまふのだ」
と彼女は思ふと、何とかして子宮を切除しないで、
健康を恢復したいと考へてゐる時に、
友だちから生長の家を勧められた。
そして生長の家の講師に紹介されると、その講師はかういつた。
「あなたは自分の儲けが良人よりも多いところから高慢になり、
自分が一家の主人公のつもりになり、女性的なやさしい精神を失つてゐる
ために、女性精神の具象化である子宮が消失していきつつあるのである。
前非を悔いて良人にお詫びをして、良人をもつと尊敬して良人を
上位に立てることにし、夫唱婦和の日本的婦徳をもつて良人に女性的に
優しく柔かく仕へることにしたならば、あなたの女性精神の復活と共に、
女性のシンボルである子宮も復活するでせう」
と教へてくれた。
・・・
【三十一日の法語~女性の天分を生きた時の”仕合せ”】
この婦人に、生長の家講師の教へはいたく胸を打つたのであつた。
「本當に自分はいつの間にか高慢になつてゐて女性の優しい心づかひや、
良人に優しく仕へかしづく氣持などを失つてゐた。
これから女性としての天分である柔かい温かい心を持つて良人に仕へませう」
といふ決意が出來たのであつた。
そして良人が出勤先から歸つて來た時に疊に手をついて、
以上のやうな懺悔と決意とを述べた後、
流れ落ちる涙と共に夫の膝にすがりついてお詫びした。
その時、彼女は今迄の自分が主人公のやうな高慢で良人を見下してゐた
時には味わうことが出来なかつたところの男性に寄り縋つて頼り切つた
優しい女でなければ味はうことのできない女性としての歡びが
生命の底から感じられて來たのであつた。
彼女は神から先延へられた女性としての天分をそのままに生きた時に
本當の”幸へ”が感じられることを如實に體驗したのであつた。
そこに夫と妻との互ひの「仕合せ」があつた。
神の世界に於ける男女の天分の理念構圖が先延へられて
夫婦の生活に實現したのあつた。
彼女の子宮は剔出することもなく、そのまま再び健康を回復した。
まことに肉體は”心”の投影であつたのである。
<感謝合掌 令和4年1月4日 頓首再拝>