伝統板・第二

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”善”のみ実在する③ - 伝統

2020/08/07 (Fri) 05:04:05

善のみを視る

   *「光明道中記」(8月7日《善のみを視(み)る日》)より
         
 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。如何なる不快なる
相(すがた)をもってあらわれようとも、その不快なる相は、現在又は過去に於て
自分のどこかに潜(ひそ)んでいた不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「”善”のみ実在する①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6495764

(2)伝統板・第二「”善”のみ実在する②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6932920

           <感謝合掌 令和2年8月7日 頓首再拝>

《ただ善事のみ数えよ》 - 伝統

2020/11/15 (Sun) 04:51:53


        *『 生長の家 』(昭和26年7月14日)より

   人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。
   小さな過ちを廓大(かくだい)鏡で見て
   増大するような事を避けよ。

   善事はどんな小さな事でも これを廓大(かくだい)して見、
   そしてそれを賞(ほ)め語れ。

   さらば他の人々も諸君の過ちを見のがし、
   諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

   それが心の法則である。

   他人に辛(つら)くするときは 自分も 亦 辛くせられ、
   他人に寛大である者は 自分も亦(また)寛大に取扱われるのである。

   人が自分に対して冷酷だと思う者よ。
   他を怨(うら)むまでに、自分が他に対して
   冷酷でなかったかを反省して見よ。

   そして今まで批難していた人々を赦(ゆる)せよ。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3c09a72ecfeb3c3ee15ff5f39ad5c544

           <感謝合掌 令和2年11月15日 頓首再拝>

唯(ただ)“ 善なる神のみ ” が実在である - 伝統

2020/12/28 (Mon) 05:00:42


      *『 唯神実相の世界を説く 』(P11)より 

生長の家の教えは、唯心論と唯物論を並べると、
唯心論の中に包括されるようではありますけれども、

精(くわ)しく言うと、体験談の中にも出たようですが、
唯神実相論というところの哲学であります。

唯神とは、“ 唯(ただ)、神のみ ”
 ―― 唯、神のみが実在であるということであります。


神の造り給うた完全な存在のみが実在であって、
悪は本来ないのである
 ―― というところの根本的な、善なる神の存在を信ずる、
この根本信念から全てのものは出て来ているのであります。

 (http://meikyou123.livedoor.blog/archives/2013-09.html

           <感謝合掌 令和2年12月28日 頓首再拝>

吾々の生命の本性が善なのである - 伝統

2021/01/28 (Thu) 02:22:28


     *「光明道中記」(1月28日《一切人間を礼拝する日》)より

【既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、
             自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。
若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、
それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。
生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、
善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

          <感謝合掌 令和3年1月28日 頓首再拝>

絶対善を悟る日 - 伝統

2021/01/31 (Sun) 02:34:27


           *「光明道中記」(1月31日)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。
                          (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、
五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに
過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

        <感謝合掌 令和3年1月31日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2021/02/17 (Wed) 02:03:36


           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

        <感謝合掌 令和3年2月17日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2021/02/24 (Wed) 03:42:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、
自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。
三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善いものばかりである - 伝統

2021/04/14 (Wed) 03:45:36


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

            <感謝合掌 令和3年4月14日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2021/05/20 (Thu) 06:58:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

           <感謝合掌 令和3年5月20日 頓首再拝>

唯一の「善」は神のみである - 伝統

2021/06/09 (Wed) 06:59:01


        *『生命の實相』第13巻倫理篇上(P67~69)より

倫理の基礎として「人格の自由」ということが確立せられましたら、
ついでその自由の主体たる人格が何をなすか、
人として善であるか悪であるかの問題に移らねばならない
順序となるのであります。

われわれは子供の時から善と悪との区別を教えられているので、
善とはなんぞや、悪とはなんぞやということは誰でも知っているはず
でありますが、

さて、ひとかどの成人に対って
「人のある心または行為が善と認められる要素はなんであるか、
 またそれが悪と認められる要素はなんであるか」と尋ねますと、
ちょっと返事に困るでありましょう。

