伝統板・第二

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生命の實相 ④ - 伝統

2021/11/21 (Sun) 02:33:42

人生の海図としての『生命の實相』をよく読む

        *『栄える生活365章』(P33~34)より
         ~人生の航路に羅針盤を忘れてはならない

感謝は不毛の土地に、美しき花を咲かせ、
砂漠に裕かなる収穫をもち来すような力をもっているのである。

あなたは自分の運命の支配者であり、
人生の航路を進み行く船の船長だということができるのである。

しかし、船長に羅針盤がなく、
またどの方向へ進んで行けばよいかの海図がなかったならば
その船は難破するか暗礁に乗りあげるかするより致し方がないのである。

その羅針盤にあたるものが、”心の法則”であり、
その”海図”にあたるものが『生命の實相』の聖典である。

『生命の實相』をよく読んで、人生の海図とし、
幸福の青い鳥に速やかに到達せられるがよい。

・・・

<関連Web>


(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「生命の實相 (226)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=67(消滅H28.11.25確認)

(2)「光明掲示板・第一」内スレッド「『生命の實相』 (773) 」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=199

(3)「光明掲示板・第二」内スレッド「『生命の實相』 (122)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=58 (消滅)

(4)「光明掲示板・第三」内スレッド「『生命の實相』 (72)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=37

(5)「光明掲示板・伝統・第一」『生命の實相』 (51)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=32

(6)伝統版・第二「生命の實相①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6459727

(7)伝統版・第二「生命の實相②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7090507

(8)伝統板・第二「生命の實相 ③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7869594

         <感謝合掌 令和3年11月21日 頓首再拝>

人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』 - 伝統

2021/11/26 (Fri) 05:00:18


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。
「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と
考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。
肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、「心」という
指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は
『人間の心』の中で釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

         <感謝合掌 令和3年11月26日 頓首再拝>

『生命の實相』を読むことで、無数の婦人が「無痛分娩」を経験しました - 伝統

2021/12/16 (Thu) 05:04:17


       *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P103~104)より
         ~《古き信仰を持続する限り苦しまねばならぬ》

吾々の体験する生活は、
心の持方が反映して現れる心的体験の世界でもありますから、

吾々が、「人間は罪人である。されば、汝は苦しみて子を生まん」と云う
旧約聖書の古き信仰を持続している限りは、
その通り出産の苦痛を体験する事になるのです。

「目が眩(くるめ)いて障子の桟(さん)が見えなくなるほど
 痛まなければ子供が生れない」

と云う人類意識を共通に持っている限りは、
その人は出産の苦痛を避け得られないのです。

しかし吾々が古き信仰から超出し、また受苦を必至とする人類意識から
超出する事が出来た時には、出産の苦痛なく子供を生む事が出来るのです。

『生命の實相』を読んで無数の婦人が「無痛分娩」を経験しました。

それは文章の力により古き誤れる信仰から超出したからです。

         <感謝合掌 令和3年12月16日 頓首再拝>

文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である - 伝統

2022/01/21 (Fri) 03:51:22


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月21日)より

病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。

《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。
そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。
そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。
この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。

読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが『生命の實相』である。
これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

学と術とはちがう。
現象学は現象を正確に告げる必要があるし、
人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる

病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。

病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。

         <感謝合掌 令和4年1月21日 頓首再拝>

『生命の實相』は両方面から書いてある、躓かぬものは幸いである  - 伝統

2022/02/21 (Mon) 04:49:15


       *「光明道中記」(2月21日《躓かざる日》)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
                    (生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

         <感謝合掌 令和4年2月21日 頓首再拝>

『生命の實相』を読んで病気が治るも治らむも、心境の変化による - 伝統

2022/02/22 (Tue) 04:59:58


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月22日)」より

『生命の實相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。
薬を廃めないで治る人もある。

またかえって薬を拝んで服むようになり、
心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。

刺身包丁を見て、それで人殺しをする人もあれば、自殺する者もある。
また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。

先日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して
鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。
それはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。

たまたま包丁で人殺しをしたり、
メスを見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、
包丁やメスは危険であるからといって、その発売や所有を禁止したり、
メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。

『生命の實相』には病人に対して
むやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もない。

たとえば『生命の實相』の巻頭の神示には、

「《もし病人にして医薬を服用する者あらんには》それを四口に分けて飲み、
この《同じ想念》をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。

すべての他の人の罪を赦すは、吾らの過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。
もしわれらが心を閉じて他(た)を赦さなければ、大生命の癒能(いやすちから)もまた
閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」

