伝統板・第二
肉体《無し》 ③ - 伝統
2021/11/10 (Wed) 04:41:55
肉体を思い煩うことなかれ!
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より
人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。
思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。
神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。
そしてだれにも責任を負わせないで、
自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。
・・・
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月10日)より
人間は「神の子」であるから不死である。
死んだと見える人間は、
それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。
病気が治ったことを悟ったためであるというのは、
自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、
彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。
釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。
・・・
<関連)
(1)伝統板・第二「肉体《無し》」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7081156
(2)伝統板・第二「肉体《無し》 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7815445
<感謝合掌 令和3年11月10日 頓首再拝>
「肉体無し」とは「肉体」に対して毎瞬「死」を覚悟していること - 伝統
2021/11/19 (Fri) 04:52:08
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より
「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、
箸を取り始めるより、その年の大晦日の夕べに至るまで、
日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、
本意の第一と仕り候。
死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、
万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り、その徳おおき事に候。
その仔細を申すに、総じて人間の命(いのち)をば、夕べの露、あしたの霜に
なぞえて、随分はかなき物に致し置候中(おきそうろうなか)にも、
ことさら危うきは武士の身命にて候を、人々おのれが心ずましに、
いつまでも長生きをする了簡なるに依(よっ)て、
主君への末永き御奉公、親々への孝養も、
末久しき義なりと存(ぞん)するから事起こりて、
主君へも不奉公を仕(つかまつ)り、親々への孝行も疎略にて罷(まか)り
成るにて候(そうろう)、
今日(きょう)ありて、明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ覚悟仕り候
に於ては、主君の御前へ罷り出(い)で、御用を承るも、親々の顔を見上ぐるも、
これをかぎりと罷り成る事もやと、存ずる心あいに相成り候ゆえ、
主君への真実の思い入れと、罷り成らずしてはかなわず候。
さるに依て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候。」
享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。
こんな心得は武士でなくとも、
およそ大業を成さんとする者には必要な心構えである。
「日々(にちにち)夜々(よよ)、
死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは
全然反対なことのように思えるかもしれぬが、
けっしてそうではないのである。
生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。
ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。
「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、常住坐臥の時に
は肉体は死なぬように思い、肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。
そこで前記『武道初心集』にも
「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。
しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に刻み込まれる
のであるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、
武士道に協(かな)った生活を生きることになるのである。
「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので自然法爾に
天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。
それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』と大道寺友山翁が
書いたとおりになるのである。
キリストの生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」と
言った言葉も同じ意味である。
「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。
無病息災になどなろうという心はすでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。
無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。
<感謝合掌 令和3年11月19日 頓首再拝>
肉体はない、生命のみある - 伝統
2022/01/10 (Mon) 04:56:50
*「光明道中記」(1月10日《自在を得る日》)より
【空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず。
・・・空間の上に投影されたる生命の放射せる観念の紋(あや)。
これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)】
「維摩経」に「心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず」と説かれているが、
空間は心が認識作用を投影する印画幕として外界に仮に展開せしめたる面である。
画家の心の中にある「美」は空間的存在であるか。
空間的存在であるならばそれは何尺何寸であるか。
画家の心の中にある美は超空間的な存在であるから、
それは寸法を超えたものである。
1号のカンヴァスに描けば1号のカンヴァスの大きさに現れ、
3号のカンヴァスに描けば3号のカンヴァスの大きさに現れるが如く、
その美が投影される「面」の寸法に準(したが)って
無限に多種多様の寸法に現れ出(いで)得るが故に、
それ自身は大いさなきものである。
無寸法にして無限寸法のものであり、
無空間にして無限相のものが生命であり、その美である。
生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、
此の肉体の何処にも自分の「生命」は無く、無空間の世界から、空間面に
肉体と云う反影(リフレクション)を投げかけているものが生命だ
と知れるのである。
だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。
<感謝合掌 令和4年1月10日 頓首再拝>
肉体の機械的構造は、生命機能の本体ではない - 伝統
2022/01/12 (Wed) 03:37:15
*「光明道中記」(1月12日《生命の神秘を拝む日》)より
【自療力さえ誘導されたならばあとは治るのであります。
(『生命の實相』第ニ巻)】
肉体はそれ自身の力で生理作用を営むのではない。
血液は肉体の機械的構造によってのみ循環するのではない。
それは毛細現象と云う毛細管が
液体を吸着する力によってのみ循環するのではない。
毛細血管は心臓の如く脈動し、
心臓の如く弁を備えて血液を循環せしめる輔(たすけ)をする。
それ故に血液循環の原動力は心臓にあらずして
毛細血管の物理的構造にあると説を立てる人もある。
併し物理的条件は生命のつくった利用し得べき装置にあるに過ぎないから、
1分間前に脈動していた血管も心臓も、「生命」が其処を去るならば、
その物理的構造は1分間前と同様であっても、
もう血液は循環しなくなるのである。
所詮は物理的構造はその補助であって、生命機能の本体ではないのである。
生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って
肉体と云う装置を支配している。
そのためにこそ肉体は「生命体」として普通の物質を試験管に入れたのとは
異なる物理化学的発展を遂げるのである。
生命がその操縦波を送らなくなったとき死と言い、
またその操縦波が恐怖、懊悩、心配、煩悶、憤怒、呪詛等によって
攪乱せられたる状態を病と言う。
<感謝合掌 令和4年1月12日 頓首再拝>
「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統
2022/01/28 (Fri) 04:49:22
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より
大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和することによって治る。
この反対の心持は病気を招くが、そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。
そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ ―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。
