伝統板・第二

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真理の生活 ⑫ - 伝統

2021/11/23 (Tue) 04:59:52

《“神の子”としての資格について》

       *『人生の秘訣365章』第10篇(P262) より

神は柔和なる者、謙遜(へりくだ)れる者、平和なる者、心の清き者を
祝福してこれに力を与えたまうのである。

みずから偉しと傲慢に自己を持し、心驕りて戦闘精神に満ちたる者を
神は決して祝福したまわないのである。

謙遜なる者は、わずかなる恵みにも感謝の念深き故に、
却って神の霊波に波長が合って豊かなる祝福を受けることができるのである。

柔和なる者は他(ひと)と争わず、接する人々にやさしき言葉と表情とを与え、
人々に平安を持ち来すことになるのである。

人々に平安を持ち来す者は、
それが還流し来たって自己に平安を持ち来すことになるのである。

途上に出遭う人々にやさしい眼光(まなざし)と
柔和なる表情と愛情ある挨拶を与える者は
“神の子”としての資格があるのである。

失意の境遇にある者に勇気づけ、慰めを与える言葉を与え、
常に凡ゆる事物と人とに愛念を送る者は“神の子”としての資格があるのである。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
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(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
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(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
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(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
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(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
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(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
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          <感謝合掌 令和3年11月23日 頓首再拝>

常に神を呼びつつ一歩一歩撓まず進む - 伝統

2021/11/25 (Thu) 05:03:49


        *「光明道中記」
         (11月25日《一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日》)より

【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
                    (『生命の實相』第四巻)】

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、
ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得るのだと思う。

然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

          <感謝合掌 令和3年11月25日 頓首再拝>

吾れ大地の如くならん - 伝統

2021/11/26 (Fri) 04:52:42


    *「光明道中記」(11月26日《寛容の精神湧き出ずる日》)より

【寛容、雅量の徳は潔癖の徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。

すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉く
もっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、
冬には葉を枯らし、風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

          <感謝合掌 令和3年11月26日 頓首再拝>

時間を浪費してはならない - 伝統

2021/11/29 (Mon) 04:56:05


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月29日)より

人間の一生涯の時間を平均35万時間だと計算した人がある。

フランクリンは

「君は自己の生命(せいめい)を愛するか。
 然らば、けっして時間を浪費してはならない。
 なぜなら時間こそ君の生命(せいめい)が造られている実質であるから」

と言ったということである。

時間の貴重さは、
『生命の實相』の生活篇の第一章にも書かれていることであって、
空費されたる時間は再び取り返すことができないのである。

時間を空費する者は時間を殺しつつあるのであり、
時間を殺しつつある者は自分の生命を殺しつつあるのである。

無駄に過ごされる時間に、何が行なわれつつあるかといえば、
その間(かん)に人は健康を失いつつあり、若さを失いつつあり、
人格がもっと輝き出るはずのものが失われつつあり、
学識経験からもっと広くなるはずのものが失われつつあり、
掴(つか)めばすばらしい幸運がひらけてくる機会を
放棄しつつあるのである。

          <感謝合掌 令和3年11月29日 頓首再拝>

悪を語らず、悪しきことを思わない - 伝統

2021/12/01 (Wed) 04:58:46


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より

悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。

悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。

汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

            <感謝合掌 令和3年12月1日 頓首再拝>

《イエスの生活の如く生活せよ》 - 伝統

2021/12/03 (Fri) 05:02:09


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P98~99)より

キリストは永遠の善であり、愛であり、真理であり、「道」である。
彼は自己の生命(せいめい)を献げる事を実践によって教えて、
「吾れに従え」と云ったのである。

彼は吾等に如何に生くべきかの道を教えたのである。

彼は決して剣(つるぎ)によって剣を防ぐべく教えたのではない。
「剣(つるぎ)をとる者は剣(つるぎ)によって滅びる」と教えたのである。

彼は憎みや悪意に対して、愛と善とを以て迎うべきことを教えたのである。

イエスの弟子が「われれは天国へ行く道を知らず」と云ったときに、
イエスは

「われは道なり、真理なり、生命(いのち)なり。
 われによらで父の国に入(い)る者なし」

と答えたのである。

イエスの生活した通りに生活し、
イエスの行為の通りに行為するとき其処に天国が実現するのである。

            <感謝合掌 令和3年12月3日 頓首再拝>

《生命の樹に到りて「生命の実」を食せん》 - 伝統

2021/12/04 (Sat) 05:06:07


      *『人生の秘訣365章』第10篇(P263) より

聖書は最初に「創世記」に於いて天地の創造を録(しる)し、
エデンの楽園に人間が置かれ、智慧の樹の実を食して
エデンの楽園から追放せられ、
「生命の樹の果」を食することを禁ぜられ、

人間が「生命(せいめい)の樹(き)」に近づくことができないように、
ケルビム天使をもって衛りたもうたことを

「神其人を逐出しエデンの園の東にケルビムと
 自ずから旋転(まわ)る焔(ほのお)の剣(つるぎ)を置(おき)て
 生命(いのち)の樹(き)の途(みち)を保守(まもり)たまう」

と書いている。

ところが聖書の最後の章は、
生命(せいめい)の樹(き)に行く基本人権の恢復が書かれているのである。

その基本人権を回復するには如何にすればよいかと言うと、

「視よ、われ報(むくい)をもて速かに到らん、
 各人(おのおの)の行為(おこない)に随いて之を与うべし。
 ・・・おのが衣(ころも)を洗う者は幸福(さいわい)なり、
 彼らは生命(いのち)の樹(き)にゆく権威を与えられ、
 門を通りて都に入(い)ることを得るなり」(「黙示録」第二十二章)

と示されている。

「衣(ころも)」と云うのは魂の被服であるところの体(ボディ)である。

       <感謝合掌 令和3年12月4日 頓首再拝>

気高き生活を - 伝統

2021/12/05 (Sun) 04:46:48


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いずれにせよなんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みととは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

       <感謝合掌 令和3年12月5日 頓首再拝>

《天国は次から次へ伝えなければならない》 - 伝統

2021/12/06 (Mon) 05:02:57


    *『人生の秘訣365章』第10篇(P263~264) より

人間の魂の被服であるボディ(Body)には
肉体、エーテル体、幽体、などと云うものがある。

そのうち幽体と云う被服は、吾々の想念感情の貯蔵庫としての被服であるから、
「おのが衣(ころも)を洗う者」と云うのは、幽体を洗うこと、
即ち想念感情を洗うこと、即ち心を浄めることに当るのである。

