伝統板・第二

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神示とは ⑤ - 伝統

2021/09/02 (Thu) 05:07:52

【實相金剛身の神示】(昭和七年九月二日神示)

悪平等は悉くあやまりである。
人間は肉體でないと言へば、空氣のやうなエーテルのやうな
捉へ所のない『空(くう)』なるものが人間のように思つてゐる者も
あれど皆見當ちがひである。
肉體や物質のほかは見えない者は氣の毒である。

肉體は假相の念波的存在であつて、須臾(しゆゆ)にして消え滅びるのが肉體である。
そのやうな頼りないものを《本當の人間》と思ふな。
《本當の人間》即ち”實相人間”は『空(くう)』ではない。
金剛身である。永遠不壞なる實相身である。

形は無いと思ふな。形はたしかにある。

實相人間は肉體人間よりもまだまだ確かな至微至妙な形を有つが、
五官六感に觸れる形でないから、
五官六感に觸れる現象界の言葉では説明のしやうがない、
それは假りに肉體人間の姿を一層精妙にしたような姿だと思へば好い。

實相世界と云ふのは神が創造せる唯一の實在世界であつて、
此の世界のみが實在であり、此の世界に住む人間が實相人間であり、
至微至妙完全円滿金剛不壞の実相身を備えてゐるのである。

實相世界は一つの神に創造(つく)られ一つの神の叡智によつて支配せられてゐるから、
秩序整然たる相(すがた)である。實相世界を空無の世界、虚無の世界、茫漠の世界だと
思ふのは誤りである。

肉體の智慧には判らぬ。悟つたつもりで間違つてゐるから説いて聞かすのである。

其処には山もあれば川もあり、植物もあれば、動物もある。
獅子も羊もあるが皆な仲よく相戯れてゐる。
一切の人間、動物、諸靈悉く調和して相食むものはない。

從つて病気の人間は一人もない。

山の形や、川の形や、植物の形や、乃至動物の形なども、
假に現象界のそれに似ていると思へば好いが、
一層精妙なのが實相世界の姿である。

それは既に完成されたる世界であるが、
完成したと言へば静止の世界のやうに思ふかも知れぬが、
不斷の創造の世界である。不斷の創造を續けながら完成した世界である。

實相世界にはただ一つの國があるだけである。

その國は日の本(ひのもと)と名附けられ、
また高天原國(たかあまはら)と名附けられてゐる。
唯ひとりの君(きみ)がいまして高天原國(たかあまはら)を治(しろ)しめしてゐる。

現象世界は現界でも幽界でも念の映し世であつて、迷ひの念と、正しき念とが相交錯して
映つてゐるのであるから各國相對立して相爭ひ、悪念病念相爭ひて
修羅場(しゅらじょう)を演じてゐるが、
そんな對立は實相世界には現に存在しないのである。

實相世界が現象世界に迷ひなく映(うつ)れば、現實世界も一君に統一せられ、
悉(ことごと)くの國が大和合して一つの大日本國を顯現し、
現實世界にも獅子(しし)と羊が相戯れ、蚊も蚤も人を螫(さ)さず、
幽界、靈界の諸靈悉く相和して調和し其(そ)の處を得る。

かくの如くなることを指してキリストは
『御心が天になるが如く地にも成る』と言つたのである。

その時期は近づいてゐる。
しかしこれが實現する迄には迷ひの自壞作用として暫く惨憺たる
破壞の場面が演じられなければならぬ。

早く眞理を悟つたものは迷ひの自壞作用から免(のが)れて破壞の場面の中にも
實相世界を映して破壞の中に巻込まれずに濟むのである。

上海の戰ひにその實例が示してある。


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神示とは」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479

(2)伝統板・第二「神示とは ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7789782

(3)伝統板・第二「神示とは ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571

(4)伝統板・第二「神示とは ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8171151

           <感謝合掌 令和3年9月2日 頓首再拝>

【生死の教の神示】(昭和七年九月五日神示) - 伝統

2021/09/05 (Sun) 05:01:15


生死はまゝならぬと云へども生死は心のまゝである。

兄弟を生かす心の者は生き、兄弟を殺す心の者は死す。
殺すと云うても刀で斬ることではない。
兄弟を生かす心のないものは殺してゐるのである。

周囲の人々の思はくを生かしてやるのは
『兄弟を生かす』の最も大なるものである。

自己の好まざる所を他(た)に轉嫁するは
『兄弟を殺す』の最も大なるものである。

周囲に痰を吐き散らすな、紙屑を投げ捨てるな。
これは物質の事でもあれど、物質のことだけではない。

口角泡を飛ばして兄弟を非難するものは
兄弟の心に唾を吐きかける者である。

腹立ちを手紙に書いて送る者は兄弟の心に紙屑を投げる者である。
かれは兄弟の心を言葉で殺し文字で殺す者である。

兄弟の心を殺すよりも尚大なる殺しがある。
汝の両親の思ひやりを殺し、汝の主君の思ひやりを殺す者である。

本當に汝が、心の殺人を止めて
感謝の心に充(み)たされるやうになるまでは、
心の波長が違ふから神の救ひの靈波は受けられぬ。

(昭和六年九月五日神示)

           <感謝合掌 令和3年9月5日 頓首再拝>

【生死の教の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/06 (Mon) 05:00:36


         *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《生死の教》」より抜粋

(1)ここで説かれている「生死」というのは、
   必ずしも「肉体の死」というような意味ではなく、
   もっと深い意味での「生命(せいめい)」の生死であります。

(2)ここに「兄弟」というのは、あらゆる人間を「大生命」なる神より出でたる
   「生命(せいめい)の兄弟」と見て、教えていられるのであります。

(3)神さまの教えをひろめるには

   神さまの教えをひろめるには“純粋な献身”が要求されるのでありまして、
   ただの「売れたら好い雑誌」の出版とは異るのであります。

   それがただ「栄える企業」としてはじめるのだったら、
   無論、その企業収入の中から自分の生活費も、休養費も娯楽費も
   出してよいのでありますけれども

   “純粋な献身”が要求されるところの宗教の伝道に於いては、
   少しでも利欲的又は利己的動機が含まれておりますと、
   宗教というものは、その伝道者が神様からの放送を受信するアンテナになり、
   それを発声するラジオ・セットのスピーカーにならねばならぬのでありますから、

   伝道者の精神態度が一寸でも不純になると、
   完全に神さまからの教えの放送を受信できないおそれがあります。
   そして神様からの純粋の放送が受信できないで、他の低い霊魂などからの
   放送を混信することになるならば、
   その宗教は生命なきものとなり崩れ去るのであります。

(4)宗教によって人を救おうと思うものは、
   「一寸でも自分の生活のため」などという職業意識的な利己精神を
   捨てなければならないのであります。

   そして神の受信機となり、テレビのように自己が講話するところに、
   神があらわれるというほどにならなければなりません。

           <感謝合掌 令和3年9月6日 頓首再拝>

【生死の教の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/07 (Tue) 04:58:24


(5)私たちが行動するときには、
   決して自分だけの利益を考えて行動してはならないので、
   自分の行動が他の人にどういう影響を与えるかということを
   充分考慮に入れて行動しなければならないのです。

(6)人間は決して孤立して存在しているものではないのです。
   人間の一つの行為は互いに連関して連鎖反応を起すものである。

   私たちは、一寸自分の気にさわることがあったとて、
   それをすぐ言葉に表現して周囲の人々に投げかけてはならないのである。

   相手の身になって考えてあげるのが本当の「愛」なのであります。

   私たちは常に人の美点を見出し、善き言葉を使って、
   人々を生かすようにしなければならない。
   言葉は人間を生かしも殺しもするのです。

   この点「生死はまゝならぬと云へども生死は心のまゝである」
   と神示にある通りであります。

(7)(私たちは)一般の人類の思いやりを生かすようにしなければならないのですが、
   特に一般の同胞よりも尚大切にしなければならないのは、
   私たちの両親の思い遣りを生かさなければならないのであります。

   親子でも、夫婦の仲でも、その互いの助言が正しいとか、
   正しくないという正邪の問題で争っていては調和は得られないのであって、
   愛情による「思いやり」を大切に受け取って
   それを生かすようにすることが肝腎であります。

