伝統板・第二

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入龍宮不可思議境涯錄(昭和48年4月) - 夕刻版

2021/06/01 (Tue) 19:45:45

入龍宮不可思議境涯錄

”道産子 さま” ありがとうございます。
”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8096824 からの転載です)


        (生長乃家誌法語昭和48年4月)

(上旬)

【一日のことば~すぺての宗教はその眞髄に徹するとき】 

最近、日本教文社から、
宗教的救ひについての深い眞理の書が二種類出たのである。
 
それは谷口清超氏の『念佛信仰の神髄』といふ本と、

私の『生命の實相』の中から“罪業もとより形なし、
それは妄想の描く影“といふ眞理に關する部分を類によつて
抜粋、整理整頓したところの
類纂・生命の實相『人類無罪宣言』といふ本とである。

清超氏の『念佛信仰の神髄』の本は發行後、間もなく
江湖の注目を浴びて重版をかさねてゐるといふことである。

この書は一遍上人の語録を解釈したもので、一遍上人の、
「吾が體を捨て南無阿彌陀佛と獨一なるを一心不亂といふなり。
 されば念々稱名は念佛を申すなり・・・・・」
の語録の一節の解釋から始まつてゐる。

この「念々稱名は念佛が念佛を申すなり」といふ語の意味を本當に知るには、
自分自身が一遍上人の心境に到達した人でないと
本當にわかるものではないのである。
 
清超氏の解説はよく念佛信仰の神髄を捉へて、
それを最も端的に表現してゐるのである。

“念佛信仰の神髄”と假りに謳つてあるけれども、これこそが、
すべての宗教信仰の神髄であり、あらゆる宗教をそこまで深く神髄に
穿ち入る時、すべての宗教は一つの神髄的眞理に到達し
萬教歸一が成就することになるのである。

その萬教歸一的眞理を説いて一宗一派に偏らない信仰が
“生長の家”なのである。

・・・

【二日のことば~我も佛もなかりけり】 

一遍上人は、紀州鷲峯山興国寺の開山なる覺心和尚(龜山上皇より法燈禪師と
謚(おくりな)せられ、更に後醍醐天皇より法燈園明國師と勅禪せられた名僧)
について參禪修行中「南無阿彌陀佛」といふ公案を與へられ、
「南無阿彌陀佛」を一心に稱名中、その悟るところを、

  唱ふれば我も佛もなかりけり南無阿彌陀佛の聲ばかりして

といふ歌に托して法燈國師に捧呈されたが、
法燈國師は允可を與へ給はなかつた。

そこで一遍は更に坐禪稱名、念想工夫を積み、その結果得たる悟りを、

  唱ふれば我も佛もなかりけり 南無阿彌陀佛・南無阿彌陀佛

といふ歌に詠じて法燈國師に捧げられた時、國師はつひに
「善いかな、善いかな」と允可を與へられたのだと傳へられてゐる。

この「我も佛もなかりけり」の狀態が“無心”といふのである。

そしてその“無心”の中に、「何もないのか」といふと、
何もないのではないのである。

本當に現象への執著を滅して無心になった時、
唯「實相」のみが獨在するといふ眞相が出て來るのである。

“無心“になるまではその”有心“の妄想が「實相」
を隠覆してゐて實相獨在の眞実があらはれないものなのである。

・・・

【三日のことば~何故、法燈國師は允可せられなかつたか】 

「唱ふれば我も佛もなかりけり南無阿彌陀佛の聲ばかりして」の歌には、
まだ本当の悟りが顕れてゐないので、法燈國師は允可せられなかつた
といふのは、當然のことである。

念佛稱名して無心となり、我も心もなくなつたまではよろしいが、
「南無阿彌陀佛の聲ばかりして」ゐるといふのでは、
まだ“救ひ”が無いのである。

この場合聲は英語で謂えばSoundに當たると思ふのである。
贔屓目に見てもVoiceである。

それは單なる音響又は聲音にすぎないのである。
それは録音されたテープから出て來る音聲のやうなものであつて、
阿彌陀佛の生きた生命はないのである。
それはLogos(言ことば)ではないのである。

「耳にナムアミダブツと聞える音」でありさへすれば
その音を聞きさへすれば極樂往生疑ひなしであるとすれば、
録音テープに「ナムアミダブツ」と吹き込んでおいて、
臨終の人の枕元で録音機にスイッチを入れて聞かせてやりさへすれば
皆成佛するだろう。

そんな事なら、お寺も僧侶も教會も要らないではないかと
私は時々揶揄して話すことがあるが、全くその通りなのである。

だから「南無阿彌陀佛の聲ばかりして」の一遍の心境に対して
法燈國師は允可を與へられなかつたのである。

・・・

【四日のことば~南無阿彌陀佛のみの實在について】 

われわれが“南無阿彌陀佛“と至心廻向して稱名念佛するとき
救はれるというのは、その聲音がナムアミダブツと聞えるから
救はれるのではないのである。

稱名念佛としてその極致において心が廻轉して”無心”となった時、
現象を見聞覺知する心が、”無”となるために、實相を覺知する
内在の佛性があらはれる(これを吾々は實相覺と稱している)。


そして内在の佛性が普遍の佛性を覺知し、儘十方に滿つるところの
南無阿彌陀佛を自覺するに至るのである。

これが、一遍上人の悟りの御歌――

「唱ふれば我も佛もなかりけり 南無阿彌陀佛・南無阿彌陀佛」である。

「我も佛もなかりけり」の“我に対する佛”は我に相對するところの現象佛
であるから、それは假想であつて、實相佛ではないから
「なかりけり」で即ち消えてしまふ譯である。