心を浄めるならば、私たちは神の国に還ることをゆるされるのである。

「生命(いのち)の樹(き)にゆく権威を与えられ」と云うのは
「生命(せいめい)の樹(き)の実」即ち「生命の實相」を自覚して、
「門を通りて、都に入ることを得るなり」であり、都と云うのは、
天国浄土即ち「エデンの楽園」に復帰すると云う意味である。

「黙示録」は言う。
「御霊も新婦(はなよめ)もいう『来りたまへ』聞く者も言え『きたり給え』と、
渇く者はきたれ、望む者は價(あたい)なくして生命(いのち)の水を受けよ」と。

聞く者も「来りたまえ」と言わなければならないのである。
福音を聞きたる者は次から次へと伝えなければならない。

       <感謝合掌 令和3年12月6日 頓首再拝>

「聞き上手」とは“神のコトバ”を聴く心の持主のことである - 伝統

2021/12/10 (Fri) 04:38:47


      *『白鳩』(昭和42年12月号 “はじめのことば”
           ~谷口 清超 先生

『聞くこと話すこと』

非常に社交家であるようであり乍ら、人から嫌われている人がある。 
こういう人は、“話し好き”であって、色々な社交場に出入りするが、
人の話に耳を傾けようとしない人である。 

彼女はいつも、“自分の話”を、‘ひと’に聞かせようとしている。 
従っていくら記憶力がよくても、話しの材料は尽き果てるから
同じ話を何回も言うことになる。 

しかも彼女は、誰にこの話をしたのか忘れてしまうから、
時によると、“その人”から聞いた話まで
“その人”に話してきかせるのである。

こうして彼女は、次第に友人を失い、
人々から得るものは殆ど何もないのである。

 
ところが之に反して、人々の話によく耳を傾け、
相手の言うことを素直に聞いてあげようとする人は、
人々から愛されるのである。 

相手は彼女を「話し上手だ」というかも知れないが、
実は「聞き上手」なのである。 

而も彼女は人々から色々の面白い話を聞かされて、
豊な人生教訓を得るにちがいない。 

話す人は、自分の悩みや関心事を、心から聴いてくれる人を見出して、
非常に感謝してくれるのである。

しかし乍らそのようにして私達が「聴いてあげる」ことができるのも、
「話してくれる人」がいるからであることに、気着かなければならない。 

両方が「聞こう」としても、それでは会話はあまり進行しないであろう。 

そこで、あなたは、
「おしゃべりな人」にも感謝しなければならないのである。 

「話す人」も「聞く人」も、みな同じ「神の子」同士である。 
その事実をいつも胸に刻み込んで、ニコニコ感謝し乍ら適当に聴き、
適当に話しておれば、人々は皆幸福に、仲好くたのしい生活することが
できるものである。

かくの如く私達が、相手に感謝の念をもって暮しているならば、
その感謝の心が自から態度やコトバにあらわれて来る。 

あなたに話をしてくれる人は、あなたに何かを与えようとしているのであり、
あなたを賢明ならしめようとしている人である。 

どんな話にも取るべき点と、すてるべき点があるから、
前者を取り、後者を聞き流すがよい。 

人の悪口や、非難は、後者に属するものである。


もしあなたが人から誰かの悪口を聞き、
非難がましい言葉をきくことがあって、
それを真実と思い込むならば、
それはあなたがまだ「聞き上手」ではない証拠である。 

相手の非難に相槌を打つことが「聞き上手」という訳ではない。 
「聞き上手」とは、“神のコトバ”を聴く心の持主のことである。 

本当に相手の神性のコトバを聴き取ろうとするならば、
浮浪人でも、フーテン族でも、「神の言(ことば)」を
語りかけてくれるであろう。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/dd3aa92e1cf28efa65086d443192abe9

       <感謝合掌 令和3年12月10日 頓首再拝>

限りあるこの人生 - 伝統

2021/12/12 (Sun) 04:32:35


        *Web:かんながら(2021年12月11日)より

今日は単刀直入にいきます。

人からどう見られるかだけが人生になっていませんか。

このことを深く自分自身に問いかけてください。


多くの人がこのような見えない鎖に縛られています。

人と同じようにちゃんとした人に見られるように、
あわよくばちょっとした人に見られるように、
人生が一連の見せかけになっていませんか。


そうやってかけがえのない一生を費やすことに
疑問を感じた事はありませんか。


我々の人生には、もっと深い何かがあるはずです。

それを時間をかけて一緒に探っていきたいと思っています。



人生には何一つ偶然も無駄もなく、
起きるときに起きることが起きています。

あらゆる人との出会いは、一瞬早すぎず遅すぎず、
ベストのタイミングで起きていると感じています。

いまこの瞬間も同じです。


幻想の人生を幻想と知りながら楽しむためには、
確かなる実存への足場が必要ですね。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12108665.html

       <感謝合掌 令和3年12月12日 頓首再拝>

謀は密なるを要す - 伝統

2021/12/14 (Tue) 05:01:38


         *『生長の家』(昭和23年9月9日の法語)より

人が失敗するのは、あまり計画の内容を
早期に自分で暴露するためであることがある。

蒔いた種は発芽してその芽が丈夫になる迄は、
それを包んで霜や冷たい風や乾燥の害を防いでやらねばならぬ。

その謀が善であるからと云って、善を無暗に主張するために
悪の反撃に遭って折角、善なる計画がくずれてしまうことは
往々あり勝のことである。

正直は善徳であるが、蔽うべき時に蔽うて置くことは一層の美徳である。

馬鹿正直ではよくないのである。

蔽うべきは蔽い、あらわすべきは露(あらわ)すのが智慧である。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

       <感謝合掌 令和3年12月14日 頓首再拝>

充分芽の出るまで あせってはならぬ - 伝統

2021/12/15 (Wed) 05:00:29


      *『 生長の家 』(昭和24年9月9日の法語)より

すなおに受けて その与えられた賜(たまもの)が
充分 芽を出して育つまで待つ心が必要である。

余りに早期の天才は 夭折(わかじに)し易(やす)いものである。

何でも自己の中(うち)に本当に蓄積したものが
発芽して形を現わすのであるから、
蓄積しないまでに、外に大きく伸びようとあせってはならない。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

       <感謝合掌 令和3年12月15日 頓首再拝>

「言い訳」は、自分に限界をつくる“最悪の敵” - 伝統

2021/12/17 (Fri) 04:52:46


       *『「言い訳」をやめるといいことがたくさん起こる』第5章 より 
         ウエイン・W・ダイアー:著 (P199~200)