           <感謝合掌 令和3年9月7日 頓首再拝>

【生死の教の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/08 (Wed) 04:58:21


(8)主君の本来の姿はその国民を幸福にしてあげたいと
   願われるのが本当の主君の思いやりであります。

   昭和天皇のお歌のなかには、主君としての国民に対する「思いやり」が深く
   あらわれているものが多いのであります。

    【をちこちの民のまゐ来てうれしくぞ宮居のうちに今日もまたあふ】

    【戦にやぶれし後の今もなほ民のよりきてここに草とる】

   ~これは、戦後荒れはてた皇居内に勤労奉仕にとて参集した国民に対する
    昭和天皇の深い「思いやり」を歌われてたお歌であります。

(9)昭和天皇の世界平和への「思いやり」

   (昭和八年御作「朝海」)
    【天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を】

   (昭和六年「社頭雪」)
    【ふる雪にこころきよめて安らけき世をこそいのれ神のひろまへ】


   この平和への深き御願望を生かさないで戦争をはじめたのは、
   軍部としては当時の成行きで絶体絶命的なものがあったにせよ、
   「汝の主君の思ひやりを殺す者」であったのであります。

   今省みて陛下に対して申訳がなくて
   ただ驚懼(きょうく)し奉るのみであります。

   だからこの神示には

   「本當に汝が、心の殺人を止めて感謝の心に充(み)たされるやうに
   なるまでは、心の波長が違ふから神の救ひの靈波は受けられぬ」

   と示されているのであります。

   この神示が昭和6年9月満州事変の直後に発せられていることにも
   意義があると思われます。

           <感謝合掌 令和3年9月8日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/09 (Thu) 04:49:23


         *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
           《實相金剛身の神示》」より抜粋


(1)”知性”が人間の本体なのであります。
   肉体は”知性”の産物又は結果に過ぎないのであります。

(2)”知性”が人間の”生命(せいめい)”であって、
   肉体の”生理作用”は、”生命(せいめい)が肉体を支配している
   間の有機的ハタラキに過ぎないのであります。

(3)《本当の人間》即ち《実相人間》は金剛身である。
   永遠不壊なる実相身である。

   実相人間は肉体人間よりもまだまだ確かな至微至妙な形を有つが、
   五官六感に触れる形でないから五官六感に触れる現象界の言葉では
   説明のしようがない、それは仮りに肉体人間の姿を
   一層精妙にした姿だと思えば好い。

           <感謝合掌 令和3年9月9日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/10 (Fri) 05:09:09


(4)実相世界と云うのは神が創造せる唯一の実在界であって、
   此の世界のみが実在であり、此の世界に住む人間が実相人間であり、
   至微至妙完全円満金剛不壊の実相身を備えているのである。 


(5)実相世界は一つの神に創造られ一つの神の叡智によって
   支配せられているから、秩序整然たる相である。

   実相世界を空無の世界、虚無の世界、茫漠の世界だと思うのは誤りである。
   肉体の智慧には判らぬ。悟ったつもりで間違っているから
   説いて聞かすのである。

   其処には山もあれば川もあり、植物もあれば、動物もある。
   獅子も羊もあるが皆な仲良く相戯れている。
   一切の人間、動物、諸霊悉く調和して相食むものはない。

   従って病気の人間は一人のない。山の形や、川の形や、植物の形や、
   乃至動物の形なども、仮りに現象界のそれに似ていると思えば好いが、
   一層精妙なのが実相世界の姿である。

   それは既に完成された世界であるが、
   完成したと言えば静止の世界のように思うかも知れぬが、
   不断の創造の世界である。

   不断の創造を続けながら完成した世界である。

           <感謝合掌 令和3年9月10日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/11 (Sat) 05:03:58


(6)実相世界にはたゞ一つの国があるだけである。

   その国は日の本と名附けられ、
   また高天原国(たかあまはら)と名附けられている。
   唯ひとりの君がいまして高天原国を治(しろ)しめている。

(7)実相世界が現象世界に迷ひなく映れば、現実世界もー君に統一せられ、
   悉くの国が大和合して一つの大日本国を顕現し、
   …その時期は近づいている。

           <感謝合掌 令和3年9月11日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/12 (Sun) 04:58:42

(8)『限りなく日本を愛す』には

   「日本の皇位は、天祖の詔勅によつて連綿としてつゞくべき
   宇宙意志によつて定められていますから、”日本敗戦″というような
   古今未曾有の大自壊作用が起こってさえも天皇制は廃止せられず、
   皇位の連綿性は保たれているのであります。

   ここに不思議な天意と言おうか、神のみこゝろと言おうか、
   神聖なる実相世界の”み心の既に成れる”状態の投影として
   日本の皇位は永遠につゞくべきものであり、

   やがて此の皇位に第二の天孫降臨、
   基督教で言うところのキリストの再臨、
   仏説で言ふ弥勒菩薩の下生(げしょう)があるべきであります。

   やがて出来る世界連邦統合の象徴として何か神聖なるもの、
   久遠なるものを求むれば、日本の皇位のほかにはない。

   その皇位の上に神孫が降臨し、キリストが再臨し、彌勒が下生し、
   それが世界連邦の中心象徴としての”神の王”となるとき、
   『黙示録』 に預言されたるキリスト再臨が成就するものであります。
                     (同書287頁)

           <感謝合掌 令和3年9月12日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義⑤ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/14 (Tue) 05:03:38


(9)全世界の大多数の人々が、日本皇位の神聖性を本当に認識して、
   やがて出来るであろう世界連邦の連邦政府の神聖主権の象徴として、
   日本皇位を推戴するよりほかには何処にも神聖なるものはない
   と気付くようになるには、

   幾度の末法末世的な悲惨事を経たのちでないと、迚(とて)も
   現状のままではそのようなことはあり得ないのであります。

   聖書の「マタイ伝」にはキリストの再臨は「ただ父のみ知り給う」と
   書かれているのであります。だから、其の時期を私たちが憶測しても
   どうにもならないのであります。

   私たちはただひたすら「天国現前の準備をして、心を浄め」
   何時、如何なる地上の大変革又は大変動があっても
   傷つかないほどの心境になっていたいものであります。

           <感謝合掌 令和3年9月14日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義⑥ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/15 (Wed) 05:07:10


(10)「日の本(ひのもと)」とは実相世界という“超次元”の
   霊的世界そのものであり、それが現象界に“救いの慈光”の
   放射される光の本(もと)の国であり、

   その中心者たる神は“一つ”であるから、
   「実相世界にはただ一つの国があるだけである。
   その国は日の本と名附けられ」とあることの意味が
   よくわかるのであります。

(11)実相の世界の神は、本来“一つ”であり、
   その神が八百万(やおよろず)の神仏とあらわれていられる
   のであるから、唯ひとりの“主神”がましまして、
   完全なる秩序ある統一が得られていることも当然であります。

           <感謝合掌 令和3年9月15日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】講義⑦ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/17 (Fri) 04:59:34


(12)キリスト教でいう『天』とは『実相世界』であるとことがわかりますと、
   キリスト教の“主の祈り”の

   「御心の天に成るが如く地にも成らせたまえ」と言うことが
   「既に神の御心が実相世界に成っている。
   その通りに、現象世界にも成らせ給え」ということを
   意味しているのであります。

(13)「御心の天に成るが如く地にも成らせ給え」
   というキリスト教の祈りが実現すれば、現象世界にも、
   “一柱の主神”の投影として地上に“一君”が
   連邦国家の主権の象徴としてあらわれざるを得ないことになります。

   そこで、この連邦国家の主権の象徴として一君を選ぶ場合に、
   どなたを世界連邦国家の中心象徴とすべきかという問題が
   起ってまいります。

   世界連邦の中心象徴となるべき者は、野心ある国々の元首や支配者では
   いけない、其処に何か神聖なるものをもって来なければ
   連邦国家の主権の神聖性を象徴するにふさわしくないのであります。

           <感謝合掌 令和3年9月17日 頓首再拝>

(九月の神示)【靈魂進化の神示】 - 伝統

2021/09/18 (Sat) 05:01:03


『神の子』なる人間の實相を現象世界に實現するのが人生の目的である。
現象世界とは現界、幽界、靈界を通じて呼ぶ言葉である。

人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子<たね>)が現象界に投影する時、
時間的空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くやうに
大體定められてゐるのを言ふ。

それは譬へば朝顔の種子(たね)の中には既に『花』の因子が包藏されてゐるが、
それが現象界に『花』となって完成するまでには、日光に逢ひ、湿氣に遇ひ、
芽を出(いだ)し、蔓(つる)を出し、蕾を生じ、つひに花を開くと云ふやうに、
大體一定の順序を追うて展開するが如きである。

