伝統板・第二

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ゆるしはすべてを変える ⑤ - 伝統

2021/01/26 (Tue) 03:33:18

本当に赦すと云うことは

       *『眞理』第1巻入門篇(P401~403)より

キリストは「七度を七十倍たび赦せ」 と教えましたが、
一体「赦す」と云うこ とはどんなことでしょうか。
 
腹がが立つけれども、まあまあ怺(こら)えていて我慢するのを
赦すことだと考えている人があるかも知れませんが、

それでは形は赦していましても、心の中で赦していないから
本当にゆるしたと云うことにはなりません。
 
本当に赦すと云うことは、相手を怒りの念で縛っていた心を、
釈放してしまうことなのです。
 
漢字を当て嵌めると「釈(ゆる)す」と云う字が当たるのです。

怒りの念から釈放して自由に「罪なき者」として相手を扱うことなのです。
 
「暴(ぼう)に酬(むく)いるに暴を以てせず」と云うのは
形の上だけにもとれますが、

暴に酬いるに感謝をもってするとか、
「あなたは神の子で素晴らしいい方です」と礼拝をもってするとか
云うのが、本当に「ゆるす」と云うことになるのであります。
 
英語の「ゆるす」(forgive)と云う言葉は、
for(に対して)give(与える)と云う言葉の組合せによって出来ています。
 
即ち、相手の悪しき心又は言葉又は行為に対して
感謝とか礼拝とかを与えることなのであります。
 
法華経の常不軽菩薩品には、常不軽菩薩が、自分に石を抛(なげう)つ者
に対しても、自分に石の達(とど)かない点まで逃げて往って、
其処から跪(ひざまず)いて「吾れ汝を軽んぜず」
 
即ち

「あなたを卑しい者、悪い者とは思いません。
あなたの中には仏様の実相(じっそう)が宿っていらっしゃいますから、
屹度(きっと)、やがては仏様におなりになる方であります」

と云って拝んだということでありますが、

これが即ち悪に対して「礼拝」を与えると云うことであります。

これこそ真に相手を赦すと云うことなのであります。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「ゆるす(釈・赦・許) (6522)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1234 

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「ゆるし (10842)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2078 (消滅)


   (再掲示)伝統板・第二「ゆるし」(光明掲示板・第二)
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7885006

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「ゆるし」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=41

(4)光明掲示板・伝統・第一「ゆるしはすべてを変える (42)」
       → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=25

(5)伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ①」
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461367

(6)伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ②」
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6859307

(7)伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ③」
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7631151

(8)伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7884825

             <感謝合掌 令和3年1月26日 頓首再拝>

家族互いに赦す日 - 伝統

2021/02/08 (Mon) 02:42:41


           *「光明道中記」(2月8日)より

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、
 細君は河豚(ふぐ)のように「ふくれても好い権利」を主張する。
                   (『生命の實相』第四巻)】


審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、
青鬼のようなヒステリックな人、赤鬼のように興奮した人、
こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、
そんな家族の住んでいる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の多い少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合が変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。

赦さないから、筋肉が突張るものを。
赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。

癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」
とキリストは言っている。

心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、
その家庭は屹度面白くないであろう。
柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

             <感謝合掌 令和3年2月8日 頓首再拝>

心の傷と愛 - 伝統

2021/02/18 (Thu) 04:47:02


          *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年2月16日)より

人に対して許せなかったり、責める気持ちが起こった時に、
それは自分のうちにあるものを相手に投影している場合があります。


たとえば自分が過去になした過ちを、
しっかり見つめて反省できていなくて、
心の底にしまい込もうとしている時には、
他人を見て、自分の過去と同じ過ちをしているように感じて、
相手を責めてしまうことがあります。

本当は自身の過去の問題であるのに、
他人にその問題を投影して、責め立てるわけです。

自身の心の傷を癒していないと、そうした事が起こる場合があります。

ほかにも、過去に心の傷があって、愛する者から見捨てられるのではないか?
また同じような事になるのではないか?
そうした不安が出てきてしまい、
相手を責めてしまう思いが出てくることがあります。

あるいは、自分に自信の無い人がいて、
自分はダメなんだと思いながら、それを何とか補おうとして、
必要以上に張り切って、他の人は出来ていないと責める思いが
出てくる人もいます。

それは、自分がダメだという負の思い込みがあって、
人から欠点や弱点を指摘されないように、色々と頑張っていて、
他の人はダメだと思うことで、
自分は他の人より出来ていることを確認して安心しようとする心理が働きます。

本当は相手に愛して欲しいという思いがあって、
自分の望んだとおりに相手が動いてほしいと願うのですが、
それが叶わないと相手を攻撃する思いが出てきます。

愛の思いがいつかしら正反対の思いへと変わっていきます。

そうした時には振り返ってみて、
もう一度原点に戻って考えてみる必要があります。

人を責める時に、自分自身の何が反応して相手を責めたくなるのか?

自分の心の中の傷が原因ではないのか?

相手を愛する思いが、いつかしら反対の思いに
替わってしまっていないかを見つめなおしてみましょう。

相手を思っているつもりが、いつの間にか自分のしてほしいこと、
自分にしてほしくないことなど、
自分中心の思いになっているかも知れません。

愛するとは、相手の事を思ってしてあげることです。

いつの間にか自分の思いが出すぎていなかったかを、
振り返ってみるといいかもしれません。

そして、ご自身の心の傷を癒すことが重要です。

自分自身を癒し・許していけると、他の人も許せるようになっていきます。

   (https://www.spacebrothers.jp/2017/10/blog-post_19.html

             <感謝合掌 令和3年2月18日 頓首再拝>

恨みよりも愛を優先させる - 伝統

2021/03/05 (Fri) 04:05:46


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 57(P78)より

夫婦関係、恋人関係においては、
他の関係よりも、恨みははるかに危険な作用を及ぼします。

親しいあいだがらであるからこそ、
許す必要があるのです。

相手もあなたも完璧ではありません。

未熟者同士、互いに許し合ってはどうですか?

             <感謝合掌 令和3年3月5日 頓首再拝>

いたずらに期待しない - 伝統

2021/04/03 (Sat) 01:39:13


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 58(P79)より

私たちは、よく相手に期待します。

その際、あなたは、相手に自分の期待をしっかり告げましたか?

相手はあなたの期待を理解していますか?