この言い訳は便利だが、やる気を奪われてしまう。
なぜなら、自分がどれほど疲れているかを考えたり話したりすることで、
実際よりもさらに疲れ果ててしまうからだ。

「疲れている」と口にすればするほど、
肉体的に疲労する理由がないときでさえ、エネルギーが奪われていく。

ある日一人の友人が

「自分はもうヘトヘトなので、予定していた週末の
 ワークショップをキャンセルしたい」

というのを聞いたとき、私は金輪際(こんりんざい)、
この言い訳を使わないと決心した。
 
人に(あるいは自分自身にも)二度と「疲れた」といわないと心に誓ったのだ。

そして、《自分には無限のエネルギーが備わっている》、と想像するようにした。
 
睡眠習慣も変えず、エネルギー源になるサプリメントも飲まず、
生活スタイルも変えなかったが、ただ、

「《自分は高いエネルギーをもった人間だ》」

と思うようにした。
 
自分を「疲労とは無縁の人間」と見るようになったのだ。
すべては、私の中に出現した新しい考え方からはじまった。
 
それから約四十年がたつが、私は今日に至るまで、
「疲れた」と考えることさえ断固として拒否している。

       <感謝合掌 令和3年12月17日 頓首再拝>

妄執を斬る日 - 伝統

2021/12/19 (Sun) 05:04:28


           *「光明道中記」(12月19日)より

【妻の非難の念波は良人(おっと)の心を淋しくする。また良人を病気にする。
                       (『生命の實相』第六巻)】

人間は健康なのが自然であって、不健康なのが不自然なのである。
そうすると不健康とは不自然な生活が起ったと云うことである。

不自然な生活の中には、憤(いか)りに耽(ふけ)ること、
人を怨み憎むこと、悲しむこと、陰気に沈むこと、笑わぬこと、
いつまでも同じ感情に沈むこと、仕事をせぬこと、
上に仕えて素直でないこと、兄弟仲よかざること、人をゆるさぬこと、
嫉妬心を起すこと、あせり急ぐこと、・・・等々の心持である。

憎んでいなくとも斬らねばならぬことがある。
愛していても斬らねばならぬことがある。

(中略)

斬れ!  自分の過去を。

       <感謝合掌 令和3年12月19日 頓首再拝>

明朗歓喜の日 - 伝統

2021/12/23 (Thu) 04:57:05


           *「光明道中記」(12月23日)より

【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。
                   (『生命の實相』第四巻)】

人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。

心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても
精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。

心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで
肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。

失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて
新生面を開くことが出来ない。

成功の要素として欠くべからざるものは、
調和の心と、強さの心とである。

では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、
吾々は神と調和することが出来るのである。

神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。

神からの叡智が流れいることによって、
押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。

       <感謝合掌 令和3年12月23日 頓首再拝>

一歩一歩の前進 - 伝統

2021/12/24 (Fri) 04:48:32


       *谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』(P124)より

いくらあせっても、実力以上のものが出て来るわけではない。
実力以上にみせかけても全く無駄である。

一言、一句、一瞬の動作の中に、あなたの「実力」がとび散るのだ。

それ故、表面を飾ることをやめよ。

労をいとうて、功ばかり求めるな。

コツコツと努力すれば、それだけの収穫は必ずある。
何故ならあなたの実力が向上するからである。

本来力はいくらでもある。

それを出すためには、ただ練習、訓練あるのみだ。

一歩一歩前進せよ。

一日五十里を歩く飛脚も、一歩一歩を重ねて歩き続けるのである。

       <感謝合掌 令和3年12月24日 頓首再拝> 

常に、後味のよいことを考える - 伝統

2021/12/25 (Sat) 06:38:28


        *「生命の實相」第38巻幸福篇下巻(12月25日)より

憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを
考えるようにしなければならぬ。

ピシリと相手をやっつけても、
そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。

勝つとは、後味までも歓べることである。

            <感謝合掌 令和3年12月25日 頓首再拝>

《眞理の自覚に伴う現世的利益》 - 伝統

2021/12/28 (Tue) 04:26:18


     *『人生の秘訣365章』第11篇(P274) より

あなたは何処におろうとも、何処に行こうとも、
眞理の自覚を携えている限りは其処に天国浄土はひらかれるのである。

眞理とは何ぞや?
すべての人間は“神の子”であるということである。

仏教的に言えばすべての人間に“仏性”が宿っており、
その“仏性”こそ各人の「本当の自分」であるということである。

今まで仏教の教祖たちはこの“本当の自分”を顕現するための修行として、
坐禅とか念仏とか称題とか、各宗派に従ってそれぞれ其の特徴とする方法が
教えられて来たのであるが、

教えが伝承せられる途上に於いて、その方法が“本当の自分”を顕現する方法だと
伝えられずに、何か未来世的又は現世的御利益を得るための呪文の如く秘法の如く
誤解せられて来たフシがあり、

そのために“本当の自分”を顕現することを忘れて、
他力によって或る恵福が外来的にやって来るための「アラジンのランプ」の如く
扱われて来たのは宗教の堕落というほかはないのである。

本当は、これらの行事は「眞實の自己」即ち「實相」を顕すための坐禅であり、
念仏であり、称題であるのである。

そして人間の「實相」があらわれたら「實相」の内には
一切が蔵されているのであるから、終局、現世的な利益もおのずから整うのである。

            <感謝合掌 令和3年12月28日 頓首再拝>

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2021/12/29 (Wed) 05:03:10


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日)より

「勝てる」という自信はよいが、「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。
「勝てる」という自信はその人を寛大にし、「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。

難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、
それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうとするのであるから、
その人の心中は自己葛藤に満たされる。

自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、自己の健康を傷つける。
この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月29日)より

人々よ、今日(きょう)から他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。
人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

            <感謝合掌 令和3年12月29日 頓首再拝>

精神論で、もめない - 伝統

2021/12/30 (Thu) 06:17:50


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016-01-12)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   自分が正しいと思ったときは正しいっていっちゃだめだよ。