「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、
もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。
「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、
もう「死〇」はないのである。
*〇:ね
生き通しだぞ! もう不死だぞ! こういうしか仕方がない。
ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、「死〇」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。
一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。
<感謝合掌 令和4年1月28日 頓首再拝>
「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」 - 伝統
2022/03/05 (Sat) 08:07:44
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より
山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。
『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。
それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。
その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。
鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。
明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。
<感謝合掌 令和4年3月5日 頓首再拝>
「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと - 伝統
2022/04/05 (Tue) 07:14:00
*「光明道中記」(4月5日《人に宿る美を知る日》)より
【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
(『生命の實相』第二巻)】
人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、その距離から視た姿が
自分の心の中にある「人間」なる理念と合致するから、
その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。
それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。
選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。
「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、
今視えているような肉体の形は肉体そのものの形ではなく、
吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。
「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。
「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも相対的には本当であって、
絶対的には本当では《ない》。
「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。
<感謝合掌 令和4年4月5日 頓首再拝>
肉体は人間ではない - 伝統
2022/04/21 (Thu) 07:19:50
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月21日)」より
英国の文豪ディッケンズは
『エドウィン・ドウロッドの秘密』という小説を書きかけて死んだ。
その後4年になって、米国のジェームズという霊媒
―― しかも彼は無学であった ―― が
ディッケンズの霊魂が憑り依(うつ)ったのだと称してその小説の後半を書いた。
その文体なり、筆跡なり、いちじるしくディッケンズに似ていたという。
私はオスカー・ワイルドの霊魂が憑り依って書いたという
自動書記の霊界通信を纂(あつ)めた本を持っている。
それには生前のワイルドの筆跡と霊界通信の文字とが比較して写真版に
撮られているが、筆跡がきわめて近似している。
肉体は人間ではない。人間の操縦機関であったにすぎないのだ。
<感謝合掌 令和4年4月21日 頓首再拝>
「肉体無し」、日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ! - 伝統
2022/07/21 (Thu) 08:58:21
*『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より
【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。
(『生命の實相』第十五巻)】
南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。
その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。
「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」
「老師よ、坐禅をしているのです」
「坐禅して何になるんじゃな」
「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」
そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。
若僧は言った ――
「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」
「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」
「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。
・・・・・
*『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より
【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。
(『生命の實相』第十二巻)】
南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を
待っていたかのように、
「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。
若僧は驚いた。
凡夫が座禅しても仏にはならないこと、
瓦を研いても鏡にならないとしたならば一体どうすべきなのだろうか。
「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」
「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。
肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」
若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。
江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。
この馬大師は興元(こうげん)四年正月、
自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを預言されたが、
間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。
そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、
「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。
「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、
「わしが何の病気か。
日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」
と答えたとある。
<感謝合掌 令和4年7月21日 頓首再拝>
「肉体」無し、「本当の自分」のみあり - 伝統
2022/07/23 (Sat) 08:28:24
*『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より
【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】
馬大師の示寂は立派なことであったが
「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との截然(せつぜん)たる分離は、
南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。
馬大師は一カ月前に自分の死期を予言したが、
釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、
「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」
とその入滅を予言していられる。
死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。
特に迦葉尊者などは
「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
やはり死んで四大に復帰するのですか」
などと言って嘆いている。
その時釈迦は
「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。
月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」
と云う意味のことを説いた。
「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、車と牛とを切離したのである。