そして其処に否定しやうにも否定し得ないところの
“南無阿彌陀佛“のみが遍滿實在し給ふのを見るのである。

「南無」は歸一である。無心によつて、實相に歸入する時、
阿彌陀佛に中心歸一する實相巌淨の世界の實在を見るばかりである。

・・・


【五日のことば~先入觀念を棄て去ること】 

嘗て――戰前の事であつたが、花王石鹸の山崎副社長のお宅であつた
誌友の集まりの際に招かれて出席したことがあつた。

その時、山崎さんはご自分が神戸のキリスト教のミッション大學である
關西學院の出身であること、靑年時代から宗教に關心を持つて色々の
宗教家の門をたたいてその見解(けんげ)を尋ね歩いて、
一応宗教的眞理は領解(りょうげ)した氣持ちになつてゐた頃、

禪で有名な南天棒老師の教へを受けようと思つて老師の住持せるそのお寺に
参詣して來意を告げると、入口に近い一室で待たせられて、
なかなか老師が出て來られなかつた。

やがて小僧が煎茶茶碗と土瓶とを携へて來て、その茶碗になみなみと
お茶をついでくれて「どうぞ召し上がれ」といふのである。

そこで山崎さんはそれを飲み了ると、また、なみなみとお茶をついでくれて
「どうぞ、どうぞ」と飲むやうに促すので、またそれを飲み干すと、
小僧は又なみなみと注いでくれる。

それを繰返してゐるうちに胃の腑はお茶でいつぱいになつてしまつて、
もうどうにも飲むことは出來なくなつた。

それで、山崎さんは「もうお腹いつぱいで入りません」といつた。

すると小僧はそのまま一揖して立ち去つたが、それきりいつまで経つても
老師は無論、小僧も出て來なかつた。

そして山崎さんの前には、もう飲むことが出來ない茶碗に
一杯の煎茶が湛へられたままそこにあつた。

山崎さんは、その茶碗の煎茶を眺めながら、ハッと悟つたといふのである。

いろいろと宗教の學説や諸家の教説や見解を一杯詰め込んでいる限りは、
本黨の眞理の話をしてあげても、それが自分の魂の榮養として
取り入れることが出來ないのである。

眞理を知るには今までの先入觀念をきれいに拭ひ去つて、
無心になつてしまはねばならないのである。

・・・

【六日のことば~兎もすれば人間には增上慢の心がある】 

釋尊が「四十餘年間、未だ眞實を顕はさず、今まさしくその時なり、
これから眞實を説くぞ」といふので、法華經をお説きにならうとすると、

その集會中の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等が、
罪根深重にして且つ增上慢にして、未だ得ざるを得たりと思ひ、
未だ證せざるを證せりと思つて、釋尊の説法を聴聞せずに立ち去つた
といふことが『法華經』の方便品に出てゐるのである。

 眞理の教へを聴いて救はれるためには、
「未だ得ざるを得たり」と思ふ增上慢の心を棄て去つて
無心になることが必要なのである。

花王石鹸の山崎副社長が南天棒老師を訪問されたが、
つひに老師に面會の機を與へられずに立ち去らねばならなかつたのも、
この增上慢の心が看破されたからに他ならない。

・・・

【七日のことば~增上慢の實例を讀む】 


天岫接三(あまくきせつさん)師の禪話の中にもこんな話がある。

明治御維新の當時、京都の相國寺に越渓禪師といふ高僧があつた。

日清戰争當時に外務大臣になつてゐた陸奥宗光の父に當たる人で、
相當な儒者であった、伊達翁が、
偶々相國寺を訪れて越渓和尚に面會を求めて教へを請うた。

「私は御承知かとも存じますが、儒學を修めたもので、道の何たるか位は
一通りは心得てをりますが、禪の道はまた格別でございませうで、
今日は一つ道の御話でも承りたいと思うて御邪魔致しました。」といつた。

その刹那、和尚は何を思つたか、
いきなり大きな平手で伊達翁の横面をピシャリと打たれた。

これは儒學という先入觀念でいつぱい頭に詰め込んでいて、
何でも道の事なら知つてゐるといふ增上慢の心が見え透いた
伊達翁の初對面の挨拶だつたからである。

「一つ道の話でも」などと、“でも附き”で悟りの話を聴かして貰はう
といふやうな處に越渓和尚は我慢がならなかつたのだと思はれる。

“道”といふものは番茶でも飲むやうな輕い氣持で聴くものではないのである。

・・・

【八日のことば~伊達翁に越渓和尚の痛棒の意義】 

越渓和尚に頬ぺたをシタタカ擲られた伊達翁は、驚いて思はず室外に
飛び出したが、無念でたまらず、自分は主君三代に仕へて來た
武士であるのに、未だ嘗て主君からさへ一指を添へえられたことがないのに、

この和尚の無禮、武士としての面目、もはや容赦はならぬ、
斬つて捨てようと刀のツバに手を掛けて、今にも
老師の室へ斬つて入らうとする姿勢である。

これを見た一人の弟子の僧が、

「何事か存じませぬが、お茶でも召し上がつて落ち着いてお話をすれば
分ることだと存じますから、どうぞこちらへいらしてください」と
茶の間へ案内し番茶を汲んで出した。

