伝統板・第二
悦び ④ - 伝統
2021/06/05 (Sat) 04:43:19
悦びを語り、心の日記をつける
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より
生かされている悦びを語ることは、
言葉の力によって悦びを増幅することになる。
天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。
人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、
言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。
黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。
自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法である。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「悦び ①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6902660
(2)伝統板・第二「悦び ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7668104
(3)伝統板・第二「悦び ③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7906306
<感謝合掌 令和3年6月5日 頓首再拝>
与えられたものを先ず受けて喜ぶ - 伝統
2021/06/28 (Mon) 02:27:06
*「眞理」第9巻生活篇第4章(P88) より
~《毎日毎日、健康と幸福とを宣言しましょう》
毎日々々が勝利の日である。
毎日々々が健康の日である。
昨日(きのう)までの日が勝利の日でなくても、
昨日(きのう)までの日が健康の日でなくても、
すでにこれらの日は済んだのである。
今日は完全に神から与えられた「勝利」と「健康」とを
素直に受け取れば好いのである。
日取りの好し悪しを言ってはならない。
すべての「日」は神の与えものである。
神が、あなたの健康のために、
神が、あなたの幸福のために、愛するために、喜ぶために、
あなたにすべての「日」を与えたまうたのである。
もしあなたが健康でないならば、若しあなたが幸福でないならば、
あなたは愛行が足りないか、今与えられている賜(たまもの)を見て
歓ぶことが足りないのである。
空気を日光を水を、家を食物を大地を、あなたがつくらないのに、
こんなにも色々のものを与えられているのに、
何故(なぜ)歓ばない人があるのか。
与えられたものを先ず受けて喜ぶことから幸福と健康とは来るのである。
<感謝合掌 令和3年6月28日 頓首再拝>
大生命の歓喜 - 伝統
2021/09/09 (Thu) 04:38:23
*「光明法語」(9月9日)より
大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。
而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。
それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に
喜びを感ずるのと同様である。
大生命は森羅萬象を自己に内在する美と感情と衝動とを表現せんが為に造った。
<感謝合掌 令和3年9月9日 頓首再拝>
人生は楽しいゲーム - 伝統
2021/10/09 (Sat) 04:44:15
人生は楽しいゲーム(一人息子と死別したNさんの話)
*Web:今日も良いことがあるように(2019/05/15)より
このお話は、ずいぶん前に読んだ、
鈴木秀子著『生の幸い、命の煌き』から要約して抜粋した実話です。
《大切な息子を亡くして》
Nさんは、大切な息子をスキー事故で亡くしました。
若いときに大恋愛をして、実家との縁まで切って結婚し、
その後、離婚してしまった夫との間に生まれた、
ただ一人の子、利夫くんです。
Nさんが一生懸命に働いて育て、幸い、利夫くんは、
豊かな才能に恵まれ、素直な優しい子として育っていきました。
東大を卒業し、ハーバード大学からケンブリッジ大学に移り、
さらに勉強を続けていました。
利夫くんは、どこにいても、
毎日のようにお母さんに手紙を書いてくれていたそうです。
ところが、スイスでおこなわれたスキーの大学対抗試合に
出場していた利夫くんは、突然、心臓麻痺を起こして、
世を去ってしまったのです。
誰にでも親切で優しかった彼の早すぎる死を、多くの人が悼みました。
無論、Nさんの悼みは誰よりも深いものでした。
Nさんは、その後、一年間、息子のために買った大きな家に一人きりで、
誰にも会わずに暮らしました。
生きる意味も希望も、すべて失ってしまったと感じていたのです。
《心の痛手から立ち直る》
一年後、息子の死以来、初めて鏡を見ました。
廃屋のような家に、幽霊のような自分の姿を見て、
Nさんは、ハッとしました。
これではダメだと感じます。
そして、利夫がいなくても、
自分は利夫の母として、生きていこうと決意します。
一週間がかりで家を大掃除し、庭の雑草を抜き、
美容院に行って、荒れた髪をセットしてもらいました。
家に明るさが戻ると、次第に、人が訪ねてくるようになりました。
はじめはNさんを見舞ってくれるのですが、
逆にNさんが訪問客の悩みを聴いてあげることになりました。
訪れる人は、最初みんな同じことを聞きました。
「あんな優秀なお子さんを亡くされて、
よく、こんなに明るくしていらっしゃいますね」
Nさんはこう答えるのでした。
《人生は楽しいゲーム》
「生きるということは、『遊び』ですよ。
一瞬、一瞬を楽しむために、人は生きていると私は思うのです。
私はいつもゲームをしているのです。
いやなことや苦しいこと、つらいことにぶつかるたびに、
それをプラスに変えてしまうゲームをするのです」
・・・
「息子のことは、悲しめば、私の命取りになるでしょうが、
息子の死によって、こんなにも大勢の方々と
親しくしていただけるようになったのです。
不幸という形で何かが私に近づいて来る時、
私はそれを幸福に変えてしまうことにしています」
・・・
「だから、私は、毎朝、どんなゲームが待ち受けているのだろうかと
楽しくてたまりません。
私はとても自由で、そして楽しいのです。
生きていくことは、いつも楽しい挑戦ですよ。
子供の頃、没頭して遊んだあの気分ですね」
最愛の一人息子の死。
1年間の悲しみの日々の後に、Nさんが悟った境地に、
誰もが立てるわけではないと思います。
でも、この物語やNさんの言葉から
何かを学ぶことはできるのではないでしょうか。
人生に降りかかる、辛い事や悲しい事を、プラスに変えるゲームをすること。
人生に、毎日毎日、喜びや楽しさを見出すこと。
人生に、喜びはいつも発見できます。
人生に、楽しさはいつもあるのです。
今日も、喜びを見つけましょう。(^.^)
https://lucky.t-nakai.work/2019/05/15/story-68/
<感謝合掌 令和3年10月9日 頓首再拝>
実相の喜び - 伝統
2021/11/01 (Mon) 04:37:38
*『生長の家』(昭和25年7月31日の法語)より
何よりも大切なのは
神を自分の近くに、むしろ自分の内にましまして、
常に自分を守り給うものだと自覚するということである。
それこそが実相の喜びであり、
神の悦びを飲むものは 酒をのむ必要がないのである。
神はスピリットであり、酒もスピリットと英語で云うから、
神を得ないものが酒で代用するのである。
酒をのむのは真(まこと)に神をのんでいないために
神の喜びをのむための代償作用であるのである。
自分の生命が 神より来たり、神に生かされ、
神 吾を守ってい給い、わが内に宿ってい給うが故に
吾はとぼしきことなく 淋(さび)しきことなく、
常に喜びに みたされていることを自覚せよ。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和3年11月1日 頓首再拝>
人を喜ばせることが結局自分の喜びである~監房で天国を見出した体験 - 伝統
2021/12/22 (Wed) 05:01:24
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より
某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似て
いるのですこぶる興味がある話である。
「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
突然起ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。
私はこの福岡市のものでありまして、
この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申しますと、
一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、
私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。
幸いにして私は中位で当選しました。
私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から
言われたのですが、雑誌の名前を見たこともなかったので、
実はあまり関心を持っていなかったのであります。
それから後(のち)1年を過ぎまして
最近までも関心は持っていなかったのであります。
ちょうど6月26日だったと思いますが、
突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。
実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったので
ありまして、前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部
ぶち込まれたのでありまして、
実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。
私は特に皆様に申し上げたいことは私は7月の末に未決にほうり込まれた
のですが、そこに入っておりますと、何もしないで朝から晩まで
ただ《もの》を考えるだけであります。どうも魂の慰めがありません。
そこで突然思い出したのが前々から私の先生に進められていた
『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。
だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを
見つけ出すにはどうしたらいいかという事の谷口先生のお話が
載っておりました。
それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』
こういうようなことが書いてありました。
私は初め《なぐり》読みしていたのですが、
それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、
ただ自由が束縛されている、魂の糧に飢えている。
そういう中でこの
『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』
ということを知らされたのであります。
いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
その他の宗教の本なんか読んだのですが、
すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ――
私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、
今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものか
と考えたものであります。
今時間がありませんから、早く申し上げますが、
何とかして自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうか
と思いました。
あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。
それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。
そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも
深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
ともかく深切でないのです。
その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、
それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、
貴様こぼすんじゃないか、と言って興奮して怒るんです。
みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、
朝から非常に気持ちが悪いんです。
いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、
そう思いついたのであります。
1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して試みに
『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。
お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、『なんだこの野郎』
といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、
『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
と思ったりしたのですが、
『生命の實相』のは『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と
書いてある。
今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて
傲慢な気持ちがあったのでしょう。
その傲慢な《こちら》の気が相手に映って
『なんだこの野郎』というのだと気がついて、
お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、
『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。
私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、
二日三日四日となると自然とちがってきました。
今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。
あそこでは水が実に欲しい所ですが、
ことに夏の7月から8月の一番暑い盛りですから、そういう時に
向こうの方から方々一ぺんぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで
余った水をわざわざ持って来て
『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。
始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』こういうのです。
『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』とこう言う。
そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』こんな返事をする。
監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。
平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。
私は初めて生長の家の教えというものがいかに偉大なものであるか
ということをはっきり認識したのであります。
『人を喜ばせることが自分の喜びである』という
『生命の實相』の教えが、本当に分ってきたように思います。
この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。
したがってわたしは未決監に入ったということが、私の人生、将来にとって
どのくらいよいことを教えてくれたかしれないと感謝しているのです。
わたしの審判はこれから公判をやるのですが
、判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。
わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。
実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でも
して来(こ)ようじゃないかというので、この四日から来ておりますが、
ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、その後の事情を見る
かたがた上京して参ったのでありますが、
あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、
ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな
奇跡に逢(お)うたことがたくさんありますけれども、
本日は時間がありませんから申し述べませんが、
ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、
非常に朗らかであって、今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に
参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、
皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを
御想像願いたいと思います。
私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。
電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、
わたしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を
受けることと思います。
日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」
道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。
そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。
<感謝合掌 令和3年12月22日 頓首再拝>
天国の喜び - 伝統
2021/12/30 (Thu) 06:37:15
*「光明道中記」(12月30日《讃える喜びの日》)より
【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】
他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。
人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。
天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。
人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。
ニセ者の我を征服する喜びである。
真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。
創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。
すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。
奪い合いのない幸福でなければならない。
5つのパンを5千人に分っても尚(なお)
籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。
<感謝合掌 令和3年12月30日 頓首再拝>
悲しみの奥地に探り入れば悦びが実相である - 伝統
2022/01/07 (Fri) 04:53:52
*「光明道中記」(1月7日《光明一元・歓喜の日》)より
【暗は光明に来てブッ突かれば
ブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
(『生命の實相』第一巻)】
悲しみは存在しない。それは無い心である。
文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代支那人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味でそれを組み立てた。
「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。
喜べばいくらでも喜べるのが心である。
悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば喜びだけがあることが判るのである。
ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、悲しみに抑えられて、獅子(ライオン)に
咬まれた小兎のように悲しみによって振り回されるからである。
静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。
オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。
これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。
悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、
その奥地に探り入れば悦びが実相である。
<感謝合掌 令和4年1月7日 頓首再拝>
喜べば生命は伸び、健康になる - 伝統
2022/01/08 (Sat) 04:51:53
*「光明道中記」(1月8日《魂浄まる日》)より
【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。
(『生命の實相』第一巻)】
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは生命の伸展力が或る障礙を受けて
伸びられないときの状態である。
伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。
浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。
寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。
また其の人が寒中水浴することが不快であり、
嫌々ながら人に勧められたために
已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、
其の人はその水浴が無効であり、
却って害があることを実証するために、
自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。
喜べば生命は伸び、嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。
健康法で健康になり得た人はその健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。
そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。
<感謝合掌 令和2年1月8日 頓首再拝>
すべてに喜びを見出す - 伝統
2022/01/11 (Tue) 04:42:56
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より
一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。
自分のしている善いことに、
家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて
光明(ひかり)の道を知らせていただいたといって、
人一倍喜ぶこともできるのである。
明るい半面ばかり見る者は常に生長し、
暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。
どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに
「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。
この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。
<感謝合掌 令和4年1月11日 頓首再拝>
《悦びは創造の力である》 - 伝統
2022/02/04 (Fri) 04:56:53
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
<感謝合掌 令和4年2月4日 頓首再拝>
喜びが来る - 伝統
2022/02/11 (Fri) 04:43:44
『喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る』
今を喜んでいると、未来にも喜び事がやってくる。
特に喜ぶことがなくても、今を喜びの感情で満たしておくと
本当の喜び事が自分に集まってくる.