   よく覚えておきなよ。


   自分が絶対、これ、正しいっていったとき、

   「私が正しいんです」

   っていうと必ず喧嘩(けんか)になるからね。


   そういうときは必ず、

   「自分は少し変わってますから。
    私、変ですから、こういう考えもあるけど気にしないでください」

   っていわないと、
   その前にいろんなこと、いってた人から全部、反感買うからね。


   で、精神論って喧嘩しないことだよ。

   敵を作らないっていうのが精神論だよ。

   だから、精神論で喧嘩してるやつ、おかしいんだよ。


   宗教同士で喧嘩してるとかっていうのはね、
   「右のほおを打たれりゃ、左のほっを出しなさい」とかいいながら、
   宗教家ってすぐ喧嘩するんだよ(笑)。

   ここでいろんなこと聞くとね、普通の人より頭、よくなっちゃうから、
   頭よくなったら、頭いいふりしちゃ、だめなの。

   「私、少し変ですから」

   っていわないとね、だめだからね(笑)


   だから、精神論でさ、もめたらばかばかしいからね。

   もめないことです。

      <『斎藤一人 千年たってもいい話』マキノ出版>

           ・・・

精神論や価値観で争ったり、突っ張りあえば喧嘩になる。

相手が信じていることを、それは間違っていると言えば言うほど、
相手は嫌な気持ちになる。


「蓼(たで)食う虫も好き好き」ということわざがある通り、
人の好みはさまざまだ。

他人の趣味や、価値観について、とやかくいうことはできない。


宗教も、学問も、スポーツも、服装や食べる物も、そして人も、
すべては好き嫌いで決まる。

自分の好きなものをけなされたら、誰だって腹が立つ。

好き嫌いに理屈はないからだ。


人生においては、自分の味方を一人でも多く増やすことが目的なのに、
価値観や精神論の違いで、敵を作ってしまってはもったいない。

もめそうになったら、「私、少し変ですから」と言う。

自分が一歩引けば、丸く収まる。

・・・

<参照>
伊勢ー白山 道(2021.10.7)
他人と喧嘩をするようでは、まだまだの自分だった
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/27f5a54744470dca53f08609cfb74309

            <感謝合掌 令和3年12月30日 頓首再拝>

人を訪問するのに、その家の平安を祈りながら戸口をくぐる - 伝統

2022/01/02 (Sun) 05:02:27


    *「光明道中記」(1月2日《人の幸福をねがう日》)より

【愛はすべての物に調和と平和とを齎(もたら)す精神波動である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

人を訪ねる時は、その人に幸福を手土産(てみやげ)として行くべきである。
このことを知ったとき、私はひとを訪問することが楽しみとなったのである。

誰でも人を訪問する時には物質的手土産を持って行くことを忘れないのであるが、
手土産と云うものをただ物質的にのみ考えていた時代には
手土産なしに人を訪問することが、何か不自然な忘れ物をしたような感じがして
気が咎めたが、手土産は必ずしも物質に限るべきものではない。

「心の手土産」と云うようなものもあると云うことが解るようになってから、
私は必ずしも人を訪問するのに以前のような窮屈な感じがしなくなったのである。

心の手土産と云うのは何か、調和と平安の精神波動を持参することである。
人を訪問するに当って、相手の家が、神の愛に満たされて
調和と平安に満たされていることを念じてその家に入るのである。

そんなことが何の価値があるかと言うのは唯物論者のことである。

人が人を訪問するのに、
その家の平安を祈りながら戸口をくぐる事は荘厳な行事である。

            <感謝合掌 令和4年1月2日 頓首再拝>

天国は、われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある - 伝統

2022/01/03 (Mon) 07:19:31


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月3日)より

人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。
神の国とは天人常に充満し、絶えず天鼓(てんく)の響きを妙(たえ)に、
摩訶曼陀羅華の花降る世界である。

天鼓(てんく)とは天の鼓ではない。
人間の人を賞(ほ)め讃える声である。

曼陀羅華とはインドにある華(はな)ではない。
華(はな)の笑(え)むように和やかな微笑、深切な言葉、思いやりのある行ないが
天上から降る曼陀羅華である。

これら天鼓(てんく)と曼陀羅華とで飾られたる
妙(たえ)なる世界の姿が天国である。
天国とは別の世界のことではない。

われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。

            <感謝合掌 令和4年1月3日 頓首再拝>

善事をなす習慣 - 伝統

2022/01/05 (Wed) 02:18:56


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月5日)より

一日だけで、やりかけた善事を止めてしまうような者は、何事も成功から墜落する。
つまらないことのようでも小さき善事を継続することによって、
その人の魂は進歩し、環境は天国化するのである。

一日ぐらい懶(なま)けてもいいだろうというような考えから、善事をなす習慣を
たった一日廃絶したことによって堕落した人は世間にたくさんある。

昨日(きのう)きめた、朝起きた時に家族一同に優しい言葉を朗らかな調子で投げかける
ことを今日も続けなければならない。そしてさらに進んでいっそうの善事をつけ加える
ことをしたい。

食膳で感謝することである。
食物の本源である神の生かす力に、それを造ってくれた百姓の労苦に、
それを調理してくれた妻・娘または召使にである。

食物はまずくとも決して小言を言わぬことである。
食物の小言を言ったために終日その家庭が不快になったような経験は、
人類の誰でもが持っていることである。

食物そのものよりも、心の愉快さと、空腹とが食物の味を増すのである。
遠足に行って食べる梅干と握り飯の美味しさを思えば、このとこの真理は解る。

心が愉快でないときどんな食物もまずい、まずいのは自分自身の心の罪であり、
料理をしてくれる他(た)の家族や召使の罪ではない。

空腹でないために、美味しくないのは、
習慣に捉えられて空腹でないのに食事をするためである。

精神的に進歩したい人は、朝食を廃して、
出勤前の2時間を善き読書に費やすがよい。
毎朝2時間の読書の習慣は、その人をかなり向上もさせれば、博学多識にもする。

時間がないという者は、時間を造らない人のことである。
時間は、他の多くの道具などと同じく、人間によって製造せられるものである。

           <感謝合掌 令和4年1月5日 頓首再拝>

仕事の秘訣 - 伝統

2022/01/06 (Thu) 04:51:29


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より

たえず活(はたら)いているということが喜びの源泉である。
活(はたら)かないものは、何か自分の内部から気がとがめるあるものを感ずる。
この気がとがめる囁きをごまかすために多くの人は外面を麻酔する誘惑に身を投ずる。

「小人(しょうじん)閑居すれば不善をなす」というのは、働かないものが内部に
感ずる良心の囁きをごまかすために誘惑に身を委(まか)せることをいう。

酒や麻酔薬で内部の囁きをごまかしてみても本当の幸福は来ぬのである。
ごまかしの生活の中には必ず何か暗いものがある。

本当の幸福というものは暗い生活からは生まれぬ。

暗い生活をごまかしごまかしして偽りの快感らしい生活を送るのは、
湿疹(しっしん)の瘡蓋(かさぶた)の痒きを掻(か)いてごまかすところの快楽である。
掻けば掻くほど、魂は爛(ただ)れ、みぐるしい膿血(のうけつ)が流れるのである。