<感謝合掌 令和4年7月23日 頓首再拝>
此の肉体は本来無し、唯”ある”ものは”いのち”だけ - 伝統
2022/09/19 (Mon) 09:25:59
*『光明道中記(9月19日 明暗を超えて一つの日)』より抜粋
【唱うれば、仏も吾れもなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
一遍上人(『仏教の把握』)】
煩悩だらけの此の身で悟りを開くことは難しいが、そんな身で悟を開かないで、
自分の中に廻施(えせ)せられた信心で悟をひらくことならば
易しい極みであるのである。
悟の邪魔になるのは此の「煩悩具足の身」であり、その身ありと思えばこそ、
肉体が滅してから浄土へ往生するなどの考え方が必要になって来るのである。
また即身成仏と云うことをここに大変難しい行事のように説かれているが、
それも此の肉体と云うものをアルと思えばこそ肉体そのままで成仏するのは
中々むつかしいと思えるのである。
ところが此の肉体が本来無し、本来寂滅の相(すがた)だ
と知ったならばこのままで肉体も何もない、
唯”ある”ものは私の”いのち”だけではないか。
即ち其のまま即身成仏ではないか。
併し肉体”ない”と知り得ない人々は、
臨終を以て往生極楽の機とするのも悪くない。
<感謝合掌 令和4年9月19日 頓首再拝>
肉体を思い煩うことなかれ! - 伝統
2022/11/09 (Wed) 07:10:10
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より
人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。
思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。
神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。
そしてだれにも責任を負わせないで、
自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。
・・・
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月10日)より
人間は「神の子」であるから不死である。
死んだと見える人間は、
それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。
病気が治ったことを悟ったためであるというのは、
自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、
彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。
釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。
<感謝合掌 令和4年11月9日 頓首再拝>
「肉体の無」を常に心から離さない心が無病息災延命長寿の心 - 伝統
2022/11/19 (Sat) 07:30:30
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より
「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、
箸を取り始めるより、その年の大晦日の夕べに至るまで、
日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、
本意の第一と仕り候。
死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、
万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り、その徳おおき事に候。
その仔細を申すに、総じて人間の命(いのち)をば、夕べの露、あしたの霜に
なぞえて、随分はかなき物に致し置候中(おきそうろうなか)にも、
ことさら危うきは武士の身命にて候を、人々おのれが心ずましに、
いつまでも長生きをする了簡なるに依(よっ)て、
主君への末永き御奉公、親々への孝養も、
末久しき義なりと存(ぞん)するから事起こりて、
主君へも不奉公を仕(つかまつ)り、親々への孝行も疎略にて罷(まか)り
成るにて候(そうろう)、
今日(きょう)ありて、明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ覚悟仕り候
に於ては、主君の御前へ罷り出(い)で、御用を承るも、親々の顔を見上ぐるも、
これをかぎりと罷り成る事もやと、存ずる心あいに相成り候ゆえ、
主君への真実の思い入れと、罷り成らずしてはかなわず候。
さるに依て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候。」
享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。
こんな心得は武士でなくとも、
およそ大業を成さんとする者には必要な心構えである。
「日々(にちにち)夜々(よよ)、
死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは
全然反対なことのように思えるかもしれぬが、
けっしてそうではないのである。
生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。
ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。
「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、常住坐臥の時に
は肉体は死なぬように思い、肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。
そこで前記『武道初心集』にも
「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。
しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、
「肉体の無」が平常心に刻み込まれるのであるから、
日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、武士道に協(かな)った生活を
生きることになるのである。
「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので自然法爾に
天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。
それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、
その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、
寿命長久に、あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』と
大道寺友山翁が書いたとおりになるのである。
キリストの生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」と
言った言葉も同じ意味である。
「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。
無病息災になどなろうという心は
すでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。
無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。
<感謝合掌 令和4年11月19日 頓首再拝>
《キリストの復活》 - 伝統
2022/12/23 (Fri) 07:53:58
*「光明法語」(12月23日)より
ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、
再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。
彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。
キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。
かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。
<感謝合掌 令和4年12月23日 頓首再拝>
肉体はない、生命のみある - 伝統
2023/01/10 (Tue) 07:52:36
*「光明道中記」(1月10日《自在を得る日》)より
【空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず。
・・・空間の上に投影されたる生命の放射せる観念の紋(あや)。
これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)】
「維摩経」に「心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず」と説かれているが、
空間は心が認識作用を投影する印画幕として外界に仮に展開せしめたる面である。
画家の心の中にある「美」は空間的存在であるか。
空間的存在であるならばそれは何尺何寸であるか。
画家の心の中にある美は超空間的な存在であるから、
それは寸法を超えたものである。
1号のカンヴァスに描けば1号のカンヴァスの大きさに現れ、
3号のカンヴァスに描けば3号のカンヴァスの大きさに現れるが如く、
その美が投影される「面」の寸法に準(したが)って
無限に多種多様の寸法に現れ出(いで)得るが故に、
それ自身は大いさなきものである。
無寸法にして無限寸法のものであり、
無空間にして無限相のものが生命であり、その美である。
生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、
此の肉体の何処にも自分の「生命」は無く、無空間の世界から、空間面に
肉体と云う反影(リフレクション)を投げかけているものが生命だ
と知れるのである。
だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。
<感謝合掌 令和5年1月10日 頓首再拝>
肉体の機械的構造は、生命機能の本体ではない - 伝統
2023/01/12 (Thu) 07:41:39
*「光明道中記」(1月12日《生命の神秘を拝む日》)より
【自療力さえ誘導されたならばあとは治るのであります。
(『生命の實相』第ニ巻)】