*Web:きょうの ひとこと(2018.Aug.3) より
日本に古くからある風習である花見や盆踊り。
いずれも「豊作の前祝い」といわれます。
満開の桜を秋の米の実りに見立てるのが花見
豊作を願って前祝いで踊るのが盆踊りです。
こうした風習が生まれたころに詠まれた歌が
喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び連れて 喜びに来る
https://hitokoto.today/
・・・
<参照>
伊勢ー白山 道(2022-02-10 )
歓喜の有無が、未来も教えてくれます
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/33ecd5d90d881e97e29918277d45899a
<感謝合掌 令和4年2月11日 頓首再拝>
悦びは法則がもつ基本的様相である - 伝統
2022/02/24 (Thu) 05:04:38
*「信仰の科学」(P258)より
Web:『生命の実相』の探求(2017年12月23日)
悦びは法則がもつ基本的様相である。
春ともなれば、樹木の枝々に小さな緑の芽がほころび出す。
美しい花が至るところで開花し、小鳥が楽しく囀る。
これらは悉く法則の表現なのである。
夫婦が仲よく散歩を楽しんでいる時、
家族が揃って食卓に著いている時、
そこに法則が働いているのであり、
実相世界にある歓びが輝き出ているのである。
神から来る天的な悦びは知的な物質的見地から説明することは至難であり、
心と霊の見地からのみ説明することが出来るのである。
本当に純粋なる悦びの実感とはいかなるものか、
具体的に深く自覚しなければならないのである。
もしあなたが心の底の本心より湧出して来るところの
真の悦びが自覚できないならば、
あなたは未だ真理を発見しておらぬのである。
それでは未だ真理が霧のベールに包まれているのである。
それはあたかも一枚の薄葉の紙の如き絶縁体が、
実在の真理とあなた自身の存在との間に介在していて、
そのため法則の本質は悦びであるというのに、
あなたが未だ真の悦びと感じていないということなのである。
そこで、このような隔ての紙は取り去らなければならぬのである。
この一枚の紙とは一体何であるか。
それは自我であり、合理主義であり、
凡そ何にてもあれ法則とは一致せぬところのものであり、
あなたが大宇宙全体と一つに融和することを妨げるものなのである。
法則それ自体の実相は至純なる天的な法悦なのである。
しかし、あなたがもし法則を、一枚の紙のベールを通して観るならば、
それはぼんやりとしか現れぬか、或いはちょうど太陽光線が
プリズムを通して見られる時の如く、
法則の明るさが屈折してしまうことになるのである。
かくして法則は歪められた姿を現わすのである。
いかに偉大な哲学者といえども、又どんなに偉大な宗教家といえども、
彼が天的な悦びに満たされた人生を送っておらぬ限り
真に彼が澄み切った名鏡止水の心境にあるということはできないのである。
この世界は神の生命に満たされているのである。
もしわれわれが実際に“法則と一体となって存在する”自分を実感し、
神の生命そのものと一体となって存在する自分を実感するならば、
われわれはただ生きて歩むということがそれ自体悦びであることを
痛切に悟らざるを得なくなるのである。
真理は天来の神聖なる悦びであり、
“実在”以外には何ものも存在しないものである。
http://blog.livedoor.jp/marutakaeiji/archives/2017-12.html
<感謝合掌 令和4年2月24日 頓首再拝>
われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統
2022/02/28 (Mon) 04:58:28
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より
よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。
お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。
心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。
<感謝合掌 令和4年2月28日 頓首再拝>
他を喜ばす心がけ - 伝統
2022/03/17 (Thu) 06:29:13
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月17日)」より
皆さまにお気に召すようにお化粧してまいりましょう。
この心がけに家庭平和の秘訣もあれば、商売繁盛の秘訣もある。
皆様を喜ばす心がけが中心となる。技巧に走れば虚飾になる。
<感謝合掌 令和4年3月17日 頓首再拝>
《わが生命は神の生命の歓喜》 - 伝統
2022/04/03 (Sun) 07:33:45
*「光明法語」(4月3日)より
われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。
神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。
われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。
生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。
<感謝合掌 令和4年4月3日 頓首再拝>
悦びを語り、悦びを心に刻印する - 伝統
2022/06/05 (Sun) 09:12:42
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より
生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。
天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。
人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、
言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。
黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。
自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法である。
<感謝合掌 令和4年6月5日 頓首再拝>
創造(つく)り出すことが喜び - 伝統
2022/06/09 (Thu) 09:31:04
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より
人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。
体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。
自分の持物が少ないといって嘆くことはない。
釈迦はあたかも要るだけの体温がすでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。
ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。
生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。
生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。
人間が神の子であるのは事実である
―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。
彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、
自分の方法で、自分の理論で「神の子」を生み出そうとするのである。
「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。
<感謝合掌 令和4年6月9日 頓首再拝>
既に神である実相を見て悦び、感謝するのだ。 - 伝統
2022/06/11 (Sat) 07:24:03
*『光明法語』(6月11日《神は常に吾がうちにありて働き給う》)より
今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。
神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、あらゆる君の求めに応ずべく、
働いていたまうのである。
今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。現象は唯の随伴物に過ぎない。
何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。
<感謝合掌 令和4年6月11日 頓首再拝>
喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にある - 伝統
2022/08/10 (Wed) 06:48:15
*アントニー・デ・メロ (インドのカソリック神父)の名言より
今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、
理由は一つしかない。
自分が持っていないもののことを考えているからだ。
喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。
<感謝合掌 令和4年8月10日 頓首再拝>
喜び方の達人 - 伝統
2022/09/02 (Fri) 02:04:25
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022-02-22)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
車内に交通安全のお守りをたくさんぶら下げている車ほど、
事故に遭いやすいという統計があります。
もちろん、単に視界が遮られたり、
目の前でブラブラしているものがあるために飛び出しなどに
敏感に対処できなくなったりするわけで、3次元的な原因もあるでしょうが、
お守りは、事故に遭うことを恐れ、心配しているから持つものです。
それが運転中に視界に入ると、自分の潜在意識に訴えることになり、
ドライブを楽しむどころか、まさに恐れていた事故に遭うことになるのかも
しれません。
心配するのは損なのです。
私のところに宇宙から来たメッセージで、
「意識の密度は、現象の密度である」というのがあります。
このメッセージによると、楽しいほうに意識を向けていると、
その現象が起きやすくなるそうなのです。
例えば、こういうことです。
夕立が降った後に、3回に1回くらいは虹が出 ます。
そのとき、「わぁー、虹が出てうれしい、きれいだ」と喜ぶAさんは、
虹への意識の密度が高まっている。
それは、再びAさんが虹を見る確率が高 まったということなのです。
次にBさん。
Bさんは、頭の上に虹が出ていても、下ばかり向いていて、
虹に気がつかない人です。
それからCさん。
Cさんは、頭上の虹に気がつきましたが、チラッと見ただけ。
喜ぶことなく、そのまま歩き続けた。
神様が、この3人に1分ずつ虹を見せる予定だったとします。
ところが、Bさんは虹に見向きもしないので、
この1分をAさんの頭上に持っていく。
さらに、Cさんもチラッと1秒は見たけれど喜ばなかったので、
この残りの59秒もAさんの頭上に持っていきます。
けっきょくAさんは、本来は1分だったのに、
2分59秒も虹を見られることになります。