それらがはっきりすれば、恨みを持つことがなくなるでしょう。

             <感謝合掌 令和3年4月3日 頓首再拝>

人を許すということ - 伝統

2021/04/29 (Thu) 03:58:11


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2012-11-26)より

   (中嶋真澄氏の心に響く言葉より…)

   写真家のK氏はある写真雑誌の編集者から、
   その雑誌の特集記事に掲載するための写真を数点貸してほしいと
   依頼を受けました。

   掲載されれば、もちろんK氏の名前も出るし、ギャランティも支払われます。

   快くフィルムを預けたK氏のもとに、やがて掲載誌が送られてきたころ、
   「じつは…」と担当編集者から電話がかかってきました。


   「どうお詫びすればよいのかわからないのですが、
    お預かりした貴重なフィルムを紛失してしまいました」

   というのです。

   編集者は返送用の封筒に入れたフィルムをかばんのなかにしまい、
   そのかばんごと電車の中に置き忘れたらしいのです。


   「なんて無責任なんだ」K氏は激怒し、
   電話口でひたすら平謝りの担当編集者を責めました。

   「預けた写真はもう一度同じものを撮ろうと思っても、
    二度と取れるものではないんだ。
    きみも写真雑誌の編集者なら、それぐらいのことはわかるだろう」、

   そして追い討ちをかけるように

   「それ相応の謝罪と賠償をしてもらわなくては困る」

   と言ったのです。


   すると、担当編集者は切り出しました。

   「そのことですが、編集長とも相談の結果、
    こちらの雑誌で連載というかたちで当分の間、
    先生のお写真を毎回掲載させていただき、
    そこに上乗せする形で今回の償いをさせていただけないかということなのですが…」

   それは必ずしも悪い条件ではなかったのですが、K氏は

   「そんな口約束が守れるとは思えない。
    だいたいきみが担当をはずれればそれで終わりだろう。冗談じゃない。
    きちんと責任をとって、賠償金を支払ってほしいね」


   K氏が腹立ちまぎれもあり相当な金額を提示したので、担当編集者は困り果て、

   「もう一度、編集長に相談します」

   と言って、打ちひしがれた声音で電話を切りました。

   それから、数日後のこと。

   K氏のもとに、晴れ晴れとした声で担当編集者から電話がかかってきました。

   「フィルム、見つかりました。がばんを届けてくれた人がいたみたいで、
    駅から電話があって… かなり日にちががっているのに不思議です…」


   K氏のもとには無事、フィルムが戻ってきて一件落着。

   しかし、K氏が平謝りの担当編集者を責めたてた事実は残り、
   その後、その雑誌社からの写真掲載の依頼は一切なくなってしまいました。


   そして、数年後、K氏はあまり自分の写真が売れなくなり、
   どこか売り込むところはないかと苦労していたとき、
   そのときの担当者があの雑誌の編集長になっているのを知ったのでした。

   もし、あのとき寛容に編集者を許していたら…

     <『成功する人はみんなやっているのに
        誰も気づいていない人間関係99の法則』 徳間書店 >

                 ・・・

「後世への最大遺物」(内村鑑三)という本の中に、カーライルの話がある。

カーライルはイギリスを代表する言論人だが、
何十年もかけて「フランス革命史」を書き上げた。

たまたまその原稿を見つけた友人が絶賛し、一晩家に借りていった。

しかし次の朝、そんなことを知らない家のお手伝いが、
暖炉の火付けに丁度いいと、それを燃やしてしまったのだ。

カーライルはそれを聞き、絶望的になって10日ほどは、何も手につかなかった。

しかし、もう一度思いなおし、
自分を鼓舞して再び書き直し、その本を世に出したのだ。


すでに終わってしまったこと、元に戻らないことを、
怒ったり、悔やんだり、ネチネチと文句を言っても、何も変わらない。

人の過去のミスを責め立て、それでよくなることなど一つもない。


人のミスを許す人には、限りない魅力がある。

             <感謝合掌 令和3年4月29日 頓首再拝>

《一度憤った相手は思い出してゆるせ》 - 伝統

2021/05/27 (Thu) 04:48:27


        *「光明法語」(5月27日)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。

それは自分の家はもうすっかり不浄のものを洗ってしまって
洗濯物はないと信じていても、押入の隅っこに
「汚れ物」をつくねて忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、
一々その顔を眼瞼(まぶた)の内に思い浮かべ、
「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」と
心の中に唱えるのである。

             <感謝合掌 令和3年5月27日 頓首再拝>

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2021/05/28 (Fri) 05:02:52


        *「光明法語」(5月28日)より

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

             <感謝合掌 令和3年5月28日 頓首再拝>

自分を許す(斎藤一人さん) - 伝統

2021/06/15 (Tue) 04:59:17

【斎藤一人さん】 すべてがあなたにちょうどいい~自分を許す

https://www.youtube.com/watch?v=Jt3cqPTRe3E

             <感謝合掌 令和3年6月14日 頓首再拝>

《自分自身の欠点を許す》 - 伝統

2021/09/01 (Wed) 04:42:16


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72<9月1日>)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。

             <感謝合掌 令和3年9月1日 頓首再拝>

すべての者をゆるせ - 伝統

2021/11/20 (Sat) 04:57:32


       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。

             <感謝合掌 令和3年11月20日 頓首再拝>

赦しと愛と平和 - 伝統

2021/11/21 (Sun) 02:21:24


       *「光明法語」(11月21日の法語)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
 私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
 私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、
 神もわが過ちを赦し給いて
 その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 

と思念せよ。

          <感謝合掌 令和3年11月21日 頓首再拝>

他(ひと)を釈す心にならなければならない。 - 伝統

2021/11/28 (Sun) 04:55:43


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より

われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈(ゆる)す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。

他(ひと)を釈(ゆる)すことのできない者は「尻(けつ)の穴の狭い者」であり、
他(ひと)を害する心あるがゆえに、自分自身をも他(ひと)から害される恐怖が
あるのである。

かくて内臓も筋肉もすべてみずから把(つか)むことによって
硬化し萎縮してしまうのである。

それを癒す道は、症状に対して直接的には
「人間は神の子であるから、害されるものではない。
われ便通によって生きず、神の生命(いのち)によって生くるなり」と
大らかな気持ちになって心から便秘を放つのである。

そして間接的にはもっと根本的には、ゆたかに愛しゆたかに釈(ゆる)す
念(こころ)を起こすことである。いやしくも人を釈(ゆる)さず、
やっつけてやろうというような考えを起してはならないのである。

