伝統板・第二
真理の生活 ⑪ - 伝統
2021/08/10 (Tue) 04:50:40
「手近にあるものを感謝して受けるのが聖者の生活」
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月10日)より
世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。
食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが
自分にとって最も消化しやすい栄養であるのである。
手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。
古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。
邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものは
ついに天国に到ることができないのである。
「道」は ――小なりといえども「道」に背かずんば、
それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。
何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。
真理は平凡であり、
太陽は毎朝東から差しのぼってなんの変哲もないがゆえに偉大なのである。
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129
(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747
(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100
(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617
(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421
(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282
(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886
(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563
(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815
(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957
<感謝合掌 令和3年8月10日 頓首再拝>
《深切の種子(たね)は必ず果を結ぶ》 - 伝統
2021/08/11 (Wed) 03:55:59
*「眞理」第2巻基礎篇第14章(P390~391)より
深切ということは、人間に神が宿し給うた恵みであり賜物である。
深切は神から与えられた賜物であるから幾ら出しても減るものではない。
神から与えられたところのものは無限であるから、
幾ら出しても減らないものなのである。
それは内(うち)から出すことによって外を輝かし、すべての人を悦ばせ、
すべての人を幸福にする力をもっているのである。
深切が深切によって迎えられない場合があるのは、
深切そのものが善き結果が得られないのではない。
今あらわれている結果は、ズッと以前に蒔(ま)いた
心、言葉、行いの種子(たね)が発芽しているのである。
そして今蒔いた「深切」の種子(たね)は
もっと後(のち)に発芽して果を結ぶ、
時間のズレがあるから失望してはならない。
<感謝合掌 令和3年8月11日 頓首再拝>
《自己に忠実に》 - 伝統
2021/08/14 (Sat) 04:49:31
*『生活の智慧365章』
(第1部生命の泉)第1篇(P29~30) より
休日が得られて遊び出て、「あゝ今日は楽しかった」という人があるが、
それはそれぜで可(よ)いが、休日だけが楽しいので、
働く日が楽しくないようなことではいけないのである。
人間は”神の子”であるから、常に楽しいのが当然のことであり、
人間の仕事は、神から与えられた其の時その場に於ける使命であるから、
仕事をするときにも「神と共にある」という幸福感や働き甲斐が
なければならないのである。
「休日だけが楽しい」というような考え方は、幼い時に、大人が子供に
以心伝心的に教え込む考え方で、他(た)の人の幸福のために貢献するよりも、
自分だけの興味のために行動する一日(にち)が楽しいという
大人の利己的考えが吹き込まれているのである。
人間は自己に忠実に生きなければならない。
併しながら、「自己の忠実に生きる」とは決して利己的に生きることでも、
他(た)の人の幸福を考えないで生きる事でもないのである。
人間の「本当の自己」は実相に於いて「すべての人間の自己」と
つながっているのであるから、「
本当の自己」に忠実に生きるということは、
結局、すべての人間の幸福に貢献するような生き方をする
ことになるのである。
<感謝合掌 令和3年8月14日 頓首再拝>
《何人も皆天才である》 - 伝統
2021/08/15 (Sun) 04:52:15
*『 生長の家 』(昭和24年3月29日の法語)より
何人も自己に与えられている天分の100%を発揮する時、
必ず天才であり、必ず世に立って人々から喜ばれ 尊ばれる所の人
となることができる。
多くの人々は、自分に与えられたる天分の 実に僅(わず)かの部分 ―
20%又は30%位しか発揮していないのである。
諸君の天分の大部分は
不規則なる生活、悪習慣、睡眠の不足、不適当なる休養方法、
誤れる食物又は過大なる食量、更に面白からざる精神状態によって
消費されてしまっているのである。
これは何と惜しいことではないか。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a4d2130b191eac505e47012874c8e640
<感謝合掌 令和3年8月15日 頓首再拝>
【礼儀正しく過ごす】 - 伝統
2021/08/16 (Mon) 04:32:25
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年09月13日)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
「形だけじゃないか」って?
カタチをバカにしちゃいけませんよ。
「形から入る」と言うじゃないですか。
外から見て、幸せそうに見える、あの演技が大切なんです。
本当ではなくて、ただのフリじゃないか、と言うけれど、
人というのはね、自分の心に忠実だとおかしくなっちゃう。
ほとんど、そうなんです。
なぜなら、心に忠実ということは、
思ったことを言うということなんです。
心に思ったことを言っていて、
ウソはついていないからいいじゃないか、と言うけれど、
本当のことでも言っちゃいけないことって、山ほどあるんですよ。
たとえば、誰かと話しているときに、
相手のことを「この人はいちいちうるさいなあ」と思ったとして、
心に思った通りに「うるさいよ」って言ってたら
エライことになるじゃない?