斯くの如く、神の子なる實相人間も、
その投影を現象界に完成するには大體一定の時間を要し、

植物が日光に逢ひ、雨露に遇ふが如く、
或は幸福に恵まれ、或は虐運と戦ふことによつて、
つひに實相人間の現象界への投影を完成するのである。

併し、その投影が完成するには、
その投影は『念波の集積』で成立つてゐるのであるし、

人間は心の自由を有ち、自由に實相の悟りによって
念波を淨め得もすれば、迷(まよひ)によって
念波を一層汚すことも出來るのであるから、

現象世界に實相人間を顯現する過程(進化の過程)を
心次第で縮めることも長くすることも出來るのである。

靈魂進化の過程を短縮するのは、念の淨化による。
念の淨化には、實相を悟ることが第一であり、物質慾に捉れざることが第二である。
物質慾に捉われざるためには、『物質本來無し』の眞理を悟るが第一である。

『物質本來無し』の眞理をさとる程度に達せざる者には、
物質の快に捉われざるための修行として、自ら苦を求めて喜ぶか、
物質に快を求めて却つて苦を得る體験を通じて、
つひに物質慾に捉われざるに到るかの二途しかない。

前者は自ら進んで嘗(な)める苦行であり、
後者は幸福を求めれども求めれども運命的に他動的にやつてくる苦難である。

その他に過去の惡業の自壞する過程として
自己の靈的流動體に起る擾(じょう)亂現象の苦痛もある。

苦難がみだりに取去られず、
多くの靈魂の靈界通信が苦行の價値を力説してゐるのも
此の色々の理由によるのである。

     (昭和八年九月十五日神示)

           <感謝合掌 令和3年9月18日 頓首再拝>

【靈魂進化の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/19 (Sun) 05:01:39


         *「「神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
           《靈魂進化の神示》」より抜粋

(1)『神の子』なる人間の實相を現象世界に實現するのが人生の目的である。
   現象世界とは現界、幽界、靈界を通じて呼ぶ言葉である。

  ①霊界には、神界も含まれる。

  ②神界は、修行によって神格に到達された個別霊がいる。

(2)人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子<たね>)が現象界に投影する時、
   時間的空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くやうに
   大體定められてゐるのを言ふ。

  ①人間には、”神の子”としての原型「精神的カタチ」(理念)というものが、
   人間の生命(いのち)の中に初めから《既に》あるのであります。

  ②「理念の人間」の相(すがた)が、人間の実相でありまして、
   それが現象世界に出て来るときに、時間的空間的に展開してくるので
   あります。

  ③現象世界に映ってくるのには、色々の順序があって出て来るのであって、
   人それぞれに色々の困難な運命に遭うようにみえますけれども、
   それによって「神の子」たる性質が現れてくる過程なのです。

(3)運命の原型となるべき「心のフイルム」にある色々の画像というものは
   「念波の集積」でできているのであります。

   「念波の集積」によって出来ている運命の原型たる画像は、
   これを自分で一層汚すことも出来ますし、その反対にそれを浄(きよ)めて
   もっと楽しい清らかな人生を表すことも出来るのであります。

           <感謝合掌 令和3年9月19日 頓首再拝>

【靈魂進化の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/09/20 (Mon) 04:55:32


(4)念を浄めるには、”実相を悟る”ことです。

   そのためには、
   第一には、人間の生命(いのち)というものは、神の生命(いのち)で
   あることを悟ることです。

   第二には、一切は神の愛と智慧との表現であることを知って
   それに感謝し、物質は本来無きことを知って、
   物質欲に捉われないことです。

(5)「物質本来無し」をいうことを悟るのは
   霊魂進化の必須条件であります。

(6)根本的には、神は人間に苦痛を与えることを欲したまわないから。
   苦行は必要ではありません。

   しかし、現象的に言いますと、霊魂進化の或る過程としては、
   必要な時代があるのであります。

           <感謝合掌 令和3年9月20日 頓首再拝>

(九月の神示)【大調和の神示】 - 伝統

2021/09/27 (Mon) 03:58:29


汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の萬物何物も汝を害することは出來ぬ。

汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪靈に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解してゐない證據であるから省みて和解せよ。
われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教へたのはこの意味である。

汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなはぬ。
天地萬物と和解せよとは、天地萬物に感謝せよとの意味である。

本當の和解は互ひに怺へ合つたり、我慢し合つたりするのでは得られぬ。
怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合つたとき本當の和解が成立する。

神に感謝しても天地萬物に感謝せぬものは天地萬物と和解が成立せぬ。
天地萬物との和解が成立せねば、神は助けたうても、
争ひの念波は神の救ひの念波を能(よ)う受けぬ。

皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫または妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の萬物(すべてのもの)に感謝せよ。
その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。

われは全ての總(すべ)てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはゐる。
われは此處に見よ、彼處(かしこ)に見よと云ふが如くにはゐないのである。

だからわれは靈媒には憑(かか)らぬ。神を霊媒に招(よ)んでみて神が來ると思つてはならぬ。
われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。

われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其處(そこ)にわれは顯れる。

(昭和六年九月二十七日夜神示)

           <感謝合掌 令和3年9月27日 頓首再拝>

(九月の神示)【最後の審判に就いての神示】 - 伝統

2021/09/28 (Tue) 04:31:35


キリスト再び臨(きた)りて審判(さば)くとは今のことである。

キリストとは肉體にあらず、『眞理』である。
キリストとは肉體にあらず、『光』である。

肉體のわれの臨るを待ち望むな。
吾れは既に此處に臨(きた)れるに非ずや、
吾れは道である、眞理である、光である。

『眞理(われ)』來つて虚妄(まよひ)を審判き、
『光(われ)』來つて暗黒(やみ)を審判き、
すべての虚妄(まよひ)と暗黒(くらき)とを
地獄の火に投げ入れてこれを燒き滅ぼす。

今こそ最後の審判(しんぱん)であると知れ。

されど恐るる勿れ、吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず。

虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き
暗黒(やみ)を燒かるる者は却つて光をあらはさん。

病ひは癒やされ、惱みは消えん。
燒かるる者は『汝』にあらずして、『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。

『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるにあらず、
神より出(い)でざる汝は實在にあらず、
實在に非(あらざ)る汝はその眞相(しんそう)を暴露して消滅せん。

わが臨れるは『眞』と『僞』と、
『實在』と『虚妄(こまう)』とを選(よ)り別けて、

『僞(ぎ)』と『虚妄(こまう)』とを永久(えいきゅう)に
非實在(ぢごく)の中に葬りて封印を施(ほどこ)さんがためである。

(昭和六年九月二十八日朝神示)

           <感謝合掌 令和3年9月28日 頓首再拝>

【大調和の神示】(講義)① - 伝統

2021/09/29 (Wed) 05:01:40


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(1)「合掌の権威」

  ①合掌感謝行は単なる形式的行事ではないのでありまして、
   心の中に本当の感謝が湧きおこることが大切であります。

  ②感謝の感情が自然に湧き出でて、
   私の合掌と「ありがとうございます」の感謝の言葉が
   出て来たのでありますが、

   心身相関の理によりまして、笑えば「おかしくなる」と
   同じように、本当に感謝の格好をして合掌し、感謝の表情をつとめてして
   「ありがとうございます」と言葉で唱えていると、実際心の中にも、
   「ありがたい感謝の念」が湧き出て来るのであります。

  ③「合掌」と「感謝語」の形式からのみで感謝に入るのでは、
   どうしても付焼刃の感謝になりがちであります。

   そこで形式から入るほかに、
   真に吾々が感謝すべき無数のものにとりまかれているということを
   読書、又は講演、座談等によって知らせることが必要なのであります。
 
   そこで、講師は吾々を取りまいているすべての事物が、
   吾々自身製造したものでもないのに、ふんだんに与えられている事実を指摘して
   それに感謝するように誘導するのであります。

  ④心の中に感謝すべき内容を充分思い浮かべて、その感謝の内容の表現として、
   「合掌」して「感謝語」をとなえるとき、その「合掌」がその感謝の言葉が
   生きて来るのであります。

   あなたが合掌して感謝の言葉をとなえて人生の行路を進むとき、
   どんな荊蕀(けいきょく)も切りひらかれ、隘路(あいろ)は広い大道となり、
   調和があなたを取り巻いてくれるのであります。