この「《同じ想念》」をなすというのは
「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって赦されんがための供物であると念いて服み、

二口目を手してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための
供物(そなえもの)であると念(おも)いて服(の)み、

三口目を手にしては是れ神の護りによりて
自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがための供物であると念いて服み、

四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪を
この水のごとくわが心より洗い流して
心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って服(の)む」

べきことがその前行の文章に書いてあるのである。

これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。

それが『生命の實相』の、特に巻頭に書いてあったのは、
それが重大な事柄であるからである。

近代のサイコアナリシス(精神分析)は
観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明した。

この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、
医薬の服用と同時に観念泄瀉を行なう方法であるともいえるのである。

『生命の實相』は現に医薬を服用していない者に「医薬を服め」とは勧めていないが、
「《病人にして医薬を服用する者あらんには》・・・かくかくの心持にて《服(の)め》」
と書いてあるのであって、「《服むな》」とか「その服用を廃せよ」とは書いてはいない。

しかるに『生命の實相』を読んで、薬を廃(や)める者があるのは、
仏教的真理「色即是空」(物質本来無し)、
または諸方皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、

自己内在の生命の自然療能力に頼ることを重んじて
物質的薬剤に頼ることを軽視するようになるからである。

           <感謝合掌 令和4年2月22日 頓首再拝>

通俗平易な表現をした 『生命の實相』 - 伝統

2022/04/21 (Thu) 09:13:27

哲学の民主化 ― 通俗平易な表現をした 『生命の實相』

         *『西田幾多郎博士との対話』 より

哲学者と云うものは何故そんなに難解な言葉を使って、
難解に表現しなければならないのか。 
私は不思議な気がするのである。 

『生命の實相』 を私が易しい通俗語を用いて書いたら、
それは哲学ではないと思っている人がある。 

野村證券の飯田清三氏が 『生命の實相』 を読んで見て、
『生命の實相』 には哲学がないと思って捨ててしまった。 

すると九州帝大の佐藤通次教授から 
『生命の實相』 はそのままで一つの哲学体系を成しているのですよ
と云われて、再び読み返して見て、それが生命の哲学だとわかって
熱心になったと云う話もある。

私は独逸語が出来ないので充分わからないが、
ヘーゲルなどは当時の独逸の通俗語を自由自在に駆使することによって、
一層深い意義を表現したと云われている。 

私が目に一丁字のない人にもわからせる生命の哲学を書こう
と思って苦心したその結晶が、あの 『生命の實相』 である。

もっと凝縮してその中心原理だけを一冊に纏めたものを出したら
用紙の節約になるだろうと云って下さる人もあるが、
哲学を哲学的難解語でないものを使って表現するのは一つの芸術であって、
夫が如何に小学卒業位の人にさえも解らせ得て、
兎も角も生命が何ものかを知ることを得て救われたと云う礼状が来ている。 

私は手前味噌で云うのではない。 

私はもっと哲学を日本的な表現を以って表現し得なかったならば、
真の日本的な哲学が出来て来ぬと思う。 

日本には古来哲学が無かったと云う人があるが無かったのではないが、
その哲学的な表現は近代に至って外国哲学の翻訳を以って始ったので、
哲学者と云う哲学者は自分の思想を翻訳口調の文章で表現する。 

これは日本語粛清の上から云っても重大なことであり、
その理解し難い語脈の文章を理解しようと思って、
考え考え読む為に、日本人の勉学時間が著しく無駄に消費されていることに
注目しなければならない。 

然もそれが日本的哲学の最初の成果だと批評している人もあるに於ておやである。

私は難解な哲学的語彙を日本固有の通俗語に引き直す為に、
「実相」 を 「もののほんとのすがた」 とか、
「プロジェクション」 を 「心の影」 とか云うように
誰にも解る語を工夫したのである。

あなたの被仰る 
「個物が一般から限定せられると考えられるかぎり、それは個物ではない」 
とは何の意味か、私にはハッキリ判らない。 

それは想像出来るけれども、それが当っているか如何かはわからない。 
用語が明瞭でないときは思索が明瞭であり得ない。

 ・・・ (中略) ・・・ 

あなたの難解な哲学的表現にぶつかった気がする。

何故難解かと云うと、思想そのものが、難解なと云うよりも、
「一般が個物を限定し、個物が一般を限定する」 と云う
語句が如何なる思想を意味するか不明瞭な点です。 

語句の意味が解ってのち、その意味する思想が難解だと云うのではなく、
語句が何を意味しようとしているかが不明瞭なために、
何を意味するかを考え考え読まねばならぬ。

西田哲学の難解は、哲学の難解ではなく、
語句の難解さを哲学の難解さと取違える点にある。 

「一般」 とは何を指すか、「個物」 とは何を指すか、
「限定」 とは如何なることを指すか、実例を挙げて説明でも
加えて置かれれば、貴方自身の表現しようとする事柄がハッキリするが、