肉体はそれ自身の力で生理作用を営むのではない。
血液は肉体の機械的構造によってのみ循環するのではない。
それは毛細現象と云う毛細管が
液体を吸着する力によってのみ循環するのではない。
毛細血管は心臓の如く脈動し、
心臓の如く弁を備えて血液を循環せしめる輔(たすけ)をする。
それ故に血液循環の原動力は心臓にあらずして
毛細血管の物理的構造にあると説を立てる人もある。
併し物理的条件は生命のつくった利用し得べき装置にあるに過ぎないから、
1分間前に脈動していた血管も心臓も、「生命」が其処を去るならば、
その物理的構造は1分間前と同様であっても、
もう血液は循環しなくなるのである。
所詮は物理的構造はその補助であって、生命機能の本体ではないのである。
生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って
肉体と云う装置を支配している。
そのためにこそ肉体は「生命体」として普通の物質を試験管に入れたのとは
異なる物理化学的発展を遂げるのである。
生命がその操縦波を送らなくなったとき死と言い、
またその操縦波が恐怖、懊悩、心配、煩悶、憤怒、呪詛等によって
攪乱せられたる状態を病と言う。
<感謝合掌 令和5年1月12日 頓首再拝>
肉体無の真理を知る - 伝統
2023/01/26 (Thu) 06:39:03
*「光明道中記」(1月26日《万事和する日》)より
【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
(『一流の人・妻・子を作るには』)】
生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。
「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る!
今までの医学は個人医学であったゆえに
此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。
過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。
今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。
肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、
その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。
一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を
大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、
肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。
<感謝合掌 令和5年1月26日 頓首再拝>
「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統
2023/01/28 (Sat) 07:03:39
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より
大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、
すべてと調和することによって治る。
この反対の心持は病気を招くが、
そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、利己主義
―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。
そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ
―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。
「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、
もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。
「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、
もう「死〇」はないのである。
*〇:ね
生き通しだぞ! もう不死だぞ! こういうしか仕方がない。
ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、
「死〇」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。
一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、
微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。
<感謝合掌 令和5年1月28日 頓首再拝>
「肉体本来なし」とは - 伝統
2023/03/05 (Sun) 04:54:21
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より
山(やま)山(やま)にあらず、
世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。
『生命の實相』の中に
「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。
生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではない
という意味である。
それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。
その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。
鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して
時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。
明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。
<感謝合掌 令和5年3月5日 頓首再拝>
肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたもの - 伝統
2023/03/19 (Sun) 05:04:36
*「光明法語」(3月19日)より
~生命の純粋波動を現せ
肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。
生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。
生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。
自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである。
<感謝合掌 令和5年3月19日 頓首再拝>
「肉体無し」と一躍超入せよ - 伝統
2023/03/31 (Fri) 07:35:53
*「光明道中記」(3月31日《平らかな心の日》)より抜粋
【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している
(『人間死んでも死なぬ』)】
「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、一行でも、
御自筆の御返事を戴きたい」と云う意味の手紙を戴くが、そんな方には
『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。
生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。
人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。
無い肉体に執するから寿命を縮める。
吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。
<感謝合掌 令和5年3月31日 頓首再拝>
短い期間だけの視点は、人生を間違います - 伝統
2023/09/06 (Wed) 14:41:18
短い期間だけの視点は、人生を間違います
伊勢ー白山 道(2023-09-06)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/4b2fc158dddb6eb617ce2d24cfa6427d
<感謝合掌 令和5年9月6日 頓首再拝>
肉体本来無し、そのまま即身成仏 - 伝統
2023/09/19 (Tue) 13:22:56
*「光明道中記」(9月19日《明暗を超えて一つの日》)より抜粋
【唱うれば、仏も吾れもなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
一遍上人(『仏教の把握』)】
煩悩だらけの此の身で悟りを開くことは難しいが、そんな身で悟を開かないで、
自分の中に廻施(えせ)せられた信心で悟をひらくことならば
易しい極みであるのである。
悟の邪魔になるのは此の「煩悩具足の身」であり、
その身ありと思えばこそ、肉体が滅してから浄土へ往生する
などの考え方が必要になって来るのである。
また即身成仏と云うことをここに大変難しい行事のように説かれているが、
それも此の肉体と云うものをアルと思えばこそ肉体そのままで
成仏するのは中々むつかしいと思えるのである。
ところが此の肉体が本来無し、本来寂滅の相(すがた)だ
と知ったならばこのままで肉体も何もない、
唯”ある”ものは私の”いのち”だけではないか。
即ち其のまま即身成仏ではないか。
併し肉体”ない”と知り得ない人々は、
臨終を以て往生極楽の機とするのも悪くない。
<感謝合掌 令和5年9月19日 頓首再拝>
肉体を憎む勿れ、霊の最高顕現として愛せよ。 - 伝統
2023/10/06 (Fri) 09:31:22
*「光明法語(10月6日)」より
肉体を憎む者は、その肉体が虚弱となるであろう。
聖フランシスは其の著しい実例である。
彼は常に虚弱であったし、
その最後には聖痕(せいこん)と称する十字架に釘づけられ、
槍でつかれた通りの傷さえも其の肉体に生じたのである。
聖フランシス程でなくても肉体を憎む者は肉体が喜ばないから、
其の最高の完全さを発揮する事は出来ない。
肉体を愛しなければならぬ。