  ⑤人に見られようと思ってする感謝合掌、形だけを真似てみる感謝合掌、
   それだけで人の心を打つことはできません。

   本当に感謝する心になって合掌して「ありがとうございます 」と唱えるとき、
   そこに無限の功徳があらわれるのであります。

           <感謝合掌 令和3年9月29日 頓首再拝>

【大調和の神示】(講義)② - 伝統

2021/09/30 (Thu) 04:45:42


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(2)「生命の礼拝」

  ①生長の家の発祥と同時に発表した「七つの光明宣言」というのがあります。
   その第一項に、「我らは宗派を超越し、生命を礼拝し、
   生命の法則に随順して生活せんことを期す」と書かれております。

   生長の家はこの「生命の礼拝」即ち生命を拝むということから出発したので、
   その行事も生命を拝むことが、中心になっているわけであります。

  ②生命を礼拝するのは心で拝んでおったらよいじゃないか、
   何も手を合わさなければならぬことはないじゃないか、
   と考える人もありましょうが、

   本当に礼拝する心になれば、自然に肉体も、礼拝の形をとるのであります。

   また礼拝の形をして合掌しますと、自然に有難い気持ちもわいて来ます。

   こうして生長の家の練成道場における感謝合掌の行持というものは
   始まることになったのであります。

  ③道場や宿泊室でみんなの中に交わっておりますと、互いに拝み拝まれるうちに、
   自分の内に宿っている処の「キリストなるもの」内在の基督(キリスト)
   ―― 内在の仏性が現われてまいりまして、

   「有難うございます、有難うございます」という言葉の力によって、
   ヒロポン中毒も治るし、親不孝も治る、そしてその人に宿っている
   素晴らしい善さが出てくることになるのであります。

           <感謝合掌 令和3年9月30日 頓首再拝>

【大調和の神示】(講義)③ - 伝統

2021/10/01 (Fri) 05:04:29


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(3)「祈り」

  ①病気を見ず、死を見ず、もう一直線に、ひたむきに病気なしの健康の姿を、
   実相を直視する眼でシューッと観る。
   そうすると健康の姿がシューッと出てくるのです。

  ②生長の家では、"現象なし"というのであります。
   現われている象(かたち)を「ある」と思ってはいけない。

   本当にあるものは唯"実相"(実の相・すがた)だけであって、
   現われているのは仮の相だ。
   仮の相はニセモノで、ウソの相で、本当に「ある」のではない。

   本当にあるのでないものは、幾ら現われていても、絶対「ない」んだから、
   無いものは唯"無い"でよろしいんだ。

   それを遠回しにいろいろ説明せねばならぬことはない。
   そんなものはない。悪い病気も、放蕩の親爺もいくらあるように見えても、
   そんなものは絶対無い、無いものをアルと掴むからいかぬ。

  ③"憎んでいる人と和解する"時に念ずる言葉

   眼をつむりまして、眼の裏に、相手の姿を思い浮かべて、名前を唱えて
   その相手を呼び出す気持ちになります。そうして、こう念ずるのです。

   「私はあなたを赦(ゆる)しました。貴方も私を赦しました。
   貴方と私とは神に於いて一体でございます。

   私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
   私と貴方は神に於いて一体であります。

   私は貴方に感謝しております。貴方も私に感謝しております。
   貴方と私は神に於いて一体であります。

   有難うございます。有難うございます。」

   こう一通り念じましたら、また始めに返って、

   「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。‐‐‐‐」こう繰り返して、
   一回二十分ばかり念じます。

   その念ずるときには、眼の前にその人が居られるかの如くに、精神を統一して、
   相手を赦し、相手と既に愛し合って、相手と既に感謝し合っているその相を、
   一心に思い浮かべるのであります。

           <感謝合掌 令和3年10月1日 頓首再拝>

【大調和の神示】(講義)④ - 伝統

2021/10/03 (Sun) 04:58:30


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(4)「放つものは生きる」

  ①心の世界にいつまでも過去を負んぶしている様な事ではいかんということです。

  ②心の世界では、こうして"つかむ"というこが罪なのであります。
   ともかく、つかむという事は、
   病気でも、不幸でも、災難でも、何でもつかむといかん。

   「放つものは生きる」というのは生長の家の教えであります。

   放てば生きる!

  ③吾々がこの世に生まれて、苦しい悲しい悩ましい思いを起し、
   いろいろの悩みの種になるのは何かというと、「掴む」ことです。

   何を掴むかというと、「現象」を掴むんです。
   「現象」を掴んで、どこそこで、誰が、何時、何をした、何を言ったと掴む。

   それは悉(ことごと)く過ぎ去ってしまった時の事なのに、
   何時までもそれを掴んで、
   それでああだ、こうだ、ああだこうだ、こう言っているんですね。

   そのために自分も苦しいし、それによって人も攻撃するから、人も苦しい。
   そして修羅場を演じている――という事になっている。

   だから過去は過ぎ去るものであって無いのだ。
   過去は無いんだ。「今」しか無いのだ。

   「今」"しか"と言ったっても、
   今見えている「現在の悪」があるというのではない。
   
   その「今」は、過去・現在・未来に非ざる処の、時間空間を超えたところの、
   もう一つ奥にある「今」なんです。

           <感謝合掌 令和3年10月3日 頓首再拝>

【大調和の神示】(講義)⑤ - 伝統

2021/10/04 (Mon) 04:21:23


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(5)「今」新たに生まれ更る

  ①「今」その一切の現象的な時間空間を超えて、
   吾れ今五官の世界を去って実相の世界に在る。今此処が実相の世界である。

  ②現象に、どんな相が現れておっても、
   その悪い相は「影」であって、本来無いんだ――
   という訳で、一遍その悪い相に目をつむって、
   そして、新たなる眼を開くんです。
   これが新たに生まれ更るでありますね。

   「汝の目のおおいをとれ」と神様は仰せられているのでありまして、
   目のおおいをとってみると、すると今まで嘆き悲しみの充ち満ちていた世界が、
   新天新地となって現れて見えるのです。

   病気は消え、貧しさは消え、
   ここが実に豊かな天国浄土になっている相が現れるのです。

  ③それにはどうしても「現象の抹殺」という事が必要なんです。
   「現象の抹殺」といっても、
   原子爆弾でみんな吹き飛ばしてしまうというのではないのであって、
   心の世界で、どんな悪しき相があらわれていても、
   そんなものは実は「幻」であって、本当は無いんだ。

   「無」だと悟るんですね。

  ④「無」を知ることが大切なんです。
   「無」の関所を一遍超えなくては、
   実相の世界、完全な世界に入る事が出来ないのです。

   「無」は何も無いんじゃないのであって、その「無」の関所を超えたときに、
   無尽蔵のよきものの充つる世界が出て来る。

   それにはやはり一切の現象を一応「無い」と断ち切らんといかん。

  ⑤肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟ったときに、
   そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを
   発見することが出来る事になるのであります。

   これが「新たに生まれる」ということです。
   人新たに生まれずば神の国を得る事能(あた)わず」と
   キリストはニコデモに教えているのであります。

   肉体を放ち捨て、肉体の利益を放ち棄てたときでないと、
   神の国を見出すことはできないのであります。

           <感謝合掌 令和3年10月4日 頓首再拝>

大調和の神示(谷口雅春先生ご朗読) - 伝統

2021/10/05 (Tue) 05:04:39

大調和の神示(谷口雅春先生ご朗読)
https://www.youtube.com/watch?v=FxpVqKdc4jE

           <感謝合掌 令和3年10月5日 頓首再拝>

大調和の神示講義①~⑥ 谷口雅春先生御講習 - 伝統

2021/10/06 (Wed) 04:56:40

大調和の神示講義①
https://www.youtube.com/watch?v=VgizmeNHhD8

大調和の神示講義②
https://www.youtube.com/watch?v=UeFTAftYHbc

大調和の神示講義③
https://www.youtube.com/watch?v=SDWU0hZ7YOY

大調和の神示講義④
https://www.youtube.com/watch?v=mxG98HO2c2k

大調和の神示講義⑤
https://www.youtube.com/watch?v=3-D899OeOQ0

大調和の神示講義⑥
https://www.youtube.com/watch?v=_tSa2pnc0_I

           <感謝合掌 令和3年10月6日 頓首再拝>

黙示を受くる日 - 伝統

2021/10/07 (Thu) 04:59:22


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月7日)より

【神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで「生命」の黙示そのままが
 精神に顕れて来る状態である。           (『生命の實相』第十一巻)】