他(ひと)を傷つける心は自分を傷つけ、
他(ひと)を愛する心は自分を愛することになるのである。

          <感謝合掌 令和3年11月28日 頓首再拝>

《人を赦して眠ること》 - 伝統

2021/12/15 (Wed) 04:56:35


        *「光明法語」(12月15日)より

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

          <感謝合掌 令和3年12月15日 頓首再拝>

一つの立場に立つかぎり、相手の立場をも許してやらねばならぬ - 伝統

2022/01/12 (Wed) 03:31:48


     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より抜粋

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。

われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。

真空を超えてさらに高くこう翔(しょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。

わたしはこれをこう考える ―― と言うときわたしは一つの立場に立つ。
一つの立場に立つかぎり、
「彼はこう考える」という立場をも許してやらねばならぬ。

          <感謝合掌 令和4年1月12日 頓首再拝>

赦し、仲よく、日の丸の心を持つ - 伝統

2022/02/03 (Thu) 04:51:06


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。

失われた一匹の羊が帰って来ることは、
亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるよりも
嬉しいとイエスは言った。

仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。

争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。

『生命の實相』の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて
病気が治らないとかこっている人はないか。

あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神は《まこと》である。《まこと》は円相である。
《まこと》とは《○(まる)こと》である。○(まる)は和解のしるしである。

まんまるい、まんまるい、あのお月様のような心こそすべての病を治す心である。

なんじの心の中の羊をしらべてみることが大切である。
亡(うしな)われたる羊はないか。
あなたを憎んで去った人はなかったか。

誤解があったならば誤解を互いにほどくこと。
憎んでいたならば赦すこと。
恨んでいたならば恨みを解(と)くこと。

心の思いと、物の負債とにかかわらず、
借りものがあったら利息をつけて返すこと。

神の前に出て、もう誰とも仲の悪い人はございません。
争っている人はございません。
すべての憎みと恨みとは完全に水に流しました。

もう誰にも負債はありませんと、
おおらかな気持ちで言いうるようになれない人は、
まだ心に病のある人である。

人の世に生活して、それほどの心になれる人は少ないにしても、
それほどの心になれないかぎりわたしたちは神の前にいと小さなる者である。

もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、
わたしたちは人を責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。

わたしたちは人を赦すほかに仕方がないのである。

ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。
ただ人と仲よしになったときのみ
わたしたちは神と仲よしになることができるのである。

仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、
人と仲が悪くなれるものではない。

人が人と仲よしになれないのは、
幸福というものはただ「心の愉快である」ことだという
かくも平明な真理に眼を閉じていて、

幸福というものがなんじの心の愉快にあるのでなく、
物の多いということにあると考えたり、
虚栄、虚名が多いということにあると考えたりして、
物と、虚栄、虚名を断じて放すまいとして傲然として構えているからである。


傲慢ということはかかる心持を云うのである。
謙虚、《へりくだり》の心持は正直に事物をまともに見る心である。
まちがっていたと気づいたら素直にあやまれる心である。

放たねばならぬ物は素直に放つ心である。
本来ありもせぬ栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
 
無邪気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、
こちらに隔(へだ)て心があるからである。

隔てのない心。角のない心。仲のよい心。○(まる)い心。
○(まる)はいっさいを包んでいる。
隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。

           <感謝合掌 令和4年2月3日 頓首再拝>

すべての家族を赦すこと - 伝統

2022/02/08 (Tue) 04:25:22


      *「光明道中記」(2月8日《家族互いに赦す日》)より

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、
 細君は河豚(ふぐ)のように「ふくれても好い権利」を主張する。
                 (『生命の實相』第四巻)】


審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、
青鬼のようなヒステリックな人、赤鬼のように興奮した人、
こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、
そんな家族の住んでいる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の多い少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合が変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。
赦さないから、筋肉が突張るものを。
赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。
癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」
とキリストは言っている。
心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、
その家庭は屹度面白くないであろう。
柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

           <感謝合掌 令和4年2月8日 頓首再拝>

人の罪をゆるせ - 伝統

2022/03/23 (Wed) 06:56:30


           *「光明法語」(3月23日)より

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って人の病気を治しているのである。

そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、イエスは

「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)

と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)
そのものの實相の隠蔽(包み ―― 罪)であるから、人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

           <感謝合掌 令和4年3月23日 頓首再拝>

「許しの筋肉」を鍛える - 伝統

2022/04/21 (Thu) 07:10:38


        *「「感謝」で思考は現実になる」(P84~86)
           パム・グラウト(著)より

(1)このゲームで実践する「許し」とは、とにかく目の前にある
   ものを許すことだ。

  ①それが壊れた車でも、かんしゃくを起こした2歳児でも、
   「たくさん税金を払え」という通知であっても、すべてを
   受け入れる。

  ②どんなにイヤなものに見えようとも、それは自分が出現する
   ことを許したからここにあるのだと考えよう。

  ③自分の振動が、同じ振動を持つそれらを引き寄せたのだと
   認めるのだ。

  ④目の前にうれしくないものが出てきたとしても、そこから
   逃げ出す方法や、それを変える方法を考えるのではなく、
   まずはそれをありのままに受け入れなければならない。

   そして、それに感謝しなければならない。
   それは「いいもの」だと認めなければならない。

  ⑤自由と力は、身の回りのすべてに感謝するという姿勢から
   生まれる。

  ⑥受け入れるのを拒否したもの、心から感謝しなかったものは、
   いずれあなたをしばる鎖になるだろう。
   そして、あなたと「最高の喜び」の間に、壁を築くだろう。

(2)ゲームの説明をしよう。

  ①人生で起こることすべてを「許す」と決める。
   どんなにつまらないものでも、いや、むしろつまらないもの
   だからこそ許す。

  ②たとえばこんなことだ。

   「私は朝の光が窓を通って部屋に流れ込むのを許す」

   「私は犬がベッドの横で音を立ててエサを食べるのを許す」

   「私は蛇口から出た水が歯ブラシを濡(ぬ)らすのを許す」

   「私はこのミント味の歯磨き粉が口の中をさっぱりさせる
    のを許す」

   こうやって、単純な事柄で練習を重ねると、
   「許しの筋肉」が鍛えられる。

  ③コツをつかんだら、もっと許しにくいものを許してみよう。
   200ドルの支払いでもいいし、自分の力ではどうにもできな
   いような、絶望的な状況でもいい。

   たとえば、こんなふうに言う。

   「アカデミー協会、私の母、怒られてばかりだった小学校
    2年生のときの担任の先生に感謝します。
    この焦げたベーグルと、2時間もかかる通勤と、
    マンモグラフィの再検査をありがとう」

