伝統板・第二

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神の国を求めよ② - 伝統

2021/01/09 (Sat) 04:38:09

       *伝統板・第二「神の国を求めよ」からの継続です。
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力を内に見出す

           *「光明道中記」(1月9日《無字透関の日》)より

【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】

靖国神社法に就いて。
戦後、占領軍の指示によって靖国神社を宗教の中に入れてしまったが、
靖国神社は宗教ではないのである。

国のために生命を献(ささ)げた勇士の生命を、謝恩のために
国が祭祀するのは報恩感謝の道徳であって、道徳は宗教ではないのである。

宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。

「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。

人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、
肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の面があるから、
そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。

併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、
皮膚を剥ぎ、肉を切り、骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと
穿(うが)って往っても其処からは何の力も湧き出でては来ないのである。

所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。
それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。
「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。

            <感謝合掌 令和3年1月9日 頓首再拝>

あなたの内に一切がある - 伝統

2021/01/25 (Mon) 02:51:37

       *「希望を叶える365章」(P40)より

今、此処に自分のうちに神が在(ましま)すのである。

神は無限の善であり、無限の愛であり、
無限の智慧であり、無限の供給であるから、
今・此処に無限の善が無限の祥福が自分の内にあるのである。

キリストは「神の国は汝の内に在り」と教えている。

まことにも、あなたの内に一切があるのである。

それなのに外にそれらのものがあると思って、
自分の内を磨くことをしないで、
外にそれを掴もうとするところに間違いがある。

それは恰(あたか)も映画のスクリーンに向かって、
スクリーンにある映像をつかもうと思って
跳びついて行くようなものである。

映画面上の画像は、それ以前に作られたフィルム上の画像であるように、
現象界の事物は、それ以前に作られてある「心の姿」の投映でしかない
のである。

あなたが自己の本性の完全さを自覚すればする程、
現象界にはその完全さを実現するために
自然的順序ある動きが現れて来るのである。

            <感謝合掌 令和3年1月25日 頓首再拝>

神に波長を合わせるのは人間の役目 - 伝統

2021/02/24 (Wed) 04:05:23


           *「光明法語」(2月24日)より
              ~《心の波長を合わせるのは人間の役目》

「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。その余のものは汝等に加えらるべし」
とイエスは言った。
このことは何時までたっても真実である。

世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。

実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。

自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。

            <感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝>

《幸福の国を実現するには》 - 伝統

2021/03/08 (Mon) 03:15:04


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P13~14)より

「神の国は汝の内にあり」と古聖は言われたが、
「汝の内にある神の国」とは自分の内にある
「意識の国」のことである。

その主権を持って意識の国を支配する者は、
「内在の神の子」又は「内在の仏性」である。

そしてその「意識の国」の人民は、
吾々の考える「想念」、
吾々の語る「言葉」、
吾々の実践する「行い」である。

先ず貴方の人生に、幸福を来(きた)らしめようと思うならば、
あなたはあなたの人民たる「想念」に命じて、
善き事をのみ想わしめなければならないし、

あなたの人民たる「言葉」に命じて、善き言葉を語らしめ、
あなたの人民たる「行為」に命じて、悪しき習慣を
断じて捨てしめなければならないのである。

例えば、健康を求むれば
健康を思い、健康を語り、健康者の如く行ずるのである。

            <感謝合掌 令和3年3月8日 頓首再拝>

わが内に宿る神 - 伝統

2021/03/22 (Mon) 03:27:13


           *「光明法語」(3月22日)より

『マタイ伝』第六章六には

『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』

とイエスが教えている。

必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。

『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。

神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。

わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。

            <感謝合掌 令和3年3月22日 頓首再拝>

神を愛し、隣人を愛することが、神の国に入る鍵 - 伝統

2021/03/26 (Fri) 02:14:42


       *「光明法語」(3月26日《神と波長を合わすには》)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスの言った如く、
わが祈りの密室は《自己の内》にあるのである。