「神は霊媒にはかからぬ」と云う意味は、
民間市井の巫女的現象、口寄現象、二重人格として出て来るのは、
いずれも霊示であって、その憑(かか)って来る霊魂の等級に応じて
一(ピン)から十(キリ)まであって、悉くは信ずべからずと云うことである。

国家の大事に尊き方の上に神霊来格の実例は古書にも見えていることである。

と云って普通の場合に於ては高級神霊さえも霊媒には憑らないのであるから、
(『生命の實相』霊界篇参照)霊媒的現象によって高級霊又は神が
来(きた)ったと思って、思いあがってはいけないのである。

普通霊媒にかかるのは特殊の霊媒自身の守護霊か、
その辺に紆(う)路ついていた浮浪の霊の悪戯(いたずら)である。
斯くの如きものを神示だと思って有り難がっていたら必ず失敗する。

「神示」とは普通「霊示」の如く二重人格現象として、神寄せ式にはあらわれない。
それは「神格の内流」として直日霊(なおひのみたま)の啓示として、
”心が”純粋”になったとき”、内部から直接的に啓(ひら)かれて来る。

普通の人でも「良心」とはそれである。
「絶対」の直接把握だ。

私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、
直感された真理をその直後に書いたのだ。

           <感謝合掌 令和3年10月7日 頓首再拝>

直観は純粋であれば神示だと思っても好い - 伝統

2021/10/08 (Fri) 04:47:43


    *「光明道中記」(10月8日《神は善のみと知る日》)より

【神は「真如」であり此の真如より来生せし神人が「如来」である。
                     (『生命の實相』第一巻)】

「神は善である。至誠の善である」そう云うことは神示である。
その文章(かきかた)が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。

理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。
そう云うことは神想観中でなくとも普通の時にも、
パッと内部の光耀(こうよう)で判ることがある。

そこで普通の「直観」と「神示」とはどう区別すべきかなどど云うことを
色々考える人もあるらしい。
直観は純粋であれば神示だと思っても好い。併し要は純粋度の問題である。

利害関係に晦まされるに従って純粋度は減ずる。
物質ありと引っかかる程度に従って純粋度は減ずる。
五官に捉えられるに従って純粋度は減ずる。

そこで宇宙の絶対実在を悟るために、
仏教では般若波羅蜜多の行があり、五蘊皆空と観じ、
色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)なしと観じ、眼耳鼻舌身意なしと観じ、
色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)なしと観じ、
眼界耳界鼻界舌界身界意識界なしと観じ、

それらを”ある”かの如く思い間違えた「無明(まよい)」も無しと観じ、
「無明」もないから「悟る」と云うことも無しと観じ、
・・・斯くの如くして一切の引っかかりを無くして初めて、
「ここに彼岸あり」と悟る。

その内部的自覚は神示の一種である。

波羅蜜多とは到彼岸(はらみた)と訳されている。

           <感謝合掌 令和3年10月8日 頓首再拝>

神格の内流 - 伝統

2021/10/09 (Sat) 04:52:26


    *「光明道中記」(10月9日《ここに彼岸ありと悟る日》)より

【同じ真理も時に応じ場合に応じて相(すがた)が変る。(『生命の實相』第十一巻)】

「ここに彼岸あり」と云う文字が眼に見えても、耳に聴かされても、それが二重人格式に
他から教えられるだけで、一重式にその人の生命そのものの自覚となって来ないのは
真理の絶対把握でないから神示ではない。

それは霊示又は霊教として霊魂からの導きであることはあり得る。

併しそれは自己神格の内流ではない。
仏性の開示ではない。
波羅蜜多ではない。

「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である。

香厳和尚の撃竹(きょうちく)の公案は有名なものであるが、
師に教えられている間は、ただ師弟相対して相対的に教えられているだけで、
自己神格の内流的啓示(インスピレーション)とならなかったのである。

ところが或る日庭を清掃している時に瓦片(がへん)が飛んで竹の幹に衝突した。
その音を聴いた時に、内部からパッとその真理が啓示されて来たのである。
それは二重人格的な霊媒現象ではない。これが神格の内流である。

同じ真理でも”外”から来るのと、”内”から来るのとはそんなにも相異するのである。

”内”からのは真理の直接把握である。
真理の直接把握を「神示」と言い、二重人格的に教えられるのを霊示と言い、
霊媒現象と言うのである。

「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。

           <感謝合掌 令和3年10月9日 頓首再拝>

大調和について - 伝統

2021/10/12 (Tue) 04:53:19


        *Web:光の進軍(教えの基本に関する講演と論文)
             仙頭 泰 氏(大調和について)

「生長の家」の教義の中心となる神示は、「大調和の神示」であります。
この神示の中で大切なところは

「天地一切のもと和解せよ」

「天地の万物に感謝せよ」

というところであります。

生長の家では、私達が、天地一切のものとの和解が成立する時は、
天地一切のものが私達の味方になると教えているのであります。
つまり敵と云うものは本来ないと云うことであります。

この事は大変大切な事であります。

 
ですから神示のなかには
「天地一切のものが汝の味方となるとき、
 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ」と断定して、
教えられているのであります。

敵を認めて、何とかしてその敵と和解しなくてはならない
と考えている人は、すでにその人は心の中に敵を認めているために
「認めたものは現れる」という心の法則によりまして、
その人の環境から敵と見えるものは、消えないのであります。

 
「生命の教育」を実施するにあたって注意すべきことは、
子供の不完全な状態を認めて、そのうえでこの子供を何とか良くしようと、
努力するのでは、子供はなかなか良くならないということであります。

教祖と云われる人達が、
すべての人間は神聖にして罪本来無しの真理を説きました。
ところがその弟子たちのことであります。

「神真理を告げ給う」という谷口雅春先生御著書の83頁に、
神はつぎのように示しておられます。

「人間を正しく導くためには、その欠点や悪いところを見つけだして、
 それを指摘し自己反省せしめなければならないのだというような
 間違った考えから、釈迦の弟子でもキリストの弟子でも、
 人間を『罪の子』だとか『罪悪深重にして救いがたき者』として
 説きはじめたのが間違いであったのである。

 『救いがたき者』と言葉の力で説かれるならば、
 その人は実際救いがたきものとなってしまうのである。

 一切衆生も、"悉有(ことごとくあるもの)"も
 皆罪なき仏性をもってその本体とすという真理を言葉で
 説いて聞かせるところに実相の完全な相(すがた)が顕れ、
 道が開かれ救われることになるのである。」   

                 -神真理を告げ給う-

不完全な状態をしっかりと心の中に、握っていながら、
完全円満なる状態を現すことは出来ないのであります。

完全円満なる状態を、現象界に現すには、
不完全な状態を、自分の心の中で否定して、放つことが必要であります。

そして相手の実相を直視して、彼はすでに円満完全であると観じ、
具体的にも相手の美点を認め、和顔、愛語、讃嘆の行動に、
自分が移ることであります。

谷口雅春先生の次の御文章を読んでください。

「生命の実相と申候事は此世界が此儘神の國であり人間は其儘神の子なりと申すに候
観ずればそれが現るるものに候 観ぜざれば現るる事なし 
さればこそ心を静めて実相を見よと申すに御座候 現象に如何なる悪顕れ候とも 
何れも神の作り給える実在には無之候間 気にかけずに 
唯実相円満完全なる相のみを観ずれば 結局は円満完全なる実相顕るるものに有之候」

常に人の、物の実相を直視して、その神性仏性を礼拝し続けて、
その円満完全なる状態を現象界まで引き出された菩薩が、常不軽菩薩と云われます。

私達も毎日の生活の中に、常不軽菩薩行を実行することが必要であります。
私達は相手を、尊い神の子であるとして、その神性仏性を、感謝と尊敬と愛情をもって
礼拝させていただくのであります。

敵を認めて、それを味方にする為に、赦す方法として、合掌礼拝するのではないのです。
敵は本来ないのであって、みんな生命の兄弟姉妹であったからこそ、
合掌礼拝し合い、讃嘆し合うのであります。