身の回りにうれしい、楽しい、幸せなことを起こしたいと思ったら、
ただひたすら喜んで、うれしがって、幸せだ、ツイてる、と思うこと。
そうすると神様は、人間を喜ばせたくてしょうがない存在なので、
喜べば喜ぶほど、もっと喜ばせてくれる。
しかし逆に、何の感動も喜びもないと、
「じゃあ、この分は喜ぶ人のところへ持っていこう」ということになります。
喜び方の達人に対して、神様は、喜びをあげたくなるようだということです。
右肩、右腰、右ひざの3カ所に痛みのあるかたがいました。
そのかたは「今まで、痛いところにばかり関心が向いていた。
これから、痛くないところに関心を持ったら、どうなるか」と思ったそうです。
そのかたは気功師だったので、体の部位の名前を300も挙げられた。
そして、その全部に「ありがとう」と言っていたら、
3カ所の痛みはすべて消えていました。
「私の周りには、感じのいい人ばかり集まっている」と思ったとする。
そういう人の見方をしていれば、今後も実際にその人の周りには、
「感じのいい人」 が多く集まってくる。
反対に目の前の人に対して「この人は感じ悪い」とあらさがしをしながら
人を見ている人は、自分の周りにそういう人が集まってくる。
鏡を見るとき、自分の顔を見ながら
「ここもシワが寄っている、ここも老化している」と思っていると、
老化という意識の密度=現象の密度となる。
つまり老化の進行が早まる。
「ここも若々しい、あそこも若々しい」と言っていくと、
若々しいところに意識が集まるので、若々しくなるということです。
この法則は、あらゆることに応用できるようです。
<『小林正観CDブック 宇宙一がんばらない幸せの法則』マキノ出版>
・・・
小林正観さんは「幸も不幸もない」という。
この世には絶対的な「幸せ」という現象もなければ、
反対に「不幸」という現象もないということ。
それは、意識をどこに向けるかによって、人生は劇的に変わるからだ。
例えば、買ったばかりの新車をガリガリとこすってしまったとする。
一人は、なんてツイてないんだ、最悪だ、買ったばかりなのに、
と何日も愚痴をいい、私は「不幸」だと嘆く。
そして、「なんでこんなところに柱があるんだよ、まったく」とまわりのせいにする。
もう一人は、相手が自宅の柱でよかった、人にぶつけたら大変なことになっていた。
ツイてる、守られてる、私は「幸せ」だと感謝する。
そして、「これも何か意味がある、運転に一層注意しろってことだな」、と自分を戒める。
「喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び連れて 喜びに来る」
という言葉がある。
「身の回りにうれしい、楽しい、幸せなことを起こしたいと思ったら、
ただひたすら喜んで、うれしがって、幸せだ、ツイてる、と思うこと」
喜んでいる人には、また喜びがやってくる。
感謝する人には、また感謝するようなことがやってくる。
そして、喜び感謝する人ばかりがまわりに集まる。
楽しいほうにいつも意識を向けている…
喜び方の達人でありたい。
<感謝合掌 令和4年9月2日 頓首再拝>
【常に、喜びと感謝の念を持つ】 - 伝統
2022/11/25 (Fri) 07:12:17
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.20)より
(新井正明氏の心に響く言葉より…)
一、心中常に、喜神を含むこと
一、心中絶えず、感謝の念を含むこと
一、常に、陰徳を志すこと
(安岡正篤/経世瑣言・さげん)
「どうして精神を雑駁(ざっぱく)にしないか、
分裂させない か、
沈滞させないかというと、
無数に古人の教えもありますが、
私 はこういう三つのことを心がけております」と述べています。
「心中常に喜神を含むこと」とは、
どんなに苦しいことにあっても、心のどこか奥の方に喜びを持つ、
ということです。
人からそしられたりすると普通は怒りますが、こういうことも
実は自分を反省し、 磨錬する所縁になる、
これで自分ができていく、けっこうなことだ、
と思うということです。
「心中絶えず感謝の念を含むこと」というのは、
何事につけ、ありがたいという気持ちを持つことです。
「常に陰徳を志すこと」とは、たえず、人知れぬよいことをする。
どんな小さなことでもいいから、
大小にかかわらず人知れずよいことをする、ということです。
こういう教えが日々の活動の中で、何かの折に出てくる。
<『先人に学ぶリーダーの要諦 先哲の言葉』致知出版社>
・・・
安岡正篤師は「喜神を含む」について、こう解説している。
「喜神の神とは神社仏閣に祀ってある神ではなく、
精神の神(しん)、つまり心の最も奥深い部分を指す言葉です。
従って喜神を含むとは、
どういう立場に立たされようと、それに心を乱されることなく、
心の奥深い部分にいつも喜びの気持ちを抱いてことに当たれば、
どんな運勢でも開けないものはなく、
上昇気流に乗ったように開けていくという意味です。
これこそは人生の極意であり、
特に人の上に立つ者が身につけておかなければならない姿勢だと思います」
(下坐に生きる ・致知出版社)
多くの人は、いいことがあったら、感謝したり、喜んだりする。
しかし、人生の極意を身につけている達人は、
悪いことがあったときや、嫌なことがあったときも、それに対して感謝する。
そうすることによって、悪いことの連鎖が断ち切られるからだ。
身に起きた嫌なことを、
いつまでたっても愚痴ったり、嘆いている人は、その状態がさらに長く続く。
引き寄せの法則のごとく、嫌なことを呼び寄せるからだ。
心中に喜びの神を感じて生きている人は、どんなときも微笑をたたえている。
まさに、広隆寺にある弥勒菩薩のアルカイック・スマイルと呼ばれる微笑のごとく。
生きているかぎり、陰徳を志し…
心の奥底に、喜びと感謝の念を持つ人でありたい。
<感謝合掌 令和4年11月25日 頓首再拝>
《自分の魂の喜び》 - 伝統
2022/12/09 (Fri) 07:24:16
*「光明法語」(12月9日)より
真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。
一時五官を楽しませたように見えても、
五官の楽しみは魂の喜びではないから、やがて魂は嘆くのである。
自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、
得ても甲斐なきものである。
「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。
<感謝合掌 令和4年12月9日 頓首再拝>
日常茶飯事のすべてに喜びを見出してゆく - 伝統
2022/12/22 (Thu) 08:01:40
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より
某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似て
いるのですこぶる興味がある話である。
「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
突然起ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。
私はこの福岡市のものでありまして、
この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申しますと、
一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、
私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。
幸いにして私は中位で当選しました。
私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、
雑誌の名前を見たこともなかったので、
実はあまり関心を持っていなかったのであります。
それから後(のち)1年を過ぎまして最近までも
関心は持っていなかったのであります。
ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。
実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったのでありまして、
前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち込まれたので
ありまして、実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。
私は特に皆様に申し上げたいことは
私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、そこに入っておりますと、
何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけであります。
どうも魂の慰めがありません。
そこで突然思い出したのが
前々から私の先生に進められていた『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。
だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを
見つけ出すにはどうしたらいいかという事の
谷口先生のお話が載っておりました。
それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』
こういうようなことが書いてありました。
私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、
ただ自由が束縛されている、魂の糧に飢えている。
そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』
ということを知らされたのであります。
いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
その他の宗教の本なんか読んだのですが、
すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ――
私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、
今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものか
と考えたものであります。
今時間がありませんから、早く申し上げますが、何とかして
自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。
あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。
それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。
そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
ともかく深切でないのです。
その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、貴様こぼすんじゃないか、
と言って興奮して怒るんです。
みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、
朝から非常に気持ちが悪いんです。
いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。
1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して
試みに『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。