  ④すべての状況はあなたの創造物だ。
   その創造物に対して、好奇心を持ってみよう。

   なぜ起きているのか不思議に思い、考え、そして何よりも、
   それを愛する。

   これが、自分の人生を自分で支配するということだ。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2022-04-20)
「天よ、彼らをお赦しください」
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/ee80c38f58165f24d1ee9f5779b40f16

           <感謝合掌 令和4年4月21日 頓首再拝>

《一度憤った相手は思い出してゆるせ》 - 伝統

2022/05/27 (Fri) 10:49:11


        *「光明法語」(5月27日)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。

それは自分の家はもうすっかり不浄のものを洗ってしまって
洗濯物はないと信じていても、押入の隅っこに「汚れ物」を
つくねて忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、
一々その顔を眼瞼(まぶた)の内に思い浮かべ、

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」

と心の中に唱えるのである。

           <感謝合掌 令和4年5月27日 頓首再拝>

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2022/05/28 (Sat) 11:49:15


      *「光明法語」(5月28日)より

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、
其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
 貴方と私とは神に於いて一体でございます。
 私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
 貴方と私とは神に於いて一体でございます。

 私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
 有難うございます。有難うございます。
 私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

        <感謝合掌 令和4年5月28日 頓首再拝>

ゆるすということ - 伝統

2022/06/24 (Fri) 07:09:45


        *「ゆるすということ ― もう、過去にはとらわれない」
         ~ジェラルド・G. ジャンポルスキー(著) より

ゆるすことは
幸せになるための処方箋

ゆるさないことは
苦しむための処方箋

苦しみの原因が何であれ
苦しみはすべて、「ゆるさない」という種が
宿っていないだろうか!

復讐の念を燃やしつづけ、愛や共感を出し惜しみすれば
健康を害し免疫が低下することはまちがいない

当然だと思われるような怒りとこだわりつづけていれば
神の安らぎを味わえなくなる

ゆるしとは
その行為をよしとすることではない
残虐な行動を見逃すことではない

ゆるしとは
怖れに満ちた過去にこだわりつづけるのをやめること

ゆるしとは
古傷を引っかいて、血を流しつづけるのをやめること

ゆるしとは
過去の影に惑わされることなく
いまこの瞬間に、百パーセント生き、百パーセント愛すること

ゆるしとは
怒りからの解放であり
攻撃的な思いにさよならすること

ゆるしとは
誰に対しての愛を拒まないこと

ゆるしとは
ゆるさないという思いから生じた心の空洞を癒すこと

ゆるしとは
過去に何をした人でも
すべての人のなかに神の光を見ること

ゆるしとは、相手のためだけでなく
自分自身のためであり、自分が犯したまちがいのためであり
くすぶりつづけている罪悪感と自分を恥じる気持ちのためである

最も深い意味でのゆるしとは
愛に満ちた神から自らを切りはなしてしまった自分をゆるすこと

ゆるしとは
神をゆるすことであり

神は自分を見捨てたという
おそらくはまちがっている考えをゆるすこと

いまこの瞬間にゆるすということは
もう先延ばしせずに、ただゆるすこと

いまこの瞬間にゆるすということは
もう先延ばしせずに、ただゆるすこと

ゆるしは心の扉を開け
感情をスピリットと一体化し
すべての人と一体化し
すべての人を神と一体化する

ゆるすのに
早すぎることはない
遅すぎることもない

ゆるすにはどれだけの時間が必要だろうか?

それはあなたの価値感しだい

絶対に無理だと信じるなら、絶対に起こらない

半年かかると信じるなら、半年かかる

一秒ですむと信じるなら、一秒ですむ

私は心から信じている
一人ひとりが自分も含めてすべての人も
完全にゆるせるようになったとき
世界はほんとうに平和になるということを

http://yoshi-imajuku.blog.jp/archives/1063189240.html

        <感謝合掌 令和4年6月24日 頓首再拝>

自分を癒すために世界を許そう~大天使メタトロン - 伝統

2022/06/27 (Mon) 07:18:42

       *Web:cactus567のブログ(2022-06-19)より

https://ameblo.jp/cactus567/entry-12748960450.html

(以下が抜粋です)

(1)あなた方の思考や感情など、あなた方の中のすべての創造主もまた
   あなた方自身である。

   あなた方が日々体験している現実は、
   自身の内なるエネルギーから生まれている。

(2)外側の現実を許すことができればできるほど、
   あなた方の存在の中に新しいエネルギー、新しい活性化を生み出し、
   困難なエネルギーの解放をサポートする癒しを引き起こすことに
   なるのだ

(3)赦しが必要な場所を認識する方法は、世界を調べてみた時に
   あなた方が「同意しないもの」を認識することである。

   あなた方の存在の中で、悲しみや動揺、混乱、葛藤といった
   反応を引き起こすものは何だろうか?

(4)あなたが自分のローカルな現実の中で、あるいはさらに遠く離れた場所で、
   これらすべての領域を認識するとき、
   あなたは自分の許しを発散(発動)する機会を認識しているのである。

   そしてそうすることで、あなた方が許しを発しながら、
   自分自身の波動をより高い周波数に切り替えているのである。

(5)あなた方の現実では、許しを必要とする何かが、
   それはあなた方が許しを与えたくない領域であることが多いのでは
   ないだろうか?

   しかし、もしあなた方が自分の存在の中で許しのエネルギーを培い、
   周波数として許しを放射することができれば、
   これはその状況に対処し、新しい光の中でそれを見るようになる。

(6)赦しに抵抗するような領域でこそ、赦しが必要になることが多いのだ。
   もしあなた方が許しのエネルギーを誰かに、あるいは何かに向けることなく、
   ただ流すように自分の存在から流し始めるなら、
   あなた方は許しのエネルギーを体現し始める。

(7)あなた方の赦しのエネルギーを分かち合ってください。
   もしあなた方が赦しのエネルギーを放射することができないなら、
   単に「あなたを赦します」と言えばいい。

   最初は本気で言っていないかもしれないが、その言葉を繰り返すと、
   それは最もおいしい癒しの液体のように、あなた方の存在の中に
   溶けて染み込み、閉塞感や制限を洗い流し、透明な視界が得られるようになる。

(8)世界中の誰もが赦しを持って世界を見ていたらと想像してみてください。
   誰もが自分の周りの世界を、赦しの目、心、波動で見つめることを
   望んでいたらどうだろう。