堂々たる合掌礼拝を実践いたしましょう。

 
釈迦が「山川草木国土悉皆成仏」と云われたように、
私達の周囲に現れているものは、すべて私達を生かして下さる
神の生命の、佛の生命の現成であったのです。

この素晴らしい事実に気がつきました時には、
ますます心の底から天地万物に向かって合掌し、
ただただ感謝の言葉を出すより仕方がない感激に溢れるのであります。

この魂の高揚された感激こそ、私達の寶なのであります。

 
「神の國は汝の内に在り」とイエスは言っておられます。
私達にとって自分の「心の王国」を支配することは大切なことです。
如何なる時でも光明面のみを認めて人生を前進するのです。

私達のまわりには、感謝すべきこと、喜ぶべきことが、誰でも沢山あります。
「なんと輝かしい世界だろう」と、感謝し、讃嘆することです。

 
谷口雅春先生は

「あなたが合掌して感謝の言葉をとなえて人生の行路を進むとき、
 どんな荊棘も切り開かれ、隘路は広い大道となり、
 調和があなたを取り巻いてくれるのであります。

 そこにはあなたを信頼する人があらわれ、
 反感をもっていた人も、味方となり、
 讃嘆者となり、協力者となって下さるのであります」

と、教えてくださっています。

 
イエスが病気を治された時
「お前の病気は重いから治してやるぞ」と云われたことはないのであります。

「汝の床をとり上げて、歩め」と云うように、
ただ一言「起きよ」と云われただけであります。
イエスは病気も見ず、死をも見ずただ実相を直視されたのであります。

生長の家では"現象なし"というのであります。
現れている象(かたち)をあると思ってはいけません。
本当にあるものは唯"実相"だけであって現れているのは仮の相(すがた)なのであります。

ですから谷口雅春先生は

「仮の相は(すがた)はニセモノで、ウソの相で本当にあるのではない。
 本当にあるのでないものは、幾ら現れていても、絶対ないのだから、
 無いものは唯"無い"で宜しいのだ。

 それを遠回しに色々と説明せねばならぬことはない。
 そんなものはない。
 悪い病気も、放蕩の親爺も、いくらあるように見えてもそんなものは絶対ない、
 本来無いものをアルと掴むからいかぬ」

と述べておられます。

 
谷口雅春先生は、ここで教えておられますことは、
心の世界で「現象」を"つかむ"ということは、
いろいろの悩みの種になると、云うことであります。

「放つものは生きる」と、生長の家では教えるのであります。

谷口雅春先生は、

現象にどんな悪い相(すがた)が現れていても、そんなものは「幻」であって
本当は「無い」のだと悟ることが大切であると教えておられます。

 
肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟った時に、
そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを発見することが出来る
と教えておられます。

この様に、観の転換が行われたとき、
私達は、神の國を見出すことができるのであります。

 
「大調和の神示」の中には、

「天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である」、

「感謝し合ったとき本当の和解が成立する」、

「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いをうけるであろう」

と、この様に示されているのであります。

実相を直視して、徹底感謝の生活をすることが、
大調和の世界を顕現する為には大変大切な事なのであります。

http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/33daichouwa.htm
   
           <感謝合掌 令和3年10月12日 頓首再拝>

【最後の審判に就いての神示】 (講義)① - 伝統

2021/10/13 (Wed) 05:09:17


     *『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
        《最後の審判に就いての神示》」 より

(1)この神示の特徴は漢字に特殊なフリ仮名が附してあることであります。

(2)(聖書には、キリストの再臨を種々示されているが)
   ここに示されている神示は、キリストの再臨を
   「イエスの再生」として見ずにキリストを「真理」そのものとして、
   超越的な意義をお示しになっているのであります。

(3)「真理」は既に諸賢(みなさん)の内に宿っているのです。
   しかし「虚妄(まよい)」の妄心(もうしん)によってくらまされていて、
   自覚しないのであります。

   超越的内在的に「キリストの再臨」ということを解釈しますと、
   真理を告げるラッパの声によって皆さんの内に宿る真理(キリスト)が
   目を覚まして顕現するのが「キリストの再臨」であります。

           <感謝合掌 令和3年10月13日 頓首再拝>

【最後の審判に就いての神示】 (講義)② - 伝統

2021/10/14 (Thu) 05:00:48


(4)超越的内在的意味に於ける”キリストの再臨”による”最後の審判”は、
   本来無いところの「虚妄(まよい)」の無を「無」として判決宣告して、
   永遠に出て来られない世界に堕獄し、

   本来人間の実相たる「完全人間」を実在なりと判決宣言して、
   それを如実にあらわすところの審判でありますから、

   「吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず、
   虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き、
   暗黒(やみ)を燒かるる者は却つて光をあらはさん。
   病ひは癒やされ、惱みは消えん」とあるのであります。

   「燒かるる者は『汝』にあらずして
   『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。

   『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるに非ず、
   神より出(い)でざる汝は實在にあらず」と示されております通り、

   「病んだり、悩んだりしている汝」は、真に実在するのではなく、
   夢の中の人物のようなもので、「本来無い」のであります。

(6)「真理の光」に照らして、「汝らは、神より出でざるが故に、
   如何に実在の仮面を被るとも実在にあらず」と、
   最後の最高裁判所的裁決を下すのが、
   真理(キリスト)の再臨による「最後の審判」なのであります。

           <感謝合掌 令和3年10月14日 頓首再拝>

「児童教育に關する神示」 - 伝統

2021/10/17 (Sun) 05:08:26


多くの母親は子供のことを餘りに取越苦勞するために、
却つて子供に惡思念を放送して子供の健康や運命を害してゐる。
或る母親は一瞬間でも自分の眼の前にゐないと心配でたまらないのである。

彼は自分の想像の中(うち)で、躓いて轉んでゐる自分の子供の姿を思ひ浮べる。
自動車にひかれて死にかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。
水に陥(はま)つて溺れかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。

世の母親よ、何故(なぜ)あなたはこの反對をして可(い)けないのか。
こんな取越苦勞が起るのは、子供を神の子だと思はないで人間の子だと思ふからである。

神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。

人間の子だと思ふものは終世(しゅうせい)、取越苦勞をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思ふものは、子供を尊敬して出來るだけその世話をさせては頂くが、
神が守つてゐ給ふと信ずるが故に取越苦勞は必要はないのである。

人間力で子供を生かし得ると思ふなら終日終夜起きて子供の番をしてをれ。
それは出來なかろう。
出來ない間に子供を生かしているのは神の力である。

(日付不明)

           <感謝合掌 令和3年10月17日 頓首再拝>

【児童教育に關する神示】 (講義) - 伝統

2021/10/18 (Mon) 03:45:43


     *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《児童教育に關する神示》」
      より抜粋

(1)教育の根本は、
   「人間神の子」は実は「人間の子」ではなくして
   「神の子」であということであります。

(2)「神の子は神を育てる」のである。

(3)教育の根本は、人間を単なる肉体的存在だと思わず、
   ”神の自己実現”であると尊敬して、人のうちに内在する
   神性・仏性な”無限の可能性”を拝み顕(いだ)すところに
   あるのであります。

           <感謝合掌 令和3年10月18日 頓首再拝>

【児童教育に關する神示】 (講義)② - 伝統

2021/10/19 (Tue) 05:02:47


(4)教育に最も大切なのは”観”をかえることであります。

   人間を”無限の可能性”を内に蔵する”神の子”として観じ、
   その”無限の可能性”を愛語と讃嘆の言葉の力にて
   引き出すことが本当の教育なのであります。

(5)両親の心配は”精神波動”の放送となり、それを子供は受像して、
   心配した通りの状態をテレビの受像機のように
   眼に見える象(かたち)にあらわす事になるのであります。

   だから子供を愛する親たるものは、「常に子供が”神の子”で
   あって神に護られている」ということを念じて、平和と調和と
   幸福の”精神波動”を子供に対して放送するようにしなければ
   なりません。

(6)子供の姿は、親の心の姿の投影(かげ)なのであります。

           <感謝合掌 令和3年10月19日 頓首再拝>

【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』) - 伝統

2021/11/04 (Thu) 05:04:42


聖書に吾らが祭壇に對して供物(そなえもの)を獻ずるに當つては、
先(ま)ず兄弟と仲直りしなければならないと云(い)ふことが書いてある。

吾らは食事をとるに當つても矢張り
これと同じことをしなければならないのである。

何故(なぜ)なら食事は
自己に宿る神に供へ物を獻ずる最も嚴肅な儀式であるからである。

一椀を手にしては
是れ今迄過ちて人に對して憎み怒りし自己の罪が神によって
許されんがための供物(そなえもの)であると念(おも)ひて食せよ。

二椀を手にしては
是れすべての人の罪が神によりて許されんがための供物(そなえもの)
であると念(おも)ひて食せよ。

三椀を手にしては
是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を
犯さざらんが為の供物であると念(おも)ひて食せよ。