そうでない限り、読者は読者の考え方によって一人一人別々に
そこから特有の意味を想像して読みとるほかはない。 

だから読者は西田哲学を理解したつもりで、
色々に理解し得たと想像しているだけで、
読者の想像力によって別々のように理解したようなつもりになっているのである。

 ・・・ (中略) ・・・

前後を対照し考えながら読まねば一行と雖も不可解であるので、
一頁読むのに30分はかかるので随分人騒がせな難文だと思う。 

それでも実際私の解した意味を貴方が語ろうとしているのか如何かは解らない。 

難文をもって哲学の深遠さと混同してはならないと思う。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/d7c76101a93fe0ba886ecd594b1b97c4         
(VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ)

           <感謝合掌 令和4年4月21日 頓首再拝>

『生命の實相』には、わたしへの手紙に対するわたしの回答がある - 伝統

2022/05/05 (Thu) 06:58:57


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月5日)」より

『生命の實相』全卷を読めば詳しく回答のあることを、
読まずにいて幾回でも長文の質問を列記して返事を求めて来る人がある。
手紙ですめば本は買わずにすむという経済観念でやってくる人には太刀打ちができない。

かかる人は人の時間がいくばくの価値がある物だか知らないのである。
そのこと自身が自己の心が病気であることを表わしている。
そんな虫のよさを捨てることが病気の心を捨てることである。

返信料を封入してあれば、回答を迫る権利があるかのように思って、
返事が遅れると努号してくる人もある。
返信料は郵政省が収入する。

わたしへの手紙に対するわたしの返事は、返信料の報酬として書かれるのではない。
わたしの好意によって、書かれるのである。

しかもわたしだけが返事を書いていては、
とても間に合わないので、回答係があって返事を書いているのである。

それでも肉筆では、そして便箋幾枚の短文では詳しく説明しえないので、
数百ページの書籍において回答しているのである。


地方へ派遣する講師、みんな回答係のようなものである。
道場は直接回答係の詰所である。
回答係の必要がなかったら本部の建物も講師組織もみな不要である。

われわれは回答係に奉仕せしむるために毎月少なからぬ経費を支出しているのである。
回答を求むる人はこれらの経費を分担してもよいはずだけれど請求したことはない。

生命(せいめい)の悟りに関することを、
古人は「生命(せいめい)」を抛げ出して求めたのだ。
今人(こんじん)は(そのすべてではないが)返信料だけで得ようとする。

ものは出しただけの値打ちである。

           <感謝合掌 令和4年5月5日 頓首再拝>

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である - 伝統

2022/05/29 (Sun) 06:42:36


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、
恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で
病気が治る事実が続々あり、それに理論が透らないという理由で、

また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、

それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、
手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って
理論が透らないようなものは頭から排撃してしまって、
いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても
古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる
一大生命学の理論体系をなしているのである。

この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は
医者が一つの事実を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、
数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、
個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮せしめるのであるから、
宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

           <感謝合掌 令和4年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 - 伝統

2022/06/26 (Sun) 07:29:54


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
 どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
 朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
 それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。

 何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
 筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。
 有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いて
 じっと2、3行見つめていると、
 それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。

 あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。

 どんな本でも2、3行じっと見つめているというのは
 ポンプの迎い水のようなものですねえ。

 水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
 いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
 わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
 わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
 病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
 不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。
 病気のことはほとんど書いていない。
 生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、
 生活が整ってくると自然病気が治ってくる。

 朗々と読むとよいのですよ。

 だからあの部分だけ集めて『光明の生活法』という一冊に纏めて
 あるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
 あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
 肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

 そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
 と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
 言葉の力というものは不思議なものですなア。」