伊達翁がその茶を飲もうとして、口の辺りまで持つて行つた時、
その僧は伊達翁の、茶碗を持つた手の方の着物の袖を何気ないふりをして
引くと、腕が振るえて、茶がこぼれて畳の上は一面茶の海となつた。

その時、僧は、

「先ほど一寸うかがへば、あなたは“道”の何ものか位は一通り
心得て居られるとの事でしたが、承りませう。如何なるか是れ道?」

と禪問答を仕掛けて來た。

伊達翁は四書五經中のどの句を持ち出して答へようかとアクセク考へたが、
急に適切な文句が見付からない。

それで答へずにいると、僧は、

「如何なるか是れ道?」と更にたたみかけて問ふ。

さう畳みかけられたのでは、却つて返事が出來ないのである。
すると、僧は、

「甚だ失禮ですが、私共の“道”をお目にかけませう」というかと思ふと、
手近にあった雑巾をとつてこぼれた番茶を拭ひ終わると、

「私共の“道”はこれであります」といつた。

・・・

【九日のことば~“道”は常住坐臥の生活に在り】

正しい信仰は正しい日常生活となり、「謙りたる愛行」となるのである。
茶がこぼれたら、きれいに拭き取るのが正しい日常生活であり、愛行である。

そこに「日々是れ好日」がある。”道”は邇(ちか)きに在るのである。

イエス・キリストは、弟子の足を洗つたのである。
常住坐臥、行届いたる愛行の中に“神”があらはれるのである。
みずから高く傲慢に上がる者は墜され、謙りて自己を低くするものは
却つてあげられる。

・・・

【十日のことば~神心(みこころ)を行ずる者のみ神の國に入る】

傳道に熱心な玉井洋子さんから愛行実踐のお手紙を頂いた。
この事は後に書くが、哲學は理論を追つて眞理に到達しようとする
のであるけれども、宗教的信仰は生活に愛を実踐して、
自己の生活に“眞理”を實現するのである。
“眞理”とは“道”の事である。


キリストは「吾は真理なり道なり、生命(いのち)なり」といつてゐられる。

実踐の伴はない信仰は、イエスの言はれたやうに
「中うつろにして大きく鳴るラッパの如し」である。

又イエスは「主よ、主よという者必ずしも神の國に入るに非ず、
天に在す父の御心を行ずる者のみ神の國に入る」と喝破してゐられるのである。

眞理の説法を幾ら上手にしても自分の生活に愛行を伴はないならば、
まことに「中はうつろにして大きく鳴るラッパ」に過ぎない。

          <感謝合掌 令和3年6月1日 頓首再拝>

(中旬) - 伝統

2021/06/03 (Thu) 00:20:30


【十一日のことば~六波羅蜜に就いて】

釈尊が悟りに到る六つの道として示されたる六波羅蜜といふのがある。

即ち布施・持戒・忍辱・精進・禪定・般若の六徳目であるが、
その中でも、外に対し、衆生に対して
積極的に働きかける愛行は、最初の布施である。

其の他の五つの徳目は、自分自身の内的修行である。

即ち戒律を守り、よく耐え忍び、精進努力を惜しまず、禅定を修して
精神をよく整へ、般若の叡智の悟りの境地を開くのである。

しかし布施はよく衆生に積極的に働きかけて自分以外の人々を救ふのである。
それ故に六波羅蜜の内で最第一に位置されてゐるのである。

・・・

【十二日のことば~眞理の宣布に會場を供養すること】

布施はよく愛他行として他を救ふのであるが、その救ひ方に、
物質又は財貨を施して救ふところの、”物施”と、

他に眞理を施してよくその魂を救ふと共に、
日常生活を支配する心の在り方を眞理に則らしめて、
相手を根本的に救ふところの“法施”とがある。

眞理を施すのには、
眞理を口誦する場所即ち道場又は會場を施すところの供養と、
眞理を説くところの聖典・経典・書籍・雑誌等を布施する
ところの供養とがある。

ここで、玉井洋子さんが白鳩會の支部として
自宅を供養せられる事にした報告の手紙の一部を引用する。

『合掌ありがとうございます。私の白鳩支部の発会式を三十一日に致しました。
 尾形先生も御招きしましたら御夫妻で来て下さり大変お世話になりましたと
 私に御礼を申して下さり又、御自分の入信体験も少し話して下さいました。

 法貴先生にも今まで白鳩でお世話になりました御礼に
 一月号「白鳩」を又千部配本させて頂きました。

 配本も百部一括と同じように組織の力を使いましたならば
 早くそして全東京に配本できますことを常々思います。

 学校時代の恩師は御祝においしいお茶沢山下さいました。
 また妹は早くから手伝ってくれ横山会長を車でお送りしてくれましたので
 助かりました。

 発会式には他の支部に属していらっしゃる人が応援に来て下さるようですが
 人様の力に頼るまいと決心いたしましたからいままで最寄りの会に
 来て下った人たちの他に新しい人をお一人でも多くお誘いすることに
 しましたので全く初めての人三人も来てくださいました。

 新しい人の中に佼成会の人もいられお揃いで来て下さいました。

 その人は伝導員のような役をしておられるそうです。

 腰が痛くて、医者に通っているとの事でしたので
 翌日御礼に行ってお話をしましたところ人工流産児が
 八人あり死産児が一人あるとの事でびっくりしました。

 今迄伺った中で五人という人があり驚いておりました。
 それからお兄さんのところは大分大きくなった女の子を堕していて
 自分はその子を見たと仰いますので生長の家の供養をして頂きました。