而(しか)して一杯の飲料を手にしては
すべての人の罪をこの水の如く吾が心より洗ひ流して
心にとゞめざらんがための象徴(しるし)と思ひて飲め。

若(も)し病人にして醫藥を服用する者あらんには
それを四口(よくち)に分けて飲み、
この同じ想念をなして飲めば病(やまい)必ず速(すみやか)に癒えるのである。

すべての他の人の罪を恕(ゆる)すは、
吾らの過(あやまち)をも亦大生命なる神より
恕(ゆる)されんがためである。

若(も)し吾等(われら)が心を閉ぢて他(た)を恕(ゆる)さなければ、
大生命の癒能(いやすちから)もまた閉ざされて
吾等に流れ入ることは出來ないのである。

   (昭和五年十一月四日神示)

           <感謝合掌 令和3年11月4日 頓首再拝>

【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』)講義 - 伝統

2021/11/05 (Fri) 05:03:50


     *『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《食事の神示》より

(1)現在は『生長の家の食事』ですが、
   昭和24年4月の『生長の家』誌において
   『和解の神示』として書かれてあります。
   その点をふまえて谷口雅春先生の御講義をお読みください。

(2)食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるのです。

(3)大生命の癒能(ゆるすちから)を流れ入らしめるには、
   すべての他の人の罪を恕(ゆる)すことが必要なのです。

           <感謝合掌 令和3年11月5日 頓首再拝>

【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』)講義 ② - 伝統

2021/11/06 (Sat) 05:03:39


(4)着衣喫飯みな仏法。

  ①生活の作法というものは其の儘精神に影響するものでありますから、
   非常に大切な事なのであります。

  ②しかし、型から入りながら、型を行じながら型を超えて、
   自然そのままになっている境地を目指すのです。

(5)食物は、その奥にある霊的生命を観て、
   それに感謝して食物をいただくとき、
   内在価値が展開してくるのであります。

           <感謝合掌 令和3年11月6日 頓首再拝>

【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』)講義 ③ - 伝統

2021/11/07 (Sun) 05:04:01


(6)人間は、「聖霊なる神の生命」の顕現であり、その「聖霊なる神の生命」に
   供え物を献納するところの行事が、三度の食事であるというのであります。

(7)神示にある通りの神聖なる行事(罪を「洗い流す」象徴的行事)を通して、
   「心の世界」に潜在化している罪を洗い流し、一層ハッキリと罪を消すことが
   出来るのであります。

(8)肉体の病気なんか、たとい治っても、その肉体は十年先か二十年先か知らぬが、
   やがて死んでしまう。

   けれども、人を怨んだり憎んだりしておったら、其の人の肉体は死んでも、
   魂が霊界に行ってからも、まだ怨んだり憎んだりしておって、それこそ、
   其の人の霊魂は地縛の亡者になって彷徨(さまよ)わなければならんということに
   なるのであります。

   ですから、肉体の病気が治るということよりも、「人を憎む」という心の病気の
   治ることの方がよっぽど素晴らしい功徳なのであります。

           <感謝合掌 令和3年11月7日 頓首再拝>

【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』)講義 ④ - 伝統

2021/11/08 (Mon) 04:46:43


(9)眠りしなに心の重荷を卸(おろ)すための祈りの言葉

   「私は今、神の無限の愛の御手に抱かれているのである。
   神が全ての私の罪を恕し給うごとく、私も亦全ての人の罪を恕すのである。
   私が全ての人の罪を恕すかの如く、神は吾が全ての罪を恕し給い、
   愛の御手を以て、私を抱き給うのである。」

(10)私たちの怒り憎みというものを人類全体から無くする運動こそ
   本当の平和運動だと言うことができるのであります。

           <感謝合掌 令和3年11月8日 頓首再拝>

【無病常樂の神示】(昭和七年十一月十日神示) - 伝統

2021/11/10 (Wed) 04:51:55


病んでゐると云う病は本來ない、苦しんでゐると云う苦しみは本來ない。
『これだけ自分は苦しんでゐる』と、その苦しみを自慢するやうな心は、
却つて病氣を招く心である。

キリストの受難に倣(なら)つて自分も亦苦しまうなどと云ふ心も
愚かな心である。

キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。
十字架も受難ではなく受苦ではなく法樂である。

神の子には『難』の受けやうがなく『苦』の受けやうがなく
任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、
すべてが惟神(かんながら)の法樂である。

斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭ふ心も
おのづから消え去つてしまひ、苦もなく、艱難もなく、
苦樂を超越した本當の樂想を生じ、吾れが一變し、天地が一變し、
人生はただ歡びの讃歌に滿たされるのである。

實相は苦樂を超越する法樂であって、
實相をもつて苦もなく樂もないと云ふのは謬見である。
汝らが『樂』と稱する『樂』は本当の『樂』ではないから、
『樂』を求むれば必ず苦を生ずるのである。

五官のうちに、感覚の惑はしのうちに
「樂」があるのとするのは謬見である。

五官の『樂しみ』は
その本性決して『樂』に非ざるが故に『苦』に變ずるのである。

實相はかくの如き假相の苦樂を超越すれども、眞相の『樂』そのものである。
法悦そのものであり法樂そのものである。

その『樂そのもの』が『常住の我』であつて、これが『神の子』である。
『神の子』が『人間そのもの』であつて、その外に『人間』はない。

人間とは常樂を言ひ、無病を言ひ、不苦を言ひ、不惱を言ひ、不懷を言ふ。
肉體は『人間』ではない。人間の心の痕跡(こんせき)であり、
足跡(あしあと)である。
破懷すべきものは人間ではない。

汝らよ、汝ら自身の不苦不惱無病の實相を見よ。  
 
                 (昭和七年十一月十日神示)

           <感謝合掌 令和3年11月10日 頓首再拝>

【無病常樂の神示】講義① - 伝統

2021/11/11 (Thu) 05:06:05


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
          《無病常樂の神示》」より抜粋

(1)神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく、
   任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、
   すべてが惟神(かむながら)の法楽である。

(2)「苦楽を超越した本当の法楽」でないと本物ではない。

(3)先ず自分がなくなることが必要である。

   「自分」がなくなり、カラッポのパイプの中へ水が流れ入るように
   「神」を流れ入らしめたら、「吾れが一変し、天地が一変し、
   人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。

   実相は苦楽を超越する法楽であって、
   実相をもって苦もなく楽もないというのは謬見である。

           <感謝合掌 令和3年11月11日 頓首再拝>

【無病常樂の神示】講義② - 伝統

2021/11/12 (Fri) 05:05:16


(4)実相というものは、相対の「楽」ではなくて、「絶対楽」であり、
   その「楽」そのものが「本当の人間」だと言うのであります。

   「本当の我」と「楽」とは一体てであるというので、
   爰には涅槃経の"常楽我浄"の大乗仏教思想と同じものがあらわれているのです。

   苦しんでいるのは「本当の我」ではないのであって、
   「本当の人間」とは常楽即ち常に楽しいのであります。
   「人間」とは本来無病のものなのです。

(5)本当の人間は「神の子」ですから、
   絶対に病気もしないし苦しみもしないのであります。

   だから神示には
   「人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊を言う」
   とあるのであります。

           <感謝合掌 令和3年11月12日 頓首再拝>

【無病常樂の神示】講義③ - 伝統

2021/11/13 (Sat) 03:20:23


(6)肉体の現在の状態は心の足跡でありますから、
   心がどこを歩むかということによって、
   肉体の健、不健の状態の現れようが変って来るのであります。

   肉体は人間じゃなくて「心の痕跡」であるとは巧みな形容であります。
   だから、病気が現れておっても、それは「人間」が病気をしているのではなくて、
   「心の足跡」がそんな姿にあらわれているのに過ぎないものですから、
   「病気は無い!」とはっきり言えるのであります。