しかし、肉体を物質として愛する者は肉体をやはり軽蔑する者だ。
肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ。
<感謝合掌 令和5年10月6日 頓首再拝>
肉体を思い煩うことなかれ! - 伝統
2023/11/10 (Fri) 11:07:14
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より
人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。
思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。
神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。
そしてだれにも責任を負わせないで、
自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。
・・・
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月10日)より
人間は「神の子」であるから不死である。
死んだと見える人間は、
それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。
病気が治ったことを悟ったためであるというのは、
自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、
彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。
釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。
<感謝合掌 令和5年11月10日 頓首再拝>
「肉体無し」の心は、無病息災延命長寿の心 - 伝統
2023/11/19 (Sun) 11:15:01
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より
「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、
箸を取り始めるより、その年の大晦日の夕べに至るまで、
日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、
本意の第一と仕り候。
死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、
万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、
寿命長久に、あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り、
その徳おおき事に候。
その仔細を申すに、総じて人間の命(いのち)をば、夕べの露、あしたの霜に
なぞえて、随分はかなき物に致し置候中(おきそうろうなか)にも、
ことさら危うきは武士の身命にて候を、人々おのれが心ずましに、
いつまでも長生きをする了簡なるに依(よっ)て、
主君への末永き御奉公、親々への孝養も、
末久しき義なりと存(ぞん)するから事起こりて、
主君へも不奉公を仕(つかまつ)り、親々への孝行も疎略にて罷(まか)り
成るにて候(そうろう)、
今日(きょう)ありて、明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ
覚悟仕り候に於ては、主君の御前へ罷り出(い)で、御用を承るも、
親々の顔を見上ぐるも、これをかぎりと罷り成る事もやと、
存ずる心あいに相成り候ゆえ、
主君への真実の思い入れと、罷り成らずしてはかなわず候。
さるに依て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候。」
享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。
こんな心得は武士でなくとも、およそ大業を成さんとする者には
必要な心構えである。
「日々(にちにち)夜々(よよ)、
死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは全然反対なことのように
思えるかもしれぬが、けっしてそうではないのである。
生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。
ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。
「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、常住坐臥の時に
は肉体は死なぬように思い、肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。
そこで前記『武道初心集』にも
「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。
しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に
刻み込まれるのであるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、武士道に協(かな)った生活を生きることに
なるのである。
「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので自然法爾に
天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。
それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、
その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、
寿命長久に、あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』
と大道寺友山翁が書いたとおりになるのである。
キリストの生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」と
言った言葉も同じ意味である。
「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。
無病息災になどなろうという心はすでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。
無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。
<感謝合掌 令和5年11月19日 頓首再拝>
肉体はない、生命のみある - 伝統
2024/01/10 (Wed) 10:39:34
*「光明道中記」(1月10日《自在を得る日》)より
【空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず。
・・・空間の上に投影されたる生命の放射せる観念の紋(あや)。
これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)】
「維摩経」に「心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず」と説かれているが、
空間は心が認識作用を投影する印画幕として外界に仮に展開せしめたる面である。
画家の心の中にある「美」は空間的存在であるか。
空間的存在であるならばそれは何尺何寸であるか。
画家の心の中にある美は超空間的な存在であるから、
それは寸法を超えたものである。
1号のカンヴァスに描けば1号のカンヴァスの大きさに現れ、
3号のカンヴァスに描けば3号のカンヴァスの大きさに現れるが如く、
その美が投影される「面」の寸法に準(したが)って
無限に多種多様の寸法に現れ出(いで)得るが故に、
それ自身は大いさなきものである。
無寸法にして無限寸法のものであり、
無空間にして無限相のものが生命であり、その美である。
生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、
此の肉体の何処にも自分の「生命」は無く、無空間の世界から、空間面に
肉体と云う反影(リフレクション)を投げかけているものが生命だ
と知れるのである。
だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。
<感謝合掌 令和6年1月10日 頓首再拝>
肉体無を知り、生命の《ひとつ》流れを把握する - 伝統
2024/01/26 (Fri) 11:50:00
*「光明道中記」(1月26日《万事和する日》)より
【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
(『一流の人・妻・子を作るには』)】
生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに
深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。
「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る!
今までの医学は個人医学であったゆえに
此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。
過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。
今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。
肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、
その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。
一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を
大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、
肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。
<感謝合掌 令和6年1月26日 頓首再拝>
「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統
2024/01/28 (Sun) 09:32:43
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より