 また「甘露の法雨」をお見せしましたら読んでよいかしらと仰るので
 曹洞宗でありながら佼成会のお経を読んでおられるのだから
 「甘露の法雨」も大丈夫ですよと申しますと明日から「甘露の法雨」も
 あげると約束してくださりそれを買ってほしいとお金を渡されました。

 ほんとに有難い事でございます。

 近所に少し知恵遅れの幼児を持たれる若いお母さんがあります。
 おすすめしましても”この子は平等の権利があり四、五年先には
 それが認められて平等になる。
 私たちはその仕事で毎日忙しい”との事です。

 神の子の話をしましても”次元が違うのです”とおっしゃいますので
 それ以上おすすめいたしませんでした。

 この辺りはキリスト教代田教会、天理教、
 共産党、公明党の支部がありますので
 私も益々がんばらなくてはと思って楽しく張り切っております。

 合掌再拝   

 二月九日             玉井洋子

  谷口輝子先生』
                 
・・・

【十三日のことば~眞理は與へるほど殖えるのである】

眞理の宣布にその集會所となる家、座敷、室等をある日を定めて
供養すること位は六畳敷或いは八畳敷の御部屋と、
誠心と深切があれば誰にでも、出來ることなのである。

そこに眞理の宣布の據點がつくられ、據點がつくられるだけ
多くの人たちが救はれることになるのである。

誌友相愛會でも、既に多数の誌友を自分の管轄区域を持つてゐる人は、
その誌友會を分蘖(けつ)して、熱心な誌友の御宅を供養して貰つて、
そこに眞理の法燈を掲げる別の據點をつくることが大切である。

自分ひとりで多勢の誌友を自分の管轄下において、
自分の相愛會の教勢が今は盛んなのに、
「これを分蘖しては損が行く」などと思ふのは間違である。

「與へれば與へられる」といふ法則は、
眞理宣布の會場や據點を多く與へれば與へるほど、
その報いが自分の功徳として天の倉にたくはえられ、
やがて時期が來て現象的にも報はれる時が來るのである。

會場を独占したいと思つたりして、
誌友の傳道範囲を束縛してはならないのである。

獨占欲といふものが、
どんなに人生に災ひをつくつてゐるかは、
人生到る所にその實例が見られるのである。

・・・

【十四日のことば~胎児虐殺の怨念はどうなる】              

玉井洋子さんのお手紙を見て驚いたことには
「人工流産児が八人あり、死産児が一人ある」
といふやうな婦人があつたといふことである。

しかも、その婦人がある新興宗教の傳道員のやうな役職を
持つてゐる人だといふのに、その殺した胎児の霊魂を
祀つていなかつたといふので私は驚いたのである。

流産児には戒名をつけて位牌をつくり、祭祀してその靈の冥福のため
聖經を讀誦してあげなければ、その人工流産児の怨靈がその母体たりし
婦人の近邊に執著によつて漂うてゐて色々の禍を為すものである。

その事をその新興宗教では知らないのか、
知つていてもその婦人だけが実行しないのか知らぬが、

こんな婦人が日本國中にはたくさんあつて、戰後、堕胎罪が罰せられない
やうになつて以來、約五千萬人の胎児が殺されて子宮から引き出され、
小間切りにして棄て去られてゐるのである。


ルパング島に残つてゐるたつた一人の元軍人を探し出すために
多勢が動員され巨額の費用が使はれてゐるといふのに、

吾々生長の家以外の人たちは毎日五千人以上の胎児が殺されてゐる現實を
意に介しないといふのは、靈界と現實界の關係を知らないからだと思ふ。

知らないで犯す罪には歯止めがないから、
知つて犯す罪よりも重いのであつて、
誠におそろしい事なのである。

“公害々々”といつて、一酸化炭素や亜硫酸ガスや窒素酸化物が空中に
“何とかPPM”とか、人體許容量以上に含まれてゐるとかいつて
戰々恐々としているが、

五千萬人の殺された胎児の怨念が、鬼哭啾々として悲しみと、
呪いの怨念をもつて日本列島を覆つていて、それが無數の禍の原因と
なつてゐるのに、その公害の怖ろしさを知らないで、
堕胎自由の法律を改めようとしないのも、まことに遺憾なことである。

しかしその内に、吾々の努力が實り、
堕胎のむつかしくなる法律改正が行はれることになると信じてゐる。

吾々が生長の家政治連合(略称・生政連)を結成して
國会に吾々の代表を送らうとした最初の動機の一つは、
この目的を達成する為であつた。

・・・

【十五日のことば~機縁が熟する時まで肥料を與へて待ちませう】 
        
玉井さんの近所に、少し知恵遅れの幼児を持つている
若いお母さんがあつて、生長の家をお勧めしても
“次元がちがうのです”といふお答へだつたといふことであるが、
本當にこんなお母さんは、吾々と次元のちがふ世界に
住んでゐられるのであらう。 

吾々は、”心の法則”や“靈の法則”の世界に立つて
人生を見てゐるのである。

しかし、この知恵遅れの子どもを持つ若いお母さんは、
「平等の権利」だとか、法律上の世界や、物質社会の中でのみ
生活していらつしやるのでその物質世界の生活が、
もうどうにもならないやうに行き詰まつて來るまでは
“靈的な世界”や ”心の法則の世界”へは振向いて來られないのであらう。