自分の心が思った通りに「この人、ブサイクだな」と言ったら、
言われたほうは傷つくんです。
だから、心に思ったことを言うんじゃないの、
心に忠実ではいけないんです。
重きをおくべきは、「理性」とか、「良心」とか、「知恵」なんです。
心というのはころころ変わる、すごくあいまいなものです。
昨日、思っていたことと、
今日、思っていることが違うんだから(笑)。
だから、基準を心においちゃダメですよ。
それよりも、われわれの先人たちの経験から生まれ、
受け継がれてきた、「マナー」という知恵にのっとって、
礼儀正しく過ごすほうが確実によくなるんです。
「礼儀正しく」と言ったって、
何も特別なことをするわけではないんです。
会う人会う人に、笑顔で明るく、
「おはようございます」とか「こんにちは」とあいさつしたり、
お食事のときは「いただきます」「ごちそうさまです」と言うとか、
そういう日ごろのこと、小さいことなんです。
でも、そういう小さなことでも、
“いいこと”をやり続けていると、健康にもなるし、
人生にもすごくいいんです。
<『絶対、よくなる!』PHP>
・・・
会う人会う人を不愉快にする人がいる。
相手の心を傷つけるような心ないトゲのある言葉を投げつける人だ。
言葉だけでなく、態度も無礼で、
エラそうだったら、誰もよりつかなくなる。
「礼儀正しく」するということは、
お互が気持ちよく過ごすためのとても大事な人間社会でのルール。
礼儀正しい人には、
「笑顔」、
「挨拶」、
「素直」、
「感謝」、
「律儀」、
「ゆずりあう」、
「お礼をいう」、
「きちんとしたお辞儀や返事」、
「丁寧な言葉」、
「愛ある言葉」
等々がある。
仏教の『大無量寿経』に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉がある。
和(なご)やかで温和な顔つきや言葉つき、
穏(おだ)やかな振る舞いのことをいう。
相手を気持ちよくさせる「礼儀正しい」行いでもある。
毎日を丁寧(ていねい)に、礼儀正しく過ごしたい。
<感謝合掌 令和3年8月16日 頓首再拝>
《「 仕事の奴隷 」 になってはならぬ》 - 伝統
2021/08/19 (Thu) 04:50:39
*『 生長の家 』(昭和24年3月31日の法語)より
人は全生命力をもって「仕事」と取り組まなければならぬ。
しかし徒(いたず)らに「仕事」「仕事」と仕事ばかりに熱中して、
「仕事の奴隷」になってしまったために
折角の天才が早く生涯のエネルギーを使い果して廃人となったり、
短命に終ってしまったような例を見ることは、まことに悲しいことである。
これは、自己を知らぬことと 不完全なる生活設計から来るのである。
生命の働きは緊張と弛緩との交替によって行われる。
緊張ばかり持続することは生命を浪費するし、
なまけて、弛緩ばかり持続することも生命を浪費することになる。
吾々は自己自らの体質を知り
それに適するもっとも完全なる生活設計を行い、
仕事と休養との交代した喜びに満たされ生活設計を行うとき
一生のうちに最も多くの価値ある仕事を成しとげることが出来るのである。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fab0aaa08dd54ddb32c3963f44ab32a6
<感謝合掌 令和3年8月19日 頓首再拝>
《あなたの生活を天国生活にするには》 - 伝統
2021/08/20 (Fri) 04:26:19
*『 生長の家 』(昭和40年3月21日の法語)より
小我(しょうが)に仕えるか、大我(たいが)に仕えるかだ。
肉体の欲望や権勢欲や名誉欲に仕えるか、
それとも唯、神に“のみ”仕えるかである。
それによって、その人の生活が地獄にもなり、極楽にもなるのである。
財産もあり名誉もあり国家の権力者になっている人たちが、
内心に顧(かえり)みて、本当に私の魂は平安である、
私は神に悦ばれる生活をしている、
魂の底から「お前はよくやった」という讃辞をきくことが出来る
という人が幾人あるであろうか。
彼らの大多数は、魂の不安、地位からの顛落(てんらく)の恐怖に悩まされ、
心に敵を描いて常に闘争の精神にみたされて、
心は修羅(しゅら)の如くであるのである。
もっと人間は神に悦ばれる者と“先ず”ならなければならないのである。
それが「先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」
であるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
<感謝合掌 令和3年8月20日 頓首再拝>
《相手を自分の 「 好き 」 に強制してはならぬ》 - 伝統
2021/08/21 (Sat) 05:00:00
*『 生長の家 』(昭和25年4月19日の法語)より
相手が自分の思う儘(まま)にならないとて
相手を自分の思うままにしようと思ってはならないのである。
人間は神の子であり、神は無限であり、凡ゆる人間に
それぞれ個性ある表現を求めていられるのである。
自分を彼たらしむることはできないと同様に、
彼を自分たらしむることもできないのである。
彼が彼であることが神さまにとっての 栄(さかえ)であるのである。
「 彼を私の思う通りにならせて下さい 」 と祈るな。
彼が神さまの み心によって設計せられた通りの道を
進むようにならせて下さいと祈る時、
彼は本当に善き人となるのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825964.html
<感謝合掌 令和3年8月21日 頓首再拝>
《“神らしくなる” こと》 - 伝統
2021/08/22 (Sun) 05:04:37
*『白鳩』(昭和40年4月号)より
人間が “神らしくなる” ということは、
物質的なもの、時間空間的なものに支配されなくなり、
必要に応じて超時空的能力を発揮し得るということであり、
罪の観念に縛られて自己を自縄自縛しなくなることであり、
自己処罰しなくなることである。
その人は物質的なものに縛られなくなるために、
経済的の変動で、一時、株が暴落するようなことがあっても、
必ずそれは反騰するものであることを知って心が動揺しないことであり、
また大いに儲かっても、それは神の愛の実現であるとして
私的使用に浪費することなく、
公けなることに悦んで献げ得る心境であるということであり、
時間に束縛せられないから、愈々多忙にして疲れることなく、不平なく、
忙中なお閑を蔵して悠々神想観をなし、愛行を重ね得ることである。
自己処罰をしなくなるということは、自然に災害の起るところに近寄らなくなり、
みずから不幸をもとめて自虐状態に立ち到らなくなることである。
“神らしくなる” ということの一つは、自己に “絶対価値” を求め、
他と比較して自己を劣等であると考えないことである。
たとえば自分の眼の形や鼻の形が、他の人々と比較して、
大きすぎるとか、小さ過ぎるとか、高すぎる低すぎるとかいうことによって
価値づけをしなくなるということである。
すべての人間は、神の絶対美 〈超比較美〉 の個別化した自己表現であるから、
その人でなければ表現できないところの比較を絶した美しさがあるということである。
たとえば、美空ひばりにも、江利チエミにも、雪村いずみにも、坂本九にさえも
神は、彼又は彼女でなけれならない魅力的な美を与えていられるのである。
ロダンの 「鼻欠けの像」 にすらすばらしい美が表現されているのである。
“生命” は “神” であるから、“生命” の発現するところ
必ず其処に素晴しい美が輝きいづるのである。
あなたは何よりも自己の “生命” を溌剌と発揮しなければならない。
妻が生き生きと明るい美を湛えている家庭は常に幸福である。
“神らしく” あるという事の一つの特徴は、
その人が自然にそのまま健康であるということである。
神は絶対健康であるから、あなたが毎日神想観を実修し、
自己の実相たる 「神の生命の内在」 を心で見詰め、
それを念じつづけている限りは絶対健康であるのは当然のことである。
併し肉体は 「心の影」 であるから
周囲の人々との間に “心の世界” に摩擦や憤りや憎しみや
反感や嫉妬や恨みがある場合は、
その感情の蓄積が或る程度以上にたまると、
それが具体化して病気の形をもって自壊して行くことになるのであるから、
周囲り人々と和解し、調和し、すべての人に物に事に感謝するように
しなければならない。
神想観のとき、あらゆる人に物に事に愛念を送り、感謝の念を送るようにしなさい。
それが絶対健康を得るもとになります。
(http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19195431.html)消滅
<感謝合掌 令和3年8月22日 頓首再拝>
過去について思い煩うこと勿れ - 伝統
2021/08/23 (Mon) 04:53:12
*『如意自在の生活365章』(P183~184)より
過去にどんな失敗があったからといって、
それについて思い煩う必要はないのである。
赤ん坊は一ぺんに起ち上がることができないで、
失敗して倒れたからといって、
それについてクドクド愚痴をこぼしたり、
「もう駄目だから起ち上がる練習をやめよう」
などとは思わないのである。
人間は〝神の子〟だけど、特殊の使命をもって人類救済のために
特に地上に生まれて来た釈尊やキリストのような人は別として、
大抵はまだ〝魂の赤ん坊〟にすぎないのである。
だから幾度失敗しても起ち上がる努力を続けている限り、