   そうすれば世界がどんなに変わり、
   あなた方の内面がどんなに変わることだろう。

(9)あなた方の存在の中で許しの波動を活性化してください。

   必要なことは、許しのエネルギーを考えたり、
   他の人や自分自身を許した時のことを考えたりすることだけである。

(10)あなた方はこのエネルギーを自分の中で活性化させ、
   それを世界に(息を吐くように)吐き出させてください。

   あなた方が周りの世界を許しているように、
   あなた方は内なる自分を許しているし、その逆も然りである。

            <感謝合掌 令和4年6月27日 頓首再拝>

ゆるすことで癒しがもたらされます - 伝統

2022/07/06 (Wed) 07:12:42


       *「ゆるすということ」ジェラルドGジャポンスキー(著)
         P23~24 より

(1)ゆるすことで、私たちは自由になります。

(2)ゆるしによって、自分の本当の姿がわかります。

(3)ゆるしは癒しをもたらします。

(4)ゆるしは自分も他人も癒やします。

            <感謝合掌 令和4年7月6日 頓首再拝>

懺悔によって赦されよ - 伝統

2022/07/14 (Thu) 07:12:20


        *「光明法語」(7月14日)より

「赦された」と云う実感は、神と自分とを隔てていた堤を取り去る事になり、
其処からして神の癒力が流れ入るのである。

キリストの「汝の罪はゆるされたり」の言葉が、
よく難治の病者をいやしたのも此の理によるのである。

悪は悪と気がついたとき、その罪は消えたのである。
何故なら、悪が悪と気がつくとき、
もう自分は上の境涯に立って過去の自分を見ているからである。

かかるとき、キリストは言った。
「汝の罪ゆるされたり、去って再び罪を犯す勿れ」。

            <感謝合掌 令和4年7月14日 頓首再拝>

呪いは必ず返る - 伝統

2022/07/28 (Thu) 05:05:30


      *Web:宇宙の兄弟たちへ(2022年7月17日)より

人に対して憎いと思ったり、怒りが込み上げてしまう事は誰しもあります。

しかし、その念がずっと心の中で続いていて、
相手の不幸を願うようになってくると、それは呪いとなってきます。

恋愛などでも、愛していた人に裏切られ、分かれる事となっても、
やはり恨み心が続いてしまい、相手の不幸を思ってしまう事もあるでしょう。

付き合っていた彼が、別な女性と陰で付き合っていて、
二股をしていたのがバレ、破局したとしても、
その彼や、相手の女の人を恨んでしまうような場合です。

そんな悪い男の事は、あっさりと忘れて、次の恋に移ればいいのですが、
いつまでも忘れられずに、恨み心を持ってしまう人もいるでしょう。

そうした場合には、本人が自覚していなくても、
実は呪っているのと同じ状況になります。

呪いというのは、相手の不幸を実現させようとする力で、
たしかに霊的には存在しています。


しかし、昔から「人を呪わば穴二つ」という諺があるように、
呪った人も不幸に陥ってしまいます。

呪いの念はいつか必ず本人の元に返ってくると、知らなくてはなりません。

ですから、幸せになりたいと願うのであれば、
呪う相手と和解しなくてはなりません。

呪いの思いを止めて、相手をイメージして和解していくことです。

直接会わなくてよいので、イメージの中でも相手を許し、
もう今後は考えないようにしていきます。

そうすることで自分の発してしまった呪いも解除されます。

相手をいつまでも呪っていても、ご自身が沈んでいってしまうだけなので、
気が付いたら解除していかなくてはなりません・

https://www.spacebrothers.jp/2022/07/blog-post_17.html

・・・

<参照>
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86
『生長の家』昭和23年9月4日の法語
「人を呪わば穴二つ」

            <感謝合掌 令和4年7月28日 頓首再拝>

《自分自身の欠点を許す》 - 伝統

2022/09/01 (Thu) 08:13:09


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月1日)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
 神によって完全にせられたのである。
 もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。

      <感謝合掌 令和4年9月1日 頓首再拝>

《他人を責めず、免(ゆる)す》 - 伝統

2022/09/02 (Fri) 09:15:37


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月2日)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。
なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。

             <感謝合掌 令和4年9月2日 頓首再拝>

すべての者をゆるせ - 伝統

2022/11/20 (Sun) 07:35:56


       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。

         <感謝合掌 令和4年11月20日 頓首再拝>

赦しと愛と平和 - 伝統

2022/11/21 (Mon) 07:36:47


       *「光明法語」(11月21日の法語)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
 私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
 私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、
 神もわが過ちを赦し給いて
 その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 と思念せよ。


         <感謝合掌 令和4年11月21日 頓首再拝>

他(ひと)を釈す心にならなければならない。 - 伝統

2022/11/28 (Mon) 07:54:33


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より

便秘はいかにして起こるか。

それは食物に関係して起こるというのは物質科学の解釈であるが、
同一家族にして同一食物を摂(と)りながら、
一人は便秘し一人は下痢するという場合において考えるならば、
それはたんに食物を変更するだけでは治療せしめないのである。

フロイド流の精神分析によれば、それが肛門に関係した疾患であるから、
すぐに幼児期の性欲に連関して解釈しようとするのであるが、
そうすべてを汎性欲論で片づけてしまうべきではないのである。

便秘は肉体の心の影という方面から分析してゆくならば、
あらゆる種類のものを失うことに対する恐怖が具象化したものだと
言うことができるのである。

金銭の喪失に対する恐怖、友を失う恐怖、愛情を失う恐怖、
・・・等のごときはそれである。
これを一言(いちごん)にして言えば「把(つか)む」こころである。

把(つか)んで放たない心であるから、まず心を放下することを、
何物にも引っかからず、ゆったりと緊張を解く心に誘導すべきである。

恐怖はすべて把む心である。溺れるものは藁をも把む。

恐怖すれば手に汗を握る。(握るは把むである。)
すべての心が元であって、恐怖する念が起これば全身にその形があらわれるのである。

血管は収縮し、皮膚は収縮して肌(はだ)に粟(あわ)を生ずる。
心臓も急激頻繁に把むがゆえに、その鼓動を増加し、血圧は高まり
、時として狭心症を生ずるのである。

かくて恐怖する者は直腸も肛門を収縮して「尻(けつ)の穴の狭い者」となり、
排便しえない状態になるのである。


われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈(ゆる)す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。

他(ひと)を釈(ゆる)すことのできない者は「尻(けつ)の穴の狭い者」であり、
他(ひと)を害する心あるがゆえに、自分自身をも他(ひと)から害される恐怖が
あるのである。