            <感謝合掌 令和4年6月26日 頓首再拝>

『生命の實相』の本は、ただ真理を説いているだけ - 伝統

2022/07/06 (Wed) 07:33:16


          *「光明道中記」(7月5日)より抜粋

『生命の實相』を読んで色々の病気が治ったと言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。

では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。

識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。

目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。

            <感謝合掌 令和4年7月6日 頓首再拝>

『生命の實相』を必ず読む日 - 伝統

2022/07/12 (Tue) 07:38:34


          *「光明道中記」(7月12日)より

【生長の家では外界をただ「自心の展開」として
 自由自在に駆使し得るようになるのであります。(『生命の實相』第七巻)】

四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は非常な功徳があるとせられている。

「大般若経」の理趣分には
『生命の實相』に説く真理と同じことが書いてあると云うことを
私は『生命の實相』で指摘して置いた。

四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、
「大般若経」を一心不乱に誦していると、
その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて
私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、作り話だと思っていたが、
今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。

道信は或る日黄梅山(おうばいざん)で一人の異相ある少年に出逢った。
道信から声を掛けて姓名を訊いた。

「姓名なんか訊いて何にするのです。姓名は本来空です。本性は変るものではありません」
「本性は、何と申すか」「本性は仏性(ぶっしょう)です」

少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。
少年は後の五祖弘忍である。

            <感謝合掌 令和4年7月12日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む - 伝統

2022/08/01 (Mon) 09:08:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月1日)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、
その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、

時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、
まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、
健不健との岐(わか)れ目があるのである。

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、
行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。

そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、
「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、
遠隔治療をしてくださいというような不誠実な人たちもあるのである。
こういう人にかぎって、治ったらもう用がないと言って去り、
治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。

真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

       <感謝合掌 令和4年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2022/08/03 (Wed) 08:17:24


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月3日)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

       <感謝合掌 令和4年8月3日 頓首再拝>

「主婦之友」昭和10年5月号 奇蹟的な精神療法の真相を探る - 伝統

2022/09/21 (Wed) 13:09:46

谷口雅春先生「生命の實相」の驚愕的な軌跡の事実を「主婦之友」記者が誌上で公開!! 
「主婦之友」昭和10年5月号 奇蹟的な精神療法の真相を探る
seimeinojissoh(2018/10/10)
https://www.youtube.com/watch?v=1RYJlcoFGBs

       <感謝合掌 令和4年9月21日 頓首再拝>

《『生命の實相』読誦の功徳について》 - 伝統

2022/11/17 (Thu) 06:50:44


        *「真理」第9巻生活篇第14章(P397~398)より

『生命の實相』を読んで病気が治る。
これは無数の礼状が実証するところである。

しかしこれは谷口雅春の功績ではない。
「わが神殿は既に成れり、名づけて『生命の實相』と称う」
と神は仰せられているのである。

『生命の實相』は神がその御栄えをあらわしたまうための道具である。
其処に奇蹟を生ずるのである。

しかし、心が頑固で其処に書かれている真理を素直に受容れることの出来ない人には
治病の奇蹟は起らない。

神の力が及ばないのではない。
光は充ち満ちていてすらも、眼を瞑じている人には光を受容れることができない
のと同じことである。

しかし、眼を瞑じている人にも光があれば明暗ぐらいは分るのである。
明暗をたよりに、其処に光があることを自覚して眼をひらけよ。

           <感謝合掌 令和4年11月17日 頓首再拝>

人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』 - 伝統

2022/11/26 (Sat) 06:57:50


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。

「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは
本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても
「心が病んでいるのだ」と考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を
変化する力はないのである。

肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、
「心」という指揮官の命令する位置について命ぜられる
職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、
心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、
被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は
『人間の心』の中で釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、
苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

           <感謝合掌 令和4年11月26日 頓首再拝>

文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である - 伝統

2023/01/21 (Sat) 09:47:04


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月21日)より

病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。

《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。

そして感応電流を人体に通ずれば
健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。

そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、
その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。

この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。

読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが
『生命の實相』である。

これから後世に、
もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

学と術とはちがう。

現象学は現象を正確に告げる必要があるし、
人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる

病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。

病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。

         <感謝合掌 令和5年1月21日 頓首再拝>

『生命の實相』は両方面から書いてある。躓かぬものは幸いである  - 伝統

2023/02/21 (Tue) 08:12:38


     *「光明道中記」(2月21日《躓かざる日》)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
                    (生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、
「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。
凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

         <感謝合掌 令和5年2月21日 頓首再拝>

医薬は服みてもよし、廃めてもよし - 伝統

2023/02/22 (Wed) 07:43:26


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月22日)」より

『生命の實相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。
薬を廃めないで治る人もある。

またかえって薬を拝んで服むようになり、
心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。

刺身包丁を見て、それで人殺しをする人もあれば、自殺する者もある。
また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。