(7)生長の家の神様は罰を与えないけれども、
   自分自身で自己処罰して罰を与えるのです。

(8)人間は「肉体」ではないのですから
   霊であったら、普遍的の存在であり、自他一体でありますから、
   他を生かすようにしていれば、自分が生きて来るようになるのです。

           <感謝合掌 令和3年11月13日 頓首再拝>

【無病常樂の神示】講義④ - 伝統

2021/11/14 (Sun) 04:55:35


(9)「人間は神の子である」ということを本当に自覚したら、
   自然に他の人にも、その真理を伝えたくなるのです。

   他に伝えたくならないようだったら、
   「人間・神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。

(10)人間は「全体」の中にいるところの「一人」であって、
   全体とのつながりに於いて生かされているのであるということが、
   神の子の自覚であるということを忘れてしまって、

   自分だけの力で神様と直通だ! というような考えを起しているから、
   そういう間違った考えを起すことになるのであります。

           <感謝合掌 令和3年11月14日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】(昭和七年十一月二十五日神示) - 伝統

2021/11/25 (Thu) 05:09:39

物質の束縛に縛られざるものを人間と言ふのである。
眞の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉體ではない。
肉體ではないから物質の世界に出入(しゆつにふ)する事もない。

物質の世界に出入(しゆつにふ)する事がないから
物質の世界より見れば人間は不生(ふしやう)である。
不生であるから滅することも亦ないのである。

物質界は念に從つて生ずる念の映像なるが故に、從つてまた滅すれども、
『人間』は本來物質界に生ぜざるを以て又滅すると言ふ事もない。
人間は本來『生(しょう)』である。

『滅』に対する『生』ではなく本來『生(しやう)』であるから、
老なく、病なく、死なく、破壞がないのである。

老とは『生(しやう)』の衰耄(すいもう)を言へども、
人間は本來『生(しやう)』であるから衰耄せず老朽しないのである。

衰耄は『生(しやう)』にあらず、人間に非ず。
衰耄なきを『人間』と言ひ、老朽せざるを『人間』と言ふ。
病なきを『人間』と言ひ、死なきを『人間』と言ふ。

釋迦は『人間』の生老病死の四苦を見て出家したと言へども、
釋迦はそのときまだ『人間』を見てゐたのではない。
念の影を見て『人間』と思ひ違ひしていたに過ぎない。

釋迦が此の世を見て無常と觀じたのも『眞の人間』の世を觀たのではない。
それは無明の投影の世を觀て無常としたのである。

眞の人間は無常の中にあらず、肉體の中にあらず、
人間は永遠不死、金剛身、如來身、實相身、清浄身である。

人間は神の子なるが故に本來『淨(じやう)』にして不淨ではない。
人間を指して不生不滅不垢不淨(ふしやうふめつふくふじやう)と言ふのは眞相ではない。

般若(はんにや)の思想は無常想から實有(じつう)想に到る過渡的思想であるから、
不生不滅不垢不淨を説きたれどもこれは物質に譬喩しての方便説である。

人間は不生不滅ではなく、本來生(しやう)にして不滅がその實相である。
また人間は不垢不淨ではなく眞清淨真無垢(しんしやうじやうしんむく)がその實相である。

本來生(しやう)、不滅、本來清淨眞無垢なる人間の實相を知つたとき
汝らは歡びに滿されて手の舞ひ足の踏む所を知らないであらう。

                   (昭和七年十一月二十五日神示)

           <感謝合掌 令和3年11月25日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】講義① - 伝統

2021/11/30 (Tue) 05:00:59


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
          《本來生、不滅の神示》」より抜粋

(1)「物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。
   真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。
   肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。

   物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。
   不生であるから滅することも亦ないのである。」

(2)「不生」とは「生れぬ」と書いてありますが、
   人間は肉体がオギャーと生まれた時に生れたのではないのでありまして、
   それ以前からおるのであります。

   久遠不滅の神の「いのち」が
   今此処に生きているのが人間ですから、人間は「不生」である。
   不生であるから死ぬこともないというわけであります。

           <感謝合掌 令和3年11月30日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】講義② - 伝統

2021/12/02 (Thu) 05:06:57


(3)吾々の五感による感覚には人間はオギャーと生れた時に
   「生れたいのち」を知るのですけれども、生れたものは亡びなければならない。
   生じたものは滅しなければならない。

   これは永久に変わることなき真理であります。

   だからこの「生じたところの肉体」を「自分」だと思っている限りに於いては、
   人間は死ななければならないのであります。

   「不生」を得るには、その考えをクラリと換えることが必要なんであります。

(4)人間は物質に非ず、肉体に非ずと生長の家で教えられる。

   今迄物質だと思っていた世界が、物質じゃないのであって、
   霊であるということが判るわけであります。

   即ち釈迦が悟られた時のように山川草木国土悉皆成仏
   ――みんな仏の「いのち」の「現れ」であるということが判るのであります。

   そして一切のものが「物質」ではなく、人間も「肉体」ではなく、
   「物質」ではないということがわかります。

   そうしますと、人間の"rebirth"即ち「新たに生れる」「生れ更り」
   というものが成就するのであります。

   その「生れ更り」が成就すれば、世界そのものが変貌するのであります。

           <感謝合掌 令和3年12月2日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】講義③ - 伝統

2021/12/03 (Fri) 05:06:03


(5)本来『生』というところが注目すべき焦点であります。

   人間は「不生」なんですけれども、本来『生』なんです。
   つまり始めなき初めから"生きて"いるのです。

   人間は生命"そのもの"なのです。
   現象界に生れたり滅したりするのではなくて、永遠に「生」なのであります。


(6)肉体というのは念の影であって、
   「人間ではない」というのが神様の教えであります。

   そして「念」というものが形に現れる。
   「念があらわれる」いうのは、私だけの念があらわれるのじゃなくて、
   〇〇億の人類というものはみんな「肉体というものは老いるものである」
   という念波を起しているのであります。

   それでその人類の念が、誰の肉体にもあらわれるのであります。

   それを人類の念(即ち人類意識)の具象化と申します。

   その人類意識の具象化に逆らって、多少でも若いのは、
   私の特殊の精神波動という面が形に現れて、
   割合若く見えているというだけのものであって、
   その若く見えている肉体が人間ではない。

   それは人間の念の影で出来た皮袋であって、
   「人間を見ない」ものであるということになるわけであります。

   だから「老朽せざるを人間といい、病なきを人間といい、
   死せざるを人間というのである」と神様は宣言せられた。

   何という素晴らしい宣言ではありませんか。
   これ一つを聴くだけでも、素晴らしい大真理を知らされたものだと
   歓喜勇躍すべきものであります。

           <感謝合掌 令和3年12月3日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】講義④ - 伝統

2021/12/04 (Sat) 05:09:34


(7)私たちは常にこの久遠滅びざる人間を見ることが必要なのであります。
   この久遠病まず、老いず、滅びざる人間を観るとき、
   現象的には病気しておっても「病気していないのだ。病気なんて無いぞーッ!」
   と言うことが出来るのです。

   現象的には老人になっていても、
   「老いるってことは無いぞーッ!」と言えるんです。
           
(8)人間を観れば、「人間<そのもの>」人間の実相を観ることが必要なのです。
   実相を観るのです。実相です。
               
   自分の実相というものは、神の「いのち」そのものであるのです。

           <感謝合掌 令和3年12月4日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】講義⑤ - 伝統

2021/12/10 (Fri) 05:05:00


(9)自己の中に「無常」でないところの、
   本来「常恒不変」なる実在が自分に宿っておって、
   その「常恒不変なるもの」が自分の本質であり、
   本当の「いのち」であるから、
   「無常」というものに満足出来なくなるのであります。

   即ち私たちの「いのち」の本質は「本来常恒」
   ――常に在って滅びないところのものであるわけであります。

          <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】講義⑥ - 伝統

2021/12/11 (Sat) 05:02:30


(10)本当の救いというものは、

   「人間は神の子である。老朽せざるを人間という。
   病まざるを人間という。死せざるを人間という。
   真清浄真無垢なるところの神の『いのちそのもの』が人間だ」

   ということを自覚させて、

   永遠に朽ちざる生命の自覚を与える宗教が一番素晴らしい宗教であり、
   この最も高い救いを与えるのが、生長の家であるのであります。

   そういう真理がこの神示には示されているのであります。

   すなわち、

   「本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき
   汝らは歓びに満たされて、手の舞い足の踏む所を知らないであろう」

   と示されている所以であります。

          <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>

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