別に恥ずかしいことはないのである。
恥ずかしいのは一ぺんや、数遍ぐらい失敗したからとて、
劣等感に陥って、起ち上がる努力をしないことなのである。
努力をつづける限り、過去に幾度失敗があっても、
それは発達の基礎訓練として赦されるのである。
<感謝合掌 令和3年8月23日 頓首再拝>
真理の要項 - 伝統
2021/08/24 (Tue) 05:02:48
*『生長の家』(昭和25年3月 誌巻頭言)より
ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば
調子にのりて虚偽を語ることあるべし。
ただ優しき言葉のみを語れ。
烈しき語調の言葉は深切より出づる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと
誤解せらることあり。
心の中にても、言葉に現しても、行いにあらわしても、
人を傷つけてはならない。
誠実であれ。
虚偽であってはならない。
素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行い、言わねばならぬ。
値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いづれにせよ
何らかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、
何時かは奪い返されることがある。
自己の生活が
気尚(けだか)き基礎に立つかどうか顧みよ。
汝の生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、
怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みとは
神と汝を隔てる
最も大なる敵である。
常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを
忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。
恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は
根を培わない樹木の枝の如く、
一時は生花の如く美しくとも
やがて枯れてしまうであろう。
人に深切をつくすのが
最善の宗教である。
ただ教えの説教師になっては
ならないのである。
一日一回以上、
出来るだけ自分の利益にもならない事で、
純粋に人のために尽せ。
純粋で無我でつくすことは、
其の事自体が
神に通ずる祈りである。
無我の愛でささげたる奉仕は
神に献げたことになるのである。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/9
<感謝合掌 令和3年8月24日 頓首再拝>
《教へと生活との一致》 - 伝統
2021/08/25 (Wed) 04:56:38
*『生活の智慧365章』
(第1部生命の泉)第1篇(P31) より
自分に対して誰も彼も猛威を持っていないとか、
冷たい眼で見ているとか考える人たちは、
根本に於いて人生観を変えなければならないのです。
「根本に於いて」とは人間の実相はすべて、”神の子”であり、
人間同士は互いに兄弟姉妹であり、この世界全体は「神の世界」であって
根本に於いて神の愛によって調和し護られていつのだという意味である。
この真理を知ることが「根本に於いて人生観を変える事」である。
生長の家の信徒で、教えの上では、この世界は唯(ただ)一つの神によってつくられ、
生み出され、護られているということを承認しながら現実に於いては、
「あの人は僕に敵意をもっている」とか「会社の重役は僕に冷たい」とか
思っているとするならば、
”教え”と”生活”とが分離しているために、
実際の功徳はあらわれないということになるのである。
信仰というものは”教え”と”生活”とが一致して実践されるとき
功徳を生ずるものである。
<感謝合掌 令和3年8月25日 頓首再拝>
他を羨むな! 自己の内に宿る価値を掘れ! - 伝統
2021/08/26 (Thu) 04:49:58
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月26日)より
もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。
他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。
他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。
二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には
自動車王して億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。
羨むなとは諦めよということではない。
自分が貧弱なままで諦めておれということではない。
自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。
あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。
掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。
<感謝合掌 令和3年8月26日 頓首再拝>
愛憎を離れた平等の本心 - 伝統
2021/08/27 (Fri) 04:55:38
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月27日)より
愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。
愛憎の心は妄心である。
妄心とは本来”ない”心である。
本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。
愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、
自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。
無敵流の兵法の極意はここにある。
<感謝合掌 令和3年8月27日 頓首再拝>
《取り越し苦労を止める》 - 伝統
2021/08/28 (Sat) 05:01:51
*『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
第3篇( P75~76) より
誰でも愉快に楽しく生活したいのである。
それなのに心配や取越苦労ををして、生活から楽しさを取り去り、
勝手に生活を暗い、楽しくないものにしているのである。
ある人は健康について思い煩い、或る人は経済問題について思い煩い、
そして其の最も心配し思い煩うところのものを自分に引き寄せて
苦しんでいるのである。
心配や取越苦労をしたからとて、健康がよくなる訳でも、
経済が楽になる訳でもなく、心配や憂鬱で、心を曇らせた時に想いついた事などは、
心が曇らせているから良い智慧が思い浮かばないのである。
本当に問題を解決するには、先ず心が明るくなり、自分の心が神と波長が合う
ようになり、神の智慧が受信されて来るようにならなければならないのである。
誰でも、本当は自分が主人公であるから、自分の心を支配して、
「心配するな、思い煩って何になるか? 神がお前を守っていられるではないか」
と自分の心に命令することができるのである。
このように命令して、あなたの心の思い煩いを解くがよい。
<感謝合掌 令和3年8月28日 頓首再拝>
女性たちよ、天の岩戸を開け通しにいたしましょう。 - 伝統
2021/08/29 (Sun) 04:44:41
*谷口輝子先生著『新版 女性の書』P233~P234より
常に常に笑顔であれ。
常に常に晴れやかな言葉を響かせましょう。
明朗な表情をすることだけでも万人に善を与えていることになるのである。
公園を美化することも、街を清潔にすることも、容姿を整えることも
すべて他を喜ばせよう、他に好感を与えようとの愛念より発したる行為であって、
大いなる公徳である。
触るる限りの人類と動植物とに微笑を投げかけ善き言葉を響かせるものは
善行を行じているのである。
自分がどんな表情をして居ようとも、自分の勝手だと思うことは間違いである。
不快な表情、淋しい表情、怒りの表情は、自分のみの問題ではない。
触るるものみなを傷つけているのである。
他に不愉快を与える度数の多いほど、自分の不幸は濃くなって行くのである。
容姿を整えることと、お洒落とを混同してはならない。
他に不快を与えないために、また自己の気持の落ちつくためにも、
髪を調え、垢を落とし、綻を直し、
着物の衿を白粉や油で汚した姿を見せないようにしましょう。
明朗な表情と整然とした容姿とは、
それだけでこの世に存在の価値が高いのである。
永遠の日女である女性たちよ、再び私は云う。
天の岩戸を開け通しにいたしましょうと。
<感謝合掌 令和3年8月29日 頓首再拝>
《 人生を闘いと思うべからず 》 - 伝統
2021/08/31 (Tue) 05:01:02
*『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
第3篇( P83~84) より
生活と闘っているというような人生観をもってはならない。