お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、
『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、
『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
と思ったりしたのですが、『生命の實相』のは
『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と書いてある。
今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて
傲慢な気持ちがあったのでしょう。
その傲慢な《こちら》の気が相手に映って『なんだこの野郎』というのだ
と気がついて、お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、
『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。
私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、
二日三日四日となると自然とちがってきました。
今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。
あそこでは水が実に欲しい所ですが、ことに夏の7月から8月の
一番暑い盛りですから、そういう時に向こうの方から方々一ぺん
ぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで余った水をわざわざ持って来て
『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。
始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』
こういうのです。
『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』
とこう言う。
そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』
こんな返事をする。
監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。
平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。
私は初めて生長の家の教えというものが
いかに偉大なものであるかということをはっきり認識したのであります。
『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、
本当に分ってきたように思います。
この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。
したがってわたしは未決監に入ったということが、
私の人生、将来にとってどのくらいよいことを教えてくれたかしれないと
感謝しているのです。
わたしの審判はこれから公判をやるのですが、
判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。
わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。
実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして
来(こ)ようじゃないかというので、この四日から来ておりますが、
ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、その後の事情を見る
かたがた上京して参ったのでありますが、
あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、
ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな
奇跡に逢(お)うたことがたくさんありますけれども、
本日は時間がありませんから申し述べませんが、
ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、
非常に朗らかであって、今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に
参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、
皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを
御想像願いたいと思います。
私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。
電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、わ
たしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を受ける
ことと思います。
日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」
道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。
そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。
<感謝合掌 令和4年12月22日 頓首再拝>
天国の喜び - 伝統
2022/12/30 (Fri) 08:48:54
*「光明道中記」(12月30日《讃える喜びの日》)より
【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】
他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。
人を踏みつける喜び、見下す喜び、
ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。
天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。
人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。
ニセ者の我を征服する喜びである。
真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。
創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。
すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。
奪い合いのない幸福でなければならない。
5つのパンを5千人に分っても尚(なお)
籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。
<感謝合掌 令和4年12月30日 頓首再拝>
喜ぶべきことしかないのが人生である - 伝統
2023/01/02 (Mon) 08:02:01
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日)より
すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。
過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。
過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。
喜ぶべきことしかないのが人生である。
<感謝合掌 令和5年1月2日 頓首再拝>
悲しみの奥地には、悦びの実相がある。 - 伝統
2023/01/07 (Sat) 08:11:14
*「光明道中記」(1月7日《光明一元・歓喜の日》)より
【暗は光明に来てブッ突かれば
ブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
(『生命の實相』第一巻)】
悲しみは存在しない。それは無い心である。
文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代支那人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味で
それを組み立てた。
「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。
喜べばいくらでも喜べるのが心である。
悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば
喜びだけがあることが判るのである。
ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、
悲しみに抑えられて、獅子(ライオン)に咬まれた小兎のように
悲しみによって振り回されるからである。
静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。
オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。
これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。
悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、
その奥地に探り入れば悦びが実相である。
<感謝合掌 令和5年1月7日 頓首再拝>
喜べば生命は伸びる - 伝統
2023/01/08 (Sun) 07:13:16
*「光明道中記」(1月8日《魂浄まる日》)より
【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。
(『生命の實相』第一巻)】
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは
生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの状態である。
伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。
浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。
寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで
楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。
また其の人が寒中水浴することが不快であり、
嫌々ながら人に勧められたために
已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、
其の人はその水浴が無効であり、
却って害があることを実証するために、
自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。
喜べば生命は伸び、
嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。
健康法で健康になり得た人は
その健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。
そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。