大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和すること
によって治る。
この反対の心持は病気を招くが、
そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。
そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ
―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。
「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、
もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。
「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、
もう「死〇」はないのである。
*〇:ね
生き通しだぞ! もう不死だぞ! こういうしか仕方がない。
ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、
「死〇」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する
摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。
一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、
微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。
<感謝合掌 令和6年1月28日 頓首再拝>
肉体は無い、痛みは心にあり、五官はそれを映す - 伝統
2024/02/10 (Sat) 09:45:20
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。
同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あや)すような形で打ったら
子供はかえって喜ぶだろう。
痛さは心にあるからである。
かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。
「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」
「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。
僕はこれから君を打ってやる!」
殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。
と、たちまち野村さんの方が起ち上がって
その修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。
痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。
やがて野村さんは元の座へ還って来て、
何事もなかったように別の修行者と話していた。
野村さんが打たなかったら、
野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので
修行者が打たれたのあった。
打つ心は打たれる心である。
打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。
相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて
自分自身を打つのである。
阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、
釈尊は
「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」
と問い返された。
阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。
そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。
「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、
傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。
「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。
痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。
わたしは静かに答えた。
「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。
人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。
五官は心の痛みを映すものだ」
『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。
そしてわたしが他の修行者と話しているうちに
その修行者はどこかへ姿を消してしまった。
野村さんの捌(さば)き方と、わたしの捌き方と
どちらも個性が出ていておもしろいと思う。
野村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」
と修行者は噂する。
ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。
しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、
叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。
相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。
「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と
忠告する人があると、
「指導の最中には相手を指導することきり考えない。
修行者が増えるとか減るとか、損得のことを考えて指導する奴があるか」
と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。
<感謝合掌 令和6年2月10日 頓首再拝>
《人間は何であるか》 - 伝統
2024/02/16 (Fri) 11:07:36
*「光明法語」(2月16日)より
人間は肉体ではない。
肉体は《人間》の肉体である。
それなら人間とは何であるか、人間とは生命である。
『生きる力』であり、『愛する力』であり、『思考する力』である。
肉体は『生きる力』が想念の活動を組み合わせて創造(つく)ったところの産物である。
本当の人間は、その想念し考えるところの本体なのである。
吾々が『悪』を想念することは、吾々自身が『悪』に成ることである。
想念とは生命の波であり、生命そのものが想念することによって
『想念するところのもの』になるのである。
<感謝合掌 令和6年2月16日 頓首再拝>
「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」 - 伝統
2024/03/05 (Tue) 10:23:46
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より
山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。
『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも
書いてあるのはこの理由である。
生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではない
という意味である。
それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。
その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。
鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。
明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。
<感謝合掌 令和6年3月5日 頓首再拝>
肉体の「《有》・《無》」を超え、《本当にあるもの》(実相)を把む - 伝統
2024/04/05 (Fri) 11:39:29
*「光明道中記」(4月5日《人に宿る美を知る日》)より
【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
(『生命の實相』第二巻)】
人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、
その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」なる理念と合致するから、
その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。
それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」の
うちから人間の「心」が選び出した相(すがた)である。
選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。
「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、
今視えているような肉体の形は肉体そのものの形ではなく、
吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。
「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。
「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも
相対的には本当であって、絶対的には本当では《ない》。
「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。
<感謝合掌 令和6年4月5日 頓首再拝>
「肉体無し」、日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ! - 伝統