かくて内臓も筋肉もすべてみずから把(つか)むことによって
硬化し萎縮してしまうのである。

それを癒す道は、症状に対して直接的には
「人間は神の子であるから、害されるものではない。
われ便通によって生きず、神の生命(いのち)によって生くるなり」と
大らかな気持ちになって心から便秘を放つのである。

そして間接的にはもっと根本的には、ゆたかに愛しゆたかに釈(ゆる)す
念(こころ)を起こすことである。いやしくも人を釈(ゆる)さず、
やっつけてやろうというような考えを起してはならないのである。

他(ひと)を傷つける心は自分を傷つけ、
他(ひと)を愛する心は自分を愛することになるのである。

         <感謝合掌 令和4年11月28日 頓首再拝>

赦し - 伝統

2022/12/12 (Mon) 09:47:01


        *Web:かんながら(2022年12月11日)より

奇跡のコースのキーワードの一つが「赦し」

赦しとは、誰かが誰かを許すというのではなく、
究極的には何も起きていないことへの理解であり、
あらゆる記憶の取り消しです。

それが「いまを生きる」という真実に繋がります。


もし注意深く自分を観察すれば、自分が心の中で四六時中、
自分や何かを批判していることに気づくことでしょう。

それが自我です。


したがって記憶を取り消すというのは、
自我を取り消すということでもあります。

それを「赦し」と言います。



今日は一日、何事も批判せずに過ごしてみましょう。


その分だけ世界がほんの少し平和になる(^^)

https://abetoshiro.ti-da.net/e12398884.html

         <感謝合掌 令和4年12月12日 頓首再拝>

怒りのエネルギーを解放する方法 - 伝統

2022/12/14 (Wed) 09:54:03


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2019年11月28日)より

人の感情は様々ありますが、
怒りの感情は大きなエネルギーを持っています。

それが集まると社会を壊してしまうほどに、
実はたいへんな力であり、破壊的なパワーを持っています。

私たちの人生においても怒りを心の中に持ち続けていると、
それは濁流となって流れ、時には私たちの人生を押しつぶしてしまう
事があります。

怒りっぽい人は、たえずマグマが沸騰しているように、
怒りの力がたぎり続けています。

そうすると時に怒りが溶岩のようにあふれ出し、
周りの人をも巻き込むことになります。

会社では怒りっぽい上司であったり、
トップがそうであることもあるでしょう。

家庭ではDVを働く夫であったり、子供を虐待する親であったりします。

このようにおもてに怒りをあらわす者もおれば、
地下のマグマのように、表面からは見えないように
怒りを内面に溜め込む者もいます。

他人に対して、不満や反発があったとしても、
それをおもてに出せない時に、ぐっと我慢して
自身の内に溜め込んでしまうわけです。

言えないつらさや、抑圧された感情がさらに溜め込まれ、
見えなくても地下でぐつぐつと煮え立ってしまいます。

こうした怒りのエネルギーは、解放すれば他人を傷つけてしまいますが、
溜め込んでいても自らを傷つけてしまうものとなってしまいます。

怒りは大きなエネルギーをもって暴れまわり、
いつしか自分も振り回されてしまいます。

自身から発したエネルギーであったのに、
気が付けば怒りのエネルギーに振り回されている自分がいます。

パワフルであるがゆえに、暴れ馬のように制御できずに、
乗り主が振り回されて、落とされてケガもします。

怒りを手放すことは、自分自身を解放する事につながるのです。

怒りのエネルギーに振り回されていた自分を自由にしてあげることです。

怒りのエネルギーを解放するためには、相手を許さなくてはなりません。

相手に対して抱いていた心のわだかまりを手放します。


そのための方法をお伝えします。

相手が目の前にいる事をイメージし、
「あなたを許します」と伝える事です。

あるいは「愛しています」でも「感謝します」でもいいです。

どちらか投げかけやすい方の言葉を伝えます。


今まで様々な事があったでしょう。

裏切られたことや、傷つけられた経験もあるはずです。

そうしたことを過去のものとして手放すため、
相手に心の中で許しを与えるのです。

それは相手のためではなく、自分自身のためなのです。

相手に怒りを向けている間は、いつまでも相手に意識が奪われ、
自由を束縛された状態にいます。

自身を解放するためにも過去のことを手放していく必要があります。

そのように一人づつ思い浮かべていって、許しの儀式を行います。

もちろん許せない気持ちがあって気持ちと裏腹にように
感じられることもあるでしょう。

しかし何度も続けているうちに、だんだんと自分の中にある
わだかまりもいつしか薄らいでいくでしょう。

https://www.spacebrothers.jp/2019/11/blog-post_28.html

・・・

<参照>

怒りの感情を持つことは厳禁です
伊勢ー白山 道(2022-07-27)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/8953c9493f4470ff013e8f981bfb6329

       <感謝合掌 令和4年12月14日 頓首再拝>

《人を赦して眠ること》 - 伝統

2022/12/15 (Thu) 08:04:26


       *「光明法語」(12月15日)より)

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

       <感謝合掌 令和4年12月15日 頓首再拝>

すべての人の罪を赦す - 伝統

2022/12/22 (Thu) 08:04:37


    *「光明道中記」(12月22日《完全解放の日》)より

【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】

本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。

神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。

「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、
すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。

       <感謝合掌 令和4年12月22日 頓首再拝>

すべてを赦し、感謝して眠りに入る - 伝統

2022/12/23 (Fri) 07:55:54


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月23日)より

わたしの『光明の生活法』の本の携帯版が気持ちのよい形で、
そんなどぎつい装飾もなしに、ととえば夜しずかに降りて
万物をうるおしてくれる夜露のように質素な、そして典雅な形で出た。

常にこの書を携帯していちいちその生活法どおり実行する者は幸いである。

この生活法を常に実行している者は常に健康であるに相異ない。

不健康とは、生活が不健康であり、
思いが不健康であることの反映であるに過ぎない。

人間の実相(そのまま)は健康であるからである。

わたしは『光明の生活法』の中で
就寝前の15分間の神想観の方法を説いておいたが、

それを病気の治癒に応用する場合に特に注意すべきことは、
就寝前に、その日、またはそれまでの日において呪っていた人々を
釈(ゆる)し、憤(いきどお)っていた人々を宥(ゆる)し、
憎んでいた人々を恕(ゆる)し、自分の好まない人たち、
反感ある人たちとその過失とをことごとく赦して眠ることである。