<感謝合掌 令和5年1月8日 頓首再拝>
すべてに喜びを見出す - 伝統
2023/01/11 (Wed) 07:13:56
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より
一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。
自分のしている善いことに、
家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて光明(ひかり)の道を知らせていただいたといって、
人一倍喜ぶこともできるのである。
明るい半面ばかり見る者は常に生長し、
暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。
どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに
「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。
この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。
<感謝合掌 平令和5年1月11日 頓首再拝>
《悦びは創造の力である》 - 伝統
2023/02/04 (Sat) 07:19:32
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて
萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
<感謝合掌 平令和5年2月4日 頓首再拝>
われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統
2023/02/28 (Tue) 05:06:11
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より
よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。
お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。
心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。
<感謝合掌 令和5年2月28日 頓首再拝>
他を喜ばす心がけ - 伝統
2023/03/17 (Fri) 05:00:43
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月17日)」より
皆さまにお気に召すようにお化粧してまいりましょう。
この心がけに家庭平和の秘訣もあれば、商売繁盛の秘訣もある。
皆様を喜ばす心がけが中心となる。技巧に走れば虚飾になる。
<感謝合掌 令和5年3月17日 頓首再拝>
創造(つく)り出すことが喜び - 伝統
2023/06/09 (Fri) 10:48:54
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より
人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。
体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。
自分の持物が少ないといって嘆くことはない。
釈迦はあたかも要るだけの体温が
すでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。
ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。
生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。
生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」が
やがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。
人間が神の子であるのは事実である
―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。
彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、
自分の方法で、自分の理論で
「神の子」を生み出そうとするのである。
「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。
<感謝合掌 令和5年6月9日 頓首再拝>
大生命の歓喜 - 伝統
2023/09/09 (Sat) 11:06:45
*「光明法語」(9月9日)より
大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。
而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。
それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に喜びを感ずる
のと同様である。
大生命は森羅萬象を自己に内在する美と感情と衝動とを表現せんが為に造った。
<感謝合掌 令和5年9月9日 頓首再拝>
歓喜の創造 - 伝統
2023/09/19 (Tue) 13:32:16
*「光明法語」(9月19日)より
歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。
喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。
イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と
歓喜して世界を創造したのである。
イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と
歓喜して世界を創造したのである。
喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。
<感謝合掌 令和5年9月19日 頓首再拝>
《自分の魂の喜び》 - 伝統
2023/12/09 (Sat) 10:33:59
*「光明法語」(12月9日)より)
真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。
一時五官を楽しませたように見えても、
五官の楽しみは魂の喜びではないから、やがて魂は嘆くのである。
自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、
得ても甲斐なきものである。
「魂の切なる願い」は、
自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。
<感謝合掌 令和5年12月9日 頓首再拝>
日常茶飯事のすべてに喜びを見出してゆく - 伝統
2023/12/22 (Fri) 11:51:17
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より
某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似て
いるのですこぶる興味がある話である。
「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
突然起ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。
私はこの福岡市のものでありまして、
この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申しますと、
一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、
私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。
幸いにして私は中位で当選しました。
私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、
雑誌の名前を見たこともなかったので、
実はあまり関心を持っていなかったのであります。
それから後(のち)1年を過ぎまして最近までも
関心は持っていなかったのであります。
ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。
実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったのでありまして、
前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち込まれたので
ありまして、実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。
私は特に皆様に申し上げたいことは
私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、そこに入っておりますと、
何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけであります。
どうも魂の慰めがありません。
そこで突然思い出したのが
前々から私の先生に進められていた『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。
だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを
見つけ出すにはどうしたらいいかという事の
谷口先生のお話が載っておりました。
それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』
こういうようなことが書いてありました。
私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、
ただ自由が束縛されている、魂の糧に飢えている。
そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』
ということを知らされたのであります。
いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
その他の宗教の本なんか読んだのですが、
すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ――
私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、
今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものか
と考えたものであります。
今時間がありませんから、早く申し上げますが、何とかして
自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。
あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。
それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。
そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
ともかく深切でないのです。
その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、貴様こぼすんじゃないか、
と言って興奮して怒るんです。
みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、
朝から非常に気持ちが悪いんです。
いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。
1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して
試みに『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。
お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、
『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、
『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
と思ったりしたのですが、『生命の實相』のは
『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と書いてある。
今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて
傲慢な気持ちがあったのでしょう。
その傲慢な《こちら》の気が相手に映って『なんだこの野郎』というのだ
と気がついて、お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、
『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。
私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、
二日三日四日となると自然とちがってきました。
今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。
あそこでは水が実に欲しい所ですが、ことに夏の7月から8月の
一番暑い盛りですから、そういう時に向こうの方から方々一ぺん
ぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで余った水をわざわざ持って来て
『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。
始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』
こういうのです。
『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』
とこう言う。
そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』
こんな返事をする。
監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。
平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。
私は初めて生長の家の教えというものが
いかに偉大なものであるかということをはっきり認識したのであります。
『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、
本当に分ってきたように思います。
この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。
したがってわたしは未決監に入ったということが、
私の人生、将来にとってどのくらいよいことを教えてくれたかしれないと
感謝しているのです。
わたしの審判はこれから公判をやるのですが、
判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。
わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。
実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして
来(こ)ようじゃないかというので、この四日から来ておりますが、
ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、その後の事情を見る
かたがた上京して参ったのでありますが、
あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、
ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな
奇跡に逢(お)うたことがたくさんありますけれども、
本日は時間がありませんから申し述べませんが、
ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、
非常に朗らかであって、今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に
参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、
皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを
御想像願いたいと思います。
私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。
電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、わ
たしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を受ける
ことと思います。
日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」
道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。
そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。
<感謝合掌 令和5年12月22日 頓首再拝>
天国の喜び - 伝統
2023/12/30 (Sat) 10:55:46
*「光明道中記」(12月30日《讃える喜びの日》)より
【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】
他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。
人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。
天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。
人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。
ニセ者の我を征服する喜びである。
真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。
創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。
すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。
奪い合いのない幸福でなければならない。
5つのパンを5千人に分っても尚(なお)
籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。
<感謝合掌 令和5年12月30日 頓首再拝>
悲しみの奥地には、悦びの実相がある。 - 伝統
2024/01/07 (Sun) 12:02:31
*「光明道中記」(1月7日《光明一元・歓喜の日》)より
【暗は光明に来てブッ突かれば
ブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
(『生命の實相』第一巻)】
悲しみは存在しない。それは無い心である。
文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代支那人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味で
それを組み立てた。
「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。
喜べばいくらでも喜べるのが心である。
悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば
喜びだけがあることが判るのである。
ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、
悲しみに抑えられて、獅子(ライオン)に咬まれた小兎のように
悲しみによって振り回されるからである。
静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。
オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。
これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。
悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、
その奥地に探り入れば悦びが実相である。
<感謝合掌 令和6年1月7日 頓首再拝>
喜べば生命は伸びる - 伝統
2024/01/08 (Mon) 14:23:22
*「光明道中記」(1月8日《魂浄まる日》)より
【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。
(『生命の實相』第一巻)】
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは
生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの状態である。
伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。
浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。
寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで
楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。
また其の人が寒中水浴することが不快であり、
嫌々ながら人に勧められたために
已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、
其の人はその水浴が無効であり、
却って害があることを実証するために、
自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。
喜べば生命は伸び、
嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。
健康法で健康になり得た人は
その健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。
そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。
<感謝合掌 令和6年1月8日 頓首再拝>
すべてに喜びを見出す - 伝統
2024/01/11 (Thu) 10:09:11
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より
一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。