常に人の《ため》になる仕事、常に世の《ため》になる仕事、
たゆみなくかかる仕事に従事している人には魂の喜びが伴う。
仕事が無上の喜びとなり、仕事の中に休息と慰安とがある。

金(かね)を貰って働いている人も、
金を貰って働くと思えばその時から魂の喜びは消えてしまう。

金(かね)を頂くのは、それが多いにせよ少ないにせよ神様から恵まれたものであると感謝し、
仕事は仕事で人のため世のためへの自分の魂の献(ささ)げ物であると思って、
人のために尽くすという喜びの中に仕事をするがよいのである。

かかる仕事の中からは不断の喜びが湧く。
金と仕事とを交換的に考えてはならぬ。

仕事はいかなる「金(かね)」よりも尊いものであるがゆえに、
仕事のために「金(かね)」を貰っているという考えが起こるや否や、
仕事の歓びは半減される。

仕事を常に支配すること。
仕事に支配されてはならぬ。
仕事を追い回すことは、仕事から追い回されない秘訣である。

仕事に不平を立てておいて、そのゴールまで突進するのは仕事を捗(はかど)らせる
良き方法である。しかし、ゴールに到着しない日があっても焦(あせ)ってはならぬ。
一日の労は、一日の労で足りるのである。

常に働いていながら、その仕事が捗らないのは、何か神の摂理(おぼしめし)があるので
あろうと、またそのことに感謝するがよい。そこからいらいらした心持(こころもち)が
和(なご)やかになり、平和が魂に戻ってくるであろう。

急がず、たゆまずに進むのが仕事の秘訣である。

            <感謝合掌 令和4年1月6日 頓首再拝>

緩急自在な生活 - 伝統

2022/01/07 (Fri) 04:47:50


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月7日)より

常に仕事をすると言っても、緩急がなければならぬ。
緩急のない生活は、張り切ってばかりいる弓の弦(つる)のように、
次の矢をつがえることができぬ。

一張(ちょう)一弛(し)の交代によって弓の矢は的(まと)を射抜(いぬ)く。
張り切ってばかりいる弦(げん)はついに切れる。

さればといって、仕事をする時に懶(なま)けよと言うのではない。
弓を射るときには一心(しん)でなければならぬ。
仕事をするときにも一心でなければならぬ。

本当に張り切ったとき仕事は前に命中する。

仕事が終わるか、定められた休息の時間が来るか、家に帰って家族と
うち寛(くつろ)ぐ時が来た等のときには本当に打ち寛(くつろ)がねばならぬ。

仕事は渋面(じゅうめん)をつくるためにあるのではない。
仕事は喜びを感ずるためにあるのである。
仕事を渋面をつくるためにあるように思ったり、
渋面をつくらねば真面目でないと思ったりするのはまちがいである。

団欒のときには楽しくすることが一つの仕事である。
家庭の団欒が忘れられているがために、妻が不平を言ったり、家族が病気になったり、
良人が危険の淵に近づいてゆくことも考えねばならぬ。

人間は金を積んで走る馬車馬のために造られているのではない。

            <感謝合掌 令和4年1月7日 頓首再拝>

団欒と仕事との調和を考えること - 伝統

2022/01/08 (Sat) 04:44:36


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月8日)より

あまりに四角四面な余裕のない押しつめられた生活からは幸福な生活は生まれぬ。
曲線と直線とが巧みに調和していなければ美術でも生活でも美しくないのである。

団欒と仕事との調和を考えること、
あたかも美術家が曲線と直線との調和を考えるがごとくでなければならぬ。

            <感謝合掌 令和4年1月8日 頓首再拝>

八面玲瓏の日 - 伝統

2022/01/13 (Thu) 05:05:09


           *「光明道中記」(1月13日)より

【心が柳の枝に雪折れなしの様な状態になったら神経衰弱が治りました。
                      (『生命の實相』第三巻)】

すべての人の立場を認めるとき、吾々は八方正面の心境に到達するのである。
八方正面とは隙がないことである。
凡ゆる立場に於ける相手の位置が、その儘に自分の心の中に映り来るのである。

すべての立場を認めることが出来ず、一つの立場のみを正しいと思い、
その立場にのみ心を執しているとき、その他の方面は全然隙だらけになって
打ち込まれてしまうのである。

あのことに熱中していましたので、つい忘れていましたと言うのは、
弁解にはならないのである。

剣も碁も兵法も商道も、すべての方面見て行き届かねば名人ではない。

如何に鋭くとも折れ易い刃は役に立たない。
人間は剃刀(かみそり)の如く鋭い一面も必要ではあるが、
柳の枝のような強靭性も必要である。

世の中は「硬(かと)う柔(やわら)こう、柔こう硬う、
円(まる)う四角う、四角う円う」
自由自在に生きなければならないのである。

仏教に通達するには無字の門関を透過しなければならぬ。
無字を透過するは、柳の枝の如く無抵抗に、そして
「我れ地に穏かを出さんが為に来れるに非ず、剣を投ぜん為に来れるなり」
と言った基督のように鋭くならん為である。

            <感謝合掌 令和4年1月13日 頓首再拝>

《萎縮する代りに前進せよ 》 - 伝統

2022/01/14 (Fri) 05:05:19


        *『人生の秘訣365章』第1篇(P40~41) より

過去を嘆くこと勿れ。

どんなに過去が辛いものであったにしても、
貧しい境涯で教育が受けられなかったとか、遺産が少なかったとか、
色々のハンディキャップが過去にあったにしても、
そのような消極的な観念で自分の“今”の生活を萎縮せしめてはならない
のである。

萎縮する代りに前進せよ。


真にあなたが何を求めているか、
人生に於いて何を為さんと欲しているかをハッキリ脚下照顧して、
自己の“真実の願い”がなんであるかを知るがよい。

人に宿る“真実の願い”は、
実は既に“實相の世界”に於いては成就している事なのであるから、
それを実現するために、あなたが真に真剣に努力さえすれば
必ず実現させ得るのである。