眠っている間に最も多くの癒しの神力(自然療能)は進行するのである。

「私はもうあの人を憎んでいない。」
 
あの人があの時ああいう態度に出たことは、
かえってわたしにとって必要なことだったのである。

わたしが彼を憎んでいたのは、わたしの観察眼が狭いために、
あの人がああいう態度に出たことを、
自分に害があるように思って思いちがいしていたにすぎないのである。

本当はあの人がああしてくれたので、わたしの《ため》になったのである。

わたしはあの人に感謝する。何某(なにがし)よ、
わたしはあなたに感謝する。本当に感謝する。
わたしはあなたに感謝し、あなたを祝福するものである。
ありがとうございます。ありがとうございます。

こう、精神を静かに調(ととの)えながら、繰り返し繰り返し念じて、
全き平和の心境に達したとき寝てしまうのである。

一日の最後の時間を赦しと感謝とで満たすこと、
それは健康に重大な関係があるのであるが、健康に関係がなくとも、
それはそのままありがたいことではないか。

寝床(ねどこ)に入(い)れば、
すぐ次のごとく念じて感謝のうちに熟睡に入(い)るべきである ――

「枕よ、ありがとう。寝床(ねどこ)よありがとう。蒲団よ、ありがとう。
 寝巻よ、ありがとう。空気よ、ありがとう・・・」と

なんでも周囲に見出され、思い浮かべられるすべてのものに
感謝の言葉を心のうちに唱えながら眠りに入(い)るのである。

こうすれば不眠症の人でも直ちに熟睡に入(い)ることができるものである。

            <感謝合掌 令和4年12月23日 頓首再拝>

心朗かになる道はすべての人を赦すこと - 伝統

2023/01/30 (Mon) 07:19:31


    *「光明道中記」(1月30日《美点を見る日》)より抜粋

【憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、
 之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

心朗かになる道は、
世の中に悪と云うものが決して存在せぬことを根本に知ることである。

一局部だけを見ずに大局を見る。
短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。

冬のうちに春の兆(きざ)していることを知ることである。
陰極は必ず陽転することを知ることである。

心朗かになる道はすべての人を赦すことである。
憎しみを放ち去ること、憤(いきどお)りを含まぬこと。
すべての人の美点を見ること。

相手の立場に自分を置いて考えること。
気にくわぬことは忘れること。
呟(つぶや)かぬこと。
罵(ののし)らぬこと。

みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。
他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。

       <感謝合掌 令和5年1月30日 頓首再拝>

赦し、仲よく、日の丸の心を持つ - 伝統

2023/02/03 (Fri) 05:00:01


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。
失われた一匹の羊が帰って来ることは、
亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるよりも
嬉しいとイエスは言った。

仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。

争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。

『生命の實相』の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」
とある一句を忘れていて
病気が治らないとかこっている人はないか。

あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神は《まこと》である。《まこと》は円相である。
《まこと》とは《○(まる)こと》である。○(まる)は和解のしるしである。

まんまるい、まんまるい、あのお月様のような心こそすべての病を治す心である。

なんじの心の中の羊をしらべてみることが大切である。
亡(うしな)われたる羊はないか。
あなたを憎んで去った人はなかったか。

誤解があったならば誤解を互いにほどくこと。
憎んでいたならば赦すこと。
恨んでいたならば恨みを解(と)くこと。

心の思いと、物の負債とにかかわらず、借りものがあったら
利息をつけて返すこと。

神の前に出て、もう誰とも仲の悪い人はございません。
争っている人はございません。
すべての憎みと恨みとは完全に水に流しました。

もう誰にも負債はありませんと、
おおらかな気持ちで言いうるようになれない人は、
まだ心に病のある人である。

人の世に生活して、それほどの心になれる人は少ないにしても、
それほどの心になれないかぎりわたしたちは神の前にいと小さなる者である。

もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、
わたしたちは人を責める資格はない、人を怒る資格はない、
人を恨む資格はない。

わたしたちは人を赦すほかに仕方がないのである。

ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。
ただ人と仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることが
できるのである。

仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、
人と仲が悪くなれるものではない。

人が人と仲よしになれないのは、
幸福というものはただ「心の愉快である」ことだという
かくも平明な真理に眼を閉じていて、

幸福というものがなんじの心の愉快にあるのでなく、
物の多いということにあると考えたり、
虚栄、虚名が多いということにあると考えたりして、
物と、虚栄、虚名を断じて放すまいとして傲然として構えているからである。


傲慢ということはかかる心持を云うのである。
謙虚、《へりくだり》の心持は正直に事物をまともに見る心である。
まちがっていたと気づいたら素直にあやまれる心である。

放たねばならぬ物は素直に放つ心である。
本来ありもせぬ栄えとか虚名とかを、
あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
 
無邪気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、
こちらに隔(へだ)て心があるからである。

隔てのない心。角のない心。仲のよい心。
○(まる)い心。○(まる)はいっさいを包んでいる。
隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。

           <感謝合掌 令和5年2月3日 頓首再拝>

すべての家族を赦すこと - 伝統

2023/02/08 (Wed) 10:01:13


      *「光明道中記」(2月8日《家族互いに赦す日》)より

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、
 細君は河豚(ふぐ)のように「ふくれても好い権利」を主張する。
                 (『生命の實相』第四巻)】


審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、
青鬼のようなヒステリックな人、赤鬼のように興奮した人、
こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、
そんな家族の住んでいる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の多い少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合が変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。
赦さないから、筋肉が突張るものを。
赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。
癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」
とキリストは言っている。
心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、
その家庭は屹度面白くないであろう。
柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

           <感謝合掌 令和5年2月8日 頓首再拝>

人の罪をゆるせ - 伝統

2023/03/23 (Thu) 05:07:04


           *「光明法語」(3月23日)より

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って
人の病気を治しているのである。

そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、イエスは

「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、
 汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)

と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)
そのものの實相の隠蔽(包み ―― 罪)であるから、
人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

            <感謝合掌 令和5年3月23日 頓首再拝>

《一度憤った相手は思い出してゆるせ》 - 伝統

2023/05/27 (Sat) 09:57:21


         *「光明法語」(5月27日)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。

それは自分の家はもうすっかり不浄のものを洗ってしまって
洗濯物はないと信じていても、押入の隅っこに「汚れ物」をつくねて
忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、
一々その顔を眼瞼(まぶた)の内に思い浮かべ、