2024/07/21 (Sun) 11:44:33
*『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より
【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。
(『生命の實相』第十五巻)】
南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。
その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。
「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」
「老師よ、坐禅をしているのです」
「坐禅して何になるんじゃな」
「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」
そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。
若僧は言った ――
「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」
「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」
「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。
・・・・・
*『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より
【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。
(『生命の實相』第十二巻)】
南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を
待っていたかのように、
「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。
若僧は驚いた。
凡夫が座禅しても仏にはならないこと、
瓦を研いても鏡にならないとしたならば一体どうすべきなのだろうか。
「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」
「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。
肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」
若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。
江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。
この馬大師は興元(こうげん)四年正月、
自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを預言されたが、
間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。
そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、
「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。
「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、
「わしが何の病気か。
日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」
と答えたとある。
<感謝合掌 令和6年7月21日 頓首再拝>
肉体を憎む勿れ、霊の最高顕現として愛せよ。 - 伝統
2024/10/06 (Sun) 08:53:24
*「光明法語(10月6日)」より
肉体を憎む者は、その肉体が虚弱となるであろう。
聖フランシスは其の著しい実例である。
彼は常に虚弱であったし、
その最後には聖痕(せいこん)と称する十字架に釘づけられ、
槍でつかれた通りの傷さえも其の肉体に生じたのである。
聖フランシス程でなくても肉体を憎む者は肉体が喜ばないから、
其の最高の完全さを発揮する事は出来ない。
肉体を愛しなければならぬ。
しかし、肉体を物質として愛する者は肉体をやはり軽蔑する者だ。
肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ。
<感謝合掌 令和6年10月6日 頓首再拝>
肉体を思い煩うことなかれ! - 伝統
2024/11/09 (Sat) 11:41:25
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より
人間は神の子であるということが覚れたら、
人間は肉体のことを思い煩わなくなる。
思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら
肉体のことを思い煩っている間は、なおその人の本心は、
「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。
神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。
そしてだれにも責任を負わせないで、
自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。
<感謝合掌 令和6年11月9日 頓首再拝>
無病息災延命長寿の心 - 伝統
2024/11/19 (Tue) 10:52:01
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より
「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、
箸を取り始めるより、その年の大晦日の夕べに至るまで、
日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、
本意の第一と仕り候。
死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、
万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り、その徳おおき事に候。
その仔細を申すに、総じて人間の命(いのち)をば、夕べの露、あしたの霜に
なぞえて、随分はかなき物に致し置候中(おきそうろうなか)にも、
ことさら危うきは武士の身命にて候を、人々おのれが心ずましに、
いつまでも長生きをする了簡なるに依(よっ)て、
主君への末永き御奉公、親々への孝養も、
末久しき義なりと存(ぞん)するから事起こりて、
主君へも不奉公を仕(つかまつ)り、親々への孝行も疎略にて罷(まか)り
成るにて候(そうろう)、
今日(きょう)ありて、明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ覚悟仕り候
に於ては、主君の御前へ罷り出(い)で、御用を承るも、親々の顔を見上ぐるも、
これをかぎりと罷り成る事もやと、存ずる心あいに相成り候ゆえ、
主君への真実の思い入れと、罷り成らずしてはかなわず候。
さるに依て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候。」
享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。
こんな心得は武士でなくとも、およそ大業を成さんとする者には必要な心構えである。
「日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは全然反対なことのように思える
かもしれぬが、けっしてそうではないのである。
生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。
ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。
「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、常住坐臥の時に
は肉体は死なぬように思い、肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。
そこで前記『武道初心集』にも「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。
しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に刻み込まれる
のであるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、武士道に協(かな)った生活を生きることになるのである。
「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので自然法爾に
天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。
それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』と大道寺友山翁が
書いたとおりになるのである。
キリストの生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」と
言った言葉も同じ意味である。
「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。
無病息災になどなろうという心はすでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。
無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。
<感謝合掌 令和6年11月19日 頓首再拝>
肉体無を知り、生命の《ひとつ》流れを把握する - 伝統
2025/01/26 (Sun) 11:42:03
*「光明道中記」(1月26日《万事和する日》)より
【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
(『一流の人・妻・子を作るには』)】
生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに
深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。
「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る!