この至聖所(しせいしょ)に吾々が入るならば、
どれだけでも無尽蔵の豊富な生命、智慧、愛の供給があるのである。

しかしこの至聖所に入るにはすべての憎み、怒り、恨み、呪い、悲しみ、悩みの
非存在(ニセモノ)を排除(とりのぞ)かなければならないのである。

そして先ず神を愛することである。
隣人を愛することである。

愛なくして、欲ばっていて、自分の祈りが神に通じないと言っても、
波長が合わぬから仕方がない。

            <感謝合掌 令和3年3月26日 頓首再拝>

物質に捉われる勿れ、神の国は汝の内にあり - 伝統

2021/04/06 (Tue) 04:18:00


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

K氏は高血圧症にかかって常に頭に眩暈(めまい)を感じ、
少し歩行すれば心臓の鼓動激しく、
狭心症を起こして倒れてしまいそうになるのであった。

ところが道場へ通ってわたしの話を聴き、
『生命の實相』を読んでいるうちに高血圧症に伴う諸々の症候が消えてしまった。

ところが、支那事変前、日本の経済界が準戦時体制になってきて、
軍需工業会社が殷賑(いんしん)の兆(きざし)が見え、
軍需株の高騰する前途の見透しが、火を見るように明らかとなった。

これは神が示し給うのであると信じ、
K氏はその貯財の大半を割いて軍需会社の株式を買うべく
知人に託して現株の購入料として7千円を委託したのであった。

ところがいつまで経っても現株(げんかぶ)が来ないのである。
知人に催促してみると、現株の来ないのも無理はない。

その知人は預かった7千円を証拠金として、K氏の名前で定期相場に手を出して
その7千円を磨(す)ってしまったあげく、まだ3千円位も足が出て、
その損失もK氏が背負わなければならなくなっているのであった。

K氏は仕方がないと観念してみたが、
貯財の大半を一朝にして失ったことはK氏にとって大きな精神的打撃を与えた。

それに執着してなんとか取り戻す方法はないかと、
心をそれに縛りつけているかぎりにおいて、
肉体もともに傷(いた)んで数夜は安眠もとれなかった。

せっかく治っていた高血圧症もまた再発したらしく
蟀谷(こめかみ)の血管が怒張して、頭脳が朦朧となり、眩暈が始まって、
またいつ倒れるかわからないような状態になってきた。


約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない「金(かね)」という
えたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、
身体(からだ)がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ ―― と、
K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、心は物質に捉えられたとき
直ちに地獄へ顛落するものであることがK氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。

爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、
人を救う人数は日に殖え、人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる
歓喜の情は、まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」

と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 令和3年4月6日 頓首再拝>

神の真創造になる実相の国土 - 伝統

2021/04/18 (Sun) 04:59:31


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P78~79)より

「神の国」――すなわち神の真創造になる実相の国土――は
決して心の妄念をもって「《ある》」と思えば《ある》、
「《無い》」と思えば《無い》というような
不確実なものではないのであります。

われわれが妄念で「ある」と思っても「無い」と思っても、
そんなことで生滅増減しないのが、実相の浄土(実相の世界)であります。

ところが現象世界の事物は「ある」と思えばあり、
「無し」と思えば消える。

例せば病気でも「あり」と思えば生じ、「無し」と思えば消える。
また貧乏でも「人間本来貧窮す」と思えば貧乏を生じ、
「人間本来貧窮なし」と信ずれば貧乏がなくなる。

こんなことは『生長の家』誌友多数の体験されているところであります。

このように現象世界の事物は念に従って生滅増減し、
自分の念をもって賦彩(いろづ)けし投影した状態を見るのでありまして、

『法華経』にあるように、現象世界が
「焼け尽きて憂怖諸々の苦悩ことごとく充満せり」と見える時にも、
常楽の実相世界は毀(こわ)れているのではないのであります。

常楽の実相世界が全部完全に儼存(げんぞん)するのに、
その一部として苦悩充満する現象世界が存在するというはずはありません。

本当は苦悩充満せる現象世界は無い。
物質世界は《無い》のであります。

では苦悩充満せる現象世界は、常楽の実相世界から
全然かけ隔れた夢幻であるかというと、そうではない。

実相世界の表面の妄念の半透明膜を通して
《賦彩(いろど)けせられて見えている》のが現象世界なのであります。

《実際は実相世界のみの独一唯一存在であり》、現象世界とはそれが、
本来相(そのままのすがた=ほんらいそう)ではなく、
半透明の妄念のレンズを透して現象(みえている)世界であります。