悲しい事であるけれども、緣の熟するまでは、
果物はその果樹から落ちては來ないのである。

しかしすべての人間には佛性が宿つてゐるから、その人にも、
やがて時期が熟して佛性が現實に開顕する時が來ると思ふ。

“縁なき衆生”はないのである。
まだ機縁が熟しないだけであつた。

・・・

【十六日のことば~環境破壊は自分の心の影である】 

『浪漫』といふ日本精神の文藝總合誌がある。
その三月號に新日本製鐵の副社長藤井丙午氏と評論家の福田恒存氏との
對談が出てゐる。

どちらも私の尊敬する人であるが、近頃”公害云々”と旺んに呼ばれて
起業家を責める論議が多い中で、
福田恒存氏は次のやうな事を話してゐられるのである。――

「コロンビア大学で日本文学を教えているドナルド・キーンさんと
 話したことがあるんですが、非常に皮肉なことを言っていましたよ。

 日本人が自然を大切にするということを私は信用しませんよというんです。

 昔の話ならどうか知らないけれども、現代ではたとえば箱根山へ行くと
 美しい乙女峠から富士が見えるところに
 紙くずや弁当の屑がヤマを為している。

 まさに山国、山を為すです。

 それから、大磯の海では自然を本当に楽しんで
 海水浴をやっているかと言えば、
 浜にやぐらを組んでスピーカーで流行歌を流している。
 こういう日本人が自然を愛するというのは信用できないというんです。

 ところが、そういう人たちに限って、
 ある企業が公害を出し環境汚染をやると、むきになって怒る。

 自分たち一人一人が自然をほんとうに愛している気持がないのに、
 企業にだけそれを期待する。

 或は政府にだけ期待したり、地方自治体に期待する。

 ですから、私は日本人自身の内にも、個人個人の内に、
 ほんとうに文化というものが大切だという観念が
 なくなっているんではないかという疑問を持っているんです」

・・・

【十七日のことば~衆生病むが故に國家病む】

福田氏が傳へたコロンビア大學の日本文學教授の、

「日本人は自然を愛していない」といふ批評は、
現代の日本人にとつては痛い警告である。

自然が破壊されて公害が出て來るのは、
何も當該企業だけの責任ではないのである。

維摩経には「衆生病むが故に吾れ病む」といつてゐるが、
多くの民衆の心の狀態を反映して、
そのやうな企業が民衆歡迎されるがために、
そのやうな生産會社が出現して來たのである。

吾々の住む世界は、
吾々多數者の心の投影として姿をあらはしてゐるのである。

災害を起してゐるやうな會社は「病める會社」である。

しかもそのやうな會社の存在がある時期には日本國民に求められて、
そのやうな会社が出來たのである。

會社が病んでゐるのは、
その會社を生み出した國民の心が病んでゐるのである。

國民が自然を愛するよりも金銭を愛した。
そして自然を犠牲にして
今二百億ドル程の外貨を保有して困つてゐるのである。

衆生病むが故に國家病むである。

・・・

【十八日のことば~神國日本の實相は金剛不壊】

ある國家を愛する熱情の靑年から、こんなお手紙を頂いた。

こんな青年ばかりが日本の國民の中の大部分を占めてゐたら
その心の反映として、公害もなく、自然もむやみに破壊されず、
日本國はもつと立派になつたらうと思ふのである。

その手紙に曰く。――

「現下の日本の情況を眺める時、
 日本国弱体化の目論をもって施行された現憲法は、
 その害毒をもって、日一日と日本国の生命を蝕みつつあります。

 谷口先生の切なる憂国とは裏腹に悪化の一途を辿る如き状況にあり、
 多くの愛国者、有識者の悲憤慷慨は、
 生長の家の全信徒においても変りなきことだと思います。

 だが、小生が最近感じますことは、
 憂国のあまり、多くの誌友、同志の中には
 悲壮な、絶望的な気持に陥入り、

 そのために、時として先生の説かれている
 重大な真理を見失っている時があるのではないかと感じられます。

 その真理と言いますのは、
 「神国日本の実相は金剛不壊」であるということであります。

 先日拡大首脳者会議の席上で、

 「共産党は黴菌みたいなもので、本当は存在しないのだ。
 それは、吾々の心の中に共産党なるものが存在する
 のであって、その自分の内にある共産党を取り除くことによって、
 無いものは消滅してゆく」という意味のことをお説き下さいましたが、

 吾々は、日本国実相顕現の運動を展開するにあたっては、
 この事を肝に銘じ、強力な活動を展開せねばならないと考えます。

 そこで、この本当は無いところの、バイキンみたいな共産党を
 旗頭とした闇の軍勢を消滅させるには、

 “無いものは無い!”とはっきり認識し、
 同時に、実在するもの、真の「日本国の実相」を
 強く認識肯定しなければならないと考えます。

 丁度それは
 「闇があるかの如く見えても、それは光の非存在であるという
 消極的な状態でしかない」とお説き下さっている如く、

 共産主義という闇が、日本にはびこるのは、「日本国の実相」という光が、
 不完全にしか現れていないことだと思われます。

 この事を感じる時、現下の日本の情況化の中で、吾々が今、
 最も強烈に認識しなければならない事は、

 「神国日本の実相は金剛不壊」であるという絶対事実を、
 強力に認識せねばならないことだと思います。

 如何に共産革命を防御しようと必死になりましても、
 吾々の中に、共産党を旗頭とする、闇の軍勢を撃退し得るだけの
 ”光”を持っているかどうかが問題であると考えます。