では「善とは何?」「悪とは何?」
これを生長の家の倫理学で解説しますとなんでもないのであります。

「生長の家」で申しますと、
善というものは固定した「律」ではないのであります。

善の確立する根本原理は、

唯一の善は神のみである。

ということであります。

「善(グッド)」は「神(ゴッド)」の別名なのであります。

「神(かみ)」のいます処、そこに、「善(ぜん)」があり、
「神(かみ)」いまさない処、そこに「善(ぜん)」がない
ということになるのであります。

「生長の家」で申しますところの神とは、
すべてのものの創造主(つくりぬし<そうぞうしゅ>)であります。
言い換えれば、神が現われてすべてのものとなったのであります。

だからすべてのものは、神において一体なのであります。

すなわち「創造(せいちょう)の宇宙(いえ)」においては
神はその御親(みおや)でありすべてのものは、
その御親(みおや)より出(い)でたる御子(みこ)であります。

すべてのものは、御親(みおや)生命(せいめい)の分化でありまして、
神において一体なのであります。

自(じ)と他(た)と、我(われ)と彼(かれ)と、心と物と
相離れているように見えますけれども、実は相離れているのではない、
本来、自他一体なのであります。

           <感謝合掌 令和3年6月9日 頓首再拝>

制限を祓い、善が満ちていると観る - 伝統

2021/08/09 (Mon) 04:56:24


   *「光明道中記」(8月9日《迷い消ゆる日》)より


【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。
                  (『生命の實相』第十巻)】
 
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。

心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを
「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。

だから不幸や災厄を吾々の眼に視える世界から駆逐するには、
ただ心の眼を開けば好いのである。

では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。

しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの
制限の感じを取り去ることである。

そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。

例えば次の如く ──

   自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
   自分の眼(まなこ)のとどく限り、
   自分の影響される限りの、

   すべての虚空にはただ神のみが
   幸福のみが善のみが満ちている。

       <感謝合掌 令和3年8月9日 頓首再拝>

吾々の生命の本性が善である - 伝統

2022/01/28 (Fri) 04:46:55


    *「光明道中記」(1月28日《一切人間を礼拝する日》)より

【既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、
            自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。
若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。
生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、
善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

          <感謝合掌 令和4年1月28日 頓首再拝>

《常に善念を把持すべし》 - 伝統

2022/01/31 (Mon) 04:49:40


        *「光明法語」(1月31日)より

神は人間に完全なる自由を与えたのである。
幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも
諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。
すべての悪を否定せよ。
善のみ汝の心を集中せよ。

善のみ来(きた)るであろう。

          <感謝合掌 令和4年1月31日 頓首再拝>

絶対善を悟る - 伝統

2022/02/01 (Tue) 04:53:20


      *「光明道中記」(1月31日《絶対善を悟る日》)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。
                          (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、
五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに
過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

        <感謝合掌 令和4年2月1日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2022/02/17 (Thu) 04:51:22


           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

        <感謝合掌 令和4年2月17日 頓首再拝>

善とはなんぞや - 伝統

2022/02/19 (Sat) 03:37:05


       *「光明道中記」(2月19日《無礙無縛の日》)より 

【善にでも引っかると悪になる。心が停滞すると心の影として
 血液循環が一箇所に停滞し病気を引起す。(『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、
古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。

そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき
多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

        <感謝合掌 令和4年2月19日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2022/02/24 (Thu) 04:52:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。
三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 令和4年2月24日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善いものばかりである - 伝統

2022/04/14 (Thu) 07:21:58


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

            <感謝合掌 令和4年4月14日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2022/05/20 (Fri) 07:09:40


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

           <感謝合掌 令和4年5月20日 頓首再拝>

世界及び人間の本質はそれ自身「善」である - 伝統

2022/08/06 (Sat) 10:34:55


   *「光明道中記」(8月6日《娑婆即寂光土と悟る日》)より

【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】

「世界に非道が充ちていると云うことは、歴史と同じように
 それよりも更に古い文学さえも同じように、否あらゆる文学中の
 最も古きものなる祭司の宗教と同じように古い嘆きである」

とカントは言っている。

けれども生長の家は、
世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。

それは存在するものは「道」ばかりであるから、
それが少なくとも存在する限りはそれは「善」であり、

それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように
見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」を
あらわしているに過ぎないとするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも

「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から
 身体(しんたい)が健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、
 人間をその本性上から精神的にも健全にして善なりと
 見做してはならない理由はない」

と言っている。

すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。
釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、
「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。

       <感謝合掌 令和4年8月6日 頓首再拝>

善のみを視る - 伝統

2022/08/07 (Sun) 11:46:04


   *「光明道中記」(8月7日《善のみを視(み)る日》)より
         
 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。如何なる不快なる
相(すがた)をもってあらわれようとも、その不快なる相は、現在又は過去に於て
自分のどこかに潜(ひそ)んでいた不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

       <感謝合掌 令和4年8月7日 頓首再拝>

吾々の生命の本性が善なのである - 伝統

2023/01/28 (Sat) 07:06:34


   *「光明道中記」(1月28日《一切人間を礼拝する日》)より

【既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、
           自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。

若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、
それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって
病気が治った実例は沢山ある。

生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては
善を為すように勧められ、善を為さんと決心し、
抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病
気が不思議に治るのである。

          <感謝合掌 令和5年1月28日 頓首再拝>

常に、善念を送る - 伝統

2023/01/31 (Tue) 07:43:25


     *「光明道中記」(1月31日《絶対善を悟る日》)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。
                        (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのは
それは五官が見るのであり、五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって
真相が歪められたる相(すがた)を見るに過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、
屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

        <感謝合掌 令和5年1月31日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2023/02/17 (Fri) 05:02:18


           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

         <感謝合掌 令和5年2月17日 頓首再拝>

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である - 伝統

2023/02/19 (Sun) 05:01:59


       *「光明道中記」(2月19日《無礙無縛の日》)より 

【善にでも引っかると悪になる。
 心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。         (『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、
古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき
多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。

斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと
「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、
 生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

         <感謝合掌 令和5年2月19日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2023/02/24 (Fri) 10:54:29


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、
自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。

三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は
欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

        <感謝合掌 令和5年2月24日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善いものばかりである - 伝統

2023/04/14 (Fri) 05:06:34


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。

悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。

わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

         <感謝合掌 令和5年4月14日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2023/05/20 (Sat) 07:37:39


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

       <感謝合掌 令和5年5月20日 頓首再拝>

絶対善を悟る日 - 伝統

2024/01/31 (Wed) 10:29:34


           *「光明道中記」(1月31日)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、
 既に善いとの想念は相手をよくする。 (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのは
それは五官が見るのであり、五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって
真相が歪められたる相(すがた)を見るに過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、
屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

        <感謝合掌 令和6年1月31日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2024/02/17 (Sat) 09:51:56


           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

            <感謝合掌 令和6年2月17日 頓首再拝>

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である - 伝統

2024/02/19 (Mon) 11:13:54


       *「光明道中記」(2月19日《無礙無縛の日》)より 

【善にでも引っかると悪になる。
 心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。         (『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、
古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき
多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。

斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと
「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、
 生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

         <感謝合掌 令和6年2月19日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2024/02/24 (Sat) 13:06:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 令和6年2月24日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善いものばかりである - 伝統

2024/04/14 (Sun) 07:01:39


      *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

         <感謝合掌 令和6年4月14日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2024/05/20 (Mon) 11:27:48


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

           <感謝合掌 令和6年5月20日 頓首再拝>

【最善観とは】 - 伝統

2024/06/12 (Wed) 10:45:24


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.8.21)より

   (森信三氏の心に響く言葉より…)

   「最善観」という言葉は訳語でありまして、
   西洋の言葉では、オプティミズムという言葉がこれに相当しましょう。

   通例は、これを「楽天観」とか「楽天主義」と訳するのが普通ですが、
   哲学のほうでは、これを「最善観」というのが普通になっています。


   元来この言葉は、ライプニッツという哲学者のとなえた説であって、
   つまり神はこの世界を最善につくり給うたというのです。

   すなわち神はその考え得るあらゆる世界のうちで、
   最上のプランによって作られたのがこの世界だというわけです。

   したがってこの世における色々のよからぬこと、また思わしからざることも、
   畢竟(ひっきょう)するに神の全知の眼から見れば、
   それぞれそこに意味があると言えるわけです。