「覗(のぞ)き眼鏡(めがね)」のレンズに従って見えるところの現象世界は、
いろいろに変わって憂怖悲喜(うふひき)こもごもの姿に見えますけれども、
現象人間は消えても消えなくとも、常楽の実相世界は少しも壊えせず、
滅せず、儼然として存在し、われらはこの身のままでも今も現実に、
その実相世界内に生活しているのでありまして、

現象世界が実相世界の一区画に存在し、肉体の死後になって
実相世界に移転するのではないのであります。

            <感謝合掌 令和3年4月18日 頓首再拝>

神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ - 伝統

2021/06/04 (Fri) 04:39:33


《幸福は外の世界に求めるな》

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月3日)より

吾々は誰も幸福を求める。
然し乍(なが)ら大抵は外の世界にそれを求め、
外の手段方法をとつおいつ心配して心を労するのである。

併しそれは拙劣(せつれつ)なる求め方である。

労して誰も幸福になれるのであったら、
「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺その儘に
誰も彼も幸福に豊かに富める筈であるが、

事実は
「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)
 楽にならざりじっと手を見る」
という石川啄木の歌のように、いくら人間力で労して見ても
幸福になり切れない場合が多いのである。

ここに反省しなければならぬものがある。

心の方向を転換しなければならぬ。

・・・

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。
「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、
 其の余のものは汝らに加えらるべし」
とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、
其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。
神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、
根のない枝葉は枯れるほかはないので、
神の方へ振り向かない働きは、
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

        <感謝合掌 令和3年6月4日 頓首再拝>

天国は汝の内にあり - 伝統

2021/06/27 (Sun) 04:50:14


       *「光明法語」(6月27日)より

自己即今、天国なり。

自己のうちに天国を見出し得ない者は
何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 令和3年6月27日 頓首再拝>

《ただ神の義(ただ)しきのみを求めよ》 - 伝統

2021/07/18 (Sun) 04:57:32


          *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P371~372)より

精神統一をして求むる事物をハッキリ心に描けば、
それは現象界に実現する。

併(しか)し、神の義(ぎ)と云う事は「実相の秩序に於いて」
と云うことであるから、あなた自身に属しないものを
幾ら求めても与えられはしないのである。

この事(こと)は極めて大切である。

藤の樹(き)に桜の花を咲かせ給えと祈ったり、
梅の樹(き)に牡丹の花を開かせ給えと祈っても
無駄であると同様である。

尤(もっと)も、吾々が精神統一力を修養練磨して、
実相の秩序に於いては自己に属しないものでも、
「我れ既にこれを得たり」と強力に念ずれば
それが実現することもあるが、

それは神即ち「全(ぜん)」の力に支持されていないで、
自分の我(が)と云う「個」の力に支持されているのみであるから、
やがて「全(ぜん)」の力が働いて彼に本来属しない物は
速やかに消え去るのである。

        <感謝合掌 令和3年7月18日 頓首再拝>

「神の国は爾の内にあり」 - 伝統

2021/08/01 (Sun) 04:37:22


   *「光明道中記」(8月1日《神想観に心浄まる日》)より

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
                      (生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。

しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを
「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」とあらわしているのである。
「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、
吾々の超空間的な「心」の中に空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに
此の超空間的な存在であるところの「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

       <感謝合掌 令和3年8月1日 頓首再拝>

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》 - 伝統

2022/06/04 (Sat) 07:11:09


    *『光明法語』(6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。

「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、
 其の余のものは汝らに加えらるべし」

とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、
其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。