闘いというものは常に勝敗を予想しているものであるから、
常に警戒し常に恐れ、常にイライラしていなければならない。
そのような気持では、真の平和も幸福も来らないのである。
或る西洋の光明思想家の詩に
「われは我が戦いをたたかえるに非ず、われは我が歌をうたえるなり」
という句があるが、そのような気持こそ、本当の人間の生活なのである。
『法華経』の「自我偈」には実相世界の状態を描いて
「諸天天鼓(しょうてんてんく)を撃(う)ち・・・
衆生の遊楽するところなり」 と書かれているのである。
其処に刻苦闘争のすがたなどは少しも暗示されていないのである。
ただ自分の好む歌をうたうように、ただ楽々と、与えられた天地に
与えられた使命を実践しておれば一切の善きものが整う有様(ありさま)が
描かれているのである。
<感謝合掌 令和3年8月31日 頓首再拝>
《毎日小善の習慣をつけること》 - 伝統
2021/09/02 (Thu) 04:48:36
*『 生長の家 』(昭和24年8月1日の法語)より
毎日小善を行うことを忽(ゆるが)せにせざれば
遂(つい)にそれが積りて善き人格を養成し、
見えざる天の倉に善きものを貯(たくわ)え
結局 自分の運命が好転するのである。
自分のこしらえた善業が 常に自分のよき友達である。
ある人は嘘(うそ)をつくことができない。
それは本当のことをいう習慣がついているからである。
ある人は常に出鱈目(でたらめ)を云い嘘をつく。
それは常に嘘をつく習慣がついているからである。
人間は自分自身の運命に 自分の習慣の判を押すのである。
<感謝合掌 令和3年9月2日 頓首再拝>
最初が大切である - 伝統
2021/09/04 (Sat) 05:02:54
*『 生長の家 』(昭和24年8月2日の法語)より
最初が大切である。
最初に一寸(ちょっと)したはずみに行ったことが種になって、
同じようなことがくりかえされる。
初めを慎むことが大切である。
習慣は坂の上においた車のようなものである。
そのままおいておけば何事もおこらないが
少しでも動かすと加速度で下向し始めるのである。
悪魔は決してマッチで硬い石炭に火をつけようとはしないのである。
「 ほんのささいな罪 」というような小さな屑(くず)に火をつけて
全体を真黒焦げにしてしまうのである。
<感謝合掌 令和3年9月4日 頓首再拝>
「人間神の子」の真理こそ、生長の家の根本の「御教え」である。 - 伝統
2021/09/10 (Fri) 05:02:47
*「生命の實相」第5巻(P23)より
人間(ひと)は神の子である。
これが「生長の家」の主張する根本自覚で、
この自覚を「中心自覚」と申すのであります。
なぜこの自覚を「中心自覚」と申しますかといいますと、
この根本自覚は円の中心のようなものであって、
この中心から外的な一切の善きものが流れ出でるからであります。
この根本自覚が完全であればあるほど、
この根本自覚が強烈であればあるほど、
われわれに発現する知恵はいっそう明らかとなり、
愛はますます深くり、生きる力はいよいよ豊富となり、
万事における能力は層一層旺(さかん)となるのあります。
神われに在(い)まし、われ神の内あるがゆえに、
すべてのこと、あらゆること、われに不可能なるものはない。
これが「中心自覚」でありまして
「不可能という言葉取り去れ」
これが生長の家の生きかたの最初の第一であります。
<感謝合掌 令和3年9月10日 頓首再拝>
悪を語らず、神の愛を循環させる - 伝統
2021/09/11 (Sat) 04:57:34
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より
人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。
外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。
万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。
われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。
かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。
<感謝合掌 令和3年9月11日 頓首再拝>
【 真に人を助ける道は? 】 - 伝統
2021/09/15 (Wed) 05:05:40
*『生長の家』(昭和25年8月13日の法語)より
人は他より助けられるとき一時有り難く感ずるが、
人から助けられねばならぬような自分に
自己軽蔑(けいべつ)を感ずるのである。
そして自己軽蔑しなければならぬような状態になったことを、
恵みを垂れた人に転嫁して、
助けてくれた人を逆に恨んだりすることもある。
多くの人が人を憎むのは、
自己自身を憎むみじめさを相手に映し出して憎むのである。
だから自己が本当に幸福感で一ぱいになっている者は
決して人を憎んだりはしないのである。
だから、人を助けるには
彼自身が自信力がもてて幸福になるよう導かねばならぬ。
<感謝合掌 令和3年9月15日 頓首再拝>
倶(とも)に泣く - 伝統
2021/09/17 (Fri) 04:57:15
*『靜思集』(P176~177)より
人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
―― そんなものを伴うならばそれを指摘しない方が好い。
相手のために倶に泣き得る底になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを持たないで
相手を改心せしめ得るであろう。
人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。
「倶に泣く」と云う感じは、自他一体の感じであるから
しみじみと有り難く感じられる。
「咎(とが)める」と云う感じは、自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。
「倶に泣く」という感じは、軽蔑から来るのではなく、
本来あるべき筈の尊厳の境地を尊ぶことを、前提として、
その墜落を倶(とも)に悲しむのであるから、
素直にスラスラと容(い)れられる。
人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。
自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛(かいしゅん)とか云うことは
あり得ない。
自尊は他敬(たけい)によって養われるのである。
「咎める」言葉が不結果を招く原因は
こんな所にあることが判るのである。
人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。
「愛」の中にこそ聖泉(せいせん)がある。
それは知恵が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ない聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき一切の不完全は癒されるのである。
みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。
<感謝合掌 令和3年9月17日 頓首再拝>
見えないところほど手を抜かない - 伝統
2021/09/18 (Sat) 04:43:55
*Web:日向学院 より
福音書に描かれるイエスの姿を見ていると、
時々、イエスが烈火のごとく怒り、時の指導者たちに
痛烈な批判を浴びせている箇所があります。
例えば、マタイ福音書には次のようなイエスのセリフがあります。
「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。
外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。」
真面目なふり、働いているふりをして、外面上良く見せれば、
他の人から非難されないだろうと思っていたのでしょうか。
曹洞宗のお坊さんで建築家でもある桝野俊明さんは、
『日本人はなぜ美しいのか』という本の中で次のように言っています。
京都や奈良に昔からあるお寺や神社の建物を修復するとき、
一度すべてのパーツを解体してばらすのですが、そ
の時、作業にあたる宮大工さんたちを驚かせるのは、
内部のつくりの見事さだと言います。
「うわあ、こんなにすごいことをやっているのか!」と。
誰の目にも触れることのない内部にも、
当時の匠は一切の手を抜いていないのです。
おそらくその仕事のことで誰もその匠をほめたりした人はいないでしょう。
逆に手を抜くことだってできたはずです。
当時の職人さんたちは評価など気にせず、
自分のできる限りのわざをそこに投入したのです。
「見えないところほど手を抜かない」
それが日本の職人気質というものだったのでしょう。
食品偽装、建築工事の偽装など、今では少しでも手を抜き、
安く仕上げて、自分の利益を増やそうという職人さんも
いないわけではありません。
そうした中で、この古の職人さんたちの気質を
わたしたちは見直さなければなりません。
皆さんは、人が見ていなかったらどうしているでしょうか。
先生やお母さんの目の届かないところだったら、
勉強や仕事をさぼったって怒られないさ。
宿題やお手伝いだって、多少手を抜いても大丈夫。
そのように考えていませんか?