先日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して
鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。
それはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。

たまたま包丁で人殺しをしたり、
メスを見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、
包丁やメスは危険であるからといって、その発売や所有を禁止したり、
メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。

『生命の實相』には病人に対して
むやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もない。

たとえば『生命の實相』の巻頭の神示には、

「《もし病人にして医薬を服用する者あらんには》それを四口に分けて飲み、
この《同じ想念》をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。

すべての他の人の罪を赦すは、吾らの過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。
もしわれらが心を閉じて他(た)を赦さなければ、大生命の癒能(いやすちから)もまた
閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」

この「《同じ想念》」をなすというのは
「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって赦されんがための供物であると念いて服み、

二口目を手してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための
供物(そなえもの)であると念(おも)いて服(の)み、

三口目を手にしては是れ神の護りによりて
自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがための供物であると念いて服み、

四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪を
この水のごとくわが心より洗い流して
心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って服(の)む」

べきことがその前行の文章に書いてあるのである。

これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。

それが『生命の實相』の、特に巻頭に書いてあったのは、
それが重大な事柄であるからである。

近代のサイコアナリシス(精神分析)は
観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明した。

この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、
医薬の服用と同時に観念泄瀉を行なう方法であるともいえるのである。

『生命の實相』は現に医薬を服用していない者に「医薬を服め」とは勧めていないが、
「《病人にして医薬を服用する者あらんには》・・・かくかくの心持にて《服(の)め》」
と書いてあるのであって、「《服むな》」とか「その服用を廃せよ」とは書いてはいない。

しかるに『生命の實相』を読んで、薬を廃(や)める者があるのは、
仏教的真理「色即是空」(物質本来無し)、
または諸方皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、

自己内在の生命の自然療能力に頼ることを重んじて
物質的薬剤に頼ることを軽視するようになるからである。

           <感謝合掌 令和5年2月22日 頓首再拝

理で支配されている世界で戦う人生の武器は「理論」 - 伝統

2023/02/27 (Mon) 13:04:19


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より

合理性
 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。

この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。

『般若心経』で幽霊が消えるのは、
それは高遠な哲理の表現であるからである。

病患部に対し神想観をして、
「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえないのだ」
と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して
「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。

(治病のための施念法の詳細は
 拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)

通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方がその人の心の中で優勢になるからである。

理責めのこの世界において、
われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。

多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在すると
理論体系「生命の実相」を自分の心のうちに蓄積する者は、
病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を征服して
光明の人生と化しうる。

           <感謝合掌 令和5年2月27日 頓首再拝>

『生命の實相』 と醍醐海軍中将 - 伝統

2023/04/23 (Sun) 06:30:59


        *Web:VANNON32のブログ  
         『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-08-09)
                 ~大村 忠男

数年前、私は海軍通信学校の戦没した同期生の消息を調べるため 
『日本海軍潜水艦史』 という本を借りていた。 

或る日、何気なく本の真中あたりを開いた。 
思いもかけず、そこに 『生命の實相』 の文字があり、
次のようなことが書かれていた。

最後の第6艦隊司令長官だった正三位勲一等侯爵・醍醐忠重海軍中将は、
昭和18年頃ボルネオのバリックパパンの第22特別根拠地隊司令官として在任中、
ポンチャナックで起きたトラブルに対し、最高指揮官としての責任を問われ、
オランダの戦犯として昭和22年12月6日現地で処刑された。

 
中将は処刑前日に書いた次の手紙以外、一切書いた物を残されなかった。

『皆様長い事お世話になりまして有難う。 
 9月22日約3時間の裁判があり、10月3日約5分間で判決、死刑の宣告を受け、
 12月6日午前8時 〈当地の地方時間〉 死刑執行の旨、
 昨12月4日午前申渡されました。