神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、
根のない枝葉は枯れるほかはないので、

神の方へ振り向かない働きは、
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

        <感謝合掌 令和4年6月4日 頓首再拝>

与えられたる恩恵に目覚めるとき、 天国は今此処にある - 伝統

2022/06/24 (Fri) 07:18:32


       *「光明法語」(6月24日《今此処が天国》)より

誰にでも自己の天国があるのである。

自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受し
これを生かし働かすとき、其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき
天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 令和4年6月24日 頓首再拝>

天国は汝の内にあり - 伝統

2022/06/27 (Mon) 07:32:21


       *「光明法語」(6月27日)より

自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 令和4年6月27日 頓首再拝>

《心の波長を合わせるのは人間の役目》 - 伝統

2023/02/24 (Fri) 10:58:22


           *「光明法語」(2月24日)より

「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。
 その余のものは汝等に加えらるべし」とイエスは言った。

このことは何時までたっても真実である。

世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。

実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。

自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。

           <感謝合掌 令和5年2月24日 頓首再拝>

神と波長を合わすには - 伝統

2023/03/26 (Sun) 05:03:55


           *「光明法語」(3月26日)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスの言った如く、
わが祈りの密室は《自己の内》にあるのである。

この至聖所(しせいしょ)に吾々が入るならば、
どれだけでも無尽蔵の豊富な生命、智慧、愛の供給があるのである。

しかしこの至聖所に入るにはすべての憎み、怒り、恨み、呪い、悲しみ、悩みの
非存在(ニセモノ)を排除(とりのぞ)かなければならないのである。

そして先ず神を愛することである。
隣人を愛することである。

愛なくして、欲ばっていて、自分の祈りが神に通じないと言っても、
波長が合わぬから仕方がない。

           <感謝合掌 令和5年3月26日 頓首再拝>

物質に捉われる勿れ、神の国は汝の内にあり - 伝統

2023/04/06 (Thu) 05:01:45


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

K氏は高血圧症にかかって常に頭に眩暈(めまい)を感じ、
少し歩行すれば心臓の鼓動激しく、
狭心症を起こして倒れてしまいそうになるのであった。

ところが道場へ通ってわたしの話を聴き、
『生命の實相』を読んでいるうちに高血圧症に伴う諸々の症候が消えてしまった。

ところが、支那事変前、日本の経済界が準戦時体制になってきて、
軍需工業会社が殷賑(いんしん)の兆(きざし)が見え、
軍需株の高騰する前途の見透しが、火を見るように明らかとなった。

これは神が示し給うのであると信じ、
K氏はその貯財の大半を割いて軍需会社の株式を買うべく
知人に託して現株の購入料として7千円を委託したのであった。

ところがいつまで経っても現株(げんかぶ)が来ないのである。
知人に催促してみると、現株の来ないのも無理はない。

その知人は預かった7千円を証拠金として、K氏の名前で定期相場に手を出して
その7千円を磨(す)ってしまったあげく、まだ3千円位も足が出て、
その損失もK氏が背負わなければならなくなっているのであった。

K氏は仕方がないと観念してみたが、
貯財の大半を一朝にして失ったことはK氏にとって大きな精神的打撃を与えた。

それに執着してなんとか取り戻す方法はないかと、
心をそれに縛りつけているかぎりにおいて、
肉体もともに傷(いた)んで数夜は安眠もとれなかった。

せっかく治っていた高血圧症もまた再発したらしく
蟀谷(こめかみ)の血管が怒張して、頭脳が朦朧となり、眩暈が始まって、
またいつ倒れるかわからないような状態になってきた。


約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない「金(かね)」という
えたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、
身体(からだ)がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ ―― と、
K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、心は物質に捉えられたとき
直ちに地獄へ顛落するものであることがK氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。

爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、
人を救う人数は日に殖え、人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる
歓喜の情は、まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」

と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 令和5年4月6日 頓首再拝>

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》 - 伝統

2023/06/04 (Sun) 12:51:42


         *『光明法語』(6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。

「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、
 其の余のものは汝らに加えらるべし」

とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、
其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。

神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、
根のない枝葉は枯れるほかはないので、
神の方へ振り向かない働きは、