しかし、もっと上を目指す人間は、
「見えないところほど手を抜かない」ものなのでしょう。
誰も見ていない、誰も評価しないところだからこそ、
一生懸命に自分のできる限りを尽くす日本の職人気質を、
私たちの中にも取り戻したいですね。
そして、実はそういう隠れたところこそ、神様は見ているのです。
http://www.hyugagakuin.ac.jp/about/words/e/2014/09/24/000958.html
・・・
<参照>
伊勢ー白山 道(2021-08-24)
自分の表と裏が、ひっくり返っても大丈夫な自分なのか?
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/bcb5162186604124aeb3ec45d9427969
<感謝合掌 令和3年9月18日 頓首再拝>
《信念と経験とを有(も)つことが大切である》 - 伝統
2021/09/20 (Mon) 04:48:58
*『 生長の家 』(昭和24年8月19日の法語)より
人の意見はきかなければならないが、
人の意見に左右されてはならないのである。
人の意見に左右されるものは
自分に信念と経験とがないからである。
かかる人は砂の上に立てたる楼閣の如(ごと)く
周囲から来る色々の意見の突風のために
覆されてしまうのである。
信念と経験とを有(も)つことが大切である。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12825133.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年9月20日 頓首再拝>
《約束の時間を正確にせよ》 - 伝統
2021/09/25 (Sat) 04:50:56
*『 生長の家 』(昭和24年8月26日)より
自然の法則を破るものは
必ずそれだけの報いを受けるのである。
自然はその法則をもっともすなおに
遵奉(じゅんぽう)するものを表彰する。
小さな法則といえども破ってはならない。
自然の運行は 極めて緩やかにして
しかも一瞬一刻をも たがえずに運行するのである。
人間も斯(か)くの如(ごと)く
時間が正確でなければならない。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12853355.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年9月25日 頓首再拝>
《精進努力は実相実現の鑿(のみ)である》 - 伝統
2021/09/29 (Wed) 04:57:01
*『生長の家』(昭和25年7月20日の法語)より
忍耐、克己及び精進努力は
実相を実現するために
トンネルを穿(うが)つところの鑿であるのである。
吾々は精進努力して煩悩の岩を穿って
魂の自由なる境涯まで達するために
トンネルをうがたなければならないのである。
トンネルを穿つには
真理の光を以(もっ)て照らし、
正義の尺度をもって その方向を定め、
理性によって 今自分が人生のトンネルを
如何にうがちつつあるかということを
測定しなければならないのである。
真理と正義と理性によって正しき方向に向かわないものは
折角(せっかく)の精進努力も無駄になるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和3年9月29日 頓首再拝>
《人生は一路邁進(まいしん)だ》 - 伝統
2021/09/30 (Thu) 04:40:36
*『 生長の家 』(昭和24年7月27日の法語)より
世界は、まっしぐらに一路邁進するものの前には
自(おの)ずから道を開いて敬意を表するのである。
人生の前進は「 気合 」によって行われる。
まず心に実現すべき目的を描いて
その目標に対して遮二無二(しゃにむに)突き進むのである。
その時 如何なる障礙(しょうがい)物も
自(みずか)らその前進の踏み台となり
お庭の飛石となるのである。
障害物の上をとびこすことができなければ、
障礙物の下を くぐればよいのである。
下を くぐることもできなければ
障礙物に真正面からぶつかれ。
障害物は本来ないのであるから
その瞬間 その姿を消すであろう。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/62cb6664202f07600f39b4052267a49c
<感謝合掌 令和3年9月30日 頓首再拝>
保身の術 - 伝統
2021/10/01 (Fri) 04:57:24
*「光明道中記(その身まったし)」(10月はじめの言葉)より抜粋
あらわれて出ることだけを知って隠れることを知らない者は自己を滅ぼすのである。
緊張ばかりを知って弛緩の道を知らない者も自己を滅ぼすものである。
昼のみあって夜なきときは人はついに滅びてしまうのであろう。
みずからを護る術を知る者はよくみずから隠匿する者である。
水遁、火遁、自由自在にして、変幻出没するものでなければ、大をなすことは出来ない。
(中略)
保身の術は自ら韜晦(とうかい)して顕れざる位置に隠れ、
人を押し上げて人をも生かし、自分も生きるのである。
自分が暫く顕れることを焦ったために、自分自身が出る杭として壊滅するのみかは、
自己に頼っていた幾十万の人々を帰趨する処なからしめる。
その人のためを思いて顕われた位置に置かない私の心を汲むものは稀である。
<感謝合掌 令和3年10月1日 頓首再拝>
《詰まらない仕事が大きな仕事の基礎となる》 - 伝統
2021/10/02 (Sat) 04:56:38
*『 生長の家 』(昭和24年7月28日の法語)より
始終 目的を変更し、
職業を変更するものは
成功することはできない。
自分の職業をつまらないと思って、
もっと楽な 成功しているように見える仕事をうらやんで
心を他にふらふらさせる者は成功することができない。
どんなつまらない仕事でも、
それに本当に没頭する時、
それが基礎になってもっと大きな仕事が
成就できるのである。
成功の鍵(かぎ)は
自分自身のこの世界に占むべき位置であるところに
自分をおくということである。
今いる位置がかかる位置であるかないかは、
今いる位置に於いて真心をつくして
一心不乱に仕事をすることによって、
本当に自分の行くべき道の出口に出られるのである。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7f9d5e54982e0c0db67c5a9f3533617a
<感謝合掌 令和3年10月2日 頓首再拝>
【 心に悩みを抱いてはならぬ 】 - 伝統
2021/10/04 (Mon) 04:19:22
*『生長の家』(昭和25年7月29日の法語)より
アルコールを飲用してその習慣からぬけだしたいと現在意識で考えながら、
それから抜けだすことのできないのは、
潜在意識にアルコールの麻酔力によってごまかさなければならないような
心の悩みがあるからである。
しかも飲酒の悪癖を禁止しようと思いながらも、
それを止め得ない意志の弱き自責の感情のいらいらしさが、
更にそれをごまかすために
アルコールの飲用をすすめることにもなるのである。
酒をやめたいと思うものは
家庭全体に感謝するようにならなければならない。
そして 「 悪癖がある 」 などと思わずに
「 酒をのむ自分も無い 」 と知ることである。
<感謝合掌 令和3年10月4日 頓首再拝>
《“今日”を恋人の如く迎えよ》 - 伝統
2021/10/05 (Tue) 04:58:23
*『人生の秘訣365章』第4篇(P91) より
“今日”を迎えるのに悦びの念をもって迎えよ。
「自分は“神の子”だから必ず善き事が訪れる」
と明るい期待をもって“今日”を迎えよ。
あなたが恋人に逢いに行くかのようなうれしい明るい心をもって
“今日”を迎えるならば、“今日”もまたあなたを、
恋人のような明るい嬉しい顔をして迎えるであろう。
そうしてあなたの人生が天国となり、
あなたの周囲に極楽世界が展開するのである。
何故(なぜ)なら、あなたの迎える世界は、あなたの“心の展開”であるからである。
<感謝合掌 令和3年10月5日 頓首再拝>
よき種子(たね)を播(ま)かねばならぬ - 伝統
2021/10/06 (Wed) 04:51:23