自分のしている善いことに、
家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて光明(ひかり)の道を
知らせていただいたといって、人一倍喜ぶこともできるのである。
明るい半面ばかり見る者は常に生長し、
暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。
どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに
「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。
この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。
<感謝合掌 令和6年1月11日 頓首再拝>
《悦びは創造の力である》 - 伝統
2024/02/04 (Sun) 10:38:54
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて
萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
<感謝合掌 令和6年2月4日 頓首再拝>
【神は喜びの場に現れる】 - 伝統
2024/02/08 (Thu) 08:28:35
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.10)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
伊勢神宮に祀られている神様は、天照大神(アマテラスオオミカミ)です。
日本神話に語られている天照大神についての叙述(じょじゅつ)に、
このような話があります。
イザナギ・イザナミ2神の国生みに始まり、つづいてその子供である
アマテラスオオミカミ、
ツクヨミノミコト、
スサノオノミコト
という神様が生まれます。
アマテラスとスサノオの葛藤により、
アマテラスは天の岩戸にこもってしまった、という有名な
「天の岩戸ごもり」の話はご存知でしょう。
実はその話の中に、神の性格を表す重要なポイントがあります。
スサノオの狼藉(ろうぜき)によって、
太陽神であるアマテラスが天の岩戸に閉じこもってしまったため、
世界は暗闇となり、あらゆる禍いに満ちる世となってしまった。
そこで神々は集まってさまざまな対策を講じたが、
アマテラスは全く反応なし。
ところが、アメノウズメノミコトという女の神が、
天の岩戸の前で桶を踏み鳴らし、半裸でダンスを踊り始めたので、
八百万(やおよろず)の神々は
高天原(たかまがはら)がとどろくばかりにどっと笑った。
すると、
アマテラスは外の様子を見ようと、少し岩戸を開けたので、
天手力男神(アメノタジカラオノミコト)が
アマテラスを引っ張り出すことができた、
という話です。
ここで示されているのは、
「出てきてください」と嘆願したときには、
アマテラスは反応しなかった、ということ。
みんなが喜び笑って楽しんでいたことに反応した。
アマテスは慈愛の神、優しさの象徴です。
「困った困った」に反応していいはずが、反応しなかった。
神の性格とはそういうものであるらしい、
ということがこの話から読みとれるのです。
古代日本人は、科学的な裏づけや理屈はまったくないにもかかわらず、
物事の本質を直感的にわかっていた民族であったらしく、
『古事記』 『日本書紀』に書かれた神話には、もしかしたら
単なる絵空事にとどまらない本質的な意味が隠されているのかもしれません。
ちなみに、古代日本人が直感的に
物事の本質を言い当てていたということを
「大和魂(やまとだましい)」 という言葉で表現されます。
この「大和魂」の対義語は「唐才(からざえ)」です。
「唐才」の「唐」 は昔の中国を指しています。
昔の日本人にとって中国は、科学文明・技術の最先端でした。
ゆえに、科学的な、理路整然とした説明のできる能力のことを
「唐才」といったのです。
それに対して、「大和魂」とは、野生の勘ともいうべき能力で、
何の根拠も無いのだけれども
直感的に物事の本質をズバリと言い当てることのできる能力のこと。
「大和魂」と「唐才」
どちらが優れているということではありません。
そうではなくて、フラットな目線で学術的研究の対象として
日本神話を見るとき、けっこうおもしろいことが発見できるようです。
<『究極の損得勘定』宝来社>
・・・
小林正観さんは「天岩戸神話」について、こう語っている。
(無敵の生きかた みんなが味方になる/廣済堂出版)より
『この物語(天岩戸神話)では、
天照大神は、
「泣いてもわめいてもお願いしても、聞いてくれない」
ということを教えています。
単なる神話だと思う方もいると思いますが、
私にはそうとは思えないのです。
物語をとおし
「神様を動かすには、 お願いごとをしても駄目なんだ」
ということを、私たちに教えて下さっているように思えました。
「自分の人生が思いどおりにいかず、辛いので何とかして下さい」
と言っても、神様は聞いてくれません。
「面白がること」「楽しむこと」「幸せに過ごすこと」こそが、
神様を動かすために有効な手段らしいのです。』
つまり、今の我々に必要なのは、
「面白がること」「楽しむこと」「幸せに過ごすこと」
そして、それらの日常に「感謝すること」。
「愚痴や文句」「不平不満」「悪口、泣きごと」を
何度言ってもダメだということ。
「神は喜びの場に現れる」
という言葉を胸に刻みたい。
<感謝合掌 令和6年2月8日 頓首再拝>
われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統
2024/02/28 (Wed) 09:53:20
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より
よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。
お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。
心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。
<感謝合掌 令和6年2月28日 頓首再拝>
わが生命は神の生命の歓喜 - 伝統
2024/04/03 (Wed) 12:35:22
*「光明法語」(4月3日)より)
われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。
神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。
われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。
生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。
<感謝合掌 令和6年4月3日 頓首再拝>
悦びを語り、悦びを表現し、悦びを心に刻印する - 伝統
2024/06/05 (Wed) 11:43:19
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より抜粋
生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。
天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。
人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、
言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。
<感謝合掌 令和6年6月5日 頓首再拝>
創造(つく)り出すことが喜び - 伝統
2024/06/09 (Sun) 12:01:48
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より
人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。
体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。
自分の持物が少ないといって嘆くことはない。
釈迦は
あたかも要るだけの体温がすでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。
ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。
生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。
生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。
人間が神の子であるのは事実である
―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。
彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、
自分の方法で、自分の理論で「神の子」を生み出そうとするのである。
「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。
<感謝合掌 令和6年6月9日 頓首再拝>
大生命の歓喜 - 伝統
2024/09/09 (Mon) 11:30:36
*「光明法語」(9月9日)より
大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。
而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。
それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に
喜びを感ずるのと同様である。
大生命は森羅萬象を自己に内在する美と感情と衝動とを
表現せんが為に造った。
<感謝合掌 令和9年9月9日 頓首再拝>
《神の生命の歓喜》 - 伝統
2024/09/18 (Wed) 10:23:08
*「光明法語」(9月18日)より
神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。
美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、桜の爛漫たる、
梅花の孤峭(こしょう)なる・・・
数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、
「神の生命」そのものの発露であり表現であるのは「人間」である。
人間が喜べば神が喜ぶのである。
<感謝合掌 令和9年9月18日 頓首再拝>
歓喜の創造 - 伝統
2024/09/19 (Thu) 10:44:37
*「光明法語」(9月19日)より
歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。
喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。
イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と
歓喜して世界を創造したのである。
イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と
歓喜して世界を創造したのである。
喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。
<感謝合掌 令和6年9月19日 頓首再拝>