「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

            <感謝合掌 令和5年6月4日 頓首再拝>

天国は汝の内にあり - 伝統

2023/06/27 (Tue) 05:05:25


       *「光明法語」(6月27日)より

自己即今、天国なり。

自己のうちに天国を見出し得ない者は
何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、
地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、
貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、
又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。
その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 令和5年6月27日 頓首再拝>

今(いま)茲(ここ)にある天国を知れ! - 伝統

2023/06/29 (Thu) 05:03:29


    *「光明道中記」(6月29日《天国成就の日》)より

【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】

「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。

《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。

おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。

そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。

既に成就せる世界を知って、
それを現象世界に実現するのが、吾々の正しい生活である。
証上(しょうじょう)の修(しゅう)である。

既に成就せる世界を知るが故に退転することがないのである。
既に健康なる自分を知って、その如く行ずるのである。

多くの病者は《これから》健康になろうとして、健康法を励行するが、
思うように効果が挙がらないのは、《これから》と思っているからである。

既に《今》健康なのである。
肉体は自分ではない。自分の殻(から)である。

殻何するものぞ。
捨て切れ、捨て切れ、捨て切ったとき永遠の生命と、
今(いま)茲(ここ)にある天国を知ることが出来るのである。

        <感謝合掌 令和5年6月29日 頓首再拝>

神に波長を合わせるのは人間の役目 - 伝統

2024/02/24 (Sat) 13:09:35


           *「光明法語」(2月24日)より
              ~《心の波長を合わせるのは人間の役目》

「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。その余のものは汝等に加えらるべし」
とイエスは言った。
このことは何時までたっても真実である。

世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。

実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。

自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。

            <感謝合掌 令和6年2月24日 頓首再拝>

わが内に宿る神 - 伝統

2024/03/22 (Fri) 08:40:47


           *「光明法語」(3月22日)より

『マタイ伝』第六章六には

『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
 隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』

とイエスが教えている。

必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。

『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。

神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。

わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月22日 頓首再拝>

物質に捉われる勿れ、神の国は汝の内にあり - 伝統

2024/04/06 (Sat) 10:13:00


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

K氏は高血圧症にかかって常に頭に眩暈(めまい)を感じ、
少し歩行すれば心臓の鼓動激しく、
狭心症を起こして倒れてしまいそうになるのであった。

ところが道場へ通ってわたしの話を聴き、
『生命の實相』を読んでいるうちに高血圧症に伴う諸々の症候が消えてしまった。

ところが、支那事変前、日本の経済界が準戦時体制になってきて、
軍需工業会社が殷賑(いんしん)の兆(きざし)が見え、
軍需株の高騰する前途の見透しが、火を見るように明らかとなった。

これは神が示し給うのであると信じ、
K氏はその貯財の大半を割いて軍需会社の株式を買うべく
知人に託して現株の購入料として7千円を委託したのであった。

ところがいつまで経っても現株(げんかぶ)が来ないのである。
知人に催促してみると、現株の来ないのも無理はない。

その知人は預かった7千円を証拠金として、K氏の名前で定期相場に手を出して
その7千円を磨(す)ってしまったあげく、まだ3千円位も足が出て、
その損失もK氏が背負わなければならなくなっているのであった。

K氏は仕方がないと観念してみたが、
貯財の大半を一朝にして失ったことはK氏にとって大きな精神的打撃を与えた。

それに執着してなんとか取り戻す方法はないかと、
心をそれに縛りつけているかぎりにおいて、
肉体もともに傷(いた)んで数夜は安眠もとれなかった。

せっかく治っていた高血圧症もまた再発したらしく
蟀谷(こめかみ)の血管が怒張して、頭脳が朦朧となり、眩暈が始まって、
またいつ倒れるかわからないような状態になってきた。


約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない「金(かね)」という
えたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、
身体(からだ)がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ ―― と、
K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、心は物質に捉えられたとき
直ちに地獄へ顛落するものであることがK氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。

爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、
人を救う人数は日に殖え、人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる
歓喜の情は、まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」

と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 令和6年4月6日 頓首再拝>

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