 別段心乱れることもなく、案外平常と異ならず誠に有難く思って居ります。 

 嘆願書 〈松平長芳、黒田長久夫妻、忠直、忠久、顕子〉 誠に有難う。 
 感涙にむせび拝読しました。 

 松田、延谷両君のも読みました。 
 御序の時よろしくお礼を願います。

 刑務所で友人から 「生命の實相」 なる書籍9冊の内4冊を読み
 大変教えられる所多く誠によい本ですから是非皆様も読むようおすすめします。 

 赤坂檜町5、光明思想普及会発行、谷口雅春著で 「生長の家」 なる宗教であり、
 道徳であり、教育法であり、大変解り易く書き、然も思想は片寄らず、良書です。

 手紙はこれ以上書きませんから、親戚知人へその旨御序の折御伝え下さい。

 何卒日本再建の各自の使命に全力を注がれたし、私も霊界より、
 又何遍も生れかわり、日本再建に力を注ぐつもりです。

 私の部下の戦死者遺族達のことも心に留められたし。

 12月5日         醍 醐 忠 重  』



陸軍現地最高指揮官として同じ監獄で生活し、後処刑された海野馬一陸軍少佐は、
当時の思い出を秘かに 『生命の實相』 の行間に針穴で綴っていた。

『12月5日

 昨日醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。 
 閣下は平然としておられる。 実に立派なものだ。 
 1、2日の内に死んで行く人とは思えぬ位に ・・・ 


『12月6日

 海軍中将閣下銃殺さる。 
 余りにも憐れな御最後だったが、併し立派な死だった。

 国歌を唱い、陛下の万歳を三唱し斃られらた。 その声我が胸に沁む。

 ・・・ 閣下は私が貸した 「生命の實相」 をよくお読みになり、
 死の前日その礼を申された。 

 閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。

       海 野 馬 一   合掌  』


中将は刻々迫る人為的 「死」 に対し、何ら動揺することなく、
全く平常心であり、軍人としての職務上から来る安心立命の境地から、
もっともっと深い 「生長の家」 の 「人間・神の子」 の根本真理を悟られ、
久遠の生命を生きておられるのだと拝察する。

既に何処か 「生長の家」 の家庭に生れかわっておられるのかも知れない。 
それとも尊い犠牲となられた中将の霊魂は、一層高い霊界に進まれて
日本を導き守っておられるのかもしれない。

 
『生命の實相』 の尊い御教を一人でも多くの方に知って頂きたいと紹介したわけである。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/909f9fba1dc8459f598a5d1b2aaeabab

          <感謝合掌 令和5年4月23日 頓首再拝>

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である - 伝統

2023/05/29 (Mon) 10:14:38


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、
恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で
病気が治る事実が続々あり、それに理論が透らないという理由で、

また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、

それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、
手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って
理論が透らないようなものは頭から排撃してしまって、
いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても
古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる
一大生命学の理論体系をなしているのである。

この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は
医者が一つの事実を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、
数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、
個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮せしめるのであるから、
宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

           <感謝合掌 令和5年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 - 伝統

2023/06/26 (Mon) 06:46:01


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
 どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
 朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
 それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)って
 ペンを執るのが習慣でした。

 何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
 筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。
 有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いて
 じっと2、3行見つめていると、それが執筆を招(よ)び出す
 精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。

 あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
 どんな本でも2、3行じっと見つめているというのは
 ポンプの迎い水のようなものですねえ。

 水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、
 その水晶の表面にいろいろの形が現われて来る現象がありますが、
 あれに似ていますね。

 わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
 わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
 病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
 不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。
 病気のことはほとんど書いていない。
 生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、
 生活が整ってくると自然病気が治ってくる。
 朗々と読むとよいのですよ。

 だからあの部分だけ集めて『光明の生活法』という一冊に
 纏めてあるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
 あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない
 病人の枕許に肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、
 自分の心を鼓舞するのですよ。

 そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
 と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が
 旬日のうちに起ち上がったのです。
 言葉の力というものは不思議なものですなア。」

            <感謝合掌 令和5年6月26日 頓首再拝>

『生命の實相』を必ず読む日 - 伝統

2023/07/12 (Wed) 10:27:22


          *「光明道中記」(7月12日)より

【生長の家では外界をただ「自心の展開」として
 自由自在に駆使し得るようになるのであります。
                 (『生命の實相』第七巻)】

四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は
非常な功徳があるとせられている。

「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と
同じことが書いてあると云うことを
私は『生命の實相』で指摘して置いた。

四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、
「大般若経」を一心不乱に誦していると、
その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて
私自身がその色々の奇瑞を見るまでは作り話だと思っていたが、
今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。

道信は或る日黄梅山(おうばいざん)で一人の異相ある少年に出逢った。
道信から声を掛けて姓名を訊いた。

「姓名なんか訊いて何にするのです。
 姓名は本来空です。本性は変るものではありません」

「本性は、何と申すか」「本性は仏性(ぶっしょう)です」

少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。
少年は後の五祖弘忍である。

            <感謝合掌 令和5年7月12日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む - 伝統

2023/08/01 (Tue) 10:04:17


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月1日)より抜粋

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ
本当の悟りは得られぬ。

そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、
「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、
遠隔治療をしてくださいというような不誠実な人たちもあるのである。