「迚も(とても)できない」とか「自分の現在の力では?」とか
退嬰的なことを考えてはならないのである。

大地に植えられたる種子(たね)は「迚もできない」とか
「自分の現在の力では?」などと考えないのである。

種子(たね)には少しも「動く力」はないように見えるが、
生命(せいめい)が動き出せば
形が動き出して大地を破って発芽し生長するのである。

そして或いは巨樹となり或いは爛漫たる華を咲かせるのである。

自分が動き出さないでいて、動く力がないなどと考えてはならないのである。

            <感謝合掌 令和4年1月14日 頓首再拝>

《その所に於いて生き切れ》 - 伝統

2022/01/15 (Sat) 01:54:30


      *「光明法語」(1月15日)より

すべての人は神の子であるから、
必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。

その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、
それによって幸福を得るのである。

その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが
自分に解らないときには、現在の仕事と環境に於いて、
自分の出来るだけの力を尽くして精出せばよいのである。

全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、
必ずそれは真の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。

            <感謝合掌 令和4年1月15日 頓首再拝>

日々、自分は本当に生きているか、と問いかけよ! - 伝統

2022/01/16 (Sun) 04:21:01


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月16日)より

今日(きょう)いちにち自分の生命(せいめい)を生かさないことは自殺である。

「今日(きょう)自分は本当によく生きたか」
とわれわれは毎日自分自身の心に対して問いかけねばならぬ。

自殺はすべての罪悪のうちで最大の罪悪である。

            <感謝合掌 令和4年1月16日 頓首再拝>

《惰性的安定感に堕ちてはならぬ》 - 伝統

2022/01/17 (Mon) 04:56:36


      *「光明法語」(1月16日)より

新しい想念を入れることが出来ず、変化すべき時に変化に抵抗し、
新しき経験が自分の生涯に入(い)り来(きた)ることを拒む人間には
進歩はない。

この種の抵抗は前途に対する不安恐怖の念から来る。
今までやってきたことが一番安全だという
愚かしき固定概念に支配されているからである。

もしすべての人類がかくの如き固定概念に支配されていたとしたならば
この世界にも人間にもどんな進歩も発達も得られなかったのである。

現在の状態の崩壊することは悲しいことのように見えるけれども
それは却(かえ)って進歩と幸福への契機である。

            <感謝合掌 令和4年1月17日 頓首再拝>

自分の生命(いのち)がどれだけ生きたか? - 伝統

2022/01/18 (Tue) 04:08:25


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月18日)より

毎日何事か《人のためになる》仕事をせよ。
その《ためになる》部分だけが自分の《生きた》生命である。

《ためにならない》部分の生活は死んだ生活である。
自殺の生活である。
日々、自殺の生活を送らないように心がける者だけが大きく生長するのである。

何よりも自分に深切であることである。
そして自分に深切であるには、常に振り返ってみて、
人のために何事をなしえたか ――
それによって自分の生命(いのち)がどれだけ生きたかを反省しなければならぬ。

            <感謝合掌 令和4年1月18日 頓首再拝>

心清く、他人(ひと)を赦し、他人(ひと)のために祈る - 伝統

2022/01/19 (Wed) 04:32:16


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月19日)より

心が清くなることを心がけよ。
衣裳や白粉(おしろい)で飾っても、心の清さには及ばない。

心を清くするには悪を思ってはならない。
特に他人(ひと)の悪を思ってはならない。
他人(ひと)の悪を思ったら、他人(ひと)の悪が入って来る。

これは「自分に深切でない」ことである。
心を汚(けが)すのが唯一の罪であり、唯一の穢(きた)ないことである。

それでも他人(ひと)の悪が自分の心の中へ毒薬のように入って来たならば、
その毒薬の害毒を避ける道は、赦すことである。

腹を立てたり、興奮してはならない。
その人が善に立ち戻ることができるように静かに祈り、
かつその人のために考えてやらねばならぬ。

         <感謝合掌 令和4年1月19日 頓首再拝>

すべての人と仲よく交わる - 伝統

2022/01/27 (Thu) 04:39:49


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月27日)より

《ひとり》になる時間を持つことは大切である。
その時間は静かに自分の 魂 に対座する時間である。

しかし、《ひとり》になる時間ばかりに耽(ふけ)る者は独善主義に陥りやすい。
人は自他一体の生命(せいめい)であるから、互いに扶(たす)け合い、語り合い、
讃(ほ)め合い、勇気を付け合う時間も必要である。

孤独は《ひとつ》の徳であるが全部の徳ではない。
他人と仲の悪い孤独は悪徳でさえある。
さらに家族と仲が悪いにいたっては度すべからざる罪人(ざいにん)である。

すべての人と仲よく交わることの中に 魂 の生長があり、家庭の和楽があり、
人間らしい歓びがあるのである。

          <感謝合掌 令和4年1月27日 頓首再拝>

何事にも引っかからぬのが「生長の家の生活」 - 伝統

2022/01/29 (Sat) 04:58:03


     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より

悪はないのである。
引っかかるのが悪である。

柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、
紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。

紅でなければならぬと定(き)めたときに、
緑が来ればわれらの心は引っかかる。

引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。

天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、
風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。

《よし》と言いて、
《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。

そのまま《よく》、そのままそれに対応して、
自然法爾の作(はたら)きができるのが引っかかっていないのである。

雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。

雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。

借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、
いろいろのことを鍛えられる。

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。

雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。

          <感謝合掌 令和4年1月29日 頓首再拝>

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと生きる - 伝統

2022/01/30 (Sun) 04:31:03


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月30日)より

交友を選ぶことは生涯のうちで最も大切なことである。
悪しき友と交わってはならぬ。
悪しき人間は《本来ない》けれども、
方向のまちがった側へ進む者を「悪しき人間」と仮に言う。

生命(いのち)の本質の栄えのことを思わず、外面の虚栄に心を奪われ、
五官の快楽のことにのみ心を引かれて悪しき者と交わるならば、
その人は人生で一番大切なものを見失う時が来る。

かく言えばとて、
決して一日中一室に閉じ籠っている憂鬱な友達を選べという意味ではない。

明るく生きることは人生の一つの美徳である。
強く生きることも一つの美徳である。
大きく生きることはさらにまたもう一つの美徳である。

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと
生命(せいめい)の大地を踏みしめて行くことは常によい。