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」

と心の中に唱えるのである。

         <感謝合掌 令和5年5月27日 頓首再拝>

《相手の幸福を祈ること》 - 伝統

2023/05/29 (Mon) 10:12:06


         *「光明法語」(5月29日)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

         <感謝合掌 令和5年5月29日 頓首再拝>

懺悔によって赦されよ - 伝統

2023/07/14 (Fri) 06:52:01


       *「光明法語」(7月14日)より

「赦された」と云う実感は、
神と自分とを隔てていた堤を取り去る事になり、
其処からして神の癒力が流れ入るのである。

キリストの「汝の罪はゆるされたり」の言葉が、
よく難治の病者をいやしたのも此の理によるのである。

悪は悪と気がついたとき、その罪は消えたのである。
何故なら、悪が悪と気がつくとき、
もう自分は上の境涯に立って過去の自分を見ているからである。

かかるとき、キリストは言った。

「汝の罪ゆるされたり、去って再び罪を犯す勿れ」。

         <感謝合掌 令和5年7月14日 頓首再拝>

許しの力があなたの人生に奇跡を起こす - 伝統

2023/07/23 (Sun) 08:32:16


      *Web:宇宙の兄弟たちへ(2022年7月22日)より

あなたは誰かに深く傷つけられたり、
裏切られる体験をしたことはないでしょうか?

友達から酷い言葉を投げかけられたり、
親友と思っていた子から、影で悪口を言われていたり、
学校でクラスの子からいじめを受けたり、
愛する人が別な恋人がいたなど、裏切られたり、
何かしら傷つけられた過去をお持ちではないかと思います。

そのように、あなたの事を傷つけたり、裏切った相手の事を、
いまだに許せていない事は無いでしょうか?

いまだに過去の事を思い出しては、相手に恨みに思ったり、
許せないと気持ちがたかぶったりしていないでしょうか?

いつまでも許せずにいると、
あなた自身が不幸を引きずって、いつまでも苦しめてしまいます。

過去の相手のしたことのために、
今のあなた自身が苦しまなくてはならない道理はありません。

それはあなたにとってとても損な事なのです。

では、過去の傷を癒し、
不幸を引きずるのを辞めるにはどうしたらいいでしょうか?

それは”許す”ことです。

心の中で、過去の出来事について、もう許しを与えます。

その出来事について「私はもう許します」と宣言するのです。

でも、きっと「私を傷つけた相手を許すなんてできない」と、
あなたのエゴが反発してくるかもしれません。

いろんな理由を付けて、やはり許せないと思わせてしまいます。

しかし、いつまでも許せずにいると、
あなた自身がいつまでも苦しむことになるのです。

許すことで過去の出来事から私たちは自由になります。

心が過去に捕らわれていては、
いつまでも私たちは自由になりません。

許しの力を使う事で、
私たちは重苦しい牢獄から抜け出し、青空の元に出られるのです。

許した時に、世界の本当の姿がわかります。

本当の私たちは、この世界に生まれて、愛を学ぶために、
様々な体験を積んでいたことが分かるからです。

私たちは愛を体験するために、この地球に生まれてきました。

許しの力は、それをひも解く強力なツールになります。

許しの力は、あなたの人生を変えていく、奇跡の力を宿しています。

もしも自分の人生を劇的に変えていきたいと願うなら、
許しの力を使ってください。

すべてを許すことで、あなたの人生は生まれ変わります。

そして相手を許せないという思いは、
自分自身を許せないという思いに通じます。

他人を許せないという思いは、あなた自身を許せなくするのです。

イエス様の言葉にも
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」
というものがあります

これはあなたが他人を許せず、裁いている時には、
あなた自身がその秤によって裁かれてしまう事を示しています。

他人を許せない人は、自分をも許せないのです。

私たちは他人を許すことで、自分も許されるのです。

他人を許せない人は、その人も許されることがありません。

自分の過去の出来事をすべて許すことで
、自分に貼っていた罪人のレッテルも剥がれ、
許される道に入るのです・

https://www.spacebrothers.jp/2022/07/blog-post_22.html

            <感謝合掌 令和5年7月23日 頓首再拝>

《自分自身の欠点を許す》 - 伝統

2023/09/01 (Fri) 13:00:41


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月1日)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。

          <感謝合掌 令和5年9月1日 頓首再拝>

《他人を責めることなかれ》 - 伝統

2023/09/02 (Sat) 11:46:12


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月2日)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと
責める想念を起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは

「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
 ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」

と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。

なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが
心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり
「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)
何者かがあらわれて来るのである。

           <感謝合掌 令和5年9月2日 頓首再拝>

ゆるせたら平安が生まれる - 伝統

2023/09/06 (Wed) 11:48:12


         *メルマガ「心の糧」(2023.9.6)より

「怒り」とは言えないかもしれませんが、

人から何かされて「イラッ」とするのは、誰でもあることですね。


「イラッ」は一時的なものですが、続くと「イライラ」になってきます。

「イライラ」をそのままため込むと、だんだん「怒り」に……。

心の根底に「怒り」があると、落ち着かず、ハッピーな気持ちにはなれません。


では、どうしたら良いでしょうか?


   ★人の愚かさをゆるせたら平安が生まれる
    https://lucky.t-nakai.work/2023/01/21/kiji-47/

           <感謝合掌 令和5年9月6日 頓首再拝>

絶対的なゆるし - 伝統

2023/10/22 (Sun) 09:29:37

【絶対的なゆるし】
プレアデス高等評議会のタラ・ニー
Heaven ch(2023/10/21)
https://www.youtube.com/watch?v=jbE00-xnWE0

・・・

<参照>

許すことであなたは自由になれる
Web:宇宙の兄弟たちへ(2023年7月21日)より
https://www.spacebrothers.jp/2023/07/blog-post_21.html


伊勢ー白山 道(2022-07-02)
他人との交友に関しての視点話
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/c78a60847332027376ae7422c7f3810a

           <感謝合掌 令和5年10月22日 頓首再拝>

宝塚歌劇団の闇!悲劇の真相と恨みのカルマ - 伝統

2023/11/19 (Sun) 10:07:50

宝塚歌劇団の闇!悲劇の真相と恨みのカルマ!伝説のユタが緊急霊視!
奇跡の琉球ユタ (2023/11/17)
https://www.youtube.com/watch?v=kvUbnc7K1zU

           <感謝合掌 令和5年11月19日 頓首再拝>

すべての者をゆるせ - 伝統

2023/11/20 (Mon) 09:08:04


       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。

           <感謝合掌 令和5年11月20日 頓首再拝>

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