 この事は、我々一人の中に如実に、
 大日本帝国(仏教の説く蓮華蔵世界=大日輪なる国土)が、
 絶対の肯定として把握されているかどうか、これこそが、
 赤き思想の闇に対して、断固撃退し得るところの“光”であると信じます。

 (こういう信念が実際活動する時の強力なエネルギー源になると信じます)

・・・

【十九日のことば~現象と實相とに就いて】

「神國日本の實相は金剛不壊」といふ聖句は、長く生長の家の實相哲學を
研鑽なさつた人には、説明を要しないでもよく理解されると思ふけれども、
卒然としてこの句に觸れた人には意味不明瞭かも知れないと思ふので、
少し説明しておきたいのである。

“實相”といふ語(ご)は“現象”に相對する語(ことば)である。
現象とは現はれている象(かたち)“である。
現はれている象は常に變化するのである。

變化するといふことは”先の象”が消え去り、
”後の象”が現れるといふことである。

”先の象”が消えるのであらうか。

”本當にあるもの”(實在)は消えることはないのである。
實在しないで、ただ現れてゐるに過ぎないから消えるのである。

日本も現象に於ては戰争に勝つたり、負けたり、
領土が擴張したり狭小になつたり、常に變化して來たのである。

これを“現象無情”といふ。

仏教では“諸行無常”と謂ふのである。

そして、そんな無情なものに心を捉へられて煩腦を起してはならぬと
釈尊は教へられたのである。

これを生長の家では「現象本來無し」と教へるのである。
仏教の「色即是空」にも通じる。 

物質的現象にあらはれている勝つたり負けたりする日本は
”本來ない、”空なるもの“なのである。

その現象の奥に、勝つことも負けることもない
常住不滅の神のつくり給へる
本來清淨の金剛不壊の大日本帝國がある。

これを稱して「神國日本の實相は金剛不壊」といふのである。

”是空”の否定を通して
金剛不壊の實相の自覺による大肯定がなされるのである。

・・・

【二十日のことば~現象無常の奥にある常恒不變のもの】

現象は常に變化する。

例をもつて謂へば、あなたの肉體は“あなた”の現象である。
それは假の姿であつて實相ではないから常に變化する。

先の舊細胞は死滅して搬び去られ、
次の新しき細胞がつくられて置き換はる。
これを新陳代謝といつてゐる。

變化するといふことは“先の象”が消え、
”次の象”が現れることであるが、

“先の象” ”次の象”とが、全然異なるものであつたら、
それは變化したとは言はないで、
「別のものがあらはれた」といふのである。

變化するといふことは“先の象”が消え、”次の象”が現れても、
それは別のものではないといふことである。

變化する奥に變化しないところの「常恒不變のもの」があつて、
その”變化の象”は、その「常恒不變のもの」の現われに過ぎない
といふことである。

その現象の變化の奥にある「常恒不變のもの」を、
そのものの實相といふのである。

谷口は赤ん坊の時から八十歳の老人になる迄、
その大きさから容貌から細胞の分量や、その配列狀態に至るまで
常に變化して來たのである。

その變化にも拘はらず、この谷口は“同じ谷口”なのである。
この變化しない常住の谷口を「谷口といふ人間の實相」といふのである。

          <感謝合掌 令和3年6月2日 頓首再拝>

(下旬) - 伝統

2021/06/04 (Fri) 01:49:12


【二十一日のことば~日本國の現象と實相について】

日本國は現象に於ては常に變化した。
それは現象の歴史を観れば解る。

日清戰争に勝つた日本、日露戰争に勝つた日本、
大東亜戰争に負けた日本・・・・・等々。

現象では變化の日本であつたけれども、
終始一貫、變化しない同一人格の「日本國といふもの」があるのである。

だから、周恩來は日清戰争の責任を「今の日本」に問はうとしたり、
ソ連は日露戰争の責任を「今の日本」に問はうとしたりして、
大東亜戰争の末期に日ソ中立絛約を破つてソ連が日本領土に侵攻したのは
日露戰争の復讐などといふのである。

常に移り變はる現象の奥に、
移り変はらない「常恒不變の實在」の日本がある。
それを日本國の實相」といふのである。

その日本國の實相は如何なるものであるかを考へてみることにする。

・・・

【二十二日のことば~”神の靈、水の面を覆ひたりき“】

日本國の實相を説明する前に、「存在するもの」は
如何にして存在に入つたかを解明しておかなければならない。

宇宙の生成せられる以前には、この世界には何物もなかつた。

無論「世界」と名付くべきものも無かつた。

この事を創世記には、“闇”(黒闇)、淵(わだ)の面に在り、
神の靈、水の面を覆ひたりき」と示されている。

” 淵”といふのは非存在の空虚の深淵」の象徴でる。
“闇”(黒闇)といふのは、光の缼乏
 ―― すなはち波動の非存在を象徴する。

これをまとめて解釋するならば、非存在の空虚の深淵には、
どんな形にもどんな色にも顕れる”空”の原理がある。

その“空”の原理は“波動”の變化によつて
どんな形象(かたち)にもあらはれるのである。

その“空”の可塑自在の原理の上に神の靈が覆つていて、
神の靈が動き出して波動を起したら、その波動のリズムに從つて
どんな形象にもあらはれてくることになつてゐるのである。