外面(がいめん)の虚栄や五官の快楽には
強さがなく、大いさがなく、広さがなく、包容性がなく、
それが常に狭く個人的なものになりたがるから低卑なのである。

孤独ということも、それが個人的なかぎりにおいては
人の生長を害(そこな)うものである。

        <感謝合掌 令和4年1月30日 頓首再拝>

時処相応の真善美の生活 - 伝統

2022/01/31 (Mon) 04:46:24


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月31日)より

事件に巻き込まれてはならない。
また時処(じしょ)に超然としてもならない。
生命(せいめい)は時処を超越しながら時処の中に美しき華を開く。

「真(しん)」は時空の外に超越している存在であるが、
「善」と「美」とは
真(しん)が時処(じしょ)相応(そうおう)を得たときにあらわれる。

「二二ンガ四」は「真(しん)」であるが、
「三三ンガ九」が必要な時処(ときところ)に
「二二ンガ四」が出て来たのでは時処相応でないということでそれは悪である。

数理の「真(しん)」の世界には無限の数の組合せがあるが、
そのうちで時処相応はただ一つである。

生命(せいめい)の「真」の世界においても
無数の生命(せいめい)の行き方があるが、
その中で、ただ一つだけ「時処相応」がある。

常に「時処相応」の生活をしている人は生活の名人である。
われわれはこの生活の名人になるべく常に心がけたいものである。

常に神の叡智の導きに耳を傾けよ。
そこから本当の時処相応の真善美の生活が顕われてくるのであろう。

        <感謝合掌 令和4年1月31日 頓首再拝>

心朗らかに、日に日に進歩する - 伝統

2022/02/01 (Tue) 04:57:02


        *「光明道中記」(1月30日《美点を見る日》)より

【憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、
 之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)】

心朗かになる道は、世の中に悪と云うものが
決して存在せぬことを根本に知ることである。
一局部だけを見ずに大局を見る。
短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。

冬のうちに春の兆(きざ)していることを知ることである。
陰極は必ず陽転することを知ることである。


心朗かになる道はすべての人を赦すことである。
憎しみを放ち去ること、憤(いきどお)りを含まぬこと。
すべての人の美点を見ること。

相手の立場に自分を置いて考えること。
気にくわぬことは忘れること。
呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。

みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。
他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。

人生の戦いはその人の執(と)る生活の角度で最初にきまるのである。

負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、
既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、
既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って
嘆き悲しみ呪い呟く。

呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、
日に日に進歩する者はついに勝利するものである。

        <感謝合掌 令和4年2月1日 頓首再拝>

《欲望を正しき方向へ》 - 伝統

2022/02/02 (Wed) 04:56:41


        *「真理」第9巻生活篇(P163~164)より

「欲望」はある意味では、仏教的に言えば「煩悩」であります。
しかし人間の心の中に蒔かれたる「欲望」と云う種子(たね)は、
それが正しい場所に蒔かれるとき「善」の実を結ぶのであります。

たとえば「欲望」を「神の道を伝えよう」と云う方向へ播(ま)いたならば、
それは多くの人々を救うことができるのです。
煩悩即菩提です。


これに反して「貪欲」と云う方向に種子(たね)を播(ま)いたら、
それは無限の喝欲となって、自分自身は勿論、他(た)の人々をも
傷つける結果となるのであります。

愛情は人間の魂の中に成熟したところの善き種子(たね)です。

しかしその愛情が正しい方向に注がれないで誤った方向に注がれるならば、
これは争いと闘いとの因(たね)になるのであります。

先ず愛情を神に注ぐことが正しい愛情の種播(ま)きであります。

それが生長して育った種子(たね)を他(た)に播(ま)くとき
千倍万倍の収穫があるのであります。

        <感謝合掌 令和4年2月2日 頓首再拝>

どんな事が起っても小言を言わない - 伝統

2022/02/06 (Sun) 04:53:13


     *「光明道中記」(2月6日《一切に感謝謝する日》)より

【天気に小言を言うな。すべてについて小言を言うな。
 小言はすべて暗い気分を招く。
 暗い気分は病気と不景気のもとだ。(『生命の實相』第十一巻)】


「あなたは心に不平を持っているから、
 それを直さなければ、その病気は治らないでしょう」と、
道場へ来た人に助言してあげることがある。

すると「私は決して不平など心に持ったことはありません」と
答える人が多い。
そう云う人は、自分の心に反省がないのである。

負債があるのに負債のあることに気附かず、
借金があるのに借金をしていることに気附かぬ人である。

そんな人は恐らく借金を払おうとしない人だろうし、
自分の悪癖(あくへき)を直そうとしない人で、
最も始末に了(お)えない種類の人間である。

そんな人が道場から帰る時間になって雨でも降って来たなら直ぐ
「チェッ雨が降って来て弱った!」と言って
天気の小言を言う現場を度々見せられているのである。

不平を持たぬ心とは、
どんな事が起っても小言を言わぬ、小言を思わぬ心である。

観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、
三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。

自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。

        <感謝合掌 令和4年2月6日 頓首再拝>

「キリスト活人術」10の教え - 伝統

2022/02/07 (Mon) 04:48:34


       *「ありのままで生きる」保江邦夫・著(P164~165)より

(1)損なクジを引く

   例として
   スパーでは古いものから買う、
   電車には最後に乗り、
   バスから降りるのは最後に降りる。

(2)しもべになる

   自分の判断基準や感情をいっさい持たないで、
   神のしもべとして働く。

(3)自分の気持ちの中に何も留め置かない

  ①これは天国に行く秘訣です。

  ②毎晩寝るとき、眠りに落ちる瞬間に、
   私は「ただいま」と無心で言って眠るようにしています。 

(4)朝、目覚めたら手を合わせる

(5)物を活かす

   人だけではなく、物(動物、植物等を含む)を活かす。

(6)人を見たら神様と思う

   あらゆる人を神様だと思う、神様と思って接するのです。

(7)人に寄りそう

   全身全霊で関心を持つ。

(8)愛する

(9)愛されていると思い込む

  ①世界中のすべての人から愛されている。
   そう思うことで、悪魔のささやきは消えます。

  ②愛されていると思うだけで、人は変わることができます。

(10)あるがまま

  ①ほんとうに愛し、愛されるのは、
   それがいつの間にか「あるがまま」になったとき。

  ②ただただあるのが愛なのです。

        <感謝合掌 令和4年2月7日 頓首再拝>

《一寸でも愛に反(そむ)く行為をするな》 - 伝統

2022/02/10 (Thu) 04:55:46


           *「光明法語」(2月10日)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、
人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をすることを全然やめた時に、
自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために
神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は

「神と自分との間にある通路は、實に何でもないとおろそかにする
 小事によって塞がれてしまうことがある。
 一寸したズルい行為。一寸した不深切な嘲笑。一寸した世間話。
 一寸した酷評。すべて一寸した愛にそむく行為によって」