こういう人にかぎって、治ったらもう用がないと言って去り、
治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。

真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

       <感謝合掌 令和5年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2023/08/03 (Thu) 14:32:36


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月3日)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく
「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、
いつも同じ真理の文章を読まされつつ、

そのたびごとに読者はいっそう
豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

       <感謝合掌 令和5年8月3日 頓首再拝>

あらゆる真理の奥伝秘伝が示されている 『生命の實相』 - 伝統

2023/08/10 (Thu) 10:01:32

あらゆる真理の奥伝秘伝が示されている 『生命の實相』 ― 現代を癒す

         *『光の泉』(昭和62n)
          生長の家本部神癒指導課課長補佐  藤原 安子

“現代”という時代は、やはり敗戦を抜きにしては考えられないと思います。 

万世一系の天皇陛下に中心帰一する美しい大和(だいわ)の国日本、
その大和(やまと)民族にふさわない民主主義が入って40数年、
唯物思想の中で経済のみに重きをおき、精神面がおろそかにされたことは、
外的な大きな原因と思います。


内的には、真理  ―  つまり、“生命の実相(ほんとうのすがた)”
を識らないこと、
そこに真の人間観・人生観が判らず、事に当って、
いかに生くべきかの選択を誤ることになるのだと思います。

 
女性の場合は、愛的で感情豊かな故に、信仰にも素直に入れるのですが、
それはまた、占いなどにおどされたり、やさしい愛の言葉を
ささやかれたりすると、頭では解っていながら迷わされ、
取り返しのつかない事になり易い、

女性の不幸は、女性自身の本質・愛の本質を知らない為に、
自他を粗末に取扱っていることだと思われます。

私は女性の立場から申上げますと、
生長の家の “唯神実相論” の真理ほど完璧に御心の天に成る如く、
現象にも完全に成り、今此処に天国浄土を実現せしめる教えは、
本当に他には無い、と指導させて頂くたびに感動いたします。

 
事実、お礼状が、よく参るのです。 
そして女性の幸福のための真理の書が、これほど愛豊かに
ととのっている所も他にはありません。

言論の自由の現代でありますから、
女性問題を取扱った著書は実におびたたしい数です。 

しかし皆それは女性を肉体面からだけ捉えたもので
魂的に得るものはありませんでした。

 
生長の家の 『生命の實相』 を始めとする著書は、
女性を、人間を、霊的観点から取扱われているので、
拝読するうちに、高い自覚と、生甲斐が感じられるのです。

 
そこで、生長の家では問題解決に当って、第一番にお伝えしますのは、
人間とは何か ・・・  ということです。 

いつか灰になってしまう肉体が自分ではなく、
神様の御生命(みいのち)が、御先祖様を通じ、御両親様を通じ、
愛深いお母様の体内の只一つしかない素晴しい、子のお宮に天降られ、
無の中に、目や鼻やその他一切が整った尊い 

“神の子” 様と成って、神様のみいのちに育てられ、使命をうけて、
神様のお力によって、この世に誕生させていただいたのが、
貴女であり、貴女は素晴しい実相円満完全な“神の子”であるのですよ、
とお伝えし、そのことをしっかり自覚して、
御両親をはじめ一切の人に事に物に感謝をすることをお話しします。


また、現象と実相の区別について話し、いかなる姿が現われていても、
“すべての人は神の子であり、完全円満である”と、
心の眼で観つめることを指導させて頂きます。

 
人間関係の問題では、この点が特に大切で、
すべてを完全なりと観る修行をさせていただき、
即ち、観世音菩薩様だと相手を礼拝出来ましたら、
今、現われている問題は卒業することになりましょう。

 
現代社会に足りないのは、真理の燈台です。

その無明から多くの人は生命(いのち)の一体感〈愛〉を正覚せず、
性欲と愛とが錯覚せられたり、又与えられている恵みへの感謝と、
実相直視の祈りが足りないと思います。 

求めているのは、魂の安らぎと健康でしょうか。

 
『生命の實相』 を心読し
“神の子・人間”の確信をもちその実相を観ずることによります。 

『生命の實相』 全40巻 の中には、
あらゆる真理の奥伝秘伝が示されています。 

ですから、すべての問題解決の鍵があるのです。

自分が燈台となって、私自身、様々な相談を受けます時、
生長の家の“唯神実相哲学”の真理によって解決されない問題は、
絶対にないのだとの確信から、

どんな問題にでも、“サア、いらっしゃいませ ・・・ ”と、
神様からの試験問題のように向わせていただいております。
       

https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/509a629e8a8f09e46781b18b984dfb25
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-09)