宇宙出現の最初の狀態を端的にいふならば、
”神の創造力”が“無”を將に征服せんとする構へである。

・・・

【二十三日のことば~神の創造の過程を分析する】

その時創世記は次の如く書いてゐる。

「神、”光あれ”と言い給ひければ光ありき」。

”神“と”無“の對決がどのやうにして創造に展開したかといふと、

「”光あれ”と言い給ひければ」である。

神の生命がコトバとなつて波動を起したのである。

その波動のリズムが、どんなものであるかによつて、
顕はれる事物の形象が定(き)まつて來るのである。

即ち神は「光」といふコトバを出し給うたのである。

神のコトバとは神の生命の振動である。

それは單なる物理的振動ではなく、
「光」といふ想念を神は起されたのである。

物質ではなく靈であられる神は、「動く」といふのは、
物質の運動のやうに位置が動いたりするのではなく、
“心”が動くのである。

“心”が動くとは、
何かの想念(アイディア)を思い浮べられることである。

そのアイディアを乗せた”生命の振動”がコトバなのである。

かくて”光”といふ想念が具象化して、
”光”といふものに成つたのである。

これが「神、”光あれ”と言ひ給ひければ光ありき」

といふ聖句の意味である。

かうして、神は天地と、天地間に存在する色いろのものを
コトバによつて次々と創造せられたのである。

  (谷口雅春著『神、真理を告げ給う』参照)

・・・

【二十四日のことば~實相世界の事物は金剛不壊である】

以上の如く、
神が一切のものを創造せられたる過程を分析して見るならば、
一切の事物の本質は、”神の生命”を實質とし、
その實質をある象にあらはしめたのは想念(アイディア)である。

即ち事物が”ある象”をあらはして其処にあるといふことは
神の思ひ浮かべられた想念を乗せた神の生命が、
そこに姿をあらはしているといふことである。

この神の想念をわれわれは「理念」と呼ぶのである。

「實相世界」すなわち「實在の世界」における一切の事物及び事象は、
神の生命を實質とし、それが神の想念せられたアイディア(理念)によつて
賦形せられたものである。

神は壞けるものでないから、神の想念せられた理念も
壞けるといふことはないのである。

したがつて理念を實質とする實相世界の一切のものは
絶對に壞けるといふことはない。

その絶對堅固にして壊れないことを金剛不壊と稱するのである。

神の發せられた理念が永遠に壊れないといふ實例は、
たとへば、數の理念を観ればわかる。
“二二ンガ四”は數の理念であり、理念は肉眼には見へないが
永遠にくだけないのである。

・・・

【二十五日のことば~人間の想念は萬物を假創造する】

人間は神の子即ち神の最高の自己實現として、
一切萬物の霊長としてそれを支配する權能を賦與されて
この世に出現したのであるから、

人間は神と同じく、
コトバ(アイディアを乗せた生活の動き)によつて
萬物を假創造することが出來るのである。

假創造といふのは、人間はアイディアの自由を神から許されてゐて、
神の意圖に反するアイディアでさへも思ひ浮かべることが出來、
その想念の結果、神の意圖に反する事物
(病氣とか戰争と・・・・・等)でも

想像された事物は恰も實在するが如く見えるけれども、
神の創造の延長線を行くものでない限りは、それは實在しない、
それは假現にすぎないのであるからやがて消えるものである。

それ故人間の想念によつて創造せられたるものは
“眞創造”でなくて“假創造”であり、
眞に實在するものではないのである。

・・・

【二十六日のことば~人間がつくつた契約國家としての海外諸國】

さて、この邊で、
日本の國は人間が想念を起して創造したものであらうか。
それとも神の想念即ち理念の實現としての日本國家であらうか
といふ問題に立ち帰つて論じてもよい段階に來たと思ふのである。

海外の諸國は、それぞれの地域に住む住民が、
互ひに孤立しているのでは、その安全も福祉も保障せられ得ないから
互ひに團結して相互扶助し、相互扶助に適する規約をつくつて、
これを守らうとする契約を住民が互ひにつくつて團結して
出來てゐるのである。

これは契約國家とでもいふべき國々である。

・・・

【二十七日のことば~神が想念せられた理念の實現としての日本國家】

しかし日本國家は住民が相互扶助のために契約して集まり、
團結した國家ではないのである。

天照大御神(天は”天球”即ち、宇宙のこと。
宇宙を十方無礙の叡智をもつて照らし護り給うた神)が

「豊蘆原の瑞穂の國は世々わが子孫(うみのこ)の
 王(きみ)たるべき地(くに)なり」

とみことのらせ給うたコトバによつて肇まり、
それがやがて具體化して神武天皇建國となつて出現した國なのである。

その神勅(ミコトバ)を建國といふ具體体的事象にまで展開せしめられた
神武天皇は、その橿原即位の勅(みことのり)に、

「天津神、國を授け給う徳(みうつくしび)にこたへ」

といふ風に仰せられてゐて、人間が相互扶助・安全保障のために
相談して造つたやうな國家ではなく、

天照大御神がその御想念によつて
國家のあり方(國體)の圖形を心に描かれ、

それを「豊蘆原の瑞穂の國は世々わが子孫の王たるべき地なり」

とコトバによつて表現せられたところの謂はば、
「理念日本國」が天降つて來たのを、その理念を受けて、

その皇祖の御徳にこたへ奉るために建國せられた國家が日本國家である。

だから、この日本の國は實相世界に於ける理念日本國が天降つて來て
現象界に顕現しつつある國家なのである。

決してわが國は海外の諸國家のやうに人間のみの想念の實現として
假創造せられたる國家ではないのである。

このやうな假創造の海外の國家は單なる現象無常の國家であつて、
常に起滅つねなく、建國以來ズーッとその存在をつづけてゐる國はない
のである。

しかし神の想念(理念)の實現として顕現しつつある日本國家は、
まだ、完全にはその實現の素晴しさが、實現してゐないけれども、
建國以來、二千六百三十三年の今日に至るまで、たとひ大東亞戰争に於て
敗れたりと雖も、