   そしてライプニッツは、かような見解を説明するために、
   哲学者としての立場から、色々と説いているわけですが、

   今私はこの真理を、自分自身の上に受け取って、
   もしこの世が最善にできているとしたら、

   それを構成している一員であるわれわれ自身の運命もまた、
   その人にとっては、最善という意味を有しなければならぬ
   と信ずるわけです。


   わが身の上に起こる事柄は、
   そのすべてが、この私にとって絶対必要であると共に、
   またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。

   それ故われわれは、それに対して一切これを拒まず、一切これを却けず、
   素直にその一切を受け入れて、
   そこに隠されている神の意志を読み取らねばならぬわけです。

   したがってそれはまた、自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、
   天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、
   楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯です。

   <『運命を創る 「修身教授録」抄・10講』致知出版社 >

        ・・・

舩井幸雄氏は『未来を変えるクセづけ―舩井幸雄の金言集/海竜社』で
こう語っている。


『人生の悲喜こもごもさまざまな出来事は、実はすべて必要で必然です。

 ですから目先の出来事の一つひとつについて、
 安易に正誤や善悪、幸不幸などの
 二元的な判断を下さないほうがいいようです。

 楽しいこと、喜ばしいことはともかくとして、

 悲しいことやつらいことを必要、
 必然とはなかなか思いにくいものです。

 しかし、生起した時点ではその意味がよくわからなくても、
 まず素直に受け入れ、じっくりと考えて、
 その後の事態の進展を注意深く観察すれば、
 それがいかに必要だったか、ベストだったかが必ずわかるはずです。

 今よりもよくなる過程で起こった出来事と、すべてを認識したうえで、
 意味と理由を考えることに挑戦していただきたいと思います。』


嫌な事や辛かったことを乗り越えた後に、
「あれがあったおかげで今の自分がある」、と思うことは多い。


この世に生まれるときに、
自分の人生のシナリオを自分で書いてきた、という考え方がある。

良いことももちろんだが、嫌なことや辛いことも、
自分でそうなるようにシナリオを書いてきた。

つまり、そのことによって、
自分を成長させるための出来事だったということ。


だからこそ、すべての出来事は、
「必要」であり「必然」であり、「最善」なのだ。

「最善観」という言葉を胸に刻みたい。

       <感謝合掌 令和6年6月12日 頓首再拝>

六つの誓い - 伝統

2024/06/22 (Sat) 11:23:08


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。
今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。
今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて
他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。

今後必ず自分の耳を傾けて
他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。

今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

       <感謝合掌 令和6年6月22日 頓首再拝>

心の眼を開いて見れば、世界には何ら非道なことは存在しない - 伝統

2024/08/06 (Tue) 10:25:23


         *「光明道中記」(8月6日)より

【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】

「世界に非道が充ちていると云うことは、
 歴史と同じようにそれよりも更に古い文学さえも同じように、
 否あらゆる文学中の最も古きものなる祭司の宗教と同じように
 古い嘆きである」

とカントは言っている。

けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。

それは存在するものは「道」ばかりであるから、
それが少なくとも存在する限りはそれは「善」であり、
それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように見えようとも、
それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに過ぎない
とするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも
「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から
 身体(しんたい)が健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、
 人間をその本性上から精神的にも健全にして善なりと
 見なしてはならない理由はない」と言っている。

すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。
釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、「山川草木国土悉皆成仏」と
言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。

           <感謝合掌 令和6年8月6日 頓首再拝>

善のみを視る - 伝統

2024/08/07 (Wed) 14:28:47


   *「光明道中記」(8月7日《善のみを視(み)る日》)より
         
 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。如何なる不快なる
相(すがた)をもってあらわれようとも、その不快なる相は、現在又は過去に於て
自分のどこかに潜(ひそ)んでいた不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

       <感謝合掌 令和6年8月7日 頓首再拝>

吾々の生命の本性が善なのである - 伝統

2025/01/28 (Tue) 11:05:05


   *「光明道中記」(1月28日《一切人間を礼拝する日》)より

【既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、
           自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。