と言っている。

            <感謝合掌 令和4年2月10日 頓首再拝>

《後ろから卑怯に斬るな》 - 伝統

2022/02/12 (Sat) 03:01:57


           *「光明法語」(2月12日)より

本人のいない前で悪口を言うのは実に卑怯な行為である。
若し相手が悪いのならば本人に直言すべきである。

若し相手に悪がないのに虚構して悪口するのであれば尚一層卑怯である。
誰も警戒していないのに後ろからバッサリやるのは昔から“悪ざむらい”の所行である。
本人のいないところで悪口言うのは後方からバッサリ斬るのと同じことだ。

そんな行為は常に自分と神との間を遮断するものなのである。

そんなことは愛深き神の波長と会わないのである。

幸福になろうとする者は人の美点を賞めることから始めよ。

            <感謝合掌 令和4年2月12日 頓首再拝>

自他の悪口を言ってはならぬ - 伝統

2022/02/13 (Sun) 02:29:12


       *「光明法語」(2月13日《自己の不運をかこつな》)より

不深切、残忍、卑怯、殺人、盗罪ーそのようなことは神の愛にそむくのである。
神は愛であるから、神の愛にそむく一切の行は神と波長が合わないのである。

吾々が人の悪を決して云わないことに決心し、
それを実行した時に屹度その人は運が向くのである。
更に自分の不運をかこたぬことにしたら一層運が向くだろう。

他人の不運(悪口)を呟くのも、どちらも神の子をけがす罪なのである。
キリストはすべての罪は赦されるけれども
聖霊をけがす罪は赦されないと言っている。

聖霊の出生である人間の悪口を言ってはならぬ。

            <感謝合掌 令和4年2月13日 頓首再拝>

素直に飛びつく者は愛される - 伝統

2022/02/14 (Mon) 02:34:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

           <感謝合掌 令和4年2月14日 頓首再拝>

とげとげしい心を捨てる - 伝統

2022/02/15 (Tue) 04:27:26


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月15日)」より

どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。
人に嫌われるのは心に棘があるからである。

これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというような人は、
これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろうと、
みずから疑うバラの花のようなものである。

とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、
その一つ一つを抑えようとしてもなかなか直るものではない。

まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。
とげとげしい心を捨てるには「とげとげしい心」を
アリとして抑えてもなかなか直るものではない。

暗は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。
暗を消すには光を持ってくるにかぎる。

とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。
「自分は優しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、
その反対の念を自分自身にいって聞かせればよいのである。

           <感謝合掌 令和4年2月15日 頓首再拝>

自己の尺度を捨て、相手の立場に立って相手を生かす - 伝統

2022/02/16 (Wed) 03:54:37


     *「光明道中記」(2月16日《自己の尺度を捨てる日》)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、
 相手を害(そこな)い、自分を害う。    (『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、
実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、
悉く異なって見えるものである。

争いは、見る立場は一つしかないと云う
根本的な迷誤(まちがい)から発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、
或る人には正面が見え、或る人には斜めに見える。

もっと委(くわ)しく分けるならば、
一つの顔でも全然同じように見えることは
あり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに
相手の立場に立って考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、
「己(おのれ)の欲せざるところを他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」
と言ったが、

今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、
己の欲する所も、彼は欲しないかも知れないことを知って、
各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

           <感謝合掌 令和4年2月16日 頓首再拝>

《行為の価は内的動機で高下する》 - 伝統

2022/02/17 (Thu) 04:56:20


        *『 生長の家 』(昭和25年2月4日の法語)より

   現象面だけ見ておれば、金銭を目的にした勤労行為も、
   愛を捧げんがために、実践された奉仕も、
   同じような効果をあげることができるのである。

   然しこれを心霊的方面から観察するならば、
   それは驚くべき差異があるのである。

   金銭を目的にした勤労は、魂の上からいえば、
   ただ利欲の念の現われにすぎないのである。

   又(また)人から認められたり
   賞讃(しょうさん)されんことを のぞんでした愛行は、

   それは愛の形をとっていても、
   ただ利己的な虚栄心の現われにすぎないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 令和4年2月17日 頓首再拝>

不平不満を口に出さない方がいい理由 - 伝統

2022/02/19 (Sat) 03:22:46


      *メルマガ「川島 和正」(2022.02.17)より

お店の会社のサービスや知り合いの行動について
不平不満をいう人は意外と多いものです。

サービスが悪いとか、マナーが悪いとか
あの行動は人を不愉快にさせるとか、あいつは嘘つきだなんて言うわけです。

また、そういったことを、わざわざネット上に書く人もいます。

しかし、こういったことは
基本的には言わないほうがいいですし、書かないほうがいいです。

なぜかというと、言っている本人は
無意識に言っていたり、相手に同意を求めるために言うのですが
相手は聞いていて、気分が良くないことが多いからです。

なぜ、気分が良くないかというと
そんな話をしたり、そんなことを考えるより
面白い話や建設的な話をしていたほうが楽しいからです。

せっかく時間を使うのであれば
やっぱり楽しい人と付き合いたいですし、楽しい投稿を見たいものなのです。


というわけで
もしあなたも振り返ってみて
そういうことを言ったり、書いたりしていたのであれば
今後なるべくしないように気を付けることをお勧めします。

ネガティブな感情をシェアしてしまうと
周りの人も気分悪くなってしまうため
気を付けたほうがいいですね。

・・・

<参照>

斎藤一人さん名言集|地獄言葉はもう一度使わなければならなくなる

   地獄言葉とは、

   「恐れている、ツイてない、不平不満、グチ・泣きごと、悪口、
    文句、心配事、ゆるせない」

   という、幸せな日々を過ごすために
   口に出してはいけないネガティブな言葉のこと。

・・・

小林正観さんの名言

「神様は、その人が多く口にしている言葉を、
 もっとたくさん言わせてあげたいと思うようです。

 その人が、その言葉を大好きらしい、と思ったとき、
 限りない優しさをもった神様は、その言葉をたくさん言いたくなるように
 現象を起こしてくれるらしい。

 不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言うのが好きな人は、
 そんなにそれが言うのが好きなら、そう言いたくなるようにしてあげよう、
 という構造になっている」(喜ばれる・講談社)

・・・

谷口雅春先生の言葉

   隠れたる不平不満が、重大なる病気の原因になっていることがある。

   (『 生長の家 』 昭和25年11月6日の法語より抜粋)


           <感謝合掌 令和4年2月19日 頓首再拝>

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