「天皇國家」としての本質は滅びることなく繼續してゐるのである。

といふ譯は、「理念」は2×2=4の數の理念が永遠不滅であるやうに
不滅であるから、神の理念の實現として建國せられた日本國家も
決して毀(くだ)けることはないといふ原理によるのである。

・・・

【二十八日のことば~價値の本質と價値生活について】

そこで吾ら何を爲すべきかの問題が起るのである。

人間として地上に生を受けて出た以上は、
單に“性”と”食”との本能だけで動いてゐる低次の動物のやうに
酔生夢死の無價値な生活は送りたくないのである。

何らかの價値ある生活を送りたいといふのは
人間として當然の願ひであるに違ひないのである。


そこで價値とは何ぞやといふ問題が出て來るのである。

價値の本質は「神聖さ」と「實在する」といふことの二つである。
存在するやうに見えても「實在」しないで
やがて消えてしまふものには價値はないのである。


ところが、たとひ其のものが實在するにしても
「神聖なもの」でなければ價値はないのである。
汚いものはマイナスの價値である。

われわれが價値生活即ち價値ある生活を送らうと思ふならば、
實在するところの神聖なものにつながる生活を送らなければならない
のである。

・・・

【二十九日のことば~吾らの最も高き價値生活】

神聖なものとは、神そのもの及び、神の創造になるものである。

『私』といふやうな、小さな人間がケチくさい利害得失の考へで、
假創造したやうなものは神聖なものではないのである。

ケチくさい利害得失の人間的な考へが加はれば加はるほど
それは汚れたものとなる。

汚(けが)れるの語源は「氣枯れ」又は「氣涸れ」である。

氣とは生氣であり、“宇宙生大氣”である。
“宇宙生大氣”とは“神”のことである。

氣枯れるとは、神の宇宙生大氣と絶縁狀態にあつて
宇宙生大氣に缼乏しているといふことである。

いつまでも氣枯れないものは、
神御自身と神の創造になるもののみである。

國といふ國の中で、
私的な利害得失で住民たちが團結してできた國でなくて、
神のミコトノリによつて出來た日本國のみが本當に神聖なる國である。

この國は永遠ほろびない實在の國であるから、
それが神聖であると共に、實在價値のある國である。

それは天照大御神のミコトバによつて創造せられて
實相世界に既にある理念國家である。

その理念國家が恰も蒔かれたる種子の如くなつて現象界に発芽し
生長しつつあるのが、今の日本國家である。

建國以來二千六百三十三年といふけれども、
悠久の宇宙と比ぶればまだ發芽したばかりで、

これから吾々が、それを培ひ、育て、施肥して
悠久の大樹にまで生長せしめるのが吾らの神聖使命である。

この使命に邁進する事こそ、永遠に滅びない價値につながり、
神聖なるものにつながる吾らの最も高き價値生活と
いはなければならないのである。

・・・

【三十日のことば~吾ら日本人、今、聖使命を受く】

理念國家を最初に説いたのは釋尊であり、華巌經に於て、
大日如來(天照大御神)が中心部にまします蓮華蔵世界海として,
宇宙の實相をお説きになつたのである。

そして、その蓮華蔵世界海の中心的核的存在として、
華巌經の“盧舎那佛品”に於て、釋尊は、日本天皇の國が、
蓮華蔵世界海の周圍を固めてゐる金剛圍山を支へてゐるのだ
といふ深遠な意味を次の如く説いてゐられるのである。――

「佛子よ、當に知るべし。此の蓮華蔵世界海の
 金剛圍山蓮華日寶王地によりて住せり。」

蓮の華の中心部にハチス(蜂の巣の形をした子房)があるが如く、
實相宇宙の中心部に大日如來の“皇(す)”があつて、
そこより出でたる一切の生類を「統(す)べ」給ふ神秘力が放射され、
それに依りかかつて蓮華蔵世界海が支へられてゐるといふのである。

これが日本國家の實相である。

その實相は無限に巨大であつて不滅であるが、
まだ現象にはハッキリあらはれてゐないけれども、
心に耳のある者は聴け。心に眼のあるものは観よである。

今はまだ、實相が現象に、芽を出したばかりである。

これを大きく成長さすも、その成長をおくらすのもこの日本國土に
生まれたる人間の自覺と行動とにゆだねられてゐるのである。 


蓮華蔵世界海と”海”といふ接尾の文字がついてゐるのは、
”海”は表面(現象)を見れば波立ち變化するやうに見えるけれども、
その海の底は金剛不壊で静かなる常住の實相世界であるからである。

この海の底に入ることを「入龍宮不可思議境涯」といふのである。

 (おわり)

          <感謝合掌 令和3年6月3日 頓首再拝>

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