*『 生長の家 』(昭和24年7月30日の法語)より
キリストは
「 二人の主(しゅ)に仕うること能(あた)わず 」
といったのである。
一事を成就するためには
他のすべてを犠牲にする覚悟がなくてはならない。
しかし 一事が成就されたら、
その他の欲するものも
自ずから獲得し得るのである。
蒔(ま)かぬ種は生えぬ。
蒔いた種は 刈りとらなければならぬ。
善き種を蒔くことは
善き収穫を得ることの前提である。
善き人格の種を蒔けば
善き運命が刈りとられるのである。
想(おも)い、言葉、行いは
すべて種となるものである。
すべての想いと言葉と行いとは
一種の惰力をもっていて、
それは結局 形をつくる力となるのである。
習慣がそれである。
善き習慣をつくれば
その次には努力なくして善きものが造られる。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0ddf2e1f499add58947e7a180e567c85
<感謝合掌 令和3年10月6日 頓首再拝>
【人生を変えるモーニングメソッド】 - 伝統
2021/10/12 (Tue) 04:28:42
*<メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.05.15)より
(ハル・エルロッド氏の心に響く言葉より…)
《人生でもっとも悲しいことのひとつは、
死ぬ間際に振り返って後悔することだ。
もっとすごい人になれたのに、もっと何かできたのに、
もっと所有できたのに、やれるとわかっていたのに、と。》
(ロビン・シャーマ)
平凡な生き方を離脱して、自分の能力をフルに使って最高の人生を生きたい。
これは、人類史上最大の難関であり、全人類共通、不変の願いである。
言い訳をやめて正しい行動をとり、ベストを尽くして望み通りの人生を叶える。
ほんのひと握りだけが享受できる無制限の人生だ。
残念なことに、およそ95%の人々は、
理想とする人生のはるか下のラインで妥協している。
もっと上にいきたいと願い、後悔しながら生きている。
本当は、望んだことはすべて叶えることができたはずなのに、
それを知る由(よし)もないのだ。
アメリカ社会保障局のデータによると、
100人のキャリア開拓から40年間、引退の年齢までを追跡すると、
こんな結果になるという。
裕福な人…1名
経済的に安定している人…4名
何らかの事情でしかたなく働き続けている人…5名
死亡した人…35名
経済的に困難で友人家族親せきや政府の世話になっている人…54名
あくまで金銭面の話だが、
自由がきく人生を築くことに成功した人はわずか5%。
残りの95%は、一生苦労が続くということだ。
だから、しっかりと考えて、答えを出すべき自分への質問はこれだ。
95%の人のような苦労をしなくてすむために、今できることは何か?
<『人生を変える モーニングメソッド』大和書房
https://amzn.to/3bqR6aq >
・・・
ハル・エルロッド氏は、
「95%の人のような苦労をしなくてすむために、今できること」
についてこう言っている。
だまされたと思って朝、早起きをし(できれば5時か4時に)、
60分間のモーニングメソッドをすること。
モーニングメソッドとは、
「沈黙、瞑想を5分」
「アファメーションを5分」
「イメージングを5分」
「読書を20分」
「運動を20分」
の計60分間。
これによって、劇的に人生は変わるという。
「ロスト・イン・マンハッタン」という
リチャードギヤがホームレス役になる映画がある。
再就職もできず、酒ばかりを飲んでしまい、
落ちぶれて最後にはホームレスになってしまった
主人公(リチャードギヤ)。
『ロスト・イン・マンハッタン』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=oafkCk9MQ7A
政府の保証や援助を受けようとするが、
出生証明書も、IDも、納税証明もなにもない人は国の援助を得られない。
家族も妻は離婚して死別。
娘が12才のとき、育児放棄をして
出て行ってしまったので、娘との接点がない。
実に、暗澹(あんたん)たる映画だ。
まさに、鏡の法則のごとく、
自分が天に向かって投げた行動はみごとに自分に返ってくる。
人生の前半の生き方が、後半の人生にそっくり戻ってくるということだ。
人生を変えるには…
早起きをして、
モーニングメソッドの実行をする必要がある。
<感謝合掌 令和3年10月12日 頓首再拝>
《悪癖を矯正するための思念》 - 伝統
2021/10/15 (Fri) 04:58:19
*『 理想世界 』(昭和42年7月31日の法語)より
しかしすでに悪癖の習慣をもっていて、
それから脱しようとしても脱することができず、
常に良心の呵責に苦しめられている者は如何にすべきであろうか。
あなたには悪癖を心につかんでいて
それから逃れようと思うから逃れることができないのである。
“つかんでいるもの”は掴んでいる其の事によって、
それから離れることができないのは、“心の法則”であるのである。
それから離れるためには“つかみ”を放さなければならないのである。
「私はこのような悪癖になやまされている」と心で思うな。
心で思うことは心でつかんでいることなのである。
次のように、神想観中に念ずるのがよい。――
「私は“神の子“であり、神の生命を宿し生れているのである。
それゆえに私の日常生活は神の知恵に導かれているのであるから、
決して悪癖などは私の生活にはないのである。
私は“神の子“あり、ただ善のみを行うのである。
(例えばその人が喫煙癖の場合には)
“神の子”はすべてのものを支配する権能(ちから)を
与えられているのであるから物質に支配されるということはないのである。
支配される者は奴隷である。
煙草という物質に支配されて、
煙草がなくては淋しいというのは煙草の奴隷である。
私は決して煙草の奴隷ではないから、煙草を吸わなくとも淋しくないのである。
私は“神の子”として“神の愛”に包まれているから唯このままで楽しいのである。」
<感謝合掌 令和3年10月15日 頓首再拝>
愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得る - 伝統
2021/10/16 (Sat) 04:33:14
*「光明道中記」(10月16日《誰も赦した、憎む人のない日》より
【実在すなわち光明、これを不可思議光と言い、如来自在と言う。
(『生命の實相』第十一巻)】
善し悪しやにくや可愛いと思わねば世界がまるでわがもの
誰の歌か知らぬがなかなか好い歌である。
生長の家の教は「天地一切のものと和解せよ」との教えである。
さてその和解はどうしたら出来るのか、答えて曰く、総感謝であると。
そんなに和解していたら戦争は出来ぬではありませぬか
と質問されたこともあった。
和解した時本当に不死身の力が出て来る。
こんな話がある。
戦争のときに敵の間諜を捕えたが、軍の掟で斬らねばならぬ。
そう云う時にその間諜が平然として微笑したり、
平然として合掌していたりするとどうしても斬ることが出来ぬ。
そこで何か侮辱を与えて間諜を怒らせる
―― 憤ると云うことは「斬る心」を起すことである。
間諜が憤って「斬る心」を起して憎らしそうな顔をした時に
思い切ってバッサリ斬れる。
斬られるのは、「斬る心」を起したからである。
無心の小児は斬ることが出来ぬ。
愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得るのである。
キリストも
「此の幼児(おさなご)の如きものならずば神の国に入ること能わず」
と言ったし、
白隠禅師も
「是非憎愛総に拈抛(ねんほう)すれば、汝に許す生身(いきみ)の観自在」
と言ったが、愛憎に心が捉われるから地獄が現出するのである。
<感謝合掌 令和3年10月16日 頓首再拝>
《人間の生命は商品ではない》 - 伝統
2021/10/19 (Tue) 04:58:25
*「理想世界」(昭和43年9月1日の法語)より
自分が働く先で如何ほどの給料を貰うかについて考えるな。
それを考える事は自分自身の生命を「商品」として考える事で、
自己侮辱の始まりである。
「自分は『商品』ではない、神から地上に、或る使命を果たすべく