若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、
それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって
病気が治った実例は沢山ある。

生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては
善を為すように勧められ、善を為さんと決心し、
抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病
気が不思議に治るのである。

          <感謝合掌 令和7年1月28日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2025/02/17 (Mon) 10:46:16


           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

            <感謝合掌 令和7年2月17日 頓首再拝>

善とは無縛を言う - 伝統

2025/02/19 (Wed) 12:43:56


       *「光明道中記」(2月19日《無礙無縛の日》)より 

【善にでも引っかると悪になる。
 心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。         (『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、
古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき
多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。

斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと
「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、
 生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

         <感謝合掌 令和7年2月19日 頓首再拝>

「すべて存在するものは善きものである」 - 伝統

2025/02/21 (Fri) 12:26:32


      *メルマガ「人間力」(2025.2.21)より
       ~曽野綾子(作家)

(これまでの人生で直面した最大の試練といえば)
四十代の後半に失明しかけたことです。

その頃、急に視力が落ちてきたのを感じて検査を受けたら、
中心性網膜炎という病気に罹っていました。

目を酷使し過ぎたことと、強いストレスが原因だと言われました。

さらに白内障も患ってしまって。

手術しようと思っても、
どの眼科医も私の手術はすると言ってくださらないんですよ。

「強度の近視だから視力が回復しないかもしれない。
 それにもし曽野さんが失明したら
 誰が手術したのか騒がれるから」って。

やっぱりその時が一番大変で、
口述で小説を書く訓練も始めましたけど、
何本か連載を休載しなければなりませんでした。

そういう状況が半年くらい続いた時に、
ある先生が手術を引き受けてくださったんです。
五十歳になる少し前のことでした。

術後、麻酔が覚めて目を開けると、
生まれて初めて三メートルくらい先に置いてある
本の背表紙が裸眼で読めた。

もう画期的に見えるようになって感動しました。

で、私その時に……
この感謝を生涯どうやって捧げようかと思いました。

だってどこの眼科に行っても断られたんですよ。
もうちょっと様子を見ましょうとか、
まだ見える目に手をつけちゃいけないとか。

それが手術をして目が治ったということは、
続けてお書きなさいということだろうと思いました。
いまでもそう思う時があるんです。

たぶん、人間には誰しも、
一刻一刻、周囲がその人にこれをしなさいと
言っているものがあるんですよ。

それを死ぬまで丹誠を込めてやるのが、
私に与えられた使命だと思います。

私はね、イタリアの神学者トマス・アクィナスの

「すべて存在するものは善きものである」

という言葉が大好きなんです。

自分の思い通りにならなくて、
愚痴や不平不満を漏らしている人が多いけれども、

存在するものはすべて善きものだと思えば、

呪わなきゃいけないこともなくなるし、

辛いことがあっても人生楽しくなるんですよ。

         <感謝合掌 令和7年2月19日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2025/02/24 (Mon) 11:41:17


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、
自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。
三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 令和7年2月24日 頓首再拝>

善きもののみに触れる - 伝統

2025/03/18 (Tue) 11:39:27


           *「光明道中記」(3月18日)より抜粋
             《環境も大切である。環境を選ぶ日》

【欠点と自分と四つに組んでは欠点は直らぬ。(『生命の實相』第九巻)】


吾々の内部には全てのものを包蔵しているが、受動状態にある限りに於て、
外部から触発されたものだけが、内部から外部へと発現してくるのである。
即ち彼に触れることによって引き出されたものだけが引き出される。

吾々に赤い色の波動が触れれば、吾々の内部から赤の波動が引き出されて、
初めて其処に「赤」の感覚を生ずるのである。

この意味に於て、吾々に触れる物は環境にせよ、愛情にせよ、食物にせよ、
いずれも善きもののみを触れるようにしなければならない。

孟母三遷の故事もこの意味に於て価値があるのである。

            <感謝合掌 令和7年3月18日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善いものばかりである - 伝統

2025/04/14 (Mon) 11:44:44


      *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

         <感謝合掌 令和7年4月14日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2025/05/20 (Tue) 10:24:03


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

           <感謝合掌 令和7年5月20日 頓首再拝>

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