          <感謝合掌 令和5年8月10日 頓首再拝>

聖典『生命の實相』を拝読しましょう - 伝統

2023/09/03 (Sun) 08:37:10

聖典『生命の實相』を拝読しましょう 谷口雅春先生
seimeinojissoh( 2022/10/05)
https://www.youtube.com/watch?v=kzt5uqQcE8E

          <感謝合掌 令和5年9月3日 頓首再拝>

『生命の實相』の学は、如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにある - 伝統

2023/09/06 (Wed) 12:15:54


     *「光明道中記」(9月6日《信心極まる日》)より抜粋

 【汝の信ずるごとく汝になるのである。(『生命の實相』第一巻)】


『生命の實相』もその中の字句を甲是乙非と議論するためにとて
色々の諸学説が引用してあるのではない。

人間は救われ難しと色々の科学から結論している人々に
如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにこそ
『生命の實相』の学があるのである。

          <感謝合掌 令和5年9月6日 頓首再拝>

人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』 - 伝統

2023/11/26 (Sun) 09:11:50


      *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。

「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは
本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても
「心が病んでいるのだ」と考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を
変化する力はないのである。

肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、
「心」という指揮官の命令する位置について命ぜられる
職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、
心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、
被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は
『人間の心』の中で釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、
苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

           <感謝合掌 令和5年11月26日 頓首再拝>

文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である - 伝統

2024/01/21 (Sun) 12:35:50


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月21日)より

病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。

《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。
そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。
そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、
その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。
この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。

読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが
『生命の實相』である。

これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

学と術とはちがう。
現象学は現象を正確に告げる必要があるし、
人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる

病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。

病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。

         <感謝合掌 令和6年1月21日 頓首再拝>

『生命の實相』は両方面から書いてある。躓かぬものは幸いである - 伝統

2024/02/21 (Wed) 09:59:24


     *「光明道中記」(2月21日《躓かざる日》)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
                    (生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、
「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。
凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

         <感謝合掌 令和6年2月21日 頓首再拝>

『生命の實相』を読んで病気が治るも治らむも、心境の変化による - 伝統

2024/02/22 (Thu) 10:17:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月22日)」より

『生命の實相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。
薬を廃めないで治る人もある。

またかえって薬を拝んで服むようになり、
心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。

刺身包丁を見て、それで人殺しをする人もあれば、自殺する者もある。
また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。

先日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して
鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。
それはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。

たまたま包丁で人殺しをしたり、
メスを見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、
包丁やメスは危険であるからといって、その発売や所有を禁止したり、
メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。

『生命の實相』には病人に対して
むやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もない。

たとえば『生命の實相』の巻頭の神示には、

「《もし病人にして医薬を服用する者あらんには》それを四口に分けて飲み、
この《同じ想念》をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。

すべての他の人の罪を赦すは、吾らの過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。
もしわれらが心を閉じて他(た)を赦さなければ、大生命の癒能(いやすちから)もまた
閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」

この「《同じ想念》」をなすというのは
「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって赦されんがための供物であると念いて服み、

二口目を手してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための
供物(そなえもの)であると念(おも)いて服(の)み、

三口目を手にしては是れ神の護りによりて
自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがための供物であると念いて服み、

四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪を
この水のごとくわが心より洗い流して
心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って服(の)む」

べきことがその前行の文章に書いてあるのである。

これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。

それが『生命の實相』の、特に巻頭に書いてあったのは、
それが重大な事柄であるからである。

近代のサイコアナリシス(精神分析)は
観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明した。

この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、
医薬の服用と同時に観念泄瀉を行なう方法であるともいえるのである。

『生命の實相』は現に医薬を服用していない者に「医薬を服め」とは勧めていないが、
「《病人にして医薬を服用する者あらんには》・・・かくかくの心持にて《服(の)め》」
と書いてあるのであって、「《服むな》」とか「その服用を廃せよ」とは書いてはいない。

しかるに『生命の實相』を読んで、薬を廃(や)める者があるのは、
仏教的真理「色即是空」(物質本来無し)、
または諸方皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、

自己内在の生命の自然療能力に頼ることを重んじて
物質的薬剤に頼ることを軽視するようになるからである。

           <感謝合掌 令和6年2月22日 頓首再拝>

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