遣わされたる”神の子”であり、天使である。
その使命を今果たしつつあるのである。
だからこの自分の働きは、金銭的価値を越えたる地上の価値である。
その価値は神から賞讃される絶対価値であって、比較を絶した価値である」
と考えながら仕事をするがよい。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7775396
<感謝合掌 令和3年10月19日 頓首再拝>
《仕事も神授の天職と信じて為せ》 - 伝統
2021/10/20 (Wed) 04:53:12
*「理想世界」(昭和43年9月2日の法語)より
自分の値打ちを商品価値にまで下落させてはならない。
無論、あなたの勤め先が、商品の製造会社であったり、
販売会社であったりすることはあろう。
けれども複雑に人間の生活があらゆる商品に結びついて成立っている
現代に於いては、どんな商品を扱う会社・工場等に於いてもその仕事は、
何らかの意味に於いて、誰かにとって、その時、その場に於いて求める
必要がある。
――即ち、“必要の品物”についての仕事であり、それを完全になすことは
人類の福祉に直接又は間接に貢献しつつあるのである。
この自信をもってその仕事に従事することを悦びと勇気とをもって
深切丁寧に行なうがよいのである。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7775396
<感謝合掌 令和3年10月20日 頓首再拝>
《現在の仕事が不適当の場合》 - 伝統
2021/10/22 (Fri) 04:50:03
*『理想世界』(昭和43年9月3日の法語)より
どんなに思い直して見ても、自分の仕事は社会に害毒を流すだけであって、
社会にも人類にも貢献していない。
他の人から搾取するだけの仕事に過ぎないと考えられるならば、
勇敢にその仕事を止めるがよい。
そして神に「今自分にとってできる仕事で人類に貢献することの
できる仕事を与え給え」と祈るがよい。
間もなく、あなたに最も適するそして人類に貢献できる仕事が
与えられるであろう。
<感謝合掌 令和3年10月22日 頓首再拝>
心を調律すること - 伝統
2021/10/23 (Sat) 05:03:20
*『 生長の家 』(昭和23年9月3日の法語)より
物質的秩序は 自然科学の方面から研究せられる。
それは謂わば 神の智慧の物的方面への顕れの研究であるが、
今は自然科学者の方面にまかせて置く。
私は爰に 精神的秩序の方面を述べて見たいのである。
生命体は秩序の顕現であるから 秩序が破れたらそれだけ傷つくのである。
先ず、次のような心を持たぬことである。
一、腹立てやすい。
二、いらいらする。
三、気むずかしい。
四、陰気くさい。
五、自己軽蔑。
六、受難礼賛。
七、呟く心。自己憐憫。
八、同情を求める心。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86
<感謝合掌 令和3年10月23日 頓首再拝>
真理を生きる - 伝統
2021/10/24 (Sun) 04:55:12
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月24日)より
真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。
「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。
勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。
人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、
あれほど真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。
<感謝合掌 令和3年10月24日 頓首再拝>
永遠価値のものを愛し、考え、求めよ! - 伝統
2021/11/06 (Sat) 04:52:28
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より
万事物質的なものは遷りかわるものであり、
その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。
われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。
すべて心を労してもとめても、
やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。
神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。
忠、孝はむろんのこと、
すべて肉体を超えて永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。
<感謝合掌 令和3年11月6日 頓首再拝>
キリストは道標 - 伝統
2021/11/08 (Mon) 04:38:47
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より
キリストに対するユダヤ人の呪いは
「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を涜(けが)すものである」
ということであった。
ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された
「土の塵の人間」、「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」と
エホバの宣言したところの物質人間でしかなかったのである。
キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、
「人間は神の子である」と宣言したのである。
そして「我(われ)は道であって、
この道を通ればすべての人間は神の子なることを自覚しえて、
永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」と断言したのである。
キリストは道標(みちしるべ)であった。
キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、
われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである。
<感謝合掌 令和3年11月8日 頓首再拝>
《あなたの仕事を神の仕事となすこと》 - 伝統
2021/11/09 (Tue) 04:59:30
*『人生の秘訣365章』第6篇(P156~157) より
あなたの仕事が、自分の儲けるためではなく、神の愛を、
“神の子”なる同胞に分つための聖なる仕事であるとして、
その仕事にたずさわらせて頂くことを感謝して、仕事を進めるがよいのである。
周囲の人々や第三者の毀誉褒貶に心を動かす必要はないのである。
もし、他(た)の人があなたを悪しざまに批評したとするならば、
それはその批評者を呪い返すための機会ではないのである。
夫(それ)は寧(むし)ろあなたが神に対して一層心を振り向ける機会を
与えて下さったものであるとして感謝せよ。
「神よ、彼をゆるし給いて、彼にあなたの愛と智慧とを一層多く注ぎ給うて、
彼が本当の真理を知ることができますように」
と祈ることが大切である。
<感謝合掌 令和3年11月9日 頓首再拝>
< 私 の 念 願 > - 伝統
2021/11/14 (Sun) 04:53:05
*『理想世界』昭和49年6月号より
~戦前の『生命の凝視』昭和18年発行の言葉
心持のよい生き方をしたい。
人に喜ばれる生活をしたい。
今日は善いことをしたと夜になって振返って見て、
自分で安心出来るような生活をしたい。
人が自分に迷惑をかけても、
その迷惑のやりかえしをするような生活はしたくない。
人が自分に迷惑をかけても、自分の方からは、
その人のためを思ってしてあげるような生活をしたい。
損かけられたら、損も黙って受けていたい。
損と云うものは本来無いのだから、
それは業がきえるはたらきだと感謝して生活したい。