今までの医学は個人医学であったゆえに
此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。
過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。
今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。
肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、
その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。
一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を
大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、
肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。
<感謝合掌 令和7年1月26日 頓首再拝>
「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統
2025/01/28 (Tue) 11:07:55
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より
大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和すること
によって治る。
この反対の心持は病気を招くが、
そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。
そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ
―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。
「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、
もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。
「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、
もう「死〇」はないのである。
*〇:ね
生き通しだぞ! もう不死だぞ! こういうしか仕方がない。
ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、
「死〇」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する
摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。
一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、
微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。
<感謝合掌 令和7年1月28日 頓首再拝>
肉体は無い、痛みは心にあり、五官はそれを映す - 伝統
2025/02/10 (Mon) 11:19:22
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。
同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あや)すような形で打ったら
子供はかえって喜ぶだろう。
痛さは心にあるからである。
かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。
「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」
「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。
僕はこれから君を打ってやる!」
殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。
と、たちまち野村さんの方が起ち上がって
その修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。
痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。
やがて野村さんは元の座へ還って来て、
何事もなかったように別の修行者と話していた。
野村さんが打たなかったら、
野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので
修行者が打たれたのあった。
打つ心は打たれる心である。
打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。
相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて
自分自身を打つのである。
阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、
釈尊は
「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」
と問い返された。
阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。
そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。
「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、
傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。
「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。
痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。
わたしは静かに答えた。
「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。
人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。
五官は心の痛みを映すものだ」
『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。
そしてわたしが他の修行者と話しているうちに
その修行者はどこかへ姿を消してしまった。
野村さんの捌(さば)き方と、わたしの捌き方と
どちらも個性が出ていておもしろいと思う。
野村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」
と修行者は噂する。
ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。
しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、
叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。
相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。
「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と
忠告する人があると、
「指導の最中には相手を指導することきり考えない。
修行者が増えるとか減るとか、損得のことを考えて指導する奴があるか」
と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。
<感謝合掌 令和7年2月10日 頓首再拝>
「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」 - 伝統
2025/03/05 (Wed) 11:37:06
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より
山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。
『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも
書いてあるのはこの理由である。
生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではない
という意味である。
それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。
その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。
鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。
明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。
<感謝合掌 令和7年3月5日 頓首再拝>
《人間を物質だと思うな》 - 伝統
2025/03/21 (Fri) 11:08:31
*「光明法語」(3月21日)より
人間を物質だと思っている
―― その信念の程度に随って人間は物質の法則に支配され易くなり、
物質と同様に疲労と老衰と病気とに曝(さら)されるのである。
物質は大生命より発した波動のうちで最も粗雑低級な波動であるから、
霊の無限、無消耗性をあらわすことは出来ないのである。
人間を物質だと観ずる念波は、
自分の生命にこの無雑低級な消耗性を引寄せることになるから、
自分自身を消耗性の姿をあらわすことになり、
それだけ自分自身を不健康にあらわすことになるのである。
<感謝合掌 令和7年3月21日 頓首再拝>
肉体の「《有》・《無》」を超え、《本当にあるもの》(実相)を把む - 伝統
2025/04/05 (Sat) 11:36:41
*「光明道中記」(4月5日《人に宿る美を知る日》)より
【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
(『生命の實相』第二巻)】
人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、
その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」なる理念と合致するから、
その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。
それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」の
うちから人間の「心」が選び出した相(すがた)である。
選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。
「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、
今視えているような肉体の形は肉体そのものの形ではなく、
吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。
「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。
「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも
相対的には本当であって、絶対的には本当では《ない》。
「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。
<感謝合掌 令和7年4月5日 頓首再拝>