毎日、一度でも腹立つことなくして生活したい。
毎日一度は、何か恩を返すようなことをしたい。
皇恩もある、国恩もある、父母の恩もある、配偶の恩もある、
子の恩もある、召使の恩もある。
親の恩も大切だが、子の恩も大切である。
子があるので、親はどんなにか慰められているか知れない。
親があるので、子がどんなに生きる力を感ずるだろう。
親と子は相持ちである。
どちらからも感謝したい。
夫と妻とも相持ちである。
どちらからも感謝したい。
主人と召使とも相持ちである。
どちらからも感謝したい。
一切の衆生の恩をおもうとき、一切衆生に感謝したい。
一切の事物の恩を思うとき、一切の事物に感謝したい。
これが私の念願である。
(『生命の凝視』より)
https://blogs.yahoo.co.jp/kamenoko159357/35707628.html(消滅)
<感謝合掌 令和3年11月14日 頓首再拝>
人の噂話をするな - 伝統
2021/11/15 (Mon) 04:55:35
*『生長の家』(昭和23年9月6日の法語)より
釈迦は十一悪のうち、綺語、妄語、両舌、悪口等を入れたが、
人の悪口を云うことは自分の心を汚すことなのである。
生長の家の誌友会で道の話が尽きて来ると
世間話をはじめる人が往々にしてある。
メンタル・サイエンスでは
「 噂話(ゴシップ)」 と云うものを十悪の中に数えている。
噂話は往々にして人の悪を指摘して、
皆でせせら笑うような気持になり勝ちである。
そのため、一地方に 二派の生長の家誌友会が出来て、
互いに対立して 他の悪口を云うようなこともある。
慎むべきことである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86
<感謝合掌 令和3年11月15日 頓首再拝>
善いところへ目を向けるのが悟りというものである - 伝統
2021/11/16 (Tue) 05:01:56
*「光明道中記」(11月16日《自在無礙の日》)より
【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】
秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が赤痢に罹ったときの
心境と生活態度を時々話して感嘆せられてものであった。
「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の
下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、日に何十回と下痢をするので
声なども嗄(か)れて居る位。
私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。
と云うと、
『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』と
小さい声で言って居った。
ナカナカそんな本など見て居れる時ではないは、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」
秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。
見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。
若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。
・・・
<参照>
「其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った」とあります。
「この老師の狂歌」については、
スレッド「読書の力 ⑥~本を読む極意とは!! <2021/11/15>
https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8226011
がヒントになるのかも知れません。
<感謝合掌 令和3年11月16日 頓首再拝>
《人類の幸福のために働くもの》 - 伝統
2021/11/17 (Wed) 04:59:16
*『人生の秘訣365章』第6篇(P157) より
あなたは常に「人間の幸福に対して、我は何を為すべきか、
われに与えられたる使命を知らしめ給え」 と祈るべきである。
そして人類の幸福に就いて「これを成そう」という
「内なる催し」が動き出して来たならば、躊躇することなく、
あらゆる勇気を奮い起して実行にとりかかるべきである。
その「初(しょ)一念」を殺してはならない。
「自分には迚(とて)もそんな大それた能力はない」 とか、
「自分にはそれを実践する資金はない」 とか思って
後退してはならないのである。
人類愛に由る「初一念」には「神の愛」が動き出しているのであるから、
本当にそのためにあなたが動き出すならば、それに必要な能力も資金も
自然に供給されて来るのである。
<感謝合掌 令和3年11月17日 頓首再拝>
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切 - 伝統
2021/11/21 (Sun) 02:23:42
*「光明道中記」(11月21日《味わい深い人になる日》)より
【家族に礼を言うこころになれ。(『生命の實相』三巻)】
親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。
弟子が下手に音楽を奏するならば、
その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。
禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、竹を憎むからではなく
竹を愛して雪を払ってやるためである。
叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。
何事が起っても、淡々として空言のような顔をして
空嘯(そらうそぶ)いている人には深い味わいは感じられない。
味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。
じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、
味方のチームが優勝したといっては歓喜の乱舞をしたい思い、
病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・
現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、
その時、その時の、出て来ることに
真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。
併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。
文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。
<感謝合掌 令和3年11月21日 頓首再拝>
《終りまで忍ぶものは救われん》 - 伝統
2021/11/22 (Mon) 03:09:57
*『人生の秘訣365章』第10篇(P253) より
忍辱(にんにく)の一面は、辛抱強いと云うことである。
「ならぬ堪忍するが堪忍」と云う諺があるが、
最も辛抱強く私たちを赦しておられるのが、
神であると云うことができるのである。
神は如何なる場合にも、私たちを罰したまうことはないのである。
ただ吾々は自己が言葉や、想念や、行動で蒔いた種を
循環的に刈りとるだけのことである。
私たちは常に愛行によって行動の良き種を蒔き、
祈りと神相観とによって良き想念の種を蒔き、
讃嘆と美しき言葉とによって良き言葉の種を蒔くようにしなければならない。
更にその「良き種」が腐らずに生育するように、
祈りと愛行と良き言葉とを常にたゆまず繰返すことによって、
その「良き種」の生長を促進するようにしなければならない。
すべて良き種を生長せしめるには、その結果を急いではならないのである。
農夫が秋の収穫期が来るまで急がず待つが如くにである。
<感謝合掌 令和3年11月22日 頓首再拝>